LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.5 地域経済のしくみ————————(その3)

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         (当農園のキューリとトマト(中玉))

11.5 地域経済のしくみ————————(その3)

3)生活必需品としての「住」の確保の仕方と分配の仕方について

 これは、基本的には「食」の確保の仕方と分配の仕方についてと同様にすればいいのである。

しかし具体的にはこうだ。

 連合体内で、その土地の気候に適していて、なお建築用材にもなる樹種を選定する。

その場合、もはや杉とか檜一色の林や森にするのは止めて、照葉広葉樹をも混ぜて混交林としての植林計画と森林管理計画を立てる。その際、植物学者や生態系学者の知識を借りる。それは林や森に、広義の「生命の多様性」を実現するためである。と同時に、先述の「水」の確保のときにも触れたが、人間の手による森林の適正な管理は、結局は人間社会に自然の恵みをもたらし、人間の暮らしを安定的に維持させてくれるからである。

 立てた植林計画に基づき地域連合体の住民が手分けして協働で植林をする。また森林管理計画に基づいて、同様にして地域連合体の住民が手分けして協働で森林の整備(下草刈り、間伐、枝打ち等)をも定期的に行う。

その際、後述するミネラルおよびバクテリア群とその代謝産物を、人の手で山林に運んでは山腹の土壌に散布する。

それは「エントロピーの原理」で言うところの、地球の作動物質である栄養の大循環を積極的に促進するためである。

 そうすることで、山林の土壌をいっそう活性化させ、山の生態系は豊かになり、山の動植物をよりよく生かし、そこで生み出されたさらに大量の養分は河川を下りながら途中の河川に生息する魚類を含むすべての水生生物一般とその周辺に生息する野生生物をもよりよく生かすようになる。こうして、山から浸み出し、流れ出た河川水は、流域の人間をも生かしながら、海に流れ下るのである。そして河口域での水質をも向上させながら海の生態系をも活性化させるのである。

 しかし、こうして育てた混交林の樹種が伐採適期を迎えるまでは、暫定的措置として、過去に植林して、いま伐採適期を迎えている杉や檜そして天然の松の林から計画的に伐採する。

伐採した木材を山から下ろして、集積所に運んで集積する。

 集積所は連合体内の公共の広場に設ける。同時に、製材所も、同じ敷地内に設ける。

 このとき、山から伐採木材を下ろす機械や車、集積所に運ぶ車等は、すべて共同体が用意する。なお、最初の頃は、従来のいわゆる「重機」とか「大型自動車」を用いて搬出せざるを得ないだろうが、これと並行して、馬の力を活用して搬出できるように、地域で協働で馬の飼育と訓練をも進めて行く。

 なおこの馬は、普段は連合体内での人々の交通の手段としても活用されて行く。

それは、「新しい経済」すなわち「環境時代の経済」が実行に移されるときには、すでにこの国は目的も理念もそして形をも明確にした本物の国家の建設を目指している時であり、その国家を州とともに構成している地域連合体は、「都市および集落の三原則」に依って、どこも小規模分散型の都市または集落から成り立っているため、そこでの人々の日常の暮らしは大抵は歩いて全ての用を足せるから自動車などは誰も不要になっているのである。それに、離れた地域連合体間での人と物の移動は電車による鉄道が完備されているから、やはり自動車はもはや不要なのである。

しかしそれでも、まとまった物の運搬やら農作業にゆく時にはそれなりの手段が必要となるが、それには、自動車に代わって馬車が行うのである。

 そのようにするのにはいくつかの目的が込められている。

1つは、何と言っても自動車は、それが世界どこの国でも当たり前の「便利」な乗り物になってきた反面、莫大な量の温室効果ガスや人体に有害なガス、例えば窒素酸化物(NOx)、硫黄酸化物SOx)を排出して、地球の温暖化と人体に大きな影響をもたらしてきたが、それももう終わらせること。1つは、自動車のための道路を建設することによって、自然を大規模かつ広範囲に破壊するだけではなく、野生生物の移動を妨げ、地下水の循環を含む自然循環をも遮断してきたが、それももう終わらせること。1つは、これまで自動車が発明されて以来、自動車事故によって亡くなった人が一体どれほどいたか不明であるが、そうした痛ましい事故もう終わらせること。1つは、自動車メーカーによるモデルチェンジが次々と行われ、その結果、未来世代に残さねばならない貴重な鉱物資源が莫大な量、浪費されてきたが、それももう終わらせること。そしてもう1つは、道路を造るために、それも全く無用と思われる道路をも造るために、人々のための福祉行政や教育行政が犠牲にされ、しかも政府の債務を増やしながら、これまでどれほど巨額の税金が使われてきたことか。しかしそうした税金の使われ方ももはや止めること、等々。

