LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

15.4 世界の平和と安定の保障のための提言 ————(その1)

15.4 世界の平和と安定の保障のための提言 ————(その1)

 前節では、日本にとっての真の安全保障のあり方について、私なりの提案をして来た。

安全保障と言うと、普通、諸外国でも、国と国との関係における国防というような意味で取られがちであるが、私に言わせれば、安全保障とは、特にこの国ではそれだけではとても不十分であって、私の言う安全保障とは、もっと拡大した意味での安全保障である。そしてそう捉えてこそ、「本当の」安全保障となる、としてきた。

そしてその意味内容については、せめてこの程度には拡大して捉えるべきだとして、その修正内容について明らかにしてきた。

 では、ここでの表題に掲げる「世界の平和と安定のための保障」とはどのように考えたらいいのだろう。実際、今日の世界情勢を見ると、私たちは、日本国民という枠を超えて、世界市民として、ますますそのことを真剣に考えなくてはならない事態に なってきているように、私は思う(第1章)。そしてその場合、「世界の平和と安定」とは、どのような意味のものとして捉えるべきなのだろうか。そして「そのための保障」とは、いかにして可能となるのであろうか。

こうしたことについても、この国の特に国政レベルの政治家はこの国を真に平和と安定を維持し得た国として運営してゆく上で、ぜひとも、常に考えていなくてはならないのではないかと私は思うのだが、私の見るところ、ほとんど誰一人、自分の役割としてそのことを真剣に考え、物を言っている風にはとても見えない。

その証拠の一つが、例えば、国会議員の「文書通信交通滞在費」に関する与野党議員を含めての、見苦しいというか浅ましいまでの姿だ。

なぜ見苦しく、また浅ましいか。それは、2.2節と2.4節で述べてきたように、政治家として国民に対して本来果たすべき役割や使命などは、そのほとんどを、そんなことができる資格も権力もない、本来「国民のシモベ」でしかない官僚・役人に任せっぱなしであったり、依存しっぱなしであったりして、全くと言っていいほどに果たしていないのにも拘わらず、しかも、本来税金=国民のお金であるこのお金の使途の公開も領収書の提示も拒みながら、その取得には異常なほどこだわるからである。

そうでなくても、特に国会議員は、この「文書通信交通滞在費」1200万円の他に、一年間に一人当たり、金銭換算した総額にして、およそ2億円に近いお金といった、普通の国民からは信じがたいほどの議員報酬を手にしているからだ。

例えば、歳費(1556万円)、ボーナス(555万円)、公設秘書給与(2586万円)、選挙経費(4622万円)、政党交付金(4500万円)、立法事務費(780万円)、その他(およそ4000万円)、がそれだ。

 その姿は、もはや弁明の余地など一切なく、文字通りの税金泥棒でさえある、と私は思う。

と言うより、そもそもせずに、一体何のために、誰のために政治家をやっているのか、あるいは何のために政治家になろうとしたのか、という動機と目的を私は根本から疑いたくなるのである。

しかし、こうなるのも、つまるところ、この国の政治家という政治家は、国会議員も都道県議会議員も市町村議会議員も「政治とは何か」から始まって、「民主主義」も、「自由」も、「権力の根拠」も、「議会の何たるか」も、「三権分立の必要根拠」も、「法の支配」の意味も明確に知ろうとせずに、またそのための勉強もしないで、ただ先人がやってきたことを、やってきた通りにやっていればいいし、またそれをすることこそが政治だと思っているからである。彼らの本来の活躍の場である議会にて、国民と交わした公約の実現のために活躍し、また国民の「生命・自由・財産」を最優先に守り、国民に最大幸福をもたらそうとするのなら、もうそれだけで国民の信頼を得て、再選は十分可能と思われるのに、それをしないでおいて、議会の外で、いわゆる「議員活動」と称する、本来は全く不必要な売名行為により再選を果たそうとしているだけだからだ。要するに邪道と言えることばかりしているのだ————環境先進国で福祉国家として世界に知られているスエーデンの国会議員は、聞くところによると、一人、毎月およそ60万円の議員報酬で全ての政治活動をしているのだそうだ。ただし、秘書を雇うお金は別だ、とのこと————。

 そのような輩が、母国「日本にとっての真の安全保障のあり方」や「世界の平和と安定のための保障」はいかにして可能となるか、といった課題にどうして真剣に取り組もうとなどしよう。

 だからこそそのような輩には、2.2節にて述べたごとく、ひとまずは全員、政治の世界から退場してもらうしかないのである。なぜなら、例えば、中国やロシアそして北朝鮮からの脅威を言う前に、もはやこうした実質的に税金泥棒と言うしかないこの国の政治家という政治家こそが、この国の安全保障を著しく脅かす存在となっているからだ。彼らが居座っていたのでは、この日本はいつまでたっても本物の国家とはなり得ないし、本物の民主主義の国ともなり得ないし、国土と国民にとっての真の安全保障などいつまで経っても得られるはずはないからだ。


 では、私は、私の言うこれからの時代、すなわち「環境時代」における「世界の平和と安定のための保障」とはどのように考えたらいいのであろうか。また、「世界の平和と安定」とは、どのような意味のものとして捉えるべきなのであろうか。

 こうしたことを考えなくてはならなくなっているのも、今や、世界はますます無秩序化するとともに、広義の環境問題がますます深刻化して来ていると同時に、核戦争の脅威も、かつての米ソ冷戦時の「キューバ危機」以上に高まっていて、人類の存続がますます怪しくなってきているからだ。

 そんな今ではあるが、このような現実を目にした時、私は、「世界の平和と安定のための保障」を考えるには、例えばアリフィン・ベイが今から35年も前の米ソ冷戦の真っ只中の1987年に語った次の言葉が大きな指針になるのではないか、と考えるのである。

“今日のそれぞれの国家の間には少しも、人間の存在に対する共通の将来像がない。ある国において「安全保障」のために行われたことが、他の国においては「搾取」になったり、あるところでは「進歩」であるものが、別のところでは「退化」であったりする。だから、いささか飛躍することになるかもしれないが、比較的平和な世界において求めるべき本当の安全保障とは国家の境界を超えて国際社会ないし人類全体の共同体を包む安定性を求めることではないだろうか。”

(アリフィン・ベイ「アジア太平洋の時代」中央公論社p.295)。

 確かに、彼がこれを語っていた1987年というのは米ソ冷戦の時代であり、その時代というのは、それぞれの国家の間には人間の存在に対する共通の将来像があったわけではなく、例えば「ベルリンの壁」という「鉄のカーテン」を東から西に越えようとしようものなら容赦無く射殺されるなどして、世界全体は身動きの取れない窮屈な時代であり、本当の安全保障などというものはなかった。が、しかし、その時代というのは、今から振り返ってみると、皮肉なことに、いかに安定した時代であったかということを私などは実感させられるのである。

 また、その1987年というのは、当時は西側諸国では、すでに、経済活動に対しては政府の介入を批判し、公的な規制を極力無くし、市場での自由競争によって経済の効率化と発展を図ろうとする「新自由主義(ネオ・リベラリズム)」の真っ只中でもあり、そんな中、西側の至る所では「人間の存在」など眼中に置かれることなどなく、貧富の差を拡大させながら、個々の人間を断片化させ、孤立化させ、浅薄化させて来ていたのである(真下真一「学問・思想・人間」青木文庫p.52)。そしてそんな人間の断片化・孤立化・浅薄化の現象は経済のグローバル化と資本主義の暴走が激化する今、ますます顕著になってさえいるのである。

 

 ではそんな中、「世界の平和と安定のための保障」はいかにして可能か。

それは、だからアリフィン・ベイによれば、先ずは「人間の存在に対する共通の将来像」を明確にすることだ、となる。その上で、世界が比較的平和なときに、「国家の境界を超えて国際社会ないし人類全体の共同体を包む安定性」はいかにして可能かを考えることによってである、ということになるのではないか。

 私は先に、私の考える「これからの時代に求められる人間像と国際人像」を示してきた(6.1節)。また、共同体としての社会が「安定」しているとはどういうことか、ということについても、私なりに述べてきた(7.3節)。

 そこでの要点を改めて記すと次のようになる。

なおそこで言う「これからの時代」とは、私が定義してきた「環境時代」のことであることは言うまでもない(4.1節)。

 これからの環境時代において求められている「新しい人間像」とは、自国の正しい歴史や文化を明確に踏まえてアイデンティティと誇りを堅持しながらも、しかし偏狭なナショナリズムや一国主義に陥ることなく、また、人間個々人だれもが尊厳ある存在であることをも忘れずに、嘘や偽善を排除して絶えず真実を求め、国籍に囚われずに、これまでの他生物の存在を視野に入れて来なかった民主主義の次元をも超えて多様な他生物との共生を視野に置いた生命主義(4.1節)をも絶えず求め、それらを実践して行ける人間のこと。

 また、同じく環境時代に求められている「新しい国際人像」とは、根底には上記した考え方を秘めながらも、民主主義に拠らずに、力を持って現状を変えようとする勢力には「正義は必ず勝つ」の信念の下、国境を超えて人々と連帯し、国際平和のために惜しみなく活動を続けようとする人のことである、と。

もちろん、「新しい人間像」も「新しい国際人像」も共に「新しい市民」になることでもあるという点では共通している(4.1節)。

 そして私は、この、共に「新しい市民」としての「新しい人間像」や「新しい国際人像」こそを、アリフィン・ベイの言う「人間の存在に対する共通の将来像」の一部としていいのではないか、と思うのである。

 では、アリフィン・ベイの言う「人間の存在に対する共通の将来像」そのものはどう説明されるのか。

その場合、次の三種の概念を共通認識とした「新しい市民」としての「新しい人間像」あるいは「新しい国際人像」のこと、と言っていいのではないかと私は思うのである。

その三種の共通認識とは、次に示す、私の考えるところとしての、人類にとっての共通の価値であり、大義であり、そして正義についての認識である。

【人類共通の至上の価値】

 それは、私たちすべての人間がその表面上に生き、暮らしている星、地球である。

それは奇跡の星とも呼ばれている天体だ。なぜなら、太陽系の中にあって、今よりももう少しでも太陽に近くても、また反対に、もう少しでも太陽から離れていても、液体としての水、固体としての氷、気体としての水蒸気は存在し得ず、したがって植物は育つことはなく、となると酸素もなく、また植物の蒸散作用により、大気温度も、全体として、生物が生息できる適温に保たれることもなく、その結果、ヒトは生きて、住むことはおろか、誕生することさえなかったかもしれないからだ。
 つまり、この地球という星は、ヒトを含めて、あらゆる生物が棲息できる条件を備えた奇跡の星だからだ。

そしてこの星は、宇宙がどれほど広大無辺であろうとも、また宇宙がたとえ幾つあろうとも、多分ヒトが社会的存在である人間として生きて、暮らして行ける唯一の天体と言っていいのではないか。

確かに、近年、アメリカも中国もロシアもそして日本も、宇宙ステーション等を通じて宇宙開発を進めているが、私はそれは一体何のためなのか、そして誰のためなのか、といつも疑問に思っているのである。ひょっとしたら、今様の「ノアの方舟」を夢想しているのか、と。

だとしたら、それは明らかに徒労に終わるとしか言いようがない。

 なぜなら、人は、空気があって水があり、土の上でなくては健全には生きてはいけないようにDNAはできているからだ。実際、人間が裸でくつろげる星など、この広い宇宙の、一体どこにあるというのであろう。仮に科学の力で、そのような星があると知ったところで、人の一生である80年でたどり着けたり、往復できるような距離ではないはずだ。

 米ソ冷戦の最中、J.F.ケネディはスピーチを通じて全世界に訴えた。

“互いが互いの違いを認め合い、同じ空気を吸いながら、新たな命を生み、育て、親は子の幸せを願い、誰もが、いつか死に行くのだ。その場が地球だ”と。

 私たち人類は、その一人ひとりが、今こそ、これを真理として深く心に刻み込まなくてはならない。なぜなら、どんなにしてもこの真理を超えることなどできっこないのだからだ。それなのに、それがあたかも実現できるかのように吹聴するのは、巨大な嘘を言って人類を欺いていることだ。

 なお、ここで重要なことは、地球をこのように至高の【人類共通の価値】とすると人類全体で認め合うということは、同時に、その地球の所々に分布している資源も、人類共通の価値として認め合うことでもある、ということでもある。

なぜなら、そこに人類の一部が移り住み、定住して、そこでの気候風土の下に一つの文化を共有してある民族となったということと、その地下に資源が埋まっていたということは単なる偶然の一致であって、その民族の努力の結果でもなんでもないからだ。

つまり、地下資源を我が物として独占するのは、条理に反することなのだ。

【人類共通の至上の大義

 ここで言う「大義」とは、人が人間として踏み行うべき重大な道義、あるいは正しい道の中でも特に大切なもの、との意味である。したがって、先の【人類共通の至上の価値】を受けて、【人類共通の至上の大義】は次のように言えるのではないか、と私は考える。

 それは、ヒトが人として生まれ、社会という共同体の中で人間となった以上、この地球上では、とにかく誰もが無条件に生きられること。生きることに許可を求めなくてはならないようであってはならないこと。また何人たりとも、他者のその生存を脅かしてはならないこと。そのためには、人は互いに互いの違いを認め合うこと。互いに殺し合うようなことはしないこと。一方が他方を奴隷のような状態に貶めるようなことがないこと。

そしてそのことを通じて、国と国との間でも、地域と地域との間でも、民族と民族との間でも、人種と人種との間でも、平和を保つこと。

 その根拠は次のように説明できる。

今日でこそ、人種の違いとか民族の違いなどということが問題とされることがあるが、全ての人種、全ての民族は、遠く人類発祥の原点にまでさかのぼって行ったことを考えてみれば直ちに判るように、結局のところ、全人類は、一人残らず、互いに兄弟姉妹なのだ、ということに気づかされるからだ。

 人類が誕生したのは今からおよそ500万年前とされている。生まれた場所は東アフリカ。

これが、今日、広く世界に分布して生きている全人類の起源なのだ。そして彼らが、今、世界に生きている全ての人類の共通の祖先なのだ。

 その彼らの子々孫々は、東アフリカから遥か遠い旅に出たのである。それは「グレートジャーニー(偉大な旅路)」と呼ばれている。

東アフリカから陸伝いにアジアからアラスカ経由で北アメリカを経由して南アメリカの南端にたどり着くまでの5万キロの旅である。

 その旅路の過程で、彼らの子孫の中のそれぞれの群れは、地球上の各地に住み着いた。

その各地は、どこも、互いに地形も違えば気候風土も違っていた。その違いの中で、それぞれの子孫は、生存のために、その地の地理的位置や地形や地質による気候風土に適合する生き方を見出して行った。そしてその生き方こそが彼らの固有の文化となり、その固有の文化の下に固有のアイデンティティを持ち、その結果、固有の民族となった。

 そもそも民族とは、文化を共有することによって生まれた、共通の帰属意識を持つ人々の集団のことをいうのである。
 また、その「グレートジャーニー」の過程で、彼らの子々孫々は、それぞれが違った生物学的な進化の仕方をして行った。その結果生まれたのが人種である。

 こうしたことを考えれば、今、◯◯民族とか△△民族と言ったり、あるいは◇◇人種とか◎◎人種と言ったりしては互いに区別し合っているが、そして場合によっては、互いに自分たちの人種として、あるいは民族としての優秀性を主張しあったり、他の人種や民族を蔑んだりすることがあるが、実はそれがどれほど馬鹿げたこと、あるいは愚かしいことであるかも直ちに判るのである。

 馬鹿げているし、愚かしいことである根拠はそれだけではない。どんな民族であれ、またどんな人種であれ、普通の感覚や感受性の持ち主だったなら、学歴や教養の有無とは無関係に、一人の例外もなく「人間」としての基本的な感情や思いは共通であるからだ。

 例えば、親が子を思う心の有り様、愛する者を思う情の有り様、愛する者を失った時の悲しみ、自由を抑えられた時の反発心、自分の存在が認められた時の歓び、人から親切にされた時の嬉しさ、尊敬をもって接しられた時の誇らしさ、何かを成し得た時の歓び、屈服を迫られた時や理不尽を強いられた時の屈辱感、侮辱された時の怒り、横柄にあしらわれた時の反発感、そして祖国や故郷を思う心の有り様、等々がそれだ。

 また既述のように、今の資本主義の産業の時代になってこそ、自国は地下資源に恵まれた資源大国などと自慢している国や国民もあるが、それだって既述した理由に拠り、全く同じ理屈が成り立つ。その地下資源の存在はその地に定住を決めた祖先とは全く無関係であって、その祖先が彼ら自身の努力や労働で生み出したものではなく、全くの偶然に過ぎないことだからだ。
 いずれにしても、人種の優越性とか民族の優秀性に拘ることほど愚かなことはない。そもそもその「優秀」なる概念も、その時代特有の価値観に支配されたものにすぎないのだからだ。時代が変われば、それは変わるのだ。

 もし、どうしても優秀性や偉大性を言いたいのであれば、【人類共通の至上の価値】に依拠して、その人々が、この奇跡の星地球上にて、人類全体の進歩と発展そして幸福にどれだけ貢献し得たか、という観点からこそ評価されるべきではないか、と私は考えるのである。

【人類共通の正義】

 ここで言う正義とは、その国だけの、あるいはその人種や民族だけの、独りよがりな正義ではない。人類全体に共通する正義のことである。したがってその正義とは、国際社会という最大規模の共同体を対象としたもので、そこでの構成員が互いに自由かつ平等に共存し得て、その全体の幸福を保障する秩序を形成し、それを維持すること、との意味であると解釈する。

そしてその場合の秩序とは、国際社会の構成員の自由と平等を保障する法のことである。

 つまり、人類共通の正義とは、その法を守ることであり、またその法を発展させること、あるいは人類の進化や人類が賢くなることに貢献することである。そしてそれは、その法を破る者を、愛を持って、厳しく戒めることでもある、とも言えるのではないか。

そこで言う進化とは、自分たちの国だけ、自分たちの民族や人種だけではなく、人類全体の進化を意味する。賢くなるについても同様だ。

 なぜ人類はそうなることが必要であるかといえば、そう遠くない将来には必ず直面することになるであろう人類的危機的事態を乗り越えることができるようになるためである(カレル・ヴァン・ウオルフレン「日本人だけが知らない」p.295)。

 そして実は、これら三種の共通認識がワンセットになったものこそがこれからの環境時代における世界的に共通の思考の枠組み、つまりパラダイムとなるべきではないか、と私は考えるのである。

つまり、洋の東西を問わず、また西側と東側を問わず、さらには先進国・途上国・新興国の別を問わず、民族の違いを問わず、人種の違いを問わず、地球人類あるいは世界市民全てに共通に尊重されるべき思考の枠組みとなるのではないか、と。

 では次に、「世界の平和と安定のための保障」を取り付けるためとしての、世界が比較的平和なときに、「国家の境界を超えて、国際社会ないし人類全体の共同体を包む安定性」とは、いかにして可能となるであろう。

 それを考えるにあたって、まず考えておかねばならないことは、次の真理ではないだろうか。

それは力を持って、あるいは武力を持って現状を変えようとする試みは決して安定した平和をもたらさないこと。また軍事力あるいは武力を備えることで自国の安全保障を安定的に確保しようとすることは、そもそも矛盾していること。

 なぜなら、敵国と見る相手国を上回る軍事力を自国が整備しようとすれば、それを見た敵国も、こちらの軍事力を上回る軍事力を備えようとするのは人の競争心の必然であるからだ。もしもそれを両国がし続けたなら、両者は際限のない軍拡競争にはまり込むだけで、それは「死の商人」としての兵器産業を肥え太らせるだけで、国と国民にとっては何んらの安全保障にもならないし、ましてやその安定にも繋がらないからだ。むしろ、いずれは、両国のどちらか、あるいは両者が自滅するか、破局を招くことにしかならない。

