LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

6.2 これからの日本国民一般にとくに求められる生き方

 

f:id:itetsuo:20210221122507j:plain

 

6.2 これからの日本国民一般にとくに求められる生き方

 本節では、第2章の2.2節(2020年8月11日発信 ただし、現在改訂中)、前5章の5.1節(2020年9月13日発信)を教訓とし、さらには前節(6.1節)にて私なりに想定されるとしてキーワードをもって描いて来たこれからの時代のパラダイムというものを土台にして、私たちが日本国民としてこれからの時代を生きるに当って、とくに重きが置かれなくてはならないと私には思われる生き方について考えてみる。

 なぜそれを考えるか。それは、一言でいえば、日本国民がこれまでのようなものの考え方や生きかたをしていたのでは、この国はダメになる。世界でもますます通用しなくなる。その結果、ますますこの国は世界からまともに相手にはされなくなって孤立化を深めてしまう、と私には危惧されるからである。もちろん国民は自国に誇りも自信も持てなくなる。

 それはこう言い換えてもいい。これまでのようなものの考え方や生き方を続けていたのでは、今後、この国の内部だけではなく全人類的難題が生じたとき、日本は国際社会の中でその生き方が理解されず、また共感も得られないものの考え方や生きかたをしているために、自ら孤立を深め、さらにはそこにこの国は真の国家ではないという事情も加わって、日本だけが全く身動きの取れない事態に陥ってしまって、自滅させてしまう可能性が大となるのではないか、と。

 実際、1930年代から40年代前半までの日本がそうだった。世界を知ろうとはせず、独善に陥り、一人孤立の道を選び、それに突き進んで行った挙げ句、国を破滅させてしまった。

 では戦後から今日までの日本はどうだったか。「先進国」と呼ばれるようにはなっても、その実態は、既述してきたように(5.3節)、世界一般とは全く違う発展のさせ方をしてきた。その結果が「富める国の貧しい国民」、「うちひしがれた人々の国」になった(K.V.ウオルフレン「システム」p.14,16)。

今後についても、もしもこの国が、独立国とは名ばかりで、経済と軍事の超大国に主権を譲渡しては保護国のごとくに追随し、相変わらずGDPを上げることだけが国のあり方であるかのような視野狭窄で目先主義にこだわっているようでは、この国はますます貧相な国、情けない国とならざるを得ず、世界からは、ますます「価値ある国」、「信頼できる国」とはみなされない国になってゆく可能性は十分にある、と私は考える。

 実はそれは、これからは一国だけではどうにもならないから、ますます国際社会が協力しあって難問解決にあたってゆかねばならない状況を考えるとき、この国が世界からそうみなされてしまうことは、それ自体がこの国を危うくすることなのだ。

 そうでなくとも、世界の大多数の国々は、先進国か新興国か途上国かを問わずに、人類の存続がかかっている地球温暖化および気候変動の激化、生物多様性の崩壊という事態を食い止めようと政府と国民一人ひとりが真剣に取り組んでいるというのに、この国では、政府も国民の大多数も、そんな重大な問題に関しても、相変わらず損得勘定の中で、「あなた任せ」「成り行きまかせ」の態度で、無関心のままだ。

 

 そこで私は、これまでのこうした生き方は綺麗さっぱり返上し、これからは、私たち日本国民は、せめて次に上げるような生き方に、それも大至急、転換させてゆくことが求められているのではないか、と私は考えるのである。誰からか。それは私たちの子や、孫たちからである。私たちがこれからの時代を背負って立って行ってもらいたいと願う世代からである。

 そしてそうした転換は、決してできないことではないはずだ。

実際、日本国民は、過去、少なくとも2度はそういう体験を経て来ているのだし、それをやり遂げて来てもいるのだから。

1度目は、江戸幕末から明治維新にかけて。2度目は、アジア・太平洋戦争の無条件敗北の前後で。

 ただ3回目の今回が、過去2回のそれと根本的に異なるのは、力ある者から押し付けられてそうするのではないことだ。また、「他者がそうするから、みんながそうするから」でもない。各自が、それぞれ自分の頭で、なぜそうしなくてはならないのかと、とことん考え、納得の上で、自律的に転換することが求められていることである。

 

1.どんな理由があろうとも、政治に無関心となるのはやめよう。「関心を持っても無意味」と考えるのもやめよう。

 政治とは、「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営みのこと」と定義されることから明らかなように(広辞苑)、政治こそが、私にとってもあなたにとっても、生きて暮らしてゆく上で、その人生の幸不幸を左右するあらゆる制度や仕組みを「秩序」として決めることができてしまうのだから。

 あなたがたとえ無関心でいても、あるいは不信感を抱いていても、政治の方からあなたに「強制力」を備えた「秩序」を引っさげてやってくるのだから。

それに、無関心でいたら、いつかあなたにとっても、悔やんでも悔やみきれない事態になってしまう可能性も高いから!