 こうして、自動車社会であることを止めたなら、これまで自動車交通がもたらしてきた、様々な問題、例えば、個々の人間を自己中心主義にさせるとか、地域の人間関係を疎遠にさせるとか、人間の心身を虚弱にさせる等々の問題を含むあらゆる問題は、ほとんど一挙に解消されることになる。

 集積された木材については、その皮は機械でむき、雨のあたらない日陰で、最低でも2年以上乾燥する。この皮むき機械も公共が用意する。

 新築でも増築でも、住宅を建築する希望者には、その建築主が携える設計者に拠る建築図書に基づいて、集積所から必要樹種の材木を必要本数、設計者により算出してもらって選び出し、それを買い、買ったそれらを格安で製材してもらう。

それを製材するのは共同体が雇用した共同体内の職人または住民である。

製材機も共同体が共同体の人口に比例して、複数台、用意する。

 こうして、住居建設は、すべて、連合体内で自給できるようになる。

 建築着工に際しての必要な職種の職人も共同体が共同体として募集する(基礎工事、木組み、建て方、左官、設備、屋根工事、建具、等)。

 なお、このようにして、住民が住まいを建設するに際しては、その建築資材等については、建築主には基本的に原価だけは負担してもらう。それは、「住」は人が人間として暮らして行く上で不可欠な物であり、それだけに共同体は共同体として、住民の生存権を具体的に保障するためである。

 ところで、今後は、住居を建てるに当たっては、これまでとは違って、とくに次のことに誰もが共通に留意する必要があると私は考える。それは、地震対策と同時に、台風対策そして竜巻対策だ。

 台風対策の必要性は2019年9月、とくに千葉県を集中的に襲った台風15号が証明した。

東京電力の巨大な送電鉄塔が複数倒され、倒木によって送電線が切断されたり、電柱が倒されたり、莫大な数の民家の屋根が吹き飛ばされるなど、前例のない大惨事が生じたのだ。

 今、地球は温暖化が進んでいる。その結果、太平洋を含む地球表面の四分の3を占める海の水が暖まっている。気温が1℃上昇すると海面からの水蒸気量は7%増加するとは気象庁が発表したデータだ(NHK総合TV 2015年10月24日)。より温まった海洋の表面から蒸発した水蒸気はより多くのエネルギーを持っているため、それを巻き込みながら発達して移動する台風(あるいはハリケーン、サイクロン)は当然ながら強大化する。

 強大化するとは、影響範囲が拡大することであり、風速、とくに瞬間最大風速も増大することだ。台風15号はそのことを如実に示した。

 つまり、今後は、住居を、新築の場合はもちろん、既存の住居も、台風や竜巻に対する住居の補強ないしは構造の強化が不可避になると私は考える。今回の被害はその必要をまざまざと示した。被害に遭ってからでは遅いのだ。その時の心痛、苦労、負担、等々は、言葉では言い表せないほどのものになってしまうのだから。

 既存住宅の場合には、構造までいじるのは難しいだろうから、私が考えるさしあたっての補強対策としては、屋根を瓦屋根ではなくし、耐候性のある金属板で屋根面を構成し、その屋根面のところどころをワイヤーでしっかりとくくり付け、その両端を地中に埋設したコンクリートブロックに緊結する、という方法である。しかし台風がさった後には、それを外すのである。

 

4)生活必需品としての「衣」の確保の仕方と分配の仕方について

 「衣」、つまり着る物とか身につける物については、これまで、この国では、「食」と「住」に比べて、各地域で作ることはほとんど無くなり、もっぱら国内のどこかでつくられた物か、海外の工場でつくられて輸入された物を買って使うという方法で満たして来た。

その際も、布や生地そのものをも同じ場所で織るとか、またそれを必要な色に染めるとかいうことは為されず、それはそれでまた別の国や地域で為される、というのが一般的だった。

だからもうこの国では、地域で、地域ごとに「衣」を自給するなどということは、今や誰も考えもしない。

 しかしこれからの「環境時代」では、とくに温暖化がもっと進んだ状態下では、好むと好まざるとに拘らずそうしなくてはならなくなる、と私は考える。

 では、「衣」の自給を実現するにはどうすればいいか。

 私は、そのためには、少なくとも、過去の日本の「衣」に関する技術をどの程度各地域で再現できるのかということをも含めて、予め次のことを人々みんなでしっかりと検討する必要があるように思う。

