LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

15.5 全方位平和外交によりユーラシアの一員として世界に貢献する

15.5 全方位平和外交によりユーラシアの一員として世界に貢献する   

 今、世界の情勢は、俯瞰すると、現状の世界秩序を力を持ってしてでも変えようとしている国々と、その反対にこれまでの東西冷戦以後に形成されてきた秩序を維持しようとする国々とのせめぎ合いと見ることができよう。

 そしてその状態は、互いに集団安全保障体制という軍事同盟の形をとってそれぞれの国の安全を保障している。

 具体的には、東西冷戦終結後、本来ならその目的と役目を終えたはずなのに存続し、むしろ加盟国を拡大しているヨーロッパの30カ国からなるNATO北大西洋条約機構)と、ソ連崩壊後にできたCIS(独立国家共同体)のうちの6カ国(ロシア、カザフスタンアルメニアタジキスタンキルギスベラルーシ)からなるNATO型の集団安全保障条約機構とが対峙しているといった具合だ。そしてそれは相変わらず、かつての冷戦状態のようだ。

 さらには、軍事同盟ではないが、インド洋と太平洋を囲むように位置する米国・オーストラリア・インド・日本の4カ国は、中国(中華人民共和国)を警戒して、自由や民主主義、法の支配を守るといった共通の価値観を持って安全保障や経済を協議するQuad(クアッド)がある。

なぜ中国を警戒するか。それは、中国は、経済・政治そして軍事の面で、アメリカに対抗して、これまでの世界秩序を変更して、世界規模の覇権を確保しようとしているからだ。

実際、中国は、習近平の国策「一帯一路」政策を掲げてはいるが、それは表向きの言葉だけのもので、特に弱小の国々に対しては、いかにも経済開発に協力するかのような素振りを見せては多額の資金供与をし、それが期限内に返せないとなると、供与した資金に見合う利権をその国から中国が獲得するといういわゆる「債務の罠」を巧妙に仕掛けながら、影響力の拡大を図っている。中国がしていることはそれだけではない。1997年、香港がイギリスから中国に返還されるに先立って中国とイギリスとの間で結ばれた約束である「従来の資本主義や生活様式を、返還後50年間維持する」とのいわゆる「一国二制度」を破り、香港の自由と民主主義を弾圧し、中国の統治下に置こうともしているのである。また台湾との関係においても、中国は台湾を中国の領土の一部とする「一つの中国」であると考えるのに対して、台湾は、蒋介石が打ち立てた国であって、「中国とは別」の独立国家であるとすることによって、双方はいま鋭く対立しているのである。さらには、中国は、トルコ系の少数民族で、大多数がイスラム教を信奉しているウイグルの人々を教育施設なるところに閉じ込めては、大規模に思想改造をもしているのである。

つまり本当の国名が中華人民共和国と呼ばれている中国は、自由と民主主義そして法の支配の価値を重視するいわゆる民主主義陣営とははっきりと異なる専制主義の傾向をますます強めているのである。

 ただし、もちろんのこと、上記の集団安全保障体制に加わっている国々の数というのは、例えば2022年現在、国連に加盟している193カ国と比べてみても判るとおり、圧倒的に少数の国々だ。

それだけにそれぞれの集団安全保障体制への各国の加わり方には様々な事情が見て取れる。例えば、その集団安全保障体制に加わっていないと自国は見捨てられてしまうのではないかという不安から加わる国もあれば、その反対に、集団安全保障体制に加わっていると、したくもない戦争にかえって巻き込まれてしまうのではないかと不安を抱きながら、半ば仕方なしに加わる国もある、といった具合だ。

 なお、そうした集団安全保障体制とは目的は違うが、その存在意義が世界に認められ、注目されている国々の連合体がある。ASEAN(東南アジア諸国連合)だ。それは、集団安全保障体制ではないが、域内における経済成長、社会的・文化的発展の促進、政治と経済の安定の確保、域内での諸問題に関する協力を目的とした10カ国(インドネシア、マレーシア、フィリピン、タイ、シンガポールブルネイベトナムラオスミャンマーカンボジア)からなるものだ。

 

 ところで前節では、「世界の平和と安定の保障のための提言」をする中で、私は世界の平和と安定の保障のためには、国連を強化することこそが求められているのではないかとして、その強化に当ってあらかじめ確認しておかねばならないこととして、現在の国連ができてくるまでの経緯を確認し、それに基づいて、私なりの具体的な強化策案を提示してきた。

 具体的には、国連設立後、70年余の経過の中で、多くの国は独立国となり、世界情勢も大きく変わってきているのに、今もずっとその位置を保っている「常任」理事国という特別の地位を廃止するとともに、それらの国が所持し続けている拒否権という国連の目的を阻み、機能を麻痺させてしまう強大な権限をも廃止し、国連を真に対等な権限を有する主権国家の連合体とみなして世界連邦の政府とすることにより、世界はその下に活動するようにする、というものだった。

そしてそれが実現できるよう、日本は政府が中心となって、特定の国との外交に限定せずに、全方位外交を展開しながら世界に呼びかけて協力を訴える必要がある、というものだった。

 

