LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

13.7 教育と福祉と社会保障

13.7 教育と福祉と社会保障

 本節で提言する内容は、対外的安全保障のみならず、これからの日本のあらゆる意味での安全保障の土台を考え、この国の健全な存続を考える上で、私は決定的に重要なことであると考えるのである。

しかし、その内容を実現するには、特に私たち国民自身が、一人ひとり、真の意味での国の主権者となる、すなわち、国家の政治のあり方を最終的に決める権利を有する者であるという自覚を持つこと、そして他方の政治家と呼ばれる人たちも、一人残らず、これまでのような、この国の政治家もどき人たちが正当な理由もないままにやってきたことをやってきた通りにやっているのではなく、近代の黎明期に先哲らによって理論的に確立された民主主義政治のあり方を勉強することによって、本来の政治家としての使命と役割を明確に自覚し、それを常に実践できる真の政治家に立ち戻ることが絶対に必要なのだ。

 なぜなら、政治家だけが社会の秩序の形成と解体に直接関わることができるのであるからだ。彼らこそが、選挙を通じて、自ら掲げる公約を主権者である国民から支持されて選ばれた国民の利益代表であり、それだけに、彼らには、その公約を実現するための法律あるいは政策を作り、支持された公約を実現するために国民が納めた税金の使途を決めることのできる権力と権限を国民から公式に付託された、社会で唯一の立場なのだからだ。

ということは、言い換えれば、政治家以外に、法律を作ったり税金の使途を決めたり出来る者はいないということであり、したがって、法案や予算案を国民の代表でもなんでもない、ただ単に官吏人用試験に合格したというだけの一般に公務員と呼ばれる役人あるいは官僚に作らせてはならないということであり、それをすることは、政治家のみに信託された権力を他者に委譲することになり、信託した主権者を裏切ることになるからなのだ。

 またそれだけに政治家らが彼らだけの議論によって議会で決めたことについては、それを受け取った執行機関の政治家————それは中央政府では首相と閣僚のことであり、地方政府では首長のことである­­­­­­­————は、議会が決めたことを決めた通りに執行しなくてはならないが、その場合、配下の役人を自らの責任において指揮統括しなくてはならないのである。

 実はこの国では、近代西欧文明を取り込んだはずの明治期以来、近代西欧が確立したこうした民主主義政治を遂行する上での原則を、主権者であるはずの国民も、主権者から選ばれた主権者の利益代表であるはずの政治家も、そして主権者である国民に「シモベ」として仕えるべき役人も果たしては来なかった。

 そしてこのことこそが、この日本という国の私たち民が、どんなに経済は発達したようには見えても、本当の幸せや豊かさをいつまで経っても実現し得ないできた根本的な原因なのである。

 

 だから、この国において、本節で掲げる、あえて「真の」と付け加えるべき教育と福祉と社会保障が「三種の指導原理」に基礎を置く国家の主たるしくみとして実現されるためには、その前に、以下のような根本的な変革が絶対に必要となる、と私は考えるのである。

 それは、① 国民一人ひとりが自らの意識を変革して、日本国の真の主権者となること。

② 現行の選挙制度を廃止して、民主主義議会政治を真に理解し体得した本物の政治家を国民が育てて、選部ことのできる選挙制度に作り変えること(9.1節)。

ここで言う「現行の選挙制度」とは、お金がある者、元々選挙地盤のある者、政治家の二世・三世、あるいは著名人あるいは団体の後押しが期待できる者等々でなくては選挙に出られない制度であること、また必然的に莫大な数の死票を出してしまう制度であること、そして有権者の半数をはるかに割る得票率でも政権を獲得できてしまう制度であること、そして何と言っても選挙そのものが完全に儀式化してしまったものであること等々を指す。

③ 主権者として覚醒した国民によって正当に選ばれたそうした本物の政治家によって、もはやこれまでのように、法案や政策案そして予算案の作成を役人に放任するのではなく、全ての政治家自身が自ら掲げてきた「公約」を実現するための法案や政策案そして予算案を、議会において政治家同士で優先順位を考慮しながら、議論して決めてゆく。

 その時、既存の法律との整合性にはさほど気を使う必要はないのである。後に出来た法律が常に優先されるからだ。

そして今後は、彼ら本物の政治家によって、政府の一般会計のみならず、これまで国民には全くと言っていいほどに不明だった中央政府の各省庁の「特別会計」も徹底して見直し、官僚たちの既得権を維持するためだけの会計、天下り先を確保するためだけの会計は、躊躇なく廃止してゆく。

