LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.4 経済の国内化、そしてさらに地域化————————————(その2)

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11.4 経済の国内化、そしてさらに地域化——————(その2)

 これからの日本の経済とそのシステムのありようを考えるときには、私たちは一切の先入観や固定観念を捨てて、今見て来た状況を直視する必要があると私は思う。

それは、文字通り、一人ひとりがデカルトが近代という時代を開くときに取ったと同じ心境と態度に立つことなのである(野田又夫デカルト岩波新書p.6)。そしてそれは、すべての既往の知識や制度あるいはシステム、さらには常識とされてきた事柄をも率直かつ単純に省みたり疑ってみたりして、曇りや打算のない自由な精神をもって世界を客観的に見据えることにより、そこから疑い得ぬ真の姿やあり方を見出そう、という心境と態度である。

もちろんそこでは勇気が要る。見たくないものは見たくない、聞きたくないものは聞きたくない、知りたくないものは知りたくないという態度は、気まぐれであり、曇りや打算のない自由な精神を持った態度とは言えないからだ。

 そこで、そういう態度を取ろうとすると、現状の世界を直した時、例えば、次のような問いがすぐにも浮かんで来るのではないだろうか。

 それは、あなたも私も、自分の子や孫たちがとにかく末長く生きられる、それも誰もが取り残されることなく、また「人間」として「安心」して生きられるということを心から願うのであれば、その時、それに比べたら、目先の便利さや快適さを実現することに拘ったり、飽食できることや、物質的に豊かになることに執着したりすることは果たしてどれほどの意味があるのだろうか、と。

 あるいは、ギャンブルとしての性質と制度を本質的に持つ社会の中で、自分だけお金を儲けようと野心を持つことにどれほどの意味があるのだろうか、と。

そしてそうした価値の階層性や優先度を履き違えた欲求を抱き続けることが、結局は、資本主義という考え方とその経済という制度を発展させてきたのだし、その結果として、私たち人間は、私たちヒトを含む全ての生命を何万年と生かしてきてくれたこの「奇跡の星」「水の惑星」としての地球の陸と海と空を汚してしまい、あるいは地球が生命体として持つ仕組みを壊してしまい、この地球を私たち人間自身が生きてゆくことのできない惑星にしてきてしまったのではないか、と。

 そもそもこれまでずっと人々の間で強迫観念のように拘り続けてきた「経済成長」とは何なのか、経済成長しなくてはならないと特に力説して来たのは一体誰なのか、何を持って経済成長を計って来たのか、一体そこで言う「成長」とは何がどうなることなのか、と。

 それに、私たち人間は一体何のために生きるのか、つまり生きる目的や生きる意義とは何なのか、と。

 その生きる目的や意義をじっくり考えてみた時、金科玉条のごとくに強調し続けられてきた「経済成長」は、自然と社会と人間にとって一体どれほどの意味と価値があったのか、と。

 その場合も、近代資本主義も終わっている、したがって近代という時代もとうに終わっているという事実をもそこに重ね合わせるならば、これからの日本の経済とそのシステムのあり方とは、近代資本主義の最後の姿としての経済の世界化(グローバリゼーション)でもなければネオ・リベラリズム新自由主義)に基づくものでもないことも明らかではないか、と。

もちろんその時、生産性とか効率性あるいは競争という発想もこれまでのような意味は失うし、「果てしなき経済発展」とか「果てしなき工業生産力の向上」という考え方も過去のものとなるのではないか。

 それに、資源の有限性、環境の有限性を考慮するならば、そもそも「果てしなき経済発展」という考え方そのものがすでに矛盾しているということになるではないか。

 また、経済を果てしなく発展させることが真の国力を高めることになるのか。

 さらには、「雇用」あるいは「雇用の創出とか確保」という考え方も二義的な意味しか持たなくなり、とにかく最優先されるのは、「誰一人置き去りにされることなく、みんなが、誠実に生きる中で、心豊かに安心して生きられる」ということなのではないか、と。

そしてその時、特にこの日本という国の経済とそのシステムのあり方で求められることは、もはやこれまでのような、官僚による、官僚の恣意に拠る気まぐれ統制経済とは根本から異なるものでなくてはならない、ということではないか、と。というより、本当の意味で、民主主義に基づく経済システムになる、ということなのではないか、と。

 

 実はこうした根本的な疑問に答え、発想を叶えてくれるのが、先に記してきた《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》、そして小規模で分散し、経済的に自立し、政治的に自決権を確立するとした《都市および集落の三種の原則》なのではないか、と私は考えるのである。

