LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

7.3 社会(≠国家)が「安定」しているとはどういうことか

 今回も、これまで、未公開のままできた節について、公開します。

 

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7.3 社会(≠国家)が「安定」しているとはどういうことか

 政治家、とくに安倍晋三などは“平和と安定”とか、“政治の安定”いう言葉を決まり文句のようによく使う。

しかし彼は、その「安定」とはどういうことを意味するのかということについては、一切説明したことはない。ただ抽象的に言っているだけだ。

それだけにそれを聞かされる私たち国民の側にはとってはその意味がはっきりせず、「なんとなく」といった程度にしか理解できない。具体的にはどういうことなのかよく判らない。そしてよく判らなければ、安倍晋三の言ったことが国民に正確に伝わったことにはならない。

 しかしこのことは何も安倍晋三と国民との関係に限ったことではない。全ての政治家と国民との関係において言えることだ。

 ただ、何れにしても、こうした言動から、安倍は、それ以上のことは考えていないことがよく判る。というより、彼はTVカメラの前でも、国会答弁でも、原稿を見てペラペラよくしゃべるが、それだけに、発せられるどの言葉も軽く、聞いていて心に残る言葉、心にしみいる言葉、尤もだと納得させられる言葉というものは全くといってない。つまり言葉というものをつねに最も大切にしなくてはならない政治家が、そういう言葉しか語れないというのは、人間そのものが軽いのだ、と言っていいように私は思う。

 ところで、ではその安定についてであるが、国家についてではなく、社会が安定しているとはどういうことであろう。

私たちは、とくにこれからは、おぼろげながらも、そうした社会を目ざす必要があると考えられるのであるが、ここでは、そのことの意味をはっきりと考えてみようと思う。

 振り返ってみると、私たちは「安心」とか「安全」とかいう言葉はよく使う。

たとえば、安心については、“安心できる食べ物が欲しい”、“地震が来ても倒れない家であれば安心だ”、“あの人がいると安心だ”、といった具合に。

安心とは、その言葉の中に「心」が含まれていることから、人間の心理状態や心情に関して言う言葉なのであろうが、果して人のどういう心の状態を言うのかとなると、辞書には「心配・不安がなく、心が安らぐこと」、とあるだけだ。

 また安全については、“食べ物は安全であって欲しい”。あるいは“交通規則が守られないと安全が確保されない”、あるいは“日米安全保障条約”、というように用いられる。

辞書的な意味としては、安全とは、「安らかで、危険のないこと。物事が損傷したり、危害を受けたりするおそれのないこと」、とある。

 しかし、言葉の意味を知ることだけが目的ならそれでもいいだろうが、現実の暮らしの中で、あるいは現実の社会において、人々が安心して日々の暮らしを維持できる社会を築くための制度や政策を設けようとするような場合にはそれでは不十分だ。安全についても同様だ。

なぜなら、その説明だけでは、では具体的にはそれを実現する制度や政策はどのように考えて設ければいいのか、としたときにはほとんど役には立たないからだ。

 そこで私は、「安心」という心の状態を、辞書的なレベルの説明を超えて、こう考えるのである。

「自分が何者で、その自分は、いつ、どこから、どのようにやって来て、今どこにいるのか、そしてこれから自分はどこに向おうとしているのか、あるいはどこに向えばいいのか、を自分で明確に認識でき、しかも、そうした自分をしっかりとつなぎ止めてくれるものがそこにあると確信できるときに、自分の中に生まれる心の有りようのこと」

 ここで言う「つなぎ止める」とは、ただ単に空間的にだけではなく、また時間的にだけでもなく、精神的にも、である。また、「どこから」「どのようにやって来て」についても、「今どこにいるのか」についても、空間的な位置だけではなく、時間的な流れ、つまり歴史の流れの中での位置をも含める。

 だから、上記のように説明される心の有り様を、社会を構成する人々が共通に持てるような社会が実現されたならば、その社会こそが、人々に「安心」をもたらす社会、人々が安心を感じられる社会、ということになるのではないだろうか。

 一方、「安全」については、辞書的なレベルの説明を超えて、私はこう考えたい。

「そこにはそれがあるべきと自分が思う物がそこにそのとおりに備えられていたり、あるいはそうあるべきと自分が思う状態がそこに備わっていることにより、自分の身体も心も傷つけられたり危害を受けたりすることはないと確信できる状態にあること」

 そしてこの場合も、上記のように説明される心の有り様を、社会を構成する人々が共通に持てるような社会が実現されたならば、その社会こそが、人々にとって「安全」と感じられる社会、ということになるのではないだろうか。

 しかし、安心をもたらす社会とは、人々が安全と感じられる社会とはどういう社会か、ということを問題とするだけならそれでいいが、本節で問題としているのは、「社会が安定している」とはどういうことか、なのである。

 

