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大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済————「その3」

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11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済—「その3」

 なお、本節を閉じるに当たり、最後に、これまでのおよそ2、30年間の世界の資本主義経済の主要な流れと、その結果としての現在の世界の経済の状況について、専門家たちはそれをどう観ているかを概観しておこうと思う。

以下は、NHK BS1スペシャル「欲望の資本主義2017 ルールが変わるとき」(2017年1月3日)の要点である。

 ここに登場する識者は以下の8名である。

「ジョセフ・スティグリッツ(2001年ノーベル経済学賞授賞経済学者)、「アルヴィン・ロス(2012年ノーベル経済学賞授賞経済学者)」、「ルチル・シャルマ(モルガンスタンレー投資ストラテジスト)」、「エマニュエル・トッド(歴史人口学者)」、「トマス・セドラチェック(チェコ総合銀行チーフエコノミスト)」、「安永竜夫(三井物産代表取締役社長)」、「原丈人(デフタパートナーズグループ会長)」、「小林喜光(三菱ケミカルホールディングス取締役会長)」。

 太古から人は所有と交換を繰り返して来た。そしてあるとき、お金が生まれ、市場が生まれ、欲望の交換は貨幣なるものに託された。

 資本主義、それはお金・資本を際限なく投じ、増殖を求めるシステムのこと。

プロテスタントの禁欲の精神が人々に富の蓄積をもたらしたことで広まったその資本主義は、いつの間にか“成長が絶対必要条件”と考えられるようになり、いつしか、“経済は成長し続けるものである”ということが当然のように見なされるようになっていた。

 それが、2008年、リーマン・ブラザーズの金融破綻を契機に、世界はどこの地域も、「成長」は止まったかのように思われている。少なくともその金融破綻を起こす前のペースではなくなった。そんな中、“もう投資も成長も見込めない”と言う人もいる。

 その経済の低成長については、“世界は今、どこの国でも、総需要が減少しているからだ”、と世界の著名な経済学者やエコノミストは言う。

 一方、別の識者は、“今、世界が需要低下に陥っているのは、グローバル化による自由貿易が各国の経済を押し潰し、人々の収入の低下をもたらしたからだ”、とも言う。

 ところでそこで言う「成長」とは一体どういうことなのか、何を意味するのかは、経済学者やエコノミストはこれまで誰も明らかにしてこなかった。

 そんな中、“成長よりも安定が大事だ”、と言う経済学者も出て来ている。

それに、“もはやGDP国内総生産)で経済力を測ったり、その数値の伸びで経済の「成長」を測ったりすることは無意味だ。そのGDPには環境汚染も資源乱用を考慮に入れていないし、富の分配も、社会の持続性も考慮されてはおらず、問題だらけだからだ。むしろGDPは、もはやGross Debt(負債、ツケ)Puroductでもあるのだ”、とも言う経済学者もいる。

 これからはさらにテクノロジーが進歩し、ロボット化がもっと進むだろうから、雇用は奪われ、社会の失業率が30〜40%にもなる日が来るだろう。そこへ、人工知能がさらに高度に発達すれば、人間の働く領域は限られてゆき、その結果、総体として人間の仕事は減り、失業者がさらに増え、長い眼で見れば、賃金も下がり続けてゆくだろう、とも言う。それは、資本主義は、人間の労働を基本としたシステムから高度に自動化されたシステムへと移行してゆくだろうからだ、というのが理由らしい。その一方で、“二人に一人が働くだけの社会となったら、その時は、社会主義とはなってはいないだろうが、判らない。今とは別の社会システムが必要となる。その場合、ものの見方を変えたら、新しい景色が見えるんじゃないかな”、とも言う。

 消費への欲望を満たすために、あるいは要らない物を買うために、ときに、したくもない仕事に就いていることもある。しかしそれは生きるための消費では無い。

そんな果てしない欲望を技術がさらに駆り立てる。まだまだ繁栄できるし、新たなイノベーションを生み出せるはずだ、と。

しかしその一方で、マクロ経済学の統計から見ても生産性の上昇は認められていないのだ、と。だから、テクノロジーやインフラや教育にもっと投資しなくてはいけない。そしてそれは政府が政策としてすることだ、と言う。

 しかし、その一方で、“人はどんなに働いたところで、欲望を満たすだけのものは作れないし、手にも入れられないのだ”、とも言う。

 ところで、「利子」とは謎だ。それは、未来の利潤のために人を休むことなく働かせる。金は時を超えて増え、時が金を生む。元々、物と物の、あるいは欲望の交換のための手段だった貨幣は、今やそれを貯めることが自己目的化してもいる。それは、お金があれば何でも買えると思っているからだ。あるいはイザというときの防衛のためだ。

 資本主義の推進力は需要と供給が刺激し合う市場だ。そしてその資本主義は科学と技術を両輪として進む。市場では、需要と供給が一致することで価格が決まるが、その価格は人々の間の同意の結果だ。そして価値は人々の「欲望」と「満足感」が交わるところに宿るのだ。だから欲望は幻想なのだ、と。

 歴史上、経済学者は、“市場には各人の「自己利益の追求」(インセンティブ)が「見えざる手」に拠って調節される機能があるから、バブルなんか心配するな”、と人々にけしかけてきた。

 実際、歴史は、技術革新が行われる度に、バブルを経験して来た。

 また、アメリカが30年ほど前に創り、牽引して来たグローバル化の波は、経済の発展ステージの異なる世界の人々に、時空を超えて、闘いを強いてきた。しかもその波では、アメリカ、とくにウオール街は、ますます不平等を生むようなルールに書き換えたのだ。つまりウオール・ストリートの人間による、目先のことだけに人々が夢中になってしまうようなルールの変更だ。そしてその結果、市場経済の効率性が下がり、生産性の下落を招いただけでなく、世界には猛烈な格差社会を生んだ。それは私たちの市場経済が招いた決定的な変化の一つだ。

 だから、今再びルールを書き換えなくてはいけない。これからのルールは、繁栄を分かち合い、より成長し、より公平な分配を促すものでなくてはいけない。

 金融危機以降の今、反グローバル化、反エスタブリッシュメント(反支配層)の動きが起こっている。それは、「社会の信頼」を守るには人の欲望に限度を設けるべきだという主張に基づく動きだが、それは資本主義のルールをもう一度書き換えるべきだ、という主張と重なるものだ。

 “それにしても「経済学の父」アダム・スミスは、一方で利己主義である「自己利益の追求」こそが社会を調整すると言い、他方ではこれとはまったく反対に、人間の「共感」が社会を結びつけると言う。これには混乱させられる”、と。

 一方、ケインズは、“社会にとって最も怖れるべきは「失業者の増大」だ”と強調し、“失業者を減らすためには、国家は借金をしてでも仕事を創らなくてはダメだ。そして「お金」という血液を市場に巡らせることだ”、と主張する。

しかし今、世界の多くは、そのケインズの理論を悪用し、「経済成長」のためという口実の下で、金融危機とは無関係に借金しまくっては、その総額を増やし続けている。

 この世界は、人の欲望でつながっている。

 資本主義はどこへ向うのか? 世界経済はどうなってゆくのか?

未来は絶対予測できない、不可知だ、不確実だ。

しかし、どっちにせよ、既存の理論や支配層が崩壊しつつある今、天動説から地動説へのパラダイム・シフトのようなものが私たち人類には求められているのかも知れない。今の世界は、今まで信じていたものがもはや信じられなくなった世界なのだから、とも言う。

 しかし、そうは言っても、これからの経済のあり方、またそのための理論は、今のところ見出せていない、と言う————。

 

 以上がここ2、30年間の資本主義経済の世界の流れについての世界的著名な経済学者・エコノミストそして識者たちの主たる見解である。

 私はその中で二つの表現が気になった。

1つは、“もう、人は後戻りできない”、というもの。

もう1つは、“不確実とリスク(危険)は違う。それを混同したなら、それこそ危険が待っている”、という表現だ。

 前者について。

 たしかに《エントロピー発生の原理》によればそのとおりだ。

それに、過ぎ去った時間は取り戻せないし、タイムスリップすることもどうやったってできない。そういう意味では、もう後戻りはできないというのは真理である。

しかし私は、そうした真理を踏まえた上でなお、次の理由と根拠に基づいて、後戻りすべきこと、取り返すべきことはあるし、またそうすべきであろうし、またそれはできるとも考えるのである。それは私たちは人間なのだからだ。自然界のことはともかく、人間社会のことは人間が作ったものなのだから、それは人間の力でできるはず、と考えるからである。

 その理由と根拠とは、かつて、ある場所の、ある人々が考え出した知恵と、その知恵に基づいて文化となったもののうち、特に人間として、またその集団である社会として大切なモノやコトは、たとえどんなに時間が経っても、それは掛け替えのない智慧の結晶であると判断されたなら、やはり失ったり失われたりしてはならないものなのではないか、と私は思うからだ。

 要するに、モノやコトには、失ってもさほど問題の起こらないものもあれば、一度失われたなら、二度と取り返しのつかないものもあるはずだからだ。

“埋もれた歴史や文化に光を当てる”とは、そういうことを言うのではないか。

そしてそのときも、これまでに人類が見出し蓄えて来た科学的な知識や文化的な智慧を総動員しながら、取り戻すことのできるコトやモノに光を当てることによって、単に取り戻すだけではなく、それらを今日的な意味で最高度に洗練させ直した形で花開かせることだってできるようになるのではないか。

 登山でもそう、戦争でもそうである。“このまま突き進んだら危険だ、破滅だ”と何らかの客観的な根拠や兆候に基づいて感じたなら、そのときには、ともかく一旦立ち止まってこのまま行くべきか否かを大至急再検討し、その結果、やはり危ないとなれば思い切って引き返そうとするのが真の勇気だろうし、そう判断させるのが真の智慧なのであろう。そしてそう決断させるのは、結局はその人の、家族への、郷土への、国への、人類への真の愛に基づく理性であり、私たち人間は、生きているのではなく自然によって生かされているのだという自然への感謝の心なのではないか。

 そしてその真の愛に基づく理性と自然への感謝の心がいま、最も求められている方向が、社会における「経済」あるいは「経済システム」のあり方に対してではないか、と私は思うのである。

 では、後者について。

経済学者たちは、“不確実とリスク(危険)は違う。リスクはある程度計算できるが不確実性はそれができない。その相互の区別は明確にすべきだ。それを混同したなら、それこそ危険が待っている”、と言う。

 私もそこまではそのとおりだと考える。そして「それを混同し危険が待っている状態」こそがクライシス(危機)なのだ、と思う。

 しかし彼らの発想はそこで止まっている。

私は、「計算できない不確実性」ではあっても、それを私たち人類に乗り越えさせてくれるものや手段はあると考える。それは原理と歴史だ。

 つまり、自然や社会を貫きながらそれらを成り立たせている、人智・人力を超えた理であり掟であり法則としての原理(4.1節)と、人間が辿って来た証としての歴史を道しるべにすることこそが、その不確実性を乗り越えさせてくれる唯一の道ではないか、と私は考えるのである。

もちろんその道には、人間の欲望や都合あるいは恣意など入り込める余地はまったくない。だからこそ“確実”なのだ。

その原理とは、本書で言う《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》であり、それこそが私がこれからの環境時代と呼ぶべき「不確実」な時代の指導原理としているものである。

 いずれにしても私は、人類は「お金」を生み出した瞬間、いわば「ボタンの掛け違い」をして歴史を歩み始めたのだと思う。そして市場経済が中核をなす資本主義経済社会の中では、たとえルールを再びどのように書き換えたとしても、その本質上、たとえばノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツ教授の言うような「繁栄を分かち合い、より成長し、より公平な分配を促す」ような資本主義経済には決してなり得ないとも思う。

 そこで以下では、こうした問題意識、問題提起を踏まえながら、そして私の場合、既述のとおり(第1章)、「近代」は終り、資本主義も同時に既に終っているという認識と前提の下で、これからの経済のあり方とそのシステムを具体的に考えてみようと思う。

11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済————「その2」

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11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済—「その2」

 ところで、経済関係の専門家はよく、仕事が生み出されて雇用が創出されるためには「経済を刺激し、活性化させる必要がある」とは言うが、そもそも「経済を活性化させる」、あるいは「経済を成長させる」とはいったいどういうことなのだろう(4.1節の「経済成長」の定義参照)。

 これまでどこの国も、経済成長の度合いを測るのにGDP国内総生産)という指標を用いて来た。しかしこれは不適切な指標であると私も思う。なぜなら、そのGDPには、環境を汚染する人間の経済活動も含まれてしまっているし、資源を乱用する行為も含まれてしまっている。またそこには富の公正な分配ということも社会の持続性ということも考慮しない経済活動も含まれてしまっているからである(ジョセフ・スティグリッツ「欲望の経済史〜ルールが変わるとき」BS1スペシャNHK BS1 2018年4月8日?!)。

 つまりGDPは、経済行動の正の面も負の面も区別なく組み込まれてしまっている指標だからだ。

ところが、どの国も、そんな性質を持つ指標の数値を上げること、それも果てしなく上げ続けることに拘っているのである。それがその国の経済が活性化していること、あるいは経済が成長していることの証なのだから、として。

 しかし、たとえDGPをもってその国の経済の発展度合いを示す指標であるとしても、果たして「経済を果てしなく成長させる」ことなどできることなのであろうか。

それは明らかに不可能だ。それは次の真理を考えただけで容易に、確信を持って答えられる。

1つは、経済を成長させるには、そのための資源が要る。鉱物資源、エネルギー資源、人的資源、等々。しかしそれらは、どこの国であれ、常に有限だ。無尽蔵な国などない。

もちろんそれらを国相互で奪い合うなど、愚の骨頂だ。

1つは、人間の活動、特に経済活動には、《エントロピー発生の原理》により、エントロピーの発生とその増大が伴う。そしてそれが、地球上に、ある一定量以上に増えたなら、全ての生命活動は維持できなくなる(第3章)。

1つは、そこでそのエントロピーを、ある一定量以上地球表面上に溜まらないようにしようとして地球の外の宇宙に捨て続けるためには、あるいは捨て続けられるようにするには、地球表面上での物質循環、とりわけ「大気と水と栄養」の循環を、経済活動を活発化させればさせるほど活発化させなくてはならない。しかし、それには、自ずと限界はある。

 つまり、これらの真理から、GDPの数値を果てしなく増大させようとすることは、そのこと自体原理的に無理なことであるというだけではなく、そのようなことにこだわり続けたなら、どの国も、いえ人類として、自滅に向けて邁進していることに他ならない、ということだ。

 それに、そもそも、雇用を創出するために仕事をつくり出すという発想自体が逆さまだ。

 本来は、あるいは通常は、何かを実現しようとか、あるいは何かを作ろうという目的が先ず発想されるのである。

その目的が定まって後、ではその目的を実現するにはどうしたらいいのか、どうしたら実現できるのかという検討に入るのだ。

その検討項目の中には、普通、鉱物資源やエネルギー資源は確保できるのか、既存の技術でその目的が達成できるのか、それとも新しい技術を開発する必要があるのか、またその新しい技術の開発のできそうな人材は確保できるのか、開発にどれだけの時間をかけられるのか、そうしたことが可能となるだけの資金は確保できるのか、等々が含まれる。

 それらの目処が立った段階で、初めて、新たな仕事が生まれ、その仕事を達成するために、必要な人を必要なだけ雇う、という段取りになるのであるからだ。

 

 私は、先に、資本主義は自然と社会と人間に対して成立当初から本質的で決定的な矛盾をもって生まれた経済の考え方でありシステムだ、と述べて来た(第1章)。

資本主義という呼び名そのものはカール・マルクスがつけたものであるが、実はそう呼ばれるよりもずっと以前から、資本主義は人類の歴史の中に経済のシステムとしてあったのだ。ところがそれは当初から、その経済のあり方の中には本質的で克服できない矛盾と問題点を持っていたのではないか、と私は考えるからである。

 例えば、日本でも、戦後の社会にはすでに現れ始めていたが、それが今日ますます顕著になってきている現象に、人間の疎外の進展、人間性そのものがますます蝕まれるようになっていること、人間の集団である社会さえも崩壊に近づいていること、その上、生命一般をずっと生かしてくれてきたこの地球の自然のメカニズムそのものさえも破壊されるようになっていること、といったことが挙げられるが、それらは結局のところ、資本主義という経済システムが最初から持っていた本質的で克服できない矛盾と問題点がもたらしたものなのではないか、と私は考えるのである。

 では、資本主義という呼び方をされるその経済の考え方とそのシステムの中に当初から持っていたと私が考える本質的で克服できない矛盾と問題点とは一体何か。

それは、一言で言ってしまえば、「お金」である。あるいはそのお金そのものが持っている矛盾であり問題点である。

 参考までに言えば、鋳造貨幣が歴史上初めて用いられるようになるのは紀元前7世紀頃、小アジアのリュディア王国(現在のトルコ)と言われている(「『幸せ』について考えよう」NHK100分de名著 西研p120)。

 お金そのものが持っている矛盾であり問題点とは次のものではないか、と私は考えるのである。

 1つは、お金自身は、金という金属でできていようが、銀という金属あるいは銅という金属でできていようが、はたまた紙でできていようが、それ自身は、例えば、人間はそれを喰って生きられるわけではなし、何の価値もないものだ、ということ。

