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八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.5 所属府省庁の権益拡大と自己の保身のためには憲法も民主主義も無視する官僚、そしてその官僚に隷従する地方の役人——————(その1)

 今回も、これまで未公開のままで来た節を公開します。

 

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2.5 所属府省庁の権益拡大と自己の保身のためには憲法も民主主義も無視する官僚、そしてその官僚に隷従する地方の役人——————(その1)

 官僚を含む広義の役人とは本来、どのような役割と使命を担った社会的立場の人か、そして彼らは本来、特に政治家とどのような関係にあるべきものかということについては2.3節にて既に明らかにしてきた。

その彼らは、近代において、ジョン・ロックモンテスキューあるいはルソーらによって確立されてきた民主主義統治論や民主主義政治理論に基づいてつくられた社会制度や仕組みの中で生まれてきた社会的存在であったのだ。

 では、私たちの国日本での彼ら役人の実態は、そこで明らかにされたような社会的な役割や使命を本当に担って来たのであろう。また、政治家との関係においても、本来あるべきそうした関係を保ってきたのだろうか。

 本節では、それに対する答えをあくまでも私の実体験に基づく範囲内において明らかにする。

 なお、そこでいう広義の役人については、本節に限って、便宜上ではあるが、霞ヶ関中央政府の役人と都道府県庁や市町村役場の地方政府の役人とを区別して、前者を官僚、後者を役人と呼んでゆく。

中央政府の役人には、厳密にいうと、国家公務員Ⅰ種試験に合格して「キャリア組」という言い方で呼ばれる官僚と、そうではなくて、「ノンキャリア組」と呼ばれて、中央政府内では官僚とは呼ばれない者がいるとのことであるが、ここではその区別をせずに、中央政府の役人を全て共通に官僚と呼んでゆく。それは、私には、たとえ彼らと直接相対しても、誰が「キャリア組」で、誰が「ノンキャリア組」かは判別がつかないからである。

 なお本節では私が特に官僚と役人を区別するのは、現状での両者の関係を見る限りにおいてはその必要があると感じるからである。なぜなら、両者は、日本国憲法(第15条)にあるとおり、本来は区別されずに「公務員」とされているのであるが、両者の実際の関係のあり方を注意深く見ていると、そこには歴然とした上下の関係、指図するものと指図されるものという関係、支配する者と支配される者という関係がある(実例をもって後述する)。それも、互いに無意識に、そして当たり前のように、である。だから必然的に、そこには、公務員である前に人間として互いに対等であるという意識は見られない。相互信頼もない。互いに相手に敬意を払うという意識も見受けられない。だから、そういう人間観を持つ彼らが主権者である国民に対して、自分たちが職務上の「国民のシモベ」であるという自覚など持てるはずもなく、国民の福祉に奉仕しなくてはという使命感も持てるはずもない。むしろ官僚と役人は互いにそうした関係を維持しながら、両者が、自分たちこそ国を動かし、地域を動かしているのだという傲慢さすら垣間見えるのである。

 ではなぜそうなるか。なぜ中央政府の役人である官僚と、地方政府の役人たちをしてそうさせてしまうのか。詰まるところ、日本国憲法そのものが憲法として不備だからだ、と私は考える。

なぜなら、もし、中央政府と地方政府の間での、さらには地方政府の中でも都道府県庁と市町村役場との間での、それぞれの行政府間での管轄事項の範囲とそれに伴う権限と責任の範囲が憲法の中で明文化されていたなら、あるいは各行政府の長である首相の権限・責任と都道府県知事の権限・責任と市町村長の権限・責任の区分が憲法の中で明文化されていたなら、こうしたことは決して起こりえないだろうからである。実際、こうした権力区分の明確化は下位法である一般法に書き込めることではなく、国家のあり方を明文化する憲法の中にしか表現できないのである。

 そしてこの時さらに重大なことは、官僚と役人、あるいは役人と役人との間には、非公式にではあるが、こうした非人間的な関係、封建的な関係が厳然としてあることに対して、政治家という政治家は見て見ぬ振りをして、一向に本来あるべき関係に正そうとはせず、むしろその関係を放置したままでいることだ。それどころか政治家たちは、既述のように、本来自分たちの最大の使命である公約の立法化も果たさずに、したがってまた、官僚も役人も同じ公僕として使いこなさなくてはならないのにそれもせず、むしろその反対に、官僚たちや役人たちに法案作成、政策案作成、予算案作成等のほとんど全てを依存しては、その彼らに追随しているのだ。なお、ここで言う政治家とは、国会議員、都道県議会議員、市町村議会議員のほぼ全員を指す。

 そこで、本節の以下では、私が直接見聞きした範囲内で、この国の官僚と役人との関係のあり方と、彼らの一般市民に対する振る舞いの実態を明らかにする。

その振る舞い方の特徴とは私は5つあると思っている。

1.この国の首相は、国連や外交の場では特に、つまり外に向かってはよく、“自由と民主主義、「法の支配」は人類普遍の価値”と口にする。しかし、その首相の足元である国内では、首相や閣僚こそが、そして地方政府では首長こそが使いこなさなくてはならない官僚もまた役人も、それを理解しようともしないし、また理解させようともしないから、「法の支配」あるいは「法治主義」を日常的に破っている。

 ここに「法の支配」とは、恣意的な支配を排斥して、権力を法によって拘束することで、国民の権利、特に基本的人権を擁護しようとする民主主義国共通の掟であり、「法治主義」とは、行政権の行使には法律の根拠が必要であるとする、これも民主主義国共通の掟である。

