LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.5 所属府省庁の権益拡大と自己の保身のためには憲法も民主主義も無視する官僚、そしてその官僚に隷従する地方の役人——————(その2)

 今回は、前回の続きです。

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2.5 所属府省庁の権益拡大と自己の保身のためには憲法も民主主義も無視する官僚、そしてその官僚に隷従する地方の役人——————(その2)

 

次に3.について。

 以下に示す実例は、私自身が直接見聞きしたことである。

それは、国土交通省の官僚が中心となって、私たちの住む山梨県北杜市を貫通させて実現を目論む「中部横断自動車道」のいわゆる「北部区間」と呼ばれる、全長およそ40キロメートルの間での建設事業を巡って、国土交通省の官僚、そしてその官僚に進んで隷従した山梨県庁と北杜市役所の役人の言動についてである。

その言動が、表記した官僚と役人の第三の行動特性あるいは実態を裏付けていることを実証しようとするものである。

 そこで、この実例の具体的な説明に入る前に、この「中部横断自動車道」の「北部区間」の問題の背景と、これが当地で問題となり始めたきっかけについて予め明確にしておこうと思う。

 この問題が公式に表面化し始めたのは平成23(西暦2011)年2月である。

そのときすでに官僚らの言動に疑問を持ち始めた私は、の質問に、甲府市にその事務所を置く国土交通省の「河川国道事務所」の計画課のW氏とM課長に電話で直接質問したのである。彼らが答えたところによると、彼等官僚たちのその行為は「国土開発幹線自動車道建設法(通称、国幹自動車道法)」という法律に根拠を持ち、“この中部横断自動車道の建設は同法律の中に位置づけられていて、国のいわゆる新直轄方式に拠る事業とされているものである”、とのことであった。“ただし、同区間は1997年に建設区間などを定めた基本計画区間となっているだけで、着工の承認は国会で未だなされてはいない”、とのことだった。

 そこで私は確認のために、その法律なるものだけをW氏に頼んで郵送してもらって読んでみた。するとすぐにも気がついたことであるが、その法律には、国家を成り立たせている主権者としての国民、とくに道路ができることによって直接影響を受ける関係住民の意向を十分に考慮すべきだとする条項はどこにもない。しかも同法は平成11年(1999年)に改正されたままで、その後はこの国の社会状況や経済状況の変化に対応して改正されたという形跡もないし、ましてやその時点で、既に国連でも今後人類にとっての最大の脅威となると受け止められていた環境問題、とりわけ地球温暖化の問題や日本も既に1993年に批准していた生物多様性条約への配慮などもどこにもない代物だということだ————つまり、ここでも、この国の国会議員は、国の内外の変化に応じた既存法の改正という国民のために為すべき役割の何も果たしては来ていなかったのである!————。

 

 したがって、今、この「中部横断自動車道」の「北部区間」の問題を論じるときには、とくに注目しておかねばならないこととして、この国幹自動車道法という法律の中では「中部横断自動車道」のルートのうち、当地で問題となっている「北部区間」と呼ばれる「長坂〜八千穂」間については未だ「基本計画」の段階であるため、工事を着工することはもちろん具体的なルートについても、国会はいまだ議決もしていないということである。

 国会が決議していないということは、民主主義政治理論から言い換えれば、国民がこの事業には合意をしていないということであり、さらに言えば、この事業に関しては、国民の金を使うことについても国民は未だ一切合意もしていない、ということでもある。

 そういう意味で、官僚たちが国幹自動車道法をどんなに自分たちがやろうとしていることの根拠として持ち出そうが、また同法を彼等の行為や目論みを正当化する根拠として持ち出そうが、「国権の最高機関」である国会がこの事業の実施について合意の議決をしていない以上、彼らの主張は全く法的根拠は持たないというだけではなく、北部区間に関連するどのような活動をすることも———たとえば、すぐ後で述べる、住民に対してアンケートをとるとか、調査活動をするとか、竣工時の道路イメージを展示する施設をつくるとか———、一切許されてはいないということなのである。

なぜなら、そうした活動をすることは、少なくとも人件費を含むそれなりのコストがかかるわけで、それは国民の税金を使うことになるからである。

つまり、今の段階では、彼ら官僚や官僚に隷従する役人は、自分たちの目論見通り行動していいという理由はどこにもないのであって、後述する類の活動をするということは、官僚も役人も、等しく国民のお金である税金を横領していることでもあるのだ。

 ところが、実際には、官僚も、その意を受けた役人も、国会が工事着工の議決を少しでも早くしてくれるような状況を作るために、国土交通大臣に関係住民の間の真実や不都合な真実は一切伝えずに、自分たちの目論見に賛成してくれる議員や人間だけを担ぎ出しては、彼らには国民から付託されることは決してない権力を、それも法律に基づかない権力を、闇で行使し続けているのである。

しかし、それは「国民のシモベ」である官僚や役人がすることでもなければ、やれることでもないのである。

 しかし、こうした原則を全く理解しないか、それとも全てを官僚や役人任せにしているせいか、この国の国会議員をはじめ、都道県議会議員や市町村議会議員はもちろん、「法の支配」あるいは「法治主義」の観点から、官僚をコントロールすべき国土交通大臣が、また同じ観点から、役人をコントロールすべき山梨県知事や北杜市長という首長が、官僚や役人のそうした彼らの権限を超えた言動を制止もできなければコントロールもできないのである。つまり、国民の代表としての役割など全く果たしていないのである(2.2節)。

 その結果、この事業に関係する私たち関係住民は、すでに足掛け11年間にもわたって、官僚と役人らの無法行為によって苦しめられ続けているのである。

 

 そこで、ここでの実例を見ていただく際には、次の3つの民主主義政治上の原則を改めて明確にしておかねばならない。それは、この実例を、この3つの民主主義政治上の原則に照らし合わせて検証しようとするからである。

