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大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

17.10 アメリカとの日米安全保障条約の解消

17.10 アメリカとの日米安全保障条約の解消

この問題を考える時、独立を世界から認められたはずのこの日本国に生きる国民として、私たちは次のいくつ化の事柄について確認しておくこと不可欠ではないか、と私は思う。

①そもそも安保条約と略して呼ばれる日米安全保障条約とは何か?

 それは何を目的にして、どのような状況の中で、日米間で締結された条約なのか?

②そしてその条約はそもそもどういう性格を持った条約なのか?

③この安保条約に直接は述べられていない、しかしこの条約と関連して、日本に重大な影響をもたらした、関連する取り決めとは何か?

そしてそれらは、どのような経緯の中で取り決められたのか?

④それらは一緒になって、その後、今日まで、日本国と日本国民にどのような影響をもたらして来たか?

⑤なぜ今、この安保条約およびそれに関連する日米間の一連の取り決めを解消しなくてはならないか、あるいは解消する必要があるのか?

 

 以下、私は、これらの問いの順に沿って考えてみようと思う。

なお、それを考えるにあたって、私は、主として、元外務省国際情報局長の孫崎享氏の著書「戦後史の正体」(創元社)および同氏の「日本再起動」(徳間書店)を参考にさせていただく。

 

①について。

 日米安全保障条約、正式には「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」は、その名のとおり、日本がアジア・太平洋戦争に無条件で敗北した後、日本とアメリカとの間で、相互の協力と安全を保障し合う目的で締結された条約である(1951年9月8日)。

以下、簡単のためにそれを「安保条約」と呼んでゆく。

 そしてこのとき以来、「安全保障」という言葉と概念は、この国にとっても、私たち日本国民にとっても、その意味を明確に理解しておかなくてはならない極めて重要な政治用語および軍事用語となったのである。それだけに、ここで言う安全保障とは、何についての安全を保障することなのか、そしてそれはどこまでの範囲を意味する言葉なのか、ということを明確に押さえておかなくてはならないのである。

 ではそれは、どのような状況の中で締結されたものか。

そのためには、安保条約が締結される前に、もっと広く世界との間————実際には49カ国の間で————で結ばれ調印された、戦後日本の独立を承認するためのサンフランシスコ講和条約に触れなくてはならない。そもそも講和とは、戦争を終結し、平和を回復するための交戦国間の合意のことである(広辞苑)。それまでは、日本は、連合国の占領軍によって支配され、日本は間接統治されていたからである。しかしその敗戦国との講話というのは、本来は世界共通の利益を求める立場で進められるべきだったのだが、1947年当時からすでに表面化していた米ソを中心とする両陣営の対立、すなわち東西冷戦が色濃く反映されるものとなってしまった。実際、その講和会議を取り仕切ったのはアメリカで、したがってソ連を中心とする社会主義陣営を敵視し、自由主義陣営を戦略的に強化するという立場でその講和会議を推進したのだ

対日サンフランシスコ講和条約(平和条約)とはこうした状況下で締結されたのだった。

 その際、アメリカは、日本占領当初の方針であった、「日本を徹底的に民主化する」という方針を急遽、大きく転換して日本を社会主義陣営の拡大を防ぐ防波堤と位置づけたのである。

その結果が五か条から成る条文だった。そしてその五箇条から成る条文の主旨は、かいつまんで言えば次のようなものだった。

————米国は日本国内に軍隊を駐留させられる。それも、米国は、その軍隊を、米国が望む場所に、望む期間だけ、駐留させられる。しかし、米国は日本を防衛する義務は負わない。

 そしてこうしたアメリカ側の考え方をより具体的に表現したものが安保条約だった。

しかも、それは講和会議の行われたその日に、講和会議の行われたオペラハウスとはまるで雰囲気の違う、米国陸軍第6軍の基地の中の下士官クラブという場所で締結されたのである。それも、講和会議の場では全権委員として同席した池田勇人、星島次郎氏らは一人もおらず、吉田茂がただ一人署名するという、まるで隠密な形で締結されたのである。

②ではその安保条約とは、特徴として、どういう性格を持った条約なのか。

それは、サンフランシスコ講和条約の内容もさることながら、その内容の流れをくむ安保条約は、文字通り、日本国と日本国民からみれば、極めて不当で不平等な内容からなる不平等条約である。

 なおこれは、1960年に岸信介政権時に改定される新安保条約に対比して、旧安保条約と一般に呼ばれる。

この条約締結にアメリカ側の中心的存在として関わったのが、「われわれ(米国)が望むだけの軍隊を、(日本国の)望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を有する、それが米国の目標である」(同上書p.141)と日本側に押し通した、トルーマン大統領の意を受けたジョン・フォスター・ダレスである。

 つまりそれは、その締結された内容といい、締結した場所といい、締結に関わったのは吉田だけであるという仕方といい、どれをとっても世界に公言できるような質のものではなかったのだ。それを、吉田茂は、せっかく世界に認められた独立国としての主権を、その認められたその日にアメリカに差し出してしまったのである。そしてこの瞬間以来、日本は実質的にアメリカの保護国となってしまったのである。なお保護国とは、条約に基づき、相手国の主権によって保護を受ける、国際法上の半主権国のこと(広辞苑)。

 こうした経緯からも判るように、吉田茂は、日本国内ではその後、「宰相」などと呼ばれ評価されてきたが、そして日本国内では、「保守本流」となる政党は吉田に始まるとなどとされては来たが、実質的には、宰相どころか、吉田はこの私たちの国日本国をアメリカに売ったのである。つまり独立国とはとても言えない国にしてしまったのである。その意味で、日本政治の「保守本流」とは、そんな屈辱的条約は一刻も早く破棄すべきと唱える真の愛国心と矜持を持った政治家など一人もいない、言い換えれば、「自由と民主主義、そして法の支配は人類の普遍的価値」などと口では言うが、実際にはその「自由」の価値や重みすら理解し得ない、アメリカ政府への迎合を政治信条とする集団のことを言うのだ。自由の価値が本当に判っていたなら、屈辱的状態には耐えられないはずだからだ。

 

③それは、日米地位協定であり、交換公文であり、合意議事録と称せられるものである。

それらの締結経緯を述べる前に、条約や協定そして交換公文とは何か、そしてそれらはどのようにして両国間で交わされるものなのか、またどのようにして発効するものなのか、それを明らかにしておかなくてはならない。

 まず国家間で締結される条約というのは、国会での審議や批准を要するものである。つまり、その時点で国民に知れるものである。それに対して政府間で結ばれる協定は、国会での審議や批准という手続きが不要となるのである。(前掲書p.118)。

さらに、交換公文とは、やはり国家間で取り交わした合意文書のことであるが、条約や協定のように公に発表するということはしないものの、やはり協定とほとんど同じような効力を持つ文書なのである(前掲書p.150)

 実はこれらの手続き上の違いを最大限利用して、自分の思惑通り実現させていったのも吉田茂だった。

「われわれ(米国)が望むだけの軍隊を、(日本国の)望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を有する、それが米国の目標である」という内容は、当然サンフランシスコ講和条約にそのままの形で盛り込むことはいくら吉田でもできなかった。それは、この内容はアメリカに従属するものであって、日本の独立を公式に認める講和条約の内容と相反するからだ。とはいえ、吉田としては、国会での批准を要する安保条約の中にも盛り込むこともできなかった。そのことは、この安保条約を、吉田一人がコソコソと署名し締結した経緯からも判るし、これの審議をもしも国会に諮ったなら、それはそれで講和条約と矛盾すると野党や国民から猛反発を受けることも判っていたからだ。そこで吉田は、行政協定締結のための担当大臣に任命した岡崎勝男を使って、ダレスの上記要求を呑む内容を、次のように表現して行政協定の第二条にこっそり盛り込ませたのだ。

「日本は合衆国に対し、(略)必要な施設および区域の使用を許すことに同意する」。

続いて「日本国政府及び合衆国政府は、いずれか一方の要請があるときは、前記の取り決めを再検討しなければならず、また、前記の施設及び区域を日本国に変換すべきこと、(略)、を合意することができる」

 ここで、特に注意を要するのは「合意することができる」という表現だ。つまり、この「できる」は、法律上の義務ではないからだ。ではアメリカが合意しなかったらどうなるか。その時には現状維持、となる。要するに、合意が成立しなければ、米国は、施設すなわち基地の使用を無期限に継続する権利を持つことになるのである。そしてこのことが、吉田茂アメリカ政府に日本の主権を売り渡した売国奴なのだと私が主張する根拠である。

 ではなぜ日本はここまで酷い協定が結ばれてしまったのか。言い換えれば、なぜ吉田はこれほど酷い内容の協定に署名したのか。

そこには吉田茂の極端なまでの対米追随思想に加えて、その締結を担当した当時の大臣岡崎勝男の意図的な隠蔽工作があったとされる(同上書p.148)。

 なおこの行政協定は、その後、日米地位協定と名称を変えることになる。その正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」

 しかし、そうではあっても、当時の外務省(官僚)は、行政協定を地位協定に改正するにあたって、少しでもこれまでの在日米軍の運用に制約をかけることには徹底的に抵抗するアメリカの統合参謀本部を忖度して、表向きの地位協定とは別に、非公開の日米両政府間の合意議事録を同時に作成することをアメリカ側に提案し、その結果として、実質的には、これまでの日米行政協定の内容とは変わらずに、米軍の基地保有権とその周辺での行動の自由裁量権を外務省(官僚)側が保証してしまったのだ(山本章子「日米地位協定中公新書p.58)

 

④ではそれらの取り決めはその後、今日まで、日本国と日本国民にどのような影響と効果をもたらして来たのか?

 結論から言えば、日本に駐留する米軍には治外法権が与えられ、日本はアメリカの保護国どころか、特に米軍基地のあるところでは、アメリカのほぼ完全な属領としての植民地そのものの扱いをアメリカから受けることになったのである。ここに治外法権とは、外国の領域内において、その国の法律、特に裁判権の支配を受けない特権のことである(広辞苑)。

 確かに、途中の1960年には岸信介政権による旧安保条約の新安保条約への改定が行われ、それまでの安保条約にあった「米国は日本を防衛する義務は負わない」は改定され、「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」となった。要するに、日本国への武力攻撃に対しては、日米が、共通の敵として共同行動を取る、と改定はされた。

 しかし、行政協定における「米国は日本国内に軍隊を駐留させられる。それも、その軍隊を、米国が望む場所に、望む期間だけ、駐留させられる」は地位協定に改められても、上記の日米両政府間での非公開の合意議事録からも判るように、実質的には依然として行政協定の内容とは少しも変わってはいない。それは、吉田茂と吉田の指示通り動いた岡崎勝男は、アメリカに対して、在日米軍基地を半永久的に使用する法的根拠を与えてしまったためである。

 そして地位協定の中で最も問題なのは、行政協定の場合も同様に、第一七条である。

行政協定のそれにはこうある。

「米国は、軍隊の構成員および軍属ならびにそれらの家族が日本国内で犯す全ての罪について、専属的裁判権を日本国内で行使する権利を有する」

 つまりこれこそ治外法権であって、日本政府は、在日米軍に対してそんな特権を与えてしまったのである。

 その結果、特に惨めな思い、屈辱的な思いを幾度となく味わされたのが沖縄の人々だった。沖縄には在日米軍の70%が集中していたからである。そしてその気の毒な状態は、今もなお、日本の「保守本流」と自負する対米従属政治家らを中心にして、続けられているのである。

 それだけではない。本来アメリカ側の負担であった在日米軍基地で働く日本人従業員の労務費の一部をも、当時の防衛庁長官金丸信の時(1978年)から、日本政府、つまり日本国民が肩代わりするという形でのいわゆる「思いやり予算」をもつけるようにもなったのである。それが、今では5年間で1兆円を越す額になっている。この国は、対GDP比で2.6倍という、世界でもダントツに最悪の政府債務残高を抱えているというのに、である。ではこの思いやり予算は一体何に使われているのか。例えば在日米軍家庭が電気・ガス・水道を使いたい放題使えるように、遊びでも、有料道路料金が全てタダで使えるようにするために使われているのだ。

 しかしこれらの状況は、日本の首相が誰になっても一向に変わらないのである。そしてそうなるのは、まさに吉田茂と岡崎勝男がアメリカと秘密裏に締結した安保条約と、それと連動する行政協定、後の地位協定に根本の原因があるのである。

このように日本国民が、ということは日本国が、戦後これほどまでに長期にわたって、そして今もなお、辱められ、卑屈な思いにさせられ、その上同胞が苦しめられ続けるような状況の土台を作ったのは間違い無く吉田茂なのだ。その事実を踏まえるならば、吉田茂に対する私たち日本国民の評価は今こそ全面的に改められるべきだ。彼は宰相どころではない。経済支援を受けることと引き換えに日本国の主権をアメリカに投げ出し、事実上の売国奴だったのだからだ。なぜなら、どの国も、独立国だったなら、主権は絶対に譲らないものだからだ。それに、政治家は政策において評価されるべきだとは言われるが、吉田の場合、例えば同時代に同じ政治家であった重光葵(しげみつまもる)と比較しても明らかなように、条約締結時がいかに占領下あるいはそれが解かれた直後であったとはいえ、彼の自国民に対してとったあの横柄な態度、しかしアメリカ政府に対しては卑屈そのものだったという態度、言い換えれば真の愛国心も矜持も何も無くひたすらアメリカに追随するという態度、つまり彼の人間性または人格の観点からも見直されるべきなのだ。

 

⑤そこで、ではなぜ今、私たち日本国民は国民として、あるいは主権者として、この安保条約およびそれに関連する日米間の一連の取り決めを解消しなくてはならないか、あるいは解消する必要があるのか?

