LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.3 農業と工業の本質的な相違————(その1)

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11.3 農業と工業の本質的な相違——————————(その1)

 前節では、これまでの経済の定義というか概念は余りにも多くの問題や矛盾を露呈しすぎてきているのでもはや変えられるべきではないかとして、私なりに考える経済の新しい概念を定義し、それについて説明してきた。そこで次は、その新しい経済の概念に基づく新しい経済システムを実現するための具体的な方法を説明しなくてはならない。

しかし、私は、その前に、予め、農業と工業の本質的な違いを明確にしておかねばならないと思う。

なぜか。そこには少なくとも4つの理由がある。

1つは、農業は生命を育てることを扱う産業、例えば水産業や酪農あるいは畜産業そして林業を含めた産業の代表格であること、一方の工業は、製造業、サービス業、流通業を含めた産業の代表格であること。1つは、この国では、その代表格である農業は大事だとされ、国の基幹産業だと多くの人には考えられながら、しかし、農業とは何かについては、実際に農業に従事する人を含むほんのわずかな人を除けば、残りの圧倒的多数の人はただ漠然と理解したつもりになっているだけのように私には思われること。1つは、この国の政府は、アジア・太平洋戦争後の1946年以来、戦後復興を急ぎ、国力をつけるためということで、一貫して工業に最も力を入れ、基幹産業とされた農業は常に二の次に置かれ、というより、工業の発展のための犠牲にさせられてきた感があること。その結果、この国では、“農業では食ってはいけぬ”という風潮を生み、それがこの国の農業を衰退させる一層の原因の一つとなってきたこと。

1つは、新しい経済の概念に基づき、誰もが生きて行ける国を実現し、この国を真に持続可能な国とするためにも、本来の農業とは何か、一方工業とは何か、両者の関係とは何かについて、すべての国民が正しく理解しておくことがどうしても必要なのではないか、と私は考えるからである。

 特にこの4つ目の理由をもう少し具体的に述べるとこうなる。

生物の一種であるヒトは、他の「生命」を喰うことでしか生きられない。これは厳然たる真理である。工業産品を喰って生きることは絶対にできないのだ。

 そして、そのヒトの体はそれまでに喰って来たものによってできている。良質なものを喰ってきたならそれなりの体ができているだろうし、不純物や工業的に人工的に作ってきたものが多く混ざったものを多く摂ってきたならやはりそれなりの体ができているだろう。これも好むと好まざるとに拘らず普遍的な真理だ。そしてこの両方の真理は、ヒトも自然界での大きな物質循環の一種である食物循環の枠組みから逸脱することは決してできないことを示している。だからこそ、自然界での物質循環は、常に安定的に保たれている必要があるのだ。とりわけ、大気と水と栄養において。

 したがって、もし自国を真に国力のある国、持続可能な国にしようと思うのなら、先ずはこの二つの真理の上に立って社会の政治や経済等、あらゆる制度や枠組みを考える必要がある。

 ところが、日本の戦後の経緯を見ると、長期政権を担ってきた自民党を与党とするこの国の政府のとってきた、自国民に自国民が生きてゆくために不可欠な食い物を提供する農業という産業を育成する農業政策は、この国は歴史的に稲作文化の国だからということなのであろう、そのほとんどが稲作を中心とするものであり、しかもそれらのことごとくは、ここでも長期的計画はなく、朝令暮改の政策でしかなかった。つまり「戦略」と言えるものは何もなかった。

 具体的なことは私には不明であるが、日本の食糧生産体制の大変革は、アメリカから始まったいわゆる「緑の革命」と呼ばれる動きに大きな影響を受けたと考えられる。1960年代のことである。「緑の革命」とは、ノーマン・ボーローグ博士の提唱になるもので、一言で言えば、農業機械を大型化し、農薬や化学肥料を大量に使うことで収量を飛躍的に増大させることができるとする考え方であり農法のことである。それも、単一品種の作物に対して、より効果的とした。