 そしてそのためには、まずは、権力とは、最も一般的には、「他人をおさえつけ、支配する力」のこと(広辞苑第六版)、あるいは「他者を、自分の意思に基づき、従わせる力」のことであるということを前提とする。

 したがって例えば、次のような場合もその権力の行使に当たる。

国民あるいは住民を、ある場所に集めること。また、集めた住民に意見を言わせること。会議体を設立しては、座長を含めて、それを構成する委員を選任してその地位に就かせること。またその会議体を仕切ること。また、他者を罰すること。

 そこで、第1としては、こうしたことを「公務」として行う場合には、そこには常に人件費という費用がかかるが、その費用には「公金」、つまり国民あるいは住民が納めた税金が使われることになるので、その場合には、当然、事前に、国民あるいは住民の了解あるいは合意が必要となる。あるいは国民あるいは住民の代表である議会の了解が必要となるのである。

 つまり必ずそのような「手続き」を経る必要があるのである。

 これを【原則1】とする。

 2つ目は、国家という共同体を互いに合意の上で結んで国民となった者は、その一人ひとりが主権者としての権力を保持するのに対して、その国民のシモベである官僚あるいは役人は、「公務員」としての立場から直ちに判断できるように、国家の主権者である国民から権力を付託されることは決してない、ということである。

したがって、唯一次の場合を除いては、彼ら官僚あるいは役人はどのような権力をも行使することはできないのである。その唯一の場合とは、すでに確定して公布された法律に基づく場合のみである。

 世界の民主主義国のいずれもが遵守する「法の支配」や「法治主義」はこの原則に基づいているのである。

 便宜的にこれを【原則2】とする。

 3つ目は、主権者である国民から権力を付託されるのは、選挙で選ばれ、国民の代表となった政治家だけである、ということだ。そしてその権力は最高権としての立法権である。

 ただしその立法権は、各政治家がそれを以って国民から支持されて政治家となれた「公約」を実現するための信託的権力であり限定的権力に過ぎない、ということである(ジョン・ロック「市民政府論」P.151)。すなわち、政治家になったからといって、どのような法律を作ってもいいということでは決してない。主権者である国民は、無条件に立法権という権力を付託しているわけではないのだから。

 便宜的にこれを【原則3】とする。

 

そこで実例1.である。

 住民に対してアンケートに答えさせるという、非公式の権力を行使したこと。

 事は、長野県長野市鶴賀字中堰に住所を置く「中部横断自動車道(長坂〜八千穂)計画段階評価 事務局」から私たち北杜市の関係住民の全戸に向けて、次のような呼びかけに始まるアンケート用紙を郵送して来たことから始まるのである。

中部横断自動車道(長坂〜八千穂)の『今後の整備方針』について、みなさまにご意見をお伺いするものです。アンケートは2回行います。」

それも、何のためのアンケートか、その目的すらも不明なままにして。

そしてそこにはこう記されていた。

「みなさまから頂いたご意見は、事務局でとりまとめ(関東地方小)委員会に報告する予定です」、と。

 実施にあたっては、1回目は平成23年3月25日が締め切り日、2回目は平成24年2月27日が締め切り日とされていた。

 官僚という「国民のシモベ」によるこうした行為そのものが、当該事業についての着工の承認が国会でなされているとか、なされていないとかに拘らず、上記の民主主義政治上の【原則1】と【原則2】に抵触することは明らかである。

 こうした権力の行使ができるのは、【原則3】に拠れば明らかなように、私たちが選挙で選んだ私たちの代表である政治家だけなのだ。それも、「中部横断自動車道(長坂〜八千穂)」の実現を選挙の時に「公約」に掲げた政治家だけなのだ(ジョン・ロックP.151)。それも、例えば、その政治家が、議会で議論し、公式の政策としての賛成を勝ち取るための参考にしたいから、といった理由に拠る場合に限られるのである。

 したがって、官僚が北杜市の関係住民の全戸に送りつけてきたアンケートは、もう、その時点で「法の支配」を無視したものであるゆえ、私たち関係住民は主権者として、それは「法的に無効」として、官僚らに“もう二度とこういう「法の支配」あるいは「法治主義」を無視するような、ことはするな。法的には我々はこれに従う義務など全くないのだから”と抗議しながら、アンケート用紙そのものを直ちに廃棄あるいは突っ返すべきだったのだ。

というより、国土交通大臣が、常日頃から、配下の官僚たちに、例えば“「法の支配」あるいは「法治主義」は厳格に守れ。そうでなかった者は、憲法第15条1項を適用して罷免する”と、コントロールしていたなら、官僚たちがこんなアンケートを作って全戸に郵送するなどということは起こらなかったし、そもそも「中部横断自動車道」の「北部区間」の問題そのものすら、その後、私たち住民の間に持ち込まれることもなかったし、私たちにとっては全く徒労としか言いようのない事態に巻き込まれなくても済んだのだ。

 その意味で、石井国土交通大臣の大臣としての無知と無能さによる責任は重大だ。

本来なら辞職すべきであろう。あるいは安倍晋三首相が更迭すべきであったろう、と私は思う。

 

 実際には、その石井大臣の無知と無能と無責任の結果、そして関係住民の民主主義への無知、「法の支配」や「法治主義」に対する無知の結果、アンケートは行われ、住民はそれに答えてしまうのである————実はこうなるのも、政治家になろうと志す者のこうした無知は論外としても、関係住民を含むこの国の国民一般のこうした民主主義政治に対する無知と無理解は、住民の責任というよりは、こうした教育を小学校や中学校の時代に児童生徒にきちんと教えようとはしてこなかったし、今もしていないこの国の中央政府の文部省と文科省に全面的な責任がある、と私は考えている­­­­­————。

