LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

15.4 世界の平和と安定の保障のための提言 ————(その1)

15.4 世界の平和と安定の保障のための提言 ————(その1)

 前節では、日本にとっての真の安全保障のあり方について、私なりの提案をして来た。

安全保障と言うと、普通、諸外国でも、国と国との関係における国防というような意味で取られがちであるが、私に言わせれば、安全保障とは、特にこの国ではそれだけではとても不十分であって、私の言う安全保障とは、もっと拡大した意味での安全保障である。そしてそう捉えてこそ、「本当の」安全保障となる、としてきた。

そしてその意味内容については、せめてこの程度には拡大して捉えるべきだとして、その修正内容について明らかにしてきた。

 では、ここでの表題に掲げる「世界の平和と安定のための保障」とはどのように考えたらいいのだろう。実際、今日の世界情勢を見ると、私たちは、日本国民という枠を超えて、世界市民として、ますますそのことを真剣に考えなくてはならない事態になってきているように私は思う(第1章)。そしてその場合、「世界の平和と安定」とは、どのような意味のものとして捉えるべきなのだろうか。そして「そのための保障」とは、いかにして可能となるのであろうか。

こうしたことについても、この国の特に国政レベルの政治家はこの国を真に平和と安定を維持し得た国として運営してゆく上で、ぜひとも、常に考えていなくてはならないのではないかと私は思うのだが、私の見るところ、ほとんど誰一人、自分の役割としてそのことを真剣に考え、物を言っている風にはとても見えない。

その証拠の一つが、例えば、国会議員の「文書通信交通滞在費」に関する与野党議員を含めての、見苦しいというか浅ましいまでの姿だ。

なぜ見苦しく、また浅ましいか。それは、2.2節と2.4節で述べてきたように、政治家として国民に対して本来果たすべき役割や使命などは、そのほとんどを、そんなことができる資格も権力もない、本来「国民のシモベ」でしかない官僚・役人に任せっぱなしであったり、依存しっぱなしであったりして、全くと言っていいほどに果たしていないのにも拘わらず、しかも、本来税金=国民のお金であるこのお金の使途の公開も領収書の提示も拒みながら、その取得には異常なほどこだわるからである。

そうでなくても、特に国会議員は、この「文書通信交通滞在費」1200万円の他に、一年間に一人当たり、金銭換算した総額にして、およそ2億円に近いお金といった、普通の国民からは信じがたいほどの議員報酬を手にしているからだ。

例えば、歳費(1556万円)、ボーナス(555万円)、公設秘書給与(2586万円)、選挙経費(4622万円)、政党交付金(4500万円)、立法事務費(780万円)、その他(およそ4000万円)、がそれだ。

 その姿は、もはや弁明の余地など一切なく、文字通りの税金泥棒でさえある、と私は思う。

と言うより、そもそもせずに、一体何のために、誰のために政治家をやっているのか、あるいは何のために政治家になろうとしたのか、という動機と目的を私は根本から疑いたくなるのである。

しかし、こうなるのも、つまるところ、この国の政治家という政治家は、国会議員も都道県議会議員も市町村議会議員も「政治とは何か」から始まって、「民主主義」も、「自由」も、「権力の根拠」も、「議会の何たるか」も、「三権分立の必要根拠」も、「法の支配」の意味も明確に知ろうとせずに、またそのための勉強もしないで、ただ先人がやってきたことを、やってきた通りにやっていればいいし、またそれをすることこそが政治だと思っているからである。彼らの本来の活躍の場である議会にて、国民と交わした公約の実現のために活躍し、また国民の「生命・自由・財産」を最優先に守り、国民に最大幸福をもたらそうとするのなら、もうそれだけで国民の信頼を得て、再選は十分可能と思われるのに、それをしないでおいて、議会の外で、いわゆる「議員活動」と称する、本来は全く不必要な売名行為により再選を果たそうとしているだけだからだ。要するに邪道と言えることばかりしているのだ————環境先進国で福祉国家として世界に知られているスエーデンの国会議員は、聞くところによると、一人、毎月およそ60万円の議員報酬で全ての政治活動をしているのだそうだ。ただし、秘書を雇うお金は別だ、とのこと————。

 そのような輩が、母国「日本にとっての真の安全保障のあり方」や「世界の平和と安定のための保障」はいかにして可能となるか、といった課題にどうして真剣に取り組もうとなどしよう。

