LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

7.2 日本という国を本物の「国家」とするために

 

 

 

 

 

 今回も、これまで未公開のままできた節を公開します。

 

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7.2 日本という国を本物の「国家」とするために

 「日本という国を本物の『国家』とする」、これは拙著の副題としても掲げた重要主題である。

では、なぜ私たち日本国民はこのことを真剣に考えねばならないか。それも、今こそ。

それは、一言で言えば、この国を本物の国家と成し得なかったなら、来たるべき人類にとっての全般的危機に直面した時、特にこの日本という国と国民は、為す術もなく、惨めな末路を迎えざるを得なくなる、と私は危惧するからだ。

その意味を具体的に言えば、例えばある国が見せかけだけの国家であって本物の国家でなかったなら、その国の国民の全体あるいは一人ひとりにとって、その生命と自由と財産の安全が脅かされる重大事が発生した時、国民がどんなに政府に、今すぐにも助けに来て欲しいと声を上げても、それは叶えられないままで終わってしまうか、叶えられても対応が遅れに遅れて、無意味に多くの生命が失われてしまった後、ということになりかねないからだ。

逆に言えば、その国が本物の国家であったなら、そういう時も対応は素早く、犠牲は最小限に抑えられるようになるからだ。

 もちろん国が国家となるとはそれだけに限らない。物事や社会的諸制度、さらには法律法的制度がその運用において、曖昧さや恣意性が排除され、あらかじめ決められた手続に従って行われるようになり、その意味において、国家とは、すべての国民にとって日常においても非常時においても、最も頼りにできるものだからである。

 そうした理由により、国家こそ、人類が歴史において生み出した、国民の安全を保障する最高傑作としての装置とされるのである。

 そして日本という国を本物の国家とすることが是非とも必要なもう1つの理由は、この日本という国は、実際のところ、見かけは国家でも、今もって本物の国家となり得た試しもなければ、今もなお国家とはなり得ていないからである。

 このことについては、私たち国民がこれまで幾たびか経験してきた、その時点では、メディアが、「前代未聞」とか「前例のない」とか「1000年に一度」といった表現をしてきた国民的大災難・大惨事の際、この国の中央政府も地方政府も、被災者に対してどういう対応の仕方をしたか、また被災者が望むどういう対応をしなかったかを思い浮かべてみてもらえば明らかではないだろうか。メディアはこの国の統治体制の真実を直視しようとはせずに、その都度「初動態勢の遅れ」という言い方をしては、この国が国家ではないという真実をごまかしてきたのである。

 ところで、これは既述もしてきたが(2.6節)、ここでも改めて国と国家の違いを明確にしておかねばならない。それは、今なお、両者は混用されるからであり、また両者は本質的に異なるものだからだ。

 両者の違いはたとえば英語で表わせばはっきりする。

国とは「nation」と表現され、国家とは「state」と表現されるからだ。

具体的には、国とは、国民、国土、共通の文化、共通の言語、宗教、気候風土、芸術、民芸、工芸、社会に深く染み込んだ慣習であって、法律には縛られない諸要素から成り立っている。また時には“あなたのお国にはどちらですか”という言い方もあることから判るように、国とは郷里、故郷という意味をも含む。そしてこれらのいずれにも共通することは、「中枢」が存在しないということだ。他方、国家は、民主主義、権利、憲法、一般法、議会、政府、司法、政治家、役人、権力、統治、法の支配、法治主義等々、法律や法的な根拠を持つ制度によって出来ている、したがって中枢の存在する統治体である。

 そして国家とは、幾度でも引用してきたように、「社会の構成分子であるあらゆる個人または集団に対して、合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合された社会」(H.J.ラスキ「国家」p.6)、あるいは「政府を公式に代表し得て、政治的説明責任の中枢が存在する国」(カレル・ヴァン・ウオルフレン「システム」p.79)として定義される。

なお、国家という概念を正確に理解するにはこれだけではとても足りない。

その国が国家であるためには、一人ひとりの市民に代わって、あるいは市民を代表する議会によってなされた決定を実行する中枢としての統治権力の存在が不可欠となる。そうでなかったなら、国のあらゆる政治機構は、たとえそれらがあったとしてもアイデンティティの中核を持たないことになるからであり、その場合には“その国は国家ではない”、となる。