 そのことは核兵器をもって敵国に核兵器を使わせないとする核抑止論についても全く同様だ。

豊田利幸氏は、核兵器が登場して間もなくして、すでに「核戦略批判」としてその考え方が破綻していることを明確化しているのである(岩波新書)。

 何れにしても、軍事力による安全保障の実現という発想は、論理的に成り立たないし、無理だということだ。

 では、そうした真理を真摯に受け止めた時、「国家の境界を超えて、国際社会ないし人類全体の共同体を包む安定性」を可能とし得るのということを考えた時、現状の世界を見渡してみたとき、さしあたっては国連しかないのではないか、と私は考えるのである。

なぜなら、今のところ、国連に代わりうる国際組織は、私の目には見当たらないからである。

 以下は、同名の表題「世界の平和と安定の保障のための提言————(その2)」へとつづく。

15.3 これからの日本という国にとっての安全保障とはどういうことと考えるべきか

 

15.3 これからの日本という国にとっての安全保障とはどういうことと考えるべきか

 安全保障とは、辞書を引くと、「外部からの侵略に対して国家および国民の安全を保障すること」とある(広辞苑第六版)。そして「保障」とは、「侵されたり、損なわれたりしないように守ること」とある(同上)。

 果たして「安全保障」とは、それだけの意味しか持っていないのだろうか。

実際、この国の首相や大臣が「安全保障」という言葉を口にする場合は、そのほとんどが、辞書が説明する範囲を出るものではない。そればかりか、この言葉は、世界的にも、どうやら上記の意味だけを共有して用いられているようでもある。

 そのため、日本でも、この「安全保障」なる言葉が用いられるときには、どうしても対外的に自国を防衛する話や軍備の話になることが多かった。そして、結局は、政治的な話題として、日米安全保障条約(安保条約)に話が及び、日本は今後ともアメリカとの同盟をいっそう強化してゆかねばならない、といった結論に当然のごとくに落ち着いてしまうことが常だった。

そして、それに対して、各分野の専門家も、そうした結論にほとんど異議を挟まない。

 

 しかし私は、特に日本という私たちの国に限ってみるならば、「安全保障」という言葉を辞書的な意味だけにとどめておいてはならないのではないか、と考える。

その理由は少なくとも3つある。

 1つは、「国の安全保障」という表現を「国の安全を保障する」と丁寧に言い換えてみればわかるように、そして「国」とは国土であり国民であること、あるいは気候風土のことであり文化のことであること、「安全」とは広くは平穏無事であること、というように考えるならばすぐに気がつくように、「国の安全保障」とは、必ずしも辞書が言うような、あるいはこの国の政治家が言うような「外部からの侵略に対して国家および国民の安全を保障すること」という意味だけではなく、「内側から国土と国民の安全を脅かすことに対しても安全を保障する」という意味をも含めなくてはならない、ということに思い至る。

 もう1つは、この日本という国は特に、外部からの侵略に対する安全だけを考えていれば国土と国民の安全を守れると言えるような状況ではないからだ。内側からの国の安全をも同時に考えなくてはならない要因がいくつもあるからだ。

 そして3つ目は、辞書的に「国家および国民の安全を保障する」とは言っても、すでに私は本書の中で幾度か指摘し、強調もしてきたことであるが、この日本という国は、今のところ、国家ではない、少なくとも本物の国家ではないからだ。ということは、首相も本来の役割を果たせる本物の首相ではないし、閣僚も本来の役割を果たせる本物の閣僚ではなく、したがって政府自体も国民にとっては決して本来の役割を果たせる本物の政府ではないからだ。
言い換えれば、この国の政治的実態は、本来の民主主義の国ではなく、官僚が事実上の主権者であるかのように振る舞える官僚独裁の国であるからだ(2.2節と2.5節)。

 つまりこの国は、対外的にも、対内的にも、統治の体制の上での重大な欠陥を持つ国であるからだ。

 したがって、以上の根拠の三つを考えた安全保障こそが、日本という国にとっての真の安全保障ということになるという理由の下に、これからの、つまりポスト資本主義の時代=環境時代の日本の安全保障について考える。

 

 では、上記第1の理由である、「外部からの侵略に対して国家および国民の安全を保障すること」という意味だけではなく、「内側から国土と国民の安全を脅かすことに対しても安全を保障する」とは、具体的にはどういうことと解すべきか。

それは次のことであろう、と私は考える。

「外部からの侵略に対して国家および国民の安全を保障すること」とは、

・政治家が、軍事力や武力を整える前に、まずは厳格な「シビリアン・コントロール文民統制)」を実行でき、軍隊を指揮できること。

そのためには、平時から、現行日本国憲法の下で可能な、いかなる場合にも対応できる「戦略」を練り、軍隊あるいは兵の動かし方を研究していること。これを1−⑴とする。

・政治家が、一人ひとり、国民の手本となる愛国心を持ち、どんな場合にも、先導しながら、国民を束ねられ、鼓舞し得るだけの力を備えること。これを1−⑵とする。

・最新兵器とか軍事力を備えるのはその次である。ましてや実際の戦争の体験もなく、またその悲惨さも全く知らないで、尊敬するおじいちゃんの果たせなかった夢をひたすら果たそうとするだけの、政治的坊々である安倍晋三が言うような「敵基地攻撃能力」を備えようとするなど、何を狂ったことを言うのかという意味で、言語道断である。

なぜなら前述の基本的準備ができていないうちから、形を整えることだけにどんなに拘ってみても仕方がないからだ。大事なことは、国民の指導者になれる真の力を自らが養うことなのだ。

これを1−⑶とする。

 次に、「内側から国土と国民の安全を脅かすことに対しても安全を保障する」とは、

・何はともあれ、政治家が役人に依存し追従することは直ちにやめ、憲法第15条第1項により、国民から負託された権力を正当に行使して公務員を適宜、選定ないしは罷免しながら、役人の「縦割り」の組織構成を撤廃して、官僚独裁を撤廃に追い込むこと。

 なぜこれを第一に掲げるかというと、これを達成できない限り、どんなに以下の政策を政治家たちが必要と感じて掲げたとしても、その政策内容が官僚たちの既得権を侵害したり縮小あるいは消滅させてしまうような内容であったなら、過去のすべてのそうした類の政策例が証明しているように、「縦割り」の組織構成の中で、「天下り」を続けたい官僚たちは「公僕」という自分たちの立場をかなぐり捨てて、組織を挙げてその政策の実施に対する「抵抗勢力」となり、サボタージュを決め込んだり、その政策を実質的に骨抜にしたりすることを画策して来ることが十分に予想されるからである。

 つまり、そうした類のいかなる政策も実現し得ないままに終わることは明らかだからだ。

 そこで、これを実現させることを最優先させるという意味で、2−⑴の政策とする。

・台風、地震、突風(竜巻)等に対して耐性のある国土を構築すること。これを2−⑵とする。

・そうした国土の下での、食糧の自給を、いつでも達成し得ていること。これを2−⑶とする。

・同じく、その下でのエネルギーの自給を、いつでも達成し得ていること。これを2−⑷とする。

・同時並行的に、温暖化を食い止めるための、積極的で総合的な対策の手を打っていること。

これを2−⑸とする。

・同じく同時並行的に、生物多様性の消滅を阻止するための、積極的で総合的な対策の手を打っていること。これを2−⑹とする。

 さらには、

・大都市居住の対食料・対エネルギー・対地震への脆弱性を回避するため、住民の地方へ疎開を奨励する政策を採りながら、国土の均一な発展を図ること。これを2−⑺とする。

・大企業の内部留保を吐き出させてでも超巨額の政府の債務残高を減らし、財政の健全化を断行すること。これを2−⑻とする。

・必要なら文科省を廃止してでも、創造力・判断力・決断力そして生きる力と自分のしたことに責任を持てる子供たちや若者を育てる教育に大至急転換すること。これを2−⑼とする。

 

 参考までに、先進7カ国における食糧およびエネルギーの自給率(2017年時点での%)を下表に示す。

 

アメリ

イギリス

フランス

ドイツ

カナダ

イタリア

日本

食糧

130

63

127

95

264

60

38

エネルギー

 93

68

 53

37

174

22

10

 

 要するに、ズバリ言えば、日本という国の安全保障ということを言う場合、「日米安全保障条約(安保条約)」のこと、あるいは「日米間の軍事同盟の強化の必要性」を言うだけでいいのか、ということなのである。と言うよりむしろ、「安保条約」、あるいは「日米間の軍事同盟の強化」は、本当に日本の国土と国民の安全を保障することになるのだろうか。

 米ソ冷戦時においてもそうだったが、日本(政府)はただアメリカ(政府)に追随しているだけだった。だから、ことさら日本の動きを見る必要はなかった。アメリカの動きを見ていれば、日本政府はそれに追従するのだから、と見られていた。

 今また、米中の間では新たな冷戦が始まっているとされているが、その場合においても、日本(政府)の対外姿勢は全く同じだ。

つまり日本独自の対外的考え方とか原則(ドクトリン)などない。日本独自の外交姿勢もない。

もうそれだけで、日本政府が、あるいは首相が、「日本の安全保障」を口にしたところで、実質的には絵空事に過ぎないのだ。

 実際、特に沖縄と沖縄の人々に対する「安全保障」はどうなっているのか。彼らの日々の暮らしの「安全」そのものが米軍によって脅かされ、時には、沖縄の人々の人権すら「日米安全保障条約(安保条約)」に根拠を持つ米軍によって蹂躙されっぱなしではないか。それに、そもそも日本政府は、辺野古新基地移転問題でも、沖縄の人々の切実な要求や総意としての要求すら依然として無視し続けているではないか。

果たして日本政府のそうした態度には、前節で言及してきた、「自分たちの国は、自分たちの手で守る」という愛国の気概というものはあるのだろうか。「私たちの国日本は、主権を持った独立国なのだ。したがって私たち日本国民は、自分たちの国の将来は自分たちで決め、自分たちの国の命運は自分たちで選びとる」、とする自決への覚悟や誇りというものはあるのだろうか。

 それに、米中の新冷戦に日本政府として対応するにも、今や(2020年)、日本の貿易額に占める比率は対アメリカ貿易の比率よりも対中国貿易の比率の方が大きくなっているのだ。つまり、もし日本が今後も「資本主義」に基づくグローバル市場経済を主体として続けてゆこうとするなら————私は、既述してきたように、資本主義は本質的に地球の自然のメカニズムを破壊しないでは置かない経済システムであるがゆえに、好むと好まざるとにかかわらず、資本主義を使用しなくてはならないと考えるのであるが————、もはや日本は対中貿易抜きではやってゆけないまでになっているのである。

 それなのに、日本という国の安全保障ということを言う場合、日本政府は、相変わらず「安保条約」や「日米間の軍事同盟の強化の必要性」を言うだけなのだ。さらに最近では「自由で開かれたインド・太平洋」と言っては、中国をアメリカと一緒になって包囲し、封じ込めようとさえしている。国家の唯一の立法機関であり、国権の最高機関である国会も、国家としての対米ないしは対中の新しい方向を国民の意見を聞きながら議論し、それを公式の国の方針としようとする気配は一向になく、政府の対米従属姿勢をただ傍観しては、政府任せでいるだけだ。

 つまり、この日本という国は、国家の立法府も行政府も、世界の情勢の中で、風見鶏的に、ただ成り行き任せで漂流しているのである。

 要するに、この実態こそが、この国と国民の安全を保障するどころか、むしろこの国と国民に危機を招き寄せてしまうことではないのか。

言い換えれば、国会も政府もきちんと機能させ得ないこの国の政治家こそがこの国の「安全保障」を著しく損ねている、と言えるのではないか。

そしてその自覚が政治家各自に見受けられないことこそが、この国の最大の危機なのである。

「安保条約」」などと言っていられるような状況ではないのだ。「日米間の軍事同盟の強化の必要性」を唱えていられるような状況ではないのだ。我が身を省みるべきであろう。

 

 なお、これまで述べてきた「外部からの侵略に対して国家および国民の安全を保障する」ため、および「国の内側から国土と国民の安全を脅かすことに対しても安全を保障する」ためにこの国の政治家ないしは国会と中央政府がすべき事柄をどのように実施するかということについては、すでに拙著のこれまでの章に、具体的に述べてきたので、そちらを参照していただきたいのである。

 例えば、政策の2−⑴は、6.3節と13.14節にて述べてきた。

政策の2−⑵については、11.6節と、13.1節と11.2節にて述べてきた。

政策の2−⑶と2−⑷については、11.5節と13.3節にて述べてきた。

政策の2−⑸と2−⑹については、第3章を土台にした上で、11.2節、11.4節〜11.6節にて述べてきた。

政策の2−⑺については、17.5節にて述べてきた。

政策の2−⑻については、12.1節と12.5節にて述べてきた。

そして2−⑼については、10.3節と10.4節にて述べてきたのである。

15.2 この国を真の独立国とする

15.2 この国を真の独立国とする

 一国が独立しているとは、あるいはその国が独立国であるとは、その国が、対外的に、あらゆる面で主権を堅持できている場合をいう。その主権とは、「その国家自身の意思によるほか、他国の支配に服さない統治権力」のことであり、「国家を構成する三要素である領土と国民に並ぶ、最高・独立・絶対の権力」のことである(広辞苑第六版)。

その統治権力については、通常、国際社会での他国との交渉の場において、その国の国民によって選挙で選ばれた政治的代表(政治家)からなる政府が、その国の国益アイデンティティと良心に基づいて行使するという形を取る。

 なお主権には、もう一つの意味がある。それは、「国家の政治のあり方を最終的に決める権利」というものである(同上辞書)。民主主義の国の場合、その権利は国民が所持する。つまり、国民こそその国の主権者なのだ。

 しかしここでもとくに注意しておかなくてはならないことがある。この主権を定義するときに、一方では「国家自身の意思」と言い、他方では「国家の政治のあり方」と言っていることからも判るように、いずれの場合にも、「国家」と言っているのであって、「国」と言っているのではないことだ。それは、国と国家とはまったく別ものであり、国家とは法の体系によって出来上がっているもので、常に「中枢」を持っているのに対して、一方の国は、国民、国土、文化、言語等々からなり、中枢を持ち得ない。

したがって、もしその国が本物の国家でなかったなら、主権という概念も成り立ち得ないことは言うまでもない。また主権が成り立ち得ない国が独立国であろうはずもないのである。

実際、この日本という国は、見かけは国家でも本物の国家ではないことは既述してきたとおりである(同節)。

 むしろ日本では、政治家でさえも国と国家の違いをしょっちゅう曖昧にする。あるいは区別しないで用いる。ということは、やはり、この国の政治家は国と国家のそれぞれの意味もきちんと理解できてはいないということだ。そしてそのことは、議会、民主主義、政府、権力、法の支配等々の政治的概念を曖昧にしてしまっていることと通底している(2.2節)。

 いずれにしても、その国が国家と言えるためには、その国の社会を構成しているあらゆる個人または団体が、合法的に最高な、一個の、強制しうる権威を持つことによって統合されていることが不可欠となる(H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書p.6)。あるいは「政治的説明責任の中枢を持つこと」によって統合された社会であることが不可欠となるのである(カレル・ヴァン・ウオルフレン「システム」毎日新聞社)。

 ところで、この国家の定義の意味しているところは、政府組織のあり方を考える上では決定的に重要となるのである。

例えば、政府の組織構成が「縦割り」となっているということは、それだけで、その政府は国家の政府ではないし、それだけでその国は真の国家ではない、と断定できることになるからだ。なぜなら、政府の組織構成が「縦割り」となっているということは、その縦割りの意味を考えれば判るように、「その国の社会を構成しているあらゆる個人または団体」などと言う以前に、その政府自体が「合法的に最高な、一個の、強制しうる権威を持つことによって統合されて」はいないのだからだ。そしてそんな政府だから、国民にイザッという事態が生じたとき、すなわち国民の「生命・自由・財産」が脅かされる事態が生じたとき、「その国の社会を構成しているあらゆる個人または団体」はその政府に救われるはずはないのである。少なくとも速やかに救われることはない。なぜなら、政府が「その国の社会を構成しているあらゆる個人または団体」を救助できるだけの統治の体制を整えてはいないのだからだ。

 実際、過去の大災害時————例えば、阪神淡路大震災の時、オウム真理教によるサリンばらまき事件の時、東日本大震災の時、そしてその直後の、東京電力福島第一原子力発電所炉心溶融による水素大爆発の時————この国の政府は、中央政府であれ、地方政府であれ、被災国民を速やかに救ったことなど、かつて一度だってあったろうか。メディアは、その時、決まって“初動体制に遅れが生じた”などと表現したが、その表現は間違いだ。「初動体制、云々」の問題ではなく、“この国は真の国家ではなく、統治の体制が依然として整えられていないからだ”、と表現すべきだったのだ。

 

 なお、以上のことから、必然的にはっきりしてくることは、この日本という国には、本物の首相はいないし、本物の中央政府もなければ、本物の首長もいないし、本物の地方政府もないということである。

 そして、このことからさらに次の深刻な問題も浮上してくる。

それは、この日本という国は国家でない以上、国家戦力、すなわち「国家としての戦略」も持ち得るはずもないということだ。

 “わが国には国家戦略が欠けている”と言う者もいるが(猪瀬直樹「日本国の失敗の本質」中央公論2012年1月号別冊P.4)、その表現も正しくない。日本は国家ではない以上、そもそも国家戦略など描きようもなければ持ちようもないからである。
 実際、日清戦争日露戦争、またアジア・太平洋戦争でも、「国家戦略」を携えて戦争をしたことなど、一度としてあったろうか。
それは、例えば、この国では、それらのどの戦時でも、軍隊一つとってみても、常に、陸軍と海軍は互いに犬猿の仲であり、バラバラに行動してきたのだ。そして政治家と軍人・軍部との関係においても、一人の首相の指示と統率の下に、陸軍と海軍が互いに連携して敵に当たってきた試しはなかったのだ。また、その意味で、「シビリアン・コントロール文民統制)」の下で戦争が行われてきたことなど、一度としてなかった。

 とにかく、この国は国家ではないし、だから主権など持ち得るはずもないし、したがって真の独立国であるはずもないのである。

そのことは、特にアメリカとの関係において典型的に現れている。

 それを象徴的に示すのが、いわゆる日米安全保障条約であり、日米地位協定だ。

日米地位協定とは、主として日米安全保障条約に定められた米軍の日本駐留に関して、施設の使用、経費の分担、裁判管轄権などの細目を協定として結んだもの。

 この国がどれほどアメリカに主権を譲り渡し、むしろアメリカの植民地と化しているかは、アメリカが同様の協定を結んでいるドイツ、イタリア、イギリス、ベルギーの場合と比較して見れば明らかだ。

 下表を見ていただきたい。

これは、2018年11月7日 NHKによる。イギリスとベルギーについては2019年6月9日号赤旗日曜版による。

地位協定比較(条文比較調査)

 

①国内法の適用

②米軍基地の管理権

③訓練・演習への関与

④警察権

日本

原則不適用。

(一般国際法上、駐留軍には特別の取り決めがない限り、受け入れ国の国内法は適用されないとの立場)

米軍に排他的管理権が認められ、日本側による基地内への立ち入り権は明記されていない

訓練や演習に関する規制権限はなく、詳細な情報も通報されず、政府としても求めることもしないという姿勢

施設・区域内のすべての者もしくは財産、施設・区域外の米軍の財産について、日本側による捜索、差押え、検証を行う権利を行使しない(合意議事録)

