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八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.5 所属府省庁の権益拡大と自己の保身のためには憲法も民主主義も無視する官僚、そしてその官僚に隷従する地方の役人——————(その1)

 今回も、これまで未公開のままで来た節を公開します。

 

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2.5 所属府省庁の権益拡大と自己の保身のためには憲法も民主主義も無視する官僚、そしてその官僚に隷従する地方の役人——————(その1)

 官僚を含む広義の役人とはどのような役割と使命を担った社会的立場の人か、そして彼らは政治家と本来どのような関係にあるべきものかということについては2.3節にて既に明らかにしてきた。

そして彼らは、近代の、たとえばジョン・ロックモンテスキューらによる民主主義統治論と民主主義政治学が確立した考え方に基づいてつくられてきた社会的仕組みの中で生まれてきた社会的存在であった。

 では、私たちの国日本での彼ら役人の実態はどうであったろうか。本節ではそれを明らかにする。ただし、それは、あくまでも私の実体験に基づく範囲内においてである。

 なおここでは、その役人については、本節に限って、便宜上ではあるが、霞ヶ関中央政府の役人と都道府県庁および市町村役場とも呼ばれている地方政府の役人とを区別してゆく。

霞ヶ関中央政府の役人のことを「官僚」と呼び、地方政府の役人のことをそのまま「役人」と呼んで行く。

その場合の官僚についても、彼らの仲間内でよく用いられるらしい「キャリア組」とか「ノンキャリア組」の区別もしない。これまで呼ばれてきた官僚とは、いわゆる「キャリア組」と呼ばれている国家公務員Ⅰ種試験に合格した者のことを言うらしいが、私には、自分が接してきた相手の誰がキャリア組なのか、またノン・キャリア組なのかという区別はつかないからだ。それに、どちらも、言動の仕方には全く違いは見られなかったからである。

 なお、ここで官僚と役人を区別する理由は、2.3節にて見て来たように、両者は、国民から選挙で選ばれた国民の代表である政治家との関係においては、その役割や使命は同じなのだし、それに、憲法上においても、官僚も役人も共に共通に「公務員」とされているし、法律の上でも両者の関係が明文化されているわけではないのだから、官僚も役人もお互いに対等の関係にあって、両者共通に「役人」と呼んで問題ないはずなのだが、その両者の関係の実際のあり方を見ていると決してそうなってはこなかったし、今もそうなってはいないからだ。

そこには明らかに、目には見えない上下の関係が見受けられる。いわゆる「官々接待」はそれを象徴している。あるいは後述する内容から、それがはっきりと見て取れる。そこにあるのは、指図する者とされる者、従わせる者と従わされる者、支配者と被支配者、といった関係だ。

 これなど、歴史的に作られてきた、慣例となっている悪弊というべきものであろう。

 こうした関係にあることについては、役所の外部の市民の側では普段は気づかないが、特に、中央政府の特定の府省庁の役人(官僚)たちが自分たちの所属する府省庁の既得権益の拡大と維持を狙って————そこでいう既得権の拡大と維持とは、彼らの所属する府省庁の専管範囲を拡大することと、その結果としてのその専管範囲の産業界への「天下り」先の拡大と確保である————、その役人たちの間だけで勝手に決めた特定の野心的事業を貫徹しようとした場合には、顕著に表面化する。つまりその関係が私たち国民の目に見えるようになってくる。

その場合、地方政府の役人は、官僚たちに進んで隷従して協力し、一緒になってその野心的目的を完遂しようとする。そこでは官僚も役人も、「法の支配」など全く眼中にない。というより「法の支配」とはどういうことか、彼らの言動を見ていると、それさえ知らないように見える。と同時に、彼ら官僚も役人も、「公務員」・「公僕」・「国民のシモベ」とは何か、ということも全く理解し得てはいない、と見える。あるいはイザッとなると、つまり、自身の保身や栄達がかかると、そんな意識などどこかに吹っ飛んでしまっているようにさえ見える。むしろ、そこにあるのは、国民を度外視した上での、ただ「奢れる者」と「卑屈に隷従する者」との関係だけだ。

 ところが驚くなかれ、この関係は、地方政府相互の役人の間でも見られるのだ。それは、市町村役場の役人が都道府県庁の役人に隷従していることである。

つまり、政府という役所に勤務する日本中の公務員という公務員の間には、無意識の上での封建時代の支配する者と支配される者という上下の関係があるのだ。そこには、人間として、互いに他者を尊重する態度も見られなければ、各々、公務をする者としての誇りも全く見られない————私がこうした様を目撃した実際例は、国土交通省の道路局の官僚が中心となって実現を目論んだ、私たちの住む山梨県北杜市を貫通する形での高速自動車道「中部横断自動車道の北部区間での建設計画」が表面化した2010年12月から2022年の現在までの11年間に山梨県庁の役人と北杜市役所の役人が見せた関係である。私はそこに関わった人物らの実名をあげることもできる————。