 1つは、ところが、それが一度貨幣として造られたり紙幣として印刷されたりしたなら、それを手にした人は、それを使うことで実体のある物を手に入れる(それを、私たちは、普通、「買う」と表現するのである)ことができる、としたこと。

 つまり、その交換がなされた瞬間、それまで何ら価値のなかったはずの「お金」が、人間にとってそれなりの価値あるとされる実体のある物に化けることができるのである。

 既述したことであるが、人間の労働とその量こそがそこで生産された物に価値を与えるとした見方(労働価値説)からすれば、それは明らかに、そして決定的な矛盾なのである。

 1つは、上記内容と関連していることであるが、社会のあらゆるモノやコト、自然界のあらゆるモノやコトはそれ自体は何の価値もない「お金」を介して、しかも本来、その性質上、値段など付けようもないものまでも、そんなこととは無関係に、値段すなわち「価格」がつけられれば「商品」となり、それが買い手によって “高い、安い”と評価されるが、しかしその際の価格の高いとか安いとかがそのままその商品の「価値」を表しているのではない、すなわち「価格」≠「価値」、ということ。

 1つは、それ自体何の価値もないそんな「お金」を、人間一人ひとりの暮らしどころか生死にも関わる経済活動の中で介在させ、しかもそれを途中で滞ることなく流通させることを通して、それをより多く得ることが、誰にとっても、経済活動の主目的となった、ということ。

そしてもう1つは、そんな「お金」を手に入れる仕方においては、その過程において、法律に触れない限りは、道徳も不要だ、としたことである————参考までに記すならば、「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一は、この、経済に道徳は不要とする考え方とは反対に、生涯、「道徳経済合一説」を唱えた(NHK BS1スペシャル「渋沢栄一に学ぶSDGs“持続可能な経済”をめざして」2021.4.29)————。

 

 つまり、これらのことからはっきりすることは、人類が長いこと採用してきたこれまでの経済は、「実体の無いお金でも、それを持ってすれば実体のある物が手に入れられる」とする、虚構に過ぎない話の上に成り立ってきたのだ。そんな話が世界中の人々に共通に信じられた結果として、である。

1980年代以降、グローバリゼーションやネオ・リベラリズム新自由主義)が世界規模で急拡大し、これまでの「お金」に「マネー」が加わったことにより、状況は一層矛盾を極めるようになった。これまでの「お金」にまつわる虚構の上にさらに「マネー」という虚構が重なったからだ。

 したがって、そうなれば、経済現象を研究する学問とされてきた経済学ではあるが、それはいっそう学問ないしは科学の一分野でもなくなるのである。虚構の上に成り立つ経済の仕組みや現象が学問ないしは科学の一分野として成り立つはずはないからである。学問あるいは科学は、つねに、人間の都合や欲とは無関係に普遍的に成り立っている真実あるいは真理の上にこそ成り立つものだからだ。

 

 ここでちょっと「お金」の歴史を振り返ってみよう。

とにかく、「お金」を預けておけば「利子」が付くという、中世ヨーロッパのイタリアではすでに1400年代にはあった話もよくよく考えればおかしな話だ。すなわち「時が富を生む魔術」としての利子のことだ(NHK BS1スペシャル「欲望の経済史〜ルールが変わる時〜特別編」2018.4.8)。利子とは、同じ場所でありながら、「時」を隔てることにより富を生むようにだれかが仕組んだ制度のことだからだ。また同じく、為替とはその逆で、時は同じくしながら、「場所」、とくに国を隔てることによって、利益を生むように、やはり誰かが仕組んだ制度なのである。

 それが近代の資本主義の時代になると、初めはお金の価値を保証するために、金(キン)とはいつでも交換できる紙幣であることを前提にしたまま、「労働」「生産」という実体とは無関係の株券とか証券・債券という紙片が人間の想像の中から創造され、それも、「お金」と同等の価値あるものとされ、売買されるようになった。

 そのうちには、紙幣あるいは貨幣はいつでも金(キン)とも交換できるという考え方も、金の保有量に応じて紙幣や貨幣を発行するという考え方も取り外されてしまい、紙幣も貨幣もその根拠を失うとともに、金そのものが紙幣・貨幣による売買対象商品とさえなってゆく。

 さらに紙幣・貨幣である「お金」をもって買った株券・債券・証券には、これまた当初の「お金」の役割とはまったく無関係な、「分配」という考え方に基づく「配当」という、働かなくとも手にすることのできるお金(不労所得)が付くようになり、それも紙幣・貨幣で支払われるようになった。

 その後は、「為替と株の値動き」が絶えず情報として流されるようになったことからも判るように、為替と株を介して、「お金」を「お金」で買うという事態にまでなり、そして今、世界の経済事情や政治事情のほんの少しの変化を衝いて、コンピュータのネットワークの中で、利ざやを求めて、「お金」と等価とされる単なる数字が実体の規模をはるかに超える規模の「マネー」として超高速で行き来するまでになっているのである。

 ところがそんなことが常時できるのは、それなりの設備や人材を抱えた資本力のある集団だけであって、市井の人間にできることではなかった。

このことが、結果的に、世界中に富の蓄えの格差を加速度的に拡大させてゆくことになった。既述した「空間」の隔たりを利用することで富を生むように仕組んだ制度、いわゆる「為替」制度がそれだ。安い国で買って、高い国で売ることによって儲けるという発想に基づくものであり、国ごとの通貨の価値の違い、つまり為替レートの違いを利用して儲ける、という発想に基づくものなのである。

 本質的で克服できない矛盾と問題点をその経済のあり方の中に元々持っていたと私が考える根拠はそれだけではない。

 これまで述べて来たような意味でのお金というものがあるからこそ「脱税」が可能となった。

それもとくに企業や団体に勤める一般のサラリーマンは「源泉徴収」という形で給料から自動的に税金が徴収されてしまうから誤摩化すことはできないが、そうでない政治家や有名企業や銀行のトップ、芸能人、有名スポーツ選手、弁護士などで、富裕者にはそれを可能とさせた。自国での納税を逃れるために個人情報の秘密を堅く守る銀行や租税回避地タックスヘイブン)に預けて納税を逃れる、というのがその一手法だ。

「買収」や「汚職」も、そして「麻薬の売買」も、「お金」というものがあり、それが社会で幅を利かせているから発想されるのである。「殺人」や「詐欺」や「横領」がなくならないのも同様だ。

絶滅危惧種であろうとかまわずに「密猟」が絶えないのも「お金」万能という発想がそうさせる。

「お金」があるからこそ、人間をしてその欲望を際限なく膨らませ、欲の虜にしてしまう。そしてその欲望が新たな欲望を生む。その新たな欲望がまた新たな抜け道を創らせて行く。

 結局、社会の不平等をつくらせて来たのも、突き詰めれば、すべて「お金」だ。

お金の力が、国民生活のあり方を左右する法律や国民の納めたお金の使途を決める最も重要な社会制度である政治を歪めて来たのだ。そしてそうした歪んだ諸制度を創ってきたのが、それが出来る権力・権限を社会人の中で唯一与えられながら、「お金」の魔力に負けた政治家たちである。彼らこそ、社会から誠実・正直・勤勉を失わせ、国民の道徳観や倫理観を衰えさせ、失わせて来た直接の張本人なのだ。

 こうして、必然的に、富める者はますます富むことになる。他方、そうした抜け道の恩恵に与れない者———それは概して正直者、まっとうに生きる者と言えるが———、その人たちは、相変わらずつましい生活を強いられる。その結果、格差はますます拡大することになる。

資本主義が弱肉強食の体制といわれる所以である。

 要するに形はどうであれ、今日、世界中に次々と生じさせている解決困難あるいは克服不可能な矛盾は、そのほとんどが「お金」がもたらしたものであると私は断じるのである。本来、「お金」そのものは物や労働とはまったく異質なものなのに、そしてその「お金」は、実体ある物や行為と交換するに当たって、ただ、「そうした交換ができる物であると相互に決めましょう」として成立しただけのもので、フィクションに過ぎないものだ。そしてそれは、実体のある物との間に何らの合理的で量的ないしは質的な説明を付けられるものでもなければ、そうした説明の成り立つものでもない。

 なお、不労所得をもたらす株式とか証券や債券も、実体ある物や行為とは全く無関係であるだけではなく、本来のお金ともまったく異質なものだ。そもそも自分は労働には全く参画していないのにも拘らず、それらを所持しているというだけで、他の者と交換しうる「お金」が入ってくるということ自体も、矛盾そのものなのだ。

であるのにも拘らず株式や証券や債券も価値あるものと信じられるようになったのは、それらのものの間にも、「互いに交換できる関係にあると決めましょう」とのルールを誰かがご都合主義的に設けてしまったがためである、と私は考える。

そして昨今は、仮想(ヴァーチャルな)通貨———たとえばビット・コイン———すら創案され、コンピュータ・ネットワーク上で出回るようになっている。そしてそれが全世界をいっそう混乱へと陥れているのである。

 今、世界中で、矛盾が矛盾を生み、ますます解決困難あるいは克服不可能な事態を生んでしまっているのは正にこうした実体のないフィクションがフィクションを生み、それが信じられるようになってきた、というより信じるよりないように仕向けられてきた結果である、と私は考えるのである。

 そしてそれは何もグローバリゼーションとか新自由主義という考え方が生まれたからそうなったということではなく、さらには資本主義という考え方が生まれたからそうなったということでもなく、もっとそれ以前に、「お金」というものが人間社会の中で考え出され用いられるようになった時点で、すでにこうした解決困難な諸問題を生じさせてしまう必然性を人類は抱え込んでしまったのだ、と私は考える。

 

 そもそも、「体を動かして働く」、「物を生産する」という人間の自然に対して働きかける能動的あるいは創造的な行為と、それによって作り出されて来る生産物と、人間が「生きて生活する」、「出産して命をつなぐ」という生存あるいは生命の再生産行為とは、互いに実体のある確かな物どうしで結びつけられていた。

 そしてその限りでは、そこには、何ら本質的で克服できない矛盾とか問題点は生じることはなかった。

ところがそうした行為や生産物や人間の生命活動との間に、それらとは本質的に異質な実態なき「お金」を介在させたことによって、諸矛盾が次々と発生し、またそれが顕在化するようになってきた。そしてその「お金」の「所有」と「交換」を「正当な行為」あるいはそれを「合法」とするようにしてしまったことがその諸矛盾をいっそう拡散させ、またそれを定着させることになってしまった根本原因なのではないか、と私は考えるのである。

 こうして、お金が人々の暮らしや産業のあり方を支配する貨幣経済の社会となった結果、「お金さえあれば何でも手に入れられる、何でもできる」という倒錯した考え方を生み、それがやがては、「そのお金を手に入れるためには手段は選ばぬ」という風潮を生み、さらにそこに既述のように「正直者は馬鹿を見る」といった風潮さえ生み、「とにかくお金を得ること、それもより多く得ること」ということだけが大方の人々の強迫観念となってしまったのである。

 そしてこうした経緯の中で、経済学という学問も誕生して来た。

しかしその経済学については、既述して来たように、元々、それ自体は何の価値もなく実体を持たない「お金」が信じられて、それが支配する経済社会の中で生まれたものであっただけに、本来の「学問」あるいは「科学」として成り立ちうるはずはなかった————経済学は社会科学の範疇に含まれるとされてきたのであるが————。

だからその「経済学」は、人間社会にとって、一時は有効性を見せることはあっても、真の、あるいは永続的な有効性を見せられるはずはなかった。そしてそれも必然だったのだ。

 なぜなら、人間の意思とは無関係に成立していて、しかも無矛盾あるいは完全無欠に成り立っている自然を研究対象とする自然科学とは違って、経済学は、どれも、人間の都合によって、それも一部の人間の欲に基づく都合や意図によってその時々でつくり変えられてしまう仕組みや制度と一体化したフィクションに過ぎない「お金」の動きが研究の主対象となるものだったのだからだ。

 そもそも、マクロ経済学ミクロ経済学という、観る立場、観る対象が異なる経済学が別々にあること自体、ご都合主義的と言える。

 

 以上、遠い貨幣の歴史を概観してきたが、そこで、次には、では一体何のために人間はお金など考え出したのか、と問うてみる必要があるように私は思うのである。

 実はその問いの必要性を思いついたのは、私がそれまで20数年間務めたゼネコンでのサラリーマン生活を、退職まで後8年を残して止め、直ちに農業に転向し、以来20年余、自分で米や野菜を栽培して生活してきた結果のことである。

 人は本当にお金がなければ生きては行けないのだろうか。そして、そもそもお金は経済社会の中で、本当に必要なものなのだろうか。そして、そこでいう「経済」とはどういうことを言うのであろうか、と。

 たしかに、私の周辺でも、農業についてみるならば、現実の生活に見合う現金収入が安定的に得られないために、せっかく志した営農の道を途中で断念して去って行く人々、とくに若者がいたし、今もいる。そうした状況を指して人々はよく、“この国では、農業では喰っては行けない”という言い方をする。そして農業に対するそうした見方は、この国では、もはやすっかり定着してしまった観がある。

 しかし、そこで私は思ったのである。そのような言い方を、そういうものだとしてただ聞き流してしまっていていいのだろうか、と。「現金収入が続かない」ということが農業が成り立たない本質的な理由なのだろうか、と。

 私は、この国は決定的な矛盾をそのままに放置している、と思った。「喰う物」をつくっていながら農業者が喰ってはいけないままにしているからだ。「なぜ喰って行けないのか」、と問うべきではないか、と。

 私は、20年間余の農業生活の中で、“そうではないのではないか”、と考えるようになった。そして今やそのことに確信を持っている。

本質的な理由は別のところにある。「現金」とか「お金」あるいは「農業」そのものにではなく、「制度」や「しくみ」にこそあるのだ、と。

つまり、農業を取り巻く社会の経済制度を含む諸制度が農業という産業に適合するようには備わっていないがために、言い換えれば、農業で持続的に生きてゆくことを可能とするようなまともな農業と経済のシステムとはなっていないがためだ。それはもはや農業者個人の努力でどうこうなる問題ではない。問題はそのレベルをはるかに超えたところにこそある、ということを意味する。そこにこそ、「喰う物をつくっていながら、喰っては行けない」状態を生み出させてしまう本質的な理由があるのだ。それがゆえに、せっかく農業を志して、一生懸命作物の育て方を学び、より質の高い喰い物を消費者に届けようとしても、その生活を持続できなくさせてしまうのである。

 「お金」という金属片あるいは紙片が一人ひとりの人間に、あるいはその集団である社会に、その社会を成り立たせている自然に、結果として、あるいは総体として何をもたらすかということについては概略的にではあるが既に検討してきたとおりである(7.4節)。

そして少なくともその段階でおぼろげながら見えて来た結論は、直接それを喰って生きられるわけではないお金に拘らねば生きてはいけない経済のしくみとは、明らかにどこか間違っている、ということであった。

 その「どこか間違っている」とする根拠は、次のように考えることによっても明確になる。

 それは、「生物としてのヒトが生きる」とは、そしてまた、生物としてのヒトではなく、その「ヒトが人間として生きる」とはどういうことか、ということについて考えてみることによって、である。なぜなら、それは、人間として生きる上で、またその人間の共同体である社会を営む上でつねに付いて回る根本的な命題だからである。

 ただしここでの着目点は、あくまでも「生きるとはどういうことか」ということであって、「生きる意義」とか「生きる目的」についてではない。

 そこで先ず「生物としてのヒトが生きる」とはどういうことか、ということについて考えてみる。

それは、毎日、規則正しく東の空から上ってくる太陽とともに起き、適当な時に適当な場所で排泄し、適当な場所で朝食の準備をしてはそれを摂り、しばらくは自分としてしたいことをしたい場所でする。それからまた適当な場所で昼食の準備をしてはそれを摂り、食べた後には再び自分としてしたいことをしたい場所でして時間を過ごす。

夕刻になれば、また夕食の支度をし、それを食しては、その後の時間をその日一日の疲れを癒すために使う。そして床に就く。

 これを、季節が変わっても、毎日毎日、一年間、もし家族がいれば家族と共に、太陽の循環運行に合わせて繰り返す。

 それを、翌年も、またその翌年も、そしてその人が生きている限り、同じことを同じように繰り返して過ごしてゆく。

 なお、ここに、子どもを生んで育てるということが加わると、このことを実現させる行為が、ある時期から生じ、そして、子どもの成長過程に応じて、それに割くべき時間は変動する。

しかし基本的には同じことを同じように繰り返しながら過ごすことになる。

そしてその際、子どもは、上記行為を親から見て聞いて学びながら過ごし、成長して行くことになる。

 これが、ごく大雑把に見た「生物としてのヒトが生きる」ということであろうと私は考える。

 では、今度は、生物としてのヒトではなく、「ヒトが人間として生きる」とはどういうことか、ということについてである。

ただし、ここで言う「人間」とは、社会という集団あるいは共同体を自分の意思に基づいて取り結び、その中で「自由」と「愛」の主体として生きる存在であるということを前提とする。

 それは、ある決まった場所に住居を構え、その季節にあった衣類をまといながら、毎日、規則正しく東の空から上ってくる太陽とともに起き、決まった場所で排泄し、決まった場所で顔を洗い歯を磨き、決まった場所で、その人がその日活動できるだけのエネルギーを与えてくれる喰いものを喰える準備をしてはそれを摂り、その後は食べた食器を洗い片付ける。その間、掃除や洗濯があればそれをして、洗った物を天日に干す。

