LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

13.1 農村と都市

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第13章 「三種の指導原理」に基礎を置く国家の主たるしくみの具体的な姿

     —————「真の」公共事業との関連の中で実現させて行く

 ここからは、既述の第8章を受けて、環境時代にふさわしい新国家において、その新国家を成り立たせる社会的な主たる仕組みや制度について、その具体的な姿を、ここでもやはり、これからの国づくりにおいての羅針盤と位置付けた、第4章にて述べてきた「三種の指導原理」に依拠しながら、私なりに描いてみようと思う。

 

13.1 農村と都市

 先ず本節では、農村と都市との関係のあり方についてである。

 これまでは、国民一般には、農村は食糧生産地であり、食糧の供給地である一方、都市は、その中のほんの一部の面積部分を除けば食糧の巨大消費地である、と見なされてきた。

そしてその見方は、多分どこの国でも、今も昔も基本的には変わらないように見える。

 そんな関係の中、特にこの国では、農村では昭和の初期から、若者は就職のために都会に出てゆくという現象が続いていて、農村には壮年や熟年あるいは高齢者が残るというのが半ば当たり前となってきた。ところがそこへ、特に昭和40年代から、子供や若者の数そのものがおとんおかずに比べると、相対的に減少する傾向が現れ始めた。

 その結果、農村は急速に人口減少が起こると同時に高齢化が顕著になった。

 こうして今、この国の都市と農村との間では、人口分布において極端に差が出ているのである。

 その上この国では、これまで、中央政府の、工業、それも輸出に重点を置いた果てしなき経済発展政策あるいは工業を農業の犠牲の上に成り立たせる政策によって、農業政策は朝令暮改的になり、都市の発展ばかりが優先されて、農村は後回しにされてきた。

 こうしたことにより、国民の都市と農村の関係のあり方についての関心は深まらず、また都市と農村の人々の間でも、それぞれの立場や状況を互いに理解し合い支援し合うという関係も育ってこなかった。というよりも、むしろ両者の関係は断絶していた。

 こうしたことのためであろう、例えば、都会の人々は、自分たちが日々口にしている野菜や米がどのような場所で、どのように作られているか、ほとんどの人は関心を示さなかった。

だから都会の消費者の多くは、例えばキュウリや大根あるいはナスというものは、どれも、大きさが揃って、まっすぐ育つものだと思い込み、キャベツや白菜には虫がいないのが当たり前、と思い込んできた。特に消費者の女性や母親においてその傾向が強いから、それを見る子供たちも、自分たちがよく食べるキューリもトマトも、それが畑でどのように育っているかさえ知らないし、ことさら関心を持とうとさえしなかった。

 実はこうした食い物に対する見栄えだけを重視する風潮作りには、この国の全国組織である農業協同組合(JA)が大きな影響をもたらした。野菜はどれも、そして米も、商品価値を高めるには、質や安全性よりも、むしろ大きさや形が揃っていなくてはならないという風潮を、である。

 こうした状況だから、ごく近年までは、都会の人々は、農村の人々がどのような環境の中で、どのような生活をしているのか、といったことにも特に関心を持たなかった。

また農村に住む人々も、都会に住む人々は今何を思い、どんなことを求めているのかということに思いを致すことも特になく、都会との交流を積極的に望むことはなかった。むしろ都会に住む人々は自分たちとは考え方も生き方も違う、と当たり前に考えてきた。

 

 しかし、これからの環境時代では、農村と都市とは互いに調和して発展してゆかねばならないと私は思う(調和についての私の再定義については、4.1節を参照)。そうでなかったなら、両者はともに、多分、存続できなくなるのではないか、と私は思うからである。

 そのように言う根拠はいくつもある。

両者に当てはまることの最大のものは、少子化と高齢化が止まらないということに因り、社会の様々な分野で労働力が圧倒的に不足して、人間と社会と自然に対して、これまで行われてきたことが継続あるいは維持することができなくなるだろうから、ということである。