 そのことをするだけでも、声までどれほど国民のお金が無駄に使われて来たかが判明するであろう。

④ と同時に、本物の政治家たちの手によって、戦後すぐに薩長政権の影響を色濃く残した官僚たちによって作られたままになっている法律も含めて、既存のすべての法律を見直し、時代遅れものや不要なもの、行政組織間の「縦割り」を助長するようなものの全てを廃止すると共に、役人によるこれまでの税金の使われ方や使途をも徹底して見直してゆく。

 その際、これまでの、やはりこれも各府省庁の官僚たちの既得権維持のためという色彩が濃かった上に、自然や生態系を大規模に破壊しがちだった「公共事業」も躊躇なく廃止して、税金の無駄遣いを徹底して止めさせる。そして、そうした名ばかりの「公共」事業の代わりに、「真の公共事業」を進めるための内容と制度を議会で決める(11.6節)。

 つまり、こうして議会を、名実ともの本来の国民の代表者の集う議会、国民の代表者が国民の安全と福祉のための法律や予算を決めることのできる議会、それゆえに最高権力を持った議会として生まれ変わらせるのである。

 実はそのことは同時に、官僚を含む全ての役人から、彼らの「既得権を拡大あるいは維持する」という意識を無意味化させることであり、これまでの官僚主導による「官主主義」を打破して、この国に真の「民主主義」を実現させることでもあるのである。言い換えれば、これまで役人が憲法を無視しては当たり前に繰り返してきた、法律に基づかない権力の行使を不可能にするのである。

 そしてこれができるようになれば、これまで予算案作りを官僚任せにしてきたことによって生じさせてきたこの国の超巨額の財政赤字————中央政府と地方政府の債務残高————をも急速に減らすことができるようになるし、使える税金に余裕が生まれるようになって、ようやく、本節が主題とする、「三種の指導原理」に基礎を置くこの日本の国家としての仕組みの重要な部分である教育と福祉と社会保障に関する法律を、真に国民が望み、また期待するようなものとして作ることができるようになるのである。

⑤ 次には、最高権としての議会が定めた法律や政策そして予算を、今度は、執行機関である政府の政治家(首相、閣僚、首長)が、それを受けて、配下の役人をきちんと指揮統括しながら、議会が決めた通りに執行するのである。

 実はこのことはこの国を真に民主主義の実現した国にする上で、極めて重大なのである。それは次の意味においてである。

① これまでは、政治家が各府省庁の官僚に放任してきた結果、それをいいことにして、官僚たちが立法するというとんでもない権力行使が当たり前のように行われてきたが、もはや、官僚たちはそれができなくなるからだ。

② それはこうも言い換えられる。

これまでは、各府省庁の官僚たちは、それぞれ、自分たちの既得権を維持あるいは拡大するための法律を策定する際に————本来、公僕である官僚に、主権者である国民を縛る法律を策定する権限も権力もないのだが­­­­­­­­、それをこの国の政治家はそうした政治原則をきちんと考えもしなければ、理解もしていないからであろう、移譲してしまっているのだ!————、「専門家の皆さんのお墨付きが得られた」として利用し、その法案を閣議で通させるための常套手段として、自分たちに好都合な答申をしてくれる専門家を恣意的に選任しては「審議会」や、それに連なる各種委員会を設けてきたが、もはやそうした企みも無意味化させられる、ということだ。

③ あるいはさらにこうも言い換えられる。

これまで、閣議というものは、各府省庁の官僚たちが所属府省庁に好都合となることを意図して作成した法案なり政策案なり予算案のうち、各府省庁の事務次官が全員合意したものだけが提出される場であると同時に、その提出されたものを、わずか15分か20分程度で全閣僚がサインすることで「閣議決定」したことにしてしまう、文字通りのサイン会、あるいは儀式の場であった。

そしてそのことは、この日本という国にとっても、また私たち日本国民にとっても、民主主義議会政治の原則を破る決定的に重大な2つの過ちを犯していたことなのだ。

 1つは、本来閣議とは、議会が最高権として作って決めた法律・政策・予算を、「三権分立」の原則に従って、あくまでも議会が決めた通りに執行する際の執行方法を、執行機関の中枢として、総理と閣僚とで議論して決めるべき場であるのに、その政治原則を破って、政府が作った法案・政策案・予算案として公式に決定する場にしてしまっている点である。

 1つは、その上、国民から選ばれた国民の利益代表であるはずの政治家(総理大臣と閣僚)が、事もあろうに、主権者である国民に対して「シモベ」として仕えるべき官僚の作ったものを「閣議決定」という形で公式に承認してしまう場にして来てしまった点である。