 だからこそそのような輩には、2.2節にて述べたごとく、ひとまずは全員、政治の世界から退場してもらうしかないのである。なぜなら、例えば、中国やロシアそして北朝鮮からの脅威を言う前に、もはやこうした実質的に税金泥棒と言うしかないこの国の政治家という政治家こそが、この国の安全保障を著しく脅かす存在となっているからだ。彼らが居座っていたのでは、この日本はいつまでたっても本物の国家とはなり得ないし、本物の民主主義の国ともなり得ないし、国土と国民にとっての真の安全保障などいつまで経っても得られるはずはないからだ。


 では、私は、私の言うこれからの時代、すなわち「環境時代」における「世界の平和と安定のための保障」とはどのように考えたらいいのであろうか。また、「世界の平和と安定」とは、どのような意味のものとして捉えるべきなのであろうか。

 こうしたことを考えなくてはならなくなっているのも、今や、世界はますます無秩序化するとともに、広義の環境問題がますます深刻化して来ていると同時に、核戦争の脅威も、かつての米ソ冷戦時の「キューバ危機」以上に高まっていて、人類の存続がますます怪しくなってきているからだ。

 そんな今ではあるが、このような現実を目にした時、私は、「世界の平和と安定のための保障」を考えるには、例えばアリフィン・ベイが今から35年も前の米ソ冷戦の真っ只中の1987年に語った次の言葉が大きな指針になるのではないか、と考えるのである。

“今日のそれぞれの国家の間には少しも、人間の存在に対する共通の将来像がない。ある国において「安全保障」のために行われたことが、他の国においては「搾取」になったり、あるところでは「進歩」であるものが、別のところでは「退化」であったりする。だから、いささか飛躍することになるかもしれないが、比較的平和な世界において求めるべき本当の安全保障とは国家の境界を超えて国際社会ないし人類全体の共同体を包む安定性を求めることではないだろうか。”

(アリフィン・ベイ「アジア太平洋の時代」中央公論社p.295)。

 確かに、彼がこれを語っていた1987年というのは米ソ冷戦の時代であり、その時代というのは、それぞれの国家の間には人間の存在に対する共通の将来像があったわけではなく、例えば「ベルリンの壁」という「鉄のカーテン」を東から西に越えようとしようものなら容赦無く射殺されるなどして、世界全体は身動きの取れない窮屈な時代であり、本当の安全保障などというものはなかった。が、しかし、その時代というのは、今から振り返ってみると、皮肉なことに、いかに安定した時代であったかということを私などは実感させられるのである。

 また、その1987年というのは、当時は西側諸国では、すでに、経済活動に対しては政府の介入を批判し、公的な規制を極力無くし、市場での自由競争によって経済の効率化と発展を図ろうとする「新自由主義(ネオ・リベラリズム)」の真っ只中でもあり、そんな中、西側の至る所では「人間の存在」など眼中に置かれることなどなく、貧富の差を拡大させながら、個々の人間を断片化させ、孤立化させ、浅薄化させて来ていたのである(真下真一「学問・思想・人間」青木文庫p.52)。そしてそんな人間の断片化・孤立化・浅薄化の現象は経済のグローバル化と資本主義の暴走が激化する今、ますます顕著になってさえいるのである。

 

 ではそんな中、「世界の平和と安定のための保障」はいかにして可能か。

それは、だからアリフィン・ベイによれば、先ずは「人間の存在に対する共通の将来像」を明確にすることだ、となる。その上で、世界が比較的平和なときに、「国家の境界を超えて国際社会ないし人類全体の共同体を包む安定性」はいかにして可能かを考えることによってである、ということになるのではないか。

 私は先に、私の考える「これからの時代に求められる人間像と国際人像」を示してきた(6.1節)。また、共同体としての社会が「安定」しているとはどういうことか、ということについても、私なりに述べてきた(7.3節)。

 そこでの要点を改めて記すと次のようになる。

なおそこで言う「これからの時代」とは、私が定義してきた「環境時代」のことであることは言うまでもない(4.1節)。

 これからの環境時代において求められている「新しい人間像」とは、自国の正しい歴史や文化を明確に踏まえてアイデンティティと誇りを堅持しながらも、しかし偏狭なナショナリズムや一国主義に陥ることなく、また、人間個々人だれもが尊厳ある存在であることをも忘れずに、嘘や偽善を排除して絶えず真実を求め、国籍に囚われずに、これまでの他生物の存在を視野に入れて来なかった民主主義の次元をも超えて多様な他生物との共生を視野に置いた生命主義(4.1節)をも絶えず求め、それらを実践して行ける人間のこと。