 もう一つは、地球温暖化の加速化に伴う気候の変動の激化と、またそれに因る異常気象の頻発化に因って、都市だけあるいは農村だけでは到底手に負えない質と規模の、前例のない大災害が発生する頻度が格段に高まるだろうから、ということである。

 実際、たとえば、2014年2月14日と15日、気象観測史上前代未聞の大雪に見舞われた、私たちの住む関東甲信越地方での農業被害がそうだ。

 今後は、もっともっと酷いこの手の事態が頻発するだろうと私は見る。

 その理由は、大雑把に言えば、北極海が温暖化し、そこの氷が溶け出し、永久凍土が溶け出しているとは言われていても、それでもまだ局地も含めて地球全体が均等に温まっているわけではないから、そのため、冷たい空気の層に拠る寒気団あるいは高気圧は極地から南下するのに対して、他方、やはり温暖化によって暖められた太平洋の水面から莫大な水蒸気を含んで上昇する低気圧は北上して、それが日本列島上空でぶつかれば、いつでも「大雪」は再現されるからだ。

 こうしたことだけではない。その後も、九州北部豪雨(2017年)、西日本豪雨(2018年)等々でも実証されているように、線状降水帯という積乱雲の連続体による、これまで聞いたこともない現象が頻発するようになり、その度に、それが発生した地域では、大変な豪雨被害を受けるということを繰り返してきたことを見てもわかる。

 そしてもう一つは、これまでの各地の地方公共団体は、「自治」体とは言っても名ばかりのものでしかなかった中で、これからは都市も農村も、「都市および集落としての三種の原則」を実現させてゆくことが、この日本という国を、真に持続可能な国にしてゆく上で真剣に求められてくるであろうと私には思われることである。

 

 これまでこの国は、明治期から太平洋戦争までの欽定憲法下ではもちろんのこと、戦後になって民主憲法になってもなお、どの地方公共団体でも————この国では誤解されているが、地方公共団体も、自治体も、役所すなわち政府のことではない。住民を含めた共同体の全体を指す概念である!————、そこでの最高議決機関であるはずの議会などは特に、行政府に追随しているばかりで、三権分立の原則に立つこともなく、その上、各議員の選挙時の公約を実現する「自治」体としての議決機関としての役割など全くと言っていいほどに果たしては来ていなかったし、また執行機関であるはずの行政府も、地方公共団体独自の自主財源を確保できる権限や独自の計画権限を中央政府に要求するということもなかった。むしろ実態は、地方公共団体全体が、常に、中央の政府、あるいはその中の各府省庁に、行政組織間の「縦割り」で結ばれるという関係を維持しながら従属してきたのである。

 これでは、それぞれの地域社会に、住民の生命・自由・財産の安全が脅かされる事態が生じたときには、議会も政府も、迅速に独自の行動をとることができるはずもない。

 だから、そんな場合に、都市にしても農村にしても、迅速にそこの住民の生命と自由と財産を守れるようになるためには、都市と農村が日頃から強い信頼関係の下で、互いに助け合う関係で結ばれていることがどうしても必要となってくる、と私は考えるのである。

 それが、私が「地域連合体」と呼ぶ、小規模ながらも、まとまって経済的に自立し、政治的に自決権を有する経済的・政治的結合体である。そのあり方も、今後は、都市と農村との間の距離を、これまでのように何十キロあるいは何百キロと隔てるのではなく、都市と農村を隣接させ、都市を中心にして農村がそれを取り囲むようにしたもので、その全体をもって地域連合体とするのである。

言うまでもなく、その地域連合体は、これまでの市町村に代わって、これからの日本の国家を構成する基礎自治体となるのである。

 ではその規模はどうするか。それは、その範囲内に起こった問題は、基本的には全て、自分たち住民だけで責任を持って処理でき、また解決できる、と判断できる範囲とするのである。