ドイツ

原則適用。

派遣国軍隊の施設区域の使用や訓練・演習に対するドイツ国内法の適用を明記

連邦、州、地方自治体の立ち入り権が明記され、緊急の場合の事前通告なしの立ち入りも明記

米軍の訓練・演習には、ドイツ側の許可、承認、同意等が必要

ドイツ警察による提供施設・区域内での任務遂行権限を明記

イタリア

原則適用。

米軍の訓練行動等に対するイタリア法規の遵守義務を明記

米軍基地もイタリア司令部の下に置かれ、イタリア司令官による全ての区域および施設への立ち入り権を明記

米軍の訓練は、イタリア軍司令官への事前通知、調整、承認が必要

イタリア司令官による全ての区域および施設への立ち入り権を明記

イギリス

原則適用。

英国に基地専用権。

英司令官が常駐。

英側による飛行禁止措置などを明記。

航空機事故には、英国警察が現場を規制、捜索。

ベルギー

原則適用。

地方自治体の立入り権を確保。

自国軍よりも厳しく規制。

未確認。

 

 

 こうした関係をアメリカとの間で結んだのは、戦後日本の初代の総理大臣吉田茂である。もう少し正確に言うと、吉田茂と岡崎勝男だ(孫崎享「戦後史の正体」創元社P.50)。それも国民の誰にも知られぬように秘密裏に、である。

 つまり、吉田茂売国奴なのだ。

実際、吉田のとったその行動によって、その後の日本は、特に沖縄の人々は、米軍に幾度となく屈辱と悲哀を味わされることになった。

 吉田茂に対して、過大評価する者がいるが、実際には彼は、人間としての自尊心や矜持を持てず、倫理観にも欠け、品位と理性が求められ、また神聖な場でもある国会での「曲学阿世の徒!」発言や「バカヤロウ!」発言でも判るように、自国民の前では尊大な態度をとりながらも、自分より強大な権力を持った者(マッカーサー)の前では卑屈そのものの、権利感覚の乏しい政治家でしかなかったのだ。

 吉田のそうした姿と対極的な生き方を示したのが重光葵だった。その重光こそ、戦後、今日に至るまで、日本が本当の意味で誇るべき外交官であり政治家の一人なのだ。

 

 ところで、「国家を構成する三要素である領土と国民に並ぶ、最高・独立・絶対の権力」でもある主権を、一国の首相たる者が、このように他者あるいは他国に隠れてでも譲り渡してしまえるということは、その人間についてみるとき、その人間性の何を意味しているのであろうか。

 イエーリングに拠れば、その答えは、次のように説明される(「権利のための闘争」村上淳一岩波文庫p.49〜90)。

 少々長くなるが、できるだけ忠実にイエーリングの論理を追ってみようと思う。

カッコ内の数字は、彼の著書のページである。

 先ず彼は、人間の「苦痛」とは何かについて説明する。それは、脅かされた生命が発する救いを求める叫びなのだ、と(P.73)。自己の生存を主張することは、あらゆる生きものの自己保存本能なのだから、と。

 生きとし生けるものはその生命を脅かされたときには苦痛の叫びを発するが、それはとくに人間にとってみれば、その苦痛の叫びは、肉体的な生存を維持するためばかりではなく、倫理的な生存を維持する上での叫びでもある、と。

その叫びの一つが「権利を主張すること」なのだ、と。

 つまり人間は、自己の倫理的生存条件を権利という形で保持し守ろうとするのであって、権利を持たない人間は獣になりさがってしまう———ドイツの哲学者カントはこのことを次のようにも表現してみせる。“みずから虫けらになる者は、後で踏みつけられても文句は言えない”———。

 その意味で、権利を主張することは人間にとっては倫理的に自己を保存するための義務であり、反対に、権利主張を全体として放棄することは倫理的自殺となるのである、と(p.50)。

 こうしたことを前提としてイエーリングは権利感覚とその健全性ということについて次のように強調する。

————自己に加えられた侵害行為に対して実際にどれだけ強く反応するかは、権利感覚の健全さを測る試金石なのだ。けだし、権利感覚の本質は行為に存するのだからだ。なぜなら、行為に訴えられないところでは権利感覚は萎縮し、次第に鈍感になり、ついには苦痛をほとんど苦痛とは感じないようになってしまう。

そこで、敏感さ、すなわち権利侵害の苦痛を感じ取る能力と、実行力、すなわち攻撃を斥ける勇気と決意こそが、健全な権利感覚の存在を示す二つの指標だと思われる。

 その二つのうちの第一の敏感さは、愛の場合とまったく同様に、感覚に基づいている。理解力も洞察力も、感覚の代役を務めることは出来ない。しかし、愛が往々にして自覚されないままであり、それがはっきりと意識されるのは一瞬をもって足りるのと同様に、権利感覚も、傷つけられていない状態においては自己の存在と内容を自覚することがない。権利侵害という責め苦によって問い質されて初めて権利感覚の存在と内容が自覚され、真実が顕われるとともに力が示されるのである。

 一方、権利感覚の第二の要素である実行力は、まったく品格の問題である。

ある特定の人間または特定の国民が権利を侵害されたときに見せる態度は、その品格を測る最も確かな試金石なのである。品格というものが、完全無欠な、自己主張を伴う人格を意味するとすれば、他者の恣意が己の権利を侵すことによって己の人格をも犯す場合こそ、品格の有無を判定する絶好の機会である。その場合、激情による荒々しく烈しい行為という形を取るか、抑えの利いた、しかし持続的な抵抗という形を取るかは、教養と気質の違いによるものに過ぎず、両者の間では権利感覚の度合いと優劣の間に差はない。

またそうでなければ困るのである。個人も国民も高い教養を身につけるほどに権利感覚を失って行く、というのでは具合が悪かろう。

 以上のことから、イエーリングは、第一の命題が得られる、とする。

それは、権利のために闘争することは、権利者の自分自身に対する義務なのだ、というものである。

 イエーリングは、実はこの命題の他に、これとは切り離せないもう一つの命題を導き出せるとして、さらに論を進める。

法の具体的内容については、公法と私法があり、前者においては、法律は国家の官庁・官吏が自己の義務を履行することにより実行されるが、後者については、法律は私人が自己の権利を主張することにより実行される(p.81)。そして、公法上の法規がいかに実行されるかという問題は、官吏がどれだけ義務に忠実であるかに係っており、私法上の法規がいかに実行されるかという問題は、権利者をして自己の権利を主張せしめる動機の強さ、すなわち彼の利害と権利感覚の程度に係っている。

 したがってもし、官吏が義務に不忠実であったり、権利者が権利感覚が鈍く、また利害関係も不精や係争嫌いや訴訟に対する物怖じを忘れさせるほどに強くなかったりした場合には、その結果、当該の法規が適用されないということにならざるを得ない。

 その場合である。“なぜそれではいけないのか、権利者自身を別にすれば、困る者は誰もいないではないか”、と反論する者もいるだろう。

 しかし、喩えとして、その場合、外敵との闘争の場における臆病な敵前逃亡者・戦線離脱者の例を考え、その者がとった共同の任務に対する裏切り行動が戦線に残った全体に及ぼす影響を考えてみれば判るであろう。士気、戦意というものに多大な影響を与えることになり、結果として、敵と戦うその集団は敗北するかもしれない。

 つまりこの喩えからもはっきりするように、社会という共同体、国家という共同体において、恣意・無法という空気が、あるいは兆しが生じてきたときには、誰もがそれを打ち砕く使命と義務を有するのである。共同体の中にあって、権利という恵みを受けている者は誰でも、法律の力と威信を維持するためにそれぞれに貢献しなくてはならない。

要するに誰もが、社会の利益のために権利を主張すべき、生まれながらの戦士なのだ。

 自己の権利を主張する者は、その狭い範囲において法一般を防衛するのである。それゆえ、彼のその行動の利害と結果は、彼個人に限定されずに、はるかに大きな範囲に及ぶ。

 この行動に結びつく公共の利益は、法律の権威と尊厳が主張されるという理念的レベルにとどまるものではない。それは理念的なものをまったく理解しない者でも誰もが理解できるきわめて現実的・実際的な利益なのである。すなわち自己の権利を臆することなく主張する者がいるということだけでも、ましてやその行動の結果自己の権利を守ることが出来るということは、誰もがそれなりに関心を持つ現実の社会生活上での秩序が保障され維持されている、ということを社会に理解させるのである。

 倫理的社会秩序の偉大かつ崇高な所以は、それを理解している者の奉仕をあてに出来るにとどまらず、その共同体への協力という任務を理解していない者をも無意識のうちに協力させて行くための効果的な手段をも充分に有している。

 その反対に、たとえば、日本のように、総理大臣が憲法を守らず、むしろそれを破壊したとき、また総理大臣以下閣僚が自らの使命を果たさず官僚の言いなりになっていたり、また官庁の官僚が「全体の奉仕者」としての公務員の義務を忠実に果たさないだけではなく、法律にも基づかない権力を恣意的に行使しては所属府省庁の権益拡大にのみ走っていても、誰も罰せられず罷免もされなかったなら、そのときは、法律や憲法の理念的権威が脅かされるにとどまらず、またそのことによって一国の法秩序が壊されてしまうにとどまらず、国民の法律と政治そのものに対する信頼を失ってしまう。そしてそのような状態が権利者である国民の一人ひとりによって放置されたなら、社会という共同体、国家という共同体は崩壊してゆくことになる。

 こうして、イエーリングは第二の命題に達するのだ、と言う。

それは、権利を主張することは、国家共同体に対する義務でもある、というものである。

 以上二つの命題を通して、イエーリングはつぎのように結論づけるのである。

権利者は自分の権利を守ることによって同時に法律を守り、法律を守ることによって同時に国家共同体の不可欠な秩序を守っているのである、と。

 以上のイエーリングの論理と主張から、権利者が権利のために闘うということが、自身のみならず社会や国家に対する義務であると同時に、ひいては法律の生成や発展に貢献するのである、ということが理解できるのである。

 

 では、こうしたイエーリングの論理と主張を受けて、本節の主題であるところの、この国を真の独立国とするにはどうすればいいのであろう。上記のイエーリングの論理と主張は、私たちに何を教えてくれ、またそこから何を汲み取ることを求めているのであろうか。

それは、少なくとも軍事力を持つとか、他国との軍事同盟を結ぶとかいうことではないことはもはや明らかであろう。軍事力や軍事同盟は、独立国を独立国として維持するための一手段に過ぎないからだ。

 そうではなく、やはり、私たち日本国民の意識あるいは決意の問題のはずである。そして愛国心の問題であるはずだ。

 具体的には、私たち日本国民は、次のことを私たち一人ひとりの義務であり、また権利でもあるとして認識し決意することではないか。

それは、「自分たちの国は、自分たちの手で守る」、とすること。

次に、「私たち日本国民の一人ひとりは主権者なのだ。したがって私たちには、他国の誰からも指図されたり支配されたりすることは拒絶できるし、また拒絶しなくてはならない。むしろ、自分たちの国の将来は自分たちで決め、自分たちの国の命運は自分たちで選びとる権利がある」、と認識し、決意すること。

 その上で、イエーリングの導き出した二種類の命題を国民各自が自らに課して生きることである、と。

すなわち、第一の命題としての、「権利のために闘争することは、権利者の自分自身に対する義務なのである。」と、第二の命題としての、「権利を主張することは、国家共同体に対する義務でもある。」、をである。

 これらの命題が私たち国民に要求することは、何はともあれ、まずは、私たち日本国民一人ひとりが日米安全保障条約を破棄するだけの気概と覚悟を持って、日本の側から解消すると通告し、破棄することであろうと私は考える。

 それは、自己への「甘え」を排除し、自らが自らを助けようとしないところでは、そして自らが独立を果たそうとしないところでは、誰も助けようなどとはしないものだからだ。

第15章 「日本」国の真の独立と国際貢献

 

第15章 「日本」国の真の独立と国際貢献

 本書の全体構成の中の基礎編である《第1部》で述べて来たことは、すべて、私の二つの大きな危機認識 ———— 一つは、私たちの国日本は総体として、世界の中でも最も脆弱な国となってしまっているのではないか、したがってこのままでは、この国は、近未来の来たるべき全般的危機を乗り越えられないのではないかというもの、もう一つは、人類の存続そのものもきわめて危ぶまれる状況になって来ており、やはりこれまでのままの人類の生き方であったなら、同じく来たるべき全般的危機を乗り越えられないのではないか、というもの———と、それを私は危機と感じる根拠をそれぞれ示しながら、その両者の危機に対する私なりの基本的な対処姿勢である。そしてそれらは、本書の「はじめに」も記してきたように、基本的には、ほとんどすべて農業生活を営む中で思索し考えたものである。

 前者の危機に対しては、私は、もし私たち国民が今後も生き続けたいと望むのならば、私たち日本国民のこれまでのものの考え方と生き方をここで思い切って転換しなくてはならないとして、その転換すべき方向を、私なりに考えるところを私案として示して来た(第6章)。

 後者の危機に対しては、私たち人類全体も、もしその末永き存続を願うならば、せめて次の三種の原理を受け入れ、それを人類の指導原理とすべきなのではないかとして来た。

その三種の原理とは、《生命の原理》と《新・人類普遍の原理》そして《エントロピー発生の原理》とから成る。

 とくにその三種の原理のうちの前二者は、近代西欧が見出した価値原理と元々東洋にあった思想とを融合合体させたものである。具体的には、中世末期に西洋においてその価値が見出され、近代の黎明期に確立されてきた、市民個人の自由・平等・友愛を普遍的価値とする《市民の原理》と、同じく市民個人の生命・自由・財産はつねに守られるべきとする《人類普遍の原理》の両者を、元々の東洋の思想の中にはあったところの、自然は生命の多様性と共生と循環とから成り立つとする原理に基づくものとを融合合体させて生命一般にまで普遍化したものだ。

 三番目の《エントロピー発生の原理》については、純粋に西洋の発見したものである。

 また、この三種の指導原理の他に、やはり人類の存続を願うなら、大方の人間の住処である都市と集落のあり方についても、これからの時代には、それなりの条件を見てしていることが必要となるであろうと私は考え、その都市と集落が満たすべき条件として、《都市と集落の三原則》をも提言してきた。そしてそれら三原理と三原則はすべて、「人間にとっての基本的諸価値の階層性」なる概念の中に統一されるものであることをも示して来た。

 なお、「人間にとっての基本的諸価値の階層性」とは、すべての物事の人間にとっての価値の重みは決して同一あるいは一つの平板の上にあるのではなく、必ずそこには軽重の違いがあり、階層性を成しているという考え方を前提とするもので、それぞれの価値は、それより下位に位置する価値が実現されていなければ実現され得ないし、仮に実現されたとしても、それは一時的であって持続はできないものであるということを明確化したものである(4.3節)。

 

 ここまでの基礎的論理構成が出来れば、その後は、これらの原理と原則に依拠して、それらを実現する社会的諸制度のあり方を考えればいいわけである。

 それを記したのが本書の第8章から第13章までの《第2部》であった。

つまり、その《第2部》は、とくに私たちの祖国日本に対象を絞り、その日本が、未来永劫、存続できることを私たち国民が望むのなら、こうしたことも今こそ真剣に考えて対処しなくてはならないのではないかとして、あくまでも既述の三原理と三原則に基づく新しい国家のあり方と、その国家を国家として成り立たせる上で必要最小限度の社会的諸制度のあり方を、私なりに具体的に提言したものである。

 そしてすでに述べてきた第14章からこの第15章を含む最後までの章によって成り立つ《第3部》は、《第1部》から《第2部》へと論を進めてきた内容を、最終的には、どのようにして実現させるかという実現方法と手順を述べたものである。

 ところで、本章にて以下に述べるものとは、戦後、自民党を中心とする政権が長く執って来た対米従属を本質とする日本国としての政治外交姿勢とは対極を成すものであり、日本が、人類の平和に真に貢献できるようになり、人類の未来に具体的に貢献できるようになるためには、まずは日本国政府自身がこうした姿勢を世界に向かって明確に示す必要がどうしてもある、と私なりに考える対外姿勢である。

 

 そこでは先ずこの国が起こした先の侵略戦争を、日本国民の一人として真摯に振り返る。そして世界に誠意と良心を示せる国になりながら、もはや政治・外交問題のほとんどをアメリカに任せ、アメリカの保護国となっては、ときには自ら進んでアメリカの植民地同様に振る舞うという情けない外交姿勢を返上して、母国は名実共に主権国家となり、正真正銘の独立国となってゆくことが是が非でも必要であると説く。

 その実現の仕方についても、ますます混迷の度を深めつつある世界、ますます人類の前途に暗雲が深く立ちこめて来つつある現在、それだからこそむしろ積極的に既述の主導原理の下に、それもアジアの範囲を超えてユーラシア大陸を対象として、これからの環境時代に相応しい新しい世界秩序構想を打ち出し、それに基づいて国際貢献を果たしながら実現させて行く道を考える。

 戦後これまで、日本は国際社会においてサンフランシスコ講和条約においては独立国となることを許され認められながらも、その後はもっぱらアメリカの援助の下に、一時は世界の経済超大国となりながらも、その時の国際貢献の仕方も、実態は、その名に相応しいものではなかった。それは、「右手で1億ドルを援助として与えるが、左手で2億ドルを持って帰る」と揶揄されるODA(政府開発援助)が象徴している(アリフィン・ベイ)。それは、もっぱらと言っていいほどに、国民の代表であるはずの閣僚が経済官僚に操られたもので、「援助」という体裁をとりながら、実質的には日本国民の税金を還流させてはそのODAに参画した日本の産業界を潤わせるという方式を根幹とするもので、自分たち官僚が専管範囲の産業界に恩を売ることで所属府省庁の既得権の拡大を画策しては、見返りとして「天下り」先を拡大してゆくという、結局は日本の産業界と経済官僚の合同による途上国への経済搾取でしかなかった。だから、日本のODAとは、その本質は「押しつけ近代化」であり、「押しつけ開発」であって、相手国とそこの人々の歴史と文化を尊重しながら彼らの自立を促すものでは決してなかった。

 日本のこれからの国際社会への貢献の仕方は、このようなものであってはならないし、国際社会でのあり方についても、これまでのように軍事超大国の傘の下に入って、日本の関わるべき国際政治をその軍事超大国任せにしては、自分は責任逃れのためにその場にいるのかいないのか判らないような立ち振る舞い方ではなく、自国の目指すところ、自国は何をしたいのかを常に外に向かって明確にしながら、どの国とも対等に、そして堂々と、自国の利益と世界の平和とを調和させながら、粘り強く交渉を重ねてゆく姿勢を堅持してゆくことが求められていると、私は考えるのである。

その姿勢は、よく耳にする「ウイン・ウイン」の実現などといった目先の物的経済的利益を狙ったものではなく、真の意味での「人類全体の価値」や「世界の大義」とは何かを常に問いながら、その実現に貢献できるようになることであり、環境・人権・経済・文化・福祉等の面での真の平等互恵の精神に立つものでなくてはならない。

 そしてそうした道を歩んでゆくことこそが、これからの環境時代において、日本が歩み行くべき道なのではないか、と私は思うのである。

 しかし、そのためには、まず私たち日本国民自身が世界を動かしうる思想を持つこと、そしてその思想の下に生きて、行動してみせること、そのことが是非とも必要なのだ、とも私は思う。

 そこで、以下、具体的な説明に入る。

 

15.1 日本の「アジア侵略」の事実と責任を心に刻む

 私は、先ずは、このテーマについて、その意味するところを真摯に考える必要がどうしてもあると考えるのである。

 それは、とくに、1931年(満州事変)から始まって1945年(太平洋戦争)に終ったいわゆる15年戦争と、その顛末に対する私たち日本国民の取るべき態度に関するものである。

