LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

12.3 土地の所有権と「三種の指導原理」

12.3 土地の所有権と「三種の指導原理」

(1)土地とは何か

 とくに日本で税制を考える時、何よりも先んじて考えておかねばならないものとして土地の所有権の問題がある。

 しかし、その所有権の問題を考える上でも、土地について、あらかじめ考え、また確認しておかねばならないことがあるように、私は思う。

それは、そもそも土地とは何か、ということだ。

 この国では、これまで、あるいは少なくとも戦後は特に、土地とは、畑や田んぼという農地や宅地や山林原野を含めて、単に「不動産」という見方をされたり、あるいは生産活動をする際の生産のための「手段」あるいは「資本」という見方をされるだけだったように私には思われる。

 しかし、今後も、本当にそうした見方をしているだけでいいのだろうか。

なぜならば、土地という言い方をされるそれは、人間の経済活動にとっての不動産あるいは生産手段とか資本と言う前に、地球上のあらゆる生命をその表面近傍において生かしてくれている生態系を構成している土壌そのものだからだ。そしてその土壌は、大気・水と共に自然環境を構成している要素そのものなのだからだ。

 ところが今、この国でもそうだが、多くの土壌としての土地は、近代文明が発達し、資本主義市場経済が世界化する中で、人間によって急速に、かつ広範囲に、汚染され、あるいは破壊されてきている。特にそれに拍車かけたのが、人間が地中から掘り起こした化石燃料である石炭であり、石油だ。

それも、それらが直接燃料として用いられる場合もそうであるが、特に第二次大戦後急速に発達した工学の一分野である化学が主に石油から生み出した化学農薬を含む化学薬品と、広義には化学合成製品が汚染と破壊の主たる要因となっている————レジ袋とかペットボトルといった類いのものばかりではない————。

 その結果、今日、世界の海も、それぞれの国の中の河川も、湖沼も、その多くが、大量に廃棄されたその化学合成製品によって汚れに汚れ、あるいは破壊されてしまっている。そのため、これまでは飲めた水も、そのままでは飲むに適さない水となってしまっているところも多いし、その範囲がますます拡大してもいる。

 このことは、水を摂取しなくては絶対に生きてはいけない人を含むあらゆる生命にとっては、生存そのものを脅かす事態なのだ。

 

 ところで近年、宇宙開発技術の発展がめざましい。宇宙ステーション作りとか火星探査などにその一例を見られる。

そしてそうした動きに対して、メディアは、それがいかにも夢を抱かせてくれる動きと見るのか、あるいは新たなフロンティアへの挑戦という意味で見るのか、しきりともてはやし、報道してみせる。

 そうした宇宙開発の真の動機や目的は私には不明だが、どうやらそこには、表向き、今世紀末期には地球人口が百億人に達するかもしれない、そうなっては地球はそれだけの人を養ってゆくことはできないだろう。だから今のうちに地球以外の天体に人が住める場所を確保しておこう、という目論見もあるようにも見える。言ってみれば、地球の外に現代風の「ノアの箱舟」を作ろうというのであろう。あるいは、宇宙開発の動機には、地球上にはない新たな資源を求めようというものもあるのかもしれない。というより、特に欧米と中国との間での宇宙空間での覇権争い、というのが、真の動機なのかもしれない。

 しかし、そこにどんな理由、どんな目的を設けようとも、人間が生きて暮らして行けるところは、結局は、この地球上の土地しかないのである。

 その根拠は、今後、どんなに科学技術が進歩しようとも変わりようはないし、また変えようもない次の真理に基づくのである。

 1つは、広大無辺とも言われるこの宇宙にどれほど多くの天体があろうが、平均してほぼ80年という人の一生の間に往復できる距離にある天体の中で、人が外でも裸で過ごせる天体はこの地球しかないこと。1つは、他生物を食い物として、それを摂らねば絶対に生きてはゆけない人間が安定して住める天体はこの地球しかないこと。1つは、同じく、生物として水を定常的に摂取しなくては絶対に生きてはゆけないヒトが住める天体は、やはりこの地球しかないこと。仮に地球外の天体で、ヒトが生きてゆくために必須の水や空気を最先端の科学技術力により作れたとしても、現在の地球人口のたとえ1%もそこでは住めないこと。しかし、その場合も、ヒトが生物として生きてゆくのに不可欠な栄養は作り出せないこと。少なくとも安定的には。1つは、ある数の人間を、莫大な量のロケット燃料を使ってピストン輸送することだけは可能かもしれないが、しかしそれをしたなら今度は地球だけではなく宇宙空間をも汚してしまい、ますます地球上の余計なエントロピーを宇宙空間に捨て難くさせてしまうこと。それは、地球上に残された人々をして、その人々が生きてゆくことを一層困難にさせてしまうことである。

 以上の4つが真理であることの根拠は、生物として生きてゆく上で絶対に必要な水が「当たり前」にあり、適温の大気が「当たり前」にあり、それを喰わねば絶対に生きてはゆけない、植物と動物を安定的に確保したりできるのは、時には土壌、時には大地と表現される土地が「当たり前」にあるこの奇跡の星とも水の惑星とも呼ばれるこの地球だけだからだ。

 そしてこうした条件の全てが満たされたのは、太陽と地球との間の距離が絶妙な関係にあることに因る。その距離が、今よりも少しでも遠くても、また近くても、適温の水と大気が存在し得ないとされているからである。そうなれば、地球上のこれまでのような大地・土壌も存在し得ないことになる。こうした事実は文字通り奇跡としか言いようがないのである。

