LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.4 この国の政治家はなぜ選挙を繰り返す度に政治家としての質をますます低下させてしまうのか

 

 今、この国では、政治家たちがますます自らの役割と使命を果たさなくなってきています。その結果、綱紀が緩み、あるいは乱れています。その政治家たちは、本来、国民のための「シモベ」であるはずの官僚を含む役人一般をコントロールしなくてはならないのにそれだけの能力も覇気も失い、そのため、役人は公務員法によって身分が守られているため、刑法に触れない限り辞めさせられる事はないことをいいことにして、本来彼らには、憲法上からも、与えられてもいない権力を闇で行使しては、自分たちの組織の既得権を守ることを優先させる行政をしています。

 そのため、国民は政治家と役人への信頼をますます失い、“この状況をどうしたらいいのか”と、日常においても、将来に対しても、ますます絶望の淵に追いやられています。そうした状況は、特にこれからの時代を生きてゆかねばならない若者たちに対しては大きな不安材料となっています。そうでなくても今後の日本は、ますます大きな困難が前途に待ち受けているのは確実だからです。

 私はこうした状態そのものが日本という国の危機だと考えます。あるいは危機に対する耐性を失わせていることだと考えます。

国際法を無視し、不法に領土の拡大を画策し、自国の支配を拡大しようとする習近平政権の中国だけが危機ではないのです。それに、これも既述してきたように(1.1節)、もはや、アメリカに頼っていればいい、という状況でもないのです。

 そこで、私の予定では、このほど第6章を公開し終えたので、拙著の目次(2020年8月3日公開済み)の第10章の「教育」の公開に移ろうかと思ったのですが、今回はその予定を変えます。国内の綱紀粛正を図り、政治家と官僚たちには、国民の絶望感をこれ以上深めさせてはならないと思い、まだ公開していない2.4節を公開しようと思います。

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 2.4 この国の政治家はなぜ選挙を繰り返す度に政治家としての質をますます低下させてしまうのか

 この問いに対する私の答えについて、その要点をまず箇条書し、その後でその理由を詳述しようと思う。その要点は8つある。

 

①政治家であったなら、あるいは政治家になろうとする者だったら、これだけはまず是非とも知っておかねばならない政治的基本諸概念すら知ろうともせず、あるいは学ぼうともせずに、彼らの先人・先輩がやってきたことを、やってきた通りにただやっているだけだからだ。

つまり、人類の歴史の中で、自由や民主主義の概念がどのような動機の下で生まれてきたのか、それさえ知ろうとしないで「政治家」ぶっている者がどんどん増えてきているのである。

 その知ろうとはしない政治的基本概念とは例えば次のようなものである。

これらはどれも、近代民主主義政治を行う上での必須概念だと私には思われるのだが。

国家、国、政治、政治家、権力、議会、最高権、政府、執行権、三権(分立)、民主主義、議会制民主主義、立憲主義憲法、法律、主権、独立(国)、自由、平等、共同体、市民、権利、人権、統治、首相、閣僚、自治、公務員、独裁、法の支配、法治主義、等々。

 近代民主主義政治を理論的に確立してきた知的先人たち、例えば、ジョン・ロックモンテスキュー、ルソーの著書を読んだことがある日本の政治家など、多分皆無に近いのではないか。

 だから、本来、国会を含めて、議会とは誰が何をするところかさえ知らない。「質問」するのを当たり前としていることからもそれが判る。

 もっと言えば「政治」とはどういうことかさえ知らないだろう。

なぜ国会は国権の最高機関とならねばならないか、国権の最高機関とはどういうことか、それも知らないだろう。三権分立の意味も知らないだろう。それは、執行機関でしかない政府の内閣が国会しか決められないことを「閣議決定」をすること、それも国会に先駆けて「閣議決定」することに異議を唱える政治家が与野党政治家の中には誰もいないことからも判る。

 さらに言えば、そこで閣議決定される内容も、政治家————その場合総理大臣と閣僚————が国民から信託された権力を正当かつ公正に行使して作った法案あるいは政策案ではなく、ほとんど全て公僕でしかない官僚にその移譲すべからざる権力を丸投げして作らせたものをただ追認するだけのものであることから、「権力」の意味も、その成立根拠すら知らないことも判る。

こうしたことから、この国の政治家は、政府の正しい意味やその役割や使命も知らないのだ。

 とにかく、こうしてあげればきりがないが、この国の政治家は、本来の民主政治はどのように行われるべきかも知らずして、公式には民主憲法を取り入れて70余年経った今もなお、彼らの先人がやってきたことを、やってきた通りにただやっているだけなのだ。

