LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

3.2 《エントロピー発生の原理》が教える人類の存続を可能とさせる条件 ——————その2

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今回公開する内容は、前回の同名のタイトルの節の下での「その1」に続くものです。

 

3.2 《エントロピー発生の原理》が教える人類の存続を可能とさせる条件——————その2

では第3の問いに対する答えはどうなるのか。

これに答えられるためには、まずは第1の問いが答えられていることが前提となる。

しかし、今のところその答えは、既述のとおり私には不明である。

そこで、ここでは、見方を少し変えて、地球の表面上にて発生させることが許される最大のエントロピーの量とは一体どれほどか、ということを考えてみようと思う。

なぜそれを考えようとするか。それは、これまで地球は、その誕生以来、何十億年と地球としての機能を維持してきたわけで、それはこれまで述べてきたエントロピー的観点から見れば、地球表面上で発生してくるエントロピーの総量は地球の機能を維持する上ではまだ十分な余力があったということであり、そしてそれだからこそ地球上には豊かな自然が育まれ、またその中で様々な生命が営まれてこれたのであるということなのであるが、そこで、では、地球としてのその機能を維持しうる範囲内で、地球上に存在することが許容される最大量のエントロピー量とは一体どれだけか、ということを考えてみることは、次の意味で、十分意義があることだからである。それは、人類が地球上に生き続けられる限界の地球表面上でのエントロピーの総量はどれだけかということを考えることでもあるからだ。

つまりこれを考えることこそが、「地球に生命が今後とも存在し続けられるための条件とは何か」を考えることであり、「人類存続可能条件とは何か」を明らかにすることでもあるのである。

言い換えれば、それは、この広大無辺な宇宙にあって、地球は、スペースシップ・アース(宇宙船地球号)として、人類が人種や民族を超えて運命を共にする、今のところ多分唯一の運命共同体」と言ってもいい天体なのであるが、その「運命共同体としての存続可能性を考えることでもある。

そしてその条件こそが、人類が今後の文明のあり方を考える上では、何にも優る、そして何にも増して重視しなくてはならない、客観的で科学的な判断材料となり、また制約条件ともなるのである。

ところで、それが計算できるためには、エントロピーはつねに廃熱や廃物に付随して廃熱や廃物とともに移動する物理量であるということから判るように、地球の温度そのものではなく、地球と宇宙との熱の出入り、または収支が判っていなくてはならない。

そこで現在判っているその熱の収支を基に、地球の表面上にて発生させることが人類にとって許される最大のエントロピー具体的な量を計算してみようとは思う。

先ず、地球上における人間の経済活動を含むあらゆる生命の営みと非生命の活動によって、地球上で毎年生成されている総エントロピー量をGt、地球がその表面から、同じく毎年、宇宙に向けて捨てることができている総エントロピー量をGsとしたとき、その両者の差(Gt−Gs)について考える。この差(Gt−Gs)が、地球上に存在し続ける総エントロピー量、ということになる。

その際、考えられる場合の数は以下の3種類である。

一つは、(Gt−Gs)<0の場合。

この場合には、人間の経済活動を含む、地球上におけるあらゆる生命の営みと非生命の活動によって発生するエントロピーの総量には、エントロピー的にはまだ発生余裕がある。地球が宇宙に捨てているエントロピー量の方が地球上で生み出されるエントロピー量より大きいからである。

もう一つは、(Gt−Gs)>0の場合。

この場合には、地球上におけるヒトを除くあらゆる生命の営みと非生命の活動にさらに人間の諸活動が加わることによって生じたエントロピーの総量の方が、地球が宇宙に捨てることができているエントロピー総量より多いので、地球表面上には、エントロピーが溜まり続けているということになる。言い換えれば、地球上には「汚れ」が溜まり続けているということだ。

これでは、前回公開した、同節の「その1」での例を挙げて述べてきたことからもわかるように、地球はどんどん「病んでゆく」ことになり、これを放置しておいたなら、早晩、「死に至る」、ということになる。

そしてもう一つは、(Gt−Gs)=0の場合。

この場合には、人間の経済活動を含む、地球上におけるあらゆる生命の営みと非生命の活動によって生じる総エントロピー量が、そっくり宇宙に捨てられるようになっているということになるので、地球上でのエントロピー収支はバランスを保っていて、エントロピー量の増大はない、ということになる。

以上のことから、地球の表面上にて発生させることが許される最大のエントロピー具体的な量とはGsとなる、ということが判る。すなわち「人類存続可能な限界条件とはGsである」となるのである。

あるいは、Gtは地球上における人間の経済活動を含むあらゆる生命の営みと非生命の活動によって、地球上で毎年生成されている総エントロピー量であり、Gsは地球がその表面から、同じく毎年、宇宙に向けて捨てることができている総エントロピー量であるということを踏まえるとき、Gs≧Gtでなくてはならないということは、人間の経済活動を含まないGtとGsの関係は、地球誕生以来(Gt−Gs)<0の関係を満たしてきたことを考えれば、少なくともGtに寄与する人間の経済活動が生み出す総エントロピーは、それを加えても、Gt としてはGsを下回っていなくてはならない、となる。

ではGsとはどんな値となるのであろうか。

そこでそれを槌田の書に拠り計算してみようと思う。

そのためには、便宜上、Gsを地球の単位表面積当たりについて考える。それを今、gsとする。

ただし槌田はその際、次の3つの仮定を置いている。

1つは、地球を、作動物質の1つである「養分」を除いた、化学変化のない、内部で熱の高温部と低温部を生じる物理変化のみの「熱機関」として考えている。

熱機関と考える根拠は次のとおりである。

地球表面上での作動物質とは「大気と水」であり、「高温部分」とは地表面を指し、「それよりも高温の熱源」とは地表面に降り注ぐ太陽光によってもたらされる「熱源」のことを指しているからである。また「低温部分」とは地上から「上空へ、およそ5000m地点」のことを指し、そして「低温部分よりも低温の熱源」とはその上空からさらにその外側へと続いて広がる「宇宙空間」のことを指すとしているからだ槌田敦氏の前掲書p.126〜129)

2つ目の仮定として、地表面の温度を15℃、地表面での太陽光の熱的大きさを257kcal/cm2/yearとしている。

これは、1975年当時の地球の平均熱収支(日本気象協会報告書(1975)に片山が加筆修正したもの)に基くものである。

3つ目として、地球への熱の入力については、1975年当時の地球を取り巻く空気の温室効果に因り、地球の位置では太陽光の熱的大きさの30%となる、としている。

 

そこで、q1を地球熱機関への熱入力、q2を地球熱機関からの熱出力、T1を地表温度(15℃)、T2を上空5000mの温度(−23℃)とすると、地球熱機関としてのエネルギー収支は

q1=q2

エントロピー収支は、

q1/T1+gs=q2/T2

と数式表現できる。ただしgsは余分のエントロピー量である。

ここに「余分の」とは、(q1/T1)で表わされる“太陽熱を15℃で引き受けて地表面上で発生する熱エントロピーの他に”、という意味である。言い換えると、それは、地表面上の物質循環により処理されるべきエントロピーは既に処理されているから、ここではその未処分の「残り」、という意味である。

そしてこのgsこそが、今、求めようとしているエントロピー総量となる。

これらから次式が得られる。

          gs=(1/T2−1/T1)q1           (※)

ここで地球への熱入力q1は、地球の位置での太陽光の大きさをq0とすると、その30%であるから、

q1=0.30×q0

 ここに、地球の球面に注がれる太陽光のエネルギーq0は、平均257kcal/cm2/yearである。

これらの値を(※)式に代入すれば、地球が宇宙に捨てている余分のエントロピーgsは41cal/(deg・cm2・year)ということになる。

ただしT1=15+273=288K°、T2=−23+273=250K°とする。

この数値「41カロリー/k°・cm2・年」こそ、上記仮定に基づく「人類存続可能な限界条件」となる。

つまり、大気と水のみを作動物質と仮定する地球という熱機関において、その大気循環と水循環とが順調に働いていれば、この「41カロリー/k°・cm2・年」という量の余分のエントロピーは、地球熱機関によって、いつでも、宇宙にそっくり捨てられるのでる。

このことはまた、もし、地球上における人間の経済活動によって生じるエントロピー総量がこの範囲に留まっているならば、その時には、地球には“エントロピーの増大”、つまり“汚れ”の量が増えるという事態は生じず、その限りでは、地球上に存在するすべての生命はその存続を保証される、ということを意味している。そしてそのことはさらに、生命にとって必要な資源はつねに自然が生み出してくれてきたことを思い浮かべる時、地球が地球の機能を維持し続けられるということは、人間にとって必要な資源も、自然の循環が保証し続けてくれる、ということをも意味しているのである。

しかし、である。人間社会におけるさまざまな活動によって、地球が熱化学機関として機能する上での養分という作動物質をも加えて計算した場合にはこの限りではなくなるだけではなく、さらにはこうした大気と水と養分という作動物質の中で、とくに水と養分の循環が途中で遮断されたり破壊されたりした場合には、事情はこれとは大きく異なってくる。

それに、ここで求められた数値は、あくまでも1975年当時の地球の平均熱収支に基づくものであるということを忘れてはならない。

したがって「人類存続可能な限界条件」と言える最新の、そしてより正確なgsを求めるには、やはり最新かつ、より正確な「地球の平均熱収支」に基づいて計算し直す必要がある。

参考までに記せば、この年1年間の世界における人為的に排出された、“温室効果”という観点に基づいて炭酸ガスに換算した総排出量はおよそ300億トンであったIPCC AR5 WGⅢ SPM.1)

実際、同上IPCCの資料によれば、2010年1年間のCO2に換算された温室効果ガス総排出量は490億トンとなり、1975年時の1.6倍強である。

こうなるのは、とくに2000年以降は、地球上での人間の経済活動は、とくに新興国や途上国においてとくに急速に拡大していること、それに伴って電力需要も急増して、燃やす化石燃料の量も莫大な量に急増しているなどの理由に拠るものと推測される。

したがってそのことから、宇宙に向って熱が捨てられる地上面からの高さもはるかに高くなっているだろうことが推測されるし、その層を通した熱の授受およびその層による地球に対する温室効果も変化し、その結果地球の平均の熱収支も大きく変動しているだろう、ということも推測される。

こうして判るように、「人類存続可能な限界条件」を決める上で重要な要素は、温度そのものではない。温室効果ガスを含めた地球を取り巻く大気がつくる層と地球表面との間で出入りする熱量の大きさとなるのである。

ところで、ここまでは、こそ、上記仮定に基づく「人類存続可能な限界条件」としてのgsは「41カロリー/k°・cm2・年」であるとは判ったが(1975年時)、ではそれを地球上の人間一人ひとりから見たとき、個々の人間としてはどれだけのエントロピー量を生じさせることまで許されるのか、ということは未だはっきりしない。それがはっきりしないと、各自にとってのエントロピーの制限数値が判らない。

そこで、つぎに、それもきわめて概略的にではあるが求めてみる。

その際、これまでgsを求めるにあたっては、地球上での経済発展の程度による先進国とか新興国とか途上国という区別はせずに地球全体について考えて来てことに注意しながら、さらに次のような大胆な仮定を設ける。

仮定① 地球人口は70億人とする。

仮定② gsはすべて、地球表面上の陸地部分での人間の経済活動のみによって生じるものとする。

その場合、陸地と海との面積比は、1995年版理科年表によると、

148.890×106km2:361.059×106km2=1:2.42

結局、このとき、人類がこの地球上に存続できて行くために、地球上の人間一人当たりが一年間に発生させることを許容されるエントロピーの総量は、

87.207×10kcal/K°

となる。

この値は、地球上の現在世代の一人ひとりが、将来世代や未来世代から生成を許容される一年間での総エントロピー、と解釈することもできる。

ところで、それが87.207×10kcal/K°となるとは、具体的にどういうことを意味するのだろうか。

それは、任意の物体の温度がT、その物体に流れ込む熱量をQとしたとき、その両者からなる比Q/Tの一年間当たりの最大値、ということである。

したがって、87.207×10kcal/K°=Q/Tと置くと、

温度が年間平均して仮に20℃、すなわちT=20+273=293K°の環境下にいるとすれば、Q=(87.207×10kcal/K°)×T=87.207×10(kcal/K°)×293K°=25551×10kcal

灯油1kgの燃焼による発熱量は12,000kcalである。したがって、25551×10kcalを生じうる灯油の量は、25551×10kcal kcal/12000(kcal/kg)=2.1×10kgとなる。

これから、「どこの国の人々も、灯油だけをエネルギー資源としたとき、一人当たり、年間、210トンの範囲内まで灯油を使用することが許容され、その範囲で使用している限り、人類は存続できる(1975年時)、ということになる。

なおここで忘れてならないことは、ここでの結果はあくまでも地球を熱機関と見なし、「養分」の循環を無視しての話であるということである。

またこの灯油210トンの中には、人間個々人の日常生活面においてだけではなく、その個々人のあらゆる経済活動やあらゆる移動に伴って消費され、燃やされるあらゆる種類の燃料を、その発熱量に依って灯油の量に換算している、ということは忘れてはならない。

たとえば自動車等による地球上のあらゆる陸上交通・輸送のために燃やされる燃料(ガソリン、軽油等)、あらゆる船舶による海上交通・海上輸送のために燃やされる燃料、あらゆる航空機による空の交通や輸送のために燃やされる燃料、地球上のあらゆる火力発電所が発電のために燃やす燃料(石炭、液化天然ガス等)、さらにはあらゆる宇宙ロケットを飛ばす際に燃やされる燃料等々のすべてについてである。

 

以上で、本節のテーマについての考察は終えるが、これまでの考察の過程からも判るように、人類の存続可能性を考える場合には、「エントロピーを捨てる」、あるいは「エントロピーを捨てることができる」ということが特別に重要な意味を持ってくるのである。

そこで、本節の最後に、「エントロピーを捨てる」ということの意味と、これに関連して、「もしエントロピーを捨てられなかったなら」ということの意味を、私なりにもう少し掘り下げて考えておこうと思う。

既に私は、熱化学機関とみなせるそのシステムの空間に生じたエントロピーをそれを取り囲む外の空間に捨てることが困難となって来た時、人間も生命一般も生態系も社会も地球も「病気」にかかり———具体的にどのような種類の病気にかかるかはともかく———、エントロピーをその外の空間に捨てられなくなったとき「死」に至ると述べ、結論として、「物質循環、とくに作動物質の循環が持続できることこそが、物理学的には熱化学機関とみなせる人間・生命・生態系・社会・工場等々そして地球が存続できるための条件となる」と述べて来た。そして、そもそも熱化学機関は孤立しては存在し得ない、とも述べてきた。

この両者を考え合わせることによって、「作動物質の循環が維持されている」ということは、その熱化学機関の中に生じたエントロピーをその熱化学機関の外に「捨てることができている」、ということと同義である、ということも判るのである。

その観点から、地球について考えてみる。

地球の作動物質は「大気と水と養分」である。

果たして、今日、この日本という国に限ってみても、この作動物質の循環は、国土の中で、あるいはそれぞれの地域の生態系の中で、十分に維持されているだろうか。

私は、はっきり「ノー」、と答える。むしろ至る所で、その作動物質の循環は遮断され寸断されて阻まれている。

遮断し、あるいは阻んでいるその最たる例は、私は大都市と高速道路だと考えている。

なぜか。

大都市、それは、熱力学的に見れば、莫大な数と巨大な建築物が林立し、また莫大な数の住宅も密集して、人口が極度に集中しているために、そこから昼夜を分かたずに莫大な量の廃熱や廃物(排ガス)が発生している人工空間である。当然そこは、廃熱や廃物に付随して同じく莫大な量のエントロピーも発生している空間でもある。

つまりそこでは、廃熱も廃物も、そしてそれに伴うエントロピーも、巨大な固まりとなっているのである。

その上、これは決して大都市に限った話ではないが、中小の都市という都市も、ほんの一部を除けば、その地表面のほとんどはコンクリートまたはアスファルトで皮膜のように覆われていて、都市が熱化学機関として機能する上で必須の作動物質としての大気と水と養分が地中部と地表面との間で行き来できない、つまり循環できない状態にもなっている————もし、地表面が大気と水と養分が通える構造になっていれば、例えば集中豪雨のたびに下水道が溢れ出たり、家屋が浸水したりするという事態も、ほとんど解消されるのだろうが————。

それだけではない。都市の圧倒的な面積は、オフィスビルや住宅で占められているがために、緑は圧倒的に少ない。あっても、そのほとんどは背丈の低い灌木からなり、それだけに、その根が到達している深さは浅く、また根を張る面積も狭い。つまり、地中深く、また広く根を下ろす樹木からなる林や森林ではないということだ。そのことは、都市は、地中深くから水を吸い上げて、地表面から高い位置に蒸散させうるようにはなっていないということであるし、葉で作られた栄養が地中深くに運ばれるようにもなっていないということだ。

さらに大都市に林立するビル群は、高層になればなるほど、上部構造の安定を維持することを目的にして基礎部分はかなり深くまで構築されているがために、高層ビル群はそれ自体が、地下水脈を含め、地中での作動物質の流れを妨げてしまっているのである。

さらには、各住宅やオフィスあるいは工場等から出る排水自体にも、循環を考えるとき重大な問題を含んでいる。

そこには、人の排泄する屎尿だけではなく、さまざまな種類の化学合成物質や薬物が混入している。決して循環させてはならない毒物をも含んでいる可能性も高い。それは、例えば、有機塩素化合物(たとえば塩化ビニール)と有毒重金属、毒性金属元素そして放射性物質である。

その化学合成物質の中には、界面活性剤の入った洗剤、食品に添加された保存料(防腐剤)、着色料、人工甘味料、さらには抗生物質等が混ざっている。

そうした排水が、無数に張り巡らされた下水道管を通じて汚水処理場に集められては、そこで、塩素を添加して「消毒」したことにされ、また莫大な電力を用いて「浄化」したことにされて————実際には、化学合成物質は分解もされず、ほとんどそのままにされて————、結局は河川に大量放出されるのである。

これらのことから容易に判るように、都市は、大都市になればなるほど、作動物質は循環するどころか至る所で遮断され、また寸断されてしまう構造となっているのだ。つまり、大都市になればなるほど、その空間にはエントロピーが充満し、溜まる一方となっているのである。

私は、つい先ほど、「作動物質の循環が維持されている」ということが、その熱化学機関とみなすことができる空間の中で生じたエントロピーを滞ることなくその熱化学機関の外に「捨てることができている」ことであると結論付け、またそのことこそが、その空間が熱化学機関として持続しうることである、とも記してきた。

このことを踏まえるならば、都市生活者の方が田舎暮らしの人よりは概して病弱な人が多いとか、心身を害してしまう人が多いとはよく言われてきたことだが、このことも、これまで述べてきた《エントロピー発生の原理》から、定性的にではあるが、説明できるのである。

いずれにしても、日本のみならず世界中にこういう都市を作ってきたのは、「近代」という時代に生まれた土木技術であり、それに基づく都市づくりの考え方なのだ。

最近はあまり聞かれなくなったが、一頃、よく「都市はヒートアイランド(熱の島)」などと呼ばれてきた時もあった。しかし、以上のことからもわかるように、むしろ「都市はエントロピーアイランド(エントロピーの島)」と呼んだ方が熱力学的にはよっぽど適切な表現のように私は思うのである。

高速道路についてもその理由は都市の場合と同様である。

高速道路は、何十メートルもの幅で、延々何百kmから、延べ何千kmにもわたり、表面がコンクリートまたはアスファルトで覆われていて、道路の両側の生態系を完全に分断する遮断帯を構成している。

それ自身が野生動物の行き来を遮断しているのである。またその表面自身が、作動物質である大気や水や養分の通りを帯状に、何百キロメートル、何千キロメートルという距離にわたって、循環を遮断している。

それは、雨水の地下浸透を遮断し、水分蒸発のできない帯を形成していることでもある。

それだけではない。高速道路は、都市と同様、昼夜を分かたずに、膨大な数の自動車が総量にして莫大な量の排熱と廃物(排ガス)を吐き出している空間であり、アントロピーが滞留している空間でもある。その上、とくに夏場などは、路面からの照り返しによる大量の熱の帯をも形成してしまう空間でもある。

 

こうして判るように、都市も高速道路も、国土が、そして地球が熱化学機関として働き続ける上での作動物質である大気と水と養分の循環を大規模に妨げ、あるいは遮断してしまい、元々は1つの連続した広大な生態系であった自然をいたるところで分断し、またバラバラにしてしまっているのである。つまり、ますますエントロピーを捨てることができない自然や国土や地球にしてしまっているのである。

なお、都市と高速道路について具体的に述べてきたが、実は、程度の差こそあれども、その他、貯水ダム、河口堰、砂防ダム、法面を覆うコンクリート、トンネル等々の大規模土木構造物も全て、作動物質である大気と水と養分の循環を妨げるものとなっているのだ————そういう意味でも、後々言及するが、E.Fシューマッハーの主張する「スモール イズ ビューティフル」という考え方が、人類の存続を願う私たちに極めて有益な示唆を与えてくれるのである————。

なおここで、蛇足とも思われるかもしれませんが、読者の皆さんにも考えてみていただけるとありがたいことがあります。

近年、日本国内では気象が至る所で、それも頻繁に、局所的であったり、局時的であったりするという現象に出会ったりすることが多くなりましたが、皆さんはそういう体験はありませんか。例えば、雨が降る際の降り方にしても、車で走っている時、さっき通った場所ではどしゃ降りだったのに、ここに来ると、すぐ隣なのに、嘘みたいにまるっきり降ってはいないといった現象とか、あるいは、さっきまで晴れていたかと思うと、急に曇ってきて、雨が降り出したという現象のことです。

あるいは「ゲリラ豪雨」と呼ばれる、文字通り奇襲するような雨の振り方がそれです。

実は私は、こうなる理由は、既述した近年ますます都市化が顕著になってきている都市づくりや高速道路造り、あるいはその他の作動物質の循環を妨げる構造物の影響なのではないか、と推理するのです。

つまり、こうした循環を大規模に妨げる土木構造物あるいは建築構造物によって、大気や水(地下水も含む)の循環が妨げられたために、あるいはそれらから吐き出される排熱や廃物(排ガス)があまりに巨大であるために、いつまで経っても周囲の空間と混ざり合って均一化することができなくなり、その結果、風が吹いてもいつまでも均一にならずに、固まりのまま移動するために、そこに温度や気圧の変化も加わって、気象現象が局所的になったり、局時的になったりするのではないか、と。

読者の皆さんは、気象のこうした局所的現象、局時的現象はどうして生じると考えますか。

ですから私は、こうした現象はあまりにも変化が激しいために、気象予報が不可能な状況となっているのではないか、とも思うのです。

 

