LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

16.3 ではどのような内容と骨格の新憲法にするべきか

 

16.3 ではどのような内容と骨格の新憲法にするべきか

 では、そもそも憲法とは何か。そしてそれは誰のために、何のためにあるものか。

これは憲法というものを考えるとき、基本的に大切な問いである。

その一般論としての答えはこうなる。

憲法とは、国民にとっても政府にとっても、国民の日常の生活と国家としての政治のあり方について、実際的にもまた究極的にも、いつでも、判断の指針・規準あるいは原器となってくれるもの

 これをもう少し噛み砕いて言えばこうなろう。

それは一国の法的な中核を代表して成すものであり、それだけに日本という国はどうあるべきか、どういう国を作ろうとしているかを示し、日本という国家の基本的な目的を明確にするもの。そして日本の政治システムの中では、本当はどこに責任があるかを明確にするものであると同時に社会から恣意性を追放してくれるもの————このことの重要性については、例えば、中国国内で逮捕される人の多くは、自分がどのような法律条文による罪で逮捕されたのかわからない、と訴えていることからも判る。こうなるのも、憲法においても法律においても、ほとんどは、それを解釈して運用する立場の者の恣意が入り込める条文となっているからだ————。そして憲法は、日常的に使って役に立つものである(カレル・ヴァン・ウオルフレン「なぜ日本人は日本を愛せないのか」P.346、「日本という国をあなたのものにするために」p.230)。

 憲法とはこのようなものなのである。したがって、そうであるためには、憲法はそれにふさわしい内容を備えていなくてはならないし、またそれを読む人に憲法の訴えているところを正確に伝えうる表現がなされていなくてはならないのである

 以上のことだけからも明らかなように、憲法とは、安倍晋三が言うような、「憲法は国の理想を語るもの」ではないし、「国の理想の姿を描くもの」 でも断じてない。むしろ彼は、例えば憲法第9条に関して言えば、同じ憲法の中には改定手続きが明記されているのに(第96条)、それを全く無視して、あるいはその条文に従っていたなら自身の野心を遂げられないと見たのであろう、自党とそれに協調する国会議員数に物を言わせて、条文はそのままにして、解釈の仕方を従来のものとは変えて解釈し直すだけで改憲したことにしてしまった張本人であることからも判るように、あるいは憲法に違反する法律の成立を強行し、その結果憲法そのものを理論的には破壊してしまった事実からも判るように(16.1節)、彼は憲法を一見そのように国の理想を語る文章のように言うが、その実態やその本心は、憲法を虚仮にし、立憲主義を軽視しているのである。そしてそんな彼は、現在のこの国の国政政治家の中で最も改憲に執着している一人なのだ。

 

 ところで憲法とは何かについて、それは、国民の日常の生活にとっても政府にとっても、実際的にもまた究極的にも、判断の指針・規準あるいは原器である、としてきたが、その意味は大きく言って次の2つになる。

 1つは、国家———「国」ではない———の構成員である国民一人ひとりが、自分自身の主人公として、自分で自分の行動を、その条文を読むことにより、誰に判断を仰がなくとも自分で判断して決めることができるようになる、という意味での規準あるいは原器であるということ。

 1つは、国家が国家として採っている行動と進んでいる方向についても、それが主権者である国民すべてによって予め信任され合意された方向に一致しているか否かということを、国民一人ひとりが自身で判断できるようになる、という意味での規準あるいは原器であるということ。

 憲法は、国民と政府に対してこの2つの役割を果たすことによって、社会から「恣意性」あるいは「気紛れ」を追放してくれるものとなるのである(K.V.ウオルフレン「なぜ日本人は日本を愛せないのか」P.346?!)。

 上記2つが意味することは、憲法とは、国民一人ひとりが、たとえば次のような重要な事柄でも、憲法条文を頼るだけで、自分だけで確信を持って判断できるようになる、ということなのである。