 このことを判断する上で最も重要な概念について、私はここでもう一度確認しておこうと思う。それは主権ということであり主権者ということについてである。

主権者とは、主権、すなわちその国家自身の意思によるほか、他国の支配に服さない統治権力のことであり、それは、国家というものを構成する要素の一つで、最高・独立・絶対の権力なのである。また、主権とは、国家の政治のあり方を最終的に決める権利のことであり、主権者とは、特にその後者の意味での権利を所持する者のことだ(広辞苑)。

そしてその前者の意味での主権を堅持できていることこそが、その国が独立国であるということを意味し、また証明しているのである。

 

 ではこうした原則を踏まえた時、今の、また少なくとも戦後からこれまでのこの国は主権を堅持し得た独立国と言えるか。

確かにサンフランシスコ講和条約では、日本は第二次大戦での交戦国49カ国から公式に独立国と認められた。だがそれは表向きのことであって、実態はどうだったか。

それは、既述のとおり、独立国とは程遠い。

 確かに安保条約を結ぶことで、日本国はその安全は守られてきたとは言えるかもしれない。またそのことで、日本国はどこの国よりもアメリカの援助や支援を受けて経済は繁栄し得てきた、ということも言えよう。

しかし、その状態というのは、日本人に歪んだ心情をもたらしたのではないか。なぜなら、たとえ国土は守られ、経済は繁栄できたとは言っても、その裏で、同胞が人間としての尊厳を傷つけられ続け、基本的人権すら満足に母国の政府によって守られることすらなかったのだからだ。実際、これまで、どれほどの回数、そこに駐留する軍隊の軍用機の墜落事故の被害に遭わされ、どれほど軍用機の連日の騒音に悩まされ、どれほど同胞である日本人女性の人権が米兵あるいはその軍属によって粗末に扱われてきたことか。また有害物質による環境汚染がどれほど米軍基地から出てきたことか。実は沖縄の人たちは、アジア・太平洋戦争の末期にも、そしてその時には母国政府だけではなく軍部からも見捨てられ、捕虜になるよりは自決をと迫られ、無意味な死に方を強要されても来ていたのだ。

 だから、そこでは、そうした事実を知っている日本人の多くは、どんなにアメリカによって本土の経済は繁栄できたとは言っても、そしていっとき沖縄の経済は活況を呈したとは言っても、いつもどこかに屈辱感を覚え、政府に対して不甲斐ない、情けないとの思いを持ち続けて来ているのではないか。

 

 余談ではあるが、日本人がアメリカからこのような扱いを受けてきた背景には、日本人の卑屈根性だけではなく、彼らの日本人に対する偏見がどこかにあったからなのではないか、と私には思えてならないのである。事実、彼らアメリカ人は、アジア・太平洋戦争当時、日本人を蔑んで「ジャップ」と呼んだ————日本人も、中国人をチャンコロと呼び、朝鮮人をチョンと呼んだ————。実際、ルース・ベネディクトの名著とされる「菊と刀」が生まれた背景には、アメリカから見たら同じ第二次大戦で敵国人として戦ったドイツ人やイタリア人に対するのとは違う見方が日本人に対してはあったのである。「日本人は特異」「日本人はけだもの以下」という当時のアメリカ政府の捉え方がそれだ(オリバーストーン「もう一つのアメリカ史」)。そしてそうした見方が、ドイツ・アメリ地位協定やイタリヤ・アメリ地位協定の内容とは大きく異なる日米地位協定になったのではないか、と思えてならないのである。

 もしそうした見方が幾分なりとも的を射ているとするならば、屈辱条約を破棄しうるためには、私たち日本人は、今後、本当の意味で世界に伍してゆくためには、やはり一刻も早く、自由、平等、人権、民主主義、権利、等々といった普遍的価値を理解して、我が物にする必要があるのではないだろうか。

それに、国の安全保障とは、自国軍隊であれ外国軍隊であれ、必ずしもそうした軍隊を置きそれに頼るということではないはずである。むしろより大切なことは、国民一人ひとりが考え方にしても生き方にしても「個」として自身を確立させ、真の愛国心を持ち、まずは自分の祖国は自分の手で守るという気概を持つことなのではないのか。と同時に、この国の政府自身が、「組織の縦割り」や「官僚独裁」を克服すると同時に、自国の進みゆく道、目指すべき国の姿を理念とともに世界に明らかにしながら真の意味で国際平和に貢献できる国になることではないのか。そしてそうあってこそ、地球的にも世界的にも今後多難が予想される時代にあって、日本国は、国際社会で、金や経済あるいは技術の面だけではなく、人道の面で、価値ある国、信頼できる国、頼りになる国として、その存在を認められる国になりうるのではないか。そしてそうなることこそが、本当の意味で日本国の安全保障は確保されるようになるのではないか。

 日本政府自体がアメリカ政府に対してかくも卑屈で従属的な態度の今のままでは、国際社会では、何をするにも、その後ろにはアメリカがいると見られてしまい、その意味で、日本の対外的活動は、どんな活動も、本当の意味では、日本独自の活動とは評価されないままとなってしまいかねないのである。

17.9 連邦、各州および各地域連合体で法律の制定 

17.9 連邦、各州および各地域連合体で法律の制定               

 連邦および州そして地域連合体それぞれの行政機関の管轄範囲と管轄事項と権限区分が確定したところで、国民、州の人々、地域連合体の住民の間で、新選挙法(第9章)に基づいて第一回目の選挙を実施し、国民ないしは州そして地域連合体の住民の政治的代表である政治家を各レベルで選出する。

 そして、そこから選ばれてくる、今度こそきちんと自由と民主主義そして法の支配をわきまえた本物の政治家たちの手で、連邦、州、地域連合体のそれぞれの議会で、連邦の憲法に依拠し、その連邦の理念を実現する方向で、政治家同士だけの議論によって新法を制定する。

 その際、アジア・太平洋戦争敗戦後からつい先頃まで用いられ、運用されてきた法律は事実上無視して、新時代、すなわち本書が定義する環境時代にふさわしい法体系のものにする。これまでの法律というのは、六法全書を見ればわかるように、そのほとんどがアジア・太平洋戦争敗戦後まもなくして制定されたものであり、その後幾分か改定されたものがあったにせよ、根幹あるいはその精神はほとんど変わらないものであるというだけではなく、何と言っても、それらを事実上制定したのは、当時の国民から選ばれた国民の代表である政治家ではなく、むしろ、明治時代の「天皇の官僚」という意識や組織の記憶を引き継ぐ官僚たちであるからだ。つまり、これまでの法律の内容も精神も、民法に代表されるように、あるいは刑事訴訟法に代表されるように、あまりにも時代遅れというだけではなく、本来、法律は————もちろん憲法もであるが————国民の代表によって作られるべきものだし、何よりこれからの時代に適用できる内容を備えたものでなくてはならないからだ。その際、これまでの法はあまり気にしなくて良いとする根拠は、法学の世界では、新法が常に旧法に優越するという原則があるからだ。

 なお、これらの過程を進める上で、決定的に重要なことがある。

それは、それぞれの議会で新法を制定するための議論をする際には、政治家たちは、各自が新選挙法のもとで立候補しようと決意した時点で、思い描いたこれからの日本が目指すべきと思う姿、日本のゆくべきと思う道、あるいは自分たちの地域が目指すべきそれらから導き出された各自の公約を胸にして、政治家同士だけで主体的に議論するということであり、そこには官僚を入れないということである。そうしたことを議会が徹底すべき根拠は、少なくとも3つはある。

1つは、これまで、随所で述べてきたように、これまでの政治家は、首相と首長を含めて、国会の政治家であれ地方議会の政治家であれ、立法や政策の立案のほとんどを官僚を含む役人に依存してきた結果、この日本という国を、ことごとく役人主導の国、役人独裁の国にしてしまい、未だ民主主義も実現できない国にしてきてしまったからだ。その意味では、これまでのように、法案作成は内閣法制局の官僚に任せるというやり方も、ここできっぱりとやめる。とにかく、議会が、連邦としても、州としても、地域連合体としても、名実ともに最高機関となるべきなのだ。2つ目は、その結果、この国のこれまでの政治家という政治家は、不勉強で、怠慢で、無責任な、自身の本来の役割や使命も判らない名ばかり政治家、税金泥棒としか言いようのない政治家となってしまっているからだ。3つ目は、そもそも官僚の働くところは行政府という、立法機関が定めた法律や政策や予算を忠実に執行することを使命とする執行機関であり、三権分立の観点から、立法府とは縁のない者だからだ。それに、立法機関に官僚を関わらせると、官僚らは、一人では「法の支配」を無視したり破ったりする勇気もないのに、集団となると、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式に、組織ぐるみで、国民の利益よりもつねに自分たちの利益を優先するような社会の諸制度を考え出しては、それを裏付ける法案を考えるからであり、また国民のお金である税金の使途についても、常に自分たちが自分たちの利益のために考え出した仕組みを成り立たせるための使途を優先するからだ。その実例が特別会計であり、それを最大限利用したいわゆる特殊法人や政府系公益法人であり、認可法人の乱立だ。

したがって彼らは、結果として、連邦政府であれ、州政府であれ、地域連合体政府であれ、そこの債務がどんなに膨らんでも意に介さないし、それを自分たちの手で返済しようなどともこれっぽっちも考えないからだ。要するに、彼ら官僚を含む役人には、私自身が直接接して知ったところによっても、自分たちが「国民のしもべ」だという感覚など毛頭持ってはいない。むしろ自分たちこそ主権者であって、この国やこの地域は無能な政治家たちには任せられない、という意識がつねに垣間見られるのだ。

 

 そこで、もし政治家たちが法案作成過程で助言を求めるなら、自らも法学を勉強すると同時に、法律の専門家、それも民主主義と人権を骨肉とした権威や権力に阿ることのない 法律の専門家や法学者に限定することである。彼らからまずは徹底的に民主主義を学び、法律というものを学び、一人ひとりが議会で法律制定のための議論をできるまでに法と民主主義に精通することこそが大事なのだ。

 また、各法律条文を作る際、もう一つ大切なことは、例えば「共謀罪」の趣旨を含んだ日本の「改正組織犯罪処罰法」や、中国の「反スパイ法」がいい見本なのだが、曖昧な表現は極力避け、何はしてよくて、何はしてはいけないか、何が許されて、何が許されないか、を常に明確化することだ。実際日本からビジネスや観光で中国に行った人のうち、「反スパイ法」の容疑で拘束されている人が今もなお複数人いるが、その彼らは異口同音にいう。自分がどういう理由で拘束されたのかさっぱり見当もつかない、と。それは「反スパイ法」の条文が曖昧に書かれていて、その法を運用する統治者側に有利に作られているからだ。したがって、法律の条文を運用するのはもっぱら政府の役人であるのだが、その役人がその条文を適用する際に、役人の恣意性、つまり気まぐれな独断をそこに差し挟める余地は徹底的に排除した条文にしておくことが不可欠なのである。すなわち、国民の誰もが安心できる社会秩序の中で暮らしたいと思うなら、「あらゆること、あらゆる行為は、最終的に法律の明文規定によって規制されていること」(K.V.ウオルフレン「システム」p.109)と、「行政権と司法権が明確に分離されていて、官僚たちの気まぐれな独断による法の運用によって特定の人だけが逮捕され起訴されるというような支配ではなく、誰もが平等に扱われる法の支配が徹底されていることが絶対に必要なのだ」(同上書p.103)。

