LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

13.14 官僚制と官僚組織      ————————(その1)

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13.14 官僚制と官僚組織  ————————(その1)

 官僚制とは一般に「専門化・ヒエラルヒー化された職務体系、明確な権限の委任、文書による事務処理、規則による職務の配分といった諸原則を特色とする組織・管理の体系」(広辞苑第六版)とされ、そしてその諸原則どおり職務を遂行することが官僚の役割とずっと固定的に理解されて来た。少なくとも「近代」の官僚制は。

そしてそれが余りにも無批判的に、しかも改良もされずに戦後ずっと維持されて来た結果、「官僚的」という言葉は形式的で独善的な集団の態度の代名詞にもなった。

またそれがために、一群の特権的な官僚が権力を握って行う官僚政治、一国の統治において官僚制が支配的な地位を占める官僚政治をも生む原因ともなって来た。

とくにこの私たちの国では、政治家は、無能・無責任・無策・無知・自己への甘えに因り、官僚をコントロールするどころか自らが彼等のロボットと化して、官僚独裁政治を生む直接の原因にすらなってきた。そしてそれこそが、すでに随所にて述べてきたように、この国の国民を不幸に陥れたままにしてきた真の原因ともなっているのである。

 そこで私は、すでに突入してしまっていると私自身は考える環境時代にこの国が対処しうるようになるためには、官僚があたかも国の主権者であるかのような振る舞いをしてきたこれまでの官主主義を早急に打破して、国民が本当の意味で主権者となる本物の民主主義をこの国に実現し、その民主主義に立ってこの国を統治体制の整った本物の国家として、先に明確にした二種類の指導原理を柱とする真に持続可能な国にすることが是非とも必要であると考えるので、ここでは、これらを実現するために、これまでの官僚制度と官僚組織のあり方を根本から変え、官僚が本当の意味で「国民のシモベ」として国と国民に奉仕できるようにするための私なりの基本的な考え方を提案する。

 そこで、上記の遠大な目的を達するために、まずは現在のこの国の官僚とその組織のあり方についての実態とその特性についてこれまで注意深く彼らを観察して来た私なりに明確にし、次に、官僚のその実態と特性はどのような歴史過程の中で身に付けてきたのかということについてもやはり私なりに明らかにした上で、では真に「公僕」と呼ぶにふさわしい公務員とはどのような基準を満たした者として採用したらいいのか、そして採用した後、彼らが初志を忘れないようにするにはどうしたらいいか、さらにはどういうことをしたなら「国民固有の権利」(日本国憲法第15条第1項)として罷免すべきか、ということまで踏み込んで、これも私なりに提案してみようと思う。

1.現行の官僚と官僚組織の実態と特性

 現行の官僚たちとその組織の実態と特性については、私はこれまで中央省庁の官僚と呼ばれる人や地方政府(県庁や市役所)の多くの役人と直接会って話をし、また彼らの言動を長いこと注意深く観察し、そして幾多の市販本などで調べてきたところによると、次のようなことが言えると思うのである。

 とにかく役人のものの考え方や生き方で共通しているのは現状維持に拘る、というものだ。現状を変えようとしたり、変革や改革あるいは改善しようとしたりすることや動きを極度に嫌う。それは、役人ほど自分たちの所属する府省庁や部や課としての既得権にこだわる者はいないということと関連して、変革や改革荒れたなら組織が縮小されたりして自分の居場所がなくなるのではないかと恐れるからであろう。

そして役人ほど、「集団主義」や「集団の論理」を重視し、「ムラ社会」を構成し、「みんなと違うことはいけない」、「他より目立ってはいけない」と、構成員一人ひとりが、お互いに他者に無言で強いる集団はない。

 それだけに、役人の組織ほど、自分たちの組織への「忠誠」を厳しく要求し、「滅私」や「悪平等」を暗黙に押し付け、「犠牲」や「忍従」を強いる組織もない。

 したがって、役所ほど、その内部で、「ねたみ」・「イジメ」・「差別」・「ハラスメント」がまかり通っている組織もない。そういう意味で、役所はイジメやねたみの巣窟なのだ。

