LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

17.8 連邦と連邦構成主体である州と地域連合体との間での権限区分の明確化

 

17.8 連邦と連邦構成主体である州と地域連合体との間での権限区分の明確化

 少なくとも近年の実例だけから見ても、この国に起った大災難あるいは大惨事————例えば阪神淡路大震災(1995年)、オーム真理教によるサリンばらまき事件(1995年)、東日本大震災(2011年)そしてその直後の東京電力福島第一原子力発電所炉心溶融による水素大爆発による大量の放射性物質の拡散事故(2011年)あるいは九州北部豪雨災害(2017年)、西日本豪雨災害(2018年)、新型コロナウイルスによるエピデミックさらにはパンデミック(2020年から今日まで)————においては、ほとんどその度ごとに、中央政府は、とくに最初の時点では、迅速かつ的確に対処対応ができなかった。そしてそれを、メディアは見当違いというか、そうなった本質に気づかなかったからであろう、「初動対応が遅れ」という言い方で批判した。また、被災地となった都道府県や市町村の政府(役所)である都道府県庁や市町村役場の被災住民に対する対応も遅れ、それだけ救われる者も救われずに、被害を大きくしてきてしまった。

 ではどうしてこの国ではそういう事態が事あるごとに生じるのか。

私は、その最大の理由は二つあると思っている。一つは、これまでも再三、随所で指摘してきたように、この日本という国は、明治期以来、一度も本物の国家であった試しはないという事実に因るということ。それは、国家の定義「社会の構成分子であるあらゆる個人または集団に対して合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合された社会のこと」(H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書p.6)を思い出していただければ直ちにわかるであろう。

例えば次のいくつかの実例を思い出してもらいたい。

明治期には、政府はあり、国の最高責任者である首相はいても、軍隊については首相はコントロールもできずに、陸軍と海軍の関係はバラバラであった。昭和に入っても、20年までは、政府(内閣・首相)がありながらも、一方では主権在君で、天皇には統帥権があって、それが首相の軍部への介入も許さないという二重権力構造となっていたし、その上、大本営はあるとは言っても、中国に侵略して行った関東軍は内閣の方針にはもちろん、参謀本部の命令にも従わず、独断専行しては様々な破壊活動をしたりして、満州国を建国した事実。あるいはアジア・太平洋戦争敗戦後から今日までは、この国では、「縦割り」という官僚たちの作った組織構成がいまだに慣例として存続し、各府省庁の関係は互いにバラバラであり、国民を代表し、また政府を公式に代表しているはずの総理大臣を含む閣僚と呼ばれる政治家たちは、各府省庁をまとめて国民に対して一つの政府という形を成し得ず、しかも、総理大臣も閣僚も、彼らが公式にコントロールすべきその府省庁の官僚たちに対しては、実際にはごくごくわずかの影響力しかもっておらず、むしろ官僚たちの方が実質的に断然大きな権力をもっていて、総理大臣や閣僚たちはその官僚たちに依存し追従してさえいる状態であること。

そのことは、彼らがTVカメラの前で国民に行政状況を説明する際には、決まって、総理大臣が一人、政府を代表して説明するのではなく、各府省庁の閣僚が別々に説明するし、その説明も、決まって官僚の作文を読まねば説明もできない状態であることから判る。あるいは政府内で、閣議に諮られるのは、事務次官連絡会議で全員の合意が得られた案件だけであること、しかも、その案件についても、閣議らしい閣議など全くと言っていいほど行われずに、わずか15分かそこらで閣僚全員で追認の署名をし合うという形での「閣議決定」でしかないという事実からもわかる。また、とくに政府の新型コロナウイルス対応においても、国民に対処状況を説明するのに、総理大臣がつねに政府を代表して一人で説明すればいいのに、西村大臣が出て来て説明したり、加藤大臣が出て来て説明したり、斉藤鉄夫大臣が出て来て説明したりと、それも担当する各府省庁の官僚の作文を読む形でしか説明できないといった姿などからも判る。

 しかも、府省庁の官僚たちは総理大臣や閣僚たちよりも実質的に断然大きな権力をもっているとは言っても、その各府省庁の官僚たちは、どの府省庁の官僚も、他の全ての府省庁を圧倒するほどの権力を持っているわけではない。

 つまり、この日本という国では、統治システムのどの一要素も、最終的に誰の支配下にもないのだ。あるいは政府を公式に代表できて、政治的説明責任の中枢となりうる者は不在だということだ(K.V.ウオルフレン「システム」p.79)。

こうした様々な実例が、この日本という国は、明らかに、まともな国家、真の国家ではないことを実証しているのである。それは、一言で言い換えれば、この日本という国には政治的な舵取りは存在しないということなのである。

 これこそが、平時はともなく、有事、あるいはあらゆる大災難や大惨事に対して、中央政府も地方政府も、国民に対して迅速かつ的確に対処できない、したがって被害状況を最小限にとどめ、無意味な犠牲者を出さないということができない最大の、そして本質的な第一に理由なのだ。

 なお、今述べてきた「この国は国家ではない」という事実に立てば明らかなように、これまでこの国では、安易に、例えば国家機密、国家戦略、国家予算、国家公務員等と国家という文字を冠する言葉が用いられてきたが、しかしそれは、政治家たちもその分野の専門家たちも、全く意味もなさない言葉遊びをしてきただけだ、ということが判るのである。

 この国では、あらゆる有事、すなわち大災害や大惨事において、必要以上に被害を大きくしてしまい、悲惨な被害者をより多く出してしまい、またそれを長期化させてしまうもう一つの本質的な理由は、中央政府の長と、地方政府である都道府県庁と市町村役場の長との間での管轄範囲、権限区分、法的地位の違いが憲法において明記されないままできたためであるから、ということである————もちろんそうした管轄範囲、権限区分、法的地位は下位法である一般実定法に記載できることではない————。

つまり、現在の日本国憲法では、第八章に「地方自治」という章が設けられてはいるが、そのように、中央政府とその長の、また地方政府である都道府県庁と市町村役場とその長の権力と権限の範囲あるいは区分が曖昧なままでは、どんなにその第94条【地方公共団体の権能】の中身が明記する、“地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる”とは言っても、現実には、到底対応しきれないのである。だから既述のような大災難時、大惨事の時には、既述のような事態が決まって起こるのである。

 そういう意味で、地方公共団体は、その実態は決して「自治」体などではない。むしろ、中央政府の各府省庁の官僚たちの「通達」や「行政指導」を含む、「法の支配」を破った権力行使に卑屈にも従属する「従属」体に過ぎないのである。

 こうした事情に根拠を置いて、これからの環境時代を生き抜くための新国家(連邦国家)での新憲法では、国民あるいは住民が最大限、身の安全が保障され、安心が確保されるようになるために、せめて次の範囲のことは、憲法の上で明文化することが絶対に必要であると私は考えるのである。

 日本連邦を構成している各主体の法的地位と権限

 日本連邦政府の管轄事項

 日本連邦の各主体の共同管轄事項

 日本連邦の各構成主体の管轄事項

 日本連邦の構成主体の立法権

 日本連邦の構成主体の国家権力編成

 日本連邦政府の執行権力

 日本連邦大統領の役割

 日本連邦大統領の権限

 日本連邦大統領の軍指揮権