LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

第17章 新しい政治家による国家創建に向けた道筋と行程

第17章 新しい政治家による国家創建に向けた道筋と行程

 これまで私は、第1部では、世界の現状に対する私の認識と、人類が永続的に生きて行けるための条件としての原理と原則、そしてこれからの日本人に特に求められていると私には思えていたものの考え方や生き方を明確にしてきた。なお、ここで言う「人類が永続的に生きて行ける」との意味は、百年や千年の長さではない。人類のうち現生人類としてのホモ・サピエンスが東アフリカで進化したのは今からおよそ20万年前と言われるが(ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」河出書房新社p.9)、少なくとも、ほぼその長さに匹敵する時間的な長さを生きて行ける、との意味である。

 続く第2部では、第1部を土台にして、つまり、人類が永続的に生きて行けるための条件としての原理と原則を土台にして、今度はこの国が真に持続可能な国と国家となりうるための社会を成り立たせる基本的に重要な諸制度とはどういうものか、そしてそれらの内で最も重視しなくてはならないことは何かということについて、やはり私なりに述べてきた。

 なおここで言う真の国家とは、これまで幾度も述べて来たように、「社会の構成分子たるあらゆる個人または集団に対して合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合された社会」のことである。あるいは軍(自衛隊)を含めて、あらゆる公的機関・公的組織を合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合できる、「中枢」機能を持った統治体制を確立している国であることだ。当然そうなるためには、最低でも、現在、この国の全ての役所に共通に見られる「タテ割り」の組織構成が全政治家たちの手によって壊されていなくてはならない。そもそも、一国の政権を担う総理大臣や閣僚が政府の行政状況を国民に説明する際、決まって官僚の書いた作文を棒読みしなくては説明できないということは、国民から選挙で選ばれた国民の代表である政治家が、公僕、すなわち「国民の召使い」である官僚を使いこなすのではなく、逆に官僚たちに操られていることを意味しているのである。実際、同じ行政課題についても、各省庁の大臣によって言うことが異なるということが頻繁に生じるが、それも、自分たちが所属する府省庁の利益を国民の利益に常に優先させる官僚たちに操られているという事実を証明しているのである。こんなことでは、イザ国難という時には、初動体制に遅れが出るどころか、事実上の無政府状態に陥り、その結果、国民は中央政府からも地方政府からも救われる可能性はほとんど無くなるということだ。実際、そのことは既に近年の幾多の大惨事で証明されてもいる。

 この状態は現行憲法が明記している「主権在民」など全く空文化していることで、実質の主権者は官僚を含む役人だということになってしまうのである。したがって、こんな状態では、どんなに選挙によって政権が変わったとしても、その政権を操っているのが官僚たちである以上、そして官僚たちは選挙のたびに入れ替わる訳ではなく、組織の一員としてずっと存続している以上、国民に対する政治や行政の中身が変化するはずもないのである。実際、官僚たちの多くは、政権がどんなに変わろうとも、俺たちがこの国を運営している以上、既得権を手放すことは絶対になく、現状は何も変えさせない、という意識でいるのだ。それはすなわち、この国は主権在民の国ではなく主権在官の国のままとなるのだから、国の中には依然として民主主義はもちろん表現の自由も、そして「法の支配」も実現されるはずはない、ということを意味するのである。それだけではない、こんな状態では、この国が真に持続可能な国となるための三種の指導原理だって実現されるはずはない。なぜならば、それらの原理を国内に実現させるということは、それは、この国の明治期以来、中央政府の官僚たちによって作り上げられてきた公式の国策としての「殖産興業、「富国強兵」や、戦後の非公式の国策としての「果てしなき経済の成長」あるいは「果てしなき工業生産力の発展」を捨てさせることを意味するからであり、それはそのまま、各府省庁の官僚たちをして、その国策の中で巧妙に築きあげてきた専管産業界との持ちつ持たれつの関係の一つとしての「天下り」先を失うことになるだけではなく、天下りそのものが不可能となるし、また意味をなくすことをも意味するからである。