 このことを取り上げた時には決まって、「今さらそんな古い話を持ち出してどうするのか」とか、「俺たちはこの戦争を直接遂行した者でもその戦争に関わった当事者でもない。その子孫だ。俺たちに加害の直接の責任はない」、「いつまで我々は加害責任を問われねばならないのか」といったことを言う者が今や大多数を占めることになるであろうことを私は知っている。そして歴代首相のほとんども、ただ「法的には決着したことだ」という態度を繰返すだけになろう———実際には、タイとの関係のように、未だ賠償問題等で、法的にも決着していない国もある(確認せよ!)———。

 しかし、とくに“ポツダム宣言はつまびらかに読んだことはない”と堂々と言ってのける安倍晋三のように、日本がアジア諸国を侵略した事実や、無条件に敗北した事実さえも認めようとはしない首相が今もっていることを考えると、あるいはこれに類する発言をしては世界から批判されると、形ばかりの「謝罪」をしてごまかす政治家が今もって絶えないことを考えると、なおのこと、今、私たち日本国民は、「日本の『アジア侵略』の事実と責任を心に刻む」という態度が必要なのではないか、と私は思うのである。

それは、真実から目を背けずに、むしろ過去を責任を持って引き受け、15年戦争とその顛末を振り返り、その意味を誠実に考えることは、戦争の直接的当事者だけではなく、私たち日本国民全員が避けては未来に向かって歩めないことではないのか、と私は考えるからである。

それは、R.V.ヴァイツゼッカードイツ連邦共和国大統領が敗戦後40年目に当たるその日、ドイツ国民に向けて訴えたように、罪の有無、老若いずれを問わず、全員が過去からの帰結に関わっているからであり、過去に対する責任を負わされているからである。

同大統領(当時)は言う。“問題は、過去を克服することではない。そんなことはできっこないからだ。後になって過去を変えたり、起らなかったことにしたりすることなどできっこないからだ。過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となるからであり、非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、再びそうした危険に陥りやすいからである”(「『荒れ野の40年』−−−ヴァイツゼッカー大統領演説」 岩波ブックレットNO.55 p.16)。

 とりわけ、これまでの過去の重荷を清算し、「環境時代」という新しい時代に船出してゆこうとする際には、こうした姿勢はなおさら大切なのではないか、と私は思う。

 

 私たち日本人は、侵略戦争推進当事者であろうとなかろうと、またその子孫であろうとなかろうと、法的に解決させればそれでよしとするのではなく、人間として、侵略戦争犠牲者との心からの和解を求めなくてはならないのだ————そのことは、今日、従軍慰安婦問題や徴用工問題をきっかけにして、ますます険悪な事態になって来ている日韓関係の修復の仕方についても全く同様に考えられるべき、と私は考える————。

 この戦争によって死んだ日本人は、軍人と民間人を合わせておよそ320万人。それに対して、この戦争で日本軍のために犠牲となったアジアの人々は、少なく見ても1800万人とも2000万人ともいわれている。しかも、南京虐殺シンガポール虐殺、平頂山虐殺等の大量虐殺は今や歴史的事実となっている。その犠牲者は、多い時には一カ所だけでも30万人とも40万人ともいわれている。その虐殺の仕方も、赤ん坊を銃剣で突き刺したり、無数の罪もない市民を強姦したりしては殺すという仕方であった。戦争捕虜に対しては、たとえば「丸太」と称して生体実験もやったのだ。そのようなことをした部隊としては、関東軍731部隊はとくに有名だ(森村誠一悪魔の飽食」光文社)。

 その上、国家・陸軍の後押しの下で、世界史上前例のない10万人から20万人に及ぶ規模で、朝鮮やフィリピンあるいはオランダ等の若い女性が、場所によっては「強制」連行という表現は適切ではない場合もあったかも知れないが、それでも「騙して」とは言える仕方で連行されては日本軍兵士にレイプされたのだ。そのことは、それを体験した何千人もの女性が直接語ってもいる(国連の委員会「クマラスワミ報告」K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないのか」p.169)。

 人間は、自分が加害に回った時には加害の事実を忘れることはできるかもしれない。

しかし、人間としての尊厳や誇りを傷つけられ、屈辱と無念さを味わわされた者、愛する家族や肉親を殺された者には、その事実は、多分、どんなに時が経過しても、生涯癒されることはないのではないか。そのことを加害に回った者は決して忘れてはならないのである。

 そのことを思うとき、「侵略したのはオレたちではない。だから加害者責任はない」、あるいは「あれは軍部がやったことだ、オレたちには関係ない。そもそも戦争を起こしたのは軍部なのだ」と言って済ませていられるものだろうか。安倍晋三のように「戦後レジーム(体制)からの脱却」などと言って済ましていられるわけはない————実際、彼の「おじいちゃん」である岸信介は、その侵略戦争を推進する商工大臣でさえあったのだ————。なぜならあの戦争を終結させるにあたり、当時の日本国民と日本政府は「無条件降伏」を迫るポツダム宣言を受け入れたのだ。

 この事実をも、私たち日本国民は決して忘れてはならないのである。

 その後、極東軍事裁判、いわゆる東京裁判を経、たとえマッカーサーがつくって押し付けて来た憲法であろうとも、私たちの祖父母や父母は、その憲法を受け入れ、サンフランシスコ講和条約を経てこの国は独立を果たしたのである。

 そうやって日本は、初めて戦後の国際社会の一員として復帰を許されたのである。

そして、そこから「戦後日本」が始まったのだ。

 本来ならその時点で吉田茂は首相の座を下りるべきだった。しかし、彼は下りなかった。

降りなかったどころか、事実上、この国をアメリカに売り渡すようなことをしたのだ。それも自国民には全く秘密裏に、である。その一例をもってしてでも、吉田を称して「売国奴」と言わずして、何と言えばいいのであろう。

 

 私たち日本国民はどうも、とくに自分にとって不都合な真実については、直視しようともしなければ、誠実に向き合おうともせず、したがって受け入れようともせず、むしろあたかもそんなことはなかったかのように振る舞おうとするところがある。それだけではない。自分にとって不都合な人は、その人たちに誠実に向き合おうともせず、むしろいないことにして振る舞おうとするところもある。(5.1節)。

 

それは、真実と向き合おうとする勇気がないからなのだろうか。それとも、真実よりも損得で判断する方が価値あることと考えてしまいやすいからなのだろうか。あるいは自分にとって不都合な真実を認めるよう迫る相手の苦痛や心情を想像する能力に欠けているからなのだろうか。

 私たち日本国民も、ドイツ国民に遅れること30余年となってしまうが、日本と同じ侵略国であり、また同じ無条件敗北国であるドイツ国民が戦後、「いばらの道」を歩みながら見せてくれたように、私たち日本国民も、遅ればせながら、人間としてのありように誠実に向き合い、真実から目を背けずに、また出来うる限り、その時そこに起こったことを冷静かつ公平に見つめながら、それらを心に刻んで行かねばならないのではないだろうか。ここに、「心に刻む」とは、「ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを誠実かつ純粋に思い浮かべること」である(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー「荒れ野の40年」岩波ブックレットNO.55p.11)。そしてその態度こそ、“過ちや失敗は二度と繰り返しません”と唱える以上に、最良の対応策となるのではないか。

 

 顧みるならば、日本が起こした「アジア・太平洋戦争」については、この戦争を軍部とともに戦争を遂行した日本国の政府、あるいは政府を代表する首相は、そしてその戦争開始にあたっては公式には最大の責任のある天皇も、敗戦後の今日まで、自国民に対してはもちろん、侵略したアジアの国々とその国民に対して、公式に謝罪したことはなかった。もちろん、ドイツのヴァイツゼッカー大統領(当時)のように、自国民に対して自国が犯した歴史の真実に対して、冷静かつ公平に見つめ、そして誠実であり続けるよう訴えることもなかった。

 その謝罪に近いものとしては、河野談話(1992年)や小泉談話(2005年)、村山談話(1995年)があるが、それとて、私から見れば、とても謝罪と言えるものではなかった。

安倍晋三談話(2015年)においては、何をか言わんや、である。

 そもそも安倍自身、口では“村山談話を引き継ぐ”と公言しながら、自らが認めるように「ポツダム宣言」はまともに読んでもいないと公言しているし、自身の談話でも、日本のアジア侵略を認めていなければ、「謝罪」もしていないのだ。さらには最近は、日本国憲法の「専守防衛」という基本的立場をはるかに超えて“敵基地攻撃能力を持つ”などということまでも堂々と口にするようになっているし、日本の「非核三原則」をも無視して「核の保有」すら口にするようになっていて、村山談話と比べても、全く論外である。それに安倍晋三は、日本軍による「慰安婦」問題にも全く触れていないのだ。要するに安倍晋三は、とても信用するに値しない人物であり、言葉のペテン師なのだ。

 では村山談話は、被侵略国とその国民の心に本当に届いたであろうか。

私は、それはないだろう、と思う。

 そう思う第1の理由は、これはあくまでも「談話」であって、「ある事柄についての見解などを述べた話」(広辞苑第六版)に過ぎないものだったからだ。例えば、中国や朝鮮あるいはフィリピン等の日本が侵略した国に行き、現地の犠牲者あるいはその遺族に直接向き合っての謝罪の言葉ではなかったからだ。

 第2の理由は、この談話がなされたのは、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」の日である。つまり8月15日であったことだ。

なぜなら、この8月15日という日など、日本政府は、「国民慰霊の日」などとしているが、被侵略国にとってはそれはどうでもいいことのはずだ。

世界が認識している真の終戦記念日は「9月2日」だからである。

その日こそ、私たちの国日本が連合国相手の戦争に、「公式」に降伏した日なのである。それも「無条件」に、である。「ポツダム宣言」を受諾した結果だ。

もしこれを受諾していなかったなら、たとえ昭和天皇が、国民に向って、ラジオで、どんなに「降参しよう」と呼びかけたところで、まだ戦争は続いていたはずなのである。

 だから9月2日こそが、私たち日本国民にとっては、これ以上にない屈辱の日であり、同時に、もはやこうした愚かな戦争は二度と起こしてはならないと日本国民全てが深く心に刻まねばならない反省の日でもあるのだ。

 したがって首相談話を発表するなら、被侵略国の人々の立場に立ってせめて「9月2日」とすべきだった、と私は思うからだ。

 第3の理由は、ところが一方でこうした「談話」を発表する首相がいるかと思えば、他方では、その談話の前にも後にも、その戦争を賛美したり美化したりするための顕彰施設である靖国神社に平然と、それも「公式」に参拝し続ける首相もいれば閣僚もいる日本政府だからだ。

 アジアの被害者とその遺族の皆さんは、そんな日本政府の要人の姿をしっかりと見ているはずである。

 それに彼らは、日本政府をドイツ政府と比較しても見ているのではないか。日本国民の言動も見ているのではないか。

特に日本の政府の「アジア・太平洋戦争」に対する姿勢と国民の姿勢は、敗戦後のドイツ政府とドイツ国民のような「誠実」な姿勢とは程遠く、そもそも、未だ、日本政府は、この戦争に対する総括も、反省も、公式にはしていないからだ。

 こうして幾度も「談話」を発表しなければならなくなるというのも、せめて格好だけでも「外」に向かって、反省している「ふり」をしなくてはならない、という心理の表れなのではないか。ともかく、ただ「閣議決定」されただけの談話は、決して公式の総括でも反省でもなければ、国民の全体に呼びかけた日本政府の決意表明でもないのである。

 そのような形だけの素ぶりであったなら、村山談話といえども、被侵略国とその国民の心に届くはずはないのではないか。そしてそうした「謝罪」できない政治家の国日本は、果たして、世界の中で、今後とも一体どれほどの信頼を勝ち得られ、貢献ができるというのであろう。

 この日本という私たちの国を、真に耐性のある国家となし、「環境時代」という新時代に勇気を持って歩み入って行かねばならないとする今こそ、その出発点として、日本の「アジア侵略」の事実と責任を心に刻んでおくことが、日本のすべての人々に、切実に求められているのではないだろうか。

14.5 本物の政治家による三種の指導原理に依拠する本物の政府の新組織づくり

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14.5 本物の政治家による三種の指導原理に依拠する本物の政府の新組織づくり

 では、既述の「本物の政府」は誰がどう作ったらいいのであろう。その場合、どのような考え方を基準にして、あるいは土台にして作っていったらいいのだろう。

そしてどのような政府組織にしたらいいのであろう。

それは、中央政府についても、地方政府についても、同様に言えることである。

 拙著のこれまでの論理からすれば、本物の新政府を構築する際の土台とすべき考え方あるいは理念とは、既述してきた三種の指導原理となる。

すなわち《生命の原理》と《新・人類普遍の原理》と《エントロピー発生の原理》である(第4章)。

 そしてこれからの環境時代にふさわしい国づくりのあり方として示してきた姿からすると(第8章)、その場合の特に中央政府のあり方は、当然ながら、いわゆる「小さい政府」となる。

なぜなら、極力「中央集権」の統治体制は改めて、地方に可能な限り権力と権限を委譲し、真の意味での「地方分権」「地域自治」を実現してゆくことが、今後生じるであろう危機の分散を図り、この国の安全保障を高める意味で、この国をより持続可能な国へと導いていってくれるであろう、と期待されるからだ。

 では、具体的には、どのような組織構成とすべきなのだろう。

ここでは、中央政府についてのみ考える。

 なお、ここで明確にしておかねばならないことがある。それは、以下のこうしたことを議論し決定できるのはあくまでも国権の最高機関としての国会であって、決して内閣ではないということである。つまりこの案件は政府の内閣で議論できる問題でもなければ、決定できるような代物ではない、ということである。

 

 そこで、まず考えるべきことは、既存の府省庁は、果たして今後もそのまま存続させていいのか、ということであろう。つまり、これからの時代は、ポスト近代であり、また地球環境を考えるなら、資本主義も終焉を見たとしなくてはならない「環境時代」であるからして、その環境時代にふさわしい府省庁なのか、という検討である。そしてむしろ反対に、環境時代を生きるにあたって、新たに作らなくてはならない府省庁とは何かという検討であろう。

 そう考えた時、私は、是が非でも廃止すべきとするのは、文部科学省であり、国土交通省であり、経済産業省であろうと思う。

 文科省については、既述の通り、いまや存在していること自体、有害であるからだ(第10章)。この省庁が国民に教えてきたのは世界に通用し得ない生き方であり、国力を低下させるばかりの教育だったからだ。

 国土交通省経済産業省については、もはやそれらの省庁の時代的役割は明らかに終わった、と考えられるからだ。

むしろこれからは、両省は、存続していたなら、そのこと自体、日本が持続可能な国家となる上で足かせになると同時に、地球人類にとっても有害となるだろうと推測されるからだ。

 実際、国土交通省については、風光明媚で山紫水明の国と海外からも高く評価されてきたこの国の国土の自然を見る影もなくさせてしまったのは、間違いなく先の建設省であり、その看板を掛け替えただけの今の国土交通省なのだからだ。それにもう道路という道路は、この狭い国土において、造られすぎるほど造られてきた。なぜこんなに立派な、と言うより立派すぎる道路がこんな山奥にまで必要なのかと思われるほどに、大規模「公共事業」という名の下に、造られ続けてきたのだ。

 したがって、もはやそんな国土交通省がもう少しでも存続すればするほど、この日本という国の国土の自然は取り返しの利かないほどに壊され、同時に財政をも、今でさえ、天文学的な借金を抱えていて健全化はよほど思い切った策を取らない限り困難とされているところへ、だめ押ししてしまうことは明らかだからだ。

 経済産業省についても事情はほぼ同様だ。

もはや「経済」という概念もこれまでの「資本主義」に依拠するものとは思い切って転換しなくてはならないことは既述の通りだ(第11章)。これまでのような、「便利さ」や「快適さ」を満たすだけの経済、物質的「豊かさ」を満たすだけの経済であっては、人間個々人を一面化させ、物事の全体的な視野を失わせ、孤立化させ、そして浅薄化させるだけでしかない。その挙句は、これまであらゆる生命を生かしてきてくれた地球の自然が持っているメカニズムを回復不能なまでに壊してしまい、500万年にわたって命をつなげてきた人類を終焉させてしまうことになるのは、論理的にも、また実際の兆候からしても、もはや明らかだからだ。

 また従来の経済を支えてきた資源についても、化石資源やウラン資源に依拠する経済では、温暖化も生物多様性の消滅も止められないことは明らかだからだ。

 

 では、今後は「小さい政府」にとって最も必要な省庁とは何であろう。

それはやはり《生命の原理》と《新・人類普遍の原理》と《エントロピー発生の原理》の原理を実現する省庁であろうし、それが最優先されることであろう。

ではそのためには、どのような省庁からなる政府となるのが適切であるか。

 私は、国づくりは「人づくり」から、という意味で、まずは「新しい市民」であり「新しい国際人」でもある「新しい人間」(6.1節)を育てる省庁としての「人間を育てる省」(仮称)ではないか、と思う。

 次には、その内容面でも実行力の面でも、これまでの環境省の規模をはるかに充実させた「国土再建維持省」(仮称)ではないか。

これは、これまで、国土交通省によって傷めつけられ破壊されてきたこの国の国土と生態系を再生あるいは蘇生させ、内外からの攪乱に対して耐性のある、真に強靭な国土へと再建することを主たる役割とする省である。

 またこれまでの経済産業省に代わって、新たに大々的に設けるべきではないかと私には思われるのは、「地方再生支援省」ともいうべき省庁であろう。

 なお、これまでの厚生労働省は、中身を一新して、国民の保健・医療・介護の全体を管轄する「国民福祉推進省」(仮称)へと拡充するのである。

 また、現行の総務省は、政府そのものを小さい政府とすることからも連動させて、規模を大胆に縮小して、もっぱら地方を総合的に支える支援省としての「地方再生支援省」にするのである。

 

 もちろんこうした諸々の変革に対しても、官僚や役人は、自分たちがこれまで築き上げてきた既得権を一気に失うことになるため、組織を挙げて抵抗して来てくるであろう。

でもそのときには、現行憲法第15条第1項に基づき、あるいは新憲法でもそれと同様の内容を存続させることで、既往の公務員法に優越させて————それは、後に出来た法が優越するという法理論に基づけば、既存法はそのままにしておいても構わないのである————、国民の固有の権利として、担当閣僚の判断のみで罷免できる法律をも、官僚の手を一切経ずして、国会議員たち自らの手で作った法律として、最高権である国会で予め成立させておけばいいのである。

 新選挙制度が実施されて、本物の政治家たちが続々と誕生してくれば、彼らはこれまでの政治家のように官僚に依存しては官僚にコントロールされる政治家ではなくなるのであろうから、それは何なく可能となると、私には想われるのである。

 

14.6 国民会議が中心となって三種の指導原理に依拠する新憲法草案の

作成

 実は、この表題の件は、後続の章にて詳しく扱うので、ここでは、新憲法に盛り込むべきと私には考えられる内容のうち、これまでの日本国憲法にはなかったものについてのみ、その概要を記述するに止める。

そしてその内容は、そもそも憲法とは何か、そしてそれは何のために、誰のためにあるものか、ということを明らかにすることによって、現行日本国憲法が欠いていること、もっと明確にすべきこと等がはっきりしてくるのである。

その場合、これからの憲法は「環境時代」のためのものであり、ポスト近代、ポスト資本主義の時代にふさわしいものでなくてはならない、ということをも合わせて考慮してゆく。

いずれにしても、憲法とは、少なくとも、安倍晋三が言うような、「憲法は国の理想を語るもの」でも、「国の理想の姿を描くもの」 でも断じてない。そのように理解する安倍晋三は、憲法とは何かを本当は知らないということだ。知らないで一国の首相をやったのだ。自分の頭の中で勝手に描いていただけなのだ。

