LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.4 この国の政治家はなぜ選挙を繰り返す度に政治家としての質をますます低下させてしまうのか

 

 今、この国では、政治家たちがますます自らの役割と使命を果たさなくなってきています。その結果、綱紀が緩み、あるいは乱れています。その政治家たちは、本来、国民のための「シモベ」であるはずの官僚を含む役人一般をコントロールしなくてはならないのにそれだけの能力も覇気も失い、そのため、役人は公務員法によって身分が守られているため、刑法に触れない限り辞めさせられる事はないことをいいことにして、本来彼らには、憲法上からも、与えられてもいない権力を闇で行使しては、自分たちの組織の既得権を守ることを優先させる行政をしています。

 そのため、国民は政治家と役人への信頼をますます失い、“この状況をどうしたらいいのか”と、日常においても、将来に対しても、ますます絶望の淵に追いやられています。そうした状況は、特にこれからの時代を生きてゆかねばならない若者たちに対しては大きな不安材料となっています。そうでなくても今後の日本は、ますます大きな困難が前途に待ち受けているのは確実だからです。

 私はこうした状態そのものが日本という国の危機だと考えます。あるいは危機に対する耐性を失わせていることだと考えます。

国際法を無視し、不法に領土の拡大を画策し、自国の支配を拡大しようとする習近平政権の中国だけが危機ではないのです。それに、これも既述してきたように(1.1節)、もはや、アメリカに頼っていればいい、という状況でもないのです。

 そこで、私の予定では、このほど第6章を公開し終えたので、拙著の目次(2020年8月3日公開済み)の第10章の「教育」の公開に移ろうかと思ったのですが、今回はその予定を変えます。国内の綱紀粛正を図り、政治家と官僚たちには、国民の絶望感をこれ以上深めさせてはならないと思い、まだ公開していない2.4節を公開しようと思います。

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 2.4 この国の政治家はなぜ選挙を繰り返す度に政治家としての質をますます低下させてしまうのか

 この問いに対する私の答えについて、その要点をまず箇条書し、その後でその理由を詳述しようと思う。その要点は8つある。

 

①政治家であったなら、あるいは政治家になろうとする者だったら、これだけはまず是非とも知っておかねばならない政治的基本諸概念すら知ろうともせず、あるいは学ぼうともせずに、彼らの先人・先輩がやってきたことを、やってきた通りにただやっているだけだからだ。

つまり、人類の歴史の中で、自由や民主主義の概念がどのような動機の下で生まれてきたのか、それさえ知ろうとしないで「政治家」ぶっている者がどんどん増えてきているのである。

 その知ろうとはしない政治的基本概念とは例えば次のようなものである。

これらはどれも、近代民主主義政治を行う上での必須概念だと私には思われるのだが。

国家、国、政治、政治家、権力、議会、最高権、政府、執行権、三権(分立)、民主主義、議会制民主主義、立憲主義憲法、法律、主権、独立(国)、自由、平等、共同体、市民、権利、人権、統治、首相、閣僚、自治、公務員、独裁、法の支配、法治主義、等々。

 近代民主主義政治を理論的に確立してきた知的先人たち、例えば、ジョン・ロックモンテスキュー、ルソーの著書を読んだことがある日本の政治家など、多分皆無に近いのではないか。

 だから、本来、国会を含めて、議会とは誰が何をするところかさえ知らない。「質問」するのを当たり前としていることからもそれが判る。

 もっと言えば「政治」とはどういうことかさえ知らないだろう。

なぜ国会は国権の最高機関とならねばならないか、国権の最高機関とはどういうことか、それも知らないだろう。三権分立の意味も知らないだろう。それは、執行機関でしかない政府の内閣が国会しか決められないことを「閣議決定」をすること、それも国会に先駆けて「閣議決定」することに異議を唱える政治家が与野党政治家の中には誰もいないことからも判る。

 さらに言えば、そこで閣議決定される内容も、政治家————その場合総理大臣と閣僚————が国民から信託された権力を正当かつ公正に行使して作った法案あるいは政策案ではなく、ほとんど全て公僕でしかない官僚にその移譲すべからざる権力を丸投げして作らせたものをただ追認するだけのものであることから、「権力」の意味も、その成立根拠すら知らないことも判る。

こうしたことから、この国の政治家は、政府の正しい意味やその役割や使命も知らないのだ。

 とにかく、こうしてあげればきりがないが、この国の政治家は、本来の民主政治はどのように行われるべきかも知らずして、公式には民主憲法を取り入れて70余年経った今もなお、彼らの先人がやってきたことを、やってきた通りにただやっているだけなのだ。

 であれば、選挙を繰り返すたびに、政治家としての質が低下するのは当たり前であろう。

 というより、もはや彼らは政治家ぶってはいるが本来の政治家ではなくなっている。後述内容からそれが一層鮮明になると思われるが、彼らの実態は、その多くがむしろ「政治屋」であり「族議員」、「利権漁り屋」の域を出る者ではなくなっている。そして明らかに税金泥棒と化してもいる。

 実際、現役の政治家の誰でもよい。国会議員であろうと、都道県議会議員であろうと、また市町村議会議員であろうと、試みに、次のようなことを直接問うてみることを是非お勧めする。

「そもそも政治とは何か」、「選挙は何のためにするのか」、「公約は何のためのものか」、「政治家の役割と使命は何か」、「議会の役割とは何か」、「政府の役割とは何か」と。あるいは「権力とは何か、また権力の成立根拠は何か」、「法とは何か」、「民主主義とは何か」、「独裁とは何か」、「公僕の役割とは何か」、等々と。

 まず、誰も、どの質問事項に対しても、ドギマギするだけで、まともに答えられもしないだろう。

もっと突き詰めれば、民主主義という政治制度を生んだ歴史的背景や、世界の人々が時には命がけで守ろうとしている自由という概念の意味とその価値についても、まともに答えられる人はいないだろう。

 なお、既述したことであるが、ここでも、私が使っている「知らない」とは、次の意味であることをお断りしておく。

それは、現実の政治の場や日常の場において、いつでも、どこででも、その言葉や用語が意味していることを無意識にでも、実践的に活用できなかったなら、それを知っているということにはならない。

 

②どんな政党も、政党である以上、政権を奪取するという気迫を失ったなら、そして政権に対抗しうるオールターナティヴな(もう一つの)政策案や法案を立案して国民の前に提示し得なかったなら、政党を結成している意味がないということ、またそんな状態を常態化させたなら、権力を所持する者を必ず堕落させ腐敗させもするということを知らない者がどんどん増えてきているからだ。

 政党政治が主流である以上、与党と野党とが存在する。

ではその野党の存在意義はどこにあるのか。

それは政府を作っている与党に対して、あるいは政府と一体となっている与党に対して、独自の政策案あるいは法案をもって対峙し、その様を常に国民の前に明らかにすることにある、と私は考える。

それは例えば、“自分たちだったら、現状を救うために、こうした政策を法律の裏付けと予算の裏付けを持って作り、このような方法で実行し、実現してみせる”ということを明らかにして。

 ところが、この国の政治家、とりわけ野党には、その自覚も使命感もあるようにはとても見えない。既述した「質問」を通じて、与党のやっていることに対して批判したりケチをつけることだけだ。

 しかしそんなことは誰だってできる。

国民が求めているのは、政策立案能力であり、法案作成能力だ。それも与党の政策の不十分さや欠陥を補うものだ。

 ところがこの国では、国会議員だったら誰もが、毎年、一人当たり、「立法事務費」として780万円を受け取っているのに、議員立法している者など皆無に近い。ほとんどが政府提案の法案であり政策案だ。なのに、“私は議員立法はしませんでしたから、この立法事務費は受け取るわけにはゆきません。国庫にお返しします”と返納した者など誰一人いない。

 とにかくこの国の野党には、いつ自分たちが政権を取っても、現政権よりもマシな政治を行えるという政策を常日頃から練っているようには到底見えない。

 結局そうなるのは、国民生活を現場にて克明に見ていないからだろう。自分は国民から選ばれた国民の利益代表であるとの自覚がないのだ。それと、長年の他者への依存心————例えば、アメリカや官僚・役人への依存心だ。彼らがなんとかしてくれる、という————が身についてしまっている結果だと私は思う。国民から選ばれた国民の代表として、この国のゆくべき道、目指すべき目的地は自分たちが決めるのだ、という愛国への気概、独立への気概がなさすぎるのだ。

 だから万年野党のままでも平気なのだろう。それ自体、国民を裏切っていることにも気づいていない。

 

③この国の政治家という政治家は、国会議員も都道県議会議員も市町村議会議員も、誰も、議会はあくまでも法律や条例を制定する立法機関だということすら、今だに知らないことだ。

それは議会を既述した「質問」の場のままにしていることから判る。「代表質問」、「一般質問」と呼ばれるアレだ。

それも、事もあろうに、本来は自分たちが議会で法律や条例を作り、それをその通り執行するようコントロール、つまり統括して指示しなくてはならない相手である政府の側の者(総理大臣や閣僚、時には官僚)に向かってである。

 つまりこの国の政治家という政治家は、「三権」の意味も区別も知らなければ、健全な民主政治を行う上ではそれらは常に互いに「分立」していなくてはならないという、近代西欧が議会政治の中で掴み取ってきた知恵であり教訓でもある原則も知らないのだ。

それでいて、政治家をやっているつもりになっている、ということである。

 議会はあくまでも「議論」や「論戦」の場であり、「立法」の場である。その意味で「立法府」なのだ。決して「質問」の場なのではない。

 ところが実態はこんな調子である。

“あれはどうなっているのか?”、“これはどうなっているのか?”。あるいは“総理のご見解を伺います”。

 ところが、そうした議会のあり方に対して、“議会はこんなことをしている場ではない。立法する場ではないか”と異議を唱える政治家は誰もいない。むしろこんな質疑応答をすることが国会の役割であると錯覚している風であり、それが「当たり前」と思っている風でさえある。

しかも、そうした「質問」をすることを、議会の者は、議会の執行機関への「チェック機能を果たしていること」と錯覚してさえいる。

 こうした場合の本来のチェック機能を果たすとは、自分たちが最高権としての議会で、立法機関としての役割を果たして定めた政策なり法律を、政府が執行機関としてちゃんと、その通り果たしているかどうか、果たしていないとすれば何が原因で果たしていないのか、なぜ果たさないのか、その辺の理由を、主権者である国民の前に、国民が納得ゆくよう、「丁寧に」といった情緒的にではなく、事実のみに基づいて論理的に説明させ、今後はその原因をどう取り除き、どう目的を果たすのか、その辺も国民が納得ゆくように論理を尽くして説明させることなのである。

 この国の議会の政治家たちがやっていることは、国会であれ地方議会であれ、決して移譲してはならない国民から信託された権力を官僚・役人に丸投げし、彼らに作ってもらった法律(条例)や政策・予算について、思いついたまま突っついているだけなのだ。

 

④しかも、その議会での「質問」の仕方やあり方も、議会を「言論の府」とするどころか、「儀式場」化させるだけの仕方でしかない。

 ところが、そうした状態に異議を唱える政治家も未だ誰もいないことである。

それに、日頃、政治のあり方を研究しているはずの政治学者も、権力の見張り番であるはずの政治ジャーナリストも、その異様さや異常さに気づかないのか、放置したままで、「常識」化させることに一役も二役も買っていることだ。

 議会という場を儀式場化させているとは、次のような意味である。

質問する者の順番はあらかじめ決められている。質問時間も決められている。

質問内容はあらかじめ通告しておかねばならない。それは、政府側の答弁者が即座に、そしてスムーズに答弁できるような想定問答集を、関係する府省庁の担当官僚が質問当日の朝までにこしらえておけるようにするためだ。

質疑応答の過程で、答弁者は替わり得ても、第三者が質問することは許されない。

 ところがその質問の内容たるや、その時、この国の国民にとって、またこの国の今と近未来にとって、政策面においても財政面においても法律面においても、今すぐにも解決の目処をつけておかなくては近い将来大変なことになることが予想されるという意味での重要度と緊急度が最も高い内容の質問などはまずない。というよりそうした類の質問は全てさけられてしまい、「先送り」されてしまう。質問される内容は、そのほとんどが、その時たまたま発覚したり浮上したりしてきた問題だ。つまり、国と国民にとっての優先順位ははるかに低いものだ。そういう意味で、どちらかといえば、「どうでもいい」内容の質問ばかりだ。

その上その時の質問者の質問の仕方も、どちらかといえば、その質問者の支持者向けの、“皆さんに支持されて、私は議会でこれだけ活躍しています”と見せるための演技、ポーズ、ゼスチャー、パフォーマンス、といった感じだ。

 例えば次のような最重要な問題は、まず質問されない。

貯めに貯めてきた超巨額の政府債務残高について、将来世代や未来世代にツケ回しするのは道徳的ではない。それに彼らから希望を奪うことだ。そこで、借金を作ってきた現在世代の責任において大至急その額を減らすにはどうすべきか、といった質問。

 あるいは少子高齢化を食い止めるためには、若者たちに将来への希望を見出せるようにすることだと考える。それを可能とする社会とはどのような社会であると考えられるか。またそれを実現するには、私たち政治家は、そして政府は、その役割と使命において、何をどうすべきと考えるか、といった質問。

 では、立法府である議会の政治家はなぜこうした質問をしないのか。

それは、前者のような質問を議会で本気で取り上げたら、それは、結局は国民に新たに大きな負担を背負ってもらうことになることが想像できるからであり、そうなっては、これまでの自分への支持者の支持を失ってしまうと恐れるからであろう。それは言い換えれば、次期選挙では当選できないことだからだ。

 一方後者の質問は、それを質問する自身のみならず政治家一般が、これまでのような怠慢ではいられなくなり、ものすごい勉強をしなくてはならなくなり、また今まで、政策提案など具体的にしたことのない彼らにとっては、若者たちが将来に希望を見出せるような社会のあり方など低減できる自信もないからだ、と私は推測する。強いられることが推測できるからだ。

 要するに、どっちにしても愛国心がないからだ。あまりに無責任だし、あまりに自己に甘すぎるからだ。とにかく今までやってきた通りにやっている方が楽だからだ。

 しかしだ。我が子を愛している親は、我が子に自分の代で作った借金の肩代わりを平然と期待するだろうか。

 ともかく、そんな低レベルで低次元の質問内容についてのやりとりが事前のスケジュールに従って「粛々と」進められて行く。そして答弁する者は、その日の朝までに関係官僚が書いた想定問答集から適当な部分を拾い出し、それを棒読みするわけである。まさに茶番劇でしかない。

 中には、その茶番劇を一層劇的に見せてくれる輩さえいる。その作文中に用いられている漢字すらまともに読めない者がいるのだ。それも何と、副首相兼財務大臣で、元宰相と呼ばれた者の孫だ。

 こんな議場の状態を、例えば「公共放送」と自任するNHKは「論戦」などと表現する。NHKも、「議論の府」とは何か、論戦あるいは議論とは何をどうすることか、それさえ知らないのだ。

ところが、議場でのその茶番劇を、一層決定的にしてしまうのがいわゆる国会対策委員会という政党間の密室の談合である。「透明性」の確保とは正反対の、不公正で、無所属あるいは無派閥で、ごく少数あるいは個人で動く政治家を完全に無視し、「代表の原理」や「審議の原理」(山崎廣明編「もういちど読む山川政治経済」山川出版社P.12)も知らないことを露呈した行為だ。

 本来、議論や論戦ともなれば、議論の発展の方向がどうなるか事前の予測がつかないものである。ところが、国会対策委員会は、その儀式の方向、結論の方向まで、そこに集まった各政党の国会対策委員なる人たちによって事前に決定してしまっているのである。

 やはりこれも、議会とは何か、議論とは何か、この国の政治家は誰も知らないのだ、と言うしかない。

 

⑤政治家は、ある特定の目的実現のためという制限付きで国民から信託された権力を、したがってそれはその人本人だけが行使すべきものであって、絶対に他者に移譲してはならないものなのに、それを、国民のシモベである役人に丸投げしては、法案づくりや政策案づくりを依存するばかりだ。それだけではない。公僕の作ったそれらの法案や政策案に追随するばかりで、各自が選挙時以来掲げて来た公約を形にするための議員立法などは誰もしない。

 ところがそれら一連の権力の丸投げ行為と政策の追随行為は彼らを信じて一票を投じた国民を裏切っている行為だと判断する力もなく、むしろそんな状態をも常態化させてきていることだ。

 要するに、この国の政治家は、よく“政治は権力だ”などと、政治あるいは政治家にとって権力は切っても切れない関係にあるとは言うが、ではそもそもその「権力」とは何か、そしてその権力は、何に根拠を持つか、つまり権力が権力として成立する根拠は何かという、民主政治を実現させる上で絶対に欠かせてはならない基本中の基本すら知らないのだ。

そしてこの国の彼らは、それでも政治家をやっているつもりになっているのである。

 だから、この国の政治家は、誰も、日本国憲法も官僚には権力は与えてはいないのに、官僚が、そんな権力を、どのように行使しているかということについても、全く無頓着なのだ。

そして、それゆえに苦しめられ、また惑わされるのが主権者である国民なのだ。

 

⑥とにかく、この国、特に国会議員の歳費を含む特典と特権の金額換算した総額としての議員報酬が法外と言えるほどに高すぎる。それは欧米を含めた世界のどこの民主主義国の国会議員と比べてもだ。

 それゆえに、この国の国会議員のほとんどは、政治家となる主たる目的は、政治家としての本来の役割と使命を果たすためではなく、上記議員報酬を得ることとしている者が大多数だということである。それはこれまで述べてきたことからも裏付けられる、と私は考える。

 しかも、これも既述したように、本来の役割と使命など全く果たさないのに、そして議会は制度を定められるところであるということだけは利用して、そんな法外な報酬を受け取り続けられる制度を温存していることだ。たとえどれほど多くの国民が大災害で悲惨な目にあっているときでも、また新型コロナウイルス禍にあって、どれほど多くの国民が経済的に窮地に陥り困窮していても、それとは無関係に、である。そしてその議員報酬の総額はおよそ2億円だ。

 ただし、共産党議員だけは政党助成金4500万円は受け取っていないから、その分だけは少ない。

 その2億円の内訳をみると次のようになる(平成24年9月10日発売の小学館週刊ポスト」)。

 表に現れてきて公式に知られている「歳費」と呼ばれる議員報酬は、一人およそ1556万円(衆参両院議長、内閣総理大臣はもっと多い)である。

これだけでも私たち一般国民からは大変な額なのに、それは政治家一人当たりが享受している総額から見ればわずか7.8%に過ぎない。

ただしそこで言う総額とは、政治家が受け取っている歳費を含めての特権や特典すべてを金銭換算した額、という意味である。

 ではその他のものはどうなのか。

 金額の大きい方から行くと、選挙経費4622万円————現役の国会議員は黙っていてもこの金額は受け取れるのだから、選挙でも、現役議員が圧倒的に有利となることがこれで判る————、政党の国会議員数に応じて受け取れるようにした政党助成金の分け前4500万円(ただし、日本共産党だけは、これを受け取っていない)。公設秘書給与(3人分)2586万円。議員会館家賃2377万円。文書通信交通滞在費1200万円。都心の一等地にただ同然で居住できる議員宿舎の年間家賃相当分、年840万円。議員立法など既述のとおり、自らはほとんどしないでほとんどは官僚に任せっ放しなのに、受け取っている議員立法事務費780万円。ボーナス555万円。公用車/国会と議員宿舎間の送迎公用マイクロバス226万円。議員会館での光熱費152万円。議員会館備品代113万円。無料航空券(クーポン)103万円。JR無料パス78万円。旅費55万円。支給される弔慰金・特別弔慰金8万円。議員会館通信費2万円、となる。

 これらを合計すると、実に、1億8205万円という額に及ぶ。それは公になっている歳費の何と11.7倍に近い。

これに歳費を合わせると、およそ2億円(より正確には1億9761万円)という額になる。

 こうした数字を彼らのやっていることの実態を思い浮かべながら知る時、そして予算編成ももっぱら役人任せできたがゆえに、この国の政府債務残高、いわゆる国の借金の額が天文学的な額となってしまっていて、対GDP比がダントツで世界最悪となってしまっていることを知る時、また「身を切る改革」などと言いながら参議院議員定数を6も増やしてしまっている実態を知る時、もはや彼ら国会議員をして、文字通り税金泥棒あるいは詐欺師あるいは偽善者と読んでも、決して不当ではないと私は思う。

 ここで参考までに、海外での国会議員の報酬を見てみよう。

日本の国会に当たるフランスの国民議会の議員の歳費と秘書を雇う費用としての議員報酬は、一ヶ月当たり、一人、13,049ユーロ、日本円に換算して1,565,880円、およそ157万円である(2017年5月現在の為替レートにより、1ユーロ=120円とした場合)。