 この「緑の革命」の影響を受けて、日本では、特に政府が主要作物とする稲作について、これまでの伝統的農法に代わって、機械化と化学化を促進するという政策をとった。機械化とは、主にトラクターを導入するようにすることを言い、化学化とは、化学工業が作った肥料や農薬を大量に使用するようにすることを言う。その際、その機械化による効率を上げるためには、水田をその土地の地形から出来たこれまでの自然形から長方形の区画にする必要があるということで、政府は各農家にも負担させて大規模区画整備事業を行った。ところが、農家にとっては、やれやれこれでコメを自由に思いっきり作れると思ったら、今度は政府は、稲の作付面積に制限を設けるいわゆる減反政策を取ったのだ。それでコメを自由に作ることもできなくなった。そしてそれにさらに追い打ちをかけるようにして、それまでは農家に対して、“コメは一粒なりとも輸入はしない”と明言していた農水大臣は前言を翻してしまう。米騒動に始まった食管制度を廃止して、市場でのコメの自由化という農業政策へと転換したのだ。

 これから判るように、日本の農家は、戦後、次々と事態をつくろう自国政府に騙されてきたのだ。

 これだけでも、農家はやる気を失い、農業に誇りも持てなくなるというのに、その上今度は、種子法の廃止だ。種子法、正式名称は「主要農作物種子法」と呼ばれる法であるが、それは全ての都道府県が、稲、麦、大豆の種子の品質を管理し、優良な種子を安定的に供給する義務を負う、とした法律だ。その種子法の廃止により、今度は世界のアグロバイオ企業によって「農」と「食」そのものが支配されようとしているのだ。

 そして農業を巡る現在の状況はと言えば、消費者のお米離れもあり、多くの農家は“農業では食ってはゆけぬ”となり、農業後継者のサラリーマン化等にも拍車がかかり、農業従事者の激減と高齢化、管理できないがための耕作地の放棄、伝統的農業と農法の解体といった状況に至っている。そしてこれがまた、日本の食糧自給率を先進国中では群を抜いて低い状態にさせてしまってもいるのである。

 地球規模での温暖化とそれによる気候変動が止められずに、異常気象が常態化してゆくことが予想される時、日本のこの農業政策の失敗と躓きは今後ますます深刻な意味を持って行く事は間違いない。

どんなにITだ、AIだと言っては工業生産力を高め、物流を発達させたところで、喰い物が確保できないとなったなら、軍事力と工業生産力に頼る国力など、国民にとって、何の意味もなくなってしまうからだ。

 とにかく、この国の全政治家、そして中央と地方の政府は、今こそ、この国に実際に起こった次の史実を思い出し、そこから真摯に教訓を引き出し、それを生かす政策を考えるべきだ。

 食料に関しては、1918年に米騒動が起こったこととその理由。1993年が冷夏だったことによってコメが凶作となり、コメをタイやカリフォルニアから緊急輸入した事実。

 エネルギー資源に関しては、アメリカの石油禁輸に遭い、日本はフランス領インドシナに石油資源を求めて侵略し、アメリカには真珠湾奇襲攻撃をしてアジア・太平洋戦争を始めたが、結果は国を破滅させてしまった事実。1973年と78年には中東での政治情勢の不安定さによって生じた石油危機(オイル・ショック)で、日本政府はただただ狼狽え、産油国に対して、イギリス政府とは好対照の、恥も外聞もない土下座外交をした事実。

 しかし地球規模での危機が進展する中で、今後生じてくるであろう事態はこんな程度で済むはずはない。その時には、食糧を輸入しようとする相手の農業大国でさえ、自国民を喰わせるだけで精一杯の食糧事情になっている可能性があるからだ。

 思えば、この国を滅ぼすような過去の全ての大失敗も、そこに全責任を担っていたはずの全政治家や軍人たちは、相手を知ろうとはしないことを含めて、何の客観的な情報も集めようとはせず、したがって理性的な情勢分析もせずに、自分に不都合な情報は排除して好都合な情報しか聞こうとはせず、もちろん最悪の事態など想像すらせずに、“大和魂を持ってぶつかれ!”が象徴するように、精神論で対処できると考えてきた結果だった。

要するに彼らは、「孫子」を説く以前の話で、全てにわたって、自己に甘すぎ、見通しが甘すぎたのだ。

 そうでなくとも、もしも実際にこの国がそのような事態に直面したならば、官僚をコントロールもできず、府省庁相互の縦割りも解消できず、むしろ実質的には官僚に依存し追随するだけで来た、見せかけだけの首相、見せかけだけの閣僚、見せかけだけの政府、見せかけだけの国家でしかないこの国は、何をどうしていいのか判らず、たちまち無政府状態に陥り、その時、国中に生じるであろう略奪も強奪も殺戮も制止できず、むしろそれらを常態化させてしまうしかないだろう。

 

