LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済————「その3」

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11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済—「その3」

 なお、本節を閉じるに当たり、最後に、これまでのおよそ2、30年間の世界の資本主義経済の主要な流れと、その結果としての現在の世界の経済の状況について、専門家たちはそれをどう観ているかを概観しておこうと思う。

以下は、NHK BS1スペシャル「欲望の資本主義2017 ルールが変わるとき」(2017年1月3日)の要点である。

 ここに登場する識者は以下の8名である。

「ジョセフ・スティグリッツ(2001年ノーベル経済学賞授賞経済学者)、「アルヴィン・ロス(2012年ノーベル経済学賞授賞経済学者)」、「ルチル・シャルマ(モルガンスタンレー投資ストラテジスト)」、「エマニュエル・トッド(歴史人口学者)」、「トマス・セドラチェック(チェコ総合銀行チーフエコノミスト)」、「安永竜夫(三井物産代表取締役社長)」、「原丈人(デフタパートナーズグループ会長)」、「小林喜光(三菱ケミカルホールディングス取締役会長)」。

 太古から人は所有と交換を繰り返して来た。そしてあるとき、お金が生まれ、市場が生まれ、欲望の交換は貨幣なるものに託された。

 資本主義、それはお金・資本を際限なく投じ、増殖を求めるシステムのこと。

プロテスタントの禁欲の精神が人々に富の蓄積をもたらしたことで広まったその資本主義は、いつの間にか“成長が絶対必要条件”と考えられるようになり、いつしか、“経済は成長し続けるものである”ということが当然のように見なされるようになっていた。

 それが、2008年、リーマン・ブラザーズの金融破綻を契機に、世界はどこの地域も、「成長」は止まったかのように思われている。少なくともその金融破綻を起こす前のペースではなくなった。そんな中、“もう投資も成長も見込めない”と言う人もいる。

 その経済の低成長については、“世界は今、どこの国でも、総需要が減少しているからだ”、と世界の著名な経済学者やエコノミストは言う。

 一方、別の識者は、“今、世界が需要低下に陥っているのは、グローバル化による自由貿易が各国の経済を押し潰し、人々の収入の低下をもたらしたからだ”、とも言う。

 ところでそこで言う「成長」とは一体どういうことなのか、何を意味するのかは、経済学者やエコノミストはこれまで誰も明らかにしてこなかった。

 そんな中、“成長よりも安定が大事だ”、と言う経済学者も出て来ている。

それに、“もはやGDP国内総生産)で経済力を測ったり、その数値の伸びで経済の「成長」を測ったりすることは無意味だ。そのGDPには環境汚染も資源乱用を考慮に入れていないし、富の分配も、社会の持続性も考慮されてはおらず、問題だらけだからだ。むしろGDPは、もはやGross Debt(負債、ツケ)Puroductでもあるのだ”、とも言う経済学者もいる。

 これからはさらにテクノロジーが進歩し、ロボット化がもっと進むだろうから、雇用は奪われ、社会の失業率が30〜40%にもなる日が来るだろう。そこへ、人工知能がさらに高度に発達すれば、人間の働く領域は限られてゆき、その結果、総体として人間の仕事は減り、失業者がさらに増え、長い眼で見れば、賃金も下がり続けてゆくだろう、とも言う。それは、資本主義は、人間の労働を基本としたシステムから高度に自動化されたシステムへと移行してゆくだろうからだ、というのが理由らしい。その一方で、“二人に一人が働くだけの社会となったら、その時は、社会主義とはなってはいないだろうが、判らない。今とは別の社会システムが必要となる。その場合、ものの見方を変えたら、新しい景色が見えるんじゃないかな”、とも言う。

 消費への欲望を満たすために、あるいは要らない物を買うために、ときに、したくもない仕事に就いていることもある。しかしそれは生きるための消費では無い。

そんな果てしない欲望を技術がさらに駆り立てる。まだまだ繁栄できるし、新たなイノベーションを生み出せるはずだ、と。

しかしその一方で、マクロ経済学の統計から見ても生産性の上昇は認められていないのだ、と。だから、テクノロジーやインフラや教育にもっと投資しなくてはいけない。そしてそれは政府が政策としてすることだ、と言う。

