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八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

17.10 アメリカとの日米安全保障条約の解消

17.10 アメリカとの日米安全保障条約の解消

この問題を考える時、独立を世界から認められたはずのこの日本国に生きる国民として、私たちは次のいくつ化の事柄について確認しておくこと不可欠ではないか、と私は思う。

①そもそも安保条約と略して呼ばれる日米安全保障条約とは何か?

 それは何を目的にして、どのような状況の中で、日米間で締結された条約なのか?

②そしてその条約はそもそもどういう性格を持った条約なのか?

③この安保条約に直接は述べられていない、しかしこの条約と関連して、日本に重大な影響をもたらした、関連する取り決めとは何か?

そしてそれらは、どのような経緯の中で取り決められたのか?

④それらは一緒になって、その後、今日まで、日本国と日本国民にどのような影響をもたらして来たか?

⑤なぜ今、この安保条約およびそれに関連する日米間の一連の取り決めを解消しなくてはならないか、あるいは解消する必要があるのか?

 

 以下、私は、これらの問いの順に沿って考えてみようと思う。

なお、それを考えるにあたって、私は、主として、元外務省国際情報局長の孫崎享氏の著書「戦後史の正体」(創元社)および同氏の「日本再起動」(徳間書店)を参考にさせていただく。

 

①について。

 日米安全保障条約、正式には「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」は、その名のとおり、日本がアジア・太平洋戦争に無条件で敗北した後、日本とアメリカとの間で、相互の協力と安全を保障し合う目的で締結された条約である(1951年9月8日)。

以下、簡単のためにそれを「安保条約」と呼んでゆく。

 そしてこのとき以来、「安全保障」という言葉と概念は、この国にとっても、私たち日本国民にとっても、その意味を明確に理解しておかなくてはならない極めて重要な政治用語および軍事用語となったのである。それだけに、ここで言う安全保障とは、何についての安全を保障することなのか、そしてそれはどこまでの範囲を意味する言葉なのか、ということを明確に押さえておかなくてはならないのである。

 ではそれは、どのような状況の中で締結されたものか。

そのためには、安保条約が締結される前に、もっと広く世界との間————実際には49カ国の間で————で結ばれ調印された、戦後日本の独立を承認するためのサンフランシスコ講和条約に触れなくてはならない。そもそも講和とは、戦争を終結し、平和を回復するための交戦国間の合意のことである(広辞苑)。それまでは、日本は、連合国の占領軍によって支配され、日本は間接統治されていたからである。しかしその敗戦国との講話というのは、本来は世界共通の利益を求める立場で進められるべきだったのだが、1947年当時からすでに表面化していた米ソを中心とする両陣営の対立、すなわち東西冷戦が色濃く反映されるものとなってしまった。実際、その講和会議を取り仕切ったのはアメリカで、したがってソ連を中心とする社会主義陣営を敵視し、自由主義陣営を戦略的に強化するという立場でその講和会議を推進したのだ

対日サンフランシスコ講和条約(平和条約)とはこうした状況下で締結されたのだった。

 その際、アメリカは、日本占領当初の方針であった、「日本を徹底的に民主化する」という方針を急遽、大きく転換して日本を社会主義陣営の拡大を防ぐ防波堤と位置づけたのである。

その結果が五か条から成る条文だった。そしてその五箇条から成る条文の主旨は、かいつまんで言えば次のようなものだった。

————米国は日本国内に軍隊を駐留させられる。それも、米国は、その軍隊を、米国が望む場所に、望む期間だけ、駐留させられる。しかし、米国は日本を防衛する義務は負わない。

 そしてこうしたアメリカ側の考え方をより具体的に表現したものが安保条約だった。

しかも、それは講和会議の行われたその日に、講和会議の行われたオペラハウスとはまるで雰囲気の違う、米国陸軍第6軍の基地の中の下士官クラブという場所で締結されたのである。それも、講和会議の場では全権委員として同席した池田勇人、星島次郎氏らは一人もおらず、吉田茂がただ一人署名するという、まるで隠密な形で締結されたのである。

②ではその安保条約とは、特徴として、どういう性格を持った条約なのか。

それは、サンフランシスコ講和条約の内容もさることながら、その内容の流れをくむ安保条約は、文字通り、日本国と日本国民からみれば、極めて不当で不平等な内容からなる不平等条約である。

 なおこれは、1960年に岸信介政権時に改定される新安保条約に対比して、旧安保条約と一般に呼ばれる。

この条約締結にアメリカ側の中心的存在として関わったのが、「われわれ(米国)が望むだけの軍隊を、(日本国の)望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を有する、それが米国の目標である」(同上書p.141)と日本側に押し通した、トルーマン大統領の意を受けたジョン・フォスター・ダレスである。