 そこで私は、読者の皆さんには、農業の意味やその大切さを今よりも少しでも深く理解していただきたいために、本節では、農業と工業の持つそれぞれの本質面を明らかにしてみようと思う。そしてそのことを通して、今日、世界的に、「豊かさ」を実現する手段として当然のごとくに考えられ、したがってますます発達させるべきだと考えられている工業ではあるが、そのあり方に比べて、農業が、私たちが生物としてだけではなく人間として生きて暮らして行く上でも、また私たちがこの地球の自然環境の中でこれからも永久に生かさせてもらいたいと願うならば、農業こそがいかに理に叶った産業であるかを明らかにしてみようと思う。またそのことを通して、なぜ農業が、人類史の中で、どの国においても、圧倒的長きにわたって支配的産業であり得たのか、その理由も理解していただけるものと思う。

 お断りしておくが、この両者の比較は、あくまでも私自身のこれまでの24年間のサラリーマン生活とその後の20余年間の農業生活という実体験に基づくものである。

前者のサラリーマン生活とは、本書冒頭の「はじめに」にも記したが、某ゼネコンでの研究者生活を意味する。また後者の私の農業生活とは、農薬も一滴も用いず、化学肥料も一握りとして用いることなく、徹底して良質な有機肥料に拘る農法に基づく農業生活を言う。

その時の栽培法は露地で栽培するというもので、施設の中で栽培するというものではない。ましてや季節外れの野菜を施設の中で化石資源を大量に使って加温しては栽培するという栽培法でもない。もちろん、最近よく耳にする施設内での水耕栽培でもない。

とにかく降り注ぐ太陽光だけを頼りに、それを最大限に浴びながら、土壌が本来持っている力を天水によって最大限に発揮させ、その力を借りて野菜や米を栽培するという栽培法によって支えられた農業生活のことである。

 

 先ず農業について。

 上記に言う土壌が本来持っている力(地力)を天水によって最大限に発揮させるとは、先ずはその土地にもともと棲息する土壌微生物に注目する。関係書籍に拠れば、農薬を散布されていない畑土1g中には、細菌が100万から1000万、糸状菌が菌糸の長さでスーメートルにも及ぶほどに棲息しているのである(都留信也「土壌の微生物」土つくり講座Ⅳ 社団法人農山漁村文化協会 p.9)。その彼らが十分に活動できるような土壌環境をつくるのだ。そのためには適度な量と質の水と空気が要る。それを、もし天水で不足であれば、我が家の井戸水をも用いて、適度に補って管理する。こうすることで彼らは土壌中の昆虫や小動物、植物の遺体を分解してくれて、播いた種子が健全に成長できる良好な土壌環境ができる。そこに良質な有機質を肥料として施し、種子が潜在的に持っている能力を最大限に発揮させるのである。

 後は、その周辺に次々と生えてくる多様な草が野菜の苗を覆ってしまって太陽光を遮ってしまうことのないように、草を適度に除去することで、野菜の成長を見守るのである。

 当然ながらそこでは、除草剤や殺虫剤の類いの農薬は一滴も使わなければ、化学肥料も一握りさえ使わないし、また使えない。使ったならば、それが土壌中の細菌や微生物を殺してしまうことになるからだ。それだけではない。野菜の根にも悪い影響をもたらしてしまう。

とにかくひたすら良質の有機物のみを用いて、適度に水を施して、土壌を活性化させ、地力の維持を図るのである。

 したがって私の農園では、季節の気候に合った作物しか作れないし、また作らない。だから、私の住む地域(標高750メートルの八ケ岳南麓)では、栽培できる期間は、一年のうち、実質的には、3月からせいぜい12月の中頃までである。

 作物は、野菜が主で、その他に、米、大豆である。栽培期間に栽培する野菜の種類は、およそ50種類で、スーパーマーケットに並んでいる種類とほぼ同種類の野菜を栽培している。

 ではなぜ多種類の野菜を栽培するか。

それは、1つには、生物としてのヒトが生きる上では、というより、生命一般は、その体がより健康的に生きるためには、それぞれが特徴ある栄養素を持っている喰い物を、多様な種類にわたって食べることが大事だと私は考えるからである。そもそもどんな生物も、どれか一種類の他生物を喰えばそれでその生物が生きて行く上で必要充分な栄養素がすべて満たされるということはないはずである。どうしても多種類の食い物を食する必要がある。だから、野菜を栽培するにも、単一ではなく、できるだけ多種類の野菜を育てる必要があるのである。