そのためには、どの条文も、少々長くなることは厭わずに、誰がそれを読んでも、意味を一義的に読み取れる明瞭で簡潔な文章にしておくことが重要なのだ。

17.8 連邦と連邦構成主体である州と地域連合体との間での権限区分の明確化

 

17.8 連邦と連邦構成主体である州と地域連合体との間での権限区分の明確化

 少なくとも近年の実例だけから見ても、この国に起った大災難あるいは大惨事————例えば阪神淡路大震災(1995年)、オーム真理教によるサリンばらまき事件(1995年)、東日本大震災(2011年)そしてその直後の東京電力福島第一原子力発電所炉心溶融による水素大爆発による大量の放射性物質の拡散事故(2011年)あるいは九州北部豪雨災害(2017年)、西日本豪雨災害(2018年)、新型コロナウイルスによるエピデミックさらにはパンデミック(2020年から今日まで)————においては、ほとんどその度ごとに、中央政府は、とくに最初の時点では、迅速かつ的確に対処対応ができなかった。そしてそれを、メディアは見当違いというか、そうなった本質に気づかなかったからであろう、「初動対応が遅れ」という言い方で批判した。また、被災地となった都道府県や市町村の政府(役所)である都道府県庁や市町村役場の被災住民に対する対応も遅れ、それだけ救われる者も救われずに、被害を大きくしてきてしまった。

 ではどうしてこの国ではそういう事態が事あるごとに生じるのか。

私は、その最大の理由は二つあると思っている。一つは、これまでも再三、随所で指摘してきたように、この日本という国は、明治期以来、一度も本物の国家であった試しはないという事実に因るということ。それは、国家の定義「社会の構成分子であるあらゆる個人または集団に対して合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合された社会のこと」(H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書p.6)を思い出していただければ直ちにわかるであろう。

例えば次のいくつかの実例を思い出してもらいたい。

明治期には、政府はあり、国の最高責任者である首相はいても、軍隊については首相はコントロールもできずに、陸軍と海軍の関係はバラバラであった。昭和に入っても、20年までは、政府(内閣・首相)がありながらも、一方では主権在君で、天皇には統帥権があって、それが首相の軍部への介入も許さないという二重権力構造となっていたし、その上、大本営はあるとは言っても、中国に侵略して行った関東軍は内閣の方針にはもちろん、参謀本部の命令にも従わず、独断専行しては様々な破壊活動をしたりして、満州国を建国した事実。あるいはアジア・太平洋戦争敗戦後から今日までは、この国では、「縦割り」という官僚たちの作った組織構成がいまだに慣例として存続し、各府省庁の関係は互いにバラバラであり、国民を代表し、また政府を公式に代表しているはずの総理大臣を含む閣僚と呼ばれる政治家たちは、各府省庁をまとめて国民に対して一つの政府という形を成し得ず、しかも、総理大臣も閣僚も、彼らが公式にコントロールすべきその府省庁の官僚たちに対しては、実際にはごくごくわずかの影響力しかもっておらず、むしろ官僚たちの方が実質的に断然大きな権力をもっていて、総理大臣や閣僚たちはその官僚たちに依存し追従してさえいる状態であること。

そのことは、彼らがTVカメラの前で国民に行政状況を説明する際には、決まって、総理大臣が一人、政府を代表して説明するのではなく、各府省庁の閣僚が別々に説明するし、その説明も、決まって官僚の作文を読まねば説明もできない状態であることから判る。あるいは政府内で、閣議に諮られるのは、事務次官連絡会議で全員の合意が得られた案件だけであること、しかも、その案件についても、閣議らしい閣議など全くと言っていいほど行われずに、わずか15分かそこらで閣僚全員で追認の署名をし合うという形での「閣議決定」でしかないという事実からもわかる。また、とくに政府の新型コロナウイルス対応においても、国民に対処状況を説明するのに、総理大臣がつねに政府を代表して一人で説明すればいいのに、西村大臣が出て来て説明したり、加藤大臣が出て来て説明したり、斉藤鉄夫大臣が出て来て説明したりと、それも担当する各府省庁の官僚の作文を読む形でしか説明できないといった姿などからも判る。

 しかも、府省庁の官僚たちは総理大臣や閣僚たちよりも実質的に断然大きな権力をもっているとは言っても、その各府省庁の官僚たちは、どの府省庁の官僚も、他の全ての府省庁を圧倒するほどの権力を持っているわけではない。

 つまり、この日本という国では、統治システムのどの一要素も、最終的に誰の支配下にもないのだ。あるいは政府を公式に代表できて、政治的説明責任の中枢となりうる者は不在だということだ(K.V.ウオルフレン「システム」p.79)。

こうした様々な実例が、この日本という国は、明らかに、まともな国家、真の国家ではないことを実証しているのである。それは、一言で言い換えれば、この日本という国には政治的な舵取りは存在しないということなのである。

 これこそが、平時はともなく、有事、あるいはあらゆる大災難や大惨事に対して、中央政府も地方政府も、国民に対して迅速かつ的確に対処できない、したがって被害状況を最小限にとどめ、無意味な犠牲者を出さないということができない最大の、そして本質的な第一に理由なのだ。

 なお、今述べてきた「この国は国家ではない」という事実に立てば明らかなように、これまでこの国では、安易に、例えば国家機密、国家戦略、国家予算、国家公務員等と国家という文字を冠する言葉が用いられてきたが、しかしそれは、政治家たちもその分野の専門家たちも、全く意味もなさない言葉遊びをしてきただけだ、ということが判るのである。

 この国では、あらゆる有事、すなわち大災害や大惨事において、必要以上に被害を大きくしてしまい、悲惨な被害者をより多く出してしまい、またそれを長期化させてしまうもう一つの本質的な理由は、中央政府の長と、地方政府である都道府県庁と市町村役場の長との間での管轄範囲、権限区分、法的地位の違いが憲法において明記されないままできたためであるから、ということである————もちろんそうした管轄範囲、権限区分、法的地位は下位法である一般実定法に記載できることではない————。

つまり、現在の日本国憲法では、第八章に「地方自治」という章が設けられてはいるが、そのように、中央政府とその長の、また地方政府である都道府県庁と市町村役場とその長の権力と権限の範囲あるいは区分が曖昧なままでは、どんなにその第94条【地方公共団体の権能】の中身が明記する、“地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる”とは言っても、現実には、到底対応しきれないのである。だから既述のような大災難時、大惨事の時には、既述のような事態が決まって起こるのである。

 そういう意味で、地方公共団体は、その実態は決して「自治」体などではない。むしろ、中央政府の各府省庁の官僚たちの「通達」や「行政指導」を含む、「法の支配」を破った権力行使に卑屈にも従属する「従属」体に過ぎないのである。

 こうした事情に根拠を置いて、これからの環境時代を生き抜くための新国家(連邦国家)での新憲法では、国民あるいは住民が最大限、身の安全が保障され、安心が確保されるようになるために、せめて次の範囲のことは、憲法の上で明文化することが絶対に必要であると私は考えるのである。

 日本連邦を構成している各主体の法的地位と権限

 日本連邦政府の管轄事項

 日本連邦の各主体の共同管轄事項

 日本連邦の各構成主体の管轄事項

 日本連邦の構成主体の立法権

 日本連邦の構成主体の国家権力編成

 日本連邦政府の執行権力

 日本連邦大統領の役割

 日本連邦大統領の権限

 日本連邦大統領の軍指揮権

17.7 国民会議が立案した構想に基づき、中央と各州と各地域連合体に議会と暫定政府を設立

17.7 国民会議が立案した構想に基づき、中央と各州と各地域連合体に議会と暫定政府を設立                  

 前節の事業に続いて、次は、国民会議が構想して新たに区画割りした行政区において、日本連邦と各州と各地域連合体のそれぞれの行政範囲内での秩序を維持するために、暫定的ではあるが、統治権力としての暫定政府を次の手順に従って樹立する。ただしこれらの作業は、国民が移動・移住している最中に行う。

 その場合、その手続きを行う権限を持つのは、連邦政府の樹立に関しては「国民会議」であり、各州や各地域連合体の政府の樹立に関しては、それぞれの地域の「人民会議」である、とする。

 なお、人民会議は、それぞれの州あるいは地域連合体において、連邦としての将来のあり方とともに、地元の将来のあり方についても真剣に考えている、愛国心と人望のある住民から構成される。その人民会議の委員を選出する方法は地元民の公選による。

 そこで、連邦政府を樹立する権限を持つ国民会議も、各州や各地域連合体の政府を樹立する権限を持つ人民会議も、まずは、それぞれの議会を設けるための議員を選ぶための選挙を、それぞれの権限の下で実施する。

 そこで選ばれた国民ないしは住民の代表である議員(政治家)によって初めての議会が開設され、そこにて、政府のなすべきこととその期限、またその権限、責任の範囲等々を決めると同時に、政府の長を議会から選出するか、あるいは政府の長も公選とするかを議決する。

17.6 巨大都市の人々の地方への分散移転の開始と、その人々を受け入れての州づくりと地域連合体づくりの開始 

17.6 巨大都市の人々の地方への分散移転の開始と、その人々を受け入れての州づくりと地域連合体づくりの開始 

 ここでは、環境時代を導く「三種の指導原理」(4.2節)に続く、「都市および集落の三種の原則」(4.4節)を根拠としながら、その三原則を新国家建設に向けて適用してゆこうとするものである。

そもそもその三原則とは、1つは、小規模分散の原則であり、1つは、経済自立の原則であり、1つは、政治的自決の原則というものであった。

 ここでは、それらの三原則の考え方を土台におきながら、なお次のような考え方をも付加して、それらを持続可能な新国家建設構想に生かしてゆく。

 まずは中央政府は、国民に説明した新国家建設構想に従って、地形、気象、文化等を考慮して州と地域連合体の概略的な区画割りを定め、それを公表し、それが全国民に周知徹底された時点を見計らって、都道府県を廃止して州づくりへ、市町村を廃止して地域連合体づくりへと着手する。

それは、国土に均衡のとれた人口分布を実現するためであり、巨大都市からの膨大な量の廃棄物(排ガス、排水、汚染水、廃物、重金属等)による生態系への過度な負荷を減らして自然循環を促進するためである。そのために、既存の巨大都市の人々には、それが可能な人々には地方の移住してもらい、人口とその範囲の縮小を図るのである。そうやって、全国的に小規模・分散型の都市づくりを開始する。

 その際、中央政府は、従来の地方政府と連携して、政府の地方移住促進政策に協力してくれる人々に住居と土地を斡旋する。その際、今や、特に地方に急激に増えている「空き家」を、その所有者には協力と理解を呼びかけ、積極的に活用する。その場合、不動産業者に任せると、移住希望者は地方の事情には不案内なために、中にはどうしてもいる悪徳不動産業者の餌食になる人が出る可能性があるので、そこは、法律と条例をもって、透明性と公平性、公正性をもって対処する。

 なおその際、政府の地方移住促進政策を円滑に進めるためには、事前に従来のこの国の土地所有制度に厳然としてある「絶対性」(12.3節の⑵を参照)という悪しき慣例を打破する政策を法律の裏付けをもって設けておく必要がどうしてもある。もちろんそれは国会の役目であるから、国会の政治家はなぜその新法が不可欠か、その理由を、日本の特に明治以降の土地政策の歴史を調べるとともに、その絶対性なる考え方がいかに時代遅れであると同時に、世界的にも遅れた考え方であり、どれほど民主的な地域づくりの障害になるかを、国民を説得できるまでに勉強しておかねばならない。

 また、その州づくりや地域連合体づくりに向けて特に重要なのは、その地域に該当する人々が、互いに自律的に自立して新しい経済とその経済システム(第11章参照)を構築して行けるよう、中央政府が財政支援をしながら促すことなのである。

 いうまでもなく、その時には、新選挙制度によって本物の政治家たちが誕生しているはずであるから、彼らが先頭に立って、元々の地元住民や新規移住者の声を公平かつ公正に聞きながら、新しい経済とそのシステムづくりに議会活動を活発化することで規則づくりと計画づくりをもって貢献してゆく。

