LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.2 経済の新概念———————(その1)

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11.2 経済の新概念———————(その1)

 人々は頻繁に「経済」という言葉を口にする。メディアも、「経済」という言葉を発しない日はない。そしてその場合、例えばこんな風に用いられる。

“経済を発展させねば”、“経済成長が鈍化した”、“経済制裁を加える”、“経済統合が必要だ”、かと思えば、“こうすれば経済的だ”、等々と。

私もこれまで、当たり前のように、あるいは、その意味は不動で確定した概念であるかのように思って「経済」という言葉を用いてきた。

 しかし、現在の世界を見て、その中でその言葉の使われ方に注視すると、その経済なる言葉、あるいはその概念は、統一され、共通に理解されて、確定した概念として用いられているのだろうか、と私などは考えさせられてしまう。

 私は資本主義という言葉と並んで、どうもその経済なる言葉あるいは概念の理解については人によって異なっていて、いまだ統一もされていなければ共通認識にもなり得ていないのではないか、それでいて、誰も、判ったようなつもりになって使っているだけなのではないか、と思えてならないのである———実は日本語というものについての私たち日本人の用い方と理解の仕方にはそういうものがたくさんある。自然という言葉然り。自由という言葉然り———。

 しかしその一方で、奇妙なことに、“お金がなくては生活できない”、“お金が回らなければ経済は成り立たない”、“経済はお金とは切り離せないもの”といった考え方だけは、一人の例外もなく全ての人に共通に、統一的に理解されているのだ。

そしてこのことから、いまや世界中どこの国でも、 “お金を稼がなくては”、“仕事に就かなくては”ということが人々の当たり前の生活感覚となり、強迫観念ともなっているのだ。

 人によっては、“もっともっとお金を稼がなくては”と思ったり、“お金を手っ取り早く儲ける事業をしよう”、と思ったりもする。中には、“他者を騙してでも、あるいは盗んででもお金を手に入れてやろう”、と思う人もいる。そしてさらには、“お金さえあれば何だって買えるし、何だって手に入れられる”、という気持ちを持つ人さえいる。

「拝金主義」あるいは「お金万能主義」とはそのことを言い表した言葉だし、またほとんどの犯罪やトラブルの背後には必ずと言っていいほどに「お金」が絡んでくる。

それは、人間がお金の虜になり、お金に支配されていることでもある。

 それだけではない。既に巨額のお金を手に入れた人々でも、そのお金の有意義な使い途を考えたり、他者の幸福のために用いたりするのではなく、むしろもっと多くのお金を手に入れることのために使おうとする。そのためには、手持ちのお金にものを言わせて特定の政治勢力あるいは政治家と結びつき、社会制度や金融制度を自分たちに都合の良いように変えさせることに躍起になる者すらいる。「政治献金」とは一見聞こえはいいが、実質目的は正にそのためのものだ。だからそれは、本質的に賄賂であることに変わりはない。

 そうなると、「お金」が政治のあり方を歪め、この社会を根底から支えており、今日の世界では普遍的価値とされている「自由」や「民主主義」を脅かすことになる。そしてまた「お金」が社会に不公平や格差を生み、さらにそれを拡大させてしまうことになる。そうなると半ば必然的に人々の倫理観を衰えさせ、社会の秩序を乱すことにもなる。

 実際、「お金」は一面では確かに「便利」ではあるが、実際には人間と社会と自然に対して何をもたらしてきたか、それは7.4節の「お金」のところでも検証してきた通りである。

 

 ところで、私は、自らサラリーマンの生活に見切りをつけ、農業に飛び込んで生活をして見ると同時に、社会の様々な歪みとその原因について考えて見ると、どうしても次のようなことを考えないではいられなくなったのである。

それは、人が人間として生きてゆく上で、本当に「お金」はなくてはならないものなのか、本当に経済という概念は「お金」とは切り離せずに、一体不可分の関係にあるものなのか、ということである。