 では問題のそのアンケートとはどんな内容から成るものだったのか。

 私たちの意見を求めるために官僚が挙げて来たのは、「当地」およびその「周辺地域の課題」だった。それはわずか次の4つだけだった。

「産業物流の課題」、「救急医療の課題」、「観光地連携の課題」、「日常生活の課題」。

ところが、その当時、当地で重大な問題となっていたのはこんな課題ではない。高齢化問題であり、少子化問題であり、地方の過疎化の問題であり、インフラの老朽化の問題であり、地方政府の超巨額の赤字財政問題だ。そして世界的にも人類最大の脅威とされて来ている環境問題であり、生物の多様性の激減の問題であった。

 ところがこうした大問題への言及やそれらについて住民の意見を訊ねる記述などどこにもない。その上、官僚が挙げているこれらの4つの課題のどれを見ても、たとえば第1の課題の提示の仕方をみても、「地域の農産物などを消費地まで運ぶのに時間がかかるため、産業物流の速達性に課題があると考えられます」という単なる推測の域を出ない記述があるだけだ。実際には官僚が今度建設しようと目論んでいる高速道路のすぐ隣には国道141号線という既存の立派な道路があるが、それが当該地域に対してどのような役割を果たし、どのような交通事情にあるか、交通量、走行安全性についての実地調査結果すらない。想定している高速道路周辺での生態系の現状調査結果もない。想定している高速道路沿線での農業生産を含む今後の農業者人口に関する動態に関する実態調査結果もない。その高速道路ができたなら、地下水脈の状況がどうなるか、生態系を分断された大小の動物たちに拠る農業への被害はどう悪化するのか、といった調査検討結果もない。それに、その道路を造ってしまったなら、国家の借金状況はどれだけ悪化し、それは将来世代の暮らしを一層どれだけ圧迫することになるのかといった考察もなければ、その増えた借金は一体いつまでに誰が返済するのか、の記述もない。

 その他3つの課題提示の仕方もすべてこんな調子で、「救急医療施設までの救急搬送に時間がかかるため、救急医療の速達性に課題があると考えられます」とか、「軽井沢や清里小淵沢など、観光地感の移動に時間がかかるために、主要な観光地間の連携が不足していると考えられます」とか、「近郊都市までの買い物や通勤に時間がかかるため、日常生活の移動性に課題があると考えられます」といった、どれも、最後はすべて共通に、「…と考えられます」と結ぶ、推定の域を出ないもの、根拠もなく思い込みに過ぎない課題提示ばかりだった。

 つまり、当地の関係住民の実際の暮らしぶりや八ケ岳南麓という「国定公園」の生態系の実情や特性などはまったく無視した、官僚が頭の中だけでこしらえた、現実から乖離した課題の提示でしかなかったのである。

それが証拠には、「国道141号の状況を踏まえ」とは記載されてはいるものの、それに特化した諸課題の洗い出しなども一切なく、全国どこの一般国道でも当てはまるであろう「周辺地域の課題」でしかなかったのだ。

 こうした状況は、2回目のアンケートにおいてもまったく同様だった。

しかも1回目からおよそ11ヶ月置いた2回目のアンケートでは、何と、早くも当該事業について2,100〜2,300億円という概算費用すら示して来たのである———この費用も、ずっと後の4年後には、まったく当てずっぽうの金額であったことも判明するのである­­­­————。

 こうした状況から見えてくることは、国交省の官僚にしてみれば、「法の支配」を無視する越権行為と承知しながらも、関係住民に当該高速自動車道を造るべきか否かについての真の声を聞こうとするアンケートなどではなく、造ることを前提とし、それを正当化するための、というより、“いかにも事前に住民の声を聞きました”という体裁を整えるためだけのアンケートでしかなかった、ということなのだ。

 しかし、関係住民は、「法の支配」や「法治主義」を無視して官僚らが送りつけてきたそのアンケートに答えてしまったが、でもその結果は、7割から8割が反対というものだった。その主たる反対根拠は、当地八ヶ岳南麓の豊かな自然環境を破壊までしてそんな道路を造るより、むしろ、国交省の官僚たちが勝手に考えた自動車道にほぼ沿って既にある国道「141号線」の整備をして欲しいというものだった。

 

 なお、こうしたことから、次の重大な教訓が得られるのである。

それは、石井国交大臣、そしてその後を継いだ赤羽国交大臣、そして現在の斎藤国交大臣————いずれも公明党所属————いずれにも当てはまることであるが、「法の支配」や「法治主義」の意味も知らないで政治家になり、そして配下の官僚をコントロールすることが大臣の役割と使命であるということも知らないで大臣となったなら、本来大臣に従わねばならない官僚たちは、それをいいことにしてどれだけの卑劣な行為に出て独裁を強めてゆくことになるか、そしてそのことによって、主権者であり国民でもある関係住民は、もしその時、「市民」としての姿勢を貫こうとすればするほど、限られた人生という時間の中で、どれほど無意味な時間を割かねばならなくなるか、そしてそのことによってどれだけやりきれない思いをさせられることになるかということである。

 そこで、そうした教訓に基づいて、以下では、本当はもはやこれ以降のことはいかに官僚たちがもっともらしい理屈をつけては非公式の権力を行使し続けて当該公共事業を実現へと画策しようと、それらは全て法的根拠のないこととして記述する価値もないことではあるが、石井大臣らのような無能で、無知、無責任な者が政治家になり、大臣になると、その彼らがいかにこの国の民主主義の実現を遠のかせて、却って官僚独裁を強めてしまうことになるかということを、大臣を任命する総理大臣には是非とも知っておいてもらいたいがために、念のためにこの後も、官僚たちの狡猾で傲慢な実態、そしてその官僚たちにただ隷従する役人たちの実態について記述してゆく。

 

実例2.