したがってその規模を決めるのは、そこの住民となって地域連合体を構成する、主体性と責任意識に目覚めた「市民」あるいは「新しい市民」(6.1節を参照)としての一人ひとり、ということになる。

 なお、補足すれば、その基礎自治体としての地域連合体が全国いたるところに分散して位置を占めながら、それらのいくつかが互いに合意と契約の下に州を構成するのである。

 その州の規模は、地域連合体の規模を定める場合と基本的には同じで、政治的・経済的・社会的・文化的・歴史的に見て、個々の地域連合体ではどうしても手に負えない問題が生じた際、国家レベルにまで期待しなくとも、少なくともこれだけの地域連合体が連携すればその問題は大方、その中で解決し克服することができるであろうとそこの住民自身が確信できる数の地域連合体がまとまった大きさとするのである。

 

 では具体的に、都市と農村は連合して、互いに何をするか。

1つは、日常的に人的交流を行い、互いの状況や立場を理解することである。

1つは、双方それぞれを資源と廃物によって循環的に結びつけ、それをもって、互いに、生態系を含む自然環境の回復・復元・再生に協力し合うことである。

 

 これらが意味することは次のことである。

 第1番目について。

都市から農村へは、年間を通して、次のようなことを行う。

都市市民の内、有志が、農村への協力者、理解者として、農村に一定期間、滞在する。

そこでは、彼らは農作業を手伝う。農と他生物との関わり、農と土壌との関わりを学びながら、「喰い物を育てる」とは何か、そして「食べる」ことの意味を学びながら、「農」とは何か、を学ぶのである。

 一方、農村ないしは山村から都市へは、米、野菜、小麦等の農産物や、ミネラル豊富で清浄な水や木材を提供すると共に、集落を訪れた都市市民には、都会人の助力によって美しく蘇った田舎の美しくものどかな田園風景など安らぎや癒しの場・空間を用意するとともに、もはや物を売るというのではなく、心からの「もてなし」を提供するのである。

 第2番目について。

 都市は、人が多いだけに、日々、膨大な量の残飯などの食品残滓、排泄物等が出るが、それを都市住民が農村に運搬する。

農村は、都会からの食品残滓と排泄物は、そこに農村の特に酪農家から出る家畜糞尿と一緒にしていわゆるバイオガスを生産するために用いる。

 バイオガスは高い効率で利用できる極めて重要なエネルギー源であり、特に発電、料理、暖房、さらには温湯供給、乾燥、冷却、赤外線放射など多方面に利用できるからである。

それに、今や世界的に、地球温暖化を抑えるために、温室効果ガスとしてのCO2少しでも早く、実質的にゼロにすることが求められているが、そしてそのためには、天然ガスや液化ガス、石油や石炭などの化石燃料を燃やすことは極力やめようとされているが、ここで言うバイオガスは、それをエネルギーとして利用する際に発生するCO2は、炭素物質の自然のサイクルを通して無害なCO2として植物に還元されることになるため、空気中でのCO2の実効濃度を高めることはない、という化石燃料を燃焼させた場合に出るCO2とは大きく異なるのである(ハインツ・シュルツ&バーバラ・エーダー「バイオガス実用技術」オーム社出版局 p.109とp.2)。

 ここのことは「パリ協定」を実現させる上でも、極めて大きな意義を持つのである。

 それに、バイオ処理済みの人間のし尿ないし家畜の糞尿は、スラリーと呼ばれるが、それを都市も農村も、互いに、生態系を含む自然環境の回復・復元・再生に有効活用するのである。