 一方住民の側も、自分たちが選んだ代表とともに、日本国の建国以来初めて、自分たちの住む地域は自分たちの手で創り上げてゆくことができるのだ、ということを実感を持って学んでゆく。そしてその体験を通じて、人々は皆、民主主義議会政治というものについて、本当の意味で体系的に学んでゆくことになるのであろう。そしてその時には多分、例えば自由という概念も、選挙や議会という概念についても、これまでとは全く違った捉え方ができるようになっているのではないだろうか。しかし、実は人々の意識がそうなることこそがその地域が政治的にも自決できる地域になっているということだと、私は考える。

 そしてそうした意識が人々の「当たり前」になれば、そこから先は、誰もが主体的に、つまり真の主権者として、自分たちの地域づくりを自分たちでどんどん進めてゆくことができるようになるのだろうし、国全体も、その時こそ、真の民主主義の国となってゆくのであろう、と私には想われる。

17.5 中央政府における府省庁の再編と特別会計の全面的再検討

 

17.5 中央政府における府省庁の再編と特別会計の全面的再検討

 そこで、次のこの段階として、中央政府の首相以下全閣僚には勇断をもって断行してもらわねばならないことがあるが、それは以下の4種類の困難な仕事だ。もちろん、以下のどの場合を実施するにも、環境時代の全地球的で全生命的な指導原理としての《エントロピー発生の原理》、《生命の原理》を実現させること、および人間集団の生活規模を規定する〈都市および集落としての三種の原則〉、そしてこの日本という国を明治期以来の官僚独裁の国を脱皮して、真に民主主義的統治体制の整った本物の国家(それも連邦国家)とすることを絶えず念頭におかねばならない。

その困難な仕事とは、項目だけを上げれば、次のものだ。

⑴現行の47都道府県と1718の市町村の行政区画の解体

⑵これと並行して、州と地域連合体に再編成し、中央政府連邦政府にすること

⑶これまでの中央政府の全府省庁およびそれに付随する外郭団体についての廃止と統合を含めた再編

⑷この国の中央政府と地方政府の財政健全化に向けての、特別会計特殊法人の廃止を含めた全面的再検討

 

以下は上記4項目についての解説である。

⑴については、これをあえて実行に移すのは、この国の人口分布の偏りをなくすとともに、「都市および集落の三原則」を実現し、今後起こりうる大地震のみならず気候変動による大災害や食糧危機による大惨事に対して、事前に危険分散を図り、災難に強い国、耐性のある国にするためである。結局これも、この国を真に持続可能な国にするためである。

⑵この作業は、この国を、地方自治を尊重しながらも、統治体制の整った本物の連邦国家とするためである。なおこの作業を行う際には、これまでの都道府県庁と市町村役場の首長にもその目的と主旨を説明し、理解と協力を得て、参加してもらう。

 ここで押さえておかねばならないことは、この作業は、これと並行して行われることになるであろう、次の内容を盛り込んだ新憲法の起草と制定の作業とも関連しているということである。その内容とは、連邦構成主体とそのそれぞれの法的地位および権限、すなわち連邦政府と州政府と地域連合体政府との間での権力関係、権限区分の明確化ということについてである。すなわち、もはやこの国の憲法事情は、第9条だけを問題としていればいいようなものではないのである————(16.3節を参照)。

 なぜならば、現行日本国憲法では、「地方自治」という章は設けられてはいるが(第八章)、その内容は、自治にとって最も重要な国と都道府県と市町村との間の、相互の権力関係や権限の区分については、一切記載されてはおらず、「法律の定めるところにより」とか「法律の範囲内で」といったように、下位法の法律に委ねられてしまっていて、形ばかりの地方自治でしかなかったし、今もなおそうだからである。実際、例えば、今でも地方公共団体には、独自の計画権限や自主財源を確保する権限が憲法上でも保障されてはいないし明記もされてはいない。中央政府の官僚もそうした権限を与えようともしていないで、中央集権を維持しようとしているのである————もちろん、こうなるのも、政治家(閣僚)が国民の意思に沿って官僚をコントロールできてはおらず、官僚に追随しているだけだからではあるが————。

 そのために、たとえば、阪神淡路大震災とか東日本大震災といった国家的大惨事・大災害が起こった時、あるいは新型コロナウイルスによるパンデミックが生じたとき、都道府県や市町村という地方公共団体の長は、長としての役割と責任はどこまでか、どこまでお互いが独自の裁量で権限を行使できるのかということが、これまでは首相を含めて誰も判断ができなかった。と同時に、この国は再三指摘してきたように真の国家ではなかったから、そういう事態に直面した際には、なおさら、混乱が生じた。東日本大震災直後の菅直人首相(当時)が狼狽して、いつ大爆発を生じるかわからないというときに、東京電力福島原子力発電所の上空にヘリコプターで急行したなどは、その典型例と言える。また、新型コロナウイルスに因るパンデミックの時の西村大臣の指示の仕方も典型的な一例だったと言える。地方公共団体の首長がどう対処したらいいのか首相に判断を仰いでも、首相も判断できずに、代理の閣僚が、官僚に操られて、ご都合主義的な、あるいは恣意的な判断に基づく指示しか出せなかったのである。というより、その時に明らかになったのだが、西村大臣は既述のとおり、法律とは何かということすら知らなかったのだ。

 これからの環境時代におけるこの国を土台から支える新憲法では、国民を危険にさらすこういう事態は絶対に避けなければならない。そうでなくても、環境時代には、前例のない大惨事に国全体が次々と見舞われる可能性が大きいと考えられるからだ。それだけに、それぞれの地方公共団体は、連邦政府の支援の下、独自の権限と判断で動けるようになっていることが不可欠となるわけである。

⑶これまでの中央政府の全府省庁およびそれに付随する外郭団体についての廃止と統合を含めた再編

 この再編の中には、既存の府省庁の廃止もあれば、既存の府省庁どうしの統合もあるし、また分離もある。また府省庁の官僚たちが、自分たちが第二の人生を優雅に過ごすための「天下り」や「渡り鳥」を受け入れてもらえるようにと、巨額の補助金を支給したり融資したりしている特殊法人公益法人等の外郭団体については、特に、基本的には全て廃止する方向で検討する(石井紘基「日本が自滅する日」PHPp.240、250を参照)。

要するにその目的は、再三強調するように、この国を本物の国家、それも官僚が事実上の主権者の国家ではなく、国民が真の主権者となる国家とするためである。すなわち国民の要望に基づき、国の舵取りから発せられた指示や命令が正しく、また速やかに必要な全部署に伝達され、また、末端からの声や要望も速やかに、かつ正確に舵取りに伝達されるようにして、日本という国の全体を、必要に応じて、いつでも機動的に連携しながら対処できる国にしておくためである。
 ではそのためには、現行の府省庁については、どのように考えたらいいのだろう。

私の考えを述べる。

 第一に挙げなければならないと考えているのは文科省の廃止である。

なぜ文科省に着目するか。それは、どの時代でも、またどの国でも、国民への教育が基本中の基本だからである。国と地域を支えられる人材を生み出せるか否か、それは国民への教育のあり方によって決まるからだ。

 ところがこの国では、現時点、文科省を事実上牛耳っている官僚たちは————文科相は官僚に操られているだけなのだ————、例えば「人間として教育する」ということの意味すら判ってはいない。というより、これまで私が文科省の官僚と直接電話で幾度かやりとりした体験によっても、彼らは「教育」の意味も、「人間とは何か」ということすら多分判ってはいない。そのことは、昨今、日本中で次々と生じる、青少年のみならず結構な歳をした大人の、様々な、それこそかつては見られなかった、信じがたい手口の犯罪の数々を見ても判る。つまり今の文科省の学校教育は、人が人間として社会に生きる上で最も大切なことを、全くと言っていいほどに教えることができずにいて、むしろ、その子が人生を人間として生きてゆく上では、人生のどの場面においても、ほとんど役にも立たない、瑣末で、断片的な知識だけを、これでもかこれでもかと頭に詰め込ませているだけなのだ。そこで言う「人が人間として社会に生きる上で最も大切なこと」とは、生きることの意味、何が正しく何が間違っているか、何はしてよくて何はしてはならないかといった善悪の判断力、自分の命はもちろん他者の命もかけがえのないものであるということ、そしてどんな人も平等に生きる権利、それも幸せを求めて生きる権利があるということを、各人が自分の頭で判断できるようになることである。と私は思っている。

 また、昨今の文科省の学校教育行政がいかに間違っているかは、小中高校という教育現場において、教職員が過労死ラインを超えて、それも本来の「教育」ということ以外の「管理業務」のために働かされている実態を見てもわかる。

 さらには、大学という高等教育と創造的研究の機関を独立行政法人化という独立採算制にしてしまったことだ。つまり、研究、特に基礎研究というものがどう状況下において可能となるものかということも理解できてはいないのだ。

 こうした諸々の教育行政の結果、文科省の官僚が日本にもたらしている事態が、犯罪の凶悪化巧妙化と罪悪感の麻痺化による犯罪、特に殺人の常態化、個々の人間の人間性の劣化であり幼稚化、政治家と役人の質的劣化と世界に通用する人材不足による国力の相対的かつ絶対的な低下であり、教師・教員不足、等々という事態なのだ

————もちろん、ここでも文部科学大臣は、実質的に、官僚に依存し、また追従しているだけだ。独自の教育哲学を持って官僚をコントロールなどできてはいない————。

 こうした事実により、文科省はもはや存在すること自体がこの国と国民にとって有害無益なのである。だから即刻、廃省にし、これまでの文部省そして文科省の行政に毒された職員を全員入れ替えて、あるいはリストラし、全く新しく、例えば「人間育成省」といった名称の省として生まれ変わらせるべきであると私は思う。

 その際、2023年に新たにできた「子ども家庭庁」も廃止する。それは、教育ということを矮小化するだけのものでしかなく、「人間育成省」の下での学校教育の中で十分に対処できると思うからだ。

 次に、名称も組織も消滅させて、他省庁と合体させ、複数の省が一つの省となって再出発した方が良いと思われる典型的な省庁に国土交通省がある。それは、結論的に言えば、もはや「国土交通」という言葉が意図する国土交通省の時代は完全に終わったと断言できるからである。いや、日本列島の国土の自然がこれほど破壊され、傷めつけられるよりもっともっと早く、建設省から名前が変わる時点で廃省にすべきだった、と私は思う。

 もちろん今の日本は、すべての社会資本が破壊され尽くされた敗戦直後の状態ではない。高度経済成長の時代も「日本列島改造論」が風靡した時代も過去のものだ。それに、「果てしなき経済発展」とか「果てしなき工業生産力の増大」といったことを暗黙の国策とした時代も終わったのだ。むしろ、「ジャパン アズ ナンバーワン」と呼ばれた時にこそ、人々が「モーレツ社員」あるいは「社畜」となって家族を犠牲にして働くのではなく、誰もが真に豊かさを感じられる成熟した社会の国にするにはこれからこの国をどういう国にすべきかということを国民も政治家も真剣に考え、政府省庁のあり方を考え、官僚の使い方を考え直すべきだったのだ。

今、この日本の国土は、主に建設省、そしてそれを引き継いだ国土交通省の「公共」とは冠するものの実態も目的も国民のお金を利用しての官僚たちの利益優先の事業によって、「山紫水明の国」は遠い過去のものとなった。

 そこで、環境時代のこれからは、国土交通省は廃省にしながら、そこの官僚たちはリストラし、農林水産省環境省を一つの省へと合体するのである。そして、これまで、「公共事業」とか「開発」という美名の下に壊され自然循環を分断あるいは寸断させられてきた国土生態系を、その統一省の下で連続した生態系として蘇らせ、広域の物質循環や食物循環を成り立たせ、それを維持しながら生物多様性を回復させてゆき、そのことを通じて地球規模の温暖化を止め、そして克服することに貢献してゆくようにするのである。

また、国税庁社会保険庁の一体化も不可欠だ。なぜなら、両庁は、国民からの税金を徴収する役割を負っているという点では共通だからであり、合体させた方が効率的だし合理的とも考えられるからである。また両庁を合体させるということは、現在財務省に属している国税庁財務省から切り離すことを意味する。