 であれば、選挙を繰り返すたびに、政治家としての質が低下するのは当たり前であろう。

 というより、もはや彼らは政治家ぶってはいるが本来の政治家ではなくなっている。後述内容からそれが一層鮮明になると思われるが、彼らの実態は、その多くがむしろ「政治屋」であり「族議員」、「利権漁り屋」の域を出る者ではなくなっている。そして明らかに税金泥棒と化してもいる。

 実際、現役の政治家の誰でもよい。国会議員であろうと、都道県議会議員であろうと、また市町村議会議員であろうと、試みに、次のようなことを直接問うてみることを是非お勧めする。

「そもそも政治とは何か」、「選挙は何のためにするのか」、「公約は何のためのものか」、「政治家の役割と使命は何か」、「議会の役割とは何か」、「政府の役割とは何か」と。あるいは「権力とは何か、また権力の成立根拠は何か」、「法とは何か」、「民主主義とは何か」、「独裁とは何か」、「公僕の役割とは何か」、等々と。

 まず、誰も、どの質問事項に対しても、ドギマギするだけで、まともに答えられもしないだろう。

もっと突き詰めれば、民主主義という政治制度を生んだ歴史的背景や、世界の人々が時には命がけで守ろうとしている自由という概念の意味とその価値についても、まともに答えられる人はいないだろう。

 なお、既述したことであるが、ここでも、私が使っている「知らない」とは、次の意味であることをお断りしておく。

それは、現実の政治の場や日常の場において、いつでも、どこででも、その言葉や用語が意味していることを無意識にでも、実践的に活用できなかったなら、それを知っているということにはならない。

 

②どんな政党も、政党である以上、政権を奪取するという気迫を失ったなら、そして政権に対抗しうるオールターナティヴな(もう一つの)政策案や法案を立案して国民の前に提示し得なかったなら、政党を結成している意味がないということ、またそんな状態を常態化させたなら、権力を所持する者を必ず堕落させ腐敗させもするということを知らない者がどんどん増えてきているからだ。

 政党政治が主流である以上、与党と野党とが存在する。

ではその野党の存在意義はどこにあるのか。

それは政府を作っている与党に対して、あるいは政府と一体となっている与党に対して、独自の政策案あるいは法案をもって対峙し、その様を常に国民の前に明らかにすることにある、と私は考える。

それは例えば、“自分たちだったら、現状を救うために、こうした政策を法律の裏付けと予算の裏付けを持って作り、このような方法で実行し、実現してみせる”ということを明らかにして。

 ところが、この国の政治家、とりわけ野党には、その自覚も使命感もあるようにはとても見えない。既述した「質問」を通じて、与党のやっていることに対して批判したりケチをつけることだけだ。

 しかしそんなことは誰だってできる。

国民が求めているのは、政策立案能力であり、法案作成能力だ。それも与党の政策の不十分さや欠陥を補うものだ。

 ところがこの国では、国会議員だったら誰もが、毎年、一人当たり、「立法事務費」として780万円を受け取っているのに、議員立法している者など皆無に近い。ほとんどが政府提案の法案であり政策案だ。なのに、“私は議員立法はしませんでしたから、この立法事務費は受け取るわけにはゆきません。国庫にお返しします”と返納した者など誰一人いない。

 とにかくこの国の野党には、いつ自分たちが政権を取っても、現政権よりもマシな政治を行えるという政策を常日頃から練っているようには到底見えない。

 結局そうなるのは、国民生活を現場にて克明に見ていないからだろう。自分は国民から選ばれた国民の利益代表であるとの自覚がないのだ。それと、長年の他者への依存心————例えば、アメリカや官僚・役人への依存心だ。彼らがなんとかしてくれる、という————が身についてしまっている結果だと私は思う。国民から選ばれた国民の代表として、この国のゆくべき道、目指すべき目的地は自分たちが決めるのだ、という愛国への気概、独立への気概がなさすぎるのだ。

 だから万年野党のままでも平気なのだろう。それ自体、国民を裏切っていることにも気づいていない。

 

③この国の政治家という政治家は、国会議員も都道県議会議員も市町村議会議員も、誰も、議会はあくまでも法律や条例を制定する立法機関だということすら、今だに知らないことだ。

それは議会を既述した「質問」の場のままにしていることから判る。「代表質問」、「一般質問」と呼ばれるアレだ。

それも、事もあろうに、本来は自分たちが議会で法律や条例を作り、それをその通り執行するようコントロール、つまり統括して指示しなくてはならない相手である政府の側の者(総理大臣や閣僚、時には官僚)に向かってである。