こうして役所ほど「創造的能力」・「独創的能力」・「真の指導者的能力」等を不要としている組織はない。役所ほど「人物」、「人格」、「人間性」、「能力」ではなく、「役職」・「格」・「上下関係」・「序列」・「肩書き」を重視する組織はない。「個性」あるいは個人としての「自由」や「多様性」を認めようとはしない組織はない。また「抜きん出た才能」も不要とし、むしろそうした能力ある者をみんなで抑え込み潰そうとする。

 だから役所ほど「本音」と「建前」を使い分け、人間関係が「上辺だけ」、「形だけ」の組織はない。

それだけにまた、国民の利益ではなく「自分たちの組織の利益」をつねに最優先し、その組織の中の一人ひとりはとにかく保身に拘り、人から評価され、立身出世できる道に拘り、「自分が安泰」であればそれで良しとする組織もない。

実際私は、かつてサラリーマン時代、当時建設省だったある役人から面と向かってこういう話を聞かされて、言い得て妙なその表現に思わず笑い出してしまった記憶がある。

“生駒さんねー、役人を動かそうと思ったら花道をつくってあげることです。と同時に、逃げ道をも忘れずに用意してやることです。”

 こんなことだから、外に向っては“自分たちは法に従って仕事をしている”と言いながら、「公」と「私」を平気で混同させては、自分たちで決めた「内規」すら平気で破る。

そして、役所ほど「憲法」や「法律」を軽視し、むしろ「慣例」・「慣行」・「前例」を重視し、「根回し」・「不文律」・「馴れ合い」・「人脈」・「派閥」・「学閥」を重視し、論理や理性ではなく、また客観性でも知性でもなく、常に情実が絡んで動く組織はない。つまり全員が守るべき確定したルールや行動規準というものがないし、そうしたものを軽視する。全てが情緒的であり、恣意的なのだ。

 だから必然的に、役所ほど、「閉鎖的」で、外の世界の「常識」・「共通の価値」・「正義」・「大義」といった価値に無関心となる組織はないし、役所ほど、国民には平気で「ウソ」をついたり「ごまかし」たりし、また事実や真実を「隠し」ながら、いつでも自分たちのやっていることを「正当」らしく、あるいは「国民のためにやっている」と見せる欺瞞的組織はない。

 そして役人ほど、つねに言い逃れられる道、つまり「逃げ道」を用意しながら仕事をしている輩はいない。役人ほど、つまり「花道」に拘る輩はいない。

 また役人は、あるいは役人としての言動は、国民に対してであれ、外国人に対してであれ、とにかく自分たちの組織や集団の外の人間に対しては、極めて冷酷だ。

 とどのつまりは、役人ほど、主権者である「国民」を信頼せず、「民主主義」を軽視し、「人権」を軽視し、「官尊民卑」や「愚民思想」を暗黙のうちに当たり前とする組織はない。

 だから、彼らの身に付けたこうした体質から次のような行動が必然的に生まれてくる。

それは、彼ら役人は、一旦決めたことや始めたことについては、途中でどんなに客観的状況が変化しても、自分たちのメンツにこだわり、あるいは自分たちのやっていることには誤りは無いという態度をとり、中断することも再検討することもなく最後までやりきってしまう、という姿だ。そしてそのやり始めたことがたとえ失敗しても、決してそれを認めようとはしない。だから少しの反省もしないし、責任を負うこともしない。もちろん自分たちがやって来たことを検証するということもしないし、総括してそこから教訓を引き出すということもまったくしない。仮に国民からの批判が殺到して、どうしても検証や内部調査をしなくてはならないというような状況になっても、そこで見せる彼らの態度はあくまでも「とりあえず」程度であって、その調査を利害関係のない外部の第三者機関に依頼するのではなく、問題を起こした集団内部に設けようとする。だから公正で客観的な調査などできず、報告書の中身はすでに決まっている。

 それに彼らは、自分たちの活動は全て国民の収めた税金によって成り立っているのに、それをわきまえようともせずに、会議録にしても、事業報告にしても、正確な記録を公文書として残そうとすることもしない。むしろ自分たちのやってきたことにミスや失敗があったりうまく行かなかったりした場合にはとくに、それに関連する文書や資料を破棄するか隠そうとさえする。あるいは公文書を改ざんさえする。

そしてこうした行為は、全て、国民の目の届かないところでやる。あるいは国民から選挙で選ばれた国民の代表である政治家が役人をコントロールもチェックもしないことをいいことにして、秘密裏に、あるいはドサクサの中でやってしまう。