 その後、しばらくは自分としてしなくてはならないこと、あるいはしたいことをしては、その過程で自己の「自由」を歓び、自分が自分のためだけではなく他者のためにも役立つことをすることを通じて、またその中で他者のことを思い、人間としての存在をも確かめる。

 また、自分の選んださまざまな職種での仕事において、自分を磨くと同時に他者の役にも立ちたいと望んでは、そのために自分をより発達させ、より全的な存在へと高まろうとする。

 それからまた昼食の準備をしてはそれを摂り、その後は朝食後と同じように過ごす。

夕刻にはまた、朝食時、昼食時と同様のことを繰り返す。

 その日の残った時間は、その日一日の疲れを癒しながら、人を思い、社会を思い、自分の将来を思い、そして床に就く。

 これを、毎日毎日、太陽の循環に合わせて、もし家族がいれば家族と共に、季節が変わる中で、一年間、繰り返してゆく。

 一年間繰り返したなら、それを翌年も、またその翌年も、やはり太陽の循環に合わせて、命ある限り、繰り返してゆく。

 なお、ここに、子どもを生んで育てるということが加われば、このことを実現させるための行為が、ある時期から生じる。その割く時間も割き方も、子どもの成長過程に応じて変動する。でも、親も周辺も、そのことを通じて、その子の成長とともに成長し、変化して行くのである。

 以上が、概念的にではあるが、ヒトとして、あるいは人間として、生きるとはどういうことかということの中身であろう、と私は考える。

 つまり、このことから判ることは、こうした生活が社会の一人ひとりに等しく、かつつねに実現されていれば、あるいは実現できる社会的しくみが備わっておれば、それで、人は人間として生きていかれる、ということである。

 しかし、残念ながら、現実社会では、このような暮らしをすることをますます多くの人に難しくしている。

それは、結局は、既述して来たように、「お金」がそうさせているのだ、と私は考える。

つまり、元々人間が考え出し生み出したお金が、結局のところ人間を、あるいはその集団である人間社会を住みづらくさせ、あるいはその中の個々の人間をして生きることさえ困難にさせてしまっているのだ。

 

 ところがその「お金」がすべてにわたって決定的にものを言う経済システムが資本主義なのである。そこでは、既述のように、全てのものは「お金」あるいは「貨幣」によって評価され、カネにならないものはたとえ人間であろうとも無用・無益と見なされてしまう。資本主義の中核とされる企業にあっては、利益をもたらせない者は不要とされ、取っ替えられ、利益をもたらす者だけが評価されるのである。その上、もたらす利益の大きさによって「出世」の度合いも決まる。

 その結果として、資本主義の社会では、人間関係が主として利害打算の関係と化してしまい、人間が本来持っていた他者を思うやさしさとか他者のために役立とうとする献身さ、あるいは誠実であろう、正直であろうとする本質面を次々と喪失させてしまっているのである。

いわゆる人間の疎外化と呼ばれる現象を誘発しているのだ。

ここに疎外とは、「人間が自己のつくり出したもの(生産物・制度など)によって支配される状況」を言う(広辞苑第六版)。

 疎外化、それは、概略的にいえば、社会的人間に生じている、互いに内的関連性を持った次の三つからなる現象である。

1つは人間の一面化あるいは断片化。1つは人間の孤立化。そしてもう1つは人間の心の空洞化あるいは空疎化である(真下真一著作集 第1巻 青木書店p.118〜133)。

 今、文字どおり近代文明の先駆者であるアメリカやフランスを中心に生じ、ますます勢力を拡大しているかに見えるポピュリズムという名の民主主義の危機的現象も、結局は、資本主義がもたらした人間疎外の1つのあり方なのだと私は考える。

それは、グローバルな資本が国境を越えて暴走し、資本主義体制すらそれを制御もできなくなったカジノ化した資本主義によって、これまで社会の中間層を形成してきた人々の多くが拡大する格差の中で中間層ではいられなくなり、ある者は職を失い、そして困窮し、家を失い、家庭を失い、そのため、“自分たちは社会から受け入れられてはいない”という怒り、“自分たちには居場所がない”という不安がその人たちにもたらした現象だからだ。

 その人たちの多くは、口々に“仕事がないのは移民や難民を受け入れたせいだ”と叫んでいる。

 要するにここでも「お金」なのだ。「お金があれば生活できる」という意識が前提にある。

その「お金」が、人間に疎外をもたらし、その結果、個々の人間をして、持って生まれたはずの美徳を捨てさせてしまい、あるいは忘れさせてしまい、その結果、人類が、自然状態から脱して、互いの生命と自由と財産を安全に守ろうとして発展させて来たはずの社会という共同体そのものを、またその共同体の理念である自由と民主主義を、崩壊の危機にまで落とし入れているのだ。

 ここまで考えて来て私がたどり着いたのが、先の問い、すなわち「人は本当にお金がなければ生きては行けないのだろうか」だった。その問いは、もはや、今日の社会にあっては万人に当てはまる根本的な問いと言えるのではないか、と私は思う。そして、そこから出て来るもう一つの問いは、では「お金に支配されなくても人が人間として生きて行ける経済システムというものはあり得るのか」、「あり得るとすれば、それは具体的にはどのようなものなのか」だった。

 私はそれを何とかして明らかにしたいと思った。いえ、そうしなくてはならない、と強く思った。ただしその際、経済とは何かということをもう一度根本から問い直してみなくてはならない、とも思った。

 その場合、私にとって自明だったのは、人が人間らしく持続的に生きて行ける経済とそのシステムとは、生態系に対しても、したがって地球の自然環境に対しても、必要以上に負荷をかけない経済でありシステムでなくてはならない、ということだった。

なぜなら、人が人間らしく生き続けられるためには、生態系がきちんと機能し、したがって人類を生かしてくれている地球の自然環境も持続的にその機能を維持されるものでなくてはならないからである。それは《エントロピー発生の原理》が、《生命の原理》が教えているところである。

 ではその「新しい経済とそのシステム」とは具体的にはどういうものか。

それについては、私は次節以下で具体的に描き出して行くつもりである。

11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済————「その1」

 

 今回から、題名が「持続可能な未来、こう築く」の拙著のいよいよ第11章を公開してゆきます。それは、「《三種の指導原理》に基礎を置く環境時代の『経済』の具体的な姿」についてです。

 私は、ここに描いた「経済の具体的な姿」こそ、そこに至るまでには多くの紆余曲折があるでしょうけれども、私たち人類(サピエンス)が心底から、子々孫々に至るまで、というより人類がこれまで生きて来られたと同じくらいの長きにわたってこれからも生きて行けるようになることを望むのなら、その時、選択すべき経済の仕組みは多分これしかないのではないか、と自身の20余年間の農業生活を通じて予想するものです。

 第11章の最初の節は、3回に分けて述べてゆきます。

 

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11.1「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済——「その1」

 かつてBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国)と称し、経済新興国と呼ばれた国々はもちろん、アジアやアフリカのいわゆる途上国と呼ばれた国々も、今は、アメリカのような豊かな国になることを目ざして目覚ましい発展の過程にある。

 しかしどの国も、急速に発展すればするほど、その国の中では矛盾もいっそう表面化し深刻化してもいる。その矛盾の代表的なものが経済格差、すなわち貧富の差の拡大であろう。

世界中があこがれをもって眺め、それと同じようになることを目ざして目標とされて来た、世界で最も豊かな国とされているアメリカでさえ、というよりそのアメリカこそ、国内には極端と言えるほどに、世界最大の格差を生んでいる。

 因に、アメリカ中間層の男性労働者について見てみると、1978年、平均的年収はおよそ4万8千ドルであり、それに対して上位1%の年収は39万ドルであったのに対して(その比は8.1倍)、2010年には、その平均的年収はどんどん下がって3万3千ドル、上位1%(およそ300万人か)の年収は逆に110万ドルドルと2倍以上に増大している(その比は33.3倍)。

そしてそのわずか一年後の2011年には、上位1%の最富裕層が下から90%を合わせたより多くの富を持つようになり(オリバー・ストーン「もう一つのアメリカ史」第10回)、その翌年の2012年には、上位1%どころか最富裕者400人の資産の合計は、底辺に位置する1億5000万人の資産総額を上回るまでになっている。つまりわずか400人の超富裕者が、人口の半分の人々の持つ富の合計よりも多くの富を握っていたのである(ロバート・ライシュ「世界のドキュメンタリー」2016年2月15日「みんなのための資本論」より)。

 以上はアメリカについての状況だが、こうした格差状況を世界について見たらこうなる。

 世界の人口を74.3億人とすると、世界でもっとも豊かなわずか8人が所有する富は約4,268億ドルと言われ、それは世界人口のおよそ半分に当たる36億人の資産の合計とほぼ同じだというのだ(出典はオックスファム・ジャパン(2016年度調べ)BS1スペシャル「欲望の経済史〜ルールが変わる時〜特別編」)。また2017年には、上位1%の富裕者の持つ富の合計は、世界の富の82%を占めるまでになっているという(TBS TV 2019年1月6日)。

 こうした結果をもたらしたのは、直接的には、一言で言えば、1980年代、アメリカをはじめ各国の間で市場経済のあり方についてのルールの書き換えがなされたからだ。ますます不平等を生むようなルールに書き換えられたのである(BS1スペシャル「欲望の資本主義2017 ルールが変わる時」NHKBS1)。その結果生じたのがグローバリゼーションやネオ・リベラリズム新自由主義)といった経済の世界的潮流であった。そこでは、今、本来決済の手段であった「お金」に対して、「記号商品化」されて「マネー」と呼ばれるものが共存しながら、世界の実体ある物の貿易額の数百倍の、実に5兆ドル(500兆円)もの数字上の「お金+マネー」が、パソコンを通じて、毎日、国境を越えて動くまでになっているのである(福田邦夫「グローバル経済が溶かすもの」東京新聞2014年9月13日)。

 国によっては金融危機や財政危機を生み、そして世界中に、既述のような極度の格差社会を生むことになったのである。貧しい者はますます貧しくなるだけではなく、そこへ絶対的貧困をも生み、金持ちはますます金持ちになっている。そこで言う絶対的貧困とは、喰う物もない、喰う物を買うお金もないという状況に置かれていることで、単に誰かが誰かに比べて生活が貧しいという意味での貧困ではない。

 

 こうした潮流を先導したのはアメリカであり、とくにウオール街である。そしてそこに協力したのは、アメリカが中心となって第二次世界大戦後設立して来たIMF国際通貨基金)であり、世界銀行(正式名:国際復興開発銀行)であり、FRBアメリ連邦準備銀行)であった。

そして、こうした傾向が、結果的には、地球温暖化に伴う気候変動に因る影響と共に、先進国のみならず途上国や新興国の間でのテロ(テロリズム)を頻発化させてもいるのである。

間接的には、幾多の国々の内部での反政府暴動、部族間闘争、宗派対立、民族対立等を含めた内戦や紛争の原因ともなっているのである。

 

 実はこうした現状をTVなどで見ていて、知れば知るほど、私には根本的な疑問が沸き起こって来たのである。人は一体、何のために、あるいは何を求めて働いているのだろう、と。

人は、多分、一人の例外もなく皆、豊かな生活を望み、幸せになることを望んで生きているはずなのに、なぜ今の世界では、その大多数の人々には、それとは反対に、こうした不幸な事態や現象が次々と生じてくるのか、そしてそうした状況は解消するどころか、反対に、なぜますます拡大するのか、その根本的な理由とは何なのか、と。

 私は、この問いの答えを見出すためには、どうしても近代という時代の世界の人々のものの考え方や生き方を支配してきた「近代の」資本主義という経済の体制とそのシステムについて真剣に考えてみる必要があると思ったのである。

 以下では、その資本主義について、いちいち「近代の」とは断らないで論をすすめる。

 資本主義、それは全てのもの———“人間の命は地球より重い”、などとは言われるが、実際にはその命までも含めた文字どおりすべてのもの———が「お金」あるいは「貨幣」によって支配される経済であり、そのお金を資本として際限なく投じては、お金というものの増殖を飽くなきまでに求めてゆくことを本質とするシステムのこと、とされてきた。そしてそこには、道徳や倫理は不要とされて来たのである。

 そのシステムは、現実の産業社会の中では、雇用する側と雇用される側とに二分される。

雇用する側から見れば、その会社を経営し発展させて行くために、株主あるいは投資家からのその会社への評価を高めることだけが最大の関心事となる。それだけに、雇用主は、いかにしてより多くの「収益」や「利益」を生み出すかということを最重点的に考える。そのためには、一方では、働いてもらう者への賃金は極力抑え、他方では、自社が生産した物(商品)は極力多く、そして少しでも早く売りさばくことである。雇用される側にとってみれば、その企業が「収益」「利益」を上げることにどれだけ貢献したかということだけでその人の企業内での「評価」が決まり、給料等の待遇も決まり、企業の中で「出世」ができるか否かも決まってしまうことを意味した。

 こうして、資本主義経済システムの中では、雇用する側もされる側も、共に、必然的に、厳しい競争環境の中に置かれることになる。

 そしてそのようなあり方が企業内では常識とされ、またそうした競争原理に基づいた企業群が中心となって構成されているかのように人々に思われているこの現実の社会では、各企業が利益を上げるためには、たとえ人があるいは人々の共同体が生きて行く上で不可欠な水や空気や土壌といった一次財を台無しにしても、その行為は「近代」の経済と経済学から見る限り「経済」的と見なされて来たのである。むしろ反対に、一次財を守り環境を維持する行為にコストがかかるとなれば、結果的に企業の収益を下げることになるから、それは「不経済」だと見なされて来たのだ(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」p.57)

 つまり資本主義が支配する社会というのは、その中の個々の人間の人間としての多様な側面、例えば誠実である、正直である、他者に思いやりがある、あるいは芸術・芸能面やスポーツ面に優れている等々といったことは、直接的にはまったく評価されない社会なのだ。

ただ、今言った「収益」「利益」を上げることにどれだけ貢献したかという観点からのみ評価される。そしてその観点からのみ「出世」できるか否か、「待遇」が良くなるか否かが決まってしまう。そうして、一つの組織の中にあって、頂点に上り詰めた者がいわゆる「成功者」と評価される。

 それだけに、そうした競争原理に基づいた企業群が中心となって構成されていると信じられてきている資本主義社会では、今言った意味での成功者や出世者だけが過大なまでに評価されてしまう。

 その結果、その社会の圧倒的多数者には、あたかも「会社に利益をもたらしうる人間」、「会社の中で出世できる人間」だけが人生において最も価値あること、価値ある生き方、賞賛されるべき人間であるかのような価値観あるいは人生観を知らず知らずのうちに植え付けて行き、それを強迫観念にまでさせてしまうのである。

 あるいは、その結果として、昇進し、出世して、待遇が良くなればいい生活ができるようになるという意識が世の中の常識となって行くことによって、「会社に利益をもたらしうる人間」、「会社の中で出世できる人間」にならねば人間としての価値を認めてもらえないのだ、という錯覚した強迫観念すら知らず知らずのうちに植え付けさせてしまう———ただし、とくに日本の公務員の世界では、民間企業のように、社長以下社員一人ひとりが汗水流して働いて、より多くの収益を上げ、その収益によって自分たちに給料が支払われたり、翌年の事業をどのように展開するかということが決まってしまったりする仕組みにはなっていないために、というより俸給の原資も事業の資金も全て、税金という形で毎年自動的に入ってくるために、公務員の頭には、民間企業のような競争原理や「経済」的とか「不経済」的といったコスト意識は働かない。そうではなく、公務員の世界では、既述したように(2.5節を参照)、組織に縛られた強迫観念が常に働いているのである———。

 しかし民間企業の世界であれ公務員の世界であれ、共通に働くその強迫観念とは、結局のところ、「お金」に縛られた利害関係であり人生観であり、「お金こそすべて」という価値観である。

 たとえば、公共放送と自任するNHKでも、毎日、それも日に何回となく「為替と株の値動き」を報道するが、こうしたことが公然とあるいは疑問の余地がないかのごとく、まるで当たり前のように報道されること自体、そしてそれを聞く側も当たり前のように受け取ってしまうこと自体、現代に生きる私たちが、道徳や倫理を抜きにして、また道理を忘れて、文字どおり「お金」に無意識・無自覚に支配されて来たことを裏付けるのである。

なぜなら、「為替と株の値動き」が報道され続けるということは、それを聞いて、為替や株を売買することでより多くの私的利益をお金という形で得ようとする人がいる、それもこの社会にはかなりの数の人がいるということを意味しているのだからである。

 しかしそこには、少なくとも次の問題意識が欠落している。

1つは、「為替と株の値動き」など個人の利益に関わることであり、果たしてそのようなことに、

「公共」放送と自任するNHKが関わるべきことなのか、という問題意識だ。

もう1つは、為替の変動にしろ、株の値動きにしろ、それは株や外国為替を持っている人にとっては自分に降りかかる損得を計る上で大きな関心事ではあろうが、たとえそうだからとしても、それらの値動きは、それらを所持している人自身の具体的な労働や社会的貢献によって変動するものではなく、むしろその人のまったく与り知らぬところで、与り知らぬ人々の努力と犠牲の上で変動するものであるゆえ、ましてや為替も株にも無関係、無関心な視聴者もいる社会で、そのようなものをいちいち報道する必要性があるのか、という問題意識である。

というより、そのようなものをいちいち報道するということは、国民の支持に拠って成り立っている放送局自身が企業の非人道的側面に目をつむり、持てる者と持たざる者との間の格差を公然と助長していることでもあるのでは無いか、という問題意識だ。