しかしそれについては、財務省の官僚は猛烈に抵抗するだろう。それは、財務省の役割は国民のお金の使途を考えることであるのに対して、国税庁はその反対に国民のお金を取り立てるのが主な仕事であるために、互いの役割は正反対ではあるが、国税庁財務省の外局に置いておくのは、財務省の官僚にとって利用価値があり、好都合だからだ。例えば、財務省のやることを社会が批判してきたとき、財務省が「国税庁が査察に入る」とほのめかすことによって批判分子を黙らせられるからだ(古賀茂明「日本中枢の崩壊」講談社 p.196)。それに、国税庁財務省から切り離すことの根拠には、一つの組織の中に役割が正反対の部署を混在させておくことは国民と国全体にとっては決して望ましいことではないという理由もある。例えば経済産業省の中に原子力安全・保安院を混在させておくことによって、原子力行政をめぐって、本来は独占禁止法に抵触する企業だから解体させられなくてはならないはずの電力各社との間で、官僚たちが癒着に基づく恣意的な思惑をつねに働かせられるのと同じ理屈だ。

 なお、閣僚が国税庁財務省から切り離そうとすれば、省庁の中の省庁とされてきた財務省の官僚の傲りも手伝って、組織あげて猛反発してくることが予想されるが、そこは財務大臣が、国務大臣として国家公務員法が明記する「人事権は各省庁大臣にある」に基づいて(同上書p.215)、というより、憲法第15条の第1項に明記される「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」に依拠して、公務員としてあるまじき行為に出た者に対しては、国民の代表として、罷免権という権力を毅然と行使すればいいのである。また、それを行使してみせることは他の府省庁の傲り高ぶった官僚たちに対する見せしめにもなるのだ。

 また経済産業省についても、もはやその役割も使命も事実上終わったのだ。つまり、消費を伸ばしてはGDPという数値を上げることをもって経済成長の証と見る時代でもなくなったのである。地球温暖化生物多様性の劣化をもたらした元凶が資本主義経済であることを直視するならば(斎藤幸平「人新世の『資本論』」集英社新書p.117)、もはや資本主義の時代でもないことも明らかだ。むしろ、国民一人ひとりがいかにしたら人間らしく、お互いを尊重し合い、平和で安定した暮らしができるかということこそが重視される時代になっているのだ。そのことを考えるならば、半ば必然的に、経済産業省も廃省にした上で、そこの官僚たちはリストラして、厚生労働省と復興庁とデジタル庁を一体化して名称を「国民生活省」と改めて、行政内容を一新するべきだ。

 

特別会計特殊法人の全面的再検討

 ここでは、以下の順序で考察してゆく。

①なぜ今、特別会計を取り上げるのか。そしてそもそも特別会計とは何なのか。それは一般会計とどう違うのか。

②こうした特別会計の陰で、この国の財政はどうなったのか、またどうなっているのか。

そしてそれは主に誰によって何が行われてきた結果なのか。

③なぜこんな財政状況になるまで、某国会議員以外の国会議員は、その状態を国民の前に明らかにして来なかったのか。そもそもこれらの特別会計により、私たちのお金は実際には誰によってどのように使われてきたのか、また使われているのか。

④では、今後、特別会計については、私たち国民は主権者としてどうすべきか。そしてその時、同時に、特殊法人等はどうすべきか。

 

①なぜ今、特別会計を取り上げるのか。そしてそもそも特別会計とは何なのか。それは一般会計とどう違うのか。

 このうち、第一の問いに対する答えは、一言で言えば、私たち国民(正確には納税者)が納めた私たちのお金が実際には、誰によって、どこに、どのように使われているか、すなわち私たちのお金の本当の使われ方を明らかにするためである。

なぜなら、国民が国民のための国を維持する上で決定的に大切な国民のお金の使途の全貌が、これまで、政治家によっても、財政学者という専門家によっても、またジャーナリストたちにも、誰にも明らかにされてきたことはないからだ。というのは、国の会計は本当は一般会計と特別会計の2種類から成り立っているのであるが、そのうち、一般会計については、毎年度、国会や地方議会でも取り上げたり、新聞やTVでも取り上げたりしているから、私たち国民はおおよそのことはわかってはいるのであるが、もう一方の特別会計については、何が「特別」なのかすら国民の大多数は知らされないままに、なぜか、国会議員も地方議員も、そしてメディアも、またその分野の専門家と呼ばれる人たちからも、これまで、ほとんど取り上げられることはなかった。私の知る限り、その辺を幾分かは扱っていると思われる書物には、京都大学教授の吉田和男氏の「日本の国家予算」(講談社)があるぐらいだ。しかしそれも、同氏自身大蔵省出身の元官僚であっただけに、財政状況を大蔵省という組織の内側からしか見ていない。外側の立場、つまり国民の立場に立っては見てはいないのだ。そのために、納税者である私たち国民が本当に知らねばならないことについては、ほんの一部分しか触れられてはいない。それに、私の持っている六法全書を見ても、全6500ページ余あるうち、特別会計について掲載されているのは、(抄)としてたったの2ページである。

 ということで、特別会計という会計については、これまで、ほとんど闇に包まれて来たのである。つまりこのことから言えることは、私たちの国日本国の予算を正確に知っている者は誰もいない、ということなのだ。そしてこのことも、既述してきたように、この国は今なお本物の国家にはなり得てはいない真実と並んで、世界のどんな国にもあり得ない、とんでもなくいい加減な国だ、ということなのである。

 しかし、このことについては、私たち国民の側にも重大な責任があると私は思っている。それは、この国の国民は、概して、自分が税金として納めたお金については、一旦納めてしまうと、その後のこと、すなわちそれが誰によって、どう使われるのか、また使われたのか、そもそもそれは私たち国民の預けたお金なのだから、それが本当に私たち国民の幸せのために使われたのかどうなのかという最も肝心なことについてはほとんど知ろうともしてこなかったし、関心も持ってこなかったからである。そして関心があるとすれば、せいぜい「過払い金」とか「還付金」のこと、つまり納めたお金を少しでも取り返そうとすることぐらいだったからだ。

これでは私たち国民は、国家の政治のあり方を最終的に決める権利としての主権の保持者としての主権者として失格だからだ。私たちが私たちのお金について主権者であるためには、まずは憲法第21条に根拠を持つ、国民に与えられている「知る権利」を行使して、私たちの納めたお金の使途を正しく知り、その上で、そのお金の使い方を通じて私たちの国の政治のあり方を最終的に決め、以って私たちが私たちの国づくりをしてゆかねばならないのだからだ。

 ではそもそも特別会計とは何なのか。 それは一般会計とどう違うのか。

インターネット上では、誰がそれを書いたのか不明だが、それは次のように説明されている。

一般会計では、国としての基本的な機能である社会保障、文教、防衛、地方交付税等の交付金、公共事業等の経費を扱うのに対して、また都道府県や市町村といった地方公共団体での一般会計では、その公共団体としての基本的な機能である教育、福祉、道路、公園の整備等といった行政サービスを行う際の経費を扱うのに対して、特別会計とは、その名の通り、何か特別な必要があって、会計を別にしている会計のこと

 しかし、これはいかにも曖昧な表現だし、そもそも正確さを欠いている。「何か特別な必要があって」自身が曖昧な表現であって、決して法律表現ではない。また、毎度指摘してきていることだが、「国としての基本的な機能」も、「公共団体としての基本的な機能」も表現は間違っている。正しくは「中央政府としての基本的な機能」であり、「公共団体の政府としての基本的な機能」となるべきだ。なぜなら「国」と「中央政府」は別物で、「国(クニ)」=中央政府ではないからだ。同じく公共団体と公共団体の政府とは全く別物だからだ。国や公共団体とは、国民であり住民であり国土であり地域の気候風土であり文化等々をまとめたものであるのに対して、中央政府も公共団体の政府も、つまり政府はともに役所、それも事務をつかさどる所を指すからだ。

 そして特別会計についての「何か特別な必要」とは、例えば地方公共団体の政府の特別会計とはこういうことだと説明されている。

————市町村の水道局は、水道料金収入で運営されているが、もし、水道料金を税収として合算してしまえば、水道水を提供するためのコストがわからなくなり、ひいては適切な水道料金もわからなくなる。そのため、水道事業を特定事業として、その特定事業の会計を一般会計とは切り離して会計するのである。

 一見尤もらしい説明ではある。では本当に、全ての特別会計は、このようにするために国民のお金が使われているのだろうか。それについては、後述することにする。

 また、特別会計は、同じくインターネット上で、これはまた別人が書いたものであろう、次のようにも説明されている。

————特別会計、それが設けられている理由は、行政サービスの範囲は広範で多岐にわたっているので一般会計とは切り離して、特定の収入、特定の支出を明確化するため、あるいは特定の事業や資金の運用の状況を明確化するためである。そしてその特別会計は各特別会計ごとに、予算執行が所轄官庁・地方公共団体によって管理され、それぞれの使い道が決められている、と。そしてその例が、年金特別会計中央政府特別会計)、国民健康保険地方公共団体特別会計)、介護保険(前に同じ)等である、と。

 そもそもこの説明は、先の説明とは内容が全く異なる。そしてこれも、説明は極めて曖昧で、かつ、いい加減だ。大体が、「行政サービスの範囲は広範で多岐にわたっている」からといって、それだけで「一般会計とは切り離」す理由にはならないからだ。行政サービスは、その範囲は、元々広範で多岐にわたっているものだからだ。

それに、「特別会計は各特別会計ごとに、予算執行が所轄官庁・地方公共団体によって管理され、それぞれの使い道が決められている」も、おかしい。なぜなら、私たちの日本国憲法には、「国の財政を処理する権限は、(所轄官庁・地方公共団体ではなく)、国会の議決に基づいて、これを行使しなくてはならない」とあるし(第83条)、「国費を支出し、または国が債務を負担するには、(所轄官庁・地方公共団体によってではなく)国会の議決に基づくことを必要とする」(第85条)とあって、その過程の説明が上記説明では完全に欠落あるいは排除されているからだ。つまり、この説明文は多分官僚の誰かが書いたものであろうと私は推測するのだが、後に判明するように、特別会計のお金にまつわる実態および特殊法人のそれについては、とかく官僚たちはあえて闇の中に置いておきたいとするからだ。そして彼らは常に日本国憲法を虚仮にしているからだ。実際、この特別会計の説明自体が今見たように、私たちの国の憲法を無視している。

 では「何か特別な必要があって、会計を別にしている特別会計」あるいは「特定の収入、特定の支出を明確化するため、あるいは特定の事業や資金の運用の状況を明確化するため」の特別会計、それも「国の」ではなく中央政府特別会計とは何かと思って調べてみると、次のようになっている。

その数は、各年度によってこの数も種類も変わるが、現在のところ(2023年)、下表のとおり、合計で13種類ある。もちろん、これらの数や中身を変えるのは、国会の政治家でもなければ政府の政治家(総理大臣や閣僚)でもない。各府省庁の官僚たちだ。閣議決定の過程がそうであるように、政治家たち、特に総理大臣と閣僚たちは、実質的に霞が関の府省庁の官僚たちのやっていることを追認しているだけだ。そしてこれも、実際には憲法第83条や85条にも違反しているし、さらに、第86条「内閣は毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け、議決を経なければならない」にも違反している。一般会計については、内閣は毎会計年度の予算を作成し、閣議決定したのち、国会に提出して、曲がりなりにもその審議を受け、議決を経てはいるが、特別会計については、それがなされず、与野党の政治家たちも、したがって国民も無知なままにされ、依然として闇の中だからだ。

 こうなる理由には、内閣での総理大臣と閣僚たち全員の怠慢と、国会での衆参両院での与野党の政治家たち全員の怠慢の2種類がある。前者の怠慢とは、総理大臣と閣僚たちが、配下の官僚たちに特別会計や後述する特殊法人等についての会計をも国民にわかるように明らかにせよと官僚たちに説明責任を厳しく要求しないことだ。後者の国会の政治家たちの怠慢とは、国会に諮るのは一般会計だけではなく特別会計についても明らかにせよと、ここでも、国民から負託された権力を「国民のしもべ」たちに毅然と行使しないことだ。その際、国会の会期の問題は二の次の問題なのだ。

 

特別会計名称

所管

交付税及び譲与税配布金特別会計

内閣府総務省財務省

地震再保険特別会計

財務省

国債整理基金特別会計

財務省

外国為替資金特別会計

財務省

財政投融資特別会計

財務省国土交通省

エネルギー対策特別会計

内閣府文部科学省

経済産業省環境省

労働保険特別会計

厚生労働省

⑧年金特別会計

内閣府厚生労働省

食料安定供給特別会計

農林水産省

国有林野事業債務管理特別会計

農林水産省

⑪特許特別会計

経済産業省

自動車安全特別会計

国土交通省

東日本大震災復興特別会計

下記参照

 