実際、彼は憲法というものをこの程度にしか理解していないから、彼の内閣では、彼の考える「国の理想」に向けて、憲法が定める憲法改定手続きを平気で無視しては9条の解釈改憲を数に力を持って強行したし、「閣議決定」という国権の最高機関である国会を無視した独裁を繰り返しては専横を繰り返してきたのだ、と私は断定するのである。

 なお、憲法とは何かを含めて、環境時代の憲法とはいかなるものであるべきかについては、詳しくは、第16章を参照していただきたい。

 

 ともかく、私たち国民が私たちの憲法を自分たちで創って持つということは、自分たちが自分たちの意思に拠り国家共同体を結び、「自分たちで自分たちの進み行くその道を決意し、自分たちの国を自分たちで形づくることを決意する内容を明文化すること」(樋口陽一なのである。

 

 では、この憲法学者である樋口氏の言葉の意味内容を受け止めて、環境時代にふさわしい憲法として、現行日本国憲法に対して補われるべき事柄、あるいは曖昧さを払拭してより明確にされるべき事柄とは何か。

私の考えるそれは、次のものである。そしてそれらはいずれも、憲法の「前文」に書かれるべきものではなく、「本文」に明記されるべきものと、考えるのである。

ただし、「日本国の起源」のみは、前文に明記する。

 その起源に言及するのは、歴史上、「日本」という国号がいつ定まったのかを明確にすることによって、それ以前には日本も日本人も存在しなかったことをいまを生きる全ての日本国民が確認し、真の意味での「日本人の自己認識の出発点」(網野善彦「『日本』とは何か」講談社学術文庫p.21)を明確にするためである。

○国家理念(三種の指導原理)と国家目標

憲法の理念「立憲主義・民主主義・平和主義」

○人および市民の人間個人としての基本権

主権の保持者、生存権、人格・人身の自由権、信仰・良心・宗教活動の自由権、表現・出版・放送・芸術・学問の自由権、集会・結社の自由権、営業の自由権、性別・出自・人種・言語・故郷・門地・信仰・宗教的または政治的見解の違いに拠らない法律の前の平等権、私有財産の所有権・相続権・公用収用権、

成年、母性・児童・家族の保護、健康を維持する権利、社会保障を受ける権利、信書・郵便・電気通信の秘密の保護、労働権・争議権、裁判を受ける権利、弁護を受ける権利、不利益な供述を強要されない権利、身体の無瑕性の権利、環境権、国家による人権庇護権、無罪推定、一事不再理、請願権、出訴権の保障、国家賠償を受ける権利、公務員の罷免権、先住少数民族の権利、移民と難民の受け入れと地位(基本的人権の保障)、政治的亡命者の保護、基本権の喪失、権利の制限、

○国民の義務

すべての国民の憲法擁護の義務(国民の不断の権力監視義務と憲法を守る義務)。納税の義務。環境、とくに生態系と生物多様性の保護

○国家の使命

○元首

○共和制(判りにくい「象徴」天皇から天皇の国王化。君主制の一種である天皇制の変更)

○国旗と国歌

○国章

天皇の地位(天皇の権能の限界、天皇と大統領との関係、天皇の国事行為を含めた役割、天皇の財産の授受)

○立法・行政・司法の三権の独立分立

連邦議会

上院(参議院)と下院(衆議院)の二院制

下院(衆議院)と上院(参議院)の役割

議会の解散の有無と解散権

司法権

とくに行政権からの完全独立

憲法裁判所

○連邦および連邦構成主体としての州・地域連合体の立法権、行政権、司法権とそれぞれの独立性

○連邦構成主体とその法的地位および権限(連邦、州、地域連合体。連邦政府と州政府と地域連合体政府との間での権力関係。地方自治の保障

徴税者としての連邦・州・地域連合体の政府の義務。

○連邦の管轄事項

○連邦構成主体の管轄事項

○連邦と連邦構成主体の共同管轄事項

◯「法の支配」の遵守

○新国家建設構想立案国民会議の地位

普通選挙と一票の平等性の保障と選挙管理

○条約締結権限

○財政制度

○政治家の使命と責任

○公務員の使命と役割

○非常事態時、緊急事態時の国家の対応の仕方(個人と法人の権利の制限)

文民による軍人に対する統制権(シビリアン・コントロール)の二重三重の保障

○法人の基本権と独占の禁止

○首都

○通貨(全国通貨と地域通貨の共存)

 

14.7 これらを実行した上で、以下の諸変革を、新大統領(新政府)の下

で大至急断行

 それは、拙著の第2部で記述してきた新生日本国の新しい姿と形を実現するに当たって、その前に、足かせになると考えられるこの国の現状についてはあらかじめ無くしておかねばならないという意味で、これだけはどうしても実現させておかねばならないと思われることを実行しておく、という意味である。それも、我々日本国民については言うまでもなく、また国連からも、地球人類として生き残れるための対策の手を打てる時間はもうほとんど残されてはいないとも促されていることから、「大至急」である。

だから、その場合、大事なことは、優先順位を考えて着手してゆく、ということになるのである。

 なお、以下では、表記を簡単にするために、中央政府の官僚も地方政府の役人も共に「役人」と記す。

⑴ これまでの役人主導・役人独裁を消滅させて、真の民主主義を実現しておくこと

 すなわち、役人が政治を主導するのではなく、主権者である国民の代表としての政治家が、役人を公僕としてコントロールしながら、国民の要望が速やかに政治に反映させられる仕組みと制度を構築しておくのである。

言い換えれば、国民が真の主権者となりうるよう、すべての政治と行政のシステムを変革しておく。

 そのためには、例えば、政治家、特に政府の政治家(大統領・首相・閣僚・首長)が、官僚の操られるのではなく、国民の代表として、役人を常にコントロールする。そして、政治家が、必要に応じて、いつでも官僚に「説明責任」を果たさせる。

 政治家(大統領・首相・閣僚・首長)は役人に対して、常に「法の支配」を厳守させることは言うまでもないが、政治家自身も「法の支配」を厳守する。

 また、戦後ずっと、役人たちによって、当たり前のように続けられてきた「縦割り」という組織構成を完全撤廃する。閣僚は役人をコントロールできる本来の閣僚となり、首相は閣僚を指揮できる本来の首相となって大統領を支えて、政府を本来の一つの政府とする。

 なお、役人が「法の支配」を破った場合は、現行憲法では、第15条の第1項により、その官僚を直ちに罷免できる権限を担当閣僚に付託する法律を連邦議会で立法化しておく。

少子化と高齢化の進行による人口減少を抑える対策

 大統領は、国民に向かって、新生日本国建設に向けて船出するに当たって、国の目指す方向、目指す目的地を明確に説明することを通して、国民に希望を持たせると同時に、国民の義務と責任を明確にし、若者には結婚を、そして2人以上の出産を奨励する。また、政府としてもそれを支援することを約束する。

⑶ 学校教育の内容の根本的改正と教育システムの根本的再構成

 産業界にとって有用な労働力商品を生み出すことを目的とする既往の、断片的知識詰め込み型、個性無視した画一型、判断力養成無視型、表現力養成無視型の教育をただちに廃止して、生きる目的と意義を児童生徒に明確に理解させ、生きる力を身に付けさせる教育へと転換する。

 そのためには、これまでの文科省による管理教育行政を完全に廃止する。

と同時に、教師が本物の授業ができるように、教育カリキュラム構成を各教師に一任する。

 また、進学や進路について、児童生徒自身の選択肢を増やし、学校はそれを全面支援する。

 また、国民として、明確な歴史認識アイデンティティを持てるよう、正しい歴史の教育を徹底する。

 さらには、「生命主義」の理解にゆく前に、自由・平等・民主主義・権利・責任等々の概念を正しく理解できる教育を実施する。

東日本大震災のみならず、阪神・淡路大震災以降の大規模災害による犠牲者あるいは被災者の完全救済

 避難生活者を含めて、未だ立ち直れていない方々を完全救済する。

⑸1200兆円強に及ぶ政府債務残高の現在世代による清算の断行

 清算方法の基本的考え方としては、例えば、大企業の内部留保金を政府債務残高の返済に充てる。

そもそも、その内部留保金は、労働者を搾取したことにより可能となったお金であるゆえ、公民の「生命・自由・財産」を守るべき国家が窮地に陥っている時には、大企業はその社会的責任をこういう時にこそ果たすべきだからだ。

 それにこれからの環境時代は、既述したように、もはや「資本主義」では地球は持たないからである。

⑹ 来るべき大規模長期災害に備えて、強靭な国土の構築

①国土面積の67%を占める山林の管理と育成に拠って強化を図る。②大都市居住の危険を少しでも回避するために、地方の空家を有効活用しながら、人口の地方への移住を促進し、「都市と集落の三原則」(4.4節)を実現させてゆく。③その際、「地域連合体」(第8章)を形成して、食糧およびエネルギーの自給自足体制を築いてゆく。

⑺ 世代間相互扶助制度としての「年金」制度の抜本的改革

 「年金」制度だけを考えるのではなく、真の公共事業の実施によって、「新しい経済」(11.2節)のあり方と連動させながら、従来の年金制度と健康保険制度と介護保険制度との一体化を図る。

⑻ 日本の真の独立の達成と国民皆兵制度の設定と全方位外交宣言

 サンフランシスコ講和会議によって表向きは「独立国」となることは許されたものの、実態は、戦後ずっとアメリカの従属国とさせられてきた元凶である日米安全保障条約日米地位協定の破棄。そして今後は、「戦争は人命と地球の自然を最大に破壊する敵」として、いかなる特定の軍事ブロックにも属さずに、常に世界平和に尽力するユーラシア大陸の一国として、全方位外交を展開する旨を宣言する。

第14章 新生日本国建設に着手する前に解決させておくべき喫緊の課題とその着手手順

  この章から、公開内容は、拙著の第3部に入ります。

そしてそこでは、いよいよ、この日本という国を、拙著の副題にあるような、国民の一人ひとりが心から誇りに思える国、国民一人ひとりの生命と自由と財産が最優先で守られる統治体制を整えた本物の国家という新生日本へと変革して行こうとする際には、これまでの思考過程の延長として、あらかじめどうしても実現しておかねばならないと私には思われる事項のいくつかを挙げ、それらをどのように実現させてゆくか、私なりに考える方法と手順を読者の皆さんにお示ししてゆこうと思います。

 なお、今回の公開の仕方は、これまでとは違って、第14章に関して、一回の公開の中で、複数の節を同時に公開してゆきます。

 以下に示す内容、そしてその示してゆく順序についても、2年前の2020年8月3日にやはりブログとして発信した拙著の「目次」と照合していただけたら幸いです。

 

 

 

           《 第3部 》

第14章 新生日本国建設に着手する前に解決させておくべき喫緊の課題とその着手手順

 この章での論を進めてゆくにあたって、あらかじめ確認しておかねばならないことがある。

それは、私は、この国は、今後も存続してゆかねばならないことはもちろんであるが、それだけで満足してはならず、これからの時代は、日本こそが思想と生き方において名実ともに世界で最も先進的で主導的な国、つまり「偉大な国」とならねばいけないと考えるし、またそれが可能だと考えるからである。

 そのためには、国民全体として、今の内にこれだけは絶対に実現あるいは解決させておかねばならないことは何か、ということの確認である。

 私は、それは次の5つの課題であろうと考えるのである。

①日本の政治の土台からの刷新です。

これまでの選挙制度を根本から変革することで「本物の政治家」、それも、既述の全地球的でかつ全生命的な三種の主導原理、すなわち《生命の原理》、《新・人類普遍の原理》、《エントロピー発生の原理》を我が物とした政治家を生み、育て、これまでの「似非政治家」、「税金泥棒」としか言いようのなかった政治家という政治家のすべてを入れ替えること

②また、その「本物の政治家」たちによって、官僚・役人が勝手に作ってきた従来の行政組織における「縦割り」構造を廃止させ、政治家の官僚・役人へのコントロールを徹底し、官僚独裁あるいは役人天国の状態を止めさせること

③この国の国民の長い間の悲願だったこうしたことを可能とする全く新しい選挙制度を実現させること

④また「本物の政治家」たちによって、文科省の廃省を筆頭に、その他の府省庁の廃省・縮小・合併等々を含めた、中央府省庁のみならず地方の政府の組織を根本的に変革し、基本的に「中央集権の統治体制」ではなく、統治権力の地方委譲による「中央政府の小規模化」と共に「地方自治による統治体制」を強化すること

⑤この国の少子高齢化という人口減少の中で、人口密集化によってますます高まる大都市生活の危険を回避するために、「本物の政治家」たちによって、大都市住民の地方移転を奨励すると共に、教育制度と福祉(保健、医療・介護・看護)制度と社会保障(年金、保険)制度を根本的に変革すること

以下では、この5項目を実現することを念頭に置きながら、日本国存続のために今為すべき喫緊の課題とその課題解決のための着手手順について、私の考えるところを述べていきたいと思う。

 

14.1 新しい選挙制度実施のための国民会議の設立

 この国民会議とは、日本に真の民主主義を実現するためだけではなく、むしろそれをも超えて既述の「生命主義」をも実現し得る真の独立国とするために、それに真心から尽力しようとする本物の政治家を産み、育てるためのもので、これまでの「小選挙区比例代表並立制」という問題だらけの選挙制度に取って代わる、全く新しい選挙制度を実現することを含めて、この国をあらゆる意味で「新国家」として生まれ変わらせるための総合的構想を練るための国民各界層の代表からなる組織のことである。

 それは、私が「新国家建設構想立案国民会議」と呼ぶものである(以下、国民会議と言う)。

 では、その「国民会議」はどのように設立するのか。

 まずその設立準備は、現行の国会議員が超党派の集団で行う。

またそれを中央と地方のすべての政府も全面的に支援する。

そのとき大事なことは、この設立のための準備は一切政府側の官僚には任せないで、あくまでも国会の政治家たち自身が国会内に自分たちで独自に民間人を雇用して、そのための事務局を設けて、日本の現状と将来を憂える本物の知識人の支持と助言を公式に得ながら、政治家たち自身の努力により進めることである。

そしてその際、すべての過程をつねに無条件に、公正かつ透明化することである。

官僚に任せていたなら、彼らは審議会を設立する時と同様、公僕という立場をかなぐり捨てて、自身の保身と栄達のために自省の存続と既得権益の維持を第一に考えるからだ。

 そこで、先ずは、国民会議の構成員の役割と義務そして任期を明確化した上で、その国民会議の構成員を社会の全階層から公平に選任する。

ちなみに私の考える国民会議の構成員とは次のものである(9.1節)。

 つぎのような各産業界および国民各階層から4名ないしは2名ずつ、しかも男女同権の観点から男女同数ずつ選出された人々から成る。

 農業(4)、林業(4)、畜産業(2)、水産業(2)、製造業(4)、医療・介護・福祉分野(4)、家庭の主婦(4)、教育・科学・技術分野(2)、文化・芸術・芸能分野(2)、新聞・出版・放送分野(2)、輸送・流通・販売業(2)その他の分野あるいは業界(2)の合計34名で構成。

 なおその場合、財団法人や特殊法人等の「公益法人・省庁外郭団体」や「財界・業界団体」のトップあるいはそのOB、そしてこれまで、中央政府においては、各府省庁の官僚の恣意的選任あるいは依頼により「審議会」の委員を引き受けた経歴を有するいわゆる専門家・有識者、また地方政府においても、役所の役人の恣意的選任あるいは依頼により各種の「委員会」の委員を引き受けた経歴を有するいわゆる専門家・有識者等は、国民会議に加わる資格はない、とする。

 ここでとくに大事なことは、選挙によって選ばれた者ではないとはいえ、この国民会議は正真正銘国民の代表から成るという意味で、国民と国会は、国会と同等に、他の行政権や司法権からも独立した権限を持たせる、ということである。

 そしてこの国民会議が設立されたなら、その国民会議の中の幾人かがまず最初に担う大役は、この国において、民主主義を実現できる本物の政治家を育て輩出できるようにするための新しい選挙制度を作ることと、それができた段階で、その新選挙制度に基づく新しい選挙を主体となって実施する新しい選挙管理委員会の設立である。

 ではその新選挙制度とはどのような内容のものとするか。

例えばその一例が、既述の第9章にて私が提示したものである。

 なお、実際の新選挙制度の中身を構想するのは、国民会議の中から選ばれた人々からなる「新選挙制度構想委員会」とする。

 

14.2 新しい選挙制度はどのように実現させるか

 これが何と言っても、新国家建設のスタートラインに立った時の、最初の最大の関門と言えよう。

なぜなら、この制度を作ることには、既得権を持っている既存の政治家とくに多数を占める政権政党の政治家、あるいは大政党の政治家はこの制度が実現することにより、その既得権を失ってしまう可能性があるだけに猛烈に反対するだろうし、官僚たちも、本物の政治家が出てくることにより、彼らはこれまでの閣僚のように官僚たちの操り人形にはならず、本来の使命である官僚たちをコントロールするようになって、そうなれば官僚たちにとっては既得権を得てきた政治家たちと同様に既得権益を失ってしまうこととなりうるために、全官僚組織を挙げて抵抗して来ることが容易に想像されるからだ。実際、今までもそうだったのだからだ。

そして、その両者が結託して、新選挙制度の制度化の動きを無きものにしようとしてくる可能性が高いからだ。

 しかしこの日本という国を国民が真に幸福になれる国にするには、そしてこの国が真に民主主義を実現して、成熟し得た国になるためには、9.1節に掲げるような選挙制度は何としてでも実現させ、本物の政治家を有権者が育て、選び出さなくては駄目だと私は考える。そうでなくとも、近年、政治家の劣化ぶり、とくに安倍晋三政権以後の政党政治家の驕りと資質の低下は眼を覆うばかりだからだ。

 そこで、この難関を突破するためには、私たちは次のことを思い出す必要がある。それは、やはり近代民主主義政治の生まれた原点であり、その時に確認された原則だ。

それは、我々は、あるいは我々の遠い祖先は、一体何のために自然状態から離れて集まり住み、社会という共同体を結成して来たのか、という問いに発し、“社会あるいは国家という共同体の全権力を握っているのは主権者としての国民である”、という原則である。 

 逆に言えば、“政治家が主権者から負託されたその「特定の目的のために行動する信託的権力」を主権者が合意していないことや総意に反することに行使したならば、元々全権力保持者としての国民の手にはその権力を剥奪することができる権力が依然として残されている”ということであり、同時に、“主権者は、自分たちの共同体を共同体として健全に維持するためには、そうした政治家に負託した信託的権力を剥奪することは、自分自身と共同体に対してむしろ義務でさえある”、という原則である(ジョン・ロックp.151)。

 つまり、私たち国民は、主権者として、政治家たちには、彼らが主権者から負託された権力はあくまでもその政治家が掲げていた公約を実現するためだけのものであり、限定的なものであることを、いついかなる時にも、しっかりと知らせねばならないのである。その権力は、決して白紙で、あるいは無条件で主権者から付託されたものではない、ということを。したがって、いつでも国民は、その権力を剥奪することができるのだということを。そしてそれは決して不法行為ではないし、むしろ、主権者としての極めて正当な行為であり、自国を民主主義の国にするための愛国的で義務としての行為なのだ、と政治家たちに教えなくてはならないのだ。

 そしてこうしたことこそ、いま、私たち主権者が思い出すべき、あるいは銘記すべき原則なのである。

 なお、この場合の国民と政治家との関係は、株式会社組織で言うところの、株主あるいは資本家と経営者との関係に似ている。

 会社に利益をもたらさないと株主あるいは資本家に判断された経営者は、株主総会という公式の場で株主や資本家から信託された経営権という権力を剥奪されて、株主は株主に利益をもたらしてくれそうな者に新たに経営権を託し替えることができるというそれだ。