 つまりこの国の政治家という政治家は、「三権」の意味も区別も知らなければ、健全な民主政治を行う上ではそれらは常に互いに「分立」していなくてはならないという、近代西欧が議会政治の中で掴み取ってきた知恵であり教訓でもある原則も知らないのだ。

それでいて、政治家をやっているつもりになっている、ということである。

 議会はあくまでも「議論」や「論戦」の場であり、「立法」の場である。その意味で「立法府」なのだ。決して「質問」の場なのではない。

 ところが実態はこんな調子である。

“あれはどうなっているのか?”、“これはどうなっているのか?”。あるいは“総理のご見解を伺います”。

 ところが、そうした議会のあり方に対して、“議会はこんなことをしている場ではない。立法する場ではないか”と異議を唱える政治家は誰もいない。むしろこんな質疑応答をすることが国会の役割であると錯覚している風であり、それが「当たり前」と思っている風でさえある。

しかも、そうした「質問」をすることを、議会の者は、議会の執行機関への「チェック機能を果たしていること」と錯覚してさえいる。

 こうした場合の本来のチェック機能を果たすとは、自分たちが最高権としての議会で、立法機関としての役割を果たして定めた政策なり法律を、政府が執行機関としてちゃんと、その通り果たしているかどうか、果たしていないとすれば何が原因で果たしていないのか、なぜ果たさないのか、その辺の理由を、主権者である国民の前に、国民が納得ゆくよう、「丁寧に」といった情緒的にではなく、事実のみに基づいて論理的に説明させ、今後はその原因をどう取り除き、どう目的を果たすのか、その辺も国民が納得ゆくように論理を尽くして説明させることなのである。

 この国の議会の政治家たちがやっていることは、国会であれ地方議会であれ、決して移譲してはならない国民から信託された権力を官僚・役人に丸投げし、彼らに作ってもらった法律(条例)や政策・予算について、思いついたまま突っついているだけなのだ。

 

④しかも、その議会での「質問」の仕方やあり方も、議会を「言論の府」とするどころか、「儀式場」化させるだけの仕方でしかない。

 ところが、そうした状態に異議を唱える政治家も未だ誰もいないことである。

それに、日頃、政治のあり方を研究しているはずの政治学者も、権力の見張り番であるはずの政治ジャーナリストも、その異様さや異常さに気づかないのか、放置したままで、「常識」化させることに一役も二役も買っていることだ。

 議会という場を儀式場化させているとは、次のような意味である。

質問する者の順番はあらかじめ決められている。質問時間も決められている。

質問内容はあらかじめ通告しておかねばならない。それは、政府側の答弁者が即座に、そしてスムーズに答弁できるような想定問答集を、関係する府省庁の担当官僚が質問当日の朝までにこしらえておけるようにするためだ。

質疑応答の過程で、答弁者は替わり得ても、第三者が質問することは許されない。

 ところがその質問の内容たるや、その時、この国の国民にとって、またこの国の今と近未来にとって、政策面においても財政面においても法律面においても、今すぐにも解決の目処をつけておかなくては近い将来大変なことになることが予想されるという意味での重要度と緊急度が最も高い内容の質問などはまずない。というよりそうした類の質問は全てさけられてしまい、「先送り」されてしまう。質問される内容は、そのほとんどが、その時たまたま発覚したり浮上したりしてきた問題だ。つまり、国と国民にとっての優先順位ははるかに低いものだ。そういう意味で、どちらかといえば、「どうでもいい」内容の質問ばかりだ。

その上その時の質問者の質問の仕方も、どちらかといえば、その質問者の支持者向けの、“皆さんに支持されて、私は議会でこれだけ活躍しています”と見せるための演技、ポーズ、ゼスチャー、パフォーマンス、といった感じだ。

 例えば次のような最重要な問題は、まず質問されない。

貯めに貯めてきた超巨額の政府債務残高について、将来世代や未来世代にツケ回しするのは道徳的ではない。それに彼らから希望を奪うことだ。そこで、借金を作ってきた現在世代の責任において大至急その額を減らすにはどうすべきか、といった質問。

 あるいは少子高齢化を食い止めるためには、若者たちに将来への希望を見出せるようにすることだと考える。それを可能とする社会とはどのような社会であると考えられるか。またそれを実現するには、私たち政治家は、そして政府は、その役割と使命において、何をどうすべきと考えるか、といった質問。

