LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

6.5 科学者および研究者に求められる使命と責任

 

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6.5 科学者および研究者に求められる使命と責任

 科学者および研究者として求められる使命と責任とは何であろうか。

それを考えるに当たっては、やはり、先ずは、もはや過ぎ去った「近代」において、「科学」とは、また「研究」とはどのようなこと、どうすることと理解されて来たのか、またその科学をする者としての科学者や、研究する者としての研究者にとくに求められてきたこととは何か、について振り返ってみる必要がある。

 「科学」については、その代表的なものとしての自然科学に限定して見れば、それは、一般には次のように理解されて来たのではなかったろうか。

今から思えば、本来自然は、人間の眼で見えるものと見えないものとが調和的に統一した存在であるにもかかわらず、それを人間の側の都合により、一方的に見えないものを無視し、あるいは計測に引っかからないものをも無視し、見えるもの・計量できるもののみを対象にして来た。その場合も、自然の中にある、それがあってこそ自然として成り立っている多様な相互関係や相互作用を無視し、時間の経過を無視しては静的な中で捉え、質を無視して来た。その上、部分を足し合わせればいつでも全体になるという仮定の下に、予め全体を大まかに捉えるということもしないままに、対象である自然物をバラバラに切断し、一切の外乱が入らないように制御しては、事象を最も単純化させた上で捉えようとして来た。そしてそれを人間のもっとも知的な行為とみなしてきた。それが「科学」とされる人間の行為だった。

しかもその行為は、つねに、「資源は無限」、「空間も無限」という前提の下になされてきたのである。

 そしてそうした幾多の仮定ないしは前提の下に行われた行為の結果については、それはあくまでも自然を観る無数の見方のうちの一つに過ぎないものであるにもかかわらず、「客観的」で「中立」で「普遍的」で「唯一の正解」とされ、「信ずるに足る真理」とみなされて来た(4.1節の定義を参照)。

 他方、後者の近代の「研究」あるいは「研究という行為」については、未だ誰にも判っていないことを誰にでも判るように示して見せる人間の行為、とされて来た。

ここで「判る」とは、それが成り立つ理由が、情緒的あるいは感覚的にではなく、客観的かつ論理的に、真実をもって、因果関係の中で説明されている、ということである。

 以上のことから判るように、近代の科学そして研究とは、ある特定の人の、特定な分野への「知」的な「好奇心」あるいは「探究心」の上でのみ成り立って来たのである。

そしてその知的な好奇心や探究心の向う方向については、何の社会的な制約もなければ倫理的な制約もなかった。それだけに、その結果として得られた成果の取扱い方についても、さらには、その成果を人間に、あるいは社会に、あるいは自然に適用した結果についても、当事者としての科学者や研究者には責任はない、とされてきた。

そしてそうした科学あるいは研究を支えて来たのは、もっぱら知性であった。

 以上が、自然科学に限定して見たときの、近代の科学と研究、あるいは科学者と研究者のあり方についての大凡の特徴であった。私はそう考えるのである。

 

 ところで、そもそもそこで言及した知性には次のような特徴が見られるとは、既に述べて来た通りである。

「深みのない明晰さ」あるいは「統一のない広がり」があることである。ここに、「深みがない」とは思想がないということと同義であり、統一がないということは互いにバラバラだということである。そして知性とは、「事実の確定」と「客観的分析の能力のこと」である。

そもそも科学の「科」とは、「一定の標準を立てて区分けした一つ一つ」のことなのである(広辞苑第六版)。つまり科学とは、全体を区分けした一つひとつをバラバラに探求する学問なのだ。

 だから知性は、ただ事柄そのものを事実として明らかにするだけで、その明らかにされた事柄の意味や価値については判断を控え、ただ冷静に、主観性を離れて物事のあり方を問うだけなのである(真下真一「君たちは人間だ」新日本出版社p.83)。

 フランシス・ベーコンが言った「知は力なり」の「知」はいうまでもなくその知性の知のことであり、知識の知でもある。

その知は、その知をもたらす事柄の意味を問うことをしなければ、その事柄の価値の判断をもしないことを最初から前提としているために、その知には、悪用するための知も善用するための知も含まれる。「知性は淫売婦のようなもの、誰とでも寝る」とまで言われる所以でもある。「智に働けば角が立つ」(夏目漱石草枕」)の智も、その意味するところは、智慧というよりはここで言う知に近いものなのではないか、と私は思う。本来の智慧が働いているところでは、人間関係に「角が立つ」ことは先ずあり得ないのではないか、と私などは思うからである。