また国の中枢としての統治権力は、国の権力システムの中核ともなり、それは、国家の頭脳として国内のあらゆる政治勢力の最終的な調停者となる。

 だからこそ国家は、国の構成員であり、政治的人間でもある私たち国民一人ひとりを社会から守ることのできる、唯一の中立的存在となるのである。

 またこうした事情からも判るように、国において、必要とあればすべての市民を代表して発言する能力を持つ人物もしくは集団が存在し、その人物または集団によって代表され得る場合にも、その場合に限ってその国は国家であると言うことができるのである。例えばリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーはドイツにおけるそうした人物だった(カレル・ヴァン・ウオルフレン「なぜ愛せないか」p.250〜251。また、拙著5.3節のヴァイツゼッカー大統領演説「荒れ野の40年」(岩波ブックレットNO.55)を参照)。

 こうして、私たち国民が安心して安定した暮らしを営んでゆきたいと思ったなら、国を国のままにしておかずに、必ず国家を実現しなくてはならないのである。

 ところがこの国では、メディアの人間は言うに及ばず、政治家や政治評論家、政治ジャーナリストそして政治学者という日々政治に携わる人々でさえ、見ているとしょっちゅう国と国家を混同し、また混用する。

というより、まるで気まぐれに両者を使っているようにも見える。

 このようなことでは、この国はいつまで経っても本物の国家となり得ないのも当然と言えば当然なのだ。

 

 では、どうして、この国は上記のように定義される国家を築けないのか。

 その最大の原因は政治家にある。政治家という政治家にある。

政治家が政治家としての役割を果たさずに、既述してきたとおりの体たらくそのものの状況だからだ(2.2節)。政治家が政治家として為さねばならない最大の役割と使命は全く果たさない。

 その意味は、国会を含む議会という議会の政治家も、中央と地方の政府という政府の政治家も、共通に一言でいえば、国家を運営する、ということをしていないことだ。

 これを具体的にいえば、議会においては、日本が国全体または地方として抱えている緊急に解決させなくてはならない数多くの最大の課題の解決からは目を背け————そうした課題を公約に掲げないことをも含む————、やらなくてもいいようなこと、あるいはやってはならないことばかりやっていることだ。

やらなくてもいいこととは、例えば、税金を使ってはしょっちゅう地元に帰り、地元の行事に参加したり、地元民の冠婚葬祭に祝電や弔電を打ったりして売名行為をしたり、あるいは地元民の要望に基づいて役所に口利きをしたりすることだ。やってはならないこととは、近代西欧が歴史の中で掴み取った三権分立という政治原則を議会という場において平気で破っては、議場に行政機関である政府側の者を招き入れては、その者たちを最前列の一段と高い位置に侍らせることをなんとも思わずに、その彼らに向かって立法ならぬ、全く儀式としての質問をしていることだ。

 他方、政府においては、民主主義社会においては最高の権力を持つ議会が決定したことを官僚(役人)たちをコントロールしながら執行して統治に当たるという役割を果たさないことだ。果たさないどころか、むしろ選挙で当選した時に主権者から付託された公約を実現するための権力を「国民のシモベ」でしかない官僚たちに丸投げしては、政策案を含む法案や予算案の作成を官僚たちに放任し、彼らに追随して操り人形と化していることだ。

 なぜ彼ら総理大臣や各府省の大臣が官僚たちの操り人形と断定的に言えるか。

その根拠は少なくとも3つはある。

1つは、メディアの前で、ということは国民の前で、何かを語るときには、決まってと言っていいほどに、目線を下に落として官僚の書いた文章を読んでいるだけで、自分の言葉では語れていないことだ。もう1つは、これは彼らの発言の仕方とその時の文言に注意して聞いていただければ判るとは思うのであるが、必ずと言っていいほどに、最後の締めくくり方を「・・・・・と思います」としていることだ。ここにあるのは「願望」だけで、それが実現されるかどうかは自分でも判断できないとする、自分の発言に責任を持とうともしない姿だ。

