LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

15.3 これからの日本という国にとっての安全保障とはどういうことと考えるべきか

 

15.3 これからの日本という国にとっての安全保障とはどういうことと考えるべきか

 安全保障とは、辞書を引くと、「外部からの侵略に対して国家および国民の安全を保障すること」とある(広辞苑第六版)。そして「保障」とは、「侵されたり、損なわれたりしないように守ること」とある(同上)。

 果たして「安全保障」とは、それだけの意味しか持っていないのだろうか。

実際、この国の首相や大臣が「安全保障」という言葉を口にする場合は、そのほとんどが、辞書が説明する範囲を出るものではない。そればかりか、この言葉は、世界的にも、どうやら上記の意味だけを共有して用いられているようでもある。

 そのため、日本でも、この「安全保障」なる言葉が用いられるときには、どうしても対外的に自国を防衛する話や軍備の話になることが多かった。そして、結局は、政治的な話題として、日米安全保障条約(安保条約)に話が及び、日本は今後ともアメリカとの同盟をいっそう強化してゆかねばならない、といった結論に当然のごとくに落ち着いてしまうことが常だった。

そして、それに対して、各分野の専門家も、そうした結論にほとんど異議を挟まない。

 

 しかし私は、特に日本という私たちの国に限ってみるならば、「安全保障」という言葉を辞書的な意味だけにとどめておいてはならないのではないか、と考える。

その理由は少なくとも3つある。

 1つは、「国の安全保障」という表現を「国の安全を保障する」と丁寧に言い換えてみればわかるように、そして「国」とは国土であり国民であること、あるいは気候風土のことであり文化のことであること、「安全」とは広くは平穏無事であること、というように考えるならばすぐに気がつくように、「国の安全保障」とは、必ずしも辞書が言うような、あるいはこの国の政治家が言うような「外部からの侵略に対して国家および国民の安全を保障すること」という意味だけではなく、「内側から国土と国民の安全を脅かすことに対しても安全を保障する」という意味をも含めなくてはならない、ということに思い至る。

 もう1つは、この日本という国は特に、外部からの侵略に対する安全だけを考えていれば国土と国民の安全を守れると言えるような状況ではないからだ。内側からの国の安全をも同時に考えなくてはならない要因がいくつもあるからだ。

 そして3つ目は、辞書的に「国家および国民の安全を保障する」とは言っても、すでに私は本書の中で幾度か指摘し、強調もしてきたことであるが、この日本という国は、今のところ、国家ではない、少なくとも本物の国家ではないからだ。ということは、首相も本来の役割を果たせる本物の首相ではないし、閣僚も本来の役割を果たせる本物の閣僚ではなく、したがって政府自体も国民にとっては決して本来の役割を果たせる本物の政府ではないからだ。
言い換えれば、この国の政治的実態は、本来の民主主義の国ではなく、官僚が事実上の主権者であるかのように振る舞える官僚独裁の国であるからだ(2.2節と2.5節)。

 つまりこの国は、対外的にも、対内的にも、統治の体制の上での重大な欠陥を持つ国であるからだ。

 したがって、以上の根拠の三つを考えた安全保障こそが、日本という国にとっての真の安全保障ということになるという理由の下に、これからの、つまりポスト資本主義の時代=環境時代の日本の安全保障について考える。

 

 では、上記第1の理由である、「外部からの侵略に対して国家および国民の安全を保障すること」という意味だけではなく、「内側から国土と国民の安全を脅かすことに対しても安全を保障する」とは、具体的にはどういうことと解すべきか。

それは次のことであろう、と私は考える。

「外部からの侵略に対して国家および国民の安全を保障すること」とは、

・政治家が、軍事力や武力を整える前に、まずは厳格な「シビリアン・コントロール文民統制)」を実行でき、軍隊を指揮できること。

そのためには、平時から、現行日本国憲法の下で可能な、いかなる場合にも対応できる「戦略」を練り、軍隊あるいは兵の動かし方を研究していること。これを1−⑴とする。

・政治家が、一人ひとり、国民の手本となる愛国心を持ち、どんな場合にも、先導しながら、国民を束ねられ、鼓舞し得るだけの力を備えること。これを1−⑵とする。

・最新兵器とか軍事力を備えるのはその次である。ましてや実際の戦争の体験もなく、またその悲惨さも全く知らないで、尊敬するおじいちゃんの果たせなかった夢をひたすら果たそうとするだけの、政治的坊々である安倍晋三が言うような「敵基地攻撃能力」を備えようとするなど、何を狂ったことを言うのかという意味で、言語道断である。