 では、立法府である議会の政治家はなぜこうした質問をしないのか。

それは、前者のような質問を議会で本気で取り上げたら、それは、結局は国民に新たに大きな負担を背負ってもらうことになることが想像できるからであり、そうなっては、これまでの自分への支持者の支持を失ってしまうと恐れるからであろう。それは言い換えれば、次期選挙では当選できないことだからだ。

 一方後者の質問は、それを質問する自身のみならず政治家一般が、これまでのような怠慢ではいられなくなり、ものすごい勉強をしなくてはならなくなり、また今まで、政策提案など具体的にしたことのない彼らにとっては、若者たちが将来に希望を見出せるような社会のあり方など低減できる自信もないからだ、と私は推測する。強いられることが推測できるからだ。

 要するに、どっちにしても愛国心がないからだ。あまりに無責任だし、あまりに自己に甘すぎるからだ。とにかく今までやってきた通りにやっている方が楽だからだ。

 しかしだ。我が子を愛している親は、我が子に自分の代で作った借金の肩代わりを平然と期待するだろうか。

 ともかく、そんな低レベルで低次元の質問内容についてのやりとりが事前のスケジュールに従って「粛々と」進められて行く。そして答弁する者は、その日の朝までに関係官僚が書いた想定問答集から適当な部分を拾い出し、それを棒読みするわけである。まさに茶番劇でしかない。

 中には、その茶番劇を一層劇的に見せてくれる輩さえいる。その作文中に用いられている漢字すらまともに読めない者がいるのだ。それも何と、副首相兼財務大臣で、元宰相と呼ばれた者の孫だ。

 こんな議場の状態を、例えば「公共放送」と自任するNHKは「論戦」などと表現する。NHKも、「議論の府」とは何か、論戦あるいは議論とは何をどうすることか、それさえ知らないのだ。

ところが、議場でのその茶番劇を、一層決定的にしてしまうのがいわゆる国会対策委員会という政党間の密室の談合である。「透明性」の確保とは正反対の、不公正で、無所属あるいは無派閥で、ごく少数あるいは個人で動く政治家を完全に無視し、「代表の原理」や「審議の原理」(山崎廣明編「もういちど読む山川政治経済」山川出版社P.12)も知らないことを露呈した行為だ。

 本来、議論や論戦ともなれば、議論の発展の方向がどうなるか事前の予測がつかないものである。ところが、国会対策委員会は、その儀式の方向、結論の方向まで、そこに集まった各政党の国会対策委員なる人たちによって事前に決定してしまっているのである。

 やはりこれも、議会とは何か、議論とは何か、この国の政治家は誰も知らないのだ、と言うしかない。

 

⑤政治家は、ある特定の目的実現のためという制限付きで国民から信託された権力を、したがってそれはその人本人だけが行使すべきものであって、絶対に他者に移譲してはならないものなのに、それを、国民のシモベである役人に丸投げしては、法案づくりや政策案づくりを依存するばかりだ。それだけではない。公僕の作ったそれらの法案や政策案に追随するばかりで、各自が選挙時以来掲げて来た公約を形にするための議員立法などは誰もしない。

 ところがそれら一連の権力の丸投げ行為と政策の追随行為は彼らを信じて一票を投じた国民を裏切っている行為だと判断する力もなく、むしろそんな状態をも常態化させてきていることだ。

 要するに、この国の政治家は、よく“政治は権力だ”などと、政治あるいは政治家にとって権力は切っても切れない関係にあるとは言うが、ではそもそもその「権力」とは何か、そしてその権力は、何に根拠を持つか、つまり権力が権力として成立する根拠は何かという、民主政治を実現させる上で絶対に欠かせてはならない基本中の基本すら知らないのだ。

そしてこの国の彼らは、それでも政治家をやっているつもりになっているのである。

 だから、この国の政治家は、誰も、日本国憲法も官僚には権力は与えてはいないのに、官僚が、そんな権力を、どのように行使しているかということについても、全く無頓着なのだ。

そして、それゆえに苦しめられ、また惑わされるのが主権者である国民なのだ。

 

⑥とにかく、この国、特に国会議員の歳費を含む特典と特権の金額換算した総額としての議員報酬が法外と言えるほどに高すぎる。それは欧米を含めた世界のどこの民主主義国の国会議員と比べてもだ。

 それゆえに、この国の国会議員のほとんどは、政治家となる主たる目的は、政治家としての本来の役割と使命を果たすためではなく、上記議員報酬を得ることとしている者が大多数だということである。それはこれまで述べてきたことからも裏付けられる、と私は考える。