 なぜなら、こうした原理や原則に従うとき、例えば次のような発想も無理なく生まれてくるのではないかと考えるからだ。

 それは、人が生きてゆく上で不可欠な喰い物の生産と流通と消費の過程も根本から改められるべきではないか。

 私たち人間の居住形態である都市や集落の規模を含めたあり方をも根本から転換させなくてはならないのではないか。

 一方、人が生きてゆく上で不可欠ではない物の生産と流通と消費の過程は根本から変革しなくてはならないのではないか。

 そのためには、少なくとも従来のオートメーションシステム、すなわち人間の身の丈の技術をはるかに超えた技術による画一製品大量生産システムは廃止され、人間の身の丈に合った技術による生産システムに変える必要がどうしてもあるのではないか。

そしてそのことによって、これまで、そのオートメーションシステムによって廃業に追い込まれた「匠の技」と呼ばれた伝統の技術を蘇らせ、同時に伝統の工芸文化をも蘇らせる必要があるのではないか、と。

 そしてそこでは、モノやカネの国境を超えた移動はなくすることができるのではないか。

そうなれば、これまで、度々生じてきた世界規模の次のような事態は、ほぼ自動的に消滅させられるかもしれない、と。

それはたとえば、「オイルショック」、「食糧危機」、「金融危機」、「世界恐慌」等である。さらには何と言っても地球規模で陸と海と空を汚す事態である。

 そして、オートメーションシステムをなくし、《都市および集落の三種の原則》を実現してゆくことは、すなわち、航空機や船舶の航行を激減させられることをも意味するとともに、高速道路を含めて、自動車交通そのものをも激減させられることをも意味する。

したがって電気自動車(EV)も不要となる。都市や集落の中では公共乗り物か徒歩で生活ができるようになり、都市間移動は、一度に大量輸送を可能とする鉄道などの公共乗り物で十分となるのである。

 それだけではない。例えば、不幸にしてどこかの国のどこかの地域で新種のウイルスや菌による感染症が発生したとしても、これまでのように、世界的パンデミックを引き起こすことはなくなり、どこの国も「水際対策」や「国境封鎖」など施さなくても、人々は安心して暮らせるのである。

 

 こうした発想から、これからの時代では————すなわち私の定義する環境時代では(4.1節)————もはや好むと好まざるとにかかわらず、経済のグローバル化を止め経済の国内化、さらには経済の地域化を進めることは必然的帰結であろう、と私は思うのである。

 言うまでもなくそこではもはや、TPP、FTAEPA、TiSA(新サービス貿易協定)そしてRCEPといった貿易協定は必然的に一切無意味になる。特許制度といったものも無意味化できる。

もちろんそうなれば、IT(情報技術)の社会である必要もない。AI(人工頭脳)の社会である必要もない。したがって、そこでは、「ロボットに仕事を奪われる」とか、「人間の仕事がなくなる」といった類いの心配もまったく無用となるのである。

 

 では、経済とそのシステムを国内化させ、さらにはそれを地域化させるとは一体どういうことか。具体的にはどうすることか。

それは、要約して言えば、世界各国において、各地域毎に出来るだけ小さくまとまって、その地域の人々が生きて生活して行く上で必要なものは、その地域の自然を再生あるいは復元することを通じて、極力、自然の力に拠り生み出し、そのことによって経済を成り立たせ、私たちが生かさせてもらえるシステムを構築する、ということである。

 そしてそのとき、その社会を土台から支える技術は、ITやAIとは無縁の、ヒューマン・スケール、すなわち等身大の技術、言い換えれば故障しても人間の手で修復できる技術、中の仕組みが判る技術、作り手の思いや心意気を感じられる血の通った技術、人間と共にある技術、人間を孤立に追いやらない技術等となる。

 ここで、これまでの考え方の上に立って、明確に抑えておかなくてはならないことがある。それは、どんな産業であれ、それらは結局は人々が生きて暮らして行けるようになるためにこそある、ということである。「産業」が、あるいは「産業が生き残れること」が先にあるのでは決してなく、「すべての人々が共に生きられること、取り残されないこと」がつねに優先されるということである。絶対にその逆ではない。

そしてその場合も、ただ「生きられる、取り残されない」ではない、「人間としてより良く生きる」ということである。

 だからその経済システムは目先の考え方や思いつき程度の考え方に拠るものであってはならないのだ。人類がこれまで科学を通して獲得して来た原理に拠らねばならない。それが《エントロピー発生の原理》であり《生命の原理》と私は考えるのである。

 要するに、ここで言う地域化された経済システムとは、人々が自然を尊敬し、その自然と共に生きる中で、「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ、人間であり得る」(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫p.97)を体現したシステムなのである。

したがって、それが実現されるためには、《都市および集落としての三種の原則》も同時に満たされる必要があるのである。

 

