LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

17.9 連邦、各州および各地域連合体で法律の制定 

17.9 連邦、各州および各地域連合体で法律の制定               

 連邦および州そして地域連合体それぞれの行政機関の管轄範囲と管轄事項と権限区分が確定したところで、国民、州の人々、地域連合体の住民の間で、新選挙法(第9章)に基づいて第一回目の選挙を実施し、国民ないしは州そして地域連合体の住民の政治的代表である政治家を各レベルで選出する。

 そして、そこから選ばれてくる、今度こそきちんと自由と民主主義そして法の支配をわきまえた本物の政治家たちの手で、連邦、州、地域連合体のそれぞれの議会で、連邦の憲法に依拠し、その連邦の理念を実現する方向で、政治家同士だけの議論によって新法を制定する。

 その際、アジア・太平洋戦争敗戦後からつい先頃まで用いられ、運用されてきた法律は事実上無視して、新時代、すなわち本書が定義する環境時代にふさわしい法体系のものにする。これまでの法律というのは、六法全書を見ればわかるように、そのほとんどがアジア・太平洋戦争敗戦後まもなくして制定されたものであり、その後幾分か改定されたものがあったにせよ、根幹あるいはその精神はほとんど変わらないものであるというだけではなく、何と言っても、それらを事実上制定したのは、当時の国民から選ばれた国民の代表である政治家ではなく、むしろ、明治時代の「天皇の官僚」という意識や組織の記憶を引き継ぐ官僚たちであるからだ。つまり、これまでの法律の内容も精神も、民法に代表されるように、あるいは刑事訴訟法に代表されるように、あまりにも時代遅れというだけではなく、本来、法律は————もちろん憲法もであるが————国民の代表によって作られるべきものだし、何よりこれからの時代に適用できる内容を備えたものでなくてはならないからだ。その際、これまでの法はあまり気にしなくて良いとする根拠は、法学の世界では、新法が常に旧法に優越するという原則があるからだ。

 なお、これらの過程を進める上で、決定的に重要なことがある。

それは、それぞれの議会で新法を制定するための議論をする際には、政治家たちは、各自が新選挙法のもとで立候補しようと決意した時点で、思い描いたこれからの日本が目指すべきと思う姿、日本のゆくべきと思う道、あるいは自分たちの地域が目指すべきそれらから導き出された各自の公約を胸にして、政治家同士だけで主体的に議論するということであり、そこには官僚を入れないということである。そうしたことを議会が徹底すべき根拠は、少なくとも3つはある。

1つは、これまで、随所で述べてきたように、これまでの政治家は、首相と首長を含めて、国会の政治家であれ地方議会の政治家であれ、立法や政策の立案のほとんどを官僚を含む役人に依存してきた結果、この日本という国を、ことごとく役人主導の国、役人独裁の国にしてしまい、未だ民主主義も実現できない国にしてきてしまったからだ。その意味では、これまでのように、法案作成は内閣法制局の官僚に任せるというやり方も、ここできっぱりとやめる。とにかく、議会が、連邦としても、州としても、地域連合体としても、名実ともに最高機関となるべきなのだ。2つ目は、その結果、この国のこれまでの政治家という政治家は、不勉強で、怠慢で、無責任な、自身の本来の役割や使命も判らない名ばかり政治家、税金泥棒としか言いようのない政治家となってしまっているからだ。3つ目は、そもそも官僚の働くところは行政府という、立法機関が定めた法律や政策や予算を忠実に執行することを使命とする執行機関であり、三権分立の観点から、立法府とは縁のない者だからだ。それに、立法機関に官僚を関わらせると、官僚らは、一人では「法の支配」を無視したり破ったりする勇気もないのに、集団となると、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式に、組織ぐるみで、国民の利益よりもつねに自分たちの利益を優先するような社会の諸制度を考え出しては、それを裏付ける法案を考えるからであり、また国民のお金である税金の使途についても、常に自分たちが自分たちの利益のために考え出した仕組みを成り立たせるための使途を優先するからだ。その実例が特別会計であり、それを最大限利用したいわゆる特殊法人や政府系公益法人であり、認可法人の乱立だ。

したがって彼らは、結果として、連邦政府であれ、州政府であれ、地域連合体政府であれ、そこの債務がどんなに膨らんでも意に介さないし、それを自分たちの手で返済しようなどともこれっぽっちも考えないからだ。要するに、彼ら官僚を含む役人には、私自身が直接接して知ったところによっても、自分たちが「国民のしもべ」だという感覚など毛頭持ってはいない。むしろ自分たちこそ主権者であって、この国やこの地域は無能な政治家たちには任せられない、という意識がつねに垣間見られるのだ。

 

 そこで、もし政治家たちが法案作成過程で助言を求めるなら、自らも法学を勉強すると同時に、法律の専門家、それも民主主義と人権を骨肉とした権威や権力に阿ることのない 法律の専門家や法学者に限定することである。彼らからまずは徹底的に民主主義を学び、法律というものを学び、一人ひとりが議会で法律制定のための議論をできるまでに法と民主主義に精通することこそが大事なのだ。

 また、各法律条文を作る際、もう一つ大切なことは、例えば「共謀罪」の趣旨を含んだ日本の「改正組織犯罪処罰法」や、中国の「反スパイ法」がいい見本なのだが、曖昧な表現は極力避け、何はしてよくて、何はしてはいけないか、何が許されて、何が許されないか、を常に明確化することだ。実際日本からビジネスや観光で中国に行った人のうち、「反スパイ法」の容疑で拘束されている人が今もなお複数人いるが、その彼らは異口同音にいう。自分がどういう理由で拘束されたのかさっぱり見当もつかない、と。それは「反スパイ法」の条文が曖昧に書かれていて、その法を運用する統治者側に有利に作られているからだ。したがって、法律の条文を運用するのはもっぱら政府の役人であるのだが、その役人がその条文を適用する際に、役人の恣意性、つまり気まぐれな独断をそこに差し挟める余地は徹底的に排除した条文にしておくことが不可欠なのである。すなわち、国民の誰もが安心できる社会秩序の中で暮らしたいと思うなら、「あらゆること、あらゆる行為は、最終的に法律の明文規定によって規制されていること」(K.V.ウオルフレン「システム」p.109)と、「行政権と司法権が明確に分離されていて、官僚たちの気まぐれな独断による法の運用によって特定の人だけが逮捕され起訴されるというような支配ではなく、誰もが平等に扱われる法の支配が徹底されていることが絶対に必要なのだ」(同上書p.103)。

そのためには、どの条文も、少々長くなることは厭わずに、誰がそれを読んでも、意味を一義的に読み取れる明瞭で簡潔な文章にしておくことが重要なのだ。