そしてこのことは、政府の政治家が、自分を選んでくれた国民を裏切って、官僚と官僚組織にこの日本を託してしまっていることだ。

 しかし、これからの閣議は、これまでのそれとはやることが全く異なる、ということである。

議会が決めた法律なり政策そして予算を、議会が決めた通りに、それも、最高の効率————最少の税金、最少の資源、最少の時間、最少の人数————で、最高の成果を上げられるような執行方法を、必要ならば、執行内容に関係する分野の専門家を閣議に招聘して、その彼らの知恵を借りながら、総理を含む閣僚同士で真摯に議論して公式に定める場となるからである。

 そして一旦公式に確定させたその執行方法に基づきながら、首相の全体指揮の下、各閣僚が配下の役人をきちんとコントロールしながら、憲法第15条の第1項の「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」に従って、人事権を正当かつ公正に行使しつつ執行する機関となるからである。

 なおその際、政治家は国民に成り代わって、役人のやっていることを絶えずチェックし、必要に応じて、絶えず役人に自分たちのやっていることについての説明責任を果たさせるのである。

そこで言う説明責任とは、なぜ、今それをそのようにするのか、なぜ、他のこのような仕方をしないのか、その際どのような責任を感じているのかを根拠をもって、国民が納得するように説明することであって、道義的責任を負わせることでもなければ、単に状況を説明することでもない。

 

 結局のところ、こうして、官僚は、これまでは、持っていると国民一般に信じられてきた権力は、ここで全てを失い、国民の代表である政治家に戻され、真の民主主義の実現した日本になるのである

そしてこれこそ、明治期、最後の大物元老であった山縣有朋が、官僚を「天皇のしもべ」と位置づけ、政党政治家を忌み嫌い、持てる権力の全てを使って政党政治の発展を阻止しようとして巧妙に作って来た、「天皇の官僚」の権力が選挙で選ばれた国民の代表によって決して制限されない政治行政システム(カレル・ヴァン・ウオルフレン「日本という国をあなたのものにするために」角川書店 p.47)を、戦後70余年になってやっと根底から打ち砕くことができた、ということを意味するのである。

 

 以上が、真の教育と福祉と社会保障を実現するために、この国にとっては、あらかじめ通らねばならない絶対不可欠な変革の筋道となる、と私は考えるのである。

こうした手順を踏まずに、つまり本当の意味で国民に忠誠を尽くす行動をしないで、政治家がただ“教育と福祉と社会保障を実現します”と訴えても、それは口先だけとならざるを得ないために、結局は、国民を裏切り、国民の絶望感を深め、国民の政治への信頼を一層失うことにしかならないのだ。

 しかし繰り返して強調するが、私たち国民が悲願としてきたこれらが実現されるためには、まず私たち国民自身が、一人ひとり、政治や政治家に要求する前に、日本国憲法が明記する国の主権者であるという意識と自覚を明確に持ち、そしてその責任を果たすことなのである。

 そこで以下では、私は、上記したことが達成されるということを前提の上で論じてゆこうと思う。

 これからのこの国の学校教育のあり方について考えるとき、その教育内容と制度については、私は既に第10章にて、私なりの考えを示してきた。

 そこでは、そもそも教育の最も重要な目的は、児童生徒一人ひとりをして、社会の中にあって、自立し、自らを律し得る「人間」として育てることであるとしてきた。

そのためには、自ら考える力、自ら判断する力、そして自ら決断できる力を身につけさせると共に、そこに現れた結果については、言い訳をすることなく自ら責任を持って引き受けられる真の意味で自由な人間として成長できるカリキュラムにすべきであるとも主張してきた。

だから、もはやかつての文部省や文部科学省の官僚が考えてきたような、この国を果てしなく経済発展させるためにとして、産業界の立場に立って、即戦力として役立つ人材、必要に応じていつでも取っ替えることができる安価な労働力商品として児童生徒を画一的に、あるいは均質に育成することではないとも強調してきた。それに、児童生徒に対して、彼らが人生を生きてゆく上でほとんど役には立たないような知識、それも断片的な知識を、競争させながら、よりたくさん、素早く記憶させたり、また、相手に伝えるべき自分の思想も育たないうちから英会話をカリキュラム化したり、パソコン授業を取り込むといった、その時だけの時流に流された授業をすることでもない、としてきた。

 そもそもみんなが進学し、みんながサラリーマンへの道を進むというのは、どう考えても不自然だし、無理がある。なぜなら、人は皆、生き方も違うし、生きて来た環境も違うし、その中で身に付けて来た個性や能力も千差万別なのだからだ。