 なおここで誤解を防ぐために強調しておかねばならないことがある。

それは、経済の国内化・地域化とは言っても、世界の中で、ないしは国の中で孤立しよう、保守的・保護的になろう、とすることでは断じてないということだ。そうではなくむしろ積極的に自立・自営・自決をめざし、心と情報はむしろ積極的にオープンにして行こうとすることなのである。

 確かにそこでは、その地域の人々が生きて行く上、生活して行く上で本当に必要なものを除いては、国境ないしは地域境界を超えての物(お金・資源・エネルギー・製品・商品)の出入りは自粛し、あるいは止める。が、人の交流、情報の交流はむしろ促進し活発化させるのである。地域間でのつながりは積極的に求めるのである。

 それぞれの地域は、自分たちの祖先の代から置かれてきた地理的・地形的・自然的条件の中で培われて来た歴史を振り返り、かつて人々はどういうときにどういう生き方をして来たのかを確認し、埋もれた文化をも自ら発掘し、再評価ないし再検討し、それらを批判的に伝承しながら、さらに切磋琢磨し合って洗練させてゆくのである。

それは、必然的に、人々をして、地域愛をも、祖国愛をも高めると同時に、自己認識をも深め、アイデンティティをも確かなものとしてゆくだろう。

 近代の資本主義これとはまったく逆の考え方に立つ経済でありシステムだった。とにかく、あらゆる面で、いかにして利益をより多く上げるかということだけに主眼が置かれ、それゆえ、「カネにならないものは無価値」、「利益を生まない者は無用」とされ、またその見方にほとんどの者をして疑問すら持たせない経済でありシステムだった。

 そしてその資本主義を支え発展させてきたのが近代の科学技術であった。しかしその科学技術はあくまでも「知性」に基づくものだった。でも、その知性ももはや「理性」に取って代わられなくてはならない時代なのだ。少なくとも私たちは、私たちの将来世代からそのことを求められていると私は考えるのである。

 

 こうしてどこの地域でも、人々は、汚染し、破壊して来た自分たちの地域固有の自然を再生させ、伝統の文化を蘇らせながら、新しい文化をも生み出し、各自の生活を互いに支え合いながら生きて行く。

 その際の生き方は、徹底した意味での、あるいは本当の意味での「自由」の意識に基づいた生き方である。それは結果責任を明確に認識した上での自由な生き方である。

自分たちの地域の問題はつねに自分たちで、それも「建前」とか「和」といった見せかけの態度によるのではなく、心を開いて、時には対立をも恐れずに、「本音」で話し合いながら、解決策を見出してゆく。そしてみんなで出したその解決策をみんなで守り、実行してゆくのである。

 だからここでの経済とそのシステムとは、人々が生きてゆく上で不可欠なものの生産と流通と分配は地域の人々みんなの意思の下に徹底してコントロールされた民主主義的経済とシステムなのである。それは、自分たちの運命や未来は、自分たちで、自分たちの叡智と責任において選択し、決めることができる経済とシステムなのである。

 そうした体験を重ねる中で、さほど大きくはない共同体内の一人ひとりは、真の自由と民主主義を体得し、他生物とも積極的に共存しながら、互いに強固な信頼関係で結ばれた地域社会をつくり上げ、最終的には目ざす生命主義の実現された社会へと進んで行くのである。

 ————これが、私の言う経済の国内化であり、さらには地域化の意味するものである。

 

 では、上記のように要約される「地域化された経済システム」とは具体的にはどのような姿を取るものか。それは次節で明らかにするとして、それは大雑把に言うとつぎのような状態を実現してくれるシステムなのである(NPO 「The International Society for Ecology and Culture(ISEC)」製作の「幸せの経済学」より)。

人々が文化を通じ、土地を通じて土地の人々みんなが繋がり合うシステム

人々どうしの交流や会話・対話が活発化するシステム

地域社会と自然とが繋がり合うシステム

 

失業というものがないシステム

「職」「仕事」の奪い合いを生じさせないシステム

貧富の差や不和、対立、分断、ましてやテロリストを生じさせないシステム

「敗者」を出さないシステム

競争を煽り立てないシステム

ねたみや差別化を生じさせないシステム

自分の生活を他者と比べることもなく、劣等感を感じさせられることもないシステム

一人ひとり、本来の自分らしさを保てるシステム

一人ひとりが地域の中でそれぞれの役割を担い、暮らしてゆけるシステム

一人ひとり「ゆとり」を持てて、生き生きと暮らして行けるシステム

それぞれが地域社会の一員であると自覚できることで、一人ひとりに自尊心を育て、その自尊心が他者に対する敬意を生み出すシステム

食糧難や飢餓のないシステム

年金制度や健康保険制度等の社会保険制度も、とくに必要としないシステム

地域の歴史や文化を見つめ、それを大切にすることで、確かな自己認識とアイデンティティを身につけることが出来るシステム

誰もが知られ、誰もが認め合うシステム

一人ひとりが精神的に豊かで幸福になれるシステム

「人間」がつねに、最も大切にされるシステム

生きる意味、生きる目的、大切な生き方、価値観、知恵というものを、その地域の中に見出すことができ、またそれらを学べるシステム

 