たとえば、自分たちの国では、国民一人ひとりの基本的人権がいつでも、きちんと守られているか否か。大惨事に遭遇した場合でも、国民一人ひとりの生命・自由・財産が安全に守られているか否か。国会にてつくられる法律はつねに憲法に合致しているか否か。国家はきちんと憲法や法律を守っているか。政府はきちんと行政手続き法に基づいて行政を行っているか。官僚あるいは一般に役人のやっていることやそのやり方は憲法が条文で規定する「全体の奉仕者」としての行為に合致しているか否か。国会は本当に国権の最高機関たり得ているか否か。そして三権は互いに独立し得ているか、とくに司法権は行政権から完全に独立し得ているか否か、等々についてである。

 

 さて、憲法は、国民にとっても政府にとっても、国民の日常の生活と国家としての政治のあり方について、実際的にもまた究極的にも、いつでも、判断の指針・規準あるいは原器となってくれるものであるためには、それにふさわしい内容と表現を備えていなくてはならないとしてきた。

 では、その場合、前者の「それにふさわしい内容」とはどういうものを指すのであろうか。

実際、現行の日本国憲法は、「それにふさわしい内容」を備えているだろうか。

以下に明らかにするように、体裁の上でも内容の上でも、決してそうはなっていないと私は思う。

 では、憲法が最低でも満たすべき要件とは何か。

そこで、以下ではそれについて考察しようと思うが、ただしその前に、特にこの国の憲法観をめぐる現状を見るとき、明らかにしておかねばならないことがあるように私は思う。

それは、とくに護憲派と呼ばれている人々の多くが言う、「法律は国家が国民を縛るあるいは制限するものだが、憲法は国民が国家の政府を縛るあるいは制限するものだ」、ということについてである(伊藤整 語りおろしDVD「憲法ってなあに?」)。

 辞書によれば、憲法の定義は、「国家存立の基本的条件を定めた根本法。国の統治権、根本的な機関、作用の大原則を定めた基礎法で、通常他の法律・命令を以て変更することを許さない国の最高法規とされる」とある(広辞苑第六版)。

 果してこの憲法の定義から、上記の憲法観を導き出せるのであろうか。

私は無理だと考える。それに近代史上、たとえば、これまで植民地であった国が宗主国から独立するような場合、あるいは新国家を建設するような場合、先ず「憲法」を制定することを見ても、憲法は何も国民が政府を縛ったり制限したりするだけにあるものではないことは明らかなのである。

それに、何と言っても、憲法は、上記定義が明らかにするように、「国家存立の根本的条件を定めた根本法」であり「国の最高法規」なのだ。最高であるがゆえに、“憲法に違反する法律は無効”とされ、“他の法律・命令を以て変更することを許さない法規”なのだ。

 つまり憲法は、国民一般にとってはもちろん、政権を担う政治家を含む政治家一般にとっても、官僚を含む役人一般にとっても、また天皇にとっても、国民誰もが、等しく、最終的に頼りに出来る、一定の明文化された規準であり、国の唯一の基本法なのだ。

 したがって憲法は国民が国家の政府を縛るものであるとする見解は、憲法に対する一面的な見方に過ぎない、と言えるのである。

 なお、国家は、政治学的には文化や歴史・伝統そして道徳や宗教に対しては中立であるべきとされているのと同様に、その国家の屋台骨となる憲法もそれらについては中立でなくてはならない、というのは言うまでもないことだ。

具体的には、権力保持者の側が自分たちの思想、道徳観、宗教的信仰そして文化観に基づいて、国民に、それらを押し付けたり、それに従うよう指図したりするような内容は含んでいてはならない、ということである。

 

 そこで、前に戻って、憲法が、内容上、最低でも満たすべき要件とは何か、についてである。

その際のヒントはやはり憲法というものの定義にある、と私は考える。

つまり、その憲法は、本当に、国家存立の基本的条件を定めたものとなっているか、国の統治権、根本的な機関、作用の大原則を定めたものとなっているか、ということである。そしてそれは、通常他の法律・命令を以て変更することを許さないし、憲法に違反する法律も命令も許さないということが明記されたものとなっているか、ということである。

