LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.6 多様な職種と「真の」公共事業

11.6 多様な職種と「真の」公共事業

 今、経済が低迷し、あるいは行き詰まっている多くの国々では、人々は「雇用の創出あるいは拡大」を求めている。そしてそのことだけが強調され、叫ばれているように私には見える。

 一般に、「働く」あるいは「仕事をする」という言い方で表現される「労働をする」とは、精神労働であれ肉体労働であれ、その区別とは関係なく、果たして人間にとってどんな意味を持っているのだろうか。そして人が「労働」するのは「お金をもらう」ためだけなのだろうか。もしそうだとしたなら、お金をもらって、そのお金を何に使い、何をしよう、あるいは何を満たそうというのだろう。

 今、仕事がなく、少しでも早く現金収入を求めている人にとっては、「とにかく、仕事があるだけでも助かる」という心境なのであろうが、「雇用の創出あるいは拡大」を求めるにしても、「仕事」を求めるにしても、「人が労働(仕事)をする意味とその労働(仕事)の役割」についてはもう少し考えられていいのではないだろうか。

 私は、日々、農作業をしながら、このことも考えさせられていた。

 以下は、E・F・シューマッハー著「スモール イズ ビューティフル」(講談社学術文庫)に拠る—————。

 富の基本的な源泉が人間の労働である、という点については、誰しも異論はないところであろう。

ところが、現代の多くの人々は、経済学者も含めて、「労働」や「仕事」を「必要悪」ぐらいにしか考えていない。

雇い主の観念からは、労働は所詮1つのコストにすぎず、これについては、例えばオートメーションを取り入れて、理想的にはゼロにしたいところである。

労働者の観点からは、労働は「非効用」である。つまり人の欲望を満たしうるものではない、とされる。むしろ働くということは、余暇と楽しみを犠牲にすることであり、この犠牲を償うのが賃金ということになる。

したがって、雇い主の立場からすれば、理想は雇い人なしで生産することであるし、雇い人の立場からすれば、働かないで所得を得ることである(同上書p.70)。

 このような態度が理論と実践(生産現場あるいは労働の現場)に及ぼす影響は甚大である。

仕事についての理想が仕事を逃れることであるとすれば、「仕事を減らせる」ならどんな方法でもよいことになる。

 オートメーションは、人間の労働を最小限に減らせる例である。ここでの仕事を減らせる方法は分業である。それも、人類が大昔から行って来たような通常の分業ではなく、一つの完結した生産工程を分割して、完成品を高速度で生産できるようにする分業である。この分業では、個々の労働者は、そのための訓練もほとんど要らないし、しかもまったく無意味な、あるいは頭を使わない手足の動作だけを繰り返せばよいのである。

 しかし、雇い主が、仕事というものを、労働者にとって無意味で退屈で、イヤになるような、ないしは神経をすり減らすだけのものにすることは、犯罪すれすれのことをしていることなのだ。なぜなら、そうした状態を長く続かせることは、労働者その人の精神を病ませることになるし、また、労働者のそれを和らげられないままそこから抜け出せないような状態にしたら、その人を死へと突き落としかねず、そうなったら、遺された家族には計り知れない悲しみや苦しみを与える結果となりかねないからだ。

 同じように、労働者が、働くということは、余暇と楽しみを犠牲にすることだと考えることは、人生の基本的な真理を正しく理解していないことを示している。その真理とは、仕事と余暇とは互いに相補って、生という人間の誕生から死へと至る一つの過程をつくっているのであって、二つを切り離してしまうと仕事の喜びも余暇の楽しみも失われてしまうということである(p.71。なお、これについては4.1節にて、私の提案する「調和」の定義をも参照されたい)。

 人間性は主に仕事を通じて培われる、とはよく言われる。

その意味はこういうことである。

———仕事は人間を向上させ、活力を与え、その最高の能力を引き出すように促す。仕事は人間の自由意志を正しい方向に向けさせ、人間の中に潜む野獣を手なずけて、よい道を歩ませる。仕事は人間がその価値観を明らかにし、人格を向上させる上で最良の舞台となる。

仕事というものの性質が正しく把握され、実行されるならば、仕事と人間の高尚な能力との関係は食物と身体との関係と同じになるだろう。

 人間は仕事がまったく見つからないと絶望に陥るが、それは単に収入がなくなるからではない。いま述べたような、規律正しい仕事だけがもっている、人間を豊かにし、活力を与える要素が失われてしまうからである(p.72)。

希望を持てることは、人間が生きてゆく上で、是非とも必要なことなのである。

 以上がシューマッハーに拠る「人が労働(仕事)をする意味とその労働(仕事)の役割」についてであるが、「経済」の定義を確認した場合と同様に、やはりここでも、「お金」という物は、そこにはあらわな形ではどこにも現れて来てはいないということにはとくに注意する必要がある。

それは、人間が労働するということの深い意味は、そして労働の本来意味するところは、貨幣経済社会であろうとなかろうと、あるいは資本主義社会であろうと社会主義の社会であろうと関係ないことだということである。

 現代のほとんどの経済学者たちが、そして彼らに影響を受けた私たち一般社会の人々も、そして政治家たちも、雇用ということ、そしてひたすらそれのみに拘るということは、雇用されればお金がもらえる、そうすればそのお金で生活できるようになる、あるいはそのお金で欲望を満たすことができるようになる、ということが、そしてそのことだけが、各々に暗黙のうちに理解されているからなのであろう。そしてその場合、「生活できる」あるいは「欲望を満たせる」の意味は、実は「消費できる」ということと同じ意味なのである。

 実際、私たちが「生活水準」を測る場合、多く消費する人が、消費の少ない人よりは「豊かである」という前提に立っていることはそのことを物語る。しかし、よくよく考えれば判るように、その消費の仕方と豊かさの関係も、消費支出に占める食料費と住居費の割合が少ない人ほど「豊かである」と見直されるべきなのだ(暉峻淑子「豊かさとは何か」岩波新書p.96)。

ところが現代のさまざまな経済学も、依然として、消費が経済活動の唯一の目的であると考えているのである。

 そしてその消費を際限なく拡大できるように生産することが経済が発展することである、として来た。GDP国内総生産)、GNP(国民総生産)という概念はそれを測るために生まれたのである。そのGDPという数値を上げるために、陸・海・空を通じて資源を世界中からかき集め、生産力を果てしなく伸ばしながら商品を生産し、関税障壁という垣根の高さをできるだけ低くしながら、同じく陸・海・空を通じてその商品を世界中に流通させてきた。

 その結果生んでしまったのが地球の温暖化と気候変動の激化という現象であり、世界規模での貧富の格差とその拡大という現象であり、各地でのテロを含む紛争ないしは迫害の拡大という現象であった。そしてその結果生じたのが難民の急増という現象であり、その人々の受け入れをめぐって生じたのが受け入れ国側での国内と国家間での対立と分断と、それに因るポピュリズムの台頭という悪循環の現象なのである。

 経済の成長を促進し、豊かさを際限なく実現しようと追求して来た結果が、人類が生きて行くことさえできないこうした連鎖的事態を生むことになろうとは、何という皮肉、何という矛盾であろう!

 だから、ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツGDPについて指摘するのである。

————GDPはそのように、環境汚染も資源の乱用も考慮には入れてないし、富の分配の仕方も社会の持続性ということも考慮してはいない、問題だらけの数値なのだ。したがってその数値をもって「経済の成長」を考えるのは間違いだ。経済における成長ということについては、もっと本質的なことを考えなくてはいけない、と。

 私は、しかし、人類が、歴史の中で、豊かさを望み、それを実現しようとしたこと自体には過ちはなかったと思う。そうではなく、求める豊かさにも、大きくは物質的豊かさと精神的豊かさの二種類があること、その両者をバランスさせながら実現させて行かないと真の豊かさを実現したことにはならないだけではなく、かえって解決困難な様々の難題を生むことになるということに気付かなかったそのことこそが人類の大きな過ちだった、と考える。

 そのことに気付こうとしなかった分岐点はデカルトにまで遡る。彼は「近代」というその後資本主義が支配的となる時代の思想や価値観を確立する上で、文字どおり決定的な役割を果たした。

彼はつねに世界を「個」としての自分を中心に捉えながら、ガリレオと同じような宗教裁判にかけられるのを避けるために、科学的認識方法を世に提唱する上で、感覚的なものや精神的なもの、あるいは命を議論の対象とすることは避け、物理的な実態のみを扱うと宣言したのだ(槌田敦エントロピー現代書館p.74)。自然を、あるいは物事を、その中での現象相互の関係を絶ち、「要素」に分解して分析的に解明すればそのものを理解できる、とする手法は彼の提案によるものだ。

 ではこうしたことを教訓とするときこれからの時代において求めるべき豊かさとは何か。

結論を先に述べれば、私は、多様性こそ豊かさに通じ、また安定性を保障してくれる、と考える。

たとえば「生物の多様性」がそうだ。それは、生態系としての耐性と安定性、自然としての耐性と安定性を保障してくれる原理だ(4.1節の定義参照)。人間社会においてもそうだ。様々な個性や様々な能力が積極的に育まれ保障される社会ほど豊かだし、その社会は内外からの様々な働きかけや撹乱に対して適応性があるし耐性があるから安定してもいる。

そしてそのことは労働や仕事のあり方についてもまったく同様に当てはまる。

 ところがこの国は、中央政府自身がそうした真理とはまったく逆行する教育行政、つまり同じようなものの考え方をし、同じような価値観を持ち、同じように振る舞う人間ばかりを大量生産し続けて来たし、今もそうしている(10.1節)————そしてその教育行政は、自らの政権には正統性のないことを知って、国民に恐怖を抱いた明治薩長政権からのものであり、それが組織の記憶として文部省そして文科省へと脈々と受け継がれて来ているのだ、と私は思う————。その結果、今やこの国は、国民の大多数が「この国が豊か」とは心からは感じられない国になっているし、むしろ、この国の豊かさの実態とは、ひとたび社会的弱者になるや、ただの幻になってしまう豊かさであり、だから、誰もがそうならないようにと強迫観念に囚われているのだ。

 労働あるいは仕事こそが、本来、人間生活を豊かにし、人間を幸せにするためにあり、その労働のあり方あるいは仕事の質こそが、生活のあり方を左右し、人間の生き方に大きな影響を与えるものなのだ(暉峻淑子「豊かさとは何か」岩波新書 p.109)。

そしてその場合、人は皆、個性も能力も本来多様であることを考えるなら、労働あるいは仕事の種類が多様であればあるほど、より多くの人は、より自分に合った労働あるいは仕事を選択できることになる。

 そこで言う労働のあり方あるいは仕事とは、少なくとも、機械に使われるだけの労働あるいは仕事ではない。全体工程の中のごく一部を、歯車のように、そして果てしなく同じ動作の繰り返しによる労働でもない。労働力を単なる商品と考えるようなシステムの中でこき使われ、効率を上げるために追い立てられ続ける労働でもない。自分が手がけた製品が社会に出回ったとき、それが誰が関わった製品なのか見向きもされないような関わり方をする労働でもない。作り手の思いも無用とし、使ってくれる人の状況を思いやることも無用とする労働でもない。製品化する過程で関わっておきながら、それが壊れたり故障したりしたとき、自分でも手も足も出ず、全取っ替えするか捨てるしかないつくり方に関わるような労働でもない。

 そうではなく、既述のように、その仕事に従事し労働することによって、その人の創造力を含むさまざまな能力を最大限に引き出すような仕事。活力を与え、やりがいを感じさせ、誇りを抱かせ、その人をして邪悪な道に走らせず、よい道を歩ませるような仕事。一つの仕事を他の人たちと共にすることを通じて、自己中心的な態度はよくないと気付かせるような仕事。そして、それに従事することによって、社会に、まっとうな生活に必要な財とサービスをつくり出すような仕事(シューマッハーp.71〜72)。

 こうした質の仕事あるいは労働は、現行の大量生産システムあるいは巨大システムの中の仕事あるいは労働とは対極を成すことは明らかであろう。

それだけにそれは、必然的に、これまでの大量生産システムや巨大システムを否定することになり、より多くの人間の手で生産するあり方を要求するようになる。

 こういうことを言うと、すぐに、次のような反論や反駁が、とくに現行経済システムの中で莫大な利益を上げている大企業や既得権を享受している階層から来るだろう。

“では、これまでの企業や産業はどうやって経営を成り立たせて行ったらいいのか”、と。

 でも、ここは、読者の皆さんにはよく考えてみていただきたい。そしてこのことは決して忘れないでいていただきたい。

それは、既述して来たような特性を本質として持つ資本主義経済を発展させて行くことだけ、そしてその中では化石資源を湯水のごとく消費しながら、たとえ雇用を拡大させても、労働者を全生産システムの中の単なる一歯車として安くこき使うあり方だけを続けて行ったなら、必然的にこの地球も人間自身も駄目にし、早晩、私たちは、そして私たちの子孫は、生活してゆくどころか生きてゆくことさえできなくなるということを、である。

 つまり、これからの仕事あるいは労働のあり方とは、ただとにかく誰にであろうと、作った「商品」を売りさばけばそれでよしとするものではなく、誰のためにそれをつくるのか、誰のためのサービスを用意するのかをつねに明確にしながら、それを適正規模で生産し、生産した物を最短距離で流通させ、互いに適正規模の消費をしながら、人間としての満足を極大化しうるようなあり方、ということになる。

 当然ながらそうした仕事あるいは労働のあり方は、生態系のあり方や自然の本来のあり方とも「調和」するだろうし、したがってエントロピーの発生を極小にし、「生命の原理」の実現に近づくものともなるはずである。すなわち指導原理を実現する仕事あるいは労働のあり方になる。そしてその仕事あるいは労働のあり方は、いま私たち人類が直面している最大の課題である地球温暖化あるいは気候変動と、生物多様性の消滅の進行という事態をゆっくりではあるが緩和させ、やがては近代の産業革命前の地球の状態へと回復させてくれるのではないか、と期待するのである。

 そこで、以上のことを考慮すると、地域連合体を想定したとき、そこでは、具体的に、次のような職種が考えられるのである。

 

表−11.1 例としての地域連合体社会で想定される職の種類

 

国内

での職

生活の支援・補助・助成

各種産物・手作り物品の運搬・分配

農産物、水産物、畜産物、農機具、中小機械類、工具・道具類、住民・観光客の南麓内部での移動時での輸送や運搬

エネルギー供給

電気・飲料水・ガス・湯の住民各戸への供給。資源の再利用のための分別と資源化

保育・教育

職業訓練

保育園、小学校、中学校、高校、大学、介護、看護等の各種学校。各種職業訓練校。自然環境(生態系)再生指導員養成。

各種店舗

・各種事務所

各種商店(八百屋、魚屋、金物屋、菓子屋、呉服屋・洋品店、飲食店、趣味・手芸・絵画・彫刻等の美術展、楽器店・民芸品店)。

預金、金融、税務、会計等の事務所

各種災害救助

と警備

地震・火災・暴風雨・水難・雪崩・山岳遭難救助。森林警備・自然保護と警備。環境警備(有害廃棄物不法投棄等)。

公務(議会、役所)

地域生態系の再生・復元の全体計画と実施(地元森林の再生をも含む)。温室効果ガス排出を抑える住民全体の新生活様式の立案と実施(自動車がなくても生活でき、自然エネルギーだけで住民の暮らしが成立する地域内自己完結小規模集落社会の実現に向けて)。子どもたちに“生きる力”を付ける地域教育の計画と実施。人口増を実現させる教育を含めた綜合計画の立案と実行。電気・水道・ガス・湯の地域内自給自足を実現する計画の立案と実施(家庭ゴミの焼却に因る発電とその熱で沸かした湯の各戸への配給。家畜の糞尿の醗酵によるメタンガス生成とその利用。地域の河川を利用した小水力発電の集合)。暮らしと農産物生産と生態系再生の一体化計画の立案と実施(生活排水と屎尿の有効活用。)。住民の保険・医療・介護の体制づくりとその実施、等々。

教養・娯楽

音楽・詩・絵画・書・工芸・陶芸・郷土芸能・演劇・芝居・等

物づくり

道具づくり

農機具・金物・刃物・工作機器・医療機器・大工道具、等々

生活必需品づくり

住まい。衣料品。家具。食器・灯り等の生活調度品。各種食品加工(味噌、醤油・豆腐・酒・ワイン・ビール・乳製品等)。紙。織物。染め物。塗り物。炭。薬。化粧品・革製品。ワラ縄等。

民家の移築。福祉機器。公共施設(文化施設を含む)。商店の木看板。工芸品・陶芸品等々

燃料施設、エネルギー施設づくり

風車(風力発電装置と施設)。水車(水力発電装置と施設)。バイオガス生成装置と施設。生活排水と屎尿の合併自家処理槽。植物からの油(食用油、灯油、燃料油)生成装置と施設。炭焼き窯。焼き物用の窯、等。

農業

米。野菜。小麦。大麦。大豆。ソバ。果物。綿花。桑。薬草等々。

林業

植林(とくに広葉樹)。混交林の育成。下草刈り。枝打ち。間伐。伐採。木材の搬出。木材の皮むき。木材の乾燥。製材。炭焼き。

水産業

渓流魚の養殖。清流魚の育成。回遊魚の養殖。鯉、ナマズ、ドジョウ、タニシ類の養殖。

畜産業

養鶏。養豚。酪農。養蚕。山羊、羊、兎の飼育等。

真の公共事業への参画

社会福祉事業への参画

住民の日常の健康管理。悩み事相談。保険・医療・介護。検査・治療・手術。高齢者・身障者・精神障害者・難病患者への対応。

移住者・移民・難民(政治的紛争からの難民、気候難民をも含む)への自立できるための対応。

人材育成事業、研究活動の参画

三種の指導原理を理解しながら、当地の自然・歴史・文化を教え、当地域社会と国と世界に貢献できる人材の育成。

温暖化防止と地元生態系(生物多様性)の再生事業への参画

森林:混交林とするための植林。間伐。下草刈り。枝打ち。伐採。搬出。法面でコンクリート被覆をはがし、植物による法面崩壊防止強化。大規模林道と森林地帯を通る高速道路の廃止と森林への復元(自然循環を回復するため)。

農地:土着菌と落葉と堆肥による土壌の肥沃化と土壌浄化。

耕作放棄地の再生と有効活用。

河川:コンクリートでできたダム・堰堤・砂防ダムの解体と撤去。コンクリート三面護岸の解体と撤去と自然護岸の構築。

河川の清掃。湖沼の浚渫、等。既存の道路の幅員縮小と透水性道路への改修。既存の橋の補強と補修。

対外的

な職

もてなし

観光業

民宿、旅館、ペンション、ホテル、特産品店、工芸品店等の観光客相手の商売では、 “人はなぜ旅をするのか”の理解の下に、土地の文化と人情と風景を心に焼き付けてもらえる “最高のおもてなしを!”

外国からの来訪者を迎える一般家庭でも(ホームステイ)、先ずは開いた心と人情で、日本の田舎の家庭料理とありのままの暮らしを知ってもらい体験してもらう。

 

 この表中の職の種類はほんの一例に過ぎないものである。

要するに、共同体の中の一人ひとりは、その個性、能力、特技等々に応じて、自由に職を選べるし、さらには自由に職を創り出し、それに就くことも出来る。あるいは、いくつかを組み合わせてそれを自分の職とすることも出来る。そこには「合理化」とか「リストラ」という発想もなければ、利益を上げなくてはならないといった強迫観念も圧力もない。人間関係から来るストレスもない。なぜならそこには、いずれも小規模であるからというよりは、他者を押しのけなくては自分が生き残れないという「競争」がないからだ。一人ひとりの能力・適性・個性に基づき、一人ひとりの自由な自己決定に基づいて職種が選択でき、労働と奉仕がなされて行く場だからだ。

 このように共同体内での職は多様である。生活様式も多様となる。そしてそれを、みんなが当たり前に、互いに認め合うのである。

 ところで、この表中にある「真の公共事業」の意味、そして「公共事業」の前に「真の」が冠せられている理由は以下のとおりである。

 これまで、とくに政府省庁の官僚が進めて来た「公共」が冠せられた事業は、国民のためというよりは、むしろ公僕であるはずの官僚ないしは役人が彼ら自身の利益と都合のために設けて来た事業である。自分たちの組織を可能な限り拡大させ、それを存続させ、既得権益を維持し、「天下り」先を拡大させ、確保するためのものでしかなかった。

そういう意味で、公共事業とは呼んでも、本質は決して本来の「公共」のための事業ではなかった(「公共」の定義は第4章を参照)。

 そしてその事業は、やればやるほど、自然を壊し、気候変動を加速化させて人類と他生物の存亡を脅かしながら、国民には便益をもたらすというよりは、それ以上に、中央政府と地方政府の債務残高を果てしなく増大させ、その結果として国民健康保険料を上げさせ、大学の授業料を上げさせ、消費税を上げざるを得ない状況を作るだけの事業でしかなかった。

つまり、これまでの公共事業とは国民の生存可能性を狭めるだけの事業でしかなかった。

 しかしここで言う公共事業はそれとは正反対の性格を持つ事業である。「新しい経済」という概念に基づく、三種の指導原理に導かれる事業だからだ。

 だから、実施すればするほど、自然は蘇り、すなわち生命の多様性・共生・循環は蘇り、同時に人々の暮らしにも本当の意味で持続的な安心感をもたらし、伝統文化をも蘇らせ、誰にも将来への希望と展望を抱かせる事業なのである。

 「真の」が付き、また真の「公共」の意味での「事業」とはそういう意味なのである。

 なお、こうした仕事あるいは労働のあり方が支配的となる社会では、これまでの経済社会がそうであったような、ただ単に自営業かサラリーマンとかいった単純な職業分類などほとんど意味を失う。

一次、二次、三次、あるいは六次産業という分類の仕方も全く意味を失ってしまう。

つまり、これまで流の言い方をすると、一次産業に従事しながら二次産業にも三次産業にも従事することが可能となるからだ。労働者階級とか資本家階級といった、あるいは支配階級といった階級的呼称もなくなるし、階級社会そのものが消滅する。

資本の論理とか、支配・被支配の関係によって社会が成り立つのではなくなり、人々の生き方や考え方は、根本的には、すべて「民主主義」、さらに発展させた「生命主義」に基づいて、実践されて行くようになる。

 ついでに言えば、この社会では、「特許」という考え方も言葉も消滅する。排他的に特定の技術を独占して、それでもって巨利を上げるという発想そのものが新しい経済の理念にそぐわないからである。「資格」という考え方も、もはや意味を失うのである。だから「検定」という言葉も意味を失う。だから「名刺」も無意味化する。

検定試験を受けて資格を取ってそれを肩書きにするということなどしなくとも、小規模の地域連合体内部では、人々の間に、真の信頼性や評価は、ごまかしようもなく、自動的に定着するからである。

 なお、これらの事業に参画できるのは、いずれもその共同体内の住民であり、国外からの難民を含む移民の個人である。国内の他地域あるいは他の共同体に籍を置く住民や、他地域や他州に本社・本部を置く企業や団体は、基本的に参画できない。

 それは、その事業そのものが、原則的に共同体内部の人々が自分たちのために自分たちで計画・企画したものであり、また、その事業に参画して支払われる報酬も、すべてその共同体内に暮らす人々の納める税金によってなる事業であるからだ。したがってその事業によって実現される富も、当然その共同体の全構成員のものとなるのである。

 なおその場合、次のことはとくに重要となる。

 それは、先の「真の公共事業」の内容を企画する主体はつねに住民あるいは「新しい市民」だということである。

したがってその場合、行政職員あるいは「公務」員は、今度こそ、文字通りの真の「全体の奉仕者」に徹する。もちろんそのように役人を民意に忠実にコントロールできる政治家をも、私たち住民・国民が新しい選挙制度を通じて、主権者の責任において育てて行くのである。