フランスの国会議員は、この報酬で、すべての政治家活動をしなくてはならないのである。

 一方、スエーデンの国会議員の同じく一ヶ月当たりの全議員報酬は、およそ60万円(?)と聞いている。

 これから見ると、日本の国会議員は、一ヶ月平均、フランス国会議員の10倍ものお金を国民の税金からふんだくっていることになる。なんだかんだと屁理屈を付けて。しかも、政治家としての役割や使命など全くと言っていいほどに果たしてはいないのに、である。

 ちなみに、選挙区の支持者の冠婚葬祭に祝電や弔電を打ったり、あるいは花輪を送ったりすること、また地域の行事に顔を出したりすることは、本来政治家としてすることではない。

 本来、議会の政治家の最大使命は国民との約束である公約を形あるものとして実現してみせること。一方、政府の政治家の最大使命は、議会が決めた国民の声を忠実に執行することである。それ以上に大きな使命はない。

両者は、そのことにおいて、全能力、全エネルギーを注ぎ込まねばならない。

 また、自ら掲げる公約をより適切なものとするために、常に現地の国民の声に真摯に耳を傾け、それを速やかに汲み上げ、その声に応える政策なり法律という形にすることである。また議会では自分の公約を通すために、議場に居並ぶ他の政治家を論理で説得しうる弁論術、ディベートを学ぶことだ。そして政策や法案を作る能力を磨くことだ。

 そうしたことができずに、議会で実績を示し得ないから、選挙時でもないのに、年がら年中、街や街路のいたるところに顔写真入りの、しかも訳のわからないスローガンを掲げたポスターを立てては、売名行為を続けなくては不安でいられなくなるのであろう。

 そう考えれば、フランスやスエーデンの国会議員の議員報酬が妥当であることが、すぐにも判る。彼らはその報酬を持って本来の政治家の務めを果たしているのだ。どうして2億円も要るというのか。

 もし、フランスやスエーデンのみならず、アメリカ、ドイツ、イギリス、カナダ、その他世界の全ての民主主義議会制度を取っている国家の国会議員が日本の国会議員のこの実態を知ったら、間違いなく、みな、驚愕して腰を抜かすであろう。 

 

⑦現行の選挙制度そのものに欠陥がある。それも本質的な欠陥が、である。

 まずは立候補を望む者にとって不公平であることだ。

 そしてそれぞれの候補者が掲げる公約については、その中身の違いや価値が有権者に認識できるようにはなっていないこと。だから適当に書いても、誰もその相違は識別できない。

 さらには有権者にとっては、とにかく立候補した者の中の誰かに投票するしかない制度になっていること。

 こうしたことから、現行の選挙制度には、本当に民意を代表していると主権者である国民が思える立候補者は当選しづらいとか、反対に、民意を真の意味で代表しているとは思えない者が当選してしまう可能性が高いという本質的欠陥がある。

 なお、ここで言う選挙制度とは必ずしも国政レベルで言う現行の小選挙区制や比例代表制に限った話ではないし、またその両者を併合させた制度に限った話でもない。今日この国が国政選挙でも地方政治選挙でも同様に採用している選挙制度のことである。

 そこで、上記のことをもう少し具体的に述べるとこうなる。

 その本質的欠陥の第一。

 それは、お金がかかりすぎること、あるいはお金がある者しか立候補できないこと、そして特に国政選挙の場合には、現役の政治家であるというだけで選挙経費として4600万円ももらえる制度になっていて、不公平であることである。

 国政レベルであれ、地方政治レベルであれ、政治家としての資質や能力などなくても、知名度が高く、金があり、あるいは強力な支持団体を後ろ盾に持ってさえいれば、あるいは親や祖父が政治家として残してくれた地盤・看板という財産さえあれば、さらにあるいは、そのときたまたま政治家であった父親が死んだとかで有権者の同情を集められたなら、それだけで、公約の内容などほとんど無関係に当選できてしまう可能性の高い性格を持っている、ということだ————尤も、当選してしまえば、その公約も簡単に反故にしてしまうのであるが————。

 また、コロコロと政党を乗り換え、平気で相乗りするような政治的無節操な者でも、さらには、選挙に有利となれば有権者を裏切ってでも住む場所を変えてしまうような者でも、また、政治哲学もないまま、そのときの時流に合わせた思いつきの公約しか並べられないような者でも、さらには、本音は自分を支持する団体や人々のためしか働こうとは考えていないのに、いかにも国民一般の幸福の実現を考えているかのように、人前で声を大にしてもっともらしく饒舌にしゃべることしか能力のない者でも、特定政党の公認さえ得られれば、ほとんど当選できてしまい、見かけだけは政治家になれてしまうという性格を持っているということである。

 これは裏返せば、現行の選挙制度は、無名であったり、知名度が低かったりしたなら、どんなにこの国や地域の現状を憂い、国民の幸せの実現を思って、明確で具体的な政策を掲げ、人格的にも優れていようとも、政治家にはなれない、という性格の選挙制度であるということだ。

 こうした状況の中で登場して来るのが、行政組織からの官僚、財界組織からの官僚、大労働組合そして大宗教団体の支持を得た者たちであり、二世議員とか三世議員と呼ばれる者たちであり、著名なタレント、スポーツ選手等である。

 実際、今やこの国の国会議員は、二世、三世議員と政府官僚のOB、財界官僚のOBと大労働組合幹部と宗教団体関係者、農業団体関係者を合わせると、国会議員定数(現在722名)の80%を超えると言われている。

 当然、そのようにして「当選」した者には、一選挙区の、あるいは特定集団の代表としての意識だけで、国民全体の代表であるという意識などはないだろう。

だから彼等は、当選後、それらの支持団体から、本質的には賄賂でしかない「政治献金」を受けても平然としている。あるいは特定の府省庁や業界の利益を代弁する、いわゆる「族議員」となる。

 では二世や三世議員の場合はどうか。

彼等は普通、自分の親や祖父の影響の下に幼少期を過ごして来ている。しかもその祖父は、多くが、明治憲法(欽定憲法)の下に政治家をして来た人々だ。親は、敗戦後、アメリカの統治下で政治家をやってきた人たちだ。いずれも、そのほとんどは真の民主主義や議会制民主主義も知らないで、それを「政治」だとして生きてきた人々だ。

そんな環境下で育った二世議員や三世議員は、「三つ子の魂、百までも」の通り、幼い頃から頭に叩き込まれた古い政治観はなかなか捨てきれないだろう。したがって、彼らは、政治家になっても、真の民主主義政治の実現に対しては抵抗勢力になりかねない。

 またタレントやスポーツ選手だった者の場合はどうか。

彼らの大多数は民主主義や権力の意味一つ知らないで当選してしまう場合がほとんどであろうから、たとえ特定の既存政党の公認候補として当選できても、その党内では○○○チルドレンとなったりして、ただ数として存在しているだけで、古参の政治家に物も言えず、ただ操られるだけの存在になるしかないのである。

 本質的欠陥の第二。

 各候補者が掲げる公約の中身の違いが有権者に認識できるような選挙運動を義務付けるものとはなっていないことである。候補者同士が国民の前でそれぞれの公約について論戦し合うこともない。せいぜい単独で、明治期以来の「立ち合い演説会」をする程度だ。あとは、ただひたすら街宣車を連ねて、街の通りを走り回り、候補者の名を連呼して回るだけだからだ。

 と同時に、有権者にとっては、“本当は今、この国、この地方にはこうした政策が必要なのだ”と切望しても、そうした内容を公約として掲げる候補者がいない場合には、とにかく、棄権しないためには、立候補した者の誰かに一票を投じるか、白紙で投じるかしなくてはならないという、選択肢の非常に狭い制度になっていることである。

 本質的欠陥の第三。

 では、選挙制度小選挙区比例代表並立制に限ってみるならば、それは選挙制度として、次の本質的な欠陥を持っていることである。

 それはたとえば、既存大政党に圧倒的に有利な制度でしかないという点だ。そして膨大な数の死票を生んでしまう制度だということだ。

 実際、たとえば、得票率が比例代表で28%、小選挙区で43%という過半数をはるかに下回る得票率でも、全議席の8割の議席を獲得でき、その結果政権を執ってしまえるような制度なのだ。ということは、比例代表で72%、小選挙区で57%の票を投じた人々の意思が無視されたままでも政権が執れてしまう制度であるということである。

これでは、もしこのままで政権が取れてしまったとしても、つまり司法が憲法違反であるゆえ選挙結果は無効であるとしなかったとしても、その政府は断じて国民を代表した政府とは言えない、となる。

 そしてこのことは、 “一票の重みが憲法違反の状態にある”ということを問題とする以前に、この選挙制度自体が、民主主義の実現を阻んでいる制度である、ということだ。

 実際、この国の現行憲法は、選挙結果がそれだけの死票を出しても、また半数をはるかに下回る得票率でも政権を執れてしまう選挙を無効だともしていない。

これはこの国の現行憲法が、民主主義政治の実現のためには、大して役には立っていない、というより、欠陥憲法であることを示すものである。

 そもそも小選挙区で落選した者が、比例選挙区で復活当選してしまうなどということ自体矛盾している。こんな単純明快な矛盾すら、現行政治家は判断できなくなっているだ。

 欠陥の第四。

それは、この国の選挙制度は、国政選挙でも地方選挙でも、選挙は既述した目的のために行うのではなく、ただ決められた定数の中で、単により多く得票した者を当選者とする、という程度のものであることである。つまり立候補者の有権者への義務として最も大切な、各候補者が掲げる政策案である公約について、各候補者間で有権者の前で論戦し、相互の公約間の重要度の違いや中身の違いや実現性を明確にするということをせず、ただ街宣車を連ね、自分の名前を連呼するだけで、あるいは自分だけの選挙演説会を開くだけで、選挙期間を過ごしてしまう、という制度であることだ。

 だから必然的に、候補者が訴える公約なるものは、かねてからの自分の政治的信念を形として表そうとする政策案ではなく、そして誰の公約も具体性など全くと言っていいほどになく、実現性や実現方法なども一切検討されないものとなる。

むしろ公約の中身は、そのときたまたま人々の関心をさらった話題とか争点となったものを拾い上げただけのものとなる。それは所詮は思いつき程度の域を出ない。

 こうした本質的な欠陥を抱えているにも関わらず、現行の選挙制度については、国会議員は、例えば、定数について◯増□減などといった、憲法に抵触しないギリギリの範囲の変更をするだけで、本質的な変革は何一つせず、これまでの状態を常態化させてしまっていることだ。

 要するに、この点でも、この国の政治家という政治家は、選挙とは何か、何のためにするのかを知らないということであり、したがって選挙制度はどうあるべきかということについても考える力がないということである。

 

 それに、この後すぐにその理由を述べるが、各候補が掲げる公約については、誰も、最初からそれを議会で政策なり法律として実現しようなどという気持ちなどはなく、“選挙だから、仕方がない”ということで、間に合わせ程度に考えたものでしかない、と私は断定する。

 そうなれば、それをただ聞かされる有権者は、公約間の相違など全く判別できない。それは、

有権者は誰に投票したらいいのか、見定められなくなってしまうことを意味する。

 こうして、結局というか必然的に、「カッコいいから」、「知名度が高いから」、「知人友人から頼まれたから」等々といったことが投票基準となってしまう。したがってその選挙は、国の中央でも、地方でも、“今までやって来たことだからやる”、それも“今まで通りやる”という程度の域を出るものではなくなる。

今この国が、あるいはこの地方が根本から解決させておかねばならない政治的最重要課題を集中的に、しかもその解決方法までを具体的に表した公約を掲げている候補など皆無だ。

したがって、そうした公約も、当選してしまえばそれでお終い。後は知らぬ存ぜぬ、だ。

 なお、各候補が掲げる公約については、誰も、最初からそれを議会で政策なり法律として実現しようなどという気持ちなどはなく、“選挙だから、仕方がない”ということで、間に合わせ程度に考えたものでしかない、と私が断定する根拠は次のものである。

 それは、立候補者が掲げる公約を議会で政策なり法律として形にし、それを執行機関である政府に本当にその通りに執行させようとしたなら、それは、現在、この国の政府では、それをほとんど不可能とさせてしまう大きな障壁が厳然とある、ということを各候補者は多分誰も知っているだろう、ということに因る。

というのは、2.2節からも大凡推測はついたであろうし、またそのことは後述もするが(2.6節)、この日本という国は本物の国家ではないからである。そして民主主義は依然として実現などしておらず、実態は相変わらず官僚独裁の国だからである。

言い換えれば、この国の中央政府の首相もと地方政府の首長も国あるいは地方の舵取りなど実際にはしておらず、官僚または役人に行政のすべてを実質的に任せっ放しにし、官僚(役人)独裁を許しているからだ。したがって、議会で各政治家の公約を公式の政策なり法律としてたとえ議決しても、それらが執行機関に回って来たとき、官僚や役人そして彼らの組織にとって、その既得権益を妨害あるいは縮小するような性格のものと判ったなら、官僚や役人らはその組織を挙げてその政策や法律の執行についてはサボタージュし、執行の実現はほぼ絶対的に不可能となってしまうからだ————かつて民主党が政権を取った時、政権公約マニフェスト)を実行しようとした鳩山初代首相が、官僚組織の抵抗とサボタージュに遭い、結局、辞意を表明せざるを得なくなった事実を思い出すべきだ————。

 そういう事情があることについては、先輩諸氏にいろいろ見聞きして智慧をつけて来た立候補者が知らぬはずはない。

だから、畢竟、思いつきの公約となってしまうのだ、と私は推測する。

 したがって、逆の言い方をすれば、立候補者には、この国のそうした民主主義の敵である官僚独裁を打破し、この国を本物の国家となし、民主主義政治を実現してやろうという意欲も覇気もないということなのである。やはり、愛国心もないということだ。

 

有権者の側も、選挙を繰り返す度にこの国の政治家の質をますます低下させてしまう重大な原因を作っていることである。

 現状では、自分に与えられた一票を自分がこれはと思う候補者に投じる「選挙権」を行使すればそれでお終いとしている人が大部分だ。むしろその瞬間からこそ「参政権」という政治に参画することのできる権利を「主権者」として行使してゆく義務と責任が自身と国家・社会に対して発生しているということを理解していない。

 それは、自分が一票を投じた候補者が当選した後、彼が掲げていた公約を、自分が彼にだけ信託した権力を、議会においても、また政府に対しても、それを他者に移譲せずに公正かつ正当に行使しながら、約束通り果たしているかどうかをチェックする義務と責任が発生するからだ。そしてそれが、「国家の政治のあり方を最終的に決めることのできる権利を所持する者」という意味の主権者の役割と使命でもあるのだから。

 それに「選挙権」と言い、「参政権」と言い、それらの権利は黙っていて与えられたものではない。先人たちが「民主主義」の実現のために、命がけで獲得してきてくれた、かけがえのない、また他の誰にも譲ることのできない権利なのだ。

  “選挙だから”、“親戚や知人に頼まれたから”、“あの人、格好いいから”、“みんなが行くのだから自分も行かなくては” というのは投票行動の判断基準にはならない。あくまでも候補者が掲げる公約の中身とその適時性・実現性そのもので判断しなくてはならないということを忘れている人が多すぎる。

 

 以上私は、この国の政治家が選挙を繰り返す度に政治家としての質をますます低下させてしまう理由について私の考えるところを述べて来た。

しかし、これらの理由すべてを通して見たとき、日本の政治家についてこうした状況を生み出し続けているのは、結局のところ、この国の中央政府の先の文部省、そしてそれを名前だけ変えて中身をそっくり引き継いだ今の文科省の学校教育のあり方が持っている本質的欠陥なのではないか、と思っている。

 すなわち、個々人の個性や能力、そして人間としての基本的権利を尊重する教育をしないことである。自由と民主主義の意義と価値をしっかりと理解できるまでに教えないことである。自分の考えを他者の前で論理的にしゃべる訓練をさせずに全く受け身の授業しかしないことだ。

 またその教育が、今や世界に通用し得ない若者、あるいは世界に遅れをとる若者を次々と大量生産しているのではないか、とも推測するのである(第10章を参照)。

 

6.7 僧侶と神主に求められる使命と責任

 

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6.7 僧侶と神主に求められる使命と責任

 昨今、この国では、「終活」とか「人生の終い方」というような奇妙な言葉が世の中を飛び交っている。

その言葉の意図するところは、人間は、一人ひとり、いよいよ自身の人生が大詰めという段階を迎えたなら、自分で自分の最期をどうまとめるべきかということを考え、その時を迎えた方がよい、ということなのだろう。

 しかし私は、それはまことに奇妙なことだ、と思う。

なぜならば、この国では、実社会ではもちろんのこと、とくに社会に出るための土台を築くべき学校時代でも、生きることの意味についても生きる目的についてもきちんと教えてきた試しはないからだ。またそれを考えさせる教育をしてきた試しもないからだ———勉強する本当の目的、究極の目的はそこにあるはずだと私は思うのだが————。

つまりこの国の政府文科省は、一貫してそうした学校教育をしてきたのである。むしろ、一人ひとりの個性や能力を生かしまた伸ばそうとするのではなく、人生を人間らしく生きる上では全く役にも立たない知識を、これもあれもと覚えさせるだけの画一教育をしてきただけなのだ。そして圧倒的多数の日本人は、そんな状態で現実の利害渦巻く社会に出て、生きてゆくのである。

 人々にはそうした生き方をさせておいて、死を間近に控えたときになって、人生の終い方を準備せよ、最後のゴールをどう迎えるべきか心しておけ、と言うのはオカシなことだと私は思うからである。

 もちろん自己の人生の終い方を考えておくことは重要なことではあろうが、それだったら、やはり人生のスタートに当たって、せめて人生の基礎を築く時期に、「人は何のために、誰のために生きるのか」を先ずしっかりと自分の頭で考え、判断することのできる教育を、国家として行うべきではないか。そうした教育がなされ、その教育を土台にして人生を生きたとき、その最後の段階で、「人生の終い方」を問うのであったなら、それはそれで意味も位置付けもはっきりするからだ。

 いずれにしても、ここで私たち日本国民は、宗教家ももちろん、仏教という宗教も神道という宗教も、またキリスト教やその他の宗教についても、宗教とは本来何なのか、と根本から問い直してみる必要があるのではないか、と私は思う。

なぜなら、宗教は、どんな宗教であれ、つまるところ、人間としての生き方を教え導いてくれるものではないか、と私は思うからだ。

 ある特別な能力のある人、難行苦行の修練を積んだ人でなくてはそれは判らないものだとするとしたら、それは本来の宗教のあり方としては間違っているし、それは宗教家の傲慢さだとさえ私は思う。

そしてその態度は、宗教そのものを社会一般から引き離し、私たち一般人の日常生活と切り離してしまうことを意味するのである。

 それに、そもそも、子供が誕生した時には神社で、結婚式はキリスト教会で、葬式はお寺でという発想そのものが、すでに宗教を、その何かを考えずに、形骸化していることではないのか。そしてその態度こそ、本来あるべき宗教を汚しているのではないか。

最近、よく、「癒し」「ヒーリング」という言葉が聞かれるが、果たして宗教をその程度に見ていて、それで、人は、本当に心は癒され、また救われるものなのだろうか。

 

 ところで、自分の親の葬儀を出した時もそうだったし、また自分の兄、親戚、友人、知人そしてお世話になった方々の葬儀に列席あるいは参列させていただいた時もそうだったが———ただしそうした葬儀は、すべて仏式で行われたものであるが———、そうした葬儀に臨む度に、私は、そこの葬儀場で疑問に思わされ、感じさせられて来たことがある。

それは、お坊さんたちが次々と種類を換えて唱えてくれるお経の文言そのものが、少なくとも私には難しすぎて、何を言っているのか、何を意味しているのか、さっぱり判らないと感じられたと同時に、なぜこのようなそれを聴く者にはさっぱり意味のわからない文言で読経をするのだろう、果してそのような読経をすることにどれだけ意義があるのだろう、ということである。

 そしてさらにこうも思った。聞くところによると、それが正確かどうか自信はないが、葬儀でお坊さんが読経する目的は、故人の魂が、行くところなくさまよっていることなく、済度して、「この世」から「三途の川」を無事に超えて、「あの世」=「黄泉の国」=「冥土」へと心安らかに旅立てるように「引導」を渡すことだとのことであるが、それからすると、お坊さんが読経しているのは、故人のために、その故人に向って語りかけているということになる。

 しかし仮にそうであったとしても、永遠の眠りについた故人はその読経を聞いてその意味がわかるとでもお坊さんたちは言うのであろうか。

 