 各地域ごとに、これからは、どのような衣類を実現すればいいか、また実現できるのか。

 とくにこれからの環境時代に相応しい、しかももはや近代欧米文化をただ真似するというアイデンティティのない、あるいはコンプレックスを持った姿ではなく、日本の気候風土や伝統の文化の上に立つ衣類とはどんな形・色・質感のものが考えられるのか、そしてそれはどのようにして実現できるか。そのためにはどういう種類の職人を地域で育てて、どのように実現して行ったらいいのか。

 また、各地域では、布になる前の糸になる材料としてどんな種類の植物が確保できるのか。たとえば、木綿、羊毛、麻、絹、その他何がありうるか。

 今もなお絹糸は確保できるか。そのためには各地域で養蚕を復活させることは可能か。

 また地域で確保できる植物性染料にはどんな種類のものがあるか。

 紡織機械はどうやって、誰が、復活させられるか。復活させ、それをさらに発展させたものを、誰が、どこでつくるのか。それとも外から買うのか。

 縫製する機械は地域で確保できるか。また確保できたとして、それを扱えるか。そしてその機械は地域で作ることができるのか、それとも買うのか。またそれらはどこに設置するのか、等々。       

 いずれにしても、連合体内で衣類を自給できるようになるためには、最低でもこの程度の検討が必要となると思われる。

そしてその検討の結果、「行ける」となったなら、その後の実現方法は、基本的にこれまでのものと同じになる。

 

5)生活必需品としての「電力」については、どう確保し、どう供給するか。

 なお電力は本質的にエネルギーそのものであるが、ここでは、便宜上、燃料等のエネルギー資源とは分けて考察する。

 言うまでもないが、再生不能資源を用いた発電やヒューマン・スケール(身の丈)を超えた仕方に拠る発電は最初から考えない。つまり、壊れたり故障したりしたなら、その場で人の手で直せる機械や装置による発電方式でゆく。したがって、原子力発電はもちろん、LNGや石炭を用いた大型火力発電も、そして、いわゆるソーラー・パネルに拠る発電も考えない。

また、はるか離れた場所で発電された電力を送電してもらって電力を確保するという考え方も採らない。

 なお世界では、自然エネルギーによる発電方式としてはソーラー・パネルによる発電方式が最も一般的だが、日本ではそれによる発電は考えないとする主たる理由はこうだ。

1つ。ソーラー・パネルは、平地に、広く設置することで効果を発揮しうるが、日本は、その国土の大部分が山岳地帯または丘陵地といった傾斜地であるゆえ、そうした設置方法が採れないし、また馴染まない。1つ。その国土の大部分を占める山岳地帯または丘陵地は森林地帯でもある。その森林は、それ自体が大量にCO2という温室効果ガスを吸収してくれるし、多種類の生命を生かしてくれる最大の生態系だ。したがって、もしそうした森林を壊して、その斜面にソーラー・パネルを設置するということにしたら、それは温暖化防止という観点からも、またこれからは、これまでに破壊された生態系を蘇らせなくてはならないという観点からも、全く本末転倒になる。そしてもう1つの理由は、やはりそれはヒューマン・スケールによってできた工業製品ではないことによる。ソーラー・パネルはひとたび漏電等による故障ないしは飛来物等によって破損したなら、人の手では修理できず、全取っ替えせざるを得なくなるからだ。それは資源の浪費とゴミの増大を強いることである。

 ただし、ソーラー・パネルは用いないが、同じ太陽光を利用するにも、その光と熱でパイプ内の水を沸騰させ、その蒸気圧でタービンを回して発電させるという発電方式は十分に可能だ。身の丈の技術であるからである。

 要するに、これからは、電力も身の丈の技術によって自給自足してゆくのである。

 なおこの方針についても、たとえば、既述の台風15号に因って、とくに千葉県を中心として、電力供給面について、多くの人々が具体的にどういった被害に遭われたかを理性的に直視すれば、自ずと納得ゆくのではないだろうか。

その被害地域が頼っていた電力は遠く福島県の大型火力発電所が起こした電力だった。その電力が、途中、いたるところで電線が寸断されたのだ。その範囲があまりにも広いため、具体的にどことどこで断線しているか、東電はかなり長い間正確に把握できなかった。把握できていないのに東電は例によって被害住民には甘い見通しを立てて見せた。実際に電力供給が完全復旧するのには2週間もかかってしまった。