農業生活をしていると、米や野菜を栽培していれば、その範囲では、喰うことにお金は要らない。

とは言え、その他の喰い物、たとえば肉類、魚類、海草類、塩、食用油は、自給できないので、現状では、我が家では、お金を出して買わねばならない。

それに現状、各種類の税金や水道料金といういわゆる「公共」料金を支払うためにもお金が要る。その場合はとくに「現金」が不可欠である。そして電気代やガス代の支払いにも現金が要るのである。

 その意味では、やはり農業をしていても、我が家では、少なくとも今様の経済システムの中では「お金」は不可欠である。否、それは我が家に限らないであろう。

 なおここで、私が、公共料金と電気代やガス代を区別して表現したのは、日本では、電気代やガス代も普通、公共料金の中に含められて呼ばれているが、私はそれは正しくないと考えるからだ。それは電気やガスを供給しているのは利益第一主義とする私企業であるからだ。私企業には「公共」という概念は当てはまらないからだ。

 

 そこで、本節の以後は、「人が人間として生きてゆく上で、本当にお金はなくてはならないものなのか、本当に経済という概念はお金とは切り離せずに、一体不可分の関係にあるものなのか」、という先の問いの答えを明確につかむために、その経済という概念について、根本から考えてみようと思う。

もちろんここで言う経済とは、あくまでも、いわゆる「近代」の経済のことである。

 その辞書的な意味を尋ねると、こう説明されている(広辞苑第六版)。

 「人間の共同生活の基礎をなす財・サービスの生産・分配・消費の行為・過程、ならびにそれを通して形成される人と人との社会関係の総体」。

そして、これから転じた意味として、「金銭のやりくり」とも説明されている。

 先ずこの定義を注意深く読むと気づかされるのであるが、この定義の主要部には「お金」あるいは「貨幣」の存在はあからさまな形では現れてはいないということである。

また「人と人との社会関係の総体」と表現されてはいるが、ではその人と人との関係のあり方はどうあるべきかとか、そこで言う「人」とはどのような人か、人であればどんな人でもいいのかということについても何ら言及していないということである。

 

 では、これが近代の経済の定義であるとすれば、その経済を学問的に支えた近代の経済学とは、基本的にどのような特徴を持って来ただろうか。

それを私なりに整理してみると、概略、つぎのようになるように思われる。

⑴ 経済という概念と、それを学問的に扱う経済学が主な対象として来たのは「財とサービス」のみである、ということだ。

 ここに、「財」とは、辞書的には、人間の物質的・精神的生活にとって、何らかの効用があるもの。「サービス」とは、「物質的生産過程以外で機能する労働。用役。用務」のことである(広辞苑第六版)。

 ではその抽象的に説明される財をもっと突き詰めればどう説明できるか。

それを説明するために、次の事実を押さえておく。

 それは、少し考えただけでも判るように、財には質的に大きく異った二種類のものがある、ということだ。第一次財、第二次財とでも言うべきものである(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫 p.58)。

 具体的には、人間が自然から採取してこなくてはならない一次財とでも言うべき財と、そのようにして採取してきた財を加工してつくる二次財とでも言うべき財とである。

 第一次財には、人類が誕生する以前からあったものとしての、たとえば、水、空気、土壌、あるいは石油や天然ガス、シェール・ガス、シェール・オイル、ウラン、そして動物や植物、また微生物や菌類を含めた多様な他生命がある。

これらの中には、現在は、少量ならば、人間の手で何とかそれに近いものとしてつくり出せるものもあるが、それは近代の経済学が言うところの「コスト」がかかり過ぎて、それを考える意味はない。したがって、それがなくなればあるいは消滅すればお終いという質(たち)のものである。

一方、第二次財とは、第一次財を基に人間がつくり出した財、あるいはつくり出せる財のことである。

このことから判るように、第一次財と第二次財との間には、本質的な差異があるのである。

そしてその二次財の中身は、大きくは工業製品・農業製品とサービスとに分けられる。

 しかしながら従来の経済と経済学は、その差異を無視し、すべての財には同じ規則と同じ基準を適用して、同じ扱いをしてきたのである。

とくに市場経済の下では、人間や社会や自然にとってきわめて重要な質的区別というものは一切認めないで、一切のものの価値が値段の高低、つまり価格だけで表現されその意味で、一切のものは同等と見なさるようになってきた。