 「住民説明会」の開催という「法の支配」を無視した権力の行使をしたこと。

 主権者である関係住民を公の場に集めて、そのアンケートに関する「住民説明会」を、各地区ごとに分けて、延べ11回開催したこと。その席で、住民の意見を言わせ、聞き取ったふりをしたこと。この時、その全ての「地元説明会」を仕切ったのは、国土交通省関東地方整備局配下の甲府河川国道事務所の小林事業対策官(以下、K対策官)と宮坂課長(以下、M課長)だった。
 驚くことに、その会場には、地元の北杜市議会議員も山梨県議会議員も幾人かいたが、彼らはただ聞き手に回っていただけで、政治家として、例えば次のようなことをその住民説明会を仕切る官僚二人に指摘し、諌める者は一人もいなかった。

“こうした地元説明会は、本来「国民のシモベ」であるあなた方にできることではない。「法の支配」を無視した権力行使なのだから。こうしたことができるとすれば、あなた方を統括する立場の、国民の代表としての国土交通大臣ただ一人なのです。”

 

 なお、K対策官やM課長の背後には、次のような組織間のつながりのあることがその後判明したのだ。というより、両名は次のような上部から末端に至るまでの指示命令系統の中で動いていることが判明したのである。

それは、国交省の本省の「道路局」の官僚→埼玉県のさいたま市にある国土交通省関東地方整備局甲府河川国道事務所→山梨県庁の県土整備部高速道路推進課→北杜市役所の建設部→同建設部の道路河川課。

 そしてそこに関わっている人間とは、関東地方整備局の指示の下に動く甲府河川国道事務所では小幡 宏副所長(以下、O副所長)その他であり、山梨県庁の県土整備部高速道路推進課では乙守和人課長(以下O課長)その他であり、北杜市役所の建設部では神宮寺 浩部長(以下、J部長)、清水 宏次長(以下S次長)と同建設部の道路河川課の土屋 裕課長(以下T課長)だった。

 

実例3.

 国土交通省の官僚たちが「縦割り」の組織構成を最大限活用することによって、地方政府の役人を支配するという非公式権力を恣意的に行使したこと。

 それは、実例2.で述べてきたそれぞれの組織のつながりの中で、国土交通省とその出先機関の官僚と山梨県庁の役人と北杜市役所の役人が共同歩調をとっていたということである。

そしてその時のお互いの関係は、見ていてはっきりと判ったことであるが、上記した指示命令系統の流れの中で、下流に位置する者がその上流に位置する者に進んで隷従するという関係であった。

 隷従する当事者らは意識していたかどうかは判らないが、上部者に従うその姿は、見ていて、自尊心も見られなければ、誇りも感じられず、文字通り卑屈そのものの姿なのだ。

 

実例4.

 私たち関係地域住民に送って来たアンケート用紙の中で、事務局の官僚らが名乗る「計画段階評価」そのものも、法に基づかないもので、非公式の権力行使そのものだったこと。

その「計画段階評価」とは、この事業、とくに北部区間(長坂〜八千穂)を進める事業者である国土交通省自身が公共事業の実施過程の透明性を一層向上させる観点から導入した事業過程評価法のことだという。より詳しくは、「計画段階評価」とは、国土交通省自身が平成17年に策定した、公共事業における「構想段階における市民参加型道路計画プロセスのガイドライン」(平成25年改訂)に基づく道路計画プロセスの評価法のことだという。

 つまり、この「計画段階評価」という道路計画プロセスの評価法は、上記のごとく“国土交通省自身が平成17年に策定した”と認めるように、国会で議決を見た法律ではなく、単なるガイドライン、いわば「指針」に過ぎないのだ。

 となれば、私たち国民は、いかに被統治者といえども、法律でもないものに従う義務はない。

実際、近代民主主義政治を理論的に確立したジョン・ロックもこう言っているのである。

「一切の政府の権力は、ただ社会の福祉のためにのみあるのだから、それは恣意放縦であるべきではなく、したがって確定し公布された法によって行使されねばならないのである。」(p.141)あるいは、「(何人たりとも)他人の恣意的権力に服従することは、ありえない」(p.137)

 ところが確定した法律でもないそのガイドラインは、まことしやかに、「手続きの適切性」として、計画検討プロセスに必要な条件として、計画への住民参加だけではなく、その計画の透明性、公正性、客観性、合理性を求めているのである。

なおここで言う透明性とは計画検討プロセスに関する情報が誰に対しても開示されていることであり、客観性とは計画検討や評価に用いるデータ・情報等が客観的なものであること、合理性とは計画検討プロセスの手順、計画案の比較、それらの修正などが合理的に行われること、そして公正性とは計画検討のプロセスの進め方や判断が偏りなく公平であること、という。

 要するに、官僚らは、そんな法律でもない「ガイドライン」すなわち「指針」を持ち出しては、それによるルールを勝手に設定しようとしているのだ。無茶苦茶なこじつけ、としか言いようがない行為だ。

 ところが自らの配下の官僚たちがこんなデタラメなことをしているのに、石井国土交通大臣は放置しているのだ。いかに官僚をコントロールしていないかがわかる。というより官僚たちを野放しにしてあるということだ。彼自身も、大臣でありながら、「法の支配」の何たるかをさっぱり知らないということの明らかな証左でもある。

 そもそも国土交通省の官僚たちは、アンケートでは、「産業物流の課題」、「救急医療の課題」、「観光地連携の課題」、「日常生活の課題」の4つを「周辺地域の課題」として挙げて来たが、しかし既述の通り、その課題に対する彼ら官僚たちの問題意識と態度は、彼らがガイドラインで定めたとする公共事業の「手続きの適切性」だとか、計画の透明性、公正性、客観性、合理性を云々する以前の話なのだ。とにかく、自分たちの野心を貫徹するには、国会も糞食らえ、法の支配も糞食らえ、と、なりふり構わない姿を晒しているのである。

 

実例5.

