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八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

17.5 中央政府における府省庁の再編と特別会計の全面的再検討

 

17.5 中央政府における府省庁の再編と特別会計の全面的再検討

 そこで、次のこの段階として、中央政府の首相以下全閣僚には勇断をもって断行してもらわねばならないことがあるが、それは以下の4種類の困難な仕事だ。もちろん、以下のどの場合を実施するにも、環境時代の全地球的で全生命的な指導原理としての《エントロピー発生の原理》、《生命の原理》を実現させること、および人間集団の生活規模を規定する〈都市および集落としての三種の原則〉、そしてこの日本という国を明治期以来の官僚独裁の国を脱皮して、真に民主主義的統治体制の整った本物の国家(それも連邦国家)とすることを絶えず念頭におかねばならない。

その困難な仕事とは、項目だけを上げれば、次のものだ。

⑴現行の47都道府県と1718の市町村の行政区画の解体

⑵これと並行して、州と地域連合体に再編成し、中央政府連邦政府にすること

⑶これまでの中央政府の全府省庁およびそれに付随する外郭団体についての廃止と統合を含めた再編

⑷この国の中央政府と地方政府の財政健全化に向けての、特別会計特殊法人の廃止を含めた全面的再検討

 

以下は上記4項目についての解説である。

⑴については、これをあえて実行に移すのは、この国の人口分布の偏りをなくすとともに、「都市および集落の三原則」を実現し、今後起こりうる大地震のみならず気候変動による大災害や食糧危機による大惨事に対して、事前に危険分散を図り、災難に強い国、耐性のある国にするためである。結局これも、この国を真に持続可能な国にするためである。

⑵この作業は、この国を、地方自治を尊重しながらも、統治体制の整った本物の連邦国家とするためである。なおこの作業を行う際には、これまでの都道府県庁と市町村役場の首長にもその目的と主旨を説明し、理解と協力を得て、参加してもらう。

 ここで押さえておかねばならないことは、この作業は、これと並行して行われることになるであろう、次の内容を盛り込んだ新憲法の起草と制定の作業とも関連しているということである。その内容とは、連邦構成主体とそのそれぞれの法的地位および権限、すなわち連邦政府と州政府と地域連合体政府との間での権力関係、権限区分の明確化ということについてである。すなわち、もはやこの国の憲法事情は、第9条だけを問題としていればいいようなものではないのである————(16.3節を参照)。

 なぜならば、現行日本国憲法では、「地方自治」という章は設けられてはいるが(第八章)、その内容は、自治にとって最も重要な国と都道府県と市町村との間の、相互の権力関係や権限の区分については、一切記載されてはおらず、「法律の定めるところにより」とか「法律の範囲内で」といったように、下位法の法律に委ねられてしまっていて、形ばかりの地方自治でしかなかったし、今もなおそうだからである。実際、例えば、今でも地方公共団体には、独自の計画権限や自主財源を確保する権限が憲法上でも保障されてはいないし明記もされてはいない。中央政府の官僚もそうした権限を与えようともしていないで、中央集権を維持しようとしているのである————もちろん、こうなるのも、政治家(閣僚)が国民の意思に沿って官僚をコントロールできてはおらず、官僚に追随しているだけだからではあるが————。

 そのために、たとえば、阪神淡路大震災とか東日本大震災といった国家的大惨事・大災害が起こった時、あるいは新型コロナウイルスによるパンデミックが生じたとき、都道府県や市町村という地方公共団体の長は、長としての役割と責任はどこまでか、どこまでお互いが独自の裁量で権限を行使できるのかということが、これまでは首相を含めて誰も判断ができなかった。と同時に、この国は再三指摘してきたように真の国家ではなかったから、そういう事態に直面した際には、なおさら、混乱が生じた。東日本大震災直後の菅直人首相(当時)が狼狽して、いつ大爆発を生じるかわからないというときに、東京電力福島原子力発電所の上空にヘリコプターで急行したなどは、その典型例と言える。また、新型コロナウイルスに因るパンデミックの時の西村大臣の指示の仕方も典型的な一例だったと言える。地方公共団体の首長がどう対処したらいいのか首相に判断を仰いでも、首相も判断できずに、代理の閣僚が、官僚に操られて、ご都合主義的な、あるいは恣意的な判断に基づく指示しか出せなかったのである。というより、その時に明らかになったのだが、西村大臣は既述のとおり、法律とは何かということすら知らなかったのだ。

 これからの環境時代におけるこの国を土台から支える新憲法では、国民を危険にさらすこういう事態は絶対に避けなければならない。そうでなくても、環境時代には、前例のない大惨事に国全体が次々と見舞われる可能性が大きいと考えられるからだ。それだけに、それぞれの地方公共団体は、連邦政府の支援の下、独自の権限と判断で動けるようになっていることが不可欠となるわけである。

⑶これまでの中央政府の全府省庁およびそれに付随する外郭団体についての廃止と統合を含めた再編

 この再編の中には、既存の府省庁の廃止もあれば、既存の府省庁どうしの統合もあるし、また分離もある。また府省庁の官僚たちが、自分たちが第二の人生を優雅に過ごすための「天下り」や「渡り鳥」を受け入れてもらえるようにと、巨額の補助金を支給したり融資したりしている特殊法人公益法人等の外郭団体については、特に、基本的には全て廃止する方向で検討する(石井紘基「日本が自滅する日」PHPp.240、250を参照)。

要するにその目的は、再三強調するように、この国を本物の国家、それも官僚が事実上の主権者の国家ではなく、国民が真の主権者となる国家とするためである。すなわち国民の要望に基づき、国の舵取りから発せられた指示や命令が正しく、また速やかに必要な全部署に伝達され、また、末端からの声や要望も速やかに、かつ正確に舵取りに伝達されるようにして、日本という国の全体を、必要に応じて、いつでも機動的に連携しながら対処できる国にしておくためである。
 ではそのためには、現行の府省庁については、どのように考えたらいいのだろう。

私の考えを述べる。

 第一に挙げなければならないと考えているのは文科省の廃止である。

なぜ文科省に着目するか。それは、どの時代でも、またどの国でも、国民への教育が基本中の基本だからである。国と地域を支えられる人材を生み出せるか否か、それは国民への教育のあり方によって決まるからだ。

 ところがこの国では、現時点、文科省を事実上牛耳っている官僚たちは————文科相は官僚に操られているだけなのだ————、例えば「人間として教育する」ということの意味すら判ってはいない。というより、これまで私が文科省の官僚と直接電話で幾度かやりとりした体験によっても、彼らは「教育」の意味も、「人間とは何か」ということすら多分判ってはいない。そのことは、昨今、日本中で次々と生じる、青少年のみならず結構な歳をした大人の、様々な、それこそかつては見られなかった、信じがたい手口の犯罪の数々を見ても判る。つまり今の文科省の学校教育は、人が人間として社会に生きる上で最も大切なことを、全くと言っていいほどに教えることができずにいて、むしろ、その子が人生を人間として生きてゆく上では、人生のどの場面においても、ほとんど役にも立たない、瑣末で、断片的な知識だけを、これでもかこれでもかと頭に詰め込ませているだけなのだ。そこで言う「人が人間として社会に生きる上で最も大切なこと」とは、生きることの意味、何が正しく何が間違っているか、何はしてよくて何はしてはならないかといった善悪の判断力、自分の命はもちろん他者の命もかけがえのないものであるということ、そしてどんな人も平等に生きる権利、それも幸せを求めて生きる権利があるということを、各人が自分の頭で判断できるようになることである。と私は思っている。