ところで近代において科学や技術が「発達」するとは、科学については、科学がその時の技術を使って次々と新たな諸法則を発見できるようになることであり、技術については、科学が発見した諸法則に基づいて、技術がそれを法則的に応用することでこれまで自然界や社会にはなかったものをより次々と創り出すことができるようになることであった。

一方、経済が「発達」するとは、科学や技術が生み出した物やシステムを用いることにより、人や物品や情報がより広範囲に、より多く、より早く「行き渡る」−−−これは「循環」とは異なる———ようになることであった。

しかしそこで言う科学や技術が生み出し、経済によって行きわたる物は、そのほとんどは、熱化学機関である生命体が維持される上で必須の、既述の意味での「純」なる大気と水と栄養の循環を促すものではなかった。生命活動にとって必須なものでもなかった。食い物も、食料「品」とも呼ばれていることからもわかるように、純な栄養ではなかった。というより、生命体にとってはほとんどが異物の加わった食い物でしかなかった。

実際、スーパー・マーケットに食材を買いに行くたびに、私は石油からできたシートによって一個一個ラップされて並べられている商品を手にとってその裏底を見るのだが、なぜこれほどの種類と数の材料を加えて食料品という「商品」を作る必要があるのだろうかと考えさせられてしまう。

中には、一つの商品の中に、保存料・着色料・化学調味料・PH調整剤から始まって、グリシン、酒精、リン酸塩(Na)、ソルビット、凝固剤、乳化剤、酵素、加工澱粉、水酸化Ca等々が加えられ、混ぜられている。しかもそれらの添加物の一つひとつだって、実際には何を混ぜて、どのようにつくられているのかさえ、それを使用して店頭に並べる者にとっても不明なのだ。

つまり資本主義経済システムとは、たとえば「価値とは何か」としてその意味をも明確にしないまま、「付加価値」と称して、つまり価値が付加されているとして、結局は、本物をどんどん駆逐してしまうしかないシステムなのだ。ここでいう「本物」とは純なる物と言い換えてもいい。

そのシステムの本質は、結局のところ、いかにコスト(費用)を抑えて商品をつくり、それをいかに短時間に多く売るか、そしてそのことによりいかに多くの利益を上げるかということだけに関心を持ち、売ってしまった後のことは一切感知しようとはしないことだ。したがって文字どおり利己的で無責任なものであり、もっぱら生産者の側、売る側の立場に立ったシステムなのだ。

だからそこでは、宣伝文句はどうあろうとも、また安全と安心をどんなに謳い文句にしようとも、消費者の健康といったことは二の次、三の次であって、商品を売ることでしかない。

しかしその場合、私たち人間は、ここで、いつでもきちんと頭に抑えておかなくてはならないことがある。それは、ヒトを含むあらゆる生物は、それまでに体内に取り込んだモノによってその体が出来ている、という真理である。

つまり、異物をより多く、より頻繁に体内に取り込む程、その異物の量がどんなに「許容量」の範囲といえども、それを取り込んだヒトを含む生命体の体は、これまでの《エントロピー発生の原理》が教えてくれているように、余計な量のエントロピーを蓄積させてゆき、その結果、次第に不健康にし、病気になりやすい体にさせてしまう、と言えるのである。

熱中症」を防ぐには「水」をこまめに摂るようにとはよく言われるが、また健康を維持するには、適度の運動が良いとも言われるが、その本当の理由についても、《エントロピー発生の原理》がわかりやすく説明してくれる。

体内に生じた廃熱や廃物に付随するエントロピーを拾い、移動させ、対外に捨てさせてくれるのは主に体内を巡る血液の流れである。その血液は大部分が水である。その血液中の水の量が少なくなって行ったなら、流れが鈍化し、廃熱や廃物、すなわちそれに付随するエントロピーをも捨てにくくなってしまう。

それを防ぐためにはどうしても「水」を、それもできるかぎり異物の混入していない純な水を、そして循環をより促進してくれる適量の養分を含んだ水を、外から絶えず補い摂る必要があるのである。

適度の運動をし、適量の水を補給するのがよいとされるのは、それが体内での循環を促進し、廃熱や廃物と共にエントロピーをどんどん対外に捨ててくれるようになるからである。

こうしたことから判るように、本当に怖いのは「脱水症状」つまり水分が少なくなることではない。水が血液中に少なくなって体内の循環が順調に行われなくなること、循環する量と勢いが減って行くことそのことなのである。そうなれば、エントロピーを体外に捨てることを難しくさせてしまうからである。

 

ここから先は本節の主題から離れてしまうので簡単に留めるが、以上の論理に基づく推論がもし正しければ、人類が、今後は、できる限り薬というものに頼らずに、みんなが等しく少しでもより健康になるためにはどうしたらいいのか、という問いを発した場合、その答えとしては、直ちに次のことが提案できるのである。それも《エントロピー発生の原理》に依るものなのである。

 それは、地球を含むあらゆる生命体を熱化学機関とする作動物質である大気と水と養分を、至る所で、すなわち国土生態系においても、地域生態系においても、人体においても、可能な限り、純な、あるいは異物の混入していない大気と水と栄養からなる循環を積極的に促すことである、と。

なぜなら、これまでのような薬に頼った対症療法によるのではなく、みんなが病気にならないように環境を整えることこそ、最も苦しみも少なく、コストも安く済むのだからだ————そういう意味では、まずは身近な川を汚さないことであろう————。

私は、この回答の日本版としての具体化の一例を本書の12.6節において、今後この国において行われるべきであると考える「真の公共事業」として示すつもりである。

とにかく、その空間からエントロピーをその外に捨てることを難しくさせてしまったり、難しくなって行くような状態をつくり出したりしてしまうことこそが真に怖いことなのである。

資源がなくなることも、それ自体はそれほど恐ろしいことではない。「大気と水と栄養」の循環が順調であれば、人間が必要とする資源は自然がもたらしてくれるからである。

そういう意味では、もうこれからの戦争の意味も仕方も軍備の考え方も、すべて考え直さなくてはならないと私は思う。こちらが軍備を増強すれば、相手もそれに負けまいとして、それ以上の軍備をする。それではイタチごっこで、際限がない。それで喜ぶのは「死の商人」だけだ。資源を求めて他国の領土を侵略したり、また侵略したそこで人々や自然を搾取したりするなどということはもはや意味はない。それに、そうした戦争観はもはや「近代」の遺物でしかない。

エントロピーを外界に、そして究極的には宇宙に捨てること、そのことこそが人類が永続的に生きて行けるためには最も重要なことなのである。それだけに、それができなくなることの方がはるかに恐ろしいのである。そしてそうなった時には、もはや科学も技術も無用で無意味で無価値になってしまうのである槌田敦p.160)。

科学や技術はけっして無制限に発展しうるものではない。その限界は厳然とあり、それはエントロピーの限界によって決まってしまうのである。

(→ここに、槌田敦「熱学外論」朝倉書店p.161の図8.3の(a)を転載させていただく)

 

私は、20年この方、一貫して、一滴も農薬を使わず、一握りの化学肥料も使わないで野菜を栽培し米を栽培して来ているが、それらは、食する際、せいぜい塩(NaClという食塩ではなく、精製塩でもなく、ミネラルの種類をより多く含んだ塩、いわば海水から水だけを蒸散させた塩)、醤油、食用油(ただしサラダ油ではなく、オリーブオイルかごま油)、そして上記の塩と麹と無農薬栽培の大豆から造った味噌といった天然材だけからなる基本調味料を加えるだけで、ときにはそこにハーブを少し加えることもあるが、それだけで十分に美味く喰えるのである。

本物の食材とはそういうものなのではないか、と私は常々考えている。

3.2 《エントロピー発生の原理》が教える人類の存続を可能とさせる条件 ——————その1

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3.1節では人類の存続を可能とさせる条件について考えてきました。
そこでは、私は、人類が存続可能となりうるか否かは、大きくは、核戦争の脅威から人類が解放されるか否かということと、広義の意味での環境問題を克服できるかどうかの二つにかかっているとしてきました。その場合、環境問題も、もう少し具体的に見ると、地球温暖化とそれに関連していると見られている気候変動の問題と自然界における生物多様性が失われてしまう問題とに分けられる、ということも見てきました。

その際、生物多様性が失われてゆくという現象は、一度生態系の中でそのことが生じると、その現象の持つ性質上、その後は加速度的に進むものであって、それはもはや人間の手では止めようがなくなる現象でもあるとして、その理由も考えてきました。しかも、生物多様性が失われてゆくという現象は、災害の多発化や大規模化等を通じて人の目に見える地球温暖化および気候変動とは違って、目にはなかなか見えにくく、また気づきにくいために、それだけに私は、誰もが「まずい」と感じた時にはすでに「万事、休す」の事態になっている可能性も高いのではないか、とも記してきました。

それに対して、地球温暖化と気候変動による危機については、人間の側の決意と覚悟如何によっては制御できる問題であるとしてきました。そしてその場合も、制御するのに、私は、ひょっとすれば「パリ協定」で結ばれてきた温暖化阻止の方法よりももっと具体的で効果的な方法があるかもしれないとしてきました。それは物理学の世界では一般に「熱力学の第二法則」とも呼ばれている法則を応用する方法です。拙著では、参考にさせていただく物理学者が用いている表現を借りて、その法則を《エントロピー発生の原理》と呼んで行きます。

今回は、その原理を応用して、人類の存続を可能とさせる具体的でかつ数値的な条件を、私なりに考えてみようと思います。

しかし、ここで、私たちは、誰もがあらかじめ心に明記しておかねばならないことがあるのです。それは、生物多様性の危機や、地球温暖化・気候変動による危機に対して私たち人間がどんなにそれらを克服しようと努力しても、もし、それもたとえ偶発的にであれ世界のどこかで核戦争が起これば、各国間での利害関係が複雑に絡み合っている今日の世界では、それはたちまち第三次世界大戦へと拡大してしまい、そうなれば、それだけで人類は破局を迎え、そうした努力は全て、瞬時にして水泡に帰してしまうということです。

なお、この3.2節でも、全体は長いので、2度に分けて公開します。

 

3.2 《エントロピー発生の原理》が教える人類の存続を可能とさせる条件
——————その1


では、そもそもエントロピーとは何か。

それは物理学では厳密に定義され得るものであって、その場合にも、2通りの定義がある。1つは古典熱力学的な定義、もう1つは統計力学的な定義である。詳しい説明はしかるべき物理学書に譲るとして、いずれの定義においても、物理学的に最も重要なことは、そこで定義されるエントロピーなる量は、現象の起こる方向を与えるもので、その値は常に最大値に向かって変化する、ということである(J.D.ファースト「エントロピー」市村浩訳 好学社)。

それは、普段見かける多くの部分から成る物でも熱でも、その状態をよく観察すれば判るように、自然のままでは、つまり人がその状態に対して何らかの人為的な働きかけをしない限りは、それらは常に拡散する方向へと状態は変化するという感覚的経験を物理学的に厳密に表現したもの、とみなすことができるのである。

しかし、ここでは、エントロピーを生命や人間社会や環境をも扱えるように、こうした本来の近代的定義の仕方を超えて、エントロピーとは物や熱の拡散の程度を示す定量的指標のことである、と定義し直す。
というのは、既述のエントロピーの古典熱力学的な定義と言い、統計力学的な定義と言い、それらはいずれも、少し難しい言い方をすると、平衡系または閉鎖系(孤立系)にのみ当てはまる定義であって、そのままでは生命や人間社会や環境という開放系にはとても適用できないからである。

なお、開放系とは閉鎖系(孤立系)とは反対に、外界との間で物や熱に関する相互作用を持つ体系のことである。
しかしその場合でも、エントロピーとは、物や熱そのものではなくあくまでもその属性であって、物や熱に付随してしか移動することのできないものであるとする(槌田敦「熱学外論」朝倉書店p.35〜36、94、52)。

では、表題にある「エントロピー発生の原理」あるいは「エントロピー増大の法則」とも呼ばれるそれは何のことであり、そしてそれは人類に何を教えてくれているものか。
その核心部分を、本書の主題に引きつけて説明すると、次のように表現できる原理または法則なのである。
「個々の人間も、個々の産業も、また個人の集合体である社会も、つまりどんな社会的存在といえども、日々の暮らしや経済活動、その他なにがしかの動きあるいは活動をすれば、それに応じて必ず熱の拡散ないしは物の拡散が生じるが、そのときには、発生する物(廃物)と熱(廃熱)に付随して移動する、『エントロピー』という用語で表現され、しかも実測が可能な物理的状態を表す量が必ず増える。」

なおここで、熱の拡散とは、高温物体から低温物体へ熱が移動することをいい、物の拡散とは、高濃度の物質が低濃度の空間へ拡散することを言う。そしてその場合の拡散の程度は、日常用語で言い換えると、熱に対しても物に対しても、「汚れ」、それも質的にではなく量的な意味での「汚れの度合い」と言い換えることもできる(同上書p.36)。
このことから判ることは、日々の暮らしや経済活動、その他なにがしかの活動をすれば、そのとき必ずエントロピーという汚れが発生し、したがってその活動を続ければそれが蓄積してゆき、それが物と熱に付随した汚れであるが故に、発生し蓄積したそれをどこかの過程で、その空間の外に捨てない限り、つまりその空間を浄化しない限り、人も、産業も、社会も、そして自然あるいは地球さえも、汚れが蓄積した結果として活動できなくなり、やがては死に至る、ということである。
このことは、身近な例で言えばこういうことである。

ある閉め切った部屋でガスストーブでも石油ストーブでも燃やしつづけると(たとえ完全燃焼し続けた場合でも)、炭酸ガスという廃物と熱(廃熱)が出て、それが部屋に充満してゆく。だから時々は窓を開けて炭酸ガスや熱を部屋の外の空間に捨てないと、炭酸ガスがどんどん高濃度化し、また出た廃熱によって高温化し、その部屋の中の人は息苦しくなるし、高温に耐えられなくなる。これを我慢していたり、あるいはそこに貯まった廃物と廃熱をたとえば窓を通じて部屋から外に捨てることができなかったりしたなら、その部屋の中では人は活動できなくなり、やがてはその人は死に至る。

人間の小腸は免疫機能を司るきわめて重要な一機関であることはよく知られているが、その小腸で発生するガス−−−それが外に発せられたものが「オナラ」である−−−が体の外に放出されなかったなら、小腸はその免疫機能を継続し続けられなくなり、その場合もその小腸は病気になると共に、やがてはその人も生命が重大な危機に陥ることになる。

尿についても同じで、そこには体の隅々から出た老廃物が含まれているだけに、それを適宜、体の外に捨てないと、その溜まった尿が逆に身体中を巡ることになり、体の諸機関の働きを損ねてしまい、それはそれでその人は生命が重大な危機に陥ることになる。

そもそも人間が日々生活しているということは、同時に、あるいはそれと並行して、ゴミという名の廃物(排水を含む)を出し、汚れという跡を残しながら、また熱も廃熱として出し続けているということなのだ。そうしたものを家庭内から適宜家庭の外に捨てない限り、その家庭内での生活の続行は困難となり、さらにそのままにしていたのでは、精神的にも肉体的にも病み、やがては生きてゆくことさえできなくなる。
あるいは、そもそも人間が生きているということは、外から絶えず酸素と食い物と水を取り込んでは、それを体内で化学的に熱とエネルギーに換えると同時に、外に対して「仕事」ができる体力ある体を維持しながら、その一方で、息を吐くことをしながら、日に幾度か、体内に溜まった廃物(尿を含む)や排熱を排便・排尿という形で体外に捨て続けてもいるということなのだ。その時、溜まった排便と排尿ができなくなったなら、それは体内に溜まってゆき、そのままにしておいたなら、いつかはその体は死を迎えることになる。
このように、人が生きることや生活することを含めて、人が日々の暮らしや経済活動、その他なにがしかの活動をすれば、その過程においては必然的かつ不可避的に廃物や排熱が生じるのであり、その活動を続けるためには、生じたその廃物や排熱をそれを生じた空間の外に捨てるということが絶対に必要となる。これは好き不好きの問題ではない。ところが、その際、もし、生じた廃物や排熱を外の空間に捨てることができなかったなら、あるいは捨てることができなくなったなら、これまでの活動は確実に継続することができなくなるのである。

実はこのような事情は、人や家庭に限った話ではなく、たとえば工場においても、さらには社会一般においても、まったく同様に言えるのである。

工場とは、物(製品)を作る場あるいは空間のことであるが、そこがその目的を継続的に維持できるためには、工場の外から資源とエネルギーつまり熱と燃料を空気(酸素)とともに持続的に取り込んで来ることができると共にに、それを燃焼させて機械に「仕事」をさせる能力を生じさせ、その過程で不可避的に出る廃物や排熱をその機械の置かれている空間、さらには工場という空間の外に捨て続けることができることが絶対に必要となる。

つまり、燃料と空気を持続的に取り込めなくなったり、廃物と排熱を工場の外の空間に捨て続けられなくなったりしたなら、工場は製品をつくり続けられなくなる。すなわち操業できなくなる。廃業である。

この場合、資材や材料をどう確保するか、労働力をどう確保するか、コストをどれだけ抑えるか、利益をどれだけ見積もるか等は経営的な話で、ここでの物理化学的な議論では本質的なことではない。
人間の集団として定義される社会についても同様だ。そこが人々の暮らしと産業が成り立つ場であるためには、たとえば行政区のように一定の統治面積で区切られたその面積の中に、先ずはその外から水や食糧、鉄その他の金属といった資源、そして燃料、電力あるいはガス等のエネルギーを持続的に取り込むことができるようになっていなくてはならない。そして、それらが必要な量だけ、各家庭や工場、商店あるいはオフィスに供給され、その各々はそれらを使用しては熱とエネルギーを生じさせながら「仕事」ができるようになっていなくてはならない。しかし、社会が持続的に成り立つためにはそれだけでは不十分で、同時並行的に、その一方で、それらの過程で不可避的に出る廃物や排熱をその社会の外の空間(環境)に捨て続けなくてはならない。それはどんなにコストがかかろうとも、である。

それができて初めて、社会の各構成員はそれぞれの目的を、物理学的には持続的に実現できるようになるのである。すなわち、社会が社会として持続可能となるのである。

以上の事情はさらに、一国全体についても、地球全体についても同様に言える。
国については、その国が一定の領土と人口を抱え、国民が生活でき、産業が成り立ち、国家としての機能を持続できるために満たされなくてはならない必須条件は上記の社会の場合と同じである。

地球についてみても、地球がヒトを含む生物すべてが生き続けられる地球であるためには、人が日々の暮らしや経済活動、その他なにがしかの活動を通じて生じさせた廃物や排熱を継続的に地球の外の空間、すなわち宇宙に捨て続けられることが絶対に必要となるのである。

なお地球の場合には、他生物の活動による廃物や排熱も、また自然界での諸活動によって生じた廃物や排熱も考慮しなくてはならないが、人類が誕生する前までは、あるいは少なくとも産業革命前までは温暖化問題は問題とはなっていなかったのであるから、他生物の活動や自然界での諸活動による廃物・排熱の処理を考えることは、ここでは本質的なことではないであろう。

とはいえ、要するに、一国全体についても地球全体についても、人が出し、他生物が出した、さらには自然の諸活動によって生じた廃熱や廃物を地球の外、すなわち宇宙空間に捨てることができなくなったなら、その時、一国も持続的には成り立ち得なくなるし、地球の自然も成り立ち得なくなるのである。

以上の具体例は、いずれを取っても、また誰にとっても、経験から理解できることであり、また類推できることであろう。つまりそれらは証明することを要しない真理を表わしているのである。そういう意味で、こうした諸現象を統一的に説明できるエントロピーに関する真理は原理なのである(5.1節の「原理」参照)。

その真理を、つねに廃物や排熱に付随して、廃熱や廃物とともに移動するエントロピーという物理量をもって一般的に表現すると次のようになる。
「人も社会も自然も、またそれらのすべてをその表面上に抱える地球も、すなわち万物は、それぞれの営みないしは活動において絶えず発生し続けるエントロピーを、それぞれが占める空間の外の空間に捨て続けなくては、あるいは捨て続けることができなくなったならば、人も社会も自然も地球も、それぞれが本来持つ機能を発揮させることも維持させることもできなくなる。つまり、それらは、必ず病気になり、いずれ、どれも、死を迎えることになる。」

この真理から、次のことが導き出されるのである。
それは、万物は、そのどれをとっても、それ自身単独で存続して行くことはいついかなる場合にも絶対に不可能であり、つねに外界という空間に囲まれていて初めて存続し得る、ということである。
しかもその時、それ自身が存続あるいは持続できてゆくためには、それ自身とそれを取り囲む外界との間には、それ自身が発生するエントロピーをよりよくその空間を取り巻く外の空間に捨てられるようにするために、あるいは捨てられるようになるために、つねにある条件がついて回る、ということである。
 実は、その条件なるものを明確に教えているのが《エントロピー発生の原理》ないしは《エントロピー増大の法則》と呼ばれるものなのである。

この法則は、ニュートンの発見した「万有引力の法則」と同様、私たちの身の丈の世界———つまり、原子核や原子や分子の世界、および宇宙を除く、現象と変化がすべて非可逆な世界———ではいつでも成り立つ法則である(槌田敦「熱学外論」朝倉書店 p.41)。それも、対象を「熱と物」の範囲内で扱う限り、自然現象についてだけではなく、社会現象に対しても適確な判断を与えてくれる法則なのである(槌田敦「熱学外論」朝倉書店p.52)。

それゆえ、《エントロピー発生の原理》ないしは《エントロピー増大の法則》は、私たちが人類および生命一般の存続あるいは永続を真剣に考える場合には、だれでも、一瞬たりとも忘れてはならないものといえる。とくにこれからの時代には、それぞれの国において、人々が幸せに、かつ安定的に生き続けて行けるためにこれまでにはなかった大胆な政策を打ち立てて行かねばならない事態に直面して行くだろうことが想定されるが、そのとき、それぞれの国内にて国民の代表として最も重大な使命を負う政治家という政治家は、この《エントロピー発生の原理》をつねにあらゆる政治的発想の根底に据えて行かねばならないものだと私は考えるのである。

そしてその場合、先のいくつかの例からも容易に推測がつくと思われるが、エントロピー発生とその量に最も大きな影響を与えるのは、広い意味で人間の経済活動であるということだ。そしてその経済活動は、いつ、どこにおいても、人間が生きてゆく上で基本的に不可欠な活動である。それだけに、エントロピーは大量に発生しても、経済活動は持続させ得るようにしておかねばならない。そのためには、これまでの説明からも明らかなように、発生するエントロピーをその空間を取り巻く外の空間によりよく捨てられるような仕組みや制度を考え出し、それを実現させておくことがどうしても必要となる。

では、そのような仕組みや制度とはどのようなものなのか。
また、それを考え出し、実現させてゆくためには、予めどのようなことを考えておく必要があるのだろうか。

そのためには、せめて次のような幾つかの問いを発し、その答えを見出しておかねばならないと私は考えるのである。
(第1の問い)

そもそも、個々の人間あるいはその集団である社会は、さらには世界各国では、地球上では、一体どれだけのエントロピーを、これまで、そして今日、平均総量として、1年間に発生し続けているのか?