 非公式の権力を行使しては、自分たちの意に沿う「学識者」や「専門家」を既述の「審議会等の運営に関する指針」を利用して人選しては、彼らを構成委員とする会議体を種々多段的に立ち上げて、そのそれぞれの会議体を実質的に自分たち官僚や役人で仕切り、彼らが望む「答申」を出させては、その答申はいかにも民主的な議論の結果であるかのように閣僚に装い、そうしては「閣議」を通過させ、国会の議決を勝ち取れるように画策する、という卑劣極まりない手口を使うこと。

 「中部横断自動車道」の「北部区間」の工事着工を国会で取り付けるために、国土交通省の官僚らが地方政府の役人たちを動かして立ち上げた会議体の種類とは、具体的には次のものである。

関東地方小委員会、ワーキンググループ、北杜市中部横断自動車道活用検討委員会、関係者ワークショップ、市民ワークショップ。

 実際には、この関東地方小委員会の上には道路分科会があり、さらにその上には、会議体の頂点としての社会資本整備審議会がすでにあるのである。

 そこで例えば、関東地方小委員会について、その会議体はどのような構成員でなっているか、それを見るとこうだ。委員長は筑波大学大学院のシステム情報工学の石田東生教授。委員長を除く委員は全7名で構成されている。しかしその委員の中には、標高700mから1300mにわたる八ケ岳南麓地帯での高速道路建設には不可欠と思われる生態系学者や植物学者そして地質学者、水理工学者、土木工学者、風景・景観工学者などは一人もいなければ、地域全体を総合的見地に立って計画することを専門とする都市計画者も一人もいない。いるのはただ都市交通工学者、都市交通計画学者、環境経済学者、貿易・観光学者だけだ。

 しかもそのうち3名は、組織的には関東地方小委員会の下につくワーキンググループの委員も兼任しており、その彼らはいずれも大学の教授、准教授、経済団体代表あるいはNPO代表という立場なのである。

 私は、筑波大学の石田東生教授に合計5回直接電話したのである。

あなたは、いつ、誰に依頼されて委員長を引き受けたのか、と尋ねようと思ったからだ。

側近の事務官がその度に電話に出たが、教授はいつも「留守」と言われた。

そこで、帰られたならここへ電話をいただきたいと事務官に頼んだが、ついぞ教授からの電話はなかった。

 ではワーキンググループとは何だったか。

実際、ワーキンググループの委員の「現地視察」した際の姿勢はと言えば、自分の専門的知識を生かした、「検証が可能」となるような客観的で科学的な数値的データを採る者など一人もいなかった。つまり、ここでも、いかにも現地視察したという体裁を整えるだけのものであることが、ありありと見て取れたのである。

 当初のアンケート用紙には、「みなさまから頂いたご意見は、事務局でとりまとめ(関東地方小)委員会に報告する予定です」とはあったが、上記のような極めて偏った、というより本当に必要な専門家のいない委員構成の関東地方小委員会に、アンケートに示された私たち関係住民の意見は、どうすれば客観的かつ公正に当該自動車道を建設すべきか否かの判断ができると言うのだろう。

 これを見ても、国土交通省の官僚たちの姿勢は、最初から「自動車道の建設ありき」で貫かれていて、アンケートも、そして関東地方小委員会もワーキンググループも、ひたすら、建設へ向けての雰囲気づくりである、と断定できるのである。

 実際、筑波大学の石田東生教授を委員長とするこの「関東地方小委員会」は、平成26年(2014年)7月23日、構成委員の誰も何ら客観的な調査検討結果らしいものを示すことはなく、ただ互いの主観を述べ合うだけで、国交省官僚が山梨県側の「北部区間」におけるルートを、それも当初住民に知らせ、意見を求めた幅3キロメートルのルート案を、住民の意向を聞くでもなく、また住民説明会を開催するでもなく勝手に1キロメートル幅のものに改竄したルート案を、石田委員長はそれを何となく全会一致による承認という結論にしただけなのである。

しかし、全会一致とは言っても、実際には、その日は委員長を含む全8名の委員のうち2人が欠席だった。そしてその結果は、当該事業を進めたい関係官僚に対しては「お墨付き」を与えた格好なのである。

 なお、官僚たちが、当初関係住民に示していた幅3キロメートルのルート案を、1キロメートル幅のものに改竄したのは2012年11月21日である。

 

 なお、北杜市中部横断自動車道活用検討委員会や関係者ワークショップそして市民ワークショップを設けては、その会議体を仕切ったのは北杜市役所の建設部のJ部長、S次長であり、同建設部の道路河川課のT課長だった。

 とにかく重大問題なのは、こうした事態に対しても、国土交通大臣山梨県知事も北杜市長も、全く官僚任せ、役人任せの態度でいたことだ。

 

 私はこうしたことが官僚や役人たちによって繰り返される中、疑問に思ったのである。なぜ官僚たちはこれほどの数の会議体を縦につながる形で設けようとするのか、と。それも、既述の【原則1】と【原則2】と【原則3】を無視してである。

 そのことについて、「中部横断自動車道の北部区間」の事業とは関係なく、ごく一般的に考えれば、その理由は二つあるのではないか、と私は考えるのである。1つは、このようにいろんな種類の会議体を設けることで、いかにもより多くの国民の意見を取り入れて決定したという、言うなれば民主主義的手続きをきちんと踏んで決定したことであるとのポーズをとりたいから、というもの。もう1つは、こうすることによって、何が、どこの段階で決定されたのか、あとで国民の誰にもわからなくさせてしまうために、つまり「責任」の所在をうやむやにしてしまうため、というものだ。

彼らが、会議をしても、よく、議事録を取らなかったり、公文書を改ざんしたり、また公文書を廃棄してしまったりということを繰り返すのも、結局は、このように責任を追及されたくはないからであろう。つまりそれだけ、官僚らは、国民には知られたくないことを、知られたくはない仕方で、やっているからであろう。

 でもそれも結局は、彼ら官僚や役人をコントロールすべき政治家(閣僚や首長)がその役割を全く果たしていないからなのだ。役割を果たさずに、むしろ官僚や役人に操られているからなのだ、と私は断定する。

 

