LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

16.2 現行日本国憲法に対する世界の見方

 

16.2 現行日本国憲法に対する世界の見方

 「主権」とは近代における国家を構成する三要素(領土・国民・主権)の一つであり、その意味していることは、国家自身の意思によるほか他国の支配に服さない統治権力のことである。そしてそれは、最高で、独立した、絶対の統治権としての権力のことでもある(広辞苑第六版)。

 私たちは、私たちの国日本が「独立国」でなくてはならない、独立国であるはずだ、と考えるのならば、この定義が意味していることを先ずしっかりと理解しなくてはならない。

 しかし、主権にはもう一つ、重要な意味がある。それは、国家の政治のあり方を最終的に決めることのできる権利(同上の広辞苑)、というものである———この「最終的に決めることができる」としているところがとくに重要———。それは、世界のどこの立憲民主主義の国でも、それを所持しているのは国民である、とその国の憲法は定めているものである。

 そこで、主権に関するこの定義を踏まえるならば判断できるように、国家の基本法であり最上位法である憲法において、この主権のたとえ一部ではあってもそれを「放棄する」ということを明記するということは、その国は真の意味での、あるいは完全な意味での国家ではないし、同じ意味での独立国でもない、ということを意味する。言い換えれば、その国は、自分の国のことのすべては自分では決められない国である、と自国民に対してだけではなく世界に向って公言していることと同じことになる。

 ここで私が言う「一部放棄している主権」とは、現行日本国憲法についてみるならば交戦権のことである(第9条)。交戦権、それは国家が————国、ではない————自国民を守るために戦争をなし得る権利のことであり、また戦争の際に行使しうる権利のことである(同上の広辞苑)。したがってその交戦権を放棄することは、主権のうちでも、対外的には最大の権利を放棄することだ。

それは、現行日本国憲法にこう記されていることを言う。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、永久にこれを放棄する。」

 しかし、ここで私たち日本国民は世界の歴史において明らかにされてきた次の真実を忘れてはならない。それは、戦争にも大きく分けて2種類あるという真実である。

たとえば、かつて日本が領土拡大と資源確保のために周辺アジア諸国に対して行った侵略戦争と、ベトナムの人々がアメリカを相手に戦った、もっぱら祖国を防衛するために戦った戦争の例が判りやすいのではないか、と私は思う。

 前者の日本が行なった他国への侵略のための戦争は決して世界が認める戦争ではないし、実際、国際法違反の戦争だった。アメリカがベトナムに対して行なった戦争も侵略戦争であるため、世界が認めるものではなかった。しかし、その同じ戦争も、見方を変えて、侵略される国と国民から見れば、これは祖国を守るために止むを得ず受けて立たざるを得ない戦争であり、それは正義を実現するための戦争、となる。

実際、私たち日本国民のみならず世界の人々は、アメリカと戦うベトナムの人たちに向って、交戦権を放棄すべきだった、放棄することが正しかった、などと言えるはずはなかった。

なぜなら、当時のベトナムの人々にとっては、防衛するための武力や軍事力の有無や高さとは無関係に、侵略者アメリカに抗して闘うことが民族としての誇りであり、愛国心の表し方だったのだからだ。

 あるいは、大規模な戦争とまではいかなくても闘うことそのこと自体についても、次のような比喩を考えてみれば、正義の意味を持つ闘いと、邪悪な意味を持つ闘いとがあることが判るのである。

 一人であれ複数であれ、強盗殺人を目的としたある賊が、あるいは感情的怨恨から殺害を目的としたある人物が何かしらの凶器や武器を所持してある家族の住む家に不法侵入して来たとする。

 そのとき、もし、その家の主が、賊に向って、「自分は正義と秩序を基調とする地域や家庭の平和を誠実に願うので、闘うことや武器を持ってあなた方を威嚇または武力を振るうことはあなたと殺し合うことになるかもしれず、それは悶着を解決する手段とはなり得ないから、あなた方と闘う権利は放棄する」と言って無抵抗にしていたなら事態はどうなるのだろうか、と。

