LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

13.3 エネルギー

13.3 エネルギー

 「環境時代」におけるこの国のエネルギーに関するしくみの具体的な姿として、私の考えるそれについては、既に11.5節にて詳述して来ましたし、13.1節の最後の方でも若干言及してきたとおりである。

 とにかく、このエネルギーというものを考える上では、どのような種類のエネルギーを考えるにしても、私たちは先ず次のことを明確に押さえておかなくてはならないと私は思う。

 それは、近代以降に築いてきた文明のシステムの延長上でこの国のエネルギーに関するしくみの具体的な姿を考える限り、今日の私たちの生命維持と暮らしは、何から何まで電力への依存の上に成り立っている、ということである。

それゆえに、電力の供給が止まれば、社会システムのすべてが機能停止になる。通信機能、交通機関医療機関は言うまでもなく、「水」の供給さえもが止まってしまい、生活どころか生存さえ不可能になってしまう。もちろんガスの供給も止まってしまうのである。

したがって、近代文明を前提とする限りは、電力確保とその供給に対する安全保障は食糧の確保と供給に対する安全保障と同程度に重視しなくてはならないのである。

 ここで注意すべきは、「近代文明を前提とする限りは」というところである。

つまり、近代文明を前提としないならば、少なくとも、人が人間として生きて、暮らしてゆくことにおいては、電力の確保とその供給ということは決定的と言えるほどではなくなるのである。つまり、電力に依らない別の方法で、食い物はもちろん水も確保する方法はあるからである。

 しかし、ここでは、その近代文明を前提とし、しかも、これ以上地球を温暖化させないということも前提とするならば、今後、電力を含めた様々な種類のエネルギー及びエネルギー資源を確保する上での要点は、次のようにまとめられるように私は思う。

 ①基本的にはエネルギーというエネルギーのすべては、国内で自給する、ということである。

それは喰い物に対してとまったく同様で、それらは、どんな場合にも、あるいは何が起っても、人が人間として生き、また人間として暮らしてゆく上で、決して欠かすことはできないものだからである。その意味で、エネルギーは、いつ、何が起こるかわからない他国に依存していてはならないのである。

 その意味で、エネルギーを常に自給する、自給できるようにしておくということは、日常的で最も身近な問題であるだけに、国としては、まさかの時にのみ意味を持ってくる、最新鋭の軍備をしたり、軍事超大国と軍事同盟を結んだりすることによる国の安全保障よりも優先度の高い安全保障と言える。

 そしてその意味で、今日、日米安全保障条約の堅持には拘るものの、食料自給率を38%そこそこのままにし、エネルギー自給率を何と5〜8%そこそこのままにしているこの国の政府の統治状態は完全に失敗であり、政府として失格なのである。

 

 ②その場合も、電力を含むエネルギーは、遠距離から送り届けてもらうという発想を止めて、自分たちの身近で、自分たちで確保する、ということである。

それは、電力エネルギーについてみれば、発電場所が遥か遠方であったり、しかもそれが複雑で巨大設備になっていたりするという状態は、決して安全保障にもならないからである。

その場合、それを確保するにも、いわゆる「ハイテク」に拠るのではなく「ロウテク」、つまり、等身大あるいはヒューマン・スケールの技術に拠る、とする。

 したがって、世界では今、一般的であるかもしれないが、日本ではソーラー・パネルによる発電方式は取らない。

それは、どんなにそれによる発電時には温室効果ガスを出さないとは言っても、ソーラーパネルそのものがヒューマン・スケールの技術によって製造されたものではないからだ。

ということは、それが故障した時や飛来物落下などで破損した場合には、全取っ替えをしなくてはならなくなり、それだけ、資源を膨大に無駄にすることであるし、また産業廃棄物を大量に出すことでもあるからだ。そうした破損事故は、今後、台風の巨大化が予測される中で生じる可能性がますます高まることが予想されるのである。烈風や突風に拠って折れた木々の枝の落下、建築物や看板の飛来、あるいは気象の不安定化に因って大直径化した雹の落下等によってである。

 ところが、身の丈の技術によって作られたものは、たとえ壊れても、故障しても、どこが不具合かすぐにわかるし、その場で、人の手で直せて直ちに復旧できるのである。

それに、一般的に言えることであるが、そのようなロウテクないしは等身大の技術に拠る製品の方が、ハイテクに因って作られた製品よりも、同じ衝撃や外力が加わっても、壊れにくいからである。 

 ただし、同じ太陽光を利用するにも、その光と熱でパイプ内の水を沸騰させ、その蒸気圧でタービンを回して発電させるという発電方式は、身の丈の技術によるものだけに、十分に可能だ。

 

③ そしてここで確保しようとするエネルギーあるいはエネルギー資源とは、もはや化石資源やウラン資源ではなく、すべて再生可能なエネルギーであり、また再生可能なエネルギー資源でなくてはならない、ということである。

そして、その場合も、その再生可能エネルギーは、世界の潮流に合わせたものではなく、あくまでも各地域の自然風土に根ざしたものでなくてはならない、ということである。

すなわち、各地域が置かれた地形的かつ自然環境的な特殊事情や固有の事情を最大限活用して、その地に合った発電方式や、その地にあった自然エネルギー資源の確保の仕方を採用すればいい、ということである。

