LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

13.9 外交

13.9 外交

 これからの「環境時代」における日本の外交はどうあるべきだろうか。そしてその外交とは、特にどういうことに力点を置いてなされてゆくべきなのだろうか。

 その場合、先ず明らかに言えることは、日本の外交は、これまでのような、常にアメリカの顔色を窺いながらアメリカに追随する外交、アメリカを後ろ盾にしての外交であってはならない、ということである(「『対米従属』という宿痾」鳩山由紀夫孫崎享植草一秀 飛鳥新社)。

 その理由をざっと挙げればこうだ。

まずは、私たちの国日本は、曲がりなりにも、1951年に、サンフランシスコ講和会議において、世界から公式に認められた独立国なのだからだ————とはいえ、その場合、残念ながら主権国ではあっても、すでに随所で述べて来たように、未だ主権国家にまではなり得てはいなかったし、そこで結ばれた講和条約そのものも、当時すでに始まっていた米ソ間の冷戦により、アメリカの国益を第一にすることから、日本は真の独立を承認されるものとはならなかったのだけれども————。

主権国、それは、他国に従属せず、自らの国内・国際問題を独立して決定できる国のことを言う(広辞苑第六版)。

 そして、アメリカは、これまで、特に第二次世界大戦後、1.1節にも記して来たが、世界に対して、どのような戦略をもって臨んできたか、またその結果、世界はどのようになり、そして今日に至ったか。それについても、しっかりと目を向けなくてはならないと私は思うからだ。

 それに、ソ連が崩壊して東西冷戦が終了後、ソ連崩壊後誕生したロシアはもちろん、冷戦後唯一残った超大国アメリカも、もはや世界を束ね、リードする力と信頼を失い、その結果、世界は、これまでの米ソ陣営からの束縛から解放されたため、民族対立や宗派対立が世界のあちこちで起こるようになり、平和を回復できるどころか却って世界は無秩序化の様相を深めてしまっていることだ。

 そんな中で今度は中国の急速な台頭だ。その中国はかつてのソ連社会主義とはまた違った、社会主義の中に資本主義をも取り込んだ経済の下で、習近平を頂点とする共産党一党独裁による専制主義を強化している。自国民への統制と監視はもちろん、漢民族とは異なるウイグル民族への弾圧と拘束そして洗脳政策がそれだ。そうした政策は当然ながら、自由や民主主義を「人類普遍の価値」と標榜するアメリカとそれに賛同する世界と対立してしまう。

しかもその中国は、いわゆる「一帯一路」政策の下、表向きは相手国、とりわけ途上国を支援するかのように見せて、実は「債務の罠」を仕掛けることによって、その相手国に巧妙に中国側の利権ないしは領土を拡大しようとしている。

また日本を始めアジア諸国の領海をしきりに侵犯してもいる。

 こうした状況から、世界の人々の人権とともに、経済力や軍事力の覇権までもが中国に脅かされると見たアメリカは、今度は、中国との間で事実上の新冷戦を始めている。

そしてそうしたアメリカの態度に後押しされる形で、日本も、その中国に対抗して、「自由で開かれたインド太平洋」なる呼びかけを世界に発信している。インド洋や太平洋は公海ゆえ、船舶の航行は自由で開かれているべきだ、というわけである。

 しかし、これからの日本の外交は、これまでのような、常にアメリカに従属あるいは追随する外交であっていいはずはないとする理由はもっとある。

そしてその理由の方が、実はこれからの世界、これからの人類にとってはもっともっとはるかに重要なことだと私は考えるのである。

それは、一言で言えば、私たち世界人類全てがそこに乗り合わせて、運命共同体となっている宇宙船地球号の自然は今、まさに、人類をはじめ地球上の生物が生きてはゆけない状況になりつつあるからだ。

そうした状態をもたらしているのは、広く言えば地球環境問題であり、狭義には、主として、地球温暖化およびそれに伴う気候変動と生物多様性が失われて行っていることである。

 つまり、今この時点では、国家間や民族間そして宗派間での互いの利益をめぐっての対立や紛争あるいは覇権争いなどは、宇宙船地球号の危機に比べたならほんの些細な問題でしかないのだからだ。と言うより国家間や民族間そして宗派間でのそれは、よく観察すれば、国民が自発的にそう望むからというのではなく、ほとんどは、権力者や支配者自身の個人的野心や野望の現れでしかなく、大多数の国民はそれに扇動されているだけなのではないか、とさえ私などは推測する。