 もう1つは、畑も田も生態系の一部であるからだ。そして野菜や米という植物も生命である。生態系は生命が多様である程、豊かで、外からの撹乱に対して安定性がある(第4章「生命の多様性」の定義を参照)。単一の野菜だけを畑一面に栽培するよりは、多様な野菜を栽培する、それもその都度作る場所を換えるという栽培の仕方が生態系をつねに活性化させておく上で理に叶っていると考えられるからだ。

 だから、私の農法は、畑一面に同じ野菜を栽培しては収穫時には人手を使ってでもそれを一気に収穫して、それを不特定多数の人に食していただくために一斉に市場に出して換金するという、いわゆる市場経済を前提とした農法ではない。

 このように、私の農業や栽培法では、畑や田という一つの区画の中の生態系に———かといって、その周囲との間を遮断する遮蔽物があるわけではない———多様な種類の作物を意図的に栽培するのである。そうすることで、それらの根の周囲には根から出される分泌物やその分泌物に群がる微生物を求めて多様な微生物や多様な昆虫・小動物が集まり棲むようになる。その結果、各種生物間には一定の拮抗関係が生じる。そしてそのことが野菜や米の病気の発生を抑え、特定の生物種だけが異常発生することに因る被害を抑制できるようになる。

つまり、多様な野菜を栽培することで土壌の状態の平衡や安定を維持できるようになるのである。

 だからそこでは、これまでの慣行農法では「雑草」という言い方をされては目の敵にされてきた草もとくに敬遠することもしない。むしろ場合によっては草を積極的に生やしては活用さえする。草も、根を通じて土壌中で野菜と相互作用しているはずだし、そもそも自然界にあっては、人間が知らないというだけで、どんな生命体も、それなりの役割を必ず果たしているはず、と私は考えるからである。

 その結果であろうか、これまで、私の畑の野菜に、また田んぼの稲にも、病気が出たり、特定の虫の被害に遭ったりしたことは一度もない。連作障害とか発育障害という症状が生じたこともない。

 私ができるかぎり多種類の野菜を栽培するもう1つの理由は、野菜を買って下さっているお客さんが、宅急便で送られてくる野菜がより多種類であることを喜ばれるからである。

 ところで昨今、「土から離れた農業」の話題がメディアにしきりに取り上げられている。たとえばその一例が既述の水耕栽培である。

しかしそれについては私はまったく未経験ながら、かねてから気になっていることがある。そしてこの栽培法は今後の農業のあり方あるいは喰い物の生産方法として、どの国にとっても重要な意味を持ってくるのではないかと私には危惧されるため、ここで、少しじっくりと考えてみようと思う。

 気がかりな点の1つは、どんなにその栽培技術が最先端の科学技術的成果を用いて発達したところで、その栽培法がもたらす野菜は本当に人が生きて行く上で良質な食材となりうるのか、2つ目は、その水耕栽培なるものは果たして自然環境に負荷を掛けないものなのか、すなわち自然の摂理に沿ったものなのか、3つ目は、その栽培法は果して農業と言えるのか、ということである。

 3番目の問いから行けば、なぜこれが気がかりかというと、私は、農業とは、本質的に「土の上で、あるいは土壌を相手に営まれる業」ではないか、あるいは「それでしかあり得ないのではないか」、と経験上、固く信じるようになっているからである。その理由は、既述したとおりである。野菜や米等の栽培は、ただ水と肥料と光だけを科学的にコントロールすればいいというものではないと考えるからだ。またそれでは本物の野菜は出来ないだろうと考えるからだ。

土壌中のバクテリアと呼ばれる細菌の存在が不可欠の役割を果たしてくれているのだ。それは「工業」の力で何とかなるというものでは決してない。そんな多様な生物圏は人工的には決してつくれないと私は考えるのである。しかもその生物圏は構成要素が互いに拮抗した関係にある。太陽光にしても同じだ。水耕栽培ではLEDなり人工照明を用いるようだが、太陽光はそれでは決して満たし得ないもっと多様な光から構成されており、それが植物の葉に微妙に影響して、栄養や味をもたらしているのではないか、と考えるからだ。