 今日の私たちの暮らしは、何から何まで電力への依存の上に成り立っているがゆえに、電力が途絶えると「水」さえもが止まってしまって、生活どころか生存さえ不可能になってしまう。

したがって電力に対する安全保障は水に対する安全保障と同程度に重視しなくてはならない。  

 ということは、もし、電力が途絶えたとなった場合、何が原因であるかが直ちに発見でき、人の手で直ちに復旧できるようになっていなくてはならない、ということだ。

そのためには、発電場所が遥か遠方であったり、しかもそれが複雑で巨大設備になっていたりするという状態は、決して安全の保障にはならないのだ。

 とにかく、日本が、あるいはその中の各地が自給自足的に電力を確保しようとするとき、何も世界の潮流に乗ることはない。それぞれの国はそれぞれの特殊事情や固有の事情を考慮した上で発電方式を選定すればいいのである。自立し、自律し得る独立国ならそれは当然であろう。

 日本も、またその中の各地も、それぞれが置かれた地形的かつ自然環境的な特殊事情や固有の事情を最大限活用して、その地に合った発電方式を採用すればいいのである。

そしてできる限り安定した電力を確保するために、それらを複合的に組み合わせればいいのである。

 ということで、日本列島の持つ特殊性を考えたこの国に相応しいと思われる発電方式にはおよそ次の種類のものが考えられるのではないか、と私には思われる。

① 水力、それも河川の水や農業用水路を流れる水を利用した小規模水力発電

② 森林から出る間伐材を燃焼させることに拠る発電

③ 太陽光を利用した既述のもう一つの方式に拠る発電

④ 人々の日常の暮らしから出るゴミを燃やすことに拠る発電

⑤ 風力を利用した発電

⑥ 地熱を利用した発電

⑦ 波力を利用した発電

 なお、ここまでは、各家庭あるいは各産業で用いる電力の確保の方法についてであったが、都市と都市との間での大量輸送手段としての電車を動かす電力については、関係諸都市の間での公共発電事業の中で生み出されるべきものと私は考えるのである。

 なお、以上7種類の発電方式のうち、熱の力で発電する方式については同様に当てはまることであるが、その時、せっかく得られた高温の熱は、最後まで、ということは、高温の熱から低温の熱になるまで最大限に有効に使い尽くすのが理にかなっている。

それには例えば次のようにする。

 その熱を先ずは発電に用いる。その時タービンから出るまだまだ十分に高温な熱はそのまま捨ててしまうのではなく、大量の水をお湯にするのに用いるようにするのである。

そうして得られた大量のお湯は、地域の各家庭にパイプを通じて配給し、たとえば、台所で、風呂で、床暖房で、と利用するのである。

 これは既にある「コ・ジェネレーション(熱電併給)」と呼ばれる考え方で、せっかくの高温として得られた熱を、発電するだけで捨ててしまうのは余りにももったいないから、その熱を周囲の環境(大気あるいは土壌)と同温になってもうこれ以上は利用できないという温度になるまで、“しゃぶり尽くそう”という発想に基づくものである。

 この「コ・ジェネレーション」というしくみについては、この国でもかつて、一時期、民間企業の間では脚光を浴びたが、いつの間にか廃れてしまった。これも、結局は、原子力発電を進めたかったこの国の電力独占会社と通産省(当時)の官僚のもくろみによって潰されてしまったのではないか、と私は推測するのである。

 

6)生活必需品としての「燃料」および「エネルギー資源」については、たとえば次のようにして確保し、供給する。

 先ず燃料等のエネルギー資源を用途別に分類すると次のようになる。

①煮炊きおよび暖房用に用いる薪、油、ガス

②自動車および重機を動かす油

 これらも、原則として、地域連合体内で自己完結的に自給するのである。

これらを、共同体の各家庭に対して、「環境時代の暮らし方として適切な水準」と共同体がみなす生活水準を維持するのに必要十分な量を、その家族構成(人数、年齢、障害の有無と程度)に応じて、原価で、供給あるいは分配する。