 ではなぜこういう言い方になるのか。それは、結局のところ、総理大臣も、各大臣も自分の役割や使命が本当は判っていないからだ。すなわち、本来、総理大臣も各府省庁の大臣も、主権者である国民から選挙で選ばれた国民の代表であり、一方、官僚は国民の代表ではなく、むしろ憲法第15条が明記するように、国民に仕えるべきとされる「国民のシモベ」なのであるから、その主従関係を考えれば、国家の運営にあたっては総理大臣も各府省庁の大臣も次のように動かなければならないということが本当は判ってはいないのだ。

それは、まず総理大臣が執行府の長として閣僚全員に対して、実現させるべき事柄と期限と目的を含む戦略を明示して指揮する。次に、総理大臣に任命され役割と使命を与えられた各府省庁の大臣は、その指示された戦略に基づいて、各府省庁の大臣は、互いの垣根を取り払って互いに連携しながら各府省庁として担うべき内容を戦術として互いに確認し合いながら、各大臣は自分の配下の全官僚に対して、例えば、こう指示あるいは命令を発するのだ。

“総理大臣はこういう方針を国民に示し、こう言っている。したがって、当府省庁としては、あなた方には、いつまでに、コレコレしかじかのことを、確実に実現あるいは達成してもらいたい。ただしその際、執行方法について建設的な意見や考え方がある者は、いつでも私に言ってもらいたい。それについては前向きに考慮する”と。ただしその場合、もちろん各大臣は、その後も、自分が指示命令を発した通りに官僚たちが動いているかをも、国民に代わって絶えずチェックし続けていかなくてはならないのである。そしてその過程で、国民が疑問に思ったり疑惑を感じたりした場合には、各大臣は配下の官僚たちには、国民に向かって、“自分たちが、今、これをしているのは、こういう理由により、こういう目的のためである。またあれをしないのは、こうした理由のためである”と、国民が納得するよう説明責任をも果たせ、とも指示しコントロールしなくてはならないのである。

 ところが、実際には、総理大臣も、閣僚も、官僚たちに対してこうした姿勢を政府内で貫き通す勇気も決意も、また政治的知識もない。

結局のところ、国民を裏切ってまでし、また民主主義をも裏切ってまでして、国民から負託された委譲することが許されない権力を官僚たちに丸投げし、彼らの言うことに従った方が楽だとして、決まって “・・・・・・・、と思います”といった無責任な言い方しかできないのだ、と私は推察する。

 そして3つ目は、ある一つのテーマについて、各府省庁の大臣の言うことが微妙に異なったり、全くバラバラであったりすることだ。そうなるのは、この国の政府の各府省庁の関係は「縦割り」となっていて、互いに横の連絡もなく全くバラバラだからだ。それぞれの府省庁に属する官僚たちは、専管範囲の産業界に対して権力拡大と「天下り」先の確保を含めた既得権益の維持にしか関心がない。そうなれば、官僚たちが表向きの大臣にメッセンジャーとして語らせる内容は必然的に他の府省庁の大臣の発言内容とは異なるのである。

 

 なお、政治家たちが予算案づくりを官僚に放任してしまうことについては、実際のところ、民主主義を標榜している先進工業国で、政府が使う金の額とその入手方法が、選挙で選ばれていない官僚たちによってすべて決定されているような国は、日本以外どこにもない。それ以外の国はどこでも、これらは選挙で選ばれた政治家によって、少なくとも大部分、決められているのだからだ(カレル・ヴァン・ウオルフレン「システム」p.238)。

それだけではない。国民から選ばれた主権者の代表としての政治家としては決してさせてはならないこととして、配下の官僚たちが本来彼らには与えられてはいない権力を闇で行使したり、法に基づかない権力を恣意的に行使したりしていることを、知って知らない振りをし、見て見ぬ振りをしていることだ。その結果、この日本という国を未だ民主主義の実現し得ない、官僚独裁の国にしていることだ。(カレル・ヴァン・ウオルフレン「なぜ愛せないか」p.280)。

 政治家という政治家がこんな体たらく状態なのだから、この国にはドイツにおけるヴァイツゼッカーのような人物ももちろんいるわけもない。そしてこれでは、この日本という国を統治体制の整った国家とすることなど夢のまた夢とならざるを得ないのである。

 