 これ一つとってみても判るように、日本の公務員の意識の中には、民主主義や自由の感覚など生まれることもなければ、育ちようもないのである。なぜなら、民主主義や自由の意識や価値観は、上下の関係にある者の間、あるいは支配する者と支配される者という関係にある者の間ではなく、対等の関係の中でしか育たないものだからだ。

それだけではない。「奢れる者」と「卑屈に隷従する者」との関係を自発的に受け入れてしまう者どうしの間では、健全な人格も育ちようがないし、ましてや人格が磨かれることもないのである。

そして重大なのは、そうした彼らの行う行政が国民や住民に対して、民主主義的であることもなければ、人権重視の行政になるはずもない、ということだ。また、透明で公正な行政になるはずもない、ということだ。なぜなら彼らのものの考え方や生き方が公正ではないからだ。要するに惰性による行政、つまり、これまで先任者たちによって為されてきたことを、為されてきた通りに、ただやるだけ、という行政にしかならない、ということだ。

 その象徴的実例が、スリランカ女性ウイシュマさんが名古屋入管(入国管理局)で、全く人権を無視されて亡くなった事件。また、上司から改ざんを命じられて公文書の改ざんをした赤木俊夫さんが、後悔のあまり自殺したことに対して、命じた上司である財務省の佐川理財局長(当時)が最後まで自らの責任を認めようとはしなかった事件だ。

 

 私は、拙著の読者の皆さんには、ここで、特に訴えたい。

官僚と役人との間には、また役人と役人との間にも、こうした非人間的な関係が日常的にあり、またこうした関係を維持しながら、彼らは公務をしているのだということを、どうかご自分の目で確認していただきたい、と。そして特にこの国の、それこそ日本中で行われている大規模な「公共」と名の付く事業では、その場合も特にその事業に対して関係住民の大半が反対しているような事業においては、官僚と役人は、また役人と役人は、「法の支配」を全く無視しながら、そして「縦割り」という悪しき関係を当たり前のように維持しながら遂行しているのだということをも、ご自分の目で確認していただきたい、と。

 なぜこうした関係が維持されて、その下で行政が行われていることが好ましくないこと、というより、そういう関係であるということは、中央府省庁(の官僚)に対して、都道府県庁(の役人)は「自治体」とは名ばかりになることであり、都道府県庁(の役人)に対して市町村役場(の役人)も「自治体」とは名ばかりになることだからである。つまり「従属体」でしかないからだ。

 そして、その場合、決まって言えることは、官僚と役人、あるいは役人と役人との間でのこうした非公式で非人間的な関係があることに対して、私たち国民の政治的代表であるはずの政治家は、国民の代表として、そういう関係を維持することをやめさせる方向で介入することは一切なく、全く放任して来ている、ということについても、どうかご自分の目で確認していただきたい、と。

 なお、ここで言う政治家とは、国会議員、都道県議会議員、市町村議会議員の全員である。 

つまり、2.2節で詳述して来たが、ここでも、この国の政治家という政治家は、政治家として何の役にも立ってはいない。役に立っていないどころかむしろこの国と国民にとっての害悪を撒き散らしてさえいるのだ。その害悪とは、民主主義を裏切りながら、官僚独裁役人独裁を容認し、また放置し続けていることだ。

そうなるのも結局は、国会議員も都道県議会議員も、そして市町村議会議員のいずれも、やはり、「政治とはそもそもどういうことか」から始まって、「政治家とは何か」、「国民の代表とは何か」ということについて、全くと言っていいほどに無知で無関心で不勉強だから、と私は言いたい。つまり、「己」に義務を課さず、甘えすぎているのだ。

 そして、官僚と役人との関係、役人と役人との関係、そして政治家と官僚、あるいは政治家と役人との関係がこうなるのは、詰まるところ、日本国憲法憲法として不備だからだ、と私は考える。

なぜなら、もし、中央政府と地方政府の間での、さらには地方政府の中でも都道府県庁と市町村役場との間での、それぞれの行政府間での管轄事項の範囲とそれに伴う権限と責任の範囲が憲法の中で明文化されていたなら、あるいは各行政府の長である首相の権限・責任と都道府県知事の権限・責任と市町村長の権限・責任という区分が憲法の中で明文化されていたなら、こうしたことは決して起こりえないからである。