 ただし、この表の中の、最後の東日本大震災復興特別会計については、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、復興庁、総務省法務省、外務省、財務省文部科学省厚生労働省農林水産省経済産業省国土交通省環境省および防衛省の共同所管となっている。

 そしてこれら13種類の特別会計で動いているお金の合計は実に、467.3兆円。その額は一般会計(当初予算)の歳入と歳出それぞれの額108兆円の実に4.3倍という額なのだ(令和4年度)。もちろんこの額のお金は全部私たち国民が納めた税金なのだ。

②ではこうした特別会計の陰で、この国の財政はどうなったのか、またどうなっているのか。

そしてそれは主に誰によって何が行われてきた結果なのか。

 この問いの中の第一に対する答えはこうだ。

この年のこの国の中央と地方の政府の借金すなわち政府債務残高は、合計で、ざっと1260兆円。これは、GDP国内総生産)がこのところほぼ毎年500兆円規模であることを考慮すると、その約2.5倍だ。これが意味するところは、私たち国民のうちの働くことができる人々の全員が、2年半、飲まず食わずで働いて稼いだお金をそっくり国庫に納めなくては清算しきれない額だ。
 いかに財政難を抱えている国でも、また金融危機の国であるとはいっても、政府がこんなひどい財政状況にある国は、日本以外、世界のどこにもない。ただしここで、私たち国民は次の事実は明確に理解しておかねばならない。それは、このGDPのおよそ2.5倍の1260兆円という金額は私たちの国の謝金なのではなく、あくまでも政府、それも中央政府と地方政府の借金であるということが。つまり、これをよく「国の借金はこんなにもある」と言う人がいるが、それは正しくはない。あくまでもこの金額は国ではなく、政府の借金だと言うことだ。これを混同してはならない。しかし、この事実一つとって見ても、この国の政府は本当にデタラメな政府だということだ。要するに、役人をコントロールすべき政治家、とくに中央政府の各府省庁の大臣と、地方政府の首長は一体何をしてきたのか、ということなのだ。

 こんな財政状況では、いざ国難というとき————実際、今のこの国の実情を総合すると、正にそのときだと私は思うのだが————政府には使えるお金がないために、危機にも対応できなくなるのは明らかだ。そうでなくてもこの国は、およそ50年前には統計データ上はわかっていたのにその対策を怠ってきたために、いま少子高齢化はますます深刻化していて、人口は急速に減っている。したがってそれとともに、社会の様々な分野で労働力は確保できなくなっている。その上、文科省の学校教育行政の失敗の結果、次代を担うはずの若者たちはその多くが幼稚化したり多様性を喪失したりもしている。しかも、1990年代以降、「失われた10年」、「同20年」、「同30年」と繰り返されてきたことからも知れるように、官僚に依存する一方の政治家の怠慢の結果、経済政策も失敗して、今や日本は、世界の中で、国民力も経済力も相対的に低下する一方なのである。しかし今後は、こうした悪条件の上にさらに、温暖化に因る気候変動や生物多様性の劣化に因る、より全般的で、より長期にわたる、言語に絶する深刻な事態に直面してゆくことになるのは必至と言えるのである。

 

③では、なぜこんな財政状況になるまで、某国会議員以外の国会議員は、その状態を国民の前に明らかにして来なかったのか。そもそもこれらの特別会計により、私たちのお金は実際には誰によってどのように使われてきたのか、また使われているのか。

 今こそこれについては、私たち国民は、主権者として明らかにしなくてはならない。それは主権者としての義務であり責任でもある。それに、これを明らかにすることは、私たちが納めたお金を、今後、この国を、希望が持て、誇りを持てる国に変革してゆくために、つまり真に国民の幸せ実現のために使えるようにする上でも是が非でも必要なのだ。

 なお、上記の某国会議員とは、民主党衆議院議員だった石井紘基氏のことである。

同氏は、衆参両院のすべての国会議員に与えられた特権である「国政調査権」を行使して(憲法第62条)、特にこれまで闇に包まれてきた特別会計について克明に調査したり、国会で政府の税金の使い方について厳しく切り込んできたりした財政学の専門家であり、勇気ある真の愛国者でもあった人物だ。「あった」と言うのは、その彼は、2002年10月25日朝、自宅前で右翼活動家に刺殺されてしまったからである。

 本節を論ずる上で、ここからは、その石井紘基氏の代表作『日本が自滅する日』(PHP)とK.V.ウオルフレン氏の代表作『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社)と、古賀茂明氏の二冊の著書『日本中枢の崩壊』(講談社)と『官僚の責任』(PHP新書)を参考にさせてもらいながら、考察と論述を続ける。

 K.V.ウオルフレン氏は、同書を出版した当時、一年のうち約半分は日本に住み、後の半分はオランダのアムステルダムにて激変する日本と世界の政治経済の分析に力を注いでいたアムステルダム大学教授でありジャーナリスト。日本社会の仕組みを批判的に分析した同氏の最初の著書『日本/権力構造の謎』(早川書房)は日本のみならず世界10カ国で翻訳され、ルース・ベネディクトの『菊と刀』と並んで、日本研究の必読文献として知られている。また、ここで参考にさせてもらう『人間を幸福にしない日本というシステム』も33万部を超えるベストセラーになっている。

 古賀茂明氏は、元通産省経済産業省の官僚。公務員制度改革の必要性を訴え続けていて、官僚現役中も「改革派の旗手」として有名であった。

 当の石井氏によると、この国の政府が上記のような世界でもダントツの借金を抱え込む国になった真の理由は、この国の経済体制が、官制経済体制である結果だという。官制経済体制、それは、文字通り官僚たちによって構築されてきた官僚たちの利益を最優先する経済体制のこと。言い換えれば、上記三者の著作から総合すると、それは、本来「公僕」、すなわち「国民のしもべ」、もっと平たく言えば「主権者である国民に仕える召使い」であるはずの各府省庁の官僚たちが、その立場もわきまえずに、と言うより自分たちこそが実質的な主権者だと錯覚して、所管する業界あるいは特定の民間企業に対して、あるいは彼らの必要に応じて各府省庁の子会社とも言うべき彼ら独立行政法人公益法人をつくっては、それらに対して、公僕には決して負託されることのない権力を、法に基づかず、あるいは法の外で————つまり「法の支配」を無視して————行使し、さらには国民のお金という他人のお金を好きなように使っては巨額の融資をしたり許認可したり、規制を強化あるいは緩和したりして様々な便宜を図っては恩を売り、その見返りに、官僚たちが役所を退職しても、第二第三の人生を優雅に送れるようにするために、あるいは退職した役所に終生面倒を見てもらえるようにするために、所管するそれらの子会社や民間企業に「天下り」さらには「渡り」として受け入れてもらえるように仕組んできた経済体制のことだ。

つまり、このことだけからも、この日本という国は、表向きは国民が主権を持ち、主人公である民主主義の国、表向きは自由競争のできる市場経済を至上とする資本主義の国とされてはきたが、実態は全く違うということだ。実態は官僚が国の主権者として振る舞う官主主義の国、官僚を頂点とする官僚機構によって統制された官僚独裁による統制経済の国なのだ。参考までに言えば、かつて「ミスター円」との異名をとった元大蔵官僚の榊原英資氏も、ぬけぬけとこう断言していた。“この国は資本主義経済の国ではない”、と。

 ウオルフレン氏はこの国のこうした状況について、この国は、中央政府の官僚たちが社会の頂点に君臨して、財界の官僚と政治家たち(いわゆる族議員と呼ばれる、各府省庁にくっついて、利権を漁っては、自分だけの利益を狙う政治屋)とが一緒になって築いてきた業界団体という仕組みと系列という仕組みとによって国内の大企業から中小企業までの全体を統制している官僚統制経済であると言う(p.38〜52)。だから自由主義経済の国でもなければ、市場原理主義に基づく経済システムの国でもない、と。というより、この国には民主主義も自由主義もいまだ実現されてはおらず、その過程にあるだけで、今のままでは到達する見込みもない国だと言う。

 

日本に特別会計を作り、官制経済体制=官僚統制経済システムを作り、こんな財政状況をもたらしてきた張本人は中央政府の官僚たちと財界の官僚たち、そしていわゆる族議員と呼ばれる政治家たちであり、そしてその状態を知って知らぬ振り、見て見ぬ振りをしてきた政府の総理大臣と閣僚そして国会の全政治家たちであり、地方議会の全政治家たちだ。

 ではこれら政府系官僚と財界系官僚と族議員三者はどういう関係で結ばれているのか。

財界の官僚たちは政府の官僚たちと通ずることによって、財界にとって好都合な法案や政策案の作成に強力に関与するとともに、政府の新たな政策等の動きをいち早く掴んでは財界としての方針を決めるためである。またそのことによって彼らは、特に原子力行政や自動車行政、道路行政、新幹線行政には大きな影響を与えうるのである。また政府官僚と通じることによって、自分たちの意思のもとに日本の経済界全体を支配できる業界団体や系列を作っては、日本の全産業界を、資本主義市場経済とは名ばかりの、世界の資本主義の国々とは全く異質な護送船団方式による、競争を生じさせない、官制経済体制=官僚統制経済の国にしているのだ。

 では族議員はどうか。例えば「道路族」とか「防衛族」「厚生族」「農林族」と呼ばれるように、特定の府省庁にコバンザメのように貼り付きながら、国民の利益のためとか国益のためとかではなく、あくまでも自分の利益確保のために、その府省庁の法律作成や政策決定に強い影響力を及ぼしたり、その府省庁の官僚たちには、彼らが闇の権力を行使して設けた特殊法人独立行政法人公益法人等の外局ないしは外郭団体(後述)に対して、国会を経ずして巨額の融資をするよう仕向けたり、その府省庁の所管する業界の利益を擁護したり、また、それらの代弁者の役割を果たしたりもする。また特定の民間企業の要望を受けて許認可権を持つ府省庁に口利きをしたりもする。そうしてはその都度、それらの行為の見返りとして外郭団体や業界そして特定企業から政治献金という事実上の賄賂を手にするのである。一人当たり、年間、およそ2億円という正規の議員報酬にも飽き足らずに、である。また、族議員たちは、政府からの補助金等の配分や公共事業の箇所付けに介入しては、彼らの言う地元に対して、次期選挙の再選を狙って、補助金や公共事業をもたらすのである。

 中央政府の各府省庁の官僚たちは、族議員や財界の官僚たちとも結託して、特定の産業界や圧力団体に好都合な法律や政策(補助金、公共事業等)を立案するのである。あるいは特殊法人公益法人独立行政法人、許認可法人といった各種の法人を、府省庁の外局あるいは外郭団体として設置するのである。それも上位の「根拠法」に拠ってではなく、彼らのお手盛りの「設置法」に基づいてである。それは、いかにも「法律」に基づいて設置した法人であると言い逃れできるようにするためである。そうして設置した外郭団体あるいは外局には、彼ら府省庁の官僚は、惜しみなく国民のお金を、それも闇で、すなわち国会の審議や議決も経ずに、融資するのである。担当大臣は、それについてただ形ばかりの報告を受け、裁可するだけ。つまり配下の官僚たちに操られ続けるのである。

 そして彼ら各府省庁の官僚たちは、その見返りとして、それらの法人には、各府省庁での出世競争に敗れて次々と退職してゆくキャリア官僚を、第二、第三の就職先として、それも優雅な生活ができるような待遇をもって受け入れてもらうのである。「天下り」だ。融資したその巨額のお金ももちろん国民が納めたお金だ。

 実際、天下りについては、官僚の世界を知り尽くしている古賀氏はこう明言する。「キャリア官僚の独立行政法人公益法人への天下りが、霞が関の人事ローテーションにがっちり組み込まれているのである。このため、毎年のようにそのポストを退職者にあてがえるよう、ポストの確保と維持が至上命題となっており、天下った人間にもそれなりの仕事が必要ということで、無駄な仕事と予算がどんどんつくられてしまう。さらに、受け皿が足りない場合は、適当な理屈をつけて、新たな団体を立ち上げるようになる。」(「官僚の責任」p.58)

 こうして各府省庁の担当大臣が配下の官僚たちをチェックもコントロールもせずに、むしろ彼らに依存しては追随してきた結果が、既述のごとき、とんでもない金額の政府債務残高となっているのだ。そう考えれば、その責を厳しく問われねばならないのは、各府省庁の大臣であり、またその大臣を任命した総理大臣だ。

 政府の官僚を中心にしたこの国のこうした状態については、ウオルフレン氏はその著書にて既にこう喝破していた。

————日本の官僚制度の基本的特徴は、官僚は自分たちの縄張りの中————彼らが公式に行政権を握っている経済的・社会的活動分野————では、自分たちの好きなことがやれるということだ。そして、自分たちの決定について説明しなくてもいい。それぞれの省庁が、それぞれの法律をつくり、それを好きなように解釈できる権力を持っている。そしてその法律を、許認可を与えたり与えなかったり、あるいはそれとなく脅したりなどして、執行する力がある(p.83)。そういうわけで、公職にあるものの誰一人として、日本の国益を気にかけていないのだ。それぞれの省の高官は、自省の利益だけしか関心がない。そして彼らは、自省の権力と威信をどれだけ高めたか、その貢献度によって出世が決まる(同ページ)。そして、官界と財界に広く分散して存在している日本の実質的権力者たちによる独裁主義は、彼らがなんのチェックも受けずに権力を行使できることの結果だ(p.91)。日本では、最も重要な事柄は、正規の法の規制を受けないのだ。日本の政治構造の事実上の本質部分も、一切、法律に基づいていない。日本の巨大な経済システムの最も重要な側面も、法律の条文規定にまったく基づいていない(p.101)。日本について言えば、法律はそれをつくった官僚たちの手中にある。法律は何にもまして官僚の道具だ。官僚が社会秩序を保つための道具になっているばかりでなく、彼らの望みどおりの制度や条件を確実につくり上げるための道具としても使われる。(p.102)。

 

 ではこれらの特別会計により、私たちのお金は実際には誰によってどのように使われてきたのか、また今も使われているのか?