 しかも、これも既述したように、本来の役割と使命など全く果たさないのに、そして議会は制度を定められるところであるということだけは利用して、そんな法外な報酬を受け取り続けられる制度を温存していることだ。たとえどれほど多くの国民が大災害で悲惨な目にあっているときでも、また新型コロナウイルス禍にあって、どれほど多くの国民が経済的に窮地に陥り困窮していても、それとは無関係に、である。そしてその議員報酬の総額はおよそ2億円だ。

 ただし、共産党議員だけは政党助成金4500万円は受け取っていないから、その分だけは少ない。

 その2億円の内訳をみると次のようになる(平成24年9月10日発売の小学館週刊ポスト」)。

 表に現れてきて公式に知られている「歳費」と呼ばれる議員報酬は、一人およそ1556万円(衆参両院議長、内閣総理大臣はもっと多い)である。

これだけでも私たち一般国民からは大変な額なのに、それは政治家一人当たりが享受している総額から見ればわずか7.8%に過ぎない。

ただしそこで言う総額とは、政治家が受け取っている歳費を含めての特権や特典すべてを金銭換算した額、という意味である。

 ではその他のものはどうなのか。

 金額の大きい方から行くと、選挙経費4622万円————現役の国会議員は黙っていてもこの金額は受け取れるのだから、選挙でも、現役議員が圧倒的に有利となることがこれで判る————、政党の国会議員数に応じて受け取れるようにした政党助成金の分け前4500万円(ただし、日本共産党だけは、これを受け取っていない)。公設秘書給与(3人分)2586万円。議員会館家賃2377万円。文書通信交通滞在費1200万円。都心の一等地にただ同然で居住できる議員宿舎の年間家賃相当分、年840万円。議員立法など既述のとおり、自らはほとんどしないでほとんどは官僚に任せっ放しなのに、受け取っている議員立法事務費780万円。ボーナス555万円。公用車/国会と議員宿舎間の送迎公用マイクロバス226万円。議員会館での光熱費152万円。議員会館備品代113万円。無料航空券(クーポン)103万円。JR無料パス78万円。旅費55万円。支給される弔慰金・特別弔慰金8万円。議員会館通信費2万円、となる。

 これらを合計すると、実に、1億8205万円という額に及ぶ。それは公になっている歳費の何と11.7倍に近い。

これに歳費を合わせると、およそ2億円(より正確には1億9761万円)という額になる。

 こうした数字を彼らのやっていることの実態を思い浮かべながら知る時、そして予算編成ももっぱら役人任せできたがゆえに、この国の政府債務残高、いわゆる国の借金の額が天文学的な額となってしまっていて、対GDP比がダントツで世界最悪となってしまっていることを知る時、また「身を切る改革」などと言いながら参議院議員定数を6も増やしてしまっている実態を知る時、もはや彼ら国会議員をして、文字通り税金泥棒あるいは詐欺師あるいは偽善者と読んでも、決して不当ではないと私は思う。

 ここで参考までに、海外での国会議員の報酬を見てみよう。

日本の国会に当たるフランスの国民議会の議員の歳費と秘書を雇う費用としての議員報酬は、一ヶ月当たり、一人、13,049ユーロ、日本円に換算して1,565,880円、およそ157万円である(2017年5月現在の為替レートにより、1ユーロ=120円とした場合)。

フランスの国会議員は、この報酬で、すべての政治家活動をしなくてはならないのである。

 一方、スエーデンの国会議員の同じく一ヶ月当たりの全議員報酬は、およそ60万円(?)と聞いている。

 これから見ると、日本の国会議員は、一ヶ月平均、フランス国会議員の10倍ものお金を国民の税金からふんだくっていることになる。なんだかんだと屁理屈を付けて。しかも、政治家としての役割や使命など全くと言っていいほどに果たしてはいないのに、である。

 ちなみに、選挙区の支持者の冠婚葬祭に祝電や弔電を打ったり、あるいは花輪を送ったりすること、また地域の行事に顔を出したりすることは、本来政治家としてすることではない。

 本来、議会の政治家の最大使命は国民との約束である公約を形あるものとして実現してみせること。一方、政府の政治家の最大使命は、議会が決めた国民の声を忠実に執行することである。それ以上に大きな使命はない。

両者は、そのことにおいて、全能力、全エネルギーを注ぎ込まねばならない。

 また、自ら掲げる公約をより適切なものとするために、常に現地の国民の声に真摯に耳を傾け、それを速やかに汲み上げ、その声に応える政策なり法律という形にすることである。また議会では自分の公約を通すために、議場に居並ぶ他の政治家を論理で説得しうる弁論術、ディベートを学ぶことだ。そして政策や法案を作る能力を磨くことだ。