 

 そして実はこの、全人類にとっての運命共同体である宇宙船地球号の自然が今や危機にあるという事態を直視することによって、これからの外交は特に何に基軸に置くべきかということが明確になってくると私には思われるのだ。

 もちろんその前に、外交は、単に自国の利益の追求や国防のためだけではなく、相手国の利益になることをも同時に考えて交渉しなくてはならないという外交のあり方の原点を確認する必要がある。

つまり外交は、常に交渉相手国との「調和」を求め、その調和を実現することを通じて自国の求めるところや利益を実現するための交渉ごとである、ということだ(4.1節の「調和」を参照)————そういう意味では、かつて松岡洋介が国際連盟脱退の時に取ったような外交態度は最低だし、論外でもある。実際それからの日本は、世界の中で孤立しながら壊滅的破局へと一直線に突き進むことになったのだからだ————。

 そしてさらに、その外交が外交として意味を持つためには、その外交に当たる者は、国家から全権を託される必要があるということだ。

そしてそのためには、国はどうしても国家となる必要がある。

なぜなら、国家でなかったなら、「合法的に最高な一個の強制的権威」を所持する者がいないわけであるから、相手国と交渉するにも、全権を託されないし、託す人もいなくなるからだ。

そうなれば、一対一の関係でなされる交渉の場で、あるいは一人が諸外国から集まる全権大使らを相手に交渉しなくてはならない場で、交渉担当者————通常は外務大臣、場合によっては財務大臣環境大臣————は自信を持って自分の意見を述べることはできないし、相手の言うことに対して自らの判断力を持って判断し、責任を持って決断することもできない。そうなれば、その都度、問題を本国に持ち帰って、その問題に対してどう対応すべきかを政府内で集団で検討しなくてはならないといった事態になるからだ。

 私が知る限り、例えば、2015年、「パリ協定」がCOP(気候変動枠組条約締約国会議)21で合意される時、その会場に日本から送られた環境大臣丸川氏の態度がそれだった。会場の隅っこで、影を潜めていた、とのことだ。

 ところで、これまで、日本では、「この国には、何をするにも、国家戦略などない」などとはよく識者と自称する人たちによって言われてきたものだが、しかし私はそうした言葉遣いそのものが正確ではなかったと考えるのである。なぜなら、戦略がなかったのは事実としても、それ以前に、この国は、近代西欧が定義づけ、確立された意味での国家であった試しは日本が西欧の文物や政治制度を取り入れたとされる明治以降でも一度としてなかったのだからだ。だから「国家戦略」がなかったのは当然と言えば当然だった。

 そして、もう一つ、その外交が外交としての意味を持ち、事態が進展するためには、予め国家としての目的と目標を明確にし、それらを実現させるための戦略が必要となる————もちろん交渉ごとだから、こちらの言い分がそのまま相手国に受け入れられるとは限らないし、むしろその方が多い。だから、そうあっても対応できるよう、第二案、第三案を用意して臨む必要があるだろうが————。

 ではその場合、国家目的と目標とは何か、そしてそれらを実現させるための外交上の戦略とは、何か。

 実はそれこそが、これからの日本の外交は、どこに力点を置いて展開すればいいのかという問題と重なるのである。

 もちろんその場合、「自国の安定と平和」を求めることを外交姿勢の基本に置くことは言わずもがな、だ。

また、一つの特定の国の側に寄り、その国を支持するような外交ではなく、あるいは特定の国の後ろ盾を前提とした外交ではなく、相手国に対して、常に公正で「調和」を求める立場に立ち、世界平和をも同時に目指す立場を堅持すべきことも言うまでもない。

 またその意味でも、もはや特定の軍事ブロックや経済ブロックにも属すべきではないのではないか、とも思う————そのことは、これも既述した「経済の国際化から国内化、さらには地域化」とも密接に関係していることである(11.4節)————。