 実はそれを具体的に明らかにしようとしたのも前出の石井紘基氏だ。それまでは全くと言っていいほど、政治家たちはそれに触れるのを避けてきた。政治家たちだけではない。政治学者も政治評論家も財政学者も、朝日・毎日・読売といった大新聞も、公共放送NHKも、民放も、である。石井氏の同志である菅直人氏や野田佳彦氏をはじめとする民主党議員たちも、普段は与党批判など勇ましいことを言っていながらも、石井氏の遺志を継ぐ勇気はなかった。

 ところで、国民のお金のそうした使い方の差配をしてきたのが政府の官僚たちであり、それを使ってきたのが官僚たちがつくってきた特殊法人を筆頭とする、公益法人独立行政法人(独法)そして官企業または行政企業または政府系企業と呼ばれる「法人」であり、特定の民間企業だ。

その特殊法人とはインターネット上では、誰による文章なのか、無署名で、次のように説明されている————しかし、法人だというのに、六法全書には一切、説明はない————。

特殊法人は、営利目的の市場原理による実施では不可能か、不可能に近いような事業を実施する目的として設立されることが通常である。公団、公社、事業団、特殊銀行、金庫、公庫、特殊会社など多岐にわたる形態がある。運営上は、法人税や固定資産税などの納税が免除されたり、日本国政府財政投融資による資金調達が可能であるなど、大きな特典を有している反面、事業計画には国会の承認が必要となること、不採算事業からの撤退が簡単にはできない点など、国や政治家の意向に大きく左右される点も有する。

 あるいは特殊法人については次のような説明もある。

特殊法人とは、政府が必要な事業を行おうとする時、その業務の性質が企業的経営に馴染むものであり、これを通常の行政機関に担当させても、各種の制度上の制約から能率的な経営を期待できない時等に、特別の法律によって独立の法人を設け、国家的責任を担保するに足る特別の監督を行うとともに、その他の面では、できる限り経営の自主性と弾力性を認めて能率的経営を行わせようとする法人をさします。

 またこうも説明されている。

特殊法人とは、日本の法律において、法人のうち、その法人を設立する旨の具体的な法令の規定に基づいて設立され、独立行政法人認可法人特別民間法人のいずれにも該当しないもののことである。2020年4月現在、33の特殊法人がある。

 さらには、特殊法人はこうも説明されている。

特別法により設置される場合の法人。国策上あるいは公共の利益のために設置される。(広辞苑)。

 

 以上のことからもわかるように、特殊法人についてこうした様々な説明がなされていること自体が、特殊法人とは何か、それの存在根拠は何か、を定義づけ説明する法律がないということを証明している。ところが、それにもかかわらず、後述するように、実際には、各府省庁が所管する特殊法人が複数存在しているのだ。これは一体どうしたことか。なぜなら、日本は、公式には、法治国家であって、いかなる行政機関であろうとも、またいかなる民間機関であろうとも、それらの存立の根拠を明示する「根拠法」が必ずあるはずだし、またそれが定められていなくてはならないからだ。ということは、言い換えれば、日本国に存在する全ての行政機関や民間機関は、例外なく国会の承認と議決を経ていなくてはならないということだ。ましてや、もし特殊法人が行政機関だというのならば、「公法」に属する行政法令によって、その存在根拠は定められていなければならない。

だからこそ石井氏はこの点に関して、国会にて、独立行政法人(独法)をも含めて政府側に問い質した(1999年11月)。ところがそれに対する答弁は二転三転したあげく、特殊法人と独法は、共に、「公法に基づく法人」ではあるが「行政機関ではない」との、法的には整合性の全く取れないチンプンカンプンのもの(p.126)。つまり、特殊法人は、独法も、法的には幽霊なのだ、と石井氏は言う(p.125)。

 私たち主権者である国民は、まずこのことを明確に押さえておかねばならない。つまり、世に言う特殊法人、よくTVなどにその名が出てくる例から拾えば、例えば、通称NEXCO東日本NEXCO中日本NEXCO西日本、そして通称の首都高は法的根拠のない団体だということだ。そんな団体が私たち国民のお金を好きなように貪っているのだ!

 では、どうしてこんな法的に整合性の取れない特殊法人(や独法)が実際には存在しているのか。これについても、前述のK.V.ウオルフレン氏がこの国の官僚独裁の実態をいかに正確に見抜いていたか、どうかもう一度確認していただきたいのである。そしてこうなるのも、結局は総理大臣も各府省庁の大臣も、大臣としての職務を果たしていない、もっと言えば政府とは名ばかりであり、この国には舵取りという中枢が存在し得ないからだ、ということに尽きると私は考える。すなわち、配下の官僚たちのやっていることを、国政調査権を生かしながら逐一チェックしたり、また官僚たちをコントロールしたりして、「法の支配」を徹底して守らせる、また守らなかった官僚は毅然として憲法第15条第1項を毅然と適用して罷免するということを総理大臣も閣僚もしていないからだ。そうなるのも、結局は、この国の現行の政治家たちには、役人に依存していたい、その方が楽だからという自己への甘えがあるからであり、古賀氏が証言するように、役人にサボタージュされると自分の職務を果たせないという恐怖心が先に立つからである。そうした状況をいいことにして、各府省庁の官僚たちは、そこでの次官をトップにして、事実上の人事権を握り(同氏の著書の例えばp.169)、特殊法人をはじめとする独立行政法人公益法人への天下りを、霞が関の人事ローテーションにがっちり組み込んできたのだ。

 そもそも民間企業一般では、そこを退職した者のその後は、誰かが面倒を見てくれるわけではない。転職するも自営業をするも、それこそすべて「自己責任」において行われるのである。国民一般から選ばれた政治家たちは、なぜ世間一般に行われているそんな当たり前のことを、官僚たちに「国民一般に倣え」と強要しないのか。そうでなくても、彼らは「国民のしもべ」であるというのに。

 そんなことだから、総理と閣僚たちは、例えば官僚たちがお手盛りの「日本道路公団設置法」とか「石油公団設置法」といった特定の特殊法人についての「設置法」を閣議で決定してしまい、特殊法人の設立を容認してしまうのだ。つまるところ、総理大臣や閣僚たちは官僚たちに舐められているのだ。

 

 それにもう一つ疑問に思われることだが、そもそも「天下り」などといった表現が、この国では、そしてこの現代に、なぜ今もってまかり通っているのか。そして国民も、なぜいつまでもこんな表現を許しているのか。

 「天下り」とは、文字通り天から下りて来る、ということだ。誰が、といえば、この場合、もちろん役人ということになる。では、その者はどこへ下りて来るのかというと一般国民の世界だ。しかしそこは、国家の政治のあり方を最終的に決めることのできる権利・権限・権力を持った主権者の世界だ。一方、その役人は、日本国憲法(第15条)で下で「全体の奉仕者」すなわち「公僕」であり「国民のしもべ」と明記されている立場の者だ。となれば、「天下り」どころか、その逆さまであるべきであって、「主権者のお仲間に入れさせていただく」となるべきであろう。

 ではなぜ役人は、天から下りて来るといった雰囲気を醸す横柄あるいは傲慢な言い方をするようになったのか。この表現には、役人こそ偉くて、一般国民はその役人にへりくだらなくてはならないという意図が明らかに読み取れるからである。つまり、文字どおり官尊民卑の差別的人間観がそこには露骨にある。

 しかし役人は既述のとおり公務員であり、公務員試験という官吏任用試験に合格したというだけの立場であって、国民一般に仕える立場なのである。もちろんそうは言っても、その立場とは、あくまでも社会において負っている役割や使命からくるもので、身分とは違う。個々の人間としては国民一般となんら変わることなく、全く平等だ。

 ではその官尊民卑の差別的人間観は、一体いつから、世にはびこるようになったのか。

私は歴史学者ではないからはっきりしたことは言えないが、士農工商なる身分差別が厳しく問われるようになった江戸時代にはすでに生まれていたのではないか。「欽定憲法」下の明治期には間違いなくあった。それは、政府というものを天皇の権威を維持してゆくためにのみ存在するものとしては、政党政治を徹底的に嫌った、明治後期の寡頭政治の中心的指導者の一人であり、最大の権力者でもあった山縣有朋が、官僚を「天皇のしもべ」と位置付け、その結果、明治期の社会はすでに官僚主導社会だったからだ(K.V.ウオルフレン「日本という国をあなたのものにするために」角川書店 p.49)。

 では、「民主憲法」下の今もなお、どうして私たち国民は、官尊民卑なる人間差別観を象徴する「天下り」などといった表現をそのままにしておくのか、あるいはそれを当たり前のように受け入れているのか。

 私は、ここにも、この国では、官僚を含む役人一般はもとより、国民一般も、意識はいまだに「近代」にも至ってはいない証拠を見る思いがするのである(1.4節参照)。人間は、何人なりとも、個人として、互いに自由かつ平等であるという、近代西欧の市民の到達した意識に。

 

 本題に戻って、そのようにしてつくられる特殊法人ではあるが、では一体どんな種類の特殊法人があるのだろうと思って実際に各府省庁に電話して問い合わせてみると、以下の通りだ。

いずれも、2023年現在のものである。

 国土交通省の所管する特殊法人は次の13法人だ。

北海道旅客鉄道(株)    通称、JR北海道

四国旅客鉄道(株)     通称、JR四国

日本貨物鉄道(株)     通称、JR貨物

東京地下鉄(株)      通称、東京メトロ

成田国際空港(株)

東日本高速道路(株)    通称、NEXCO東日本

中日本高速道路(株)    通称、NEXCO中日本

西日本高速道路(株)    通称、NEXCO西日本

首都高速道路(株)     通称、首都高

阪神高速道路(株) 

本州四国連絡高速道路(株) 通称、本四高速

新関西国際空港(株)

○(株)海外交通・都市開発事業支援機構

経済産業省については次の4法人がある。

○(株)商工組合中央金庫

日本アルコール産業株式会社

○(株)日本貿易保険

○(株)日本政策金融公庫

 

文部科学省については次の2法人。

○日本私立学校振興共済事業団

放送大学学園

 

総務省では、次の6法人。

日本電信電話株式会社

東日本電信電話株式会社

西日本電信電話株式会社

日本放送協会NHK

日本郵政株式会社

日本郵便株式会社

 

ではこれらの特殊法人は、その行動特性において、どのような共通性があるか。

石井氏によると、こうだ。ただし、その際、K.V.ウオルフレン氏がその著書で指摘していた、既述の日本の官僚制度の問題点とも読み比べてみていただきたいのである。石井氏の功績も、余人には成し得ないまことに大きなものがあるが、しかし同氏よりも少なくとも5年は早く、日本の官僚システムは「人間を幸福にはしないシステム」であると見抜いていたウオルフレン氏のジャーナリストとしての調査力と眼力については、私たちは日本人として特に高く評価すべきものだと私は思う。