なぜなら、そのスラリーは、植物の生育性を改良してくれて、健全な生育を促すからである(同上書p.13)。

 すなわち、都市と農村の両者を資源と廃物によって循環的に結びつけるのである。

 具体的にはスラリーを次のように活用する。

なお、そこには、現在の日本の山は、全体的に荒れ放題になっている、そのため、山の森林は、本来森林が持つ様々な役割————例えば、水を守り育てる効果、山地災害防止の効果、洪水コントロールの効果、大気を浄化する効果、森林浴の効果、文化的な効果等々(福岡克也「森と水の経済学」東洋経済新報社 p.79以下)————を果たし得なくなっているので、それらの回復を狙うという目的もある。

 バイオ処理したスラリーを山の森林に運び、そこで散布する。それを森林へ運び、散布するのは、農村のあるいは山村の人々の指示の下に動く都市の人である。

 また、都市市民の有志は、例えば、山の森林の下草刈りや枝打ち、間伐などを山村の人々の指導の下に行って、自然というものを体で学びながら、山の管理の手伝いをする。

あるいは山の森林を混交林とするために、スギやヒノキの人工林だけではなく、広葉照葉樹を植林するのを手伝う。

あるいは山の森林の伐採を手伝ったり、伐採した木を麓へ降ろす作業も手伝う。

 そうすることで、外国の森林を破壊することにつながる外材はもはや輸入する必要もなくなって、国内の木造建築物も、国産材だけで対応できるようになるのである。

 また集落では、河川のゴミ拾いをし、いたるところに設置された堰や役にも立たない砂防ダムを撤去する作業を都市住民も手伝うのである。

そうすればウナギやサケなどの回遊魚が海から戻って来た時、源流域まで遡れるようになる。そうなれば、源流域の動物たち————熊や狐あるいは鷲や鷹————にも豊富な餌をもたらすことになり、麓での鳥獣被害を激減させられるかもしれない。

 また、流れを途中で堰きとめずに、流れるようにすることで、水質は一層綺麗になるだけではなく、流れは一段と速まることができるので、その水流が持つ自然エネルギーを活用して、流れに沿って、多段式的に、小水力発電を行うことができるようになる。

その電力は、バイオガスによって起こされた電力と合わせて、流域の住民や協力してくれる都市の人々に配電する。

 

 ではこうした行為によって何が効果として得られるか。

結論から言えば、生態系を含む自然環境の回復・復元・再生に対して絶大な効果を発揮すると考えられるからだ。

 それは、森林が豊かになり、活性化して、動植物や野鳥そして昆虫類の種類が豊富になり、土壌微生物も豊富になって活性化し、樹木は深く、また広く根を張って、山が豪雨に対して耐性を持つようになるのだ。

 ではそうなればどうなるのか。

集中豪雨になっても、山肌がしっかりと豪雨を吸収し浸透させてくれるので、そう簡単には山肌は土砂崩壊を起こさない。それは、下流域に土石流をもたらさないということである。

 それだけではない。一旦山肌深く浸透した雨水は、下流に向かってゆっくりと沁み出すので、年間を通して、河川の流量は、安定する。つまり、長期の日照りにもさ細影響を受けなくなる。

 そしてそれは、中流域や下流域の民家や田園地帯に、年間を通して安定した水、それも、栄養豊富で清浄な水をもたらしてくれるということである。

 うまくすれば、その綺麗で美味しく、また栄養豊富なその山からの水は、中流域や下流域の

集落の水田では化学肥料などを不要させてくれるかもしれない。そうなれば、中流域や下流域の農家という農家は、経済的にも労力的にも大いに負担が軽減されることになる。

 そしてバイオガスによる発電、および流れが清涼となるとともに途中で堰き止められることのなくなった河川の水流による発電は、単に欧米の真似でしかない、そして日本の国土の実情とは合わないソーラーパネルによる発電や風力による発電とは違い、さらには、この国は地震国ゆえに危険な上に、次々と出るいわゆる「核のゴミ」である放射性廃棄物の管理において、将来世代に永久に負担を押し付ける原発とも違って、活性化された山の森林のCO2吸収能力とも相まって、温室効果ガスを出さないで、この国固有の電力の自給ができるようになるのである。