 こうして、これまでのことを振り返ってみれば一層はっきりするように、重要なことは、これまでのような轍を二度と踏まない国づくりを着実に進めてゆくためには、主権者意識を持ち、自身に忠実で、民主主義政治に覚醒した多くの国民が育つことと、真に愛国心と自国民に対する忠誠心に燃えた本物の政治家がより多く育つことなのである。今のような、政治家としての使命や役割すら知ろうともせず、というより、「政治とは何か」すら知ろうともせずに、自身の利益だけを考え、役人に依存しては政治家人生を歩もうとするだけの、自己に甘えきった税金泥棒としか言いようのない似非政治家では到底ダメで、そのような輩は存在するだけで税金の無駄遣いになるし、この国と国民の安全保障にとってはかえって有害無益でしかないということである。そのために私は、そのような似非政治家を必然的に生じさせてしまう現行の選挙制度小選挙区比例代表並立の制度)は根こそぎ廃止しなくてはダメだとして、このような制度にすれば国民の信託に応えられる本物の政治家を生み出し、また育てることもできるであろうと思われる全く新しい選挙制度をも提案してきた(第9章)。

 そして第3部では、以上のことを実現させるための具体的な方法と手順について述べている。

そこでも強調しておきたいことは、真に持続可能な国と国家を創建するには、国民にとっても、また政府にとっても、実際的にもまた究極的にも、「恣意性」つまり「気紛れ」を追放して、判断と行動の指針・規準あるいは原器ともなるべきものが不可欠であろうと思い、私の考える新憲法を提案してきたことである。現行日本国憲法は、法の運用者(=官僚)にとってあまりにもその恣意性を介入させることが容易なものであるというだけではなく、国民にとっても、それを日常の暮らしや生き方に生かすにはいくつかの解釈が成り立ってしまうもので、不都合だからである。

 そこで本章では、第2部での新選挙制度が成立したものとして、その新制度によって生み出され、育てられた本物の政治家たちによって、この日本が真に持続可能な国と生まれ変わり得るための、具体的な道筋と行程を考えてみようと思うのである。それは、第2部で考察してきた諸制度を実現した国家である。

 目指すは次のような国家だ。

国民的の圧倒的多数が、何より暮らしに「安心」と「希望」を見出せ、「明日」を信頼できる国だ。国民の大多数が、「生きるに値する」と実感できるような国である。当然そこでは、真実が大切にされ、誠実、勇気が人間として生きる上での最大の徳となり、対人間関係において思いやりや礼節が最重視にされ、国民一人ひとりが個人としての人権と尊厳が守られ、どんな時にも「生命・自由・財産」が中央と地方の政府によって最優先的に守られている国である。それだけに「嘘」をつくことは最も人の道に外れた行為とされる。なぜならば、嘘をつくことは、人と人とが、あるいは人間集団がそれまで努力して築き上げてきた成果や関係のすべてを一瞬にして台無しにしてしまう行動だからだ。

 心静かに振り返ってみよう。今のような、生きとし生きるものがまともに生きられずに、絶滅種や絶滅危惧種が増える一方の自然にしてしまったのも、また、今のような、人間が人間らしく生きることを難しくさせ、格差を拡大させ、自殺者が増える一方の社会にしてしまったのも、大元を辿れば、「競争」を前提とし、「倫理」や「道徳」を不要として、「損得」を最大の判断基準として、利潤や収益を少しでも多く上げることを至上命題としては、自然をそのための手段とし、社会を、富む一方の富者と貧しくなる一方の貧者の二極化を促してきた資本主義であり、またそれを最大限に進めるグローバル市場経済システムではなかったか。そこでは、「便利さ」や「快適さ」そして「物的豊かさ」ばかりがもてはやされ、「虚飾」や「見栄」や「外見」がそのものの価値を決め、人間の歴史において圧倒的長きにわたって人間を支えてきた自然観、世界観、宗教観は、その資本の論理の前に常に除け者にされてきたのではなかったか。

 こうなればもはや「資本主義」を止揚しなくてはならないのは必然であって、それは好む好まないの問題ではない。また、それと共に遠くギリシャに起源を持つ「民主主義」をも止揚しなくてはならない。なぜなら民主主義は、人間を生かしてくれている自然を構成する生命一般を念頭に置いた政治制度ではなく、あくまでも人間を中心とする人間の都合から見た政治制度だからだ。したがって、これからの環境時代の政治制度は、もはやそうした民主主義ではなく、人間をその一部として含む自然と人間との共生を念頭に置いた政治制度としての「生命主義」としなければならないというのも、もはや必然と言えるのではないか。そうしなくては人間はもはやこの地球上に「存続」=「持続」できない状態に至っているのであるからだ。