 また、同じく環境時代に求められている「新しい国際人像」とは、根底には上記した考え方を秘めながらも、民主主義に拠らずに、力を持って現状を変えようとする勢力には「正義は必ず勝つ」の信念の下、国境を超えて人々と連帯し、国際平和のために惜しみなく活動を続けようとする人のことである、と。

もちろん、「新しい人間像」も「新しい国際人像」も共に「新しい市民」になることでもあるという点では共通している(4.1節)。

 そして私は、この、共に「新しい市民」としての「新しい人間像」や「新しい国際人像」こそを、アリフィン・ベイの言う「人間の存在に対する共通の将来像」の一部としていいのではないか、と思うのである。

 では、アリフィン・ベイの言う「人間の存在に対する共通の将来像」そのものはどう説明されるのか。

その場合、次の三種の概念を共通認識とした「新しい市民」としての「新しい人間像」あるいは「新しい国際人像」のこと、と言っていいのではないかと私は思うのである。

その三種の共通認識とは、次に示す、私の考えるところとしての、人類にとっての共通の価値であり、大義であり、そして正義についての認識である。

【人類共通の至上の価値】

 それは、私たちすべての人間がその表面上に生き、暮らしている星、地球である。

それは奇跡の星とも呼ばれている惑星だ。なぜなら、太陽系の中にあって、今よりももう少しでも太陽に近くても、また反対に、もう少しでも太陽から離れていても、液体としての水、固体としての氷、気体としての水蒸気は存在し得ず、したがって植物は育つことはなく、となると酸素もなく、また大気温度も、植物の蒸散作用がなくなるから、全体として生物が生息できる適温に保たれることもなく、その結果、ヒトは生きること、住むことはおろか、誕生することさえなかったかもしれないからだ。
 つまり、この地球という星は、生物としてのヒトを含めて、あらゆる生物が棲息できる条件を完全無欠なまでに備えた奇跡の星だからだ。

そしてこの星は、宇宙がどれほど広大無辺であろうとも、また宇宙がたとえ幾つあろうとも、多分ヒトが社会的存在である人間として生きて、暮らして行ける唯一の天体と言っていいのではないか。

確かに、近年、アメリカも中国もロシアもそして日本も、宇宙ステーション等を通じて宇宙開発を進めているが、私はそれは一体何のためなのか、そして誰のためなのか、といつも疑問に思っているのである。ひょっとしたら、今様の「ノアの方舟」を夢想しているのか、と。

だとしたら、それは明らかに徒労に終わるとしか言いようがない。

 なぜなら、人は、空気があって水があり、土の上でなくては健全には生きてはいけないようにDNAはできているからだ。実際、人間が裸でくつろげる星など、地球以外、この広い宇宙の、一体どこにあるというのであろう。仮に科学の力で、そのような星があると知ったところで、人の一生である80年でたどり着けたり、往復できるような距離ではないはずだ。

 米ソ冷戦の最中、J.F.ケネディはスピーチを通じて全世界にこう訴えた。

“互いが互いの違いを認め合い、同じ空気を吸いながら、新たな命を生み、育て、親は子の幸せを願い、誰もが、いつか死に行くのだ。その場が地球だ”と。

 私たち人類は、その一人ひとりが、今こそ、これを真理として深く心に刻み込まなくてはならない。そしてこの地球を、人類の一人の例外もなく、【人類共通の至上の価値】としなくてはならない。

なぜなら、どんな人も、そしてその人たちがどんなに“経済が大事だ”、“豊かさや便利さや快適さを求めるのだ”“そして幸せになりたい”と望んだところで、それらは全てこの地球という星が本来の姿のままにあってこそ望み得ることだからだ。人が「人間」として生きていられてこそ、その望みは意味を持ち得るのだからだ。

 なお、ここで重要なことは、地球をこのように【人類共通の至上の価値】とすると人類全体で認め合うということは、同時に、その地球の所々に分布している資源も、人類共通の価値として認め合うことでもある、ということでもある。

なぜなら、そこに人類の一部が移り住み、定住して、そこでの気候風土の下に一つの文化を共有して特定の民族となったということと、たまたま移り住んだその地下に今日の経済に通じる資源が埋まっていたということは全く偶然の一致であって、その民族の予見能力の結果でもなければ努力の結果でもないからだ。