 さらには、既述のごとく、どういう国を作ろうとしているか、国家として目指すもの・目的地を明らかにしているか、日本の政治システムの中では本当はどこに責任があるかを明確にし、社会から恣意性を追放してくれるものとなっているか、国民が日常的に使って役立つものとなっているか、等々ということなのである。

 そしてその内容とは、私は次のようなものとなるのではないか、と考えるのである。

 

 

 

 

○国家として目指す目的地としての国のあり方

○国家としての使命と目的と理念

○人および市民の人間個人としての基本権とその保障

主権の保持者、生存権、人格・人身の自由権、信仰・良心・宗教活動の自由権、表現・出版・放送・芸術・学問の自由権、集会・結社の自由権、営業の自由権、性別・出自・人種・言語・故郷・門地・信仰・宗教的または政治的見解の違いに拠らない法律の前の平等権、私有財産の所有権・相続権・公用収用権、

成年、母性・児童・家族の保護、健康を維持する権利、社会保障を受ける権利、信書・郵便・電気通信の秘密の保護、労働権・争議権、裁判を受ける権利、弁護を受ける権利、不利益な供述を強要されない権利、身体の無瑕性の権利、環境権、国家による人権庇護権、無罪推定、一事不再理、請願権、出訴権の保障、国家賠償を受ける権利、公務員の罷免権、先住少数民族の権利、移民と難民の受け入れと地位(基本的人権の保障)、政治的亡命者の保護、基本権の喪失、権利の制限、自由は尊重されねばならないが、しかしその自由権の行使には、常に責任が伴う、とする。

そして特にここでの人および市民の人間個人としての基本権とその保障として、国民の誰もが、仮に逮捕され、また起訴された場合、なぜ自分が逮捕され、起訴されたのかわからないような法律を作ってはいけないと憲法が明記すること。言い換えると、何が罪あるいは犯罪に当たるかは国家が決めるといった、法を運用する者が恣意を介在させうるような法、あるいは何が罪あるいは犯罪に当たるか曖昧なままの法を作ってはいけない、と憲法が明記すること。

つまりあらゆる法は恣意が介在できない法とすること、と憲法に明記する。

○国民の義務

すべての国民の憲法擁護の義務(国民の不断の権力監視義務と憲法を守る義務)。納税の義務。環境、とくに生態系と生物多様性を保護する義務。

○「元首」を誰にするか、その明確化。元首とは、一国を代表する資格を持った首長のことである。君主制の国では君主、共和国では大統領あるいは最高機関の長など(広辞苑第六版)。

連邦議会

連邦議会を上院(参議院)と下院(衆議院)の二院制とすることの明記。

下院(衆議院)と上院(参議院)の役割の明記。

議会の召集権と解散権は議長にあり、とする。

(現行憲法は、臨時議会の召集権のみを決めており、それは内閣にありとするが(憲法第53条)、しかしそれは臨時議会であろうと通常議会・定例議会であろうと、普通・平等・秘密選挙に基づく議会に最高の権限を与えようとする議会制民主主義の考え方からはおかしい。なぜなら権力順位が国会以下の政府の内閣が————たとえ政府の長である内閣総理大臣といえども————最高権を有する国会を招集する権限があるとすること自体、矛盾しているからだ。

 また、現行憲法は、解散権がどの機関の誰にあるかは何も述べてはいないが、慣例からすると憲法第7条と69条に基づくとされ、解散権は内閣総理大臣にあるとされてきているが、それも、臨時会の招集権は内閣にありとするのと同様に、理屈上おかしい。そもそも国会よも権力順位の低い政府に自分よりも権力が高い国会を解散させるなどといったことが理屈に合うはずがないからだ。

 そこで、それ以上に、議会に解散は有りとするのか無しとするのか、それを明確化する。

その場合、下院には解散は有りとしても、その下院の解散権は誰にあるかという、その所在も明確化する必要がある。

○連邦大統領と連邦政府

徴税者としての連邦・州・地域連合体の政府の義務

司法権

とくに行政権からの完全独立

憲法裁判所

○新国家建設構想立案国民会議

○選挙管理

普通選挙は秘密投票でおこなわれること。投票権と一票の平等性の保障。

○外国との条約を批准するに際して、条約締結権限を公式に与えられた者は誰であるとするのか。その答えは内閣であるとする現行憲法(第73条)は余りにも曖昧である。したがって、たとえば、それは内閣総理大臣である、と明確化されるべきだ。