 また、こうしたことに関連して、私が日頃不思議に思っているもう一つのことは、メディアは、TVや新聞をも含めて、よく“○○審議会の答申”だとして報道するが、そのとき、どのメディアも、「すでに審議会ありき」の態度で報道するだけだということである。その審議会はどういう人によって構成されていて、その各委員は、いつ、誰から、どのような基準に拠って選任されたのか、ということについては、まったく問題としないことである。

 なぜなら、その審議会なり委員会は、どのような種類の人たちから成り立っているのかということによって、結論は、あらかじめ、ほぼ決まってしまうのではないか、と私には、これまでの体験上、考えられるからである。

 

 そこで私は、以上をまとめる意味で、ここで、中央政府の大臣や地方政府の知事あるいは市町村長には是非とも気づいてもらいたいことがある。

それは、政府というのは、中央政府であれ、地方政府であれ、あくまでも三権分立で言うところの行政、つまり政治の執行機関だということだ。もう少し詳しく言うと、民主主義政治においては、それぞれが独立した権力を持って、立法権と行政権と司法権という役割を果たさねばならないとする三権分立の原則に立ち戻って考えてみれば直ちに判るように、政府というのはあくまでも執行機関なのである。それも、立法機関であり議決機関でもある議会(国会を含む)が議決した予算を含む法律(あるいは条例)や政策を執行することを役割とする機関なのである。したがって、そんな政府においては法案や政策案を作るための審議をする審議会はもちろん各種の委員会などは、そのいずれも、まったく不必要なものなのだし、むしろそのようなものは作ってはならない機関であるということだ。

 むしろ政府がすべきことは、政府の長であるところの総理大臣あるいは知事あるいは市町村長の指揮の下に、国会を含む議会という最高権力機関が決定したことを、いかに最少の資源でいかに効率よく実施して最大の効果を上げうるか、その具体的な方法を練ることであり、またその練った方法に基づいて速やかに執行することなのである。

 そして特に中央政府の場合には、その中枢としての内閣での閣議とは、まさにその方法を議論して決め、決めた方法に基づいて、各府省庁が互いに連携しながら————つまり府省庁間の横の連絡を断つ「縦割り」を排除して————、執行に向けて互いにどう動いたら、議会が議決して公式のものとなった予算を含む法律なり政策を、いかに最小の資源で、いかに効率よく実施して、最大の効果を上げうるかをこそ議論する場なのだ。

 ただその時、その方法を決める際、あるいは決まった方法を執行する際、もし必要なら、官僚ではなく、大臣が大臣の名において、その関連分野の科学者あるいは技術者を閣議に招聘し、彼らの意見や助言を聞けばいいのである。

 

 では、「中部横断自動車道北部区間」の公共事業において、既述してきたような「公務員」として絶対にあるまじき言動を繰り返してきた官僚や役人は、その後、どのような処遇を受けて、どのような人事異動をして行ったろうか。

 それを、私たち北杜市の住民にこの事業計画がアンケートを通じて国土交通省の官僚らによって初めて明らかにされた2011年(平成23年)初頭から、4年後の2016年(平成28年)4月1日までにおいて見てみる。

 結果は次のようになる。

 国交省甲府河川国道事務所に所属し、当該事業を進めようとして延べ11回に及ぶ「地元説明会」で地元民を操作して来た対策管であったK氏は国交省大宮国道事務所の副所長に、同じく国交省甲府河川国道事務所で、当該事業を中心となって進めて来た副所長だったO氏は本省に戻って国交省道路局へ、山梨県庁の県土整備部高速道路推進課で課長だったO氏は国交省相武国道事務所長に、北杜市役所の建設部に新設された次長として山梨県庁から送り込まれたS氏は山梨県リニア交通局主幹に、とそれぞれ異動したのである。

 こうしてみると判るように、いずれもいわゆる「栄転」である。

 

 果たして公務員の人事評価システムはどのような仕組みになっているのであろう。このような民主主義を破壊する行為をした者を栄転させるような人事評価というのは一体誰がするのであろう。

やはりここでも、政治家はほとんど関わってはいないように見える。

それにそもそもこうした人事評価による栄転がなされるということは、その時の人事評価基準は、行政を行う上で、明らかに、憲法第13条にいう「すべての国民を個人としてどれだけ実際に尊重したか」ではなく、また憲法第15条にいう、公僕として「どれだけ国民全体の奉仕者たり得たか」でもなく、その官僚ないしは役人が所属する組織の権益の拡大と維持にどれだけ貢献し得たかであることが明白だ。

それでは、この人事評価システムは、官僚独裁を助長することにしかならない評価システムということになる。

 実際、このような人事評価と、それによる人事異動のさせ方は、官僚や役人の組織にとっては、次の2つの点で、まさに望ましい効果をもたらすのである。

 1つは、こうした人事考課に基づく異動が組織内でなされれば、その人事考課のなされ方を身近に見ている後進の官僚や役人にとっては、彼等先輩のように狡猾に主権者に対応すれば自分たちも組織内では高い評価を得て出世できるのだ、と学習させる有効な手段となることだ。

 もう1つは、こうした人事異動をすれば、官僚や役人の目論んでいる事業の進め方をめぐって、国民あるいは関係住民がその後何らかのきっかけで組織あるいは当該官僚や役人の責任を追及しようとしても、その時にはもうその人物はそこにはいないということになり、市民として責任を追及することが難しくなり、その分、官僚組織や役人組織から見れば、主権者に対してなした憲法違反行為そして民主主義を無視した行為の責任を国民から追及されなくて済む組織防衛策となるということだ。

 しかし、反対にこれを国民の側から見れば、彼等官僚や役人は、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」を地で行き、集団で国民のお金を横領する、文字どおり「国を乱す者」という意味での国賊であり、共同体という社会や国の秩序を進んで破壊し、道徳心を劣化させる輩の集団だということになる。

なぜなら、1つは、国会が議決していないのにもかかわらず、すなわち国民が合意していないにもかかわらず、国民のお金を流用しては自分たちの利益を実現するために使っていること。1つは、その許されない行為を強引かつ狡猾にやってのけた者ほど出世して厚遇を得ることになる、その厚遇分のお金もやはり国民のお金だからだ。