なぜなら前述の基本的準備ができていないうちから、形を整えることだけにどんなに拘ってみても仕方がないからだ。大事なことは、国民の指導者になれる真の力を自らが養うことなのだ。

これを1−⑶とする。

 次に、「内側から国土と国民の安全を脅かすことに対しても安全を保障する」とは、

・何はともあれ、政治家が役人に依存し追従することは直ちにやめ、憲法第15条第1項により、国民から負託された権力を正当に行使して公務員を適宜、選定ないしは罷免しながら、役人の「縦割り」の組織構成を撤廃して、官僚独裁を撤廃に追い込むこと。

 なぜこれを第一に掲げるかというと、これを達成できない限り、どんなに以下の政策を政治家たちが必要と感じて掲げたとしても、その政策内容が官僚たちの既得権を侵害したり縮小あるいは消滅させてしまうような内容であったなら、過去のすべてのそうした類の政策例が証明しているように、「縦割り」の組織構成の中で、「天下り」を続けたい官僚たちは「公僕」という自分たちの立場をかなぐり捨てて、組織を挙げてその政策の実施に対する「抵抗勢力」となり、サボタージュを決め込んだり、その政策を実質的に骨抜にしたりすることを画策して来ることが十分に予想されるからである。

 つまり、そうした類のいかなる政策も実現し得ないままに終わることは明らかだからだ。

 そこで、これを実現させることを最優先させるという意味で、2−⑴の政策とする。

・台風、地震、突風(竜巻)等に対して耐性のある国土を構築すること。これを2−⑵とする。

・そうした国土の下での、食糧の自給を、いつでも達成し得ていること。これを2−⑶とする。

・同じく、その下でのエネルギーの自給を、いつでも達成し得ていること。これを2−⑷とする。

・同時並行的に、温暖化を食い止めるための、積極的で総合的な対策の手を打っていること。

これを2−⑸とする。

・同じく同時並行的に、生物多様性の消滅を阻止するための、積極的で総合的な対策の手を打っていること。これを2−⑹とする。

 さらには、

・大都市居住の対食料・対エネルギー・対地震への脆弱性を回避するため、住民の地方へ疎開を奨励する政策を採りながら、国土の均一な発展を図ること。これを2−⑺とする。

・大企業の内部留保を吐き出させてでも超巨額の政府の債務残高を減らし、財政の健全化を断行すること。これを2−⑻とする。

・必要なら文科省を廃止してでも、創造力・判断力・決断力そして生きる力と自分のしたことに責任を持てる子供たちや若者を育てる教育に大至急転換すること。これを2−⑼とする。

 

 参考までに、先進7カ国における食糧およびエネルギーの自給率(2017年時点での%)を下表に示す。

 

アメリ

イギリス

フランス

ドイツ

カナダ

イタリア

日本

食糧

130

63

127

95

264

60

38

エネルギー

 93

68

 53

37

174

22

10

 

 要するに、ズバリ言えば、日本という国の安全保障ということを言う場合、「日米安全保障条約(安保条約)」のこと、あるいは「日米間の軍事同盟の強化の必要性」を言うだけでいいのか、ということなのである。と言うよりむしろ、「安保条約」、あるいは「日米間の軍事同盟の強化」は、本当に日本の国土と国民の安全を保障することになるのだろうか。

 米ソ冷戦時においてもそうだったが、日本(政府)はただアメリカ(政府)に追随しているだけだった。だから、ことさら日本の動きを見る必要はなかった。アメリカの動きを見ていれば、日本政府はそれに追従するのだから、と見られていた。