両者は、恣意的な支配を排除するものである点では同じであるが、「法の支配」の方は、法の内容そのものが合理的なものでなくてはならないことをも要求する点で「法治主義」とは異なる(山崎広明編「もういちど読む政治経済」山川出版社 p.8)。

 つまり、近代西欧の先哲らが築き上げてくれた議会制民主政治理論上からも明らかなように、官僚であれ役人であれ、彼ら公務員は「公僕」と位置付けられているがゆえに、「他人を押さえつけ支配する力」(広辞苑)としての権力は主権者である国民から付託されてはいないのにも拘わらず、その権力を、法律にも基づかずに、しかも恣意的に、つまり気まぐれに日常的に行使しているのである(ジョン・ロック「市民政府論」鵜飼重信成訳 岩波文庫p.135、137、140、141、145)。ここに、「気まぐれに」とは、ある人には許認可を与えるが、ある人にはそれを与えずに、必要以上に行政権を行使しようとすることを言う。

 そうした権力行使の仕方の最大の実例は、官僚たちが国民すべてに対して等しくそして無条件に「他人を押さえつけ支配する力」を発揮する法律を実質的に作っていることであり、役人たちも同じく「他人を押さえつけ支配する力」を法律に準じて発揮する条例を実質的に作っていることである。あるいは政治家たちがそれをさせているのである。

 もちろんその場合、法律や条例に限らずに、政策を作ることや、予算を組むことも同様で、もともと公務員には付託されていない最大の権力の行使になるのである。

 ではなぜそれが「最大の権力行使」に当たるか。一旦それが公式のものとして成立してしまえば、それは国民の全てを無条件に「押さえつけ支配する」ことになるからである。

 しかもその場合、これも国と国民にとって最大級に重大なことは、彼らが作るそれらの法律や条例そして政策や予算は、国民の利益を最優先するというものでは常になく、むしろ、例えば自分たちの組織が縮小されたりして、自分たちの仕事を失わないようにするためであったり、あるいは自分たちの所属組織の既得権益を拡大してはそれを維持するためであったりするものである、ということだ。

そしてその場合、全府省庁の官僚たちが揃って利用する手口が、「審議会」やそれに連なる様々な会議体を立ち上げてはそれを自分たちの隠れ蓑として使う、というものだ。

その具体的なやり方とは次のようなものだ。

 例えば国土交通省の官僚たちがある大規模事業を国家的事業あるいは「公共」と銘打った事業として実現しようと組織内で決めたとき————もちろんそのような「政策を決める」などということは執行機関である政府ができることではないし、ましてや、閣僚の指揮のもとに動かなくてはならない「国民のシモベ」である彼らがそんなことはできることではない。でも彼らはその原則を無視して「実現しよう」と決めるその事業は、決して国民の利益や福祉を優先するものではない。国交省が所管する産業界、例えば土建業界にその事業を実現することにより利益をもたらし、その見返りとして、国交省の官僚たちが退職するとき、第二の人生を過ごす場としての「天下り」先をその産業に頼めるようにするためである————、いかにもそこで、事業実現についての「お墨付きが得られた」と自分たちのボスである国交大臣に言えるようにするための、専門家あるいは有識者を集めた会議体として立ち上げるのである。

 その場合、官僚たちが集めて任命するのは————その「集める」という行為も、「任命する」という行為も、「他人を押さえつけ、支配する力」としての権力を行使することであるゆえ、その行為自体「法の支配」と「法治主義」を無視した行為であって、許されない行為なのだが、彼らのボスである国交大臣は「法の支配」も「法治主義」も知らないからであろう、気付かずに、放置しているのである————公正中立な立場で学問的真実を語ってくれる専門家ではなく、官僚たちが望む事業に好都合な意見を言ってくれる専門家あるいは有識者なのである。というより、私の実体験上確信を持ったのは、「専門家」とか「有識者」というのは名ばかりで、そのほとんどは、畑違いのものであったり、一般人の誰でもが言える程度のことしか言えないレベルの者たちなのであるが(後述する「審議会等の運営に関する指針」を参照)。そうした専門家あるいは有識者たちをまとめてくれる座長は、事前に担当官僚の意図を知らされた上で座長役を引き受けるのである。そしてその審議会は、担当官僚が座長を通して終始、取り仕切るのである。

 審議会はこうしてスタートするのであるが、こうした経緯から判るように、審議会の構成委員の顔ぶれが決まり、座長が決まれば、もはやその時点で実質的には国交省の官僚たちの目論見は成就したも同然なのである。なぜなら、担当官僚の差配りにその審議会は進行してゆくのだからだ。

 しかし、だからと言って、担当官僚が座長をコントロールして審議会の答申をすぐに出させては国民に見透かされるから、座長には、いかにも専門家あるいは有識者たちの声をまんべんなくそして根気よく聞き入れてきたという振りをさせて、何回かの会議をあえて繰り返させ、一定程度の時間をわざわざ費やさせるのである。

 

2022/12/27のBS-TBS「報道1930 ▼岸田総理に直撃“日本の大転換”決断の瞬間▼安倍氏不在の舞台裏は」より。ここでは、岸田政権が従来の重要二大政策を大転換した「閣議決定」に至る、担当官僚主導で進められた各種会議の開催回数に注目。岸田首相は官僚たちのこうした会議体の進め方が「法治主義」「法の支配」を無視したものであることに気づいてはいない。

 