 そのことを考えると、今、減るどころかますます増えているこの国のイジメ、それに因る自殺、登校拒否、生徒同士の殺人、またかつて同じ教育環境で育った親による子どもへの虐待、また、大人についても言えるイジメや引きこもり等々は、すべて、元を質せば、一人ひとりの個性や能力を無視し、またその存在意義をも無視しては、すべての者を、一個の人間としてではなく、一つの型の中にはめ込もうとしてきた国家によるこうした画一教育こそがもたらしたものではないか、と私は考えるのである。こんな教育をしたなら、結果として、児童生徒あるいはかつて同じ環境で育った親や大人たちに、個人差はあれども、そして本人自身も気づかないところで、余計なストレスを慢性的に感じさせ、社会に対する憎悪や敵意あるいは反発心を覚えさせて、少なからぬ精神障害を引き起こしてしまうのは当然ではないか、と私などは推測するのである。

 なお教育制度については、全員がなんらかの産業界にサラリーマンとして進んでゆくことを前提とした教育制度ではなく、人間として社会に生きる上で必要不可欠な基本的な素養を身につけた段階で、例えば、小学校卒業した時点で、児童生徒一人ひとりの個性や能力、あるいは特技、さらには希望に基づいて、自由に自ら進みたいとするコースを選択でき、しかもそれらを選択した後も、誰もが平等に、その個々人の目標に向かって能力を開花させてゆくことのできる条件や施設を、国家の保障の下に完備してゆくのである。

つまり、彼らには、これからの人生に向けて、自分の望む方向に自由に道を選択できるのだとして、希望を与えるのである。多様な選択肢があると知らしめ、それを自ら選ばせるのである。

 そして、教育費あるいは学費については、どのようなコースを選択した児童生徒に対しても、国家は、無条件に無償とするのである。

 なぜなら、教育には児童生徒一人ひとりを人間として育てるという大目的もあるが、同時に、そして究極的には、人間として育ったその人たち一人ひとりによって国を————ここでの国とは、国民のことであり、日本の文化であり、国の諸産業であり、国土や自然であり、国を成り立たせている様々な社会的諸制度等を含む————永続的に支えて行ってもらわねばならないわけであり、それこそが国家の利益になることだからだ。

 つまり、教育にこそ税金を惜しげも無く投入する価値があるわけである。

特にこの国は、化石資源や鉱物資源が乏しかっただけに、それだけに私たち国民は、この国の児童生徒一人ひとりを————もちろんこれから生まれてくる子供たちをも————産業面だけではなく、国をあらゆる面で支えてくれる、国の最大で最良の宝であり資源と見て育てるのである。

それが、教育費・学費は、誰に対しても、全額、無条件に無償とする、との根拠である。

 

 次にこれからの日本の福祉のあり方について。

福祉とは、一般に、「公的扶助やサービスによる生活の安定、充足」を言うが(広辞苑第六版)、国家の主たるしくみを考える本節では、その福祉の範囲を保育と保健と医療と看護と介護の分野に限定して考える。

 その場合も、保育と保健と医療と看護と介護は国民一人ひとりの人生を支え、その人生に安心感と深い幸福感をもたらす上で、既述の教育と同レベルに重要なことであるゆえに、基本的にその福祉は国家で支える。そして、保育も、保健も、医療も、看護も、介護も、原則、無料とする。

 なお、言うまでもないが、保育と保健と医療と看護と介護に関わる人々に対しては、国家として、他産業と比較しても、最大級の待遇を保障する。

なぜなら、国を支える、国の真の財産の命を支える人々だからだ。

それだけに、その人たちを、数の上でも、十分に確保するのである。

 ただし、その場合も、国家で支えるとは言っても、この国ではしばらくは続くことがはっきりしている少子化、高齢化、人口減少、そして国と地方の超巨額の政府債務残高という事情を考えるならば、全てを国家、すなわちその事務代理機関としての中央政府だけで人も施設も実現できることではないので、地方政府と連携しながら、上記の範囲での福祉を実現してゆくことにするのである。

 では、具体的には、国民に対する保育と保健と医療と看護と介護の充実をどう実現させるか。

 そこでまずは保育について。

これを考える際には、まずは、保育士には、保育士自身が、幼い頃から豊かな自然体験を持っていることを、採用の条件とする。

なぜなら、これからの環境時代を考えるとき、国民一人ひとりをして、自然や社会の中で「生きる力」を身につけることが真に求められてくると思われるのであるが、そのためには、幼児期の子供の保育に携わる者には、その人自身がまずは「自然」をより多く知っていることが必要と考えられるからだ。そして実際、幼児をより多くの機会を通じて、自然の中で、集団で保育するのである。とはいえ、基本的には、幼児たちを自然の中で、自由に遊ばせるのである。