 

 そしてこの、生物が飲める水と呼吸ができる大気と栄養となる食い物をもたらしてくれているのが、他でもないその水と大気と栄養そのものの地球上の自然界における循環なのだ。しかもその循環を担っているのが大地である土壌、すなわち土地なのだ。

だからその循環が止まったり止められたりしたら、水も大気も栄養ももたらされなくなる。ということは、あらゆる生命体は生きてはゆけなくなるということだ。

 つまり、土地と称される土壌からなる大地は、それが切れ切れに分断されていない限りは、「水と大気と栄養」をその隅々にまで循環させてくれるようになる。そうなれば、それ自体が多様な生命が共存できる豊かな生態系を形成するようになるだけではなく、河川や湖沼や海といったより大きな生態系と連結して、「生命の原理」が一段と躍動的に実現された場となってゆく。そうなればなるほどに、人間の諸活動、特に大規模な経済活動に伴って生じる「エントロピー」をよりスムーズに生態系の外の世界に、そして果ては宇宙へと捨て続けてくれて(第4章)、生命の存続をより確かなものとしてくれるのである。

「母なる大地」とは、そういう働きを持つ土地を讃美した言い方なのではないだろうか。

 

 そこで既述した、万有引力と同等の自然界の原理としての「エントロピー発生の原理」と結びつけて言えば(第4章)、土地とは、私たちが経済活動等を通じて地球表面上にて発生させたエントロピーを、大気と水と栄養を自然界に循環させることによって地球の外の宇宙に捨て続けられるようにしてくれている、人類と他生物をも地上に生かし続けてくれる上で決定的な役割を果たしている場である、となる。その意味で、土地は紛れもなく人類全体の価値であり人類全体の財産でもある。

 それだけに、このことを踏まえるなら、自然界に生かされている生物種の一種でしかない私たちヒトが、どのような目的や理由に基づいていようとも、そしてその面積がどれほどであろうとも、土地を私的に所有したり、私的利益を得るために売買したりするということは、それだけで、本来なら、自然法にも背くことであると同時に、人類全体の価値・財産を私物化することであり、人類の大義にも反することである、ということがわかる。

 なおこのことは、言うまでもないことであるが、外国資本が他所の国の土地を取得するという場合も、理由の如何を問わずに、まったく同様に言うことができる。

なぜなら、「所有する」ということは、それを独占的かつ排他的に我が物とするということだからだ。そして所有するということは、とかく土地の「分割」という行為が伴いがちだが、そうなると、土地の持つ既述した特性を失わせてしまいやすくなるのである。

「分割」という行為には、特定の範囲の土地とそれに隣接する土地との間に、水と大気と栄養の循環を遮断する壁を設けがちだからだ。

 

 以上の考察から結論として次のことが言い得る。

土地は資本主義市場経済社会で言う商品一般とは明らかに、そして決定的に違う、と。

一般の商品には、今、土地に関して述べてきたこうした特性は絶対に備わってはいないし、備わりようもない。

 この事実一つをとってみても、土地は一般の商品とは本質的に性質を異にするものである。一般の商品は数えることができ、運搬することができ、つくったり、捨てたり、また分解したり修理したりすることができるが、土地はそうはいかない———埋め立てや干拓は、ここで言う土地の持つ本質とは筋違いの話である———。

どんな科学や技術の力をもってしても「母なる大地」をヒトがヒトの手で創ることは絶対に不可能なのだ。

 それに、空気そして喰い物と同様に土地も、それなくしては、またその上でなくしては人は生きては行けないものであるだけに、ただ単に経済的損得勘定の観点だけから価値の計量ができるような質のものでもない本質的に価格など付けようもないものだからだ。そしてそれだけに、経済システム、それも今や、その実態はギャンブルのシステムでしかなくなってしまっている資本主義経済システムとか市場経済システムなどにも馴染むはずのものでもない。その表面上に見えない線引きをしては、商品流通ルートに乗せて切り売りできる質のものでもないからだ。

 このように土地は、最初から圧倒的に、そして不可避的に、「公」的どころか自然の一部を成しながら、多様な全生命を生かしてくれている、という価値を持っているものなのである。

 なお、以上考察し述べてきたことは、もし私たち人類が本当にこれまで地球上に生存してこれたと同じくらいの時間的長さを、子々孫々にわたって存続できることを願うなら、土地の定義、土地の所有権、土地税制等々、既存の土地に関するあらゆる法制度を根本から見直し、法改正する必要があると考えるのである。

特に、後述することになる、この国独特の「土地所有権の絶対性」なる概念は、時代遅れもはなはだしいものであるが、それ以上に、全く誤った考え方だと、私は考える。

「土地所有権の絶対性」とは、“俺の土地なのだから、他人から、どうしろこうしろ、あるいはどうすべきこうすべきなどと、とやかく言われる筋合いのものではない”という考え方を肯定するもので、極めて自分勝手で、独善的で、社会という共同体に挑戦する態度のことを言う。

 実際、土地に関するこの考え方が、この国の都市づくりや集落づくりの際に、その街並みや家並みを構成する上でどれほど協調性や調和を乱し乱雑をもたらしてきたことか。

そしてここでも、「和の精神」がいかに薄っぺらで御都合主義的にしか語られてこなかったかが判るのである。