 つまり、埋もれていた地下資源を我が物として独占するのは、条理に反することなのだ。

【人類共通の至上の大義

 ここで言う「大義」とは、人が人間として踏み行うべき重大な道義、あるいは正しい道の中でも特に大切なもの、との意味である。したがって、先の【人類共通の至上の価値】を受けて、【人類共通の至上の大義】は次のように言えるのではないか、と私は考える。

 それは、生物としてのヒトが社会という共同体の中で人間となった以上、【人類共通の至上の価値】としてのこの地球上では、とにかく誰もが無条件に生きられること。生きることに許可を求めなくてはならないようであってはならないこと。また何人たりとも、他者のその生存を脅かしてはならないこと。そのためには、人間は互いに違いを認め合うこと。互いに殺し合うようなことはしないこと。一方が他方を奴隷のような状態に貶めるようなことがないこと。

そしてそのことを通じて、国と国との間でも、地域と地域との間でも、民族と民族との間でも、人種と人種との間でも、平和を保つこと。これが私の言う【人類共通の至上の大義】である。

 そう呼ぶ根拠は次のように説明できる。

今日でこそ、人種の違いとか民族の違いなどということが問題とされることがあるが、全ての人種、全ての民族は、遠く人類発祥の原点にまでさかのぼって行ったことを誰もが頭の中で想像してみれば直ちに判るように、結局のところ、全人類は、一人残らず、互いに兄弟姉妹なのだ、ということに気づかされるからだ。

かのベートーヴェンも「歓喜の歌」の中で、詩人シラーの言葉を介して言っているではないか。

“全ての人々は友になる!”、その中でこそ真の歓びがある、と。

 人類が誕生したのは今からおよそ500万年前とされている。生まれた場所は東アフリカ。

これが、今日、広く世界に分布して生きている全人類の起源なのだ。そして彼らが、今、世界に生きている全ての人類の共通の祖先なのだ。

 その彼らの子々孫々は、東アフリカから遥か遠い旅に出たのである。それは「グレートジャーニー(偉大な旅路)」と呼ばれている。

東アフリカから陸伝いにアジアからアラスカ経由で北アメリカを経由して南アメリカの南端にたどり着くまでの5万キロの旅である。

 その旅路の過程で、彼らの子孫の中のそれぞれの群れは、地球上の各地に住み着いた。

その各地は、どこも、互いに地形も違えば気候風土も違っていた。その違いの中で、それぞれの子孫は、生存のために、その地の地理的位置や地形や地質による気候風土に適合する生き方を見出して行った。そしてその生き方こそが彼らの固有の文化となり、その固有の文化の下に固有のアイデンティティを持ち、その結果、固有の民族となった。

 そもそも民族とは、文化を共有することによって生まれた、共通の帰属意識を持つ人々の集団のことをいうのである。
 また、その「グレートジャーニー」の過程で、彼らの子々孫々は、それぞれが違った生物学的な進化の仕方をして行った。その結果生まれたのが人種である。

 こうしたことを考えれば、今、◯◯民族とか△△民族と言ったり、あるいは◇◇人種とか◎◎人種と言ったりしては互いに区別し合っているが、そして場合によっては、互いに自分たちの人種として、あるいは民族としての優秀性を主張しあったり、他の人種や民族を蔑んだりすることがあるが、実はそれがどれほど馬鹿げたこと、あるいは愚かしいことであるかも直ちに判るのである。

 馬鹿げているし、愚かしいことである根拠はそれだけではない。どんな民族であれ、またどんな人種であれ、普通の感覚や感受性の持ち主だったなら、学歴や教養の有無とは無関係に、一人の例外もなく「人間」としての基本的な感情や思いは共通であるからだ。

 例えば、親が子を思う心の有り様、愛する者を思う情の有り様、愛する者を失った時の悲しみ、自由を抑えられた時の反発心、自分の存在が認められた時の歓び、人から親切にされた時の嬉しさ、尊敬をもって接しられた時の誇らしさ、何かを成し得た時の歓び、屈服を迫られた時や理不尽を強いられた時の屈辱感、侮辱された時の怒り、横柄にあしらわれた時の反発感、そして祖国や故郷を思う心の有り様、等々がそれだ。

 また既述のように、今の資本主義の産業の時代になってこそ、自国は地下資源に恵まれた資源大国などと自慢している国や国民もあるが、それだって既述した理由に拠れば直ちに正しい判断ができるようになり、全く馬鹿げたことだったと判るのである。実際、その地下資源の争奪を巡って、幾たびか戦争さえ起こったのだからだ。

