LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

13.10 通貨

 本来ならば、今回は、先に2020年8月3日に公開した拙著「持続可能な未来、こう築く」の目次に沿って、これまでの続きとして、13.6節あるいはそれ以下を掲載すべきなのですが、未だそれらは手を加え続けている関係上、今回は、それらを飛び越して、13.10節からそれ以下の13.11節と13.12節の内容を公開します。

 

13.10 通貨

 これについては、既に11.7節にて詳述して来たとおりである。

 従来の「円」を全国通貨とし、それに対して、各地方自治体(地域連合体)にはその地域のみに通用する通貨、いわゆる地域通貨を設ける。

それを設ける主たる理由は、それぞれの地域はそれぞれの地域に住む人々によって主体的かつ自決的に運営されねばならないという理念に基づくもので、そしてそれでこそ「自治」体でありうるからだ。そうした考え方の根底には、既述の「都市と集落の三原則」がある(4.4節)。

つまり、もはや明治期以来の中央集権的な統治体制に基づく、地方政府の中央政府への依存体質から脱皮し、地域が主体的に自立して行くのである。であるから、そのとき、当然ながら中央政府の規模は「小さな政府」ということになる。

 しかし、そうは言っても、各地域の通貨は必要に応じていつでも全国通貨に交換(兌換)できるようになっていることが必要なため、それぞれの地域には、いつでも、その両方の通貨が併存するようにする。

そして、公共料金の支払いも、その地域通貨で可能となるようにするのである。

 では、地域通貨をいつでも全国通貨に交換できるようにするにはどうするか。

それは、要するに、全国通貨である「円」を用いながらも、そこに各地域連合体独自の印を付け、それを地域通貨としてその域内限定で全住民が用いるという方法で、随時の交換を可能とするのである。

その印の付け方は、元々の円の貨幣あるいは紙幣としての形状と機能を損ねない程度に、しかしそこの地域連合体の住民には、誰もがはっきりそれと判るように、その円の適当な場所に小さな印———複数の小孔から成るものでもよい———を付す、というものである。

 だから地域通貨とは言っても、何か形も色も大きさもまったく異なる別個の紙幣や硬貨を創るというわけではない。それだと、今日世界中で行われている為替レートあるいは交換比率のようなことが問題となって来て、誰もが、いつでも必要なときに容易に全国通貨に交換するということはできないからだ。

 もちろん、その固有の印としてどのようなものとするかについては、その地域に暮らす人々全ての参加による議論によって決めるのである。

 

13.11 鉄道

 近代という時代になって飛躍的に発達した工業が生み出した代表的産物の一つが自動車だった。そしてその自動車の持つ特性を最もよく発揮させたのが高速道路だった。

 その自動車は、それに乗る人には便利さと快適さをもたらしてきた。

 しかしその反面、自動車は人間個々人や社会や自然に対してどのような影響をもたらし、結果、どのような状態や事態を生んできたかと言えば、それについてはすでに具体的に検証してきたとおりである(7.4節)。

それを要約して言えば、自動車は人間個々人をしてその心身を虚弱にすると同時に利己的にし、社会に対しては、社会的弱者の往来を脅かし、交通事故被害者を生み出し続けてきた。また自然に対しては、自動車走行のための道路造りを通じて生態系を大規模に破壊するだけではなく、大量の化石資源を消費し、大量の温室効果ガスを撒き散らしてきた結果、大気汚染(SOX,NOX,PM2.5)を進め、エントロピー発生量を加速度的に増大させ、地球温暖化とそれによるとされる気候変動を加速してきた。

 とりわけ人の長距離移動や物の長距離輸送の主力手段となって来た高速道路は、数十メートルの幅で、延々何千kmという広範囲にわたって、野山の自然を破壊し、景観を壊し、自然の物質循環を遮断し、野生生物の棲息域をも分断して来た。

それだけではない。高速道路は、私は、気象現象の局所化あるいは局時化という、いわゆる「異常気象」をもたらしている最大の原因の一つとなっているのではないか、とさえ仮説を立てたいのである。

それは、高速道路はその幅、その距離からして、何千キロメートルにわたって巨大な廃熱の塊の帯を常時つくってしまっていて、その塊は、風が吹いても、周囲の大気とは循環できにくくさせてしまい、そのために大気の均一化を妨げているのではないか、と私には思われるからである。

 それに一般道も高速道も、それがある限り、日本中で、際限なく管理や補修を迫られることになる。

そのことは、今ですらこの国はGDPの実に2.4倍もの政府債務残高、いわゆる借金を抱えており、その結果、行政の活動を著しく制約してしまい、その上、国全体ではいたるところ人口減少が進み、高齢化が進んで労働力の低下を招き、税収が減少して行っていることから、本当に近い将来、どこかの地域では、どこかの時点で、高速道路を含めて道路を新設することはもちろん、既存の道路を補修したり管理したりすること自体すら諦めねばならなくなるのは目に見えているのである。