こうした問いを発するのは、先ずは現状を知っておく必要があるからである。
(第2の問い)
 人間や社会(産業)あるいは自然のすべてをその表面上に抱える地球は、人間や社会あるいは自然の活動から絶えず発生してくる汚れとしてのエントロピーを、これまでは、どのようにして地球の外の空間、すなわち宇宙に捨てているのか。そのメカニズムとはどういうものか?

それは、そのメカニズムが明確に掴めていない限り、新たな経済のしくみや制度について考えようがないからである。
(第3の問い)

では、人間や社会(産業)あるいは自然が発生させたエントロピーのその1年間当たりの総量を、地球は宇宙に捨てることができているのか、それともできていないのか?
できていないとすればそれはどうしてか。また実際に捨てることができている量とはどれだけか?

こうした問いに答えられたとき初めて、私たち地球人は、地球の温暖化あるいは高温化を阻止しようとする場合にそうであったような、単なる「できるところから省エネすればいい」、あるいは「○○年のときと比べて、△△%の温室効果ガスを削減しなくてはならない」といった漠然とした努力目標や削減目標を掲げるしかなかった状態から抜け出すことができるのである。
あるいはまた、“今後温暖化がどう進むかは継続的に観測してみないと判らない”という観測頼み一辺倒の状況や姿勢からも脱しうるようになるのである。それも温室効果ガスの排出量ではなく、またどれだけ温暖化しているかという温度の観点からでもなく、エントロピーという明確な物理量に着目することに拠って、である。

それだけに、地球の温暖化阻止を考えるとき、というより人類の存続の可能性を考えるときには、エントロピーに関する先の3つの問いに対する答えを明確にしておくこと、それは、人類にとってこの上なく重要なことになるのである。
そしてこれを明らかにするのは、まさしく地球温暖化問題を研究している世界各国の科学者やIPCCの科学者の皆さんの役目なのではないか、と私は考えるのである。

とは言え、まるっきりその時まで答えを待っているわけにはいかないので、ここでは、槌田氏の力を借りて、私に出来る範囲での答えを見出してみようと思う。
そこで、先の第1の問いの答えについてであるが、それは今の私には無理である。答えられるだけの資料もデータも持ち合せていないからである。

第2の問いに対する答えはどうなるか。
これについては、地球は物理学的に見れば熱機関であると同時に熱化学機関でもある、ということから得られる(槌田敦の前掲書)。

では熱機関あるいは熱化学機関とは何か。
詳細な説明は槌田氏の書を見ていただくとして、簡単にいえば、次のようになる。

熱機関とは、資源としての燃料と空気が機関内部を「作動物質」となって流れる過程で、高温部分よりも高温の高熱源から熱を取り入れ、また低温部分よりも低温の低熱源に熱を捨てることにより、そしてその際、作動物質が循環的に流れることにより、物理学で言う「仕事」をなし得る能力としての動力を外部に向かって持続的に生み出すことができる装置のことである(前掲書p.103)。

 

一方、熱化学機関とは、基本的には熱機関と同じであるが、熱と仕事の出入りのほか物質も出入りし、機関の内部で作動物質の化学反応を伴ない、その化学反応により自己を循環的に復元する機関のことを言う(前掲書p.112)。
いずれにしても、熱機関および熱化学機関の本質は、作動物質が循環することでサイクル運転が持続し、1サイクルごとに熱を内に取り込み、外に対して仕事をする、というところにある(前掲書p.105)。

そしてここで言う「資源としての燃料」については、人の場合にはそれを「水と栄養」と考え直すことができるものであり、工場の場合には「資材と資源としての燃料」、社会の場合には「水と食糧とエネルギー資源」と考え直すことができるものである。
このことから、人を含む生命一般も、生態系も、そして工場も社会も、そして地球も、その本質は、物理学的に見れば熱化学機関とみなせる、となるのである。
なお、第2の問いに完全に答えるためには、ここで次の問いをも発し、その答えをも見出しておく必要があるのである。
それは、とくに熱化学機関と物理学的には見なせる人や生命一般あるいは人間社会は、どういう条件が満たされたとき動いて働ける活力を持続的に生み出せるのか、同じく、どういう条件が満たされたとき工場は物理学で言う「仕事」あるいは動力を生み出すような活動(操業)を持続できるのか、同じく、どういう条件が満たされたとき生命系の自然と非生命系の自然とからなる生態系や地球はその機能を持続できるのか、ということである。
実はこの答えを得るヒントは、すでに熱機関あるいは熱化学機関というものの本質の中に見出せるのである。
そこで次のように考える。

一般に、循環という現象がうまくいかなくなるのは、循環して巡る物質−−−これまで「作動物質」と呼んで来たもの−−−がその循環経路から流出したり、循環経路内のどこかに固着したり、あるいは循環経路を構成している物質または循環を維持している構造物が壊れたりする場合である。
ところで、先に、エントロピーは物質あるいは熱に付随して移動する汚れであるとしたことから判るように、こうしたいずれかの理由から物質あるいは熱の循環がうまくいかなくなれば、エントロピーも循環しなくなって、循環経路内のどこかに溜まり、かつそこで増え続けて行く。
しかし、流出した作動物質を補充したり、壊れた構造物を修理したりするという作業は、《エントロピー発生の原理》が私たちに教えてくれているその核心部分によって、新たに余分のエントロピーを必ず発生させてしまう。また、どこかに作動物質が固着してしまうと、それが障害となって流れを阻害していっそう作動物質を多く固着させてしまう。

こうして、循環がうまく行かなくなれば、順調に循環が行われていた時に発生していたエントロピーに加えて、補充や修理で発生したエントロピー、固着していっそう増えたエントロピーまでも捨て続けなくてはならないということになるのであるが、そのことは、それだけその熱化学機関にとっては大きな負担となる。

とは言え、この「捨てる」という作業に伴う負担に耐えられている間は、その熱化学機関としての人間・生命・生態系・社会・工場・地球は本来の機能を維持し続けられ、「生き続ける」ことができる。しかし、エントロピーという汚れをその循環システムからそのシステムの外に捨てることが困難になったときにはその熱化学機関は「病気」になったことを意味し、さらに、いよいよそれを捨てることができなくなったときには、熱化学機関は機能不全を起こして「死」を迎えた、ということになる。

こうして、先の第2の問いの答えは次のようになる。
「人間・生命一般・生態系・社会をその表面上に抱える、物理学的には同じく熱化学機関と見なせる地球は、その表面上で発生するエントロピーを、エントロピーはつねに廃熱と廃物に付随して移動しうるものであるだけに、地球表面と宇宙空間との間での物質と熱の循環に乗せて宇宙空間に捨てている。」

このことは、見方を換えれば、「エントロピーを宇宙に捨て続けられるためには、地球上での物質循環は絶やされてはならない」ということになる。

ところで、その物質循環を持続させようとするとき、十分に注意しておかねばならないことがある。それは、毒物を循環させてはならないということである。
それも、自然界において分解されない毒物、あるいは分解されにくい毒物についてはとくに注意を要する。
結論から言えば、そのような毒物———それは物質であれその物質を含む材料であれ———は最初から製造しない方がよい。その毒物に当たるのは、現在の段階では、化学物質、そのうちでもとくに有機塩素化合物(たとえば塩化ビニール)と有毒重金属、毒性金属元素そして放射性物質である。それらは最初から製造しない方がよいとするのは、たとえ単体では毒性がないとされている化学物質でも、現実には、既に自然界には2万4千種類以上の化学物質が入り込んでいるとされる中で(エントロピー学界編「循環型社会を創る」藤原書店 p.149)、それらが互いに反応することでどんな毒性ある物質が新たに生み出されているか、そしてそれがどれほどの毒性をもっているか、検証のしようがないからである。

そのことを考えると、毒物としての化学物質は製造そのものを止め、天然素材に切り替えて行くべきなのである。

とにかく、エントロピーを宇宙に捨て続けられるためには、地球上での物質循環は絶やされてはならないとは言っても、分解されない毒物は循環すればするほど自然界と人間社会に拡散し、またそれが生物濃縮という事態を引き起こしてしまう。それに、ひとたび拡散してしまったものは、「覆水、盆に返らず」の喩えの通り、その後どんな科学や技術の力をもってしてもそれを元通りに集めることは不可能なのである。そこでは、「いずれ、科学技術が解決してくれるだろう」などという期待は絶対に通用しないのだ。

ところで今は先の問いの2番目について、人がその上で生き、生活させてもらえている地球という熱化学機関を考えているのである。

では、その地球が熱化学機関としての機能を維持させるのに必要な作動物質とは何か。また、その作動物質が地球という熱化学機関内部を循環する時に、刻々と生じるエントロピーの発生場所はどこか。

その場合の作動物質は「大気と水と養分」となる。そして、エントロピーの発生場所は、その作動物質が地球表面上を循環する過程そのものであり、人間の諸活動を含む地球上のすべての生物がその営みを行う場と、生物とは違うすべての無機的な自然が活動する場である。
そしてそうしたすべての営みと活動の過程で生じたエントロピーを捨てることのできる場所は、地球にとっては、唯一、「宇宙空間」となるのである。

こうして、地球は宇宙の中で物理学的に孤立した存在となっているのではない、ということを知るのである。そもそも孤立していては熱化学機関として存在し得ないのだ。
宇宙に向かって熱や物質を放出したり、また宇宙から太陽の熱を受け取ったりと、つねに宇宙との間で熱のやり取りをすることでその熱や物質に付随して移動する汚れとしてのエントロピーをも捨てることができ、その結果として地球は生きている、つまり地球は熱化学機関としての機能を果たし続け得るのである。

以上で、先の第2の問いに答えられたことになる。

 

では第3の問いに対する答えはどうなるのか。
以下は「その2」で考えてみようと思います。

 

 

3.1 人類の存続可能な条件を人類に教えてくれるのは《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》

この国は、少子化を止められない中、人口は減少し、高齢化の中で国の活力を失い始め、しかも国の借金(政府債務残高)はGDPの2.4倍も抱えたままです。このままでは、若者や子供たちさらにはまだ見ぬ世代に、そのツケは全て負わされてゆくような事態になりかねません。 

そしてこの国の国会や政府の総理や閣僚を含めた政治家たちは、難題だらけの現状の中、この国のゆくべき方向も、目指すべき国の姿も、まったく描こうとさえしていません。というより、国民を裏切り、もっぱら官僚任せでいるだけです。

 

そんな中、菅総理大臣は先の国会の施政方針演説の中で「2050年には日本も温室効果ガスの排出量を実質ゼロにする」と宣言しました(2020年10月26日)

しかし、同氏のこの宣言も、それを実現する具体的な方法があるわけでもなく、単に願望を述べたものに過ぎないものです。

しかも、東京電力福島第一原発の水素爆発による廃炉作業があれほど難航して遅々として進まない一方では、被災して間もなく10年が経とうというのに、そしてまだ1万人以上の人たちが郷里に帰還することさえできていないというのに、さらには再稼働した原発から出るいわゆる核のゴミも、予定地において間もなく満杯になり、その代替地も未だ定まらないという状況なのに、相変わらず原子力発電行政の方はやめようとはしていません。全く無為無策です。

もし菅氏が、真剣に母国を持続可能な国にしようとの覚悟と決意があるなら、そして日本固有の自然的条件をもっともっとよく見渡すならば、他の国々にはない日本独自の自然エネルギー確保の道があるというのに、です(拙著第11章を参照)。

 

そこでここでは、私は、今、人類の存続の最大の脅威の一つとなっている地球温暖化を阻止するための具体的な方策について、通常考えられている観点とは異なる観点から考察してみようと思います。

それは、温暖化をもたらしている最大の原因とされる温室効果ガスの排出規制の仕方そのものを考えるというのではなく、ある物理学的な原理の観点から考える、というものです。その原理とは、拙著の副題の中に言う2種類の原理のうちの最初のものである《エントロピー発生の原理》です。

 

なお今回の「3.1節」と次回公開を予定している「3.2節」を包括する第3章を公開するに際しては、読者の皆さんに特にお願いがあります。

それは、ここで著者である私の提案する考え方は果たして正しいのだろうかということを、それぞれご自身の問題として置き換えて考えてみていただきたい、ということです。

また、続く「3.2節」では著者独自の発想に基づく計算の過程も出てきますが、そこでは特に読者の皆さんには、できましたら、ご自身でも計算してみていただきたい、ということです。

それをお願いするのは、ここでのこうした考え方が正しいか否かということがまず鍵になりますが、正しいということになれば、温暖化阻止に向けて、これまで「パリ協定」で言っているような「2050年までに、温室効果ガスの排出量を実質ゼロにする」といった漠然とした温室効果ガス排出規制による温暖化阻止対策ではなく、より具体的で説得力ある対策の手を打てるようになると考えられるからです。いえ、それだけではなく、より積極的に予防の手まで打てるようになるはず、とも考えられるからです。

すなわち、後は、より正確な最新データを関係科学者や研究者に採集していただき、それを用いて、より詳細に計算すればいいだけの話になるからです。

もしそうなれば、「パリ協定」の中身も、もっときめ細かく具体的になり、それぞれの国ごとの、場合によっては各地域ごとの具体的な対策の仕方を定めることができるようになるかもしれません。

 

第3章 人類の存続可能な条件

3.1 その条件を人類に教えてくれるのは《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》

今、私たち地球上に住む人類は、その存続の危機に直面している。その危機をもたらしているのは他でもない私たち人間自身である。その危機とは、大きく分けて2つある。1つは核戦争勃発の危機。もう1つは、広義には環境問題と言われている問題がもたらす危機である。

後者の危機はさらに2つのものから成っていて、その1つが地球温暖化あるいはそれが主原因となって起っているとされている気候変動がもたらす危機である。もう1つは生物多様性の消滅がもたらす危機である。それは、地球上に生きる生物の種の激減と、それぞれの種の中での個体数の激減とがもたらす危機である。

この節では、主に、上記の核戦争勃発による危機と広義の環境問題のうち、後者にのみ限定して考えてみようと思う。前者の危機については、本節の最後に少しだけ触れるつもりである。

そこで、先ずは地球温暖化問題ないしは気候変動問題について考え、次いで生物多様性の消滅危機の問題について考える。

IPCCによると、地球温暖化ないしは気候変動をもたらしているのは人間の経済活動であることはほぼ間違いないとしている。さらに絞れば、その現象をもたらしている直接的で最大の原因は、人間が産業活動や日々の暮らしの中から排出しているCOやメタン、フロン等のいわゆる温室効果ガスであろうとしている。なおそれぞれのガスの温室効果度については、例えばメタンガスについては、CO2の28倍どころか80倍を超えると言う科学者もいる(「スペースシップアースの未来」NHKBS1 2013年11月25日からの三回シリーズ?!)。

IPCCとは、気候変動に関する政府間パネルの略で、気候や気象の問題に関する世界の科学者およそ2000人からなる、世界で最も権威ある国連の専門家集団のことである。

世界全体におけるその排出総量は、とくに産業革命以降急速に増大し、しかもその増大の仕方も加速度的だ。たとえば主たる温室効果ガスの種類ごとの排出量をすべて二酸化炭素の量に換算すると、概略的には、1990年には380億トン、2000年には403億トン、2005年には475億トン、2010年には498億トンとなる。ただし、この場合、とくにメタンガスを炭酸ガスに換算する際には、重量換算ではなく、温室効果という観点から炭酸ガスの28倍としているIPCC AR5 WGⅢ 図SPM.3より)

この増加傾向のうち化石燃料を燃やして発電する際に発生するCO2の総量の全温室効果ガス発生量に占める割合は年ごとに増加しているのである。たとえば、1970年には55%だったものが、1990年には59%、2010年には69%となる。

ここで注目すべきは、この増加傾向は、今のところ、世界における一人当たりのGDP国内総生産)の増加傾向と一致しているという事実である。

そしてそのことと関連してもう一つ注目すべきは、 IPCCは、そうした温室効果ガスの発生量の変化に対応して、産業革命時に比較しての地球表面上の気温上昇量は、2050年には3℃を超え、2100年の今世紀末には最悪の場合、4.8℃上昇するであろう、と予想していることである。ただしその予想値とは、世界が連携して何の温暖化対策を施さないで時間が過ぎて行った場合の最悪と最低の気温上昇値の平均値のこと、としている。

これに対して、IPCCラジェンドラ・パチャウリ議長はこう訴えている。「早く手を打たなければ取り返しのつかないことになります」。またクリス・フィールド共同議長もこうも訴えている。「今世紀末、4℃気温が上昇した世界は、2℃上昇した世界とはまったく異なります。4℃上昇した世界では、対策をとっても適応することが難しいでしょう」(2015年10月24日NHK

地球温暖化が人類と他の全生物にとってどれほど恐ろしいか、それはたとえば実際に生じた次の事態を知ることによって幾分かは理解できるのではないか。

それは2億5250万年前の地球の「ペルム紀」に起ったことだ。

それまで地球上に増えて溜まり始めていた炭酸ガスにより温暖化が徐々に進行し、その結果、深海のメタン・ハイドレートがあるとき爆発してメタンガスが大量に大気中に放出されたのである。それによって地球温暖化が急激に進み、自然のメカニズムによる制御は不能となり、当時の生物がほとんど一気に絶滅したのである(「スペースシップ・アースの未来」第3回 NHK)。

実際、今、地球が温暖化していることによって、とくに北極海や極地の陸地や湿地帯からは、これまでの永久凍土とされていた凍土がゆるみ、その結果、その中に長いこと閉じ込められていたメタンガスが、いたるところから噴出し始めているのである。

そして今後、温暖化がもっと進むと、このメタンガスの噴出が今度は極地だけではなく海中からも急速に増えてゆくだろうことが予想され、そうなれば、私は、IPCCの気温上昇量についてのその予測値は、「最悪の場合」とはしているが、それもかなり控えめなものなのではないかと危惧するのである。

とにかく今、地球表面は、年々暖まっており、その結果、地球規模で気候変動が生じ、そのことにより世界中に、過去に見られなかった現象が「異常気象」という言い方の下に次々と生じ、またそれが常態化してさえいる。そしてそのことについては、既に地球上のほとんどの人々は気付き始めているのである。

大干ばつ、大寒波と大熱波の異なる地域での同時発生、海面上昇、海水温の上昇、海面の上昇、台風(ハリケーン、サイクロン)の巨大化と頻発化、高潮の襲来、高波の襲来、ゲリラ的局所集中豪雨、竜巻や落雷の多発等がその代表例だ。またそれによって、被害の程度や規模も指数関数的に拡大している。

こうした現実を踏まえ、パリで行われたCOP21、すなわち第21回気候変動に関する締約国会議では、それまでの経緯からすれば画期的とされる次の3つに要約される内容が、いずれも法的拘束力のある協定として締結されたのである。パリ協定と呼ばれる国際協定である。

これは、文字通り、温室効果ガスの排出を全世界が責任をもって減らそうという国際社会の決意表明である。

産業革命前からの気温上昇を2℃を十分に下回る1.5℃に抑える努力をする。

◎今世紀後半には温室効果ガスの排出量を実質ゼロにする。

◎5年ごとに削減目標の見直しを義務づける。

 

しかし、である。たしかにパリ協定とその内容は、既述の異常気象による異常事態の続出の急増を知れば知るほど画期的なものといえるが、私は、この地球温暖化という問題への対処の仕方について、とくに関係科学者たちの対応の仕方について、かねてから疑問に思っていたことがある。

それは、地球温暖化をくい止めよう、そのためには温室効果ガスの排出を抑えよう、そのためには再生不能資源である化石資源の利用も採掘も止めよう、とは地球温暖化に危機感を持つ人は誰もが口にするのであるが、奇妙なことに、その場合、では、温室効果ガスの地球上での排出を一体どれほどの量に抑えれば地球規模の温暖化は抑制できるようになり、人類は存続できるのかという量的観点からこの問題を提起する人がいないことである。つまり少なくとも現状を見渡す限り、定性的な言い方はするが、定量的な言い方を持って問題とする者は、私が無知なだけなのか、IPCC関係者を含めて、誰もいないように見えるのである。

そしてそれが私には不思議だし、不可解なのである。

関係科学者・気候学者の誰も、“とにかく、今後も温暖化の推移は、観測して行かねばならない”とか、“今後温暖化がどう進むかは継続的に観測してみないと判らない”とは言う。つまり、ひたすら観測や測定を続けるしかない、といった態度なのだ。 

しかしそれでは世界の人々に温室効果ガスの排出制限への協力を訴えるにも、具体的な目標が定まらないし、また定められないのではないか。つまり、一般の人々にとってはもちろんのこと、産業界にとっても、“ここまで温室効果ガスの排出総量を抑えればいい”といった各分野ごとの具体的な排出許容限界量が示されないと、どこまで排出規制したらいいのか判らないから、結局は、社会全体に対して、漠然とした努力を要求するだけとなってしまうからだ。

実際のところ、市民も産業界も、“とにかく出来ることを、出来るところからやればいい”、あるいは“思いついた時に思いついたことをすればいい”といった程度に、漠然と対処するしかなかったのではないか、と私には思われるのである。

それに、これまで、「省エネ」が必要だとか、温室効果ガスの排出量を抑える必要がある、あるいはこうすれば温室効果ガスの量をこれだけ排出削減できるということはよく聞かれても、ではそのことによって温暖化防止に対してどれだけの効果があるのかということについては明らかにされたことはなかったのだ。

いずれにしても、今のところ、地球の温暖化阻止について、定量的に議論ができ、予測を可能とさせる理論は、私の知る限り、提示されたことはなかったし、今もなおなされてはいないように見える。そしてそのことは言い換えれば、今もって人類は、人類の存続を可能とさせる定量的条件を見出せないままにある、ということを意味するのである。

ところが、である。私は、本書を執筆する過程で、この困った状態に回答を与えてくれそうな理論に、全く偶然に巡り会えたのである。

それが次節にて詳しく紹介するエントロピー発生の原理》であり、それに基づく理論である。

その理論は、今からおよそ150年も前の1865年、ドイツ人科学者R・クラウジウスによって打ち立てられたもので、物理学の分野では、熱力学の第二法則または「エントロピー増大の法則」として知られているものである。

