LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

13.8 国防と国土の安全

13.8 国防と国土の安全

 日本は今、国として安全か、そしてこれからも安全か、ということについてはすでに拙著の随所にて、いろいろな観点から、私なりに思うところを述べてきた。

 その結論は、いずれの面をとってみても共通に言えることであるが、それを一言で言えば、今も、今後も、今のままでは極めて危険である、ということである。

そのため、この国が本当の意味で、それも永続的に安全な国になるためには、さらには、単に安全になるというだけではなく、国民の一人ひとりが真に幸せを感じられる国になるためにもとして、特に拙著の《第2部》では、新しい国づくりをして行く上で欠かすことのできない仕組や制度に関する変革案のいくつかを具体的に示してきた。

 このとき特に注目していただきたいのは、私が示しているのはあくまでも抜本的な「変革」案であって、決して「改」良案でも「改」革案でも「改」正案でもないということである。

 それは、もはや「改める」といった程度では、日本国は本当の意味で永続的に安全な国にはなり得ないし、一人ひとりが本当に幸せを実感できる国にはなり得ない、それほどまでにこの国は全てが行き詰まり、機能し得なくなっている、という認識が私にはあるからである————例えば政治、経済、教育、医療・看護・介護、年金を含む社会保障そして科学・技術の分野において、そしてそれらを支えるものの考え方においてである————。

 そこで、では、本章の主題である〈三種の指導原理〉に基礎を置く国家の主たるしくみとしての国防と国土の安全はいかにして可能か、それについて本節で考える。

 そのためには、先ずはこの国の国防は、現状、基本的にどのような考え方の下で行われているか、そして国全体がまさかの事態に遭遇したり陥ったりしたような場合、果たして特に政権を担当している政党の政治家が口で言うような国防を成し遂げられるような体制ができているのか、ということについて確認しておかねばならない。

 そこでであるが、この日本という国の国防を考える上での基本的な考え方は、一言で言えば、日本政府はアメリカ頼み一辺倒であるということだ。というより、日米安保条約と密接な関わりを持つ日米地位協定などを見ても判るが、日本の主権をアメリカに譲り渡して、ほとんどアメリカに追随して、日本がまるでアメリカの植民地にでもなったかのようだ。そこには、日本人としての独立心も誇りも全く見られない。国民の一人として、“情けない”としか言いようのない姿を晒しての国防意識だ。

 確かに日本にも軍隊はある。「自衛」隊という名の軍隊だ。

日本国政府は自国憲法(第9条)に違反すると判っているからそれを軍隊とは呼びたくはないのだろうが、そしてその憲法を作ったアメリカ自身も第9条を設けたのは失敗だったと今にして思っているのだろうが、この自衛隊は、誰がどう言い繕おうと立派な軍隊なのだ。

 こういう日本政府の態度を見ても、私はつくづく思うのだが、本当にこの日本国の国防を考えるのであれば、もういい加減、自衛隊は軍隊ではないと言うような、子供でも見抜けるこうした言葉上のごまかしはやめるべきだろう。事実は事実として隠しようがないからだ。というより、事実はあくまでも事実として受け入れる勇気と謙虚さを持つべきではないか。

 アジア・太平洋戦争の時もそうだった。開戦に当たって、国民には何一つ状況を説明しないまま戦争に飛び込んで行った軍部とそれに引きずられて行った日本政府は————つまり軍部も政府も自国の国民の存在などなんとも思ってはいなかったということなのだ————その後国民の目をごまかすために、国民に対して嘘の上に嘘を重ねて戦況を伝え続けた。

そしてその時、例えば朝日新聞NHKを筆頭としたメディアも、本来、彼らには、権力者のやろうとしていることを監視し、国民には真実を伝えるべき使命を負っていたはずなのに、事実など何一つ確かめようとはせずに、大本営の言うことそのままどころか、必要以上に勇ましい言葉を連発しては、戦争協力させるために、国民を煽り立て、若者を戦場に送ることに加担してきたのである。

そしてそこでは、戦争を「事変」と言い繕ったり、戦車を「特車」と言い繕ったり、敗退を「転戦」と言い繕ったりした。戦場での兵士全員の死を「玉砕」と言い繕っては、兵士の死を美化しさえした。

 しかも、当時、軍部も日本政府も、戦争を継続するには、最前線で戦う兵士や将校のためには、食料、武器、弾薬、医薬品、医療従事者をも継続的に現地に送り届けなくてはならなかったのに、それをも全くと言っていいほどに軽視した。