 それに、本来、条約というものは、双方の国が独立した主権国家として、互いに対等な立場で結ばれるべきものであるということを前提とするならば、例えばサンフランシスコ講和会議の前後から吉田茂首相(当時)がとった次の外交は、かつての松岡洋介の国際連盟脱退の仕方とは違うが、その後の日本国と日本国民にとって、同じく長引く不幸を招く結果となったのだ。

それは、当時の吉田茂が、アメリカ側(ダレス)の主張する、「我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保」しうることを、正規の手続きを踏まずに、たった一人容認した上で、それをアメリカに実現させてやるために、秘密裏に次々と以下の締結をして行った行為のことだ。

 それは、先ずは、サンフランシスコ講和条約を結び、そしてその日のうちに場所を変えて、日米安全保障条約吉田茂が一人署名する形で結んだこと。そしてその後、その安保条約を具体化するために、後に「日米地位協定」と呼ばれることになる日米行政協定を結んだこと。それに異論を唱えられると、今度は「交換公文」という形で誰にも判らぬようにこっそりとアメリカの先の言い分である「我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保」し得ること、そしてその「望む場所」に治外法権を与えるとすることをやはり一人で認めてしまったことだ(孫崎享「戦後史の正体」創元社 p.143〜153)。

 なぜなら、その外交の仕方そのものが、吉田がどのように弁明しようとも、主権者である国民を完全に裏切り、国をアメリカに売った行為だからだ。

実際、吉田茂のその売国的外交によって、戦後から今日まで、沖縄県の住民が米軍基地の軍人と軍属によってどれほど堪え難い思いを味わされ、屈辱的な扱いを受けて来たことか。

 それに、この国の歴代政権の長————例えば安倍晋三菅義偉————は公式の場で、よく平然と「自由と民主主義は人類普遍の価値」とか「法の支配」を口にしてきたが、実態は自由の真の意味も、民主主義の真の意味も、法の支配の意味も知らないものだった。

こんなことで、まともな外交ができるはずもない。

 また中国外交を評して、日本の政治家はよく「一帯一路」構想には「債務の罠」が仕掛けられていると言うが、そしてそれは確からしいが、それを言うのであれば、日本の政治家は日本政府にも、ODAと呼ばれる政府開発「援助」のあり方を変更させるべきであろう。これまでの援助のあり方は、そこに参加する自国産業に利益を還流させるやり方であって、相手国が経済的にも文化的にも本当の意味で自立できるような援助のあり方ではなかったからだ。

 私は、こういったことが、少なくともまともな外交、世界に通用する外交をする上での前提条件となると考えるのである。

 

 では、この日本が、これからの環境時代の外交において、どこの国と外交交渉するにも、成り行き任せではなく、特にその基軸に置くべきこと、念頭に置くべきこととは何であろうか。

実は私はそれこそがすでに拙著の中で明らかにしてきた二つの指導原理としての《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》ではないかと思うのである(4.2節と3.1節)。

なぜなら、既述したように、私たち世界人類の運命共同体である宇宙船地球号の状況が今、まさに、その表面上に生きる人類をはじめとする地球上の全ての生物が生きてはゆけない自然の状況になりつつあるからだ。

そしてその人類と他生物にとっての共通の危機を真の意味で、あるいは究極的に救えるのは、私は、今のところこの二原理しかないのではないかと思うからだ。

少なくとも、最近、メディアでも頻繁に取り上げては話題にする、国連が掲げたSDGs(Sustainable Development Goals)では決してない、と考えるからである。

SDGsはアリバイ作りのようなもので、目下の危機から目を背けさせる効果しかない」(斎藤幸平「人新世の『資本論』」集英社新書p.4)と私も考えるからだ。

 なおここで再度確認しておくが、上記指導原理で言う「原理」とは、「社会」あるいは「自然」の中を貫いてそれらを成り立たせている人智・人力を超えた理(ことわり)であり掟であり法則のこと。あるいは、あらゆる現象と矛盾のないことを言い表していて、真なることを証明する必要のない命題のことである。だから、原理とは、人間の都合によっては変えることのできないものなのである(4.1節の「原理」の定義を参照)。その意味で、それは原則とは異なるものだ。

 こうして、少なくとも日本のこれからの外交は、何をテーマにする場合も、これまで述べてきた外交の基本を前提に、この二つの指導原理に依拠しながら、相手国との「調和」を探りながら根気よく双方が求める状況を実現してゆくことが求められているのではないか、と私は考える。