次節ではその原理の概略説明をすると共に、その原理を用いて、地球の温暖化対策というよりも、究極の、人類の存続を可能とさせる定量的条件について考察してみたいと思う。

ただし、私がそこにて展開するエントロピー発生の原理》に基づく理論は、もっぱら日本の誇るべき、そして科学者としての良心を持つ槌田敦に拠るものである(同氏著「熱学外論」)朝倉書店)

科学界の歴史と現状に疎い私ではあるが、同氏は、エントロピーという名称を持つ物理的な量による具体的な数値をもって、「エントロピーの総排出量がここまでであったなら、人類の存続は可能となる」と示して見せてくれた世界で最初の科学者なのではないか、と私は想う。

同氏は、その著書の中では、自然界も人間社会も本質的には共に熱化学機関として捉えられるとした上で、自然環境や人間社会の蘇生のさせ方ないしは持続のさせ方を物理学的立場からきわめて説得力ある形で、しかも簡潔に説いてくれている。そしてその「エントロピー的観点からすると、自然界も人間社会も本質的には共に熱化学機関として捉えられる」とする考え方は、私が本書の中で提案している生命主義(後述)に基づく持続可能な国家、それも統治体制の上で本物の国家を実現させる上で備えられるべきと考える政治的かつ社会的仕組みのありようを考える上で、どんなに有益だったか知れないのである。

 

ところで私は、人類の存続を可能にしてくれる、あるいは存続を保障してくれる原理には、もう1つあると私は考えている。それが先に触れた生物多様性の原理》である。

もっともそれも、地球上におけるエントロピーの総排出量がエントロピー発生の原理》が教える総量を超えた状態にしたままであったなら、やがて生物多様性の維持も不可能となるだろうから、そういう意味では、エントロピー発生の原理》こそが人類の存続可能な条件を一番根本のところで明示してくれる原理ということになるのである。しかし、それだけではやはり人類の存続を保障することにはならないので、そういう意味でエントロピー発生の原理》と《生物多様性の原理》とが両者備わって初めて人類存続可能条件となるのである。

ではその「生物多様性」とは何か。なぜそれが人類の存続を可能にしてくれるほどの条件の1つとなりうるのか。

それは次のように考えることによって理解できるのではないだろうか。

そもそも人類が地球上に誕生したとき、地球上には一体どれほどの数の生物種が生存していたのか、そして人の暮らし方が大きく変化するようになったきっかけとなった産業革命が起こった時、その数はどうであったのか、もちろんそれぞれの正確な数など判ってはいなかっただろうとは思うが、少なくとも次のことは何人も真理として認めざるを得ないのではないだろうか。

地球上に大小無数に存在している「生態系」の中では、C.ダーウインが見出したように、その生態系が形作る環境に適応し得た生物どうしで、いつでも、互いに「喰って、喰われて」という関係を維持している。そしてそれは、そこに介在している生物の種の数とそれぞれの種に属する個体数が十二分であれば、ちょうど円卓会議のように、どこが端でどこが終わりなのか判らないままに、食物循環についての閉じた環を構成し続けられる。そしてその場合、そのそれぞれの環を構成する一つひとつの要素である生物種の間の関係は、上もなく下もなく、また強者もなく弱者もなく、互いに平等なのだ。

あらゆる生物種のそうしたつながりに対して、一見その閉じた環の外にあって独立して君臨しているかのように思い込んでいるヒトも、所詮、生物種の1つである以上、その閉じた環の中のいずれかの生物種をつまみ食いしなくては生きられないのである。

あらゆる生物種は互いにそうした閉じた環を構成しながら特定の生態系の中で生きているのであるが、その場合、生物種Aが喰っていた隣の生物種Bが、ある時、何らかの理由で突如絶滅していなくなったなら、Bを食って生きていたAもその直後には生きられなくなる。Bがいなくなったことによる新しい環境に適応できる時間は少なすぎるからだ。そしてそのAが生きられなくなれば、それまでそのAを喰って生きていた環の中の隣の生物種も、たちまち生きられなくなる。一旦そのような連鎖現象が環の中のどこかの一部でも始まれば、後はそれこそドミノ倒しのように、そこから一気に、環を構成していた生物種群の消滅が加速度的に進むことになる。

つまり、つい最近まで「万物の霊長」などと思い上がって、文明の力を借りて自然界に対して勝手放題を重ねて来たヒトではあるが、何のことはない、生態系の中に環を構成して生きる他生物がいなくなれば、自動的にヒトという生物種も絶滅するのだ。

ヒトという生物種は、他の生物が多様に生きることで生かされて来たのだし、その状況はITだAIだなどと、どんなに文明が進んだ今日でも少しも変わってはいない。つまり生物多様性の原理》とはそのことを言い表しているのである。

人類は、今も昔も、決して単独・自力・独力で生きて来たわけでもなければ、生きてこられたわけでもない。むしろ、多様な他生物によって生かされて来たのだ。

考えてもみよう。私たちが日々口にして生きる糧としているものは、一つの例外もなく、全て、それぞれが命を持った他生物なのである。米、野菜、肉、魚、海藻類、果物、・・・・。

そして私たちは、それらの種類が豊富であればあるほど、その状態を「豊かだ」と呼んできたのである。

つまり多様性が維持されていればいるほど、自然界は「豊か」になり、私たちの食生活も「豊か」になるのである。

そもそも「生物」とは、学問的にどのように定義されるのかは私にはよく判らないが、しかし、今日、人類が直面しているこの、多様な生物種の存続の危機に対しては、どれが生物に属し、どれが属していないかということは本質的な問題ではない。それが生物と定義されようがされまいが、そしてそれらのうちのどれが自然界にあってどのような位置を占め、どのような役割を果たしているかということが人間に判っていようがいまいが、そんなこととは全く無関係に、どの一つも、自然界を構成する一員として、掛け替えのない位置を占めると同時に、かけがえのない役割を果たしているであろうことは間違いないのである————そういう意味でも、自然界や社会にあって、無用な命など一つもない、と言えるのではないか————。

そして次のことも真理として受け入れられるであろう。

それは、生態系の中で生物の種の数が多く、そしてその各種に属する個体数が多ければ多いほど、その生態系は安定して存在しているということになるということであるし、逆に、生物の種の数が少なくなればなるほど、そしてその種に属する個体数が少なくなればなるほど、その生態系は不安定で脆弱である、と。

つまり生物の種の数が少なくなればなるほど、そしてその種に属する個体数が少なくなればなるほど、内外からの少しの撹乱に対して耐性は乏しくなり、復元力も弱くなる。反対に、生態系が安定な状態であれば、少しぐらい個体数が減ったところで、その生態系内部での「喰って喰われて」という関係は少々のことでは崩れることはないし、崩れかかってもすぐに復元されるのである。

結局、そうやって、生態系がかつての安定した状態から不安定状態へと移行してゆけば、やがては、それらの関係を外から眺めながら生殺与奪の権を握って来たと思い上がっている人類も、自ら生存不可能な事態を招き寄せることになる。

このように生物多様性の原理とは、「自分は生物の一種に過ぎない、生物種のつくる枠組みからはみ出すことは所詮できないのだ」と認識できる人ならば誰もが判る、ごく当たり前のことを言っているに過ぎない真理なのである。そしてそれは、人間の都合では絶対に変更できない、そして証明の必要を要しない自然界の理であり掟なのである。だから原理なのだ(「原理」については、5.1節の再定義を参照)

 

ではどうして生物多様性が消滅して来ているのか。

私は、農業を実際にやっていて確信を持って言うのであるが、そうなる最大の原因は陸上での化学合成農薬の広域での大量散布と、自然界における生物相互間での多様性や共生そして循環を考えずに行われる「開発」という名の破壊行為であろうと思う。つまり彼らが生きられないようにし、また彼らの住処を破壊してしまうためだ。

実際、私の周辺でも、幼少の頃、ごく身近に見られた昆虫や野鳥の種類や、それらの個体数も明らかに激減している。それに、20年前に農業をはじめたときと比べても、今、目に見えて種類も数も減少していることを気付かされる。とにかく、私の周辺でも、農業者のほとんどは、営農に当たり、日々、当たり前のように農薬を散布しているのだ。

もちろん、中には、生物種間の均衡が崩れた結果、あるいはある種の生物種にとっては天敵がいなくなった結果、特定の種の個体数だけが異常繁殖しているという現象も見られる。私の身の回りで生じているその典型が、カラスであり、シカであり、イノシシである。

しかしそれも、結局のところ、生物の多様性が衰えてきていることによる現象なのではないか。

次いで抗生物質を含む化学薬品と化学合成洗剤、人の食べる食品中に添加される合成保存料や着色料と化学合成物質であり、原子力発電所から漏れ出る核廃棄物・核汚染物質なのではないか、と思っている———本当はこうしたことの実態をこそ、日本の環境汚染や破壊を訴える科学者は、せめて日本国内については、手分けして協力し合い、体系的かつ総合的に調査し検討し、明らかにすべきなのではないか———

とにかくそれらは下水を通じ、河川を通じて、周囲の土壌中に拡散しながら最後は海に注ぎ込む。そして海に注ぎ込んだそれらは、海流や潮流によって広域に広がると同時に、海面が太陽熱で暖められることによって深さ方向にも海中を循環して、最終的には地球表面全体を覆い巡ることになる。

しかも化学薬品や核物質はあらゆる生命体に対して、遺伝を通じて奇形等を生みながら、何世代にも影響を及ぼす。

今、人の世界にはさまざまなアレルギー症状や癌が多発し、認知症アルツハイマー、その他、今のところ対処の仕方を見出せないいわゆる難病を発症する人も多くなっているのも、私はこれらの環境汚染物質の複合的な効果であろうと推測する。

実際、国連の会議「IPBES(イプベス)」は、既に680種の脊椎動物が絶滅したとし、保全の取り組みが世界で進まぬ場合、今後数十年間で100万種の動植物が絶滅の危機にある、と世界に向って警告を発しているのである(2019年5月7日)。

実はこの辺のことを世界で最初に実証的に明らかに、こうなることを予測したのがアメリカの発生遺伝学者で海洋生物学者でもあったレイチェル・カーソンだ。彼女は、既に1960年代に、その著書『沈黙の春(青樹簗一訳 新潮社)で世界に警告を発していたのである。

人の寿命が延びたからそうした現象が目立つようになって来たのだとする向きもあるが、そして確かにそうした見方も成り立つかもしれないが、それは主たる理由ではないどころか、ほんの小さな理由でしかない、と私は考える。圧倒的な理由は、やはり近代化学という学問の成果に基いて合成された、自然界には存在していなかった物質だと考える。

既述のように、私たちが日々口にして生きる糧としているものは、一つの例外もなく、全て、それぞれが命を持った他生物であり、そしてそうした食生活を人類は、その誕生以来、少しも変わることなくつい近代の初期、すなわち近代化学が生み出されるまで続けてきたのだ。つまり、その全ては、もともと自然界に存在していたものばかりだ。ヒトは、それぞれ、それで頑健な肉体を作り、また維持し得てきたのである。

そう考えれば直ちにわかるように、化学によって合成され創り出された物質というのは、もともと自然界には存在していなかったものであるだけに、それは、あらゆる生命体にとっては、例外なく異物でしかないのである。

であれば、あらゆる生命体は、その異物から身を守るために、あるいはその異物の持つ元々の体とは調和し得ない性質(毒性)に耐えられるように肉体は変化せざるを得ない。生き抜くために、である。それが偶然の産物である「変異」ということなのであろう。その変異がその種にとって自然の中で適応できなければ淘汰されるし、生存競争の上で有利に働いた場合には、その変異は次世代に引き継がれ、やがてそれが固定化されて別の種が作られてゆくということになる。そしてそのことこそがダーウインが「種の起源」で明らかにしている進化論の主眼とするところなのである長谷川眞理子「100分de名著『ダーウイン種の起源NHKテレビテキスト2015年8月号」p.51)

つまり、アレルギー症状、癌、認知症アルツハイマー、その他の難病等々は、そうした様々な異物が摂取されたことに対する、あるいはそれらの複合的影響に対する生命体の反応として現れた、現象としての人間の変異の姿なのではないか、と私は思うわけである。

 

生物多様性が崩壊して来ている背景には、もう一つ大きな理由があると私は考えている。

それは私たち人間の側の他生物に対する接し方だ。

結論から言えば、それは、日本人について言えば、その大多数が今もなお、草や身近な小魚やテントウムシやスズメなどを“雑草”、“雑魚(ザコ)”、“害虫”、“害鳥”と無意識に呼び、それらを目の敵にして、排除しようとするその姿そのものに象徴されている。

その一方では、生物多様性の意味をきちんと考えもせず、国連という権威ある機関の言い方をただ真似して「絶滅危惧種」などという表現をして、特定の種だけの保存にこだわったり、ペットだけは自分の分身ででもあるかのように溺愛したりしている姿に象徴されている。

つまり、人の側の、あくまでも自分の価値観や主観に基づいて他生物を見、接するその姿こそ、私は、地球上の生物多様性を消滅させているもう一つの根源的原因なのではないか、と見るのである。

そもそも、近代の幕開けとなった市民革命に立ち上がった当時の人々でさえ、彼等が訴えたスローガンはあくまでも「市民の」 “自由・平等・友愛”であって、その彼らの視野の中には他生物はいなかった。

 

ここまで、私は、人類の存続を脅かす最大要因と考えられるものとして、地球温暖化生物多様性の消滅について言及して来たが、現状を見回してみるに、今のところ、「COP(気候変動に関する国連の締約国会議)」だけが回数が重ねられていることに象徴されるように、表立っては、温暖化とその阻止ということだけが全世界の関心を集めているように見える。

それは、気候変動も異常気象も、そしてそれによる影響や被害が、誰の目にもはっきりと見えるまでになって来たからであろう。

その反面、生物多様性が崩れていることにはあまり衆目が集まらない。警告しているのは、特定の科学者だけのようだ。

そうなるのは、その現象が目に見えにくいし、今のところこれといった不都合な事態が人類の目先に現れていないからかもしれない。

しかし世界の人々がこの生物多様性の崩壊を食い止めるためのこれといった有効で思い切った手を何も打たなかったなら、絶滅危惧種どころか、絶滅する種が今、加速度的に増えて来ているという実態が示すように、それはある時から加速度的というより爆発的に進行するのではないか。その理由は既述した通りである。

そうなれば、人類がこれはマズイと気づいたときにはもはや万事休すという事態になっている可能性が高い。しかもそのときには、温室効果ガスの場合ならばその排出を人間の側の「我慢」とか「辛抱」で何とかブレーキをかけることもできるかも知れないが、生物多様性の崩壊の方は止めようがないのである。

そう考えると、人類が生きられなくなるという事態は、温暖化によるよりも生物多様性の消滅という事態に因って、早く現実化するかも知れないのである。

 

こうしたことから人類の存続を可能とさせる条件とは、大きくいえば、核戦争を起こさせないことと同時に、温暖化を阻止出来る条件と、生物多様性の崩壊をこれ以上進ませないための条件であることがわかる。

温暖化を阻止できる条件は次節で考えるとして、生物多様性の崩壊をこれ以上進ませないための条件とは既に明らかであろう。これまで述べてきた「化学」がもたらす近代文明のあり方に急ブレーキをかけながら、それに取って代わりうる文明と文化のありようを探ること、となる。そしてそれは、原油あるいは石油に依存する文明から脱却することと軌を一にするはずである。

とにかく石油に基づく化学合成農薬、化学合成薬品、抗生物質、プラスティックに代表される化学合成物質は本質的に生物の生存とは、すなわち生態系とは相容れないのだ。

したがって、それらの製造については、人間の暮らしにどうしても必要な道具や資材をつくらねばならない場合に限定する、そしてその管理や廃棄の方法は厳格に規制する、というようにすべきなのではないだろうか。

なぜなら、どんな物でもそうであるが、社会の中に留まっているならともかく、一旦自然界に拡散させてしまったなら、科学と技術がどんなに進歩しても、それをすべて回収することは、絶対に不可能だからだ。そしてそれらは、生態系を汚染し、また破壊もしながら、やがて必ず、姿や形を変えて、人間社会に巡り戻ってくるからだ。

実際、例えば、世界から吐き出され、最終的に海に流れ込んだ膨大な量のプラスティックは、今、海で「マイクロプラスティック」化して、あるものは海洋生物に摂取され、またあるものはバクテリアに分解され、大規模な食物循環の環の中を循環し始めているのであるNHKBS1世界のドキュメンタリー「海に消えたプラスティック」2017年10月20日)。そしてそれは当然ながら、既に人間の胃袋に入り始めているのであるNHKBS1世界のドキュメンタリー「        」2018年  月  日

「開発」という名の総合的計画に基づかない自然破壊行為ももう直ちに止めると同時に、私は、もう「開発」の概念そのものをも根本から再検討する必要があるとも考える(4.1節の「これからの開発」の定義参照)

なお、こうしたことを実現できるようにするには、現行の資本主義あるいは市場原理主義をそのままにしておいたのでは本質的に不可能なため、「経済」という概念も、この際、同時並行的に根本から再検討し、新しい概念に転換することが不可欠となっているのではないか、とも私は考える。

本書の別の章(第11章)にて「新しい経済」の概念を打ち立てるのは、そうした動機に基づくのである。

 

なお、本節を終えるに当たり、核兵器について、ほんの一言だけ言及してみようと思う。

核の拡散を抑える根拠と共に、核兵器保有国どうしで協力して同時に全面廃棄する必要性の根拠は、次の真理と真実に基づけば、中学生や高校生でも判るのではないだろうか。

それは、核兵器一発の持っている破壊力の大きさを考えれば、それはどちらが何発の弾頭を所有しているかはもはやさほど重要なことではなく、また先制攻撃するか否かもさほど重要なことではなく、たとえ偶発的にでも、一発でも対立する両者のどちらかが敵対する相手に発射してしまったなら、必ず報復攻撃を受けることになり、結局双方の国民が壊滅的事態を被ることになる、という必然性である。つまり「相手に使わせないために、こちらも持つ」とする核抑止論も、「核の傘の下に入ることに拠る国土防衛」という考え方も、もっと広く言えば、「核に拠る抑止力」あるいは核戦略理論そのものが最初から破綻しているからである。ひとたび核戦争になれば、どちらが先制攻撃したところで、どちらがどれほど大量に核兵器保有していたところで、勝者はいないことははっきりしているのだ(豊田利幸「核戦略批判」と「新・核戦略批判」共に岩波新書。それだけに、そうした考え方にしがみつくことは、かえってそれぞれの政府が、自国国民と国そのものを、破局の淵に陥れることにしかならないのだ。

もう1つは、私たち人類が「裸の状態」でも生きることができるのは、宇宙広しといえども、またどんなに宇宙開発が進んだとしても、奇跡とも言えるこの「水の惑星」でしかないという真実である。

それについては、暗殺されたケネディが、生前、全人類にすでにこう訴えていた。

ソ連への対応を省みましょう。

両国には悲しい溝がある。

違いを認め合えば多様な人々が共存できるはず。

突き詰めれば、我々は皆、この小さな惑星で暮らし、同じ空気を吸って生き、子の幸せを願

い、いつか死にゆく限りある命なのです。”

 

(「オリバー・ストーンが語るもう1つのアメリカ史」、第6回)

とにかく、核戦争は、ヒトを含む「生物多様性の保護」はもちろん、地球温暖化を阻止しようとの世界の人々の努力をも瞬時に無意味化させてしまうのである。

核の拡散を抑えると共に、それ以前に核兵器を全面廃棄させる必要の根拠がここにあるのである。

それに、第一次大戦や第二次大戦のような大戦はもちろん、国家間の戦争も、もはやほとんどそれをする意味はなくなっている、と私は考える。

それは、戦争をしてどちらが勝っても負けても、そしてたとえ領土を拡張し得たところで、国民にもたらす不幸な事態や両国国民同士の憎しみ合いからくる代償はあまりにも大きいというだけではなく、領土の拡張自体がかつてのような意味を持ちえなくなっているからだ。

原油や石油が文明を支えていた時代ならいざ知らず、温室効果ガスの大量発生やその拡散によって温暖化が進み、また石油に基づく化学合成物質の大量使用とその廃棄によって生物多様性が急速に消滅しつつある今、人類にとってはもちろん、原油や石油のそれぞれの国にとっての価値もどんどんなくなっているのだからだ。むしろこれからは、どこにでもある太陽エネルギーに基づく自然エネルギーの有効活用こそがその国と国民の暮らしを支えてゆくことになるだろうからだ。

2.1 なぜ政治が国民にとってあらゆる社会制度の中で最も重要な制度なのか

この程、アメリカ合衆国の大統領選挙が行われました(11月3日)。しかし、三日経った今も、僅差による票の再集計等の理由により、トランプとバイデンの両候補のどちらが大統領になるか決着はついていません。というより、本当に決着がついて大統領が正式に決まるまでには、どうやら、まだだいぶ紆余曲折がありそうです。

しかし、今回の選挙でも、このことは改めて世界の人々に知らしめたのではないでしょうか。選挙、それも国民による自由で平等な選挙は、民主主義を実現し、それを維持するための手段・手法としては、いろいろな問題点はあるとはされながらも、今の所は、少なくとも最善の方法であると。

そこで言う民主主義とは、その語源である「デモ(民衆)+クラシー(権力)」との合成語から成る「デモクラシー」という語源からも判る通り、民衆が権力を持つ、それも最終的な権力は民衆が持つのだという考え方に基づく政治制度のことです。また、そこでの権力とは、「他人を押さえつけ支配する力」(広辞苑)のことです。つまり民主主義とは人民が支配するという考え方に基づく政治制度だということです。

その場合、権力にはいろいろありますが、ここで特に重要となるのは政治権力です。政治における権力です。

では、政治とは何か。これは新聞でもテレビでも、一年を通して耳にしない日は一日としてないほど一般化した言葉ではあリます。しかし、その言葉の持つ意味については、果たしてどれだけの人が、どれほど正確に理解した上で用いているのでしょうか。実はこのことはこの国の「政治家」についても、彼らの言動を見ていると、まったく同様に言えます。ほとんどの政治家すらも判ったつもりで使っているだけのように私には見えます。

しかし、既述したように(11月11日、14日、18日のブログ)、ますます混迷の度を深める今日の世界と日本にあって、国あるいは社会という共同体の構成員である私たち一人ひとりにとっては、今ほどがこの政治という言葉が持つ意味を正確に理解して用いることが求められているときはないのではないか、と私は考えます。曖昧な理解であったなら、そこには恣意や勝手な解釈が入り込み、ますます社会の混迷を深めるだけだからです。