そこでは、役人自らが住民の要望に基づき、現場にて、住民とともに自ら体を動かし、公共事業の目的達成のための縁の下の力持ちとなる。

もちろんそこでは、かつて、中央府省庁から、都道府県庁へ、そして市町村役場へと縦につながって上層や中央の言いなりになって来た「タテ割り」という隷属関係もすべて無意味になるし、「官官接待」などといった人間関係を卑屈と傲慢で成り立たせる悪弊も、すべて、無意味となる。

 その際、中央政府は、首相と閣僚の無能と無責任と無知ゆえに、これまで官僚たちが手中に収めて来たさまざまな公式非公式の権力と権限は、そのほとんどが地方政府に委譲・移管され、文字通り国の全土ないしは全体に直接かかわる、真に国民益につながる事業だけを行う国家の代理機関となるため、小さな連邦政府になる(第8章)。もちろんそこでは、官僚の「天下り」など、言葉そのものも消滅する。

そうした政府を実現させる使命を担うのは、「新しい選挙制度」(第9章)によって誕生して来た、民主主義を体得し主権者に忠誠を誓った新しい政治家たちである。

 なお、各共同体内でのこうした多様な職種を成り立たせ、循環経済を稼働させるのに必要な財源を自主確保するための税制については後述する(第12章)。

11.5 地域経済のしくみ————————(その3)

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         (当農園のキューリとトマト(中玉))

11.5 地域経済のしくみ————————(その3)

3)生活必需品としての「住」の確保の仕方と分配の仕方について

 これは、基本的には「食」の確保の仕方と分配の仕方についてと同様にすればいいのである。

しかし具体的にはこうだ。

 連合体内で、その土地の気候に適していて、なお建築用材にもなる樹種を選定する。

その場合、もはや杉とか檜一色の林や森にするのは止めて、照葉広葉樹をも混ぜて混交林としての植林計画と森林管理計画を立てる。その際、植物学者や生態系学者の知識を借りる。それは林や森に、広義の「生命の多様性」を実現するためである。と同時に、先述の「水」の確保のときにも触れたが、人間の手による森林の適正な管理は、結局は人間社会に自然の恵みをもたらし、人間の暮らしを安定的に維持させてくれるからである。

 立てた植林計画に基づき地域連合体の住民が手分けして協働で植林をする。また森林管理計画に基づいて、同様にして地域連合体の住民が手分けして協働で森林の整備(下草刈り、間伐、枝打ち等)をも定期的に行う。

その際、後述するミネラルおよびバクテリア群とその代謝産物を、人の手で山林に運んでは山腹の土壌に散布する。

それは「エントロピーの原理」で言うところの、地球の作動物質である栄養の大循環を積極的に促進するためである。

 そうすることで、山林の土壌をいっそう活性化させ、山の生態系は豊かになり、山の動植物をよりよく生かし、そこで生み出されたさらに大量の養分は河川を下りながら途中の河川に生息する魚類を含むすべての水生生物一般とその周辺に生息する野生生物をもよりよく生かすようになる。こうして、山から浸み出し、流れ出た河川水は、流域の人間をも生かしながら、海に流れ下るのである。そして河口域での水質をも向上させながら海の生態系をも活性化させるのである。

 しかし、こうして育てた混交林の樹種が伐採適期を迎えるまでは、暫定的措置として、過去に植林して、いま伐採適期を迎えている杉や檜そして天然の松の林から計画的に伐採する。

伐採した木材を山から下ろして、集積所に運んで集積する。

 集積所は連合体内の公共の広場に設ける。同時に、製材所も、同じ敷地内に設ける。

 このとき、山から伐採木材を下ろす機械や車、集積所に運ぶ車等は、すべて共同体が用意する。なお、最初の頃は、従来のいわゆる「重機」とか「大型自動車」を用いて搬出せざるを得ないだろうが、これと並行して、馬の力を活用して搬出できるように、地域で協働で馬の飼育と訓練をも進めて行く。

 なおこの馬は、普段は連合体内での人々の交通の手段としても活用されて行く。

それは、「新しい経済」すなわち「環境時代の経済」が実行に移されるときには、すでにこの国は目的も理念もそして形をも明確にした本物の国家の建設を目指している時であり、その国家を州とともに構成している地域連合体は、「都市および集落の三原則」に依って、どこも小規模分散型の都市または集落から成り立っているため、そこでの人々の日常の暮らしは大抵は歩いて全ての用を足せるから自動車などは誰も不要になっているのである。それに、離れた地域連合体間での人と物の移動は電車による鉄道が完備されているから、やはり自動車はもはや不要なのである。

しかしそれでも、まとまった物の運搬やら農作業にゆく時にはそれなりの手段が必要となるが、それには、自動車に代わって馬車が行うのである。

 そのようにするのにはいくつかの目的が込められている。

1つは、何と言っても自動車は、それが世界どこの国でも当たり前の「便利」な乗り物になってきた反面、莫大な量の温室効果ガスや人体に有害なガス、例えば窒素酸化物(NOx)、硫黄酸化物SOx)を排出して、地球の温暖化と人体に大きな影響をもたらしてきたが、それももう終わらせること。1つは、自動車のための道路を建設することによって、自然を大規模かつ広範囲に破壊するだけではなく、野生生物の移動を妨げ、地下水の循環を含む自然循環をも遮断してきたが、それももう終わらせること。1つは、これまで自動車が発明されて以来、自動車事故によって亡くなった人が一体どれほどいたか不明であるが、そうした痛ましい事故もう終わらせること。1つは、自動車メーカーによるモデルチェンジが次々と行われ、その結果、未来世代に残さねばならない貴重な鉱物資源が莫大な量、浪費されてきたが、それももう終わらせること。そしてもう1つは、道路を造るために、それも全く無用と思われる道路をも造るために、人々のための福祉行政や教育行政が犠牲にされ、しかも政府の債務を増やしながら、これまでどれほど巨額の税金が使われてきたことか。しかしそうした税金の使われ方ももはや止めること、等々。

 こうして、自動車社会であることを止めたなら、これまで自動車交通がもたらしてきた、様々な問題、例えば、個々の人間を自己中心主義にさせるとか、地域の人間関係を疎遠にさせるとか、人間の心身を虚弱にさせる等々の問題を含むあらゆる問題は、ほとんど一挙に解消されることになる。

 集積された木材については、その皮は機械でむき、雨のあたらない日陰で、最低でも2年以上乾燥する。この皮むき機械も公共が用意する。

 新築でも増築でも、住宅を建築する希望者には、その建築主が携える設計者に拠る建築図書に基づいて、集積所から必要樹種の材木を必要本数、設計者により算出してもらって選び出し、それを買い、買ったそれらを格安で製材してもらう。

それを製材するのは共同体が雇用した共同体内の職人または住民である。

製材機も共同体が共同体の人口に比例して、複数台、用意する。

 こうして、住居建設は、すべて、連合体内で自給できるようになる。

 建築着工に際しての必要な職種の職人も共同体が共同体として募集する(基礎工事、木組み、建て方、左官、設備、屋根工事、建具、等)。

 なお、このようにして、住民が住まいを建設するに際しては、その建築資材等については、建築主には基本的に原価だけは負担してもらう。それは、「住」は人が人間として暮らして行く上で不可欠な物であり、それだけに共同体は共同体として、住民の生存権を具体的に保障するためである。

 ところで、今後は、住居を建てるに当たっては、これまでとは違って、とくに次のことに誰もが共通に留意する必要があると私は考える。それは、地震対策と同時に、台風対策そして竜巻対策だ。

 台風対策の必要性は2019年9月、とくに千葉県を集中的に襲った台風15号が証明した。

東京電力の巨大な送電鉄塔が複数倒され、倒木によって送電線が切断されたり、電柱が倒されたり、莫大な数の民家の屋根が吹き飛ばされるなど、前例のない大惨事が生じたのだ。

 今、地球は温暖化が進んでいる。その結果、太平洋を含む地球表面の四分の3を占める海の水が暖まっている。気温が1℃上昇すると海面からの水蒸気量は7%増加するとは気象庁が発表したデータだ(NHK総合TV 2015年10月24日)。より温まった海洋の表面から蒸発した水蒸気はより多くのエネルギーを持っているため、それを巻き込みながら発達して移動する台風(あるいはハリケーン、サイクロン)は当然ながら強大化する。

 強大化するとは、影響範囲が拡大することであり、風速、とくに瞬間最大風速も増大することだ。台風15号はそのことを如実に示した。

 つまり、今後は、住居を、新築の場合はもちろん、既存の住居も、台風や竜巻に対する住居の補強ないしは構造の強化が不可避になると私は考える。今回の被害はその必要をまざまざと示した。被害に遭ってからでは遅いのだ。その時の心痛、苦労、負担、等々は、言葉では言い表せないほどのものになってしまうのだから。

 既存住宅の場合には、構造までいじるのは難しいだろうから、私が考えるさしあたっての補強対策としては、屋根を瓦屋根ではなくし、耐候性のある金属板で屋根面を構成し、その屋根面のところどころをワイヤーでしっかりとくくり付け、その両端を地中に埋設したコンクリートブロックに緊結する、という方法である。しかし台風がさった後には、それを外すのである。

 

4)生活必需品としての「衣」の確保の仕方と分配の仕方について

 「衣」、つまり着る物とか身につける物については、これまで、この国では、「食」と「住」に比べて、各地域で作ることはほとんど無くなり、もっぱら国内のどこかでつくられた物か、海外の工場でつくられて輸入された物を買って使うという方法で満たして来た。

その際も、布や生地そのものをも同じ場所で織るとか、またそれを必要な色に染めるとかいうことは為されず、それはそれでまた別の国や地域で為される、というのが一般的だった。

だからもうこの国では、地域で、地域ごとに「衣」を自給するなどということは、今や誰も考えもしない。

 しかしこれからの「環境時代」では、とくに温暖化がもっと進んだ状態下では、好むと好まざるとに拘らずそうしなくてはならなくなる、と私は考える。

 では、「衣」の自給を実現するにはどうすればいいか。

 私は、そのためには、少なくとも、過去の日本の「衣」に関する技術をどの程度各地域で再現できるのかということをも含めて、予め次のことを人々みんなでしっかりと検討する必要があるように思う。

 各地域ごとに、これからは、どのような衣類を実現すればいいか、また実現できるのか。

 とくにこれからの環境時代に相応しい、しかももはや近代欧米文化をただ真似するというアイデンティティのない、あるいはコンプレックスを持った姿ではなく、日本の気候風土や伝統の文化の上に立つ衣類とはどんな形・色・質感のものが考えられるのか、そしてそれはどのようにして実現できるか。そのためにはどういう種類の職人を地域で育てて、どのように実現して行ったらいいのか。

 また、各地域では、布になる前の糸になる材料としてどんな種類の植物が確保できるのか。たとえば、木綿、羊毛、麻、絹、その他何がありうるか。

 今もなお絹糸は確保できるか。そのためには各地域で養蚕を復活させることは可能か。

 また地域で確保できる植物性染料にはどんな種類のものがあるか。

 紡織機械はどうやって、誰が、復活させられるか。復活させ、それをさらに発展させたものを、誰が、どこでつくるのか。それとも外から買うのか。

 縫製する機械は地域で確保できるか。また確保できたとして、それを扱えるか。そしてその機械は地域で作ることができるのか、それとも買うのか。またそれらはどこに設置するのか、等々。       

 いずれにしても、連合体内で衣類を自給できるようになるためには、最低でもこの程度の検討が必要となると思われる。

そしてその検討の結果、「行ける」となったなら、その後の実現方法は、基本的にこれまでのものと同じになる。

 

5)生活必需品としての「電力」については、どう確保し、どう供給するか。

 なお電力は本質的にエネルギーそのものであるが、ここでは、便宜上、燃料等のエネルギー資源とは分けて考察する。

 言うまでもないが、再生不能資源を用いた発電やヒューマン・スケール(身の丈)を超えた仕方に拠る発電は最初から考えない。つまり、壊れたり故障したりしたなら、その場で人の手で直せる機械や装置による発電方式でゆく。したがって、原子力発電はもちろん、LNGや石炭を用いた大型火力発電も、そして、いわゆるソーラー・パネルに拠る発電も考えない。

また、はるか離れた場所で発電された電力を送電してもらって電力を確保するという考え方も採らない。

 なお世界では、自然エネルギーによる発電方式としてはソーラー・パネルによる発電方式が最も一般的だが、日本ではそれによる発電は考えないとする主たる理由はこうだ。

1つ。ソーラー・パネルは、平地に、広く設置することで効果を発揮しうるが、日本は、その国土の大部分が山岳地帯または丘陵地といった傾斜地であるゆえ、そうした設置方法が採れないし、また馴染まない。1つ。その国土の大部分を占める山岳地帯または丘陵地は森林地帯でもある。その森林は、それ自体が大量にCO2という温室効果ガスを吸収してくれるし、多種類の生命を生かしてくれる最大の生態系だ。したがって、もしそうした森林を壊して、その斜面にソーラー・パネルを設置するということにしたら、それは温暖化防止という観点からも、またこれからは、これまでに破壊された生態系を蘇らせなくてはならないという観点からも、全く本末転倒になる。そしてもう1つの理由は、やはりそれはヒューマン・スケールによってできた工業製品ではないことによる。ソーラー・パネルはひとたび漏電等による故障ないしは飛来物等によって破損したなら、人の手では修理できず、全取っ替えせざるを得なくなるからだ。それは資源の浪費とゴミの増大を強いることである。

 ただし、ソーラー・パネルは用いないが、同じ太陽光を利用するにも、その光と熱でパイプ内の水を沸騰させ、その蒸気圧でタービンを回して発電させるという発電方式は十分に可能だ。身の丈の技術であるからである。

 要するに、これからは、電力も身の丈の技術によって自給自足してゆくのである。

 なおこの方針についても、たとえば、既述の台風15号に因って、とくに千葉県を中心として、電力供給面について、多くの人々が具体的にどういった被害に遭われたかを理性的に直視すれば、自ずと納得ゆくのではないだろうか。

その被害地域が頼っていた電力は遠く福島県の大型火力発電所が起こした電力だった。その電力が、途中、いたるところで電線が寸断されたのだ。その範囲があまりにも広いため、具体的にどことどこで断線しているか、東電はかなり長い間正確に把握できなかった。把握できていないのに東電は例によって被害住民には甘い見通しを立てて見せた。実際に電力供給が完全復旧するのには2週間もかかってしまった。

 今日の私たちの暮らしは、何から何まで電力への依存の上に成り立っているがゆえに、電力が途絶えると「水」さえもが止まってしまって、生活どころか生存さえ不可能になってしまう。

したがって電力に対する安全保障は水に対する安全保障と同程度に重視しなくてはならない。  

 ということは、もし、電力が途絶えたとなった場合、何が原因であるかが直ちに発見でき、人の手で直ちに復旧できるようになっていなくてはならない、ということだ。

そのためには、発電場所が遥か遠方であったり、しかもそれが複雑で巨大設備になっていたりするという状態は、決して安全の保障にはならないのだ。

 とにかく、日本が、あるいはその中の各地が自給自足的に電力を確保しようとするとき、何も世界の潮流に乗ることはない。それぞれの国はそれぞれの特殊事情や固有の事情を考慮した上で発電方式を選定すればいいのである。自立し、自律し得る独立国ならそれは当然であろう。

 日本も、またその中の各地も、それぞれが置かれた地形的かつ自然環境的な特殊事情や固有の事情を最大限活用して、その地に合った発電方式を採用すればいいのである。

そしてできる限り安定した電力を確保するために、それらを複合的に組み合わせればいいのである。

 ということで、日本列島の持つ特殊性を考えたこの国に相応しいと思われる発電方式にはおよそ次の種類のものが考えられるのではないか、と私には思われる。

① 水力、それも河川の水や農業用水路を流れる水を利用した小規模水力発電

② 森林から出る間伐材を燃焼させることに拠る発電

③ 太陽光を利用した既述のもう一つの方式に拠る発電

④ 人々の日常の暮らしから出るゴミを燃やすことに拠る発電

⑤ 風力を利用した発電

⑥ 地熱を利用した発電

⑦ 波力を利用した発電

 なお、ここまでは、各家庭あるいは各産業で用いる電力の確保の方法についてであったが、都市と都市との間での大量輸送手段としての電車を動かす電力については、関係諸都市の間での公共発電事業の中で生み出されるべきものと私は考えるのである。

 なお、以上7種類の発電方式のうち、熱の力で発電する方式については同様に当てはまることであるが、その時、せっかく得られた高温の熱は、最後まで、ということは、高温の熱から低温の熱になるまで最大限に有効に使い尽くすのが理にかなっている。

それには例えば次のようにする。

 その熱を先ずは発電に用いる。その時タービンから出るまだまだ十分に高温な熱はそのまま捨ててしまうのではなく、大量の水をお湯にするのに用いるようにするのである。

そうして得られた大量のお湯は、地域の各家庭にパイプを通じて配給し、たとえば、台所で、風呂で、床暖房で、と利用するのである。

 これは既にある「コ・ジェネレーション(熱電併給)」と呼ばれる考え方で、せっかくの高温として得られた熱を、発電するだけで捨ててしまうのは余りにももったいないから、その熱を周囲の環境(大気あるいは土壌)と同温になってもうこれ以上は利用できないという温度になるまで、“しゃぶり尽くそう”という発想に基づくものである。

 この「コ・ジェネレーション」というしくみについては、この国でもかつて、一時期、民間企業の間では脚光を浴びたが、いつの間にか廃れてしまった。これも、結局は、原子力発電を進めたかったこの国の電力独占会社と通産省(当時)の官僚のもくろみによって潰されてしまったのではないか、と私は推測するのである。

 

6)生活必需品としての「燃料」および「エネルギー資源」については、たとえば次のようにして確保し、供給する。

 先ず燃料等のエネルギー資源を用途別に分類すると次のようになる。

①煮炊きおよび暖房用に用いる薪、油、ガス

②自動車および重機を動かす油

 これらも、原則として、地域連合体内で自己完結的に自給するのである。

これらを、共同体の各家庭に対して、「環境時代の暮らし方として適切な水準」と共同体がみなす生活水準を維持するのに必要十分な量を、その家族構成(人数、年齢、障害の有無と程度)に応じて、原価で、供給あるいは分配する。

 もちろんその水準を上回る暮らしを維持するための燃料および電力の費用は、各自が負担する、とする。

そこで①の確保と供給の仕方について。

 薪については次のようにする。

「住」の確保の方法のところで述べて来た方法に準じて確保する。

 地域連合体内の森林を既述のように計画的に管理育成しながら、適宜間伐した木材を活用するのである。そしてそれを、次の要領で、一般家庭に「薪」として供給する。

 先ずは、連合体内で、薪を暖房用として用いている住戸のすべてが、晩秋から冬そして初春までの期間で必要とする総薪重量を計算する。

 その全量を賄える量の間伐材を、林業家の指導の下に、夏場、奉仕に参画してくれる住民が主体となり、それを公務員が補助する形で、山林にて確保する。

その間伐材を、山から麓に下ろし、定まった貯木場に集める。

住民の中から奉仕者を公募し、彼等の力で薪割りをし、それを天日乾燥させる。

そして乾燥させたそばから、雨の当たらない場所に貯蔵する。

寒さが来る頃、とくに暖を早急にも必要とする家庭を優先的に、定期的に配給して行く。

 その配給作業員も一般住民から公募する。

 油については、次のようにする。

既述した「食」を確保する方法について述べて来た方法に準じて確保する。

要するに、植物のタネから確保するのである。具体的には、小松菜・ベカ菜・辛し菜等の黄色い花の咲くいわゆる「菜の花」野菜のタネ、ひまわり、ゴマ、エゴマ、そしてオリーブが考えられる。それらを、適宜、一般家庭に、食用油と燃料油とに分けて、分配するのである。

 ガスについては、次のようにする。

それは、家畜と人の力を借りて確保するのである。

酪農で大量の家畜(牛、馬、豚、鶏等)を飼うことによって出る屎尿と、私たちが日常生活を送る中で排泄する人糞(屎尿)とを集めて、それらを醗酵させることにより、その醗酵過程で得られるメタンガスを活用するというものである。

 それには先ず、地域連合体として、次の手順で実現して行く。

 全住戸と地域の産業が使用する毎月の平均総ガス量を把握する(これは、連合体の役所が行う)。

 連合体内の酪農家の飼育する家畜が毎日出す排泄物の平均総量を把握する(これも、連合体の役所が行う)。その情報は、各酪農家から提供してもらう。

 連合体内の人々から提供される毎日あるいは毎月の屎尿の平均総量を把握する(同上)。

それらの総量から、季節ごとの平均気温を考慮しながら、醗酵して得られる一日当たりのメタンガスの量を算定する。

 そのメタンガス総量が連合体内の総需要の何%を満たせるかを試算する。つまり、メタンガスの自給可能率を算定する。

 満たせない分は、酪農として飼育すべき必要な牛や豚や馬の頭数または鶏の羽数を増やすか、あるいは、やむを得ない措置として、従来のボンベに詰めたLNG液化天然ガス)あるいは都市ガス(プロパンガス)を地域の外から取り込んで利用するかを、連合体の議会が、住民の意見を公正でかつ公平に聞き取りながら、議論して決め、その結果を役所に結果どおりに執行させる。

 連合体内の酪農家から回収した家畜の糞尿と、住民から毎日回収した人糞を貯めておくバイオガス・プラント(醗酵装置)としての貯蓄槽を、その容量に応じて、必要個数、連合体内に適宜配置して建設する。

その際、醗酵を早められるように、プラント周囲の土壌を保温し、また断熱もする処置を施しておく。

その際の電力は、後述する地域の自然エネルギーから得た電力に拠る。

 そのプラント建設要員と、糞尿や屎尿を回収してくれる要員とを、連合体への奉仕者として、住民の中から公募する(この公募も、連合体の役所が行う)。

 毎日、連合体内の住戸を巡回して屎尿を回収して回り、それをプラントに運んで注入する。

 一方、発生したメタンガスをボンベに加圧して詰める。

 詰めたボンベを貯蔵すると同時に、必要本数を、必要な住居に分配する。

なお各戸への分配の仕方としてはボンベによる分配の他にパイプラインによるという方法も考えられる。その場合には、そのパイプに併設する格好で電話線や電線をも一緒にすれば、集落や小都市の街や道の景観は格段にすっきりして美しくなる。

 またメタンガスが得られると同時に得られる液体は、野菜や米を確保する上で有効な、良質の有機肥料としての「液肥」にもなるので、希望農家には、それも分配する。

 なお、このシステムを稼働させれば、従来の公共下水道とか合併浄化槽という発想も設備も不要となる。それは、これまで定期的に行って来た「消毒」という管理も不要になり、薬物が含まれた毒水が河川に放流されることもなくなり、河川を取り巻く自然はそれだけ早く蘇って行くことにもなるのである。

 ②については、前述した方法で確保できるからそれを供給する。

 

 なお、ここで、さらに、これまで当たり前のように呼ばれて来た、頭に「公共」と冠された水道料金、電気料金そしてガス料金というものについても考えておく。

 結論から言えば、「新しい経済」ないしは「環境時代の経済」のシステムの中では、これらはすべて消滅する。

水道料金については地方公共団体が管理しているからともかく、とくに電気料金については、これまでも、明らかに「公共」料金などではなかった。「公共」料金などと呼ばれること自体、間違いだった。

なぜなら、電力会社は本質的に営利企業であって公的企業ではないからだ。そんな企業に支払う料金が「公共」料金などであるはずもない。

そうでなくとも、これまで、日本列島を9分割しながら電力の地域独占販売を許されるということ自体、「独占禁止法」に明らかに違反しているのである。

ところがこんなことがまかり通ってしまうのも、電力会社が国の中央政府の省庁(かつて通産省、いまの経済産業省)の官僚と結びついて、お互いに互恵の関係を保っているからだ。