 そもそも、お坊さんを除いて、あの経文の意味が判っている人、理解できて聞いている人は、過去、葬儀に参列したことのある人のうち、何パーセントいるだろう。

 確かにその読経に対して、“有り難い”と思って聞き入っている人も中にはいるかもしれない。

でもその場合も、その文言の意味は多分わかってはいないのではないか。

つまり、ほとんどの人はそのお経の文言の意味も判らないままに、厳粛なその場の雰囲気を乱さないようにと静かに聞き入っているだけなのではないか、と私は思ったのである。

 このように考えてくると、結論として、そのような読経は、誰にとっても、ほとんど意味はないのではないか、と私には思えてくるのである。つまり、いかに葬儀は儀式であるとは言っても、まったく形式的なことをしているだけになってしまうのではないか、と。

 もちろん、お坊さんにしてみれば、その読経あるいはその経本に書かれている文言には、在家である私などには窺い知ることなどできない深い意味があるのかもしれないが、それにしても難解だ。

 

 そこで私は改めて思ったのである。

そもそも葬儀というのは、死者のために執り行われるものであると同時に、亡き人の死を悼んでそこに集う人々のためにも執り行なわれるものであるべきではないか、と。

そして、そこで唱えられるお経の文言については、死者がもしそれを聞いているとすればその死者にとっても、そしてそこに参列する人にとっても、言葉として、充分に理解できるものであることが必要なのではないか、と。

なぜなら、特に、どんな経本でも、そこに盛られている内容は、人間としての生き方を求めて、特別な修行を重ね、自己に厳しい生活を送る中で掴み取った人々による、生き方の極意あるいは智慧とでも言えるようなものであろうと想像するので、それだけに、そこで語られる文言は、いっそう、それを聞く者の誰もがわかる平易なものであることが望ましいのではないか、と私は思うからである。

 

 ところが現在、この国で一般に行われている仏式の葬儀での読経は、あるいはその読経で表現されている文言はそうはなっていない。したがって参列者は、もちろん喪主を含めた故人のご親族の皆さんも、葬儀の間は、ただじっと坐って、あるいは腰掛けて聞いているしかないものとなっている———それはとりわけ病弱の人や足腰に故障を抱えて参列している人にとっては、大変な苦痛の伴うことであろう———。

 それでは、せっかくその場に集い、亡き人を見送ろうとする人には、葬儀とは、故人と対面できる最後の機会となるということにしか意義を見出せなくなり、葬儀そのものはただ苦痛と忍の一字を強いられる場でしかない、ということにもなりかねないのである。

 

 果たして日本の葬儀のあり方はそれでいいのだろうか。何のために人は葬儀を出すのか、またそれに参列するのか、その深い意味を一人ひとりが考えずに、またその深い意味を知らずに、ただ葬儀が行われるからということだけで参列しているのだとすれば、日本の伝統の宗教による大切な儀式を、心の通わない、文字どおり形だけのものにしてしまうことになりはしないか。

 少なくとも、葬儀とは、故人と会える最後の機会としてそこに集う人々にとっては、ただ一時の時間を亡き人と共有するためだけのものではない、と私は思うのである。

 

 そう思っている私は、長い読経が終った後、お坊さんから、ほんの少し、もはや故人からは聞くことの出来ない、故人の在りし日の姿や故人が生前大切にして来たことが説明されると、そこで初めて葬儀に参列してよかった、と感じるのである。

それを聞かせてもらうことにより、故人が生前どのように生きたか、自分の知らなかった面を改めて知ることができるからだ。そしてそれを聞き知ることで、故人と接した、あるいは過ごしたほんの一瞬かも知れないその時を思い浮かべ、改めて故人の存在の意味あるいは自分との関係における意味を再確認できるのである。と同時に、故人の生き方から、自分は少しでも学ぼう、という気持ちにもなるのである。

 私は葬儀の主たる目的や意義とは、故人の魂が永久に安らかなれと祈るためであることはもちろんであるが、むしろ自分がその故人と人生のある時期、関わり得たことの意味と幸せを、故人と顔を合わせながら噛み締められる最後の機会、ということにこそあるのではないか、と思う。

 

 以上のことから、私は、葬儀の行われ方、その場合もとくに読経の仕方、読経の意味、読経の文言、文言の意味とその伝え方等については、今や再考されていいのではないか、と考える。これまではあまりにも「形」だけの「儀式」でありすぎた、と考えるからである。と同時に、宗教を信じるとはどういうことか、なぜ人間が宗教を信じることが大切なのか、ということについても再考されていいのではないか、とも考える。

そしてそうしたことを考え直してみることは、日本の伝統の宗教の一つである仏教に帰依する人々の使命でもあり責任でもあるのではないか、とも私は考えるのである。

 それは、今後、私たち地球人類は、温暖化・気候変動と生物多様性の崩壊等が主たる原因となって、かつて見たことも聞いたこともなかった出来事に頻繁に遭遇してゆくことになるのではないかと私などは推測し危惧するのであるが、そんな時、科学技術がどんなに進んだ世の中であっても、一人ひとりが正しい宗教心を持つことはどうしても必要になるのではないか、と私は考えるからでもある。

 

 ところで、今日、この国の仏教は、明らかに衰退傾向にある。人々の仏教への関心も理解もどんどん失われている。私は、そのことは、仏教は日本の文化そのものを土台から支えて来た宗教であっただけに大変残念に思う。

 しかしそうした事態となっていることについては、私は、ただ“時代がそうだから”といった説明だけでは済まされることではないと思っている。実際、仏教の国で、お坊さんが今もなお、市井の人々の尊敬を集めている国はあるのだから。

 この国での仏教の衰退は、この国の仏教界そのものにその大部分の原因があるのではないのか。

既述した、葬儀におけるお坊さんたちのただ難解な読経だけで済ませてしまう姿もその1つだと思う。そしてますます人間らしく生きることが難しくなってきているこの世の中にあって、積極的に仏教の教えを巷に広めようとしていないこともその1つであるように思う。むしろ仏教を隔離した世界に閉じ込めているようにさえ私には感じられる。

 確かに、坊さんになるには、誰も、大変厳しい修行を積んでおられるであろうことは、私も時折TVなどに映るその修行風景を見て承知し、また推察もしてはいる。

そしてそうした修行は、人間としての生き方やあり方を求める上で、ある人にとっては確かに必要で有意義なことかもしれない。しかし私は、そうした人間として生き方を求める修行は、必ずしも「お寺」とかいわゆる「修験場」と言われる場でなくとも、たとえば「娑婆」とも呼ばれる現実の社会でも十分にできるのではないか、と考えるのである。というより、むしろ娑婆での方が「生きた修行」ができるのではないか、とさえ思う。 

「お寺」とか「修験場」は修行のためのいわば特殊な場、理想化された場であり、娑婆とは隔絶された空間であるのに対して、娑婆はそうではなく、様々な人間関係の中で、様々な利害渦巻く場でもあり、それだけにそこは苦しみや悩みが多く、様々な誘惑のある場でもある。修験場のように、修行一点に集中できる静寂な場ではない。

 しかし私は、それだからこそ娑婆は、むしろ最適で理想的な修験道場でさえある、そんな風に考えるのである。

 むしろ修験場は、いってみれば、私がかつて歩んできた科学や技術開発の分野における「実験の場」と同じに私には見える。

その実験は、ある定まった目的を達するためには無関係なこと、あるいはそれがあることでかえって求めようとする関係は撹乱されてしまうのではないかと推測される因子は予め可能な限り排除し、しかもほとんどの実験は、時間の影響のない中、つまり静的で、いわば時間が止まった状態の中でなされるのである。

 確かにその結果、成功すれば、目的は達せられる。しかし、そこで得られたことは、もちろん条件付きでしか適用できない。汎用性を持たないのである。

 私は、「お寺」とか「修験場」での修行を通じて掴みとられた成果としての「人間としての生き方・あり方」というのは、それと同じで、ある制約された状況の中でしか適用できない成果なのではないか、と思えて仕方がない。つまり、その修行の場であり空間の中でしか有効性を持たないものではないか、と。

 実際、私は、仏教界で「高僧」と言われている坊さんが、寺を一歩出た現実社会では、娑婆の人々の生き方よりもはるかに俗物的な生き方をしていたという実例を多く耳にして来たし、私自身、実際にそういう人物を知ってもいる。

 そういうことを考えると、むしろ、人間相互の利害関係の渦巻くこの娑婆という現実の社会において、そこでの矛盾や理不尽さから目を背けず、また逃避することもなく———もちろんそこには押し潰されてしまいそうな葛藤があるだろうが———その中で人間としての生き方・あり方を追い求める方が、どれほど生きた修行、応用力を身に付けられる修行になるかしれないのではないか、と私は考えるのである。そしてそこから得られた結果ほど、悩み迷う他者に対して説得力あるものはないのではないか、とも思う。

 しかし私は、だからといって、理想の場での修行を否定したり、無意味としたりするものではない。それは、そうした中で掴みとった真理、あるいは古の師が難行苦行の末掴みとった真理は、それはそれで娑婆で掴みとった真理とはまた別の意味で意義あるものとなろうし、それだけにそれはそれで、積極的に市井に出て、庶民の悩みや苦しみを聞きながら、庶民にとって判りやすい言葉に変換して語りかけ、伝えてもらえれば、聞く者には、よりいっそう深遠なる真理や箴言に近づき得るようになるのではないか、と私は考えるからである。

 そうすることで、私たち一般民衆は宗教の意味やその果たす役割をより正しく理解できるようになるだろうし、宗教家は宗教家で、現実から遊離しない形で、宗教の真髄をより深められるようになるのではないか、とも考えるのである。

 少なくとも、人が死んだらとにかく葬儀はやらねばならないものだ、といった形だけのもの、形だけの発想はもう止めるべきだと私は考える。それでは、そこに関わる仏教は、葬式仏教、すなわち葬式という儀式をするためでしかない仏教、と言われるようになってしまっても仕方がないからだ。

 なお、これまで述べてきたことは、この国のもう一つの伝統宗教である神道にとっても、ほとんど同じことが言えるのではないか、と私は思うのである。

6.6 政治ジャーナリストに求められる使命と責任

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6.6 政治ジャーナリストに求められる使命と責任

 本節では、次の順に問いを発しながら、それに対する私なりの理解に基づく考え方を述べるという形で論を進めようと思う。

⑴ 政治ジャーナリズムとは何か?

⑵ 政治ジャーナリズムの使命と責任とは何か?

⑶ 日本の政治ジャーナリズムはその使命と責任を果たして来たか、また果たしているか?

⑷日本の政治ジャーナリズムがその使命と責任を果たしていないとすれば、それはなぜか?

⑸政治ジャーナリズムがその使命と責任を果たさなかった時、何が起こるか?

また実際、歴史上、何が起ったか?

⑹ 政治ジャーナリズムがその本来の使命と責任を果たせるようになるには、どうすればいいか? またそのためには、私たち読者や視聴者は、というより国民はどうすればいいか?

 

 まず第1の問いについてである。政治ジャーナリズムとは何か?

 ジャーナリズムとは、一般に、新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどで時事的な問題の報道、解説、批評などを行う活動のこと。また、その事業・組織のことであるとされる(広辞苑第六版)。その範疇はきわめて広い。

具体的には、政治ジャーナリズム、経済ジャーナリズム、新聞ジャーナリズム、テレビジャーナリズム、放送ジャーナリズム、出版ジャーナリズム等々といったものがあるからである。かと思えば、分類の仕方により、生産者ジャーナリズム、消費者ジャーナリズムというものもあり、あるいは発表ジャーナリズム、結果ジャーナリズム、事件ジャーナリズム、原因追及ジャーナリズム等々というものもある。

そしてジャーナリストとは、「新聞・雑誌・放送などの編集者・記者・寄稿家などの総称」である(同上広辞苑)。要するにジャーナリズムの世界で働く人々のことである。

 本節ではとくに、このうちの政治ジャーナリズムと政治ジャーナリストに焦点をあてて考えてみようと思う。

それは、先ずは、既述のとおり(2.1節)、政治というものが、どの国でも、国民にとって最も重要な社会的制度であるからということが根幹にあり、その政治の世界で起こっていることを、報道や解説あるいは批評を通じて、真実を伝えてくれる役割を担った分野であり、またそこで働く人々であるからだ。

 政治ジャーナリズムの中には、その代表的なものとして新聞と放送がある。後者の中には、とくに自らをよく「公共放送」と呼ぶ日本放送協会、いわゆるNHKも当然含まれる。

 なお、ここで明確にしておかねばならないことがある。それは、新聞社も放送局も、実際にはたとえば、政治部だけではなく、経済部、社会部、文化部等々といったいろいろな分野を手分けして担当する組織の集合体であろうとは思われるが、ここではその中のとくに政治部という組織を念頭においてゆく。

 

 そこで、第2の問いである。

政治ジャーナリズムの使命と責任とは何か?

 かつて、日本を代表するジャーナリストの一人と目されていた田勢氏は、その著書の中で、政治ジャーナリズムの真髄とはとしてこう述べていた。

「鋭い批判を通じて、権力をつねにチェックするところにある」(田勢康弘「政治ジャーナリズムの罪と罰」新潮社p.7)、と。

 しかし、果たしてこの表現は、政治ジャーナリズムの真髄を本当に的確かつ過不足なく言い表し得ていると言えるだろうか。

 この表現に現れる権力とは、書名からして当然ながら政治権力を指すのであろうが、ではその権力とは誰がどのように行使する、どのような種類の権力のことを言うのであろうか。また、権力をつねにチェックするとは言っても、それは誰のために、また何のためにチェックするのであろう。そもそもチェックするとは、どういうことを意味するのであろう。

 しかし田勢氏はそこは明確にしていない。

 実は既述してきたように(2.2節、2.5節)、私たちの国日本は、明治期以来、今日に至ってもなお、民主主義は未だ実現しておらず、実質的には官主主義、つまり官僚が政治を主導する、あるいは官僚があたかも主権者であるかのように振る舞う官僚独裁の国である。

しかもそれは、民主憲法下になっても、相変わらず、政治家たちによって野放しになったままだ。

官僚たちは所属する府省庁ごとにバラバラだ。公式には、本質的に公僕でしかない官僚あるいは役人をコントロールする役割と使命を負っているのは、主権者である国民から選ばれた国民の代表である政治家である。特にこの場合、執行機関である政府に関しては、その府省庁の大臣である。それは、いわば、国家における主人公である国民の代理と僕(シモベ)あるいは召使いとの関係にあるのだから、と言ってもいい。

 しかし、そうした役割と使命を負っているはずの大臣たちは決してコントロールなどしていない。だいたいが「縦割り」制度それすらも止めさせられてもいないのだ。内閣のトップである総理大臣も、特に安倍晋三などは、自分ではよく「行政の長」などと嘯くが。

むしろ総理大臣も閣僚も、実質的には、官僚組織全体の「操り人形」になっている。それも、大臣は、いずれまたすぐに姿が消え、代わりの誰かが来るまでの「お客さん」でしかない。総理大臣も、官僚組織からみれば、一応いてもらわないと何かと格好がつかないという意味での「お飾り」扱いだ。

 だから、政府とは言っても名ばかりの政府でしかない。ちなみに英語で考えてみればすぐにも判るように、政府も統治も共にgovernmentと表現される。つまり、政府も統治も同意語なのだ。したがって、名ばかりの政府ということは、統治もまともにできていないということである。それはそうだ。総理大臣も名ばかりの総理大臣なのだから。

 ところが、この国のジャーナリズムは、こうした権力構造の実態、統治体制の実態については、私の見るところ、全くと言っていいほどに、報道も解説も批評もして見せない。

むしろ「派閥の力学」とか「永田町」いう言葉が頻繁に聞かれることからも判るように、派閥間の関係やら政界の噂話だ。

となれば、田勢氏が説く政治ジャーナリズムの真髄をより厳密に説明しようとする場合、「鋭い批判を通じて、権力をつねにチェックするところにある」をどのように修正したらいいのであろう。

 それは、特に官僚独裁が政治家たちによって放置されたままの日本においてはこうだ。

政治ジャーナリズムの真髄とは、政治権力機構と統治機構の本質を分析し、すなわち真の政治分析を行い官僚独裁主義が持っている国民に対する冷酷さや非人間性を告発すること。

 ここで言う真の政治分析とは、特定の政治体制の土台となっている不文律を疑問視し、その不文律から結果的に生じる権力関係の編み目を調査することなのである(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」窓社p.143)。

 しかし私は、日本の現状を見つめるとき、とくに日本のジャーナリズムには、もう1つの大きな使命もあるように思う。

 それは、一言で言えば、民主主義の擁護者」、あるいは「人権の擁護を含んだ社会的弱者の護民官になることであり、「日本の良心の守護者」になること、である。

 具体的には、今日的諸問題ともいうべき問題———たとえば、イジメ、引きこもり、自殺、男女の平等、性差別、LGBT(性的弱者)、過労死、貧困、難民、移民、人口減少、自然破壊、温暖化、生物多様性の崩壊、農業の衰退、政府債務残高、日米地位協定、インフラの老朽化、憲法———をつねに幅広く取り上げ、それらの現象を分析し批判するだけではなく、より大きな視野の下で、より大きな関係枠の中での因果関係を徹底的に分析し、読者や視聴者に個々の問題相互の関係性と全体との関わりを示すと共に、いまの日本は全体としてどのような状況にあるかが誰もが理解できるように示すことであろう(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」窓社p.8)。

 

 第3の問いである。

日本のジャーナリズムはその使命と責任を果たして来たか、また果たしているか?

 ごく一部のジャーナリスト個人を除いて、その答えは明らかに「ノー!」だ。

 これまでの日本のジャーナリズム、とくに大新聞とNHKは————民放はもちろんのこと————既述の通り、国民の前に、政治権力構造の実態を解明してみせることも、「民主主義の擁護者」、「人権の擁護を含んだ社会的弱者の護民官」、「日本の良心の守護者」になることもまったくなかったし、今もない。

むしろ官僚とともに、ひたすら現状維持や秩序維持を図っては、批判的な政治分析を邪魔立てしたり、社会の変革につながる新しい動きを敢えて黙殺したりして、民主主義の実現を阻んで来たのだ(K.V.ウオルフレン「システム」p.301)。

そうした傾向が最も顕著なのが「公共」放送と自任するNHKである。公共という概念を人民・住民・国民あるいは市民と呼ばれる政治的主体からなる社会一般のことと定義するなら(第4章の再定義を参照)、NHKは決して「公共」放送ではない。むしろ実態は、政権のスポークスマンだ。

 大新聞については、記者たちは、情報を得ようとする思いに余りにも固執するために、政治権力に近過ぎるほどに接近しては、政府、とくに内閣に忖度し、かえって政府のメッセンジャー役になっている。そして、国民の多様な声を実際に聞き集めようとはしないまま、自分たちで勝手に頭の中で「世論」や「民意」を創造しては、それをあたかも自分たちが代弁しているかのような論調で社説を書き、人々を誘導し、社会秩序の維持を図ろうとさえして来たし、今もそうしている。

 その意味では、読売新聞や産經新聞はもとより、朝日新聞毎日新聞も大同小異と言える。だからそれらは、ジャーナリズムと言うよりは単にメディア、すなわち媒体にすぎない。

 そこでは、特定の政治家個人の醜聞を取り上げたり、派閥間の抗争の実態を暴こうとしたりすることが政治ジャーナリズムの役割と考えている風でさえある。

 そうかと思うと海外情報、とくにアメリカと微妙な関係にある諸国、たとえばヨーロッパ、ロシア、中国、北朝鮮などとの関係の出来事については、ほとんどもっぱらアメリカから入ってくる、アメリカのフィルターを通したニュースを鵜呑みにして国民に伝えているだけのように見える。それを当該各国から入ってくる情報と照合したり、自社の記者を当該諸国に派遣しては彼らからの情報と照らし合わせたりして、自国民により正確で真実な情報を伝えるという努力をしている風にはとても見えない。

 要するに、伝える相手である国民にとっての、真実に基づく価値の優先順位の判断に拠るのではなく、伝える自分たちの側の一方的な功利的かつ保身的な天秤に掛けた上での情報伝達媒体になっているだけに過ぎない。

結局のところ、真実への勇気、正義への勇気がないのだ。いや、共になさすぎる! それにジャーナリスト魂も余りにもか弱い。それだけじゃない。世界が普遍的価値としている自由も民主主義も、言葉として知っているだけで、その意味も価値も知らない、と私は断言する。だから当然ながら「言論の自由」についても、その意味も価値も知らない。

 そんな状態だから、彼らは当然「民主主義の擁護者」ではないし、「人権の擁護を含んだ社会的弱者の護民官」、「日本の良心の守護者」でもない。なれるわけはない。過去の悪しき差別意識や伝統や習慣を打ち砕こうとする覇気もない。

 それは、例えば、日本の男女格差が150カ国中121位、政治分野での男女格差が同じく150カ国中144位、報道の自由度の世界ランキングは66位だ(2020年)という状態であっても、日本のジャーナリストには、それを本気で返上しようという意気込みすら見られないところに現れている。

 

 第4の問いである。

日本の政治ジャーナリズムがその使命と責任を果たしていないとすれば、それはなぜか?