 また、昨今の文科省の学校教育行政がいかに間違っているかは、小中高校という教育現場において、教職員が過労死ラインを超えて、それも本来の「教育」ということ以外の「管理業務」のために働かされている実態を見てもわかる。

 さらには、大学という高等教育と創造的研究の機関を独立行政法人化という独立採算制にしてしまったことだ。つまり、研究、特に基礎研究というものがどう状況下において可能となるものかということも理解できてはいないのだ。

 こうした諸々の教育行政の結果、文科省の官僚が日本にもたらしている事態が、犯罪の凶悪化巧妙化と罪悪感の麻痺化による犯罪、特に殺人の常態化、個々の人間の人間性の劣化であり幼稚化、政治家と役人の質的劣化と世界に通用する人材不足による国力の相対的かつ絶対的な低下であり、教師・教員不足、等々という事態なのだ

————もちろん、ここでも文部科学大臣は、実質的に、官僚に依存し、また追従しているだけだ。独自の教育哲学を持って官僚をコントロールなどできてはいない————。

 こうした事実により、文科省はもはや存在すること自体がこの国と国民にとって有害無益なのである。だから即刻、廃省にし、これまでの文部省そして文科省の行政に毒された職員を全員入れ替えて、あるいはリストラし、全く新しく、例えば「人間育成省」といった名称の省として生まれ変わらせるべきであると私は思う。

 その際、2023年に新たにできた「子ども家庭庁」も廃止する。それは、教育ということを矮小化するだけのものでしかなく、「人間育成省」の下での学校教育の中で十分に対処できると思うからだ。

 次に、名称も組織も消滅させて、他省庁と合体させ、複数の省が一つの省となって再出発した方が良いと思われる典型的な省庁に国土交通省がある。それは、結論的に言えば、もはや「国土交通」という言葉が意図する国土交通省の時代は完全に終わったと断言できるからである。いや、日本列島の国土の自然がこれほど破壊され、傷めつけられるよりもっともっと早く、建設省から名前が変わる時点で廃省にすべきだった、と私は思う。

 もちろん今の日本は、すべての社会資本が破壊され尽くされた敗戦直後の状態ではない。高度経済成長の時代も「日本列島改造論」が風靡した時代も過去のものだ。それに、「果てしなき経済発展」とか「果てしなき工業生産力の増大」といったことを暗黙の国策とした時代も終わったのだ。むしろ、「ジャパン アズ ナンバーワン」と呼ばれた時にこそ、人々が「モーレツ社員」あるいは「社畜」となって家族を犠牲にして働くのではなく、誰もが真に豊かさを感じられる成熟した社会の国にするにはこれからこの国をどういう国にすべきかということを国民も政治家も真剣に考え、政府省庁のあり方を考え、官僚の使い方を考え直すべきだったのだ。

今、この日本の国土は、主に建設省、そしてそれを引き継いだ国土交通省の「公共」とは冠するものの実態も目的も国民のお金を利用しての官僚たちの利益優先の事業によって、「山紫水明の国」は遠い過去のものとなった。

 そこで、環境時代のこれからは、国土交通省は廃省にしながら、そこの官僚たちはリストラし、農林水産省環境省を一つの省へと合体するのである。そして、これまで、「公共事業」とか「開発」という美名の下に壊され自然循環を分断あるいは寸断させられてきた国土生態系を、その統一省の下で連続した生態系として蘇らせ、広域の物質循環や食物循環を成り立たせ、それを維持しながら生物多様性を回復させてゆき、そのことを通じて地球規模の温暖化を止め、そして克服することに貢献してゆくようにするのである。

また、国税庁社会保険庁の一体化も不可欠だ。なぜなら、両庁は、国民からの税金を徴収する役割を負っているという点では共通だからであり、合体させた方が効率的だし合理的とも考えられるからである。また両庁を合体させるということは、現在財務省に属している国税庁財務省から切り離すことを意味する。

しかしそれについては、財務省の官僚は猛烈に抵抗するだろう。それは、財務省の役割は国民のお金の使途を考えることであるのに対して、国税庁はその反対に国民のお金を取り立てるのが主な仕事であるために、互いの役割は正反対ではあるが、国税庁財務省の外局に置いておくのは、財務省の官僚にとって利用価値があり、好都合だからだ。例えば、財務省のやることを社会が批判してきたとき、財務省が「国税庁が査察に入る」とほのめかすことによって批判分子を黙らせられるからだ(古賀茂明「日本中枢の崩壊」講談社 p.196)。それに、国税庁財務省から切り離すことの根拠には、一つの組織の中に役割が正反対の部署を混在させておくことは国民と国全体にとっては決して望ましいことではないという理由もある。例えば経済産業省の中に原子力安全・保安院を混在させておくことによって、原子力行政をめぐって、本来は独占禁止法に抵触する企業だから解体させられなくてはならないはずの電力各社との間で、官僚たちが癒着に基づく恣意的な思惑をつねに働かせられるのと同じ理屈だ。

 なお、閣僚が国税庁財務省から切り離そうとすれば、省庁の中の省庁とされてきた財務省の官僚の傲りも手伝って、組織あげて猛反発してくることが予想されるが、そこは財務大臣が、国務大臣として国家公務員法が明記する「人事権は各省庁大臣にある」に基づいて(同上書p.215)、というより、憲法第15条の第1項に明記される「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」に依拠して、公務員としてあるまじき行為に出た者に対しては、国民の代表として、罷免権という権力を毅然と行使すればいいのである。また、それを行使してみせることは他の府省庁の傲り高ぶった官僚たちに対する見せしめにもなるのだ。

 また経済産業省についても、もはやその役割も使命も事実上終わったのだ。つまり、消費を伸ばしてはGDPという数値を上げることをもって経済成長の証と見る時代でもなくなったのである。地球温暖化生物多様性の劣化をもたらした元凶が資本主義経済であることを直視するならば(斎藤幸平「人新世の『資本論』」集英社新書p.117)、もはや資本主義の時代でもないことも明らかだ。むしろ、国民一人ひとりがいかにしたら人間らしく、お互いを尊重し合い、平和で安定した暮らしができるかということこそが重視される時代になっているのだ。そのことを考えるならば、半ば必然的に、経済産業省も廃省にした上で、そこの官僚たちはリストラして、厚生労働省と復興庁とデジタル庁を一体化して名称を「国民生活省」と改めて、行政内容を一新するべきだ。

 

特別会計特殊法人の全面的再検討

 ここでは、以下の順序で考察してゆく。

①なぜ今、特別会計を取り上げるのか。そしてそもそも特別会計とは何なのか。それは一般会計とどう違うのか。

②こうした特別会計の陰で、この国の財政はどうなったのか、またどうなっているのか。

そしてそれは主に誰によって何が行われてきた結果なのか。

③なぜこんな財政状況になるまで、某国会議員以外の国会議員は、その状態を国民の前に明らかにして来なかったのか。そもそもこれらの特別会計により、私たちのお金は実際には誰によってどのように使われてきたのか、また使われているのか。