そこで、ここでは、その政治について、私の現在の思考の及ぶ限りで考えてみようと思います。

まずはその第一として、「なぜ政治が国民にとってあらゆる社会制度の中で最も重要な制度なのか」ということについてです。

 

第2章 この国の全政治家を一旦辞めさせ、官僚制度をも全面的に創り換える

2.1 なぜ政治が国民にとってあらゆる社会制度の中で最も重要な制度なのか

結論を先に述べたいと思う。

政治こそが私たちの国や社会を成り立たせているあらゆる制度や仕組みを公式に決定しうる人間の営みだからである。その制度や仕組みの中には、たとえば教育制度、経済制度、医療・介護・看護を含む広義の福祉制度、文化文芸諸制度、科学や技術の制度、選挙制度、公務員制度、さらには、外交・防衛・軍事の制度、国会の制度、政府の制度、裁判所の制度等々が含まれる。さらにその制度や仕組みの中には、これらの諸制度や仕組みを実現し維持するために、国の中の誰からどのような税を取り、それを誰のために使うかということをも決める仕組みである租税制度も含まれる。そしてこれらすべてを、公式に、あるいは公然と定められるのは唯一政治家と呼ばれる人たちだけなのだ。

そしてその政治が目指すことは、あるいは政治家に課せられた役割と使命とは、いかなる時、いかなる状況下でも、自国民の生命と自由と財産をより安全に守ることなのだ。言い換えれば、「近代」+「民主主義」+「国家」では、その政治が目指すこととは、自国民一人ひとりの、人間としての尊厳と権利を守りながら、最大多数の最大幸福を実現することなのだ。

私たちは誰も社会の一員である。一国の構成員である。そしてその社会も国も人々の人々による人々のための人間共同体である。その共同体からはみ出しては私たちは生きることはもちろん生活することもできない。また私たちが安心して暮らして行けるためには、その共同体を共同体として維持するための規則や仕組み・制度がどうしても必要となる。そうでないとその共同体は一定の秩序を維持できないからだ。

その規則や仕組み・制度をつくるのが政治なのだ。

政治とは、「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み」と定義される所以である(広辞苑第六版)。

 

私たちはよく新聞やテレビで、外国、それもとくに欧米社会において、あるいは中東や北アフリカにおいて、そして今はとくにアジアの香港や台湾において、人々が自分たちの要求を訴えたり、抗議のための街頭デモ行進をしたりしている光景を目にする。また、人々がそうした行動に出ているところへ、警察が取り締まりのために抑え込んで来たり、かと思えばいきなり催涙弾やゴム弾を発射したり、ときには実弾を発砲したりして、鎮圧しようとしている光景をも目にする。また、それによって市民の側には多数の犠牲者、ときには死傷者が出ても、市民はひるまずに勇気を持って自分たちの主張を訴えつづけている様をも目にする。

では、なぜ人々はそうした行為に出るのであろうか。なぜそこまでして自分たちの声を訴えようとするのか。そして彼らは誰に向って訴えているのであろうか。

私は、ここには、人間としてというよりは生物としての、それもあらゆる生物に共通で、一点の矛盾もない本能が現れているのではないか、と考えるのである。

その意味はこうである。

ヒトに限らずあらゆる生物は、自分の生存や子孫の存続のためには、それを脅かす何かが目の前に立ちはだかっていると感じ取ったならば、自分の命の危険など顧みることなく、どんな犠牲を払ってでも、目の前の脅威と対峙し、それと対抗し、あるいはそれに抵抗し、それを押しのけ、あるいは亡き者にしようとするものなのではないか、そしてそれはヒトを含む生物一般の持って生まれた本能の表現形態なのではないか、と。

だから、その本能が表現できないところ、あるいはできないような状況が続いたなら、その生物は、人に限らず他生物でも、精神的にも肉体的にも、必然的になんらかの異常な状態を呈するようになるのではないか、と————ところがこの国では、少なくとも明治期からは、その本能を表現することを政府によって意図的に抑えられてきた。「政治には無関心であることが望ましい」として、あるいは「巷での政治的な議論はしない方が良い」として。————。

日本では、昔から———少なくとも室町時代から———、とくに農民は、年貢米(今で言う税金)の負担を少しでも軽くしてもらおうとして、あるいは徳政を求めて、心を一つにして支配者に対して自分たちの意思を訴えて来た。それは、土一揆あるいは百姓一揆と呼ばれた。そうしたとき、一揆の中心人物は大抵、時の支配者によって、農民への見せしめのために首謀者として磔(はりつけ)という極刑に処せられてきた。

明治期以降になると、それが「お上に陳情する」という言い方に換わった。その「お上」とは、天皇のシモベとされた役所の役人のことである。その訴え方と言い方が今日もなお日本国民一般の間に続けられているのである。

ところがその「陳情」については、そのような訴え方や訴える相手は、本来の民主主義政治制度の観点からから言えば間違っている、と異論を唱える人は、テレビを見ていても、政治学者や政治評論家を含めて、私には皆無に見える————というより、そういうことは考えていないし、気づいてもいないのかもしれない————。

実際、民主主義の実現している欧米社会では、市民(シティズン)と呼ばれる人々は日本のように役所に陳情するというようなことはせず、つねに政治家たちに訴えるのである。あるいは政治家たちの活躍の場である議会に訴えるのである。

ではその場合、なぜ役人ではなく政治家なのか。

それは、市民から見れば、国の主権者として、政治家こそが自分たちが選挙で選んだ自分たちの政治的代表であるし、その代表こそが自分たちの日々の暮らしや将来の暮らしそして国のあり方に関わるさまざまな法律や制度を代表として決めることができる立場にあり、また、彼らにそれができるための権力を負託したのは自分たちなのだから、と考えているからである。

そしてそういう行動に出るのは、多分、小さいときから、親から、そして学校で、自国の歴史の学習の中で教えられて来ているからなのではあるまいか、と私には想われるのである。

だから民主主義の国の人々は、自分たちの日々の暮らしで困っていることがあって、関係する法あるいは制度や仕組みを変えればその困り事をいくらかでも解消あるいは解決できると考えるなら、自分たちの政治的代表である政治家にそれを叶えて欲しいと訴えるのである。

あるいは民主主義の国の人々は、自分たちの国の政府が自分たちが合意していることとは違ったことをやっていると思ったり、憲法違反や法律違反を含めて間違ったことをしていると思ったりしたときにも、同様に政治家や議会に抗議の意思を表したりするのである。

それも、できるだけ効果があるようにと、人々は思いを共有する者同士で少しでも多く連帯して訴えるのである。

そしてその時特に大事なことは、民主主義の国の人々は、自分たちがそうした行動に出るのは、そうすることが母国の自由と民主主義を維持し守るための、自分たち自身と国家への義務とも考えているからなのである(イエーリング「権利のための闘争」村上淳一岩波文庫

このことから判るように、民主主義の国の社会においては、国民が———その場合には、正しくは「市民」と言うべきであるが———自分たちの暮らしや社会の状況を変えて欲しいと願う際には役所の役人ではなく政治家こそが訴えるべき相手とみなすのである。それは、政治家こそが、その彼が立候補したとき掲げた公約を実現して欲しいと自分たちが望んで自らの一票を投じた自分たち国民の代表だと考えているからだ。

実はこの、「政治家こそが私たちの代表である」という認識を持つこと、また持てることこそが決定的に重要なことなのである。役所の役人は決して私たち国民の代表でも何でもない、彼らはあくまでも公務員試験という官吏任用試験にパスしただけの立場に過ぎないからだ。

その彼らの勤める役所は、本来、私たちの代表が法律や政策を決める議会という議決機関が決めたことを決めたとおりに執行することだけを使命とする執行機関なのである。したがって「公」務員とは、国民の代表が国民に代わって、国民の意思に基づいて決めたことを決めたとおりに執行することを主たる役目とする人々、という意味なのである。

したがって「公」務員とは、主権者である国民の「僕(シモベ)」、すなわち公僕(パブリック・サーバント)、もっと平たく言えば、もっぱら主権者である国民に奉仕することを役割とする「召使い」のことだ———実はこのことからも、官僚を含む役人一般に当てはまる公務員に権力が与えられることはあり得ないし、実際、日本国憲法も、どの条文を見ても、公務員には権力は与えてはいない————。ただし、「公」務員は主権者である国民の「僕(シモベ)」であるとするのは、もちろん役所における仕事上での立場であって、身分が召使いだと言っているのではない。自裁、公務員も、自宅に帰れば、彼も国民一般のうちに入り、主権者一般に入る。

こうした立場上の相違から明らかなように、私たち国民は、社会の現状を改善して欲しいと望むときには、役所に、あるいは役所の役人に「陳情」という形で訴えるということは通常はあり得ないし、むしろ私たちは主権者としてそうしてはならないのである。

それには2つの理由がある。

1つは、私たち一般国民が役人に陳情してしまうということは、主権者でありながら、民主政治のシステムに沿わない行為に出ることだからである。もう1つは、主権者である私たち一般国民が自らそれをするということは、それだけ、本来公僕である役人をして彼らの社会的政治的立場を勘違いさせてしまい、“自分たちが主権者の要求を聞いてやる立場だ”と錯覚させてしまう可能性が高いからである。つまり私たち国民の側のその行為自体が、官僚主導政治を生み出し、またそれを助長してしまう可能性があるからだ。

そうでなくても、実際、この国は、欧米の政治制度を取り入れたはずの明治期はもちろん、戦前と戦後の今日までずっと、実質的には、民主主義政治、つまり民あるいは国民または人民が主人公で主権者である政治、あるいは民衆が支配する政治(デモクラシー)が行われて来たことは一度もなく、官主主義政治、すなわち官あるいは官僚が主人公あるいは主権者であるかのような政治が行われて来ているのである。そして、この国に今なお陳情という制度や言葉があるという事実自体、これもこの国が近代には至っていない一つの証拠でもある。実際、この「陳情」という制度は、明治期の官僚が作ってきた制度だと私には推測されるのである。

産業界が豊かになって経済大国と呼ばれるようになった日本ではあるが、私たち国民がどれほど長いことその経済大国に見合う豊かさを実現も実感もし得ないままに来たか、そして海外からも、この国がどれほど「打ひしがれた人々の国」と見なされてきたか、その本質的理由はここにある。そしてそのような状態のままにしてきた最大の責任者はこの国の全ての政治家だったのだ———それについては後に詳細に述べるつもりである(2.5節、5.2節、7.1節)———。

とにかく、民主主義政治の下では、私たち国民にとっては、政治的に何かを解決して欲しいと望むときには、つねに政治家だけが唯一の頼みの綱なのである。政治家を通じて、政治的に事態を動かす、状況を変える、ということが要として重要なのである。

このことは、私たち国民は、とくに主権者として、片時も忘れてはならないことなのである。

逆に言えば、政治家は、政治家になった以上、役人に追随するのではなく、つねに国民の声にしっかりと耳を傾け、国民の望む社会の諸制度づくりをしなくてはならない。それこそが政治家の最大使命と責任なのだから。

選挙で当選して政治家になれたのも、「あなたの掲げる公約を是非政策として実現して欲しい、それを実現するために必要な権力をあなたに負託する」、という有権者からの信任の結果なのだ。

そして選挙をするとは、そのような意味を持っているのだ。ただ一票を投ずることではない!

それだけに政治家になったからには、負託された権力を公正に行使して自らが掲げた公約は何としても実現してみせねばならない。その意味でも、議会は質問する場ではないし、そんなことをしていられるような場でもないのだ!

もしその公約を果たさなかったなら、有権者を裏切ったことである。その場合には、負託された公権力は主権者によって剥奪され、政治家としての立場を失っても文句は言えないのである。

 

以上のことは、言い方を変えると次のようにも表現できる。

私たち国民一人ひとりが、“自分の運命はなるようにしかならない”と考えたり、“仕方がない”と諦めるのは嫌だとして、 “自分の運命は自分で切り開くのだ”、と考えるのならば、またそのためには、“自分の住むこの国はこういう国にしたい”と考えるのならば————一人ひとり、是非、主体的にそう考えるべきであると私は思うのであるが————、それは、イコールの関係で、政治を、そして政治のあり方を考えるしかない、ということなのである。なぜなら、本節の冒頭で述べてきたように、政治こそその願いを可能とし、現状を自らが望む方向に変えられるようになるからである。

そしてこのことからさらに言えることは、政治に関心を持つことは、母国を愛することでもあると同時に、自身に対してのみならず国家・社会に対する義務でもあり、ひいてはその国家と社会を正しく成り立たせる正しい法の生成と発展に貢献することでもある、と。

 

再度強調するが、私たち国民が頼りにすべき相手は、常に、そしてあくまでも政治家なのであって、断じて役所の役人ではない。全く同じように、私たち国民から選ばれた代表である政治家が頼りにする相手も役所の役人ではない。政治家はあくまでも、主権者の声に耳を傾け、役人を国民に代わって公僕としてコントロールしながら主権者の要求を実現しなくてはならない。それなのに、主権者から付託された権力を役人に委譲するという断じてしてはならないことをしては政治を役人に任せ、その上彼らに追随するなどもってのほかで、そのような政治家は政治家の資格も能力もないのだから、即刻辞任すべきなのだ。

なお、このことに関連して、さらに明確にしておかねばならないことがある。それは、「公」とは、「私」に対する言葉であり、公共のことであり、それは広く国民のことであって(4.1節での定義を参照)、決して役所のことでもなければ、役所の役人のことでもない、ということである。

ここで言う「役所」とは、最も身近には地方政府としての市町村役場と都道府県庁のことであり、中央政府としての内閣を司令塔とする全府省庁のことである。

そしてこのことと関連して、私たち国民は、主権者として、次のことをも常に明確に区別しておかねばならない。

それは、官僚を含む役人一般が公務を行う場としての既述の意味での役所のことを、「クニ(国)」、「ト(都)」、「ドウ(道)」、「フ(府)」「ケン(県)」、「シ(市)」、「チョウ(町)」、「ソン(村)」と呼ぶのは明らかに間違いだということである。また役人らにも、そう呼ばせてもならない、ということである。

なぜなら、国と中央省庁とはまったく違うものであり、同様に、都も道も府も県も市も町も村も、都庁や道庁や府庁や県庁や市役所や町役場や村役場とはまったく違うものであるからだ。

国も都も道も府も県も市も町も村も、私たち主権者である国民そして風土や文化から成るものであって、決して役人から成るものではないからだ。そして役人が国や都や道や府や県や市や町や村を代表しているのでもないからだ。

それに、国際的にもよく知られてもいることだが、この国の役所内部の組織は、どこも当たり前のように「縦割り」となっていて、一つの役所でも、各部署は互いに隣の部署が何をしているか知らないほどにバラバラだ。つまりこの国は統治体制に決定的な欠陥があって、今もってまともな国家でさえないのだ。だから何をするにも時間がかかる。災害発生時にも、決まって初動体制に遅れが出る。中央政府の首相も、地方政府の首長も、無責任にも、あるいは国家とは何かについて無知なために、それをずっと放置してきている。その上、役人は、自分の損得しか考えずに、自分のしたことに責任を取らず、つねに言い逃れをする(2.5節、5.2節、7.1節)

そんな役人らが役所のことを「クニ(国)」、「ト(都)」、「ドウ(道)」、「フ(府)」「ケン(県)」、「シ(市)」、「チョウ(町)」、「ソン(村)」と呼ぶ場合、それは彼らのやっていることの責任の所在をうやむやにしてしまっていることでもあるのだ。そして役人のそうした呼び方に対して、主権者である私たち国民が異議を申し立てずに受け流してしまうということは、国民の側が、特に政治家や政治学者そして政治ジャーナリストたちが、共に主権者でありながら、民主主義政治を実現させる上で、少なくとも2つの過ちを犯していることになると、私は考えるのである。なおここでも、主権者とは国家の政治のあり方を最終的に決めることができる権利を所持する者のことである、という意味であることを再確認しておきたい。

1つは、主権者が公僕である役人らをして、彼ら役人が国、都、道、府、県、市、町、村という共同体の代表であると認めてしまっていることであり、また役人らをしてそれらを実質的に乗っ取らせていることでもあるからだ。そしてそのことと関連して、もう1つは、それらの共同体のいずれをも、実質的に役人あるいは官僚による独裁を承認してしまっていることでもあるからだ。

とにかく、国と中央省庁とはまったく違うものである、同様に、都も道も府も県も市も町も村も、都庁や道庁や府庁や県庁や市役所や町役場や村役場とはまったく違うものであるという、それぞれの政治的概念を明確にすることが、本物の民主主義政治を実現する上でも、また、この国の混迷をこれ以上深めないためにも、まずは何よりも重要なことなのではないか、と私は考えるのである。そしてこのことは、特に、この国の全ての政治家と公共放送と自認するNHKと、朝日新聞毎日新聞・読売新聞・東京新聞を含むメディアの方々に強調したいのである。

現状は、まるで思考停止の状態にあるからだ。

 

政治の最重要性の根拠はそれだけではない。

政治のあり方は、国民の心や精神のあり方に直接間接に大きな影響を与えるからである。

政治そのものは、目には見えないし直接的に感じることはないが、政治が私たちと私たちの国の今と近未来のあり方に決定的影響をもたらすということを理解している者にとっては、政治を行う人つまり国民の代表であるはずの政治家の行動と物言いによって、私たち国民の多くは、日々の生活に、また将来に対して、希望や展望を感じたり、逆に失望を、場合によっては絶望を感じたりするのである。

そしてそれによって、社会に活気が生まれたり、逆に不安が漂うようになったりするのである。またそうなれば、それだけ社会は安定性を欠き、秩序は乱れ、人々の倫理観が衰え、犯罪が多くなったりするのである。

言い換えれば、政治(家)のあり方はその国の国民の理性の規範と倫理的な生き方の規準のあり方、それに国民の自国に対する現状認識から世界認識に至るまで重大な影響をもたらし、国民の愛国心を高揚させ得るか否かにも密接に関係しているのである。

つまり政治家の行動の仕方とものの言い方は、政治の世界とは直結していない生活領域にも、広範で、きわめて重大な影響をもたらし(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」p.42)、それだけに、ある意味では、国民の品位を決める、と言うことさえできるのである。

政治家の品位を見れば国民の品位も判る、とされる所以であろう———そういう意味で、たとえば「森友学園問題」で、佐川理財局長(当時)の指示に従って公文書改竄に手を染めた赤木氏が自責のあまり自殺したことに対する、日頃「政府の長としての責任」を口にする日本の首相としての安倍晋三と、副総理兼財務相としての麻生太郎の行動の仕方ともの言い(2020年3月23日)は、彼らのよく口にする「美しい日本」どころか、日本の中枢から、「醜い日本」、「腐った日本」にさせてしまっているのである———。

 

政治の最重要性の根拠はさらにある。

それは、政治が形作る社会における秩序としての仕組みや制度が私たち国民の今と近未来の暮らしの質や善し悪しや安全性をも決定し、それが国民の品位にも影響をもたらすだけではなく、私たちを人類誕生以来ずっと生かしてくれて来ている自然の有り様も決定してしまうからである。

あるいはその反対に、政治が、その時々において、作るべきしくみや制度をタイムリーに作らないことによって、同じく私たちの環境である自然の有り様も左右されてしまうからである。

 

こうして、実際、だれでも少し考えてみれば判るように、政治は、個々人の暮らしのあり方のあらゆる面に直接間接に影響をもたらし、したがって、たとえ自分は政治に無関心であると思っていても、そんなことはおかまいなしに、政治の方から、ドカドカと、規則を引っさげ、拘束力をもって個々人にやって来ては、それに服することを否応なく迫ってくるのである。

つまり、政治という制度は、国家あるいは社会という共同体を平安のうちに維持する上で不可欠で決定的な制度であるがゆえに、政治は、社会の秩序維持のために、つねに活動を続け、絶えず物事の規則を設け、新しい仕組みを形成し、あるいはそれまでの規則や制度は解体してはやって来るのである。そうしては私たち共同体の各構成員に対して、その結果を守り従うよう迫って来るのである。それが「統治」ということであり、私たちはそのとき服従を迫られるのである。

もちろんその場合には、私たちは、その集団の一員として、その統治に対して、好むと好まざるとにかかわらず従わねばならない義務がある。なぜならその規則や制度は私たち一人ひとりが選んだ私たちの代表が定めたものだからだ。代表を「選ぶ」とはそういうことなのだ。彼らに社会のルールづくりを任せることだ。だから、そのルールに従わなかったなら、規則破りあるいは制度破りということで、その場合も、その場合に合った規則が私たちを拘束し、自由を奪いに来るのである。そしてその場合も、私たち国民は、拘束され自由を奪われることを、予め合意していると見なされているのだ。

そもそも政治とは、本節冒頭でも記したように、辞書的に表現すれば、「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み」であると同時に、「権力・政策・支配・自治にかかわる現象」(共に、広辞苑第六版)となる。

これから判るように、政治は、各人がその意志に基づいて集住し、社会を取り結んだその時から生まれ、始まったのである。そして私たちが住む今の社会は、過去の時代がどのように変遷を経て来ようと、その延長上にある社会なのだ。

このことから、一人ひとりは、理屈の上でも、また現実の上でも、そこに集住して互いに社会を形成している限り、誰も、「私は政治には関心ない」などとは言っていられないことになる。

なぜなら、政治とは、すでに明らかなように、自分が社会という共同体の一員であることを望み、またその一員であり続ける限り、否応なく関わらなくてはならないものだからである。そしてそのことは、これも既述のように、母国を愛することでもあり、自身と国家・社会に対する義務でもあり、ひいてはその国家と社会を正しく成り立たせる正しい法の生成と発展に貢献することでもある

以上のことから判るように、私たち国民にとっては、政治こそがあらゆる社会制度の中でもっとも重要な制度なのであり、経済制度や教育制度や医療・介護・看護を含む広義の福祉制度はもちろん、租税制度、文化文芸諸制度、科学や技術の制度、選挙制度、公務員制度、さらには、外交・防衛・軍事の諸制度等を変えなくてはと思うのならば、まずは政治に関心を持ち、関心を持つだけではなく、それを言動に表わさねばならない。

 

こうして、私たち国民一人ひとりは、次の認識に到達するのではないだろうか。

“それだったら、私たちが積極的に政治に参加し、政治のあり方、つまり「共同体における秩序の形成と解体」の仕方に主体的に関わった方がいいのではないか”、と。“その方が、私たち国民一人ひとりの意思で国家共同体の秩序のあり方を決められるようになるのだから”、 と。

“オレは政治には関心がない”とする態度をとったり、 “政治は信頼できない”としながら政治に背を向けていたりするよりは、その方が自分の人生に後悔しないで済みそうだ、いうことになるのではないか”、と。