考えられるその理由とは何か?

 その最大の理由は、彼らの大多数が、その意識や価値観が相変わらず前近代のものだ、ということであろうと私は考える。

つまり、相変わらず、「長いものには巻かれろ」、「触らぬ神にタタリなし」、「波風を立てるな」、「和して同ぜよ」、「もっと大人になれ」の精神レベルを脱しきれていない、超え得てはいない、ということであろう、と私は考える(1.4節)。

その象徴的実例がいわゆる「記者クラブ」だ。100年経った今もなお、そんな制度を自己清算できていないことだ(マーティン・ファクラー「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」双葉新書)。

 記者クラブ、それはこう説明される。

「現在、省庁や国会、政党に始まり、警察、裁判所など、全国津々浦々の官公庁や役場、業界団体内に至るまで記者クラブが設置されており、加盟社は取材対象と非常に近い距離で日常的に取材を続けている。記者の連合体を『記者クラブ』と呼ぶと同時に、彼らが常駐する詰め所そのものが『記者クラブ』と呼ばれる。この詰め所には記者クラブ加盟社以外の記者は原則的に入ることはできず、当局から配られるプレスリリースなどは加盟社が独占する。記者クラブ主催の会見には、幹事社の許可が下りない限り外部の記者が参加することはできない。」(マーティン・ファクラー「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」双葉新書p.52)

 要するに、記者クラブとは、有り体に言うと、日本のとくに朝日、毎日、読売新聞といった大新聞や「公共放送」を自任するNHKを含めた、いわゆるメディアに働く人たちが、互いに「仲間」と認め合う者たちだけで群れを成して、決められた時刻にその場に集まってはそのみんなで揃って口をあんぐりと開けて待っていさえすれば、自分の足で苦労して探し歩かなくても、「メシのタネ=記事のネタ」を口の中にポンと放り込んでもらえる、旨味と便利さと快適さにおいては堪えられない巣窟のことであり、またその制度のことだ。

 そしてそれは、本来、権力を気紛れに行使する者たちを鋭くチェックすべき者たちがそれをせず、むしろ情報提供者となるその気紛れ権力者と一定の距離を保てずに、擦り寄り、馴れ合いになりながら、その相手と「懇談」を繰り返しては、その一方で、「仲間」とは異質の外国人記者や彼らが異端者とみなす国内記者たちは特別な許可を得なくては同席させてももらえない、傍聴するだけで質問させてももらえない排他的馴れ合い集団だ。

 それは、そんな記者クラブを成り立たせている各メディア会社はもちろん記者も、多分気づいてはいないだろうが、この国で長いこと深刻な社会問題となりながらも解決し得ないできた、というより近年ますますひどくなっている「イジメ」を生み出す社会構造と全く同じものだ。

同質の者だけで群れを成し、異質な者はみんなで排除しようとするアレだ。

 この国のジャーナリストを任じている者たちは、自分たちの姿がまるで見えなくなっているのだ。一方では、平気で虐待やいじめ問題を扱っているからだ。

 それは、もう、同質集団の中の一員であることに居心地の良さを覚え、そこに集えば労せずしてネタという飯のタネを与えてもらえる安易さに、ジャーナリズム精神を云々する以前に、人権という意識が麻痺してしまっているのだ。

そんな彼らが、権力(者)を見張る番犬になどなれるわけはない。むしろ情報提供者に忖度したり、ポチ化したりするのは必然であろう。

 またそんな彼らだから、リリースされた情報が真実かどうか、さらにはそれが真実の全貌であるかどうか、何がしかの意図がそこに隠されていないか、本当に国民に伝えるに値する情報かどうかなど、真摯に検討したり、ウラを取ろうとする努力を払ったりするはずもない。

 どの新聞も、どの放送局も、「ニュース」の扱い方や中身は同じになり、同様の論調になるのはそのためだ、と私は思う。

 論説委員の書く社説も、広く世界の現状を自分の眼で見たものに拠るのではなく、頭の中で書いただけのものであろう。それはもちろん「公共」放送を名乗るNHKも同様だ。通り一遍のもので、深みがあって説得力ある報道など、できる訳はないのである。 

 

 第5の問いである。

政治ジャーナリズムがその使命と責任を果たさなかった時、何が起こるか。また実際、歴史上、何が起ったか?

それを考える上では、まず次のことを確認しておくことが極めて重要なことだし、また判りやすくなる、と私は思う。しかしそれらはいずれも、すでに明らかにしてきたことである。

3つある。

 先ずその1つは、権力の意味あるいは定義の明確化であり、それは、他者を押さえつけて支配する力のこと、であること。

 1つは、その権力が権力として成立する根拠についてであり、それは、①そうした性格を持つ権力を与えられる人というのは、つねに、選挙によって主権者によって選ばれた人であること、②そして、その人は、その権力を無制約に行使できるわけではなく、その人が権力を行使できるのは、その人が、選挙時、主権者の前に掲げた公約を実現しようとする場合のみであること。なぜなら、その人は、その公約を実現することを条件にして主権者から選ばれたのであるからだ。

なおこの権力行使の制限については、ジョン・ロックはその主著の中でこう言う。「ある目的を達成するために信託された一切の権力は、その目的によって制限されており、もしその目的が明らかに無視された場合には、いつでも、信任は必然的に剥奪されねばならず、この権力は再びこれを与えた者の手に戻され、その者は、これを新たに自己の安全無事のために最も適当と信ずる者に与えうるのである」、と(「市民政府論」岩波文庫p.151)。③それだけに、その権力という特別な力は、その権力を与えられた者がさらに他の者に譲り渡すことはできない、ということ。なぜなら、その力は、主権者から委任されたものに過ぎないからである(ジョン・ロック同上書p.145)。

そして最後の1つは、政治ジャーナリズムの最大の使命と責任についてであり、それは既述した通りのものである。

 したがって、政治ジャーナリズムがその使命と責任を果たさないということは、この3つの要点が、国の内外の政治の世界で、きちんと行われているかどうかチェックもされずに、つねに曖昧なままにされてしまうということである。

 そうなったらどうなるか。容易に想像はつく。

 なぜなら、一旦権力を手にした者は味を占めて、その後は、勝手気ままに行使したがるものだからだ。一方、その者の取り巻きたちも、人間の性(サガ)として、その者に忖度し、また自己の利益のために隷従しようとしがちだからだ。

「権力は必ず腐敗する」という真理もここから生まれるのである。

またクーデターということも起こりうるようになり、その結果独裁政権が誕生する、ということにもなりかねないのである。もちろんその時には、政治からは透明性は失われ、次々と民主主義とはかけ離れた政治が行われるようになる。

 1930年代から1940年代半ばまでの日本に起こった事態がまさにそれだった。

中国を含む東アジアに侵略する戦争を止められず、さらには、勝てないことが最初から判っていたアメリカとの戦争を軍部にさせてしまったことだ。

 確かにその時代、「天皇制」の下で治安維持法が暴威を振っていた時代であったから、軍部を批判するのは命がけだった。天皇と政府の官僚と軍部の官僚との間の権力関係と統治関係の真実を掴み、それらの関係の本質を分析して、官僚独裁主義が持っている国民に対する冷酷さや非人間性を告発することはもちろん、それらの三者の間の関係の真実を掴むことすら至難の技であったろう。

しかし、そんな時代でも、尾崎秀実や戸坂潤、三木清石橋湛山桐生悠々のような本物のジャーナリストがいたのだ。彼らこそ軍国主義ファシズムを憎み、国民の平和を心から願う本物の愛国者だった。本当に自国を愛していればこそ、理性を失った権力と命がけで闘ったのだ。

 もしこの時、彼らのような本物のジャーナリストがもう少しいたなら、軍部の官僚も政府の官僚も、その意識は少しは変わり、戦争の開始の仕方も、戦争の進め方も、終結のさせ方ももう少し変わったのではないか。

 実際、たとえば、この国がアジア・太平洋戦争に突入する前夜の出来事となったいわゆる満州事変勃発の際(1931年9月18日)、関東軍の破壊工作をうすうす感じ取っていた当時のジャーナリズムが、その真相をいち早く究明し、勇気を持って国民に報道していたならば、この国を含め、アジア各国民のその後の運命も大きく変わっていたに違いない、とさえ言われているのである(原寿雄「新しいジャーナリストたちへ」晩聲社p.54)。

 しかし、実際は、朝日新聞毎日新聞も読売新聞もNHKも、ウソばかりの「大本営発表」をそのまま国民に垂れ流しては、侵略戦争を側面から支持し、国民には戦争協力を煽ったのだ。

その結果が、無条件敗北による国の破滅だった。

 ところがこうした経緯の真実を、敗戦後70余年経った今もなお、朝日新聞毎日新聞も読売新聞もNHKも、公式に反省も悔恨も国民の前に示してはいない。

そればかりか、それらの大メディアは、世界も認めている、次のような決定的な真実すら認めようとはしない自民党公明党からなる現政権を批判もできないでいる。

それは、あの戦争が侵略戦争であったこと。あの戦争では日本軍は、大陸で、「南京大虐殺」をはじめ数々の人道に反する残虐な殺戮行為をしたこと。そしてその戦争の結末が無条件敗北であったことだ。

 では、今日のそれら朝日新聞毎日新聞、読売新聞そしてNHKの実態はどうか。

それについては、今や日本の代表メディアとはされているが、実態は単なるメディアでしかなくなっている。時に、政権のスポークスマン、権力側のポチ、社会秩序維持の役割を果たしながら。

それは、1つに、文字通り「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式に、同質の者の「みんなで」いまだに「記者クラブ」存続させていることから判る。1つは、選挙を通じて国民から信託された特別な力である権力を正当に行使して公約を立法化するという政治家としての最大使命は相変わらず全く果たさずに、その立法権力を官僚に丸投げしては官僚独裁を招いている実態には目もくれないでいる姿からも判る。そして1つは、政治権力機構と統治機構の本質を分析し、すなわち真の政治分析を行い、官僚独裁主義が持っている国民に対する冷酷さや非人間性を告発することはおろか、権力者たちに近すぎるほど接近しては、彼らを忖度した記事ばかりを流している実態からも判る。

 そんな状態でいて、朝日新聞毎日新聞も読売新聞もNHKも、中国やロシアや香港の、あるいはサウジアラビアの、それこそ命がけで権力と闘う愛国者人権派弁護士・若き政治的リーダー・真の政治ジャーナリストの姿は、己の臆病さを謙虚に振り返ることもなく、報道しているのである。あるいは、平和の尊さや人権の尊重、ジェンダーの平等、言論や表現の自由の大切さを説いて見せている。それも、それらを一応は報道しないと格好がつかないから、という風にさえ私には見える。

 つまり、日本の政治ジャーナリストにとっては、彼の国の勇気ある人々の活動や、人間にとっての基本的価値は、どれも「他人事」なのだ。日本には、真実を報道しても、また政権批判をしても、暗殺されたり拘束されたりするというようなことはないことは知っているにもかかわらず、である。というより彼らには、この国には「集会・結社・表現の自由」を保障する憲法(第21条)があるということの深い意味すら理解できてはいないのだ。あるいはその憲法の精神を自ら実践しようという気力もないのだ。また、そんな風だから、憲法が「解釈改憲」されても特に気にもならないのであろう。

 そんな臆病で、すぐに権力に迎合する政治ジャーナリストこそ、あのアジア・太平洋戦争の時と同様、今後も、この国がイザッ非常時というとき、いつでも権力者の言いなり報道をしては、国と国民を破滅へと導く勢力へとたちまち変節してしまうのは明らかだ。

そしてそんな彼らの存在こそ、この国を官僚独裁の国にさせ、民主主義を実現できない国にし、国民が依然として幸せになれない国にしている最大の原因となり続けているのだ。

 

 では、第6の問いである、ジャーナリズムがその本来の使命と責任を果たせるようになるには、どうすればいいか? またそのためには、私たち読者や視聴者は、というより国民はどうすればいいのだろうか?

 先ずは、私たち国民はどうすればいいのだろう?

その場合も、やはり次のことは明確に押さえておく必要がある、と私は思う。それは、私たちは、自国の憲法でも明記している主権者だということである。主権者であるとは、国家の政治のあり方を最終的に決定できる権利を所持している者である、ということだ。

「国家の政治のあり方を最終的に決定できる権利を所持」とは大変重い責任の伴った権利なのである。

 そこで問題となるのは、私たち国民は、その所持している「国家の政治のあり方を最終的に決定できる権利」をいつでも、どこでも行使するには、あるいは行使できるようになるためには、何がどうなったらいいのか、あるいは何が必要かということであろうと私は思う。

 その時、まず第一に必要となってくるのが、誰が、どのような種類の権力を、どのように、また誰のために行使しているか、ということの実態をできるだけ具体的かつ正確に知ることではないか。

そうなると、その時にどうしても必要となるのが既述のような役割と使命を持っている政治ジャーナリズムなのである。

 だから、私たち国民は、ジャーナリストを自任する彼らにこう伝える必要があるのではないか。

 本来の政治ジャーナリズムの役割と責任を勇気を持って果たせ、と。

そのためには、まずさしあたっては記者クラブを廃止せよ、と。もし、朝日・読売・毎日の新聞そしてNHKの記者たちに真の愛国心とジャーナリストとしての矜持があるのなら、率先して記者クラブから抜け出よ、と。そして知識人としての勇気を持て、と(6.4節)。

排他的で、閉鎖的な「記者クラブ」を継続し、またそれに所属しつづけることは、ジャーナリストとしての自殺行為だからだ。記者クラブ活動を続けることは自由と民主主義の実現を望む購読者や視聴者を裏切っているだけではなく、ジャーナリストを職業として選択した自らの初志をあざむいていることにもなるのではないか、と。

 それに、自分に何かと情報をくれて助けてくれる人々と、その人々にまつわる人脈関係を損なわないようにと自己検閲・自主検閲をして矛先を緩めることは、結局のところ、この国の政治を堕落させることにつながり、それは既述したように、結局は国の行くべき方向を誤らせることにもなるからだ。

 政治汚職を「構造的なもの」と言いながら、それをもっぱら政治家のせいにして真の政治分析を怠り、さらにはそこに人物評価をも加えて、彼らを批判しつづけることは政治ジャーナリストであるあなた方のすることではない、と。

 むしろ政治ジャーナリストの役割と使命は、私たち国民や市民の利益代表は官僚や役人ではなく政治家だけなのだということを国民ないしは読者に明確に伝えることだ、と。

その際も、自分の立場、自社の立場を明確にし、そして真実を伝えることには手を緩めないことだ、と(K.V.ウオルフレン「日本という国を、・・・」p.218)。

 そして、少なくとも、一人ひとりは、自己検閲するのではなく、自らに次のような問いを発しながら、ジャーナリストとしての自身の姿勢を厳しくチェックしてみる必要があるのではないか、と。 

———政治家たちは、自己の立候補時の選挙公約を実現するための政策を、法律を、条例を議会で成立させているか。政治家たちは、国民から納められたお金の使途をきちんと自分たちの責任で決めているか。この国は国連に加盟してはいるが、この国は主権国か、独立国と言えるのか。それ以前にこの国は国家と言えるのか。戦力も持たず、交戦権をも放棄して、この国は国家と言えるか。自衛隊は「戦力」ではないのか、軍隊ではないのか。総理大臣は本当に国の舵取りをしているか。国務大臣は配下の官僚をコントロールし得ているのか。とくに防衛大臣はシビリアン・コントロールを為し得ているのか。もしも自衛隊がかつての軍部のように暴走したとき、国会も政府も、その暴走を押さえられる二重三重の体制を考えて法整備をしようとしているのか。この国は民主主義の国と言えるのか。国会は本当に国権の最高機関としての役割を果たし得ているのか。そもそも国会は国権の最高機関とはどういう意味か。それを考えたとき、執行機関でしかない政府の内閣が「閣議決定」などと言っては政策や法案を議決できるのか。立法権に属する内容であっても、内閣は閣議決定できるのか。官僚は憲法や一般法をきちんと守って行政をしているか。衆議院の解散権は本当に総理大臣に所属しているのか。というより、そもそも衆議院に解散ということがありうるのか。またあったとしても、それを解散できるのが行政府の長であるというのは、議会制民主主義の観点からおかしいのではないか。なぜなら、行政府あるいはその長よりも、国会あるいは衆議院の方が権威が上なのだから。国会は国権の最高機関なのだからだ。官僚が発する「通達」や「行政指導」は法に基づかない権力行使ではないのか。各府省庁の官僚が「審議会」を立ち上げること自体、民主主義を装った非公式権力の行使ではないのか。審議会や各種委員会はその構成委員の顔ぶれで討議内容の方向がほぼ決まってしまうものであるが、それを取り仕切る官僚は、どのような客観的で公正なる基準に基づいてその委員となる「学識経験者」あるいは「専門家」を選任しているのか。そしてそうした選任方法を所管大臣はその都度きちんとチェックしているのか。政治家と役人(全体の奉仕者)のそれぞれの役割や使命は明確に区別されているか。この国は国家と政府を明確に区別しているか。政府は本当に国家の代理者となり得ているか。国家の目的とは何か。この国は、本当に三権分立が実現されているか。とくに司法権は本当に行政権から独立し得ているか。政府はすべての国民に対して法の下に平等の行政をしているか。それ以前に、この国には「法の支配」と「法治主義」が厳然と守られているのか。とくに法務省の官僚と検察は「政治資金規正法」をすべての政治家に対して公平に運用しているか。各省庁の官僚の人事評価は本来誰がすべきか。・・・・・。

 もちろんその時、私たち国民一般も、自身が、権力をつねに疑い、己の権利のために闘い、政治的主体として自由と民主主義の実現のために行動できる本物の市民になることが求められている、と私は思う。

 

 ところで、私は、本書の冒頭にて、「近代」という時代はすでに終わり、時代はもはや「環境時代」とでも呼ぶべき時代に入っているという認識の下でいる、と述べた。それは、「資本の論理」を最優先する時代ではなく、生命、それも可能な限り多様な生命が循環によって共生することが最優先される、「生命主義」が主流とされるべき時代であると。

 その観点からすれば、今、政治ジャーナリズムがチェックしなくてはならない政治の領域は「近代」の「民主主義」の時代より格段に広がっている。

そこでは、これまでの人間あるいは「市民」だけではなく、可能な限り多様な生命が共存できる政治のあり方までが問われてくるからだ。

それは、人間社会での弱者———子ども、病人、老人、困窮者、国内の外国国籍の人々、あるいは日本国籍を取得した外国からの移住者等々———の権利だけではなく、地球上の生命一般の生存の権利とでも言うべき「生命権」までも、政治ジャーナリズムの対象となってくることを意味する。

 こうしたことを考えなくてはならなくなっている背景には、今、人類全体が、気候変動の激化とそれに伴う異常気象の常態化とともに生物多様性の劣化と崩壊によりその存続の危機に直面している、という事実がある。

 だから「環境時代」では、これまで述べて来た「近代」におけるジャーナリズムとジャーナリストの観点からだけではなく、たとえば、「たった一つの生物種の生存権と自然益」の視点にまで自らの視野を拡大し、役割と使命の枠を広げ、「そのたった一つの生物種の中の一個の個体の生存権を考えることこそ真の人類益」となる、との観点に立てるジャーナリストでもなくてはならないことを意味するのではないか。

したがってそこでは、単に権力とその行使のされ方を監視し批判するとか、また、よりよい民主主義の実現のためにとか、人権と国益という観点から権力機構・統治機構の真実を国民の前に明らかにするということだけではとても足りなくなる。

 こうして、これからのジャーナリズムとジャーナリストに求められる使命と責任の最終的な姿とは、民主主義よりも質的にはるかに高いレベルの生命主義の実現を見据えながら、同時に、目先では、人間世界での権力構造の真実を国民の前に勇気を持って明らかにする護民官となり日本の良心の守護者になることなのではないか、と私は思うのである。

 私は、そうした姿勢を貫けるジャーナリズムとジャーナリストをこそ、「新しいジャーナリズム」、「新しいジャーナリスト」と呼びたいと思う。

そしてこれからの時代は、そんな姿勢を堅持するジャーナリズムとジャーナリストこそ、国民にとってはもちろん他生命の立場になって想像してみても———それはすなわち人類の将来にとっても———最大の「希望」の星となるのではないだろうか。