④では、今後、特別会計については、私たち国民は主権者としてどうすべきか。そしてその時、同時に、特殊法人等はどうすべきか。

 

①なぜ今、特別会計を取り上げるのか。そしてそもそも特別会計とは何なのか。それは一般会計とどう違うのか。

 このうち、第一の問いに対する答えは、一言で言えば、私たち国民(正確には納税者)が納めた私たちのお金が実際には、誰によって、どこに、どのように使われているか、すなわち私たちのお金の本当の使われ方を明らかにするためである。

なぜなら、国民が国民のための国を維持する上で決定的に大切な国民のお金の使途の全貌が、これまで、政治家によっても、財政学者という専門家によっても、またジャーナリストたちにも、誰にも明らかにされてきたことはないからだ。というのは、国の会計は本当は一般会計と特別会計の2種類から成り立っているのであるが、そのうち、一般会計については、毎年度、国会や地方議会でも取り上げたり、新聞やTVでも取り上げたりしているから、私たち国民はおおよそのことはわかってはいるのであるが、もう一方の特別会計については、何が「特別」なのかすら国民の大多数は知らされないままに、なぜか、国会議員も地方議員も、そしてメディアも、またその分野の専門家と呼ばれる人たちからも、これまで、ほとんど取り上げられることはなかった。私の知る限り、その辺を幾分かは扱っていると思われる書物には、京都大学教授の吉田和男氏の「日本の国家予算」(講談社)があるぐらいだ。しかしそれも、同氏自身大蔵省出身の元官僚であっただけに、財政状況を大蔵省という組織の内側からしか見ていない。外側の立場、つまり国民の立場に立っては見てはいないのだ。そのために、納税者である私たち国民が本当に知らねばならないことについては、ほんの一部分しか触れられてはいない。それに、私の持っている六法全書を見ても、全6500ページ余あるうち、特別会計について掲載されているのは、(抄)としてたったの2ページである。

 ということで、特別会計という会計については、これまで、ほとんど闇に包まれて来たのである。つまりこのことから言えることは、私たちの国日本国の予算を正確に知っている者は誰もいない、ということなのだ。そしてこのことも、既述してきたように、この国は今なお本物の国家にはなり得てはいない真実と並んで、世界のどんな国にもあり得ない、とんでもなくいい加減な国だ、ということなのである。

 しかし、このことについては、私たち国民の側にも重大な責任があると私は思っている。それは、この国の国民は、概して、自分が税金として納めたお金については、一旦納めてしまうと、その後のこと、すなわちそれが誰によって、どう使われるのか、また使われたのか、そもそもそれは私たち国民の預けたお金なのだから、それが本当に私たち国民の幸せのために使われたのかどうなのかという最も肝心なことについてはほとんど知ろうともしてこなかったし、関心も持ってこなかったからである。そして関心があるとすれば、せいぜい「過払い金」とか「還付金」のこと、つまり納めたお金を少しでも取り返そうとすることぐらいだったからだ。

これでは私たち国民は、国家の政治のあり方を最終的に決める権利としての主権の保持者としての主権者として失格だからだ。私たちが私たちのお金について主権者であるためには、まずは憲法第21条に根拠を持つ、国民に与えられている「知る権利」を行使して、私たちの納めたお金の使途を正しく知り、その上で、そのお金の使い方を通じて私たちの国の政治のあり方を最終的に決め、以って私たちが私たちの国づくりをしてゆかねばならないのだからだ。

 ではそもそも特別会計とは何なのか。 それは一般会計とどう違うのか。

インターネット上では、誰がそれを書いたのか不明だが、それは次のように説明されている。

一般会計では、国としての基本的な機能である社会保障、文教、防衛、地方交付税等の交付金、公共事業等の経費を扱うのに対して、また都道府県や市町村といった地方公共団体での一般会計では、その公共団体としての基本的な機能である教育、福祉、道路、公園の整備等といった行政サービスを行う際の経費を扱うのに対して、特別会計とは、その名の通り、何か特別な必要があって、会計を別にしている会計のこと

 しかし、これはいかにも曖昧な表現だし、そもそも正確さを欠いている。「何か特別な必要があって」自身が曖昧な表現であって、決して法律表現ではない。また、毎度指摘してきていることだが、「国としての基本的な機能」も、「公共団体としての基本的な機能」も表現は間違っている。正しくは「中央政府としての基本的な機能」であり、「公共団体の政府としての基本的な機能」となるべきだ。なぜなら「国」と「中央政府」は別物で、「国(クニ)」=中央政府ではないからだ。同じく公共団体と公共団体の政府とは全く別物だからだ。国や公共団体とは、国民であり住民であり国土であり地域の気候風土であり文化等々をまとめたものであるのに対して、中央政府も公共団体の政府も、つまり政府はともに役所、それも事務をつかさどる所を指すからだ。

 そして特別会計についての「何か特別な必要」とは、例えば地方公共団体の政府の特別会計とはこういうことだと説明されている。

————市町村の水道局は、水道料金収入で運営されているが、もし、水道料金を税収として合算してしまえば、水道水を提供するためのコストがわからなくなり、ひいては適切な水道料金もわからなくなる。そのため、水道事業を特定事業として、その特定事業の会計を一般会計とは切り離して会計するのである。

 一見尤もらしい説明ではある。では本当に、全ての特別会計は、このようにするために国民のお金が使われているのだろうか。それについては、後述することにする。

 また、特別会計は、同じくインターネット上で、これはまた別人が書いたものであろう、次のようにも説明されている。

————特別会計、それが設けられている理由は、行政サービスの範囲は広範で多岐にわたっているので一般会計とは切り離して、特定の収入、特定の支出を明確化するため、あるいは特定の事業や資金の運用の状況を明確化するためである。そしてその特別会計は各特別会計ごとに、予算執行が所轄官庁・地方公共団体によって管理され、それぞれの使い道が決められている、と。そしてその例が、年金特別会計中央政府特別会計)、国民健康保険地方公共団体特別会計)、介護保険(前に同じ)等である、と。

 そもそもこの説明は、先の説明とは内容が全く異なる。そしてこれも、説明は極めて曖昧で、かつ、いい加減だ。大体が、「行政サービスの範囲は広範で多岐にわたっている」からといって、それだけで「一般会計とは切り離」す理由にはならないからだ。行政サービスは、その範囲は、元々広範で多岐にわたっているものだからだ。