 

 こうした諸々の事情により、今後は、原則的に自動車、それも特に私用車とか自家用車というものは、日本中どこにおいても廃止するのである。そして往来の手段としては、馬車を含む公共交通乗り物とする。公共交通乗り物は、言うまでもなくすべて電気で動くとする。

そして、こうした変革と並行して、人々がそれでも不便を感じることなく生活できるようにするために、これからの都市や集落を、既存の大都市の住民の地方への移住を促進することで、「都市と集落の三原則」に従った都市と集落づくりを進めてゆく。

 つまりこれまでの都市の規模を思い切って縮小し、また構造も改変し、自動車に頼らなくても経済活動や暮らしに必要な物や事はすべて、徒歩か馬車を含む公共交通乗り物で実現できるようにするのである。

 そして地域連合体間あるいは都市間での人の移動あるいは物資の輸送は鉄道による、とするのである。

 その場合、人も物資も、きめ細から移動や輸送を可能とするために、電車については、その速さの種類を特急、快速、普通の三段階とする。ただし「新幹線」という名の超特急はもう廃止する。自然を大規模に破壊し、外の景色を楽しむこともほとんどできない、ただ時間短縮だけを狙うリニア・モーターカーなどは論外である。

 もはや日本は、それが必要になるような経済社会ではないし、南北およそ2000km程度の長さの列島では、これまで拙著において論じてきた様々な状況や事態を考えるとき、そんなに急いで行き来する必要ももうとっくに無くなっていたのではないか、と私には考えられるからである。

 むしろこれからは、GDPを上げることに象徴される「経済発展」ではなく、また、一人ひとりがこれまでのように現金をより多く確保することにこだわらなくとも、既述したように(13.7節)、誰もが充実した教育と福祉(保健、医療・介護・看護)を受けられるようにするとともに、社会保障(年金、保険)もより確かなものとしてゆくことにより、誰もが心身ともに健康的となるだけではなく、日本の伝統の文化と美しい自然を大切にしながら、互いに他者を思いやる心のゆとりを持てるようにもなり、その中でそれぞれは自己実現を図ってゆくことのできる、本当の意味で一人ひとりの精神が成熟した社会になってゆくことこそが、これからの社会の望ましいあり方なのではないか、と私には考えられるからである。また、それこそが環境時代に相応しい列島の姿でもあろう、と考えられるからだ。そしてそうした経済や暮らしのあり方は、全地球的で全生命的な主導原理と考えられるこれも既述の原理(4.2節)や、人間にとっての基本的諸価値の階層性(4.3節)を満たす方向とも間違いなく合致する。

 なお、鉄道の各駅には、貨車から荷物をトラックへ速やかに積み降ろしをできる設備を設ける。

人々はそこで公共交通乗り物や馬車に乗り換える。

 

 では、どうやって鉄道にするのか。

従来の高速道路を活用するのである。高速道路の表面のコンクリートまたはアスファルトをはがし、面積の大部分は自然に還すが、一部には枕木を敷き、その上にレールを敷くのである。

それはすでに道路があったところだけに比較的容易にできる。

 なお、これらの鉄道の運営は、もはや収益性に拘らざるを得ない民営ではなく、国民みんなが公平に利益を享受するという理念の下で全国一律に津々浦々まで運行させるために、再び「国営」に戻すのである。

 なお、この事業を実施するにも、かなりの長期にわたって、莫大な雇用を生み出すことは明らかであろう。そしてこの公共事業は、言うまでもなく官僚の利益のためのものではなく、「真の公共事業」となるのである。

 それに、鉄道の場合には、その保守や管理の必要性の度合いは、一般道路や高速道路に比べれば、はるかに少なくて済むのではないだろうか。

 

 

13.12 郵便

 郵便事業は、貯金とか保険とは違って、第一に、地域の境界を超えて国の隅々にまで、人間の思いの込められた手紙やはがき、また郵便物を円滑かつ確実に先方に届けることを使命とするものである。

 だとすればそれは、国全体を貫通する一つの事業でなくてはならない。地域によって送料も配達速度も異なるというものであってはならない。そしてその事業は、公益性第一であって、「利益」とか「収益性」は二の次にならなくてはならない。

 そういう大局的観点からすれば、郵便事業は本来的に「国営」とすべきなのだ。

かつて、小泉純一郎政権は、アメリカのウオール街が考え出した、多国籍企業が活動しやすくするために規制撤廃を狙ったネオ・リベラリズム新自由主義)というイデオロギーに踊らされて民営化した。しかしそれは、結果が示しているように、郵便というこの事業の本質をまったく理解しないままの、単に日本国民の富をアメリカに売り渡すための、売国的事業転換でしかなかったのだ。

 なお、この郵便物の長距離輸送は、もちろん既述の鉄道に拠る。