 では、果たして、日本は、現状の世界を見渡した時、理想的とも言えるこうした目標に向かって、実際に行動ができるだろうか。

 とにかく今のままでは少なくとも次の2つの理由によって到底無理だ、と言えよう。

 その1つの理由は、日本国民一般の「ものの考え方」と「生き方」に因る、というものである。

その「ものの考え方」と「生き方」とは、5.1節に述べてきたものを指す。

それらについては、私は、自らの道を閉ざし、自らが自らに危機を招いてしまうものでもある、ともしてきたものだ。

 それらは極めて重要なものと私は思うので、要点だけをここで繰り返して記すとそれらは次のようになる。

1.生き方において、骨格となるもの、芯棒となるものがない。これだけは誰にも譲れないというものを持とうとはしない。自分というもの、自分の考えというものを持たない。

自分なりの価値規準や物事への判断規準を持とうとはしない。物事の価値の軽重の違いを区別しない。そして力の強い者、勢力の大なる者、著名なる者、声の大きな者には無批判に追随してしまいがちである。「正義が実現した上での秩序」ではなく、「正義よりもまず秩序」を重視してしまいがちである。

2.その場の「空気」は読んでも、「先」を読もうとはしない。目先を見るだけで、大局的ないしは長期的な視野で物事や出来事を見ようとはしない。

 何かを為そうとする時、あるいは物事に対処するにも、動機と目的を明確にしない。歴史から学ぼうとはしない。正義や大義を問うこともしない。理念も問わない。物事の原理や原則を問わない。物事の「意味」や言葉の「意味」あるいは「定義」、また歴史的事実の「意味」を問わない。科学的真実あるいは客観的事実に基づいて将来予測をしたり予防の手を考えたりするということもしない。

 起こった出来事についても、それがなぜ起ったのかその原因を本質まで突き詰めることもしなければ、総括も検証もしない。失敗しても、なぜ失敗したのかその原因を突き止めようともしなければ、そこから教訓を引き出してそれを未来に生かそうともしない。もちろんその失敗を含めて、公式の記録として残すこともしない。むしろ失敗や不都合を隠そうとさえする。場合によっては、起こった出来事でも、「なかったこと」にしてしまう。

 物事や現象あるいは状況や情勢を見るときにも、客観的かつ多面的あるいは総合的に見極めようともしない。一部を見るだけで、あるいは一部に囚われるだけで、全体を見ようとはしない。

そして自分(たち)に不都合な事実や状況はあえて見ようとしないし、不都合な情報は知ろうともしない。自分(たち)が知りたいことしか知ろうとしないし、自分たちが関心あることしか関心を示さない。起きて欲しくないことは起きないことにしてしまう。そして敵あるいは対象を知ろうとしなければ、自分の力量も能力も客観的に知ろうとはしない。

同様に、醜いもの、汚いもの、不快なもの等も見ようとはしないし、見せようともしない。

 つまり、事実や真実そのものを直視しようとはしないし、直視するよう仕向けもしない。

 それでいて“とにかく頑張ろう!”とか、 みんなで“バンザイ!”といった意味不明の雄叫びを上げたり、同じく「骨太の方針」などと情緒的な呼び名を付けたりしては、精神論と抽象論で現実に対処しようとする。

3.自分は社会という共同体を構成する一員である、あるいは全体を構成する一員であるという意識や自覚を持とうとはしない。

社会の出来事に主体的に関わろうとはしない。自分の言動には常に責任が伴う、とは考えない。

自分の為したこと、関わったことに対して、自ら責任を取ろうとはしない。

特に自分が関わったことが失敗した時などには、むしろ「言い訳」をしたり、「言い逃れ」をしようとしたりする。

 

 もう1つの理由は、この国は、本物の議会制民主主義の国でもなければ、本物の国家でもないことによる、というものである。言い換えれば、この日本という国は、これまでのところ、実態は、ずっと官僚主導の国であって、本物の民主主義の国ではなく、国家でもなかったということに因るのである。

すなわち、国権の最高機関であると日本国憲法が明記している国会ではあるが、「行政機関」に「質問」しかしていない実態からも明らかなように、実際には決して国権の最高機関ではないし、また立法機関としての使命も役割も果たしてはいない。また中央政府も、首相や閣僚は官僚の作文を棒読みしなくては国民に行政状況を説明もできない姿からも明らかなように、また各府省庁間の「縦割り」という組織構成を一向に解消することもできない姿からも明らかなように、首相も閣僚も本来「国民のシモベ」であるはずの役人の操り人形でしかなく、したがって本物の政府ではないのだ。

 要するに、この日本という国は、立法機関も行政機関も、これまでのところ、実際には、官僚に主導された機関の国、もっと言えば官僚たちに乗っ取られた国、官僚独裁の国だからだ。

 

 さらに言えば、この国は、これまでも、そして今も、その行動の動機は、常に、そして決まって、唯一アメリカに、それもほとんど無条件に追随する、あるいは率先してアメリカのご機嫌とりさえする、というものだった。