それに、「特別会計は各特別会計ごとに、予算執行が所轄官庁・地方公共団体によって管理され、それぞれの使い道が決められている」も、おかしい。なぜなら、私たちの日本国憲法には、「国の財政を処理する権限は、(所轄官庁・地方公共団体ではなく)、国会の議決に基づいて、これを行使しなくてはならない」とあるし(第83条)、「国費を支出し、または国が債務を負担するには、(所轄官庁・地方公共団体によってではなく)国会の議決に基づくことを必要とする」(第85条)とあって、その過程の説明が上記説明では完全に欠落あるいは排除されているからだ。つまり、この説明文は多分官僚の誰かが書いたものであろうと私は推測するのだが、後に判明するように、特別会計のお金にまつわる実態および特殊法人のそれについては、とかく官僚たちはあえて闇の中に置いておきたいとするからだ。そして彼らは常に日本国憲法を虚仮にしているからだ。実際、この特別会計の説明自体が今見たように、私たちの国の憲法を無視している。

 では「何か特別な必要があって、会計を別にしている特別会計」あるいは「特定の収入、特定の支出を明確化するため、あるいは特定の事業や資金の運用の状況を明確化するため」の特別会計、それも「国の」ではなく中央政府特別会計とは何かと思って調べてみると、次のようになっている。

その数は、各年度によってこの数も種類も変わるが、現在のところ(2023年)、下表のとおり、合計で13種類ある。もちろん、これらの数や中身を変えるのは、国会の政治家でもなければ政府の政治家(総理大臣や閣僚)でもない。各府省庁の官僚たちだ。閣議決定の過程がそうであるように、政治家たち、特に総理大臣と閣僚たちは、実質的に霞が関の府省庁の官僚たちのやっていることを追認しているだけだ。そしてこれも、実際には憲法第83条や85条にも違反しているし、さらに、第86条「内閣は毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け、議決を経なければならない」にも違反している。一般会計については、内閣は毎会計年度の予算を作成し、閣議決定したのち、国会に提出して、曲がりなりにもその審議を受け、議決を経てはいるが、特別会計については、それがなされず、与野党の政治家たちも、したがって国民も無知なままにされ、依然として闇の中だからだ。

 こうなる理由には、内閣での総理大臣と閣僚たち全員の怠慢と、国会での衆参両院での与野党の政治家たち全員の怠慢の2種類がある。前者の怠慢とは、総理大臣と閣僚たちが、配下の官僚たちに特別会計や後述する特殊法人等についての会計をも国民にわかるように明らかにせよと官僚たちに説明責任を厳しく要求しないことだ。後者の国会の政治家たちの怠慢とは、国会に諮るのは一般会計だけではなく特別会計についても明らかにせよと、ここでも、国民から負託された権力を「国民のしもべ」たちに毅然と行使しないことだ。その際、国会の会期の問題は二の次の問題なのだ。

 

特別会計名称

所管

交付税及び譲与税配布金特別会計

内閣府総務省財務省

地震再保険特別会計

財務省

国債整理基金特別会計

財務省

外国為替資金特別会計

財務省

財政投融資特別会計

財務省国土交通省

エネルギー対策特別会計

内閣府文部科学省

経済産業省環境省

労働保険特別会計

厚生労働省

⑧年金特別会計

内閣府厚生労働省

食料安定供給特別会計

農林水産省

国有林野事業債務管理特別会計

農林水産省

⑪特許特別会計

経済産業省

自動車安全特別会計

国土交通省

東日本大震災復興特別会計

下記参照

 

 ただし、この表の中の、最後の東日本大震災復興特別会計については、国会、裁判所、会計検査院、内閣、内閣府、復興庁、総務省法務省、外務省、財務省文部科学省厚生労働省農林水産省経済産業省国土交通省環境省および防衛省の共同所管となっている。

 そしてこれら13種類の特別会計で動いているお金の合計は実に、467.3兆円。その額は一般会計(当初予算)の歳入と歳出それぞれの額108兆円の実に4.3倍という額なのだ(令和4年度)。もちろんこの額のお金は全部私たち国民が納めた税金なのだ。

②ではこうした特別会計の陰で、この国の財政はどうなったのか、またどうなっているのか。

そしてそれは主に誰によって何が行われてきた結果なのか。

 この問いの中の第一に対する答えはこうだ。

この年のこの国の中央と地方の政府の借金すなわち政府債務残高は、合計で、ざっと1260兆円。これは、GDP国内総生産)がこのところほぼ毎年500兆円規模であることを考慮すると、その約2.5倍だ。これが意味するところは、私たち国民のうちの働くことができる人々の全員が、2年半、飲まず食わずで働いて稼いだお金をそっくり国庫に納めなくては清算しきれない額だ。
 いかに財政難を抱えている国でも、また金融危機の国であるとはいっても、政府がこんなひどい財政状況にある国は、日本以外、世界のどこにもない。ただしここで、私たち国民は次の事実は明確に理解しておかねばならない。それは、このGDPのおよそ2.5倍の1260兆円という金額は私たちの国の謝金なのではなく、あくまでも政府、それも中央政府と地方政府の借金であるということが。つまり、これをよく「国の借金はこんなにもある」と言う人がいるが、それは正しくはない。あくまでもこの金額は国ではなく、政府の借金だと言うことだ。これを混同してはならない。しかし、この事実一つとって見ても、この国の政府は本当にデタラメな政府だということだ。要するに、役人をコントロールすべき政治家、とくに中央政府の各府省庁の大臣と、地方政府の首長は一体何をしてきたのか、ということなのだ。

 こんな財政状況では、いざ国難というとき————実際、今のこの国の実情を総合すると、正にそのときだと私は思うのだが————政府には使えるお金がないために、危機にも対応できなくなるのは明らかだ。そうでなくてもこの国は、およそ50年前には統計データ上はわかっていたのにその対策を怠ってきたために、いま少子高齢化はますます深刻化していて、人口は急速に減っている。したがってそれとともに、社会の様々な分野で労働力は確保できなくなっている。その上、文科省の学校教育行政の失敗の結果、次代を担うはずの若者たちはその多くが幼稚化したり多様性を喪失したりもしている。しかも、1990年代以降、「失われた10年」、「同20年」、「同30年」と繰り返されてきたことからも知れるように、官僚に依存する一方の政治家の怠慢の結果、経済政策も失敗して、今や日本は、世界の中で、国民力も経済力も相対的に低下する一方なのである。しかし今後は、こうした悪条件の上にさらに、温暖化に因る気候変動や生物多様性の劣化に因る、より全般的で、より長期にわたる、言語に絶する深刻な事態に直面してゆくことになるのは必至と言えるのである。

 

③では、なぜこんな財政状況になるまで、某国会議員以外の国会議員は、その状態を国民の前に明らかにして来なかったのか。そもそもこれらの特別会計により、私たちのお金は実際には誰によってどのように使われてきたのか、また使われているのか。

 今こそこれについては、私たち国民は、主権者として明らかにしなくてはならない。それは主権者としての義務であり責任でもある。それに、これを明らかにすることは、私たちが納めたお金を、今後、この国を、希望が持て、誇りを持てる国に変革してゆくために、つまり真に国民の幸せ実現のために使えるようにする上でも是が非でも必要なのだ。

 なお、上記の某国会議員とは、民主党衆議院議員だった石井紘基氏のことである。

同氏は、衆参両院のすべての国会議員に与えられた特権である「国政調査権」を行使して(憲法第62条)、特にこれまで闇に包まれてきた特別会計について克明に調査したり、国会で政府の税金の使い方について厳しく切り込んできたりした財政学の専門家であり、勇気ある真の愛国者でもあった人物だ。「あった」と言うのは、その彼は、2002年10月25日朝、自宅前で右翼活動家に刺殺されてしまったからである。