 もちろんその水準を上回る暮らしを維持するための燃料および電力の費用は、各自が負担する、とする。

そこで①の確保と供給の仕方について。

 薪については次のようにする。

「住」の確保の方法のところで述べて来た方法に準じて確保する。

 地域連合体内の森林を既述のように計画的に管理育成しながら、適宜間伐した木材を活用するのである。そしてそれを、次の要領で、一般家庭に「薪」として供給する。

 先ずは、連合体内で、薪を暖房用として用いている住戸のすべてが、晩秋から冬そして初春までの期間で必要とする総薪重量を計算する。

 その全量を賄える量の間伐材を、林業家の指導の下に、夏場、奉仕に参画してくれる住民が主体となり、それを公務員が補助する形で、山林にて確保する。

その間伐材を、山から麓に下ろし、定まった貯木場に集める。

住民の中から奉仕者を公募し、彼等の力で薪割りをし、それを天日乾燥させる。

そして乾燥させたそばから、雨の当たらない場所に貯蔵する。

寒さが来る頃、とくに暖を早急にも必要とする家庭を優先的に、定期的に配給して行く。

 その配給作業員も一般住民から公募する。

 油については、次のようにする。

既述した「食」を確保する方法について述べて来た方法に準じて確保する。

要するに、植物のタネから確保するのである。具体的には、小松菜・ベカ菜・辛し菜等の黄色い花の咲くいわゆる「菜の花」野菜のタネ、ひまわり、ゴマ、エゴマ、そしてオリーブが考えられる。それらを、適宜、一般家庭に、食用油と燃料油とに分けて、分配するのである。

 ガスについては、次のようにする。

それは、家畜と人の力を借りて確保するのである。

酪農で大量の家畜(牛、馬、豚、鶏等)を飼うことによって出る屎尿と、私たちが日常生活を送る中で排泄する人糞(屎尿)とを集めて、それらを醗酵させることにより、その醗酵過程で得られるメタンガスを活用するというものである。

 それには先ず、地域連合体として、次の手順で実現して行く。

 全住戸と地域の産業が使用する毎月の平均総ガス量を把握する(これは、連合体の役所が行う)。

 連合体内の酪農家の飼育する家畜が毎日出す排泄物の平均総量を把握する(これも、連合体の役所が行う)。その情報は、各酪農家から提供してもらう。

 連合体内の人々から提供される毎日あるいは毎月の屎尿の平均総量を把握する(同上)。

それらの総量から、季節ごとの平均気温を考慮しながら、醗酵して得られる一日当たりのメタンガスの量を算定する。

 そのメタンガス総量が連合体内の総需要の何%を満たせるかを試算する。つまり、メタンガスの自給可能率を算定する。

 満たせない分は、酪農として飼育すべき必要な牛や豚や馬の頭数または鶏の羽数を増やすか、あるいは、やむを得ない措置として、従来のボンベに詰めたLNG液化天然ガス)あるいは都市ガス(プロパンガス)を地域の外から取り込んで利用するかを、連合体の議会が、住民の意見を公正でかつ公平に聞き取りながら、議論して決め、その結果を役所に結果どおりに執行させる。

 連合体内の酪農家から回収した家畜の糞尿と、住民から毎日回収した人糞を貯めておくバイオガス・プラント(醗酵装置)としての貯蓄槽を、その容量に応じて、必要個数、連合体内に適宜配置して建設する。

その際、醗酵を早められるように、プラント周囲の土壌を保温し、また断熱もする処置を施しておく。

その際の電力は、後述する地域の自然エネルギーから得た電力に拠る。

 そのプラント建設要員と、糞尿や屎尿を回収してくれる要員とを、連合体への奉仕者として、住民の中から公募する(この公募も、連合体の役所が行う)。

 毎日、連合体内の住戸を巡回して屎尿を回収して回り、それをプラントに運んで注入する。

 一方、発生したメタンガスをボンベに加圧して詰める。

 詰めたボンベを貯蔵すると同時に、必要本数を、必要な住居に分配する。

なお各戸への分配の仕方としてはボンベによる分配の他にパイプラインによるという方法も考えられる。その場合には、そのパイプに併設する格好で電話線や電線をも一緒にすれば、集落や小都市の街や道の景観は格段にすっきりして美しくなる。

 またメタンガスが得られると同時に得られる液体は、野菜や米を確保する上で有効な、良質の有機肥料としての「液肥」にもなるので、希望農家には、それも分配する。

 なお、このシステムを稼働させれば、従来の公共下水道とか合併浄化槽という発想も設備も不要となる。それは、これまで定期的に行って来た「消毒」という管理も不要になり、薬物が含まれた毒水が河川に放流されることもなくなり、河川を取り巻く自然はそれだけ早く蘇って行くことにもなるのである。