こうして市場に出たものはすべて「売り物」として扱われ、値段が付けられ、質的差異は無視されたまま、その値段の大きさだけでそのモノの価値の大小が計られて来たのである————実際には、例えば、物の価格は需要と供給によって決まってしまう場合もあることを考えると、そのことだけからも、価格と価値は必ずしも一致しない、というより、異なる方が普通であるということが理解されるのであるが————。

つまり、質的区別が表面に現れることは許されなかったのだ。だから当然のことながら、市場経済の下では、生命の神聖さなど尊重されるはずもなかった。値段の付くものに神聖さはありえないからである。

 とにかく、従来の経済と経済学は、市場価値と私的利潤だけにしか関心がなかった。

⑵ さらに先の経済の定義を注意深く読むと判るように、近代の経済では、人間は自然の一部であると同時にその自然によって生かされている存在でもあるということも、したがって、人間は自分で生きているのではなく、実は自然によって生かされているのだという真理も全く考慮されて来ることはなかった、ということである。

 それは言い換えれば、従来の経済と経済学は、人間を生物としてのヒトとして直接に、そして本当の意味で生かしているのは、「財やサービスではない」し、「財やサービスの生産・分配・消費の行為・過程、ならびにそれを通して形成される人と人との社会関係の総体」でもなく、一次財としての「水と空気と土壌」なのだという認識も持っては来なかった、ということだ。

 そしてそのことは、これまでの経済と経済学は、一次財としての「水と空気と土壌」を「コスト」として含んでは来なかった、ということに現れているのである。

⑶ こうして近代の経済と経済学は、扱うものが質的区別をしない財一般とサービスだけでしかなく、しかもその経済の定義からも明らかなように、関心があるのは生産と分配と消費だけであった、といことだ。

つまり、製品を作るに当たって、これまでの経済も経済学も、どのような質の財を用いるべきか、誰のために、どのように、何のために生産されるべきか、また使われ終った物は、どこに、どのようにして廃棄されるべきか、ということには全く関心がなかったのである。

 だから、いわゆる「3R=reduce(減らす)、recycle(再生、再利用する)、reuse(再利用、再生する)」などという言葉が生まれても、それらは、近代の経済の概念と経済学の立場からすれば、それは決して経済のあり方の根本を左右するような概念となり得るはずもなく、言ってみれば、“いかにも環境を配慮しています”という姿を見せるためのゼスチャーに過ぎなかったのだ。

 こうして、近代の経済と経済学は、商品として生産した物を「売ること」あるいはその物が「売れること」だけが主たる関心事となり、そのことだけを「経済」活動の唯一の目的として来た。だから、売ってしまえば、あるいは売れれば、そこで目的を達したことになるので、そこで「お終い」あるいは「一段落」としてきた。

その後のことは一切関知してこなかった。売ったモノがどういう消費のされ方をし、最終的にどこにどういう仕方で廃棄された(る)かについても、そしてそれによって環境あるいは生態系がどうなって、当初生産のために用いた一次財はきちんと、あるいは確かに再生産されたのかされなかったのかということについても、全く関心を持たなかった。

 それだけに、土地とか労働とか資本についても、そして人間自体すらも、「売る」ための目的物を生産するための手段としてしか見てこなかった———そのことについては、とくにこの国では、文部省・文科省の学校教育内容も決定的な役割を果たしてきた。

一人ひとりを一個の人格と個性を持った人間として育てるのではなく、その生産現場と分配過程、流通過程で雇い主の指示に対して批判的あるいは反抗的になるのではなく、とにかく従順に働き、その上、いつでも安く取っ替えることのできる人間を育てることこそを主たる教育目的としてきたのだからである———。

 だから、近代の経済と経済学の観点からは、仕事あるいは労働というものは、雇い主あるいは経営者の観点からすれば所詮1つのコストでしかなく、働く人から見れば、それは、家庭というものを犠牲にし、余暇や楽しみに打ち興じながら、ただ生活のための金を得る手段でしかなかった。その労働を通じて、自身を人間的に磨き、他者や社会に貢献しながら高まってゆき、人間として豊かで充実した暮らしをするかなどということには、ほとんど関心を寄せることはなかった。また、そのための時間的、精神的余裕も与えられなかった。