 それは次のような意味である。

社会には、株式も持たない(持てない)人々の方が多い。また、特に小泉政権時代以降、非正規雇用の人々も激増している。その人たちは、正規雇用の人たちと同じ仕事をしているのに賃金は安く抑えられている。性差別によって、同じ仕事しているのに、待遇が男性より差別されている女性も五万といる。残業代も出ないまま過重労働を強いられて居る人々も五万といる。つまり適正な賃金が支払われることはなく、搾取されているそうした人々の存在こそが企業収益をいっそう上げていて、その結果として企業評価が上がり、株価が上がるという面が強いのである。

 確かに、株主にしてみれば、株式を所有している企業の収益が上がって株価が上がってくれればそれで満足な訳で、そのとき、自分が投資家となっている企業の経営者がどのような手段と方法で収益を上げたかなどということには、通常、まったく無関心なのだ。

 そうした、ある意味で企業の非人道的な背景を持つ株の値動きなど、なぜNHKがいちいち報道する必要があろう、ということだ。

 また為替について見ても同様で、それは母国と外国との間で経済的ないしは政治的状況が刻々と変化することによって母国と相手国の通貨の間に相対的価値の変動が生じて為替のレートが変わるわけであって、その場合も為替を所持している人の努力とか貢献とは全く無関係で、むしろ一切与り知らぬ事情によるものだからだ。にも拘らず、為替を持つことで、莫大な私的利益を得る者がいるというのはおかしいではないか、ということである。

 ところが、こうした状況には目もくれずに、庶民の間だけではなく経済学者の間でも、経済低迷が続く中で、ますます“雇用を創出し、経済を刺激する政策が必要だ”という掛け声だけが叫ばれているのである。それはまるで、それしか経済を活性化させる道も、庶民の生活状態を改善する道もないかのようだ。

 こうした掛け声が叫ばれ、またそれが支持されるということは、仕事が生み出されて雇用が創出されれば、あるいは仕事が増えて雇用が拡大されれば、それだけより多くの人々は仕事に就くことができ、お金(現金)を得ることができ、したがって生活できるようになり、それもより豊かになって、幸せになりうるという認識が、誰にとっても「常識」にさえなっているからであろう。

 

 しかし、私はここでも疑問に思う。

たしかに仕事あるいは働き口があることでお金を得ることはできるだろうが、ではそれで本当に人は心まで豊かになれるものだろうか。また、しみじみとした幸せを実感できるようになるものだろうか、と。

もちろん仕事のない人、働き口のない人にとっては、とにかくどんな仕事でもいいから仕事に就きたいとは切実に願うだろう。

しかし、人間にとって仕事に就く、あるいは職に就く、もっと広く言えば、肉体労働も頭脳労働も含めて、労働するということの目的は「お金」を得るためだけなのか、ということなのだ。そうではないはずだ、と私は思う。

 ではそもそも人間が労働をする、仕事に就くとはどういう意味を持つのか。

是が非でもここは明らかにされねばならない。

 直接的には、仕事に就いて労働するとは、自分の腕・脚・頭・手をそれ自身我が身に備わっている一つの「自然な手段」として運動させるということになるのであるが、実はこの運動によって、その人は自然に対し働きかけてそれを変化させると同時に、その過程を通じて自分自身の人間性をも変化させるのである。だからこそ、人が仕事に就いて労働することで、生産された物は商品であれ何であれ価値を持つのである。つまり生産物の持つ価値の源泉は人間の労働にあると言うことができるのである。そして正にこのことから、人間の労働こそが富を生み出す、とも言い換えることができるのである。

 実は仕事に就いて労働することにはもう一つ重要な意味がある、とされる。

それは、仕事は、その人の自由意志を正しい方向に向け、人間の中に潜む放縦とか野獣を手なずけて、よい道を歩ませるという面だ。それだけに仕事は、その人の人間性をただ変化させるだけではなく向上させ、活力を与え、最高の能力を引き出すように促すのである。

こうして、仕事と仕事の場は、その人間に価値観を明確にさせ、人格を向上させる上で最良の機会となり舞台となるのである。

 人間は、仕事が全く見つからないと絶望に陥るが、それは単に収入がなくなるからではない。いま述べたような、規律正しい仕事だけが持っている、人間を豊かにし、活力を与える要素が失われてしまうからである(E.F.シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫p.72)。

 こうしたことから、その人の人間性は仕事を通しても培われる、とも言えるのである。

 なお、仕事の役割については、仏教経済学の観点からも同じようなことが言われていて、そこには少なくとも三つあるとされている。

1つは、人間にその能力を発揮させ向上させる場を与えること。1つは、仕事を他の人たちと共にすることを通じて、自己中心的な態度を捨てさせること。そして3つ目は、まっとうな生活に必要な財とサービスをつくり出すことである(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」p.71)。

 だから、仕事がない、仕事に就けないということは、最初から、こうした機会を失わせてしまっていることを意味する。

と同時に、雇用する側が仕事というものを労働する者にとって無意味で退屈でいやになるような、ないしは神経をすり減らすだけのようなものにすることは、せっかく各人の人格を向上させうる機会と可能性を奪い、あるいは潰してしまうことを意味する。ましてや自殺ないしは過労死に追い込むなど論外だし、犯罪行為とさえ言えるのではないか、と私は思う。

 しかしそうなってしまいがちなのは、雇用する側が、人間よりもカネに執着するからであり、労働する者への人間的思いやりを欠くからである。

しかしそれも資本主義の本質がもたらすことなのである。

 実際、資本主義が支配してきた現実の社会では、仕事あるいは労働は、すでに「人間の人格を向上させる」という役割を持たされてはこなかったし、仕事場(職場)はそれができる舞台になってもこなかった。

むしろほとんどの人間は、全体システムの中の単なる一歯車となって動き回るだけで、職場で働くことを通じて、かえってその精神を病み、健康を害してさえいる。

とくに日本では、既述のカロウシ(過労死)という日本語が世界の公用語にまでなっている事実がそれを証明している。職場の重労働による自殺が増えているというのも同様だ。

 それだけではない。日本の場合、仕事や労働は家庭にまで悪影響をもたらしてきたし、今もいる。

家族関係を希薄にさせ、親子間の愛情を薄れさせ、愛情豊かな子育てを困難にさせ、人生の余暇を犠牲にせざるを得ないものとさせているからだ。

 また日本の労働あるいは仕事は、打ち込めば打ち込むほどに自然に対してはより大きな負荷を与え、それを汚し、あるいは破壊する性質のものとなりがちだった。

 以上の事情を考慮すると、「仕事が生み出されて雇用が創出されれば、あるいは仕事が増えて雇用が拡大されれば、それだけより多くの人々は仕事に就くことができ、お金(現金)を得ることができ、したがって生活できるようになり、それもより豊かになって、幸せになりうる」という理由付けは、もはや過去のもので、ほとんど通用し得なくなっていることを知るのである。

 実際、今、日本における非正規雇用の労働者や派遣労働者そして請負労働者については、代わりはいくらでもいて、いつでも「使い捨て」のできる労働者ということで、企業収益を絶対とする資本主義市場経済の犠牲にされているのだ。

 過労死そして自殺という悲惨な死について私はいつも思う。もし、当人が、働くこと、働いている内容に意義を見出せ、心からの誇りをも感じられていたならば、よほどの過酷な労働環境の中でも、「生きがい」が精神も体をも支えてくれて、なんとか過労死や自殺にまで追い込まれることはなかったのではないか、と。

 こうした状況は、たとえば、世界の「幸福度ランキング」を見ても頷ける。

日本は世界の中で58位だ(2019年)。G7、主要7カ国の中で最下位、アジアの中でも、台湾、シンガポール、韓国よりも下回る。1位はフィンランド、2位はデンマーク、3位はノルウェー、4位はアイスランド、5位オランダと、北欧勢がずらりと並ぶ(10.2節をも参照)。

 ただし、その際の判定条件は、GDP健康寿命、腐敗のなさ、社会の自由度、他者への寛大さ、そして社会的支援の6項目である。

 こうして次のことが結論づけられるのである。

労働の意味については、哲学者の考えるそれも、仏教経済学の観点からも、人間を人格的に向上させるという点において共通しているのである。そのいずれからも、労働の意味と価値は単に「お金」を得るためだけではないことがはっきりした。

であれば、なおのことこれからの環境時代において雇用を考えるときには、ただ雇用の創出あるいは増大を考えるのではなく、まずは労働をもたらす仕事の質、またその仕事を仕事として成り立たせる経済とそのシステムをも同時に考えなくてはならない、となる。

 

 

10.5 教育の地域化と教育費の完全無料化

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10.5 教育の地域化と教育費の完全無料化

 本章のこれまでは、私は、この国の中央政府の中の、先の文部省そしてその看板を架け替えただけの現在の文科省による教育行政とそれに拠る教育の内容について考察してきた。

そしてその結果とは、批判を怖れずに敢えて一言で言えば、一人ひとりの児童あるいは生徒を、人間として育てるという点では完全に失敗だったと私は結論づける。間違った教育行政と教育システムであり、間違った教育内容だった、と。

それは、この国の子どもたちや若者たちの心身の健全な発達を促すどころか、一人ひとりの個性を殺し、しかも、持って生まれて来たであろう能力をも開花させるどころかそれをも殺してしまい、一人ひとりの内面には———それを外に爆発させるか否かにはその人なりの忍耐力とか精神力あるいは理性の程度等によって個人差があるとしても———、社会に対するはげしい怒り、憎しみ、不信感そして孤立感を植え付け、その人格を歪めて来てしまった、と言えるからである。

 そのことが現象として顕在化して来ているのが、そしてその顕在化度合いがますますひどくなっているのがたとえばイジメであり、虐待であり、また引きこもりであり、不登校なのであろう、と私は推測する。“誰でもいいから、人を殺したかった”、という若者が出てくるのも、その現れだと私は見る。

 逆に言えば、小学校の時から、いえ、保育園や幼稚園の頃から、その頃にはもう既に現れていたであろう一人ひとりの個性や能力を見逃さず、それらをその子一人ひとりの特性と見て、保育園や幼稚園、そして小学校以降も、画一教育などせずに、先生を含めた周囲のみんなでその個性や特性を認め合い、認め合うだけではなく互いにそれを励まし合い育て合っていたなら、各自は、自分の存在が周囲から認められているということを自分で確信できるようになるだけではなく自分の居場所にも確信が持てるようになって、生きることにも自信が持てるようになり、それがその後の学校生活においても、また社会に出て後も自身の支えとなり、他者をいじめようとか、虐待しようとかいうような気持ちなどほとんど生まれようはなかったのではないか、と私は思う。引きこもりについても同様だ。

誰でもいいから殺してみたかった、などという破れかぶれの気持ちなど誰が持とう。

 つまりは、彼らは皆、国民の代表であるはずの政治家が国民の意思を汲み取り、代弁する形で作ったのではなく、自分たちの利益だけしか考えない政府および財界の、過去の組織の記憶の中に生きる冷酷な官僚たちによって作られてきた政府の教育システムのまぎれもない犠牲者なのだ。その教育システムとは、明治期の国策である「殖産興業」「富国強兵」の延長としての「果てしなき工業生産力の発展」という暗黙の国策を実現するためのものだった。

 要するに、明治期と同様————明治期は「お国のために」であったが————、今度は「企業のために」、相変わらず国民を、その一人ひとりの尊厳や基本的権利などは度外視して、既存の秩序に従い、経営者に従順で、ひたすら馬車馬の如くに働く労働者として育て上げるためのシステムだったのだ。「モーレツ社員」とか「社畜」などという言葉は、そういう風潮の中で生まれた言葉だった。

 なお参考までに記せば、これまでのこの国の教育費や学費は、国民から選ばれた代表であるはずの政治家としての総理大臣も文科省大臣も配下の官僚をコントロールするどころか、共に官僚の操り人形となる中で、官僚の思惑どおりに教育費は決められて来たために、教育に対する公的支出の対GDP比は43カ国中40位という状態なのである。

 

 本来あるべき学校教育あるいは学校教育の究極の目的とはこういうものではなかろうかとして、私は私の考えるそれを提案して来た(10.3節と10.4節)。

 しかし、よくよく考えてみると、これからの教育行政のあり方としては、それだけでは到底不十分だと気付くのである。各地域によって生まれも育ちも違う児童生徒を一片の紙っぺらを通じての画一的で単一な能力評価法により評価するというシステムそのものが問題だと思うからであるし、それと、受益者負担という原則、それも最終的な受益者は誰かということを考えてみると、教育費あるいは学費を児童生徒あるいはその親族に負担させるというのは理に合わないと考えるからだ。

 そこで、そもそも教育費あるいは学費、つまり児童生徒に教育を行うための費用は誰が負担すべきなのかということを根元に立ち返って考えてみようと思う。

 そのためには先ずは、なぜ教育がなされる必要があるのか、そもそも教育は誰のためになされるのか、ということを明らかにする必要がある。

 そこで、人一般を取り上げて、こう考える。

もしその人が自然の中で、ロビンソンクルーソーのように一人で生きているのなら、つまり集団で共同体(コミュニティー)というものを構成していなかったなら、その人は特に教育を受ける必要もないことは明らかだ。一人であったら何かと不自由ではあろうが、それでも、いつでもどこでも、誰に迷惑をかける訳ではないのだし、まったく自分の望むとおりに生きればいいのだからだ。だからそこでは教育とか教養などまったく無用となる。

 ところが、その人が社会ないしは国家という共同体に生きているとなれば別だ。

そこでは教育、またできれば教養も求められるようになるからだ。

 なお、ここで言う教育とは、すでに述べてきた究極の目的としての教育、あるいは真髄としてあるべき教育のことである(10.3節参照)。

 なぜなら、共同体を構成する一人ひとりがそのような教育を受けることで、その共同体は共同体を営むことを決意したそもそもの動機であり目的でもあるところの、一人ひとりの生命と自由と財産を安全に守り、維持できるようになるからだ。

 できればさらにそこに、一人ひとりが教養をも身につけられるようになれば、その共同体を構成する一人ひとりの関係のあり方はより円滑になり、その共同体はより心地よい共同体になるからである。

 こうして、なぜ教育がなされる必要があるのか、の問いの答えは明らかになった。

 では、その教育は一体誰のために、あるいは何のためになされるものなのか。

 いずれにしても、教育を受ける主体は明らかである。

小中高校では児童生徒である。大学では学生である。

では、その教育は、主体とは異なる誰かが受けさせなくてはならないものなのか、それとも、受けさせる受けさせないに拘らず、主体の意思によって、受けるも受けないも決められることなのか。

 あるいはまた、たとえば、単に「義務教育」と言った場合、そこでの義務とは、誰の、何に対する義務なのか。具体的には、1.主体の教育を受ける義務のことか、2.主体の保護者または親権者の主体に教育を受けさせる義務のことか。3.主体でも保護者・親権者でもなく、社会または国という共同体としての、主体に教育を受けさせる義務のことか。

 私はつい先ほど、なぜ教育がなされる必要があるのかとの問いを発し、その答えとして、共同体を構成する一人ひとりがそのような真髄としての教育を受けることで、その共同体は共同体を営むことを決意したそもそもの動機であり目的でもあるところの、一人ひとりの生命と自由と財産を安全に守り、維持できるようになるからだ、とした。

 もちろんその教育を受ける過程で、あるいはその教育を受けた結果として、教育を受けた一人ひとりは、その人固有の個性と能力を開花させ発展させ、その個性と能力をもって共同体である社会なり企業に貢献すれば、それ相応の対価を得られて、それはそれでその一人ひとりはその生命・自由・財産をより安全に守られる条件は得られるようにはなるだろう。

 しかし、それはあくまでも二義的な効果である。一義的な効果は、なんと言っても、社会あるいは国という共同体を集団で営なもうとしたその当初の目的がよりよく実現されてゆくことである。

しかもその「当初の目的がよりよく実現されてゆく」の中には、単に個々の構成員の生命・自由・財産が守られるようになるというだけではなく、個々人の人格も磨かれ、共同体としての社会や国は道徳的にも精神的にも次元を高めてゆき、結果として社会共同体ないしは国という共同体の総合力をも高められる、という効果も含まれる。

 こうして、これで、「では、その教育は一体誰のために、あるいは何のためになされるものなのか」の問いの答えも明らかになった。

 そして以上の二つの問いに対する答えから、そもそも教育費あるいは学費、つまり児童生徒に教育を行うための費用は誰が負担すべきなのかという問いに対する答えをも確信を持って答えられるようになるのである。

 それは、社会あるいは国という共同体が共同体として教育費あるいは学費は負担すべきだ、それも、社会として、あるいは国としての真の力を高めようとするのであればなおのこと全面的に負担すべきである、と。

 とにかくこの国では、教育についてのこうした原則に立ち返った議論も、教育費あるいは学費は本来誰がどういう理由で負担すべきかという議論も、国家の重大事項だというのに、国権の最高機関である国会で議論されたことはついに一度もなかった。

政治家という政治家は、国民から選ばれることを望みながら、政治家になってしまえば、国民の利益代表であることを放棄し、官僚に一任し、依存しっぱなしで来たのだ。

 とにかく、教育こそ、そしてその中身が普遍的であればあるほど、より多様で、より多くの人材を生み、それは、社会や国を真の意味で豊かにするのである。いや豊かにするだけではない。耐性のある力強い社会や国にするのである。その意味で、教育のあり方こそ、その国の民の興亡を大きく左右することになるのだ。