 経産省の官僚は、電力会社の経営が実際には独占禁止法違反なのに、それについては目こぼしをしては電力会社に恩を売り、その代わりに破格の好条件で電力会社に「天下り」させてもらう、というものだ。しかしそれはそれで、天下りを受け入れた電力会社としては、その「元通産官僚」を通じて、彼の古巣の政府の当該省庁が今、そして今後どんな電力政策を考えているのかという情報をいち早く入手できて経営に活かせるからだ。

 

 なお、「経済」の概念の中には直接的には含まれない「教育」関係や「医療と看護と介護」の関係の仕事については、次節での「真の公共事業」の中で考察する。

ただし、この両者に関わる教育費と医療介護費については、この「新しい経済」の下にある地域連合体に住むすべての住民は無条件にすべて無料とされる(12.5節)。

 

 ところで、ここで、次の観点から、私たち人間が「消費」しているエネルギーについて考えてみる。

 生物としてのヒトが一人、その生命を維持するのに必要なカロリー数は、平均的な人間についてみれば、一日当たり2000カロリーとされている。

 ところが、自動車や電化製品や食品などを製造あるいは生産するに際して私たち一人当たりが一日に使って、二度と利用できないエネルギーにしてしまう(これを一般に“消費”と言う)エネルギーは、カロリー換算で約20万カロリー。

 つまり、今日の「文明人」は、一人当たり、毎日、生きるのに必要なエネルギーの100倍ものエネルギーを使って「豊かさ」を享受しているのである。しかもその過程で、同時にエントロピーという汚れを発生させ、また増大させてもいるのである。

 農業に関して言えば、今日の農法に拠ってつくり出される農業生産品の一つであるトウモロコシの缶詰を例に採ってみた場合、たった270カロリーのその缶詰一個を生産するのに、農夫がかけるエネルギーとしてのカロリー数は実に2790カロリーである。その大半は、農業機械を動かすのに必要なエネルギーと、合成化学肥料および農薬を生産し輸送し散布するのにかかるエネルギーとで占められている。

 つまり、消費エネルギー単位で見れば、農夫一人が馬または牛一頭と鋤一本で耕していた方がはるかに生産効率は高い、ということがはっきりするわけである(ジェレミー・リフキン「エントロピーの法則」祥伝社 p.167)。

 このことは何を意味し、これから何が判るか。

要するに、ここで考える地域経済のしくみの中で目ざす、「多人数による多品目の、できるだけ手作業による必要量生産」方式に要する消費エネルギーは、これまで、とくに近代の後半では当たり前となって来た、別名「オートメーション」システムと呼ばれる「少人数による少品目の、機械化による市場向け大量生産」方式による物品の生産時の消費エネルギーと比べたなら、圧倒的に少ない消費エネルギーで済むということを意味していて、それは、圧倒的に少ない消費エネルギーでより多くの人々を生かすことができる、ということを意味している。

 しかもそれは同時に、発生するエントロピーの量も格段に少なくて済むということをも意味する。

 今、人類は、その人類が大量にエネルギーを消費することで発生させてきた温室効果ガス(エントロピー)に因り、地球規模の温暖化という事態を招き、人類は自分自身を存続の危機に直面させている。そしてやっとCOP21(2015年暮れ)では「パリ協定」成立にこぎ着け、今世紀後半には温室効果ガスの排出量を実質的にゼロにするという国際的取り決めが発効した。

 しかしそれを実現させることは、今の経済システムの中では、非常に困難である。というより、資本主義経済とそのシステムを維持し続けている限り、不可能であろうと私は見る。

それにもはや、パリ協定の取り決め内容では1.5℃以内に押さえるという目標は不可能であることがはっきりして来ているのだ。

そんなとき、「多人数による多品目の、できるだけ手作業による必要量生産」方式を基本とする、ここに考察して来た地域化された経済のあり方は、「パリ協定」の実現の可能性を高める上で、というよりも、遥かその先を行って、人類の末永い存続をも可能とさせるきわめて有力な経済システムのあり方ということになるのではないか、と私には思われるのである。

 

 なお、既に明らかと思われるが、ここで提案して来た新しい経済の具体的な姿としての「地域の経済」のあり方は、これまでの社会ではいつの間にか「当たり前」とされてきたさまざまな資格制度や検定制度のすべてを無意味化ないしは不必要化する。

元々、そうした資格制度や検定制度は、中央政府の各府省庁の官僚が、その「天下り」先あるいは「渡り鳥」の先を確保するために、政治家のコントロールがないのをいいことにして、闇権力という、国民の見えないところで許されない権力を行使しては、一見もっともらしい理屈をそれぞれに付けては数えきれないほどの数の財団法人とか社団法人を作り、そこに運用を任せてきたものだ。たとえば、行政書士、宅地建物取引主任、英検、等々の全てがそうだ————民主主義議会政治の本来の姿からすれば、国会議員が、国民の声を聞き、またその時の社会の風潮を考慮して、国内にどのような資格制度や検定制度を設けるべきかを、国会で議論して、定め、それを政府の総理大臣をして執行させるべきだったのだ。だが、国会議員は、既述の通り、本来の使命である官僚をコントロールするなど一切せず、むしろ官僚に権力を丸投げして、放任してきたのだ————。

 地域連合体という狭い地域ではそのような資格や肩書きは必要なく、あくまでも人々の間での「眼の届く関係」としての「信用」がもっとも確かなものとなるからである。

それに、ここでの「地域の経済」のシステムの中では、これまで全国共通の制度あるいは世界的制度ともなってきた、利益を独占するために権利をも独占することを国家が認めた「特許」制度も、もはや、すべて無意味または不必要となるのである。もちろん「人工頭脳(AI)」などという技術についても同様である。これなど、ヒューマン・スケールをはるかに超えるだけではなく、人間によるコントロールさえも効かなくなる技術なのだ。

 

 とにかく、この「新しい経済」の中の「地域の経済」での物の生産方法とは、地域外から持ち込む資源は最小にして、エネルギーは地域で自給しながら、その地域内の多くの数の人が、自分で鍛え、磨き上げては所有している知力・体力・技に基づく得意分野において、一人当たりは少しずつではあるが、自分の頭と手足を動かしてその地域の人々が本当に必要としている物を作るのである。

その意味で、この「新しい経済」におけるものの生産方式はこれまで「近代」を支配して来た物の主要な生産方法であるいわゆる「オートメーション・システム」による生産方式とは正反対の「大衆による大衆のための生産方式」と言える。

 そこでは、作者一人ひとりは、作るその一つひとつに精魂を込め、使う人の身になって、使い勝手が良く、美しく、洗練されたものとして仕上げる。出来上がったそれは、どれも、文字通り世界にそれしかない物となる。他と比較のできない、掛け替えのない価値ある物となる。当然そのような物は、使い手に、作者の手のぬくもりと思いを伝え、使い手は、それを使い込めば使い込む程に手に馴染み、たとえ古くなっても、いえ、古くなればなるほどそのものへの愛着を深め、ずっと手元に置いておきたくなる逸品となる。

だからそこでは、すでにある物を少しだけ形か中身を変えては、コマーシャリズムを動員して、消費者に売りつけようとするオートメーションによる大量生産システムの下でのように、「モデルチェンジ」などといった発想は出てこないし、意味を失う。

それに、こうして作られた物は、どれも、それが壊れたり故障したりしても、作り手にかかれば、たちどころに直してしまう。ところが、これまでの大量生産方式によって出来た製品の場合には、技術者といえども修理もできない。畢竟、「全取っ替え」となる。

 つまり資本主義的なものの生産方式は、資源やエネルギーの大量浪費を強い、川や海を汚し、人を含む生命一般を生きられないようにしてしまう。

 一方、ここで述べてきた「新しい経済」の中での「地域の経済」での物の生産方法によれば、作られた物が、使い手一人ひとりについてだけでなく社会としても富としてむしろ蓄積されてゆくようになり、同時に生態系という環境も急速に蘇ってゆくのだ。

 

 ところで、この「大衆による大衆のための生産方式」は、生産過程に大量の人々を必要とすることから必然的に「大量の雇用を実現」しうることにもなる。ただしその場合雇用するのはあくまでも地域連合体という共同体である。だからその場合も、これまでの単なる「雇用」という概念とは大きく異なる性質のものとなる。それは、その仕事に就くことで、その人は自身を人間として成長させ開花させ得るようになるからである。

そしてこの「大衆による大衆のための生産方式」は、今、世界の資本主義経済国が最大の社会問題の一つとしている「失業」あるいは「格差の拡大」という難問をも自ずと解決して行ける方法でもあるということである。

もちろんこの経済では、仕事に従事する上では、男女の差別も、国籍の違いも、肌の色の違いも、信教の違いも問わない。

 

 概略的ではあるが、以上が私が考える「地域経済のしくみ」の具体的な内容となる。

 しかしここで補足的にではあるが、こうした経済のしくみを国内の各地域に実現する上では特に重要なことと私には思われることについて述べて、この章を閉じたいと思う。

それは、これまで述べてきたことすべてを思い返していただければすぐにもわかると思われるが、特にこの国では、こうした経済のしくみが国内の各地域において実現されるためには、次の三つの条件が叶えられることが必須である、ということである。

 1つは、主権者である地域住民一人ひとりが、自分はこうした社会に暮らしたいと主体的に切望し、また決意できること。

そのためには、これまでの生き方と、ここで述べてきた生き方とどちらが人間的な生き方となるか、どちらが生きるに値する生き方となるか、を、じっくりと比較してみることではないだろうか。

これまでの生き方とは、例えば、満員電車に長時間ゆられて通勤し、家庭を顧みることなく、夜遅くまで働く毎日。家庭では家族揃って夕食をとることもなく、家族関係がバラバラになってゆく生活。誰もが自由な時間もない。子供の受験や進学のための金を蓄えなくてはならない生活。子供たちは子供たちで、偏差値で選別される教育。老後の生活のための蓄えもしなくてはならない。いざっとなっても、政府はもちろん、誰からも助けてももらえない不安を抱えた毎日。そうなったら、人並みから排除されてしまうのではないかという不安。何事も効率を競い、競争を当たり前とする社会。他者への思いやりを忘れた社会。頼れるのは金だけだとして、とにかく「今」を切り詰め、誰もが万が一に備えなくてはならない社会。・・・・・。

 2つ目は、そうした住民の意思を、国民の代表である政治家が、他人任せ、特に官僚を含む役人に国民から負託された権力を丸投げしては依存し、任せるのではなく、国民の利益代表であるとの自身の役割と使命をもって真摯に汲み取り、それをどのような方法と手順で実現するか、国会にて、その際、必要に応じて関係分野の本物の知識人としての研究者や専門家の助言を仰ぎながら、役人は一切介入させずに、政治家同士で徹底的に民主的に議論し、日本国の公式の政策として議決すること。

 3つ目は、議会で決めた国策が、その通り執行されるために、国会と中央政府の全政治家が協力し合い、総力を挙げて、戦後ずっと当たり前とされてきた各省庁間の「縦割り」を廃止するとともに、総理大臣と閣僚が配下の全府省庁の官僚を人事権と罷免権を持ってコントロールするようにし————日本国憲法第15条の第1項に依る————、日本国を真の国家、統治の体制が整った国家として国民に実現して見せること。

 この三条件が揃わなければ、たとえ今後、温暖化が加速してゆき、前例のない大惨事が続出する中、様々な政治と行政の改革案が様々な人から提案されてくるだろうが、そのどれも、官僚とその組織の抵抗に遭い、実現できないままとなる、と私は確信する————2009年、民主党が政権を執り、鳩山政権が公約を実行した時、いかに官僚たちがそれを阻んで、鳩山氏自身を首相辞任に追い込んだか、思い出すべきだ————。

そうなれば、この国はいつまで経っても自立も自律もできない国、本物の先進国の真似をして付いて行くしか能のない、情けなく、みすぼらしい国、世界から見れば価値のない国で終わるしかないであろう。

 

11.5 地域経済のしくみ————————(その2)

 

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           (当農園のトマト(大玉))

11.5 地域経済のしくみ————————(その2)

 ところで、共同体としての地域連合体内で「新しい経済」を実現させ実施する際、その理念に照らし合わせてみたとき、生産物の「分配」の面においても、とくに大切にしなくてはならないことがある。

それは、「新・人類普遍の原理」を指導原理の一つとするということから必然的に言えることではあるが、共同体に対して協働して納税をするすべての家庭に生活の糧を供給する際、生存必需品の分配と生活必需品とでは、その対価に差を設ける必要がある、ということである。

 つまり、生物としてのヒトが生きて行く上で絶対に不可欠な「食」や「水」という生存必需品の分配と、生存必需品とまでは言えなくとも、人が人間として暮らして行く上で欠かせない生活必需品である「住」「衣」そしてその「住」「衣」を支える「燃料(とくに薪)」「エネルギー(電力とガス)」の分配とでは、その分配に支払う対価は当然区別され、両者の間には差を設けなくてはならないということである。

たとえば、前者の物品の分配に対しては無料またはほとんど無料にし、後者の物品の分配に対しては原価を負担するだけでよいとする、というように。

そこで言う原価とは、それらを「生産」し「製造」し、「分配」あるいは「供給」するのに実際に要した費用に基づく価格という意味である。

 繰り返すが、ここで考えている経済と経済システムの下では、資本主義経済あるいは市場経済とは違い、「利益」「収益」というものは考えないのである。

そしてこのことは、この国の与野党の政治家という政治家すべてがその意味を明確化するどころか、その条文を今や完全に空文化または死文化すらしているこの国の現行憲法第25条の言う「全ての国民は」「健康で文化的な」「最低限度の生活を営む権利」としての「生存権」を、ここでの「新しい経済」は、すべての国民である地域連合体住民に確実に保障することを意味する。

 

 さて、農業・林業・畜産業そして水産業と、工業・商業・サービス業の間での調和した経済システムの構築の仕方は以上の方法によるとして、ではそれによってできた経済システムの中で、上記の生存必需品と生活必需品の生産および分配はどのようにして実現されるのか。

 次にそれを考える。

確認するが、その場合、生存必需品と言えるものは、「水(飲料水)」「食」であり、生活必需品と言えるものは「住」「衣」であり、またその、その「食」と「住」「衣」とを支える「燃料(とくに薪)」「エネルギー(電力とガス)」である。

 そこでこれらを順番に考察して行く。

1)先ず生存必需品としての「水(飲料水)」の確保の仕方と分配の仕方について

 「水(飲料水)」については、「食」と同様に生物としてのヒトには絶対不可欠なものである。それと同時に水は、地球が熱化学機関として健全に機能し続けることができるための作動物質(3.2節)としても決定的に重要なものである。

 ところがその水についての状況は、日本だけではなく、世界でも、近年、すでに危機的な状況にある。それは、人間による河川や湖沼の汚染によるものであり、それがまた海にまで及んでしまっているというのがその一例だ。また気候変動に因ってかつてない大干ばつが地球上のいたるところで生じたり、またそれまでは水源となって来た氷河が、多くの場所で融けるだけではなく消滅してしまったりして、その結果、飲料用の淡水が圧倒的に不足してきていることに因る。そのため、生態系は劣化し、風景も一変してしまっているところも多い。

 幸い、私たちの国は未だこれほどの事態には至ってはいないが、しかし、私は、農業をしながら感じるのであるが、日本も、近年、干ばつと言える状況が発生し始めて来ているように思う。それは雨の降り方の変化からそう感じるのである。

 少なくとも私が農業に従事し始めた20年くらい前まではそんなことはなかったが、今では、雨が降らないときには、畑の野菜の根っこの附近まで土壌がカラカラになるほどに降らないという状態が続くことがある。その一方、一旦降るとなれば、まるで砂漠のスコールかというような様相を呈し、畑の土壌のうち栄養的にもっとも肥えた表土が押し流されてしまうほどに降るのである。

 こうした気象の激変により、野菜栽培も、そして聞くところによると果樹栽培も、これまで以上に栽培管理に手がかかるようになって来ている。

 ところでこの国は、国土の67%———今でもそうであるかどうかは疑わしい———が森林に覆われた傾斜地であるが、その森林が、実は今やいたるところ荒れ放題となっているのである。それは、既述したように、それなくしては国民は生きることさえ出来ないモノを供給してくれる産業の1つである林業が工業あるいは工業を中心にして設けられているシステムに否応なく従属させられ、つねにその犠牲にされて来た結果なのだ­­­­­————例えば、値段が安いからというだけで外在を輸入しては、国内の林業を成り立ち得ないようにしたというのがその一例だ————。

 例えば朝倉市で1時間に129.5ミリというとんでもない降雨があり、前代未聞の被害を出した「九州北部豪雨」であるが、それがあれほどの被害を出したのも、ただ単に豪雨のせいではないと私は思う。むしろ日本の森林がきちんと管理されていなかったということが最も大きな理由なのではないか、とさえ思う。実際、被害地をTVの映像で見る限り、流木はほとんどが直線材であることから樹種は杉か檜といった針葉樹と思われる。それも間伐もされていないらしく、ヒョロヒョロの木だ。それでは根の張り方も狭く、また浅い。

 豪雨などに強い森林にするには、宮脇昭氏が強調するように、針葉樹だけではなく、根を広く、また深く張る照葉広葉樹も混ぜた混交林とすべきなのだ。そして下草刈りも間伐も適宜やる。そうすれば、山肌の保水力も格段に上がる。それは豪雨に強くなることだ。

 ところが日本中の人工林ではそれが出来ていない。農林水産大臣はそうした状況を放置しっ放しだし、国土交通大臣は無関心なのだ。というより、大臣という大臣は、全て官僚任せにし、官僚のシナリオに乗っかるだけの操り人形なのだ。

 だから土壌の保水力の乏しくなったそこへ大雨が降れば、土中に浸透した雨は、そこに蓄えられることなく山肌の土壌と一緒になって流れ出してしまう。それが土砂崩れである。そこには当然大小様々な岩石も混ざる。

 その岩石の混ざった大量の土砂は、河川に流れ出れば、土石流となって一気に河川を下る。その時はかつて建設省が上流や中流のいたるところに設けてきたコンクリート堰堤や砂防ダムなどアッと言う間に土砂で埋め尽くしてしまう。水力発電所のダム湖の湖底もたちまち浅くして貯水能力を激減させてしまう。

 こうなるのも、森林を先ずきちんと管理して、山、とくに源流域や上流域の森林を強固にすることに目を向けず、国土交通省農林水産省林野庁)がバラバラに自然を「統治」して来た結果だ。そしてこれも、この国の政府の府省庁間の、“他の省庁の管轄に踏み込まない”ことを暗黙の了解事項とする「タテ割り制度」がもたらしたもので、結局はこの国が「合法的に最高な一個の強制的権威によって統合された社会」としての国家には未だなっていないからだ。

 こうした上中流域の森林の事情は、とくに夏場など、少しの間雨が降らなければ、すぐに川の水を枯らしてしまうか水量を激減させてしまうことを意味する。

 それは河川に棲む水生生物に対してはもちろん、中流下流域での水田での稲作にも深刻な影響をもたらすことになる。そして同時に、都市部の人々が生きるための水瓶であるダム湖の水量にもたちまち危機的状況をもたらすことにもなる。

 私たち国民は、この国の命の「水」は今こうした状況にある、ということを知っておく必要がある。

 そこで、ここでの主題である、「水」を巡って、今後想定される巨大台風や集中豪雨あるいは干ばつ等のいずれにも対処できるようにするにはどうしたらよいか、ということになる。

それはまた、「飲料水」はどのようにしたら安定的に確保できるか、地球が熱化学機関として健全に機能し続けることができるための作動物質(3.2節)としての水の自然循環は、どのようにして安定的に維持するか、ということでもある。

その際の基本的な考え方は、それぞれの河川の流域に暮らす人々が、祖国を愛する国民として、その河川の源流域での森林を、主体的に、協働で整備し管理することから始める、ということだと私は考える。それを「真の公共事業」(11.6節)として行うのだ。

それは、「森林は農林水産省の管轄域」、「河川は国土交通省の管轄域」などといった官僚の側の都合でつくりあげられてきた、何ら法的裏付けのあるものではなく、単なる慣例でしかない「タテ割り」という自然や社会をバラバラに分断統治する行政制度のあり方がもたらした現状をことごとく克服するための事業である。

 それを成功させるために、今度こそ政治家が住民の利益代表として、住民の先頭に立ち、具体的にそれをどう進めるか住民の声を公正かつ公平に聞き、それに基づく最善の政策ないしはシステムを議会で決めるのだ。そしてそのシステムの下で、地域連合体のみんなで協働して「水」を守り、また確保するのである。

その際、執行機関である役所の役人は、公僕として、主権者のその働きに奉仕する役に回るのだ。

2)生存必需品としての「食」すなわち「喰い物」の確保の仕方と分配の仕方について

 その際の基本的な手順は次のようになる。

手順の第1:地域連合体内で確保できる品目を可能なかぎり拾い出す。

手順の第2:得られると判った喰い物のうち、どの品目が生存必需品に属し、どの品目が生活必需品に属するかを選別し、整理する。

手順の第3:地域連合体の全住民の数と構成を考慮しながら、その人たち全員が少なくとも1年間を通じて、生きて、暮らして行けるための必要十分な各品目ごとの量または数を、質をも考慮しながら算出する。

手順の第4:それらの生産方法または確保方法を検討し、計画を立てる。

その際、他の地域や世界で行っている方法を単に真似をするのではなく、あくまでもその土地に固有な地理的、地形的、地質的、気候的、気象的、人口的、人口構成的、文化的、歴史的な諸条件や諸状況に着目し、その諸条件や諸状況を最大限生かすようにして生産する。

それでもどうしても実現することが不可能な場合、そのとき初めて他地域の方式を導入することを考える。

手順の第5:生産ないしは栽培の実施。

ここには、収穫までのすべての管理作業が含まれる。

手順の第6:生産物の収穫。

手順の第7:収穫物の住民各個人または各所帯への分配

その際、各個人または各所帯ごとに分配される生存必需品の種類と量、生活必需品の種類と量を、予め決められていたとおりに区分けする。

 

 以上が基本的な手順であるが、具体的には次のようになる。

手順の第1について

1.地域連合体の全人口の実態把握

 その地域連合体(以下、単に連合体と記す)に属する全人口とその年齢構成と一人ひとりの健康状態を調査する。

2.地域連合体内で必要とする品目、確保できる品目を可能なかぎりの拾い出す。

ただし、その場合、「三種の指導原理」からも明らかなように、農業と林業と畜産業と水産業のいずれであれ、化学的に合成された農薬あるいはそれに類する薬物は一切用いないで得られるものに限って拾い出す。

また、その場合、農業における栽培法においては、化石燃料を燃やして加温しながら栽培する、いわゆる「施設」の中での栽培という方法を採らず、あくまでも直接の太陽光の下で栽培する「露地」栽培を基本として、そこから確保できる品目だけに限定する。