○財政制度

憲法と一般法との関係

○連邦および連邦構成主体(州、地域連合体)の立法権、行政権、司法権とそれぞれの独立性

○連邦構成主体とその法的地位および権限(連邦、州、地域連合体。連邦政府と州政府と地域連合体政府との間での権力関係。地方自治の保障 (第8章参照)

 たとえば、国家的大惨事・大災害の時、連邦政府の役割と責任はどこからどこまでか、一方、州や連合自治体の役割と責任はどこまでか、どこまでお互いが独自の裁量で権限を行使できるのか、という境界の憲法的明確化。

 実際、たとえば、新型コロナウイルス対策でも、「緊急事態宣言」を発するのは中央政府であるが、国民各自の外出「自粛」の「要請」を発したり、またそれを「解除」したりするのは都道府県庁の首長である、などといった西村経済再生担当大臣のまったくご都合主義的で恣意的な説明があったが、そういうことが起るのも、中央政府と地方政府との間での法的地位・権限の内容の違い・相互の権力関係が、憲法の上で定まった形で明確になっていなかったからだ。

 とにかく公的な物事の指示や命令はつねに確定し公布されている、一定の明文化された規準に基づいてなされるべきなのだ。それは「法の支配」にも通じる。決して臨機の命令や指示あるいは不明瞭で曖昧な決定によるべきではない。臨機の命令や指示あるいは不明瞭で曖昧な決定による命令や指示は、国民を戸惑わせることになるだけだからだ。

そしてこのことは、今後ますます現実的に想定される台風や地震などによる大災害時には、一刻も早く被災者である国民の生命と財産と自由の安全を確保するためにも、とくに重要なことである。

 ところが、こうした国民にとって極めて重要なことが、現行日本国憲法ではひと言も言及されてはいないのである。

○連邦の管轄事項(第8章参照)

○連邦構成主体の管轄事項(第8章参照)

○連邦と連邦構成主体の共同管轄事項(第8章参照)

天皇の国王化(象徴としての天皇から、憲法に制御される「国王」、民主主義の育成に役立つ「国王」と明確に位置づける(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないのか」p.240))

 その上で日本は今後も君主制の一種である天皇制、それも民主憲法下での天皇制を維持するのか、それとも共和制とするのかを明記する。

 なお、共和制とは、主権が国民にあり、国民が選んだ代表者たちが合議で政治を行う体制のこと。その場合、国民が直接・間接の選挙で国の元首を選ぶことを原則とする(広辞苑第六版)。

しかし、いずれの場合でも、そのときの天皇の地位としては、もはや「象徴」といった曖昧で国民にとっても判りにくい地位では済まないであろう。「象徴」では、実際のところ、何かの際、あるいは現実的な目的のためには、全く用をなさないからだ(同上書の同ページ)

 実際、現行日本国憲法は、天皇は日本国の象徴・日本国民統合の象徴とは明記するが、ではそれは一体、具体的にはどういうことを言うのかということについては、アジア・太平洋戦争敗戦後の昭和天皇ご自身も、そして平成天皇もずっと考えて来られたのだ。そして各々の天皇が考えられたそれを各々の天皇なりに形に表わされて来たのである。

つまり「象徴としての天皇」というのは主権者である国民と天皇との間で概念の共有化も出来ないままになっているし、天皇相互の間でさえ概念の共有化ができてはいない。これでは実質的に無意味な言葉でしかない。それに、「象徴」を明確に定義し得ないでいる今のままでは、たとえば、「天皇は本当に必要なのか? 必要だとすればなぜ必要か?」といった問いに対しても、誰もが納得できる合理的な答えを見出せるはずはない。