 考えてみれば、この国では、憲法第15条の第1項「公務員を選定し、およびこれを罷免することは、国民固有の権利である」が、公務員を監督しコントロールすべき使命を担った大臣あるいは首長によって生かされた試しは一度としてない。

そしてそれは当然であろう。政治家が全て官僚に依存し、官僚に立法権を丸投げしている以上、上記憲法条文が生かされるような法律が官僚によって作られるわけはないのだからだ。

 さらに言えば、「公務員を選定し、・・・・は、国民固有の権利である」とは憲法で言っていても、そうした官僚や役人という公務員を選定するための国家公務員試験や地方公務員試験の試験問題づくりも、またその合否の判定も、全ては官僚任せであり役人任せなのだ。

 そんなことでまともな公務員————憲法で言う「全体の奉仕者」との自覚を持った公務員————が「選定」されるはずもなければ、育つはずもない。国賊である官僚が、自分たちと同じように行動してくれる仲間を集めているだけなのだから。

 何れにしても、この日本という国を実質的に官僚や役人に乗っ取らせているのは、国民から選挙で選ばれることを自ら望んで主権者の代表となった政治家自身なのだ。

つまり、この国の政治家という政治家は、根本から国民と民主主義を裏切っているのだ(2.2節)

 そんな国に民主主義が実現することなどどうしてあろうか。少なくとも、当面は。

 

最後の4.について。

 では、一人では行使する勇気もなく、それゆえにつねに集団で行い、それも、中央府省庁から地方の市町村役場にまで至る縦割の組織構成を最大限悪用した形で行うその非公式権力の行使の仕方あるいは手口とはどういうものか。

 それを以下に明らかにしようと思う。

その際、参考にさせてもらったのは、元通産省の官僚古賀茂明氏の著(「官僚の責任」PHP新書p.60〜61)と、元厚生省の検疫課長宮本政於氏の著(「お役所の掟」講談社)そして元通産省の課長並木信義氏の著(「通産官僚の破綻」講談社+α文庫)である。いずれも、元官僚である。

 これらの著書から見えてくる官僚や役人の公務遂行上の手口とは、いずれも、結局のところ、「だれにも気付かれないよう、こっそりやってしまおう」ということであり、「責任の所在を判らなくさせてしまおう」という動機から考え出されてくるもののようだ。そうすることで、「いつでも自分たちの恣意的な判断や裁量を差し挟める」としているのである。

 ではどうやってこっそりやるかと言えば、「意図的に内容をわかりにくくする」方法がもっともよく使われるのだという。

具体的には「いくつにも分ける」、「小出しにする」のだ、と。文書を出すにしても、一つの文書として一度にまとめた形で表に出してしまうと、多くの人にすぐに自分たちの意図を悟られてしまうので、「あえて内容をバラし」て、「バラした内容を複数の文書にちりばめ」、なおかつ「発表時期をずらす」のだ、と。

 だれにも気づかれないよう、こっそりやってしまう他の方法としては、「具体的に何をするかはその時点では明記しないで曖昧にしておく」、そしてさらに、「曖昧にしておいた目的をその後、さりげなくすり替えてゆく」のだそうだ。

 官僚が外に向けて書くあらゆる文書についても、そこに用いる用語については、それを読む国民には細心の注意が要る、とその先輩官僚らは注意を促す。

 たとえば憲法が「国権の最高機関」と明記する国民の代表が集う国会においてさえ、そこで各政党代表が閣僚に質問した際の官僚の代筆する答弁書の文章に使われる用語についても、本音は決して表に現れないようにして、かつ官僚のシナリオどおりに滞りなく議事が進行するようにと、次の意図が込められていると言う。

例えば「前向きに」という用語が使われた場合には、遠い将来には何とかなるかもしれないという、やや明るい希望を相手に持たせるためだという。「鋭意」は、明るい見通しはないが、自分の努力だけは印象づけたいときに使う。「十分」は、時間をたっぷり稼ぎたいという時に使う。「努める」は、結果的には責任を取らない、取るつもりがないときに使う。「配慮する」は、机の上に積んでおくことを意味すると言う。「検討する」は、実際には何もしないこと。「見守る」は、人にやらせて自分では何もしないこと。「お聞きする」は、聞くだけにして、何もしないこと。そして「慎重に」は、ほぼどうしようもないが、断りきれないときに使う。だが実際には何も行われないということを表わすのだと言う。

 官僚が作る文章中に置く「等」という文字についても、こう注意を促す。

「・・・・等」をつけることによって、内容をまるっきり変えてしまうのだ、と。

だから、「等」を付けてあったなら、その前に書いてある内容以外に、もっと重要なことがある、あるいは、これまでの文章には書いてないけれど、こういう運用をします、と言っているんだ、と深読みしなくてはいけない、と忠告する。

 要するに、官僚たちの主権者に対して用いる常套手段とは、物事の真実は知らせないようにする、あるいは全貌は知らせないようにする、知らせるにも明確には知らせない、あるいは、一義的には判断も解釈もできないようにしてしまう、というものだ。あるいは物事がいつの段階で、誰によって、どのようにして決まったのか、その過程をも判らなくさせてしまうというものだ。

 これらは、結局のところ、秘密主義を通す、ということなのである。

 住民からの質問にも、住民は役人から見れば主権者であり、自分たちはその主権者に対する「全体の奉仕者」であることは言葉では知っていても、不都合な問いには一切答えない。もちろん住民からの文書による、回答を文書で求める質問にも、“そのような答え方をしたことは前例がない”として、文書では絶対に答えない。答えるにしても、本来の公文書としての体裁を整えない、つまり公文書とは言えない形で答える。その場合も既述のような官僚用語を駆使して答える。