また、まさかの時の補助的喰い物をも拾い出す。「まさかの時」とは、凶作時や干ばつや台風等の自然災害に因り予想外に確保できなかった時をさす。

 なお、ここでは「喰い物」の中には食用油をも含める。

 そこで農業分野から期待できる「喰い物」とはざっと次のようになると考えられる。

穀類、野菜、果実、キノコそして食用油の原料となる植物である。

穀類、野菜、果実についてその具体的な産物を挙げると次のようなものになる。

 米、麦(とくに小麦)、ソバ、ヒエ、アワといった穀類。

 小松菜、ほうれん草、ベカ菜、辛し菜、キャベツ、ブロッコリー、白菜、セロリ、シソ、モロヘイヤ等の葉物野菜。

 ジャガイモ、玉ねぎ、サツマイモ、大根(各種)、ニンジン、カブ、里芋、ヤーコン、レンコン、コンニャク等の根菜類。

 キューリ、ナス、トマト(各種)、ピーマン(各種)、カボチャ、苦瓜、白瓜等の果菜類

 さらには、リンゴ、柿、梅、ブドウ、スイカ、イチゴ、ナシ、サクランボ、キウイ、ブルーベリー、ミカン、プルーン等の果物類。

 食用油になる植物としては、小松菜、ベカ菜、辛し菜等の黄色い花の咲くいわゆる「菜の花」野菜のタネ、ひまわり、ゴマ、エゴマ、そしてオリーブ。

なお、食用油は同時に「燃料」にもなりうる。「燃料」とは、暖房に用いる際のもの、台所での調理に用いる際のもの、風呂を沸かす際のもの、その他農耕用や木材搬出用を含めた自動車用と重機用のもののことである。

 林業分野から期待できる「喰い物」とは、たとえば各種キノコ類、タケノコ、クリ、クルミ、山ブドウ、トチの実、アケビ、蜂蜜、蜂の子等々であろう。

 畜産業の分野から期待できるものは、家畜の肉、乳類、玉子類であろうか。

その際、飼育できる家畜の種類としては、豚、鶏、牛、馬、羊、山羊等となろう。

なお、これらの家畜の中には、皮革、羽毛といったものをもたらしてくれるものもあるし、馬のように、ゆくゆくは農耕に、あるいは連合体内での交通手段となってくれるものもある。

 水産業の分野からは、その地域が海辺であれば、魚介類等の海産物のすべてが、内陸部で、河川であれば、可能な限りの種類と量の淡水魚類とその他の水生生物全般ということになる。

ただしその場合、河川という河川は、地域の住民が「真の公共事業」の一環として総出で参加して、きちんと「整備」しては「浄化」し、また流域の家庭からの排水には合成洗剤や農薬等の化学合成物質、抗生物質、重金属などが一切混入しないよう規制する。そして河川では、可能な限り、流れをせき止める堰やダムの類いは撤去しながら、積極的に多様な淡水魚またはウナギ等の回遊魚を養殖する。

 また、その地域に湖沼があるならば、そこから水揚げされる可能な限りの種類と量の淡水魚やその他の水産物全般ということになる。

ただしその場合も、その湖沼は地域の住民が「真の公共事業」として総出で「整備」「浄化」するのである。

 その場合の「整備」とは、たとえば次のようなことをすることを意味する。

空き缶、ガラス瓶やその破片、ビニール袋類等を含むプラスティック類の撤去。物質循環を遮断する構造物の解体またはその構造物に通路を設けること。コンクリート護岸の自然護岸への改修、コンクリートでできた河口堰を含む堰や砂防ダムの解体または貫通路の設置。

 もちろんその河川や湖沼の特定範囲では、公的に許可を得た者以外は、魚釣りや水生生物の捕獲と採取は厳禁とするのである。

 またこうすることにより、回遊魚は海から河川の上流域または源流域まで遡れるようになり、山の大型動物(熊、狸、狐、鷲、鷹等)はそれだけを喰っても生きられるようになる。そうなれば、中流域での田畑での鳥獣被害をも減らせることが期待できるし、彼等をむやみに「駆除」しないで済む。

 このことは、林業分野でも同様で、現行のように針葉樹だけを植林するのではなく、そして放置するのではなく、照葉広葉樹との混交林にして山林を整備し管理する。具体的には下草刈り、間伐、枝打ち作業である。そうすれば、山は豊かになり、保水力は高まり、かなりの集中豪雨にも耐えられるようになり、餌が豊富になれば野生動物もそこだけで多様に棲息できるようになる。それは、人里での野生動物被害を最も自然な形で激減させられることを意味する。

 なお、その他、連合体のある地域内に田んぼがあって、そこに水を張ることで自然養殖が期待できる魚貝類があるならば、それらをも「地域の喰い物」の中に挙げる。

 こうした仕方で確保できると期待できるのは、ハヤ(ウグイ)、オイカワ、ドジョウ、ウナギ、ナマズ、鯉、沢蟹、ザザ虫、ミョウガ、であろうか。特にその地域が海に面していれば、これらの他に、現在、市場に出回っている沿岸魚介類のほとんどすべても含まれるであろう。

 そして次には、これらの農・林・畜産・水産業から得られる「食」のうち、どの季節にはどれが穫れるかを分類する。

 さらには、農・林・水産・畜産の4種の産業から得られる喰い物を基にして、連合体の位置する地域の気候風土の下でそれらを加工して得られると期待できる副産物についても、可能な限りたくさん拾い出す。

ただし、その場合、大規模な工場あるいは設備でなくても確保できるものであることが条件となる。

 具体的には、醗酵食品であり、醸造食品であり、薫製食品類等がある。

これらは、いずれも、保存可能食品となり得る。

たとえば、味噌、醤油、豆腐、納豆、酒、焼酎、どぶろく、ビール、ジャム、魚類の薫製、チーズ、バター等。

 こうして具体的に挙げてみると、いま私たちが日常食べている喰い物のほとんどすべてを、何とかそれぞれの地域連合体内で確保できそうであることが判ってくるのである。

手順の第2と第3については、基本のとおりである。

手順の第4について

 それら各品目の生産方法または確保方法を検討し、計画を立てる。

その計画を立てるのは、政治家のコントロール下で動く公務員(役人)である。

 具体的には、たとえば、次の手順で進める。

 ⅰ 各品目ごとに確保または収穫できる時期を明確にする。

 ⅱ その各品目ごとに、連合体の全住民が必要とする全量または全数を算定する。

 ⅲ その必要全量または全数を確保するために栽培ないしは確保を中心となって担当してくれる人々(農業者、林業者、水産業者、畜産業者)を公募する。

なお公募しても必要人数が集まらない場合には役所からお願いして生産担当者を決める。

 ⅳ 担当者は各自が担当する喰い物の種類の全量を生産または確保する準備をする。

 なおその喰い物が農産物のときには、それらの栽培ないしは生産に必要な農地の全面積を、担当してくれる人々に割り出してもらう。

その場合、できるだけ、耕作放棄地を活用する。

 ⅴ 連合体の政府は、喰い物の生産または確保を手伝ってくれる人々を公募する。

その中には、農業機械を扱える人、またそれを修理できる人、資材・道具・収穫物を運搬する車を扱える人をも含む。

 なお、そこで言う「喰い物の確保または生産に必要な資材・道具・機械類・タネ類・各種農業機械・農耕機械・運搬車」については、その必要量または必要数のすべてを、共同体の役所(の公務員)が議会の決定に基づく予算の下で用意し、生産を中心となって担当してくれる者に無料で貸与または供与する。

たとえば、種まき機、トラクター、田植機、草取り機、草刈り機、稲刈り用のコンバイン、麦刈り用のコンバイン、大豆の刈り取り用ハーベスター、米・麦の乾燥機ともみ摺り機と選別機、各種産物の搬送車、等々がそれである。

そしてこれらの機械の操作の仕方、運転の仕方、保全管理の仕方等々について、事前に講習を受けられるシステムを政府の側が整えておく。

また、生産または確保に携わってくれる人々やそれを手伝ってくれる人々には、然るべき指導者の下で、事前に、一定程度の実地講習を受けてもらっておく。これも役所の役割である。

 ただし、生産または確保の手伝いをしてくれる人々の数が多くなってくるにつれて、大型機械に拠る生産・確保から次第に小型機械に拠る生産・確保へと移行し、最終的には、ほとんど人手のみに拠る生産と確保へと、順次、移行して行く。

 つまり、大型機械による大量生産方式から、最終的には、燃料をほとんど使わなくて済む大量の人々の協働による計画的大量生産方式へと移行して行くのである。

これも、本質的に「三種の指導原理」と「都市と集落の三原則」と「人間にとっての基本的諸価値の階層性」とが一体不可分となった「環境時代」でのヒューマン・スケール化を重視した「新しい経済」を実現させるための必然的な過程と言える。

手順の第5について

計画に沿った生産ないしは栽培の実施の段階である。

 ここではそれぞれの喰い物の確保または生産の役割を中心となって担うことになった人の指示の下に、生産ないしは栽培を行って行く。

その際、収穫前までに行う作業としては、農業で言えば「草取り」「草刈り」「水やり」等である。あるいはこれからの気候の温暖化と紫外線の強化の中での農場での野菜の損失を防ぐための種々の管理作業である。

林業で言えば、「下草刈り」「間伐」「間伐材下ろし」「木を枯らす虫の駆除」「植林」といったものである。水産物そして畜産物の確保については、担当者の指示に従って作業をする。

手順の第6について

この段階ですることは、生産物を収穫または確保することである。

収穫物は一定の公共集積所(公共貯蔵庫)に運搬される。

その際、収穫または確保した生産物を直ちに食するものと、一時的に保存するものとに分ける。

 なお、食用油になる植物からは、収穫した植物ごとに異なった油として、精製後、確保し保存する。

手順の第7について

 公共集積所に集められたそれらを、予め定められていた種類と量ずつ、住民各個人または各所帯へ分配する。

 ただしその場合、各支所では、収穫物をただ配給すればいい家と、事情があってすぐに食べられるように料理した後に配給しなくてはならない家とに分ける。料理しなくてはならない家の分は料理する。

 これらの準備が出来たところから、各戸に配給する。

 

 以上が生存必需品の確保の仕方と分配の仕方についてであるが、生活必需品の確保の仕方と分配の仕方については、「地域経済のしくみ」の(その3)に続く。

11.5 地域経済のしくみ————————(その1)

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11.5 地域経済のしくみ————————(その1)

 では、経済のグローバル化(世界化)はもはや止め、その経済を国内化させ、さらには地域化させてゆかなくてはならないとした時、あるいは地域化させて行かざるを得ないとなった時、国内化され地域化されたその経済とは一体どのような姿のものとなるのであろうか。あるいはどのような姿のものとならざるを得ないのであろうか。

 なお、以下は、既述した、理念と目的と形を明確に持ち、未来を文字通り持続可能とする、名実ともに本物の国家と言える新しい国家(第8章)を前提に考察を進める。

しかし、その上でも、先ず土台に置かれねばならない考え方とは、先の「経済の新概念」において明らかにされた「環境時代の経済」または「新しい経済」(11.2節参照)となる。

 その「環境時代の経済」とは、もはや、「仕事がある」、「働き口がある」、「賃金がもらえる」、つまり「雇用が確保されている」ということよりも、先ずは誰もが「生きて行けること」、それも、「共同体の一員として積極的に、そして誠実に参加し協力することで、誰もが安心して生きてゆける」ようになることに主眼を置いた経済でなくてはならない、ということである。

言うまでもなくその経済とシステムの根底には「三種の指導原理」がある。そしてその場合も、人間にとっての基本的諸価値の間には階層性が存在しているという私なりの確信に基づき、それの実現をも明確に念頭に置いてゆく(4.3節参照)。

 そこで、本節では、これまで述べて来た「新しい経済」あるいは「環境時代の経済」の考え方を踏まえて、それを形に表わしたならどうなるか、それをできる限り具体的に示してみようと思う。

 そのあり方とは、予め、結論的に一言でいえば、自己完結を可能な限りめざした地域循環型の経済でありシステム、ということになる。

 実はこれは、これからの日本は、どうすることが、あるいはどうなることが国の基幹産業であるはずの農業が持続的に成り立ちうることになるのか、そしてその中で何がどうあることが田畑の生態系も甦り、農業者自身が誇りを持って営農を続けられることになるのか、そしてその農業を土台にして、どうあったら社会全体が回ることになるのかということを、自分で栽培した作物をお客様に買っていただいて生活を成り立たせるという暮らしをしてくる中で、しかもその場合も、さまざまな生き物が見せる行動を観察し、また様々な野菜が示す変化を自分の目と肌で感じとりながら、私の能力の及ぶ限りの考察を繰り返しては行き着いた結果である。

 そういう意味で、本節で提案する「環境時代の経済」または「新しい経済」についての具体的な姿は、決して机上の理論に基づく結果ではない。実践の中で考え、農産物という喰い物の流通の仕方やそれの処理のされ方をつぶさに観察しては着想し、到達した私の帰結である。そしてそれは、これまでの論理的で必然的な帰結でもある。

 なお、ここでは、想定する「地域」としては、現行の行政区域である市町村のどこでもかまわないのであるが、どうせならということで、私が提案する新国家を構成する「地域連合体」を前提としてみる(第8章を参照)。

 

 「新しい経済」では、既述のとおり、人間の意思や都合ではどうにもならない過程が支配的となる産業、あるいは、自然や生命と直接向き合うことになる産業は計画経済のシステムの中で扱うこととして来た。他方、人間の意思や判断、あるいは人間の都合というものをかなりの程度介在させることができたり、また生産や流通を人為的に制御したり管理したりすることが可能な産業は自由経済のシステムの中で扱うとして来た(11.2節)。

 この考え方によると、前者に属する産業は、農業・林業水産業・畜産業となり、後者に属するのが工業・商業・運輸業、通信業・サービス業ということになる。

しかしこのいずれの範疇にも含まれない、あるいは含めることが難しいと考えられる分野もある。医療や介護そして看護といった福祉の分野、そして教育や研究の分野である。その前者は人間生命の維持・継続・再生産と人権の維持という観点から、後者は人材育成・人格陶冶・啓発・未知の分野の開拓という観点から、地域共同体が共同体として安定して存続して行くためには共に不可欠な分野なのである。

 それゆえ、それらの両者の分野は、計画経済システムのあり方や自由経済システムのあり方とは切り離しながらも、別途考察してゆくことにする。具体的には、これらは、共同体内での「真の公共事業」の一環として遂行して行く(11.6節)。

 つまり、従来は、「全産業のうち、農業・林業水産業など直接自然に働きかける産業」を第一次産業と呼び、「全産業のうち、地下資源を取り出す鉱業と、鉱産物・農林水産物などをさらに二次的に加工する工業−−−ただしこの工業の中には、製造業と建設業も含まれる———」を第二次産業と呼び、「商業・運輸通信業・サービス業など、第一次・第二次産業以外のすべての産業」を第三次産業と呼んできたが、ここではもうそうした言い方もしないし、区別もしない。

何故ならば、常に全産業とその存続を考えるからである。

それにそうした従来の区別の仕方では、人間生命の維持・継続・再生産と人権の維持という分野や、人材育成・人格陶冶・啓発・未知の分野の開拓という分野が抜け落ちてしまうからでもある。

そもそも医療・介護・看護の分野も、教育・研究の分野も「第一次・第二次産業以外のすべての産業」としての第三次産業という範疇に括られていいはずのものではないのである。人間そのものにとって、もっとはるかに重要な位置を占めるものだからだ。

 それなのに、こういう分野が法的にも制度的にもきちんと整えられず、明治期の「殖産興業」以来、民法もほとんどそのままで、第二次産業だけが依然として特に重視されてしまうということが当たり前にされてきたところに、この国の発展の仕方の異常さと歪さがあるのだ。

この日本という国は国民の命と尊厳が軽く見られる国、人権意識が遅れた国、男女の権利の平等が未発達な国、多様性を受け入れられない国等々と、国連をはじめ国際社会から今もって見られ続けている大きな原因の一つがここにある、と私は考えるのである。

 また、ここでは、最近よく耳にするようになった、いわゆる「第六次産業」という言い方も考え方ももちろん採らない。 

 ともかく、こうして、「新しい経済」では、一つの地域の経済システムの中に、成立条件と運営のされ方が根本的に異なる産業が混在することになる。とは言っても、それらは互いにバラバラなのではなく、互いに「調和」して共存することになるのである(「調和」の再定義については第4章を参照)。

 

 とにかくこの日本という国は、既に述べて来たことであるが、歴史的に見ても、表向きは資本主義経済の国だとか自由主義経済の国とされては来たが、実態はそのいずれでもなく、かといって計画経済の国でもなく、実質的には、とくに戦後は、政府の各府省庁の官僚による統制経済の国で来た。それも、各府省庁の官僚が互いに勝手に自分たちが監督するとしてその専管範囲を決め、しかもその専管範囲には他の府省庁は踏み込まないということを官僚同士で暗黙のうちに決めては維持して来た統制経済の国なのだ。

そしてそこでは、資源の乏しいこの国では、「加工貿易」を国是として、工業生産力を果てしなく伸ばすことこそが国力を高めることだとして、工業を、それも輸出を最優先する工業を国の主流かつ支配的な産業として来た。

そしてその工業が発展しうるようにと、国中のあらゆる流通と金融と貿易の諸システムは整えられ、またそのための法整備も最優先でなされて来た。

 その結果、他の全産業は、その工業中心の体制に従属させられることになった。

とりわけ、農業や林業や畜産業そして水産業と、教育部門においてそれが顕著だった。

 農業や林業や畜産業そして水産業という産業は、本来、それなくしては国民は生きることさえ出来ないモノを供給してくれる産業であるにも拘らず、したがってそのことを考慮するなら農業や林業や畜産業そして水産業こそが他のどの産業よりもつねに大事にされなくてはならなかったはずなのに工業あるいは工業を中心に設けられたシステムに否応なく従属させられた。特に貿易面においては、工業製品をより多く、より安く輸出出来るようにするために、農・林・畜産・水産の産品はつねにその犠牲にされて来た。

 教育部門もしかりである。

 小中高校という学校教育の場は、本来、その若者が社会に出たとき、一人ひとりが自己を確立し、自信と誇りを持って生き抜いて行ける人格と素養を身につけるべき場であるのに、この国の政府文部省と文科省による教育は違った。

個性は均一であることが良いことだ。能力は抜きん出ている必要はなくほどほどで良い。人権意識や正義感などはむしろ無用。とにかく企業の経営方針に従順で、必要に応じて取っ替え引っ替えしても文句を言わない人間を画一的に、かつ大量に生産することだった。

 こうした状況は、そのまま中央政府の各府省庁間の力関係にも現れているのである。

 こうした産業間の状態は明らかに「互いに調和的に共存する」関係ではない。

そのために、そうした関係から成る各産業に属する人々は、自身の産業に本当の意味では誇りを持てず、また他の産業との共存意識も持てず、ただカネのためだけに働いているとした意識しか持てないで来た。その結果、そのような経済システムの下では、各産業は、自らが生き残ることが精一杯で、互いに支え合うという健全な形態はとり得なかった。

 実際、私の見るところ、日本の農業は、もうずっと以前から、衰退の一途をたどっている。それは単に農業従事者が減っているからとか高齢化しているからという理由からでは決してない。農業に生きがいを見出せないからだ。誇りを持てないからだ。

 そして林業林業で至る所、崩壊寸前となっている。日本の山村は、その大部分が消滅してさえいる。

 しかし、政府のこれまでのやって来たことからすれば、早晩、そうなることは必然であった、と私は思う。

 各産業間は互いに調和的に共存する必要があるとするのはそのためである。

 

 では、成立条件と運営のされ方が根本的に異なる産業分野が一つの地域社会の中で調和して共存する経済システムとはどのようなもので、またそれはどのように構築されるのか

 その答えを見出すために私の辿った思考順序は次のようなものだった。

 なおその際確認しておくべきことは、ここで考えることは、あくまでも「新しい経済」の具体的な姿と形である、ということである。したがって以下に示すものはあくまでもその具体的な一例である、ということである。

実際には、地域ごとに、気候風土や様々な資源や伝統の文化等には違いがあるだろうから、その地域での「新しい経済」の具体的な姿と形は、それらの特性を考慮して、その地域固有のものとして考え出す必要がある。

 そこでここでは、いきなり全産業を考慮した「新しい経済」の具体形を表現するのは困難なために、計画経済に含めるべき産業の代表としての農業と、自由経済に含めるべき産業の代表としての工業のみに着目し、その両者を中心にした「新しい経済」についての具体的な姿と形についてだけを考察してみる。

 その場合、既述して来た農業と工業の本質的な相違を念頭に置いてゆく。

すなわち、農業は、その地の気候、気象、地質、地形、生態系に依存せざるを得ない産業であることから、文化と同様、本質的に地域固有のものとならざるをえない産業である。したがって農業から穫れる産物も地域固有のものとならざるを得ない。

ということは、農業という産業とそれを巡る経済のシステムも地域固有のものとならざるを得ないということである。

 他方、工業はどうか。

工業は、本質的に、材料を含む物質的資源とエネルギー的資源とを外から取り込んで来ては、物質を人手か機械かによって加工しては材料あるいは資材をつくり、それを用いて新たな製品を作るという作業工程を主とする産業である。

その場合、資本主義的経済システムの社会では、企業が投資した金額以上の金額を利益として回収し得ることがその企業が「持続」し、「発展」し、「拡大」しうる絶対条件であった。

しかし、今考えているのは「人間を劣化させ、社会を崩壊させ、自然環境を破壊する性質を本質として持つ資本主義は終った」という前提の下での、環境時代での経済のシステムについてである。そしてそれは、自己完結を可能な限りめざした地域循環型の経済でありシステムについてである。

したがってここでは、これも既述のとおり、「儲け」「利益」というものは少なくとも第一目的とはしない。だから、そこでは、今、世界のどこの国も、外国を含む外部から呼び込もうとしている“投資する”という発想そのものを持たない。したがって、いわゆる投資家とか株主というものも存在しないし、存在し得ない。だから外資、すなわち外国資本というものもあり得ない。これまで当たり前としてきた、何よりも投資家や株主を最優先する企業ないしはそのための経営というもの自体、ここでは考えない。

 そしてその環境時代では、その社会を貫徹する原理とその原理に次ぐ原則を指導原理と指導原則とすることについても、既述(第4章の2〜4節)して来たとおりである。

 ということは、経済とそのシステムを考える上でも、先ずは、その指導原理の観点から「市民の原理」を超えて「生命の原理」が、「人類普遍の原理」を超えて「新・人類普遍の原理」が、そして「エントロピーの原理」から導かれる「人類存続可能条件」が、これまでの近代での価値原理とそれに基づく資本主義経済を止揚する形で実現が図られなくてはならない、ということになる。

 次いで指導原則の観点から、人間が集住する都市や集落に関しても、「小規模かつ分散の原則」と「経済自立の原則」と「政治的に地域自決の原則」が共に実現を図られねばならない、ということにもなる。

 いうまでもなくその「経済自立の原則」でいう経済は、共同体内で自己完結している経済である。それは必然的に循環的な経済でなくてはならない。そうでなくてはその経済はその地域の範囲を超えてしまわざるを得なくなるからだ。

 なお、以上の論理から既に明らかとは思うが、ここで念のために改めて強調しておかねばならないことがある。それは、以上述べてきたことは決して経済の保護主義化とか孤立化というあり方を狙うものではないということである。というより、むしろそうした見方をはるかに超えて、地球環境の蘇生を実現させて人類の永続を可能とさせるためには、《エントロピー発生の原理》に依拠して《生命の原理》を実現させる必要があるからだ、という理由に尽きるのである。

 このことから、工業に用いられる物質的そしてエネルギー的な資源についても、原則的には、すべてその地域の自然生態系が生み出してくれるものに限定されなくてはならない、ということが明確になる。このことは、工業も、その地域の再生可能資源と再生可能エネルギーに依存せざるを得ない、ということである。

 このことから、工業のあり方とその内容は従来とはかなり異なったものとなってくるし、異なったものにならざるを得ないのである。

これまでは、資源やエネルギーの乏しかった日本では、必要とするそれらについては、世界中のどこからでも輸入してきては、工業を成り立たせてきたし、またそれによって、地球全体の自然のメカニズムを壊し、人間が生きてゆくことさえできない環境にもしても来た。