その時、経営者は原則的に株主や資本家に逆らうことができないのである。なぜなら株式会社という制度は、それを良しとした考え方の上で成立しているのだからだ。

 日本が近代西欧から取り入れたことになっている近代民主主義政治も、基本的にはそうした考え方の上に成り立っているのである。だから信託した権力を取り返すことは、主権者である国民から見れば当然の権利であり義務でもあるのだ。

そしてそれも、民主主義政治学理論の上での帰結でもあるのだ(ジョン・ロック「市民政府論」鵜飼信成訳 岩波文庫 p.151)。

 このことに政治家は何人たりとも、抵抗も反発もできる理屈も根拠もない。むしろ屁理屈を並べてそれに抵抗したなら、「国賊」となり、民主主義政治国家体制という今様の「国体」に反逆する、正真正銘の「国家反逆者」となるだけなのだ。

 

14.3 国民会議から選ばれた新選挙管理委員会による新選挙制度に基づく総選挙の実施

 では、以上のような過程を経て作られた新しい選挙制度は誰が実施するか。誰が実施する権限を有するのか。

 それは、やはり国民会議から選ばれた人々からなる「新選挙管理委員会」(以下、選管と称する)だ。

そしてその選管も、中央の選管と地方の各地域の選管とから成るものとする。

 この選管は、既述のように(9.1節)、その役割として、選挙の前後および選挙期間中のすべてを通じて、国民が国民にとって最も相応しいと思われる政治家を選べるように、厳正中立かつ公正な立場で見守り、かつ、選挙が終わった後には、次期選挙が行われるまでの間、政治家が公約したことをきちんと実行したか否かを国民と共に厳正にチェックし、評価し、判定を下す機関である。

その意味で、国の中央や各地方公共団体に設けられるこの選管は、この国の民主主義を実現する上での出発時点において、国民会議に背後から支えられながらも、最も重大な役割と使命を担うことになる。

それだけにこの選管には極めて強い権限と高い独立性と透明性が求められるので、国民会議が選定した選管については、それを国会が承認するという形を取る。

 なお国民会議は、選挙の実施時期の定め方や候補者への監視と評価と判定を含む新しい選挙制度全般に関する規約づくりを選管に一任する。

 設立された選管は、これも既述したとおりに、候補者となれる資格を公報し、立候補者を受付ける。

その際、選管は、立候補希望者向けに、立候補希望者がかねてから抱いて来た独自の公約の他に、「公約」に含めるべき課題としての政策群を例示する。

 選管は、立候補希望者が選管が示した要件を満たしているか否かを審査する。

その上で選挙を実施する。

 こうして民主主義政治とは何かをきちんと理解するだけではなく、その民主主義すらも超えて、これからの環境時代、地球人類が生きながらえて行けるための三種類の「主導原理」をも我が物とした本物の政治家が「新しい政治家」として続々と生まれ出てくることが期待されるのである。

そしてその彼らこそがこの国の中央でも地方でも、「本物の議会」と「本物の政府」を構成して行くことになるのである。

 なお、新選挙制度実施によって誕生してくる本物の政治家によって、本物の議会と本物の政府が樹立されるまでは、政治空白や権力の空白が生じて無政府状態とならないようにするために、それまでの政治家たちが、それまでどおり議会政治を継続し、それまで通りの政府をそれまでの法体系に基づいて継続し、国民と軍隊(自衛隊)を統治する。

 

14.4 本物の政治家による本物の議会と本物の政府を樹立し、日本国を本物の国家とする

 ここに、「本物の政治家」とは、民主主義を理解し、自ら政治家としての哲学を持ち、自らの信念からなる政策を明確に持ち、憲法と法を守り、国民に忠誠を誓いながら、官僚には「法の支配」を厳守させながら、彼らをコントロールする強い意志と愛国心を持った人物をいう。

 こうした政治家が育って来て、そして国民の大多数も市民となって彼ら政治家を支えれば、これまでの官僚独裁も、行政組織の「タテワリ」も、「天下り」も、多分、たちまちにして消滅させられて、この日本という国を本物の国家と成し得て、真に「国民の、国民の代表による、国民のための政治」が行われるようになるはずだ。

 なお、この説明の中の「市民」とは、政治と政治家のあり方につねに関心を持ち、権力を持つ者の権力行使の動機と目的につねに疑いを持って見つめ、それをチェックすることのできる社会的存在のことである。

 また、「本物の議会」とは、そこに集う政治家たちの面々が、選挙で立候補した際、有権者の前に掲げた公約を、他政党の政治家たちとの論戦の末に自説をもって説得して多数を勝ち取り、税金の使途を含めた政策として、法律の裏付けをもって実現してみせられる場となることである。

 そしてそれは、特に政権を執った政治家集団に強く要求されるのである。

 ゆめゆめ、行政府の官僚がつくった法案を追認するだけの場としてはならないのである。

そしてその場合も、「本物の議会」とは、あらゆる場合に国民の誰もが訴えることができる手段、あらゆる場合に国民の誰もが安心感を確立することのできる手段としての法律、言い換えれば、法律の運用者がその裁量を恣意的に差し挟めない法律、あるいは一般の国民が官僚などのような行政機関の者に対抗しうる有効な手段としての法律を制定できる場となることである。

 そしてその場合、「本物の議会」とは、当然ながら国のあらゆる権力機関の中で、あるいは地方公共団体の中のあらゆる権力機関の中で、共に最高の権力を持った機関となるのである。

その理由とは、ジョン・ロックは、こう説明する。

“何故なら他人に対して法を定めることができるものは、その者に対して必ず優越していなければならぬからである。”(P.152)

そしてジョン・ロックはさらにこう言う。

“組織された国家にあっては、ただ一つの最高権しかあり得ない、これが立法権である。それ以外の一切の権力はこれに服従し、また服従しなければならないのである。”(P.151)

 一方、「本物の政府」とは、議会という立法機関において議決されて公式に定まった法律(または条例)あるいは予算の裏付けを持った政策を、その動機と目的とを良く理解した上で、決まった通りに執行し得る機関のことである。

すなわち、本物の政府として決定できるのは、三権分立の原則に拠り、決して法律案ではなく、立法機関である議会が議決した事柄をいかにしたら最高度の効率をもって執行し————それは統治とも呼ばれる————、最高度の効果を達成し得るかというその執行方法についてなのである。

だから本物の政府とは、これまでのような実質的な意味での各府省庁の連合体ではなく、合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者の下に、全閣僚が互いに連携して動き、各閣僚が自身の配下の官僚たちをコントロールして、府省庁の全体が有機的に連携して執行できる機関のことを言う。だからその場合、当然ながら官僚たちが勝手に設けてきた府省庁間の「縦割り」などは閣僚同士が協力し合って国民かあら付託された権力を行使して完全撤廃しなくてはならないし、官僚たちには、閣僚の義務と責任において、「法の支配」とか「法治主義」を徹底させ、さらには、「説明責任」を果たさせなくてはならないのである。

 ここで、幾度記して来ても重要なことなので、ここでも繰り返しをいとわずに記すと、

「法の支配」とは、恣意的な支配を排斥して、権力を法によって拘束することで、国民の権利を擁護しようとする考え方である。

一方、「法治主義」とは、行政権の行使には、法律の根拠が必要であるとするものである。

法の支配も法治主義もよく似ていて、恣意的、すなわち気まぐれな支配を排除するものであるとする点は同じであるが、「法の支配」のほうは、法の内容が合理的なものでなくてはならないことを要求する点で、「法治主義」とは異なる。つまり「法の支配」は、基本的人権の思想と結びついて、法が基本的人権を尊重したものであることを求めているのである(山崎広明編「もういちど読む政治経済」山川出版社P.8)。

そして「説明責任」とは、企業・行政などが自らの諸活動について、利害関係者に説明する責任のことで(広辞苑第六版)、特にこの場合、政府各省庁の官僚が、自分たちはなぜこれをしているか、なぜあれをしなかったのか、なぜ他の方法を取らなかったのか、等々を、真実に基づいて、国民に、それらの根拠を示すことである。英語ではアカウンタビリティ

そしてそれは道徳的責任の意味のレスポンシビリティとは根本的に異なる。

 ところがこれまでのこの国の政府の実態とはそれとは程遠いものだった。国民の「生命・自由・財産」を守るためのものではなく、せいぜい、(各府省庁が互いにバラバラに自分の専管範囲の)産業界やビジネス組織と取引を(しては既得権益の維持と拡大を画策)する一つの巨大な組織、という以上のものではなかった(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないか」p138。ただし、括弧内は生駒が補足)。

 

 ところで、この国の議会を本物とするには、国会も地方議会も、現行のその席の配置を根本から手直ししなくてはならない。それは、この国の国会をはじめ、地方議会も、基本的には、いまだに明治の大日本帝国憲法(1889年)に基づいて第一回帝国議会が開かれた当時(1890年)のままの議場形態を維持しているからである。しかもその形態自体が、後述するように、民主政治が行われる上では絶対に守られていなくてはならない三権分立の原則を破る形態となっているからだ。

 ではなぜこの国の議場は、130年以上経った今まで、基本的に「国会開設」当時のままの形態できたのであろう。

 それは、この国の政治家という政治家は、やはり、戦後、憲法が「日本帝国憲法」という欽定憲法から民主憲法になっても、そして今日に至ってもなお、民主主義議会政治というものは議会においてどのように行われるべきかという基本的に重要なことについて、誰も真剣に考えては来なかったからだ、と私は断定する。もっと言えば、民主主義とは何か、議会とは何か、政治家とは何かということを、この国では、戦後、70数年経った今もなお、政治家の誰も真の意味では理解してこなかったからなのだ、と。

 国会でも地方議会でも、その議場の形態をよく見ていただきたい。

議会というのは、議会の議員のいる場なのだから、基本的には、議員だけが座る席があり、その議員同士が存分に議論できる形態となっていればそれで十分なのに、この国の議会は、国会も、どこの地方議会も、決まって、議員席の最前列の真正面には、政府、つまり行政権を持った者が鎮座する席が設けられているのである。

つまり、この国では、本来立法機関である議会に、行政権である政府の者が鎮座する席が、議員席の真正面に常設されているのである。

特に国会では、政府側の者が鎮座する席は国民から選挙で選ばれた国民の代表である議員の位置よりも一段と高い位置に設けられてさえいるのである。

 全く奇妙なことに、こうしたことに疑念を抱く政治家は、少なくとも私の知る限り、一人もいないのだ! 民主主義議会政治を行う上では、決定的に矛盾した議会内配置だというのに、である。

 そしてその奇妙さをさらに上塗りする格好で、この国の議会は、国会を含めてどこも、議員が行政権を持った者に向かって「質問」するという形で行われるのが、それも全く「儀式」として行われるだけで、実際の立法など全くしないのが「議会である」とされていることだ。

そしてそのことに、私の見たところ、“おかしい”、“変だ”と感じている風な政治家は一人もいないのだ。

 とにかくそうやって、この国の少なくとも戦後の議会政治は行われて来たのである。

それはもう実際のところ、子供の「ママごと遊び」ならぬ、大人の「議会ごっこ」なのだ!

 

 議場をこのような形態にしたのは、多分、明治の後期になっても政治や軍事に対して圧倒的な影響力を持っていた最後の元老山県有朋であろう、と私は推測する。

山県こそ、政党政治家を極度に忌み嫌い、自らの持てる力の全てを使って、政党政治の発展を阻止しようとした人物だからである。そして、官僚を天皇のシモベとして、「天皇の官僚」の権力が、選挙で選ばれた国民の代表によって決して制限されない仕組みを築き上げた人物だからだ(カレル・ヴァン・ウオルフレン「日本という国をあなたのものにするために」角川書店 P.47〜50)。

 今の国会を含む全ての議会の形態が当時のまま残されているというのも、山形の遺産とでもいうべきものと私には思われる。

 本物の議会を確立するにあたっては、この山県の遺産を木っ端微塵に打ち砕かねばならないのである。そうでなくては、この国は、前進できないからだ。

 なおその場合、議場の改造に関する方法としては、要点は3つある、と私は考える。

1つは、新選挙制度の実施によってもはや政党政治ではなくなることもあって、政治家が政治家どうしで自由に、かつ徹底的に議論ができる形式にするということである。そのためには、私は、これまでのように与党の席と野党の席とを分け、かつ各政治家に決まった席が設けられるということもなくし、いつでも、どこでも、自由に坐れるようにし———したがって机上に名札は設けない———、常に全員が向かい合って坐れるような席の配置にするのがよいと考えるのである。

2つ目は、これまでのように議論の行方を取り仕切る正副議長の席を全議員と向かい合うような位置にするというのではなく、全議員が向かい合って座るその間で、しかも全議員を見渡せる、いわば相撲の行司と同じ位置にするということである。

3つ目は、議会の行方を見守る国民の坐る位置も、これまでのような単なる傍聴者としてのいわば「外野」と言うべき政治家集団の後ろの位置ではなく、議会の行方を正副議長とともに見守るという意味で、正副議長の後ろに控えて座るようにする、ということである。

2.5 所属府省庁の権益拡大と自己の保身のためには憲法も民主主義も無視する官僚、そしてその官僚に隷従する地方の役人——————(その2)

 今回は、前回の続きです。

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2.5 所属府省庁の権益拡大と自己の保身のためには憲法も民主主義も無視する官僚、そしてその官僚に隷従する地方の役人——————(その2)

 

次に3.について。

 以下に示す実例は、私自身が直接見聞きしたことである。

それは、国土交通省の官僚が中心となって、私たちの住む山梨県北杜市を貫通させて実現を目論む「中部横断自動車道」のいわゆる「北部区間」と呼ばれる、全長およそ40キロメートルの間での建設事業を巡って、国土交通省の官僚、そしてその官僚に進んで隷従した山梨県庁と北杜市役所の役人の言動についてである。

その言動が、表記した官僚と役人の第三の行動特性あるいは実態を裏付けていることを実証しようとするものである。

 そこで、この実例の具体的な説明に入る前に、この「中部横断自動車道」の「北部区間」の問題の背景と、これが当地で問題となり始めたきっかけについて予め明確にしておこうと思う。

 この問題が公式に表面化し始めたのは平成23(西暦2011)年2月である。

そのときすでに官僚らの言動に疑問を持ち始めた私は、の質問に、甲府市にその事務所を置く国土交通省の「河川国道事務所」の計画課のW氏とM課長に電話で直接質問したのである。彼らが答えたところによると、彼等官僚たちのその行為は「国土開発幹線自動車道建設法(通称、国幹自動車道法)」という法律に根拠を持ち、“この中部横断自動車道の建設は同法律の中に位置づけられていて、国のいわゆる新直轄方式に拠る事業とされているものである”、とのことであった。“ただし、同区間は1997年に建設区間などを定めた基本計画区間となっているだけで、着工の承認は国会で未だなされてはいない”、とのことだった。

 そこで私は確認のために、その法律なるものだけをW氏に頼んで郵送してもらって読んでみた。するとすぐにも気がついたことであるが、その法律には、国家を成り立たせている主権者としての国民、とくに道路ができることによって直接影響を受ける関係住民の意向を十分に考慮すべきだとする条項はどこにもない。しかも同法は平成11年(1999年)に改正されたままで、その後はこの国の社会状況や経済状況の変化に対応して改正されたという形跡もないし、ましてやその時点で、既に国連でも今後人類にとっての最大の脅威となると受け止められていた環境問題、とりわけ地球温暖化の問題や日本も既に1993年に批准していた生物多様性条約への配慮などもどこにもない代物だということだ————つまり、ここでも、この国の国会議員は、国の内外の変化に応じた既存法の改正という国民のために為すべき役割の何も果たしては来ていなかったのである!————。

 

 したがって、今、この「中部横断自動車道」の「北部区間」の問題を論じるときには、とくに注目しておかねばならないこととして、この国幹自動車道法という法律の中では「中部横断自動車道」のルートのうち、当地で問題となっている「北部区間」と呼ばれる「長坂〜八千穂」間については未だ「基本計画」の段階であるため、工事を着工することはもちろん具体的なルートについても、国会はいまだ議決もしていないということである。

 国会が決議していないということは、民主主義政治理論から言い換えれば、国民がこの事業には合意をしていないということであり、さらに言えば、この事業に関しては、国民の金を使うことについても国民は未だ一切合意もしていない、ということでもある。

 そういう意味で、官僚たちが国幹自動車道法をどんなに自分たちがやろうとしていることの根拠として持ち出そうが、また同法を彼等の行為や目論みを正当化する根拠として持ち出そうが、「国権の最高機関」である国会がこの事業の実施について合意の議決をしていない以上、彼らの主張は全く法的根拠は持たないというだけではなく、北部区間に関連するどのような活動をすることも———たとえば、すぐ後で述べる、住民に対してアンケートをとるとか、調査活動をするとか、竣工時の道路イメージを展示する施設をつくるとか———、一切許されてはいないということなのである。

なぜなら、そうした活動をすることは、少なくとも人件費を含むそれなりのコストがかかるわけで、それは国民の税金を使うことになるからである。

つまり、今の段階では、彼ら官僚や官僚に隷従する役人は、自分たちの目論見通り行動していいという理由はどこにもないのであって、後述する類の活動をするということは、官僚も役人も、等しく国民のお金である税金を横領していることでもあるのだ。

 ところが、実際には、官僚も、その意を受けた役人も、国会が工事着工の議決を少しでも早くしてくれるような状況を作るために、国土交通大臣に関係住民の間の真実や不都合な真実は一切伝えずに、自分たちの目論見に賛成してくれる議員や人間だけを担ぎ出しては、彼らには国民から付託されることは決してない権力を、それも法律に基づかない権力を、闇で行使し続けているのである。

しかし、それは「国民のシモベ」である官僚や役人がすることでもなければ、やれることでもないのである。

 しかし、こうした原則を全く理解しないか、それとも全てを官僚や役人任せにしているせいか、この国の国会議員をはじめ、都道県議会議員や市町村議会議員はもちろん、「法の支配」あるいは「法治主義」の観点から、官僚をコントロールすべき国土交通大臣が、また同じ観点から、役人をコントロールすべき山梨県知事や北杜市長という首長が、官僚や役人のそうした彼らの権限を超えた言動を制止もできなければコントロールもできないのである。つまり、国民の代表としての役割など全く果たしていないのである(2.2節)。

 その結果、この事業に関係する私たち関係住民は、すでに足掛け11年間にもわたって、官僚と役人らの無法行為によって苦しめられ続けているのである。

 

 そこで、ここでの実例を見ていただく際には、次の3つの民主主義政治上の原則を改めて明確にしておかねばならない。それは、この実例を、この3つの民主主義政治上の原則に照らし合わせて検証しようとするからである。

 そしてそのためには、まずは、権力とは、最も一般的には、「他人をおさえつけ、支配する力」のこと(広辞苑第六版)、あるいは「他者を、自分の意思に基づき、従わせる力」のことであるということを前提とする。

 したがって例えば、次のような場合もその権力の行使に当たる。

国民あるいは住民を、ある場所に集めること。また、集めた住民に意見を言わせること。会議体を設立しては、座長を含めて、それを構成する委員を選任してその地位に就かせること。またその会議体を仕切ること。また、他者を罰すること。

 そこで、第1としては、こうしたことを「公務」として行う場合には、そこには常に人件費という費用がかかるが、その費用には「公金」、つまり国民あるいは住民が納めた税金が使われることになるので、その場合には、当然、事前に、国民あるいは住民の了解あるいは合意が必要となる。あるいは国民あるいは住民の代表である議会の了解が必要となるのである。