それは、一見平和主義で博愛の態度に見えるかも知れないが、実際にはそれはむしろ自らの家族への愛に乏しい姿で、賊に対しては卑屈で臆病な態度とは言えないだろうか。そもそも家の主が家族一人ひとりを深く愛していればいるほど、不法侵入して来た賊に対して、そんな態度は取れないのではないか。そんな態度を取ったなら、そのとき、その家の妻や子どもの生命の安全はどうなるのだろう。その家の家族の自由はどうなるのだろう。その家の財産はどうなるのだろう。そしてその時いったい誰が家族を賊や賊の暴力から守ってくれるのだろう。

 この比喩は、領土と国民と主権をその三要素とする国家と国家の関係においてもそのまま当てはまるのである。

 国民が固有の領土を守りながら平和に暮らす国家に、どこの国の誰か判らぬ武装集団あるいは軍隊がいきなり国境を越えて侵入して来たとき、憲法に明記されているからと言って、日本の政府も国民も、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するため、「国権の発動たる戦争」も、「武力による威嚇又は武力の行使」も「国際紛争を解決する手段」とはなり得ないと考えるから「永久にこれを放棄する」と言うばかりで、抵抗することも、何らかの武器を持って戦うこともしなかったなら、国民の生命の安全は、国民の自由は、国民の財産は一体どうなってしまうのか。誰がいったい守ってくれるか。

ひょっとして、その時、国民は、あるいは政府は、その役は軍事超大国に任せればいい、そのために、日頃、卑屈なまでの、あるいはとても対等は言えない軍事同盟を結んでいるのだから、としてしまうのだろうか。

 仮にそんな態度を日本が軍事超大国に対して取ったなら、果たして、そんな大役を任された外国軍隊の面々は、日本国民と日本政府に対して、むしろこう思い、日本人を軽蔑してくるのではないのか。“自分で自分(の国)を守ろうとさえしない者に対して、どうしてオレたちが血を流してでも守ってやる必要と義務があるのか? オレたちだって、自分の国はまず自分の手で守ろうとしているのだから”、と。

 このように、上記2つの比喩の例からも明らかなように、現行日本国憲法は、実際にそうした場面に直面したなら、「平和憲法」などと言っていられるどころか、たちまち実行不能憲法であることを自国民に対しても露呈させてしまうことになる。

 あるいは、ひょっとして、交戦権を放棄することを明記した憲法を持つ私たち日本国民は、将来のいつか、もし当時のベトナムの人々と同じ立場に立たされることがあったとき、平和憲法を持ち出して、敵または賊に対して、無抵抗で不服従の道か、侵略者に隷従する道かのいずれでも受け入れる覚悟ができているとでも言うのであろうか。受け入れる覚悟を持った上で交戦権の放棄を支持しているのだろうか。

 私には、この国の大方の人々の自国憲法に対するこれまでの向き合い方を見ていて思うのであるが、そして私たち日本国民一般に見られるこれまでの「ものの考え方」と「生き方」を見て来て思うのであるが(5.1節)、そこまでの明確な覚悟などとても持ってはいない、というよりそこまで憲法を読み込んでもいなければ考えてもいないのではないか、と確信さえ持つ。

 いずれにしても、無抵抗であったなら、侵略される側から見れば、そこで虐殺されるかもしれないし、そうでないとしても、人間としての自由を奪われて、耐え難い屈辱と辱めを受けることになる。事実、同朋であるはずの周辺アジアの国々を侵略した昭和10年代当時の日本軍、特に関東軍は、侵略したその地で、その地の人々に対して、幾多のそうした暴虐行為を働いたのだ。

 

 日本国民の大多数は、自国の現行憲法を、意識的に、日頃の自分の暮らしと生き方に役立てようとして来なかったがために、この国を本気で守らねばならないという非常時には、皮肉にもその憲法がかえって足かせになってしまうということに気付かないで来たのではなかったか。

というより、こうした欠陥をもつ憲法を、どの家でも、どの人も、「平和憲法」だとして後生大事に、つまり触れてはならないものとして、70年以上も後生大事に抱え込んで来たのではなかったか。そしてそれがために、いつの間にか、憲法と私たちとの関係はそれが当たり前として、次の事柄にも疑問を持つことさえして来なかったのではないか(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」窓社p.156)。

1.正当な戦争と邪悪な戦争を一切区別しない「平和憲法」を持ったという理解により、私たち日本国民は、世界に現実に起っているさまざまな戦争について、正当化できる戦争とそうでない戦争があることにすら気付かず、考えようともせず、またその区別をしたり見分けたりする必要もなくなったこと。