 

1.そして、政治に関心を持つとき、とりわけ「権力」というものの行使のされ方に注視しよう。権力とは、「他人を押さえつけ支配する力」のことである(広辞苑)。

とくに立法、すなわち法律を作るということは最大の権力行使なのだ。

なぜなら、法律は、一旦できてしまえば、全ての国民が、無条件に、拘束し支配されることになるからだ。

 

1.そしてその場合、「権力」の行使は、被支配者あるいは被統治者である私たち国民の「合意」が絶対に必要な「前提」となることも知っておこう。それは、私たち主権者の合意なくしては権力の行使は「許されない」ということでもある。言い換えれば、定まった法律に基づいて、その権力は行使されねばならない、ということである。「法の支配」とはそのことを言っている。

 なぜなら、もしその「合意前提」がなかったなら、権力の行使は歯止めがなくなり、政治家は、一旦政治家になったならどんな法律も作ってしまえることになる、ということから直ちに判る。

 なお「法の支配」に似た考え方に立つもので「法治主義」がある。それは、行政権の行使には法律の根拠が必要であるとするものである。

 

1.国民の生命と自由と財産に関わることの決め事と決め方については、いつでも、どこでも、「透明性を保て!」、「密室で物事を決めるな!」と、声をあげよう。

そして、つねに、「物事は民主主義的に決めよ!」と声をあげよう。

民主主義とは、デモクラシー、すなわちクラシー(権力)はデモ(民衆)にある、権力は国民が行使する、という意味なのだから。

 

1.そして「物事を決める時には、つねに『手続き』を透明にせよ!」と声をあげよう。

 

1.物事やルールを決めるときには、曖昧さを排除し、恣意性が介入することを防ぐために、最大限、具体的に明確にしよう。また、役割を決めるときには、それぞれの役割と、相互の関係も明確にしよう。

 そうすることで、後々、問題が生じたとき、スムーズに対処できるようになるからだ。

 

1.「目先」や「損得」、「その場しのぎで」で物事や現象に対処するのはやめよう。

できるだけ「長い目」で、せめて10年のスパンで、できれば人の一生の長さである80年のスパンで考えよう。

 

1.憶測だとか想像あるいは噂やデマあるいは風評に流されることなく、また自分の気分や感情に流されずに、つねに「事実は何か」や「真実は何か」に、そして「真理とは何か」にこだわろう。

 そして「真実への勇気、正義への勇気」を持とう。

 

1.宇宙がいかに広いといえど、宇宙にはいかに無数の星があろうとも、私たち人間が裸で過ごせるのは、この地球しかないことをつねに知っておこう。

地球こそ、人類と他生物のすべてを乗組員とした「運命共同体」なのだから(バックミンスター・フラー 「スペースシップ・アースの未来」NHK BS12013年11月26日)。

そんな中、いつも、「人類全体の共通の価値」(K.V.ウオルフレン)とは何か、「人類の大義」、さらには「人類全体に対する忠誠」(ネルー首相)とは何か、を考えよう。

 また、その上で世界全体の平和のあり方を考えよう。

 

1.何を為すにも、できるだけ、「何のために」それをするのか、「誰のために」それをするのか、つまり、動機や目的を明確にしてから取り掛かろう。

 

1.特に政治の世界や行政府において、不正だと思える事があったなら、それを黙認しないで、「不正だ!」との声をはっきり上げよう。「秩序」を言う前に「正義」を行え、と訴えよう。

なぜなら、正義の上に成り立つ秩序こそ、守るべき価値あるものだから。

 

1.同様に、言葉の「意味」を曖昧なままに用いるのではなく、つねに自分でその意味を確かめ、正しい言葉を、正しく用いるようにしよう。

 なぜなら、用いる言葉が曖昧であるということは、自分の頭の中が明確に筋道立っていないことであり、また聞く側も正確に理解もできず、双方にとって無意味な時間を過ごしていることになるからだ。