 今また、米中の間では新たな冷戦が始まっているとされているが、その場合においても、日本(政府)の対外姿勢は全く同じだ。

つまり日本独自の対外的考え方とか原則(ドクトリン)などない。日本独自の外交姿勢もない。

もうそれだけで、日本政府が、あるいは首相が、「日本の安全保障」を口にしたところで、実質的には絵空事に過ぎないのだ。

 実際、特に沖縄と沖縄の人々に対する「安全保障」はどうなっているのか。彼らの日々の暮らしの「安全」そのものが米軍によって脅かされ、時には、沖縄の人々の人権すら「日米安全保障条約(安保条約)」に根拠を持つ米軍によって蹂躙されっぱなしではないか。それに、そもそも日本政府は、辺野古新基地移転問題でも、沖縄の人々の切実な要求や総意としての要求すら依然として無視し続けているではないか。

果たして日本政府のそうした態度には、前節で言及してきた、「自分たちの国は、自分たちの手で守る」という愛国の気概というものはあるのだろうか。「私たちの国日本は、主権を持った独立国なのだ。したがって私たち日本国民は、自分たちの国の将来は自分たちで決め、自分たちの国の命運は自分たちで選びとる」、とする自決への覚悟や誇りというものはあるのだろうか。

 それに、米中の新冷戦に日本政府として対応するにも、今や(2020年)、日本の貿易額に占める比率は対アメリカ貿易の比率よりも対中国貿易の比率の方が大きくなっているのだ。つまり、もし日本が今後も「資本主義」に基づくグローバル市場経済を主体として続けてゆこうとするなら————私は、既述してきたように、資本主義は本質的に地球の自然のメカニズムを破壊しないでは置かない経済システムであるがゆえに、好むと好まざるとにかかわらず、資本主義を使用しなくてはならないと考えるのであるが————、もはや日本は対中貿易抜きではやってゆけないまでになっているのである。

 それなのに、日本という国の安全保障ということを言う場合、日本政府は、相変わらず「安保条約」や「日米間の軍事同盟の強化の必要性」を言うだけなのだ。さらに最近では「自由で開かれたインド・太平洋」と言っては、中国をアメリカと一緒になって包囲し、封じ込めようとさえしている。国家の唯一の立法機関であり、国権の最高機関である国会も、国家としての対米ないしは対中の新しい方向を国民の意見を聞きながら議論し、それを公式の国の方針としようとする気配は一向になく、政府の対米従属姿勢をただ傍観しては、政府任せでいるだけだ。

 つまり、この日本という国は、国家の立法府も行政府も、世界の情勢の中で、風見鶏的に、ただ成り行き任せで漂流しているのである。

 要するに、この実態こそが、この国と国民の安全を保障するどころか、むしろこの国と国民に危機を招き寄せてしまうことではないのか。

言い換えれば、国会も政府もきちんと機能させ得ないこの国の政治家こそがこの国の「安全保障」を著しく損ねている、と言えるのではないか。

そしてその自覚が政治家各自に見受けられないことこそが、この国の最大の危機なのである。

「安保条約」」などと言っていられるような状況ではないのだ。「日米間の軍事同盟の強化の必要性」を唱えていられるような状況ではないのだ。我が身を省みるべきであろう。

 

 なお、これまで述べてきた「外部からの侵略に対して国家および国民の安全を保障する」ため、および「国の内側から国土と国民の安全を脅かすことに対しても安全を保障する」ためにこの国の政治家ないしは国会と中央政府がすべき事柄をどのように実施するかということについては、すでに拙著のこれまでの章に、具体的に述べてきたので、そちらを参照していただきたいのである。

 例えば、政策の2−⑴は、6.3節と13.14節にて述べてきた。

政策の2−⑵については、11.6節と、13.1節と11.2節にて述べてきた。

政策の2−⑶と2−⑷については、11.5節と13.3節にて述べてきた。

政策の2−⑸と2−⑹については、第3章を土台にした上で、11.2節、11.4節〜11.6節にて述べてきた。

政策の2−⑺については、17.5節にて述べてきた。

政策の2−⑻については、12.1節と12.5節にて述べてきた。

そして2−⑼については、10.3節と10.4節にて述べてきたのである。