 

 

6.5 科学者および研究者に求められる使命と責任

 

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6.5 科学者および研究者に求められる使命と責任

 科学者および研究者として求められる使命と責任とは何であろうか。

それを考えるに当たっては、やはり、先ずは、もはや過ぎ去った「近代」において、「科学」とは、また「研究」とはどのようなこと、どうすることと理解されて来たのか、またその科学をする者としての科学者や、研究する者としての研究者にとくに求められてきたこととは何か、について振り返ってみる必要がある。

 「科学」については、その代表的なものとしての自然科学に限定して見れば、それは、一般には次のように理解されて来たのではなかったろうか。

今から思えば、本来自然は、人間の眼で見えるものと見えないものとが調和的に統一した存在であるにもかかわらず、それを人間の側の都合により、一方的に見えないものを無視し、あるいは計測に引っかからないものをも無視し、見えるもの・計量できるもののみを対象にして来た。その場合も、自然の中にある、それがあってこそ自然として成り立っている多様な相互関係や相互作用を無視し、時間の経過を無視しては静的な中で捉え、質を無視して来た。その上、部分を足し合わせればいつでも全体になるという仮定の下に、予め全体を大まかに捉えるということもしないままに、対象である自然物をバラバラに切断し、一切の外乱が入らないように制御しては、事象を最も単純化させた上で捉えようとして来た。そしてそれを人間のもっとも知的な行為とみなしてきた。それが「科学」とされる人間の行為だった。

しかもその行為は、つねに、「資源は無限」、「空間も無限」という前提の下になされてきたのである。

 そしてそうした幾多の仮定ないしは前提の下に行われた行為の結果については、それはあくまでも自然を観る無数の見方のうちの一つに過ぎないものであるにもかかわらず、「客観的」で「中立」で「普遍的」で「唯一の正解」とされ、「信ずるに足る真理」とみなされて来た(4.1節の定義を参照)。

 他方、後者の近代の「研究」あるいは「研究という行為」については、未だ誰にも判っていないことを誰にでも判るように示して見せる人間の行為、とされて来た。

ここで「判る」とは、それが成り立つ理由が、情緒的あるいは感覚的にではなく、客観的かつ論理的に、真実をもって、因果関係の中で説明されている、ということである。

 以上のことから判るように、近代の科学そして研究とは、ある特定の人の、特定な分野への「知」的な「好奇心」あるいは「探究心」の上でのみ成り立って来たのである。

そしてその知的な好奇心や探究心の向う方向については、何の社会的な制約もなければ倫理的な制約もなかった。それだけに、その結果として得られた成果の取扱い方についても、さらには、その成果を人間に、あるいは社会に、あるいは自然に適用した結果についても、当事者としての科学者や研究者には責任はない、とされてきた。

そしてそうした科学あるいは研究を支えて来たのは、もっぱら知性であった。

 以上が、自然科学に限定して見たときの、近代の科学と研究、あるいは科学者と研究者のあり方についての大凡の特徴であった。私はそう考えるのである。

 

 ところで、そもそもそこで言及した知性には次のような特徴が見られるとは、既に述べて来た通りである。

「深みのない明晰さ」あるいは「統一のない広がり」があることである。ここに、「深みがない」とは思想がないということと同義であり、統一がないということは互いにバラバラだということである。そして知性とは、「事実の確定」と「客観的分析の能力のこと」である。

そもそも科学の「科」とは、「一定の標準を立てて区分けした一つ一つ」のことなのである(広辞苑第六版)。つまり科学とは、全体を区分けした一つひとつをバラバラに探求する学問なのだ。

 だから知性は、ただ事柄そのものを事実として明らかにするだけで、その明らかにされた事柄の意味や価値については判断を控え、ただ冷静に、主観性を離れて物事のあり方を問うだけなのである(真下真一「君たちは人間だ」新日本出版社p.83)。

 フランシス・ベーコンが言った「知は力なり」の「知」はいうまでもなくその知性の知のことであり、知識の知でもある。

その知は、その知をもたらす事柄の意味を問うことをしなければ、その事柄の価値の判断をもしないことを最初から前提としているために、その知には、悪用するための知も善用するための知も含まれる。「知性は淫売婦のようなもの、誰とでも寝る」とまで言われる所以でもある。「智に働けば角が立つ」(夏目漱石草枕」)の智も、その意味するところは、智慧というよりはここで言う知に近いものなのではないか、と私は思う。本来の智慧が働いているところでは、人間関係に「角が立つ」ことは先ずあり得ないのではないか、と私などは思うからである。

 そして、こうした特性を持つ知あるいは知性と結びついて人間の脳裏に捉えられ、蓄えられたものが知識であり、その知識の産物がこれまでの「近代」の技術だった、と言えるように思う。

 なお、こうした知性とは反対の立場を取るのが理性である。それは「全体的な統一と綜合の能力」であり、言い換えれば「精神」の力のことであり、もっと言うならば、「理想」を立てる力のことである。また、この理想へ向けて現実を整え導いて行く力であり、物事の意味とか価値の判断にかかわる智慧と結びつくもので、智慧の力のことでもある。

それについては、既述したとおりである(真下真一著作集1「学問と人生」青木書店 p.96)。

 つまり、今は過ぎ去りし近代においては、科学者とは、自分の興味のあることを興味の赴くままに研究していればそれでよかった。それが科学者の科学者たる所以とされて来たし、それなりの「成果」を出せれば、その成果の質は問われないままに、それだけで社会的に評価をされても来たのである。その場合も、とくにその成果が社会の生産力の発展に寄与しうるものであればあるほど評価も大きかった。

 それだけに、科学者や研究者は、自分の研究成果が社会からどの程度大きな評価と反響をもって迎えられたかということには関心は持ちながらも、その成果が社会に対して、あるいは自然に対してどのような影響をもたらすか、あるいはもたらしたかということに関しては、責任を問われなかったために無関心でもいられた。だから科学者や研究者にとっては、自分なりに成果と思えるものを出し、それを世に発表すれば「お終い」という感覚でいられた。

 以上の経緯からも判るように、科学者や研究者は、どうしても社会的問題や政治的問題には疎くなりがちだった。独善的で自己中心的にもならざるを得なかった。とにかく成果さえ出していれば————それも特に「論文」という形で————、科学者・研究者としていられたのである。

 

 では、これからの時代の科学や研究のあり方、そして科学者や研究者のあり方とはどうあったらいいのだろうか。

 私はそれは、先ずは重層的に、2つの観点から問われるべき、と考えるのである。

 1つは、科学者や研究者個人において、これからの時代の科学や研究はどうあったらいいかということを問い続けること。そして自分は、一体誰のために、そして何のために科学を、あるいは研究をしているのかということをもつねに明確にしていること。そしてその際、単に知性ではなく理性をもって対象に向き合っているかということをも自己チェックしていることである、と私は考える。

 もう1つは、科学者や研究者を見つめる社会あるいは私たち国民自身も、これからの時代の科学や研究はどうあったらいいかということを問い続けることではないか、と思う。

また彼らへの評価の仕方も、とにかく肩書きだけではなく、また提出している論文の数によるのではなく、彼は一体誰のために、そして何のためにそれをしているのかという観点から、冷静にチェックして見守り続けることではないか、と考える。

さらには、科学者や研究者が出した成果については、それをどう使うかは、道具と同じで、使う側の心がけというか考え一つでどっちにも転ぶものゆえに、その成果をただ歓迎するのではなく、その成果が適正に使われ、生かされているかということについても、絶えずチェックし続けることであろう、とも思う。

 それは例えば、日本国憲法第12条の、「自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなくてはならない」と、「国民は、自由及び権利は濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」の精神と同じだ。

 したがって、ここでの「適正に」とは、例えば、「世界の人々の平和に貢献しうるように」ということであろうし「地球の生態系を蘇生させ、人類の存続の可能性を高めることに貢献しうるように」ということであろう。

そして、これからの時代の科学や研究のあり方から得られる成果の取り扱い方に関しての究極の規準は、その成果は「人類にとって本当に必要なものか」、「人類の進歩に貢献しうるものか」であり、あるいはその成果の適用は、「倫理的に許されるものか」であろうと考える。

 それを一言で言えば、「人類全体に対する忠誠」(故ネルー首相の言、孫崎享著の「日本再起動」徳間書店の中のp.87)なる態度を持って、「人類全体の価値」(K.V.ウオルフレン「日本人だけが知らないアメリカ『世界支配』の終わり」徳間書店p.291)の実現に貢献しうるか、であろう。

 私は科学者や研究者が自らつねに理性をもってこの態度を貫いている限り、また社会も科学者や研究者に対してこうした見方を堅持している限り、たとえば今後、ますます世界の平和を維持して行く上でも、また地球の生態系を維持しながら人類の存続を考える上でもますます重大性を増してくると推測されるAI(人工頭脳)の兵器への適用問題や、遺伝子工学の分野でのいわゆる「ゲノム編集」という問題も、かろうじて最悪の事態は回避できるようになるのではないか、と期待するのである。

 とにかく、人類存続の危機にある今こそ、例えば今や「悪魔の兵器」と呼ばれる核兵器に関する次のような歴史の事実から教訓を引き出し、それを生かすべきだ。

それは、ナチス・ドイツはとうに開発を諦めていて、原子爆弾の開発は意味がなくなったと判っても、アメリカは開発を続行し、生み出してしまったこと。またその原子爆弾を使用しなくても、軍国主義の日本の降伏は時間の問題だと判っていても、それをアメリカは広島と長崎に使用してしまったこと。そしてその結果、原子爆弾の破壊力の凄まじさが世界に明白になったことによって、それ以後、世界の覇権を握ろうとする米ソ両陣営にとって、原爆や水爆が戦略兵器とされてしまったこと。その上、両陣営は、核を持つこと、それも敵よりもより多く持つことこそが相手からの先制核攻撃を防ぐことになるとの核抑止論を作り上げたが、しかしそれも、キューバ危機、またその10年後の1973年の核戦争の危機を体験することによって通用しないことがはっきりしたこと。そして今や、核兵器を所持する国が、世界を威嚇し、世界の平和と安定を乱すようになっているし、核兵器を持っていること自体が、複雑化した世界秩序の中で、偶発的な核戦争勃発の危険性をますます高めてさえいること、等々である。

 なお、上記のこれからの時代の科学や研究のあり方を考える上で、もう1つ重要なことがあると私は考える。それはいわゆる科学の方法についてである。一言でいえば、これからの科学の方法は、もはや近代における科学の方法を止揚して、概略、次のような方法がとられるべきではないか、と私は考えるからだ。

 第一は、研究対象を定める際、先ずは自然と社会と人間との相互関係とその全体を通覧するという作業をする。その上で、その全体を部分に分け、その中の特定部分に狙いを定めるにも、全体の中でのその部分の位置と全体との関係を確認するのである。

 第二は、狙いを定めた部分を分析し、その部分を成り立たせている成分や要素や仕組みを明らかにしてゆく際にも、つねにその部分と全体との関係や、分析と綜合との調和を考慮しながら進め、また深めてゆく。しかもその際、静的にではなくつねに動的に、つまり時間的変化の中で生き生きとした姿のままに捉えてゆく。

 第三は、捉えた結果としての知見については、それを最初捉えた「全体」の中に改めて組み込んでみては綜合して見る。その時、その科学研究の成果は、最終的に、「世界の人々の平和に貢献しうる」ものであるかどうか、「地球の生態系を維持し、人類の存続を可能とさせる」ものであるかどうかを、そして「人類にとって本当に必要なもの」か、「倫理的に許されるもの」かについても、今やその分野では世界中の誰よりも精通し得た立場になっている自分で、自らの責任において、最大限想像力を発揮し、また理性を働かせて、検証してみる。

 その検証結果において、人間と社会と自然の全体にとって、不都合なことが推測される場合には、既述した真の知識人(6.4節)の立場で、勇気を持ってその成果を廃棄するのである。

 もちろんその場合、社会も、その科学者の真の知識人としての姿勢を高く評価すべきだ。

 

 以上のことから判るように、これからの時代の「科学」あるいは「研究」とは、そのあり方も、その成果の取り扱い方においても、近代のそれとはまったく異なったものとなるし、異なったものとならなくてはならない。言い換えれば、それは、もはやデカルトのいわゆる「要素主義」と呼ばれる科学的認識方法ないしは「近代合『理』主義」を止揚したものあると同時に、単なる好奇心や探究心に拠って成り立ったり、名声を得ようとする動機に拠って成り立ったり、研究予算獲得目的を動機として成り立ったりするというものでもない。

 しかもその成果については、より普遍的な真理を掴み出すことを目的としながらも、同時に、人と社会と自然とのよりよい共存の実現と国際社会の平和維持に貢献しうるものでなくてはならない、とされるものとなろう。つまり、科学者・研究者自身も、社会的かつ倫理的責任を負うことをも義務づけられるようになる、ということである。

 果してこう主張すると、“それでは、科学は進歩しない”と反論する向きもあろうが、それは、土台、「進歩」の意味の捉え方そのものがもはや旧時代のものなのである(4.1節の「進歩」の定義)。

 とにかく、科学者も研究者も、そして国民の私たちも、得られた成果は、人間や社会や自然に対して良いことだけをもたらす訳では決してないということを心得ておかねばならない。と言うより、科学も技術もやはり「諸刃の剣」どころか、その成果が便利であると見なされるものであるほど、実際には、人間や社会や自然に対しては、良い面とかプラスと考えられる面よりもはるかに多くの悪い面、マイナス面をもたらしてしまうものなのだから(7.4節)。

 

6.4 知識人に求められる使命と責任

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6.4 知識人に求められる使命と責任

 ここで私が言う知識人とはどういう人のことを意味するか、それをまず明らかにし、その上で、その彼らに求められる使命と責任とは何かを考えてみようと思う。

 先ず、知識人とは、真実あるいは真理の追究をこそ何よりも大切であると考えることができる人である。同時に、その追究で知り得た真実あるいは真理を、たとえそれが世間の通念、世の中での主流の見方や支配的な見解、あるいは学界の定説とは相容れないようなものであっても、それを怖れずに、どこまでも自己の学問的良心に忠実であって節を曲げない人のことである(真下真一「学問・思想・人間」青木文庫 p.171)。だからそれは、金銭を得ることや地位を守ることや名声を博すること、また、利害を共有する者同士で互いに擁護し合うような人々のことではない。

 したがって知識人とは、真実と真理への勇気ある人々(同上書p.170)、と言い換えることも出来る。

別の言い方をすれば、知識人とは、自分にどんな結果が降り掛かろうとも、それを覚悟の上で、あくまでも筋を通して考えることを自らの責務としている人々のことである(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」窓社 p.4)。さらには、国民や弱者の真の利益を第一に守ることを考えて、自分が発言したことについては、あるいはその発言の結果もたらされた事態に対しては、言い訳をせず、最後まで責任を負う覚悟を持っている人々のことである。それこそが本物の知識人と言えるのである。そしてそれができる人とは、独立不覊の思索家であり思想家でもある、ということだ。格好や肩書きだけの人ではない。

 この国では、これまで、知識人と言った場合、一般的にはいろいろなことをよく知っている博識・博学の人とか、自分の頭を使って仕事をする人としての科学者や研究者を含めた専門家・学者・文筆家もしくはジャーナリスト、あるいは教育者や宗教家を含めた文化人とかを意味することが多かった。

 たしかにこうした人々はみな、ある特定の分野については、普通の人々が持っている以上の知識を持っているし、その人たちはみな自分の頭を使って仕事をしている。

 しかしこれらの人々は、とくにこの日本という国では、そのほとんどが、自分がそれまでに得て来ている知的な成果に対しても、そして自分自身に対しても、偽ることなく誠実であることよりも、いつも、あるいは最終的には、保身的観点から、損得あるいは打算で判断することを最優先する人々でありがちだった。そしてこういう人たちは、当然ながら、そのほとんどが例外なく、とくに政治的権力に対しては臆病な人たちであった。

 私がここで言う知識人はそれとは明確に違う。というより、むしろそれとは対極に立つ人々のことだ。

 

 ではなぜこうした知識人が必要とされるのか。

 私は先に、私たち国民にとって「政治」というものがあらゆる社会制度の中で、人々の日常の暮らし全般とその将来に対して決定的な影響をもたらし、私たちの今と近未来の幸不幸を決定的に左右する最も重要な制度であると記して来た(2.1節)。実は、なぜこうした知識人が必要とされるかということについては、このことと関連している。

 その政治において、権力というものの行使のされ方に関連する問題を、それぞれの知識人が、上記の意味での本物の知識人の観点から、知的誠実さと知的勇気をもって取り上げた見解ほど国民にとって価値あるものはないからだ。

 その意味で、本物の知識人の存在は、それ自体が私たち国民一般にとっては、政治面における最大の希望であり、彼らの見解は、私たち国民一般が政治の有りようや権力行使の有りようを判断する上で最良の道標となるのである。

また、それだけに、本物の知識人が多方面に存在し、その数が多くなればなるほど、政治の有りようは国民にとって望ましいものになって行くのである。

 ところがこの国では、こうした知識人、つまり、真実と真理への勇気ある人々、独立不覊の思索家であり思想家と言える人々は、今や、テレビや新聞、雑誌などを見ていても、まったくと言っていい程にいなくなっている。

 中国やロシアという中央の権力者あるいは政権による言論統制の厳しい国でさえ、たとえば拘束されたり投獄されたりしても、あるいは暗殺されそうになってもなお、国民に真実を命がけで伝えようとしている人が絶えることなく現れて来ていることについては、読者の皆さんの多くもご存知だと思う。

しかしこの国日本では、今のところ、幸いにも彼の国ほど言論や表現の自由が厳しく統制されているわけではない。ところが、それにもかかわらず、国民が、とくに政治問題についての知識人の本当の声や見方を必要としているとき、政治権力に臆することなく自らの知的誠実さと知的勇気を持って発言してくれ、国民に確かな情報やものの見方、あるいははっきりとした判断の仕方を示してくれる者がいないのである。メディアで仕事をする人々についても、ほとんど同様だ———マーティン・ファクラー「安倍政権にひれ伏す日本のメディア」双葉社————。

 

 では、いったいその人々は何を怖れているのだろう。

 その点、むしろかつての方が本物と言える知識人はいたのである。

たとえば幕末における中江兆民福沢諭吉がそうだった。大正時代にあっては吉野作造。昭和に入っては、治安維持法下にありながらも、京大事件の時の滝川幸辰教授、天皇機関説を唱えた美濃部達吉博士などがどうしても思い浮かぶ。また第二次世界大戦前、戦争反対を唱えて獄死した戸坂潤、そして「小日本主義」を唱えて自由主義的論陣を張った石橋湛山、また軍部や戦争批判を続けた桐生悠々も。また比較的最近では丸山真男の存在も思い浮かぶ。

 しかるに20世紀末から21世紀に入ってからは、日本での本物の知識人は絶無といった状態だ。

たとえば、阪神淡路大震災が生じたとき、またオウム真理教の一連の事件が生じたとき、湾岸戦争が起ったとき、3.11直後に東電福島第一原発メルトダウンして水素大爆発を起したとき、あるいは、安倍晋三憲法を無視して解釈改憲したとき、同じく安倍政権が違憲法律を強行可決させ憲法を破壊し、理論上この日本を無憲法で無法の状態にしてしまったとき、あるいは政府が、上記東電福島第一原発が大爆発を起した原因を公式に検証もしないまま既存の原発の再稼働を決めたとき、等々がそうだ。

 つまり、国民が、「こんな時こそ、政治家あるいは議会や政府の事態への対応とはどうあるべきか」を知りたいと切実に思ったとき、普段、知識人あるいは専門家と目され、また自身もそれをもって任じていて、メディアにしょっちゅう姿を見せるような者の一体誰が、冒頭で述べた意味での本物の知識人としての姿を示してくれただろう。

 あるいは、日本政府の主権なき対米追従外交について、従軍慰安婦問題について、北朝鮮による日本人拉致問題の政府の対応について、地球温暖化問題に対する政府の対応姿勢について、日本の主権を無視したトランプ外交に対して、またそれに迎合して自国の主権を主張し得ない安倍晋三首相に対して、メディアにしょっちゅう姿を見せる者の誰が、冒頭で述べた意味での本物の知識人としての姿を示してくれただろう。

 とにかく、「森友学園」「架計学園」問題において、政府の首相と閣僚と官僚にあのような対応をさせ続け、国民の暮らしにとっても最も大切な政治を空転させたことこそが、「日本には知識人不在」の真実を、世界に向かって何よりも雄弁に証明して見せたのだ。