 次に保健について。

 保健とは、文字通り、健康を保つことである。

そしてその健康には、大きく分けて精神的健康と肉体的な健康とがある。

しかし、その両者は、互いに別物ではなく、むしろ密接不可分に結びついている。

 私は、国民一人ひとりの健康を保ついろいろな方法を考えた時、あらゆる意味で最も合理的なのは、自分で自分の体を動かせる人については、その動かせる度合いに応じた農作業をすることではないかと考えるのである(11.3節を参照)。

 ここで言う「合理的」とは、まずはお金、つまり費用が最もかからずに、安くできること。化石エネルギーや電力を使わずにできるし、大気や河川水を農薬や化学肥料で汚染させずに済むこと。それに、国民の多くが、各地域でこうした健康維持策としての農作業をするようになれば、今日進みつつある国土の荒廃、すなわち耕作放棄地の増大を防げて国土安全保障を高められる。そして同時に、この農作業は、必然的に、各人が健康に生きてゆく上で欠かせない生産物が、新鮮なものとして得られるという収穫の歓びをもたらしてくれる。これは、この国の現状37%という危機的な食料自給率を改善できることでもある。すなわち、国の食料安全保障をも高められるのである。

 またこの国民的農作業の奨励は、結果として、今日、物質的豊かさや快適さを満喫する中で私たちが忘れかけている、自然への畏敬の念を思い出させてくれて、謙虚に生きること、耐えること、待つこと等々の大切さをも教えてくれるようになるのではないか、と私自身の体験から想う。

 なお、ここでの農作業では、当然ながら、何かと人体や生態系に害をもたらす農薬も化学肥料も使わない。また温室効果ガス(CO2)を出す農業機械も使わない。鎌や鍬といった身近な農機具だけで行うとするのである。

そしてそうした農作業が可能となるための農地や制度については、住民(国民)から選挙で選ばれた代表である政治家たちが、自ら全責任を持って決める。それも、各議員自らが代表する住民の意向や要望を真摯に聞き取り、それを満たすようにしてである。ゆめゆめ、それをこれまでのように役所の役人任せにしてはならない。彼ら役人に任せたなら、彼らは住民の福祉よりも、自分たちの既得権を守れる制度しか考えないからだ。

 そして、議会が定めた仕組みを、地方政府(役所)の首長は、執行機関の長として、配下の役人をコントロールしながら、議会が決めた通りに、最大限効率と最大の効果があげられるように執行させるのだ。

 なお、なんらかの事情で体を動かせない人は、次に述べる医療そして看護を通じて、健康の回復を図るようにするのである。

 では医療と看護について。 

この職業に携わる人々には、技術や知識を習得する前に、あるいは習得しながら、まずは「人間の尊厳」ということや「生命の尊厳」ということを知ってもらいたいのである。

特に医療従事者が相手とする人間は、「弱者としての人間」なのだからだ。
 なんらかの病気を抱えている人は、心細いのである。不安なのである。

 医療従事者は、まずはその真実を理解することが、医療分野での福祉を実現する第一歩ではないか、と私は考えるのである。

 つまり、どんなに優秀な技術を腕に持っていても、どんなに多くの専門知識を持っていても、患者=弱さを抱えた人間であることが理解できていなかったなら、それだけで、私はその分野に携わる者としては失格、と見るのである。

 最後の介護について。

この場合も、患者に向き合う人に最も大切なこととして求められるのは、相手とするのは「弱者としての人間」であること、ことに終末期を迎えた患者に対しては、この人は今、死への不安や恐怖に向き合っている人であろう、自身の人生を振り返って、総まとめをしようとしている人であろう、ということへの理解と共感であろう。

であるから、それを自ら心静かに整理できるような雰囲気を作ってあげることなのではないか、と私は考えるのである。

 

 次に日本のこれからの社会保障のあり方について。

 その場合、特に問題なのは、世代間での相互扶助制度である「年金制度」であろう。

そして、現行のこの制度は色々な仕組みから成り立っているが、要は、これまで年金をもらえてきた人のように、これからの人たちも、同様に、そして間違いなく、一人ひとりが日本人として暮らしてゆく上で、生活に必要十分な年金を国家からもらえるのか、ということだと私は思う。

 しかしそれも、本節の冒頭で述べてきた、国民自身の意識変革と、本物の政治家による政治における真に民主主義的な変革が実現されれば、自ずと、国民が望む仕組みや制度が実現される、と私は確信するのである。