 そして、こうした特性を持つ知あるいは知性と結びついて人間の脳裏に捉えられ、蓄えられたものが知識であり、その知識の産物がこれまでの「近代」の技術だった、と言えるように思う。

 なお、こうした知性とは反対の立場を取るのが理性である。それは「全体的な統一と綜合の能力」であり、言い換えれば「精神」の力のことであり、もっと言うならば、「理想」を立てる力のことである。また、この理想へ向けて現実を整え導いて行く力であり、物事の意味とか価値の判断にかかわる智慧と結びつくもので、智慧の力のことでもある。

それについては、既述したとおりである(真下真一著作集1「学問と人生」青木書店 p.96)。

 つまり、今は過ぎ去りし近代においては、科学者とは、自分の興味のあることを興味の赴くままに研究していればそれでよかった。それが科学者の科学者たる所以とされて来たし、それなりの「成果」を出せれば、その成果の質は問われないままに、それだけで社会的に評価をされても来たのである。その場合も、とくにその成果が社会の生産力の発展に寄与しうるものであればあるほど評価も大きかった。

 それだけに、科学者や研究者は、自分の研究成果が社会からどの程度大きな評価と反響をもって迎えられたかということには関心は持ちながらも、その成果が社会に対して、あるいは自然に対してどのような影響をもたらすか、あるいはもたらしたかということに関しては、責任を問われなかったために無関心でもいられた。だから科学者や研究者にとっては、自分なりに成果と思えるものを出し、それを世に発表すれば「お終い」という感覚でいられた。

 以上の経緯からも判るように、科学者や研究者は、どうしても社会的問題や政治的問題には疎くなりがちだった。独善的で自己中心的にもならざるを得なかった。とにかく成果さえ出していれば————それも特に「論文」という形で————、科学者・研究者としていられたのである。

 

 では、これからの時代の科学や研究のあり方、そして科学者や研究者のあり方とはどうあったらいいのだろうか。

 私はそれは、先ずは重層的に、2つの観点から問われるべき、と考えるのである。

 1つは、科学者や研究者個人において、これからの時代の科学や研究はどうあったらいいかということを問い続けること。そして自分は、一体誰のために、そして何のために科学を、あるいは研究をしているのかということをもつねに明確にしていること。そしてその際、単に知性ではなく理性をもって対象に向き合っているかということをも自己チェックしていることである、と私は考える。

 もう1つは、科学者や研究者を見つめる社会あるいは私たち国民自身も、これからの時代の科学や研究はどうあったらいいかということを問い続けることではないか、と思う。

また彼らへの評価の仕方も、とにかく肩書きだけではなく、また提出している論文の数によるのではなく、彼は一体誰のために、そして何のためにそれをしているのかという観点から、冷静にチェックして見守り続けることではないか、と考える。

さらには、科学者や研究者が出した成果については、それをどう使うかは、道具と同じで、使う側の心がけというか考え一つでどっちにも転ぶものゆえに、その成果をただ歓迎するのではなく、その成果が適正に使われ、生かされているかということについても、絶えずチェックし続けることであろう、とも思う。

 それは例えば、日本国憲法第12条の、「自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなくてはならない」と、「国民は、自由及び権利は濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」の精神と同じだ。

 したがって、ここでの「適正に」とは、例えば、「世界の人々の平和に貢献しうるように」ということであろうし「地球の生態系を蘇生させ、人類の存続の可能性を高めることに貢献しうるように」ということであろう。

そして、これからの時代の科学や研究のあり方から得られる成果の取り扱い方に関しての究極の規準は、その成果は「人類にとって本当に必要なものか」、「人類の進歩に貢献しうるものか」であり、あるいはその成果の適用は、「倫理的に許されるものか」であろうと考える。

 それを一言で言えば、「人類全体に対する忠誠」(故ネルー首相の言、孫崎享著の「日本再起動」徳間書店の中のp.87)なる態度を持って、「人類全体の価値」(K.V.ウオルフレン「日本人だけが知らないアメリカ『世界支配』の終わり」徳間書店p.291)の実現に貢献しうるか、であろう。

 私は科学者や研究者が自らつねに理性をもってこの態度を貫いている限り、また社会も科学者や研究者に対してこうした見方を堅持している限り、たとえば今後、ますます世界の平和を維持して行く上でも、また地球の生態系を維持しながら人類の存続を考える上でもますます重大性を増してくると推測されるAI(人工頭脳)の兵器への適用問題や、遺伝子工学の分野でのいわゆる「ゲノム編集」という問題も、かろうじて最悪の事態は回避できるようになるのではないか、と期待するのである。