それは単に安倍晋三の首相としての資質の欠如、閣僚の怠慢・無責任・倫理観の欠如、官僚の思い上がりと遵法精神の欠如だけの問題ではない。

 とにかく、人は、平時には、あるいは順風満帆の時には、何とでも言えるものだ。どんな立派なことも言える。

しかし、問題はイザッという時だ。その時こそが、その人の真価が問われる時だ。本来、社会的に言うべき立場の人が、言うべきことを、きちんと言えないようなならば、何の存在意義があろう。見せかけの知識人、似非知識人としか言いようがないではないか。

 

 なぜ日本の「知識人」と目される人々のほとんどは、政治権力に対してかくも臆病になるのか。

 それは、結局は、そうある方が我が身の安泰、地位の安泰、いわば我が身の安全保障になると考えるからであろう。そしてそちらを優先するということは、結局のところ、近代という時代が獲得したはずの「個」が依然として確立されておらず、「自由」、とりわけこの場合「言論の自由」さらには「表現の自由」も血肉となってはいないということなのだ、と私は思う。

 言い換えれば、明治独裁政権以来、その政権の特に官僚らによって事あるごとに植え付けられて来た生き方から今なお本当の意味で抜け出ることができていない、ということなのであろう————そういう意味でも、やはりこの国は、総じて、未だ近代にも至ってはいないのだ!(1.4節)————。たとえば「長いものには巻かれろ」、「触らぬ神にタタリなし」、「波風を立てるな」、「和して同ぜよ」、「もっと大人になれ」等々といった生き方だ。あるいは、科学や大学は、本来、誰のためにあるのか、何のためにあるのか、ということが、関係者の間でも、曖昧にされたままできたためなのではないか、と私は思う。

 とは言え、少なくともこの国では、仮にこうした過去の遺物的生き方からはみ出したところで、あるいはそれを無視したところで、法を犯したことになる訳ではないし、まして生命が危険に曝されたり、暗殺されたりする訳ではないのである。

 となればなおさらのこと、この国の、今の知識人は、いったい何を怖れて、言うべきことも言えないのか、あるいは言わないのだろう。

私は、それは、相手の正体を知らないからであろう、と思わざるを得ない。

言い換えればそれは、幽霊を怖がるのと同じ心理、あるいは「得体が知れない」と思ってしまうところから生じる心理と同じで、そうした心理が無意識のうちに恐れを抱かせてしまうのではないか、という気がする。要するに、無知が恐怖をもたらすのだ(浜矩子「『幸せ』について考えよう」NHK 別冊100分de名著 p.67)。そしてその恐怖は、得てして、単に、漠然とした、あるいは曖昧模糊としたものから生じているだけではないか、と私は想像する。つまり「知らない」から恐怖するのだ————実は、幕末から明治期において、政府の官僚が国民を統治する上で用いた「(国民には)知らしむベからず、依らしむべし」という秘策も根本はこれと同じで、知らないことには人は恐怖する、という心理を巧みに応用したものなのだ————。

 逆を言えば、その正体の何なのかを知ってしまえば、全く、“どうってことなかった”となるのではないか。

となれば、恐れを抱くその正体が何かを勇気を持って突き止めることこそが、不安や恐怖を解消する最良の方法となる、ということが判るのである。

 

 以上のことからこれからの日本の知識人に特に求められる重い責任を伴った使命とは、次のように言えることが判る。少なくとも二つはある。

 第1は、彼らに対してだけではなく、これまで国民一般にももたらして来た、政治権力がもたらす漠然とした、あるいは曖昧模糊とした恐怖の源を明らかにすることだ。

 それは結局のところ、政治のシステムの実態、とくに権力構造そのもの、言い換えればどのような権力が、誰によって、どのように行使されているか、そしてその権力の行使は正当なものなのか否か、を明らかにすることなのだ。なぜなら権力とは、何回でも言うが、「他人を押さえつけ、支配する力」のことだからだ。そしてその場合、とくに重要となるのは、国民の代表であるはずの政治家と一方は公僕でしかない官僚(役人)との間の本来あるべき関係(2.3節)と、その両者の間の実際の関係との乖離についてである。

 その場合、制約付きの権力を公式に負託された政治家が、その制約された範囲内での権力を正当に行使している限りは国民にとっては何ら問題はないし、また問題も起らない。官僚(役人)も、「法の支配」の下で、既存の定まった法律に基づき、あるいは政治家のコントロールの下で権力を行使している限りは、それは国民の了解のもとでの権力行使になるのだから、国民にとっては何ら問題はないし、また問題も起らない。

 それは既述の、「権力の成立根拠は合意にある」との政治的原則に沿っていることに他ならないからだ。より正確に言えば、人々に対して、権限を得た人々————すなわち政治家————の意志に服従を強制する権力を与えるのは、権限を得た人々に支配される人々の同意である、と(H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書p.9)。

 考えてみればそれは当然のことである。同意もしていないような権力を私たち国民が政治家に負託するはずもなければ、そんな権力の行使に対して、どうして私たちは服従する義務などあろうか。行使を同意している権力とは、政治家が選挙の際に国民の前に掲げた公約を実現してみせるためにのみ行使するものなのである。

 では政治家であれ、官僚(役人)であれ、どういう場合に、国民にとって問題が生じるのか。

それは、権力の行使の仕方やあり方が国民の合意に基づかないものであるときだ。

つまり私たち国民が服従することを同意もしていない種類の権力を、しかも同意もしていない仕方で行使するときである。

言い換えれば、法律に基づかない、法律にもないことを、あたかも法律に基づいているかのごとき振りをして、服従せよと強制して来るときなのである。すなわち非公式の権力を行使して来る時、ないしは闇の権力を行使する時なのである

 

 したがってこんな時にも、そうした振る舞いを見せる政治権力に対して、国民に毅然とした対応が政治権力に対してできるように促すには、こんな時こそ、知識人は、臆病にならずに、そうした時の政治家ないしは官僚たちの非公式権力の行使の仕方やその時の非公式権力を行使しようとするもの同士の関係を国民の前に解明して見せることなのだ。

 もちろんそうした行為は、非公式権力の行使者たちからは望ましくないことであり、不都合なことだ。解明され、暴かれたなら、恐怖への神通力あるいは魔法は効かなくなるからだ。隠されていてこそ、あることを目論む当事者らは本来は許されない権力を恣意的に行使できるのだからだ。

 逆に言えば、だからこそ、その分析と解明行為は、知識人の知識人たる本領を発揮すべき分野でもあるのである。

 そして知識人がそれをして見せることこそが、日本の社会が、国民の誰もが、誰を怖れることもなく、何を恐れることもなく、「法の支配」と「法の下での平等」という原則の下に、自分の言いたいことを、誰憚ることなく「本音」で言える社会になることなのである。

そしてそれでこそ、この国は「言論の自由」さらには「表現の自由」が真に実現された国ということになるのである。

またそうなれば、この自由は、政治システムに限らず、この国の経済システム、科学や教育のシステム、福祉のシステム、軍事のシステム、行政のシステム等々、すべてに波及してゆくようにもなるであろう。それこそが、この日本という国が、真の民主主義が実現した国に一歩近づくことなのだ。

 

 これからの日本の知識人に特に求められる重い責任を伴った使命の第2は、この国に「言論の自由」や「表現の自由」という自国の憲法も保障する基本権————第19、20、21、23条————を社会的に実現させることに己の全存在をかけることであろう。そのためには、自らが、政治権力に臆することなく、いつでも、どこでも、堂々と「言論の自由」や「表現の自由」という基本権を行使して見せることである。

 ではなぜそうすることが知識人にとって不可欠と言えるか。

それは、歴史を振り返れば判るように、言論の自由は民主主義の根幹を成す権利であり、言論の自由から民主主義に必要なものすべてが生まれるからである。

反対意見を言う権利、反対派を組織する権利も、である。いかなる政治的組織も、民主的な変革も、すべては言論の自由から始まるからなのだ(NHK BS1 2017年11月3日放送の「BS世界のドキュメンタリー選“自由をめぐる僕の旅”」の中でのハッカー ロップ・ゴングライプの言葉)。

 ところで、「言論の自由」と「表現の自由」とは何が違うのだろうか。

 前者の言論の自由は、文字通り、自分の主義や思想を自由に述べ、また発信することができるとする権利である。もちろん、その場合、相手がいることが前提となる。つまり陸の孤島言論の自由を主張しても意味はない。

 一方、表現の自由も、相手がいることが前提となる。

したがって、その意味では、「言論の自由」も「表現の自由」も共に、私たちがコミュニケーションを取り合う自由を形成している。そしてその場合重要なことは、私たち人間は、互いにコミュニケーションを取る能力を持っていることなのだ。

その場合も、両者の間で違うのは、前者はあくまでも言論という限定された行為を通じて互いにコミュニケーションを取り合う自由を言うのに対して、後者は言論だけではない、芝居であれ、演劇であれ、映画であれ、絵画であれ、また音楽であれ、表現方法の全てを含む点である。

 しかし、いずれにしても、コミュニケーションの自由こそがあらゆる権利を可能にする基本的な権利なのである。

 だから、もし私たちのコミュニケーションを取る権利である「言論の自由」ないしは「表現の自由」が抑圧されれば、それは自分の考えを表現する権利だけでなく、その他さまざまな権利も抑圧されることになる。

 というより、権利という言葉そのものも、コミュニケーションの結果として存在しているわけである。

 そういうわけで、言論の自由も大事だが、それ以上に表現の自由こそは、あらゆるもの、あらゆる社会構造、あらゆる考え、あらゆる他の権利、あらゆる法を下支えする基本的かつ根本的権利といえる。

すべてを支えるこの土台を崩したら、他のすべてをも崩すことになってしまう。

だからこそ表現の自由には、いかなる制限もあってはならないのである(同上番組の中でのウイキリークス創設者ジュリアン・アサンジの言葉)。

 「個」の概念とともに「権利」の概念こそは、「近代」という時代が見出し、また獲得した最も重要な概念の一つなのである。そしてそれを土台から支えているのが、「言論の自由」であり「表現の自由」なのである。

 

 私は、この国にそうした本物の知識人がアッチからもコッチからも輩出して来ることを願う。そしてそのことによってこの国に「言論の自由」はもちろん「表現の自由」も実現されれば、民主主義も実現し、そうなれば、現今の、この国に長いこと蔓延している精神の面での閉塞状態は瞬く間に克服され、人々の中に鬱屈している精神も解放されるだろう。さらには、この国が近い将来、特に直面することになるであろうあらゆる困難な事態をも、国民自らの力で乗り越えられる国と社会になるであろうと確信するのである。

 とにかく、何事も、誰もが、本音で語れること、また他者が語るそれがどんなに自分の考えと異なろうとも、彼にはそれを語る権利があるとして認め合える社会であることが何より大切なのだ。

 そしてこの国の社会がそうした社会となることは、とくにこの国の若者に、本来の若者らしい自由闊達さと溌剌としたエネルギーをもたらすことにもなるだろう。

 知識人の、自身と国民に対する使命と責任は限りなく重いのである。

6.3 すべての政治家に求められる使命と責任と特別の覚悟

 

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6.3 すべての政治家に求められる使命と責任と特別の覚悟

 第6章では、既に述べてきた抽象的な日本国民一般とは別に、政治家、知識人、科学者および研究者、政治ジャーナリスト、そして宗教者といった具体的な職業人あるいは具体的な社会的立場の5種類の人々を取り上げようとするが、その中でも、「覚悟」が求められる、それも「特別の覚悟」が求められると私が強調するのは政治家だけである。

 なぜか。その理由は二つある。

 一つは、なんと言っても彼らは、「国民の代表」だからだ。ここは、他の4者とは決定的に違う。それをもっと正確に言えば、彼ら政治家は、とくに国民から選ばれることを自ら望み、そのための公約を掲げて立候補し、その公約が支持された結果政治家になれた人であって、「国民の、国民のための政治的利益代表」だからだ。その国民に対する使命と責任の重さは、他の4者とは比較にもならない。もちろん、単に国家公務員試験ないしは地方公務員試験という官吏任用試験にパスしただけの官僚ないしは役人とも呼ばれる公務員のそれらと比べても、問題にもならない。そうでなくとも、すなわち、自ら進んで選ばれることを望んで代表となったという点を除いたとしても、政治家の活動はそのまま、私たちの国の国土の安全と、全ての国民の生命と自由と財産の安全に直接関わるものだからである。

 二つ目は、これから政治家になろうとする者の全てには、困難で、厳しく、しかももはや絶対に避けては通れない最重要課題を大至急解決させねばならないという問題が待っているからだ。

 この国の中央と地方のこれまでの政治家という政治家の実態は既述して来たとおりである(2.2節)が、ここで言う最重要課題とは、そのほとんど全てが、そうした2.2節で述べてきたような無責任・無知・無能・無策、国民に対して不忠で、しかも己には甘え切った政治家たちが、巨額の議員報酬・特典・特権は享受しながら、手を付けることを避け、先送りしてきたものなのである。

 その問題とは、たとえば、この国を国家とは言えない状況のままにし、「政府組織の縦割り」を含む統治体制の欠陥を抱えたままにしてきたこと。未だ真の民主主義は実現せず、事実上、官僚による独裁の国のままとしてきたこと。少子化と高齢化は少なくとも50年以上も前から人口統計的には判っていたことなのに何ら手を打たないできたこと。低すぎる食料自給率と農業がどんどん衰退していること。経済大国などと言われながらも、100%近く、エネルギーを外国に依存してきていること。同じく経済大国などと言われながらも、温暖化対策や生物多様性の消滅対策を含めて、この国は環境対策後進国でしかないこと。政府債務残高の対GDP比は、世界のどんな財政危機の国よりも高く、それも増える一方であること。日本の教育行政は世界に通用する人材を育て得ず、福祉行政は国民にますます不安を与える貧困なものでしかないこと。都市部と農村部での人口分布が極端すぎ、今後ますます頻発するだけではなく激化するとみられている自然災害に余りにも脆弱であること。同様に、温暖化と気候変動の進行の中で、これまでの特に旧建設省、今の国土交通省の国土づくりがあまりにも脆弱であること、等々である。

 実際、私は、難問ではあるが、こうした日本にとっての最も急がれる最重要課題を解決させるか解決の目処を明確に立てておくことこそが、私たち国民が、この国の前途に希望を持てるようになり、展望を見出せるようになることではないのか、と思うのである。

なぜなら、それこそが、この国を真の意味で、つまり単なる言葉だけではなく、持続可能な国にすることだからである。そしてそれを実現して見せることこそが、この国の真の安全保障となるのだからである。

日米安全保障条約だけが安全保障ではない。

 そういう意味では、例えば、安倍晋三の祖父(岸信介)の頃からこだわって来て、また孫の安倍晋三もこだわっている憲法改正問題、特に第9条問題などは、二の次、三の次の問題であると私は考える。もし、憲法改正を言うなら、憲法として欠陥や不備だらけ、曖昧だらけの現行憲法を、全面的に見直した新憲法に取り替えることの方がはるかに重要なことだし、また急がれてもいることであろう(16.3節)。

 そこで、以下では、上記の最重要で、解決が緊急に求められているこれらの問題を一括して、私は「日本の最緊急最重要課題」と呼んでゆく。

 

 ではこの「日本の最緊急最重要課題」を解決してゆくには、あるいは解決の目処や方針を明確にしてゆくには、あるいは行けるようになるには、これからの政治家は何を、どのような手順で、どのように対処してゆくことが求められるのだろうか。

 それを私なりに整理してみると、次のようになる。

手順その1.先ずは政治家という政治家は、民主主義政治を行う上で絶対に知っていなくてはならない政治的基本概念の全てを、それも、それらを体系的に我がものとすることである。

 それは、例えば次の諸概念だ。

国家、国、政治、政治家、権力、議会、最高権、政府、内閣、執行権、三権(分立)、民主主義、議会制民主主義、立憲主義憲法、法律、主権、独立(国)、自由、平等、共同体、市民、権利、人権、統治、首相、閣僚、自治、公務員、独裁、そして法の支配と法治主義、等々。

 実際、これまでのこの国の政治家という政治家は、私からみると、これらの諸概念をいい加減にし、また曖昧なままにしながら、しかし自分では“知ったつもり”になって政治家をしてきただけだ、と思う。というより、代々、一人ひとりが自分で近代民主主義政治の成立過程を学ぶというのではなく、自ら閉ざした日本の政界あるいは井の中の蛙的政界で、先人がやってきたことを、やってきた通りにただやって来ただけだし、また今もやっているだけだ、と私は断言する(2.2節)。

 もし、近代民主主義政治の成立過程をきちんと学び、その中で上記諸概念をきちんと理解していたなら、今、この国は、世界から見て、政治的にこれほど情けなくまた恥ずかしい状態の国にはなってはいなかったはずだからだ。

 なお、上記諸概念を理解する上で特に重要となるのは、私は、国家、権力、民主主義、議会、政府、法の支配と法治主義であろうと思う。

 またその中でも、国家については、「国家と国との違い」、権力については「権力は何に拠るか」、したがって「権力は移譲できるか」、「権力は、誰によって、どのように行使されねばならないか」、また「どのような権力行使は許されないか」ということの理解と、議会と政府について、「その両者のあるべき関係」ということの理解であろう、と思っている。

 とにかく、何回でも言うが、国会を含む議会は決して「質問」の場ではない。それも三権分立の原則を侵して、政府に向かっての。議会はあくまでも立法の場なのだ、というより、議会こそが立法の場なのである。政府、つまり内閣ではないし、ましてや官僚に立法を放任するなどもってのほかだ。

 なぜなら、「立法」ということは法律を作るということであり、法律というのは国民すべてを拘束力を持って一様に規制するルールな訳だから、最高度の権力行使ということになる。

 したがって、政治家がその立法を官僚に放任するということは、そして官僚の作った法律に追随するなどということは、彼に選挙当選時に権力を付託した国民の信頼を裏切る最大の行為であると同時に、国民の代表であるはずの者が、国民の公僕でしかない者に国の運営を放任するということであり、もっと言えば、国民の代表であるはずの政治家自身が、官僚(役人)独裁を推し進めていることでもある。

 したがってその行為は国民への裏切り行為であり、その意味するところは、考えられる通常の犯罪、例えば、窃盗、詐欺、強姦、放火、ひき逃げ、飲酒運転、また止むに止まれない事情による殺人、等々とは比較にならないほどの重罪だ。もちろんそれは、「政治資金規制法違反」とも比較にもならない。なぜなら、立法されたそれは、すべての国民の生命と自由と財産に直接影響をもたらすからだ。窃盗、詐欺、強姦、ひき逃げ、等々は国民すべてには影響をもたらさない。影響の範囲も、一時的だし、一地域に限定される場合がほとんどだからだ。 

 むしろその立法権力移譲行為は、民主主義議会制度あるいはその政治体制そのものへの裏切りであって、その意味では国体への反逆罪に相当する。したがって、本来だったら、そのような立法権力移譲行為を働いた政治家は極刑に処せられるべきなのだ。もし、そのような法律があったなら————もちろん己の甘い政治家たちが、そのような法律を制定するはずはないが。そうでなくても官僚に依存しているのだから————。

 なお、議会の政府への質問は、決して「議会の執行機関へのチェック機能」を果たしていることでもなんでもない。

 なお、国が国家と言えるためには、当然、政府内の組織は「縦割り」となっていてはならない、ということの理解も含まれなくてはならない。

なぜなら、「縦割り」が温存されたままであったなら、政治的説明責任の中枢などあり得ないし、

社会のあらゆる個人や団体が、合法的に最高な一個の強制的権威によって統合されることなどあり得ないからだ。

 また憲法とは、「国の統治権、根本的な機関、作用の大原則を定めた基礎法。国家存立の基本的条件を定めた根本法」(広辞苑)であることを理解するなら、もちろんそれは安倍晋三が言うような「国の理想を明らかにするもの」ではないことは明らかであって、例えば、中央政府の法的地位・管轄事項・権限の範囲と、地方政府の法的地位・管轄事項・権限の範囲、そして両者による共同管轄事項をも明確にされねばならない、という理解も含まれるはずだ。

つまり、この点だけを見ても、現行憲法は、不備である、あるいは欠陥を抱えている、ということが判るのである。

 実際、こうしたことどもが憲法上において明確化されていなかったがゆえに、この度の新型コロナウイルス感染対策に当たっては、中央政府と地方政府の間で、その対応の仕方のズレ、あるいは調整に手間取り、その結果、一体どれほどの人をしてコロナウイルスに感染させてしまい、また死に追いやってしまったかしれない。