 ではそれはどう考えたらいいか。

この場合も、安定については、たとえば、“最近は気候が安定していない”、“物価が安定していてもらわないと困る”、等々と使う。

しかし、「安心」や「安全」の場合と同様に、この場合も、現実の暮らしの中で、あるいは現実の社会において、「安定」とはどういうことか、そして社会が具体的には何がどうあることなのかとなると、辞書的な意味だけではやはりとても足りないし、それでは大して役にも立たない。

 ともかく辞書的には、安定とは、「物事が落ち着いていて、激しい変化のないこと」、とくに物理的には、「物体の釣り合いや運動の状態が、わずかな乱れを(その物体の内外から)与えられた時に、元の状態に戻ろうとする性質を持つこと」と説明され、化学的には、「物質が分解・反応・壊変しにくいこと」と説明される(広辞苑第六版)。

 このことから判ることは、安定とは、これまでの安心や安全といった心の状態とは違って、物事や物体あるいは物質の状態・有り様について説明する語だということだ。

つまり、「安定」という概念は、そのモノの外部から、あるいは内部に、何らかの力や撹乱が働いた時に、そのモノ自身が内部に持っている性質に基づいて、あるいは周囲との関係において、元あった状態に戻ろうとする性質の有無について言うものらしい、ということが判る。

 では、社会が安定しているとは、もう少し具体的にいうと、どのような状態のことと考えられるか。

その場合、いつでも注意しなくてはならないことは、あるいはどんな場合もつねに言えることは、元あった状態に戻ろうとすることあるいはそうなろうとする性質をもって「安定」とは言っても、既述の《エントロピー発生の原理》が教えてくれているように(第4章)、一般には、そして厳密には、自然(現象)あるいは社会(現象)はつねに不可逆だということである。

だから、元あった状態に戻るのではなく、戻ろうとするだけのこと、あるいは元あった状態を維持しようとすることで、厳密にはこう言い換える必要がある。

どんな物事や物体あるいは物質の状態も、あるいはどんな自然や社会の状態も、その内外から作用が働けば、その作用の大小に無関係に、その物事や物体や物質、また自然や社会の状態も、厳密に言えばその内部での状態を必ず変え、性質をも変化させ、そしてその間にエントロピーは必ず発生するため、元の物質や状態に戻ろうとすることはあっても、完全に戻ることはなくなる、と。

 こう考えると、このことは、とくに政治家が「社会の安定」を口にするとき、つねに念頭におかねばならないことだと私は考える。

何故ならば、いつでも、いい意味で、あるいはいつでも、健全な意味で社会は進歩し発展して行くことを願う私たち国民としては、安定という言葉や概念は、本当は用いるに相応しくないものだとなるからだ。

 したがって、このような場合、用いるべき言葉は「社会の安定」ではなく、「社会の進歩」となるべきであろう。

 ところで、官僚、あるいは一般にテクノクラートと呼ばれる人々、さらには自民党政治家や政府の官僚、それに経団連や日経連などの主要経済団体の官僚といった権力保持者は、現状維持をつねに望むものだ。

そもそも官僚主義とは、全体の運営に関する重要な問いはもうすべて出揃っているという前提から出発し、現状を固守するために、既存の政策を細かくモニターし、調整することこそ、良き統治の要諦だと信じている人々のものの考え方であり生き方のことだ。

つまり、様々な事情や状況の変化を踏まえた分別ある判断に拠ってではなく、確立された公式———その中には「マニュアル」、「前例」等も含まれる———を適用することによって意思決定が行われ、手順がつくられて行く。

したがって、組織の官僚主義化が進むと、往々にして当初の目的が忘れられ、目的の本来の存在理由が見失われる。つまり官僚主義的な組織は、時間が経てば経つほど、走ること自体を目的に走るマシーンに似て来る(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないのか」p.157)。

 このことから判るように、社会の安定は、官僚ないしはテクノクラートといった権力保持者にとってこそ願ってもない状態だし、「社会の安定」なる言葉は彼らにとって大歓迎の言葉なのだ。というより、「社会の不安定化」は彼等官僚にとっては恐怖だし、「安定」とか「秩序」が保たれることこそ彼らにとっては強迫観念なのだ。

 かつての悪名高き「治安維持法」も、そしてこのほど安倍晋三政権の下で強行可決成立させた憲法違反の「共謀罪」も、根っこは共通にこの強迫観念に拠ると見ていいのではないか、と私は思う。

 そういう意味で、もはや政治家は、少なくとも国民の利益を代表しているという自覚があるのなら、そしてこの国と国民の真の進歩と発展を図ろうとするなら、「安心」や「安全」はともかく、「安定」という用語は不用意に用いるべきではなく、むしろ「変化」や「変革」に力点を置いた「社会の進歩」なる表現を用いるべきなのではないか、と私は考える。

なぜなら、今言ったように、安定は進歩や発展を押さえ込んでしまう概念だからだ。

 