 本節を論ずる上で、ここからは、その石井紘基氏の代表作『日本が自滅する日』(PHP)とK.V.ウオルフレン氏の代表作『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社)と、古賀茂明氏の二冊の著書『日本中枢の崩壊』(講談社)と『官僚の責任』(PHP新書)を参考にさせてもらいながら、考察と論述を続ける。

 K.V.ウオルフレン氏は、同書を出版した当時、一年のうち約半分は日本に住み、後の半分はオランダのアムステルダムにて激変する日本と世界の政治経済の分析に力を注いでいたアムステルダム大学教授でありジャーナリスト。日本社会の仕組みを批判的に分析した同氏の最初の著書『日本/権力構造の謎』(早川書房)は日本のみならず世界10カ国で翻訳され、ルース・ベネディクトの『菊と刀』と並んで、日本研究の必読文献として知られている。また、ここで参考にさせてもらう『人間を幸福にしない日本というシステム』も33万部を超えるベストセラーになっている。

 古賀茂明氏は、元通産省経済産業省の官僚。公務員制度改革の必要性を訴え続けていて、官僚現役中も「改革派の旗手」として有名であった。

 当の石井氏によると、この国の政府が上記のような世界でもダントツの借金を抱え込む国になった真の理由は、この国の経済体制が、官制経済体制である結果だという。官制経済体制、それは、文字通り官僚たちによって構築されてきた官僚たちの利益を最優先する経済体制のこと。言い換えれば、上記三者の著作から総合すると、それは、本来「公僕」、すなわち「国民のしもべ」、もっと平たく言えば「主権者である国民に仕える召使い」であるはずの各府省庁の官僚たちが、その立場もわきまえずに、と言うより自分たちこそが実質的な主権者だと錯覚して、所管する業界あるいは特定の民間企業に対して、あるいは彼らの必要に応じて各府省庁の子会社とも言うべき彼ら独立行政法人公益法人をつくっては、それらに対して、公僕には決して負託されることのない権力を、法に基づかず、あるいは法の外で————つまり「法の支配」を無視して————行使し、さらには国民のお金という他人のお金を好きなように使っては巨額の融資をしたり許認可したり、規制を強化あるいは緩和したりして様々な便宜を図っては恩を売り、その見返りに、官僚たちが役所を退職しても、第二第三の人生を優雅に送れるようにするために、あるいは退職した役所に終生面倒を見てもらえるようにするために、所管するそれらの子会社や民間企業に「天下り」さらには「渡り」として受け入れてもらえるように仕組んできた経済体制のことだ。

つまり、このことだけからも、この日本という国は、表向きは国民が主権を持ち、主人公である民主主義の国、表向きは自由競争のできる市場経済を至上とする資本主義の国とされてはきたが、実態は全く違うということだ。実態は官僚が国の主権者として振る舞う官主主義の国、官僚を頂点とする官僚機構によって統制された官僚独裁による統制経済の国なのだ。参考までに言えば、かつて「ミスター円」との異名をとった元大蔵官僚の榊原英資氏も、ぬけぬけとこう断言していた。“この国は資本主義経済の国ではない”、と。

 ウオルフレン氏はこの国のこうした状況について、この国は、中央政府の官僚たちが社会の頂点に君臨して、財界の官僚と政治家たち(いわゆる族議員と呼ばれる、各府省庁にくっついて、利権を漁っては、自分だけの利益を狙う政治屋)とが一緒になって築いてきた業界団体という仕組みと系列という仕組みとによって国内の大企業から中小企業までの全体を統制している官僚統制経済であると言う(p.38〜52)。だから自由主義経済の国でもなければ、市場原理主義に基づく経済システムの国でもない、と。というより、この国には民主主義も自由主義もいまだ実現されてはおらず、その過程にあるだけで、今のままでは到達する見込みもない国だと言う。

 

日本に特別会計を作り、官制経済体制=官僚統制経済システムを作り、こんな財政状況をもたらしてきた張本人は中央政府の官僚たちと財界の官僚たち、そしていわゆる族議員と呼ばれる政治家たちであり、そしてその状態を知って知らぬ振り、見て見ぬ振りをしてきた政府の総理大臣と閣僚そして国会の全政治家たちであり、地方議会の全政治家たちだ。

 ではこれら政府系官僚と財界系官僚と族議員三者はどういう関係で結ばれているのか。

財界の官僚たちは政府の官僚たちと通ずることによって、財界にとって好都合な法案や政策案の作成に強力に関与するとともに、政府の新たな政策等の動きをいち早く掴んでは財界としての方針を決めるためである。またそのことによって彼らは、特に原子力行政や自動車行政、道路行政、新幹線行政には大きな影響を与えうるのである。また政府官僚と通じることによって、自分たちの意思のもとに日本の経済界全体を支配できる業界団体や系列を作っては、日本の全産業界を、資本主義市場経済とは名ばかりの、世界の資本主義の国々とは全く異質な護送船団方式による、競争を生じさせない、官制経済体制=官僚統制経済の国にしているのだ。

 では族議員はどうか。例えば「道路族」とか「防衛族」「厚生族」「農林族」と呼ばれるように、特定の府省庁にコバンザメのように貼り付きながら、国民の利益のためとか国益のためとかではなく、あくまでも自分の利益確保のために、その府省庁の法律作成や政策決定に強い影響力を及ぼしたり、その府省庁の官僚たちには、彼らが闇の権力を行使して設けた特殊法人独立行政法人公益法人等の外局ないしは外郭団体(後述)に対して、国会を経ずして巨額の融資をするよう仕向けたり、その府省庁の所管する業界の利益を擁護したり、また、それらの代弁者の役割を果たしたりもする。また特定の民間企業の要望を受けて許認可権を持つ府省庁に口利きをしたりもする。そうしてはその都度、それらの行為の見返りとして外郭団体や業界そして特定企業から政治献金という事実上の賄賂を手にするのである。一人当たり、年間、およそ2億円という正規の議員報酬にも飽き足らずに、である。また、族議員たちは、政府からの補助金等の配分や公共事業の箇所付けに介入しては、彼らの言う地元に対して、次期選挙の再選を狙って、補助金や公共事業をもたらすのである。

 中央政府の各府省庁の官僚たちは、族議員や財界の官僚たちとも結託して、特定の産業界や圧力団体に好都合な法律や政策(補助金、公共事業等)を立案するのである。あるいは特殊法人公益法人独立行政法人、許認可法人といった各種の法人を、府省庁の外局あるいは外郭団体として設置するのである。それも上位の「根拠法」に拠ってではなく、彼らのお手盛りの「設置法」に基づいてである。それは、いかにも「法律」に基づいて設置した法人であると言い逃れできるようにするためである。そうして設置した外郭団体あるいは外局には、彼ら府省庁の官僚は、惜しみなく国民のお金を、それも闇で、すなわち国会の審議や議決も経ずに、融資するのである。担当大臣は、それについてただ形ばかりの報告を受け、裁可するだけ。つまり配下の官僚たちに操られ続けるのである。