実際、こうした権力区分の明確化は一般法に書き込めることではなく、国家のあり方を明文化する憲法の中にしか表現できないのだからだ。しかし、この国の政治家は、戦後になってもなお、その大多数が、民主政治のあり方を説く原典————例えばロックでありモンテスキューでありルソーなど————すら読もうとはせず、また客観的状況の激変など全く意に介さずに、さらには母国の将来のあるべき姿にも全く無関心な上に、国民から負託された権力をあろうことか官僚や役人に丸投げしては、立法を彼らに放任し、そして追随しているだけだから、こうした自国憲法の欠陥に気付くはずもないのである。

 政治家の無為無策無責任はそれだけではない。明治欽定憲法下で「天皇のシモベ」として育った官僚たちによって戦後間もなくして作られた、例えば民法地方自治法や災害救助法などの国民生活にとって極めて重要な法律についても、国会議員でさえも全くと言っていいほどに作られた当時のままに放置してきたのだ。近年、裁判になってその存在が明らかになった旧優生保護法などもその典型だ。

 

 そこで、この国の官僚と役人の実態を明らかにする上で是非とも挙げなくてはならないことは、私は次のことであると考えるのである。これまで記してきたことと重複するものもあるが、あえて記したいと思う。もちろん、これらは全て私自身が幾多の官僚や役人と直接、幾度も接してきた体験に基づくものである。

1. 第一に挙げなくてはならないことは、両者共に、日本国憲法がその第15条の第2項で明記している「(国民)全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」という意味での「公務員」という意識などほとんど持ってはいないし、またそれにふさわしい行動などしていないということである。とくに官僚においては。

 それどころか、官僚は、面と向かって話していて、誰も、むしろ自分たちこそが国を動かしているのだ———つまり、口でこそ言わないが、その行動からは、自分たちこそが主権者なのだ、国民ではない。国民は愚かだし、その代表である政治家も皆愚かで、彼らに任せていたのでは国は動かない。だから、彼らはオレたちのやろうとしていることのためにうまく利用すればいいのだ———という傲慢な態度が端々に見えるのである(保阪正康「官僚某国」朝日新聞社)。

 一方、役人の方も、公務員を規定している憲法の条項も知らないし、したがって公務員とは何かということを問われても即答もできないまま、つまり主権者とのあるべき関係も知らないで日常の業務をこなしているのである。だから、各々、今、自分がしていることは、何のために、そして誰のためにしているのか、ほとんど判ってはいない。

 

2.この国の官僚と役人の実態を明らかにする上で第二に挙げなくてはならないことは、政治家たちがその使命を果たさないが故に、実質的に彼らが法律や条例を作るのであるが、ところが政治家が立法権を官僚に丸投げしていることをいいことにして、彼らが作るそれらは、していいこととしてはならないこと、何が許されて何が許されないかを、国民の実用に役立つようには明確には書こうとはしていないことである。むしろその辺を故意に曖昧にしてしまっていることだ。それは、法律を運用する立場の彼らにはその方が好都合だからだ。自分たちの恣意性をいつでもその法律に挟められるからだ。

 つまり、官僚や役人は、公式の法律を、非公式の権力を行使しうる手段にさえしてしまっているということである。

 なおここに、非公式の権力とは、法律の規制を受けない権力のこと。

 したがって、例えばこの国の首相は、「法の下での平等」とか「法の支配」が守られるべきとは言うが、被統治者である私たち国民にとっては、その法律自体が、国民の誰もが平等に扱われる法律とはなっていないのである。

 

3.この国の官僚と役人の実態を明らかにする上で第三に挙げなくてはならないことは、本来、あるいは民主政治理論上においても、彼ら「公僕」には主権者から与えられるはずもない権力を、それも特に官僚は既述の意味での非公式の権力をしょっちゅう、それも恣意的に行使しては、自分たちの既得権の拡大や維持を最優先していることである。

つまり、「法の支配」や「法治主義」をしょっちゅう無視している、ということである。

 なお、「法の支配」とは、恣意的な支配を排斥して、権力を法によって拘束することであり、「法治主義」とは、行政権の行使には法律の根拠が必要であるとする考え方である(山崎廣明編「もういちど読む政治経済」山川出版社p.8)。

 また官僚や役人らは、自分たちの既得権の拡大や維持のためには、法律の条文による規定の範囲の外で物事を決め、そしてそれを執行しているということだ。

つまり官僚や役人らは、日常的に大掛かりなペテンをしているということだ。

 もちろん、こうなるのも、元はと言えば、1.にて述べてきたように、官僚や役人には、「公務員」とは何かということの理解もなければ、その意識も認識もないからだし、政治家は政治家で、主権者である国民の代表として官僚や役人をコントロールする役割があるのに、その役割は全く果たさないし、官僚や役人のやっていることを国民になり代わってチェックもしていないからだ。