 ②については、前述した方法で確保できるからそれを供給する。

 

 なお、ここで、さらに、これまで当たり前のように呼ばれて来た、頭に「公共」と冠された水道料金、電気料金そしてガス料金というものについても考えておく。

 結論から言えば、「新しい経済」ないしは「環境時代の経済」のシステムの中では、これらはすべて消滅する。

水道料金については地方公共団体が管理しているからともかく、とくに電気料金については、これまでも、明らかに「公共」料金などではなかった。「公共」料金などと呼ばれること自体、間違いだった。

なぜなら、電力会社は本質的に営利企業であって公的企業ではないからだ。そんな企業に支払う料金が「公共」料金などであるはずもない。

そうでなくとも、これまで、日本列島を9分割しながら電力の地域独占販売を許されるということ自体、「独占禁止法」に明らかに違反しているのである。

ところがこんなことがまかり通ってしまうのも、電力会社が国の中央政府の省庁(かつて通産省、いまの経済産業省)の官僚と結びついて、お互いに互恵の関係を保っているからだ。

 経産省の官僚は、電力会社の経営が実際には独占禁止法違反なのに、それについては目こぼしをしては電力会社に恩を売り、その代わりに破格の好条件で電力会社に「天下り」させてもらう、というものだ。しかしそれはそれで、天下りを受け入れた電力会社としては、その「元通産官僚」を通じて、彼の古巣の政府の当該省庁が今、そして今後どんな電力政策を考えているのかという情報をいち早く入手できて経営に活かせるからだ。

 

 なお、「経済」の概念の中には直接的には含まれない「教育」関係や「医療と看護と介護」の関係の仕事については、次節での「真の公共事業」の中で考察する。

ただし、この両者に関わる教育費と医療介護費については、この「新しい経済」の下にある地域連合体に住むすべての住民は無条件にすべて無料とされる(12.5節)。

 

 ところで、ここで、次の観点から、私たち人間が「消費」しているエネルギーについて考えてみる。

 生物としてのヒトが一人、その生命を維持するのに必要なカロリー数は、平均的な人間についてみれば、一日当たり2000カロリーとされている。

 ところが、自動車や電化製品や食品などを製造あるいは生産するに際して私たち一人当たりが一日に使って、二度と利用できないエネルギーにしてしまう(これを一般に“消費”と言う)エネルギーは、カロリー換算で約20万カロリー。

 つまり、今日の「文明人」は、一人当たり、毎日、生きるのに必要なエネルギーの100倍ものエネルギーを使って「豊かさ」を享受しているのである。しかもその過程で、同時にエントロピーという汚れを発生させ、また増大させてもいるのである。

 農業に関して言えば、今日の農法に拠ってつくり出される農業生産品の一つであるトウモロコシの缶詰を例に採ってみた場合、たった270カロリーのその缶詰一個を生産するのに、農夫がかけるエネルギーとしてのカロリー数は実に2790カロリーである。その大半は、農業機械を動かすのに必要なエネルギーと、合成化学肥料および農薬を生産し輸送し散布するのにかかるエネルギーとで占められている。

 つまり、消費エネルギー単位で見れば、農夫一人が馬または牛一頭と鋤一本で耕していた方がはるかに生産効率は高い、ということがはっきりするわけである(ジェレミー・リフキン「エントロピーの法則」祥伝社 p.167)。

 このことは何を意味し、これから何が判るか。

要するに、ここで考える地域経済のしくみの中で目ざす、「多人数による多品目の、できるだけ手作業による必要量生産」方式に要する消費エネルギーは、これまで、とくに近代の後半では当たり前となって来た、別名「オートメーション」システムと呼ばれる「少人数による少品目の、機械化による市場向け大量生産」方式による物品の生産時の消費エネルギーと比べたなら、圧倒的に少ない消費エネルギーで済むということを意味していて、それは、圧倒的に少ない消費エネルギーでより多くの人々を生かすことができる、ということを意味している。

 しかもそれは同時に、発生するエントロピーの量も格段に少なくて済むということをも意味する。

 今、人類は、その人類が大量にエネルギーを消費することで発生させてきた温室効果ガス(エントロピー)に因り、地球規模の温暖化という事態を招き、人類は自分自身を存続の危機に直面させている。そしてやっとCOP21(2015年暮れ)では「パリ協定」成立にこぎ着け、今世紀後半には温室効果ガスの排出量を実質的にゼロにするという国際的取り決めが発効した。