 こうして都市と農村は、両者それぞれから出る資源と廃物によって循環的に結びつけられ、それは結果として、地球が熱化学機関として成り立つための3つの作動物質である水と空気と栄養を、自然界において、より活発に循環させることで、それは人間の経済活動によって生じたエントロピーという汚れを地球の外によりよく捨てられるようになるということであり、ひいては地球の温暖化を抑止できるということでもあるのである。

そしてこれこそが、エントロピー発生の原理》を踏まえた現実の社会と自然への人為的対応、ということになるのである。

 

 

13.2 都市と社会資本

 前節では、都市と農村との関係のあり方と、両者間での資源と廃物のやりとりに依る農村と都市の活性化、また山村の活性化と山の森林の活性化のさせ方について見てきた。

本節では、今度は、都市とそこでの社会資本の充実のさせ方について考えてみる。

 

 ここでも都市とそこでの社会資本は、三種の指導原理(「生命の原理」と「新・人類普遍の原理」と「エントロピーの原理」)に基づきながら、「都市と集落の三原則」に依拠して設計される。

 それは次のことを意味する。

すなわち、「人間にとっての基本的諸価値の階層性」を念頭に置きながら、これまでの人間だけにとっての「自由・平等・友愛」と「生命・自由・財産」の保障を、今後は生命一般にまで普遍化することを考え、エントロピーの発生量を極力少なく抑えると同時に作動物質の循環が極力遮断されないようにも気を配りながら、都市も集落も「小規模分散で、経済的に自立し、政治的にも自決」の原則が実現されて行くように設計をしてゆく、ということである。

 ただし、小規模にするとは言っても、実際に定まる規模は、既述の通り、あくまでもそこに住む人々が主権者としてその共同体の運営に対して責任の持てる範囲のものである。だから、たとえば人口が同じでも、規模はそれぞれ違い得るのである。

 その場合、都市はその本質上、消費地的性質が高いので、そこだけで衣・食・住を含めて経済的に自立することは不可能であるから、周辺の複数の集落との関係を一体にして考えるのである。

つまりそれらをまとめて1つの連合体という自治共同体としたものを私は地域連合体と呼ぶのである。それは、基本的に自給自足を成り立たせうる自治体である。

 都市とその周辺の複数の集落を一体にする目的は、前節にも述べたが、特に《エントロピー発生の原理》を実現させるという観点から言えば、それは、「自然の循環と社会の循環を、資源と廃物によって循環的に結ぶ」(槌田敦p.166)ためなのである。

 あるいは都市と農村との間の距離を縮める、と言うよりは事実上無くし、農村を都市に直接連結させて、互いの間の行き来を短時間で活発化させるためなのである。

 そのことは何をもたらすか。

 少なくとも既存の高速道路といったものを、ほとんど無用化させる。

そうなれば、高速道路の表面のコンクリート面をはがして、森林に復元させることも、そこを鉄道とすることもできるようになる。そしてそれは、自然環境に対して計り知れない効果をもたらす。

 まず第1には、高速道路を走る莫大な数の自動車がなくなるので、温室効果ガスの排出量を大量に減らせる。第2には、これまで高速道路によって分断されていた生態系を広範囲に連続化させられ、自然を蘇らせられるようになる。それは野生生物を活性化させられることでもある。

 また都市住民と農村住民との交流が活発化する中で、都市住民が農村に移住するようになったり、また「都市と集落の三原則」の奨励に依って都市住民が減り、かつ都市の規模そのものが小規模化すれば、自動車そのものだって、そのほとんどを不要化できる。

 そのことのメリットも、人間にとっても社会にとっても、また自然にとっても、計り知れないものがある。

 ここではその詳細は述べないが、関心のある読者は7.4節において、「自動車」が人間と社会と自然にどれほどのデメリットをもたらして来たかを確認していただきたいのである。