 

4.この国の官僚と役人の実態を明らかにする上で第四に挙げなくてはならないことは、彼らがしょっちゅう「法の支配」を無視して行使するその非公式の権力は、非公式なるが故に、あるいは本来彼らには与えられてはいない権力であるが故に、一人では行使することができず、また一人で行使する勇気もないが故につねに集団で行い、それも、中央府省庁から地方の市町村役場にまで至る縦割の組織構成という、これも何ら法律で定められたものではない慣例的仕組みを最大限悪用した形で行い、しかもその非公式権力の行使の仕方あるいは手口は、極めて陰険で、狡猾で、傲慢不遜であることだ。

 なお、上記の1.〜4.のいずれに対しても共通に言えることは、官僚と役人がこうした行動を取れるのも、結局のところ、主権者である国民から選挙で選ばれることを自ら望んで選ばれた政治家という政治家が、国民の代表あるいは代理としての役割と使命であるところの「立法」をしないことと、官僚と役人を「国民のシモベ」としてふさわしい行動ができるよう常にコントロールしなくてはならないのにそれを全くせずに、むしろ官僚あるいは役人に操られてばかりいることである。

 そして政治家がそうなるのも、つまるところ、彼らは、政治家であったなら絶対に知っていなくてはならない、それも一式揃って関連性を持たせて知っていなくてはならない次のような政治的重要諸概念を知らないからだ、と私は断定できる。実際、民主政治とは、次のような一連の諸概念が内的連関性をもって正しく理解された上で、その一つひとつが意味するところが正しく実践的に生かされることによって初めて実現されうるものだからだ。

————国家、主権、国、政治、選挙の意味と目的、政治家の役割と使命、権力の意味とその成立の根拠、議会、立法権、最高権、政府、内閣、閣議、行政権または執行権、司法権三権分立、民主主義、議会制民主主義、立憲主義憲法、法律、独立国、自由、平等、共同体、市民、権利、人権、統治、首相、首長、閣僚、自治、役人(公僕)の役割と使命、法の支配、法治主義、独裁、等々である。

 

 ここからは、以上の1.〜4.までの、この国の官僚と役人の実態あるいはその行動特性の意味するところの具体的事例を挙げて行こうと思う。

 

 まず1.について。

①こう断定できる根拠の一つは、国民が、主権者として、官僚あるいは役人に対して、今、彼らがしていることの「説明」を求め、その回答を文書で答えてもらいたいと要求しても、つまり「説明責任」を果たせと要求しても、“口頭で答える”と言うだけで、決してその要求に応じないこと。

 また、それでも政治家の要請があったりして、仕方なしに出さねばならないようなことになっても、その時、彼ら官僚や役人が提出する文書は、彼らは公文書としてのあるべき体裁を知っているにも拘らず、それを無視して、それを発行した者や、発行年月日、等をあえて記さずに、責任の所在を不明にさせてしまうことだ。

 その場合、当該問題に関わりのある地域に関係する政治家は、既述のように、自分は関わろうとはせずに、むしろ官僚や役人に放任しながら事態の成り行きをただ傍観しているだけだから、彼は、国民の代表として、官僚あるいは役人をコントロールして、「国民の要望に答えよ」、「説明責任を果たせ」とも指示しないのである。

 なお、ここで、説明責任とは、「自分の判断や行動を、社会に対して説明する義務」、のことを言う(カレル・ヴァン・ウオルフレン「システム」毎日新聞社p.81)。

②もう一つは、公務員法では「公務員のストライキ」は禁じられているのに、サボタージュすることだ。

 とくにこの国の政府の官僚は、普段から、国を動かしているのは自分たちであって政治家ではない、自分たちは総理大臣さえ動かすのだという意識でいる(保坂正康「官僚亡国」朝日新聞出版)。

③それどころか、彼ら官僚の所属府省庁の既得権が特定の力ある政治家に脅かされたり、その政治家の掲げる政策によって縮小を余儀なくされたりしてしまうという脅威を感じた場合には、彼らは密かに組織を挙げて結束して組織防衛に動く。その場合、それこそ非公式の権力を闇で行使しては、憲法が言う「全体に奉仕する公務員」という意識など毛頭なく、きわめて陰湿な行動に出る。

たとえば、その組織を挙げて既述のサボタージュをしたり、その政策の執行を妨害する側に回る。さらには、妨害して、その政策を進めようとする政治家を失脚させようとさえ企む。その場合、閣僚はもちろん、首相さえ対象になる。