 

1.物事についてより多くを「知る」ことに拘るよりは、先ず自分の頭で「考える」こと、「判断する」ことを優先させよう。

なぜなら、イザッという時に本当に役立つのは、まずは情勢を観察あるいは洞察する力であり、情勢を分析する力であり、決断する力であるからだ。

 その際役立つのは、自分の頭で「考える」力であり、「判断する」力なのだから。

知識の量は、ないよりはあったほうがいい、という程度のことだ。

 

1.起こった出来事についても、表面的に見ようとはせずに、事の「本質」を考えるようにしよう。

 なぜなら、その本質こそが表面的現象を生じさせているのだから。その本質を捉えた変革こそ、本物の変革となるのだから。

 

1.「継続は力なり」とは言うが、続けることそのものに意味があるわけではない。時代遅れとなり、不要となったシステムや慣例は勇気を持って廃棄しよう。そして現状や時代に適合した仕組みを考え出し、それを導入しよう。

 

1.また、自分のしていることに行き詰ったときには、「理念」や「原点」というものを再確認しよう。そして間違っていたと知った時には、「面子(メンツ)」などにこだわることなく、潔く、また勇気を持って撤退するか中断しよう。そしてその時「教訓」を引き出そう。

なぜなら、間違っていたことをし続ければし続けるほど、傷を深め、犠牲を多く出すことになり、回復は困難となるからだ。そして教訓は進歩と発展を可能としてくれるからだ。

 

1.自分が関わったことや自分が為したことについては、言い訳をするのはやめよう。

たとえ自分が集団行動の一員であっても、一人ひとりはつねに当事者意識を持とう。

つまり自分にも責任があることを自覚しよう。そして嘘をつくことはやめよう。

嘘は、すべての人の努力を無にしてしまうから。

 

1.どんなに科学が進歩したところで、自然を解明し尽くせるものではないし、ましてや自然を克服したり支配したりすることなど絶対にできないことを知ろう。と言うより、人間は、自然力の前では全く無力であることこそ知っておこう。

 そして、科学はあくまでも「知性」の産物であって、「理性」の産物ではないことも知っておこう(真下真一「学問・思想・人間」青木文庫)。

 したがって、科学の成果が人間にとって有益となるか否かは、ナイフなどの道具と同じで、あくまでもそれを用いる人間の考え方次第で決まることを知ろう。

 また、科学の法則的応用としての技術については、それが人間により大きな利便性をもたらす技術であればあるほど、同時に他方では、必ず、その利便性とは逆の、すなわち負の利便性とも言うべき極めて厄介な効果を、それも正の利便性とは比べ物にならないほどの空間的広がりと時間的長さをもって人間にも社会にも自然界にももたらすことをも知っておこう(7.4節 2020年12月30日発信)。

 

1.公務の世界での出来事については、またたとえ日常の会議でも業務でも、常に「公式記録として残せ!」と声をあげよう。

そして「失敗したなら、それを隠さず、そこから教訓を引き出し、それを生かせ!」とも、声をあげよう。

公務あるいは公共事業は、役人のポケットマネーでやっているわけではなく、全て国民が納めたお金(税金)を使って成り立っていることだからである。

 

1.他生物との共生を大事にしよう。多様性を大事にしよう。

自分が嫌いな他生物も、私たちの知らない自然界では立派に存在意義を果たしているであろうことを知ろう。

 

1.「自由」の意味を、そして「多様性」の意味を、深く考えよう。

 

1.「権利」ということの意味を、「法」というものの意味を、結びつけて考え、我がものにしよう。本物の「市民」になろう。

 

1.他者を「肩書き」や「見かけ」で判断するのはやめよう。「中身」を、「その人自身」を見よう。

 

1.他者の言葉や著名人の言葉を鵜呑みにしたりに流されたりせずに、またSNS(ソーシャル ネットワーキング システム)上に飛び交う言葉にも流されずに、まずは自分の頭で考え、判断しよう。発信者が明確であること、飛び交っている言葉が示している出来事の根拠が明確であることに重きを置こう。

 

1.人は、どんな人でも、誰でも————つまり、貧富の差、健常者と体に障害を持っている人の別、思想信条の違い、信教の違い、肌の色の違い、国籍の違い、もちろん男女の違いを超えて————、人間として生きる権利がある、それだけの尊厳もある、一人として生きる価値のない人はいない、存在するだけで意味がある、ということをみんなで認め合おう。