 つまり、この国の役人は、中央政府の官僚たちを筆頭にして、地方政府の役人も、いつの間にか、自分たち自身も多分気づいてはいないであろううちに、人間として実に汚く、醜く、冷酷な輩集団となっているのだ。それは到底「公僕」すなわち「国民のシモベ」などと呼べるような状態ではない。それは全くの名ばかりなのだ。

 

 ちなみに、官僚たちがその狡猾さを発揮する具体的な手口とはどういうものか、その手の内を明かしておこう。

参考にさせてもらったのは、元通産省の官僚古賀茂明氏の著(「官僚の責任」PHP新書p.60〜61)と、元厚生省の検疫課長宮本政於氏の著(「お役所の掟」講談社)そして元通産省の課長並木信義氏の著(「通産官僚の破綻」講談社+α文庫)である。

 これらの著書から見えてくる官僚や役人の公務遂行上の手口とは、「責任の所在を判らなくさせてしまおう」という動機から考え出されてくるものらしく、そうした中で、「いつでも自分たちの恣意的な判断や裁量を差し挟めるようにする」、というものだ。いずれも、結局のところ、「だれにも気付かれないよう、こっそりやってしまおう」という意図に基づくものだ。

 ではどうやってこっそりやるかと言えば、「意図的に内容をわかりにくくする」方法がもっともよく使われる手だという。

具体的には「いくつにも分ける」、「小出しにする」のだ、と。文書を出すにしても、一つの文書として一度にまとめた形で表に出してしまうと、多くの人にすぐに自分たちの意図を悟られてしまうので、「あえて内容をバラし」て、「バラした内容を複数の文書にちりばめ」、なおかつ「発表時期をずらす」のだ、と。

 だれにも気づかれないよう、こっそりやってしまう他の方法としては、「具体的に何をするかはその時点では明記しないで曖昧にしておく」、そしてさらに、「曖昧にしておいた目的をその後、さりげなくすり替えてゆく」のだそうだ。

 官僚が外に向けて書くあらゆる文書についても、そこに用いる用語については、それを読む国民には細心の注意が要る、とその先輩官僚らは注意を促す。

 たとえば憲法が「国権の最高機関」と明記する国民の代表が集う国会においてさえ、そこで各政党代表が閣僚に質問した際の官僚の代筆する答弁書の文章に使われる用語についても、本音は決して表に現れないようにして、かつ官僚のシナリオどおりに滞りなく議事が進行するようにと、次の意図が込められていると言う。

 例えば「前向きに」という用語が使われた場合には、遠い将来には何とかなるかもしれないという、やや明るい希望を相手に持たせるためだという。「鋭意」は、明るい見通しはないが、自分の努力だけは印象づけたいときに使う。「十分」は、時間をたっぷり稼ぎたいという時に使う。「努める」は、結果的には責任を取らない、取るつもりがないときに使う。「配慮する」は、机の上に積んでおくことを意味すると言う。「検討する」は、実際には何もしないこと。「見守る」は、人にやらせて自分では何もしないこと。「お聞きする」は、聞くだけにして、何もしないこと。そして「慎重に」は、ほぼどうしようもないが、断りきれないときに使う。だが実際には何も行われないということを表わすのだと言う。

 官僚が作る文章中に置く「等」という文字についても、こう注意を促す。

「・・・・等」をつけることによって、内容をまるっきり変えてしまうのだ、と。

だから、「等」を付けてあったなら、その前に書いてある内容以外に、もっと重要なことがある、あるいは、これまでの文章には書いてないけれど、こういう運用をします、と言っているんだ、と深読みしなくてはいけない、と忠告する。

 要するに、官僚たちの国民に対して用いる常套手段とは、物事の真実は知らせないようにする、あるいは全貌は知らせないようにする、知らせるにも明確には知らせない、あるいは、一義的には判断も解釈もできないようにしてしまう、というものだ。あるいは物事がいつの段階で、誰によって、どのようにして決まったのか、その過程をも判らなくさせてしまうというものだ。

 住民からの質問にも、住民は役人から見れば主権者であり、自分たちはその主権者に対する「全体の奉仕者」であることは言葉では知っていても、不都合な問いには一切答えない。もちろん住民からの文書による、回答を文書で求める質問にも、“そのような答え方をしたことは前例がない”として、文書では絶対に答えない。答えるにしても、本来の公文書としての体裁を整えない、例えば誰が発行したのか、いつ発行したのか、を敢えて不明にする。しかもその場合も既述のような官僚用語を駆使して表現する。