むしろ経済と経済学では、生産者の側からは、生産現場にてどれほど効率よく生産できたか、あるいは経営者の側からは、モノを市場でより多く「売って」どれだけ「利益」を上げたか、ということだけが常に最優先課題であり主要目的となった。

 だから、そこから、経済の概念が、いつしか「金銭のやりくり」、「金銭のやり取り」という概念をも派生させたことは必然でもあった。

⑷ 近代の経済と経済学は、重商主義の時代であった当初、経済活動に対して王権に拠りあの手この手をもって介入するのはよくないことだとし、むしろ人間が本来持っているはずの共感する能力を信じ、道徳的でもあるはずの人間たちの活動に任せればお金も自然に回り、あたかも「見えざる手」が働いているかのように、経済は全体がうまく回る、としてきた。それは、「共感を持っている人間たちの活動によってこそ経済は成り立ち、共感を持っている人間の労働に拠ってこそ、商品に価値が生まれる。そして、共感を持っている人間だからこそ、労働によって生み出された商品の価値を理解することができる」という根拠に基づくものだった(浜矩子別冊NHK100分de名著「『幸せ』について考えよう」の中の「アダム・スミス国富論』」)。

 ところがこれがいつのまにか、経済活動は市場に任せるのが一番だ、経済に道徳は無用だと曲解する市場原理を至上とする考え方に取って代わられた。曲解から生まれたその考え方は資本家や経営者にとっては好都合であったため、その後はそれがどんどん広がり、巨額のカネを持つ人々の金力に拠って民主主義政治そのものが世界的に歪められる中、金融制度が大規模に緩和され、資本が難なく、それも猛スピードで国境を越えることができるようにさえなった。その結果、今やその市場経済に立脚する資本主義経済は、ますます博打化が進み、暴走するそのグローバル資本によって、自らのその資本主義経済体制をも制御することさえできなくなってしまっているのである。

⑸ なおこうした考え方の延長上で、経済の成長の度合いを測ることのできる概念として考え出されたのがGDP(国内総生産)であり、GNP(国民総生産)であった。

 

 以上が、近代の経済を学問的に支えて来た経済学の基本的な特徴だと、私には考えられる。

しかし、見てきたように、その特徴には、後々深刻な問題を生むであろうと考えられる多くの矛盾が見られる。

 実際、その経済学に支えられた経済が科学を発展させ、その科学に基づいて技術をも発展させながらつくって来た代表的産物を検証して見ただけでも、それらの物は、自然に対しても、人間の集団である社会に対しても、そして人間個々人に対しても、いずれも例外なく、重大で深刻な問題を引き起こしているのである。それは7.4節にてすでに明らかにして来た通りである。

 それは、誤解を恐れずに、大胆に一言で言ってしまえば、自然を破壊し、社会を崩壊させ、人間を疎外するだけの物でしかなかったのだ。

 

 こうしてみると、せめて私たち日本国民は、もうそろそろ、ここで少し立ち止まって、真剣につぎのことをじっくりと、各自が自分に問うて考えてみる必要があるのではないだろうか。

———— 人間が生きて行く道、生きて行ける道は本当に「お金」というものを土台にした資本主義しかないのか、「もっと別の道」があるのではないか、と。

その資本主義は確かに物量は豊富にしてはくれたかも知れないが、それで本当に人間の心は、精神は、豊かになり、心に平安を覚え、他者にやさしくなり、しみじみとした幸せを実感できるようになったのか、そして社会もそれを感じられる社会になったのか、と。

本当にお金がなければ何もできないのか、お金がなければ生きてはいかれないのか、と。

本当に雇用を増やさなくては、人々は生きては行けないのか、と。

経済は発展させ続けなくてはならないというのは本当なのか、と。

そして、ではそこで言う「経済」とは一体何なのか、と。

これからも化石資源に頼らねば、社会は、人間は、生活できないのか、と。

そもそも人間が人間として生きるとはどういうことなのか、人間は何のために生きるのか、と。そして人間にとって豊かさや幸せ、それも「真の豊かさ」、「真の幸せ」とは一体どういうことなのか、と。