 だからそこから決定されてくることは、国民からすれば全く理解しがたい法律であったり、不本意な政策であったり、不要な公共事業であったりするのである。ところが、所管する閣僚も、そうした経緯をきちんと自分の目で見ていないし確認もしないで、ただ官僚の報告だけを聞いているから、それを「閣議」に諮っては「決定」してしまったりするのだ。

 こうなるのも、結局は、総理大臣や閣僚、あるいは首長という国民の代表でもある政府の政治家だけではなく、国会を含む議会の政治家という政治家たちも、政治家である以上当然知って理解していなくてはならない民主主義議会政治を成り立たせる上での基本的な諸原則や種々の概念についてきちんと勉強して自身のものとしていないためだ、と私は断定する。

 例えば次のような原則や概念についてである。

立法府は法を作る権力を他の者に譲渡することはできない。なぜならそれは人民から委任された権力に過ぎないのであるから。」、「立法府は法を作る権威を譲渡して他の者の手に与える力を持ち得ないのである。」、「立法権は、ある特定の目的のために行動する信託的権力に過ぎない。」、(ジョン・ロック同上書p.145、146、151)。

————国家、主権、国、政治、選挙の意味と目的、政治家の役割と使命、権力の意味とその成立の根拠、議会、立法権、最高権、政府、内閣、閣議、行政権または執行権、司法権三権分立、民主主義、議会制民主主義、立憲主義憲法、法律、独立国、自由、平等、共同体、市民、権利、人権、統治、首相、首長、閣僚、自治、役人(公僕)の役割と使命、法の支配、法治主義、独裁、等々である。

 実際私は幾人かの政治家には、せめてこれくらいの本は読んで勉強していただきたいと言ってジョン・ロックの「市民政府論」やモンテスキューの「法の精神」を差し出したことがあるが、後で聞いてみて、それらを少しでも読もうとした者は一人としていなかった。

 こういうことを見ると、安倍晋三氏も菅義偉氏もよく「法の支配」を口にしたし、岸田文雄氏もよく「法の支配」を口にするが、実際には彼らの誰も、少なくともきちんとは理解してはいなかったし、理解してはいないと私は思うのである。なぜなら彼らの足元で、官僚たちが「法の支配」をしょっちゅう破っているのを全く野放しだからだ。

 では彼らは、何を頼りに「政治」をやっているのか。あるいは「やっているつもり」になっているのか。私は、これも断定するが、先人がやってきたことを、やってきた通りに、ただやっているだけである。

 

2.本来官僚や役人には立法する権力は付託されていないと前述したが、その官僚や役人は、法律を作るにも、また条例を作るにも、あえて————と私は断じる————表現を判りにくくし、かつ中身をも曖昧なものにしてしまう。つまり法であり条例である以上、条文がいろいろに解釈できるようなものであっては国民にとっては使いづらいもの、使えないものとなってしまうのに、そこでは、ほとんどどれも、していいこととしてはならないこと、何が許されて何が許されないかが明らかになっていない。かと思えば、「・・・・、することができる」と、状況によっては法の運用者の恣意を介入させられるという表現を公然と挟ませる。

 ではなぜ彼らは法律や条例をそのように作るか。それは、彼らこそが役所において、法律や条例の運用者であることを考えてもらえば判るように、彼らがその法や条例を恣意的に解釈できる余地を残しておこうとするためだ、と考えられる。実際それができれば、自分たちが国民を恣意的に統治できるし、自分たちに都合のいいように社会秩序を保つことができて好都合だからだ————実はそれを禁じるために民主主義国の間で共通に確立された掟こそが安倍晋三菅義偉岸田文雄らが口にする「法の支配」であり「法治主義」なのだが————。実際、ジョン・ロックも言う。「人は、他人の恣意的権力に服従することはあり得ないのである」(同上書p.137)あるいは「人民も、彼らが選び勝つ法を作ることを授権した人々によって制定されたもの以外の法によっては拘束され得ない」(p.145)。

 実はこうした曖昧法の代表例の一つが私は「政治資金規制法」ではないか、と思う。その結果もたらされる事態が、厳密に精査すればほとんどの政治家がやっていることなのに、ある特定の政治家だけが「政治資金規制法違反」として摘発され、起訴され、その政治家が政治生命を絶たれてしまう、というものだ。それも既存の官僚機構にとって脅威と見られる人物が標的にされているようにさえ私には感じられるのである。その代表的犠牲者が小沢一郎氏であろうと私は思う。

 つまり、官僚や役人たちは、法律や条例を、自分たちには本来付託されてはいない権力を非公式に、あるいは闇で行使しては、自分たちに都合よく統治し得る手段に、あるいは自分たちの目的を都合よく実現しうる手段にさえしてしまっているのである————実際には日本国憲法でさえ、そうしている(K.V.ウオルフレン)。

 なおここに、非公式の権力とは法律の規制を受けない権力のことをいう。

 しかし、このことは、被統治者である国民の側からすれば、このような立法のされ方をするということは、その法律や条例そのものが、安心できるものとはなっていないということだ。なぜなら、法律や条例は、国民や住民の誰もが、いつでも平等に扱われるようなものであってこそ、その法律や条例は公平で公正な社会を作る上で役立つものとなるし、被統治者である国民は、誰もが納得できるのであるからだ。

 

3.また官僚や役人らは、自分たちの既得権の拡大や維持のためには、彼らの専管範囲内では、法律や条例の条文による規定の範囲の外で、物事を決めてはそれを執行し、そこでも「法の支配」や「法治主義」をほとんど日常的に破っている。