 失脚させ、政治生命を奪おうとする手口は、たとえば法務省官僚に手を回し、検察庁官僚を動かし、本当は政治家の誰もが大なり小なり同じようにしていることなのに、該当する法律の条文を曖昧にして作成してあることをこういう時には最大限、恣意的に運用しては活用する。

つまり自分たちが抹殺したいと考える特定の政治家だけをターゲットにして法律違反の容疑者に仕立て上げ、起訴するというものだ。実際、脅威を感じた官僚たちによって、この手法に拠りターゲットにされたのが例えば田中角栄氏であり小沢一郎氏だ。

 つまり「国民のシモベ」の立場である官僚が、主権者から選挙で選ばれた代表に反逆するだけではなく、その代表を政治的に葬り去ろうとすらするのである。

④もちろん、そうした非公式権力を闇で行使しては、自分たちの野心を貫徹させようとの企てを続ける行為そのものに人件費がかかっていて、そこには国民の税金が使われているのであるが、彼ら官僚や、官僚に隷従する役人らにはその認識もない。

 つまり、「国民のシモベ」の立場でありながら、官僚も役人も、国民の金を横領しているのだ。

 こうして、官僚も、役人も、自分たちが今いったい何をしているか、その意味すら判らないで行動するのである。それは、いわば、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の態度だ。だからそんな組織には自浄能力などあろうはずもないし、もちろん自制心もない。

⑤一旦始めたことは、途中で、事情や情勢が変わっても、再検討することもせず、中断することもなく、もちろん中止することもなく、最後までやりきってしまう。そしてその結果に対して、官僚や役人の誰も責任を取らない。

⑥彼ら一人ひとりの心理の奥底にある基本的価値規準は、共通して「自己利益」と「我が身の保身」であり、それに根ざした「損得」だ。彼らの意識の中には、「信頼」とか「正義」、「正直」、「誠実」そして「人権」という観念はない。もちろん国民への忠誠心や愛国心も、微塵も見られない。むしろ、見られるのは、愚民意識だ。明治期以来の官尊民卑の思想だ。

 これは見方を換えれば、彼らには、生き方において、確信の持てるものがない、自分を確固として支えてくれる思想なり信念がない、ということだ。

 それだから、そうした価値基準と愚民思想の下に行動した結果として招いた結果については、それがたとえ失敗であっても、勝手な理屈をつけて言い逃れをするか開き直るしかない。というより、そもそも責任という言葉の意味、責任をとるということがどういうことか、どうすることが責任をとることなのか、それすら理解していないし考えてもいない風だ。

 これはもう、無能無責任と言う以前に、精神レベルや倫理レベルは小学生以下だ。

それだけにいっそう質の悪い。なぜなら、彼らはなまじっか法律をつくり、また運用できる立場にいるからだ。その立場を悪用して、国民全体の「生命・自由・財産」の安全を根底から脅かし、国家の安全保障を脅かしながら、自分たちの組織だけの利益と安泰のために勤めているからだ。その悪質さの度合いや悪影響の及ぶ範囲は、たとえば「盗み」や「詐欺」あるいは「交通違反」などとは比較にもならない。止むに止まれぬ思いで人を殺めてしまう犯罪に比べてもだ。世に言うヤクザと呼ばれている人たちと比べてもだ。

 要するに、彼ら官僚や役人は、その一人ひとりにとって保身や栄達がかかっているとなると、やすやすと精神的ゴロツキ集団、無法者集団へと変貌するのである。それは、所属組織を上げて民主主義政治体制という国是としての国家体制、つまり今様の「国体」に反逆する、国家反逆者・社会秩序の破壊者集団と化すことでもあるのである。

⑦「天下り」を止めないことである。

そもそも、その「天下り」という言葉そのものが、言ってみれば“誰かが天上から降り下ってくる”ということを他者あるいは社会に思わせる、そしてそのことを官僚あるいは役人らは、何の違和感も感じていないところに、自分たちこそが国を動かしているのだという傲慢さと本心が透けて見える表現と言えるのである。

⑧日本国の中央政府の内閣という政府の中枢の議論の場である閣議において、そこに議論のための議案として提出される案件は、各府省庁の官僚たちが日常の公務の中で国民から汲み上げた国民の要望に基づく案件ではなく、またそこに居並ぶ政治家たちが選挙のとき以来掲げてきた自らの公約を実現するための案件でもなく、決まって、各府省庁の官僚のトップである事務次官たちの合同会議にて全員合意を見た案件だけであること。

 つまり、「国民のしもべ」であるはずの官僚たちが日本国を乗っ取っているのである。そして政府の政治家たちは、それを容認さえしているのである。

 実際、これと同様のことが、地方政府でも行われている。

 これでは、いつまでたっても、この国には、また地方にも、自由も民主主義も実現するはずもない。政治家たち自身が国民を裏切り、民主主義を裏切っているのだからだ。

 