 

1.誰かに困った事が起ったら、あるいは起っていることを知ったなら、「知らないふり」をしないで、いつでもそれをみんなの共通の問題として捉え、それをみんなで話し合って解決策を見出し、見出したそれをみんなで実行しよう。

 

1.目に見えるものよりは、むしろ目に見えないものに私たちは生かされ、また支えられていることを知ろう。

 たとえば人の心であり、土壌中の生き物たち。

 

1.便利で重宝そして万能とされる「お金」ではあるが、それをどんなに多く持っていても、決して買えないもの、「値段」の付けようもないものもあるということを知ろう。

とくに人の命であり、心であり、健康である。

しかし、自分の納めた税金という「お金」の使途には関心を持とう。

 

1.人間は、自分が生き延びるためにはここまで残酷になれる動物だ、他者の痛みや苦しみにはここまで無関心でいられる動物だ、ということは知っておこう。

 

 

 

 以上を補足する意味で、私は次の二つのことについて、私なりの考えを述べてみようと思う。

1つは、「自分を持つ」、あるいは「自己を確立させる」ということの大切さについて。

もう1つは、これからの時代の宗教とそのあり方について、である。

 まずはその第1の、「自分を持つ」、あるいは「自己を確立させる」ということについて。

 自分を持つあるいは自己を確立させるとは、いつでも、自分の意見や価値観を明確に持つということである。物事については、他者の言葉や時の情勢に流されることなく、いつも自分の頭でものを考え、判断し、決断するということである。またその結果については、自分で責任を負える、ということである。それは、言い方を変えると、つねに「自らに由っている」、「自身を経由させる」という意味で、本当の意味で「自由」になるということだ(4.1節の「自由」の再定義を参照)。そしてそれは、「みんながしているから自分もする」とか、「赤信号もみんなで渡れば怖くない」といった類いの生き方とは対極に立つものだ。もちろん自分を持つことが出来なければ、社会にあっても、あるいは集団内にあっても、当事者意識も持てるはずもなく、責任を持つという意識も生まれようがない。それでは社会という共同体に生きる意味も資格もない。というより、自分が人間として生きる主体的な意味や目的など見出せるわけもない。

 また、自分で自分を持つということは、同時に、他者が他者自身を持つということを容認することでもある。つまり、「自分を持つ」ということは、他者が多様であることを認めること。というより、「誰もが互いに違っていて当たり前」と考えられるようになることだ。

それはもともと人間とは、その本性において自由を好み、またそれを求めるものなのだから、「みな、違う」のは当たり前のことなのだ————歴史の発展とは、人間の人間による人間のための自由を求め、実現させるための試みだったのではないか————。違った皆のそれぞれが、違ったままを認め合い、この現実の社会で存在価値を持ちながら、互いに支え合うのである。だからこそ社会は面白いし、だからこそ、そんな社会には生きる価値があるのである。

 そもそも、みなが画一的で、均質的で、同じであったなら、つまり自分も他者も皆、同じだったなら、他者は鏡の世界の中の自分となる。あるいは皆が皆、クローンとなる。

 そのような社会あるいは集団は、一旦何か存在を脅かすような事態が起これば全滅しかねない。実際、自然現象や社会現象は、無数の形態を持って現れるのである。その時、それに対応する力を持ち得ない。つまり耐性がない。脆いのである。

それにそんな社会や集団では、一人ひとりの存在意義や価値は特になくなる。なぜなら、そこでは、いつでも、誰もが、他の誰かと取っ替えることが容易になるからだ。一人ひとりが「掛け替えのない」存在ではないからだ。もちろんそんな社会は、誰にとっても、生きがいを感じられる社会でもないし、誇りも自負も感じられることもなく、また自信も生まれようがないのである。

 また、「自分を持つ」あるいは「自己を確立させる」とは、自分をごまかさず、自分に誠実になることでもある。

 そのためには、私たちはもう物事を「建前」ではなく、つねに「本音」で語ることが必要なのである。少なくとも、社会に「建前」と「本音」という二通りの生き方があり、それが公然と容認されていること自体、それは異様で異常な社会だ。