 そこで、特に「先進国」と呼ばれている国に生きる私たち日本国民は、日本が本当に先進国と呼ばれるにふさわしい国であるかどうかはともかく————実は私は、日本は未だ真の「近代」にも至ってはいない、と見るのであるが(1.4節)————、ここで少し冷静に、あるいは理性的になって次の3つの問いを発し、その答えを国民一人ひとりがじっくりと考えてみる必要があるのではないだろうか。

 その1つ。

日常、テレビや新聞や雑誌に、毎日のように、繰り返しコマーシャルに登場してくる物品は、果たして、元々は生物としての私たちヒトが社会で「人間」として生きてゆく上で本当に必要なもの、不可欠なものなのだろうか、と。

 2つ目。

どんなに流行の最先端をゆく物や人の羨む高級な物品を手に入れたところで、そしてその時にはどんなに自己の欲求を満たし得たとしても、その物品は、時が経てば必ず古くなり、旧式にもなるものである。では、そうしたものを手に入れるために、自分の人間性を押し殺してあるいは犠牲にし、あるいは家庭を犠牲にし、他者との人間的な関係をも顧みずに、ひたすら企業に従順に働いてお金を得ることに執着することに、果たしてどれほどの意義があるのだろうか、と。

 3つ目。

果たして、私たちは、衣食住足りた以上のお金を得たところで、また「あれば便利」、「あれば快適」といった程度の代物を手に入れたところで、自身の「人間としての幸福度」は一体どれほど高まるものだろうか、と。

 

 実はこれら3つの問いを、一つにまとめるとこうなるのではないだろうか。

 産業界は、絶えず、彼ら自身が生き延びてゆくために、私たち人類(サピエンス)社会で「人間」として生きてゆく上で本当に必要なもの不可欠なものではない物なのに、それを“あれば便利”、“あれば快適”と喧伝し、さらには手を変え品を変えては“もっと、もっと”とメディアを動員してはそれらをコマーシャルに乗せ、私たちの購買欲を煽ってくるが、その時、私たちは、コマーシャルに流れるその物品を手に入れることに、またそのことに執着することに一体どれほどの価値があるのだろうか。果たしてそのようなものを手に入れて、私たちの「人間としての幸福度」は幾分でも高まるのであろうか。

 むしろ、私たちがそうした「流される」行動に出れば出るほど、私たちが人間として永続的に生きてゆく上で、あるいは私たちの子や孫たちが永続的に生きてゆく上でそれこそ本当になくてはならないもの、大切なものを却って壊し、また失ってしまうことになるのに、と。

 ここで言う「私たちが人間として永続的に生きてゆく上で、あるいは私たちの子や孫たちが永続的に生きてゆく上でそれこそ本当になくてはならないもの」とは、例えば、ゆったりと過ごせる時間。家族誰もが安心して居心地を確認できる家庭。他者との思いやりを持った人間関係。心身ともに健康な体。みんなで助け合い支え合って生きられる社会。私たちヒトを生かしてくれている自然。地球上の全ての生命を支えている食物循環を含む自然循環、等々である(7.4節を参照)。

 実際、人間の歴史を見ても、お金あるいは富を、必要以上に多く手に入れることに拘れば拘るほどに、その人間は概して不幸になって行っているように見える。また、民衆の心を無視して自身の野望の貫徹に執着する権力者の国家を見ても、いっときは威勢がいいようには見えても、結局は、その野望ゆえに、国を乱し、対立を生み、国民を不幸に陥れ、自らも不本意な死を迎えるということにしかならなかったのではないか、と私には見えるのである。

 

 こうしたことを真理として捉えるなら、もはや資本主義ではないし、これからの工業とは、またそこでの生産様式とは、「オートメーション・システムによる画一的大量生産様式」ではなく「大量の人間の協働作業による、多様な種類のものの多様な生産様式」とならざるを得ない。そしてその生産様式を支える技術とは、「等身大ないしは身の丈の技術」とならざるを得ない。それは言い換えれば、その物の中の仕組みがわかる技術、それが壊れた時には人間の手で直せる技術、そしてそれによってできた物を持つ人には作り手の思いを感じさせる技術だ。

そしてそれこそが、私は、その地域の再生可能資源と再生可能エネルギーと調和する工業の形態であると考えるのである。

つまりそこではもはや「ハイテク化」でもなければ「人工頭脳化(AI化)」でもない。

 ただその場合にも、地下資源や金属資源に乏しいこの国の場合には、どうしても地域社会にとって必要な機械や道具あるいは検査機器をつくるために必要となる資源あるいは材料は、外から取り寄せるしかないかもしれない。そしてそれなりの生産システムもどうしても必要となるかもしれない。

 そこで言う「どうしても必要となる資源あるいは材料」とは、たとえば、農業生産や林業水産業に用いる機械や資材、それにとくに医療関係の機械や器具そして検査機器、そして大災害時の被災者救済手段や復興作業のための重機等をつくるための資源ないしは材料、であろう。

しかしその場合でも、外から取り寄せる資源や材料の量と種類、そして機械類はあくまでも限定的でなくてはならず、主力はあくまでも再生可能資源と再生可能エネルギーとによる地域内生産となるのである。

 

 こうしたことから、地域の工業を含む全産業はその地域で得られる再生可能資源および再生可能エネルギーの量と質に大きく左右されることになる。ということは、それだけその地域の生態系を地域で独自にどれだけ活性化させ得るかということに大きく左右されることになる、ということでもある。なぜなら、再生可能資源および再生可能エネルギーは、結局のところ生態系が生み出してくれるものだからだ。

 したがって、その量と質を向上させるには、これまでのように生態系を放置しっ放しにしたり、汚染したり破壊することに無頓着であったりしては無理であって、むしろ地域生態系の全体を計画的に積極的に活性化させ、豊かに蘇らせることが同時並行的に必要となる。そうすることにより、より多様な自然資源を、その生態系からより安定的に、より多く、繰り返し確保できるようになるからだ。

 その際、その生態系を実際に活性化できる産業は、直接的には林業であり農業であり畜産業であり、あるいは水産業となる。そしてそのとき、その林業と農業と畜産業と水産業生態系を活性化するのに用いる機械や道具あるいは資材を提供するのは工業となるのである。

商業やサービス業はその場合、林業・農業・畜産業・水産業と工業との仲介をすることになる。

そしてその際、その生態系を活性化するのに用いる栄養は、林業・農業・畜産業・水産業と当該地域のすべての人々の暮らしの中から出て来る廃物であり排泄物となる。

 施された廃物や排泄物は、大気と水と一緒になって、その地域の生態系という熱化学機関の中を作動物質となって循環する。その循環を円滑にするためには、これまでその循環を遮断していた巨大構造物は撤去されるか、その構造物を作動物質が通過できるような工夫が必要となる———こうした作業も、後述する「真の公共事業」として行われる———。

 こうした努力によって、これまで小規模に分断されていた生態系は互いに循環によって連結して大きな生態系となる。その中で大気と水と栄養が、より大量かつより広範に、しかも安定的に循環するようになる。

 私は、こうした努力の繰り返しによって、気象をも安定性を取り戻させ、これまで気候変動の中で生じるようになった気象の局地化や局時化という現象も次第に解消されて行くようになるのではないか、と推測するのである。なぜなら、大気の動きも、地上の生態系の状態と密接に連動しているはずだからである。

 こうしてそれぞれの地域の自然はさらに互いに連結しながらいっそう広大な自然へと甦り、甦ったその自然は、大気と水と栄養を広域で、遮断されることなく循環することで、主に人類がその経済活動の中で発生させる莫大な量の余分なエントロピーを宇宙へと捨てさせてくれて、地球上のエントロピー量は一定に保たれるようになる。

そしてそのことは、必然的に、温暖化を抑え込み、同時に生物多様性の消滅を進ませないようにしてくれることを意味するのである。

 その結果、地球上の自然は、世界各地域に、人間と他生物が生きて暮らして行く上で必要充分な量の資源(この中には、農産物も林産物も水産物も畜産物もすべて含まれる)を持続的かつ安定的に生み出してくれるようになる————もちろんそこでは、まだ喰える喰い物を大量に捨てる、という文化もなくなる———。

 以上のこれが、槌田敦氏の言う、「自然のなかでの循環と社会の中での循環を、資源と廃物によって循環的に結合させる」(槌田敦「熱学外論」朝倉書店 p.166)ということの本当の意味なのだろう、と私は解釈する。そしてこれにより、人が生きて行く上で必要不可欠な衣食住を満たす資源も、社会を維持して行く上で必要なすべての資源も、持続的に手に入れられるようになるのである。こうして社会のすべての人々の暮らしもすべての産業も、この資源を活用させてもらうことで持続的に存立できるようになるのである。

 以上が、成り立ちにおいて本質的に異なる農業と工業という産業間での、「物質」面に着目した調和の成立のさせ方である。

 しかし、調和を成立させるには、もう一つ、「お金」の面でも考えておかねばならないことがある。

 それは次のようなことである。

 計画経済に属する農業に従事する人たちは、自分の労働を提供することで地域連合体から報酬としての賃金を受け取ることになるが、その賃金は地域通貨の形で受け取るのである(11.7節を参照)。そしてその地域通貨という現金が彼等の生活のすべてを支える所得となる。

 言うまでもないことだが、共同体としての地域連合体が支払う賃金の原資は、すべて、住民からの納税に拠る。ここで納めるべき税とは、住民税、環境税、固定資産税の三種である。

これまでこの国ではずっと納税を義務づけられて来た、例えば「所得税」「法人税」や目的税としての「ガソリン税」あるいは地方税としての「健康保険税」といったものはもはや「環境時代」でのこの「新しい経済」の下では消滅する。

 そしてその納税も、原則として地域通貨に拠るとする。ただし、住民の生活状況や都合により物納あるいは自己の労働を提供することをもって納税とすることもできる、とする。

 計画経済下に働く人々は、地域通貨という形で得た現金をもって自由経済システム下にある工業、商業そしてサービス業から自分の望みの物を買うのである。

 一方、自由経済に属する工業に従事する人々は、その自らの産業に従事することで得る、同じ地域通貨という形での現金をもって所得とする。自由経済下に働く人々はそれをもって自分の必要とする物、欲しい物を買うのである。

 以上が、農業と工業という観点のみから見た、一つの地域社会の中に成立条件と運営のされ方が根本的に異なる二つの経済システムが互いに「調和」し合って存続できるためのあり方、ということになる。

 林業や畜産業そして水産業と工業との「調和」の成り立たせ方についても、これまでの農業と工業の観点のみから見た方法と同様にすればよいのである。

「自然は毎日十分に我々の需要品を生産する。各自が必要量以上のものを取らなければ、世界に貧はないであろう」(「ガンジー聖書」エルベール編 岩波文庫 シューマッハー 「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫 小島慶三、他訳p.51より転載)とはインドのマハトマ・ガンジーの言葉であるが、これは正に私がここで言う自然と人間とのあるべき関係としての「新しい経済」と重なり合うように思われるのである。

 以下、「地域経済のしくみ」の(その2)に続く。

4.1 本書で用いる主要用語の再定義———(その2)

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4.1 本書で用いる主要用語の再定義————————(その2)

「民主主義」:

 時代がどのように変わろうとも、民主主義の意味とは次の表現に尽きるし、次の表現のままに誰にも理解され、理解されたその範囲で、自由自在に活用されるべき概念である。

 それは、「“権力は人民に由来し、権力は人民が行使する”という考え方と、その考え方がいつでも、どこでも生かされるように構築された政治形態のこと」

その意味は民主主義と翻訳されたデモクラシーの語源から理解されることである。

デモクラシーの元はギリシャ語のdemokratiaであって、それは、demos(人民)とkratia(権力)とを結合したものだからである。

 もちろんここに言う「権力」とは、既に明確にして来たとおりで、「他人を押さえつけ支配する力」のことである(広辞苑第六版)。

 政治家が権力を行使できるのも、国という共同体が成立した時点から全権力を掌握している国民から、選挙を通じて選ばれたからだ。それも、無条件に選ばれたわけではない。あくまでもその者が立候補した際に、“自分を当選させてくれたらこれを実現します”と言って掲げた公約を実現してほしいからとして選ばれたのだ。したがって、政治家が政治家となった際に行使できる権力は、自らが掲げた公約を、約束通り、国民の前で実現してみせるために必要な権力なのだ。

国民が合意しているのはそのためだけの権力の行使なのである。

 そもそも立法することは、国民すべてに、無条件に、「他人を押さえつけ支配する力」

を行使することであるから、最高の権力行使ということになるが、しかし、このことから判るように、政治家は、政治家になったからと言って好き勝手に権力を行使できるわけではない。言い換えれば、好き勝手に法律を成立させられるわけではない。

したがって、例えば、選挙時に公約にも掲げなかったことや、ましてや国民の大多数、少なくとも三分の一あるいは過半数が反対している法案を強行可決させるというのは民主主義議会政治に反逆する専制主義者としての行為なのだ。

 尤も、選挙時には問題にならなかったが、その後の社会や国の状況の変化によっては、政治的判断によってどうしても立法しなくてはならないということがままありうるが、その場合も、立法という権力の行使には、国民の合意が、先ず絶対に必要となるのである。

 つまり、権力の行使には、主権者であると同時に、被統治者でもある国民の合意が、常に、そして絶対に必要なのだ。

そしてそれこそが、“権力は人民に由来し、権力は人民が行使する”ということの真の意味なのである。

 いうまでもないことであるが、この民主主義の定義からも判るように、その国が民主主義の国、民主主義が実現されている国であるということは、その国の政治家は常に人民の声・要求に根拠を置いて、国民の代表として政治を行っている国である、ということである。またそれと共に、その国では、ただ任官試験にパスしただけの公務員と呼ばれる、官僚を含む役人一般には、一切の権力は与えられてはいないし、行使することも許されてはいない、ということでもある。

 だから例えば、官僚が、全国には幾万とその分野の専門家や知識人がいるにも拘らず、その中から、自分たちに好都合な答申をしてくれそうな専門家だけを恣意的に委員として、あるいは座長として人選しては「審議会」を設立し、その審議会を自分たちの思うままに仕切っては、「お墨付きを与えられた」として、自分の所属府省庁に利益をもたらす法案を作成しては、それを「縦割り」を前提とする全省庁の事務次官合意の上で閣議決定させるという権力行使は、日本を官僚に独裁させることで、最も非民主主義的な権力行使例と言える。

 したがって、もしそのような権力を、公式非公式に拘らず行使していることを目撃したなら、私たち国民は直ちにその事実を告発し、政治家には“それを速やかに正せ”、と要求すべきなのである。それは主権者としての義務でもある。

 なぜなら、主権者とは、国家の政治のあり方を最終的に決めることのできる権利を有する者のことだからだ。

 

 ところで、では民主主義とは何のために、何を目的として考え出された政治形態なのか。

いろいろな人種から成っている人類、多様な文化をもった民族、多様な欲望を持った人々の存在する中では、一人ひとりは、互いに違う人々、知らない人々の中にあって、他者に恐怖心や猜疑心を抱きやすく、時には万人の万人に対する闘争状態となりがちであるが、民主主義はそうした闘争状態を克服する手段の1つとして考え出されたものである。

 そこでは、どんな相手に対しても、その人が言っていることの正邪を判断する前に、先ずはその人が人間であるとして尊重し得ること、その人が抱えている状況や境遇を理解し共感し得ること、その人が語る意見がたとえ自分とは異なっても、それを語る権利はあるとしてその意見を意見として尊重できることが重要となる。と同時に、自分自身の独自性や才能をも相手に対して明確にしつつ、公共的なことにも参加し、他者と共に集団的な物語を築くことも重要となるのである。

 つまり民主主義とは、思想・信条・信教の自由、男女間・人種間・民族間の平等、強者・弱者の協働、連帯、博愛等々、私たちが普遍的価値とするものの真の意味を理解し、それを受け入れたときにだけ機能するものであって、その意味で民主主義とは倫理の実践のことでもある。

 それだけに民主主義は、他者の境遇や苦しみを理解する人間の側の度量にかかっており、互いに権利は平等なのだということを理解できるか否かにかかっている。

また民主主義はこうしたことができるように人間によって考え出されたものであり、それは手続きや制度を通して既述の普遍的価値を実現しようとする試みでもある。

 民主主義は、その意味で、歴史の中で生み出されてきた、人類による文明の最高の形態なのだ。

 この民主主義を実現し、それを維持するための最高の頼みの綱が国家なのだ。国、ではない。国家と国とは別物として、明確に区別しなくてはならない。

民主国家はきちんと機能すれば社会の気紛れや官僚の気紛れから究極的に市民を守ってくれる。民主国家が市民にそうした保護を与えることができるのは市民が頼りにできる確固たるルール(法)があればこそである。もちろんそのルールを作ることができるのは私たち国民が選んだ政治家だけである。このルールは政治家や官僚を含む国民皆が守らねばならないと同時に、市民の手で修正もできる。

民主国家は、官僚によるのではなく、仲介者としての政治家を通じて運営されている場合のみ民主国家となるのである(K.V.ウオルフレンp.342)。

 科学・技術・信教の自由の時代に生きている私たちではあるが、もし民主主義の価値観が世界で崩壊したなら、かつてない規模の戦争を目撃することになることは確実である。

だからこそ民主主義を守る価値は確実にあるのだ。今のところ、人間がみんなで生き残るための唯一の選択肢なのだから。

 その民主主義を守るためには、先ずは政治家も知識人も、そして私たち国民も、みな、今私たちが置かれている情況を明確に理解することが何よりも大事なこととなる。

政治家や知識人はとくにありのままの世界について考える責任があるし、その中で「可能な選択肢」を提示する責任がある。可能な選択肢を明確にし、「無理のある選択肢」を拒否することなのだ(ジャン=ピエール・ルゴフ)。

 

「自由」:ここで言う自由とは、「何でも自分の好き勝手にできる」という意味のものではない。それでは却って、自分が自分の欲望の奴隷になっているに過ぎない状態だからだ。

 また、自分を抑圧する者や拘束する力から解放された状態を表す狭い意味でのものでもない。むしろその両者を超えて、自分が置かれた現実の状況の中で、次々と自分の目の前に現れてくる事態や出来事に対して、それに対処しなければならないとなったとき、“自分にはこれしか選択肢はない”とか、“これしか選びようがない”と考えてしまうのではなく、先ずは無数の選択肢がそこにはあると考えられる心の柔軟さを持つことであり、また持てることである。そしてそのとき、その無数の選択肢の中から何を選ぶかについては、自分を利するだけではなく他者をも利する選択肢———そこに「調和」の考え方に基づく「博愛」「友愛」の精神が生まれる———を自らの判断で選びとることができ、さらにそれを選択した結果、目の前に現れる状況については、自ら責任を持って引き受けることなのである。

 その意味で、「自由」にはつねに「責任」が伴う。

 

「平等」:人間は、生まれながらにして、つまり裸で生まれて来たその状態において、国籍・肌の色・人種・民族・宗教・信教・性別の違いのみならず、一人ひとりの社会的立場や経済的立場の高低、それに持っている物(お金、財産、資格、肩書き、学歴等)の多寡や格差とは無関係に、みな同じ権利が与えられているということである。

 あるいは一人ひとりは皆、その人を「人間の個人」として見た時、生きる権利においてはもちろん、存在意義においても同等であるし、余人をもっては代え難い価値と尊厳を持っているという点においても同等である、とすることである。

 したがって、平等とは、単に「他者と外見や格好が同じであるべき」とか、「他者と同じことを同じようにすべきである」とかいうことでは断じてない。また「男として皆同じにすべき」とか「女として皆同じにすべき」ということでもない。

それではむしろそれぞれ個性も能力も異なる一人ひとりを、一つの規格あるいは枠に押し込めてしまうことだ。それでは今度は明らかに「自由」に反してしまう。

 そうではない。平等とは、精神の自由を保ちながら、上記の意味を各自が自分の頭で理解し、認識して、それをいつでも、どこででも行動に表せることなのである。

 自らの権利を主張する者は、他人の権利をも重んじなければならない。これも平等の精神から生まれる。自己の自由を主張する者は、他者の自由をも尊重しなくてはならない。これも平等の精神から生まれるのである。

「友愛」:互いにアチラを立てればコチラ立たずの関係にあるように見える自由と平等との間にあって、その両者を愛をもって、あるいは双方の存在価値と尊厳を認めることをもって仲立ちし、両者を調和のうちに成り立たせようとする心のありようのこと。

 それはちょうど、キャッチボールをする二人の間を行き来し、二人を結びつけるボールのような役割をなす、いわば心の媒介者である。

「生命の多様性」:人を含む多様な生物が多様な生き方をしている状態のこと。

 人を含めて生物は、どんな種どんな個体でもその基本的な成り立ちはみな共通である。が、その個性や能力そして作りはそれぞれが皆、わずかずつ異なる。生き方についても、外敵や環境との関係において、数が少なくとも種として生きられる生物もいれば、莫大な数でなくては種を保存できない生物もいる。有機物しか食べられない動物がいれば、無機物を有機物に換えて生きるしかない植物のような生物もいる。

人間についても、見かけは同じように見えても、性格も価値観も皆違う。

 しかし、この生命の多様性が実現され維持されていて初めて、人も他生物も、自然の中の個体としての生命として、あるいは社会の中の個人としての生命として生きられる土台ができる。

その意味で、それぞれの生命は、自分にとってだけではなく他者から見ても、互いに等しく掛け替えのない存在価値を持つのである。

 しかも、こうした生命の多様性がより豊かに保持されていればいるほど、その社会や自然は、内外からの撹乱———その中には攻撃や災害等も含まれる———に遭遇しても、そしてそのとき、たとえある数の生命が傷つき、また死んで犠牲になっても、社会の全体や自然の全体は、それまでの各種・各個体間の平衡を崩される可能性は低く、仮に平衡が部分的に崩されてもすぐに全体としての平衡を回復し得るのである。

 生命の多様性あるいは生物多様性とは、このように、内外からの撹乱に対する抵抗性を増し、生態系としての耐性と安定性、自然としての耐性と安定性、さらには地球上の全生命・全種の安定的存続を保障してくれる原理なのである。

 反対に、人間の経済行為によって、あるいは人間の利己的行為によって、多くの種が絶滅するようになればなるほど、「喰って喰われて」という食物循環の環がいたるところで寸断されてしまい、この「生命の多様性」が保証する生態系や自然の安定性は急速に、それも加速度的に崩れて行くようになる。

「生命の共生」:多様な生命が互いに生かし生かされ合って生きる状態のこと。

 誰が、あるいはどの生物が特別に生存する意義や価値があるというわけではない。どんな命も、生きる自由、生きる資格が、現在と現在に続く後世の自然全体から与えられている。

 このことから、地球上のどんな自然環境あるいは自然資源も、すべての命に、それらがともに生きるための、あるいはそれらが個体として生きられるための共有の財産として平等に与えられなくてはならない。

 またそのように多様な生命が互いに生かし生かされ合って初めて、彼等の頂点に君臨しているかに見える人あるいは人類も生き続けて行くことができる一条件が揃うことになる。

 生命の共生とは、このように、多様な生物が共に生きて初めて人も生きられるということを教えてくれる原理なのである。

「生命の循環」:ヒトを含む限りなく多様な生物が、種として共に生き、あるいは同じ生物

種が群としてあるいは個体として共に生き続けられるために、それらを一つの例外もなく互いに結びつけながら多様性と共生を同時に成り立たせてくれている生物全体のありようのこと。

それはちょうど、既述の人間世界における自由と平等の関係における友愛と同じ役割をなす。

 そしてこの循環こそが、自然界で、ヒトだけが特別な存在ではないこと、その一人ひとりはその人をその一部として含む多様な生物種とそれから成る膨大な数の生物群によってつねに支えられているということ、すべての生命は、皆どれも、「生きている」のではなく「生かされている」のだということを根拠づけるものとなっている