 次に2.について。

 その好例が、実質的に官僚らによって作られてきた日本のほとんどの法律条文を見れば判るように、“・・・・することができる”とか、「・・・等」という表現がいたるところに見出せることだ。

 この場合、その法律条文を適用し、運用するのは常に官僚であること————法務省の官僚、検察庁の官僚、警察庁の官僚等————、そして適用されるのは一般国民であることを考えてみればわかるように、 “・・・・することができる”という表現は、法の適用に際して、曖昧さが残されているために、法の運用者の恣意性が十分に入りうる。あるいは法の運用者は、自らの「気まぐれ」をそこに介入させられる。

 これでは、誰もが平等に扱われたいと望む国民にとっては、すでにそこには公平性と公正性が失われていることだ。それは、国民に法律そのものを信じられなくさせてしまうことだ。

「・・・等」という表現についても同様で、その「等」の中には何が含まれるのか、それは被統治者である国民には判らない。

となれば、これも、誰もが平等に扱われたいと望む国民にとって、こんなに不安で、恐ろしいことはないのである。

 尤もこうした法を作られてもノーテンキでいるのがこの国の政治家なのだ。

 

 官僚や役人は、いかに「曖昧」な文章を作ることに長けているか、実際例を以下に示す。

これは官僚が自分たちの所属府省庁にとって好都合な、つまり既得権を拡大し、またそれを維持するための新しい法律案を作成するにあたって常套手段として用いる「審議会」を立ち上げる際に、それを正当化するために用いる、彼らのお手盛りのルールとしての「指針」である。

 この「指針」は、その名称からも判るように、政府のどの府省庁の審議会等の各種委員会にも適用されるものであり、平成11年4月27日に閣議決定され、今も生きているものである。

 下線部の文言には特に留意してお読みいただきたい。

 

「審議会等の運営に関する指針」

 審議会の運営については、次の指針によるものとする。

 

1.委員構成

 委員の任命に当たっては、当該審議会の設置の趣旨・目的に照らし、委員により代表される意見、学識、経験等が公正かつ均衡のとれた構成になるよう留意するものとする

審議事項に利害関係を有する者を委員に任命する時は、原則として、一方の利害を代表する委員の定数が総委員の定数の半ばを超えないものとする。

2.委員の選任

(1)委員の選任

①府省出身者

 府省出身者の委員への任命は、厳に抑制する。

 特に審議会の所管府省出身者は、当該審議会等の不可欠の構成要素である場合、又は属人的な専門知識経験から必要な場合を除き、委員に選任しない。

②高齢者

 委員がその職責を十分果たしうるよう、高齢者については、原則として委員に選任しない。

③兼職

 委員がその職責を十分果たし得るよう、一の者が就任することができる審議会等の委員の総数は原則として最高3とし、特段の事情がある場合でも4を上限とする。

(2)任期

委員の任期については、原則として2年以内とする。

再任は妨げないが、一の審議会等の委員に10年を超える期間継続して任命しない。

(3)女性委員

委員に占める女性の比率を府省編成時からおよそ10年以内に30%に高めるよう努める。

3.議事

(1)規則の制定

 審議会等は、下部機関の設置、定足数、議決方法、議事の公開、その他会議の運営に関し必要な事項を規則の制定等により明定するものとする。

(2)基本的な政策の審議及び答申

 基本的な政策を審議する審議会等は、有識者等の高度かつ専門的な意見等を聞くために設置されるものであり、行政府としての最終的な政策決定は内閣又は国務大臣の責任で行うものであることを踏まえ、審議及び答申を行うに際しては、次の点に留意するものとする。

①諮問権者は諮問に当たっては、諮問事項に応じて、検討が必要な項目、問題点等をあわせ示すことにより、効率的な審議が行われるようにするとともに、諮問事項の内容により、必要に応じて、答申期限を設けることとし、審議会等はその期限内に答申を行うように努めるものとする。

②審議状況は適時諮問権者に報告することとし、必要に応じて、諮問権者は自らの意見を審議会等に述べることとする。

③審議を尽くした上でなお委員の問いにおいて見解の分かれる事項については、全委員の一致した結論をあえて得る必要はなく、たとえば複数の意見を並記するなど、審議の結果として委員の多様な意見が反映された答申とする。

(3)利害関係者の意見聴取等

①審議会等は、その調査審議に当たり、とくに必要があると認められるときは、当該調査審議事項と密接に関連する利益を有する個人または団体から意見を聴取する機会を設けるよう努めるものとする。