そして、上記のさまざまな問いに答えることについては誰かに任せておいていいのか、と。

また上記のさまざまな問いに応えられる生き方のできる社会や制度を持った社会を構想し、構築しなくていいのか、と。

またそれを発想できたとした時、その社会の建設については、やはりこれまでのように誰かが、何とかしてくれるだろうと考えていればそれでいいのか、と。

・・・・・・。

 いずれにしても、「働き口や仕事があること」、「雇用が確保されていること」、「お金があること」が何より重要と無意識に考えてしまうのは、貨幣経済社会にどっぷりと浸かってしまい、その社会を何の疑いも差し挟まずに当然とし、貨幣経済社会以外は考えられないと思い込んでしまっているからなのではないだろうか。

そして「経済は発展させ続けなくてはならない」と考えてしまうのも、利益を絶えず生み続け、資本を増殖させ続けなくては存続できない宿命を持つ資本主義体制という経済社会を無意識に前提としてしまっているからなのではないか。

 しかし、人は誰も、「働き口や仕事があること」、「雇用が確保されていること」、「お金があること」は生きる上での手段ではあっても目的であるはずはない。むしろ誰にとってもつねに、そして本当に重要なことは、仕事があるとかお金があるということよりも、それも単に生物としてのヒトとしてではなく「社会の中に一個の人間として生きられること」なのではないか。

 もう少し詳しく言うと、「互いに自分の生き方に肯定的に確信を持てて、多様な考え方や価値観を持って生きる他者を互いに認め合い尊重し合いながら、社会の中で責任の自覚に裏付けられた自由の意識の下に、自分にも他者にも誠実で、かつ互いに他者への共感の情を深め合い、信頼を深め合いながら、贅沢をするわけではなく、むしろ質素を心掛けながら、心安らかに、楽しく生きてゆかれること、そしてそのことが社会を構成する誰にも保障されていること」こそが大切なのではないか。

 決して「お金があること」、「産業や企業が発展すること」が先ず先にあるのではないはずだ。「雇用が確保されていることが必要」云々は、あくまでも現在の、既述のような、本質的な矛盾を抱え込んだ経済と経済システムの存続を前提にしての、あるいはそれによる強迫観念に取り憑かれた結果でしかなく、目先だけを見ての対応に過ぎないのだ。

 そうでなくとも私たち人類は、今、その歴史始まって以来最大の、いずれも人類の存続の可否を決定する三つの脅威に直面しているのである。その1つが、これまで随所で言及して来た地球温暖化とそれに伴って生じているとされる気候変動という脅威であり、1つが、生物種の多様性の消滅という脅威であり、もう1つが核戦争という脅威である。

 第1については、瞬時にという程ではないが、今のまま放置していたなら、国によって時間差はあれど、早晩、全人類はほぼ確実に滅ぶだろうことを意味する。

第2については、人はそれを温暖化ほど体には感じないし、目にも見えないから気付きにくいだろうが、殺虫剤や除草剤そして乱「開発」行為等によって、今、恐竜が消滅したときの速度よりも早く生物種が絶滅に追いやられている。「喰って喰われて」という関係でつながっている食物循環の環のどこかに穴があけば、それまでそれを喰って生きて来た生物も生きられなくなる。そうなれば、ドミノ倒し的に、生物種は消滅して行くことになる。それだけにその現象は、一度どこかで生じれば、その現象の伝搬は急速であり、温暖化の効果よりも早くなるのではないか。どっちみち、人間の消滅だ。

 第3については、どういう形であれ、ひとたびどこかでたとえ偶発的にであれ故意にであれ起ったなら、それは部分核戦争には留まらずに全面核戦争へと必ず発展し、その結果、人類は、この場合にはほぼ瞬時に全滅に近い状態になる。ここには勝者などいないのだ。