 そうしたことができずに、議会で実績を示し得ないから、選挙時でもないのに、年がら年中、街や街路のいたるところに顔写真入りの、しかも訳のわからないスローガンを掲げたポスターを立てては、売名行為を続けなくては不安でいられなくなるのであろう。

 そう考えれば、フランスやスエーデンの国会議員の議員報酬が妥当であることが、すぐにも判る。彼らはその報酬を持って本来の政治家の務めを果たしているのだ。どうして2億円も要るというのか。

 もし、フランスやスエーデンのみならず、アメリカ、ドイツ、イギリス、カナダ、その他世界の全ての民主主義議会制度を取っている国家の国会議員が日本の国会議員のこの実態を知ったら、間違いなく、みな、驚愕して腰を抜かすであろう。 

 

⑦現行の選挙制度そのものに欠陥がある。それも本質的な欠陥が、である。

 まずは立候補を望む者にとって不公平であることだ。

 そしてそれぞれの候補者が掲げる公約については、その中身の違いや価値が有権者に認識できるようにはなっていないこと。だから適当に書いても、誰もその相違は識別できない。

 さらには有権者にとっては、とにかく立候補した者の中の誰かに投票するしかない制度になっていること。

 こうしたことから、現行の選挙制度には、本当に民意を代表していると主権者である国民が思える立候補者は当選しづらいとか、反対に、民意を真の意味で代表しているとは思えない者が当選してしまう可能性が高いという本質的欠陥がある。

 なお、ここで言う選挙制度とは必ずしも国政レベルで言う現行の小選挙区制や比例代表制に限った話ではないし、またその両者を併合させた制度に限った話でもない。今日この国が国政選挙でも地方政治選挙でも同様に採用している選挙制度のことである。

 そこで、上記のことをもう少し具体的に述べるとこうなる。

 その本質的欠陥の第一。

 それは、お金がかかりすぎること、あるいはお金がある者しか立候補できないこと、そして特に国政選挙の場合には、現役の政治家であるというだけで選挙経費として4600万円ももらえる制度になっていて、不公平であることである。

 国政レベルであれ、地方政治レベルであれ、政治家としての資質や能力などなくても、知名度が高く、金があり、あるいは強力な支持団体を後ろ盾に持ってさえいれば、あるいは親や祖父が政治家として残してくれた地盤・看板という財産さえあれば、さらにあるいは、そのときたまたま政治家であった父親が死んだとかで有権者の同情を集められたなら、それだけで、公約の内容などほとんど無関係に当選できてしまう可能性の高い性格を持っている、ということだ————尤も、当選してしまえば、その公約も簡単に反故にしてしまうのであるが————。

 また、コロコロと政党を乗り換え、平気で相乗りするような政治的無節操な者でも、さらには、選挙に有利となれば有権者を裏切ってでも住む場所を変えてしまうような者でも、また、政治哲学もないまま、そのときの時流に合わせた思いつきの公約しか並べられないような者でも、さらには、本音は自分を支持する団体や人々のためしか働こうとは考えていないのに、いかにも国民一般の幸福の実現を考えているかのように、人前で声を大にしてもっともらしく饒舌にしゃべることしか能力のない者でも、特定政党の公認さえ得られれば、ほとんど当選できてしまい、見かけだけは政治家になれてしまうという性格を持っているということである。

 これは裏返せば、現行の選挙制度は、無名であったり、知名度が低かったりしたなら、どんなにこの国や地域の現状を憂い、国民の幸せの実現を思って、明確で具体的な政策を掲げ、人格的にも優れていようとも、政治家にはなれない、という性格の選挙制度であるということだ。

 こうした状況の中で登場して来るのが、行政組織からの官僚、財界組織からの官僚、大労働組合そして大宗教団体の支持を得た者たちであり、二世議員とか三世議員と呼ばれる者たちであり、著名なタレント、スポーツ選手等である。

 実際、今やこの国の国会議員は、二世、三世議員と政府官僚のOB、財界官僚のOBと大労働組合幹部と宗教団体関係者、農業団体関係者を合わせると、国会議員定数(現在722名)の80%を超えると言われている。

 当然、そのようにして「当選」した者には、一選挙区の、あるいは特定集団の代表としての意識だけで、国民全体の代表であるという意識などはないだろう。

だから彼等は、当選後、それらの支持団体から、本質的には賄賂でしかない「政治献金」を受けても平然としている。あるいは特定の府省庁や業界の利益を代弁する、いわゆる「族議員」となる。