 しかし、その一方で、“人はどんなに働いたところで、欲望を満たすだけのものは作れないし、手にも入れられないのだ”、とも言う。

 ところで、「利子」とは謎だ。それは、未来の利潤のために人を休むことなく働かせる。金は時を超えて増え、時が金を生む。元々、物と物の、あるいは欲望の交換のための手段だった貨幣は、今やそれを貯めることが自己目的化してもいる。それは、お金があれば何でも買えると思っているからだ。あるいはイザというときの防衛のためだ。

 資本主義の推進力は需要と供給が刺激し合う市場だ。そしてその資本主義は科学と技術を両輪として進む。市場では、需要と供給が一致することで価格が決まるが、その価格は人々の間の同意の結果だ。そして価値は人々の「欲望」と「満足感」が交わるところに宿るのだ。だから欲望は幻想なのだ、と。

 歴史上、経済学者は、“市場には各人の「自己利益の追求」(インセンティブ)が「見えざる手」に拠って調節される機能があるから、バブルなんか心配するな”、と人々にけしかけてきた。

 実際、歴史は、技術革新が行われる度に、バブルを経験して来た。

 また、アメリカが30年ほど前に創り、牽引して来たグローバル化の波は、経済の発展ステージの異なる世界の人々に、時空を超えて、闘いを強いてきた。しかもその波では、アメリカ、とくにウオール街は、ますます不平等を生むようなルールに書き換えたのだ。つまりウオール・ストリートの人間による、目先のことだけに人々が夢中になってしまうようなルールの変更だ。そしてその結果、市場経済の効率性が下がり、生産性の下落を招いただけでなく、世界には猛烈な格差社会を生んだ。それは私たちの市場経済が招いた決定的な変化の一つだ。

 だから、今再びルールを書き換えなくてはいけない。これからのルールは、繁栄を分かち合い、より成長し、より公平な分配を促すものでなくてはいけない。

 金融危機以降の今、反グローバル化、反エスタブリッシュメント(反支配層)の動きが起こっている。それは、「社会の信頼」を守るには人の欲望に限度を設けるべきだという主張に基づく動きだが、それは資本主義のルールをもう一度書き換えるべきだ、という主張と重なるものだ。

 “それにしても「経済学の父」アダム・スミスは、一方で利己主義である「自己利益の追求」こそが社会を調整すると言い、他方ではこれとはまったく反対に、人間の「共感」が社会を結びつけると言う。これには混乱させられる”、と。

 一方、ケインズは、“社会にとって最も怖れるべきは「失業者の増大」だ”と強調し、“失業者を減らすためには、国家は借金をしてでも仕事を創らなくてはダメだ。そして「お金」という血液を市場に巡らせることだ”、と主張する。

しかし今、世界の多くは、そのケインズの理論を悪用し、「経済成長」のためという口実の下で、金融危機とは無関係に借金しまくっては、その総額を増やし続けている。

 この世界は、人の欲望でつながっている。

 資本主義はどこへ向うのか? 世界経済はどうなってゆくのか?

未来は絶対予測できない、不可知だ、不確実だ。

しかし、どっちにせよ、既存の理論や支配層が崩壊しつつある今、天動説から地動説へのパラダイム・シフトのようなものが私たち人類には求められているのかも知れない。今の世界は、今まで信じていたものがもはや信じられなくなった世界なのだから、とも言う。

 しかし、そうは言っても、これからの経済のあり方、またそのための理論は、今のところ見出せていない、と言う————。

 

 以上がここ2、30年間の資本主義経済の世界の流れについての世界的著名な経済学者・エコノミストそして識者たちの主たる見解である。

 私はその中で二つの表現が気になった。

1つは、“もう、人は後戻りできない”、というもの。

もう1つは、“不確実とリスク(危険)は違う。それを混同したなら、それこそ危険が待っている”、という表現だ。

 前者について。

 たしかに《エントロピー発生の原理》によればそのとおりだ。

それに、過ぎ去った時間は取り戻せないし、タイムスリップすることもどうやったってできない。そういう意味では、もう後戻りはできないというのは真理である。

しかし私は、そうした真理を踏まえた上でなお、次の理由と根拠に基づいて、後戻りすべきこと、取り返すべきことはあるし、またそうすべきであろうし、またそれはできるとも考えるのである。それは私たちは人間なのだからだ。自然界のことはともかく、人間社会のことは人間が作ったものなのだから、それは人間の力でできるはず、と考えるからである。