 

 ところで、この国の学校教育は、明治期以来、文部省、そして現在はその看板を架け替えただけの文科省という中央政府の一省庁によって、全国を統一的かつ画一的に支配され、統治されてきた。

そしてその省庁による教育行政とそれに拠る教育の内容は、一人ひとりの児童あるいは生徒を、人間として育てるという点では完全に失敗だったと私は結論づけてきた。間違った教育行政と教育システムであり、間違った教育内容だったからだ、と。

 したがって、既述のような意味で教育の究極の目的あるいは教育の真髄というものを考えた時、既存の教育行政や教育システムそして教育内容は、学校教育のあり方を正しく導けるはずはない。

 では、その正しい学校教育のあり方とはどういうものなのだろうか。

私はそれを考える上でヒントになるのは、次の問いの答えを考えることなのではないか、と思うのである。

それは、“国があってこそ個人がある”という考え方が正しいのか、それとも、“個人があってこそ国が成り立つ”という考え方の方が正しいのか、というものである。

この国では、明治期以来、ずっと、一貫して前者の立場で個人をとらえ、学校教育を考えてきた。

 しかし、結論から言えば、その答えは、どちらでもないし、またどちらでもある、ということだ。

すなわちそれはちょうど「個と全体」の関係と同様に、その二つは互いに切り離して二者択一的に捉えられるべきことではなく、両者を「調和」の関係にあるものとして捉えるべきであろう、と私は考えるからだ(4.1節での「調和」の定義を参照のこと)。

なぜなら、周りを見渡してみても、生きているのがその人一人だけだったら、規則も必要なければ道徳も必要ない。でも、個人が集まり、その共同体としての社会が出来てゆく過程で、すでにその社会を成り立たせ、あるいは国を成り立たせ、またそれらを維持するためのさまざまな規則やしきたりが同時並行的に必要となって、できてゆくようになるからだ。またそれらができていかなくては社会も国も維持できなくなるからだ。

 つまり、“個人があってこそ国が成り立つ”し、また、“国があってこそ個人がある”のである。

 このように考えると、教育のあり方についても、教育を受ける主体はあくまでも児童生徒あるいは学生ではあっても、そのあり方というのは、国民一人ひとりを個人として見て、その個人のためになる教育でなくてはならないと同時に、共同体としての社会ないしは国のためにもなる教育でなくてはならない、ということになる。

 であれば、やはりこのことからも、明治期以来このかた、常に一貫して国の中央政府の省庁である文部省と文科省による、“国があってこそ個人がある”とした考え方に基づく全国を統一的、かつ画一的に支配してきたこの国の学校教育のあり方は間違いだったということが再確認できるのである。

 したがって今後は、これを教訓として、学校教育のあり方としては、国民一人ひとりを個人として見て、その個人のためになる教育も同時並行的になされるべきだとなる。それは個人の個性や能力を尊重し、それを積極的に伸ばす教育のことだ。

 なおここで、国はそれぞれの地域の集合体であるということを考えるならば、そのそれぞれの地域が自身でそれ固有の個性や特性を伸ばし得て活力を高めることができれば、結果的に国としても活力と耐性のある国になりうる訳であるからして、これからの学校教育のあり方については、次のように結論づけることができるのである。

 それは、これからの学校教育のあり方については、各地域に任せるべきだ、と。

言い換えれば、もはやこれからの教育のあり方と教育内容は、中央集権的に、国の中央政府が全国を画一内容で、画一的に統制するというのではなく、各地域に地域化のための自決権を与えて任せるべきなのだ。

またそうであってこそ、その地域が固有に抱える問題を自発的主体的により良く解決しうるようになるだろうし、地域の歴史や文化をより良く継承し発展させられるようにもなる、と期待できるのである。

 そうでなくても、各地方の事情も判らずに、中央の事情と判断だけで統治される、統一的かつ画一的な教育というのは、起こりうる多様な事態に対する対応力や適応力を持てなくする。つまり耐性が持てなくなるのは明らかなのだ。

 

 では、教育の地域化に伴う教育内容とはどのようなものとなるのだろうか、またどのような内容とすべきなのだろうか。

 以下は私が考えるものである。

 それは、次表に示すように、大きくは3種類の内容からなる。

1つは、いうまでもなく、地域や時代によって変わることのない、「教育の真髄」とも言える、既述の、学校教育の究極の目的である。

2つ目は、「各地域固有の自然や文化そして歴史に関わる内容」で、これも必須とするのである。

3つ目は、児童生徒がそれぞれ「自由に選択できる内容」である。

 

表 − 地域化されたこれからの時代の教育とその内容(私案)

教育の究極目的

地域教育の必須内容

自由に選択できる学習内容

10.3節に述べたとおりの内容

・郷土の自然史(郷土の気候風土と生態系)

・郷土の伝統文化とそれの人類史との関係

・母国語の標準語と地元方言の学習

(その中には、毛筆による習字も含む)

・郷土の宗教とその歴史

・郷土の伝統的農業、林業水産業

いずれかの体験

・日本の古典

・外国語

・「近代」科学

・数学または論理学

・諸外国の歴史または地理

古典力学と熱力学

 

 もちろん、ここでは憲法(第21条)が禁止している検閲であるところの教科書検定もまったく無用だし、「学習指導要領」も、少なくとも全国画一のそれはまったく無用となる。

というより、そもそも憲法違反の検定という「検閲」などはしてはならないことだし、ましてや官僚という公務員には国民から与えられてはいない権力をそのような形で行使するなど言語道断だとして、官僚をコントロールすべき立場の文部科学大臣は、憲法第15条第一項を即刻適用して、検定をした官僚は躊躇なく罷免すべきなのである。

 

10.4 教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む

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10.4 教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む

 前節では、私は、学校教育において、児童生徒に最も重点を置いて教えなくてはならないこと、すなわち学校教育の究極の目的とは何かについて考え、また述べて来た。そこでは、児童生徒一人ひとりが、「人間とは何か」から始まって、「生きるとはどういうことか」、「生きる意義、生きる目的とは何か」ということについて、自身に向って問いを発することができるようになるとともに、その答えをも自ら見出しうるように教師が教え導くことであろうとして来た。

そしてその答えを一人ひとりが見出す上で役立つと思われる重要概念にはどのようなものがあるかと考え、さらにはそれらを互いに関連づけて児童生徒一人ひとりが真に深く理解できるようになるにはどうしたらいいかとも考え、その結果として、それらを「人間」と「社会」と「自然」という3つの大きな枠組みの中でのキーワードにして表現して来た。

それらを学年が上がるにつれて、具体的段階から抽象的段階へと思考を広げて理解できるよう配列したものが先の表である。

 そして児童生徒一人ひとりが、その3つの枠組みの中に含まれるキーワードで示される、人生を社会と自然の中でより良く、そして人間らしく生きる上での重要諸概念の意味を、互いに関連させながら統一的により正しく理解できるようになるためには、教科としての「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」は必修科目とされるべきであろう、として来た。そしてその私なりの理由も述べてきた。

 それに対して、数学・英語(あるいはその他の外国語)・理科(物理・化学・生物・地学)・社会(地理・公民)や技術家庭科・体育・音楽・美術・工芸・民芸・芸能等は選択科目の範疇に入れるべき、として来た。なぜならば、それらの教科は、児童生徒がこれからの人生を生きて行く上で、「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」の重要度に比べれば、はるかに軽くまた限定的と思われるからである。それらの選択科目は、児童生徒が、自分にとって必要、あるいは特に履修し習得してみたいと思ったならば、その時選択すればいいのである。またその方がはるかの効率は上がるのである。そしてその際、教育委員会をはじめ学校側も、その選択が自由に叶えられるような態勢を準備しておけばいいのである。

 とにかく、これからの学校教育のあり方については、もはや従来の文部省ないしは文科省の学習指導要領はもとより、文部省・文科省の教科書には縛られてはならないと私は考えるからだ————と言うより、次節(10.5節)にて詳述するように、これからの教育は地域化され、各地域の自治に任されるべきだと私は考える。それは、各地域には各地域固有の歴史も文化もあるからだ。それを知らない中央政府(の官僚)が、自分たちの野心で全国を統括的に教育しようとするのはそれ自体無理がある。そんな無理を通そうとするから、必然的に画一教育とならざるを得なくなるのである————。

 そこで私が学習指導要領はもとより、文部省・文科省の教科書には縛られてはならないとする理由は次の2つだ。

 1つは、歴史教科書がその典型であるように、文部省ないしは文科省が認可した教科書は、すべて、「表現の自由」を保障する日本国憲法第21条に違反する「検定」という名目の検閲をした教科書だからである。

 つまり、本来なら、文部省も文科省も、自国の児童生徒たちには自国の憲法を守るよう、政府として率先して維持し、保護し、擁護して見せねばならないのに、実際にはその反対に、憲法違反を常習化した上での教科書だからだ。

日本政府が戦後ずっと追随してきたアメリカ合衆国の大統領さえ、就任時には、「私は、合衆国大統領の職務を誠実に遂行し、全力を尽くして、合衆国憲法を維持し、保護し、擁護することを厳粛に誓う」と宣誓しているのである。

 文科省の官僚自身が憲法違反をして教科書会社に作らせた教科書を、なぜ日本の児童生徒がそれを教科書として用いなくてはならないのであろう。

 もう1つは、実際、そうした学習指導要領と教科書と教育システムによって、既述したように(10.2節)、この国の児童生徒の個性や能力は却って大量に殺されてしまい、大なり小なり、人格も価値観も歪められてしまい、その結果、この国は世界に通用し得ない国にさせられてきてしまったのだからだ。

 そもそも児童生徒に押し付けてきた文部省・文科省のその教育とは、児童生徒一人ひとりを規格化し、国の経済発展に貢献できる安価で従順な労働力商品として大量生産するために、主として政府と財界の官僚たちによって作られてきたものなのだ。

 

 ところで、私は、本書では一貫して、近代という時代は既にとうに終り、私が名付けるところの環境時代に入っているとして来た。

その環境時代とはもはや人間中心の時代ではない。ということは、自然は人間の幸せ実現のためにあるとして来た時代でもないということである。人間中心の時代ではないのだから、人間の「自由」と「平等」と「民主主義」だけを普遍的価値とする時代でもない。「資本の論理」、「市場経済」を至上とするギャンブル経済の時代でもない。もちろん資本主義の最後の形態であるグローバリゼーションやネオ・リベラリズムの時代でもない。また化石資源や化石燃料がその経済を主力となって支える時代でもない。

 とにかくその経済は、人々に大量消費を煽り、貧富の格差を必然的に拡大し、分断をもいっそう進めるだけでしかないものだった。その結果、それ自体が生命であり、その表面上にあらゆる生物が生きるこの地球の生態系をも汚染し、また破壊するだけでしかない経済だった。

 新しい時代には新しい時代の思想の体系が要るのである。新しい経済のシステムが要るのである。またその新しい経済を支える新しいエネルギーのシステムが要る。

そうでなくては前時代の矛盾や行き詰まりを超えられないし、飛躍的な発展は望めないからだ。

 そしてそれら全てを根底から支える原理が要る。それを私は《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》である、としてきた。

 こうした原理の下で、新思想と新経済システムと新エネルギーシステムの3種が一式揃って初めて、人類と他生命が現在直面している存続の危機、絶滅の危機を根本から解決または回避することが可能となる道が開けるのではないか、と私は考えるのである。

温室効果ガス排出を削減ないしはゼロにするというだけでは、《エントロピー発生の原理》を満たしてはいないがために、そしてその原理が教えてくれる科学の限界、技術の限界をも指し示し得ないがために、温室効果ガス排出を削減することの効果によって人類にとっての全面危機の到来は幾分かは向こうに送られるかもしれないが、しかし早晩、全生命にとっての母なる地球の自然のメカニズムを駄目にしてしまうと私は考える。

 本節が主題とする「教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む」という発想はこうした考え方を背景に導かれるのである。

 先の文部省も今日の文科省も、その教育は、この国の児童生徒を、母国の歴史からだけではなく、ほぼ完全に母国の自然からも切り離して来た。

これでは、人は誰も過去の歴史を背負い、過去からの帰結に関わって生きているという真理を理解できないし、人は誰も、自然によって、それもその自然の中に生きる他生命を喰ってしか生きることはできないという厳然たる真理も理解できないままとなる。

 また歴史をつながりの中で正しく教えないのだから、自分が今、歴史の過程のどこにいるのかさえ理解もできない。であれば、自分はどうして今の自分になったのかも判らなければ、これから自分はどこへ向かおうとしているのか、どこへ向かうべきなのかも、当然ながら、皆目、判らない。

 そうなれば、“自分らしくありたい”、“自分の居場所を見つけたい”との願望は抱いても、アイデンティティすら持てるはずもなく、精神的には根無し草になって、漂流せざるを得なくなる。

 実は多くの人々をして精神的に根無し草として、漂流せざるを得ない状態にしてしまっている原因はそれだけではない、と私は考える。

それは次のような状況も手伝っているのだ。

 今日、日本を含めて世界の人々は、誰もが、到底消化しきれないほどの莫大な量の情報が高速で飛び交う高度情報化の中で暮らしている。しかもその情報のほとんどは、人が人間として生きて暮らして行く上では不必要な情報ばかりだ。本当は、人が人間として生きてゆく上で不可欠なもののほとんどは、すでに、大方の人には備わってさえいるのだからだ。

 それに、その飛び交う情報は、どれが真実でどれがウソなのか、またどれが作られた話なのか、誰も識別もできないものばかりだ。つまり、誰もが、真実か否か、現実世界のことか架空の世界のことか判別もつかない情報に振り回されながら生きているのである。

 これも結局は、人は、自分で自分の精神を根無し草にし、自身を漂流させてしまっているのである。

 

 しかし、これは少し考えてみれば誰もがすぐにも気づくように、国にとっても、また国民一人ひとりにとっても極めて危険な状態だと私は考える。

それでは、危機、それも本当に生き延びられるか否かという危機に遭遇した時に、うろたえるしかなく、全くの無力にならざるを得ない状況だからだ。

 IPCC気候変動に関する政府間パネル)も全世界に警告を発しているように、特に今後は、気候変動の激化や生物多様性の消滅等の現象、あるいはそれらが重なって生じるであろう現象によって、地球人類は、人類史上、かつてない大惨事に遭遇してゆくことが想定されるからである。

 つまり、目の前に、自分の生死を分けることになるかもしれない事態が生じたとき、普段から、真実か否か、現実世界のことか架空の世界のことかの判別もつかない情報に振り回される暮らしをしていたのなら、目の前の現実に対処できるわけはないからだ。

そのとき、スマホがあればいい、というわけにはいかない。SNSという手段があるからいい、などとは絶対に言ってはいられない。その人がどんなに最新のデジタル通信手段を使いこなせたところで、多分、その時には、ほとんど役には立たない。

それは「お金」とて同様だ。その時、どんなにたくさんお金を所持していても、そんなお金は自分の命を救うことにはほとんど役には立たない。

 むしろそのような時に本当に役に立つのは、自分はどうしたらいいか、どこに逃げたらいいか、どう対処したらいいかを瞬時に判断しうる力だ。

 ではその力はどうやったら身につけられるのか。

それは、可能な限り、それもできるだけ幼い頃から、自然の中で色々な体験をすることである。

それもできるだけ友達と一緒に、である。

例えば川遊びでもいい。林や森で遊ぶのもいい。山や丘で遊ぶのもいい。

そうして、そんな遊びの中で、自分たちが必要とするものを自分たちだけで、自分たちの手で、手元にある道具を使いこなして、作ってみることである。

 実は、こうした遊びこそ、教科書では決して学ぶことのできないこと、すなわち真の「生きる力」というべきものを学ばせてくれる。

 人間は誰も、頭で覚えたことは、どんなに記憶力の優れた者でも、いつかは忘れる。でも、体で覚えたことは違う。特に幼い頃のことであればなおさらだ。“三つ子の魂、百までも”とはそういうことである。そしてその体験は、必要に応じていつでも思い出せる。

 

 これからは、本当に、こうした「生きる力」を身につけることこそが求められる時代になってゆく、と私は確信するのである。そして、こうした身体で体験した遊びは、どんなにお金を叩いても買えない、価値ある財産をもたらしてくれる。

なぜなら、その体験こそ、その人を生涯にわたって、支え、守ってくれるからだ。

 そこで、これを学校で、たとえば自然体験制度(以下、単に体験制度と呼ぶ)と位置づけて、できるだけ早い時期から実践するのである。できれば、幼稚園・保育園の時からの方がいいだろう。なぜなら、幼い時ほど、何の抵抗もなく自然と交われるだろうからだ。と言うより、本来人間も自然の一部なのだからだ。

 ここで言う「自然体験制度」とは、都会に住んでいる子どもも田舎に住んでいる子ども、ある一定年齢に達した順に、自然豊かな環境、できれば山の中腹の森林や渓流のある地域内に設けられた寄宿舎での生活を共にしながら、自然経験豊富な指導者の下で、一定期間、自由に遊び、自由に暮らしてみるというものである。

 こうした制度を、文科省の全面的財政支援の下で、あるいは各各地方公共団体自治の下で、本物の知識人の助言の下に、柔軟に制度化するのである。

 ただし、この場合特に大切なことは、児童生徒の親、特に母親は、そうした遊び体験を“危険だから”と言って止めないことである。我が子の将来の安全無事を祈り、自分で自分を助ける力を身につけて、たくましくなって欲しいと願うなら、親自身が、ぐっと自分を抑え、子供達の自由な判断に任せることである。