 ところで、ではなぜ政府の政治家は役人をコントロールすることが義務となるか。

 そのことは例えば、次のような比喩を考えれば判りやすいのではないだろうか。

大きく立派な館の主人に仕える「執事」とも呼ばれる「シモベ」は、常に主人の指示を受けながらそれを自分の務めとして果たすことで、大きな館の人々は、混乱もなく、安定した日々を送れるのである。もし、執事が自ら、為すべきことを自分で判断して動いたならどうなるか。たちまち館内での主従関係は崩れ、館内の秩序は乱れて、大混乱に陥ってしまう。

 政治家と役人との関係もこれと同じである。

政治家は、国家の主権者=主人公である国民から選挙によって選ばれた主権者の政治的代表あるいは政治的代理であり、それに対して役人は、国民から選ばれた国民の代表ではなく、官吏すなわち役人としての適性を試される試験(公務員試験)に合格した人々であり、それだけに、役人は、国家の主権者=主人公に仕える「シモベ」でしかないのであるからである。

ただし、間接民主制のもとでは、政治家が主権者の代理であるからして、役人は常に政治家の指示とコントロールの下で公務を行わなくてはならないのである。

もちろんその場合、シモベとは、身分や階級を意味するものではなくシモベとしての使命を使命として負った立場を意味するものでしかない。

 だが、国家においては、この関係は厳格に維持されねばならないのだ。

なぜなら、そうでなかったなら、民主制は崩れ、統治の体制は保てなくなり、国は国家として機能し得なくなるからである。そうなれば、特にイザッ大惨事という国難のとき、政府は国民を救済するどころか大混乱に陥って無政府状態、つまり統治の利かない状態となり、却って危機を一層深めてしまうからだ。

 

 では、私たち国民は、主権者として、どうしたら政治家に対して、これまでの官僚独裁を撤廃させて民主政治を実現し、またそれを維持するために、国民の代表として官僚(役人)に指示を与えてコントロールするという重要な使命を認識させ、果たさせることができるようになるのだろうか。

 これも結論的に言えば、民主主義の精神を骨肉とした本物の政治家の卵を、私たち国民があらゆる機会を通じて育て、その彼らを選挙という機会を通じて、私たち国民の政治的代表として公正かつ厳正に選んで議会に送り出すこと、それがそのための基本方針となるであろう、と私は考える。

 ではそのためには、私たち国民はどうしたらいいか。

以下も、私の考えるものである。

① そのためには、まず私たち国民一人ひとりが、主権者としての自覚を持ち、その上で、単なる言葉だけではない本物の「市民」となることではないか。

 ここで、主権者とは、繰り返すが、「国家の政治のあり方を最終的に決定しうる権利を所持する者」のこと(広辞苑第六版)。市民とは、例えば◯◯◯市の住民という意味でのものでは全くなく、「社会を自分たちの共同体として捉え、その上で、責任あるジャーナリズムの助けを借りて、自分たちの共同体の未来は誰に依存するわけでもなく自分たちで築き、その運命も自分たちが引き受けるとの決意の下、『法の支配』という政治原則に基づいて、権力保持者たちの権力行使の仕方を絶えず監視することを自らの義務と責任と自覚し得た政治的主体」のこと。

② 次には、国民一人ひとりがその本物の市民となって、現行の「小選挙区比例代表並立制」という選挙制度を一度完全に撤廃し、次の3つの理由に基づいて、冒頭に記した基本方針に合致する「本物の政治家」を生み育てられる選挙制度に根本的に改めることであろう(拙著の第9章を参照)。

1つは、現行の選挙制度は、その実態は単なる数合わせでしかなく、大量の死票を出してしまい、しかもほんの2割強程度の得票率でも政権が取れてしまうような、形だけで儀式でしかない選挙制度であること。1つは、しかもその現行制度は、本物の政治家を選ぶために一票を投じるというのではなく、候補者の印象や地元に中央からどれだけカネを持ってくるか、特定のグループや個人に「口利き」など、どれだけ便宜を図ってくれるかといったことが主たる投票行動の基準となってしまうような選挙制度であること。1つは、これは特に最も長く政権を執ってきた自民党の政治家に多く見られることであるが、たとえ当選しても、野党とは違って公約を実現しやすい立場にいながら、選挙時から掲げてきた自らの公約を議会にて立法して約束を果たすといったことなど一切せずに、むしろ週末のたびに税金をつかって地元に帰っては、地元の行事に顔を出したり、支持者の冠婚葬祭に祝電や弔電を送ったり、支持者の集まりに顔を出すといった次期選挙対策ばかりしていても次期選挙ではまた当選してしまうような、まるで税金泥棒としか言いようのない輩しか生まないような選挙制度であること。