つまり官僚や役人らは、日常的に大掛かりなペテンをしているということだ。

 それの最も象徴的な実例の一つは、原子力基本法が定める三原則である「民主・自主・公開」を原子力推進を公式にではなく「暗黙」の国策として進めようとする先の通商産業省通産省)と今の経済産業省経産省)の官僚は決して守ろうとしないことだ。というより、それを守るべきだと訴える者に対しては、通産省あるいは経産省だけではなく検察までも動かして抹殺しようとさえ謀るのである。ところがそうした官僚たちを国民の利益代表としてコントロールしなくてはならない通産大臣や経産大臣は見て見ぬ振りをするのである。実際そうやって抹殺された代表的人物の一人が佐藤栄佐久福島県知事である————(「週刊金曜日」2011年4月22日発行844号)。

そしてこうした事実こそが、この日本という国を、政治構造上での事実上の本質部分も、またこの日本という国の巨大な経済システムの最も重要な側面をも、法律や条例の条文規定には全く基づかないものとしてしまっているのである(K.V.ウオルフレン「システム」毎日新聞社 p.101)。

 なぜそうするか。それは、自分たちの専管範囲の産業界に何かと便宜を図ることで、それらの産業界やそこに所属する企業に「利益」を与え、その見返りに、やがては自分たち官僚や役人も「利益」を得ようとするためだ。その利益とは自分たちの役所退職後の第二の人生を過ごせる場を提供してもらうことだ。それが、官僚あるいはその組織と彼らが専管範囲とする産業界との間での互恵的な関係としてずっと継続されてきているいわゆる「天下り」であり「渡り」なのである。

 そうしたことが行われる仕組みの要点はこうだと古賀茂明氏は証言する(古賀茂明「官僚の責任」PHP新書p.56)。ここでは、官僚世界について記す。①中央政府の各府省庁内では、課長までは官僚たちは毎年その数だけのポストは設けられていて同期横並びで昇進してゆくが、そこから上となると、審議官、部長、その上の局長と、上になればなるほど同期の中でもそのポストに就ける者の数は減る。事務次官ともなれば一つの府省庁でただ一人だ。ということは、そういうポストに就けなかった同期の者は、昇進した同期の者との関係で、「お互いに居心地が悪い」となり、その府省庁を去ろうとする。本来の資本主義の社会では、競争が前提であり、それを互いに承認した上でその社会に参画しているのだから、昇進競争に敗れたならばそこを去って終わりとなるところなのだが、この国の霞ヶ関の論理では、それで終わりとはしないのである。②彼がそれまで属していた府省庁は、競争に敗れて去る者にも、年次に応じた収入を保障してやらねばならないとなり、去る者の再就職先を世話するのである。その時、受け入れ先となるのが、その府省庁の子会社とも言うべき独立行政法人(独法)や財団法人とか社団法人と呼ばれるいわゆる「公益」法人、あるいはその府省庁の所管する産業界の民間企業である。この行為を俗に「天下り」と呼ぶのである。そこでは、彼の退職時と同等の給与が支給されるだけではなく、多くの場合、その後は複数の団体や企業に再再就職する。それが「渡り」と呼ばれる行為だ。

 実はここからは生駒の見解であるが、私は、それまで所属していた府省庁内での昇進競争に敗れてそこを去る者に対しても、彼の退職時と同等の給与が支給されるようにその府省庁が組織として保障する行為に出ることそのことこそが、この国の官僚と政治家、とりわけ彼らのボスである各府省庁の大臣との関係を不忠なものとしてしまう最大の根拠の一つとなっているのではないか、と見るのである。つまり、官僚一人ひとりをして、「何と言っても、終生、面倒を見てもらえるのは、やっぱり所属組織だ」という気持ちを強固に抱かせ、本来彼らが忠誠心を発揮しなくてはならない彼らのボスである府省庁の大臣に従うよりは、組織の方針に従ったほうが得だという気持ちを抱かせてしまうのではないか。古賀氏は言う。「国家公務員は一度ある省庁に入ると生涯、所属が変わらない」と(同上書p.167)。

であればなおのこと各官僚のその組織への帰属意識・従属意識・依存意識は高まる一方、その組織に問題を感じても、改革意識は影をひそめてしまうのは必然だ。

 実は私はこれこそがこの国を強固な官僚独裁の国にしている最大の理由の一つとなっているのではないか、と思うのである。そしてまた、このことこそが、私たち主権者である国民が「天下り」や「渡り」をどれほど中止させよと総理大臣や閣僚そして国会の政治家に要求しても、依然として辞めさせられないでいる理由でもあるのではないか、と。つまりここでもやはり政治家という政治家、特に総理大臣と閣僚たちがそういう官僚と官僚組織に依存しきっているからだ。それが証拠に、古賀氏は、「各省の(官僚のトップである)事務次官で構成される事務次官会議を(全員一致で)通過しない政策は閣議に諮られることはない」という(同上書p.166。カッコ内は生駒)。そしてその政策は、せいぜい20分かそこらで「閣議決定」されてしまうのだ(K.V.ウオルフレン「日本という国をあなたのものにするために」角川書店p.109)。しかしこれは総理大臣と閣僚たちが国民と民主主義を裏切って、官僚にこの国そのものを、文字通り、乗っ取らせていることなのである。しかし、メディアはこのことをさっぱり報道しない。ジャーナリズムも無言のままだ。③こうして、官僚の独法や公益法人への天下りが、各府省庁の人事のローテーションにガッチリと組み込まれてしまっているのである。このため、毎年のように、そのポストを退職者にあてがえるよう、ポストの確保と維持が至上命題となるし、天下った者にもそれなりの仕事が必要ということで、無駄な仕事と予算がどんどん作られてゆく。その場合、受け皿が足りない場合には、適当な理屈をつけて、新たな団体を立ち上げるようになる。④また民間企業に天下る場合、その官僚が優秀な人材であればいいのだが、現実には必ずしもそうでないので、そのような企業にとっては不必要な人間を受け入れてもらうためには、それまでの官僚の所属組織は、それなりの見返りやメリットを用意してやらねばならない。そこで、その企業に対しては、いわば阿吽の呼吸で便宜を図るようになる。例えば、その所属組織が、何らかの補助金を出したり、規制を撤廃しようとした時、その企業から「この規制がなくなったら、わが社は大打撃を受ける」と言われるとやりづらくなったり、あるいはその企業に仕事を回すために、本来なら不必要な仕事をあえて作ったり、予算を消化したりとするのである。