つまり水耕栽培は、本来の農業とは言えない、と私は考える。強いて言えば、工場での工業的野菜製造法であって、工業の一分野と見るべきものだ。

 第1の問いについては、既に第3の問いに対する答えの中に答えが含まれていると私は考えるが、もう少し補足するとこうである。

確かに水耕栽培で出来た野菜は、「野菜」らしくは見える。しかし味、栄養価はどうであろう。

私は、自然は、工業がもたらす物による場合とは違って、人間の目や五官では判らない、判りようのないものを与えてくれていると信じている。それは、たとえば、ただ美味いとか栄養があるというだけではなく、それを喰えば病気になりにくく、より健康になるといった、科学では計量しにくい多様な要素が含まれているのではないか、と思うからである。そしてそれこそが真の価値とみなせるものだ。

 そうしたものが、土壌の中で栽培した野菜、それもとくに無農薬・無化学肥料で、良質の有機質のみを施した健康な土壌の下で育てた野菜には含まれているだろうと思うのである———ここで「良質の」とは、そこに農薬も重金属もその他の化学合成物質(成長ホルモン、抗生物質等)も混入していないことを意味する———。

 私がそう思う根拠は次のようなものである。

水耕栽培に用いられる肥料は、その量を人為的にきめ細かくコントロールする必要から、化学肥料にせざるを得ない。有機肥料はそうしたきめ細かなコントロールは本質的にできないからだ。

しかし化学肥料は、人間が化学工業の力を借りてある特定の肥料成分、たとえば、チッソ、リン酸、カリウム、その他のマグネシウム、カルシウム等を抽出し、それをある特定の比率で混合したものだ。そしてその肥料はそれ以外の成分は含んではいない。つまり化学肥料は最低限の肥料成分しか含んではいない。

 一方、本物の有機栽培野菜とは———ここでなぜ敢えて「本物の」と断るかというと、純然たる有機肥料だけではなく化学物質の含まれた肥料も使った栽培法をも「有機栽培」、それによって出来た野菜を「有機野菜」と言って販売している農業者もいるからである。実際、農林水産省有機栽培と有機野菜に関するルールJASS5はそれを認めている———、そこで施すのは良質の有機質だけであることはもちろんであるし、またその有機質の中には既に莫大な数と種類の微生物や菌類が含まれており、その上、既述のように土壌中に棲息する莫大な種類と個体数の微生物や菌類そして昆虫も加わって、それらの総合力の結果として出来上がってくる野菜だ。

その際、土壌中の微生物は、外から施された有機質を餌にして生きながらそれを分解する。その分解された物も有機物であるが、それは最初施された有機物とは異なる有機物で、土壌有機物と呼ばれるもので、これが野菜の成長に特に大きな効果を発揮するのである。

 私には、こうして出来てくる野菜と水耕栽培でできてくる野菜が、同等に、人が生きて行く上で本当に良質な食材となりうるとは考えられないのである。

 ヒトという生物も、種類の少ない限られた栄養だけを摂っていたのでは、つまり偏食していたのではどうしても健全な肉体と精神ができてこないと同じように、野菜や米という生物についても、自然の、できる限り多様な栄養素が供給されてこそ良質の、つまり見た目だけではなく、味も栄養も、また今日の科学をもってしても判らない他の価値をも備わった質のものが出来上がってくるのではないか、と私は考えるのである。

 いずれにしても、私のしている農法とは無関係に、それがいやしくも農業と言われるものあるためには、これだけは必ず備わっていなくてはならないという要素がある。

それは、晴天と降雨と風が周期的に安定して繰返される気候、作物の生長に適した周期的な気温変動、多様な微生物や昆虫そして小動物が棲息する土壌、毒物あるいは有害因子で汚染されていない適温で適量の水、多様な栄養を持った適量の有機物である。

 これらのうちのどれ一つ欠いても本来の農業は成り立ち得ない(甲斐秀昭・橋元秀教「土壌腐食と有機物」農山漁村文化協会p.8〜9)。言い換えればこれらが農業を成立させる「絶対条件」となるのである。

そしてこれらが、互いに相互に影響を及ぼし合いながら、健全な生態系(「生態系」については5.1節の定義参照)を構成しうるのである———さらに言えば、そうした健全な生態系と生態系とが互いに連結し、大きな自然を形成して行く。

またそうなってこそ地球を熱化学機関して成立させている作動物質としての「大気と水と養分」は順調に循環し、人間がその諸活動の中で不可避的に発生させる余分なエントロピーを、最終的には宇宙に捨て去ることができるようになるのである(第4章を参照)———。