 そして彼ら各府省庁の官僚たちは、その見返りとして、それらの法人には、各府省庁での出世競争に敗れて次々と退職してゆくキャリア官僚を、第二、第三の就職先として、それも優雅な生活ができるような待遇をもって受け入れてもらうのである。「天下り」だ。融資したその巨額のお金ももちろん国民が納めたお金だ。

 実際、天下りについては、官僚の世界を知り尽くしている古賀氏はこう明言する。「キャリア官僚の独立行政法人公益法人への天下りが、霞が関の人事ローテーションにがっちり組み込まれているのである。このため、毎年のようにそのポストを退職者にあてがえるよう、ポストの確保と維持が至上命題となっており、天下った人間にもそれなりの仕事が必要ということで、無駄な仕事と予算がどんどんつくられてしまう。さらに、受け皿が足りない場合は、適当な理屈をつけて、新たな団体を立ち上げるようになる。」(「官僚の責任」p.58)

 こうして各府省庁の担当大臣が配下の官僚たちをチェックもコントロールもせずに、むしろ彼らに依存しては追随してきた結果が、既述のごとき、とんでもない金額の政府債務残高となっているのだ。そう考えれば、その責を厳しく問われねばならないのは、各府省庁の大臣であり、またその大臣を任命した総理大臣だ。

 政府の官僚を中心にしたこの国のこうした状態については、ウオルフレン氏はその著書にて既にこう喝破していた。

————日本の官僚制度の基本的特徴は、官僚は自分たちの縄張りの中————彼らが公式に行政権を握っている経済的・社会的活動分野————では、自分たちの好きなことがやれるということだ。そして、自分たちの決定について説明しなくてもいい。それぞれの省庁が、それぞれの法律をつくり、それを好きなように解釈できる権力を持っている。そしてその法律を、許認可を与えたり与えなかったり、あるいはそれとなく脅したりなどして、執行する力がある(p.83)。そういうわけで、公職にあるものの誰一人として、日本の国益を気にかけていないのだ。それぞれの省の高官は、自省の利益だけしか関心がない。そして彼らは、自省の権力と威信をどれだけ高めたか、その貢献度によって出世が決まる(同ページ)。そして、官界と財界に広く分散して存在している日本の実質的権力者たちによる独裁主義は、彼らがなんのチェックも受けずに権力を行使できることの結果だ(p.91)。日本では、最も重要な事柄は、正規の法の規制を受けないのだ。日本の政治構造の事実上の本質部分も、一切、法律に基づいていない。日本の巨大な経済システムの最も重要な側面も、法律の条文規定にまったく基づいていない(p.101)。日本について言えば、法律はそれをつくった官僚たちの手中にある。法律は何にもまして官僚の道具だ。官僚が社会秩序を保つための道具になっているばかりでなく、彼らの望みどおりの制度や条件を確実につくり上げるための道具としても使われる。(p.102)。

 

 ではこれらの特別会計により、私たちのお金は実際には誰によってどのように使われてきたのか、また今も使われているのか?

 実はそれを具体的に明らかにしようとしたのも前出の石井紘基氏だ。それまでは全くと言っていいほど、政治家たちはそれに触れるのを避けてきた。政治家たちだけではない。政治学者も政治評論家も財政学者も、朝日・毎日・読売といった大新聞も、公共放送NHKも、民放も、である。石井氏の同志である菅直人氏や野田佳彦氏をはじめとする民主党議員たちも、普段は与党批判など勇ましいことを言っていながらも、石井氏の遺志を継ぐ勇気はなかった。

 ところで、国民のお金のそうした使い方の差配をしてきたのが政府の官僚たちであり、それを使ってきたのが官僚たちがつくってきた特殊法人を筆頭とする、公益法人独立行政法人(独法)そして官企業または行政企業または政府系企業と呼ばれる「法人」であり、特定の民間企業だ。

その特殊法人とはインターネット上では、誰による文章なのか、無署名で、次のように説明されている————しかし、法人だというのに、六法全書には一切、説明はない————。

特殊法人は、営利目的の市場原理による実施では不可能か、不可能に近いような事業を実施する目的として設立されることが通常である。公団、公社、事業団、特殊銀行、金庫、公庫、特殊会社など多岐にわたる形態がある。運営上は、法人税や固定資産税などの納税が免除されたり、日本国政府財政投融資による資金調達が可能であるなど、大きな特典を有している反面、事業計画には国会の承認が必要となること、不採算事業からの撤退が簡単にはできない点など、国や政治家の意向に大きく左右される点も有する。

 あるいは特殊法人については次のような説明もある。

特殊法人とは、政府が必要な事業を行おうとする時、その業務の性質が企業的経営に馴染むものであり、これを通常の行政機関に担当させても、各種の制度上の制約から能率的な経営を期待できない時等に、特別の法律によって独立の法人を設け、国家的責任を担保するに足る特別の監督を行うとともに、その他の面では、できる限り経営の自主性と弾力性を認めて能率的経営を行わせようとする法人をさします。

 またこうも説明されている。

特殊法人とは、日本の法律において、法人のうち、その法人を設立する旨の具体的な法令の規定に基づいて設立され、独立行政法人認可法人特別民間法人のいずれにも該当しないもののことである。2020年4月現在、33の特殊法人がある。

 さらには、特殊法人はこうも説明されている。

特別法により設置される場合の法人。国策上あるいは公共の利益のために設置される。(広辞苑)。

 

 以上のことからもわかるように、特殊法人についてこうした様々な説明がなされていること自体が、特殊法人とは何か、それの存在根拠は何か、を定義づけ説明する法律がないということを証明している。ところが、それにもかかわらず、後述するように、実際には、各府省庁が所管する特殊法人が複数存在しているのだ。これは一体どうしたことか。なぜなら、日本は、公式には、法治国家であって、いかなる行政機関であろうとも、またいかなる民間機関であろうとも、それらの存立の根拠を明示する「根拠法」が必ずあるはずだし、またそれが定められていなくてはならないからだ。ということは、言い換えれば、日本国に存在する全ての行政機関や民間機関は、例外なく国会の承認と議決を経ていなくてはならないということだ。ましてや、もし特殊法人が行政機関だというのならば、「公法」に属する行政法令によって、その存在根拠は定められていなければならない。

だからこそ石井氏はこの点に関して、国会にて、独立行政法人(独法)をも含めて政府側に問い質した(1999年11月)。ところがそれに対する答弁は二転三転したあげく、特殊法人と独法は、共に、「公法に基づく法人」ではあるが「行政機関ではない」との、法的には整合性の全く取れないチンプンカンプンのもの(p.126)。つまり、特殊法人は、独法も、法的には幽霊なのだ、と石井氏は言う(p.125)。

 私たち主権者である国民は、まずこのことを明確に押さえておかねばならない。つまり、世に言う特殊法人、よくTVなどにその名が出てくる例から拾えば、例えば、通称NEXCO東日本NEXCO中日本NEXCO西日本、そして通称の首都高は法的根拠のない団体だということだ。そんな団体が私たち国民のお金を好きなように貪っているのだ!