 ともあれ、その地下資源の存在はその地に定住を決めた祖先とは全く無関係であって、その祖先が彼ら自身の努力や労働で生み出したものではなく、全くの偶然に過ぎないことなのだ。
 いずれにしても、人種の優越性とか民族の優秀性に拘ることほど愚かなことはない。そもそもその「優秀」なる概念も、その時代特有の、またその民族特有の価値観に支配されたものにすぎないのだからだ。時代が変われば、それは変わるのだ。

 もし、どうしても優秀性や偉大性を言いたいのであれば、【人類共通の至上の価値】に依拠して、その人々が、この奇跡の星地球上にて、人類全体の平和と幸福にどれだけ貢献し得たか、という観点からこそ評価されるべきではないか、と私は考えるのである。

【人類共通の至上の正義】

 ここで言う至上の正義とは、その国だけの、あるいはその人種や民族だけの、独りよがりな正義ではない。人類全体に共通する正義のことである。したがってその正義とは、国際社会という最大規模の共同体を対象としたもので、そこでの構成員が互いに自由で平等そして平和に共存し得るようになる秩序を形成し、それを維持すること、との意味である。

そしてその場合の秩序とは、国際社会の構成員の自由と平等と平和を保障する法、すなわち国際法のことである。

 つまり、【人類共通の至上の正義】とは、その法を作ることであり、その法を発展させることであり、また作ったそれを守ることである。言い換えれば、【人類共通の至上の正義】とは、人類が賢くなる方向に進化できることに貢献することである。

そこで言う進化とは、自分たちの国だけ、自分たちの民族や人種だけではなく、人類全体の進化を意味する。

 なぜ人類はそうした正義を掲げ、またそれを携えてゆかねばならないか、それは、そう遠くない将来には必ず直面することになるであろう地球温暖化生物多様性の消滅に因る人類的危機を全人類が協力し合って乗り越えることができるようになるためである(カレル・ヴァン・ウオルフレン「日本人だけが知らない」p.295)。

 以上の三種の概念が、これからの環境時代において、世界が共有すべきと私は考える新しい認識である。そしてこの三種の認識がワンセットになったものこそが環境時代における世界的に共通の思考の枠組み、つまりパラダイムとなるべきではないか、と私は考えるのである。

つまり、洋の東西を問わず、また西側と東側を問わず、さらには先進国・途上国・新興国の別を問わず、民族の違いを問わず、人種の違いを問わず、地球人類あるいは世界市民全ては、このパラダイムを携えて生きてゆくべき、とするのである。

 では次に、「世界の平和と安定のための保障」を取り付けるためとしての、世界が比較的平和なときに、「国家の境界を超えて、国際社会ないし人類全体の共同体を包む安定性」とは、いかにして可能となるであろう。

 それを考えるにあたって、まず考えておかねばならないことは、次の真理ではないだろうか。

それは力を持って、あるいは武力を持って現状を変えようとする試みは決して安定した平和をもたらさないこと。また軍事力あるいは武力を備えることで自国の安全保障を安定的に確保しようとすることは、そもそも矛盾していること。

 なぜなら、敵国と見る相手国を上回る軍事力を自国が整備しようとすれば、それを見た敵国も、こちらの軍事力を上回る軍事力を備えようとするのは人の競争心の必然であるからだ。もしもそれを両国がし続けたなら、両者は際限のない軍拡競争にはまり込むだけで、それは「死の商人」としての兵器産業を肥え太らせるだけで、国と国民にとっては何んらの安全保障にもならないし、ましてやその安定にも繋がらないからだ。むしろ、いずれは、両国のどちらか、あるいは両者が自滅するか、破局を招くことにしかならない。

 そのことは核兵器をもって敵国に核兵器を使わせないとする核抑止論についても全く同様だ。

豊田利幸氏は、核兵器が登場して間もなくして、すでに「核戦略批判」としてその考え方が破綻していることを明確化しているのである(岩波新書)。

 何れにしても、軍事力による安全保障の実現という発想は、論理的に成り立たないし、無理だということだ。

 では、そうした真理を真摯に受け止めた時、「国家の境界を超えて、国際社会ないし人類全体の共同体を包む安定性」を可能とし得るのということを考えた時、現状の世界を見渡してみたとき、さしあたっては国連しかないのではないか、と私は考えるのである。

なぜなら、今のところ、国連に代わりうる国際組織は、私の目には見当たらないからである。

 以下は、同名の表題「世界の平和と安定の保障のための提言————(その2)」へとつづく。