それに、政治に無関心であったり、政治や政治家など信頼できないなどと言っていたり、あるいは政治を他人任せにしていたり、政治家の言っていること、権力保持者たちのやっていることに十分に注意を払っていなかったりしたなら、知らないうちに、国を自分たちに都合のいいように動かそうとたくらむ輩に、彼らのみに好都合な憲法や法律そして諸制度をつくられてしまい、気がついたときには、私たち社会共同体の大多数にとっては不利益どころか取り返しのつかない不幸と破滅をもたらしてしまう事態に陥ってしまっている、ということにだってなりかねないのではないか、と。

実際、そうした危惧が現実化した例が、日中戦争からアジア・太平洋戦争へと突き進み、アジアにおよそ2000万人、自国におよそ320万人の犠牲者を出して完敗した、とりわけ昭和8年(1933年)から20年(1945年)までの日本である。その時、「治安維持法」という法が、幾度かの改悪を経ながら、人間の内面を勝手に邪推しては拘束し、さらには拷問にかけ、人間から完全に良心・判断力・理性を奪う、狂気とも言える社会的空気を作り出したのである。

なお、ここで私の言う政治に参加する、あるいは政治のあり方に主体的に関わるとは、具体的には次のことを意味する

それは必ずしも街頭に出てデモ行進するということではない。先ずは自分を含め、人々の暮らしとその質に関心を持つことであり、自分を含め、人々が、現状、幸せであるかどうかに先ず関心を持つことであろうと思う。なぜなら、政治がいつでも実現しなくてはならないことは、人々の「生命・自由・財産」を安全に守ることであるが、最終的に実現を目指すのは、最大多数の最大幸福だからだ。そこで言う幸せとか幸福とは必ずしもお金や経済の面でのことではない。

そしてそれらを安定的かつ恒常的に実現するには、やはり、私は順序があるように思う。

それは、人間にとっては、誰にとっても、諸価値には階層性があるということを先ずは認め、守らねばならない幾つかの原理と原則もあるということをも認めることから始まるのではないか、と私は考えるのである。

実はそれが、本拙著の副題にもある《エントロピー発生の原理》であり《生命の原理》である(第3章)。また、人間にとっての基本的な諸価値は階層性を成しているという考え方であり(4.3節)、人間が集住する都市や集落にはある原則が働いているのではないか(4.4節)、ということである。

つまり私は、これらがまず満たされていないようでは、人は、人間として、あるいは人間集団として、最終的で最高の価値である「幸せ」を安定的かつ恒常的に実現することは不可能と見るからだ。

だから、政治に参加する、あるいは政治のあり方に主体的に関わるとは、先ずはこうしたことへの理解と認識を持つことが必要なのではないか、と思うわけである。

その上で、今度は政治に直接関係する次のような諸概念を理解するのである。

例えば、政治とは何か、法とは何か、から始まって、権力・統治・支配・服従自治・民主主義・議会・政府・主権・国家・三権分立憲法・等々。

次には、現実はこうした基本的政治的諸概念は、現実には正しく行われているか、社会における秩序の形成と解体はどのような手順を経て行われているか、またそこに政治家は具体的にはどのように関わっているか、政治家は官僚を含む役人をどのようにコントロールしているか、そしてその際、正義が行われているか、透明性や公正性は確保されているか、等々を注意深く監視することであろうと思っている。そしてそのことは「公共」と銘打った事業が行われようとしているときには特に、そこにはどのような人が関わり、また彼らはどのような客観的で公正な基準に基づいて誰によって選任され、どのような「手続き」を経て、いつ、どこで開発や計画が決定されて来たのか、その際、正義が行われているか、透明性や公正性は確保されているか等々も注意深く監視することであろうと思っている。

重要な政治的諸概念を正確に掴まないまま、何となく“政治とはこんなものなのだ”と自分流に勝手に解釈したり、また既成の先入観や固定観念あるいは慣例に惑わされたりすることは、結局はその人自身が政治のあり方をどんどん歪めてしまうことになるし、また法律等の規則は曖昧なままであった方が好都合だとする、とくにそれを恣意的に運用したい人々によってどんどん歪められてしまう土壌を醸成してしまうことになる。

もちろん私がここで言う政治とは、主権を堅持する独立国の国家としての民主主義政治あるいは民主主義議会政治のことであって、独裁政治や専制政治のことではない。

 

国民の圧倒的多数が政治と政治家をこのように捉えることができるようになれば、少なくとも、次のような輩が政治家として登場して来られる余地などはもちろん、生き残れる余地も全くなくなるだろう。

それは、一国の基本法である憲法を、憲法自身が明確にしている改定手続きを踏まず、解釈だけで変えたことにしてしまうような、みんなで決めた規則を勝手に破るような輩、国会を国権の最高機関とは見ずに、閣議を優先するような輩、人が心の内に思ったこと・考えたことだけで罰するような、本来の法ではない法を法と見なすような輩、過去の失敗から教訓を引き出さず、失敗から学ぼうとはしないどころか、失敗を認めず、むしろ失敗をもたらした時代に引き戻そうと画策する輩、責任という言葉を口にしながら実際には何の責任も取らない輩等々のことである。

言い方を変えれば、自己に甘く、怠惰で、無責任で、役人に依存するばかりで、立法能力および政策決定能力などからっきしないのに権力欲・名誉欲・自己顕示欲そして金銭欲だけは旺盛な輩のことである。

あるいは、一年中、街や自然の景観を乱しながら、そのことに気づかずに、次のようなスローガンを自らのポスターに掲げて平然としている輩のことでもある。

「確かな実現力」民主党 後藤斉)、「一つひとつ乗り越えていく」民主党 野田佳彦)、「日本を取り戻す」、「日本の明日を切り拓く」自民党 安倍晋三)、「暮らしを守る力になる」民主党 海江田万里)、「闘う改革」みんなの党 渡辺喜美)、「安定は、希望です」、「希望が行きわたる国へ」公明党 山口那津男)、「日本を前に進める風になる」「ふるさとを強く豊かに」自民党 中谷真一)、「明日へのチカラ」、「真実一路」自民党 中谷真一)、「日本大変革」日本維新の会 橋下徹小沢鋭仁)、「日本と山梨の未来を示す政治」、「本気の改革」日本維新の会小沢鋭仁)、・・・・・。

ここには、「政治家の存在価値は具体的な政策とその実行力だ」という認識などまるで見られないのだ。

 

とにかく、こうした似非政治家あるいは政治屋が全て退場し、本物の政治家しか生まれ得ないような国民的政治状況になれば、その時こそ、人々は、この国に生まれ、暮らし、生きることに希望を感じ取れるようになり、展望を見出せるようになると同時に、誇りを感じ、そして幸せをも自ずと感じられるようになるのではないか、と私は想う。

そしてその時には、人々は、政治を、それも民主主義による政治を、これまでになく身近に感じられるようになり、政治という仕組みを頼るに値するものと思えるようになっているだろうし、この日本は、主権を堅持しうる本物の国家、それも真に民主主義が実現した、持続可能な独立国家となっているだろう、と私は確信する。

いずれにしても、そうした政治を実現しようにも、その出発点となるのは選挙なのだ。投票所に自らの足を運び、自分の頭で候補者を十二分に吟味することであろう。

そこで言う「吟味」とは、公約として掲げる政策とその中身であり、その実行性、つまりその公約をどのように実現しようとしているか、その方法がどこまで考え抜かれて公約として掲げているのか、ということにまで目を配ることである。

政治家として最も重要なことはあくまでも掲げる政策とそれの実現能力であって、人格とか容貌容姿はもちろんのこと、弁舌の上手い下手も二の次、三の次なのだ。「格好いいから」とか、「頼まれたから」あるいは「好きだから」一票入れるなどと言っている間は、政治というものを依然として全く理解できていないということであり、主権者としての義務と責任を果たしてはいないということでもある。

1.4 しかし日本は未だ「近代」にも至ってはいない——————その2

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今回は、同じ節で前回の「その1」に続くものです。タイトルの通り、私たちの国日本は、近代国家のように言われて来て、また多くの人はそのように信じたり信じ込まされたりしてきたように見えますが、よく考えてみると、既述の通り(9月6日と8日のブログを参照してください)、この国は真の国家にもなっていないし、また近代にも至ってはいないと私は考えます。

「その2」でも、その根拠について述べてみたいと思います。

1.4 しかし日本は未だ「近代」にも至ってはいない——————その2

では第2の条件であるところの、この国が世界から「先進国」とされてきている唯一の根拠である経済制度については、世界の本物の近代諸国のようになっているだろうか。

言い換えれば、この国は近代という時代を経済制度の面で特徴づけられる「資本主義経済」の国に本当になれたのだろうか。「自由主義市場経済」の国になれているのだろうか。

それについても私の見解は明らかに「ノー!」、である。この国には既述のとおり「自由」も実現されていないのだからそれも当然である。資本主義経済は「自由」という概念の理解の上に成り立っている経済のしくみだからである。

日本の経済制度の骨格部分は、大きく言えば、企業どうしがきわめて高度かつ複雑に組織されて出来上がっているいわゆる「系列」と「業界団体」に拠って成り立っている(以下、K.V.ウオルフレン「システム」p.38〜52)。しかも、すべての企業は、こうした系列または業界団体の仕組みの中に入らねばやってゆけないようになっている。これら二種の組織は、その頂上では中央政府省庁の官僚と組織的に連結している。だから、業界団体は、官僚たちの格好の「天下り」先となるのだ。

そして、この二種の組織には、政府省庁の官僚や財界の官僚によって、「彼等が望ましいと考える方向に一致させようとする強い強制力が働く」(p.44)。その強制力は、たいがい、同業他社を通じて働くのだ(p.44)。

商品の価格も、大部分「談合」によって決められてしまう。倒産しないように、互いに同一系列企業間で株を持ち合って、支え合っている。そのために消費者は、必ずと言っていいほどに、日本の同企業が外国で得る価格よりも格段に高値で買わされているのだ(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」窓社p.29)

それは、日本の政府、もっと正確に言うと経済関係省庁の官僚と一体化している財界トップの経済官僚によって、経済省庁の官僚了解の下、日本の消費者を搾取しているということだ。その搾取した分は輸出関係業界に助成金として回っている。それも国際競争力を付けるため、とされてしまう。

また大企業は、その周囲にある下請け企業と密接に結びついている。その中小企業、ときには小さな町工場は、大企業には真似の出来ない技術力と安さで部品をつくり、大企業には価格面での計りしれない利点を与えている。

大企業は、平時、それだけ助けられているのに、不況時には、中小企業に対して援助の手は差し伸べずにつぶれるに任せ、トカゲの尻尾切りをしては自社だけを守っている。政府省庁の官僚も、財界官僚も、それを見て見ぬ振りをしている。

それだけに、彼等中小企業は猛烈に働かねば生き残れない経済のしくみになっている。

このしくみは、生産の部門だけではなく販売の部門でも同様だ。

このように、この国では、一つの企業が、ほかの全経済組織からなる構造の中に、自由には身動きできないほどに、しっかりとはめ込まれ統制されているのである。

それだけに、新規の企業は、経営者が経営者としての手腕がどれほどすぐれていようとも、既存の枠組みの中にはなかなか入れては貰えないで、むしろはじかれてしまうことにもなりかねないのである。

つまりこの日本は、資本主義本来の、自由な競争に基づくビジネスが出来るような国ではないし、それが行われている国でもない。

それもこれも、政府官僚によって、国民生活の質的向上は度外視されたまま、そうすることがあたかも「国力」を維持する唯一の方法であるかのように、ひたすらGNP(国民総生産)やGDP国内総生産)の数値を上げようとするだけの「果てしなき経済発展」の方向へと、誘導されて来た結果なのだ。

その経済制度は、太平洋戦争中の兵員や物資の輸送形式からもじって、よく、政府の官僚による「護送船団方式」とも呼ばれる。

こうして、日本は、近代の主流となった資本主義の社会ではないし、そこに至ってもいないのである。というより、この国は、官僚を中心にして、本来の資本主義の国々の経済制度とはまったく異質な統制経済制度をつくって、世界に対抗して来ただけなのだ。

このように、私たちの国日本は、「世界の経済超大国」などと呼ばれた一時期でも、真の資本主義の国であったためしは一度もないし、自由な市場経済の国であったためしもない。

 

以上のことを総合して、私は、この国は、未だ「近代」にも至ってはいないと結論づけるのである。

したがってこの日本という国は、近代にも至ってはいないのだから、識者や政治家や官僚やジャーナリストがよく言うような「先進国」などであるはずもない。少なくとも欧米諸国に対して使われるような意味での先進国ではない。

むしろ、とくにものの見方や考え方、それに基づく生き方についても(5.1節)、したがってそれに基づいて形作られて来た社会的諸制度も、表向きは先進国のそれらを真似たものであるというだけで、実態は、「仏作って、魂入れず」で、世界の国々の中で最も後進国であると言うべきだろう。事実この国は、政府も、国民も、人間の尊厳・人権そして正義のみならず文化や歴史にも関心を持たず、ただ「カネ」や「経済」にしか関心を示さずにやって来たのだ。ただ経済力・工業生産力の面だけから見れば、あるいはGDPの数値だけを見れば、他のほとんどの国より突出してきたから、外からはそう見られて来ただけだと私は考える。実際、その経済力を支えた諸制度も、実態は、本物の資本主義国が採用している真に自由と責任の伴った競争からなる制度ではないどころか、むしろそれとは全く異質な仕組みを持った制度なのだ(第11章を参照)

精神的にも、自閉的で、排他的で、狭量で、自己中心的で、想像力にも共感力にも乏しく、さらには自浄能力も自己変革能力もなく、もっぱら超強大国にほとんど無条件に追随することしかできない卑屈で臆病な、物真似あるいは外圧でしか動けない政府の国なのだ。

あのフランスの市民大革命から今年で230年余となるが、今後とも、この国に政治的に覚醒した本物の市民が大量に育って来なくて、真の市民の国や社会になり得なかったなら、この隔たりは拡大する一方だろう。もちろんそうなれば、かつてこの国が尊大な態度を取り、侮蔑的な言い方で呼んできた中国や韓国と比べても、その他のアジアの国々や中南米やアフリカの国々と比べてみても、どんどん後れてゆかざるをえない、と私は推測する。

なぜなら、チュニジアリビア、エジプト、バーレーン、シリア、アルジェリア、イエメン、アフガニスタンパキスタン、インド、フィリピン、等々のどこの国の人々も、自分というものつまりアイデンティティをしっかりと持ち、自分の主義主張は誰に対しても堂々と述べることが出来るし、正義を重んじ、祖国を愛し、それがゆえに、必要ならば、相手が誰であろうと、自由のためにはいつでも自分の命をかけてでも戦う覚悟に溢れた「市民」が大勢を占める国であるからだ。

 

私は、その国が真の意味で先進国か否かということは、いわゆる経済力や工業生産力で決まることではなく、その国の人々の思想と生き方、すなわち人々一般のものの見方や考え方とそれに裏付けられた生き方において決まるものだ、と考えるのである。

それと同様、国家としての偉大さも、経済力において決まるものではなく、もちろん軍事力において決まるものでもなく、その国の国民に一般化している思想の高みとその実践の度合いにおいて決まるものなのではないか、と思っている。

そして国民が、国がそうなれるか否かは、やはり国の指導者によるところ極めて大である、と私は考えるのである。

その意味では、たとえば、現実の経済社会に生きることの意味も判らず、実際にそうした社会に生きた体験もなく、戦争の悲惨さもそれが長期にわたってもたらす悲劇も知らず、だからその中に生き抜いて来た人々の哀しみや辛さに思いを致すことも出来ないで、戦争を美化したり歴史を歪曲したりすることにも平気、憲法を勝手に解釈上だけで変えたり否定したり破壊したりすることにも平気で、軍事超大国に主権を譲り渡して迎合することにも平気で、だから口では国民の生命と財産を守ると大見得を切りながら自国民をISに処刑させてしまったのが自分の軽率な挑発発言にあるということも理解できないで、官僚の「お飾り」で「操り人形」でしかない自分にも平気な、だから少し苦しくなるとすぐさま政権を投げ出してしまっても平気な、坊ちゃん首相の国が偉大な国になるのは、夢のまた夢なのだ。

その坊ちゃん思想とは例えばこんなものだ。

「戦後のレジーム」とは何を指すかを明言せずに「戦後のレジームからの脱却」とだけ言ったり、同じく「どういう日本」を指すのかをも明言せずに、「日本を取り戻す」とか「日本再生」とだけ言ったりしては、ただ言葉を弄び、国民を翻弄することしかできない精神構造から生じる思想のことである。

また、「どういう日本を目ざすのか」そして「それをいかに実現するか」は一切語れずに、ただ「日本の明日を切り拓く」なる言辞を軽々に語ってみせては、それを弄び、国民を翻弄することしかできない精神構造から生じる思想のことである。

自国民に対して自ら忠誠を誓い、自国民に対して誠実で真の勇気を持って先頭に立とうとする指導者は、そのような空疎で軽率な言辞は決してなさないものなのだ。

1.4 しかし日本は未だ「近代」にも至ってはいない——————その1

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第1章のこれまでは、私は、混迷の度合いがますます深まっている世界の現状を特にアメリカに焦点を当てて見ながらも、世界がますます混迷の度合いを深めているその本質的な原因は、近代において支配的となってきた諸々の思想がもはや世界の現状に合わなくなって来ただけではなく、むしろそれらの思想と現実との乖離がますます顕著になってきているからであろう、として来ました。その意味で世界はもはや「近代」という時代をとうに終焉させているのだ、ともみなして来ました。

しかし、日本の混迷の深まりの主たる理由は、世界のそれとは大きく異なっていると私は見ます。それはどういうことか。

1.4節では、その理由の説明を私なりに試みてみようと思います。

なお、本節も結構長いので、2度に分けて公開してゆこうと思います。

 

1.4 しかし日本は未だ「近代」にも至ってはいない——————その1

 

ところで私は、前節で述べてきた現状説明が当てはまるのは日本を除く外の世界の国々についてである、と思っている。私たちの国日本について言えば、そこで述べてきた意味での近代という時代は終わっていないどころか、未だ本格的な近代にも至ってはいない、と私は考えるからである。

確かに日本は、世界からは先進工業国と見なされて来たようだし、見なされてもいる。日本国民の間でも、とくに政治家や財界人などは、日本は明治期以来近代化を目指し、それを実現させてきたと誇らしげに言う者が多い。国民のほとんどもそう思っているように私には見える。

それは本当だろうか。そこで私が問う「本当だろうか」の意味は、「日本は本当に欧米社会が言うような意味での、あるいは歴史の過程に見られる意味での近代化がなされ、そして今、日本は近代という時代に至っているのであろうか」ということである。

私は決してそうではないと思う。そう見られ、またそう思われて来たのは、日本はただ経済面についてだけ突出しているから、そしてそれはGDPなどの数字として表しやすいから、外部からもそう見られ、自他ともにそう思って来ただけなのではないか、と私は思う。

普通なら、近代化が進み、本格的な近代という時代に至れば至るほどに、政治のあり方も知的先人たちが描いた意味での民主政治になり、経済とそのシステムのあり方も「自由」と「責任」の伴った競争が浸透したものとなり、それによって人々は物質的に豊かになるとともに、半ば自動的に教育面や福祉面そして文化芸術面といった面での仕組みや制度も充実してゆくようになるものなのではないかと私には思われるのだが————実際、先進民主主義国ほどそうなっているように私には見える————、この日本という国はこれら全ての面でそうはなっていない。本節で後述するように、突出していると見られている経済とそのシステムでさえ、その実体は欧米の近代化を達成した国々のそれとも著しく異なるものとなっているのである。

つまりこの国は、こうしたことからも知れるように、未だ本当の意味での近代に至ってはいないのである。と言うより、これまでのところ、日本は、他国、とくに欧米諸国には見られない極めていびつな発展の仕方をしてきた、異常な国なのだ。

そこでここでは、そのように言う根拠を、私は前節と同様の論法をもって説明する。

すなわち、時代が変わるとは、それまでその時代を主流となって支えて来た、あるいはその時代を土台において支配して来た思想と、その思想に基づいて築き上げられて来た経済制度を中心としたさまざまな社会的諸制度と、その社会経済諸制度を土台から支えて来たエネルギー資源の3つまたはそのうちのどれか1つでも、それに関する矛盾や不都合あるいは問題を次々と露呈させて来て、それに対する有効な克服手段を誰も見出せなくなり、そのため、その時代の大方の人々が今後の社会や時代はどうなって行くのか、あるいはどうなってしまうのかと、その行方について不安を抱くようになって来たときである、としてきたその論法である。

ただしここでは、それを、「その国が、その時代の世界の主流のあるいは支配的な既述の3つの条件(思想と経済社会制度とその社会を駆動させる支配的なエネルギー資源)あるいはそのうちの1つにでも至っていなければ、その国は未だその時代には至ってはいないと判断される」、という論法に読み替える。

その場合も、その3条件のうち、第3の条件———化石資源、とくに石油とウラン———については日本でも実現されているということについては大方の人は同意されるのではないかと考えられるので、前2者について、それらが果して日本では、「近代」のそれに相応しく実現されているかどうか、ということについてのみ見てみる。

そこで第1の条件である思想について。

なお、ここでは、その思想については、とくに近代という時代を特徴づける「人間個人としての権利」を中心に着目し、それらがいわゆる欧米先進国並みに保障されている国となっているか、あるいは国民に対してそれを保障しうる政府の国になっているか、また国民の側もその「人権」の意識がしっかりと身に付き、つねにその観点から現実の社会生活ができているか、という点に焦点を当てて検証してみようと思う。

それは、「経済社会と政治社会との未分離、『私』と『公』の一体性を前提にして、その中に諸々の封建的支配関係を含む封建社会を打ち倒したのが市民革命であり、これによって成立したのが『近代』の市民社会(渡辺洋三「法とは何か」岩波新書p.94)なのであるからだ。

以下、主に同上書を参考にさせていただく。

そこで私は次のような問いを発してみたいのである。問いである。

人は誰もかけがえのない命を持つがゆえに人間として生きる権利があるし、人間としてのその尊厳が認められなくてはならない、という自覚を国民の一人ひとりは持てているだろうか。

そして私たち日本国民は、いつでも、どこでも、人は皆、能力も、個性も異なっていて多様なのだ、という認識が「当たり前」に持てているか。その能力とは、例えば、計算が得意であること、記憶力に優れていること、運動能力に優れていること、芸術的感性に優れていること、指先が特に器用であること、創造力に優れていること、人の心を優しくしたり和ませたりする能力に優れていること、言語能力に優れていること等々を指す。