 その上、当時の日本ではエリート中のエリートと呼ばれた軍部の作戦将校である官僚たちは、敵に戦闘を挑む際には絶対に欠かしてはならない「敵を知り、己を知る」という態度すら怠っただけではなく、自分たちに不都合な情報には耳を貸そうともせず、そして戦争目的も戦略も、そして戦況がどうなったらどうするかという大きな方針も全くないまま戦争に突入したのだ。山本五十六連合艦隊司令長官として決行した「真珠湾奇襲攻撃」だって、戦争全体を見通しての戦略ではない。むしろ破れかぶれの作戦でしかなかった、と私は考える。

 そしてこうしたことの総合的結果が、「ポツダム宣言受諾」という形での無条件降伏となったのだ。だからそれは全く必然の結果だった。

 つまり、日本は、どの面どの角度から見ても、特にアメリカ相手の戦争などやれる状態ではなかったのだ。

 今も日本国政府は自国民に対して、自衛隊は「軍隊ではない」という見え透いたごまかしを続けているが、それも、かつて戦争を「事変」と言い繕い、敗退を「転戦」と言い繕った態度と何一つ変わってはいない。あの戦争から何一つ教訓を引き出しもしなければ、学んでもいないのだ。事実、日本政府は、今もって、あの戦争について公式に反省もしなければ、総括もしていないし、第一、あの様な戦争の仕方をしたことに対して、自国民に公式の謝罪すらしていない————実は、こうした態度は日本政府だけではない。朝日新聞を始め、その他の大新聞もNHKも、実態はかつての体質となんら変わってはいない。なぜなら、そうしたメディアのどこも、事実を偽って軍部に戦争協力し、若者を戦場に駆り出したことについては、その後今日に至るまで、公式の形で国民に謝罪したこともなければ、戦争報道の仕方について反省も総括も何もしていないのだからだ————。

 私は危惧する。一部の政党(日本共産党)を除き、日本政府と与党そして他の野党も、安全保障と言うと決まって日米安全保障条約を口にするが、果たしてこの国の政治家も大新聞もNHKも、自分たちがなしてきたことの失敗を謙虚に顧みようともしないこんな状態で­­­­、この国に再び国防ということを考えねばならない事態が生じたとき、この国の政府も、そして私たち国民も、本当にその国防など成し遂げられるのか、と。

 

 実はこの国の国防を考えるとき、私は、もう一つ、私たち日本国民が明確に頭に入れておかねばならない重大な問題が課題として残されている、と思っていることがある。

 それは、この国は、諸外国、特に欧米諸国が言う意味での国家ではない、少なくとも本物の国家ではない、ということである。

 では、そこで言う「本物の国家ではない」とはどういうことか。

その理由は近代になって確立された国家の定義を明らかにすることで明確になる。

しかしその国家の定義を明らかにするには、その前に「社会」とは何かを明らかにしておく必要がある。

そこで、その社会であるが、それは、「自分たちの相互の欲求の満足のために共に住み、共に働いている人間の一集団のこと」と定義できる(H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書p.5)。

 このように定義された社会を用いて、国家とは、「この社会を構成するあらゆる個人または集団に対して、合法的に最高な、一個の強制的権威を持つことによって統合された社会のこと」、となる(同上書p.6)。

 この定義の中で特に重要な文言は、「合法的に」、「最高な」、「一個の」、「強制的権威を持つ」そして「統合された」であろうと思う。

 こうして、この国が国家ではないということは、この国は、見かけはどうであろうと、実際にはこのように定義されるような社会にはなってはいないということなのだ。

それは例えば、次のようなところに注目すれば、その意味が判るのではないだろうか。

 明治期から大正期、そして昭和の20年までは、国の最上位に天皇がいたが、でもその天皇が、その当時は合憲的に、しかも最高の一個の強制的権威————統帥権統治権の両方を合わせた「天皇の大権」————を公式には持ってはいたが、だからと言ってその天皇が、その大権を持って軍部を含む国全体を実質的に常に統合していたかというとそうではなかった。実際には、海軍と陸軍からなる軍隊、それも海軍の官僚と陸軍の官僚とが、自分たちは「天皇の軍隊」であるという意識と統帥権の名の下に、公式の日本の政府の統治権を上回って、政府の言うことなどは無視して軍事を進めていたこと。しかも、海軍も陸軍も、常に天皇のためにとか、国民のためにということで一致共同して統治していたわけではなく、むしろ両者は互いに自分たちの存在意義を主張する犬猿の仲でさえあったことである。