 では、どうしてこんな法的に整合性の取れない特殊法人(や独法)が実際には存在しているのか。これについても、前述のK.V.ウオルフレン氏がこの国の官僚独裁の実態をいかに正確に見抜いていたか、どうかもう一度確認していただきたいのである。そしてこうなるのも、結局は総理大臣も各府省庁の大臣も、大臣としての職務を果たしていない、もっと言えば政府とは名ばかりであり、この国には舵取りという中枢が存在し得ないからだ、ということに尽きると私は考える。すなわち、配下の官僚たちのやっていることを、国政調査権を生かしながら逐一チェックしたり、また官僚たちをコントロールしたりして、「法の支配」を徹底して守らせる、また守らなかった官僚は毅然として憲法第15条第1項を毅然と適用して罷免するということを総理大臣も閣僚もしていないからだ。そうなるのも、結局は、この国の現行の政治家たちには、役人に依存していたい、その方が楽だからという自己への甘えがあるからであり、古賀氏が証言するように、役人にサボタージュされると自分の職務を果たせないという恐怖心が先に立つからである。そうした状況をいいことにして、各府省庁の官僚たちは、そこでの次官をトップにして、事実上の人事権を握り(同氏の著書の例えばp.169)、特殊法人をはじめとする独立行政法人公益法人への天下りを、霞が関の人事ローテーションにがっちり組み込んできたのだ。

 そもそも民間企業一般では、そこを退職した者のその後は、誰かが面倒を見てくれるわけではない。転職するも自営業をするも、それこそすべて「自己責任」において行われるのである。国民一般から選ばれた政治家たちは、なぜ世間一般に行われているそんな当たり前のことを、官僚たちに「国民一般に倣え」と強要しないのか。そうでなくても、彼らは「国民のしもべ」であるというのに。

 そんなことだから、総理と閣僚たちは、例えば官僚たちがお手盛りの「日本道路公団設置法」とか「石油公団設置法」といった特定の特殊法人についての「設置法」を閣議で決定してしまい、特殊法人の設立を容認してしまうのだ。つまるところ、総理大臣や閣僚たちは官僚たちに舐められているのだ。

 

 それにもう一つ疑問に思われることだが、そもそも「天下り」などといった表現が、この国では、そしてこの現代に、なぜ今もってまかり通っているのか。そして国民も、なぜいつまでもこんな表現を許しているのか。

 「天下り」とは、文字通り天から下りて来る、ということだ。誰が、といえば、この場合、もちろん役人ということになる。では、その者はどこへ下りて来るのかというと一般国民の世界だ。しかしそこは、国家の政治のあり方を最終的に決めることのできる権利・権限・権力を持った主権者の世界だ。一方、その役人は、日本国憲法(第15条)で下で「全体の奉仕者」すなわち「公僕」であり「国民のしもべ」と明記されている立場の者だ。となれば、「天下り」どころか、その逆さまであるべきであって、「主権者のお仲間に入れさせていただく」となるべきであろう。

 ではなぜ役人は、天から下りて来るといった雰囲気を醸す横柄あるいは傲慢な言い方をするようになったのか。この表現には、役人こそ偉くて、一般国民はその役人にへりくだらなくてはならないという意図が明らかに読み取れるからである。つまり、文字どおり官尊民卑の差別的人間観がそこには露骨にある。

 しかし役人は既述のとおり公務員であり、公務員試験という官吏任用試験に合格したというだけの立場であって、国民一般に仕える立場なのである。もちろんそうは言っても、その立場とは、あくまでも社会において負っている役割や使命からくるもので、身分とは違う。個々の人間としては国民一般となんら変わることなく、全く平等だ。

 ではその官尊民卑の差別的人間観は、一体いつから、世にはびこるようになったのか。

私は歴史学者ではないからはっきりしたことは言えないが、士農工商なる身分差別が厳しく問われるようになった江戸時代にはすでに生まれていたのではないか。「欽定憲法」下の明治期には間違いなくあった。それは、政府というものを天皇の権威を維持してゆくためにのみ存在するものとしては、政党政治を徹底的に嫌った、明治後期の寡頭政治の中心的指導者の一人であり、最大の権力者でもあった山縣有朋が、官僚を「天皇のしもべ」と位置付け、その結果、明治期の社会はすでに官僚主導社会だったからだ(K.V.ウオルフレン「日本という国をあなたのものにするために」角川書店 p.49)。

 では、「民主憲法」下の今もなお、どうして私たち国民は、官尊民卑なる人間差別観を象徴する「天下り」などといった表現をそのままにしておくのか、あるいはそれを当たり前のように受け入れているのか。

 私は、ここにも、この国では、官僚を含む役人一般はもとより、国民一般も、意識はいまだに「近代」にも至ってはいない証拠を見る思いがするのである(1.4節参照)。人間は、何人なりとも、個人として、互いに自由かつ平等であるという、近代西欧の市民の到達した意識に。

 

 本題に戻って、そのようにしてつくられる特殊法人ではあるが、では一体どんな種類の特殊法人があるのだろうと思って実際に各府省庁に電話して問い合わせてみると、以下の通りだ。

いずれも、2023年現在のものである。

 国土交通省の所管する特殊法人は次の13法人だ。

北海道旅客鉄道(株)    通称、JR北海道

四国旅客鉄道(株)     通称、JR四国

日本貨物鉄道(株)     通称、JR貨物

東京地下鉄(株)      通称、東京メトロ

成田国際空港(株)

東日本高速道路(株)    通称、NEXCO東日本

中日本高速道路(株)    通称、NEXCO中日本

西日本高速道路(株)    通称、NEXCO西日本

首都高速道路(株)     通称、首都高

阪神高速道路(株) 

本州四国連絡高速道路(株) 通称、本四高速

新関西国際空港(株)

○(株)海外交通・都市開発事業支援機構

経済産業省については次の4法人がある。

○(株)商工組合中央金庫

日本アルコール産業株式会社

○(株)日本貿易保険

○(株)日本政策金融公庫

 

文部科学省については次の2法人。

○日本私立学校振興共済事業団

放送大学学園

 

総務省では、次の6法人。

日本電信電話株式会社

東日本電信電話株式会社

西日本電信電話株式会社

日本放送協会NHK

日本郵政株式会社

日本郵便株式会社

 

ではこれらの特殊法人は、その行動特性において、どのような共通性があるか。

石井氏によると、こうだ。ただし、その際、K.V.ウオルフレン氏がその著書で指摘していた、既述の日本の官僚制度の問題点とも読み比べてみていただきたいのである。石井氏の功績も、余人には成し得ないまことに大きなものがあるが、しかし同氏よりも少なくとも5年は早く、日本の官僚システムは「人間を幸福にはしないシステム」であると見抜いていたウオルフレン氏のジャーナリストとしての調査力と眼力については、私たちは日本人として特に高く評価すべきものだと私は思う。

独立行政法人と共に特殊法人は「公法に基づく法人」ではあるが「行政機関ではない」との政府側の公式見解が出されているにも拘らず、時と場合によって、行政機関のようにも振る舞い、民間企業のようにも振る舞う。