原理なのである。

「生命主義」:近代における民主主義を環境時代において止揚した民主主義のこと。

それは、人だけではなく他生物一般をも加えた民主主義ということである。

それだけに、近代の民主主義よりもはるかに高い次元の意識が求められる民主主義である。そこではもはや、人間の趣味や選り好みによる、たとえば、「ゴキブリはイヤ!」とか、「蛇や毛虫はイヤ!」などとは言っていられない民主主義である。

したがってそこでは、もはや、市民中心・人民中心という意味合いを持つ民主主義という表現は正しくはなくなり、生命主義とでも表現するしかなくなるのである。

「環境時代の科学」: 「近代」の科学は、見えるもの・計量できるもののみを対象としてきた。そこでは、フランシス・ベーコンが言ったように、なるほど「知は力なり」だった。その知は悪の力にも善の力にもなり得た。近代の科学は、その知あるいは知性の産物でしかなかった。知性は、事実を事実としてはっきりさせるという力であり、物を客観視した上で理論的に分析する能力であり、価値の問題には関わろうとはしないし、特にその物の価値を判断することは避けた。それだけに近代の科学は、例えば大量人殺し目的であれ、どのような目的にも奉仕してきた。

 近代という時代の科学とは、たとえばその代表格である自然科学をとってみても、それはあくまでも自然を観る無数の見方のうちの一つにすぎなかった。

それなのに、それは、客観的で、中立的で、普遍的な、唯一の正解をもたらすものだ、と科学者にも世間一般にも信じられて来た。

 そこでは、自然の中の多様な相互関連性・相互作用は無視され、一切の外乱が入らないようにして事象を最も単純化させた条件下において、部分を足し合わせればいつでも全体になるという仮説の下に、対象となる自然をバラバラに切断し、時間の経過を無視し、質を無視して、量的関係だけに着目してきた。

しかも近代の科学は、「資源は無限」、「空間は無限」という仮定を前提として、己の限界を知ろうともせず突き進んで来た。科学者も、その一人ひとりは、自分も、自分の遠い祖先も、またこれからの遠い未来の子孫も、いま向き合っているその大いなる自然に生かされて来たこと、生かされて行くことをも忘れて関心の赴くままに突き進んで来た。

 しかし、ポスト近代としての環境時代の科学とは、近代の科学とは明確に違う。

そこでは、自然あるいは生命一般は見えるモノと見えないモノとの統一物として存在していること、さらには、見ているもの着目している部分はあくまでも自然・社会・人間から成る全体の一部であり、その部分は全体とつねに統一されていることを明確に意識しながら、その対象とする部分を、全体との関係においてつねに動的に、つまり時間的変化を考慮する中で、分析と綜合を一体不可分にして、生き生きとした姿のままに、法則として認識しようとする、人間の自然とのよりよい共存の姿を求める行為となる。

 つまりこれからの環境時代の科学とは、単なる知性の産物あるいは科学者の単なる知的好奇心の産物としての科学ではなく、また軍需を含む産業界からの要請に基づく科学でもなく、その成果が自然と社会と人間に対して適用されたなら自然と社会と人類の遠い将来にわたってどういう結果がもたらされうるかを、その成果の限界を誰よりもよく判っている当の科学者自らが判断すると同時に、その成果を世に出すべきか否かを遠い人類の利益と大義の観点から厳正中立に審議するための第三者機関が設立され、その機関の下で公にされるべきか葬り去られるべきかの審判が下されるしくみを持った科学である。

 たとえばクローン(コピー生物)についてみたとき、それが人間であれ他動物であれ、自分の親が誰なのか判らない苦しみ、自分を愛してくれる者がいない辛さ一つ想像してみただけでも、その成果の適用の反人間的・反感情動物的な意味が判断できるのである。

 それは、核の抑止力の上に立った東西冷戦や核拡散防止条約の有名無実化に見るように、原爆や水爆、生物兵器化学兵器が一旦つくられてしまえば、消滅させることはほとんど不可能となるのに似ている。「覆水、盆に返らず」でもある。

 そしてそのことは、科学が技術以上に「諸刃の剣」であることを示しているのである。

 

「環境時代の技術」:これまでの近代の技術とは、近代の科学に支えられながらも、生産者の立場が優先され、生産者が作り出した製品を利用する立場の人をあくまでも「消費する者」と位置付けた上で、「生産性・効率性・コスト削減」を最優先する考え方の下に、そして「画一品を規格化しては大量生産」するという考えの下に、さらには、その製品は人が人間として生きてゆく上で本当に必要な物か否かということなど全く考慮することなく、捨てられた後には自然や環境はどうなるのかということなど一切考慮することなく、またその製品が生態系に撒かれたなら生態系はどうなるかということも一切考慮することなく、「とにかく商品として売ってしまえばおしまい」という考え方の下に、消費者には、「もっと便利に、もっと快適に、もっと豊かに」とその心理を煽り立てて消費行動を促しては、それを満たすために、地中深くから化石エネルギー資源や鉱物資源を掘り出して大量に浪費し、廃棄させる技術だった。そしてその結果、生じたのが既述の「環境問題」だった。

 環境時代の技術はそうした人類の死活に関わる環境問題を引き起こした技術と明確に異なる。というよりそのような技術のあり方とは正反対に、いたるところで遮断され、また分断された自然を、統合された自然へと再生し、修復し、復元することをつねに念頭に置きながら、先に定義された科学の諸結果を、特定の物の生産現場において意識的に適用する技術である。そしてそれは、「人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」(武谷三男著作集 第1巻 勁草書房 p.139)とする旧来の技術の概念をも「環境時代」という新しい概念の中で止揚するものである。

 それは言い換えれば、究極的には、人間社会と自然を連結した一つの熱化学機関として蘇らせながら、地球表面上に溜まりに溜まった廃物と廃熱を処理し、地球そのものを最大の熱化学機関として蘇らせると同時に、その廃物と廃熱に付随して生じて地球上に溜まりに溜まった余分のエントロピーを宇宙に捨てられるようにする技術である。

 だからその技術は、人間の身の丈のスケールをはるかに超える巨大技術や宇宙「開発」技術でもなければ、同じく人間の身の丈のスケールをはるかに下回るマイクロテクノロジーでもナノテクノロジー(ナノとは1ミリメートルの100万分の1)でもない。どこか一部でも故障すれば全取っ替えしなくてはならないような、資源の大量浪費を不可避とする技術でもない。

むしろそれは、人間の誰もが持っている掛け替えのない体の一部の機関である「頭」を良く働かせ、「手」「指先」を器用に働かせ、「労働の歓び」「達成感」をもたらす技術である。それはむしろ、この国のかつての「匠」の「技(わざ)」、ドイツの「マイスター」の「技」に近い。そしてそれは、人間を全的な人間として成長させ、持続的な幸福をもたらすための手段ともなる技術である。

 もちろん、原爆や水爆、そして化学兵器生物兵器のように、ひとたびつくられ使用されたなら地球上の生物を死滅させかねないものであるはずもない。

 そしてそれは、詰まるところ、私たちが生まれ住んでいるこの地球は、この広大無辺な宇宙の中で、現在判っている限り唯一無二の奇跡の惑星、水の惑星であり、私たちが気軽に裸でも生きられる星は宇宙広しといえどもここしかない、ここでしか私たちは命を未来へと繋いでゆくことはできないという認識に立った技術である。

現代版「ノアの方舟」と思われる「宇宙開発」や「宇宙ステーション」などという発想はほとんど無意味、というより宇宙空間を廃物と廃熱で汚して有害だし、そのようなものに期待を抱かせるのは罪でさえある、と私は考える。

「これからの経済」:次に示す4種類の行為ないしは過程と、それら4種類の行為・過程を通じて形成される人間と人間との社会関係と、人間と人間社会の自然(生態系)に対する一方的な従属関係の総体のことを言う。

 すなわち、①人間の共同体そのものを存続させるための、人の再生あるいは再生産にかかわる行為ないしは過程、②共同体の存続そのものを可能とさせる一次財の再生あるいは再生産のための自然の再生・修復・復元にかかわる行為ないしは過程、③共同体での生活の基礎をなす物質的二次財の生産に供する資源としての一次財を自然(生態系)から持続的に利用させてもらうための行為ないしは過程、④物質的二次財の生産・流通・分配・消費・廃棄あるいはその再利用に関わる行為ないしは過程と、それら4種類の行為・過程を通じて形成される人間と人間との社会関係と、同じく4種類の行為・過程を通じて形成される人間と人間社会の自然(生態系)に対する一方的な従属関係の総体のこと。

 なお、「近代」の経済とは、一般に、次のように定義されてきた。

 「人間の共同生活の基礎をなす財・サービスの生産・分配・消費の行為・過程、

ならびにそれを通して形成される人と人との社会関係の総体。」(広辞苑第六版)。

「経済成長」:これからの時代の経済成長とは、次の数式で表された結果のことを言う。

(上記に再定義された経済の活動によって、今年実現された個々の人間としての、あるいはその人間集団である社会としての、さらには国としての成熟度)−(同じく上記に再定義された経済の活動によって、昨年実現された個々の人間としての、あるいはその人間集団である社会としての、さらには国としての成熟度)

 

 ここに言う「成熟度」には、金銭の流れの「量」のみならず、経済活動によるその国の人々の幸福度や豊かさ感の増減の度合いや、男女間の権利の平等性の達成度や、自由や民主主義の達成度といったものが数値的に変換されたものも含まれる。また、経済活動による、その国の自然環境の汚染や破壊の進展度もマイナスの数値として含まれる。

 これまで「経済成長」という概念はGDP国内総生産)という指標を用いて表現されてきた。

ところがそのGDPには、金銭の流れを生む人間のすべての行為が含まれてしまっていたのだ。だからそこでは、例えば、環境を汚染する人間の経済活動も含まれていたし、資源を乱用する行為も含まれていた。例えば、まだ十分に使えるビルや構造物をあえて解体しては作り変えるといった行為がそれだ。それに、富の公正な分配ということも考慮しない経済活動も含まれていたし、社会の持続性ということも考慮しない経済活動も含まれてしまっていた。その反面、そうした経済活動によって、その国の人間の幸福度や豊かさ感がどれだけ増減したかとか、あるいは男女間の権利の平等性はどれだけ達成されたかとか、世界が普遍的価値と認める「自由や民主主義」はどれだけ達成されたかといったことが数値的に変換されて計量されるということはなかった。

 要するに、GDPとして計量されるのはあくまでも金銭の流れの「量」のみであって、しかもそこでは、そうした金銭の流れが起こる過程で、人間にとって、あるいは世界の人類にとってかけがえのないものの何がその国ではどれだけの量が失われたか、また、再生不能な自然や資源の何がどれだけその国では失われたか、という「人間にとっての価値」や「人類全体にとっての価値」の消失ということについては、一切考慮されるものではなかった。

 しかしそのことは、近代という時代を支配してきた経済のあり方が前述の定義で表現されるものであったこと、またその経済の成長を促してきたのが、これも既述した特性を本質に持つ「知性」に依る科学であったことを考えれば必然でさえあった。

 そしてそれだけに、近代の定義による経済の「成長」は、個々の人間にも、またその人間の集合体である社会にも、またその人間や社会を生かしてくれ、成り立たせてきてくれた自然に対しても、解決も克服も不能な難問を生じさせ、その結果、人間も社会も自然をも生き続けてはいけない「持続不可能な事態」を生じさせてしまったのも、また必然ではあった。

 つまり、このことから証明されるように、経済を成長させればさせるほど人類の存続の可能性を狭めてしまう近代の「経済成長」の概念は根本的に間違っていたと言えるし、そこには根本的な矛盾があった、ということだ。

 こうした事情から、「経済」という概念を前述した環境時代の経済の概念に止揚させると共に、「経済成長」の概念も、ここで再定義するものへと止揚させる必要があるのである。

 その「経済成長」とは、言わば、新たに定義された持続可能な「経済」の下での、人間としての、あるいは人間集団である社会としての、さらには国としての、量と質の両面を足し合わせた全体としての成熟度とでも言えるものだ。

 

「これからの開発」:つぎの2つを統合した、人間の自然と文化に対して働きかける行為のことである。

 1つは、着手しようとする対象だけに着目するのではなく、あるいは対象と周囲との関係を分断するのではなく、その対象とそれに連結する周囲との連続性を積極的に促進するとともに、対象とその周囲の全体を動的に、つまり時間の経過をも具体的に考慮して全体がより生き生きとするよう事業を進めること。

 たとえばその対象が土地開発であるならば、その土地を単なる生産手段として見るのではなく、地域固有の生命の多様性と共生と循環を担う生態系の一部として見て、それが連結する周囲との間での連続性を積極的に促進すること。

 1つは、旧時代の経済至上主義あるいは市場経済によって消滅させられあるいは埋もれさせられてしまった文化に光を当て、必要に応じて甦らせながら、そこの人々がそこの自然の中で培って来た伝統の文化と、その文化に込められて来た人々の智慧を学び、それらを積極的に活かし、またそれを洗練させて行くこと。

 この意味で、ここで定義する「これからの開発」は、これまでの次の3つの「開発」の概念とは明確に区別される。

一つは、国連が提唱している、いわゆる「持続可能な開発」と訳されている「Sustainable Development」(SDと称する)なる開発。

もう一つは、日本の国法の1つである「都市計画法」の中で言う「開発」あるいは「開発行為」。

そしてもう一つは、市場経済を至上とする世界銀行アジア開発銀行、アフリカ開発銀行などの多国間開発銀行とIMF(国際通貨機関)そして投資家たちが優先する「開発」。

 それぞれの中で「開発」は次のように定義されている。

SDでは、「未来の世代が自らの必要を充足しようとする能力を損なわないようにしながら、同時に現在の必要をも満足させられるような開発」。

都市計画法では、「建築物の建築または特定工作物の建設の用に供する目的で行う土地の区画形質の変更」(第四条12項)。

 市場経済至上主義者の開発とは、どのようなものであれ、「その貴重な資源に市場価値(値札)をつけ、利益を極大にするために、それをいかに効率よく使うか」を探ること。

 SDの定義は、余りにも抽象的すぎて、現実の諸問題に適用するには不向きであり、むしろほとんど無力と思われる。

 都市計画法での開発とは、一見して誰もが判るように、結局は、単に土地の区画を変え、土地をいじることでしかない。

 この都市計画法の「開発」の定義には、人間の自然に対する畏敬の念はおろか、「母なる大地」と形容される、土地の偉大さを尊敬する念とか、その上に生かさせてもらっている人間の感謝の念など微塵も見られない。むしろ人間の都合でどうにでもなるという傲慢な態度そのものが現れている。

 実際この「開発」の定義に基づく人間の経済行為が許認可されることによって、この国の国土が、どれほど傷め付けられ、世界に誇る美しい自然が壊されて来たことか。この定義こそ、田中角栄の「日本列島改造論」という土建国家構築構想以来、政府省庁、とくに建設省そしてその看板を取り替えただけの国土交通省の官僚をして、過去の歴史と文化とも、周辺の景観とも、どうやっても「調和」しようもないスクラップ・アンド・ビルドの建築物を日本中の大都市・中小都市の中に乱立させることを可能とさせた。また、日本中の小都市を画一的にミニ東京化させ、さらに日本中の山河には、どうやってもその風景には調和しようもない、周囲の生態系との循環を遮断するコンクリートの長大な塊の構造物を造らせ、山野には車も通らないのに立派すぎる林道をも至る所に構築することを可能とさせて来た。

 その結果、日本中に、一見きらびやかではあるがその実、自然が消失させられた中で、互いに自己主張しているだけのノッペラした建築群から成る、人間味や暮らしの匂いなどまるでない殺伐とした都市や、他生命の生存域であることなどまるで眼中になく、風情をなくし、人間の傲慢さを見せつける野山の景色だけが日本中に現出した。

 こうして自分たちの歴史を葬り去り、自分たちの伝統の文化を消滅させ、未来を視野に置かず、今の損得だけを見ることに慣れて来てしまった私たち国民のその多くは、今や、時間の大きな流れの中で自分の立っている位置を見失い、自分たち自身の心の拠り所をも失い、精神的に根無し草になってしまっているのである。

 

「進歩」:現実の暮らしあるいは経済活動の中で、時々刻々現れてくる無限の選択肢を前に

して、より多くの物事の相互関係について、その「調和」の実現を意識して選択できるようになってゆくこと。

 あるいは、自然と社会における物事をより広範囲の「調和」の実現に向けて自己そのものを支配しうる能力が高まって行くこと。

 あるいは他者の利益と幸福のために、先に定義済みの「自由」を欲しいままに使いこなせる人間になって行くこと。

「便利さ」:ある物事の目的を達成あるいは実現するために、もしもそれがなかったなら、最初から最後まで自分で考え、自分の手足を動かして対処しなくてはならないものを、あるいは自ら注意を払い続けなくてはならないことを、あるいは達成可能な範囲を広げたいと思うことについて、その目的を果たす全行程あるいはその一部を、他の機械あるいはシステムに代行してもらえることであり、また、その時に味わう気分のことであり、その気分の度合いのこと。

 

「安全保障」:これからの「環境時代」における「安全保障」とは、従来の「外部からの侵略に対して、国家および国民の安全を保障すること」という意味の安全保障に加えて、「環境問題」の悪化に因って生じる自国の国土と国民の生命と暮らしの安全に対する安全保障をも意味するものとする。

 なお、ここに「環境問題」の悪化に因って生じる自国の国土と国民の生命と暮らしの安全に対する安全保障とは、例えば、地球温暖化・気候変動あるいは生物多様性の消滅に因って生じた自然大災害に対する安全保障をいう。その自然大災害の中には、干ばつや冷害や特定昆虫の異常大量発生あるいは巨大化台風被害による食糧危機、国民が免疫を持っていない新型ウイルスによるパンデミックの危機をも含む。

 なぜ安全保障の概念をこのように改めるかというと、「外部からの侵略に対して、国家および国民の安全を保障すること」を意味するとされ、国家間でもそのように理解されて来たこれまでの安全保障の概念だけではこれからはとても不十分だからである。

と言うより、「環境問題」の悪化に因る国土と国民の生命に対する安全保障の方が、当初の意味での「外部からの侵略に対して、国家および国民の安全を保障すること」よりもはるかに身近で切実な問題となってきているからだ。

 なお、この場合、上記両者の安全保障を可能ならしめうるか否かの鍵を握るのが、この日本という国が本物の国家となり得ているか、ということだ。

その意味は、国土と国民にまさかの事態が生じたとき、国土と国民の安全を速やかに、かつ確実に守れる統治の体制が整えられているか否か、ということであり、言い換えると、この日本という国が本物の首相と本物の閣僚からなら本物の政府を持った本物の国家となり得ているか、ということでもある。

 それはさらに言い換えれば次のようになる。

 本来公僕である官僚・役人をコントロールするのが主要な役割でもある国民から選ばれた政治家たちが、もはや官僚への依存体質を止め、明治期以来、官僚たちが築いてきた政府の行政組織の「縦割り」を速やかに廃止し、外郭団体を含む全政府組織を風通しの良い組織に改め、国の統治上重要な全ての情報が、途中で握りつぶされたり滞ったりすることなく、合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者にまで最速で届く体制を整えることなのである。

4.1 本書で用いる主要用語の再定義———(その1)

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 現在、私は、拙著「持続可能な未来、こう築く」の中の第11章を公開中ですが、そして前回は11.4節を公開しましたが、今回と次回は、やや突飛な感はぬぐえないかもしれませんが、以下の理由により、これまで未公開なままにしてきた第4章の1節、つまり4.1節の「本書で用いる主要用語の再定義」について公開しようと思います。

 近年、この国では、私たち日本国民にとっての母国語である日本語が非常に軽々しく扱われるようになっています。それも、特にメディアに登場するような人たちの間で目立っています。せっかく先人たちが苦心して創り用いられてきた立派な日本語があるのに、それを用いずに、一体どういうつもりなのか私には判りませんが、やたらと英語もどきカタカナ表現をして見せるのです。そうした表現をした方が格好いいと思うのか、それともその母国語を真正面から用いるのが気がひけるのか、あるいは母国語に劣等意識があるのでしょうか。それとも、いつものように、他者が使うから自分もただそれを真似して使うだけという、自分というものを持たない姿をさらけ出しているだけなのか。なのか。

 例えば、尊敬という言葉をリスペクトと言ってみたり、道徳をモラルと言ったり、驚きをサプライズと言ったり、協力をコラボレーションと言ったり、危険をリスクと言ったり、警報をアラートと言ったり、証拠をエビデンスと言ったり、事実をファクトと言ったり、遺産をレガシーと言ったり、伝説をレジェンドと言ったり、復讐をリベンジと言ったりするのがそれです。また、災害予測をハザードと言ったり、優先順位付けをトリアージと言ったり、動機付けをモチベーションと言ったり、保存館をアーカイブと言ったりするのもそれです。

 あるいはかえって判りにくくなるのに、どうしてそこまで言葉を短縮して表現しなくてはならないのか、それほどまでに時間に追われているのか、と思われてしまうものもあります。発雷、発災、人流、等がそれです。

 そうした行為がどれほど母国語を衰えさせることになるか、またそれがどれほど軽薄な姿に映るか、著名人気分のご本人は気づいてもいない風です。本当に母国語を大切にしている人は、こうした姿は見せないのではないでしょうか。事実、例えば、英語を母国語とする人々で、自国を愛し、誇りに思う人々は、こんな外国語表現をするでしょうか。

 なお、こうした私たち日本国民の、その中でも特に近年の著名人の母国語に対する言語感覚と並んで、私にとってもう一つ極めて憂慮されることは、この日本という国の最高責任者たる首相とその周辺の政治家の言葉に対する認識と理解の余りの低劣さです。情けなく、また悲しいとしか言いようがない様です。残念ながら、このような人物が国際社会での「日本の顔」なのです。

 政治家の用いる言葉は、社会の他のどんな職業の人が語る言葉よりも重く、またこれ以上にない責任を伴うということが、彼らには解ってはいません。

 なぜそれほどに重く、責任があるか。

政治家こそが、その国の国民全ての人々の生命の安全と、自由の実現と、財産の確保の安全に直接影響を与える様々な法律や制度や政策を公式に決定できる権限と権力を、国の主権者である国民から、選挙を通じて付託されているからです。

そしてこうしたことを決めるにも、政治家は、つねに言葉をもって、国民に説明し、了解を得る必要があるのです。権力の行使にはつねに国民の合意が必要なのです。

 したがって、彼らが用いる言葉の意味内容とその言葉による論理は国民にはつねに明確でなくてはなりません。とりわけ政府という執行機関の長としての首相とその首相に任命された閣僚にはその自覚と能力が強く求められるのです。
そうでなかったなら、語る言葉の意味が政治家と国民との間で共有できないからです。それは議論の場である議会においても同様です。意味内容が明確となり、またそれが関係者の間に共有された上で、論理が明快でなかったならで、生産的な議論などできないからです。

 ところが、今の自民党政権の首相と閣僚たちの多くは、小学生に対してさえ恥ずかしい言語感覚です。菅義偉などは、議論の殿堂である国会において、質問には直接答えずに、同じ文言を6回も繰り返す始末です。国語の授業で「質問されたことに対して的確に答えること、そうでなかったらそれは答えたことにはならない」と教えられ、テストでも、それを守らなかったら×と教えられた小学生に、彼は、一国の総理大臣として一体なんと説明するのでしょう。

 たとえそれが国語の能力の欠如、議論ということの無知によるのではなく、意図的なはぐらかしであったとしても、この事実一つとってみただけでも、菅の態度は国民と民主主義と議論を愚弄する態度です。もうそれだけで首相どころか政治家失格と言うべきです。国旗の前でその都度恭しく頭を下げて見せる愛国心が見せかけでなく本物ならば、首相という座を自ら潔く辞するべきでしょう。