天皇の地位についての註:日本では、神話の中の天皇が初代天皇であるとしたり、「万世一系」などといった見方をしたりしてきたが、史実だけに基づいた天皇の系譜を見れば明らかなように、それはつくられた話(虚構・嘘)であることが判る。ましてや「現人神」などとすることにも土台無理があったことも判る。それに、「大嘗祭」を見れば判るように、宗教的な意味を残した天皇というのも政教分離という原則をとるならば、合わない。

 明治の時代は天皇制」を執って来たとは言っても、天皇が官僚による統治を正統化するためにいかに巧妙に利用されて来たかを振り返ってみるとき、またとくに昭和10年代から昭和45年まで、天皇現人神とされ、統帥権があるとされ、理論的には無限の権力を持つとされながらも、とくに陸軍(関東軍)などはその統帥権を無視して独断行動をとり、満州国という傀儡国家をでっち上げたことからも判るように、官僚たちは天皇を事実上は無力な存在としながら、利用してきたのである。

 とにかく、もはやこの国は、確定して定まった法律やルールに基づかないで曖昧な表現の下で物事を行ったり、そういうものだと理解しようとする習慣は止めるべきではないか。

 なおこの問題は、国旗とされている「日の丸」と、国歌とされている「君が代」を今後も存続させるべきか、変えるとすればどう変えるべきか、という問題と一体を成してもいる。)

○国王化された天皇の役割

国事行為を含めた役割と、権能の限界、天皇と大統領との関係、天皇の財産の授受

○政治家の使命と責任

○公務員の使命と役割

○国民の公務員に対する任免権と罷免権

○法人の基本権と独占の禁止

○非常事態時、緊急事態時の国家の対応の仕方(個人と法人の権利の制限)

文民による軍人に対する統制権(シビリアン・コントロール)の保障

○国旗、国章、国歌、首都

○通貨

 

 思えば私たち日本国民は、自分たち自身の手で“オレたちの憲法だ”と思えるものをつくった体験は一度もない。いま手にしている日本国憲法も、基本的にはGHQから手渡されたもので、それを、日本政府が相変わらず欽定憲法下の政府の体質を引きずりながら、国民の意見も聞かずに部分だけを修正して成った憲法である。そのためか、あるいは立憲体制に慣れていないということもあってか、私たち日本国民は、その圧倒的多数が、「憲法を日々の暮らしに生かす」という生活をしてこなかった。またその結果であろう、日本国民は、その日本国憲法に対して、施行以来実に70余年間、その憲法上の不備または欠陥に気付かずに来てしまい、国民一般からは憲法改正の必要の声が上がってくることはなかった。

 そんな中、現在の日本国憲法については「押し付けられた憲法だ」との主張が1950年代から改憲派によって延々と繰り返されて来ている。その動きの代表的論者が現首相安倍晋三の祖父で、極東軍事裁判A級戦犯容疑者とされた岸信介元首相だ。しかし安倍は在任中改憲を果たし得なかった祖父の志を受けてであろう、在任中での改憲を戦後の首相として初めて言明した。

その彼は、手始めに、歴代自民党がとって来た9条についての「同条文は個別的自衛権を容認しているだけで、集団的自衛権は容認してはいない」という解釈を勝手に翻した。それも、憲法改正手続きを明記した96条を無視する形で、条文を書き換えることなく単に「解釈」を変更するだけで「改憲した」としてしまった。これは明らかに憲法を蹂躙した態度だ。自国の基本法である憲法をこうした方法で変えてしまうのは、国連に加盟している国家群の中で、多分安倍晋三だけであろう。それだけにまた、安倍は、多分、世界のどこの立憲民主主義国のとくに首脳からも本当の意味で信頼されてはいないであろう。

 実は日本国政府自身が自国憲法を虚仮にしている態度はそれだけではない。

たとえば、「陸海空軍その他の戦力は保持しない」と明記している第9条において、小学生から見ても軍隊という戦力であることは明らかな自衛隊を保持していることだ。それも世界で5番目の規模のものだ。しかもそれは、実力部隊すなわち軍隊ではないし戦力でもない、したがって違憲でもない、ともして来ている。