 この場合において、他の関係者の利益との公正な均衡の保持に留意するものとする。

 なお、公聴会の開催等、法令に別段の定めのあるときは、それによるものとする。

②審議会等に対して、①の意見聴取に係る申出または審議会等に関する苦情があったときは、各府省は、庶務担当当局としてこれらの整理等をした上で、その結果を適時に審議会等に報告するよう努めるものとする。

③審議会等の運営に当たっては、広範な分野にまたがる行政課題についての総合的、整合的な取組を推進するため、相互に密接な関連を有する審議会等の連携確保等を図ることとする。

(4)公開

①審議会等の委員の氏名等については、あらかじめまたは事後速やかに公表する。

②会議または議事録を速やかに公開することを原則とし議事内容の透明性を確保する。

 なお、特段の理由により、会議および議事録を非公開とする場合には、その理由を明示するとともに、議事要旨を公開するものとする。

 ただし、行政処分、不服審査、試験等に関する事務を行う審議会等で、会議、議事録または議事要旨を公開することにより当事者または第三者の権利、利益や公共の利益を害するおそれがある場合は、会議、議事録または議事要旨の全部または一部を非公開とすることができる。

③議事録または議事要旨の公開に当たっては、所管府省において一般の閲覧、複写が可能な一括窓口を設けるとともに、一般のアクセスが可能なデータベースやコンピュータ・ネットワークへの掲載に努めるものとする。

 

 この「指針」を一読しただけでも、この後すぐに記すような問題点に気づくのであるが、政治家(総理大臣を含む全閣僚)は、こんなお粗末な内容のものを「閣議決定」しているのである。

 この事実からも閣議というものがどの程度のものであるか、そして何をしている場であるかが推測できるのである。それは、国民から選ばれた代表として、国民を思う閣僚同士の議論の場などでは決してなく、よく言われるように(カレル・ヴァン・ウオルフレン「日本という国をあなたのものにするために」角川書店P.109)、あるいは元総理大臣をした菅直人氏も認めているように、各府省庁の官僚トップの事務次官たちの合同会議が全員一致で出してきた案件を15分かせいぜい20分で追認するだけの、単なる押印会でしかないということだ。でなくては、こんなお粗末な「審議会等の運営に関する指針」が閣議決定されてしまうなどということはあり得ない。余りにも無責任すぎるし、こうしたことからも、この国の中央政府の各大臣は、何のために、誰のために大臣をしているのかさっぱり判らないし、結局、法外とも言える議員報酬と名誉欲と権力欲を満たすためだけなのか、と私など考えざるを得なくなってしまうのである。

 そもそも、TVに時折映し出される、閣僚たちが総理大臣を真ん中にしてコの字上に、ソファーにどっかと腰掛けて居並ぶ閣議前の姿からして、あれを「閣議」に入る前のふさわしい姿と見る者などどこにいよう。実際、では閣議はどのように行われているかとなると、国会中継の場合とは違って、TVの画面に映し出された閣議の状況を見た者など、閣僚経験者以外の一般国民の中に、果たして一人でもいるだろうか。

 私が気づく範囲でも、当該「審議会等の運営に関する指針」の問題点とはこれだけあるのだ。

 ほとんどどの文章にも、主語がないことだ。

したがって、行為の主体が全く不明だ。つまり、責任の所在が全く曖昧だということである。

 それに、「委員構成」における「委員により代表される意見、学識、経験等が公正かつ均衡のとれた構成になるよう留意する」ことよりも、また「基本的な政策の審議及び答申」における「基本的な政策を審議する審議会等は、有識者等の高度かつ専門的な意見等を聞くために設置されるものであ」るとすることよりも、はるかに重要で肝心なことは、官僚にとってではなく、主権者である国民にとって、どれだけ幸福度が向上し、どれだけ暮らしの安心の度合いが高まり、またどれだけ国の安全保障が高まる意見や学識を提案してもらえる識者を全国の津々浦々から発掘するかということであるはずなのに、そうした知識人を公正公平に発掘し、選任するための方法や条件は、全く示されていないこと。

つまり、委員に求められるべき条件、資格など、何一つ記されてはいない。ということは、官僚が「専門家」と判断しさえすれば、誰でも選任できるようになっていることだ。それに、もともと委員は、意見や学識や経験を「代表」しているわけでは決してない。

 また、審議会等の委員として選任された場合、そこでの発言内容については、一切、責任を問われることはないこと、つまり憲法が保障している思想・信条と言論・発言の自由が審議会でも保障されることについても一切記述はない。

 それに、「専門家」ではない一般の生活者、とくに審議内容に利害関係のある生活者が、個人と団体を含めて、公平な数で加わることも、民主主義を実現する上でとくに大切なはずだが、それについての言及も一切ない。