 本節では、言葉はあくまでも正確に用いられなくてはならない、意味内容は常に明確でなくてはならないという議論の際の原則を守るために、本拙著で用いている主要言語の意味内容を、著者である私なりに再定義しておこうと思います。

 本拙著では、常にこの再定義に基づく言葉の用い方をしてゆきます。

 

4.1 本書で用いる主要用語の再定義————————(その1)

 人が相手に対して何かを語ろうとするとき、あるいは複数で議論するとき、そこで用いている言葉の中でとくに要となる言葉の定義がなされていなかったり曖昧であったりした場合には、聞き手は、聞き手自身が以前から理解している意味のとおりに解釈してしまいがちなものだ。そうなると、その相手の人(たち)に伝えようとしている当人の意図は相手に正確に伝わらず、むしろすれ違いを起こしたり、ときには誤解すら生んでしまったりする可能性がある。

それでは議論は無意味になるどころか、時間の無駄でさえある。

 そこで私は、本書を書く上で、私にとって要となると考えられる用語について、その意味の正確な共有化を図るために、私なりに「定義」しておこうと思う。

 再定義を試みる用語とは次のものである。

「生命」、「自然」、「生態系」、「近代」、「近代化」、「環境問題」、「環境時代」、「社会」、「国と国家」、「地域」、「公共」、「権力」、「市民」、「新しい市民」、「原理」、「原則」、「理念」、「調和」、「民主主義」、「自由」、「平等」、「友愛」、「生命の多様性」、「生命の共生」、「生命の循環」、「生命主義」、「環境時代の科学」、「環境時代の技術」、「これからの経済」、「経済成長」、「これからの開発」、「進歩」、「便利さ」、「安全保障」

「生命」:外界から取り込んだ水と栄養(物質あるいはエネルギー)をその個体の内部の全域に分配し、その結果生じた廃物と廃熱と余分のエントロピーを外部に捨てるという循環過程を持続させることによってその個体としての全体を維持してゆく熱化学機関としての物質的実在であるだけではなく、性的に相異なる雄と雌という個体の「調和」的合体により、その雌雄の存在期間を超えて行く新たな個体を生み出す能力を持った物質的実在のこと。

「物質代謝」あるいは「新陳代謝」とは、こうしたモノの摂取と排出という全く相反する過程を通してその個体を構成する物質を変化させながら「内」と「外」とを連結させることを言い、「適応」とは、内と外とが互いに調和の関係を保つように維持することを言う。

 なお、その個体の内部と外界が、内部での循環と外界への廃棄ということを通して調和して連結しえているときには「健康」であり、内部に溜まった廃物・廃熱・余分のエントロピーを外界に捨てることが困難になったときには「病気」になり、それらを捨てることができなくなったとき、あるいは外界との関係が遮断あるいは分断されたとき、さらには外界に捨てる場所・空間がなくなったときには、内部の循環も止まり、全体を維持できなくなって「死」を迎えることになる。

 後述の「調和」の定義を参照。

「自然」:その地域に固有の地形・地質・気候等の諸条件の下で、その一部を孤立させると全

体が歪められてしまうという関係でどの部分も互いに連結して全体を構成し、しかもその全体は、一様に太陽エネルギー(太陽熱)を受けながら、水と大気と養分を作動物質として、質も規模も無数に異なった種類の循環をその中に生じさせながら、その過程において多様なあらゆる個々の生命を生かし、最終的にはその循環過程で発生した余分のエントロピーを熱に付随させて宇宙に向かって捨てることで全体のエントロピー量を一定に保っている、それ自体が生命体としてのしくみをもつ熱化学機関のこと。

 この「自然」は、岩石、土壌、河川、海洋という無機環境と、そこを生息場所としている植物、動物、微生物に分けて考えることができる。しかし、この無機環境(非生物的環境)と生物とは密接に結合していて、個々バラバラに切り離しては自然は存立できない関係にあるのである。

 

「生態系」:あるまとまった地域に生育する生物のすべてと、その生物の生育空間を満たす無機環境が形成する、上記の「自然」を構成している部分としての一つの系のこと(只木良也・吉良竜夫編「ヒトと森林」p.25)。そしてそれ自体も、地域固有の熱化学機関である。

 

「近代」:自然は人間の幸福実現のための手段であるとする前提条件の下、自然を細切れにし

て分析し計量化し因果律をもってすれば自然は合理的に認識でき理解できるとする自然観と、自然を人間の都合よいように改変することによって人間はより多くの富が得られ、その富を所有することでより多くの自由が実現でき進歩できるとする価値観と、さらに、人間の経済活動に道徳は無用としながら、企業により多くの利益をもたらしうる人間ほど価値ある人間とする人間観と、世界は右上がりの直線状で果てしなく発展を続けうるという世界観をこしらえては、たとえば人間の真の幸せや豊かさのこと、他生命のこと、環境のこと、資源のこと、伝統文化のことなど二の次、三の次にして、ひたすら「物を作っては売り、売っては儲ける」という形式の経済だけを社会の支配的なしくみとして来た時代のこと

「近代化」:とにかく、より多くの物質的金銭的利益を得ることが人間が豊かになることであるとして、上記の人間中心の自然観、価値観、人間観、世界観等のすべてが確立され、その下であらゆる社会の仕組みや法制度が整えられた中で、「コストをできる限り下げながら物を作っては売り、売っては儲ける」、そして「売ってしまえばおしまい」とする形式の経済とそのシステムが、よりよく発達し、しかもそれが支配的になるように仕向ける動き、あるいは図る動きのこと

「環境問題」:元々は、その内部を「大気と水と養分」が作動物質として遮断されることなく循環的に流れることにより、「自然」を一つの熱化学機関として成り立たせていたその流れが、人間が構築した長大で巨大な構築物によって遮断されたり、自然が本来持っていた物質を分解したり浄化したりする能力を超えた量の物質を人間が自然界に廃棄することによって滞ったり、さらには元々、自然界を構成する生命体にとっては毒物でしかない物質を人間が自然界において用いることによってかつて保たれていた食物循環・物質循環が分断されたりしてしまい、その結果として生じた次のような事態や状態や現象のこと。

 すなわち、地球が一つの連続した生態系もしくは生命体あるいは一つの熱化学機関であることはもはやできなくなり、それがために、人間の経済活動や産業活動によって大気中や海水中や土壌中に排出された廃物(この中には温室効果ガスという気体も含まれる)と廃熱、およびそれらに付随して発生したエントロピーという「汚れ」が地球という熱化学機関の外、つまり宇宙空間にうまく廃棄処理することができなくなり、地球表面上に溜まりに溜まり続け、地球という生命体がもはや健康状態ではいられなくなり、呼吸困難状態・窒息状態に陥ってしまっている状態。

 またその結果として、それまで維持されてきた地球上での全ての自然現象や生命現象あるいは全ての生命を健全に維持する働きが衰え、かつてあったその安定性や再現性や周期性を次々と急速に失わせてしまっている状態。

 これらは全て、特に産業革命以降の、つまり既述の「近代化」の動きに伴って、人間の経済活動や産業活動によって生じた現象なのである。

 具体的な現象としてはたとえば次のようなものがある。

紫外線の強烈化。高温化。一日の中でのめまぐるしい気象変化と気温変動。季節の特徴と季節の区切りの不明確化。生態の北上(北半球)。同一地での気候の干ばつ化・砂漠化。河川や湖沼での渇水。井戸の渇水。これまでは見ることも聞くこともなかった竜巻・突風の頻発化。台風やハリケーンの大規模化と強力化。相異なる地での熱波と寒波の同時発生とその頻発化。同じく大洪水と大干ばつの同時発生とその頻発化。森林や熱帯雨林の消失と砂漠化。草原の砂漠化。氷河・氷山の溶解による消失。海面上昇と国土の消滅とそれによる環境難民の大量発生。凶作・飢餓・飢饉の頻発化。

生物の多様性の消失。またそのことに因る特定生物種の異常発生と絶滅。感染症マラリアデング熱等)の頻発化とその拡大、・・・・。

 

「環境時代」:人類を含む全生命の存続を不可能としてしまう環境問題を引き起こした根本原因としての近代の自然観・世界観・価値観を超えて、さらにはこれらのものの見方の下に発展させてきた大量生産様式を含む経済制度とその中で普及させてきた生活様式をも転換させて、もはや「資本の論理」や「競争の原理」に依るのではなく、また人間中心の「自由」や「民主主義」に依るのでもなく、人間個々人にとっての最高の価値と見られる「幸福」を頂点とする「人間固有の諸価値の階層性」の存在を念頭に置きながら、「エントロピーの原理」と「生命の原理」と「新・人類普遍の原理」を国や社会の主導的原理と定める「生命主義」を実現させることを主たる目標とする時代のこと。

 すなわち、人類史において「近代」という時代が果たしてきた役割と使命が意味を持つ時代は終焉を見たとする「ポスト近代」としての時代のことで、もはや人類中心主義の時代ではなく、人類を含むあらゆる多様な生命が自然界においてその本来の存在意義と役割を果たしながら、共に他生命を尊重しながら生きるべきとする新しい時代のこと。

「社会」:個としての人が、共に住み共に働き、互いに支え合い、自分の必要を等しく満たしながら、互いに人間らしく生きて行けるようになることを目指す人間の一集団のこと。

 ここでの「必要」には、単に経済的なものや物質的なもののみならず、宗教的・精神的・文化的・芸術的なものまで、さまざまなものが含まれる。

「国家と国」:社会を上記のように定義するとき、国家とは、その社会がその社会を構成するあらゆる個人または集団に対して合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合されている社会のことを言う。

 とくにこの定義を日本国に当てはめようとするときには、「合法的に」と「最高な」と「一個の」という文言に注意を払う必要がある。

つまり、政府組織内あるいは行政組織内の実態が、いわゆる「縦割り」のままであったり、各府省庁間の連絡や意思疎通がなかったり、合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者に国の運営上必要な情報が速やかに伝達されなかったり、ましてやその情報が一部の者によって途中で握りつぶされたりするような政府の状態は、国家とは到底言えない。

 なお、国家と中央政府をはっきりと区別することは極めて重要である。それは、国家の目的は国家の成員が彼らの欲望の最大満足を得ることができるような条件を創り出すことであるが、その国家自身は決して行動しないからである。そのため、国家は、その目的に沿って、政策を決定する権限を得た人々———すなわち、選挙で主権者から選ばれた人々、つまり政治家である。官僚ないしは役人ではない———に代わって行動してもらうのである。

この一団の人々をこそ私たちが国家の政府と称するものなのである。

 したがって、政府は国家の代理者に過ぎず、政府そのものが国家なのではない。

政府はあくまでも国家の諸目的を遂行するためにのみ存在するのである。

その政府は、それ自体が最高強制権力なのではなく、ただ、この権力の諸目的を実現する行政の機構に過ぎない。

 このことから、政府のことをクニと呼ぶのは明らかに間違いである。

ついでに言えば、都庁のことをト(都)と呼ぶのも、道庁のことをドウ(道)と呼んだり、府庁のことをフ(府)と呼んだり、県庁のことをケン(県)と呼んだりするのも明らかに間違いだし、市役所のことをシ(市)と呼んだり、町役場のことをチョウ(町)と呼んだり、村役場のことをソン(村)と呼んだりするのも、明らかに間違いである。

 そうした呼び方では、いずれも、行動する代理者を指し示していることにはならないからだ。

「地域」:気候的・地形的・地質的・伝統文化的・歴史的に見て、一つの共通性を持った地

理的範囲のこと

「公共」:辞書的には単に「社会一般」あるいは「おおやけ」と説明されるが(広辞苑)、本書では、人民・住民・国民あるいは市民と呼ばれる政治的主体からなる社会一般のこと、と定義する。

 だから公共とは、明治期に「お上」と呼ばれた「天皇」のことではないし、その後、官庁と呼ばれた中央政府のことでもなければ、ましてやそこに働く官僚のことでもない。また役所と呼ばれた地方政府のことでもなければ、同じくそこに働く役人のことでも決してない。

 したがって、現行日本国憲法第二十九条に言う「公共の福祉」とは、役所や役人にとっての幸福の意味ではなく、人民・住民・国民あるいは市民からなる社会一般にとっての幸福の意味となる。

 このことから、たとえば「公共事業」とは、役所や役人のための事業ではなく、あくまでも上記構成員からなる社会一般の福祉のため、あるいはそれを向上させるための事業のこと、となる。

 なお、「公共性」とは、以上のことから、人民・住民・国民あるいは市民一般にとって役立つという意味を強く持つだけではなく、一人ひとりの個人の誰にでも開かれ、公開されているという意味をも持っているのである(中村雄二郎「公と私についての考察」岩波「世界」1975年6月号)。

 これまでは、「公共機関」と言うと、同じく辞書的には「国や地方自治体が設置する機関、また、電気・ガス・通信・交通など、公共的性格の高い事業を営む機関」と説明されてきたが(同じく広辞苑)、それはきわめて誤解をもたらす説明であることが判る。それらの機関は、日本ではほとんど私企業であり、上記の公共性とは相容れない私的利益の追求を最優先にして来たからだ。

 したがって、これからの「公共機関」の定義とは、「人民・住民・国民あるいは市民一般にとって役立つ事業を行うと同時に、その運営のされ方がその社会の個人の誰にでも開かれ、公開されている機関のこと」、とされるべきであろう。

 なおここで、公共を構成する人々の呼称を整理することをも私は試みる。

それは、この国では、歴史的に、統治者や権力者によって使い分けられて来た言葉の種類が余りにも多いからである。整理の対象とするのは、「大衆」「平民」「庶民」「民衆」「公衆」「公民」「人民」「住民」「国民」そして「市民」である。

 それらは、辞書的には、これまで、次のような意味の人々とされて来た。

大衆とは、納税の義務を含む社会的義務を果たすことを互いに合意した、未組織の一般勤労階級のこと

平民とは、官位のない世間一般の人々のこと

庶民とは、もろもろの民。世間一般の人々。貴族などに対し、なみの人々

民衆とは、世間一般の人民のこと

公衆とは、特定の個人に限定されない社会一般の人々のこと

公民とは、国政に参与する地位における国民のこと

人民とは、国家・社会を構成する人。とくに国家の支配者に対して被支配者のこと

住民とは、その土地に住んでいる人のこと

国民とは、国家の統治権の下にある人民のこと。国家を構成する人間。国籍を保有する者。

市民とは、広く、公共空間の形成に自立的・自発的に参加する人々。

 しかし、環境時代の今後は、公共の構成員としての呼び名はせいぜい国民・住民・人民・市民の4つで十分なのではないかと私は思う。そのうちでもとくに今後ますます重要な社会的存在となって行くと思われるのは「市民」である。それは、政治的に覚醒し、権力者や支配者にはつねに懐疑的に向かい合おうとする主権的人間のことである。

他の大衆・公衆・庶民・民衆・平民・公民という用語はもはや廃語または積極的に死語にすべきではないか、と私は思う。

 なぜなら、上記の意味の辞書的説明からも判るように、その説明を厳密に考えれば考えるほどその意味は曖昧となってしまうからだ。それに、大衆・公衆・庶民・民衆・平民・公民も、結局は国民・住民・人民・市民と同一の人々を指しているに過ぎないからだ。それなのに、敢えてこれほど様々な言い方を存続させてしまうということは、社会の人々を分断しては統治しようとする管理者や統治者にとっては好都合なことかも知れないが、協働し、連帯し、団結することで日々の生活の平和と安定を図り、不安や悩みを乗り切ってゆこうとする私たち国民一般の目からすれば、そのような多種類の言葉をもって人々を区別してしまうこと自体が、公共の構成員である私たち一人ひとりが、国民の間に自ら区別または差別を持ち込んで、分断を助長してしまうことになりかねないからだ。

 

「権力」:他者をおさえつけ支配する力のこと。

そして、略して政権と呼ばれる政治権力とは、国の統治機関を動かす権力のこと。

より詳しく言うと、「社会集団内で、その集団の決定した意思への服従を強制することができる、排他的な正統性を認められた権力のこと」(広辞苑第六版)。

では、その一般の、他者をおさえつけ支配する力としての権力は何に根拠を持ち、何に拠って正統性を持つか。とくに政治権力は何に根拠を持つか。

 これは近代政治学政治学の根本原理として教えていることであり、それは統治され支配される人々の同意である(H.J.ラスキ「国家」p.9 岩波現代叢書)。

 ここに、「人々の合意」あるいは「人々によって合意されている」とは、権力行使の度に人々の合意を取り付けるということは現実的ではないので、この意味は、結局のところ、その者が掲げる公約が選挙で人々に支持されて選ばれた人々の代表が国権の最高機関である国会にて民主的に合議し議決して成立し定まった法律に基づかねばならない、ということを意味する。

 このことは逆に言えば、権力を行使することに人々が同意していない者(例えば官吏任用試験をパスしただけの役人)が行使する権力については、人々は服従する義務はないし、ましてやその者が恣意的に行使する権力、臨機の命令に依る権力行使についてはなおさらである。「行政指導」や「通達」はその好例だ。「要請」も同様だ。

 したがって、たとえば中央政府(の官僚)から発せられるこの種の臨機の命令や不明瞭な決定や指示には都道府県庁ないしは市町村役場の役人はそれに服従する義務は無いし、国民もそのような恣意的かつ臨機の権力の行使には服従する義務はないのである。

 

 権力の行使の根拠と正統性は、いずれも国民の権利を擁護しようとする考え方に基づくものであり、その考え方は「法の支配」にも通じる。

権力とその行使は、つねに人々の同意に依るものであり、公布され定まった法に拠らねばならない、とする考え方である。

 なお法律とは、社会の全ての人々に、例外なしに等しく、その行動を、その人の生死を制する力によって強制的に規制する決まりのことであることを考えると、法をつくることは最大の権力行使なのだ。

だから立法権は国家の最高権となるのである。しかし立法権は、ある特定の目的のために———たとえば選挙時、立候補者が有権者と交わした公約の実行・実現のために———行動する信託的権力に過ぎない。

有権者は立候補者に対して、その立候補者が掲げる公約を支持し、それを実現してもらいたいから、それを実現するために必要な権力をその候補者に信託または負託するのである。だから、政治家になったその者は、自らが掲げた公約を実現するためにのみ、有権者に信託されたその権力を行使しなくてはならない。

 つまり、国民は、無条件あるいは白紙で、権力を託しているわけではないし、ましてやその行使を容認しているわけでもなあい。

 また、このことから判るように、立法権を信託された者が、その権力を他者(例えば執行機関の官僚ないしは役人)に委譲することも放任することもできないし、主権者である有権者はそれを許してはいないのである。

 したがってもし有権者あるいは国民に公約していなかった事柄について立法したり、ましてや国民が反対している事柄について立法したりすることは、民主主義に完全に反する行為であるため、そんな権力を行使した者は、直ちに、あるいはいつでも、必然的に、有権者から負託された権力は国民によって、弁明無用で、剥奪されねばならないのである (ジョン・ロックp.151)。

 ただしここで特に注意しなくてはならないことがある。

人々は、その権力に服従するのも、単に服従せんがために服従するのではない。人々はその権力の作用によって、人々の目的、つまり自分たちの生命・自由・財産の安全な保護が達せられると信じるがゆえに、権力の行使あるいは支配に服従するのである(H.J.ラスキ「国家」p.2)。

 

「市民」:下記に定義する「自由」と「平等」そして「友愛」の精神をわが物とし、社会的義

務と責任を負うことを自ら同意した、権力に対してつねに懐疑的な、政治的に覚醒した人びとのこと。あるいは、自分たちの国と自分たちがどのように統治されるべきかについて発言権を持っていると自覚する政治的存在のこと(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないか」p.347)。

 したがってそれは、例えば、単に「◯◯市の住民」という意味ではない。

人それぞれが個人として、また人間として生きて行ける社会や国を作ってゆく上で、決定的に重要な概念である。

「新しい市民」:既述の環境時代において、二種類の指導原理を我が物とした、上記の意味での市民のことを言う。

「原理」:「社会」あるいは「自然」(共に、先に定義)の中を貫いてそれらを成り立たせて

いる、人智・人力を超えた理(ことわり)であり掟であり法則のこと。

あるいは、あらゆる現象と矛盾のないことを言い表していて、真なることを証明する必要のない命題のこと。

したがって、原理とは、人間の都合によっては変えることのできないもの

「原則」:「社会」と人間にのみ当てはまるもので、社会をよりよく、かつ円滑に成り立た

せるために、人間が、時には原理に基づき、また時には経験に基づき、意識的につくった掟であり規則であり作法のこと

人間がつくったものであるから、不都合ならばいつでも変えることはできるもの

「理念」:現実を評価する基準(物差し)であり、現実をある高みにまで高めるための目標

ともなるもの。したがって、ものごとに着手するとき、その進め方や打つべき手あるいは向うべき方向が判らなくなったり見失ったりしたときや、考えるべき方向が判らなくなったりしたときなどには、いつでもそこに戻って行くことによってその不明に対して答えを示唆してくれ、進み行くべき方向を再確認させてくれる羅針盤ともなるもの

「調和」: たとえば白と黒、表と裏、内と外、賛成と反対、上と下、北と南、右と左、天と地、連続と不連続、アナログとデジタル、肉体と精神、生と死、勉強と遊び、仕事と余暇、形式と内容、分解と合成、部分と全体、主体と客体、創造と模倣、時間と空間、偶然と必然、損と得、量と質、権利と義務、自由と平等、自由と規律、自由と拘束、自由と計画、個と全体、私と公、豊かさと貧しさ、善と悪、美しさと醜さ、歓びと悲しみ、愛と憎しみ、傲慢と卑屈、支配と服従服従と抵抗、圧政と隷従、自発と追随、多様性と共生、共生と循環、循環と多様性、見えるものと見えないもの、変えるべきものと変えてはならないもの、理系と文系、本物と偽物、真実と嘘、国民と政府、市民と国家、自由主義立憲主義、民主制と官僚制、愛国心国家主義唯物論と唯心論(観念論)、納税と徴税、グローバル(世界化)とローカル(地域化)、中央と地方、集中と分散、都市と農村、農業と工業、生産と消費、競争と共存、資本主義と社会主義、文明と文化、等々といったように、自然や社会や人間に関わる概念には、互いに相反する意味を持ちながら、それでいて切り離せない関係にあるものが無数にあるものである。

 その両者の間のありようは、意味は相反し、相対立し、相矛盾し合う関係にありながらも、よくよく考えると、相手を排除したり否定したりする関係となっているのではなく、むしろ、一方が他方の存在条件あるいは成立条件となっていて、一方がなくなれば他方も存在することも、あるいはその意味を保つことも出来なくなるという関係にあることが判る。すなわちその関係は不可分なのだ。また、状況や見方が変われば、一方がいつでも他方になり得るという関係にあることも判る。

 たとえば、白は、黒があるからこそ白としての意味を持ち、黒は、白があるからこそ黒としての意味を持つのであって、もしどちらかがなくなってしまったり、あるいはどちらかが存在していなかったなら、もう一方もなくなってしまうし、存在し得なかった。またたとえば、「悪」はいけないものだ、あってはならないものだとしてそれをすべてこの世の中からなくそうとしたら、そして仮になくなってしまったなら、そのとき、同時に、善も、「善」そのものも、その意味も失ってしまうのだ。

 そういう意味で、両者の関係は、互いに他方を内包している関係にある。

また、同じく両者の間では、ある緊張状態がつねに存在する、あるいは緊張状態をつねに強いられる。状況次第では、いつでも一方が他方になりうるからだ。

その緊張状態とは、時に、「牽制の状態」、「葛藤の状態」、「闘争の状態」、「危機を意識した状態」、言い換えれば、「そこに新たな創造や発展が生まれる可能性を秘めた状態」といった形で現れる。