 その理由と根拠とは、かつて、ある場所の、ある人々が考え出した知恵と、その知恵に基づいて文化となったもののうち、特に人間として、またその集団である社会として大切なモノやコトは、たとえどんなに時間が経っても、それは掛け替えのない智慧の結晶であると判断されたなら、やはり失ったり失われたりしてはならないものなのではないか、と私は思うからだ。

 要するに、モノやコトには、失ってもさほど問題の起こらないものもあれば、一度失われたなら、二度と取り返しのつかないものもあるはずだからだ。

“埋もれた歴史や文化に光を当てる”とは、そういうことを言うのではないか。

そしてそのときも、これまでに人類が見出し蓄えて来た科学的な知識や文化的な智慧を総動員しながら、取り戻すことのできるコトやモノに光を当てることによって、単に取り戻すだけではなく、それらを今日的な意味で最高度に洗練させ直した形で花開かせることだってできるようになるのではないか。

 登山でもそう、戦争でもそうである。“このまま突き進んだら危険だ、破滅だ”と何らかの客観的な根拠や兆候に基づいて感じたなら、そのときには、ともかく一旦立ち止まってこのまま行くべきか否かを大至急再検討し、その結果、やはり危ないとなれば思い切って引き返そうとするのが真の勇気だろうし、そう判断させるのが真の智慧なのであろう。そしてそう決断させるのは、結局はその人の、家族への、郷土への、国への、人類への真の愛に基づく理性であり、私たち人間は、生きているのではなく自然によって生かされているのだという自然への感謝の心なのではないか。

 そしてその真の愛に基づく理性と自然への感謝の心がいま、最も求められている方向が、社会における「経済」あるいは「経済システム」のあり方に対してではないか、と私は思うのである。

 では、後者について。

経済学者たちは、“不確実とリスク(危険)は違う。リスクはある程度計算できるが不確実性はそれができない。その相互の区別は明確にすべきだ。それを混同したなら、それこそ危険が待っている”、と言う。

 私もそこまではそのとおりだと考える。そして「それを混同し危険が待っている状態」こそがクライシス(危機)なのだ、と思う。

 しかし彼らの発想はそこで止まっている。

私は、「計算できない不確実性」ではあっても、それを私たち人類に乗り越えさせてくれるものや手段はあると考える。それは原理と歴史だ。

 つまり、自然や社会を貫きながらそれらを成り立たせている、人智・人力を超えた理であり掟であり法則としての原理(4.1節)と、人間が辿って来た証としての歴史を道しるべにすることこそが、その不確実性を乗り越えさせてくれる唯一の道ではないか、と私は考えるのである。

もちろんその道には、人間の欲望や都合あるいは恣意など入り込める余地はまったくない。だからこそ“確実”なのだ。

その原理とは、本書で言う《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》であり、それこそが私がこれからの環境時代と呼ぶべき「不確実」な時代の指導原理としているものである。

 いずれにしても私は、人類は「お金」を生み出した瞬間、いわば「ボタンの掛け違い」をして歴史を歩み始めたのだと思う。そして市場経済が中核をなす資本主義経済社会の中では、たとえルールを再びどのように書き換えたとしても、その本質上、たとえばノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツ教授の言うような「繁栄を分かち合い、より成長し、より公平な分配を促す」ような資本主義経済には決してなり得ないとも思う。

 そこで以下では、こうした問題意識、問題提起を踏まえながら、そして私の場合、既述のとおり(第1章)、「近代」は終り、資本主義も同時に既に終っているという認識と前提の下で、これからの経済のあり方とそのシステムを具体的に考えてみようと思う。