 つまり必ずそのような「手続き」を経る必要があるのである。

 これを【原則1】とする。

 2つ目は、国家という共同体を互いに合意の上で結んで国民となった者は、その一人ひとりが主権者としての権力を保持するのに対して、その国民のシモベである官僚あるいは役人は、「公務員」としての立場から直ちに判断できるように、国家の主権者である国民から権力を付託されることは決してない、ということである。

したがって、唯一次の場合を除いては、彼ら官僚あるいは役人はどのような権力をも行使することはできないのである。その唯一の場合とは、すでに確定して公布された法律に基づく場合のみである。

 世界の民主主義国のいずれもが遵守する「法の支配」や「法治主義」はこの原則に基づいているのである。

 便宜的にこれを【原則2】とする。

 3つ目は、主権者である国民から権力を付託されるのは、選挙で選ばれ、国民の代表となった政治家だけである、ということだ。そしてその権力は最高権としての立法権である。

 ただしその立法権は、各政治家がそれを以って国民から支持されて政治家となれた「公約」を実現するための信託的権力であり限定的権力に過ぎない、ということである(ジョン・ロック「市民政府論」P.151)。すなわち、政治家になったからといって、どのような法律を作ってもいいということでは決してない。主権者である国民は、無条件に立法権という権力を付託しているわけではないのだから。

 便宜的にこれを【原則3】とする。

 

そこで実例1.である。

 住民に対してアンケートに答えさせるという、非公式の権力を行使したこと。

 事は、長野県長野市鶴賀字中堰に住所を置く「中部横断自動車道(長坂〜八千穂)計画段階評価 事務局」から私たち北杜市の関係住民の全戸に向けて、次のような呼びかけに始まるアンケート用紙を郵送して来たことから始まるのである。

中部横断自動車道(長坂〜八千穂)の『今後の整備方針』について、みなさまにご意見をお伺いするものです。アンケートは2回行います。」

それも、何のためのアンケートか、その目的すらも不明なままにして。

そしてそこにはこう記されていた。

「みなさまから頂いたご意見は、事務局でとりまとめ(関東地方小)委員会に報告する予定です」、と。

 実施にあたっては、1回目は平成23年3月25日が締め切り日、2回目は平成24年2月27日が締め切り日とされていた。

 官僚という「国民のシモベ」によるこうした行為そのものが、当該事業についての着工の承認が国会でなされているとか、なされていないとかに拘らず、上記の民主主義政治上の【原則1】と【原則2】に抵触することは明らかである。

 こうした権力の行使ができるのは、【原則3】に拠れば明らかなように、私たちが選挙で選んだ私たちの代表である政治家だけなのだ。それも、「中部横断自動車道(長坂〜八千穂)」の実現を選挙の時に「公約」に掲げた政治家だけなのだ(ジョン・ロックP.151)。それも、例えば、その政治家が、議会で議論し、公式の政策としての賛成を勝ち取るための参考にしたいから、といった理由に拠る場合に限られるのである。

 したがって、官僚が北杜市の関係住民の全戸に送りつけてきたアンケートは、もう、その時点で「法の支配」を無視したものであるゆえ、私たち関係住民は主権者として、それは「法的に無効」として、官僚らに“もう二度とこういう「法の支配」あるいは「法治主義」を無視するような、ことはするな。法的には我々はこれに従う義務など全くないのだから”と抗議しながら、アンケート用紙そのものを直ちに廃棄あるいは突っ返すべきだったのだ。

というより、国土交通大臣が、常日頃から、配下の官僚たちに、例えば“「法の支配」あるいは「法治主義」は厳格に守れ。そうでなかった者は、憲法第15条1項を適用して罷免する”と、コントロールしていたなら、官僚たちがこんなアンケートを作って全戸に郵送するなどということは起こらなかったし、そもそも「中部横断自動車道」の「北部区間」の問題そのものすら、その後、私たち住民の間に持ち込まれることもなかったし、私たちにとっては全く徒労としか言いようのない事態に巻き込まれなくても済んだのだ。

 その意味で、石井国土交通大臣の大臣としての無知と無能さによる責任は重大だ。

本来なら辞職すべきであろう。あるいは安倍晋三首相が更迭すべきであったろう、と私は思う。

 

 実際には、その石井大臣の無知と無能と無責任の結果、そして関係住民の民主主義への無知、「法の支配」や「法治主義」に対する無知の結果、アンケートは行われ、住民はそれに答えてしまうのである————実はこうなるのも、政治家になろうと志す者のこうした無知は論外としても、関係住民を含むこの国の国民一般のこうした民主主義政治に対する無知と無理解は、住民の責任というよりは、こうした教育を小学校や中学校の時代に児童生徒にきちんと教えようとはしてこなかったし、今もしていないこの国の中央政府の文部省と文科省に全面的な責任がある、と私は考えている­­­­­————。

 では問題のそのアンケートとはどんな内容から成るものだったのか。

 私たちの意見を求めるために官僚が挙げて来たのは、「当地」およびその「周辺地域の課題」だった。それはわずか次の4つだけだった。

「産業物流の課題」、「救急医療の課題」、「観光地連携の課題」、「日常生活の課題」。

ところが、その当時、当地で重大な問題となっていたのはこんな課題ではない。高齢化問題であり、少子化問題であり、地方の過疎化の問題であり、インフラの老朽化の問題であり、地方政府の超巨額の赤字財政問題だ。そして世界的にも人類最大の脅威とされて来ている環境問題であり、生物の多様性の激減の問題であった。

 ところがこうした大問題への言及やそれらについて住民の意見を訊ねる記述などどこにもない。その上、官僚が挙げているこれらの4つの課題のどれを見ても、たとえば第1の課題の提示の仕方をみても、「地域の農産物などを消費地まで運ぶのに時間がかかるため、産業物流の速達性に課題があると考えられます」という単なる推測の域を出ない記述があるだけだ。実際には官僚が今度建設しようと目論んでいる高速道路のすぐ隣には国道141号線という既存の立派な道路があるが、それが当該地域に対してどのような役割を果たし、どのような交通事情にあるか、交通量、走行安全性についての実地調査結果すらない。想定している高速道路周辺での生態系の現状調査結果もない。想定している高速道路沿線での農業生産を含む今後の農業者人口に関する動態に関する実態調査結果もない。その高速道路ができたなら、地下水脈の状況がどうなるか、生態系を分断された大小の動物たちに拠る農業への被害はどう悪化するのか、といった調査検討結果もない。それに、その道路を造ってしまったなら、国家の借金状況はどれだけ悪化し、それは将来世代の暮らしを一層どれだけ圧迫することになるのかといった考察もなければ、その増えた借金は一体いつまでに誰が返済するのか、の記述もない。

 その他3つの課題提示の仕方もすべてこんな調子で、「救急医療施設までの救急搬送に時間がかかるため、救急医療の速達性に課題があると考えられます」とか、「軽井沢や清里小淵沢など、観光地感の移動に時間がかかるために、主要な観光地間の連携が不足していると考えられます」とか、「近郊都市までの買い物や通勤に時間がかかるため、日常生活の移動性に課題があると考えられます」といった、どれも、最後はすべて共通に、「…と考えられます」と結ぶ、推定の域を出ないもの、根拠もなく思い込みに過ぎない課題提示ばかりだった。

 つまり、当地の関係住民の実際の暮らしぶりや八ケ岳南麓という「国定公園」の生態系の実情や特性などはまったく無視した、官僚が頭の中だけでこしらえた、現実から乖離した課題の提示でしかなかったのである。

それが証拠には、「国道141号の状況を踏まえ」とは記載されてはいるものの、それに特化した諸課題の洗い出しなども一切なく、全国どこの一般国道でも当てはまるであろう「周辺地域の課題」でしかなかったのだ。

 こうした状況は、2回目のアンケートにおいてもまったく同様だった。

しかも1回目からおよそ11ヶ月置いた2回目のアンケートでは、何と、早くも当該事業について2,100〜2,300億円という概算費用すら示して来たのである———この費用も、ずっと後の4年後には、まったく当てずっぽうの金額であったことも判明するのである­­­­————。

 こうした状況から見えてくることは、国交省の官僚にしてみれば、「法の支配」を無視する越権行為と承知しながらも、関係住民に当該高速自動車道を造るべきか否かについての真の声を聞こうとするアンケートなどではなく、造ることを前提とし、それを正当化するための、というより、“いかにも事前に住民の声を聞きました”という体裁を整えるためだけのアンケートでしかなかった、ということなのだ。

 しかし、関係住民は、「法の支配」や「法治主義」を無視して官僚らが送りつけてきたそのアンケートに答えてしまったが、でもその結果は、7割から8割が反対というものだった。その主たる反対根拠は、当地八ヶ岳南麓の豊かな自然環境を破壊までしてそんな道路を造るより、むしろ、国交省の官僚たちが勝手に考えた自動車道にほぼ沿って既にある国道「141号線」の整備をして欲しいというものだった。

 

 なお、こうしたことから、次の重大な教訓が得られるのである。

それは、石井国交大臣、そしてその後を継いだ赤羽国交大臣、そして現在の斎藤国交大臣————いずれも公明党所属————いずれにも当てはまることであるが、「法の支配」や「法治主義」の意味も知らないで政治家になり、そして配下の官僚をコントロールすることが大臣の役割と使命であるということも知らないで大臣となったなら、本来大臣に従わねばならない官僚たちは、それをいいことにしてどれだけの卑劣な行為に出て独裁を強めてゆくことになるか、そしてそのことによって、主権者であり国民でもある関係住民は、もしその時、「市民」としての姿勢を貫こうとすればするほど、限られた人生という時間の中で、どれほど無意味な時間を割かねばならなくなるか、そしてそのことによってどれだけやりきれない思いをさせられることになるかということである。

 そこで、そうした教訓に基づいて、以下では、本当はもはやこれ以降のことはいかに官僚たちがもっともらしい理屈をつけては非公式の権力を行使し続けて当該公共事業を実現へと画策しようと、それらは全て法的根拠のないこととして記述する価値もないことではあるが、石井大臣らのような無能で、無知、無責任な者が政治家になり、大臣になると、その彼らがいかにこの国の民主主義の実現を遠のかせて、却って官僚独裁を強めてしまうことになるかということを、大臣を任命する総理大臣には是非とも知っておいてもらいたいがために、念のためにこの後も、官僚たちの狡猾で傲慢な実態、そしてその官僚たちにただ隷従する役人たちの実態について記述してゆく。

 

実例2.

 「住民説明会」の開催という「法の支配」を無視した権力の行使をしたこと。

 主権者である関係住民を公の場に集めて、そのアンケートに関する「住民説明会」を、各地区ごとに分けて、延べ11回開催したこと。その席で、住民の意見を言わせ、聞き取ったふりをしたこと。この時、その全ての「地元説明会」を仕切ったのは、国土交通省関東地方整備局配下の甲府河川国道事務所の小林事業対策官(以下、K対策官)と宮坂課長(以下、M課長)だった。
 驚くことに、その会場には、地元の北杜市議会議員も山梨県議会議員も幾人かいたが、彼らはただ聞き手に回っていただけで、政治家として、例えば次のようなことをその住民説明会を仕切る官僚二人に指摘し、諌める者は一人もいなかった。

“こうした地元説明会は、本来「国民のシモベ」であるあなた方にできることではない。「法の支配」を無視した権力行使なのだから。こうしたことができるとすれば、あなた方を統括する立場の、国民の代表としての国土交通大臣ただ一人なのです。”

 

 なお、K対策官やM課長の背後には、次のような組織間のつながりのあることがその後判明したのだ。というより、両名は次のような上部から末端に至るまでの指示命令系統の中で動いていることが判明したのである。

それは、国交省の本省の「道路局」の官僚→埼玉県のさいたま市にある国土交通省関東地方整備局甲府河川国道事務所→山梨県庁の県土整備部高速道路推進課→北杜市役所の建設部→同建設部の道路河川課。

 そしてそこに関わっている人間とは、関東地方整備局の指示の下に動く甲府河川国道事務所では小幡 宏副所長(以下、O副所長)その他であり、山梨県庁の県土整備部高速道路推進課では乙守和人課長(以下O課長)その他であり、北杜市役所の建設部では神宮寺 浩部長(以下、J部長)、清水 宏次長(以下S次長)と同建設部の道路河川課の土屋 裕課長(以下T課長)だった。

 

実例3.

 国土交通省の官僚たちが「縦割り」の組織構成を最大限活用することによって、地方政府の役人を支配するという非公式権力を恣意的に行使したこと。

 それは、実例2.で述べてきたそれぞれの組織のつながりの中で、国土交通省とその出先機関の官僚と山梨県庁の役人と北杜市役所の役人が共同歩調をとっていたということである。

そしてその時のお互いの関係は、見ていてはっきりと判ったことであるが、上記した指示命令系統の流れの中で、下流に位置する者がその上流に位置する者に進んで隷従するという関係であった。

 隷従する当事者らは意識していたかどうかは判らないが、上部者に従うその姿は、見ていて、自尊心も見られなければ、誇りも感じられず、文字通り卑屈そのものの姿なのだ。

 

実例4.

 私たち関係地域住民に送って来たアンケート用紙の中で、事務局の官僚らが名乗る「計画段階評価」そのものも、法に基づかないもので、非公式の権力行使そのものだったこと。

その「計画段階評価」とは、この事業、とくに北部区間(長坂〜八千穂)を進める事業者である国土交通省自身が公共事業の実施過程の透明性を一層向上させる観点から導入した事業過程評価法のことだという。より詳しくは、「計画段階評価」とは、国土交通省自身が平成17年に策定した、公共事業における「構想段階における市民参加型道路計画プロセスのガイドライン」(平成25年改訂)に基づく道路計画プロセスの評価法のことだという。

 つまり、この「計画段階評価」という道路計画プロセスの評価法は、上記のごとく“国土交通省自身が平成17年に策定した”と認めるように、国会で議決を見た法律ではなく、単なるガイドライン、いわば「指針」に過ぎないのだ。

 となれば、私たち国民は、いかに被統治者といえども、法律でもないものに従う義務はない。

実際、近代民主主義政治を理論的に確立したジョン・ロックもこう言っているのである。

「一切の政府の権力は、ただ社会の福祉のためにのみあるのだから、それは恣意放縦であるべきではなく、したがって確定し公布された法によって行使されねばならないのである。」(p.141)あるいは、「(何人たりとも)他人の恣意的権力に服従することは、ありえない」(p.137)

 ところが確定した法律でもないそのガイドラインは、まことしやかに、「手続きの適切性」として、計画検討プロセスに必要な条件として、計画への住民参加だけではなく、その計画の透明性、公正性、客観性、合理性を求めているのである。

なおここで言う透明性とは計画検討プロセスに関する情報が誰に対しても開示されていることであり、客観性とは計画検討や評価に用いるデータ・情報等が客観的なものであること、合理性とは計画検討プロセスの手順、計画案の比較、それらの修正などが合理的に行われること、そして公正性とは計画検討のプロセスの進め方や判断が偏りなく公平であること、という。

 要するに、官僚らは、そんな法律でもない「ガイドライン」すなわち「指針」を持ち出しては、それによるルールを勝手に設定しようとしているのだ。無茶苦茶なこじつけ、としか言いようがない行為だ。

 ところが自らの配下の官僚たちがこんなデタラメなことをしているのに、石井国土交通大臣は放置しているのだ。いかに官僚をコントロールしていないかがわかる。というより官僚たちを野放しにしてあるということだ。彼自身も、大臣でありながら、「法の支配」の何たるかをさっぱり知らないということの明らかな証左でもある。

 そもそも国土交通省の官僚たちは、アンケートでは、「産業物流の課題」、「救急医療の課題」、「観光地連携の課題」、「日常生活の課題」の4つを「周辺地域の課題」として挙げて来たが、しかし既述の通り、その課題に対する彼ら官僚たちの問題意識と態度は、彼らがガイドラインで定めたとする公共事業の「手続きの適切性」だとか、計画の透明性、公正性、客観性、合理性を云々する以前の話なのだ。とにかく、自分たちの野心を貫徹するには、国会も糞食らえ、法の支配も糞食らえ、と、なりふり構わない姿を晒しているのである。

 

実例5.

 非公式の権力を行使しては、自分たちの意に沿う「学識者」や「専門家」を既述の「審議会等の運営に関する指針」を利用して人選しては、彼らを構成委員とする会議体を種々多段的に立ち上げて、そのそれぞれの会議体を実質的に自分たち官僚や役人で仕切り、彼らが望む「答申」を出させては、その答申はいかにも民主的な議論の結果であるかのように閣僚に装い、そうしては「閣議」を通過させ、国会の議決を勝ち取れるように画策する、という卑劣極まりない手口を使うこと。

 「中部横断自動車道」の「北部区間」の工事着工を国会で取り付けるために、国土交通省の官僚らが地方政府の役人たちを動かして立ち上げた会議体の種類とは、具体的には次のものである。

関東地方小委員会、ワーキンググループ、北杜市中部横断自動車道活用検討委員会、関係者ワークショップ、市民ワークショップ。

 実際には、この関東地方小委員会の上には道路分科会があり、さらにその上には、会議体の頂点としての社会資本整備審議会がすでにあるのである。

 そこで例えば、関東地方小委員会について、その会議体はどのような構成員でなっているか、それを見るとこうだ。委員長は筑波大学大学院のシステム情報工学の石田東生教授。委員長を除く委員は全7名で構成されている。しかしその委員の中には、標高700mから1300mにわたる八ケ岳南麓地帯での高速道路建設には不可欠と思われる生態系学者や植物学者そして地質学者、水理工学者、土木工学者、風景・景観工学者などは一人もいなければ、地域全体を総合的見地に立って計画することを専門とする都市計画者も一人もいない。いるのはただ都市交通工学者、都市交通計画学者、環境経済学者、貿易・観光学者だけだ。

 しかもそのうち3名は、組織的には関東地方小委員会の下につくワーキンググループの委員も兼任しており、その彼らはいずれも大学の教授、准教授、経済団体代表あるいはNPO代表という立場なのである。

 私は、筑波大学の石田東生教授に合計5回直接電話したのである。

あなたは、いつ、誰に依頼されて委員長を引き受けたのか、と尋ねようと思ったからだ。

側近の事務官がその度に電話に出たが、教授はいつも「留守」と言われた。

そこで、帰られたならここへ電話をいただきたいと事務官に頼んだが、ついぞ教授からの電話はなかった。

 ではワーキンググループとは何だったか。

実際、ワーキンググループの委員の「現地視察」した際の姿勢はと言えば、自分の専門的知識を生かした、「検証が可能」となるような客観的で科学的な数値的データを採る者など一人もいなかった。つまり、ここでも、いかにも現地視察したという体裁を整えるだけのものであることが、ありありと見て取れたのである。

 当初のアンケート用紙には、「みなさまから頂いたご意見は、事務局でとりまとめ(関東地方小)委員会に報告する予定です」とはあったが、上記のような極めて偏った、というより本当に必要な専門家のいない委員構成の関東地方小委員会に、アンケートに示された私たち関係住民の意見は、どうすれば客観的かつ公正に当該自動車道を建設すべきか否かの判断ができると言うのだろう。

 これを見ても、国土交通省の官僚たちの姿勢は、最初から「自動車道の建設ありき」で貫かれていて、アンケートも、そして関東地方小委員会もワーキンググループも、ひたすら、建設へ向けての雰囲気づくりである、と断定できるのである。

 実際、筑波大学の石田東生教授を委員長とするこの「関東地方小委員会」は、平成26年(2014年)7月23日、構成委員の誰も何ら客観的な調査検討結果らしいものを示すことはなく、ただ互いの主観を述べ合うだけで、国交省官僚が山梨県側の「北部区間」におけるルートを、それも当初住民に知らせ、意見を求めた幅3キロメートルのルート案を、住民の意向を聞くでもなく、また住民説明会を開催するでもなく勝手に1キロメートル幅のものに改竄したルート案を、石田委員長はそれを何となく全会一致による承認という結論にしただけなのである。