 これがこの国の官僚および役人の公務を行う時の常套手段であり、こうすることが組織内では暗黙の取り決めとなっているのである。

 ここから私たち日本国民は次のことを心に留め置き、官僚に相対するときには、常に教訓としなくてはならないのだ。

 それは、こういう考え方や生き方そして価値観や人間観を持つ官僚が事務次官連絡会議を経て次々と閣議に提出してくる法案・政策案・予算案は、彼ら官僚たちが二重人格あるいは多重人格ででもない限り、真の意味での国民の幸せや国民個々人の人間的成長や暮らしの安心、学校教育の向上を優先したものであることは決してないということだ。むしろそこには、彼ら官僚や官僚組織の既得権益を維持あるいは拡大を画策する意図が決まって隠されているのだ、と。それだけに主権者である私たち国民は、彼ら役人を、またその組織を、決して信用してはならないと。

 また、それだけに私たちから選挙で選ばれた私たちの利益代表である政治家にしても、彼らは政策案や法律案そして予算案の作成を決してそうした狡猾な官僚たちに任せてはならず、自分たちが選挙の時に国民に約束した公約に基づいて、その公約を果たすために、常に自分たちの秘書を動員し、あるいはそこに関係分野の専門家の助言をも仰いで作り、作ったそれを国会に上程しては国会にて議論し、自分たちの力で立法しなくてはならないのだ、と。

 そうやって法律の裏付けを持って公式の政策や予算となったそれらを、今度は執行機関である政府が、その内閣で、それらの執行方法について議論して閣議決定し、決定した方法に基づき、総理大臣の総指揮の下、各府省庁の大臣は配下の官僚を絶えずコントロールしながら国会が議決したことを執行させ、また彼らのやっていることを絶えずチェックもし、必要に応じて彼らには国民への説明責任を果たさせなくてはならないのだ、と。

 つまり、もはや官僚の秘密主義、独善主義、独裁主義、おごり等々は一切通用しない、ということを私たち国民が官僚に敢然と示すべきなのだ。彼らはあくまでも「国民のシモベ」でしかないのだと。

 

 私は先に、とは言ってもそれは拙著の目次上のことで、まだ本ブログでは公開はしていないが、その(2.5節)では、私たちが住むこの八ヶ岳南麓地域の自然を大規模に破壊しながら貫通する形で国土交通省の官僚たちが既述してきた狡猾な手口を駆使して実現を画策する「中部横断自動車道」問題、特にその「北部区間」の建設の是非を巡っての、私たち地域住民と国土交通省の官僚たちの組織を挙げての闘争について、詳述している。

 そこで見せた国土交通省の官僚たちがとった手口は次のようなものだった。

ただしその前に明確にしておかねばならない重大なことは、この事業については、担当の国交大臣には大臣としてその義務も使命もあったはずなのに、配下の官僚をコントロールもせず、官僚たちのやっていることの合法性や妥当性をチェックもせず、事態の成り行きの全てを官僚に放任したままであったことだ。

① その「中部横断自動車道」の中の、特に「北部区間」と呼ばれている区間の建設については、国会は事業の着手を未だ議決もしていないのに、あたかも「建設あり」を前提とした態度で、住民に臨んだこと。

国会が議決せず承認していないということは、言い換えれば国民全体がこの事業の着手を未だ合意していないということであって、したがって国民のお金である税金を使うことは許されないはずなのに、それを当たり前のように使って、ということである。その行為は税金の横領でしかないのである。他人のお金を使うことをなんとも思わないのである。

② しかも彼らには、行使することは許されていない権力、というよりは「公僕」という立場上、もともと彼らには与えられようもない権力を次々と乱用しては、それを自分たちの野心を貫徹するために行使してきたこと

そのうちの1つが、例えば全戸配布して「住民アンケート」をとるという権力の行使。

その1つが、関係住民を集めては「地元説明会」を開催し、そしてそれを仕切るという権力行使。

その1つが、あっちこっちに自分たちに好都合な意見をし、また答申をしてくれる専門家や地域住民を集めては様々な委員会を組織して立ち上げては、「中部横断自動車道」「北部区間」の事業については「建設あり」の雰囲気を醸成して行ったこと。