そしてそれらの能力は決して一片の、しかも画一の内容のペーパー試験で測れるようなものではないという認識が「当たり前」に持てているか。また、その画一内容のペーパー試験の点数がいい者だけが優秀であるとか能力があるとかいうわけではないという認識を「当たり前」に持てているか。そしてさらにその上に立って、その一人ひとりは誰も、一個の人間として自由であると同時に互いに平等でもある、という自覚に立てているか。そして私たち日本国民は、その自由の中には、人は誰も、自分の思うことや考えること・感じることを、他者の迷惑にならない限りで表現できる自由も含まれているという認識を当たり前のように持てているか。そして一人ひとりのそうした権利や尊厳や能力や個性は誰もが互いに認め合わなくてはいけない、という自覚を持てているか。

先ずはこうした基本中の基本の人間としての権利が、国民一人ひとりに十分に備わっているかどうかについて私は問いたいのである。

しかし、現状を見るに、残念ながらその問いの答えは「ノー」と言わざるを得ないように思う。

 

ところが、実はこうした考え方=思想を土台にして、近代は以下のような重要な概念を確立させ、またその確立した諸概念に基づいて様々な社会的経済的仕組みや制度を打ち立ててきたのである。

例えば、市民、義務、民主主義、権力、議会、選挙、政府、国家、主権がそうである。

では、果たしてこうした社会的、政治的基本概念を私たち日本国民は、きちんと理解し、それを行動で表して来ただろうか。そして政府は、「自由と民主主義は普遍的価値」と国連の場では言うが————特に安倍晋三は————、国民に対してそれらを理解させようとしてきただろうか。政府がそれらを率先してその模範を示して来ただろうか。

もちろんこれらの問いに対する私の答えも「ノー」である。

前述の基本中の基本認識ができていないか曖昧なのだから、市民、義務、民主主義、権力、議会、選挙、政府、国家、主権に対する正しい理解もできるはずはないと私は考えるからである。

 

同様なことは、上記基本概念に基づく社会的政治的制度を支え維持するために設けられてきた規則一般についても言えると、私は思う。

私たち日本国民は、市民として、ルールとは何か、憲法をも含めて法とは何か、憲法と一般法との違いは何か、ということについても積極的、主体的に考えてきたことがあっただろうか。

あるいは、法とは何かということを含めて、法とは国民が自らの手でつくるものとの捉え方ができているだろうか。国とは、また国の運命は自分たちで決めるものという捉え方ができているだろうか。同様に、地域社会は自分たちの手でつくるもの、という考え方ができているだろうか。政府も、自国民をしてこうしたことをきちんと考えさせ、身につけさせる教育をかつて一度でもしてきたことがあっただろうか。

これらの問いの答えも明らかだ。ここでも、前述の基本中の基本認識ができていないのだからだ。

それに、そのことは、この国の政治家は、明治期以来、依然として官僚あるいは役人に依存し追従するばかりで、真の近代国家の意味も、また近代民主主義議会政治を理論的に確立する上で要になって来た政治的諸概念すらも知らないで、あるいはそれを無視して、政治を行なっているつもりになっているだけという姿を見ても容易に判断できる(第2章にて詳述)。この国の政治家は、「法の支配」という近代法の極めて重要な原理も知らないのだからだ。

「法の支配」とは、法の内容そのものが合理的なものでなくてはならないことを要求すると同時に、恣意的な支配を排斥して、権力の行使を法によって拘束し、恣意的にではなく客観的なルールに従わねばならないとする世界の民主主義国共通の政治原則である(山崎広明編「もういちど読む山川政治経済」山川出版社p.8)。それは、政府も国民も、法とは、権力を持たない国民の権利を保障するために、権力を持つ国家の権力行使が一方的・恣意的・主観的にならないよう、これをルールをもって拘束する必要があるという考え方を根底に置いている。つまり「法の支配」とは権力よりも法が優位であるという考え方、同じことであるが、国民の意思が権力者の意思を拘束するのであるという考え方であるが、それが国民の間から出た政治家、特に政府の政治家にきちんと理解されているだろうか。

また、行政権の行使には法律の根拠が必要であるという考え方である「法治主義」についても、特に政府の政治家と役人は常に意識していなくてはならないものであるが、その意識の下で行政権を行使しているだろうか。またその法治主義の下では、政府の行為が法の拘束の下にある以上、政策の変更は法の変更を前提としなければならないとなるが、そのような捉え方が、同じく政府の政治家と役人にできているだろうか。

いずれの問いに対しても、この国では、答えは明らかに「ノー」だ。

そのことは、例えば新型コロナウイルス禍の下で、首相や首長を含めたこの国の政治家という政治家が、法に基づかずに、そしてそのことに全く無頓着なままに、中には「法とは何か」すら知らずに(西村経済再生担当大臣)、一体どれほど「要請」や「お願い」という形での恣意的な権力行使を平気で繰り返したことかを見ただけでも判る。

しかし、それもこれも、国会議員が、国民の要請に応えられる新法を臨時国会を開いてでもタイムリーに制定してこなかったからであるし、また地方議員が、住民の要請に応えられる新条例を臨時議会を開いてでもタイムリーに制定してこなかったからである。と言うより、この国の政治家という政治家は、主権者たる国民・住民の生命と自由と財産を何よりも優先して守ることこそが自分たち政治家の最も重要な役割なのだということすら知らないし、気付かなかったからだ。何も通常国会定例議会だけが議会ではないのだ。

つまり国民の間から出たこの国の政治家は、政治家の役割すら知らないのだ。これこそ、国民の間から出る政治家の政治的レベルは、その国の国民の政治的レベルを超えられるものではないという真理を如実に示しているのである。そして政治家のこうした無知さ加減と無責任さと己への甘えそのものが、この国の混迷の度合いを、世界には見られない形で一層深めてしまっているのだ。

 

以上述べてきたことは、契約、約束、合意、手続き、という重要な概念についても同様に言える。

私たち日本国民は、市民社会における人と人との結びつきを決めるルールは、市民が自分の意思で決める契約=合意の他には存在しない、という捉え方ができているだろうか。だから、市民社会は何よりも合意が支配する社会である、という捉え方ができているだろうか。

契約は守られねばならない、契約は拘束する、という捉え方ができているか。契約の持つ拘束力を神聖なものと考え、責任をもってそれを守り、他者にも守らせる、という捉え方ができているだろうか。約束を守らないということは非常に恥ずべきことである、という捉え方ができているか。約束をした以上、どんなにしてでも責任をもってこれを守る、という捉え方ができているか。契約は力の弱い者の利益を保障するもの、という捉え方ができているか。

また、手続きもまた一つのルールである、という捉え方ができているだろうか。法を重んじるということは手続きを重んじるということである、という捉え方ができているか。

どんな組織や集団においても、その組織や集団としての意思が決まるまでには一定の手続きを踏まなければならないという捉え方ができているだろうか。能率と手続きは必ずしも相反するものではなく、むしろ踏むべき手続きが守られていないから能率が上がらなくなる、という捉え方ができているだろうか。

手続きは、話し合いや説得の場を設定するルールである、という捉え方ができているか。「初めに決定あり」あるいは「最初から賛成か反対か」を問題とすることは手続き的正義を無視することである、という捉え方ができているか。手続き無視あるいは手続きがいい加減によるやり方で通った法律は無効、という捉え方が国民の間にできているか。とくに特定の人に不利益な決定をする場合には、その人にその弁明や説明を全部させた上で判断する、という捉え方ができているか。人権保障にとって公正な手続きはどれほど大切なことか知れない、という捉え方ができているか。国家権力の行使は、それが一定の手続きに従ってなされる場合にのみ合法的であり、手続き無視の権力行使は、ただ手続きに反したというだけの理由で非合法とされる、という捉え方ができているか。権力の行使を手続き的ルールに服せしめることは、国民の人権保障にとって何より大切なこと、という捉え方ができているか。

こうした問いが意味することに対しても、私たち日本国民一般は、わたし自身を含めて、未だ、常に「イエス」と答えられる状況にはないのではないか。

 

あるいは次のような問いを発することもできる。

正義とは何か、何が正義か、という問題意識を、国民も政治家も役人もつねに持ち続けているか。法の世界と、宗教や道徳そして文化の世界とは自ずから別個の世界に属する、という捉え方ができているか。法的正義と道徳的正義とは別物、という捉え方ができているか。法的には責任を問われなくても、道徳的には責任を負わなくてはならない、という捉え方ができているか。反対に、法的に責任を問われる違法な行為であっても、道徳的には責任を負わなくてもいい場合がある、という捉え方ができているか。

現行日本国憲法に従うなら、軍隊である自衛隊を持ってはならないし、軍隊を持とうとするなら、法治主義の観点からも、憲法を改めるべきなのである、という捉え方ができているか。憲法の条文を、それもその憲法は改正の手続きを明記しているにも拘わらず、それを無視して、憲法の運用・解釈を変えることによって、事実上、憲法を変えたことにしてしまう政府の態度は、法治主義を否定するものであると同時に、憲法そのものを無きものとする態度に等しい、という捉え方ができているか。一方で自衛隊の存在に賛成しながら、他方では軍隊を持つことを禁止する憲法の存在にも賛成するという国民の態度は矛盾している、という捉え方ができているか。軍隊を持たないで平和を実現・維持するという態度と、軍事超大国アメリカと安全保障条約という軍事同盟を結ぶことによって平和を実現・維持するという態度とは相反する、という捉え方ができているか。裁判の判決は白か黒かのどちらかしかなく、その中間はないと同じように、とくに政府の行為については、国民の側は、法治主義を守るという観点に立って、何事につけ、合法か違法かのけじめをつけなくてはならないという捉え方ができているか。これと同様、国民は、本来公務員の権力の行使に直面したとき、それが法律的根拠が有ることかどうかをつねに確かめるだけの法常識を持つ必要がある、という捉え方ができているか。法律に反する契約は無効であると言ってみても、それは当事者が裁判所に訴え出れば無効になるというだけのことであり、当事者が訴えなければ、現実の社会では、無効な契約もまた堂々とまかり通る、という捉え方ができているか。これと同じく、契約においていかに立派な法律であっても、市民がそれを知って、日常生活の中でこれを活用するのでなければその法律は無きに等しい、という捉え方ができているか。

企業や国家は、国民の具体的生活利益を侵害してはならないというだけではなく、それを積極的に実現するための義務を負っているのであり、その義務違反に対しては、国民はそれを追究するだけの権利を持っている、という捉え方ができているか。

法規をつくるに当たっては、立法者は、文章の言葉の意味を、できるだけ具体的かつ客観的に確定しておく必要がある、という捉え方ができているか。

司法は、誰からも、どこからも独立していなくてはならない、という捉え方が国民と政治家と役人にできているか。裁判官は、殺人犯に対して、死刑を宣告することもできるし、無期懲役にすることもできる。死刑を宣告した裁判官は、彼の主体的な意思で被告の生命を奪ったのであり、法の適用の結果そうなったのではない、という捉え方ができているか。戦時中、治安維持法体制に加担した裁判官は、戦後、戦争責任を問われなかった。他の分野では戦争責任を問われたのに、司法界ではそれが問われなかった。しかし、法律家は、法の名において、その責任を回避してはならない。裁判官は、治安維持法を縮小解釈することによって、無罪にすることもできたはずであるからだ。安保条約や自衛隊違憲訴訟をはじめとして、重要な幾つかの問題について、裁判所は、統治行為にわたる政治問題には立ち入らないとしてその判断を放棄して来た。裁判所が、立法府や政治の問題に介入すべきでないことはいうまでもない。しかし、裁判で争われているのは、立法議会が定立した法や国会の議決、政府の政治的決定等が憲法に違反しないかどうか、という法律問題なのである。その法律問題に答えることは正に裁判所の仕事なのである。その仕事を放棄したのでは、裁判所の存在理由そのものが問われることだ、という捉え方が国民の間にできているか。行政庁が裁判所の決定に介入し得るとする現行の行政事件訴訟は、三権分立の原則から極めて奇妙なことだ。違法な行政処分に対する裁判所の執行停止を、さらに内閣総理大臣が覆すことができるという今の行政訴訟法の制度(27条)は、国民の権利無視もはなはだしい、という捉え方が国民の間にできているか。つまり、裁判所の決定より行政権の決定を優越させることは、法の支配と権力分立の原則を否定することを意味する、という捉え方が国民と政府の政治家と役人にできているか。

真実は公正手続きに従ってのみ発見されなければならない、という捉え方ができているか。

権利のために闘うことは、自身のみならず国家・社会に対する義務である、という捉え方ができているか、等々と。

 

以上、近代になって打ち立てられた人権とそれにかかわる概念、またその人権を保障するための考え方を縷々、挙げて来た。これらの考え方は、その全てが、経済制度や法制度のみならず社会の、文字通り全ての諸制度を創り、またそれを民主主義的に運用してゆく上で、絶対に必要なことなのである。

そしてこれらを、国民も、また政府も、我が物とすること、またそれができたということが、この国も、思想面において、先進民主主義国と同様の「近代」に至ったことになるということだ、と私は考えるのである。

しかし、実際には、あるいは実態としては、とてもそう言える状態には達していないことは、誰しも認めるところなのではないか。

それは、例えば次に挙げるものの考え方や生き方がこの国では、国民一般のみならず、政治家、学識者・専門家、ジャーナリストの間でさえも今なお主流をなし、あるいは隠然とした影響力を持ち、それらがこの国のあらゆる公的領域で、直接間接に不文律としてまかり通っているからだ。とくに役人の間では、その傾向が甚だしい(5.2節を参照)

波風は立てるな、長いものには巻かれろ、寄らば大樹の陰、勝てば官軍、触らぬ神にタタリなし、臭いものには蓋をしろ、見て見ぬ振り・聞いて聞かぬ振り・私って知らぬ振りをしろ、本音と建前を使い分けろ、もっと大人になれ、丸くなれ、もっと現実的になれ、理想だけじゃ喰っては行けぬ、水に流せ、村八分にされるぞ、足を引っ張られるぞ、批判するより協調・自分を主張するより和が大切、人の噂も75日、等々である。

実際のところ、国民一般のみならず、政治家、学識者・専門家、ジャーナリストすらも、自由が責任を伴う権利であることすら知らない。そしてその自由には色々な自由があるが、その権利のうち、「言論の自由」や「表現の自由」こそが人が人間として生きて行く上で最も大切な権利であることを、今もって国民一般のみならず、政治家・学識者・専門家・ジャーナリストにすら根付いていない。

それを象徴するのが、例えばこの国の新聞や放送という報道に携わる、いわゆるジャーナリストと呼ばれている人々の間で当たり前となっている「記者クラブ」の実態だマーティン・ファクラー「『本当のこと』を伝えない日本の新聞 双葉新書

彼らは、幹事業務を輪番制で担当する会社が許可を与えた外国人記者以外の外国人記者は排除して記者クラブに群がり、クラブ主催の定例会見の場では、情報提供者の言ったままを記事にし、それを垂れ流している。つまり、裏を取ったり、自己の能力と手段の限りを尽くして、市民の知るべきニュースをできうる限り正確を期した上で読者に伝えるなどということはしていない(K.V.ウオルフレン「システム」p.304)。否、それ以前に、市民が本当に知るべきニュースとは何かを吟味している風も見えない。むしろ、自らがニュースと情報の管理と統制をし、政府あるいは権力者を監視するどころか、むしろ彼らの至近距離に近づき、ネタ欲しさに迎合さえしている。だから、日本のジャーナリストたちは、その大多数が、誰がどのような権力を非公式に行使しているか、それを追いかけて分析して国民に伝えるということもしていない。また、国民の多様な声に耳を傾けてそれを読者や視聴者に正確に知らせるということもしないで、国民の声を社の方針に基づいて取捨選別しては自分たちで「世論」をつくり、社会の正義を重んじることもなく、むしろ社会の秩序維持を図る政府の協力をしてさえいる。

「言論の府」とよばれる国会を含む議会でも全く同様だ。

三権分立」という政治における権力分散原則に基づけば、議会は立法機関(条例制定機関)として独立していなくてはならないのに、実際には、議会の政治家自身がその原則を破り、なんと政府———中央府省庁も政府、都道府県庁も市町村役場も政府である―——という執行機関の者(総理大臣、閣僚、首長、官僚や部課長という役人)を議場に入れて文字どおり儀式の場(セレモニー・ホール)と化して平然としているのだ。その議会の進め方も、「事前通告」を慣習とした上で、議員の質問順位も質問時間も予め決っていて、質問議員以外からの突発的な意見や質問は一切許されない。そしてそれはあくまでも質問であるから、例えば「これについてはどう思うか」、「あれについてはどう思うか」の類いだ。一方、答弁する政府側は、例えば国会では、総理大臣も閣僚も、その日の朝までに担当府省庁の担当官僚が作文した想定問答集をペラペラとめくってはその場その時に合った答えの文章を探し、それをただ棒読みしているだけだ。

それに対する再度の質問の機会は予定に入ってはいないし、認められない。

つまり質問する方も一回質問するだけ、答える方も一回答えるだけ。議論にもならない。

これは、地方議会でも全く同じだ。

ところがそうした議会の実態に対して、この国の政治学者も政治ジャーナリストも何の異論も唱えない。「公共」放送と自称するNHKなどはその様を「論戦」などとさえ表現する。論戦や議論のなんたるかさえ知らない実態を露見させているのだが、そのこと自体に気づいてもいない。

要するに、この国の政治家という政治家は、議会とは何かを知らなければ、政府とは何かも知らない。そして両者の区別も知らないのだ。

何しろ彼らすべては、自分たちが各々、選挙の時に掲げてきた「公約」を法律(条例)なり政策として実現するという最重要義務と責任すら、反故にして平然としているのだ。

既述してきた近代の主要思想の一つである、「契約は守られねばならない、契約は拘束する、という捉え方ができているか。約束を守らないということは非常に恥ずべきことである、という捉え方ができているか。約束をした以上、どんなにしてでも責任をもってこれを守る、という捉え方ができているか。契約の持つ拘束力を神聖なものと考え、責任をもってそれを守り、他者にも守らせる、という捉え方ができているか。」等々でさえ、これを国民の誰よりも守って見せねばならない政治家が、誰よりも守ってはいないのだ、この国では。

 

人権意識が極めて低いことにおいてもそうだ。それは、国民の側も政府の側もだ。とくに行政府の役人や官僚————そこには検察官や裁判官も含まれる————の人権意識の低さは世界でも最低の方であろう。国民に対して、あるいは社会的少数者や弱者(身障者、性的マイノリティ、災害被災者、外国人労働者・技能者、移民、難民)に対して冷酷でさえある。

民主主義も、言葉では知っていても、その意味を知らない。

いや、それ以前に、政治とは何か、法とは何か、について、政治家でさえほとんどの者がその正確な意味を知らないのではないか。そもそも、公の物事は、すでに確定し公布されたルールに基づいてなされ、また執行されるべきだという考え方も知らないのだから。

それは、例えば、次の事実から知れる。

この度の新型コロナ禍において、行政から発せられた「緊急事態宣言」も、「学校一斉休校」も、本来なら、確定し公布された法律に基づいてなされなくてはならなかったのに、みな、法律に基づかない臨機の指示または要請という形での「自由の規制」だったことだ————議会の政治家という政治家もこうした法律を議会で緊急に立法することをせずに、ただ事態を傍観していただけだった————。

一方の国民の側も、公の物事は、すでに確定し公布されたルールに基づいてなされ、また執行されるべきだという考え方もないから、こうしたい規制のされ方に対して、迷いつつも、受け入れてしまう。

また、コッカ、コッカと政治家、学識者・専門家、ジャーナリストはよく口にするが、では国家とは何か、となると、それを彼らは知らない。だから首相でさえも、依然として官僚の作文を棒読みしてはそれを国会答弁として平然としているのだ。それどころかこの国の首相は、

首相とは何か、何を為すべき立場か、それすらも知らない。自らを「政府の長である」とは言うが、政府とは何か、政府の最大役割は何か、それについても首相も閣僚も知らないのだ。

 たとえば、これは新型コロナウイルス対策で露呈したことだが、政府が設けた専門家会議の役割と責任、政府の役割と責任の関係すら、安倍晋三は知らないし区別もできなかったのだ。つまり、安倍晋三は、専門家会議の座長脇田隆字氏が指摘する、「専門家会議は、現状を分析し、その評価を元に、政府に対して提言を述べる役割を担うものだ」ということ、一方「政府は、その提言の採否を決定し、その政策の実行について責任を負う立場だ」(2020年6月25日)ということすら知らないで首相を7年半もやってきていたのだ。

 

以上のことからだけでもわかるように、フランス「市民」大革命が起こって早く230年余になるというのに、この国はいまだもって「市民」の国、「市民」の社会にもなり得てはいないのである。政府も民主政府にはなり得ていない。もっぱら官僚に任せた官僚主導政府だ。それはとくに、公共事業における計画とその決定の過程に端的に見られる。

その官僚たちはと言えば、国民・関係住民の意見や要求を真摯に聴き入れ、それに基いて事業をするかしないかを決定するということもなければ、それに基いて計画を練るということも、過去、一度としてきた試しはない。そしてそれを政治家、特にこの場合、その官僚らを監督し、コントロールしなくてはならない担当大臣(閣僚)は、事実上傍観し、また彼らに追随してくるだけだったのだ。

つまりこの国は、既述の意味での「法治主義」の国でもなければ、「法の支配」の下に行政が行われてきているのでもない。開発行為という国家権力の行使も、それが一定の手続きに従ってなされる訳ではなく、最初から事業の実施ありきで、手続き無視、あるいは見せかけの手続きだけで行われて来ただけなのだ。つまりこの国では、法律は、官僚の国民に対する恣意的統治の手段でしかない。彼らは憲法でさえ日常的に無視している。つまり「公務員は全体の奉仕者」と明記する条項(第15条第2項)をだ。

正義と秩序の区別も、法と道徳の区別も明確ではなく、秩序が語られることはあっても正義が重視されることはない。また、法的正義と道徳正義についても同一の「正義」という言葉で呼ばれ、混同して使われて来ただけだ。自民党の政治家が憲法に道徳を持ち込もうとして来たのはその典型例だ。

この国の政府には、また大方の国民にも、主権の理解もなければ意識もない。とくにアメリカに対しては、むしろ自発的に隷従さえしている。

たとえば次の2表を見ていただきたい。

 

表 − 日本とドイツとイタリアの地位協定の主たる内容比較

 