 「核抑止論」などというものがあるが、そのようなものは理論的にも成り立たないことは既に明らかにされているし(豊田利幸「核戦略批判」および「新・核戦略批判」 共に岩波新書)、実際、役には立たないことをキューバ危機は実証したのである。

 幸い、当時の米ソのリーダー(ケネディフルシチョフ)とその周辺の関係者の必死の努力と勇気と冷静な判断力により回避でき、そのお陰でいま、私たち人類は存続できているのである。

 もう少し具体的に言うと瀬戸際ではこういう状況だった。

その日は、1962年10月27日にやってきた。

ソ連の船舶を警護する4隻の潜水艦がアメリカの海上封鎖線に近づいたとき、それを空から追跡していたアメリカ空軍機が潜水艦を威嚇するために爆雷を投下した。それらの潜水艦が核魚雷を搭載していたとも知らずにである。4隻のうちの一隻の潜水艦は爆雷に因る衝撃で激震を受け、艦内の照明は消えた。室温は急上昇し、二酸化炭素濃度は致死レベルに上がり、乗組員はバタバタと倒れて行った。4時間後、手負いの潜水艦が再び攻撃に曝される。

最期を悟った乗組み員にはパニックが広がった。通信が途絶えた中で、モスクワに照会せずに核魚雷を発射する権限が与えられていた艦長は既に戦争が始まったのだと判断。このまま何もしないで死ぬわけにはいかない。艦長は核魚雷の発射準備を命じ、二人の将校に意見を求めた。

このとき、ソ連海軍の政治将校でもあった副長ヴァシリー・アルヒーポフは発射を中止するよう艦長を説得したのだ(BS世界のドキュメンタリーオリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史」第6回)あるいは(映像の世紀プレミアム(17)「人類の危機」NHK BSプレミアム2020年9月19日)————。

 この副長の判断が核戦争を土壇場でくい止めたのである。彼の説得がなかったなら、今、私たち人類は多分いないのではないか。

 「核拡散防止条約」は結ばれても、今やそれ自体、実質的に効力を失い、核兵器は米国、ロシア、中国、イギリス、フランスから、パキスタン、インド、イスラエル、そして今、北朝鮮へと拡散してしまっている。

しかも、米ソ冷戦が終結して後も、既述したように(第1章)、かえって世界の秩序は乱れ、その背後にはいつも米ロが控えているような状態の中では、また新たな冷戦とも言える米中の対立が激化する中では、紛争は絶えるどころかかえって多発している。

実際、このほど米ロ間で結ばれて来たINF(中距離核戦略)全廃条約も失効した。

 そんな中、特定の国家間での緊張が極度に高まってくると、何が引き金になって戦争状態に入ってしまうか判らない。とくに核保有国の間では、デマ1つで、あるいは誤報1つで、あるいは故意にではなくとも些細な偶然が重なり合うだけで戦争になってしまうかもしれない。キューバ危機が正にそうだったからだ。

 このように、今、世界には核戦争の脅威がキューバ危機のときよりも格段に高まっているのである(BS1スペシャル「ペリーの道〜元米国国防長官の警告〜」2018年3月2日NHKBS1)。

 そのようなとき、どんなにあらゆる安全機能を備えたシステムを持っていると思っている国であっても、人間の偶発的ミスや誤算あるいは事故には脆弱なのだ。さらには狂気あるいは誤解によってもいつ戦争になってしまわないとも限らない。そしてたとえ偶発的であるにせよ、一旦、核弾頭や核ミサイルが発射されてしまったなら、そのときはもう国家の指導者の力だけでは止められなくなってしまうのである。むしろその時には、国家の指導者は、いかにして全面核戦争を防ぐかではなく、ただ自国の威信が保たれることだけを考えてしまうかも知れない。