 そしてこのことが、私たち日本国民の多くをして、現実の世界を直視させ判断させる必要性を感じさせなくしてしまい、正当化できない戦争で苦しむ人々に同情することもなく、むしろ無関心を助長することになったこと。

2.すべての戦争はつねに悪だとする平和主義を推し進めることによって、私たち日本人は、過去の自分たちの戦争すらも———その戦争は軍部の官僚と政府の官僚とが一体となって推し進めただけの戦争と理解するだけで———歴史の真実としてそれを直視することもしなければ、受け入れることをも自分自身でいつまでもしなくなっていること。

3.既述の意味で実行不可能な「平和憲法」なのに、その憲法を持ったことによって、日本(人)は何もしないでも———世界の危険地帯や紛争地帯に実際に足を運び、血を流してでも世界の平和のために、あるいは大義のために戦っているわけではないのに。また、そうした海外の人々と共に現地での平和維持活動に参加しているわけではないのに———世界平和の大義に貢献しているという思い上がりと独りよがりを、日本国民、それもとくに護憲派の人々の間に生んでしまうことに役立ってきたこと。

 しかもそうした思い上がりや独りよがりの態度は、実際に命の危険を冒して世界平和に貢献している国々とその国々の民間人や兵士に対しては不遜であり自己欺瞞の態度でもあるということにも気付かせないできたこと。またそうした態度は、とかく、すべてをお金で済まそうとする日本政府の態度や、法律上は決着を見た問題だとして自己の加害行為を心に刻もうとしない態度と共に、日本に対する世界の誤解を深めることになるだけだ、ということにも気付かせないできたこと。

4.公式に交戦権を放棄した世界で唯一の国だからとして、それゆえに「日本は他に類のない国である」と世界にその特異性を訴え強調することで、国民自身、とくに護憲を主張する人々は、かえって国際社会の中で孤立を深めてしまっていること。

 

 なお、もちろんここで言う「世界」とは国連に加盟している国家群のことであり、それぞれは自衛権はもちろん交戦権をも堅持する憲法を持ち、対外的にはつねに自国の主権を最優先して外交をしている国々のことである。

 実際、その世界は日本をこう見ている。

“国際的有事の際、日本は交戦権を放棄している国だから、オレたちと一緒になって国際平和のために血を流すようなことはしない”。“国際的有事の際、日本は満足な責任を果たせない国だ”。

その代わりに、“日本はいつもカネですべてを済ませようとする国だ”。“日本はいつもアメリカに追随し、アメリカの傘の陰に隠れているだけの国だ”。“日本はいったい何がしたい国なのか”。

 要するに日本は、国際社会で、一人前の国、一緒に付き合える国、価値ある国、本当に信頼するに値する国とはみなされない国になってしまっているのである(K.V.ウオルフレン「なぜ日本人は日本を愛せないのか」毎日新聞社。「日本人だけが知らないアメリカ『世界支配』の終わり」徳間書店p.305)。

 現行の日本国憲法を巡るそんな状況の中、また、そんな主権意識に欠けた指導者を抱える状況の中、とくに「護憲派」と呼ばれる人々あるいはその陣営の中には、そんな第9条を「人類の宝」とみなし、それを「世界遺産」にしようとする人々までいる。

果たしてそう試みようとしている人たちは、世界遺産登録の可否を審査する国連の人たちこそ、民主主義と憲法というものへの深い理解を持った人たちであるということを知らないのであろうか。

 しかしこうなるのも結局は、私たち日本人は、少なくとも江戸時代から、理不尽と感じても抗議の行為に訴えることをせず、また理不尽を跳ね返す行為に出ることもせず、むしろ「仕方がない」として泣き寝入りさせられることに馴らされて来た結果なのではないか。イエーリング(「権利のための闘争」村上淳一訳 岩波文庫)が言うが如く、日本国民一般の権利感覚が萎縮し、いえ、萎縮するだけではなく鈍感にもなり、理不尽を理不尽と、苦痛を苦痛と感じないようになってしまった結果なのではないか、と私は考える。

特に沖縄の人々が70余年にわたって置かれて来た状況に対する本土の人々の理解の程度が、そして日本政府そのものの態度が、そのことを何よりも如実に証明しているのである。