 こうした観点からみても、生態系・土壌・気候・他生物との関係を切り離して喰い物を生産する既述の「水耕栽培」という生産方法は、掛け替えのないエネルギー資源を大量に浪費することを強い、地球の温暖化を加速させ、異常気象を頻発化させることになる、「収益」性に囚われた市場経済にのみ支配された姿でしかない。

 このことから、先の第2の問いにも答え得たと私は考える。

 以上のことからもお判りのように、農業においては、「食い物を作る」とは言っても、真の作り手はその「絶対条件」であり、それを提供してくれる生態系であり自然なのである。もっと限定的に言えば真の作り手は「土壌」なのである。それも、「その中に微小生物が豊富に棲んで盛んに活動し、十分な水、養分が作物に供給されると同時に、緩衝能が大きく、作物にとって不利な環境に陥りにくい土」なのである。それはきわめて複雑な系であり、それは、たとえば機械が古くなればそれを取り外して替えることができる工業あるいは工場生産とは違い、全取っ替えするなど到底できない質のものである (甲斐秀昭・橋元秀教「土壌腐食と有機物」農山漁村文化協会p.8〜12)。

 その中で、人間がすることあるいはできることといえば、せいぜい、やがて成長して喰い物となってくれる「種(タネ)」が持っている固有の能力・特性を最大限に発揮できるような環境条件を維持できるよう、その絶対条件がいつでも備わるように手助けするぐらいなのである。

 たとえば、その絶対条件のうちとくに水が足りない場合にはそれをこちらが補ってやる。地力が落ちてきたなら、栄養の種類が豊富な有機物を補ってやる。野菜が草の勢いに負けて日陰になるほど覆われてしまいそうになったなら、その草を除去してやる、というように。

 種を播いてから収穫までの期間は、途中、草取りや虫除け、追肥、水やり等の作業は、適宜、必要とはなるが、それまではただじっと「待つ」よりない。この時間は、その野菜にとって成長のための必要不可欠な固有の時間であって、それを人為的に短縮するなどということは絶対に出来るものではない。また、短縮しようなどと考えてもならないと私は思う。なぜなら、それを考え出し実行したところで、そのことに因る歪みが、自然や人間に対して、あるいは出来上がってくる野菜そのものに、予期し得ない何らかの形で、害として現れてくるのではないかと推測できるからである。

 出来上がってみるまでは、どれほどの物が出来るか誰にも判らない。それは既述の「絶対条件」が、同じ圃場であってもつねに変化するし、またその条件が、同じ圃場であっても、いつも過不足なく満たされるとも限らないからである。

だから、栽培者がどのように植物の生育環境を管理しようとも、出来る野菜に再現性はない。

つまり、去年良いものが出来たからといって、今年も同じ出来映えのものが出来るという保障はない。そしてできてくる野菜は、すべて、形状も、大きさも、全く不ぞろいだ。そしてそれが自然なのだ。むしろ、形も大きさも一致していること自体、不自然だ————人間も同じだ。誰も彼も、個性も趣味も、能力も同じ、ということなど絶対に不自然なのだ! これは、教育制度への絶対的教訓ともされなくてはならない————。

 農業が生み出すものというのは、本来そういう性質のものなのである。

そしてこうした栽培法から出来上がってくる喰い物は、形や大きさは不揃いであろうとも、すべて、食して安全であることはもちろん、間違いなく美味しく、また栄養価も高いものであるはずである。

 とにかく労力・時間等のコストをできるだけ少なくしながら、できるだけ収量が多くなるようにと農薬や化学肥料を多投して、規格化され画一化された農産物を栽培することは、圃場という生態系にとっても、またそれを食する人の体にとっても、害はあっても、有益となることは少ないと私は考える。

 本来の農業とは、生態系を守り、環境を守り、景観を良くし、地下水を守り、生物多様性を維持し、作動物質である「大気・水・栄養」を自然界に循環させてくれ、エントロピーの増大を防いでくれる営みなのである。

そしてこの事実こそが、人類史の中で、なぜ農業がどの国どの地域においても圧倒的長きにわたって支配的産業であり得たのかを説明しているのである。そういう意味で農業は、歴史の表面に出ることはほとんどなかったが、人類の歴史そのものを土台から支えて来たのである。

したがって、もし私たちヒトが生物として、この地球上にこれまで生きて来れたと同じくらいにこれからも生かさせてもらいたいと願うならば、本来の農業を国と社会の名実共に基幹産業とする必要があるのである。

 以上が私の考える農業の本質と言えるものである。