これからの時代、先進国であれ、途上国であれ、あるいは新興国であれ、大切なことは単なる経済発展ではないのではないか、と力説しながら。そして、物質的には豊かになった先進国の人々は今本当に幸せな状態か、また物質的には豊かになった先進国は、私たち人類がここでしか生きられない地球の環境に何をもたらしているか、それをしっかりと見ようではないか。むしろ、物など少々なくとも、少々不便でも、個々の人間が、豊かな自然の中で、互いに人間らしく、安心して暮らして行ける社会の方がどれほど豊かで先進的か、とも力説しながら。

 

 とにかく、一度でも宇宙を飛行した飛行士は言うではないか。「地球は青かった」と。

また「国境などどこにも見えなかった」と。

今は、国境を隔てて領土拡大のための争いや領土紛争を起こす時ではない。

それに、核弾頭や核ミサイルについても、そんなものが本当に必要で、役に立つものなのか、今こそ、世界の首脳は深く考えなくてはならないのではないか。

 人間は誰も、勘違いをし、間違いを犯すものである。誤算したり、誤報を発したりもするものだ。特に、状況が緊迫してきている時には、何が引き金になって、どこで戦闘が始まるか、誰にも予測はできない。そしてそうなれば、もはや誰も制御できない形で開戦、そして全面戦争ということにもなりかねない。ましてや代理戦争ではなく大国どうしが直接戦うとなれば、

これからの戦争は、間違いなく核弾頭や核ミサイルが使われるだろう。

そして、どちらかが「先制攻撃」などと言って核ミサイルや核弾頭を一発でも発射したなら、瞬く間に世界戦争へと発展し、核の打ち合いとなって、人類は滅びる。他生物を巻き込んで。それは、今や、世界は軍事ブロックや経済ブロック等を通じてさまざまに利害が絡んでいるからだ。

つまり、核を持つことが敵の攻撃を抑止することには決してならないということだ。「核抑止論」など、論理的にも、とうに破綻しているのである(豊田利幸「核戦略批判」岩波新書)。

 今や、世界は合計13,400発の核弾頭を所持している(2020年1月時点)。

具体的に言うと、現在、核保有国は9カ国。その各国別の保有数は、第1位がロシアで6500発。第2位がアメリカで6185発。第3位がフランスで300発(以上、いずれも2018年現在の数値)。

第4位は中国で290発。第5位はイギリスで200発。第6位はパキスタンで150〜160発。第7位はインドで130〜140発。第8位はイスラエルで80〜90発。第9位は北朝鮮で20〜30発(以上はいずれも2019年現在の数字)。

しかしこの他に、核兵器開発をしているのではと疑いが持たれる国として、イラン、シリア、ミャンマーがある。

 これから判るように、現在のところ、米露の2カ国だけで世界の核保有数の95%に達している。しかもその数は、もしそれが戦争となって実戦で使われたなら、米露だけで、地球を何回も破壊し尽くせる数だ。

もちろん双方の国は所持する6000発を超える核弾頭を一気に発射台に運搬して、一気に発射することなどできないはずだから、その全てを発射する前に全人類は消滅している。

なぜなら、たとえどんなに地下深く堅固な核シェルターを作ったところで、核が使われた直後は即死はしないまでも、地上では高レベルの放射能や超高温の熱線による輻射そしてそのあとやってくる衝撃波によって、地上のインフラというインフラや食糧を生産する土壌は全て破壊されているし、人間が喰って生きようとする野生動物だって多分死滅している。それに飲料水という飲料水だって、地上の水であれ地下水であれ、全て汚染されてしまうからだ。

それにたとえそれが可能であったとして、地中深く、選ばれた人たちだけで何ヶ月、あるいは何年も生きているというだけの生活で、一体何の楽しみや生きがいがあろう。

つまり核シェルターなど何の役にも立たない。気休め程度のものにしかならない。

 だからこそ、米中の対立が激化して、いつこの「キューバ危機」と同様の「台湾危機」によって核戦争にならないとも限らない今、全ての核保有国、そして核を持とうとしている全ての国の首脳は次の言葉に真摯に耳を傾けるべきではないか。

それは、1962年の10月下旬、冷戦の最中、今まさに米ソ間での全面核戦争が始まるかという時に、フルシチョフがふと側近に漏らした本音だ。

“偉大なる我が国家とアメリカが破壊し尽くされ、自分も死の淵にあって、国の威信だけは守られたと知ったところで、一体何になるというのだ!”