なぜなら、建前を語るということは、言ってみれば、“自分は、今、事実を語ってはいませんよ”、 “この場を言い繕っているだけです” と言っていることでもあるからだ。そしてその場合、聞き手も、そのウソをウソと承知で、あるいはそれを容認して聞いているということだからだ。

そしてそのこと自体、この国の現実社会を、皆が皆、「ウソがまかり通る社会」としていることである。

 確かに本音で語るということは、場合によっては「対立」は避けられないかもしれない。しかし、対立を恐れてお互い本音で語り合うことが出来ずに建前でばかり語り合っているところでは、物事が上辺だけのこと、形式的なことだけで済まされてしまい、真の意味での相互理解など出来るはずもない。そして真の意味での相互理解が成り立たない社会では、たとえどんなに「絆」を強調しようとも、強固な信頼関係も築けるはずはないのである。強固な信頼関係の築けない社会では、非常時、人々の強い結束と協力が得られるはずはない。むしろバラバラになりかねない。

 国も社会も、すべて、人々の共同体である。そこでの人々を深いところで繋ぎ止めるのは、強制力でも法律でもない。人々相互の「信頼」だけだ。相互の間にその信頼がなかったら、何をしようにも、何を訴えても、人を動かせないし、また人は動かない。人を動かせなくてはその国その社会にとっての難題は克服できない。

 ただし、どんなに本音で語り合うことが大切とは言っても、相手を尊重し、相手の立場を思いやりながら語るということはいつでも忘れてはならない。そうであれば、人間というものは最終的にはきっと相互理解に達しうるものだし、むしろそのことを経ることで、より大きな連帯感が生まれるものなのではないか、と私などは信じるのである。

 とにかく、「建前」がまかり通る社会というのは、事実や真実が曖昧にされたままの社会のことであるし、ウソで塗り固められた社会でもある、ということだ。

そんな社会では、相互理解や相互信頼はおろか、多分、共感も、思いやりも、やさしさも生まれないだろう。そんな社会は真の共同体ともなり得ず、したがって本物の民主主義も育ちえず、すべてが形式的で上っ面なものになり、むしろ一人ひとりを互いに孤立化させてしまうしかない。

 私は、この国をしてそのような上辺ばかりの社会、建前ばかりの社会にして来た最大の原因の1つが、古来の「和」という考え方あるいは精神であったと考えるのである。

その語の生みの親である聖徳太子の十七条憲法を知れば判るように、その第一条には、「和をもって貴し」としながらも、続いて「忤(さから)うことなきを宗とせよ」(井上茂「法の根底にあるもの」有斐閣p.220)と釘を刺している。このことからも判るように、十七条憲法が最も重視しているのは、善悪の区別もなく、正義不正義の区別もなく、とにかく対立を起こさせず、ただ社会の秩序を維持しようとすることだけなのだ。そしてその動機も、民衆の立場に立とうとするものではなく、また慈悲を尊ぶ仏の立場に立ったものでもなく、ただ統治者の立場に立った統治者の地位を安泰にさせるためのものでしかなかった、と私は考える。

 人間社会の真の秩序は、人間相互の間の理解と信頼が基礎にあり、しかも正義が行われていて初めて成り立つものである。またそうであってこそ真の秩序は維持できると私は考えるのである。その意味で、上から言われて、あるいは上辺だけ繕ろう形で言われて、成ることではない。

 とにかく、望んで対立を起こす必要はないが、対立を恐れることはない。そして、対立が生じても、それをなかったものとして覆い隠してもならない。それをしたなら、いつまでもくすぶってしまう。

むしろ、真の和は、その対立を対立として受け止めて明らかにし、当事者間で向合い、既述のように、互いに相手を尊重し、相手の立場を思いやりながら本音で語り合うところにしか生まれない。

 なおここで、最近よく聞かれる「自分らしく」という言葉について考えてみようと思う。

果して「自分らしく」、例えば「自分らしく振舞う」とはどういうことを言うのであろう。

一見心地よく聞こえはするが、しかしよく考えてみると、それは私には非常に奇妙に感じられる言葉遣いなのである。

なぜなら、「自分らしく」と言う以上、「自分があること」が前提となっているはずである。しかし、その実、この言葉遣いは、これまで、どちらかと言えば、自分は自分というものを持っていなかった(のではないか)ということへの悔恨の意味が込められて用いられている、と思うのである。なぜなら、もし、いつも自分というものを持っているという自負があるのなら、あえて「自分らしく」などと、自分で自分に言い聞かせ、励ますような言い方をする必要がないからだ。