 確かに、その時、子供は怪我をするかもしれない。重大な事故を起こすかもしれない。そんな時、子供は「痛い思い」や「辛い思い」を強いられるかもしれない。

でも、命を落とすことさえなければ、その体験こそが、児童生徒一人ひとりに、教科書では決して学べない、お金でも決して買えない、次に列挙するような絶大な教育効果をもたらしてくれると、私は信じるからである。

 1つは、児童生徒が、突然、まさかの事態に遭遇した時、その体験が蘇り、「こんな時には何をどうすればいいのか」、あるいは「こんな時、どうすれば危機から回避できるか、どうすれば危険に陥らないで済むか」を体が瞬時に教えてくれるようになるからだ。

 1つは、既述した、学校教育の究極の目的である「生きるとはどういうことか」、「生きる意義、生きる目的とは何か」、そして「人間とは何か」の問いに対する答えを、自分で掴み取ることができる助けになるからだ。

 それは、子どもたちが、自然の中での生活を通じて、野生の動植物や鳥類・昆虫・菌類そして水生生物等々の生態をよく観察し、それらが互いにどう生きているかをも現地でありのままに観察し、気象の変化を体験し、星々を含む天体の動きを体を通じて観察することにより、自然とは何か、生命とは何か、またその生き方の真実とは何かを知ることで、上記の問いの答えのヒントを自分で見出せるようになると考えられるからだ。

 1つは、現実世界と仮想世界との確かな識別眼を養ってくれて、それは大人になっても仮想世界に惑わされることのないように導いてくれるという点である。

 1つは、自然の偉大さを理解できるという点である。

 自然界には、厳密な意味で、色と言い、形と言い、二つとして同じ物はない。一つのものでも、時間の経過とともに絶えず変化して行き、さっきの姿をとどめない。だから自然は見飽きるということがない。いま目の前に見えているその姿を見逃したなら二度と永遠に見られなくなるということ、あるいは、自然は全体の中のどこの部分について見ても、全体と寸分の隙間も狂いもなくつながり、果てしなく広がっている、・・・・、ということも含めて、自然は、注意深く見ようとしさえすれば、限りなく多様であることに気づかせてくれると同時に、人が人間として生きる上で大切ないろいろな知恵に気づかせてくれる。その意味で、自然はつねに無矛盾で完全無欠の体系を成していて、それだけに、あらゆる意味で最良で最高の教師であることを気づかせてくれる。

そしてそのことを通じて、自然に対して尊敬と謙遜を抱けるようになる。自然を傷つけてはならない、としみじみ思えるようになる。

 そしてもう1つは、この体験制度を通じて、児童生徒が自分たちの国日本はすばらしい自然によって成る美しい国であると実感できるようになる。そしてそれは、口で“母国を愛せよ”などと言葉で教えなくても、自然な形で、「愛国」の心が育まれるようにもなる。

 

 近年、日本の自動車業界でも家電業界でも、そこには大勢の「優秀な」技術者がいるはずなのに、自社製品について莫大な数の「リコール」がしょっちゅうニュースになる。

また、建築の分野でも、例えばかつての大工職人だったら当たり前にできた家の建て方の一部である、曲がった材を曲がったなりに組んでゆく木組みを今の大工はほとんどできなくなっている、ということもしょっちゅう耳にする。

 私は、こうした事態が起こるのも、突き詰めれば、彼らは、断片的な知識を数多く記憶することにおいては優秀でも、また、真実か否かもはっきりしない情報を素早く扱ったり、取り込んだりする能力においては優れていても、つまり知性において優秀でも、幼いときからの自然体験が極めて乏しく、自然がどうなっているか体で知り得てはいないし、全体を全体として見通して判断する力を養って来てはいないから、というのが最大の理由なのではないか、と私は推量するのである。

 しかし、そうなるのも、これまでの文部省と文科省の教育では無理はない。

 要するに、「教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む」は、某元首相の提案する「働き方改革」や「生産性革命」を云々する以前の、教育においては本質的な問題なのだ、と私は確信を持つ。

 とにかく、物事何であれ、無知であることほど危険を招くことはない。

10.3 学校教育の究極の目的------「その2」

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10.3 学校教育の究極の目的------「その2」

 そこで、本節の最後に、次のことを考え、その延長線上で、“求められる人間像”としての「小中学生」版を考えて終えようと思う。

これに関連しては既に6.1節と2節でも述べて来たが、そちらは「大人」版である。

 その場合先ず考えてみたいことは、この国では、学校を取り巻く環境の中で、何気なく、よく用いられる「あの子は頭がいい」という言い方についてである。

そもそもそこで言う「頭がいい」とは一般にどういうことを意味するのであろう。

私が推測するに、それは、せいぜい、学校で行われる一片の紙の上での画一試験の成績がいい、というぐらいの意味でしかないのではないか。

そしてそれは、これまで述べて来たこの国の学校教育の実態から直ちに判断できるように、教科書に書いてあることを、あるいは先生が授業中に教えたことを、それがたとえどんなに断片的な知識でしかなく、人生を生きる上でほとんど役に立たないことであろうとも、とにかく、ある限られた時間内で、他者よりもより多く正確に記憶することができるという程度の意味でしかないのではないか。しかもそこでは、その児童生徒の固有の能力、たとえば、音楽的才能、絵画的才能、文学的あるいは詩的才能、運動能力、手先の器用さ、精神的強靭さや粘り強さといった能力は一切考慮されない。

 つまり、「頭がいい」とは、ほとんどの場合、物事を「知識」として記憶する能力がすぐれていることのみを意味しているのである。それはいわば「知性」においてすぐれているということだ。そしてそこでは、判断する力も問題とされてはいない。

 しかし、人間である以上、誰でも、記憶したことは、いつか必ず忘れるのだ。その点、記憶すること、それも膨大な知識や情報を記憶することにおいては、どんな人もコンピュータには叶わない。しかもそのコンピュータ能力は、ITやAIが長足の進歩を遂げつつある今、飛躍的に高まっている。だから記憶はコンピュータに任せればいい、とも言える。

むしろこれからの人間の側に本当に求められてくるのは、やはり「考える葦」としての能力であろう。その「考える」の中には、考える、創造する、想像する、判断する、決断する、そして真善美を偽悪醜から見分けられる、そして人間というものを識る、自分というものを識る、社会とは何かを識る等々、のすべてが含まれる。そしてこれらは、どんなに高性能のコンピュータを搭載したAIにも出来ないはずだ。

 だから、これからの学校教育の中での「頭がいい」は、こうした「考える葦」たり得ているかどうかで判断されるべきではないか。

そしてこれからの“求められる人間像”あるいは“期待される人間像”としての子どもたちの姿とは、知性だけではなく理性でものを考えられ、判断できる子どもであるべきなのではないか。

 ここに、理性とは、全体を統一的に捉えて綜合する能力のことである。そういう意味で、理性とは知恵の力とも言い換えられる。

 一方の知性は、ものを客観視した上で、そのものの意味や価値の問題には関わろうとはせずに、ただ事実問題に関わるだけで、ひたすら分析をし、区別してみせる能力のことである。したがって知性には、どうしてもそれだけでは一面性、断片性、抽象性がつきまとい、「知能犯」という言葉があるように、また「知(性)的な人」という表現には漂うように、あるいは「知(原文は智)に働けば角が立つ」と言われるように、どうしてもある種の「冷たさ」を伴いやすいのである。

これに反して理性は、既述のとおりで、言い換えれば「精神」の力のこと。もっと言うなら、「理想」を立てる力、そしてこの理想へ向けて現実を整え導いて行く力、と言ってもいいのである(真下真一「学問・思想・人間」青木文庫p.13〜14)。

 そしてここでは、この知性と理性という二つの言葉とその区別は、とくに今後、きわめて重要な意味を持ってくるのではないか、と私は思うのである。

それは、近代という時代は、その時代が生んだ科学が象徴するように、「知性」が主流を占めた時代であるが、これからの時代は———それを環境時代と私は呼びたいのであるが———その知性を超えて理知、さらには理性が主流となるべき時代であろうと、私は考えるからである。

近代科学は、それが知性に支配されたものであったがゆえに、人類に物質的豊かさはもたらしたものの、精神的な発達は極度に遅らせた。そして思いやりや共感力を失わせ、経済格差を激増させ、分断を促進してきた。核兵器というそれを生み出した人類自身を滅亡に導きかねない兵器をも生んできた。また、それが創り出され、用いられたなら、地球と世界に対して、大混乱を招いてしまう生物を創り出す技術をも生んできた。コピー生物(クローン)、デノム編集のことである。

 そこで、これまでの説明だけでは知性と理性の違いが理解しにくいと思うので、ごく身近な一例を取り上げて、私なりに知性で問題を捉えるとはどういうことを言うのか、また理性で問題を捉えるとはどういうことを言うのか、その違いを少しでも明確にできるよう努めてみようと思う。

 取り上げるのは、最近よくメディアでも取り上げられるようになった「セクハラ」と「パワハラ」をめぐる問題である。

メディアも、あるいは日本政府自体も、こうした問題の取り上げ方は、もっぱらその問題が生じた時だけ、それも目の前に起っている事実としての現象のみに着目し、それに対処しようとするだけである。つまりセクハラ、パワハラという言葉を区別しながら、セクハラやパワハラが人間あるいはその尊厳にもたらす意味やその深刻度の問題には関わろうとはせず、さらにはなぜそうした問題が生じてくるのか文化的、歴史的な経緯にまでは立ち入ろうとはせずに、個々に状況・実態を分析し、その結果として個別に対応する方法を整備して終り、すなわちそうすれば事態に対処できるであろう、としているだけのように私には見える。

 実はこれこそが「知性」で問題を捉える場合の対処法だったのではないか。

 一方、理性による対処法はこれとは違う。

 セクハラやパワハラという現象は何も企業内で生じているだけではなく、日本中に見出される現象であることに先ず注目する。そして同時に、日本でのそれらの現象は今に始まったことではなく、もっとずっと以前からあったではないか、と歴史にも目を向けるのである。

 たとえば、日本の旧軍隊、とくに陸軍内では、上官がその地位を利用して、兵隊を、「鍛える」という名目の下、殴る・蹴るを常態として来たではないか、と。小中高校でも、教師が生徒を、「教育する」を理由にして、ビンタするなどという行為を頻繁に繰り返して来たではないか、と。多くの家庭でも、とくに父親が「躾」と称して子どもを殴るなど、どこの家庭でも普通に見かけられたではないか、と。そもそもそうしたことはなぜ起こりえたのか、と。そしてこれらもすべて、れっきとしたパワハラではないか、と判断するのである。

 また、通りすがりの見知らぬ女性に向って、男が、「姉ちゃん、綺麗じゃないか。オレと遊ばないか」との声を浴びせかけたり、かと思えば自分の気に入らない女性に向って、「このブス!」とばかり罵声を浴びせかけたりすることもれっきとしたパワハラもしくはセクハラなのではないか、と判断するのである。

 また、日本では、戦時中、軍当局も政府自体も集団レイプの後押しまでしていたのである(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないか」p.169)。これらもすべて、国を挙げてのセクハラであったのではないのか、と。

また、今もなお行われている、たとえば「ミス・○○○」と銘打った、いわゆる「美人コンテスト」なるものもセクハラに当たるのではないのか、と。

 つまり、今でこそ日本のメディアや政府はセクハラだ、パワハラだという言葉を流行語のように使っては社会現象を問題視するが、こんな言葉は知らなくとも、日本人は、少なくとも、明治期以来、軍隊でも企業でも家庭でも学校でも、当たり前のように、これらに当たる行為を平然と繰り返して来たのではなかったかとして、先ずは現象の一部だけを見るのではなく、出来る限りその真実の全貌や歴史の全体に迫ろうとするのである。その上で、なぜこれらの現象が日本中に見られたのか、とその理由と原因を追及するのである。

それに、このセクハラもパワハラという言葉も、日本人自身あるいは日本政府自身の発想やその政府の日本の歴史への反省と人権意識から生まれた言葉ではなく、ここでもまた外国の用語を適切な日本語に翻訳すること無く用いているだけでしかない、ということにも着目するのである。つまり、もうその時点で、セクハラやパワハラの本質に迫る態度をこの国のその方面の専門家は放棄しているではないか、と。

 さらには、理性を持って事態をじっと見ると、さらに次の問いをも発せざるを得なくなるのである。

セクハラだ、パワハラだとは言うが、ではこれらは日本でずっと続いて来ている「イジメ」とどこがどう違うのか、と。むしろ根本においては、他者の、それも、その人の人間としての権利、すなわち「人権」を、そしてその人の人間としての「尊厳」を無視し侵す行為であるという点ではどれも同じ問題なのではないか、と気付かせてくれるのである。

だからそれらは互いにバラバラに捉えて見るべきではなく統一的に捉えるべきで、そうすることで初めてそこに統一的な意味付けもでき、また評価や批判もできるようになる、とも気付かせてくれるのである。またその結果として、それを克服するための統一的で根本的な解決策をも見出せるようになるのではないか、とも気付かせてくれるのである。

 ともかくも、この国では、歴史を振り返って見ると、少なくとも明治期以降今日までずっと、文部省・文科省の官僚主導の教育行政は、全国の児童生徒に対して、彼ら一人ひとりの個人としての性格すなわち「個性」はもちろん「人権」や「尊厳」を尊重する教育は敢えて避け、自由や平等そして正義よりも秩序を、自分の意見を持ってそれを主張することよりも他者と協調することの大切さしか教えて来なかったのである。

だから前節(10.2節)でも述べたように、今日に至ってもなお、政府を構成し、民主主義政治を先に立って行わねばならない政治家でさえも、個人としての人権意識もまともに育っていなければ、共同体である社会の構成員の個人としての社会的「責任」感覚もまともに育っていないのも当然である。つまりそういう教育が、この国を世界に通用し得ない国にしてしまったのだ。しかしながら、それは歴史的にそのように仕立て上げられて来たものである、とも気付かされるのである。

 理性をもって問題を捉えようとするとは、たとえばこういうこと、こういう態度を言うのではないか、と私は考えるのである。

実際、私だったら、そう捉える。そしてそう捉えることによって、セクハラ・パワハラ・イジメ・虐待・引きこもりの相互間の問題だけではなく、他の社会的・政治的・経済的な諸問題をも、個々バラバラに、それも上辺だけでというのではなく、統一的かつ根本的に解決できる策が見出せるようになるのである。

 これまで述べて来たこれからの学校教育の究極の目的とは、別の言い方をすると、児童生徒一人ひとりをそうした理知を兼ね備えた子どもに育てることでもある、と私は考えるのである。

 そこで、次が私の考える、“求められる人間像”あるいは“期待される人間像”としての「小中学生」版である。

○周りにいる一人ひとりは、あるいは地球上の誰も、個性も能力もみな違い、自分を含めて、誰も、掛け替えのない命を持った人間なんだということを心と体で理解し、納得できる子ども

○どんなに自分と違った相手でも、いつでも、どこででも、人間として、その存在価値を認めることのできる子ども

 また、人以外の他生命に対しても、たとえ人間は知り得なくても、その存在価値・意義はきっとあると想像でき、その生命を尊重できる子ども

○自分が今しようとしていることが他生命をも含めた他者にどのような影響をもたらしうるかを自分で考えることのできる子ども

○自分と他者とを比べたり、他者の真似をしたりすることは無意味である、と自ら判断できる子ども

○他者の痛みを想像し感じ取り、手を差し伸べられる子ども

○人間であること、人間性、人間の基本的権利等々に旺盛な関心を持てる子ども

○社会の既存の価値観、社会の既存のしくみ、既存の習慣などを「当たり前」として片付けてしまうのではなく、あるいは無関心なままにしてしまうのではなく、いつでも、「それは本当に必要なこと?」「それは本当に正しいこと?」「なぜそれがなくてはならない?」等々と、自らに問いかけ、考えることのできる子ども

○「読む・書く・聞く・話す」ことが先ず正しくできるようになることを通して、物事を情緒的に見るだけではなく、必要に応じて、分類し、分析し、推論し、判断し、それをさらに綜合するという論理的思考を通して自分の考えを組み立て、それをきちんとした母国語で説明のできる子ども

 また、そのことを通して、自己のものの見方や考え方を鍛え、自分の思想を持てる子ども

○物事に無関心になるのではなく、目の前の問題を問題として受け止めることの出来る子ども

またその問題に対して、単に○か×か、あるいは「判らない」として済ませてしまうのではなく、正解があるかどうかも判らない問題でも、自ら考え、自らの判断に基づいて、自らの結論を下せる子ども。そして自ら下した結論とその言葉に対して責任を負える子ども

○目先のことよりも未来のことを、断片的な知識を覚えることよりも大きな流れを捉まえようとする子ども。つまり、些細なことよりもむしろ、全体を捉えようとする子ども

自然や社会や人間についても、それらをバラバラに捉えるのではなく、互いに関連づけ、全体を統一的・体系的に捉えられる子ども

○悪いことは悪い、正しいことは正しいと自ら判断でき、たとえ少数派になろうと、あるいは自分一人になろうとも、それを、批判されることを恐れずに、人前でも堂々と主張できる子ども