③ 次には、直近の総選挙そして同じく直近の参議院選挙に向けて、国民一人ひとりが、市民となって、②で言う「本物の政治家」を生み育てられる選挙制度を実現してくれる候補者をあらゆる機会を捉えて育てることであろう。

④ そしてその総選挙あるいは参議院選挙の際には、私たち国民は、もはやかつて拘ったかもしれない自己エゴや地域エゴを捨てて、今度は市民となって、立候補者にこう尋ね、確かめるのである。

“あなたが政治家になった時、②で言う「本物の政治家」を生み育てられる新しい選挙制度の実現を含めて、議会においても政府においても、以下に列挙した、この国を真の民主主義の実現した本物の国家とするための行動をしてくれると約束してくれれば、あなたに一票を入れますよ!”

それは、例えば、

1つは、政治家になったなら、政治行政のあらゆる面で役人をコントロールすること

1つは、政治家になったなら、議会では、「三権分立」を厳守し、政府の者に質問することはせず、与野党間の政治家同士で議論して「立法」すること。

1つは、行政組織間の「縦割り」を撤廃させ、各府省庁間の横の連絡や風通しを良くすること

1つは、「法の支配」を無視し、民主主義的な意思決定手続き偽装をする「審議会制度」を撤廃すること

1つは、閣議の内容を、事務次官会議からの提案によるのではなく、あくまでも議会の議決内容についての執行方法を議論する場にさせること

1つは、そうした幾多の抜本的な改革に対して、官僚の組織的な抵抗が必ず予想されるが、それに対しては、憲法第15条の第1項を大胆に適用すること

⑤ 上記のいずれかを公約として掲げ、そしてそれが国民に支持されて当選した政治家に対しては、あるいはそれを公約(マニフェスト)として掲げて政権を執った政党に対しては、私たちは主権者として、またそうした政治家や政党を支持した者として、過去、この国の官僚たちが特定の政治家や特定の政党に対して実際にやった妨害事例を教訓として、公約を守ろうとする政治家ないしは政権は、何としても励まし支え、彼らの執行を助け通すことである。

 ここに言う官僚たちの妨害事例とは、例えば、「行政改革」が叫ばれたとき、既得権を失いたくないとして変革を嫌うのを本性とする官僚たちによってその行革が骨抜きにされたことであり、官僚主導を撤廃して政治主導を実現しようとする小沢一郎政治資金規正法違反疑惑を検察庁の官僚らにでっち上げられて逮捕されたこと、また「政治主導」や「沖縄の米軍基地をせめて県外へ移転する」をその一部とするマニフェストを掲げ、それが国民から圧倒的に支持されて政権をとった民主党が、そのマニフェストを約束どおり実行しようとした初代総理大臣鳩山由紀夫に対して、外務省官僚や防衛省官僚らが既存のエスタブリッシュメントやメディアをも動員して妨害し、そのため鳩山は辞任を余儀なくされてしまったこと、などを指す。

 また私たち国民は、官僚らがそうした動きに出てきたときには、まさに主権者であり市民となって、本来公務員すなわち「国民のシモベ」である官僚のその妨害行為は民主主義議会制度からは絶対に許されない行為であるし、国を乱す者という意味での「国賊」行為でもあり、さらには、もし然るべき法律があるのなら、それは「国家反逆罪」にも当たる行為だとして、公然と官僚らに抗議し、立ちはだかるべきなのだ。もちろん政治ジャーナリズムも一緒にである。

 そしてさらに、私たち国民は、やはり主権者として、政府の内閣あるいは総理大臣を含む閣僚全員に対して、次のことを明確に訴えるべきなのだ。

————サボタージュを含むそうした妨害行為に出る官僚に対しては、「公務員のストライキを禁止する法」を準用しつつ、主権者の代表として、日本国憲法第15条の第1項を躊躇なく適用して罷免するべきだ、と。

 私たち有権者は、“投票所に行って投票すれば終わり”では決してない。むしろ投票してからが、市民としての義務と責任が重くのしかかってくるのだ。