 

④そしてその場合も、これも第11章にて既述したように、環境時代の経済とそのシステムにおいては、「大衆による大衆のための生産方式」という考え方を基軸に置いていることから、その地域に根ざした再生可能エネルギーあるいはそのエネルギー資源も、あくまでも大衆の力で確保する、ということである。

 したがって、例えば電力エネルギーの確保の方法も、もはやこれまでの電力の確保と供給のされ方に見るような、全国9つの電力会社による発電と売電ということはなくなるし、是非ともなくさなくてはならないのである。

そもそもその電力会社の実態は、独占禁止法という法がありながら、またその法理念に明らかに抵触しているのにも拘らず、先の通産省と今の経済産業省の官僚たちの「天下り」先の確保拡大、あるいは自分たち省庁の既得権の維持にこだわるあまり、その独占実態に目をつぶってきただけの話なのである。

 これからの環境時代では、選挙制度の抜本改正によって、新しい政治家が誕生し、彼らから成る政府において、首相と閣僚が、真に国民の代表として、本来的に公僕である官僚を真にコントロールするようになれば、歴史的に長く続いたこの国の官僚の独裁もようやく終わり、本当の意味での民主政治が実現し、エネルギー政策も、今度こそこうした方向に舵を切れるようになる、と私は考えるのである。

 

 そこで、ここでは、エネルギーを広い意味で捉えながらも、それを便宜的に、電力エネルギーとその他のエネルギーとに分けて、それぞれの自前による確保の方法を、既述の11.5節に基づいて、整理すると次のようになる。

 (1)電力エネルギーの自前による確保の方法について

 日本列島の持つ特殊性を考えたこの国に相応しいと思われる発電方式にはおよそ次の種類のものが考えられるのではないか、と私には思われる。

① 水力、それも河川の流水をそのまま利用した中小規模の水力発電

② 森林から出る間伐材を燃焼させることに拠る発電

③ 太陽光を利用した既述のもう一つの方式に拠る発電

④ 人々の日常の暮らしから出るゴミを燃やすことに拠る発電

⑤ 風力を利用した発電

⑥ 地熱を利用した発電

⑦ 波力を利用した発電

 

 なお、ここで付記すれば、日本という国の国土や地形や風土を考えるなら、上記の7種類の発電方式のうち、①の方法がこの国の実情に最も合った発電方式ということになると、私は考える。

それは次の理由による。

 日本の国土は温暖多湿のモンスーン気候帯にあること。年間を通して降雨量がおよそ1800ミリと期待できるし、今後は温暖化の影響でそれがもっと増える可能性さえあり、その結果、年間を通して、十分な水量を安定して確保できること。国土の大部分は山岳丘陵地帯であるために、河川水は全て急流であること。

そしてこうした条件こそ他国には見られないものだからだ。それを積極的に活用しない手はないからである。

 この中小水力発電方式は、河川の流れの中に、上流から中流にかけて、水車を多段的に設置して、それぞれが生み出す電力を合計するのである。

 

 (2)電力以外のエネルギー、特に熱湯および温湯の自前による確保の方法について

 それは、既述した方法、つまり、内部を水で満したパイプに効率よく太陽の光を当ててパイプ内の水を沸騰させる。それを、先ず第一には、その沸騰水の持つ蒸気圧でタービンを回して発電させるのに用いる。それは身の丈の技術で可能だ。第二には、発電したことにより、当初の沸騰水温度は下がるが、それをすぐに捨ててしまうのではなく、断熱パイプを長距離用いて、水の温度が高温から低温に下がってゆく過程で、その水を、周囲の大気温度にまで下がる間、最大限に効率的に活用してゆく、というものである。例えば、地域の各家庭にパイプを通じて配給し、台所に、風呂に、床暖房に、と利用するのである。

 こうした考え方は「コ・ジェネレーション(熱電併給)」と呼ばれるもので、既にある考え方であり、要するに、せっかくの高温として得られた熱を、発電するだけで捨ててしまうのは余りにももったいないから、その熱を周囲の環境(大気あるいは土壌)と同温になってもうこれ以上は利用できないという温度になるまで、“しゃぶり尽くそう”という発想に基づくものである。

 