 とにかく、人類存続の危機にある今こそ、例えば今や「悪魔の兵器」と呼ばれる核兵器に関する次のような歴史の事実から教訓を引き出し、それを生かすべきだ。

それは、ナチス・ドイツはとうに開発を諦めていて、原子爆弾の開発は意味がなくなったと判っても、アメリカは開発を続行し、生み出してしまったこと。またその原子爆弾を使用しなくても、軍国主義の日本の降伏は時間の問題だと判っていても、それをアメリカは広島と長崎に使用してしまったこと。そしてその結果、原子爆弾の破壊力の凄まじさが世界に明白になったことによって、それ以後、世界の覇権を握ろうとする米ソ両陣営にとって、原爆や水爆が戦略兵器とされてしまったこと。その上、両陣営は、核を持つこと、それも敵よりもより多く持つことこそが相手からの先制核攻撃を防ぐことになるとの核抑止論を作り上げたが、しかしそれも、キューバ危機、またその10年後の1973年の核戦争の危機を体験することによって通用しないことがはっきりしたこと。そして今や、核兵器を所持する国が、世界を威嚇し、世界の平和と安定を乱すようになっているし、核兵器を持っていること自体が、複雑化した世界秩序の中で、偶発的な核戦争勃発の危険性をますます高めてさえいること、等々である。

 なお、上記のこれからの時代の科学や研究のあり方を考える上で、もう1つ重要なことがあると私は考える。それはいわゆる科学の方法についてである。一言でいえば、これからの科学の方法は、もはや近代における科学の方法を止揚して、概略、次のような方法がとられるべきではないか、と私は考えるからだ。

 第一は、研究対象を定める際、先ずは自然と社会と人間との相互関係とその全体を通覧するという作業をする。その上で、その全体を部分に分け、その中の特定部分に狙いを定めるにも、全体の中でのその部分の位置と全体との関係を確認するのである。

 第二は、狙いを定めた部分を分析し、その部分を成り立たせている成分や要素や仕組みを明らかにしてゆく際にも、つねにその部分と全体との関係や、分析と綜合との調和を考慮しながら進め、また深めてゆく。しかもその際、静的にではなくつねに動的に、つまり時間的変化の中で生き生きとした姿のままに捉えてゆく。

 第三は、捉えた結果としての知見については、それを最初捉えた「全体」の中に改めて組み込んでみては綜合して見る。その時、その科学研究の成果は、最終的に、「世界の人々の平和に貢献しうる」ものであるかどうか、「地球の生態系を維持し、人類の存続を可能とさせる」ものであるかどうかを、そして「人類にとって本当に必要なもの」か、「倫理的に許されるもの」かについても、今やその分野では世界中の誰よりも精通し得た立場になっている自分で、自らの責任において、最大限想像力を発揮し、また理性を働かせて、検証してみる。

 その検証結果において、人間と社会と自然の全体にとって、不都合なことが推測される場合には、既述した真の知識人(6.4節)の立場で、勇気を持ってその成果を廃棄するのである。

 もちろんその場合、社会も、その科学者の真の知識人としての姿勢を高く評価すべきだ。

 

 以上のことから判るように、これからの時代の「科学」あるいは「研究」とは、そのあり方も、その成果の取り扱い方においても、近代のそれとはまったく異なったものとなるし、異なったものとならなくてはならない。言い換えれば、それは、もはやデカルトのいわゆる「要素主義」と呼ばれる科学的認識方法ないしは「近代合『理』主義」を止揚したものあると同時に、単なる好奇心や探究心に拠って成り立ったり、名声を得ようとする動機に拠って成り立ったり、研究予算獲得目的を動機として成り立ったりするというものでもない。

 しかもその成果については、より普遍的な真理を掴み出すことを目的としながらも、同時に、人と社会と自然とのよりよい共存の実現と国際社会の平和維持に貢献しうるものでなくてはならない、とされるものとなろう。つまり、科学者・研究者自身も、社会的かつ倫理的責任を負うことをも義務づけられるようになる、ということである。

 果してこう主張すると、“それでは、科学は進歩しない”と反論する向きもあろうが、それは、土台、「進歩」の意味の捉え方そのものがもはや旧時代のものなのである(4.1節の「進歩」の定義)。

 とにかく、科学者も研究者も、そして国民の私たちも、得られた成果は、人間や社会や自然に対して良いことだけをもたらす訳では決してないということを心得ておかねばならない。と言うより、科学も技術もやはり「諸刃の剣」どころか、その成果が便利であると見なされるものであるほど、実際には、人間や社会や自然に対しては、良い面とかプラスと考えられる面よりもはるかに多くの悪い面、マイナス面をもたらしてしまうものなのだから(7.4節)。