 以上、①から④までのことから判るとおり、各府省庁の官僚たちがその組織ぐるみで「天下り」や「渡り」を続けるのは、ひたすら自分たち官僚一人ひとりの生活を守る、それも終生守り合うためであり、その上、無能な人たちにも終生高給を保障するためである。文字通り「公僕、糞食らえ!」の姿だ。そのために税金がますます使われて行くのである。

 

4.彼らがしょっちゅう「法の支配」や「法治主義」を無視して行使する権力は、それ自体が非公式な権力であると同時に、非公式な行使の仕方であるが故に、一人ではそれを行使する勇気はとても持てず、そのために、つねに「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式に組織ぐるみで行う。それも、特に官僚たちが大規模公共工事を企ててそれを実現しようと組織内で決めた場合には、「縦割の組織構成」という、地方の市町村役場内の関連部署にまで至る、彼らが自分たちの都合によって設けた、何ら法律で定められたものではない慣例的仕組みを最大限悪用した形で行い、しかもその非公式権力の行使の仕方あるいは手口は、官僚たちも役人たちも、極めて陰険で、狡猾で、嘘つきで、傲慢不遜であることだ。そこには自分たちが「国民のシモベ」であるとの自覚や認識のかけらもない。

 しかもその場合、「縦割り」で結ばれた組織間の官僚と役人、役人と役人の間には、指図する者とされる者、従わせる者と従わされる者、支配者と被支配者といった封建時代さながらの上下の関係がごく当たり前に見られることである。

 当然そこでは、官僚たちと役人たちとの間では、公務員である前に、互いに人間として、他者に敬意を払い、尊重するという態度も見られなければ、各々、公務をする者としての誇りも全く見られない。というより、彼ら官僚や役人の世界には、むしろ人間として最も醜く、軽蔑されるべき体質すら見受けられるのだ(5.2節)。

 そして、ここで、民主主義政治を根本から歪めてしまうほどに重大なことは、官僚と役人たちの、こうした両者結託しての、極めて陰険で、狡猾で、傲慢不遜な権力の行使とその仕方に対しては、それが非公式の権力の、非公式な行使の仕方であるだけに、国民や市民はそれに真正面から対抗したり、裁判に訴えたりする手段がないということだ。だからそういう場面や事態に直面した場合、関係住民は決まって不必要なまでに苦しめられ悩まされ続けることになる。なぜなら、裁判は、問題とされる官僚や役人の行為はすでに確定して公布された法律に違反しているか否かという判断に基づいて行われるものであるが、この場合、その判断基準となる既存の公布された法律や条例がないからだ。もちろんその場合、当然官僚や役人たちはそのことを十分に知り尽くした上で、非公式の権力を非公式に、あるいは世人の目に触れないところで行使しているのだ。

 そしてやはりここでも、議会の政治家も、政府の政治家(総理大臣、閣僚、首長)も、全く見て見ぬ振りをしている。

 

5.官僚も役人も、自分たちが属する組織内でどんな事業を推進するにも、彼らはつねにあらゆる機会をとらえて、自分たちの既得権益を維持し、また権益の拡大を図る。そのため、彼らは、事業を推進するグループと、その事業を推進する上での危険性や安全性を検討するグループとを並存させて自分たちの組織内に設ける。つまり、事業に対してアクセルを踏むグループと、それにブレーキをかけるグループという、本来、互いに正反対の性質と役割を担うグループだけに互いに切り離して独立性を持たせなくてはならないのに、それを無視して同一の組織内に併設するのである。

 例えば、原子力行政を推進しようとする通産省あるいは経産省の中に「原子力安全・保安院」を相変わらず設けている経産省の官僚の姿勢がそれだ。

 その結果、何かが起こった時に、アクセルペダルとブレーキペダルの両者を同時に踏み続けたら、事態はどうなるのか。小学生でも判断のできることである。

 こうした自明なことについても、国会の政治家も、内閣の総理大臣や閣僚も、見て見ぬ振りなのである。

 

 以上が、私が直接的に知り得た官僚と役人の関係の特徴と、官僚あるいは役人のそれぞれの行動特性である。

 これらからはっきりすることは、日本国憲法はその第15条の第2項において、公務員とは、「(国民)全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と明記しているが、官僚も役人もその役割を無視していることである。

 それどころか、官僚は、例えば「国民は愚かだ。その愚かな国民に選ばれる政治家も愚かだ。だから彼らの言うことなど聞く必要はない」という態度だ。あるいは、「自分たちこそが国を動かしているのだ。国民ではない。」という意識だ。(保阪正康「官僚亡国」朝日新聞出版 p.19)。そこにあるのは愚民意識そのもの。それも、組織の記憶としてのものである。そして、「国のトップである総理大臣よりも、生涯自分の面倒を見てくれる所属官庁の利益の方が優先されるのだ」という意識だ(同書p.28)。