 しかしそれを実現させることは、今の経済システムの中では、非常に困難である。というより、資本主義経済とそのシステムを維持し続けている限り、不可能であろうと私は見る。

それにもはや、パリ協定の取り決め内容では1.5℃以内に押さえるという目標は不可能であることがはっきりして来ているのだ。

そんなとき、「多人数による多品目の、できるだけ手作業による必要量生産」方式を基本とする、ここに考察して来た地域化された経済のあり方は、「パリ協定」の実現の可能性を高める上で、というよりも、遥かその先を行って、人類の末永い存続をも可能とさせるきわめて有力な経済システムのあり方ということになるのではないか、と私には思われるのである。

 

 なお、既に明らかと思われるが、ここで提案して来た新しい経済の具体的な姿としての「地域の経済」のあり方は、これまでの社会ではいつの間にか「当たり前」とされてきたさまざまな資格制度や検定制度のすべてを無意味化ないしは不必要化する。

元々、そうした資格制度や検定制度は、中央政府の各府省庁の官僚が、その「天下り」先あるいは「渡り鳥」の先を確保するために、政治家のコントロールがないのをいいことにして、闇権力という、国民の見えないところで許されない権力を行使しては、一見もっともらしい理屈をそれぞれに付けては数えきれないほどの数の財団法人とか社団法人を作り、そこに運用を任せてきたものだ。たとえば、行政書士、宅地建物取引主任、英検、等々の全てがそうだ————民主主義議会政治の本来の姿からすれば、国会議員が、国民の声を聞き、またその時の社会の風潮を考慮して、国内にどのような資格制度や検定制度を設けるべきかを、国会で議論して、定め、それを政府の総理大臣をして執行させるべきだったのだ。だが、国会議員は、既述の通り、本来の使命である官僚をコントロールするなど一切せず、むしろ官僚に権力を丸投げして、放任してきたのだ————。

 地域連合体という狭い地域ではそのような資格や肩書きは必要なく、あくまでも人々の間での「眼の届く関係」としての「信用」がもっとも確かなものとなるからである。

それに、ここでの「地域の経済」のシステムの中では、これまで全国共通の制度あるいは世界的制度ともなってきた、利益を独占するために権利をも独占することを国家が認めた「特許」制度も、もはや、すべて無意味または不必要となるのである。もちろん「人工頭脳(AI)」などという技術についても同様である。これなど、ヒューマン・スケールをはるかに超えるだけではなく、人間によるコントロールさえも効かなくなる技術なのだ。

 

 とにかく、この「新しい経済」の中の「地域の経済」での物の生産方法とは、地域外から持ち込む資源は最小にして、エネルギーは地域で自給しながら、その地域内の多くの数の人が、自分で鍛え、磨き上げては所有している知力・体力・技に基づく得意分野において、一人当たりは少しずつではあるが、自分の頭と手足を動かしてその地域の人々が本当に必要としている物を作るのである。

その意味で、この「新しい経済」におけるものの生産方式はこれまで「近代」を支配して来た物の主要な生産方法であるいわゆる「オートメーション・システム」による生産方式とは正反対の「大衆による大衆のための生産方式」と言える。

 そこでは、作者一人ひとりは、作るその一つひとつに精魂を込め、使う人の身になって、使い勝手が良く、美しく、洗練されたものとして仕上げる。出来上がったそれは、どれも、文字通り世界にそれしかない物となる。他と比較のできない、掛け替えのない価値ある物となる。当然そのような物は、使い手に、作者の手のぬくもりと思いを伝え、使い手は、それを使い込めば使い込む程に手に馴染み、たとえ古くなっても、いえ、古くなればなるほどそのものへの愛着を深め、ずっと手元に置いておきたくなる逸品となる。

だからそこでは、すでにある物を少しだけ形か中身を変えては、コマーシャリズムを動員して、消費者に売りつけようとするオートメーションによる大量生産システムの下でのように、「モデルチェンジ」などといった発想は出てこないし、意味を失う。

それに、こうして作られた物は、どれも、それが壊れたり故障したりしても、作り手にかかれば、たちどころに直してしまう。ところが、これまでの大量生産方式によって出来た製品の場合には、技術者といえども修理もできない。畢竟、「全取っ替え」となる。