 また統治ということを理解するなら、政府が国民に向けて発することはすべて、既に公布されて確定した法律に拠ってのみ行われるべきで、臨機の命令や指示によって為されるべきではない、ということである。それが「法の支配」ということでもあるのだから。

もちろんその場合、国民にとって必要な法律は、議会の政治家たちが、あらかじめ議会で議論して、法律として定め、公布しておく必要がある。

 

手順その2.政治家が、特に一国の政治的最高責任者が、あるいはその者が公正に任命した一人の人物が、この国の「日本の最緊急最重要課題」のそれぞれについて、余すところなく、正確、かつ論理的に————「丁寧に」、ではなく、また「情緒的に」でもなく————全国民に向かって説明することである。

 そもそも、物事を「説明する」とは、客観的事実あるいは客観的真実のみを用いながら、必要なことを、隠すことなく、なぜそうなっているか、なぜそうするか、いつまでに何をどうするか等々、相手が知りたいと望んでいること、相手に理解してもらいたいと思うその全貌を、論理をもって述べることなのだ。

 そして説明後、国民から質問があるなら、その質問がなくなるまで、政府は、あるいはその政治的説明責任の中枢となる人物は、それに誠実に答える。

 そして最後に、国民には多大な負担をかけることになるが、自分たちが先頭を務めるゆえ、なんとか協力してもらいたい、と不退転の決意を持って、心を込めて訴える。

 

手順その3.上記の国民への状況説明と協力依頼を国民から受け入れられたなら、後は、政治家たちは、全員が、次の手順に沿って、自分たち政治家の使命と責任を果たしてゆくだけである。

 まずは立法機関である議会の政治家について。

①一人ひとりは、「日本の最緊急最重要課題」について、その中の個々の問題について、秘書の力を借りて、あるいは秘書を通じて、しかるべき科学者あるいは専門家に尋ね、教えを請いながら、徹底的にデータと情報を集め、実情を把握する。

②一方、選挙の時以来、各々の政治家が国民の前に掲げてきた公約の中身を再検討し、「日本の最緊急最重要課題」の中のどれかと関連づけられないかと吟味し、検討する。

③もし関連づけられるものがあったなら、それらを一緒に解決する方法や手段を秘書とともに、あるいは科学者専門家と共に検討する。

④その検討結果を携えて、議会内で議論し、相手を論破したり、説得したりして、最終的には多数の賛同を得ながら、多数決を通じて、一つひとつ、公式の政策や法律と成してゆく。

 なおここで特に重要なことがある。

それは、ここでの立法については、既存の法体系との間で齟齬が生じ用途も、それには全く構うことなく独自に立法すればいい、ということである。

なぜなら、とにかく時代にあった法律、この国を持続可能とする法律を定めることこそが大事なのだから。

それに、法理論の観点からは、新たに作られた法が旧法や在来法よりも優先されるのである。

そしてその在来法は、おそらくその大多数は、官僚の作った、国民のためというよりは官僚たちの利益に貢献する、官僚組織に好都合な法律であろう。そのような法律は、躊躇なく廃棄処分とすればいいわけである。

 したがって、もうこれからは、例えば「内閣法制局」など一切気にすることなく、政治家が政治家同士で、議会において、どんどん立法してゆけばいいのである。そしてそれは、それだけ官僚独裁を消滅させることでもあり、新しい日本に生まれ変わらせることでもある。 

⑤なお、その間、突発的に、国民の「生命・自由・財産」に関わる大事が生じた際には、すべての政治家は、ある者は市町村議会議員として、ある者は都道県議会議員として、そしてある者は国会議員として、速やかにその現場に自ら秘書とともに足を運び、状況を克明に調査し、また被災された方々の訴えにも誠実に耳を傾け、そこで掴んだ事実の全体を個々人として、あるいは政治家同士で互いに協力し合いながら、大至急まとめる。

 そしてまとめたそれらを携えながら、対処方法を決める上で助言をしてくれそうなその分野の専門家や科学者を訪ねて、一緒に対処方法を練る。

 そこである程度の見込みある対処方法が定まったなら、各政治家はその対処方法を携えて、今度は、臨時議会を開く。それは臨時市町村議会、臨時都道府県議会、臨時国会である———通常議会を待ってなどといった形式張ったことを言っていないで———。

 その臨時議会で、目の前に起こっている大事件にベストな状態で対応しうる新しい条例なり法律なりを制定するのである。もちんその場合、必要な予算をも思い切って付ける。

 

 次に、執行機関である政府の政治家について。

そこで言う政治家とは、中央政府では、総理大臣であり、閣僚である。地方政府では、首長、すなわち、市町村長であり、都道府県知事である。

①議会が、上記の手続きを経て議決した法律なり政策を受け取る。

②政府は、それを忠実に、そして迅速果敢に執行するのである。

それを可能とするために、中央政府では、その中枢である内閣において、その執行方法を、最大の効果を上げる方法とするための議論をする。それが閣議である。それが本来の閣議のありようなのだからだ。

③そしてその執行にあたっては、すべての不省庁が、連携して協力する。

もちろんそこでは府省庁間の「縦割り」は、各閣僚全てが協力しあって敢然と打破する。

その時、抵抗したりサボタージュを決め込む官僚は、憲法第15条第1項に基づき、閣僚は、人事権を正当に行使して、躊躇なく罷免するか降格する。

その人事権という権力は、もともと国民の代表は、政治家になった時から主権者である国民から与えたれているのだからだ。

④閣僚は、議会が決めたことの執行にあたっては、公僕たる官僚に適切に指示を下してはコントロールして、最高度の効果を上げるよう、効率を上げて、執行をやり遂げる。

 

 以上の経緯から読者の皆さんはただちに気付かれると思うが、この国のこれまでの政治家は、国政レベルであれ、地方政治のレベルであれ、明治以来この方、以上のような行動をとったためしはたったの一度もなかったのである。

 「言論の府」であり立法機関であるはずの議会では、政治家がして来たことと言えば、幾度でも言うが、ただ質問だけだった。

 そんな状態だから、前例のない大災害が起っても、議会としては一向に動かず、被災者への対応は基本的にはいつも政府に任せっ放しにしては、自分たちは傍観して来ただけだった。

 ところがその政府は政府で、その中枢を占める内閣の政治家(首相と閣僚)の態度は、官僚組織の「タテ割り」状態を放任したまま、その役人らが、国民の命や幸福を第一に考えるというのではなく、彼らが所属する府省庁の既得権益を守ることを最優先にして出して来た政策にもっぱら従い、操り人形となって来ただけだった。

したがって、大災害時にはよく言われてきた「初動体制の遅れ」は、その本質は、すべて、政治家の官僚(役人)依存によるものだった。というより、普段から官僚(役人)に依存し追従することに慣れてきてしまっているために、イザッという時、総理大臣も閣僚も、何をどうしたらいいのかわからなくなってしまうのだ————このことに関連して、心配されるのは、政治家の「シビリアン・コントロール」の能力の問題だ————。

 こうしたこの国のすべての政治家の使命放棄という無責任の結果、つまり議会の怠慢と政府のそうした官僚依存と追従姿勢に因って、大災害のたびに、被災者となった国民は、決まって翻弄され、いつまで経っても希望も展望も見出せない中、精神を患ったり、絶望のあまり自殺する者も出たりするという悲惨な状態を繰り返して来たのだ。

 実際、「3.11」による被災者は、丸9年経った今もなお、1万人以上の方々が仮設住宅住まいを強いられ続けている。未だ実態が公表もされていないが、新型コロナウイルス禍の今、果たしてどれだけの人々が、「自助・共助・公助」ばかりを建前とする自国政府によってすら、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」をも保障されずに、自ら死を選んでいることか。

 

6.2 これからの日本国民一般にとくに求められる生き方

 

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6.2 これからの日本国民一般にとくに求められる生き方

 本節では、第2章の2.2節(2020年8月11日発信 ただし、現在改訂中)、前5章の5.1節(2020年9月13日発信)を教訓とし、さらには前節(6.1節)にて私なりに想定されるとしてキーワードをもって描いて来たこれからの時代のパラダイムというものを土台にして、私たちが日本国民としてこれからの時代を生きるに当って、とくに重きが置かれなくてはならないと私には思われる生き方について考えてみる。

 なぜそれを考えるか。それは、一言でいえば、日本国民がこれまでのようなものの考え方や生きかたをしていたのでは、この国はダメになる。世界でもますます通用しなくなる。その結果、ますますこの国は世界からまともに相手にはされなくなって孤立化を深めてしまう、と私には危惧されるからである。もちろん国民は自国に誇りも自信も持てなくなる。

 それはこう言い換えてもいい。これまでのようなものの考え方や生き方を続けていたのでは、今後、この国の内部だけではなく全人類的難題が生じたとき、日本は国際社会の中でその生き方が理解されず、また共感も得られないものの考え方や生きかたをしているために、自ら孤立を深め、さらにはそこにこの国は真の国家ではないという事情も加わって、日本だけが全く身動きの取れない事態に陥ってしまって、自滅させてしまう可能性が大となるのではないか、と。

 実際、1930年代から40年代前半までの日本がそうだった。世界を知ろうとはせず、独善に陥り、一人孤立の道を選び、それに突き進んで行った挙げ句、国を破滅させてしまった。

 では戦後から今日までの日本はどうだったか。「先進国」と呼ばれるようにはなっても、その実態は、既述してきたように(5.3節)、世界一般とは全く違う発展のさせ方をしてきた。その結果が「富める国の貧しい国民」、「うちひしがれた人々の国」になった(K.V.ウオルフレン「システム」p.14,16)。

今後についても、もしもこの国が、独立国とは名ばかりで、経済と軍事の超大国に主権を譲渡しては保護国のごとくに追随し、相変わらずGDPを上げることだけが国のあり方であるかのような視野狭窄で目先主義にこだわっているようでは、この国はますます貧相な国、情けない国とならざるを得ず、世界からは、ますます「価値ある国」、「信頼できる国」とはみなされない国になってゆく可能性は十分にある、と私は考える。

 実はそれは、これからは一国だけではどうにもならないから、ますます国際社会が協力しあって難問解決にあたってゆかねばならない状況を考えるとき、この国が世界からそうみなされてしまうことは、それ自体がこの国を危うくすることなのだ。

 そうでなくとも、世界の大多数の国々は、先進国か新興国か途上国かを問わずに、人類の存続がかかっている地球温暖化および気候変動の激化、生物多様性の崩壊という事態を食い止めようと政府と国民一人ひとりが真剣に取り組んでいるというのに、この国では、政府も国民の大多数も、そんな重大な問題に関しても、相変わらず損得勘定の中で、「あなた任せ」「成り行きまかせ」の態度で、無関心のままだ。

 

 そこで私は、これまでのこうした生き方は綺麗さっぱり返上し、これからは、私たち日本国民は、せめて次に上げるような生き方に、それも大至急、転換させてゆくことが求められているのではないか、と私は考えるのである。誰からか。それは私たちの子や、孫たちからである。私たちがこれからの時代を背負って立って行ってもらいたいと願う世代からである。

 そしてそうした転換は、決してできないことではないはずだ。

実際、日本国民は、過去、少なくとも2度はそういう体験を経て来ているのだし、それをやり遂げて来てもいるのだから。

1度目は、江戸幕末から明治維新にかけて。2度目は、アジア・太平洋戦争の無条件敗北の前後で。

 ただ3回目の今回が、過去2回のそれと根本的に異なるのは、力ある者から押し付けられてそうするのではないことだ。また、「他者がそうするから、みんながそうするから」でもない。各自が、それぞれ自分の頭で、なぜそうしなくてはならないのかと、とことん考え、納得の上で、自律的に転換することが求められていることである。

 

1.どんな理由があろうとも、政治に無関心となるのはやめよう。「関心を持っても無意味」と考えるのもやめよう。

 政治とは、「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営みのこと」と定義されることから明らかなように(広辞苑)、政治こそが、私にとってもあなたにとっても、生きて暮らしてゆく上で、その人生の幸不幸を左右するあらゆる制度や仕組みを「秩序」として決めることができてしまうのだから。

 あなたがたとえ無関心でいても、あるいは不信感を抱いていても、政治の方からあなたに「強制力」を備えた「秩序」を引っさげてやってくるのだから。

それに、無関心でいたら、いつかあなたにとっても、悔やんでも悔やみきれない事態になってしまう可能性も高いから!

 

1.そして、政治に関心を持つとき、とりわけ「権力」というものの行使のされ方に注視しよう。権力とは、「他人を押さえつけ支配する力」のことである(広辞苑)。

とくに立法、すなわち法律を作るということは最大の権力行使なのだ。

なぜなら、法律は、一旦できてしまえば、全ての国民が、無条件に、拘束し支配されることになるからだ。

 

1.そしてその場合、「権力」の行使は、被支配者あるいは被統治者である私たち国民の「合意」が絶対に必要な「前提」となることも知っておこう。それは、私たち主権者の合意なくしては権力の行使は「許されない」ということでもある。言い換えれば、定まった法律に基づいて、その権力は行使されねばならない、ということである。「法の支配」とはそのことを言っている。

 なぜなら、もしその「合意前提」がなかったなら、権力の行使は歯止めがなくなり、政治家は、一旦政治家になったならどんな法律も作ってしまえることになる、ということから直ちに判る。

 なお「法の支配」に似た考え方に立つもので「法治主義」がある。それは、行政権の行使には法律の根拠が必要であるとするものである。

 

1.国民の生命と自由と財産に関わることの決め事と決め方については、いつでも、どこでも、「透明性を保て!」、「密室で物事を決めるな!」と、声をあげよう。

そして、つねに、「物事は民主主義的に決めよ!」と声をあげよう。

民主主義とは、デモクラシー、すなわちクラシー(権力)はデモ(民衆)にある、権力は国民が行使する、という意味なのだから。

 

1.そして「物事を決める時には、つねに『手続き』を透明にせよ!」と声をあげよう。

 

1.物事やルールを決めるときには、曖昧さを排除し、恣意性が介入することを防ぐために、最大限、具体的に明確にしよう。また、役割を決めるときには、それぞれの役割と、相互の関係も明確にしよう。

 そうすることで、後々、問題が生じたとき、スムーズに対処できるようになるからだ。

 

1.「目先」や「損得」、「その場しのぎで」で物事や現象に対処するのはやめよう。

できるだけ「長い目」で、せめて10年のスパンで、できれば人の一生の長さである80年のスパンで考えよう。

 

1.憶測だとか想像あるいは噂やデマあるいは風評に流されることなく、また自分の気分や感情に流されずに、つねに「事実は何か」や「真実は何か」に、そして「真理とは何か」にこだわろう。

 そして「真実への勇気、正義への勇気」を持とう。

 

1.宇宙がいかに広いといえど、宇宙にはいかに無数の星があろうとも、私たち人間が裸で過ごせるのは、この地球しかないことをつねに知っておこう。

地球こそ、人類と他生物のすべてを乗組員とした「運命共同体」なのだから(バックミンスター・フラー 「スペースシップ・アースの未来」NHK BS12013年11月26日)。

そんな中、いつも、「人類全体の共通の価値」(K.V.ウオルフレン)とは何か、「人類の大義」、さらには「人類全体に対する忠誠」(ネルー首相)とは何か、を考えよう。

 また、その上で世界全体の平和のあり方を考えよう。

 

1.何を為すにも、できるだけ、「何のために」それをするのか、「誰のために」それをするのか、つまり、動機や目的を明確にしてから取り掛かろう。

 

1.特に政治の世界や行政府において、不正だと思える事があったなら、それを黙認しないで、「不正だ!」との声をはっきり上げよう。「秩序」を言う前に「正義」を行え、と訴えよう。

なぜなら、正義の上に成り立つ秩序こそ、守るべき価値あるものだから。

 

1.同様に、言葉の「意味」を曖昧なままに用いるのではなく、つねに自分でその意味を確かめ、正しい言葉を、正しく用いるようにしよう。

 なぜなら、用いる言葉が曖昧であるということは、自分の頭の中が明確に筋道立っていないことであり、また聞く側も正確に理解もできず、双方にとって無意味な時間を過ごしていることになるからだ。

 

1.物事についてより多くを「知る」ことに拘るよりは、先ず自分の頭で「考える」こと、「判断する」ことを優先させよう。

なぜなら、イザッという時に本当に役立つのは、まずは情勢を観察あるいは洞察する力であり、情勢を分析する力であり、決断する力であるからだ。

 その際役立つのは、自分の頭で「考える」力であり、「判断する」力なのだから。

知識の量は、ないよりはあったほうがいい、という程度のことだ。

 

1.起こった出来事についても、表面的に見ようとはせずに、事の「本質」を考えるようにしよう。

 なぜなら、その本質こそが表面的現象を生じさせているのだから。その本質を捉えた変革こそ、本物の変革となるのだから。

 

1.「継続は力なり」とは言うが、続けることそのものに意味があるわけではない。時代遅れとなり、不要となったシステムや慣例は勇気を持って廃棄しよう。そして現状や時代に適合した仕組みを考え出し、それを導入しよう。

 

1.また、自分のしていることに行き詰ったときには、「理念」や「原点」というものを再確認しよう。そして間違っていたと知った時には、「面子(メンツ)」などにこだわることなく、潔く、また勇気を持って撤退するか中断しよう。そしてその時「教訓」を引き出そう。

なぜなら、間違っていたことをし続ければし続けるほど、傷を深め、犠牲を多く出すことになり、回復は困難となるからだ。そして教訓は進歩と発展を可能としてくれるからだ。

 

1.自分が関わったことや自分が為したことについては、言い訳をするのはやめよう。

たとえ自分が集団行動の一員であっても、一人ひとりはつねに当事者意識を持とう。

つまり自分にも責任があることを自覚しよう。そして嘘をつくことはやめよう。

嘘は、すべての人の努力を無にしてしまうから。

 

1.どんなに科学が進歩したところで、自然を解明し尽くせるものではないし、ましてや自然を克服したり支配したりすることなど絶対にできないことを知ろう。と言うより、人間は、自然力の前では全く無力であることこそ知っておこう。

 そして、科学はあくまでも「知性」の産物であって、「理性」の産物ではないことも知っておこう(真下真一「学問・思想・人間」青木文庫)。

 したがって、科学の成果が人間にとって有益となるか否かは、ナイフなどの道具と同じで、あくまでもそれを用いる人間の考え方次第で決まることを知ろう。

 また、科学の法則的応用としての技術については、それが人間により大きな利便性をもたらす技術であればあるほど、同時に他方では、必ず、その利便性とは逆の、すなわち負の利便性とも言うべき極めて厄介な効果を、それも正の利便性とは比べ物にならないほどの空間的広がりと時間的長さをもって人間にも社会にも自然界にももたらすことをも知っておこう(7.4節 2020年12月30日発信)。

 

1.公務の世界での出来事については、またたとえ日常の会議でも業務でも、常に「公式記録として残せ!」と声をあげよう。

そして「失敗したなら、それを隠さず、そこから教訓を引き出し、それを生かせ!」とも、声をあげよう。

公務あるいは公共事業は、役人のポケットマネーでやっているわけではなく、全て国民が納めたお金(税金)を使って成り立っていることだからである。

 

1.他生物との共生を大事にしよう。多様性を大事にしよう。

自分が嫌いな他生物も、私たちの知らない自然界では立派に存在意義を果たしているであろうことを知ろう。

 

1.「自由」の意味を、そして「多様性」の意味を、深く考えよう。

 

1.「権利」ということの意味を、「法」というものの意味を、結びつけて考え、我がものにしよう。本物の「市民」になろう。

 

1.他者を「肩書き」や「見かけ」で判断するのはやめよう。「中身」を、「その人自身」を見よう。

 

1.他者の言葉や著名人の言葉を鵜呑みにしたりに流されたりせずに、またSNS(ソーシャル ネットワーキング システム)上に飛び交う言葉にも流されずに、まずは自分の頭で考え、判断しよう。発信者が明確であること、飛び交っている言葉が示している出来事の根拠が明確であることに重きを置こう。

 

1.人は、どんな人でも、誰でも————つまり、貧富の差、健常者と体に障害を持っている人の別、思想信条の違い、信教の違い、肌の色の違い、国籍の違い、もちろん男女の違いを超えて————、人間として生きる権利がある、それだけの尊厳もある、一人として生きる価値のない人はいない、存在するだけで意味がある、ということをみんなで認め合おう。

 

1.誰かに困った事が起ったら、あるいは起っていることを知ったなら、「知らないふり」をしないで、いつでもそれをみんなの共通の問題として捉え、それをみんなで話し合って解決策を見出し、見出したそれをみんなで実行しよう。

 

1.目に見えるものよりは、むしろ目に見えないものに私たちは生かされ、また支えられていることを知ろう。

 たとえば人の心であり、土壌中の生き物たち。

 