 一方、役人の方も、その圧倒的多数は、公務員を規定している憲法の条項すら知らないし、したがって公務員とは何かということを問われても即答もできない状態だ。つまり彼らは、憲法も知らないし、したがって主権者とのあるべき関係も知らないで「公務」をこなしているつもりになっているのである。

 このような状態からはっきりしてくることは、この国の官僚も役人も、各々、いま自分がしていることについて、何のために、そして誰のためにしているのか、ほとんど判ってはいないということである。同時に、彼らのボスである閣僚も首長も、公務員はどこまでのことはしていいが、あるいはどこまでのことはさせてもいいが、どこから先はしてはならない、させてはならないということをきちんと理解していないから、自分たちが彼らとどのような関係を保つべきか、をも知らないということである。

 

 なおここで補足として、官僚たちが国民をごまかすためにとる常套手段について、具体的な手口を紹介しておく。

その際、私が参考にさせてもらったのは、元通産省の官僚古賀茂明氏の著(「官僚の責任」PHP新書)と、元厚生省の検疫課長宮本政於氏の著(「お役所の掟」講談社)そして元通産省の課長並木信義氏の著(「通産官僚の破綻」講談社+α文庫)である。いずれも、その現場で実際に見聞きしてきた人たちの証言である。

 これらの著書から見えてくる官僚や役人たちの思惑とは、要するに、物事の真実は知らせないようにする、あるいは全貌は知らせないようにする、知らせるにも明確には知らせない、あるいは、一義的には判断も解釈もできないようにしてしまう、というものだ。あるいは物事がいつの段階で、誰によって、どのようにして決まったのか、その過程をも判らなくさせてしまうというものだ。またそその一方で、いつでも自分たちの恣意的な判断や裁量を差し挟めるようにするというものだ。これは幕末から明治期にかけて為政者(お上)のとった庶民への統治策である「知らしむべからず、依らしむべし」そのものなのである。

 ではそれを公務遂行の際に取る具体的な手口とはどんなものか。いずれも、結局のところ、「だれにも気付かれないよう、こっそりやってしまおう」ということであり、「責任の所在を判らなくさせてしまおう」という動機から考え出されてくるもののようだ。

 ではどうやってこっそりやるかと言えば、「意図的に内容をわかりにくくする」方法がもっともよく使われるのだという。

具体的には「いくつにも分ける」、「小出しにする」のだ、と。文書を出すにしても、一つの文書として一度にまとめた形で表に出してしまうと、多くの人にすぐに自分たちの意図を悟られてしまうので、「あえて内容をバラし」て、「バラした内容を複数の文書にちりばめ」、なおかつ「発表時期をずらす」のだ、と。

 だれにも気づかれないよう、こっそりやってしまう他の方法としては、「具体的に何をするかはその時点では明記しないで曖昧にしておく」、そしてさらに、「曖昧にしておいた目的をその後、さりげなくすり替えてゆく」のだそうだ。

 官僚が外に向けて書くあらゆる文書についても、そこに用いる用語については、それを読む国民には細心の注意が要るのだという。

 例えば官僚がよく使うテクニックの一つが「等」をつけることだという。その「等」を付けることによって内容をまるっきり変えてしまうのだ。だから、「等」を付けてあったなら、その前に書いてある内容以外に、もっと重要なことがある、あるいは、これまでの文章には書いてないけれど、こういう運用をします、と言っているんだ、と深読みしなくてはいけない、と(古賀茂明「官僚の責任」PHP新書p.62)。

 また、国会において、各政党による「代表質問」や「一般質問」に対する閣僚の答弁書を官僚が代筆する場合にも、そこに官僚たちの本音は決して表に現れないようにして、かつ官僚のシナリオどおりに滞りなく議事が進行するようにとの意図を込めて、例えば次のような用語表現にするのだそうだ(宮本政於「お役所の掟」講談社)。

本音はその気などさらさらないのに、遠い将来には何とかなるかもしれないという、やや明るい希望を相手に持たせるときは「前向きに」を使う。明るい見通しはないが、自分の努力だけは何とか質問者に印象づけたいときには「鋭意」を使う。質問者に対して、時間をたっぷり稼ぎたいという時には「十分」を使い、結果的には責任を取らない、取るつもりがないときには「努める」を使う。質問事項について机の上に積んでおくだけにするときには、「配慮する」を、実際には何もしない場合や、するつもりもないときには「検討する」を用いる。人にやらせて自分では何もするつもりもないときには「見守る」を、聞くだけにして、何もしない場合には「お聞きする」を、ほぼどうしようもないが、断りきれないときに、しかし実際には何も行われないということを表わすときには「慎重に」を使うのだと。

 

 住民からの質問にも、住民は役人から見れば主権者であり、自分たちはその主権者に対する「全体の奉仕者」であることは言葉では知っていても、不都合な問いには一切答えない。もちろん住民からの文書による、回答を文書で求める質問にも、“そのような答え方をしたことは前例がない”として、文書では絶対に答えない。答えるにしても、本来の公文書としての体裁を整えない、つまり公文書とは言えない形で答える。その場合も既述のような官僚用語を駆使して答える。要するに、官僚や役人は自分たちに不都合なことは徹底して秘密主義を通す、ということなのである。