 また都市部を流れる河川のコンクリートでできた護岸をも、今後は撤去して、自然護岸に戻すのである。

その場合、もはや力づくの近代土木工学には頼らずに、生命主義に基づいて、例えば柳の木の根の張り方の特性と「蛇籠」の特性を共に生かして、増水に耐えられる護岸とする。またそうすることで、河川は周辺の生態系と、水と栄養の循環を回復できるようになるからだ。

 また小規模化した都市の道路という道路を、農村から提供してもらった木材を用いて、丸太の杭にしたものを縦に埋め込んで敷き詰め、透水性の道路とする。そうすれば、都市部での集中豪雨時でも、道路が冠水するということはなくなるだろう。

 

 なお、農村においても、また都市においても、既述の「真の公共事業」(11.6節)に対しては、そこに働く人々の労働は、「納税」と等価に扱われるような仕組みにするのである。もちろんそれを取り上げ、議論し、議決するのは議会の役割だ。

 このことの人々の生き方や価値観にもたらす意義もはかり知れないほど大きい。

「お金」を得ることの意味や必要性は考え直され、労働が納税となれば、お金、それも現金を得ることにこれまでのようには拘らなくても生活できる可能性はそれだけ高まるからである。

 

 また、都市の人々が周辺の農村に移住して、都市が小規模化すれば、たとえば今日、大都市でとくに大問題となっていて、今後はもっともっと深刻になることは目に見えている、「インフラの老朽化」や「管理と補修の必要性」にまつわる問題、たとえば「補修しなくてはならないが、金がない」、「危険がいっぱいで都市機能が麻痺する」等々の問題については、その比重は激減する。

そこでの電力需要も極度に減り、食糧やその他の物資やエネルギーを長距離運搬・輸送する必要はなくなるから、新たな道路建設の必要性も激減させられる。

それはその分、教育や福祉の充実に回せることであるし、あるいは税金を減らせることでもある。

 

 こうして、都市や集落あるいはそれらが一体化した地域連合体では、自然も人間も社会もより豊かになるだけではなく、災害や世界の食糧危機やエネルギー危機、そして金融危機にも耐性のある、それでいて人々が永続的に生きて暮らして行けるようになるのではないか。

 もちろんその場合、いずれも熱化学機関と考えられる集落についても都市についても、生態系が大規模に蘇ることで大気と水と栄養という作動物質の循環をも促進することになるから、エントロピーの発生量は極力抑えられるし、また発生しても、循環が活発になることから最終的には宇宙に捨てられる可能性も高まり、それだけ温暖化は抑制できるようになるのである(第4章を参照)。

 なお、その際、都市生活の日常では、化学合成物質の使用は極力控えること、合成洗剤の使用も止めること、また農村では、化学合成農薬の使用はもちろん化学合成肥料の使用も極力控える、ということがやはり大切となる。

また化学物質あるいは化学合成物質(石油製品、ビニール類、プラスティック類、ゴム類、油類)を土壌や河川に捨てることも厳に戒めるのである。

なぜなら、それらは、本質的に、生命体や生態系にとっては異物であり、毒物であるからだ。

 

 そこで次のことが前節と本節の結論となる。

こうして、小規模化した都市の中で、あるいは集落の中で、みんなで共に1つの目的に向かい、定期的に体を動かして労働しては汗を流すことで、自分の存在が社会に具体的に役立っていることをだれもが体感できるようになるし、同時に、これまで散歩し、ジョギングやフィットネスに通って体力維持を図っていた人々も、生産性の伴った労働により、食事がおいしくなり、健康を長く維持できるようになり、他者との親睦も深まって、日常が、少なくともこれまでよりはずっと充実した日々となりうる。

 これらはまた、同時に、国民医療費をも顕著に減少させられ、超巨額の借金をどんどん減らせる効果をも副次的に持つのである。