 これはもう黒を白と自国民を言いくるめる論理であるし態度だ。そしてそれは、かつて、撤退あるいは敗退を転戦と言いくるめ、全滅を玉砕と言いくるめ、戦車を特車と言いくるめた明治憲法下の政府の態度となんら変わらない。

 またその態度は、現行憲法には、衆議院の解散の有無や、その解散権が誰にあるかということについては明記した条文はないのに、というより国会の権力より低位の権力しか持たない内閣の長が、衆議院であれ、国権の最高機関と憲法が明記する国会そのものを解散させることができるなどということは民主主義政治学の観点からもあり得るはずもないのに、根拠にもならない条文(第7条と69条)を持ち出して、「衆議院には解散がある」とし、「その解散権は首相の専権事項だ」と言っては国民を誤摩化して来た態度とも変わらない。

 

 そこで、ここで原点に立ち帰ってみるのである。

私たち国民が私たちの憲法を自分たちで創って持つということは、自分たちが自分たちの意思に拠り国家共同体を結び、「自分たちで自分たちの進み行くその道を決意し、自分たちの国を自分たちで形づくることを決意する内容を明文化すること」(樋口陽一)なのである。

 だから、憲法を日々の暮らしに生かそうとしなかったり、憲法に無関心であったりするということは、結局は、社会の正義や秩序に対してだけではなく、自分の人生や生き方にも無関心あるいは無頓着であるということである。国家共同体の主権者として、国家と自身に対する義務と責任にも無頓着であるということになる。国家と自身に対する義務を放棄していることでもある。

 とはいえ、この国の場合にはとくに、憲法を考える、あるいは憲法を改定する、新憲法を制定するとは言っても、次の点はやはり忘れてはならない重要なことであると私は考える。

それは、過去(それも昭和10年代以降の)をきちんと清算することを阻み、歪めようとさえする者が今もいることだ。また、憲法改正を「かつて来た道」に引き戻すための手段にしようとたくらむ者もいることだ。

 そのために、とくにいま権力を手中に収めている人たち、これから権力を手に入れようとしている人たちが、これまで何をしてきたか、そして何をしてこなかったか、を私たちは明確に知っておくこと。またこれまで改憲の必要性を説いてきた人たちで、いま権力を手に入れている人たち、これから権力を手に入れようとしている人たちは、何をどうしたくて、あるいはどういう理由で改憲の主張をしてきたのか、しているのか、をも私たちは明確に知っておくこと(同じく樋口陽一)。このことがとくに重要になるのである。

 実際、現在、自民党から提案されている憲法草案およびその改定案は、内容はもちろん体裁もまったく憲法の体を成してはいないもので、道徳を汲み入れ、天皇を元首にしようとするなど、懐古調または復古調が色濃くにじみ出たものなのである。

 今この国に求められている、私たちが自らつくる私たちのための新しい憲法は、「国の理想の姿」を描いたり、古の国の姿を懐かしんで描いたりするものでは決してなく、むしろ今を生き、また未来に向かって生きようとする際の明確な指針となりうる憲法なのだ。もっと言えば、もはや、国民の知らぬ間に、あるいは知らされない間に、戦争へと突き進んでゆき、そこに国民が有無を言わさずに駆り出され、協力させられ、ウソだらけの戦況報告を知らされ続け、その挙げ句が、これも国民は何一つ知らされない形で突如「無条件降伏」を告げられるという終り方をした戦争は二度とさせないための憲法なのだ。と同時に、今後の日本の行くべき方向や目ざすべき国あり方を国民みんなで考え、私たち国民すべてがより安心して、持続的に暮らしてゆけるようになることを実現する憲法なのだ。

それも、文字が読めさえすれば、国民の誰にとっても、一読してその意味しているところが合理性をもって理解でき、日々に活用できる憲法なのである。

 

 次節以降では、以上のことを踏まえて、私の考える具体的な憲法草案の前文と本文を提案してみたいと思う。