LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

7.7 すべての国家的・公共的事業を興し進めるときの原則

 今回も、これまで未公開のままで来た節を公開します。

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7.7 すべての国家的・公共的事業を興し進めるときの原則

 これまで「国家」とは何かについては、重複を厭わずに、2.5節と7.2節において論じてきた。特に7.2節では、未だ本物の国家とはなり得ていない日本という国を本物の「国家」とするためには、私たち国民はどうすべきか、ということを論じてきた。

そして、両節において、国家というものを曖昧にではなく正確に理解することは、憲法とは何かを正確に理解することと同じくらいに、政治家にとってはもちろん、すべての国民にとっても重要だとも強調してきた。

なぜなら、一言で言えば、国家こそが、社会から、最終的に、私たち国民一人ひとりを守ってくれる唯一の装置だからだ(カレル・ヴァン・ウオルフレン「日本という国をあなたのものにするために」角川書店p.145)。

ただし、その際、その国家を思い浮かべる時には、いつでも、同時に次のことをも思い浮かべる必要があると私は考える。それは「国家の政府」と呼ばれるものについてである。
例えば、誰かが、国家権力とか国家戦略とか国家目的といったことに言及した場合も同じだ。その場合も、同時に、「国家の政府」というものを思い浮かべることが必要だと私は思う。

 それは次の理由に拠る。

国家そのものは人ではなく仕組みであり機構なのだから、自分で行動することはできない。国家は「国家の名において」、国家の代理者として行動する一団の人々の存在を、常に、そして必ず必要とする。その国家の代理者として最高強制権力を行使する一団の人々のことをこそ「国家の政府」と我々が呼ぶものだからである。このことから判るように、政府それ自体が最高強制権力なのではないし、政府それ自体が国家なのでもない。つまり、国家≠中央政府なのだ

政府は、ただ、国家の権力の諸目的を実現するために執行する行政の機構にすぎない。政府はあくまでも国家の代理者に過ぎないのだから。

 この区別は常に明確になされなくてはならない。それが政治学の基本定理の一つでもある(H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書P.7)。

 

 この国における「国家」の名において為されるあらゆる事業、つまり「国家」的事業は————度々述べてきたように、この国は実際には国家などではなく、国家であるかのように見せているだけであるから、国家的などと言っても、実際には「無い国」のこと、架空の国の事業のことを言っているに過ぎないのであるが————、どれも、政治家たちが議会で自発的あるいは主体的に考え出し決定したものではない。つまり、彼ら政治家たちが選挙時から各自で掲げてきた公約を国会あるいは議会という場において、その約束を果たすために、その政治家同士で政党や会派を超えて互いに侃侃諤諤の議論の末に公式の事業として議決した類のものでは決してない。それどころか、議会の政治家は、国会議員から地方議員までを含めて、立法機関にいながら、自ら自発的かつ主体的に立法などしたことなど一度としてないのだ。

 むしろ、それらの事業は、中央政府で言えば、各府省庁の官僚たちにより、また地方政府で言えば各部や課の役人たちによって、彼らの既得権を拡大あるいは維持するために、前例をそのまま踏襲する形で、考え出された類のものでしかない。

 とりわけ中央政府では、各府省庁の官僚たちが、彼らにとって必要な数だけ勝手に「審議会」を立ち上げては、あるいはすでに立ち上げた「審議会」において、そこでいかにも民主主義的手続きに則って決められたものであるかのような体裁をとってでっち上げられた事業案が、各府省庁の官僚のトップである事務次官たちの合同会議で全員一致の合意を見た案だけが、政府の中枢である内閣の会議である閣議に諮られて、そこでは議論という議論などは全くなされずに、単に追認という形で「閣議決定」されただけのものだ。

 その後は、その案は形式的に「国権の最高機関」としての国会に諮られるが、そこでなされることもまるで儀式だ。「代表質問」あるいは「一般質問」というアレだ。しかもそれに答えるのは、議会側が三権分立の権力分散原則を破って議場に招き入れた政府側の総理大臣・閣僚と必要に応じての「高級」官僚だ。

 そして、結局は、「閣議決定」を経たそれは、公式の事業すなわち「国家」の事業として決まってしまう。

 

 なお、前述の審議会もそうだが、そうした事業案が国会を含む議会に諮られる前までの官僚や役人のそこまで持ってゆく際の手口についてはすでに明らかにしてきた通りである。国民を騙す、狡猾で卑劣そのものだ。ところが、悲しいかな、それに対しても、政治家は何もコントロールも指示もできないのである。ただ傍観しているだけだ(2.5節)。