 これがこの国の官僚および役人の公務を行う時の常套手段であり、こうすることが組織内では暗黙の取り決めとなっているし、組織の記憶ともなっているようだ。

 そしてここでも国民から選挙で選ばれたはずの政治家は、こうした狡猾で傲慢な官僚と役人を国民に代わってコントロールすることさえできないのだ。

 

 以上述べてきた官僚の狡猾さを如実に示す一例が「審議会等の運営に関する指針」と題する次の文書である。

 この「指針」は、その名称からも判るように、政府のどの府省庁の審議会等の各種委員会にも適用されるものであり、平成11年4月27日に閣議決定され、今も生きているものである。

その際、既述したように、以下にその「審議会」が「法の支配」を破る官僚たちの隠れ蓑として活用されてきたを思い出しながら読んでいただきたいのである。と同時に、首相がよく口にする「閣議決定」とは、こんな「指針」でもそのまま通してしまうものからも判るように、官僚提出案を総理を含む全閣僚が追認しては、この国を官僚組織に乗っ取らせることを公式に認めることであるということをも読み取っていただきたいのである。

 

 

「審議会等の運営に関する指針」

 審議会の運営については、次の指針によるものとする。

 

1.委員構成

 委員の任命に当たっては、当該審議会の設置の趣旨・目的に照らし、委員により代表される意見、学識、経験等が公正かつ均衡のとれた構成になるよう留意するものとする

審議事項に利害関係を有する者を委員に任命する時は、原則として、一方の利害を代表する委員の定数が総委員の定数の半ばを超えないものとする。

2.委員の選任

(1)委員の選任

①府省出身者

 府省出身者の委員への任命は、厳に抑制する。

 特に審議会の所管府省出身者は、当該審議会等の不可欠の構成要素である場合、又は属人的な専門知識経験から必要な場合を除き、委員に選任しない。

②高齢者

 委員がその職責を十分果たしうるよう、高齢者については、原則として委員に選任しない。

③兼職

 委員がその職責を十分果たし得るよう、一の者が就任することができる審議会等の委員の総数は原則として最高3とし、特段の事情がある場合でも4を上限とする。

(2)任期

委員の任期については、原則として2年以内とする。

再任は妨げないが、一の審議会等の委員に10年を超える期間継続して任命しない。

(3)女性委員

委員に占める女性の比率を府省編成時からおよそ10年以内に30%に高めるよう努める。

3.議事

(1)規則の制定

 審議会等は、下部機関の設置、定足数、議決方法、議事の公開、その他会議の運営に関し必要な事項を規則の制定等により明定するものとする。

(2)基本的な政策の審議及び答申

 基本的な政策を審議する審議会等は、有識者等の高度かつ専門的な意見等を聞くために設置されるものであり、行政府としての最終的な政策決定は内閣又は国務大臣の責任で行うものであることを踏まえ、審議及び答申を行うに際しては、次の点に留意するものとする。

①諮問権者は諮問に当たっては、諮問事項に応じて、検討が必要な項目、問題点等をあわせ示すことにより、効率的な審議が行われるようにするとともに、諮問事項の内容により、必要に応じて、答申期限を設けることとし、審議会等はその期限内に答申を行うように努めるものとする。

②審議状況は適時諮問権者に報告することとし、必要に応じて、諮問権者は自らの意見を審議会等に述べることとする。

③審議を尽くした上でなお委員の問いにおいて見解の分かれる事項については、全委員の一致した結論をあえて得る必要はなく、たとえば複数の意見を並記するなど、審議の結果として委員の多様な意見が反映された答申とする。

(3)利害関係者の意見聴取等

①審議会等は、その調査審議に当たり、とくに必要があると認められるときは、当該調査審議事項と密接に関連する利益を有する個人または団体から意見を聴取する機会を設けるよう努めるものとする。

 この場合において、他の関係者の利益との公正な均衡の保持に留意するものとする。

 なお、公聴会の開催等、法令に別段の定めのあるときは、それによるものとする。

②審議会等に対して、①の意見聴取に係る申出または審議会等に関する苦情があったときは、各府省は、庶務担当当局としてこれらの整理等をした上で、その結果を適時に審議会等に報告するよう努めるものとする。

③審議会等の運営に当たっては、広範な分野にまたがる行政課題についての総合的、整合的な取組を推進するため、相互に密接な関連を有する審議会等の連携確保等を図ることとする。

(4)公開

①審議会等の委員の氏名等については、あらかじめまたは事後速やかに公表する。

②会議または議事録を速やかに公開することを原則とし議事内容の透明性を確保する。

 なお、特段の理由により、会議および議事録を非公開とする場合には、その理由を明示するとともに、議事要旨を公開するものとする。

 ただし、行政処分、不服審査、試験等に関する事務を行う審議会等で、会議、議事録または議事要旨を公開することにより当事者または第三者の権利、利益や公共の利益を害するおそれがある場合は、会議、議事録または議事要旨の全部または一部を非公開とすることができる。

③議事録または議事要旨の公開に当たっては、所管府省において一般の閲覧、複写が可能な一括窓口を設けるとともに、一般のアクセスが可能なデータベースやコンピュータ・ネットワークへの掲載に努めるものとする。

 

 一読してこの「審議会等の運営に関する指針」には次のような問題点があることにすぐさま気づくのである。

 ほとんどどの文章にも、主語がないことである。

したがって、行為の主体が全く不明だ。つまり、責任の所在が全く曖昧だということである。

 それに、全国には諮問事項に関する分野を専門とする学識者あるいは専門家は、普通、何千人、何万人といるはずである。なのに、委員に求められるべき条件や資格などは何一つ記されてはいない。ということは、官僚が「専門家」とみなしさえすれば誰でも選任できるようになっていることだ。