つまりこの国の主権はアメリカ(政府)にあるのだ。

 そんなことだから、かつて日本が「ジャパン アズ ナンバーワン」ともてはやされ、世界の経済超大国となった時でさえ、世界からは、日本は一体何をしたいのか、何が望みなのか、世界をどうしようとしているのか、と見られていたし、今もそれは変わってはいない。

そんな状態だから、結局、日本がどういう時、どういう行動に出るかは、アメリカのやっていること、やろうとしていることを見れば判る、とさえささやかれて来たのだ。
 公式には、世界から独立を承認された国として早70年余り経つというのに、この国は未だにこんな状態なのだ。

こうなるのも、つまるところ、上記の2つの理由が決定的だと、私は見るのである。

 どうしてこんな状態で、この国は、国際社会において、既述の理想的とも言える目標に向かって行動ができよう。この国は、世界を先導できる考え方や枠組みだって提案できないし、それ以前に、日本国憲法の前文に明記する「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占める」ことだってできるはずはない。

 

 では、現状、こんな状態にある中、今後、この国の世界に示すべき姿として、どうして「せめてユーラシアの一員として」となるのか。

それは、日本の現状からはあまりにも飛躍した姿だからだ。

 そこで、それを理解するには、日本が今日の日本になり得た歴史にとどまらず、むしろ時間的にはそれをもはるかに超えた人類の発祥あるいは起源にまで遡って考えてみる必要がある。

 つまり、私は何を言いたいのかというと、今日でこそ、国が違うと、言語も違い、宗教も違って、その結果、互いに異民族だとか、人種が違うとか言って、それがとかく紛争や対立あるいは分断の原因となってしまうことがあるのであるが、しかし、前節で言及した、人類の遠い祖先たちのいわゆる「グレートジャーニー」を思い起こしてもらえば直ちに判るように、どんな民族、どんな人種も、大元を辿れば、みな兄弟同士なのだ。

 そう考えれば、ある民族が他の民族を攻撃したり弾圧したりするのも、またある人種が他の人種を迫害したり蔑視したりするのは土台おかしな話だということがすぐさま判断できるのである。

 あのベートヴェンも、彼の最晩年に、詩人シラーの言葉を借りて“全ての人々は友になる!”と崇高なまでに歌い上げたではないか!

つまり、人類の目の前に難題が次々と起り、人類の存亡がかかっている今こそ、人類は、すべてが、歴史の大河の中で、過去の怨讐を超え、一時の損得の感情を超えて、人間観と人間愛を取り戻すことが求められているのではないか、と私は思うのである。

 そういう意味で、少なくとも今はもう侵略戦争を起こしたり、過去の自国の栄華の再興を夢みて、あるいは失った自国の領土を回復する野心を持ったりして、それを正当化しては他国の領土を我が物として得になる時代ではない。というよりそんなことをしたなら、侵略される側はもちろん侵略する側もどれほど多くの人々の血が流されて悲惨が繰り返され、先人たちが築き上げてきた文化遺産がどれほど失われ、自然環境がどれほど大規模に破壊されることになるか。そんな野心を実行に移して悦に入る者はただ一人、支配者ぐらいなものであろう。

 また、イデオロギーの違いや信教の違いを理由に対立抗争するような時代でもない。

そうではなく、今こそ全人類に求められている新たな生き方は、損得勘定を超えて、人間がどう逆立ちしたところで抗いようがない絶対の真理、あるいは好むと好まざるとに拘らず認めて受け入れなくては人類として生きてはいけなくなる絶対の真理を共通の主導原理として生きることことであろう。

その意味で、「エントロピー発生の原理」と「生命の原理」こそが正にそれではないか、と私は確信するのである。また、どんなに科学技術が進歩し、宇宙開発が進んだところで、そして宇宙にはどれほど無数の天体があろうとも、さらには地球の外の天体にどれほど生命の元となる物質が確認されようと、人が裸で過ごせ、互いにのどかに暮らせるのはこの地球しかないというのも絶対の真理の1つと言えよう。

 ケネディは1963年、暗殺される5ヶ月前の6月、アメリカン大学での卒業式で、卒業生と共に、「冷戦」を終結させようとして世界にも呼びかけたスピーチの中でこう力説した。

“互いの違いを認め合えば、多様な人々が共存できるはず。突き詰めれば我々は皆、この小さな惑星で暮らし、同じ空気を吸って生き、子の幸せを願い、いつか死に行くのです”

 

 結論として、「日本」国が「主権」を常に行使しうる真の独立国となると共に、私たち国民も主権者としての自覚を持ち、既述の【人類共通の至上の価値】、【人類共通の至上の大義】そして【人類共通の至上の正義】を我が物とした「地球市民」となりながらこれまでの特異とも言えるものの考え方や生き方とは理性をもって決別し、「アジアの一員」の枠をも超えて、陸続きのアジアとヨーロッパとを一体化した「ユーラシアの一員」としての自覚を持って、いかなる国との関係においても卑屈になることも尊大になることもなく、しかし相手の歴史と文化は常に尊重しながら、言うべきことははっきりと言い、あくまでも対等に接してゆくことこそが、結局は日本と日本国民が人類の平和な存続に向けての真の国際貢献となるのではないか、と私は思うのである。