 その一方で、府省出身者つまり官僚OBの委員への任命については、「厳に抑制する」としてあるだけで、「禁ずる」とは明言していない。

 「審議を尽くした上でなお委員の問いにおいて見解の分かれる事項については、全委員の一致した結論をあえて得る必要はなく、たとえば複数の意見を並記するなど、審議の結果として委員の多様な意見が反映された答申とする。」とあるが、ではそのように答申されたものを、誰がどのような理由と根拠に基づいて絞り込むのか、そこは完全に諮問権者である閣僚の判断に任せられるのか、そこもまったく不明なままだし、その過程も公開されなくてはならないとも明記してはいない。

 議論は完全にオープンにする、という考え方も明文化もない。

「公開」についても、「会議、議事録または議事要旨を公開することにより当事者または第三者の権利、利益や公共の利益を害するおそれがある場合は、会議、議事録または議事要旨の全部または一部を非公開とすることができる」として所管官僚の恣意的判断を差し挟めるように表現しているだけで、「非公開にできる期間」も一切言及していなければ、どのような審議内容と経過も、ある期間を経過した後には、必ず公開されねばならない、といった内容の明記もない。

 報告書の本文はすべて委員の執筆に委ねる、という考え方も明文化もない。

議事録の取り方と議事要旨についても、参加委員の全員が承認しうるものでなくてはならないとも一切言及していない。それ以上に、これらすべての会議体も国民の金を使って行われるものである以上、すべて公正で正確な記録として残されなくてはならない、との明記もどこにもない。

 本来、その審議が公正かつ客観性を保ためには、利害関係者ないしは利害当事者は含めるべきではないのに、そのことを明記する文言もどこにもない。

 

 とにかく、この「指針」には、「留意する」、「原則として」、「厳に抑制する」、「努める」、「できる」等々と、選任する側の官僚の恣意あるいは恣意的裁量をいくらでも挟める文言がいたるところに散りばめられていて、もう、それだけで、この指針は、「あっても、無きがごとき」ものとなっている。

 全国には諮問事項に関する分野を専門とする学識者あるいは専門家は、どの諮問事項を取って見ても、何千人、何万人といるはずでる。なのに、その中から、審議会等を所管する官僚にとって好都合な有識者だけを恣意的に選任することができるとなったら、その審議会の審議の行方や結論は、担当する官僚が、その官僚ないしはその官僚が所属する府省庁にとって好都合な審議会の座長、言い換えれば官僚の傀儡となってくれる座長を選任できた時点で、官僚たちの目論みは、事実上、成就したことになるのである。実際、誰が誰の指示のもとに審議会を立ち上げるのか、審議会の委員にしても座長にしても、誰が、いつ、どのような手順と規準で、誰の承認の下に、選任するのか、それとも、委員の中から互選で決まるのか、それらをまったく不明なままにしている。

 座長をコントロールして審議会の答申をすぐに出させては、国民に見透かされるから、座長には、いかにも国民の声に耳を傾けている振りをさせて、一定程度の時間を費やさせればそれでいいのである。

 そしてこの「指針」の下に、各府省庁の官僚たちによって次々と作られてきた審議会が、例えば以下のものである。

 こうした審議会は、政府内の各府省庁には合わせて何と212もあるという(並木信義「通産官僚の破綻」講談社+α文庫p.344)。

その中でもとくに有名な審議会は、例えば次のようなものだ。

 文部省(文科省)では、中央教育審議会(いわゆる中教審)、

 厚生省(厚生労働省)では、この国の医療行政のあり方について厚生労働大臣に答申する厚生科学審議会、中央薬事審議会、中央医療審議会、社会保障審議会

 建設省国土交通省)では、高速道路やダムなどの社会資本建設の是非について国土交通大臣に答申する社会資本整備審議会

 法務省では、法制審議会

 自治省総務省)では、地方財政審議会

 大蔵省(財務省)では、国立大学への運営費交付金などの額を財務大臣に答申し、結果として、国立大学の授業料とその変動にも決定的な影響を与える財政制度等審議会

 農林水産省では、農政審議会

 経済産業省では、産業構造審議会

 

 実際には、官僚たちが彼らには与えられてはいない権力を闇で行使しては、「法の支配」や「法治主義」を侵して立ち上げる会議体はこうした審議会だけではない。

例えば国土交通省についてみれば、こうした審議会の下には、さらにそれに連結させて、たとえばこのようなものをズラッと設けている。

社会資本整備審議会→道路分科会→関東地方小委員会→ワーキンググループ

 

 もちろんそれらのどの会議体においても、それぞれの会議体を構成する構成員の人選の仕方も、会議の進め方も、恣意的であることは審議会と全く同じだ。