生産と消費との距離を極力縮めるシステム

無駄で無益な物流システムをなくしたシステム

通信や乗り物を高速化させたり長距離化させたりする必要のないシステム

一人当たりのエネルギー消費量、一人当たりのインフラの量とコストが都市部に比べて格段に少ないシステム

自然エネルギーだけで地域を支えられるシステム

環境を汚染したり破壊したりすることのないシステム

大気と水と養分という「作動物質」を地域内にくまなく循環させるシステム

土壌の多様性を再生し、維持するシステム

「捨てる物」をほとんどなくすシステム

農作物も、農薬や化学肥料を使わず、もちろん遺伝子組み換え種子やデノム編集された種子なども一切使わないで、良質な有機物のみで育てるシステム

家畜についても同様で、抗生物質、成長促進剤そして遺伝子組み換え飼料などは一切用いないで飼育するシステム

地下水、河川水を浄化し、きれいな水、きれいな空気の中で、新鮮で安全な喰い物を食することが出来るシステム

生物多様性を再生するシステム

 

人々が働いて生んだ富はその地域の外に流出することのないシステム

人々が、繋がりながら、働けば働くほど、地域の富は豊かになるシステム

技術面では、「身の丈・等身大の技術」「職人技」に支えられたシステム

生産方式は、これまでの、「人」を必要とせず、規格化され画一化された物を大量生産し、壊れたら全取っ替えしなくてはならなくなリ、資源を浪費するだけのオートメーション・システムによるのではなく、「より多くの人々」の手による、地域の人々が本当に必要とする物だけを作る生産方式に支えられたシステム

「利益」を生むことに目的があるのではなく、人々一人ひとりに「やりがいを感じられる仕事」、「質の高い仕事」、「その人を人間的に成長させる仕事」を与え、「あれば便利」「あれば快適」な物ではなく、人々が人間として生きて行く上で、あるいは生きて行けるようになる上で、本当に必要な物を生産し、提供するシステム

 「株主」の利益、「投資家」の利益を最優先する企業など存在し得ないシステム

他地域に本支社を持つ大企業、本支店を持つ大銀行、多国籍企業も存在し得ないシステム

公的機関からの特定の産業や企業への「補助金」も「助成金」も必要としないシステム

 

外の世界とは、人と心の交流や国際協力そして相互依存、とくに世界中の地域が国を超えて結びつき、知識を交換し、力を増して行く活動は盛んにして行きつつも、貿易、すなわち物質・エネルギー・貨幣のやり取りは、基本的には抑えられ、控えるシステム

 とにかく今、地球上に生きる私たちは、一人の例外もなく、近代という時代が主流あるいは支配的としてきた自然観や世界観あるいは価値観をも超えてゆかねばならない状況に立ち至っているのである。

 こういうことを言うと、すぐに、「では資源の乏しいこの国では、エネルギー資源はどうするのか、石油は、ガスは、鉄やアルミニウム、その他の金属資源はどうするのか」とか、「そしてそのとき、そうしたものを輸入するための外貨はどうするのか」等々といった反駁が返って来そうであるが、その時こそ、私たちは、一人ひとりが、せめて次のように、真摯に自問してみることが必要となるのではないか。

“後先も考えずに自分の欲や願望を満たすことを最優先したなら、自分の愛する子どもたち、そしてその子らの子どもたちはどういう状況の中を生きて行かねばならなくなるのか”、と。

“今、そんな将来世代から自分に求められていることは何か、そのためには、自分は何が出来るのかではなく何をすべきなのか”、と。

 “これまでの資本主義の中で、私たち一人ひとりは、果たして一体どれほど「自己実現」し得たのか、どれほどしみじみとした「幸せ」感を味わうことができたのか”、と。

 そして、今後どんなに科学技術が進歩したところで、またこの広大無辺の宇宙にどれほどの数の星があろうとも、“果たして、人が裸で気楽に過ごせる星は、この地球以外に一体どんな星があるのか”、と。

 

 では、「経済の国内化、そして地域化」とは具体的に何をどうすることなのであろうか。そしてそこでは具体的に、どのような経済システムの社会となるのであろうか。

 それについては、私は、次節にて考察してみようと思う。