 では二世や三世議員の場合はどうか。

彼等は普通、自分の親や祖父の影響の下に幼少期を過ごして来ている。しかもその祖父は、多くが、明治憲法(欽定憲法)の下に政治家をして来た人々だ。親は、敗戦後、アメリカの統治下で政治家をやってきた人たちだ。いずれも、そのほとんどは真の民主主義や議会制民主主義も知らないで、それを「政治」だとして生きてきた人々だ。

そんな環境下で育った二世議員や三世議員は、「三つ子の魂、百までも」の通り、幼い頃から頭に叩き込まれた古い政治観はなかなか捨てきれないだろう。したがって、彼らは、政治家になっても、真の民主主義政治の実現に対しては抵抗勢力になりかねない。

 またタレントやスポーツ選手だった者の場合はどうか。

彼らの大多数は民主主義や権力の意味一つ知らないで当選してしまう場合がほとんどであろうから、たとえ特定の既存政党の公認候補として当選できても、その党内では○○○チルドレンとなったりして、ただ数として存在しているだけで、古参の政治家に物も言えず、ただ操られるだけの存在になるしかないのである。

 本質的欠陥の第二。

 各候補者が掲げる公約の中身の違いが有権者に認識できるような選挙運動を義務付けるものとはなっていないことである。候補者同士が国民の前でそれぞれの公約について論戦し合うこともない。せいぜい単独で、明治期以来の「立ち合い演説会」をする程度だ。あとは、ただひたすら街宣車を連ねて、街の通りを走り回り、候補者の名を連呼して回るだけだからだ。

 と同時に、有権者にとっては、“本当は今、この国、この地方にはこうした政策が必要なのだ”と切望しても、そうした内容を公約として掲げる候補者がいない場合には、とにかく、棄権しないためには、立候補した者の誰かに一票を投じるか、白紙で投じるかしなくてはならないという、選択肢の非常に狭い制度になっていることである。

 本質的欠陥の第三。

 では、選挙制度小選挙区比例代表並立制に限ってみるならば、それは選挙制度として、次の本質的な欠陥を持っていることである。

 それはたとえば、既存大政党に圧倒的に有利な制度でしかないという点だ。そして膨大な数の死票を生んでしまう制度だということだ。

 実際、たとえば、得票率が比例代表で28%、小選挙区で43%という過半数をはるかに下回る得票率でも、全議席の8割の議席を獲得でき、その結果政権を執ってしまえるような制度なのだ。ということは、比例代表で72%、小選挙区で57%の票を投じた人々の意思が無視されたままでも政権が執れてしまう制度であるということである。

これでは、もしこのままで政権が取れてしまったとしても、つまり司法が憲法違反であるゆえ選挙結果は無効であるとしなかったとしても、その政府は断じて国民を代表した政府とは言えない、となる。

 そしてこのことは、 “一票の重みが憲法違反の状態にある”ということを問題とする以前に、この選挙制度自体が、民主主義の実現を阻んでいる制度である、ということだ。

 実際、この国の現行憲法は、選挙結果がそれだけの死票を出しても、また半数をはるかに下回る得票率でも政権を執れてしまう選挙を無効だともしていない。

これはこの国の現行憲法が、民主主義政治の実現のためには、大して役には立っていない、というより、欠陥憲法であることを示すものである。

 そもそも小選挙区で落選した者が、比例選挙区で復活当選してしまうなどということ自体矛盾している。こんな単純明快な矛盾すら、現行政治家は判断できなくなっているだ。

 欠陥の第四。

それは、この国の選挙制度は、国政選挙でも地方選挙でも、選挙は既述した目的のために行うのではなく、ただ決められた定数の中で、単により多く得票した者を当選者とする、という程度のものであることである。つまり立候補者の有権者への義務として最も大切な、各候補者が掲げる政策案である公約について、各候補者間で有権者の前で論戦し、相互の公約間の重要度の違いや中身の違いや実現性を明確にするということをせず、ただ街宣車を連ね、自分の名前を連呼するだけで、あるいは自分だけの選挙演説会を開くだけで、選挙期間を過ごしてしまう、という制度であることだ。

 だから必然的に、候補者が訴える公約なるものは、かねてからの自分の政治的信念を形として表そうとする政策案ではなく、そして誰の公約も具体性など全くと言っていいほどになく、実現性や実現方法なども一切検討されないものとなる。

むしろ公約の中身は、そのときたまたま人々の関心をさらった話題とか争点となったものを拾い上げただけのものとなる。それは所詮は思いつき程度の域を出ない。

 こうした本質的な欠陥を抱えているにも関わらず、現行の選挙制度については、国会議員は、例えば、定数について◯増□減などといった、憲法に抵触しないギリギリの範囲の変更をするだけで、本質的な変革は何一つせず、これまでの状態を常態化させてしまっていることだ。