 また、公式の事業となったそれの実施においても、中央政府の総理大臣も各府省庁の大臣も、また地方政府の首長も、官僚や役人をコントロールしながら主導するということもまったくしなければ、全てを官僚あるいは役人任せだ。

 だから、こうしたことからもわかるように、中央政府について言えば、各府省庁バラバラだ。地方政府について言えば、各部、各課、互いにバラバラだ。こうして、この国には「国家」目的も、「国家」戦略もあろうはずはないのである。

 したがって、この国を本物の国家とするには、もはやどうしても既存の政治家という政治家を、中央から地方まで、一旦は一掃しなくてはならないのであるが、そしてそれができるのは多分、唯一、選挙を通じてしかないと考えられるが、従来の「小選挙区比例代表並立制」では、後述するように、数合わせの儀式でしかなく、到底無理だ。

そこで、それに代わる選挙制度が、例えば第9章に示す、これまでとは全く異なる選挙制度である。
私は、その選挙制度こそが、私たち国民が「本物の市民」となって「本物の政治家」を生み、育てられる最も民主的な選挙制度の一つなのではないか、と思っている。

 

 そこで、ここでは、そうした本物の政治家を私たち国民が自身の手で育てられたとして、その上で、これからの時代————すなわち「環境時代」————においては、すべての国家的・公共的事業を進めるときの原則とは何か、を考える。

 その際、それを考える際の最終目的は次のようになる。

————「環境問題」(第4章の「環境問題」の定義を参照)を克服し、持続可能な社会、それも一人ひとりが人間として生きるに値する社会、将来世代や未来世代に託すに値する社会を築き上げること

 その時、土台となる原理あるいは原則とは、これまでの論理展開の経緯からも理解していただけるのではないかと思うが、次の4つになると私は考える。

第一には、「人間にとっての諸価値の階層性」の存在と承認

第二には、その上で、「環境時代」の主導原理とする《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》から成る「三種の指導原理」。

第三に、「都市と集落の三原則」。

 つまりこれらの原理と原則を実現することを通して、それぞれの社会の人々が人間としてとにかく生き続けて行ける自然的、社会的基盤を確かなものとするのである。

その際、すでに定義してきた「環境時代の科学」、「環境時代の技術」、「これからの開発」の概念(4.1節)を実践的に適用する。

また、これからの経済のあり方についても、産業革命以降ずっと続けてきた、価値の果てしなき増殖を最優先する従来の経済ではなく、「新しい経済」すなわち「環境時代の経済」あるいは「人間重視の経済」へと大転換する(11.2節)。

その新しい経済は、少なくとも近代における従来の経済の概念あるいは定義と比較した時、従来の経済の概念には含まれていなかった次のような特徴を持っている。

・経済活動を、とにかく人間の共同体を「存続」させるための行為であることを初めから明確に意識した概念とすること。

・これまでは財についても、その質の違いを問わずに単に一種類の財として扱って来たが、それを人の生存と共同体そのものの存続を可能とさせる一次財と、人間としての暮らしを可能とさせる二次財とに分けることを定義の中で明確にしたこと。

 具体的には、一次財に含まれるのは、人類が誕生する前からあったものとしての、例えば水、空気、土壌、あるいは石油や天然ガスシェールガス、ウラン、そして動物や植物、また微生物や菌類を含めた多様な多生命である。

一方、二次財とは、一次財を基に人間が作り出した財、あるいは作り出せる財のこと。

・その場合、旧定義では、「一次財の再生あるいは再生産」および「自然の再生・修復・復元」という行為と過程を単にコストとしてしか見ずに二次財の生産だけを主目的として来たが、ここでは二次財の生産を支える「一次財の再生あるいは再生産」および「自然の再生・修復・復元」そのものをも経済活動の一つであるとして明確に捉えていること。

・そして二次財については、その生産と分配と消費の行為・過程だけではなく、流通と廃棄あるいは再利用の行為・過程をも経済活動に含めることをも明確にしたこと。

・そして以上の行為・過程を通して初めて人間および社会は持続可能な存在として形成されるとしながらも、その人間も社会も、自身で独自に生きているのではなく、実は自然に対して一方的に従属せざるを得ない関係に拠って生かされている、という考え方をも明確にしたことである。

 

 なお、ここであえて強調するが、ここで述べる「新しい経済」すなわち「人間重視の経済」においてとくに重要なことは、もはや単に「雇用を創出されている」、「雇用が確保されている」、「仕事がある」、「働き口があって賃金がもらえる」といったことのためだけの経済でもなければ、それに基づくシステムでもないということだ。そうではなく、誰もが「生きて行けること」、それも、各自が属する共同体に積極的に、そして誠実に参加して協働することで、誰もが等しく安心して生きてゆくことができ、しかも一人ひとりが人間として、その能力も人格も高まって行けるようになることに主眼を置いたものである、ということである。