 こうした事実を考えてみても、「核抑止論」も「核拡散防止条約」も人類の存続を可能とさせる上では、実質的にはほとんど効力はないのだ。

 振り返ってみれば、核戦争とまでは行かなくても、通常兵器による戦争であっても、戦争というのは、そのほとんどが領土や資源の争奪を巡って、国境を越えて起って来た。

そしてその背景には、ほとんどの場合、双方の間には経済体制の違いとそれを成り立たせている政治に対する思想(イデオロギー)の違いや権力基盤の相違があった。

 しかしここでもっと根本を辿ってみると、米ソ冷戦、そしてキューバ危機についても、経済体制とイデオロギーを異にする米ソ間ではあったが、しかしその両国の経済についてみれば、既述の特徴を持つ「近代の経済」という観点ではまったく同じ視点に立っていたのである。

 このことからも、今を生きる私たちは、教訓として次の結論に行き着くのである。

もはや資本主義を超える新しい経済、近代経済学を超える新しい経済学が必要となる、と。

 とにかくこれまでは、経済体制とイデオロギーの違う国同士の間で、それもとくに双方の政府の間で、互いに相手に自分たちが支配されることへの恐怖を生み、恐怖が過剰反応を生み、それが止めどない軍拡競争を生んで来てしまったのだ。

 しかし、これからは双方が「近代の経済」の観念を止揚できるようになれば、領土と資源を争奪し合うことはもはや無意味と理解されるようになるだろう。実際のところ、もはや国際非難を浴びながら侵略戦争を起こし、他国の領土や資源を略奪したところで、その国の得になるような時代ではない。またイデオロギーの違いや宗教の違いを理由に国家間で対立抗争しては難民を増やし、第三国に迷惑をかけていられる時代でもない。

そうではなく、人間がどう逆立ちしたところでどうにもならない絶対の真理、人間の損得勘定を超えて、あるいは好むと好まざるとに拘らず認めて受け入れなくては人類として生きては行けなくなる絶対の真理を世界各国が共通の主導原理とすることができるようになれば、侵略することもされることもなくなり、相手国に対して恐怖を抱くこともなくなるのではないか。

そうなれば、もはや核を用いた全面破壊戦争はもちろん、通常兵器を用いた戦争すらも、それを起こすことそのものをも無意味化しうるのではないか。

 そうなると「国防」とか「国の安全保障」いう概念そのものも、従来とは根本から変化せざるを得なくなるのである。

 それは必然的に「国防費」をも大きく減少させ、税金の使途についてはこれまでとはまったく違った用途、たとえば最新兵器の購入や軍隊の維持にではなく、国土の真の活性化、教育、福祉、文化へと振り向けられるようになるのである。

 つまり本書が提言する「新しい経済」へとそれぞれの国が転換するようにすれば、地球温暖化と気候変動を緩和させるだけではなく、さらには解消させて行くことにつながる。同時に、核戦争どころか国境を越えて他国を侵略する戦争を起こすことさえ無意味化させてしまうことになるのである。

 とにかくここで私たちは、誰も、次のことを思い起こさねばならない。

今の社会はどんなに貨幣経済の社会だとは言っても、そしてお金は万能だとしてどんなにお金を、それもより多くのお金を手に入れることに努力しても、喰う物がなくなったなら、あるいは喰うことが出来なくなったなら、あるいは喰う物をつくることのできる自然環境や条件を失ってしまったなら、軍事力や軍事同盟による国家の安全保障をどんなに高めたところで、それ以前に、生物としての私たちヒトは絶対に生きては行かれなくなるという真理を、である。

 つまり、家庭を犠牲にし、子どもを、とくに幼い時に愛情深く育てることをあきらめて、どんなに肉体と精神を酷使して働いてお金を貯えたとしても、健康を失ってしまえば、思うように動くことさえ出来ない体になってしまうだけではなく、当人は誰よりも辛い思いにさせられる。そんな時、人は、どんなに高額の生命保険に入っていようとも、「お金よりやっぱり健康だ」ということを嫌が上にも思い知らされるようになるのではないか。そしてそのとき、同時に、「カネさえあれば」という考え方や価値観がどれほど脆く空しいものであったかを思い知らされるのではないか。

 この絶対の真理を私たちは決して軽視してはならない。むしろこの真理の上に立って、一人ひとりは、そして世界も、これからの経済のあり方を考え直すべきなのだ。