○問題が自分の目の前に生じたとき、それをうやむやにせず、また見て見ぬ振りをせず、その問題を解決・克服するために、互いに対立を恐れずに、馴れ合いや安易な妥協を排除し、互いの意見を出し合い、みんなで納得行くまで議論し、みんなで目標を定め、それぞれの能力や適性に応じた役割分担を決め、決めた方向にめいめいが責任をもって動き、みんなで定めた目標をみんなで協力し合って実現させて行く、という問題解決の仕方が出来る子ども。そういう意味で協調性のある子ども。またそのことに歓びや希望そして誇りを見出せる子ども

○自分の立っている今は過去のあらゆることの帰結であるとしっかりと理解でき、そのとき過去の非人間的行為についてもそこから眼をそむけることなく、そこから教訓を引き出し、その教訓を心に刻みながら、未来を見つめられる子ども

○「文化」ということの意味と役割を理解でき、自国の自分の地域の文化だけではなく、他地域の文化、他国の文化をも、共に同等に尊重しうる子ども

○パソコン内でのゲームだけで遊ぶのではなく、「現実」の自然、それも出来るだけありのままの自然に出来るだけ幼い頃から分け入り、そこで友と遊び、その中で、動物的直感を豊かに育てると同時に動物的反射動作がとれるようになるとともに、「現実」と「架空」の違いをきちんと識別できる子ども

○自分が窮地に陥ったとき、あるいは自分のしたことや関わったことに責任を問われたとき、他者に対してだけではなく自分にもいい訳をしない子ども

○自分の利益のために、知識の過った活用をしない子ども

10.3 学校教育の究極の目的 ——————「その1」 

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10.3 学校教育の究極の目的 ——————「その1」 

 

 以下は私の子どもが通っていた高等学校の校則のほんの一部である。

2012年時点でのものである。

 

1.服装・規則面での確認事項(    部を含めて、そのままを転記する。)

①スカート丈は膝です。基本的に膝の皿の中心にスカートの下端が来るように。あまり短くしている場合には厳しい指導があります。切って加工してしまった者は、全員買い換えてもらっています。

②頭髪は自然で清潔感のある状態にして下さい。頭髪違反(加工による茶髪)には、継続指導のチェックがされています。頭髪は一切手を加えないで下さい。もみあげは耳たぶの下のラインまで。横は耳をすべて隠さないこと。

 女子は髪留めは黒・紺・茶で目立たないもの(シュシュは禁止です)。髪の長いものは束ねるように。

 なお、天然の赤毛・天然パーマの場合は、登録することにより服装検査のたびに指摘されてイヤな思いをすることがなくなります。ただし、すでに加工してしまった人はたとえ天然でも登録はできません。完全に地毛に戻ってからの登録となります。

 服装違反者は再検査や定期的チェックを受け、良くならない場合やさらに加工した場合は、保護者の方にも来校していただき指導します。

③ピアスやネックレス、指輪など装飾品は付けない。化粧・マニキュア禁止。

 ピアスについても、継続指導のチェックがされています。

④ブレザーの袖まくりや、シャツを堕して歩く、ネクタイリボンを緩めて着用するなど、だらしない服装は当校生の品位に関わる問題です。シャツの色は白になっています。また、制服調整期間は6/1〜6/10です。この期間は夏服を原則としますが、冬服を着用することも可能です。

 男女とも夏服は、半袖開襟シャツで、リボン、ネクタイはつけません。(女子はベスト着用)。

 長袖ブラウス(ワイシャツ)の場合はリボン、ネクタイを必ず着用します。ネクタイを加工しないように、その場合は買い換えてもらいます。

 

 ここにあるのはあまりにも瑣末な校則だ。そしてこれは、教師が、あるいは学校が、どれほど“人間を育てる”ことを教育目的として掲げていようとも、生徒一人ひとりを結局は信頼してはいないとしか言いようのない校則だ。

 ところがこうした規律を乱せば厳しい罰則が待っている。そして校則はますます恣意的に厳しくなる。

 これから判るように、この国では、学校教育現場そのものが、頑固で、強情で、かつ冷笑的な態度を児童生徒という人間に植え付けている。そこで育つ生徒には、いつしかその内面に、本人も気付かないうちに、大なり小なり、社会や体制に対する憎しみや反抗心を育ててさえいる。それゆえに、非行を誘発しかねない状況をも生んでいる。そして一見もの静かで「普通の人」と思わせる当人の態度の裏側に、社会に対する、あるいは人間に対する激しい怒り、欲求不満、憎悪を隠し持つようにさせてしまう。(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないか」p.103,126)。

 

 私は、先の10.1節では、この国の政府の文部省・文科省は、自国民を信じず、また自国民が大挙して民主主義的に覚醒することを恐れて、自由や多様性の大切さを児童生徒に教えることを敢えて避けてきたということを、その根拠を示しながら述べた。教えてきたことは、そして今もなお教えていることは、そのほとんどが、誰にとっても、社会に出てどんな職に就いても、直接的にも間接的にも、全くと言っていいほど役立たない知識ばかりであった、ということも述べてきた。

つまりこの国の文部省そして文部科学省は、本来、どの国にとっても、最大で最良の人的資源であるはずの国民に対して、人間としての人格を最高度に育て、また生かすという教育行政をして来なかったのだ。本当は、とりわけ資源の乏しいこの国であればこそ、そうした政策が最も必要であったはずなのに、である。実際やって来たことは、人生の中で、人格の基礎を形成する最も大切な時期である彼らの幼少期と青春期に、「画一化」の中で「競争」を強いるという抑圧環境の中で、彼らをして頭脳の無駄遣いと時間の浪費をさせてきたのだ。結果として、その影響を外に表わすか表わさないかは個人差があるが、そうした教育行政による環境の中で育つことを余儀なくされて成人となったこの国の国民のほとんどには、その精神面で、大なり小なり、社会に対する敵意・不信感・憎しみ等々といった感情が植え付けられて来てしまっているのではないか、と私などは推測するのである。

 今日、この国では、他国、特に民主主義が実現した本物の先進国では見られない陰湿なイジメや独善的な虐待や引きこもりそして不登校という現象がますます増大しているが、それらの現象は、どれをとっても、根本のところでは、児童生徒一人ひとりをそれぞれ異なった人格と個性を持った人間として育てようとはしてこなかった文部省と文科省の教育がもたらしたものだと私は確信する。そしてとりわけ近年は、“誰でもよかった”、“誰でもいいから殺したい”などという動機に拠る殺人も目立つようになってきているが、その動機などは、正に、社会とか既成の秩序あるいは現体制に対する憎しみの発露以外の何物でもない。

 ところが、である。そうした悲しい事件が頻発しているというのに、この国の教育評論家や教育学者は、そういう状況が起こる根本的な原因までは決して踏み込もうとはしない。つまり知識人としての勇気や良心がないのだ(6.4節)。保身のためなのであろう、極めて上っ面なことで対処しようとしているだけだ。

つまり、そうした「専門家」たちは次の真理を無視している。

————人間は誰でも、いや、人間だけではない、どんな動物でも、自由が抑えられ、いつも精神的に圧迫されていたり、強迫観念にとらわれていたりしたなら、その人間あるいは動物は、精神的にあるいは性格的に正常には育たず、それはいつか、どこかで、必ず、なにがしかの歪んだ言動という形で表面に現れてくるという、心理学ではとっくに明らかにされている真理だ。

 10.2節では、今やこの国は、様々な面で世界には通用し得ない国、世界の常識では考えられない国となってしまったが、そうなってしまったのも、結局は、10.1節で述べてきたこの国の政府の文部省・文科省の学校教育と教育行政と教育システムそのものがもたらしてしまったのだと、これも根拠を示しながら結論づけてきた。

 そこで本節では、では本来、学校教育とはどうあるべきなのか、学校教育の究極の目的とは何かということについて、これも私なりに考えてみようと思う。

 

 結論的にいえば、それは、児童生徒一人ひとりが、たとえば、自ら人間として生きて行く上で次のような根源的な問いを自身に向けて発し、その答えを自ら見つけ出して行こうとし、また見つけ出せるように、教師が教え導くことであり、教え導ける内容のものであること、となるのではないかと私は考える。

————「自分とは何者なのか」、「その自分はどのようにして形成されて来たのか」、「自分は、他者と、社会と、自然と、どのように関わって生きているのか、また一個の人間として、どのように関わって生きて行けばいいのか」、そもそも「生きるとはどういうことか」、「生きる意義、生きる目的とは何か」、等々である。

 こうした問いと答えを自ら見出せるようになることこそが、本来あるべき教育であろうし、学校教育における究極の目的と言えるのではないか、と私は考えるのである。それを自ら見出せるようになれば、たとえば、「なぜ、学校に行く必要があるのか。なぜ勉強する必要があるのか」という問いも自ら引き出せて、自ら答えられるようにもなるのではないか。そうなれば不登校を自然消滅させる。それだけではない。いじめること、虐待すること、引きこもることをも、自らそれを無意味と知り、自ら気づけるようになるのではないか。

 

 ところで、こうした問いを、自身で、自身に発し得て、教師の手助けを受けながら、自ら納得しうるその答えを導き出せるようになるには、一足飛びには無理であって、私は、せめて、私たち人間を生かしてくれている自然のことや、私たちが生かされている社会のこと、そして人間とは何かということをも、段階を踏んで理解を深められるようになっていることがどうしても必要なのではないか、と考える。そしてそれも学校教育の中で進められることが必要なのだ、と。

 そこで問題となるのは、それを、どのような考え方に依拠して、どのように進めるか、ということだ。

 そのとき、私たちが思い出さなくてはならないことは、既述したように(4.3節)、人間にとっての世界の諸価値は、どれをとっても、決して同じレベルの上にあるのではなく、あるいは同じ重みを持っているのではなく、階層性を成しているということである。

 ここで言う「世界」とは、いわゆる地球儀で見るような世界、国の集合体としての世界というものとは違い、自然も社会も人生も含めた、人間個人が生きて行く上で関わりを持つすべてのものという意味である。人間個人が関わりを持つ諸概念の全体のことである。

 階層性を成していると主張する根拠は、もし、反対に、世界の諸価値が、人間のそれぞれにとって、ただ漫然と無秩序にあるだけとするなら、あるいはそれらがすべて同一のレベル、同一の重みを持っているとするなら、私たちは、世界を、またその成り立ちを、正しく理解することはできないという真実に拠る。自然という対象の価値と社会という対象の価値の重みが人間にとって同じだったら、自然という対象の中にも、社会という対象の中にも、人間というものを位置づけることも定義づけることも不可能になる、という真実による。

 このことは卑近な例で言えば、たとえば次のような場合と似ている。

 太陽も見えず、周囲が見渡す限り真っ白い大雪原の中に我が身を置いていたなら、そのとき、自分には大地の起伏も識別できないし、自分が今どこにいるのかさえ判らなくなるのである。また、光が全く差し込まない真っ暗な空間に身を置いたなら、東西南北も判らなくなるだけではなく、直立し続けていることさえも難しくなるのである。

また、次々と生じるどんな物事・現象・事件についても、人間にとってそれらの間に重要度や緊急度において違いがなかったなら、人間は、適正に判断することも、適性に対処することも出来なくなってしまうのである。

 4.3節の階層図をもう一度ご覧いただきたいのである。

 

 では、世界の諸価値は人間にとって同一レベル上にあるのではなく、階層性を成しているということを理解する必要があると言ったとき、子どもたちあるいは若者たちは、何をどのような段階を踏んで行ったらそのことを理解できると考えられるのだろうか。

 たとえばということで、私の考えるそれを示してみる。

次表が、自然と社会が人間にとってどういう関係、どういう位置付けにあるかを理解する上で欠かすことの出来ないと私には思われる基本的に重要概念を、単語あるいは用語をもって階層的あるいは段階的に配列してみたそれである。

 

主題

具体→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→抽象

自然

「いのち(生命)」

「自然」とは

いのちの「多様性」「共生」「循環」とは

「部分」「全体」

とは

「一物全体」

とは

「理解する」「判る」とは

「分析」「綜合」とは

「論理」「科学」

「知性」「理性」

とは

「原理」「真理」

「法則」とは

社会

「異なる者どうしが共に生きる」

「社会」とは

言論の自由

表現の自由

自治」「権利」

「義務」「民主主義」「責任」「市民」

とは

「議会」「政府」

「権力」「国家」

とは

「近代」「法」

「法の支配」

「主権」とは

「言葉」「知識」

「知恵」「宗教」

とは

「自由」「平等」

「思いやり」「共感」

「私」「公」とは

「豊かさ」「幸せ」

「調和」とは

「真実」「事実」とは

人間

「生かされている自分」「掛け替えのない自分」とは

「愛」「尊厳」

「知性」「理性」

とは

「真・善・美」

「人間」とは

「生きる」

「死ぬ」

とは

「物を食べる」

「労働する」とは

「肉体」「心」

「魂」「精神」とは

「文化」「文明」

「伝統」とは

「価値」とは

 

小学校

中学校

高校

大学

 

 なお、上表に基づいて学習して行く際、次のことは常に念頭に置くようにする。 

それは、これらの諸価値諸概念を、先入観や常識に囚われず、しかもそれらを互いの間の関連性や類似性などに注意を払い、統一的綜合的に捉えてゆこうとすることである。

そうすれば、学んでゆくことすべてが有機的に結びつき、一体化して頭の中に整理されてゆくようになる。そしてそうなってこそ、その後の人生において、どんな場面に遭遇しても、学習したこれらを生かせるようになるのではないか、と私は想うのである。

 本来、知識というものは、どんなに多くを記憶したところで、それらが互いにバラバラでは何の役にも立たないのである。役立たないどころではない。そんなことに頭を使わせ、時間を浪費させること自体、罪悪だとさえ私は思う。その好例が、この国の文部省・文科省が戦後ずっと全国の学校に対して支配的に実施して来た学習指導要領に基づく教育内容であり教科内容だ。そしてその一結果が、10.2節に述べて来たことだと思う。

 

 しかしこれだけではいくら何でも児童生徒には、“一体これは何だ”ということになってしまいかねない。そこで、上記の表を構成する、単語で表わされる諸概念の意味をより正しく理解するために、いえ、正しく理解するだけではなく、これらを内的な関連性をもって統一的に理解できるようになるためには、やはり教師によってどうしてもきちんと教えられるべきものは何かとなると、教科としての「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」ということになるだろう。

そこでこれらを必修科目とするのである。

 それに対して、現行教育制度で言う数学・英語(あるいはその他の外国語)・理科(物理・化学・生物・地学)・社会(地理・公民)・技術家庭科・体育、そしてその他の実技的な音楽・美術・工芸・民芸・芸能等はすべて選択科目とするのである。

 これらの選択科目は、児童生徒が、先の根源的な問いに対する答えを自ら導き出し得るようになったそのとき———それはたとえ学校を卒業した後でもいいのである———自分の将来にはどうしてもそれを学習することが必要と感じたなら、そのとき自由に履修できるようにすればいいのである。そのような教育システムを構築すればいいのである。

学問でも技術でも芸能や芸術でも、自分が心からそれを学習したい、学習することが必要と感じたときにそれに取り組むのが最もよく吸収され、身に付くものだということは、私たちが体験的にも知っていることである。むしろ、現行学校教育制度のように、本人がその必要も興味も感じないのに、外から無理矢理教えようとするのは、かえって本人の内心の反発を招き、逆効果としかならないのだ。

 大事なことは、自ら必要と感じ、望んだ時に、学校も、社会も、いつでもそれを後押しし、実現可能となるような社会的経済的なシステムや制度が整っていることだろう。そしてそれを自分で納得行くまで学んだ後は、いつでも元の社会的立場に復帰できるようになっていることであろう。それを社会全体で受け入れられることが保障されていることであろう。

 

 ところで、ではなぜ「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」を必修科目とするか。

その理由は次のように説明できる。

 国語について。

 それは、日本国籍を持つ私たちが、日頃、ものを考え、推論し、判断し、あるいは自分の考えをまとめ、それを表現して人に伝えて行く上で不可欠な手段だからだ。そしてその国語は、その人が生まれた際に母親から耳元で愛情を持って語りかけられる瞬間から死の床に就くまで、文字どおり生涯を通じて片時も頭からも耳からも離れることなく、伝達手段や表現手段として用いられるものだからだ。

 そもそも人間は、頭の中でものを考えるときには、論理的にであれ、感情的にであれ、つねに言語をもって、言語を駆使して考えていると考えられる。

それだけに国語は、その人のものの考えのレベルを高め、深め、あるいは幅に広がりを持たせて行く上でも決定的な役割を為す。その際必要になるのは、まずは自分が言いたいこと表現したいことの輪郭あるいは概要を定めることであり、その後に、その定めた輪郭ないしは概要を聞く者読む者によりわかりやすく表現するために、より適切な言葉を駆使して筋道立てることであろう。すなわち論理的に組み立てる力である。その際必要となるのが語彙力である。

より豊かな語彙力があれば、それだけ、聞く者読む者にとってより正確に伝わるからだ。

 例えば雪は白いものだが、場合によっては、あるいは情景、あるいは見る位置、光の加減によっては、ただ白いというだけではなく、無数の姿を見せる可能性があるからだ。それを表現しなくてはならなくなる。