 これまで私の拙著では、私たち日本国民に限らず、人間にとっての最高の価値は「幸せ」であろうと前提しつつ(4.3節)、今私たち日本国民が暮らしているこの社会はその価値観を満たしうる社会となっているかという問題意識の下に、そのような社会の実現を目指して、私の考えられる限り、より根源的立場から、どうすればそうした社会の実現は可能となるかと、考察を進めてきた。

今、ここで「安心」や「安全」について考察してきたことも、上記問題意識の流れに基づくものである。

 しかし、残念ながら、私たちの国日本の社会は、いっときは「世界の経済超大国」とはなっても、国民がおしなべて「幸せ」を実感できる社会になり得たとは到底言い難い。「世界の経済超大国」となった時でさえも、である。

 それは、既に記してきたように、第1には、国民の代表であるはずの政治家という政治家が無責任・無能・無策・無知・怠惰であるがゆえにであり、第2に、本来だったらその政治家によって公務をコントロールされるべき「全体の奉仕者」=「公僕」たる官僚(役人)たちは、政治家たちのその自国民に対する不忠をいいことにして、明治期から受け継がれてきた狡猾・非情・冷酷という組織の記憶の下に、国民の「幸せ」などそっちのけにして、所属府省庁の既得権の維持と拡大のためのみに、恣意と専横と独善をほしいままにし続けているからだ、とほぼ断定できる。

 それだけではない。歴史的にも、私たち日本国民は、どこからどのような経路を経て今の「日本国」の地理的位置にやって来て、いつ、その「日本国」ができて「日本人」となったのかも政府からも知らされず、また学校でも教えられず、しかも今、「日本国」や「日本国民」は歴史の流れの中のどこにいるのかも知らされてもいないし、政治的にも経済的にも世界の中でどういう位置を占めているのか、そしてこれから「日本国」や「日本国民」はどこへ行こうとしているのか、それも教えられてはいないからだ。

 そこでは、私たち国民は、いつも官僚からはウソばかり教えられ、ウソの歴史観を身に付けさせられてきた。だから、国民のほとんどが、正しい歴史認識と自己認識を持てず、自身のアイデンティティも持てず、自分の原点、民族としての根源を見出せなくなっている。つまり自分を掴めないままただ漂流しているのである。

そして私たち国民自身も本音と建前を使い分け、嘘の説明をお互いがみんなで受け入れる社会を作って来てしまったために、信じられる確たるものを未だ見出せないままなのだ。

そこに、安心や、安全など、感じられるはずはない。

 

 安心も安全も感じられなくなっている理由はさらにある。

人間にとっての人格形成の最も重要な時期に、「何のために生きるのか」、あるいは「生きる意義と目的とは何か」をきちんと教えられることなく、「個性」も「能力」も「自由」も尊重されることなく、それらを「考える」余裕すらも与えられず、ひたすら「画一化」という土俵の上で「記憶した知識の量」を確かめるためだけの「競争」を強いられて教育されてきてしまったことだ。

 そこでは、とにかく、秩序の前にまず正義が大事とは教えられなかった。対立したり闘ったなら「自分が損だから」と教えられ、不条理と感じても自分の意見や思いを訴えることは「波風を立てて和を乱すことだ」と教えられてきた。真実を問い、本音で議論することを一人ひとりが避けては自己規制するようにも教えられて来た。

 その結果、互いに人間として深く理解し合うこともなく、常にうわべだけ。だから人間相互の深い信頼関係も築けずに、「社会の進歩」を目指してみんなで一致協力し合うこともできず、内外からの撹乱に耐えうる確固たる社会共同体も作れないままで来てしまっている。

 そこで言う本物の社会共同体とは、お互いが多様で自由であることを当然のごとくに認め合え、しかし誠実を尊び、互いに信頼し合え、助け合え、不条理に対してはいつでみんなで立ち向かうことができ、また周囲もそれに連帯して協力し理解し合え、困難や難問をみんなで解決して行ける社会のことだ。つまり思いやりや共感に包まれた社会のことだ。

 

 私たち日本国民の圧倒的多数は、今や、この国のこの社会に対して、次のような実感を持っているのではないか。

 ————ひとたび社会的弱者になれば、それまでの「豊かさ感」などは一瞬にして吹っ飛び、放置されたままになって落伍者にされてしまう社会。それに、税金を納める義務を果たしても、それは一向に報いられず、実質的にはほとんど全てを自分で対処して行かねばならない社会。そのために、言いたいことも我慢し、ひたすら万一に備えて今をきり詰めなくてはならない社会。

 私は、外からどのような揺さぶりを掛けられようとも、また外からどのような力や撹乱が降り掛かって来ようと、また内部ではどんなに多様な意見が出て来てそれらの間に対立が生じようとも、それで根幹や屋台骨が揺さぶられてしまって、全体が「安心」を失ったり「安全」を失ったりすることなど決してない社会のありようとは何か、を本書の中で具体的に模索し続けたいと思っている。