ということで、この言葉遣いは、矛盾した言い方になっているのではないか、と私は思うのである。

 したがって、いつも自分を維持できない自分に言い聞かせ、自分を持てるよう励ますためならば、その場合はむしろ、「ありのままの自分でいたい」とか、「ありのままの自分を大切に」という言い方の方が、率直で、自分に誠実な言い方になるのではないか、と私は思うのだが。

 

 第2は、これからの時代の宗教とそのあり方について、である。

 私は、これからの時代を生きて行くのに、とくに重要な意味を持ってくると考えられるのが「宗教」なのではないか、と考える。

それは、今後は、人知や人力の遠く及ばない事態や現象が頻発してくると想われるが、そのとき大きな拠り所になるのが宗教なのではないかと考えるからである。

ただしここで私の言う宗教とは、この国で従来から言われて来ている宗教とは、その概念は多分かなり違うであろう。

 ヒトに限らず、生物は皆、絶対的に平等に、いつかは必ず死ぬ。しかしいつかは死ぬことを知って生きているのは多分人間だけであろう。そして死んだとき、それまでの自分の記憶は全部消滅する、意識もなくなるということを知って生きているのも人間だけだろう。さらには、死んだ後どうなるかは誰にも判らないということを知って生きているのも人間だけだ。

 だから死ぬことは誰にとっても怖い。特に健康な人にとっては。

そしてそれが人間の普通の心理なのではないか、と私は思う。

 また人間は、どんなに科学技術力を進歩させ得たとは思っても、圧倒的な自然の威力を前にした時には、全くの無力であることを思い知らされる。さらには、普段は自分のことが判っているつもりでいても、ひとたび窮地に陥ったときには、自分で自分のことをどうしたらいいのか判らなくなるし、自分がどういう人間であったかということさえ判らなくなってしまう自分を思い知らされる。

 そんなとき、人は、「自分は、一体何を考え、何のためにこれまで生きて来たのか」、「何のために、今を生きているのか」、「これから、自分は一体何のために、どのように生きて行けばいいのか」等々と考えないではいられなくなるのではないか、と私は思う。そして、そもそも「自分は一体何者なのか」、「どこから来たのか」、「これからどこへ行くのか」とか、「自分はなぜこの世界(この世)に存在しているのか」、「生きるとはそもそもどういうことか」、等々といったことをも否応なく考えないではいられなくなるのではないか、と思う。

 ではそのような時、その人にとって本当に必要となるものは何か。

それは、私は、自分の生きる意味を見出させてくれて、その生き方をその人自身に確信を持たせてくれ、導いてくれるもの、と言っていいように思う。

 私が言う宗教、私が意味する宗教とは、そういう導き手としてのものである。

 そういう意味で、その宗教とは、もはや、たとえば「それを拝めば商売繁盛する、健康になる、家内安全が守られる、救われる」といった類いの託宣を授ける、いわゆる「ご利益宗教」ではない。祈祷すれば「五穀豊穣が叶う」といった類いのものでもない。「子どもが誕生した時には神社に、結婚式は神前あるいはキリスト教会で、葬儀・葬式はお寺で」という、人間の側のご都合主義を商売とする宗教でもない。また、「自然の中にはいたるところに神様や仏様がおわします」といった「八百万の神」の存在や、「山川草木悉皆成仏」と教えるものでもない。もちろん天皇を現人神とする国家神道の類いでもないし、歴史上の特定の人物を「神」としてしまうような個人崇拝的な宗教でもない。

 また、「とにかくそれを唱えれば救われる」とする類いの宗教でもない。特別の修行あるいは荒修行をした者でしか、あるいは悟りを開いた者でしかその真髄が理解できないとする宗教でもない。

 また「自分たちの宗教こそ正しく、他宗教は邪教だ」と説くような偏狭で独善的な宗教でもない。

 また、象徴となる教祖とか始祖または開祖という人物の教えを教義とすることで成り立つ宗教でもない。また、象徴となる特定の人間の会得した教えや、その人の親族を形にした偶像を拝ませることで成り立つ宗教でもない。さらには、特定の秘物や特定の自然物を祈りや祈願の対象とすることで成り立つ宗教でもない。