 では、敗戦の年である昭和21年以降から今日までの日本はどうか。

一国の基本法である憲法が欽定憲法から民主憲法になって、主権者は天皇から国民に変わったが、そして民主主義的な議会政治の国になったとはされ、執行機関である中央政府の長である内閣総理大臣、すなわち首相が日本国の合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者となったかのように国民一般には信じられてはいるが、しかしそれを明記する憲法条文も法律条文もない。

その上、内閣を総理する首相は閣僚、すなわち中央政府の各府省庁の大臣を任命する権限を持っているともされてはいるが、では任命した首相は、自らが任命した閣僚全体を指揮しているかと言うと、決してそうではない。

 それは例えば、一つの政府内に次のような状況が頻繁に生じることに象徴的に現れている。

最近の実例から拾う。

 国民の「老後の30年間で必要な金額」はとして政府が国民に向って発表した数字についてである。この国が本物の国家であったなら、そこで発表される数字は一つのはずである。ところが、厚生労働省は約2000万円、金融庁は1500〜3000万円、経産省は2895万円というバラバラな金額を発表したのだ。

 これは一つの政府内で、閣僚同士の間で調整できていなかっただけではなく、総理大臣も全く関与していなかったことを示している。

 これでは、国民はどれを信じたらいいのか判らなくなり、混乱をきたしてしまうのである。

 もう一つの実例。

財務省は新紙幣を発行しようとしたことに対して、経済産業省はキャッシュレス化を進めようとしていることである。渋沢栄一の写った紙幣が出回ることになったのは、そうした背景によるのである。

 これも、国民にとっては、政府は何を重視しているのか、判断を迷わせられることなのだ。

 そして、最も最近の例では、今回の新型コロナウイルスパンデミックに対する政府の対応だ。

厚生労働大臣の言うこと、経済再生担当大臣の言うこと、コロナ対応行政改革大臣の言うこと、文部科学大臣国土交通大臣そして官房長官の言うこと、それぞれがバラバラであることだ。

 つまり、この国では、社会を構成するあらゆる個人または集団に対して、それを統合する、合法的に最高な、一個の強制的権威を持った者はいないということなのだ。つまり、総理大臣といえども、日本の社会を統合し得ていないのだ。

 しかも、首相に任命された各閣僚も、各府省庁の最高責任者としての大臣なのに、彼らは一般には公務員と呼ばれる「国民のシモベ」たる配下の官僚を国民から選ばれた代表として統括しているわけではない。むしろ、メディアの前でも、あるいは国会答弁でも、自分の言葉で理路整然と語れることができずに決まって官僚の作文を棒読みしているだけであることからも判るように、実態は配下の官僚の操り人形と化してさえいる。

 このことは次の実例からも判る。

例えば、財務省の官僚が起したいわゆる「森友学園」問題、またそこから生じた近畿財務局の某官僚が公式文書改竄を上司から命じられ、それを実行したことを悔いて自殺した件では、本来は財務省の最高責任者である麻生太郎が前面に出て国民の疑問に全て答えて説明責任を果たすべき立場だったのに、麻生はその責任は全く果たさず、むしろ他人事のように言い逃れしては、全てを配下の官僚任せにしていたことだ。

 またスリランカ女性が名古屋入国管理局管内において、人権を無視されて悲惨な死を遂げた問題でも、問題は法務省管轄の問題なのだからやはり同省の最高責任者である上川法務大臣が国民の前に立って説明責任を果たしながら配下の全官僚を指揮するということをしなくてはならなかったのに、彼女もそれを全くせず、メディア対応を全て官僚任せにしていたことだ。

 

 実はこの日本という国が国家とは成り得てはいない、さらにもう一つの明確な根拠もある。

それは、政治や行政のあり様に少しでも関心のある人なら誰でも知っている、この国の中央政府から地方政府に至るまでの行政組織の相互間の、いわゆる「縦割り」という悪しき慣例だ。