 つまり資本主義的なものの生産方式は、資源やエネルギーの大量浪費を強い、川や海を汚し、人を含む生命一般を生きられないようにしてしまう。

 一方、ここで述べてきた「新しい経済」の中での「地域の経済」での物の生産方法によれば、作られた物が、使い手一人ひとりについてだけでなく社会としても富としてむしろ蓄積されてゆくようになり、同時に生態系という環境も急速に蘇ってゆくのだ。

 

 ところで、この「大衆による大衆のための生産方式」は、生産過程に大量の人々を必要とすることから必然的に「大量の雇用を実現」しうることにもなる。ただしその場合雇用するのはあくまでも地域連合体という共同体である。だからその場合も、これまでの単なる「雇用」という概念とは大きく異なる性質のものとなる。それは、その仕事に就くことで、その人は自身を人間として成長させ開花させ得るようになるからである。

そしてこの「大衆による大衆のための生産方式」は、今、世界の資本主義経済国が最大の社会問題の一つとしている「失業」あるいは「格差の拡大」という難問をも自ずと解決して行ける方法でもあるということである。

もちろんこの経済では、仕事に従事する上では、男女の差別も、国籍の違いも、肌の色の違いも、信教の違いも問わない。

 

 概略的ではあるが、以上が私が考える「地域経済のしくみ」の具体的な内容となる。

 しかしここで補足的にではあるが、こうした経済のしくみを国内の各地域に実現する上では特に重要なことと私には思われることについて述べて、この章を閉じたいと思う。

それは、これまで述べてきたことすべてを思い返していただければすぐにもわかると思われるが、特にこの国では、こうした経済のしくみが国内の各地域において実現されるためには、次の三つの条件が叶えられることが必須である、ということである。

 1つは、主権者である地域住民一人ひとりが、自分はこうした社会に暮らしたいと主体的に切望し、また決意できること。

そのためには、これまでの生き方と、ここで述べてきた生き方とどちらが人間的な生き方となるか、どちらが生きるに値する生き方となるか、を、じっくりと比較してみることではないだろうか。

これまでの生き方とは、例えば、満員電車に長時間ゆられて通勤し、家庭を顧みることなく、夜遅くまで働く毎日。家庭では家族揃って夕食をとることもなく、家族関係がバラバラになってゆく生活。誰もが自由な時間もない。子供の受験や進学のための金を蓄えなくてはならない生活。子供たちは子供たちで、偏差値で選別される教育。老後の生活のための蓄えもしなくてはならない。いざっとなっても、政府はもちろん、誰からも助けてももらえない不安を抱えた毎日。そうなったら、人並みから排除されてしまうのではないかという不安。何事も効率を競い、競争を当たり前とする社会。他者への思いやりを忘れた社会。頼れるのは金だけだとして、とにかく「今」を切り詰め、誰もが万が一に備えなくてはならない社会。・・・・・。

 2つ目は、そうした住民の意思を、国民の代表である政治家が、他人任せ、特に官僚を含む役人に国民から負託された権力を丸投げしては依存し、任せるのではなく、国民の利益代表であるとの自身の役割と使命をもって真摯に汲み取り、それをどのような方法と手順で実現するか、国会にて、その際、必要に応じて関係分野の本物の知識人としての研究者や専門家の助言を仰ぎながら、役人は一切介入させずに、政治家同士で徹底的に民主的に議論し、日本国の公式の政策として議決すること。

 3つ目は、議会で決めた国策が、その通り執行されるために、国会と中央政府の全政治家が協力し合い、総力を挙げて、戦後ずっと当たり前とされてきた各省庁間の「縦割り」を廃止するとともに、総理大臣と閣僚が配下の全府省庁の官僚を人事権と罷免権を持ってコントロールするようにし————日本国憲法第15条の第1項に依る————、日本国を真の国家、統治の体制が整った国家として国民に実現して見せること。

 この三条件が揃わなければ、たとえ今後、温暖化が加速してゆき、前例のない大惨事が続出する中、様々な政治と行政の改革案が様々な人から提案されてくるだろうが、そのどれも、官僚とその組織の抵抗に遭い、実現できないままとなる、と私は確信する————2009年、民主党が政権を執り、鳩山政権が公約を実行した時、いかに官僚たちがそれを阻んで、鳩山氏自身を首相辞任に追い込んだか、思い出すべきだ————。

そうなれば、この国はいつまで経っても自立も自律もできない国、本物の先進国の真似をして付いて行くしか能のない、情けなく、みすぼらしい国、世界から見れば価値のない国で終わるしかないであろう。