 では、果たして私が意味するような宗教とは、具体的にはどのようなものか。どうすれば、それを求める一人ひとりに、それぞれの生きる意味を見出させてくれて、その生き方にその人を導いてくれて、確信を持たせてくれるものとなるのか。

私は、それには少なくとも、人間が人間として生きて行く上で必要とするこの世の政治や経済そして文化をも含む主たる社会的な制度や仕組みのあり方を根本のところで示唆してくれるものである必要があるのではないか、と考えるのである。

 アリフィン・ベイは、真の宗教あるいは本来の意味における宗教とは、「政治も経済も文化もすべてがその中でそれぞれの位置を占めるような“包括的な世界観”」のことだ(アリフィン・ベイ「アジア太平洋の時代」中央公論社p.144)と言った。

 同じことを言っているように見える。

が、それはこのことを意味するのではないか、と私には思われるのである。

 しかし、これをさらに私なりに敷衍して言えば、これからの時代の宗教とは、個々の人間はもちろん、その集合体である社会も国もまた世界をも包み込みながら、自然界あるいは全宇宙の森羅万象を無矛盾なままに成り立たせている法則や原理あるいは自然法や宇宙的秩序そのものなのではないか、とも思われるのである。

とすれば、それゆえに、その時、その宗教こそが全ての人間が無条件にひれ伏し従わねばならない教えとなるのではないか、と私は思うのである。

 

 そして、これからの宗教とはそういうものであるべきではないかと捉えた時、その宗教はこれまでのすべての宗教を、一段も二段も高い位置から包摂した宗教となりうるのではないかと私は考えるのである。

その結果、私たちには、そこに少なくとも次の3つの大きな期待を抱かせてくれるのである。

 その1つは、その宗教は、これまでの宗教間対立や宗派間対立を克服してくれるのではないか、というものだ。

 たとえば、互いに、自分たちの神以外に神なし、この教えだけが絶対に正しい、正義は1つ、神も1つ、と主張し合ったなら、その教えを信奉する2つの世界は、対立せざるを得ない。

事実、例えば、キリスト教世界とイスラム教世界のこれまでの長い、そして時には凄惨な事態をもたらした対立の根源的理由はそこにあった。

 今日もなお、世界のいろいろなところで、宗教対立あるいは同一宗教内での宗派間の対立が続いている。

それは、その信仰生活において、互いに真理を求め、幸福を求めているもの同士のあり方として、悲劇だし、悲惨なことだ。

そしてそこには、国連といえども仲裁にはなかなか入り得なかった。

 でも、もし、世界が、これからの宗教を既述のようなものと捉え直すようになれば、————宗教対立の長い歴史を見れば、事はそんなに単純なものではないかもしれないが————、それでも、かつてあった幾多の宗教間の対立も、宗派間の対立も、ぐっと少なくなって行くのではないだろうか。そしてそれだけ、世界は、平和へと大きく前進できるのではないか。

 もう1つは、その宗教はとくに科学者、それもとくに「知性」だけで自然と社会と人間に向き合ってきた科学者に対して、その態度の傲慢さ、人間社会への無責任さ、そして自らの独善性に気付かせてくれるのではないか、というものである。

 今、科学者は自然界の秩序に手をさし入れ、それを壊している。その代表的な行為が、「遺伝子組み換え」という操作であるし、「クローン」技術であるし、「ゲノム編集」だ。

それをさせる動機は「お金」であったり、「知的好奇心」であったり、「名誉欲」だったり、といろいろあるのだろう。

しかしそれらの行為は、どれも、生命の根源に関わる行為だ。しかも、その科学者自身を生命として成り立たせているその根幹に関わる行為なのだ。

 そこには共通に「遺伝子」が関わっている。しかし、その操作法や操作技術がコンピュータの発達とともにどんなに進んだとしても、生命の源である遺伝子そのものを科学者が生み出し、創造しているわけではない。またそんなことは、どんなに科学が進み、AIが進み、ロボット技術が進んだところで、できることでは絶対にないと、私は生命の神秘さを知れば知るほど確信する。科学者がやっていることは、無から有を創造していることではない。ただ、生命の根源を自身の好奇心や名誉欲に衝き動かされて「いじり回して」いるだけのことだ。

 私はその行為自体、自然への、この上ない人間の冒涜だと考える。

それは完全無欠、無矛盾の秩序から成る自然を、イザッという時自分を自分で制御もできないあやふやで脆い人間が掻き乱すことだ。なぜなら、その操作によって改造されて生まれてくるのは、かつて自然界のどこにもいない、また自然界が生み出しようもない生き物だからだ。