例えば「関東地方小委員会」がそれだし、「中部横断自動車道活用検討委員会」がそれだ。

しかも、それらの各種委員会の委員長あるいは座長には、あらかじめ自分たちの要求通りに動き、委員会をまとめてくれる者として、「権威」を装って、共に国立大学(東北大学山梨大学)の教授を選任していたこと

もう1つは、最初のアンケート結果で関係住民の7割から8割はその事業には反対だとの結果はすでに判明していたのに、それを全く無視して、幾度ものアンケートを取るという権力行使を続けたこと。

 私たち関係住民が総意として反対した理由は、八ヶ岳南麓の自然が大規模に破壊されることを心配したからであり、国道141号線という道路が官僚たちが実現を画策するその「北部区間」にほぼ沿って既にあるからだ。

そしてさらにもう1つが、いわゆる中央政府の府省庁から地方政府の関係部署へと、縦に組織構成されるいわゆる「縦割り制度」のフル活用だ。この縦割り制度には何の法的な裏付けがあるものではなく、全く慣行にすぎないものなのに、である

具体的には、国交省の本省→関東地方整備局山梨県への国交省出先機関である「甲府河川国道事務所」→山梨県庁の県土整備部の高速道路推進課→北杜市役所の建設部の道路河川課へと続く組織の縦割りのフル活用だ。その流れの中の役人を、国交省の官僚たちは思うように動かすという権力行使をしてきたのだ。

また動かされる役人たちも、「自治体」の職員としての矜持も感じられなければ、恥の感覚も微塵も見られないままに動くのである。かつて話題となった「官官接待」を彷彿とさせるのだ。

③ そもそも、公共事業における新しい試みとして官僚たちが設けたと彼らが言う「計画段階評価」であるが、それも、結局は自分たちの野心を貫徹するための住民をごまかす手段でしかなかったことだ。実際、その「計画段階評価」なるものは、当初私たちが説明を受けた趣旨とは全く異なるものだったからだ。次々と「言うこと」を変えていったのである。

 

 また、前回公開した13.13節の中で明らかにしてきた、「森友学園」事件において、赤木俊夫さんの奥さん雅子さんへの財務官僚たちの対応、また、名古屋入国管理局で理不尽な死に方をしたウイシュマさん事件で法務官僚たちがウイシュマさん遺族に対して見せた対応の冷酷さ、非情さも、上記「現行の官僚と官僚組織の実態と特性」を裏付けると言えないだろうか。

 カレル・ヴァン・ウオルフレンは官僚のこうした側面をこう指摘する(カレル・ヴァン・ウオルフレン「なぜ日本人は日本を愛せないのか」毎日新聞社p.208)。

“自らの非人間性を理解できない官僚が最も邪悪な非人間的行為を犯し得る”と。

 かと思えば、自分たちの組織のトップである大臣(閣僚)が国民に成り代わってきちんとコントロールもチェックもしないことをいいことにして、役人だけが「幸せ」になれるよう、国民のお金を勝手に使えるようにしては自分たちの待遇改善だけを図っている実態も、それを裏付けている(週刊現代の「役人だけが幸せな国」平成28年5月28日号p.40〜54と、週刊ポストの「『老後』も『再雇用』も役人はこんなに優遇される〈「75歳まで働け」政策の正体〉」平成29年9月22日号p.28〜32)————もっとも、官僚たちが国民の納めたお金をこうした自分たちの待遇をよくすることだけに使うということがまかり通ってしまうのも、結局は、国政レベルの政治家(国会議員、中央政府の首相と閣僚)の誰も、国民から選ばれた国民の利益代表でありながら、「国民のシモベ」である官僚とその組織をコントロールもしなければ、官僚のやっていることを国民に代わってチェックもせず、全てを官僚に放任しては官僚たちが全員合意の上で提出してきた案件を、閣議で、首相以下閣僚たちがわずか15分かそこらの時間で、盲判を押しては「閣議決定」しているだけであることの何よりの証拠なのだ。つまり現行の政治家たちは、超巨額の議員報酬を手にしながら、ここでも国民には全く役に立ってはおらず、むしろ官僚独裁や「官尊民卑」を助長しては自国民の活力を奪っているのだ————。