それができるのは、関連法令はそれぞれの特殊法人を持っている省庁が所管しているので、自分に都合のよい勝手な法解釈がまかり通ってしまう。つまり、族議員と官庁だけの思いのままになる存在なのである。

特殊法人には経営そのものに対する責任の主体がない。

特殊法人経理は正確には誰にもわからない。

・どんなに借金が膨らもうと不良債権に浸かろうとも、責任を問われる者がいない。

・民間企業のように、「株主」に監視されることもないし、行政機関として議会で承認される必要もない。

特殊法人はどんどん子会社(公益法人も含む)、孫会社などを作る。株式持ち合いの関連企業を含めると、ファミリー企業は約2000社に上る。

特殊法人の中には民間企業をほとんど丸抱えしているものもある。しかも特殊法人の事業は、公共事業や委託業務が多く、特殊法人によって生計を立てている企業は非常に多い。特殊法人関係の実質就業者数は200万人は下らないはずだ。

特殊法人は、資金調達は思いのままだし、株主に対する事業報告書の開示義務もなければ、経理内容も公開しない。

特殊法人は、国の財政投融資計画の大半を受け入れて事業を展開し、膨大な数の下請けを抱えていて、製造業(自動車、電機、機械)を除くほぼ全産業分野に君臨している。

特殊法人の借金は全て国の借金となる。なぜなら、公庫、公団、事業団といった特殊法人は、国会の議決による「設置法」に基づいて設置された国の政策遂行機関であり、国の出資金や補助金で運営されているからだ。

・しかも、特殊法人は一般企業のように倒産することがないために、借金はどこまでも膨らみ続ける。なぜならば、特殊法人には財政投融資から毎年25兆円もの融資がなされ(2002年当時)、その利払い金や出資金として、毎年4兆円以上の国費が注入されているからだ。結局そうした清算金や欠損金は現実に国民の負担に添加されている。

 以上のことからはっきりすることは、特殊法人は、日本の国と国民にとっては巨悪以外の何物でもない存在だということだ。それは、時に官企業または行政企業または政府系企業という言い方がなされるその特殊法人が、民間経済の上に君臨し、経済の資源を行政の事務に取り込んでは利権の糧とし、国民の借金を増やし、国民の生活を圧迫しているからだ。そして、特殊法人が巨悪であるとするもう一つの根拠は、それが法律に基づかない存在、あるいは法的には違法な存在であるからだ。日本は、法治国家として、行政機関や民間機関は、すべて、その存在根拠は公法にて定められている。しかし、特殊法人は(認可法人も)、既述のとおり、その根拠法はなく、その特殊法人を持つ府省庁の官僚たちが個別に、それもお手盛りの「設置法」のみによって存在しているものだからだ。

 こうして彼ら官僚が国民に無断で使っている国民のお金の額が、令和4年度には、既述のとおり、その合計が467.3兆円という、一般会計(当初予算)の歳出額108兆円の実に4.3倍にも当たる途方もない額になっているのである。

 

④では、今後、特別会計については、私たち国民は主権者としてどうすべきか。そしてその時、同時に、特殊法人等はどうすべきか。

 結論はすでに明らかだ。特別会計については、当初、特別会計を設ける必要があるとしたその時の動機と目的という原点に立ち返って、それも終始、国民の利益代表である政治家が主導する形で、国と国民生活にとって、特別会計として本当に残さなくてはならないものとそうでないものとを区別し、後者に属するものは即刻廃止する、ということだ。

それだけではない。これまで、ここでは言及してこなかったが、石井紘基氏によると、特別会計だけではなく財政投融資補助金という制度も官制経済体制を補完するものでしかなく、この国と国民にとっては為にはならず、むしろ政府の借金を増やすだけにしかならないから、原則廃止すべきだという。大賛成だ。

 そして特殊法人については、即刻、全て廃止すべきであろう。それは、「公法に基づく法人」ではあるが「行政機関ではない」といった、法治国家としてのこの国にそぐわない、むしろ法体系に矛盾し、法体系を壊してしまうだけの存在だからというだけではない。特殊法人の多くは、様々な事業に進出しているが、その事業の仕方が、既述のとおり巨悪であり、民間経済の上に君臨し、中央集権的で統制経済であり、経済の自由な活動を阻害してしまうからだ。ただし、特殊法人の即刻廃止は、そのまま「民営化」すなわち「株式会社化」することを意味するものではないということだ。

 ところで、特別会計をどうするか、特殊法人をどうするかといった場合、むしろ問題なのは、そうした思い切った対処が、現行の政治家の手で果たしてできるか、それだけの勇気も、決断力も、そして石井紘基氏のような真の愛国心があるか、ということではないか、そっちの方がはるかに問題なのではないか、ということだ。これまで、戦後ずっと、官僚に依存しっぱなしで来て、民主政治の何たるか、民主政治と民主行政はどのように行われるべきかということすらまともに知らない今の彼らには到底無理だと思われるからだ。

 

 では私たち国民はどうしたらいいか。

どっちにしても私たち国民は、このまま手をこまねいていることはできない。

なぜなら、このままでいたならば、石井氏が警鐘を鳴らしながら亡くなったように、日本は気候変動や生物多様性の消滅といった人類的・世界的な大災難によるのではなく、その前に、ほぼ間違いなく「自滅」するだろうからだ。

 ではどうするか。私は、その場合、次の三つの方向から対処するのがよいと思う。それが、最も穏便でかつ確実だと思うからだ。それは、国民、政治家そして公務員それぞれの立場から努力することであり、しかもそれぞれがこれまでのあり様から、次のようなあり様へと互いに高まって行くことによってである。

 まず私たち国民については、これまでの政治的姿勢としての「あなた任せ」を自ら克服して、名実ともに、国家の政治のありようを最終的に決める権利と権限を持った「主権者」になるのだ。それは、言い換えれば本物の「市民」となることでもある。ここで言う市民とは、自由や平等という人権意識に覚醒し、権力の行使の仕方をつねに疑い、自分たちの共同体としての国や地域は自分たちの手でつくる、自分たちの運命は自分たちで選び取る、との自覚を持った社会的で政治的存在のことだ。

 政治家については、この場合には、やはり現行政治家には退場してもらって、本物の政治家に登場してもらうことだ。そしてその本物の政治家は、真の市民になった私たち国民が育てるのだ。どういう方法によってか。それは、現行の形だけの選挙制度を根本から改めた新選挙制度を実現することによってである(第9章を参照)。

 では公務員についてはどうか。それは、この場合も、私たち国民が真の主権者であり真の市民となることによってである。私たち国民が毅然としてそうした姿を示せば、これまで無意識ながらも“自分たちこそ実質的な主権者だ”と言わんばかりの言動を見せていた公務員も、否応無く「公僕」「全体の奉仕者」「国民のしもべ」という意識を持たざるを得なくなると思われるからだ。

 国民、政治家そして公務員が互いにこのように成長し高まれば、その時には、特別会計の廃止も特殊法人の廃止も容易に可能となるだろう。否、その時には、この日本という国は、真の民主主義を実現し、さらには真の生命主義の国へと歩みを進め、真に持続可能な国家にもなっているだろうと、私には期待されるのである。