独立行政法人と共に特殊法人は「公法に基づく法人」ではあるが「行政機関ではない」との政府側の公式見解が出されているにも拘らず、時と場合によって、行政機関のようにも振る舞い、民間企業のようにも振る舞う。

それができるのは、関連法令はそれぞれの特殊法人を持っている省庁が所管しているので、自分に都合のよい勝手な法解釈がまかり通ってしまう。つまり、族議員と官庁だけの思いのままになる存在なのである。

特殊法人には経営そのものに対する責任の主体がない。

特殊法人経理は正確には誰にもわからない。

・どんなに借金が膨らもうと不良債権に浸かろうとも、責任を問われる者がいない。

・民間企業のように、「株主」に監視されることもないし、行政機関として議会で承認される必要もない。

特殊法人はどんどん子会社(公益法人も含む)、孫会社などを作る。株式持ち合いの関連企業を含めると、ファミリー企業は約2000社に上る。

特殊法人の中には民間企業をほとんど丸抱えしているものもある。しかも特殊法人の事業は、公共事業や委託業務が多く、特殊法人によって生計を立てている企業は非常に多い。特殊法人関係の実質就業者数は200万人は下らないはずだ。

特殊法人は、資金調達は思いのままだし、株主に対する事業報告書の開示義務もなければ、経理内容も公開しない。

特殊法人は、国の財政投融資計画の大半を受け入れて事業を展開し、膨大な数の下請けを抱えていて、製造業(自動車、電機、機械)を除くほぼ全産業分野に君臨している。

特殊法人の借金は全て国の借金となる。なぜなら、公庫、公団、事業団といった特殊法人は、国会の議決による「設置法」に基づいて設置された国の政策遂行機関であり、国の出資金や補助金で運営されているからだ。

・しかも、特殊法人は一般企業のように倒産することがないために、借金はどこまでも膨らみ続ける。なぜならば、特殊法人には財政投融資から毎年25兆円もの融資がなされ(2002年当時)、その利払い金や出資金として、毎年4兆円以上の国費が注入されているからだ。結局そうした清算金や欠損金は現実に国民の負担に添加されている。

 以上のことからはっきりすることは、特殊法人は、日本の国と国民にとっては巨悪以外の何物でもない存在だということだ。それは、時に官企業または行政企業または政府系企業という言い方がなされるその特殊法人が、民間経済の上に君臨し、経済の資源を行政の事務に取り込んでは利権の糧とし、国民の借金を増やし、国民の生活を圧迫しているからだ。そして、特殊法人が巨悪であるとするもう一つの根拠は、それが法律に基づかない存在、あるいは法的には違法な存在であるからだ。日本は、法治国家として、行政機関や民間機関は、すべて、その存在根拠は公法にて定められている。しかし、特殊法人は(認可法人も)、既述のとおり、その根拠法はなく、その特殊法人を持つ府省庁の官僚たちが個別に、それもお手盛りの「設置法」のみによって存在しているものだからだ。

 こうして彼ら官僚が国民に無断で使っている国民のお金の額が、令和4年度には、既述のとおり、その合計が467.3兆円という、一般会計(当初予算)の歳出額108兆円の実に4.3倍にも当たる途方もない額になっているのである。

 

④では、今後、特別会計については、私たち国民は主権者としてどうすべきか。そしてその時、同時に、特殊法人等はどうすべきか。

 結論はすでに明らかだ。特別会計については、当初、特別会計を設ける必要があるとしたその時の動機と目的という原点に立ち返って、それも終始、国民の利益代表である政治家が主導する形で、国と国民生活にとって、特別会計として本当に残さなくてはならないものとそうでないものとを区別し、後者に属するものは即刻廃止する、ということだ。

それだけではない。これまで、ここでは言及してこなかったが、石井紘基氏によると、特別会計だけではなく財政投融資補助金という制度も官制経済体制を補完するものでしかなく、この国と国民にとっては為にはならず、むしろ政府の借金を増やすだけにしかならないから、原則廃止すべきだという。大賛成だ。

 そして特殊法人については、即刻、全て廃止すべきであろう。それは、「公法に基づく法人」ではあるが「行政機関ではない」といった、法治国家としてのこの国にそぐわない、むしろ法体系に矛盾し、法体系を壊してしまうだけの存在だからというだけではない。特殊法人の多くは、様々な事業に進出しているが、その事業の仕方が、既述のとおり巨悪であり、民間経済の上に君臨し、中央集権的で統制経済であり、経済の自由な活動を阻害してしまうからだ。ただし、特殊法人の即刻廃止は、そのまま「民営化」すなわち「株式会社化」することを意味するものではないということだ。

 ところで、特別会計をどうするか、特殊法人をどうするかといった場合、むしろ問題なのは、そうした思い切った対処が、現行の政治家の手で果たしてできるか、それだけの勇気も、決断力も、そして石井紘基氏のような真の愛国心があるか、ということではないか、そっちの方がはるかに問題なのではないか、ということだ。これまで、戦後ずっと、官僚に依存しっぱなしで来て、民主政治の何たるか、民主政治と民主行政はどのように行われるべきかということすらまともに知らない今の彼らには到底無理だと思われるからだ。

 

 では私たち国民はどうしたらいいか。

どっちにしても私たち国民は、このまま手をこまねいていることはできない。

なぜなら、このままでいたならば、石井氏が警鐘を鳴らしながら亡くなったように、日本は気候変動や生物多様性の消滅といった人類的・世界的な大災難によるのではなく、その前に、ほぼ間違いなく「自滅」するだろうからだ。

 ではどうするか。私は、その場合、次の三つの方向から対処するのがよいと思う。それが、最も穏便でかつ確実だと思うからだ。それは、国民、政治家そして公務員それぞれの立場から努力することであり、しかもそれぞれがこれまでのあり様から、次のようなあり様へと互いに高まって行くことによってである。

 まず私たち国民については、これまでの政治的姿勢としての「あなた任せ」を自ら克服して、名実ともに、国家の政治のありようを最終的に決める権利と権限を持った「主権者」になるのだ。それは、言い換えれば本物の「市民」となることでもある。ここで言う市民とは、自由や平等という人権意識に覚醒し、権力の行使の仕方をつねに疑い、自分たちの共同体としての国や地域は自分たちの手でつくる、自分たちの運命は自分たちで選び取る、との自覚を持った社会的で政治的存在のことだ。

 政治家については、この場合には、やはり現行政治家には退場してもらって、本物の政治家に登場してもらうことだ。そしてその本物の政治家は、真の市民になった私たち国民が育てるのだ。どういう方法によってか。それは、現行の形だけの選挙制度を根本から改めた新選挙制度を実現することによってである(第9章を参照)。

 では公務員についてはどうか。それは、この場合も、私たち国民が真の主権者であり真の市民となることによってである。私たち国民が毅然としてそうした姿を示せば、これまで無意識ながらも“自分たちこそ実質的な主権者だ”と言わんばかりの言動を見せていた公務員も、否応無く「公僕」「全体の奉仕者」「国民のしもべ」という意識を持たざるを得なくなると思われるからだ。

 国民、政治家そして公務員が互いにこのように成長し高まれば、その時には、特別会計の廃止も特殊法人の廃止も容易に可能となるだろう。否、その時には、この日本という国は、真の民主主義を実現し、さらには真の生命主義の国へと歩みを進め、真に持続可能な国家にもなっているだろうと、私には期待されるのである。

17.4 「国民会議」が定めた構想を実現するため、中央政府は既存の行政区画を解体し、州および地域連合体へと区画割りまたは線引き

 

17.4 「国民会議」が定めた構想を実現するため、中央政府は既存の行政区画を解体し、州および地域連合体へと区画割りまたは線引き

 国民会議の新国家建設構想が新国家創建プロジェクトとして公式の国家プロジェクト=正式な国策となった時点で、それは国の執行機関としての中央政府の中枢である内閣に引き渡される。引き渡されたそれは、直ちに閣議にかけられる。そこでは、大統領に任命された首相を中心にした閣僚同士で、いかにしたら国民会議からもたらされた新国家創建プロジェクトの内容を、忠実かつ、より効率的に実現し得るか、そのための実現方法とスケジュールを徹底的に議論する。閣議の本来の使命と役割とは、「国権の最高機関である国会が決めた政策の執行方法ないしは実現方法を閣僚同士で議論して決定すること」だからだ。

その際も、内閣は、本物の知識人の協力を得るために————「本物の知識人」の意味は、6.4節を参照のこと————、必要な分野の必要な人数を閣議に招聘する。

ただしその際の人選は、必ずそのための担当閣僚を設けて、その者が責任を持って直接関わり、絶対に官僚には一任しないことである。官僚に任せたなら、これまでが常にそうであったように、彼らは国民の利益や福祉を最優先するのではなく、自分たち組織の「既得権益の拡大と維持」そして「天下り先の拡大と確保」という利益を第一にして、それを実現させる方向で人選するからだ。彼ら官僚はそうした狡猾さを、所属組織の中で生きる中で骨の髄まで習性として身につけているのである。

 もちろんそのときの閣議の場合の各閣僚の配置の仕方としては、これまでNHKテレビがよく映し出してきたような、後から入室してきた総理大臣を真ん中にして、全閣僚がコの字型に、レザー張りと思われる肘掛け椅子にふんぞり返って居並ぶような雰囲気と配置などは論外だ。それはそもそも議論する姿勢からはおよそかけ離れたものであるからだ———これまでの閣議とは、事務次官連絡会議が提案した案件を15分か20分程度で追認するだけだけの、閣議とは名ばかりの、むしろ総理大臣と全閣僚が揃って、官僚たちと官僚組織にこの国を公式に乗っ取らせるための儀式でしかなかったのである———。したがって、今後の閣議は、議論という議論がきちんとできるよう、大至急閣議室を改築しながら、既述のように、「国権の最高機関である国会が決めた政策の執行方法ないしは実現方法を閣僚同士で議論して決定する」という、その本来の使命と役割を果たすのである。その場合の使命と役割の中には、国策執行ないしは実現のための計画と行程も含まれる。

 

 こうして、閣議での熟議の末でき上がった国家としての最終的な計画と行程を含んだ実現方法は、国会と国民会議にフィードバックされて両者の最終的な了承を得る。

 了承を得た段階で、中央政府(もはやこの時は、連邦政府の前身となる)の首相は、30日以内に、全国民に、その最終的な計画と行程を含んだ実現方法を、「丁寧に」でも「粛々と」でもなく、論理と言語を明解にして説明する。そして協力を訴える。

 

 全国民の大方の理解と合意が得られた段階で、新国家形成のための種々の法整備を進める。

その際の要点は以下のものである。そして以下のことを実行できるか否かということこそが新国家創建プロジェクトの成否を決める、と私には思われるのである。

 その1つは、その法整備は必ず立法機関であり国権の最高機関である国会の政治家が、政党や派閥を超えて、政治家同士で議論をし、必要であれば、しかるべき分野の、本物の知識人と呼べる専門家を国会に招聘し、彼らの助言を得て定めることである。

ゆめゆめ、政府の官僚を国会に呼んで、彼らに質問したり助言を仰いだりすることを厳に慎まねばならない。なぜなら、官僚には、その身についた習性として、従来の慣行や前例に基づいた発想、自分たちの所属組織の利益を最優先する発想しかできないからだ。

 1つは、近い将来、「都市および集落としての三種の原則」にもとづいて、大都市の縮小と、それに伴う人口の地方への移動ということが生じるとともに、現行の47都道府県と1718の市町村の行政区画を解体地域連合体とに再編成するという大事業も決行されることになることから、その時必然的に生じてくると予想される土地所有権と空き家の活用権に関する立法化を急がねばならないということである。

つまり、この国に、戦後長らく、当たり前のように幅を利かせてきた「絶対的土地所有権」については、「所有」には大きな義務を伴うとの考え方に基づいて廃止することと(12.3節を参照)、現在、すでに全国には850万戸近くの空き家があるとされる(平成30年時点)が、その有効活用権を含めて、「公共の利益」を最優先する考え方にもとづいて行政府が改廃し、活用できるとする法律の立法化だ。

 こうした立法化の目的とするところは、日本が今後も持続的に生き抜くための、また日本が地球温暖化阻止のために世界に一つの手本として示すべき、今日的「廃藩置県」なのである。