1.便利で重宝そして万能とされる「お金」ではあるが、それをどんなに多く持っていても、決して買えないもの、「値段」の付けようもないものもあるということを知ろう。

とくに人の命であり、心であり、健康である。

しかし、自分の納めた税金という「お金」の使途には関心を持とう。

 

1.人間は、自分が生き延びるためにはここまで残酷になれる動物だ、他者の痛みや苦しみにはここまで無関心でいられる動物だ、ということは知っておこう。

 

 

 

 以上を補足する意味で、私は次の二つのことについて、私なりの考えを述べてみようと思う。

1つは、「自分を持つ」、あるいは「自己を確立させる」ということの大切さについて。

もう1つは、これからの時代の宗教とそのあり方について、である。

 まずはその第1の、「自分を持つ」、あるいは「自己を確立させる」ということについて。

 自分を持つあるいは自己を確立させるとは、いつでも、自分の意見や価値観を明確に持つということである。物事については、他者の言葉や時の情勢に流されることなく、いつも自分の頭でものを考え、判断し、決断するということである。またその結果については、自分で責任を負える、ということである。それは、言い方を変えると、つねに「自らに由っている」、「自身を経由させる」という意味で、本当の意味で「自由」になるということだ(4.1節の「自由」の再定義を参照)。そしてそれは、「みんながしているから自分もする」とか、「赤信号もみんなで渡れば怖くない」といった類いの生き方とは対極に立つものだ。もちろん自分を持つことが出来なければ、社会にあっても、あるいは集団内にあっても、当事者意識も持てるはずもなく、責任を持つという意識も生まれようがない。それでは社会という共同体に生きる意味も資格もない。というより、自分が人間として生きる主体的な意味や目的など見出せるわけもない。

 また、自分で自分を持つということは、同時に、他者が他者自身を持つということを容認することでもある。つまり、「自分を持つ」ということは、他者が多様であることを認めること。というより、「誰もが互いに違っていて当たり前」と考えられるようになることだ。

それはもともと人間とは、その本性において自由を好み、またそれを求めるものなのだから、「みな、違う」のは当たり前のことなのだ————歴史の発展とは、人間の人間による人間のための自由を求め、実現させるための試みだったのではないか————。違った皆のそれぞれが、違ったままを認め合い、この現実の社会で存在価値を持ちながら、互いに支え合うのである。だからこそ社会は面白いし、だからこそ、そんな社会には生きる価値があるのである。

 そもそも、みなが画一的で、均質的で、同じであったなら、つまり自分も他者も皆、同じだったなら、他者は鏡の世界の中の自分となる。あるいは皆が皆、クローンとなる。

 そのような社会あるいは集団は、一旦何か存在を脅かすような事態が起これば全滅しかねない。実際、自然現象や社会現象は、無数の形態を持って現れるのである。その時、それに対応する力を持ち得ない。つまり耐性がない。脆いのである。

それにそんな社会や集団では、一人ひとりの存在意義や価値は特になくなる。なぜなら、そこでは、いつでも、誰もが、他の誰かと取っ替えることが容易になるからだ。一人ひとりが「掛け替えのない」存在ではないからだ。もちろんそんな社会は、誰にとっても、生きがいを感じられる社会でもないし、誇りも自負も感じられることもなく、また自信も生まれようがないのである。

 また、「自分を持つ」あるいは「自己を確立させる」とは、自分をごまかさず、自分に誠実になることでもある。

 そのためには、私たちはもう物事を「建前」ではなく、つねに「本音」で語ることが必要なのである。少なくとも、社会に「建前」と「本音」という二通りの生き方があり、それが公然と容認されていること自体、それは異様で異常な社会だ。

なぜなら、建前を語るということは、言ってみれば、“自分は、今、事実を語ってはいませんよ”、 “この場を言い繕っているだけです” と言っていることでもあるからだ。そしてその場合、聞き手も、そのウソをウソと承知で、あるいはそれを容認して聞いているということだからだ。

そしてそのこと自体、この国の現実社会を、皆が皆、「ウソがまかり通る社会」としていることである。

 確かに本音で語るということは、場合によっては「対立」は避けられないかもしれない。しかし、対立を恐れてお互い本音で語り合うことが出来ずに建前でばかり語り合っているところでは、物事が上辺だけのこと、形式的なことだけで済まされてしまい、真の意味での相互理解など出来るはずもない。そして真の意味での相互理解が成り立たない社会では、たとえどんなに「絆」を強調しようとも、強固な信頼関係も築けるはずはないのである。強固な信頼関係の築けない社会では、非常時、人々の強い結束と協力が得られるはずはない。むしろバラバラになりかねない。

 国も社会も、すべて、人々の共同体である。そこでの人々を深いところで繋ぎ止めるのは、強制力でも法律でもない。人々相互の「信頼」だけだ。相互の間にその信頼がなかったら、何をしようにも、何を訴えても、人を動かせないし、また人は動かない。人を動かせなくてはその国その社会にとっての難題は克服できない。

 ただし、どんなに本音で語り合うことが大切とは言っても、相手を尊重し、相手の立場を思いやりながら語るということはいつでも忘れてはならない。そうであれば、人間というものは最終的にはきっと相互理解に達しうるものだし、むしろそのことを経ることで、より大きな連帯感が生まれるものなのではないか、と私などは信じるのである。

 とにかく、「建前」がまかり通る社会というのは、事実や真実が曖昧にされたままの社会のことであるし、ウソで塗り固められた社会でもある、ということだ。

そんな社会では、相互理解や相互信頼はおろか、多分、共感も、思いやりも、やさしさも生まれないだろう。そんな社会は真の共同体ともなり得ず、したがって本物の民主主義も育ちえず、すべてが形式的で上っ面なものになり、むしろ一人ひとりを互いに孤立化させてしまうしかない。

 私は、この国をしてそのような上辺ばかりの社会、建前ばかりの社会にして来た最大の原因の1つが、古来の「和」という考え方あるいは精神であったと考えるのである。

その語の生みの親である聖徳太子の十七条憲法を知れば判るように、その第一条には、「和をもって貴し」としながらも、続いて「忤(さから)うことなきを宗とせよ」(井上茂「法の根底にあるもの」有斐閣p.220)と釘を刺している。このことからも判るように、十七条憲法が最も重視しているのは、善悪の区別もなく、正義不正義の区別もなく、とにかく対立を起こさせず、ただ社会の秩序を維持しようとすることだけなのだ。そしてその動機も、民衆の立場に立とうとするものではなく、また慈悲を尊ぶ仏の立場に立ったものでもなく、ただ統治者の立場に立った統治者の地位を安泰にさせるためのものでしかなかった、と私は考える。

 人間社会の真の秩序は、人間相互の間の理解と信頼が基礎にあり、しかも正義が行われていて初めて成り立つものである。またそうであってこそ真の秩序は維持できると私は考えるのである。その意味で、上から言われて、あるいは上辺だけ繕ろう形で言われて、成ることではない。

 とにかく、望んで対立を起こす必要はないが、対立を恐れることはない。そして、対立が生じても、それをなかったものとして覆い隠してもならない。それをしたなら、いつまでもくすぶってしまう。

むしろ、真の和は、その対立を対立として受け止めて明らかにし、当事者間で向合い、既述のように、互いに相手を尊重し、相手の立場を思いやりながら本音で語り合うところにしか生まれない。

 なおここで、最近よく聞かれる「自分らしく」という言葉について考えてみようと思う。

果して「自分らしく」、例えば「自分らしく振舞う」とはどういうことを言うのであろう。

一見心地よく聞こえはするが、しかしよく考えてみると、それは私には非常に奇妙に感じられる言葉遣いなのである。

なぜなら、「自分らしく」と言う以上、「自分があること」が前提となっているはずである。しかし、その実、この言葉遣いは、これまで、どちらかと言えば、自分は自分というものを持っていなかった(のではないか)ということへの悔恨の意味が込められて用いられている、と思うのである。なぜなら、もし、いつも自分というものを持っているという自負があるのなら、あえて「自分らしく」などと、自分で自分に言い聞かせ、励ますような言い方をする必要がないからだ。

ということで、この言葉遣いは、矛盾した言い方になっているのではないか、と私は思うのである。

 したがって、いつも自分を維持できない自分に言い聞かせ、自分を持てるよう励ますためならば、その場合はむしろ、「ありのままの自分でいたい」とか、「ありのままの自分を大切に」という言い方の方が、率直で、自分に誠実な言い方になるのではないか、と私は思うのだが。

 

 第2は、これからの時代の宗教とそのあり方について、である。

 私は、これからの時代を生きて行くのに、とくに重要な意味を持ってくると考えられるのが「宗教」なのではないか、と考える。

それは、今後は、人知や人力の遠く及ばない事態や現象が頻発してくると想われるが、そのとき大きな拠り所になるのが宗教なのではないかと考えるからである。

ただしここで私の言う宗教とは、この国で従来から言われて来ている宗教とは、その概念は多分かなり違うであろう。

 ヒトに限らず、生物は皆、絶対的に平等に、いつかは必ず死ぬ。しかしいつかは死ぬことを知って生きているのは多分人間だけであろう。そして死んだとき、それまでの自分の記憶は全部消滅する、意識もなくなるということを知って生きているのも人間だけだろう。さらには、死んだ後どうなるかは誰にも判らないということを知って生きているのも人間だけだ。

 だから死ぬことは誰にとっても怖い。特に健康な人にとっては。

そしてそれが人間の普通の心理なのではないか、と私は思う。

 また人間は、どんなに科学技術力を進歩させ得たとは思っても、圧倒的な自然の威力を前にした時には、全くの無力であることを思い知らされる。さらには、普段は自分のことが判っているつもりでいても、ひとたび窮地に陥ったときには、自分で自分のことをどうしたらいいのか判らなくなるし、自分がどういう人間であったかということさえ判らなくなってしまう自分を思い知らされる。

 そんなとき、人は、「自分は、一体何を考え、何のためにこれまで生きて来たのか」、「何のために、今を生きているのか」、「これから、自分は一体何のために、どのように生きて行けばいいのか」等々と考えないではいられなくなるのではないか、と私は思う。そして、そもそも「自分は一体何者なのか」、「どこから来たのか」、「これからどこへ行くのか」とか、「自分はなぜこの世界(この世)に存在しているのか」、「生きるとはそもそもどういうことか」、等々といったことをも否応なく考えないではいられなくなるのではないか、と思う。

 ではそのような時、その人にとって本当に必要となるものは何か。

それは、私は、自分の生きる意味を見出させてくれて、その生き方をその人自身に確信を持たせてくれ、導いてくれるもの、と言っていいように思う。

 私が言う宗教、私が意味する宗教とは、そういう導き手としてのものである。

 そういう意味で、その宗教とは、もはや、たとえば「それを拝めば商売繁盛する、健康になる、家内安全が守られる、救われる」といった類いの託宣を授ける、いわゆる「ご利益宗教」ではない。祈祷すれば「五穀豊穣が叶う」といった類いのものでもない。「子どもが誕生した時には神社に、結婚式は神前あるいはキリスト教会で、葬儀・葬式はお寺で」という、人間の側のご都合主義を商売とする宗教でもない。また、「自然の中にはいたるところに神様や仏様がおわします」といった「八百万の神」の存在や、「山川草木悉皆成仏」と教えるものでもない。もちろん天皇を現人神とする国家神道の類いでもないし、歴史上の特定の人物を「神」としてしまうような個人崇拝的な宗教でもない。

 また、「とにかくそれを唱えれば救われる」とする類いの宗教でもない。特別の修行あるいは荒修行をした者でしか、あるいは悟りを開いた者でしかその真髄が理解できないとする宗教でもない。

 また「自分たちの宗教こそ正しく、他宗教は邪教だ」と説くような偏狭で独善的な宗教でもない。

 また、象徴となる教祖とか始祖または開祖という人物の教えを教義とすることで成り立つ宗教でもない。また、象徴となる特定の人間の会得した教えや、その人の親族を形にした偶像を拝ませることで成り立つ宗教でもない。さらには、特定の秘物や特定の自然物を祈りや祈願の対象とすることで成り立つ宗教でもない。

 では、果たして私が意味するような宗教とは、具体的にはどのようなものか。どうすれば、それを求める一人ひとりに、それぞれの生きる意味を見出させてくれて、その生き方にその人を導いてくれて、確信を持たせてくれるものとなるのか。

私は、それには少なくとも、人間が人間として生きて行く上で必要とするこの世の政治や経済そして文化をも含む主たる社会的な制度や仕組みのあり方を根本のところで示唆してくれるものである必要があるのではないか、と考えるのである。

 アリフィン・ベイは、真の宗教あるいは本来の意味における宗教とは、「政治も経済も文化もすべてがその中でそれぞれの位置を占めるような“包括的な世界観”」のことだ(アリフィン・ベイ「アジア太平洋の時代」中央公論社p.144)と言った。

 同じことを言っているように見える。

が、それはこのことを意味するのではないか、と私には思われるのである。

 しかし、これをさらに私なりに敷衍して言えば、これからの時代の宗教とは、個々の人間はもちろん、その集合体である社会も国もまた世界をも包み込みながら、自然界あるいは全宇宙の森羅万象を無矛盾なままに成り立たせている法則や原理あるいは自然法や宇宙的秩序そのものなのではないか、とも思われるのである。

とすれば、それゆえに、その時、その宗教こそが全ての人間が無条件にひれ伏し従わねばならない教えとなるのではないか、と私は思うのである。

 

 そして、これからの宗教とはそういうものであるべきではないかと捉えた時、その宗教はこれまでのすべての宗教を、一段も二段も高い位置から包摂した宗教となりうるのではないかと私は考えるのである。

その結果、私たちには、そこに少なくとも次の3つの大きな期待を抱かせてくれるのである。

 その1つは、その宗教は、これまでの宗教間対立や宗派間対立を克服してくれるのではないか、というものだ。

 たとえば、互いに、自分たちの神以外に神なし、この教えだけが絶対に正しい、正義は1つ、神も1つ、と主張し合ったなら、その教えを信奉する2つの世界は、対立せざるを得ない。

事実、例えば、キリスト教世界とイスラム教世界のこれまでの長い、そして時には凄惨な事態をもたらした対立の根源的理由はそこにあった。

 今日もなお、世界のいろいろなところで、宗教対立あるいは同一宗教内での宗派間の対立が続いている。

それは、その信仰生活において、互いに真理を求め、幸福を求めているもの同士のあり方として、悲劇だし、悲惨なことだ。

そしてそこには、国連といえども仲裁にはなかなか入り得なかった。

 でも、もし、世界が、これからの宗教を既述のようなものと捉え直すようになれば、————宗教対立の長い歴史を見れば、事はそんなに単純なものではないかもしれないが————、それでも、かつてあった幾多の宗教間の対立も、宗派間の対立も、ぐっと少なくなって行くのではないだろうか。そしてそれだけ、世界は、平和へと大きく前進できるのではないか。

 もう1つは、その宗教はとくに科学者、それもとくに「知性」だけで自然と社会と人間に向き合ってきた科学者に対して、その態度の傲慢さ、人間社会への無責任さ、そして自らの独善性に気付かせてくれるのではないか、というものである。

 今、科学者は自然界の秩序に手をさし入れ、それを壊している。その代表的な行為が、「遺伝子組み換え」という操作であるし、「クローン」技術であるし、「ゲノム編集」だ。

それをさせる動機は「お金」であったり、「知的好奇心」であったり、「名誉欲」だったり、といろいろあるのだろう。

しかしそれらの行為は、どれも、生命の根源に関わる行為だ。しかも、その科学者自身を生命として成り立たせているその根幹に関わる行為なのだ。

 そこには共通に「遺伝子」が関わっている。しかし、その操作法や操作技術がコンピュータの発達とともにどんなに進んだとしても、生命の源である遺伝子そのものを科学者が生み出し、創造しているわけではない。またそんなことは、どんなに科学が進み、AIが進み、ロボット技術が進んだところで、できることでは絶対にないと、私は生命の神秘さを知れば知るほど確信する。科学者がやっていることは、無から有を創造していることではない。ただ、生命の根源を自身の好奇心や名誉欲に衝き動かされて「いじり回して」いるだけのことだ。

 私はその行為自体、自然への、この上ない人間の冒涜だと考える。

それは完全無欠、無矛盾の秩序から成る自然を、イザッという時自分を自分で制御もできないあやふやで脆い人間が掻き乱すことだ。なぜなら、その操作によって改造されて生まれてくるのは、かつて自然界のどこにもいない、また自然界が生み出しようもない生き物だからだ。

それが無矛盾の世界を掻き乱さないはずはない。

 その反動がどういう形でやってくるかは、欠陥だらけの人間、遠い時間の彼方を予測し得ない人間には誰も予想もできないだろうが、いつか、必ず、途方もない規模と形で、人間に、社会に、そして自然界に襲ってくるであろうと私は確信する。「覆水、盆に返らず」で、その時にはもう、どうやっても遅いのだ。

 それはたとえば、人類が「原子爆弾」を創ってしまったことの反動あるいは功罪を考えてみると判りやすい。あるいは、今、人類が、文明という名の下に、あるいは飽くなき「便利さ・快適さ実現」への欲求の下で、日々、莫大な量の炭酸ガスという温室効果ガスを自然界に排出したり、生態系を破壊する化学農薬散布や無計画な開発行為を繰り返したりしていることがもたらしている現実を直視すると、判りやすいのではないか。

世界が今、核戦争の脅威に曝され、地球温暖化による気候の激変に直面し、生物多様性の消滅の危機に直面し、人類絶滅の危機を招いてしまっているのも、そうした行為の結果なのだから。

そこへ持ってきて、「遺伝子組み換え」操作や、「クローン」技術や「ゲノム編集」が結果としてもたらす事態は、人類が「原子爆弾」を創ってしまったことによって受けたしっぺ返しの比ではないと考える。それは、そこにもたらされてくる事態は、人間によって作られたそれが自然界に放たれたなら、それはもはや人間には制御できない形で、自然の秩序を乱し、自然そのものを狂わせてしまうことになるだろうからだ。

 私は、こうした行為の愚かさを本当に気付かせてくれるのは、もちろん知性ではなく、理性であり、あるいはそれをも超えた既述の意味での真の宗教でしかないのではないか、と私は期待するのである。

 そしてもう1つは、これは捉え方に人によって差が生じるかもしれないが、この宗教は、「この世」と「あの世」との関係の捉え方や理解のさせ方についても1つの解決をもたらしてくれるのではないか、というものである。

 その意味は次のように説明される。

 「この世」、つまり現世において、現世というものの捉え方について、もし他者に尽くした人も他者を踏みつけにした人も死ねば同じとなれば、私たちは、生きていても、その生に対して、理不尽さとか不公平さを感じ、納得しがたいものと感じてしまいがちだ。しかしこの広大無辺の宇宙の森羅万象を成り立たせている宇宙的秩序はつねに絶対無矛盾でありかつ完全無欠なはずと思え、またそう信じられたなら、自分が死んだ後の世、つまり「あの世」でも、その宇宙的秩序は絶対無矛盾かつ完全無欠なままに働いて作用を及ぼすであろうし、その結果、「この世」で善行を積んだ人は「あの世」ではきっといい思いをし、楽しく愉快に、そして幸せに過ごせるに違いないと自然に考えられるようになるのではないか。また反対に、この世で悪行を重ねた人は、あの世では悩み苦しむことになるに違いないともごく自然と考えてしまわざるを得なくなり、またそれを受け入れられるようにもなるのではないか、と私は考えるからである。

 その結果、現世での生き方がいっそう大事にされ、善的行為が増え、悪的行為が漸減して行くのではないか、と推測されるのである。

 こうして真の宗教とは、人間にとって、「見えない」「計り得ない」「知り得ない」世界と、「見える」世界、「測ることのできる」世界、「知り得る」世界の双方を互いに連結させ統一したものの考え方をできるようにさせてくれ、その上で、自然と社会と人間の相互のありようと、そこでの自分の人間としての生き方にも確信を持てるよう指し示してくれるもの、とも言えるのではないか、と私は考えるのである。

 それだけではない。真の宗教とは、社会や国家に対しても、より多数の人々が安心と幸福を感じられる社会的制度やしくみのあり方を包括的かつ総合的に指し示してくれる羅針盤あるいは道しるべともなってくれるもの、とも私は考える。

 そうなると、もはやそこでは、「政教分離」なる考え方、すなわち政治と宗教は切り離すべきだとの考え方も、それは近代以前の時代の偏狭で独善的な宗教観に基づく捉え方に過ぎなかったということになり、再検討されねばならない、ということになるのではないだろうか。