しかし、全会一致とは言っても、実際には、その日は委員長を含む全8名の委員のうち2人が欠席だった。そしてその結果は、当該事業を進めたい関係官僚に対しては「お墨付き」を与えた格好なのである。

 なお、官僚たちが、当初関係住民に示していた幅3キロメートルのルート案を、1キロメートル幅のものに改竄したのは2012年11月21日である。

 

 なお、北杜市中部横断自動車道活用検討委員会や関係者ワークショップそして市民ワークショップを設けては、その会議体を仕切ったのは北杜市役所の建設部のJ部長、S次長であり、同建設部の道路河川課のT課長だった。

 とにかく重大問題なのは、こうした事態に対しても、国土交通大臣山梨県知事も北杜市長も、全く官僚任せ、役人任せの態度でいたことだ。

 

 私はこうしたことが官僚や役人たちによって繰り返される中、疑問に思ったのである。なぜ官僚たちはこれほどの数の会議体を縦につながる形で設けようとするのか、と。それも、既述の【原則1】と【原則2】と【原則3】を無視してである。

 そのことについて、「中部横断自動車道の北部区間」の事業とは関係なく、ごく一般的に考えれば、その理由は二つあるのではないか、と私は考えるのである。1つは、このようにいろんな種類の会議体を設けることで、いかにもより多くの国民の意見を取り入れて決定したという、言うなれば民主主義的手続きをきちんと踏んで決定したことであるとのポーズをとりたいから、というもの。もう1つは、こうすることによって、何が、どこの段階で決定されたのか、あとで国民の誰にもわからなくさせてしまうために、つまり「責任」の所在をうやむやにしてしまうため、というものだ。

彼らが、会議をしても、よく、議事録を取らなかったり、公文書を改ざんしたり、また公文書を廃棄してしまったりということを繰り返すのも、結局は、このように責任を追及されたくはないからであろう。つまりそれだけ、官僚らは、国民には知られたくないことを、知られたくはない仕方で、やっているからであろう。

 でもそれも結局は、彼ら官僚や役人をコントロールすべき政治家(閣僚や首長)がその役割を全く果たしていないからなのだ。役割を果たさずに、むしろ官僚や役人に操られているからなのだ、と私は断定する。

 

 また、こうしたことに関連して、私が日頃不思議に思っているもう一つのことは、メディアは、TVや新聞をも含めて、よく“○○審議会の答申”だとして報道するが、そのとき、どのメディアも、「すでに審議会ありき」の態度で報道するだけだということである。その審議会はどういう人によって構成されていて、その各委員は、いつ、誰から、どのような基準に拠って選任されたのか、ということについては、まったく問題としないことである。

 なぜなら、その審議会なり委員会は、どのような種類の人たちから成り立っているのかということによって、結論は、あらかじめ、ほぼ決まってしまうのではないか、と私には、これまでの体験上、考えられるからである。

 

 そこで私は、以上をまとめる意味で、ここで、中央政府の大臣や地方政府の知事あるいは市町村長には是非とも気づいてもらいたいことがある。

それは、政府というのは、中央政府であれ、地方政府であれ、あくまでも三権分立で言うところの行政、つまり政治の執行機関だということだ。もう少し詳しく言うと、民主主義政治においては、それぞれが独立した権力を持って、立法権と行政権と司法権という役割を果たさねばならないとする三権分立の原則に立ち戻って考えてみれば直ちに判るように、政府というのはあくまでも執行機関なのである。それも、立法機関であり議決機関でもある議会(国会を含む)が議決した予算を含む法律(あるいは条例)や政策を執行することを役割とする機関なのである。したがって、そんな政府においては法案や政策案を作るための審議をする審議会はもちろん各種の委員会などは、そのいずれも、まったく不必要なものなのだし、むしろそのようなものは作ってはならない機関であるということだ。

 むしろ政府がすべきことは、政府の長であるところの総理大臣あるいは知事あるいは市町村長の指揮の下に、国会を含む議会という最高権力機関が決定したことを、いかに最少の資源でいかに効率よく実施して最大の効果を上げうるか、その具体的な方法を練ることであり、またその練った方法に基づいて速やかに執行することなのである。

 そして特に中央政府の場合には、その中枢としての内閣での閣議とは、まさにその方法を議論して決め、決めた方法に基づいて、各府省庁が互いに連携しながら————つまり府省庁間の横の連絡を断つ「縦割り」を排除して————、執行に向けて互いにどう動いたら、議会が議決して公式のものとなった予算を含む法律なり政策を、いかに最小の資源で、いかに効率よく実施して、最大の効果を上げうるかをこそ議論する場なのだ。

 ただその時、その方法を決める際、あるいは決まった方法を執行する際、もし必要なら、官僚ではなく、大臣が大臣の名において、その関連分野の科学者あるいは技術者を閣議に招聘し、彼らの意見や助言を聞けばいいのである。

 

 では、「中部横断自動車道北部区間」の公共事業において、既述してきたような「公務員」として絶対にあるまじき言動を繰り返してきた官僚や役人は、その後、どのような処遇を受けて、どのような人事異動をして行ったろうか。

 それを、私たち北杜市の住民にこの事業計画がアンケートを通じて国土交通省の官僚らによって初めて明らかにされた2011年(平成23年)初頭から、4年後の2016年(平成28年)4月1日までにおいて見てみる。

 結果は次のようになる。

 国交省甲府河川国道事務所に所属し、当該事業を進めようとして延べ11回に及ぶ「地元説明会」で地元民を操作して来た対策管であったK氏は国交省大宮国道事務所の副所長に、同じく国交省甲府河川国道事務所で、当該事業を中心となって進めて来た副所長だったO氏は本省に戻って国交省道路局へ、山梨県庁の県土整備部高速道路推進課で課長だったO氏は国交省相武国道事務所長に、北杜市役所の建設部に新設された次長として山梨県庁から送り込まれたS氏は山梨県リニア交通局主幹に、とそれぞれ異動したのである。

 こうしてみると判るように、いずれもいわゆる「栄転」である。

 

 果たして公務員の人事評価システムはどのような仕組みになっているのであろう。このような民主主義を破壊する行為をした者を栄転させるような人事評価というのは一体誰がするのであろう。

やはりここでも、政治家はほとんど関わってはいないように見える。

それにそもそもこうした人事評価による栄転がなされるということは、その時の人事評価基準は、行政を行う上で、明らかに、憲法第13条にいう「すべての国民を個人としてどれだけ実際に尊重したか」ではなく、また憲法第15条にいう、公僕として「どれだけ国民全体の奉仕者たり得たか」でもなく、その官僚ないしは役人が所属する組織の権益の拡大と維持にどれだけ貢献し得たかであることが明白だ。

それでは、この人事評価システムは、官僚独裁を助長することにしかならない評価システムということになる。

 実際、このような人事評価と、それによる人事異動のさせ方は、官僚や役人の組織にとっては、次の2つの点で、まさに望ましい効果をもたらすのである。

 1つは、こうした人事考課に基づく異動が組織内でなされれば、その人事考課のなされ方を身近に見ている後進の官僚や役人にとっては、彼等先輩のように狡猾に主権者に対応すれば自分たちも組織内では高い評価を得て出世できるのだ、と学習させる有効な手段となることだ。

 もう1つは、こうした人事異動をすれば、官僚や役人の目論んでいる事業の進め方をめぐって、国民あるいは関係住民がその後何らかのきっかけで組織あるいは当該官僚や役人の責任を追及しようとしても、その時にはもうその人物はそこにはいないということになり、市民として責任を追及することが難しくなり、その分、官僚組織や役人組織から見れば、主権者に対してなした憲法違反行為そして民主主義を無視した行為の責任を国民から追及されなくて済む組織防衛策となるということだ。

 しかし、反対にこれを国民の側から見れば、彼等官僚や役人は、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」を地で行き、集団で国民のお金を横領する、文字どおり「国を乱す者」という意味での国賊であり、共同体という社会や国の秩序を進んで破壊し、道徳心を劣化させる輩の集団だということになる。

なぜなら、1つは、国会が議決していないのにもかかわらず、すなわち国民が合意していないにもかかわらず、国民のお金を流用しては自分たちの利益を実現するために使っていること。1つは、その許されない行為を強引かつ狡猾にやってのけた者ほど出世して厚遇を得ることになる、その厚遇分のお金もやはり国民のお金だからだ。

 考えてみれば、この国では、憲法第15条の第1項「公務員を選定し、およびこれを罷免することは、国民固有の権利である」が、公務員を監督しコントロールすべき使命を担った大臣あるいは首長によって生かされた試しは一度としてない。

そしてそれは当然であろう。政治家が全て官僚に依存し、官僚に立法権を丸投げしている以上、上記憲法条文が生かされるような法律が官僚によって作られるわけはないのだからだ。

 さらに言えば、「公務員を選定し、・・・・は、国民固有の権利である」とは憲法で言っていても、そうした官僚や役人という公務員を選定するための国家公務員試験や地方公務員試験の試験問題づくりも、またその合否の判定も、全ては官僚任せであり役人任せなのだ。

 そんなことでまともな公務員————憲法で言う「全体の奉仕者」との自覚を持った公務員————が「選定」されるはずもなければ、育つはずもない。国賊である官僚が、自分たちと同じように行動してくれる仲間を集めているだけなのだから。

 何れにしても、この日本という国を実質的に官僚や役人に乗っ取らせているのは、国民から選挙で選ばれることを自ら望んで主権者の代表となった政治家自身なのだ。

つまり、この国の政治家という政治家は、根本から国民と民主主義を裏切っているのだ(2.2節)

 そんな国に民主主義が実現することなどどうしてあろうか。少なくとも、当面は。

 

最後の4.について。

 では、一人では行使する勇気もなく、それゆえにつねに集団で行い、それも、中央府省庁から地方の市町村役場にまで至る縦割の組織構成を最大限悪用した形で行うその非公式権力の行使の仕方あるいは手口とはどういうものか。

 それを以下に明らかにしようと思う。

その際、参考にさせてもらったのは、元通産省の官僚古賀茂明氏の著(「官僚の責任」PHP新書p.60〜61)と、元厚生省の検疫課長宮本政於氏の著(「お役所の掟」講談社)そして元通産省の課長並木信義氏の著(「通産官僚の破綻」講談社+α文庫)である。いずれも、元官僚である。

 これらの著書から見えてくる官僚や役人の公務遂行上の手口とは、いずれも、結局のところ、「だれにも気付かれないよう、こっそりやってしまおう」ということであり、「責任の所在を判らなくさせてしまおう」という動機から考え出されてくるもののようだ。そうすることで、「いつでも自分たちの恣意的な判断や裁量を差し挟める」としているのである。

 ではどうやってこっそりやるかと言えば、「意図的に内容をわかりにくくする」方法がもっともよく使われるのだという。

具体的には「いくつにも分ける」、「小出しにする」のだ、と。文書を出すにしても、一つの文書として一度にまとめた形で表に出してしまうと、多くの人にすぐに自分たちの意図を悟られてしまうので、「あえて内容をバラし」て、「バラした内容を複数の文書にちりばめ」、なおかつ「発表時期をずらす」のだ、と。

 だれにも気づかれないよう、こっそりやってしまう他の方法としては、「具体的に何をするかはその時点では明記しないで曖昧にしておく」、そしてさらに、「曖昧にしておいた目的をその後、さりげなくすり替えてゆく」のだそうだ。

 官僚が外に向けて書くあらゆる文書についても、そこに用いる用語については、それを読む国民には細心の注意が要る、とその先輩官僚らは注意を促す。

 たとえば憲法が「国権の最高機関」と明記する国民の代表が集う国会においてさえ、そこで各政党代表が閣僚に質問した際の官僚の代筆する答弁書の文章に使われる用語についても、本音は決して表に現れないようにして、かつ官僚のシナリオどおりに滞りなく議事が進行するようにと、次の意図が込められていると言う。

例えば「前向きに」という用語が使われた場合には、遠い将来には何とかなるかもしれないという、やや明るい希望を相手に持たせるためだという。「鋭意」は、明るい見通しはないが、自分の努力だけは印象づけたいときに使う。「十分」は、時間をたっぷり稼ぎたいという時に使う。「努める」は、結果的には責任を取らない、取るつもりがないときに使う。「配慮する」は、机の上に積んでおくことを意味すると言う。「検討する」は、実際には何もしないこと。「見守る」は、人にやらせて自分では何もしないこと。「お聞きする」は、聞くだけにして、何もしないこと。そして「慎重に」は、ほぼどうしようもないが、断りきれないときに使う。だが実際には何も行われないということを表わすのだと言う。

 官僚が作る文章中に置く「等」という文字についても、こう注意を促す。

「・・・・等」をつけることによって、内容をまるっきり変えてしまうのだ、と。

だから、「等」を付けてあったなら、その前に書いてある内容以外に、もっと重要なことがある、あるいは、これまでの文章には書いてないけれど、こういう運用をします、と言っているんだ、と深読みしなくてはいけない、と忠告する。

 要するに、官僚たちの主権者に対して用いる常套手段とは、物事の真実は知らせないようにする、あるいは全貌は知らせないようにする、知らせるにも明確には知らせない、あるいは、一義的には判断も解釈もできないようにしてしまう、というものだ。あるいは物事がいつの段階で、誰によって、どのようにして決まったのか、その過程をも判らなくさせてしまうというものだ。

 これらは、結局のところ、秘密主義を通す、ということなのである。

 住民からの質問にも、住民は役人から見れば主権者であり、自分たちはその主権者に対する「全体の奉仕者」であることは言葉では知っていても、不都合な問いには一切答えない。もちろん住民からの文書による、回答を文書で求める質問にも、“そのような答え方をしたことは前例がない”として、文書では絶対に答えない。答えるにしても、本来の公文書としての体裁を整えない、つまり公文書とは言えない形で答える。その場合も既述のような官僚用語を駆使して答える。

 これがこの国の官僚および役人の公務を行う時の常套手段であり、こうすることが組織内では暗黙の取り決めとなっているし、組織の記憶ともなっているようだ。

 

 官僚と役人がそうした言動に出るときに共通して見られることは、自分たちがしていることは間違ってはいないという態度であることだ。というよりもむしろ“何が悪いんだ!”と開き直りさえすることがある————例えば既出のS次長がそうだ————。一方、彼らにはほとんど誰にも、個人としての誇りや矜持はまったく見られず、また仕事への誇りも見られない。そして、人間としては、誰も、精神は全く虚弱で、きわめて臆病な存在なのである。

 

 以上が、所属府省庁の権益拡大と自己の保身のためには憲法も民主主義も無視する官僚、そしてその官僚に隷従する地方の役人の実態の概要である。

 しかし、ここから先は本節の主題から若干それるが、これも極めて重要なことだと私は考えるので、敢えて補記しておこうと思う。

それは、これまで記してきたような、まるで自分たちがこの日本という国を動かしているかのような錯覚に囚われ、主権者である国民を見下し、民主主義を虚仮にするような官僚そして役人は、いかにしたら生み出さないようにできるか、という問題である。

そしてそのことは、主権者である私たち国民として、どのような公務員を受け入れるか、という問題であって、その意味では、いわゆる「公務員制度改革」や「行政改革」あるいは「公務員法の改正」といった問題以前の課題ではないか、と私は思うのである。

そもそもそれらの名称では、抽象的で、あるいは漠然としていて、私たち国民にはその中身がわかりにくいからである。

 もちろん、それを実現する上で第一に肝心なことは、中央政府の官僚あるいは地方政府の役人を統括しコントロールできる政治家としての使命を自覚できた政治家を私たち国民が、本物の「市民」となって、現行の「小選挙区比例代表並立制」なる問題のありすぎる選挙法を根本から改正しながら、生み、育てることであることは言うまでもないことではある。

 しかしそれだけでは、官僚や役人の数は政治家の数に比べたら圧倒的に多いので、不十分だと思う。

 そこで、私は、日本を本当の民主主義の国とするために、現在の政治家にあらかじめ次の制度を勇気と使命感を持って定めてもらうことではないか、と思うのである。

それは、これまでほとんど死んだ条文でしかなかった、現行日本国憲法第15条の第1項「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」を具体的に生かすためである。

とにかく、現行のままでは公務員の質も能力もますます劣化して行くことは間違いないのだからだ。そこで、現在の政治家にあらかじめ定めてもらいたいとする制度は次の5つからなるものだ。

ただし、その際の要点は、官僚あるいは役人を一切介在させないで、政治家————この場合には特に立法機関の政治家である————が中心となって主導する形で国民の力を積極的に借りて定めることである。

 ⑴公務員試験のあり方を現在のものから次のようなものへと根本的に変えること

・公務員試験の作成者を憲法学者あるいは法学者と、一般市民の代表者とする。

・その際、憲法第15条、「法の支配」、「法治主義」、権力の成立根拠等を真に理解で来ていて初めて合格できる試験問題とする。

・その公務員試験のあり方を国会が議決して公式の法律とする。

 

 ⑵公務員の勤務評価の仕方を根本から変えること

・公務員の勤務評価については、客観的で公正な基準を、同じく憲法学者あるいは法学者と一般市民の代表とで作る。

とにかく、「法の支配」や「法治主義」を無視したり、組織の既得権の拡大や維持に貢献したりした公務員を出世させるような従来の官僚独裁を進めてしまうような勤務評価システムは根底から破棄する。

・その公務員の勤務評価の仕方を国会が議決して公式の法律とする。

 

 ⑶公務員の人事異動のさせ方も根本から変えること

・「法の支配」や「法治主義」を無視したり、組織の既得権の拡大や維持に貢献したりした公務員は担当大臣の判断のみで降格できるようにしたり、悪質な公務員については、罷免できるようにする。

・担当している公共事業が未完の場合には異動させないようにする。途中で異動してしまうような異動システムだと、“どうせ、途中で、異動できるのだから”と、事業への真剣さや責任意識が軽くなる可能性があるからだ。手がけた事業は最後まで遂行させる。

 

 ⑷公務員の民間企業への定期的な研修制度の実施

・民間企業人がどれだけ、日々、苦労して職務についているか、どういうところに重点を置いて仕事をしているか、それを自らが民間企業に加わることで体験する。

・民間企業人は、どのようなコスト意識を持って職務についているか、会社として得た利益をどのように生かしているかを知ることで、公金、即ち国民が納めてくれた税金をいかにしたら無駄に使わなくて済むようになるか、予算を切り詰められるか、を学ぶ。

 

 ⑸公務員の「天下り」の完全撤廃

・「天下り」をした者は、そのものが在籍したときに担当した大臣がその大臣の名において罷免できるようにする。

・「天下り」自体、社会に対する不公平で不公正な行為であるという意識を全公務員に担当大臣あるいは首長が配下の官僚ないしは役人に徹底させる。

 

 

追記
 本日(2022.3.17)、この節を公開するにあたって、昨夜行われた岸田文雄総理大臣のロシアのプーチン大統領ウクライナ侵攻に対する日本の経済制裁強化策を緊急記者会見の場で発表する同首相のメッセージにはこんな一節があったので、本節のこれまでの記述経緯と関連させて、ここに追記しておきたいと思う。

 岸田総理はこういう言い方をしたのである。

“自由、人権、「法の支配」といった普遍的価値を守るために、・・・・・。”

安倍晋三元首相、菅義偉元首相と同様に、岸田氏も、自分が何を言っているのか、判ってはいないようだ。一体、この国では、誰が「法の支配」を守っているというのだろう。

 自分の足元の官僚たちをコントロールできていないだけではなく「操り人形」になっているから、官僚たちが実際には何をどのようにしているか、さっぱり見えていないのだ。

いわば幻の状況を語っているだけなのである。