そこでは、中央政府の長と名乗る総理大臣も、都道府県知事や市町村長という首長も、互いに一つの政府として全府省庁や全部署を統合しようとは全くしていない。その上、府省庁間にも、部署間にも見えない垣根ができており、しかも互いに他の府省庁や部署の管轄範囲には踏み込まないことを暗黙の了解事項にしているために、必要な情報が必要な部署や人に伝わらない。それどころか、伝達する内容が自分たちの既得権にとって不都合な内容と見るや、途中で役人が勝手にその情報を握りつぶしさえする。

これでどうして、この国が、「社会を構成するあらゆる個人または集団に対して、合法的に最高な、一個の強制的権威を持つことによって統合された社会」、と言えるだろうか。

 このように、この日本という国は、今の所、どの観点から見ても、国は国でも、国家ではない、と言えるのである。

 

 では、国が国家ではないことは、国と国民にとってどうしてそれほどに重大で、また深刻なことなのか。

それは、例えば、かつてこの国に起こった、阪神淡路大震災オウム真理教サリン事件、東日本大震災、またその直後起こった東京電力福島原発の立て続く大爆発の時、中央政府はどう対応したかを思い出していただけばいいと思う。

 メディアは決まってその時の政府の対応を「初動体制の遅れ」と表現して国民に伝えたが、私は、そうした状態を招いた本質は初動体制云々の問題ではなく、この国が国家ではなかったからだ、国家ではないことによって生じたことだと断言できるのだ。

言い換えれば、この国の統治の体制が不備あるいは欠陥だらけだったから生じた現象なのだ。

 つまり、国が本当の国家でなかったなら、それは言い換えれば、国が国として、統治の体制に不備がある、あるいは穴だらけということなのだが、それであっては、いざ国難というとき、国民は特にその生命と自由と財産は救われないままになってしまう、少なくとも、国民が政府には今すぐ助けに来て欲しいと望んでも、政府は————中央政府はもちろん地方政府も————それに対応できないままとなる、つまり見捨てられるということなのだ。

 しかし、今後起ってくる国難の程度や規模は、阪神淡路大震災オウム真理教サリン事件・東日本大震災・またその直後起こった東京電力福島原発の立て続く大爆発のレベルではないと私は想像する。それよりももっともっと広範囲で、しかも長期にわたって続く事態だ。

そのような事態を生じさせる最大の原因は、今、地球規模で進んでいる温暖化と生物多様性の消滅という事態であろうと推測する。

そしてその時には、この国が今のままの体制で行ったなら、国民に生じる事態は一層悲惨なものとなるのは目に見えている。その時はほぼ間違いなく、この国は「無政府状態」に陥るだろう。つまり、政府は、中央政府も地方政府も、窃盗、略奪、放火、殺人、強姦等々の無秩序を制御できず、むしろそれらが日常茶飯事となるに違いないと私は見る。もちろんそこでは、もはや、“自衛隊は軍隊なのか”とか、“日本は日米安全保障条約を堅持する必要がある”などといった掛け声など全くと言っていいほどに無意味になるだろう。

 繰り返す。この国が特に大惨事の時ほど顕著になる政府の被災者への対応のまずさと、それをごまかすために国民に「自助」を呼びかけざるを得なくなるのは、この日本という国が明治期、山縣有朋によって基礎が築かれて来た日本国民すべてにとって最大限に忌むべき仕組み、すなわち、「『天皇の官僚』の権力が、選挙で選ばれた国民の代表によって決して制限されない仕組み、政党政治家が真の政治権力を獲得し得ない仕組み、その仕組みの効力が今もなお生きている」(カレル・ヴァン・ウオルフレン「日本という国をあなたのものにするために」角川書店p.50)というこの国が抱える本質的な問題、そしてそれを政治家という政治家が国家とは何かを知ろうとはしなかったが故に放置してきたという本質的な問題に因るのだ。

 そして国民の生命・自由・財産の安全にとって致命的なこの欠陥は、国防の問題に限らずに、国土の安全という問題においても、その他の国民の生命・自由・財産の安全が脅かされるすべての事態に対しても、全く同じことが言えるのである。

 

3.では、この日本という国を本当の意味で、それも永続的に安全な国にするには、国防という面について見た時、如何にしたらいいのであろう。

そして、同じく、この日本という国を本当の意味で、それも永続的に安全な国にするには、国土の安全というのは、如何にしたら図れるのであろう。

 以下では、その2つのテーマについて、順を追って、やはりここでも私なりに考察してみる。

 

 なお、都合により、以下は次回に回させていただきたいと思います。