 つまりそれは、その締結された内容といい、締結した場所といい、締結に関わったのは吉田だけであるという仕方といい、どれをとっても世界に公言できるような質のものではなかったのだ。それを、吉田茂は、せっかく世界に認められた独立国としての主権を、その認められたその日にアメリカに差し出してしまったのである。そしてこの瞬間以来、日本は実質的にアメリカの保護国となってしまったのである。なお保護国とは、条約に基づき、相手国の主権によって保護を受ける、国際法上の半主権国のこと(広辞苑)。

 こうした経緯からも判るように、吉田茂は、日本国内ではその後、「宰相」などと呼ばれ評価されてきたが、そして日本国内では、「保守本流」となる政党は吉田に始まるとなどとされては来たが、実質的には、宰相どころか、吉田はこの私たちの国日本国をアメリカに売ったのである。つまり独立国とはとても言えない国にしてしまったのである。その意味で、日本政治の「保守本流」とは、そんな屈辱的条約は一刻も早く破棄すべきと唱える真の愛国心と矜持を持った政治家など一人もいない、言い換えれば、「自由と民主主義、そして法の支配は人類の普遍的価値」などと口では言うが、実際にはその「自由」の価値や重みすら理解し得ない、アメリカ政府への迎合を政治信条とする集団のことを言うのだ。自由の価値が本当に判っていたなら、屈辱的状態には耐えられないはずだからだ。

 

③それは、日米地位協定であり、交換公文であり、合意議事録と称せられるものである。

それらの締結経緯を述べる前に、条約や協定そして交換公文とは何か、そしてそれらはどのようにして両国間で交わされるものなのか、またどのようにして発効するものなのか、それを明らかにしておかなくてはならない。

 まず国家間で締結される条約というのは、国会での審議や批准を要するものである。つまり、その時点で国民に知れるものである。それに対して政府間で結ばれる協定は、国会での審議や批准という手続きが不要となるのである。(前掲書p.118)。

さらに、交換公文とは、やはり国家間で取り交わした合意文書のことであるが、条約や協定のように公に発表するということはしないものの、やはり協定とほとんど同じような効力を持つ文書なのである(前掲書p.150)

 実はこれらの手続き上の違いを最大限利用して、自分の思惑通り実現させていったのも吉田茂だった。

「われわれ(米国)が望むだけの軍隊を、(日本国の)望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を有する、それが米国の目標である」という内容は、当然サンフランシスコ講和条約にそのままの形で盛り込むことはいくら吉田でもできなかった。それは、この内容はアメリカに従属するものであって、日本の独立を公式に認める講和条約の内容と相反するからだ。とはいえ、吉田としては、国会での批准を要する安保条約の中にも盛り込むこともできなかった。そのことは、この安保条約を、吉田一人がコソコソと署名し締結した経緯からも判るし、これの審議をもしも国会に諮ったなら、それはそれで講和条約と矛盾すると野党や国民から猛反発を受けることも判っていたからだ。そこで吉田は、行政協定締結のための担当大臣に任命した岡崎勝男を使って、ダレスの上記要求を呑む内容を、次のように表現して行政協定の第二条にこっそり盛り込ませたのだ。

「日本は合衆国に対し、(略)必要な施設および区域の使用を許すことに同意する」。

続いて「日本国政府及び合衆国政府は、いずれか一方の要請があるときは、前記の取り決めを再検討しなければならず、また、前記の施設及び区域を日本国に変換すべきこと、(略)、を合意することができる」

 ここで、特に注意を要するのは「合意することができる」という表現だ。つまり、この「できる」は、法律上の義務ではないからだ。ではアメリカが合意しなかったらどうなるか。その時には現状維持、となる。要するに、合意が成立しなければ、米国は、施設すなわち基地の使用を無期限に継続する権利を持つことになるのである。そしてこのことが、吉田茂アメリカ政府に日本の主権を売り渡した売国奴なのだと私が主張する根拠である。

 ではなぜ日本はここまで酷い協定が結ばれてしまったのか。言い換えれば、なぜ吉田はこれほど酷い内容の協定に署名したのか。

そこには吉田茂の極端なまでの対米追随思想に加えて、その締結を担当した当時の大臣岡崎勝男の意図的な隠蔽工作があったとされる(同上書p.148)。

 なおこの行政協定は、その後、日米地位協定と名称を変えることになる。その正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」

 しかし、そうではあっても、当時の外務省(官僚)は、行政協定を地位協定に改正するにあたって、少しでもこれまでの在日米軍の運用に制約をかけることには徹底的に抵抗するアメリカの統合参謀本部を忖度して、表向きの地位協定とは別に、非公開の日米両政府間の合意議事録を同時に作成することをアメリカ側に提案し、その結果として、実質的には、これまでの日米行政協定の内容とは変わらずに、米軍の基地保有権とその周辺での行動の自由裁量権を外務省(官僚)側が保証してしまったのだ(山本章子「日米地位協定中公新書p.58)

 

④ではそれらの取り決めはその後、今日まで、日本国と日本国民にどのような影響と効果をもたらして来たのか?