“一旦戦争が始まれば、我々(首脳)の力では止められない。あらゆる町や村に破壊がばらまかれるまで終わらないのだ。”

 

 そしてこういう危機が迫った時には、特に一国の首脳はもちろん政府閣僚も気をつけなくてはならないのは軍の動きだ。

例えば、軍の参謀あるいは司令官にはこんなことを言わせてはならないのだ。

“あの馬鹿ども(ソ連軍のこと)を殺すんだ。最終的にロシア人が一人、アメリカ人が二人生き残りさえすれば、こっちの勝ちだ!”

すると側近は言う。

“では、男と女を残すようにしないと!”

BS世界のドキュメンタリー オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史「第6回」 2019/5/8(水)NHKBS1

 それに戦争となれば、誰しも普段の冷静な判断力や理性を失い、いわば集団で狂気になる。

それを如実に示すのが、例えばナチスドイツがアウシュビッツで行なったユダヤ人大量虐殺だし、軍国日本が中国南京で行った一般民間人の女性や赤ん坊にまで行った大量虐殺行為だ。

それは、普段は尤もらしいことを言っている者でも、いざとなれば、あるいは集団で行動するときには、人間はこんなことまでやれてしまうということを示すもので、特に主権者である国民を代表して軍を統括指揮する責務を負う防衛大臣は、自らの戦略を明確にすると同時に、指揮を発する時、そのことをも片時も忘れてはならないのだ。

 そしてこんな時、同時に特に重要なことは、軍の暴走を止められる装置、軍の暴走を許さない装置、軍を統括し統制しきれる装置としての「シビリアンコントロール文民統制)」が確実に働くような法整備とともに統治の体制を二重三重にも事前に整えておくことだと私は考える。

かつての「五・一五事件」そして「二・二六事件」では、決起した青年将校に対する扱い方は両事件の間では極端なまでに違っていた。しかもその時、両事件については、それぞれ、誰がどのような責任を持って、事態を統合的に収拾したのか、それについては私たち国民は未だ、日本政府の誰からも、公式には知らされてはいない。

 ただはっきりしていることは、統合的に収拾したのは、明治憲法下であったその時、公式には「合法的に最高な一個の強制的権威をもち、統帥権統治権を併せ持っていた」昭和天皇裕仁)ではなかったはずだ。

 そしてこうなるのも、実はこの国は、明治期以来、西欧文明と制度を取り入れながらも、見かけは国家でも、真の国家ではなかったからだ。

だからこそ、これからは、こういう悲劇的結果にならないためには、ここでもやはり国は国家であること、すなわち「合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって、あらゆる個人や集団が統合されている社会」、言い換えれば、統治体制が十分に整った国となっていることがどうしても必要なのだ。

そしてそのためには、先ずは何といっても、国民の代表としてそれを実現させる義務と責任のある政治家という政治家が、官僚に依存しあるいは放任する体質を根本から反省して改め、戦後これまでそれでずっとやってきた結果生じさせてしまった官僚組織の「縦割り」という慣例制度をぶち壊して全政府組織を風通しのいい一つの組織とすることを含めて、日本国憲法第15条第1項に基づいて、官僚独裁体制を即刻破壊するところから着手しなくてはならない。

政治家は、各自、甘えを捨てて、もっともっと自分に厳しくならなくてはならないのだ。

 

 何れにしても、米ソ両国とも途方もない核弾頭を所持し、また「キューバ危機」のような事態を引き起こしてしまうというのも、結局は互いに、場合によっては取り巻きの影響もあるだろうが、首脳同士の間に、相手国への猜疑心や恐怖があるからなのであろう。

特に、F.ルーズベルト亡き以降、大統領となったトルーマンは、第二次世界大戦を終わらせる上で最大の功績のあった、スターリン率いるソ連の底力には恐怖した。そして彼は共産主義に対する恐怖を自国民や世界に向かってこう煽った。