日本

ドイツ

イタリア

国内法の適用

原則不適用

適用を明記

国内法遵守義務を明記

基地の管理権

米軍に排他的管理権。

日本側に基地内立入り権の明記なし

連邦、州、地方自治体に立入り権。緊急時は事前通告なしで

米軍基地もイタリア司令部の管理下。基地立入り権を明記

訓練・演習への関与

既成権限なし。詳細情報も通報されず

ドイツ側の許可、承認、同意等が必要

イタリア軍司令官への事前通知、調整、承認が必要

警察権

基地内のすべて、基地外の米軍財産に日本は捜索、差押え、検証の権利を行使せず

警察による基地内での任務遂行権限明記

基地へのイタリア司令官の立入り権を明記

                                                    (赤旗日曜版2018年9月23日号)




表 − 米軍駐留国における経費負担状況

 

日本

ドイツ

イタリア

米軍施設整備費

分担

米側負担

米側負担

従業員労務

分担

米側負担

米側負担

光熱水費

分担

米側負担

米側負担

負担割合

約75%

約30%

約40%

(2019.6.27 TBSテレビ)

 

以上の実態から明らかなように、日本は、近代西欧が獲得して来た基本的価値や社会を成り立たせている主要な概念が、いまだまったくと言っていいほどに身に付いてはいないのだ。

つまり、その様相は明らかに近代以前の様相だということである。 

 

では第2の条件であるところの、この国が世界から「先進国」とされてきている唯一の根拠である経済制度については、世界の本物の近代諸国のようになっているだろうか。

言い換えれば、この国は近代という時代を経済制度の面で特徴づけられる「資本主義経済」の国に本当になれたのだろうか。「自由主義市場経済」の国になれているのだろうか。

なお、このこと以下は、次回に譲りたいと思います。

1.3 世界における「近代」は既にとうに終わっている

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今回公開する節も、本章の表題「世界はなぜ混迷の度合いを深めてゆくのか」に関する著者の見解の一つです。

今回も、一回で全部を公開します。

 

1.3 世界における「近代」は既にとうに終わっている

これまで、私は、1.1節では、ますます混迷を深めている世界について、世界がそうなる上で最も大きな影響をもたらしているのはアメリカであるとして、その考えられる政治的・経済的・軍事的・環境政策的理由について私なりに述べて来た。また、続く1.2節では、主にアメリカによってもたらされていて、世界に現れているその混迷と深まりというのは、実は表面に現れた現象に過ぎず、その背景には、それらを現象として表面化させている本質的な原因があるはずだとして、それをも、私なりに明らかにして来た。

結局のところ、その混迷をもたらしている本質的と考えられる原因とは、近代という時代の黎明期に確立された思想、あるいはそれが持っていた欠陥であったのではないか、としてきた。

つまり、今、特に先進国を中心にして世界中がさまざまな問題を矛盾として現象させて来ているが、それは、より深いところに目を向ければ、近代の黎明期に確立されて来た、総じて思想と言うべきものが、それらが内包していた欠陥ゆえにもはや通用し得なくなっているということなのではないか。そしてその結果、それらの思想が時代の転換と前進にブレーキをかけ、人類のさらなる進歩にとっての足かせとなっているのではないか。

今日、世界の圧倒的多数の人々は、日々の現状の中で、自分は二進も三進もゆかない状況にはまり込んでしまっていて、希望も展望も見出せなくなっている、活路もなかなか見出せなくなっていると感じているように私には見えるのだが、そうなってしまっているのもそのためなのではないか。であるとすれば、そんな状況は、全人類にとってこの上なく不幸なことだ、と私は思うのである。

 

ところで、歴史家が命名するそれぞれの時代というのはどうして移り変わって行くのであろうか。なぜ歴史は一定不変の時代を保てないのだろうか。

それについては私はこう考えるのである。

それは、各時代の黎明期につくられた、その時代を特徴づけるものの考え方や世界観・価値観に基づいて定められたさまざまな社会的諸制度が、いつしか産業のあり方と人々の暮らしのあり方に適合し得なくなり、行き詰まってしまうからである。

神ならぬ人間の思想に基づいて創られた仕組みや社会制度には、たとえ当初、どんなに考え抜かれてつくられたと見える仕組みや制度あるいは物であっても完全無欠なものなど何一つなく、その中には必ず欠陥がある。ところが最初のうちはその欠陥も見えず、それだけに誰も気付かずに、それらが社会に適用されてその社会は動き始め、運用されて発展して行く。だから初めのうちは順調に進展しているように人々の目には見えるのである。

ところが、そのうちに、その仕組みや諸制度のあり方は固定されたままであるため、それらが持っていた矛盾や問題点の幾つかは、いつしか発展しつつある産業のあり方や人々のものの考え方と適合し得なくなり、それが不具合・不都合として次第に人々に感じられ始め、また目にも見えてくるようになる。そのため、その適合し得なくなったり行き詰まったりした仕組みや制度については、為政者は改善・改良・改修・改革を試みては人々の不満を和らげようとしたりするのであるが、その不具合の範囲が広がり不都合が至る所で生じるようになると、もう改善・改良・改修・改革では追いつかなくなる。そうなるといよいよ人々は不満や怒りをあらわにするようになる。そして社会の秩序そのものも保てなくなる。

かといって社会の制度や仕組みを成り立たせているものの考え方を根本から変えたり廃止したりすることはできない。なぜなら、その制度や仕組みをつくる元となったものの考え方や価値観、つまり思想こそが為政者のそれを反映したものであり、その時代を特徴づけるものだからだ。それを換えてしまったなら、その時代ではなくなってしまうのである。それに、そんなことをしたら、それまでそれらの仕組みや諸制度に乗っかって権力を振るい、利益を得て来た者たちの地位は危うくなってしまう。

とは言え、もはや矛盾がアッチコッチから吹き出してくると、どんなに強大な権力を持った為政者でも、ちょうど潮が満ちて来るのは誰も止められないのと同じように、その不具合の拡大、そしてそれに伴う不平や不満の拡大という大きな流れはもはやくい止めることはできなくなる。

しかしそれでも、為政者あるいは権力者そしてその権力者に隷従して支えることで利益を享受して来た取り巻きたちは、必死でその動きをくい止めようとはする。

そのとき権力者や為政者が活用する仕組みや制度というのが、今様の言い方をすれば「公安」当局とされる、情報機関・諜報機関であり、警察であり、機動隊であり軍隊という実力組織である。

しかし初めはそれで何とか押さえられていたとしても、社会は止めどなく変化し発展しているのだから、いずれはどうにもならなくなってしまう。

 

実はこの現象は、たとえば次の現象に酷似している。

人間を含むあらゆる動物あるいは生物は、その体内に、遺伝子(DNA)として、将来なにがしかの病気を含む特定の現象を発症しやすい要因を抱えて誕生してくる。というより、その生命体なりの将来への設計図あるいは可能性を秘めて誕生してくる。

そしてその設計図ないしは可能性は成長過程において環境を含む何らかのきっかけに触れたとき、触発されて実現化へと動き出し、目に見える形で表面化して来る。

その場合は、最初は、表面に現象した症状をその生命体自身が何とかしようと対処するが————それが、いわゆる免疫力あるいは抗体というものなのであろう————、しかしそれとて、所詮は限界があって根本的治癒に至るものではない。根本の設計図ないしは可能性の方は手つかずだからである。

だから、そうした表面に現れた症状にだけ対処してたとえば不具合箇所を除去したとしても、その間、内部では、その設計図に従ってその生命体のいろいろな部位で症状として現象させて行くことになる。結局、ある時点で、もはや対症療法は追いつかなくなってしまう。

こうした現象に酷似していないだろうか。

あるいは、この現象は、私たちが日常的によく経験する次の現象にも似ている。

マッチ箱の側面にマッチ棒の先端を当て、ゆっくり、しかし同じ強さで連続的にこすり続けてゆくと、あるところまでくると、突然、火がつく。これは、マッチ棒の先端が擦られることによって摩擦熱という物理的な量がマッチ棒の先端に蓄積されて行った結果、目には見えなかった摩擦熱が、マッチ棒の先端に質的変化を生じさせ、それが目に見える炎という現象を発生させたのである。

こうした生命体や自然が示す例からも判るように、人間の歴史のどの時代についてみても、その時代にあって、不具合や不都合の拡大する速度や人々の不平や不満の程度と範囲がある量的段階を超えたとき、もはやその時代は、実質的には、当初のその時代ではなくなってしまっているのだ。言い換えれば、そのとき、時代も社会も、実質的にはこれまでの時代や社会とは質的に変化してしまっているのである。そしてそのときには同時に、それまでのその社会には見られなかったまったく新しい状況あるいは動きが、あちこちで芽生え、見かけられるようにもなっているのである。

私は、これが新しい時代の到来ということであろうし、一つの時代が終わって新たな時代が誕生したということの意味なのであろう、と考えるのである。

そしてそのとき、それまでの支配者・権力者・統治者はこれまでの被支配者・被統治者に取って代わられるか、これまでの社会の中から新しく生まれて来た新しい勢力に取って代わられるかするのである。

要するに、社会や時代が、そして自然が、質的変化を呈するようになったときには、もはや誰が、どんなにしても、それを押しとどめたり、元の状態に戻そうとしたりすることは不可能となるのである。そしてその状況は、放っておいたならますます混乱や混迷をもたらし、収拾のつけられない事態になるのだ。

だからそのときには「改善」「改革」「改良」「改修」ではなく、いっそのことそのような事態を招いた社会的諸制度や仕組みを根本から変えた方が早くなる。

 

しかし、それをするには、現行のその社会的諸制度や仕組みを創り、成り立たせてきた思想そのものをも思い切って転換する必要がある。

そうでなかったなら、いずれまた矛盾を、それも今までよりももっと深刻な矛盾を生じるようになってしまうだろうからだ。

しかしその転換には、一定程度の混乱はどうしても避けられないであろう。が、旧制度に因る混乱をそれ以上長引かせないためにも、またそれ因って苦しめられる人々をそれ以上増やさないようにするためにも、その一時的混乱は覚悟するしかないのではないか。「産みの苦しみ」の瞬間と捉えるべきだろう。むしろそれを克服することによって、人々はそれまでの無意味な苦労から解放され、混乱や混迷による停滞を脱し、質的に変化した新時代を迎え、展望や希望を見出せるようになり、新たな飛躍に向けて発展を始められる、と言えるのである。

あのベートヴェンも言うではないか。「苦しみを貫いて、歓喜に至れ」と。苦しみから逃げようとしたって、逃げ切れるわけはないのだから。

それについては、たとえば日本の歴史の中の例でいえば、江戸時代のいわゆる三大改革とされる享保の改革寛政の改革天保の改革が好例と言えよう。

それらはいずれも、その当時の庶民の誰もが逆らえない、時の絶対権力者が断行したものだった。

しかし、結局は、もはや時代の元祖家康を含む将軍三代の世に戻すことはできなかった。封建時代という時代が持つ本質を変革し、あるいはそれを打破または否定し、明治という質的にまったく異なった時代を迎えざるを得なかった。そしてそうなって初めて、それまでの停滞を脱し、社会は飛躍的な発展を始め得たのである。

 

以上が、そもそも時代が変遷するとはどういうことか、ということの説明となる。

時代の変遷、それは、それまでの時代がその歴史的使命を終え、代わって別の新たな時代が始まるということなのである。

 

では、具体的には、何をもってその時代は終ったと言え、何をもって新時代は始まったと言えるのだろうか。どうなることがそれまでの時代が終わり、どうなることが新時代が始まったということになるのだろうか。

その点については、私は、これまでは、漠然と、総じて思想と言うべきものがもはや通用し得なくなってきたからであり、それらが時代のさらなる発展のためにはむしろ足かせとなってきたからであろうとしてきた。

ここではその意味をもう少し掘り下げ、具体的に考察してみる。

私は、その前段の「何をもってその時代は終ったと言えるのか」については、次のように言えると考える。

それは、世界の中で、それまでの時代を主導的な立場で影響をもたらして来た国あるいは地域において、またその国あるいは地域が影響を及ぼして来た国々や諸地域において、次の三つの要素の内のいずれか一つでも、それがもはや通用しなくなるか通用しえなくなったと感じる人が次々と現れ始めた時点である。

その三つの要素とは、第1に、自然観・世界観・社会観・人間観・価値観というものの見方・考え方、つまり時代の思想であり、2つ目は、そのものの見方・考え方に基づいて定められた経済的あるいは社会的諸制度である。3つ目は、その経済的・社会的な諸制度を支配的に駆動させて来たエネルギー資源である。

「三つの要素の内のいずれか一つでも」という言い方をしたのは、その三つの要素は、実は内的には互いにいつも密接なつながりを持ち、相互に作用を及ぼし合っていて、一つが変化したときには、そのことに人々が気付こうが気付くまいがそれとは無関係に、他の二つも、連動して、実質的に変化してしまっていると考えられるからである。

ではこの三つの要素の中になぜ自然観・世界観・社会観・人間観・価値観というものの見方・考え方が、しかも三つの要素のうちの真っ先に入ってくると私は考えるのか。

それは、それらが前節および本節の冒頭でも述べた「思想」という言い方で括れるもので、私たち人間の個々人を究極においてコントロールし、結果、世界をも支配するものだからだ。

人間は、文明国あるいは先進国と呼ばれている国の人間であれ、途上国あるいは後進国と呼ばれる国の人間であれ、どこの国のどの個人も、日々の暮らしをするとき、そしてその暮らしの中でどんな行動をするときにも、無意識に、ある「ものの見方・考え方」を規準にし、それを拠り所にして判断し行動しているものである。ところが、おもしろいことに、誰も、自分はいつもそのように無意識にある「ものの見方・考え方」を規準にしてモノを判断し、選択して行動しているということには気付いてはいない。あるいは自分は今こういう「ものの見方・考え方」を規準にしてモノを判断し行動しようとしている、などとは意識していない。気付いてはいないし意識もしていないけれど、でも確かに、その都度、その、ある「ものの見方・考え方」をしてはそれに基づいて行動してしまっているのである。行動だけではない。生き方においてもそうである。

それは言ってみれば、その「ものの見方・考え方」に縛られ支配された状態なのだ。そのときには、普通、それ以外の「ものの見方・考え方」もあり得るなどとはまったく考えていないし、考えられもしない。

このように、あるとき、あることを通じて、その時代の主流となって確立された「ものの見方・考え方」というのは、確立されたそのとき以来、その時代の大多数の人々の脳裏には、何ら疑う余地のない永遠の真理であるかのように感じられ、その時代の人々の行動様式や生き方に無意識ながら決定的な影響をもたらしてしまうのである。

その場合、そこで言う「ものの見方・考え方」の「もの」が自然であればそれを自然観と呼び、世界であれば世界観と呼び、社会であれば社会観と呼び、人間であれば人間観と呼び、ものの価値であれば価値観と呼ぶ。

そうした「ものの見方・考え方」の集合が時代をますます確固たるものとして形成し、それが土台となってその時代のあらゆる諸制度を形成し、その「ものの見方・考え方」に応じた質をもった文化を形成してゆくのである。その諸制度の中には経済制度、教育制度、福祉制度、法制度、税制度等々のすべてが含まれ、普通はそれぞれがそれぞれの法律ないしは規則や規範を伴うのである。

時代の移り変わりを判定する要素の中に、しかもその第1に、私が自然観・世界観・社会観・人間観・価値観を含めるのはそうした理由による。

なお、2つ目の、そのものの見方・考え方に基づいて定められた経済的あるいは社会的諸制度と、3つ目の、その経済社会的な諸制度を支配的に駆動させて来たエネルギー資源については、それらが時代の変遷を決定づける要素であることは、現状の世界を見ても判るように、もはや多くの説明は要しないであろう。とくにアメリカにおいてはそのことは既述のとおり(1.1節)最も顕著に現れている。次いでヨーロッパのいわゆる先進国、そしてもちろん日本においても、である。

実際、科学と技術を人間の進歩と発展のための道具として「豊かさ」や「幸福」の実現を目ざしてきたはずの人間とその人間からなる諸国家は、近代以降、自然は人間が豊かさを実現するための手段としてしか見て来なかったため、人類だけではなくすべての生命の共有の財産であるはずの地球の資源の争奪をめぐって戦争を繰り返して来た。それは、産業を発展させることによって国は富み、人々も豊かになるとともに幸福にもなると信じたからである。と言うより、そうすることで権力者・支配者はその地位を安泰にできると考えたからだ。

その過程で生まれて来たものが資本主義であった。しかし資本主義はマルクスの言うその本質ゆえにバブルを生み、またそれがはじけて恐慌を生むということを繰り返した。そしてその度に貧富の差を拡大して来た。

そうした中、その解決策の一つとして、社会主義共産主義という考え方も生まれて来た。

でもその社会主義も今や形の上では消滅したことにはなっている。一方、生き残った資本主義は、表向きは「貧困の撲滅」を謳いながら、その本質である「より多くの利益」を追求するという考え方に立った人々の策謀によりグローバリゼーション(経済の世界化)やネオ・リベラリズム新自由主義)を生んだ。しかしそれらも、結局は、世界的に財政破綻金融危機を招きながら、人々の間でより極端なまでの格差を生じさせることにしかならなかった。

その結果、社会には分断と対立を生み、人間相互の間には孤立化を生み、またその中でテロリズムを生み、ポピュリズム(政治における大衆迎合主義)をも生み、世界はいっそう混迷度を深めてしまった。

つまり、自然を人間のための手段とみなし、より多くの利益を生み、産業を発展させることで人間は豊かになるとして、そのために生まれた資本主義ではあったが、それが今やそれを生んだ人間自身を完全に疎外してしまっているのである。いえ、疎外しているだけではない。個々の人間そのものを破壊し始めてすらいる。その端的な現れの一つが、“誰でもいい、ただ人を殺したかった”という動機による無差別殺人の頻発化だ。あるいは、我が身の安全を守るためには銃の所持は絶対必要だと、それしか考えられないことだ。

そしてその資本主義下における労働も、その意味を問うことのない、ひたすら消費を維持するためのお金を稼ぐためのものでしかなくなっている。その結果、自然は人間が豊かさを実現するための手段であるという見方と相まって、自分たちを生かしてくれている地球の自然を加速度的に破壊し汚染している。その自然破壊は、地球規模の温暖化を進め、気候変動に拍車をかけ、異常気象の頻発化をも生じさせ、その一方で生物多様性の消滅の危機を招いている。

その結果、近代資本主義経済システムを土台から支えて来た化石燃料ではあったが、それも、使えば使うほど温暖化をもたらし、人類の存続を危うくさせてしまうという理由から、もはやたとえ残存埋蔵量があってもそれらは使えないということになり、かつて幾度となく繰り返されてきた石油という資源を獲得せんがための侵略戦争————第1次世界大戦、第2次世界大戦がそれである————さえも、もはや無意味で無価値とならざるを得ないというまでになってきている。

また、近代の知性に支えられた科学は核兵器を生み出したが、冷戦時代に考え出されたいわゆる「核によって相手に核兵器を使うことを思いとどまらせる」という核抑止論も、「核保有国間だけの取り決めで核の拡散を抑える」という核拡散防止論も、もはやことごとく破綻している。その結果、とくに米中間での覇権争奪を巡る新たな冷戦が始まろうとしている中、意図的にであるか偶発的にであるかはともかく、核戦争勃発の危機もますます高まっているのである。

 

以上のことから、もはや近代という時代はその歴史的使命をとうに終えてしまっているのは明らかである。ということは、その近代を特徴づけ、また支配的となった思想に基づいて制度化されて来た資本主義を巡る経済のあり方も、その他の社会的諸制度も、その歴史的使命を終えたのだ。

ここからはっきりするのは、資本主義も、永遠不滅のものではなく、しょせんは人間の歴史の中で現れては消えてきた諸制度の一つに過ぎなかったということである。

では反対に何をもって新時代は幕を開け、到来したと言えるのか。

その問いに対する答えについては、もはや明らかであろう。

それは、上記の「自然観・世界観・社会観・人間観・価値観」と「経済制度」と「エネルギー源」の三つの条件について、それまで主流・支配的であったものが「量」的な面において行き詰まり、あるいはそれが適合し得ない事態がますます顕在化してくると同時に、これまでとは「質」的な面でまったく異なる新たな兆候が次々と現れ始め、またその兆候がその時代の世界と各地域の大方の間に主流となって行きつつあることが、あるいはそうなることが必要であるということが誰の目にも明確に認識されるようになって来たとき、と言っていいのではないか。

こうして、今、近代とはまったく異なる新しい時代がすでに始まっているのである。

したがって、今を生きる私たち地球人類が、私たちの愛する子々孫々のこれまでの人類の歴史に匹敵する長きにわたる存続を本当に心から願うのなら、先ずはこの認識を共有することが何よりも重要ことなのではないか、と私は考えるのである。とくに、それが可能となる時代や社会を築くことを決意する上で、あるいは、これから目ざすべき方向、目ざすべき目的地を定める上ではそれが求められる。

ただしその場合、私たちは心しておかねばならないことがある。それは、たとえどんなに「近代」に郷愁を感じることがあろうとも、“その時代よ、もう一度!”と望んでもそれは無理な望みであるということである。時間の流れは不可逆だからだ。

そのことは後述する《エントロピー発生の原理》も真理として明らかにしている(第3章)

すなわち、新しい時代は、私たち地球人類に不退転の決意を求めているのである。

以上をまとめると本節の結論は次のようになると私は考える。

人類が歩んできたこれまでの「近代」という時代は、主として「知」、「知識」、「知性」に導かれての産物であり、またそれらが支配する時代だった。そこで創られて来たあらゆる政治制度や経済制度そして社会制度は、すべてがそうだった。また近代以前にも資本主義はあったが、「近代」のそれは特に「お金」への偏愛を生んだ資本主義でもあった。

今日、人類が直面している地球温暖化も、生物多様性の危機も、そして核戦争の危機も、よくよく突き詰めれば、それらは「知」、「知識」、「知性」、そして「お金」への偏愛がもたらしたものだと言っていいように私は思う。

しかしこれからの時代はこれとは明らかに違うし、違わねばならない。「理」であり「智慧」であり「理性」の時代だ。これらが「知」・「知識」・「知性」をリードし支配して行かねばならない時代ではないか、と私は考えるのである。

ここに知性とは、ものを客観視した上での理論的な分析の力のことであり、したがって直接的には価値を判断しないままの現象理解力であり、事実を事実としてはっきりさせるという力のこと。それだけに知性の本質は、思想のない明晰さであり、要(カナメ)の取れた扇のようにバラバラだということである。だから知性は、そのままで智慧であるわけはない。そしてそれはある意味では「冷たさ」をもたらす。

このような質の知性が、いわゆる「科学」なるものの直接の担い手となってきたのである。

一方理性とは、全体的な統一と綜合の力であり、理想を立てる力、この理想へ向けて現実を整え、導いて行く力と言ってよい。智慧の力、あるいは精神の力とも言える(真下真一「学問・思想・人間」青木書店p.14)。