 結論から言えば、日本に駐留する米軍には治外法権が与えられ、日本はアメリカの保護国どころか、特に米軍基地のあるところでは、アメリカのほぼ完全な属領としての植民地そのものの扱いをアメリカから受けることになったのである。ここに治外法権とは、外国の領域内において、その国の法律、特に裁判権の支配を受けない特権のことである(広辞苑)。

 確かに、途中の1960年には岸信介政権による旧安保条約の新安保条約への改定が行われ、それまでの安保条約にあった「米国は日本を防衛する義務は負わない」は改定され、「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」となった。要するに、日本国への武力攻撃に対しては、日米が、共通の敵として共同行動を取る、と改定はされた。

 しかし、行政協定における「米国は日本国内に軍隊を駐留させられる。それも、その軍隊を、米国が望む場所に、望む期間だけ、駐留させられる」は地位協定に改められても、上記の日米両政府間での非公開の合意議事録からも判るように、実質的には依然として行政協定の内容とは少しも変わってはいない。それは、吉田茂と吉田の指示通り動いた岡崎勝男は、アメリカに対して、在日米軍基地を半永久的に使用する法的根拠を与えてしまったためである。

 そして地位協定の中で最も問題なのは、行政協定の場合も同様に、第一七条である。

行政協定のそれにはこうある。

「米国は、軍隊の構成員および軍属ならびにそれらの家族が日本国内で犯す全ての罪について、専属的裁判権を日本国内で行使する権利を有する」

 つまりこれこそ治外法権であって、日本政府は、在日米軍に対してそんな特権を与えてしまったのである。

 その結果、特に惨めな思い、屈辱的な思いを幾度となく味わされたのが沖縄の人々だった。沖縄には在日米軍の70%が集中していたからである。そしてその気の毒な状態は、今もなお、日本の「保守本流」と自負する対米従属政治家らを中心にして、続けられているのである。

 それだけではない。本来アメリカ側の負担であった在日米軍基地で働く日本人従業員の労務費の一部をも、当時の防衛庁長官金丸信の時(1978年)から、日本政府、つまり日本国民が肩代わりするという形でのいわゆる「思いやり予算」をもつけるようにもなったのである。それが、今では5年間で1兆円を越す額になっている。この国は、対GDP比で2.6倍という、世界でもダントツに最悪の政府債務残高を抱えているというのに、である。ではこの思いやり予算は一体何に使われているのか。例えば在日米軍家庭が電気・ガス・水道を使いたい放題使えるように、遊びでも、有料道路料金が全てタダで使えるようにするために使われているのだ。

 しかしこれらの状況は、日本の首相が誰になっても一向に変わらないのである。そしてそうなるのは、まさに吉田茂と岡崎勝男がアメリカと秘密裏に締結した安保条約と、それと連動する行政協定、後の地位協定に根本の原因があるのである。

このように日本国民が、ということは日本国が、戦後これほどまでに長期にわたって、そして今もなお、辱められ、卑屈な思いにさせられ、その上同胞が苦しめられ続けるような状況の土台を作ったのは間違い無く吉田茂なのだ。その事実を踏まえるならば、吉田茂に対する私たち日本国民の評価は今こそ全面的に改められるべきだ。彼は宰相どころではない。経済支援を受けることと引き換えに日本国の主権をアメリカに投げ出し、事実上の売国奴だったのだからだ。なぜなら、どの国も、独立国だったなら、主権は絶対に譲らないものだからだ。それに、政治家は政策において評価されるべきだとは言われるが、吉田の場合、例えば同時代に同じ政治家であった重光葵(しげみつまもる)と比較しても明らかなように、条約締結時がいかに占領下あるいはそれが解かれた直後であったとはいえ、彼の自国民に対してとったあの横柄な態度、しかしアメリカ政府に対しては卑屈そのものだったという態度、言い換えれば真の愛国心も矜持も何も無くひたすらアメリカに追随するという態度、つまり彼の人間性または人格の観点からも見直されるべきなのだ。

 

⑤そこで、ではなぜ今、私たち日本国民は国民として、あるいは主権者として、この安保条約およびそれに関連する日米間の一連の取り決めを解消しなくてはならないか、あるいは解消する必要があるのか?