 だからその経済とシステムは、人々の多様性のみならず、他生物の多様性をも受け入れ、その生命一般の多様性との共存の上に、人々が、自分たちの文化、すなわち自分たちに固有の、共有し合った生活様式をも同じく大切にしながら、身の丈の技術をもって支え、成り立たせて行く経済でありシステムである。

 身の丈の技術とは、基本的に人間の手あるいは器用に動くその手の延長で用いられる道具に拠って成り立つ技術ないしは技のことである。

だからそこでは、オートメーション・システムといった人間を生産システムの中の単なる一歯車としてしか見ない画一的大量生産方式を助ける技術でもなければ、ITとかAIといった、人間の介在を必要としない、むしろ人間に疎外感しか与えない生産技術でもない。身の丈の技術とは、むしろそれらとは正反対で、労働する一人ひとりに、その人の得意な面を生かさせてそれを伸ばし、自身の社会における存在意義を確信させてくれ、人間としての働く歓びをもたらしてくれるものである。

 この「新しい経済」とは、第11章にて詳述するが、こうして、それをここで敢えて表現すれば、人類誕生の瞬間から今日までの間に、人類が経験的に学んで来たありとあらゆる智慧や教訓と、人類が科学を通じて手に入れてきたあらゆるプラスの意味での知識や知見とを総動員して、それを「知性」ではなく「理性」をもって綜合した経済でありしくみである、とも言えるのである。

 そこで、こうしたことすべてを前提とするとき、これからの国家的・公共的事業を進めるときの原則とは次のようになる、と私は考えるのである。

1つ。お金に拘らなくて済み、利益・競争・効率が重視されるのではなく、その社会に暮らす誰もが、とにかく生きられる社会とするために、人が人間として生きる上で不可欠なもの、生活する上で不可欠なものをまず生産でき、自給できる社会とするための事業とすること

 その時、その事業の中には、特に食糧とエネルギーの自給を達成することが含まれることは、言うまでもない。

 

1つ。誰か特定の者に利益・儲けをもたらすための労働ではなく、人々の生存と生活のために必要なものの生産を集中的に行い、それを公正・公平に分配できるような民主的な手続きと方法を人々自身が生み出せるようにすることで、これまでのような長時間労働を思いっきり短縮し、余暇を楽しみ、自己実現に費やせる時間を増やせる事業とすること

 

1つ。何のための労働なのか、何のための生産活動なのか、それを明確にしながら、一人ひとりは、これまでの資本主義的生産様式で主流だった生産過程での単なる歯車的立場ではなく、生産の全工程に携わることで、生産する歓び・誇りが生まれ、労働を通じて一人ひとりが、自身で、人間的にも人格的にも発展させて行けるような事業とすること

 

1つは、生産過程そのものを民主化した生産ができるような事業とすること

それは言い換えれば、普段から、住民の間での自治と相互扶助の能力を住民自身が住民自身の手で育てられるような事業とすることである。

 その際は、あくまでも主権者である国民の意向を主にして、その意向に沿って行われること。したがってその場合、官僚や役人はあくまでも公僕に徹する。

 そこで貫かれなくてはならないことは、徹底した「透明性」と「公正性」と「公平性」である。つまり、どんな状況にあっても、隠し事はしないこと。あるいは隠し事をしなくてはならなくなるような手続きや方法は最初から取らないこと。

 

1つは、社会を維持する上で不可欠な活動をする人々を特に大切にし得る事業とすること。

  とりわけ教育、福祉、医療等に従事する人々には社会からの尊敬と感謝が向けられる事業とすること

 

 なお、これらを事業として実現する上での手続きは、概略、次のようにする。

こうした事業を計画し設計し、国家としての公式の政策とするのは、あくまでも国権の最高機関としての国会とする。

国会が、政府の官僚に頼って決めるのではなく、国会が、超党派で、独自に科学者や技術者、そして専門家を招聘しては彼らの専門知識と力を借りて、国会の中の各委員会で行う。

三権分立という原則を厳守しながら。

そして国会が、最終的に議決し、公式に国家の政策となったものを次々と執行機関である「国家の政府」に回し、そこにて、内閣の閣議で、その公式政策の執行方法を議論して決め、それは各府省庁の大臣の統括の下で、配下の官僚たちが、閣議決定された方法に従って、最高の効率を上げて忠実に執行する。

また事業のその執行過程や結果あるいは効果のすべてを細大漏らさずに、公式文書として記録する。

 つまり、ここでは、いわゆる「小さい政府」を想定しているのである(第8章を参照)。