 また、審議会等の委員会では、誰が、どのような発言をしようと、その責任を問われることは一切ないこと、つまり憲法が保障している発言の自由が保障されていることについても一切記述はない。

 それに、とくに審議内容に利害関係のある民間人あるいは法人は、どのような理由があろうとも委員として含めてはならないという記述もない。つまり、この指針は、担当官僚には、状況によって、いくらでも恣意的に委員を選任できる指針となっていることだ。

 その一方で、府省出身者つまり官僚OBの委員への任命については、「厳に抑制する」としているだけで、「禁ずる」とは明言していない。

 「審議を尽くした上でなお委員の問いにおいて見解の分かれる事項については、全委員の一致した結論をあえて得る必要はなく、たとえば複数の意見を並記するなど、審議の結果として委員の多様な意見が反映された答申とする。」とあるが、ではそのように併記されて答申されたものを誰がどのような理由と根拠に基づき、責任を持って絞り込むのか、それは諮問権者である閣僚なのか、そこもまったく不明なままだ。

 議論は透明性をもって、完全にオープンにする、とも明記されていない。

「公開」についても、「会議、議事録または議事要旨を公開することにより当事者または第三者の権利、利益や公共の利益を害するおそれがある場合は、会議、議事録または議事要旨の全部または一部を非公開とすることができる」として所管官僚の恣意的判断を差し挟めるように表現しているだけで、たとえ非公開だったものもどれだけの期間が経過したならすべて公開されねばならないという、原則的には全ては公開されるという表記明記もない。

 報告書の本文はすべて委員の執筆に委ねる、という明文化もない。

 議事録の取り方と議事要旨についても、参加委員の全員が承認しうるものでなくてはならないとも一切言及していない。それ以上に、これらすべての会議体も国民の金を使って行われるものである以上、すべて公正で正確な記録として残されなくてはならない、との明記もどこにもない。

 

 実際、こうしてこの「指針」の下に、各府省庁の官僚たちによって作られてきた各府省庁の審議会の数は次のようになる。

 内閣府では22、金融庁では6、消費者庁では2、総務省では14、消防庁では1、法務省では6、外務省では2、財務省では3、文部科学省では7、スポーツ庁では1、文化庁では2、厚生労働省では23、農林水産省では6、林野庁では1、水産庁では1、経済産業省では9、資源エネルギー庁では2、特許庁では1、中小企業庁では1、国土交通省では12、環境省では5、原子炉規制委員会では4、防衛省では3、防衛装備庁では1、復興庁では1。

合計136もある(2022年4月1日現在)。

 

その中でもとくに有名な審議会が、例えば次のようなものだ。

 文科省では、中央教育審議会(いわゆる中教審)、

 厚生労働省では、この国の医療行政のあり方について厚生労働大臣に答申する厚生科学審議会、中央薬事審議会、中央医療審議会、社会保障審議会

 国土交通省では、高速道路やダムなどの社会資本建設の是非について国土交通大臣に答申する社会資本整備審議会

 法務省では、法制審議会

 総務省では、地方財政審議会

 財務省では、国立大学への運営費交付金などの額を財務大臣に答申し、結果として、国立大学の授業料とその変動にも決定的な影響を与える財政制度等審議会

 農林水産省では、農政審議会

 経済産業省では、産業構造審議会

 

 実際には、官僚たちが彼らには与えられてはいない権力を闇で行使しては立ち上げる会議体はこうした審議会だけではない。

例えば国土交通省についてだけを見ても、既述の社会資本整備審議会の下には、それに連結させて、たとえば次のような会議体をずらりと設けている。そしてそうした下部組織としての会議体設立には、中央省庁の国土交通省の各部局と「縦割り」で上下関係で結ばれている都道府県庁と市町村役場の部や課の役人が、官僚たちに隷従するかのようにして協力しているのである。

社会資本整備審議会→道路分科会→関東地方小委員会→ワーキンググループ

 

 もちろんこれらの一連の会議体のいずれにおいても、それぞれの会議体を構成する委員の担当役人による人選の仕方も、その会議の進め方も、官僚による最上位の審議会と全く同じだ。

 ではなぜこのように幾つもの会議体を官僚や役人は設けるのであろうか。

それは、閣議などに提出された最終答申が、どの段階の会議体で出されたのか、そうした経緯を後で誰も辿れないように、あるいは検証もできないようにして、とにかく自分たち「公僕」の責任をうやむやにしてしまいたいがためであろう、と私は彼らの言動を観察してきて推測するのである。実際、彼らは、国民に向かって、組織ぐるみで、ごまかす、言い換える、嘘をつく、あるいは公文書を改ざんする、それを破棄する、そして自分たちの過ちは絶対に認めない、などというのは日常茶飯事繰り返してきた。これすべて、保身のための責任逃れなのだ。

 つまり彼らは、そうしたあり方や生き方そのものが「国を乱す者」という意味での国賊であり、組織の人間である前に、人間として、自身の家族にもその姿も見せられないほど醜く、そして不道徳で、反社会的なものであるということも判断できないのである。

 私たちは、こうした官僚たちの狡猾さには、最新の注意を払う必要がある。もちろんそれは、メディア、特に新聞、テレビのジャーナリズムでは特にそれが要求される。しかし、特に昨今の日本のメディアやジャーナリズムは、残念ながら、そうした官僚たちの真実や実態を報道する勇気も使命感も失っているのである(マーティン・ファクラー「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」、「安倍政権にひれ伏す日本のメディア」双葉社)。