 ただし、ここでとくに気を付けなくてはならないことは、上記のような対からなる2つの概念は、ちょうど弦で結ばれた弓の両端に位置する概念のようなもので、人の目には見えない両概念を緊張を持って結ぶその弦の上には、あるいはその両極に位置する両者の概念の間には、互いに他方の概念の意味を、程度は違いながらも内に持つ無限の数の状態が存在するということだ。

この意味は、たとえば、「白と黒」の対を取り上げたとき、完全な白と完全な黒との間には、白でも、限りなく黒に近い白もあれば、黒でも、限りなく白に近い黒もあるということである。

 このように調和とは、二つの対概念あるいは事物・状態の関係のありようが、「互いに独立あるいは自立」と「対等あるいは平等」を保ちながらも、「双方が、互いに他方の存在条件あるいは成立条件」となり、緊張を維持しながら、相手を排除したり否定したりするのではなく、むしろ、互いに補完し合いながら存在して、そこに新たな創造あるいは発展を生む可能性を秘めた2つの関係のありようのこと、と定義することができるのである。

 だから調和とは、よく言われるような、単なる「二項対立」「二律背反」の関係あるいは状態のことではない。「対立の構図」の中で、どちらか一方を選ぶというようなことでもない。また、単なる「中和」「融和」「中庸」「中道」の状態でもない。単に「バランス」「均衡」「釣り合い」をとった状態でもない。どっち付かずの「中途半端」な状態でもないし、単に「足して2で割る」というような折衷的なものでもない。互いにゴチャ混ぜにして「曖昧」にすることでもないし、物事を最終的に「玉虫色」にしてしまったり、「喧嘩両成敗」と正邪を曖昧にしてしまったりすることでもない。「折り合いを付ける」といった妥協することでもないし、「いいとこ取りする」ことでももちろんなければ、「馴れ合う」ことでもない。

 だから、この調和の関係にある一組から、単に二者択一的に一方を選択するというのでは両者の意味・本質を本当に考慮していることにはならない。

 たとえば、「経済か環境か」、「開発か環境か」、「景観保護か地域振興か」、「保護貿易自由貿易か」、「中央集権か地方分権か」、「資本主義か共産主義か」、「農業か工業か」、「大きい政府か小さい政府か」、「民営か国営か」、「憲法改正か改正反対か」といった問題とか、あるいはまた集団と個人との関係における「関係優先か個人優先か」とか、教育面における「画一教育か個別教育か」、「自由か規律か」、「体罰は是か否か」とか、医療面において、苦しむ癌患者に対していのちを止めることは「殺人か安楽死か」といったような課題に直面した際、単純に一方のみを選択するというのでは、目の前の状況の問題の本質を見据えたことにもならなければ根本から解決することにも結びつかない。それは両者を生かし、両者の事情を汲み取り、それを一段高い次元で統一させて解決を図る見方・方法ではないからである。

そしてこのことはとくにこの国の国会を含む議会においてとくに強く求められる。

互いに相手の意見に真摯に耳を傾けることで新たな発見、新たな成長があり得るし、それによって双方が発展し、その結果、それまでの考えから一歩も二歩も進んだ自分になり集団となりうるからだ。議論をする意義は正にそこにある。相手を尊重せずに、反対することや賛成することを前提にし、ただ互いに主張し合うというのは、議論でも話し合いでもない。そのような場は、たとえ歩み寄りが見えたかに見えても、結果的には、むしろ対立を深め、問題の根本解決を先送りしただけにしかならない。

 議論する場合には、ちょうど社会の圧倒的多数の人は、まったく健康な人と、不幸にも瀕死の重体あるいは危篤状態にある人の間のどこかの状態にあるのと同じで、議論する両者の主張の間には無数の「状態」あるいは「場合」があり得ることを考慮していなくてはならない。

 とはいえ、現実には、一組のうちのいずれか一方を、あるいはその両極間のどこかに位置するどれかを最終的には選択しなくてはならなくなる。

しかしその場合も、選ぶ過程において、選択から漏れてしまわざるをえない「状態」あるいは「場合」に対してもどれだけ思いを寄せたか、その程度によって、たとえ選んだ結果が見た目には同じように見えても、その選択に至る過程を見守る周囲の見方は異なり、結果、その後の全体の推移の仕方は、大いに異なったものとなってしまうのである。

 世によく問われる「バランス感覚」とは、このように、二極の存在を念頭におきながら、しかも、その間にも無数の選択肢があることを弁えながら、そのうちのどれかを選択できる判断力のこと、を言うのではないか。

 なお、調和という考え方を人間の社会の事物や世界の事物に適用し、調和の状態を拡大して行くには次のように考えればよいのではないかと思う。

一対となっている2つのAとBの関係において調和を実現させられれば、新たな第3のCとの調和は、先に対の関係にあったAとBのどちらか一方との間で実現させることを考えることで実現できる。

 こうして次々と、あるいは時々刻々、選択の対象として目の前に現れてくる任意の2つのAとB、BとC、そしてCとD、……に着目してそれぞれの間で調和を実現させて行けば、現実の社会あるいは世界を構成している諸要素は、いつしか、自然と、多くのものが互いに調和を達成した状態に近づいて行く、ということが期待できるからである。

 なお、ここで言う調和とは、文字通り「和を調べること」とも読めることからも判るように、聖徳太子が制定した十七条憲法(西暦604年)における「和」あるいは「和の精神」とは明確に違う。

和ないしは和の精神は、その第二条に「忤うことなきを宗とせよ」としていることからも判るように、正邪の区別も判断させず、喧嘩両成敗的な性格を本質とするもので、あくまでも統治者の立場から秩序を保つための呼びかけあるいは戒めと言えるものでしかない。

 それに対してここで私が訴える調和とは、既述のように、対の関係にある両者のありようや両者の意味していること、あるいはそのそれぞれの本質を吟味し、その両者を生かしながらも、一段と高いレベルで統一することを目ざすものである。

 そういう意味で、これからのこの国と国民にとって本当に大切にしなくてはならないものの考え方や生き方とは何かを探る上においては、政治面でも経済面でも社会面でも、そして教育面、福祉面でも、また人権を含む人間相互のあり方に関しても、これまでの上から呼び掛けられた「和」の観点からではなく、ここで定義するような「調和」に依拠した見方と判断の仕方こそが求められているのではないか、と私は考えるのである。

 

 

11.4 経済の国内化、そしてさらに地域化————————————(その2)

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11.4 経済の国内化、そしてさらに地域化——————(その2)

 これからの日本の経済とそのシステムのありようを考えるときには、私たちは一切の先入観や固定観念を捨てて、今見て来た状況を直視する必要があると私は思う。

それは、文字通り、一人ひとりがデカルトが近代という時代を開くときにとったと同じ心境と態度に立つことなのである(野田又夫デカルト岩波新書p.6)。そしてそれは、すべての既往の知識や制度あるいはシステム、さらには常識とされてきた事柄をも率直かつ単純に省みたり疑ってみたりして、曇りや打算のない自由な精神をもって世界を客観的に見据えることにより、そこから疑い得ぬ真の姿やあり方を見出そう、という心境と態度である。

もちろんそこでは勇気が要る。見たくないものは見たくない、聞きたくないものは聞きたくない、知りたくないものは知りたくないという態度は、気まぐれであり、曇りや打算のない自由な精神を持った態度とは言えないのである。

 そういう態度を取ろうとすると、例えば、次のような問いがすぐにも浮かんで来るのではないだろうか。

 それは、あなたも私も、自分の子や孫たちがとにかく末長く生きられる、それも誰もが取り残されることなく、また「人間」として「安心」して生きられるということを心から願うのであれば、その時、それに比べたら、目先の便利さや快適さを実現することに拘ったり、飽食できることや、物質的に豊かになることに執着したりすることはどれほどの意味があるのだろうか、と。

 あるいは、ギャンブルとしての性質と制度を本質的に持つ社会の中で、自分だけお金を儲けようと野心を持つことにどれほどの意味があるのだろうか、と。

そしてそうした価値の階層性や優先度を履き違えた欲求を抱き続けることが、結局は、資本主義という考え方とその経済という制度を発展させてきたのだし、その結果として、私たち人間は、私たちヒトを含む全ての生命を何万年と生かしてきてくれたこの「奇跡の星」「水の惑星」とされた地球の陸と海と空を汚してしまい、あるいは地球が生命体として持つ仕組みを壊してしまい、この地球を私たち人間自身が生きてゆくことのできない惑星にしてきてしまったのではないか、と。

 そもそもこれまでずっと人々の間で強迫観念のように拘り続けてきた「経済成長」とは何なのか、経済成長しなくてはならないと特に力説して来たのは一体誰なのか、何を持って経済成長を計って来たのか、一体そこで言う「成長」とは何がどうなることなのか、と。

 それに、私たち人間は一体何のために生きるのか、つまり生きる目的や生きる意義とは何なのか、と。

 その生きる目的や意義をじっくり考えてみた時、金科玉条のごとくに強調し続けられてきた「経済成長」は、自然と社会と人間にとって一体どれほどの意味と価値があったのか、と。

 その場合も、近代資本主義も終わっている、したがって近代という時代もとうに終わっているという事実をもそこに重ね合わせるならば、これからの日本の経済とそのシステムのあり方とは、近代資本主義の最後の姿としての経済の世界化(グローバリゼーション)でもなければネオ・リベラリズム新自由主義)に基づくものでもないことも明らかではないか、と。

もちろんその時、生産性とか効率性あるいは競争という発想もこれまでのような意味は失うし、「果てしなき経済発展」とか「果てしなき工業生産力の向上」という考え方も過去のものとなる。

「雇用」あるいは「雇用の創出とか確保」という考え方も二義的な意味しか持たなくなり、とにかく最優先されるのは、「誰一人置き去りにされることなく、みんなが、誠実に生きる中で、心豊かに安心して生きられる」ということなのではないか、と。

そしてその時、特にこの日本という国の経済とそのシステムのあり方で求められることは、もはやこれまでのような、官僚による、官僚の恣意に拠る統制経済とは根本から異なるものでなくてはならない、ということではないかと。というより、本当の意味で、民主主義に基づく経済システムになる、ということなのではないか、と。

 

 実はこうした根本的な疑問に答え、発想を叶えてくれるのが、先に記してきた《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》、そして小規模で分散し、経済的に自立し、政治的に自決権を確立するとした《都市および集落の三種の原則》なのではないか、と私は考えるのである。

 なぜなら、こうした原理や原則に従うとき、例えば次のような発想も無理なく生まれてくるのではないかと考えるからだ。

 それは、人が生きてゆく上で不可欠な喰い物の生産と流通と消費の過程も根本から改められるべきではないか。

 私たち人間の居住形態である都市や集落の規模を含めたあり方をも根本から転換させなくてはならないのではないか。

 一方、人が生きてゆく上で不可欠ではない物の生産と流通と消費の過程は根本から変革しなくてはならないのではないか。それは、何でもかんでも身近な物品にプラスティックを用いるという生活様式は止めるべきとし、もし用いるのであれば、本当にプラスティックでなくてはダメなところや部分にのみ限定して用いるとすべきなのではないか。

むしろこれからは大量生産システムによって廃れさせられた伝統工芸文化を蘇らせて、プラスティックに代わって、自然素材で手作りすべきなのではないか、等々といった発想だ。

 こうなれば、モノやカネの国境を超えた移動は劇的に減らせる。

それは言い換えれば、これまで、度々生じてきた世界規模の、「オイルショック」、「食糧危機」、「金融危機」、「世界恐慌」等の外の事情に振り回されたり巻き込まれたりすることもなくなる、ということを意味する。また、航空機や船舶の航行を激減させられることをも意味するとともに、高速道路を含めて、自動車交通そのものをも激減させられることをも意味する。したがって電気自動車(EV)をも不要となる。都市や集落の中では公共乗り物か徒歩で行き来ができるようになり、都市間移動は、一度に大量輸送を可能とする鉄道などの公共乗り物がそれを可能とするのである。

 それだけではない。例えば、不幸にしてどこかの国のどこかの地域で新種のウイルスや菌による感染症が発生したとしても、それが他の地域に広がることはなく、発生したその地域内で押さえ込めるのである。

 またそうなれば、温室効果ガスの発生とその量も自ずと抑えられ、生物多様性の消滅の危機も自動的に緩和されてゆき、それと並行して、かつての美しい自然が蘇り、人々の間では競争に追い立てられることもなくなり、人々は安らかな気持ちで日々を暮らして行けるようになるのである。・・・・・・・・。

 

 こうした発想から、これからの時代では————すなわち私の定義する環境時代では(4.1節)————もはや好むと好まざるとにかかわらず、経済のグローバル化を止め経済の国内化、さらには経済の地域化を進めることは必然的帰結であろう、と私は思うのである。

 言うまでもなくそこではもはや、TPP、FTAEPA、TiSA(新サービス貿易協定)そしてRCEPといった貿易協定は必然的に一切無意味になる。特許制度といったものも無意味になるかも知れない。

もちろんそうなれば、IT(情報技術)の社会である必要もない。AI(人工頭脳)の社会である必要もない。したがって、そこでは、「ロボットに仕事を奪われる」とか、「人間の仕事がなくなる」といった類いの心配もまったく無用となるのである。

 

 では、経済とそのシステムを国内化させ、さらにはそれを地域化させるとは一体どういうことか。具体的にはどうすることか。

それは、要約して言えば、世界各国において、各地域毎に出来るだけ小さくまとまって、その地域の人々が生きて生活して行く上で必要なものは、その地域の自然を再生あるいは復元することを通じて、極力、自然の力に拠り生み出し、そのことによって経済を成り立たせ、私たちが生かさせてもらえるシステムを構築する、ということである。

 そしてそのとき、その社会を土台から支える技術は、ITやAIとは無縁の、ヒューマン・スケール、すなわち等身大の技術、言い換えれば故障しても人間の手で修復できる技術、中の仕組みが判る技術、作り手の思いや心意気を感じられる血の通った技術、人間と共にある技術、人間を孤立に追いやらない技術等となる。

 ここで、これまでの考え方の上に立って、明確に抑えておかなくてはならないことがある。それは、どんな産業であれ、それらは結局は人々が生きて暮らして行けるようになるためにこそある、ということである。「産業」が、あるいは「産業が生き残れること」が先にあるのでは決してなく、「すべての人々が共に生きられること、取り残されないこと」がつねに優先されるということである。絶対にその逆ではない。

そしてその場合も、ただ「生きられる、取り残されない」ではない、「人間としてより良く生きる」ということである。

 だからその経済システムは目先の考え方や思いつき程度の考え方に拠るものであってはならないのだ。人類がこれまで科学を通して獲得して来た原理に拠らねばならない。それが《エントロピー発生の原理》であり《生命の原理》と私は考えるのである。

 要するに、ここで言う地域化された経済システムとは、人々が自然を尊敬し、その自然と共に生きる中で、「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ、人間であり得る」(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫p.97)を体現したシステムなのである。

したがって、それが実現されるためには、《都市および集落としての三種の原則》も同時に満たされる必要があるのである。

 

 なおここで誤解を防ぐために強調しておかねばならないことがある。

それは、経済の国内化・地域化とは言っても、世界の中で、ないしは国の中で孤立しよう、保守的・保護的になろう、とすることでは断じてないということだ。そうではなくむしろ積極的に自立・自営・自決をめざし、心と情報はむしろ積極的にオープンにして行こうとすることなのである。

 確かにそこでは、その地域の人々が生きて行く上、生活して行く上で本当に必要なものを除いては、国境ないしは地域境界を超えての物(お金・資源・エネルギー・製品・商品)の出入りは自粛し、あるいは止める。が、人の交流、情報の交流はむしろ促進し活発化させるのである。地域間でのつながりは積極的に求めるのである。

 それぞれの地域は、自分たちの祖先の代から置かれてきた地理的・地形的・自然的条件の中で培われて来た歴史を振り返り、かつて人々はどういうときにどういう生き方をして来たのかを確認し、埋もれた文化をも自ら発掘し、再評価ないし再検討し、それらを批判的に伝承しながら、さらに切磋琢磨し合って洗練させてゆくのである。

それは、必然的に、人々をして、地域愛をも、祖国愛をも高めると同時に、自己認識をも深め、アイデンティティをも確かなものとしてゆくだろう。

 近代の資本主義これとはまったく逆の考え方に立つ経済でありシステムだった。とにかく、あらゆる面で、いかにして利益をより多く上げるかということだけに主眼が置かれ、それゆえ、「カネにならないものは無価値」、「利益を生まない者は無用」とされ、またその見方にほとんどの者をして疑問すら持たせない経済でありシステムだった。

 そしてその資本主義を支え発展させてきたのが近代の科学技術であった。しかしその科学技術はあくまでも「知性」に基づくものだった。でも、その知性ももはや「理性」に取って代わられなくてはならない時代なのだ。少なくとも私たちは、私たちの将来世代からそのことを求められていると私は考えるのである。

 

 こうしてどこの地域でも、人々は、汚染し、破壊して来た自分たちの地域固有の自然を再生させ、伝統の文化を蘇らせながら、新しい文化をも生み出し、各自の生活を互いに支え合いながら生きて行く。

 その際の生き方は、自分たちの地域の問題はつねに自分たちで、それも「建前」とか「和」といった見せかけの態度によるのではなく、心を開いて、時には対立をも恐れずに、「本音」で話し合いながら、解決策を見出してゆく。そしてみんなで出したその解決策をみんなで守り、実行してゆくのである。

 だからここでの経済とそのシステムとは、人々が生きてゆく上で不可欠なものの生産と流通と分配は地域の人々みんなの意思の下に徹底してコントロールされた民主主義的経済とシステムなのである。それは、自分たちの運命や未来は、自分たちで、自分たちの叡智と責任において選択し、決めることができる経済とシステムなのである。

 そうした体験を重ねる中で、さほど大きくはない共同体内の一人ひとりは、真の自由と民主主義を体得し、他生物とも積極的に共存しながら、互いに強固な信頼関係で結ばれた地域社会をつくり上げ、最終的には目ざす生命主義の実現された社会へと進んで行くのである。

 ————これが、私の言う経済の国内化であり、さらには地域化の意味するものである。

 

 では、上記のように要約される「地域化された経済システム」とは具体的にはどのような姿を取るものか。それは次節で明らかにするとして、それは大雑把に言うとつぎのような状態を実現してくれるシステムなのである(NPO 「The International Society for Ecology and Culture(ISEC)」製作の「幸せの経済学」より)。

人々が文化を通じ、土地を通じて土地の人々みんなが繋がり合うシステム

人々どうしの交流や会話・対話が活発化するシステム

地域社会と自然とが繋がり合うシステム

 

失業というものがないシステム

「職」「仕事」の奪い合いを生じさせないシステム

貧富の差や不和、対立、分断、ましてやテロリストを生じさせないシステム

「敗者」を出さないシステム

競争を煽り立てないシステム

ねたみや差別化を生じさせないシステム

自分の生活を他者と比べることもなく、劣等感を感じさせられることもないシステム

一人ひとり、本来の自分らしさを保てるシステム

一人ひとりが地域の中でそれぞれの役割を担い、暮らしてゆけるシステム

一人ひとり「ゆとり」を持てて、生き生きと暮らして行けるシステム

それぞれが地域社会の一員であると自覚できることで、一人ひとりに自尊心を育て、その自尊心が他者に対する敬意を生み出すシステム

食糧難や飢餓のないシステム

年金制度や健康保険制度等の社会保険制度も、とくに必要としないシステム

地域の歴史や文化を見つめ、それを大切にすることで、確かな自己認識とアイデンティティを身につけることが出来るシステム

誰もが知られ、誰もが認め合うシステム

一人ひとりが精神的に豊かで幸福になれるシステム

「人間」がつねに、最も大切にされるシステム

生きる意味、生きる目的、大切な生き方、価値観、知恵というものを、その地域の中に見出すことができ、またそれらを学べるシステム

 

生産と消費との距離を極力縮めるシステム

無駄で無益な物流システムをなくしたシステム

通信や乗り物を高速化させたり長距離化させたりする必要のないシステム

一人当たりのエネルギー消費量、一人当たりのインフラの量とコストが都市部に比べて格段に少ないシステム

自然エネルギーだけで地域を支えられるシステム

環境を汚染したり破壊したりすることのないシステム

大気と水と養分という「作動物質」を地域内にくまなく循環させるシステム

土壌の多様性を再生し、維持するシステム

「捨てる物」をほとんどなくすシステム

農作物も、農薬や化学肥料を使わず、もちろん遺伝子組み換え種子やデノム編集された種子なども一切使わないで、良質な有機物のみで育てるシステム

家畜についても同様で、抗生物質、成長促進剤そして遺伝子組み換え飼料などは一切用いないで飼育するシステム

地下水、河川水を浄化し、きれいな水、きれいな空気の中で、新鮮で安全な喰い物を食することが出来るシステム

生物多様性を再生するシステム

 

人々が働いて生んだ富はその地域の外に流出することのないシステム

人々が、繋がりながら、働けば働くほど、地域の富は豊かになるシステム

技術面では、「身の丈・等身大の技術」「職人技」に支えられたシステム

生産方式は、これまでの、「人」を必要とせず、規格化され画一化された物を大量生産し、壊れたら全取っ替えしなくてはならなくなリ、資源を浪費するだけのオートメーション・システムによるのではなく、「より多くの人々」の手による、地域の人々が本当に必要とする物だけを作る生産方式に支えられたシステム

「利益」を生むことに目的があるのではなく、人々一人ひとりに「やりがいを感じられる仕事」、「質の高い仕事」、「その人を人間的に成長させる仕事」を与え、「あれば便利」「あれば快適」な物ではなく、人々が人間として生きて行く上で、あるいは生きて行けるようになる上で、本当に必要な物を生産し、提供するシステム

 「株主」の利益、「投資家」の利益を最優先する企業など存在し得ないシステム

他地域に本支社を持つ大企業、本支店を持つ大銀行、多国籍企業も存在し得ないシステム

公的機関からの特定の産業や企業への「補助金」も「助成金」も必要としないシステム

 

外の世界とは、人と心の交流や国際協力そして相互依存、とくに世界中の地域が国を超えて結びつき、知識を交換し、力を増して行く活動は盛んにして行きつつも、貿易、すなわち物質・エネルギー・貨幣のやり取りは、基本的には抑えられ、控えるシステム

 とにかく今、地球上に生きる私たちは、一人の例外もなく、近代という時代が主流あるいは支配的としてきた自然観や世界観あるいは価値観をも超えてゆかねばならない状況に立ち至っているのである。

 こういうことを言うと、すぐに、「では資源の乏しいこの国では、エネルギー資源はどうするのか、石油は、ガスは、鉄やアルミニウム、その他の金属資源はどうするのか」とか、「そしてそのとき、そうしたものを輸入するための外貨はどうするのか」等々といった反駁が返って来そうであるが、その時こそ、私たちは、一人ひとりが、せめて次のように、真摯に自問してみることが必要となるのではないか。

“後先も考えずに自分の欲や願望を満たすことを最優先したなら、自分の愛する子どもたち、そしてその子らの子どもたちはどういう状況の中を生きて行かねばならなくなるのか”、と。

“今、そんな将来世代から自分に求められていることは何か、そのためには、自分は何が出来るのかではなく何をすべきなのか”、と。

 “これまでの資本主義の中で、私たち一人ひとりは、果たして一体どれほど「自己実現」し得たのか、どれほどしみじみとした「幸せ」感を味わうことができたのか”、と。

 そして、今後どんなに科学技術が進歩したところで、またこの広大無辺の宇宙にどれほどの数の星があろうとも、“果たして、人が裸で気楽に過ごせる星は、この地球以外に一体どんな星があるのか”、と。

 

 では、「経済の国内化、そして地域化」とは具体的に何をどうすることなのであろうか。そしてそこでは具体的に、どのような経済システムの社会となるのであろうか。

 それについては、私は、次節にて考察してみようと思う。