 このように、国語を学ぶとは、母国語を正しく使えるようになって、表現したいことを、多様な表現を通して、相手により的確に伝えることができるようになることなのだ。

そして言語を正しく使え、多様な表現ができるそうした語彙力豊かな人が増えれば増えるほど、この国の言語文化も豊かで多彩になり得るわけである。

 反対の言い方をすると、一人ひとりがその正しい意味も捉えずに、安易に外来語をカタカナ表現するだけであったり、流行語だけを追いかけていたりしたならば、もっと言うなら、自分の頭で考えることをせずに受け売りばかりをしていたなら、語彙がますます乏しくなり、言葉をますます正しく使えなくなり、言語感覚をますます衰えさせてしまう。そしてそのことは、その人をして、ますます思考力を低下させてしまうことにもなる。

つまり、語彙の豊かさや表現力の豊かさは、思考力の豊かさ、観察力の豊かさ、感性の豊かさと一体でもあるのだ。

 ちなみに昨今、メディアでも頻繁に聞かれる言葉とはこんなものだ。

なんでもかでも「やばい」。かと思えば「半端ない」。「めっちゃ、・・・・だ」、「すごく」ではなく、「すごい、・・・・・だ」、といったものだ。

そして、例えば、せっかく母国語には「尊敬する」という立派な表現があるのにリスペクトと言ったり、伝説をレジェンド、遺産をレガシー、復讐をリベンジ、意欲・やる気をモチベーション、共同作業をコラボレーションと言ったりと、母国語が全く粗末にされている。

かと思えば、道徳の崩壊をモラルハザード、警報をアラートと言ったりする。あるいは緊急時、避難する場所をお年寄りでも誰もがわかるように示さなくてはならない地図を、ハザードマップなどとも言わせる。

その他、エビデンス、ファクト、アーカイブトリアージ、フェイク、サプライズ、リスク、等々、挙げればきりがない。

 果たして、こういうカタカナ文字を連発する人は、先人が長い時間をかけて洗練させてきた母国語による言語文化を自ら貧困にしていることに気づいていないのだろうか。なんのつもりで、こうしたカタカナ語を使うのだろう。私は非常にその人の浅薄さを感じてしまうのである。そしてこの姿勢は、私は、祖国の伝統の文化や正しい歴史への無関心さと無関係ではないのではないか、とも思っている。

 以下に必須とする歴史でも哲学でも宗教でも、またその他の選択科目でも、それらの内容を自ら考え、それの理解を深め、幅を広めるときにも、頭の中でのその作業を手助けしてくれるのはやはり国語なのである。

 こう考えて行くと、私たちが国語力を高めることは、結局は、地域力を高め、国力を高めることになり、反対に、国語力を劣化させ、貧弱にすることは、地域力を弱め、国力を低下させて行くことになる、ということが理解できるのである。

 なおその際、せっかく身に付けた語彙力を、文章を書くときなどに、それを読む人に、より強く、より良い印象を与え得るようになるために、日本語の文字を、漢字をも含めて、より美しく書けるようになること、そのためには小中学校の時代から、国語を学ぶということだけではなく、同時に書をも必修科目として習う(習字)ということも、よき言語文化を後世に残してゆくという意味で、私はきわめて大切なことなのではないか、と考えるのである。

 歴史について。

 私たちが今をより良く生き、未来に向かってもより良く生きようとする時、そこには、普通、誰にも羅針盤はない。それだけに不安である。そんな時、その不安を少しでも解消してくれるだけでなく、むしろ指針なり行くべき方向を見出させてくれるもの、それこそが歴史だからだ。 私たち誰もがこれを学ぶ意義はそこにある。

 学校においても同じだ。むしろ学校においてこそ、若者たちが未来に展望を見出して生きるには歴史を学ぶことがどうしても必要なのだ。

 ただし、その時、間違った歴史、ウソの歴史、事実無根の作り話である神話などを聞かされると、若いだけに、脳裏に刻み込まれたその記憶は生涯消えることはないため、その影響はヘタをすると聞かされた本人にだけではなく、そうした歴史を学ばされた世代からなる社会にも、挙げ句の果ては国にも、悪い影響を与え、場合によっては個人や社会や国の行くべき道を誤らせてしまう可能性すらある。

 たとえば既述して来たこの国の「建国」にまつわる話がその好例の一つだ(2.2節)。このでっち上げた神話が、今もなお、日本国民に真のアイデンティティを持つことをどれだけ妨げ、また真の愛国心を持つことをどれだけ妨げていることか。

 このことから判るように、学ぶ歴史はつねに正しい歴史であることが絶対に必要なのだ。

だからといって、後ろ向きに、あるいは過去に向って生きるということではない。そうではなく、いつでも、正しい過去を知り、そこから教訓を引き出し———このことがとくに大事なことなのである———、それを糧にしてその延長線上にある今を力強く生きるのだ。またそれでしか、未来に向かっては、安心できる生き方はないのである。

 過去を忘れたり、うやむやにしたり、あったことをなかったことにしたり、今を過去を切り離したり、あるいは、今だけあるいは目先だけを見ているということではいけない。それを続けている限り、今自分は過去と現在と未来の時間軸の中のどの位置に立っているのかも判らなければ、そこに自分が立っていることの意味も、自分という存在が何なのかという自己認識についても、見い出せないままとなる。

そうなれば、自分の行くべき方向も道も、たとえば自分はどうあらねばならないか、何をすべきなのかということも見えてくるはずもない。

 このように、歴史は、とくに自身と自国についての真実の歴史を知れば知るほど、自身にきわめて有用な指針や示唆を、そして確信を与えてくれるようになるのである。

 実際、これから人類は、と同時に自分を含めた一人ひとりはどういう方向に生き方の舵を切ったらよいのかを見出そうとするときにも歴史はきわめて有効だ。「物的豊かさ」を求め続ける経済活動により自然環境を著しく劣化させあるいは破壊してしまい、その結果、他生物を巻き込む形で人類そのものの存続が危ぶまれて来ている人類のこれまでの生き方を過去とし、その延長線上に今を位置づけ、さらにその延長線上に未来を位置づけてみれば、明解な答えを指し示してくれるのである。

 哲学について。

 これを必修とするのは、哲学は人に、ヒトが人間になるとはどういうことか、人間は何のために生きるのか、どう生きるべきか等々について、その根本のところを教え導いてくれる学問だからだ。

周囲の人々の言動やメディアに軽々に乗せられることなく、物事の価値についての判断基準や世界観を自分の中に自分のものとして持てるようになるためには、とくに現実世界との間で利害関係を持たない時期に、可能な限り先入観なしに、あらゆる物事を、じっくりと、何が正しく、何が間違っているか、何が必要で何が不必要か、何が本物で何がそうでないか、また、何が美しく何が醜いか、何が真実で何が偽りか、何が善で何が悪か、等々といったことを考えてみることが、その人のその後の人生をより確信を持って生きられるようにするために、どうしても必要だと私は考えるからだ。

 既述して来たように、この国の文部省そして文科省の教育行政が劣化し続けているのも、あるいは政治家が劣化し続けているのも、結局は、その行政を司る官僚自身や国民の生命・自由・財産を守るべき政治家自身が哲学を学ぶことをしなくなって来ていることが大きな理由の一つになっている、と私などは考えるのである。そしてその悪影響は、今、この国の全体に顕著に蔓延しているのである。

 哲学は決して時代後れの学問ではないし、時代後れになるはずもない。その先鞭をつけたのは、古代ギリシャソクラテスである。

それだけに、いつの時代、どんな社会にあっても、と言うより、先行き不透明で、混沌とした社会になればなるほど、哲学は威力を発揮する。もしも自らを人間として自信を持って生きられるようにしたいと望むなら、哲学は絶対に必要な学問なのだ。

 宗教について。

 ここで私の言う宗教は、いわゆるご利益宗教とはもちろん違う。あるいは特殊な霊感や霊能力を持った特定の人間の下に信者が結集して成立する宗教とも違う。また、特定の何かを信じれば救われると説くような宗教とも違う。

 ここで言う宗教、それは、人間の能力や知力をはるかに超越して、この広大無辺の宇宙を含む悠久の自然界に貫徹されているであろうしくみの体系———それは無矛盾の秩序と言うこともできるし、法則と言うこともできるし、あるいは摂理と言うこともできるもの———の存在を認め、それに文句なく頭を垂れて従おうとするところに生まれる人間の心のありようのことであり、そうした理解の下での人間の営みのことである。

 その宗教は次のようにも説明できる。

 たとえば身近な例で言えば、人間とは何か、生命とは何か、死とは何か、から始まって、大きくは宇宙とは何か、そしてその中で成り立つ法則や原理までも含めて、そのようなものは一体どのようにして、あるいはなぜ成り立つのか、とにかく考え出せば果てしなく疑問は広がり、また深まるばかりであるが、その宗教とは、しかしそこには、人間の小賢しい知恵などものともせずに、それを超越する何かが厳然としてあるであろうことを認め、またそのことに確信を持つところに生まれる人間の心のありようと人間の営みのことである。

 別の言い方をすると、その宗教とは、私たち人間が生きる上で、それもより良く生きようとすればするほど切り離せなくなるこれらの根本問題は、いずれをとっても、またどんなに人間が科学を進歩させたところで、人間がその完全解を得ることなどは永久に不可能であり不可知である、つまり、最終的にその成り立ちや意味の全体が判ったと言えるところまで到達することなど絶対にあり得ないと認めるところに生まれる人間の心のありようと営みのことである。

 そしてそうした人間の心のありようと営みの中でこそ、人間は、自然界に対しても、社会に対しても、また人間としての自身に対しても、他者に対しても、自ずと謙虚にもやさしくもなれるのである。

「人間の小賢しい知恵などものともせずに、それを超越する何かが厳然としてある」とは、たとえば次の例からも理解していただけるのではないだろうか。

 犯罪とはそれを罰する実定法があり、それに照合してみて初めて言えることであるが、しかしたとえそのような実定法がなくても、人間共同体である社会で、あるいはその社会そのものを成り立たせている自然の中で、自分一人だけが得を得ようとして、他者を騙し、あるいは他者を傷つけ、場合によっては他者を殺めたりしたなら、その「しっぺ返し」は、いつかは必ずあるものだ。それがいつ、何がきっかけで、どのような形で現れるか、それは誰にも判らないが。肉体的なしっぺ返しという形で現れるかもしれない。あるいは精神的なしっぺ返しという形で現れるかもしれない。

それは、人間は、どんな人でも、100%の悪人と言える者などなく、また反対に100%の善人と言える者などもなく、程度の違いはあれ、必ず幾らかの良心が備わっているものだからだ、というのも一つの根拠になるだろう。

 しかし、こうした現象は、私はもっと広く一般的に捉えるなら、物理学で言うところの「作用と反作用の法則」の表れの結果なのではないかと考えるのである。つまり、生物一般について、あるいは動く物質全てに言えることであろうと思うが、人間に限って言えば、どんな人間のどんな行動も、それは社会に対する、また自然に対する「作用」と考えられる。したがってその作用は、程度の違いはともかく、その作用が及ぼされる直前までその社会や自然を成り立たせてきたあるしくみあるいは秩序から成る状態に働きかけ、撹乱をもたらすことになる。

 ところが社会や自然は、元々は多様な無数の構成要素から成っていて、それらの均衡の上にある平衡を保って来ているものである。とくに自然は無矛盾の秩序を保ちながら成り立って来ているものである。それゆえに、そこには法則が成り立ちうるのである。

 そんな状態にあるところに、人間による新たな撹乱という作用がもたらされたなら、その作用に対して、それまで無矛盾で成り立ってきた自然はもちろん、その自然の中で成り立ってきた社会も、その撹乱に対して反作用を及ぼし、元の均衡のとれた自然そして社会に戻そうとする。

 なおこれはちょうど、静まりかえった池に一石を投じた時に生じる現象に似ているのではないだろうか。

静まりかえった池に一石を投じる行為は、その静寂な————ということはそこではあらゆるものが均衡の取れた状態にあるということであるが————池に撹乱という作用を及ぼすことだ。そうなれば、その作用により表面の均衡状態は破られて波立ち、それは波紋となって周囲に同心円状に広がって行く。そしてその波紋は池の全体に及び、端にまで到達すると、今度はそこからさっきの波紋は跳ね返って最初一石を投じた地点に狭まり集まって来る。そしてそれは、一石を投じられたことによる撹乱を打ち消すように働くのである。

 そしてこの現象も一つのしっぺ返しだし、作用反作用の結果なのである。

 私は、これこそが、人間の行為に対する「しっぺ返し」の本質なのではないか、と見るのである。そこでは、自分だけのこと、自分だけの得を考えた行動であればあるほど、もっと一般的に言えば、人間の小賢しい知恵に基づいた行為であればあるほど、社会から、そして特に自然からは、なおさら大きなしっぺ返しが来ることは容易に想像できるのである。

 なお、私がここで言う宗教とは、アリフィン・ベイが定義してみせる「政治も経済も文化もすべてがその中でそれぞれの位置を占めているような包括的な世界観」としての宗教(アリフィン・ベイ「アジア太平洋の時代」中公叢書 p.144)と結局は同じものなのかもしれない。

 私は、世界宗教と呼ばれるとくにキリスト教イスラム教、仏教については、それぞれの教典は聖書、コーラン、仏典と異ってはいても、また表現方法は異なってはいても、それぞれが究極的に目ざすところ、目ざす世界、目ざす人間のありようは、同じなのではないかと信じて疑わない。それらが訴えているところは、結局のところ、共通していて、人生には、人間がどう抗ってみたところでどうにもならないことがあり、秩序があること、そしてそれが厳然たる真理であるとして謙虚に認め、受け入れるよりないとしている点のように思えてならないのである。

 そこで、もし、これらの世界宗教が、宗教とは、既述の意味での自然界での摂理・法則を謙虚に受け入れようとするところに成り立つ人間の心のありようとそれに基づく人間の営みのことであるとすることを共通に受け入れられたならば、そこではもはやキリスト教とかイスラム教とか仏教とかいう区別もなくなり、それらは統一されながら一段と高い次元での宗教となり得るのではないか。そしてそれこそが、世界人類を共通に包むこれからの宗教ということになるのではないか、と私などは考えるのである。

 そうなれば、歴史上数えきれないほどあったイスラム教世界とキリスト教世界との対立も、キリスト教内部やイスラム教内部での宗派戦争も止揚されうるのではないか、またとくに最近多くなって来ている宗教的テロ活動も減って行くのではないか、と、期待もできる。

 それだけではない。もし、世界が既述の意味で宗教を宗教として理解し受け入れられたなら、ますます深刻化し、人類全体の存続さえ脅かすようになっている地球温暖化や気候変動、さらには生物多様性の消滅という広義の環境問題をも自ずと解決へと導いて行ってくれる導き手になるのではないか、とも考えるのである。

 なぜか。それは、今日の環境問題とは、その大本を辿れば、「自然は人間の豊かさ実現のためにあり、そのための手段である」としてきた自然に対する近代市民の無知と傲慢さから成る近代の価値観がもたらしたものだからである。

 とにかく、ここで学習が必須とされるべきと私が考える宗教とは上記のものである。

 こうした宗教の捉え方を含めて、これからの宗教のあり方までを児童生徒が学校で何の先入観も固定観念もなく考え、それらを本音で互いに議論できる教育のあり方を児童生徒に提示することは、きわめて大きな人類的意義があるのではないか、と私は考えるのである。

核戦争の脅威が米ソ冷戦時以上に高まりながらますます混迷を深めている現在の世界にあって(ぺりー)、若き彼らこそが、世界平和を呼びかける力強い使徒になってくれるのではないかと、私は信じるからだ。

 以上が、なぜ「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」を必修科目とすべきかとする私の考え方である。

 こうして、児童生徒一人ひとりが、教師の導きによって、世界を階層性を持った諸価値から成るものと見て、その中で、自身の立ち位置を歴史的にも文化的にも見極め得たならば、そのとき初めて、各人は、自分の人生には深い意味があることに気付き、生きる意義、生きる目的を自らはっきりと掴めるようになるのではないだろうか。そしてそこからさらに、自分には自分だけの意味深い生き方や目標のあることにも気付けるようになるのではないか。それは自らの潜在能力にも自ら気付き得るようになることでもある。

それに自ら気付けば、それを花開かせる道を自ら選び執ることもできるようになり、持って生まれた可能性の存在よりも高い「次元の存在」、高い「意味の段階」へとたどり着くことができるようにもなる。そうなることによって、彼らは、一人ひとり、それぞれの達成段階で、達成した歓びを自らしみじみと感じ味わい、人間として最も意味のある「幸せ」をも感じ取れるようにもなるのである(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫p.123)。

 以上の文脈から、今や明確になったように、学校に行く主たる目的は、何もスポーツをするためではない。就職するためでもない。ましてや一流企業や大企業に就職するためではないし、条件のより良い職に就くためでもない。また人生を生きる上で何の役にも立たない断片的知識を頭に詰め込まされるために行くのでもない。画一的枠の中に押し込められて、理不尽さに対してものも言えない従順な人間に仕立て上げられるためにゆくのでももちろんない。嘘の歴史を真実であるかのように教え込まれては、愛国心を強要されるためでもない。

 学校に行く第一の目的は、どんな人間個人にとっても根源的な、既述のさまざまな問いを自らに向って発し、その答えについて自ら考え、自ら見出しうるようになることである。

その意味で、学校に行く大目的は、物事を疑問に思って「問うこと」あるいは「問うことを学び、問い方を学ぶ」ためである、と言うこともできる。文字どおり「学問」をするために学校に行くのである。私はそう考える。

————————————以下は、「その2」に続く。