それが無矛盾の世界を掻き乱さないはずはない。

 その反動がどういう形でやってくるかは、欠陥だらけの人間、遠い時間の彼方を予測し得ない人間には誰も予想もできないだろうが、いつか、必ず、途方もない規模と形で、人間に、社会に、そして自然界に襲ってくるであろうと私は確信する。「覆水、盆に返らず」で、その時にはもう、どうやっても遅いのだ。

 それはたとえば、人類が「原子爆弾」を創ってしまったことの反動あるいは功罪を考えてみると判りやすい。あるいは、今、人類が、文明という名の下に、あるいは飽くなき「便利さ・快適さ実現」への欲求の下で、日々、莫大な量の炭酸ガスという温室効果ガスを自然界に排出したり、生態系を破壊する化学農薬散布や無計画な開発行為を繰り返したりしていることがもたらしている現実を直視すると、判りやすいのではないか。

世界が今、核戦争の脅威に曝され、地球温暖化による気候の激変に直面し、生物多様性の消滅の危機に直面し、人類絶滅の危機を招いてしまっているのも、そうした行為の結果なのだから。

そこへ持ってきて、「遺伝子組み換え」操作や、「クローン」技術や「ゲノム編集」が結果としてもたらす事態は、人類が「原子爆弾」を創ってしまったことによって受けたしっぺ返しの比ではないと考える。それは、そこにもたらされてくる事態は、人間によって作られたそれが自然界に放たれたなら、それはもはや人間には制御できない形で、自然の秩序を乱し、自然そのものを狂わせてしまうことになるだろうからだ。

 私は、こうした行為の愚かさを本当に気付かせてくれるのは、もちろん知性ではなく、理性であり、あるいはそれをも超えた既述の意味での真の宗教でしかないのではないか、と私は期待するのである。

 そしてもう1つは、これは捉え方に人によって差が生じるかもしれないが、この宗教は、「この世」と「あの世」との関係の捉え方や理解のさせ方についても1つの解決をもたらしてくれるのではないか、というものである。

 その意味は次のように説明される。

 「この世」、つまり現世において、現世というものの捉え方について、もし他者に尽くした人も他者を踏みつけにした人も死ねば同じとなれば、私たちは、生きていても、その生に対して、理不尽さとか不公平さを感じ、納得しがたいものと感じてしまいがちだ。しかしこの広大無辺の宇宙の森羅万象を成り立たせている宇宙的秩序はつねに絶対無矛盾でありかつ完全無欠なはずと思え、またそう信じられたなら、自分が死んだ後の世、つまり「あの世」でも、その宇宙的秩序は絶対無矛盾かつ完全無欠なままに働いて作用を及ぼすであろうし、その結果、「この世」で善行を積んだ人は「あの世」ではきっといい思いをし、楽しく愉快に、そして幸せに過ごせるに違いないと自然に考えられるようになるのではないか。また反対に、この世で悪行を重ねた人は、あの世では悩み苦しむことになるに違いないともごく自然と考えてしまわざるを得なくなり、またそれを受け入れられるようにもなるのではないか、と私は考えるからである。

 その結果、現世での生き方がいっそう大事にされ、善的行為が増え、悪的行為が漸減して行くのではないか、と推測されるのである。

 こうして真の宗教とは、人間にとって、「見えない」「計り得ない」「知り得ない」世界と、「見える」世界、「測ることのできる」世界、「知り得る」世界の双方を互いに連結させ統一したものの考え方をできるようにさせてくれ、その上で、自然と社会と人間の相互のありようと、そこでの自分の人間としての生き方にも確信を持てるよう指し示してくれるもの、とも言えるのではないか、と私は考えるのである。

 それだけではない。真の宗教とは、社会や国家に対しても、より多数の人々が安心と幸福を感じられる社会的制度やしくみのあり方を包括的かつ総合的に指し示してくれる羅針盤あるいは道しるべともなってくれるもの、とも私は考える。

 そうなると、もはやそこでは、「政教分離」なる考え方、すなわち政治と宗教は切り離すべきだとの考え方も、それは近代以前の時代の偏狭で独善的な宗教観に基づく捉え方に過ぎなかったということになり、再検討されねばならない、ということになるのではないだろうか。