 このことを判断する上で最も重要な概念について、私はここでもう一度確認しておこうと思う。それは主権ということであり主権者ということについてである。

主権者とは、主権、すなわちその国家自身の意思によるほか、他国の支配に服さない統治権力のことであり、それは、国家というものを構成する要素の一つで、最高・独立・絶対の権力なのである。また、主権とは、国家の政治のあり方を最終的に決める権利のことであり、主権者とは、特にその後者の意味での権利を所持する者のことだ(広辞苑)。

そしてその前者の意味での主権を堅持できていることこそが、その国が独立国であるということを意味し、また証明しているのである。

 

 ではこうした原則を踏まえた時、今の、また少なくとも戦後からこれまでのこの国は主権を堅持し得た独立国と言えるか。

確かにサンフランシスコ講和条約では、日本は第二次大戦での交戦国49カ国から公式に独立国と認められた。だがそれは表向きのことであって、実態はどうだったか。

それは、既述のとおり、独立国とは程遠い。

 確かに安保条約を結ぶことで、日本国はその安全は守られてきたとは言えるかもしれない。またそのことで、日本国はどこの国よりもアメリカの援助や支援を受けて経済は繁栄し得てきた、ということも言えよう。

しかし、その状態というのは、日本人に歪んだ心情をもたらしたのではないか。なぜなら、たとえ国土は守られ、経済は繁栄できたとは言っても、その裏で、同胞が人間としての尊厳を傷つけられ続け、基本的人権すら満足に母国の政府によって守られることすらなかったのだからだ。実際、これまで、どれほどの回数、そこに駐留する軍隊の軍用機の墜落事故の被害に遭わされ、どれほど軍用機の連日の騒音に悩まされ、どれほど同胞である日本人女性の人権が米兵あるいはその軍属によって粗末に扱われてきたことか。また有害物質による環境汚染がどれほど米軍基地から出てきたことか。実は沖縄の人たちは、アジア・太平洋戦争の末期にも、そしてその時には母国政府だけではなく軍部からも見捨てられ、捕虜になるよりは自決をと迫られ、無意味な死に方を強要されても来ていたのだ。

 だから、そこでは、そうした事実を知っている日本人の多くは、どんなにアメリカによって本土の経済は繁栄できたとは言っても、そしていっとき沖縄の経済は活況を呈したとは言っても、いつもどこかに屈辱感を覚え、政府に対して不甲斐ない、情けないとの思いを持ち続けて来ているのではないか。

 

 余談ではあるが、日本人がアメリカからこのような扱いを受けてきた背景には、日本人の卑屈根性だけではなく、彼らの日本人に対する偏見がどこかにあったからなのではないか、と私には思えてならないのである。事実、彼らアメリカ人は、アジア・太平洋戦争当時、日本人を蔑んで「ジャップ」と呼んだ————日本人も、中国人をチャンコロと呼び、朝鮮人をチョンと呼んだ————。実際、ルース・ベネディクトの名著とされる「菊と刀」が生まれた背景には、アメリカから見たら同じ第二次大戦で敵国人として戦ったドイツ人やイタリア人に対するのとは違う見方が日本人に対してはあったのである。「日本人は特異」「日本人はけだもの以下」という当時のアメリカ政府の捉え方がそれだ(オリバーストーン「もう一つのアメリカ史」)。そしてそうした見方が、ドイツ・アメリ地位協定やイタリヤ・アメリ地位協定の内容とは大きく異なる日米地位協定になったのではないか、と思えてならないのである。

 もしそうした見方が幾分なりとも的を射ているとするならば、屈辱条約を破棄しうるためには、私たち日本人は、今後、本当の意味で世界に伍してゆくためには、やはり一刻も早く、自由、平等、人権、民主主義、権利、等々といった普遍的価値を理解して、我が物にする必要があるのではないだろうか。

それに、国の安全保障とは、自国軍隊であれ外国軍隊であれ、必ずしもそうした軍隊を置きそれに頼るということではないはずである。むしろより大切なことは、国民一人ひとりが考え方にしても生き方にしても「個」として自身を確立させ、真の愛国心を持ち、まずは自分の祖国は自分の手で守るという気概を持つことなのではないのか。と同時に、この国の政府自身が、「組織の縦割り」や「官僚独裁」を克服すると同時に、自国の進みゆく道、目指すべき国の姿を理念とともに世界に明らかにしながら真の意味で国際平和に貢献できる国になることではないのか。そしてそうあってこそ、地球的にも世界的にも今後多難が予想される時代にあって、日本国は、国際社会で、金や経済あるいは技術の面だけではなく、人道の面で、価値ある国、信頼できる国、頼りになる国として、その存在を認められる国になりうるのではないか。そしてそうなることこそが、本当の意味で日本国の安全保障は確保されるようになるのではないか。

 日本政府自体がアメリカ政府に対してかくも卑屈で従属的な態度の今のままでは、国際社会では、何をするにも、その後ろにはアメリカがいると見られてしまい、その意味で、日本の対外的活動は、どんな活動も、本当の意味では、日本独自の活動とは評価されないままとなってしまいかねないのである。