 これがこの国の官僚および役人の公務を行う時の常套手段であり、こうすることが組織内では暗黙の取り決めとなっているし、組織の記憶ともなっているようだ。

 

 官僚と役人がそうした言動に出るときに共通して見られることは、自分たちがしていることは間違ってはいないという態度であることだ。というよりもむしろ“何が悪いんだ!”と開き直りさえすることがある————例えば既出のS次長がそうだ————。一方、彼らにはほとんど誰にも、個人としての誇りや矜持はまったく見られず、また仕事への誇りも見られない。そして、人間としては、誰も、精神は全く虚弱で、きわめて臆病な存在なのである。

 

 以上が、所属府省庁の権益拡大と自己の保身のためには憲法も民主主義も無視する官僚、そしてその官僚に隷従する地方の役人の実態の概要である。

 しかし、ここから先は本節の主題から若干それるが、これも極めて重要なことだと私は考えるので、敢えて補記しておこうと思う。

それは、これまで記してきたような、まるで自分たちがこの日本という国を動かしているかのような錯覚に囚われ、主権者である国民を見下し、民主主義を虚仮にするような官僚そして役人は、いかにしたら生み出さないようにできるか、という問題である。

そしてそのことは、主権者である私たち国民として、どのような公務員を受け入れるか、という問題であって、その意味では、いわゆる「公務員制度改革」や「行政改革」あるいは「公務員法の改正」といった問題以前の課題ではないか、と私は思うのである。

そもそもそれらの名称では、抽象的で、あるいは漠然としていて、私たち国民にはその中身がわかりにくいからである。

 もちろん、それを実現する上で第一に肝心なことは、中央政府の官僚あるいは地方政府の役人を統括しコントロールできる政治家としての使命を自覚できた政治家を私たち国民が、本物の「市民」となって、現行の「小選挙区比例代表並立制」なる問題のありすぎる選挙法を根本から改正しながら、生み、育てることであることは言うまでもないことではある。

 しかしそれだけでは、官僚や役人の数は政治家の数に比べたら圧倒的に多いので、不十分だと思う。

 そこで、私は、日本を本当の民主主義の国とするために、現在の政治家にあらかじめ次の制度を勇気と使命感を持って定めてもらうことではないか、と思うのである。

それは、これまでほとんど死んだ条文でしかなかった、現行日本国憲法第15条の第1項「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」を具体的に生かすためである。

とにかく、現行のままでは公務員の質も能力もますます劣化して行くことは間違いないのだからだ。そこで、現在の政治家にあらかじめ定めてもらいたいとする制度は次の5つからなるものだ。

ただし、その際の要点は、官僚あるいは役人を一切介在させないで、政治家————この場合には特に立法機関の政治家である————が中心となって主導する形で国民の力を積極的に借りて定めることである。

 ⑴公務員試験のあり方を現在のものから次のようなものへと根本的に変えること

・公務員試験の作成者を憲法学者あるいは法学者と、一般市民の代表者とする。

・その際、憲法第15条、「法の支配」、「法治主義」、権力の成立根拠等を真に理解で来ていて初めて合格できる試験問題とする。

・その公務員試験のあり方を国会が議決して公式の法律とする。

 

 ⑵公務員の勤務評価の仕方を根本から変えること

・公務員の勤務評価については、客観的で公正な基準を、同じく憲法学者あるいは法学者と一般市民の代表とで作る。

とにかく、「法の支配」や「法治主義」を無視したり、組織の既得権の拡大や維持に貢献したりした公務員を出世させるような従来の官僚独裁を進めてしまうような勤務評価システムは根底から破棄する。

・その公務員の勤務評価の仕方を国会が議決して公式の法律とする。

 

 ⑶公務員の人事異動のさせ方も根本から変えること

・「法の支配」や「法治主義」を無視したり、組織の既得権の拡大や維持に貢献したりした公務員は担当大臣の判断のみで降格できるようにしたり、悪質な公務員については、罷免できるようにする。

・担当している公共事業が未完の場合には異動させないようにする。途中で異動してしまうような異動システムだと、“どうせ、途中で、異動できるのだから”と、事業への真剣さや責任意識が軽くなる可能性があるからだ。手がけた事業は最後まで遂行させる。

 

 ⑷公務員の民間企業への定期的な研修制度の実施

・民間企業人がどれだけ、日々、苦労して職務についているか、どういうところに重点を置いて仕事をしているか、それを自らが民間企業に加わることで体験する。

・民間企業人は、どのようなコスト意識を持って職務についているか、会社として得た利益をどのように生かしているかを知ることで、公金、即ち国民が納めてくれた税金をいかにしたら無駄に使わなくて済むようになるか、予算を切り詰められるか、を学ぶ。

 

 ⑸公務員の「天下り」の完全撤廃

・「天下り」をした者は、そのものが在籍したときに担当した大臣がその大臣の名において罷免できるようにする。

・「天下り」自体、社会に対する不公平で不公正な行為であるという意識を全公務員に担当大臣あるいは首長が配下の官僚ないしは役人に徹底させる。

 

 

追記
 本日(2022.3.17)、この節を公開するにあたって、昨夜行われた岸田文雄総理大臣のロシアのプーチン大統領ウクライナ侵攻に対する日本の経済制裁強化策を緊急記者会見の場で発表する同首相のメッセージにはこんな一節があったので、本節のこれまでの記述経緯と関連させて、ここに追記しておきたいと思う。

 岸田総理はこういう言い方をしたのである。

“自由、人権、「法の支配」といった普遍的価値を守るために、・・・・・。”

安倍晋三元首相、菅義偉元首相と同様に、岸田氏も、自分が何を言っているのか、判ってはいないようだ。一体、この国では、誰が「法の支配」を守っているというのだろう。

 自分の足元の官僚たちをコントロールできていないだけではなく「操り人形」になっているから、官僚たちが実際には何をどのようにしているか、さっぱり見えていないのだ。

いわば幻の状況を語っているだけなのである。