ソ連は世界征服を目論んでいる」、「スターリンが世界中に革命を広げようとしている」、かと思えば、「ソ連の侵略に抵抗しなければ我々の自由は打ち砕かれる」などと(BS世界のドキュメンタリーオリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史」第4回「冷戦」 2019/4/12 NHKBS1)。

実際には、その時ソ連アメリカに侵略してくるなど誰が考えたってありえなかった。なぜなら、その時、世界で最も強力な大量殺戮兵器である原子爆弾を持っていたのはアメリカだけだったからだ。

 

 ではそうした猜疑心や恐怖心を消し去るにはどうしたらいいか。

それは、結局は、互いに相手を尊重しながら、率直に自分の思うところ考えているところを述べ合い、相手の立場を理解しようとすることでしか方法はないのではないか。

つまり互いに「調和」を求めながらの、率直な話し合い外交だ。

 その必要をケネディはこう表現し、世界に向かって呼びかけた。1963年のことである。

————————私が意味する平和、人々が欲する平和とは?

    軍事力を盾に強要する“パックス アメリカーナ”ではない

    ソ連への対応を省みましょう

    両国には悲しい溝がある

    違いを認め合えば多様な人々が平和に共存できるはず

    突き詰めれば我々は皆、

    この小さい惑星で暮らし、

    同じ空気を吸って生き、

    子の幸せを願い、

    いつか死にゆくのです

 

 もちろん、多数民族が少数民族を迫害し、人権を踏みにじるのは論外だし、それを少数民族に代わって外から抗議するのは決して内政干渉ではないどころかむしろ人道上での世界の正義なのだ。

そのことは、国民を束ね統治する立場の指導者・首脳に、自分自身を、自由を奪われ迫害されている人の立場に置き換えて想像し共感する力がありさえすれば、自ずと理解できることのはずだ。

 

 これからの日本は、私たち世界人類の運命共同体である宇宙船地球号の状況が今、まさに、その表面上に生きる人類をはじめとする地球上の全ての生物が生きてはゆけない自然の状況になりつつある現実を踏まえるがゆえに、先の二つの原理を基軸に置いた上で、さらには故ケネディの呼びかけを受けて、特に原爆が投下された唯一の国として、すべての核保有国のみならず、世界に向かって、事あるごとに、次のように呼びかけ、働きかけるべきなのではないか。

 すべての核保有国が、同時に全廃しよう。

EUとロシア間の緊張の原因となるNATOなどの軍事ブロックは解体すべき。

 大気圏内、宇宙空間、海洋中、極地圏そしてサイバー空間での競争も止めよう。

 そしてこれからは、「人類全体の価値」(カレル・ヴァン・ウオルフレン)とは何か、「世界の大義」とは何かを求め、自国民に対するだけではなく「人類全体に対する忠誠」(故ネルー首相)という立場で、互いに協力し合おうではないか。

 そのためには、もはや日本も不平等な日米安全保障条約日米地位協定の堅持に拘っているときではない。アメリカの「核の傘」からも抜け出るべきだ。

そして今こそ、吉田茂アメリカに売り渡した主権を取り戻して真の独立国となり、アメリカと対等の関係を築くべきだ。言うべきは言う、協力すべきは積極的に協力する、という姿勢こそが大切なのだ。それも上記した基本的な考え方を堅持した上でのことである。

 

 私たちは、日本国民として、日米安全保障条約そして日米地位協定という不平等な取り決めにいつまでも固執すること自体が精神が独立し得てはいないことだし、他国に祖国防衛を期待しようとする日本国政府と国民の甘えであり、また自国の安全は自分たちの手で守るという愛国心が欠如していることでもある。

 今こそ、私たち現在世代は未来世代に対して責任のあるところを示すべきではないか。

 とにかく今や、国連のIPCCは、2030年までに世界人類が地球温暖化を食い止めるために具体的に何をどれだけできるかによってその後の人類の命運は決まる、とまで言い切ってもいるのだから(BS1スペシャル 2030未来への分岐点「暴走する温暖化」2021/10/19 NHKBS1)。

 そしてそこに向けて日本国民一人ひとりが勇気と決意をもって歩み出すことこそ、真の意味での「世界の平和と安定」を確実にすることである、と私は固く信じるのである。