 次に、エネルギーそのものではなく、それを燃やすことによってエネルギーを得られる資源、すなわち燃料の自前による確保の方法を考える。

それは、整理すると、便宜上、次の2種類に分けられる。

①各家庭での煮炊きおよび暖房用に用いる薪、油、ガス

②自動車および重機を動かす油

 それらの確保の仕方としては、例えば次のようなものが考えられる。

 ①の薪について。

 地域連合体内の森林を計画的に管理育成しながら、適宜間伐した木材を活用するのである。

 連合体内で、薪を暖房用として用いている住戸のすべてが、晩秋から冬そして初春までの期間で必要とする総薪重量を計算する。

 その全量を賄える量の間伐材を、林業家の指導の下に、夏場、奉仕に参画してくれる住民が主体となり、それを公務員が補助する形で、山林にて確保する。

その間伐材を、山から麓に下ろし、定まった貯木場に集める。

住民の中から奉仕者を公募し、彼等の力で薪割りをし、それを天日乾燥させる。

そして乾燥させたそばから、雨の当たらない場所に貯蔵する。

寒さが来る頃、とくに暖を早急にも必要とする家庭を優先的に、定期的に配給して行く。

 その配給作業員も一般住民から公募する。

 ①の油について。

これは、植物のタネから確保するのである。具体的には、小松菜・ベカ菜・辛し菜等の黄色い花の咲くいわゆる「菜の花」野菜のタネ、ひまわり、ゴマ、エゴマ、そしてオリーブが考えられる。それらを、適宜、一般家庭に、食用油と燃料油とに分けて、分配するのである。

 ①のガスについて。

それは、家畜と人の力を借りて確保するのである。

酪農で大量の家畜(牛、馬、豚、鶏等)を飼うことによって出る糞尿と、私たち人が日常生活を送る中で排泄する人糞(屎尿)とを集めて、それらを醗酵させることにより、その醗酵過程で得られるメタンガスを活用するというものである。

 それには先ず、地域連合体として、次の手順で実現して行く。

 全住戸と地域の産業が使用する毎月の平均総ガス量を把握する(これは、連合体の役所が行う)。

 連合体内の酪農家の飼育する家畜が毎日出す排泄物の平均総量を把握する(これも、連合体の役所が行う)。その情報は、各酪農家から提供してもらう。

 連合体内の人々から提供される毎日あるいは毎月の屎尿の平均総量を把握する(同上)。

それらの総量から、季節ごとの平均気温を考慮しながら、醗酵して得られる一日当たりのメタンガスの量を算定する。

 そのメタンガス総量が連合体内の総需要の何%を満たせるかを試算する。つまり、メタンガスの自給可能率を算定する。

 満たせない分は、酪農として飼育すべき必要な牛や豚や馬の頭数または鶏の羽数を増やすか、あるいは、やむを得ない措置として、従来のボンベに詰めたLNG液化天然ガス)あるいは都市ガス(プロパンガス)を地域の外から取り込んで利用するかを、連合体の議会が、住民の意見を公正でかつ公平に聞き取りながら、議論して決め、その結果を役所に結果どおりに執行させる。

 連合体内の酪農家から回収した家畜の糞尿と、住民から毎日回収した人糞を貯めておくバイオガス・プラント(醗酵装置)としての貯蓄槽を、その容量に応じて、必要個数、連合体内に適宜配置して建設する。

その際、醗酵を早められるように、プラント周囲の土壌を保温し、また断熱もする処置を施しておく。

その際の電力は、後述する地域の自然エネルギーから得た電力に拠る。

 そのプラント建設要員と、糞尿や屎尿を回収してくれる要員とを、連合体への奉仕者として、住民の中から公募する(この公募も、連合体の役所が行う)。

 毎日、連合体内の住戸を巡回して屎尿を回収して回り、それをプラントに運んで注入する。

 一方、発生したメタンガスをボンベに加圧して詰める。

 詰めたボンベを貯蔵すると同時に、必要本数を、必要な住居に分配する。

なお各戸への分配の仕方としてはボンベによる分配の他にパイプラインによるという方法も考えられる。その場合には、そのパイプに併設する格好で電話線や電線をも一緒にすれば、集落や小都市の街や道の景観は格段にすっきりして美しくなる。

 またメタンガスが得られると同時に得られる液体は、野菜や米を確保する上で有効な、良質の有機肥料としての「液肥」にもなるので、希望農家には、それも分配する。

 なお、このシステムを稼働させれば、従来の公共下水道とか合併浄化槽という発想も設備も不要となる。それは、これまで定期的に行って来た「消毒」という管理も不要になり、薬物が含まれた毒水が河川に放流されることもなくなり、河川を取り巻く自然はそれだけ早く蘇って行くことにもなるのである。

 ②については、前述した方法で確保できるからそれを供給する。

 

 なお、本節の締めくくりとして、これまで当たり前のように呼ばれて来た、頭に「公共」と冠された水道料金、電気料金そしてガス料金というものについても考えておく。

 結論から言えば、「新しい経済」ないしは「環境時代の経済」のシステムの中では、これらはすべて真の意味での「公共」料金となる、ということである。

その意味は、これまで、水道料金については地方公共団体が管理しているからそれを「公共」料金と呼んでも問題はなかったが、電気料金やガス料金ついては、それを「公共」料金と呼ぶのは、間違いだった。なぜなら、その2つを供給しているのは営利企業であり、私企業である電力会社とガス会社であったからだ。

 しかし、これからの環境時代の経済においては、人々の生存や生活に深く関わる水道や電力エネルギーやガスを私企業が提供するということはあり得なくなるのである。

 事実それらは、すべて、住民による「真の公共事業」に依って、大衆による大衆のための水道・電気・ガスの生産と供給という考え方に基づき、真に「公共」に依って生産と供給がなされるようになるからである。