 要するに、この点でも、この国の政治家という政治家は、選挙とは何か、何のためにするのかを知らないということであり、したがって選挙制度はどうあるべきかということについても考える力がないということである。

 

 それに、この後すぐにその理由を述べるが、各候補が掲げる公約については、誰も、最初からそれを議会で政策なり法律として実現しようなどという気持ちなどはなく、“選挙だから、仕方がない”ということで、間に合わせ程度に考えたものでしかない、と私は断定する。

 そうなれば、それをただ聞かされる有権者は、公約間の相違など全く判別できない。それは、

有権者は誰に投票したらいいのか、見定められなくなってしまうことを意味する。

 こうして、結局というか必然的に、「カッコいいから」、「知名度が高いから」、「知人友人から頼まれたから」等々といったことが投票基準となってしまう。したがってその選挙は、国の中央でも、地方でも、“今までやって来たことだからやる”、それも“今まで通りやる”という程度の域を出るものではなくなる。

今この国が、あるいはこの地方が根本から解決させておかねばならない政治的最重要課題を集中的に、しかもその解決方法までを具体的に表した公約を掲げている候補など皆無だ。

したがって、そうした公約も、当選してしまえばそれでお終い。後は知らぬ存ぜぬ、だ。

 なお、各候補が掲げる公約については、誰も、最初からそれを議会で政策なり法律として実現しようなどという気持ちなどはなく、“選挙だから、仕方がない”ということで、間に合わせ程度に考えたものでしかない、と私が断定する根拠は次のものである。

 それは、立候補者が掲げる公約を議会で政策なり法律として形にし、それを執行機関である政府に本当にその通りに執行させようとしたなら、それは、現在、この国の政府では、それをほとんど不可能とさせてしまう大きな障壁が厳然とある、ということを各候補者は多分誰も知っているだろう、ということに因る。

というのは、2.2節からも大凡推測はついたであろうし、またそのことは後述もするが(2.6節)、この日本という国は本物の国家ではないからである。そして民主主義は依然として実現などしておらず、実態は相変わらず官僚独裁の国だからである。

言い換えれば、この国の中央政府の首相もと地方政府の首長も国あるいは地方の舵取りなど実際にはしておらず、官僚または役人に行政のすべてを実質的に任せっ放しにし、官僚(役人)独裁を許しているからだ。したがって、議会で各政治家の公約を公式の政策なり法律としてたとえ議決しても、それらが執行機関に回って来たとき、官僚や役人そして彼らの組織にとって、その既得権益を妨害あるいは縮小するような性格のものと判ったなら、官僚や役人らはその組織を挙げてその政策や法律の執行についてはサボタージュし、執行の実現はほぼ絶対的に不可能となってしまうからだ————かつて民主党が政権を取った時、政権公約マニフェスト)を実行しようとした鳩山初代首相が、官僚組織の抵抗とサボタージュに遭い、結局、辞意を表明せざるを得なくなった事実を思い出すべきだ————。

 そういう事情があることについては、先輩諸氏にいろいろ見聞きして智慧をつけて来た立候補者が知らぬはずはない。

だから、畢竟、思いつきの公約となってしまうのだ、と私は推測する。

 したがって、逆の言い方をすれば、立候補者には、この国のそうした民主主義の敵である官僚独裁を打破し、この国を本物の国家となし、民主主義政治を実現してやろうという意欲も覇気もないということなのである。やはり、愛国心もないということだ。

 

有権者の側も、選挙を繰り返す度にこの国の政治家の質をますます低下させてしまう重大な原因を作っていることである。

 現状では、自分に与えられた一票を自分がこれはと思う候補者に投じる「選挙権」を行使すればそれでお終いとしている人が大部分だ。むしろその瞬間からこそ「参政権」という政治に参画することのできる権利を「主権者」として行使してゆく義務と責任が自身と国家・社会に対して発生しているということを理解していない。

 それは、自分が一票を投じた候補者が当選した後、彼が掲げていた公約を、自分が彼にだけ信託した権力を、議会においても、また政府に対しても、それを他者に移譲せずに公正かつ正当に行使しながら、約束通り果たしているかどうかをチェックする義務と責任が発生するからだ。そしてそれが、「国家の政治のあり方を最終的に決めることのできる権利を所持する者」という意味の主権者の役割と使命でもあるのだから。

 それに「選挙権」と言い、「参政権」と言い、それらの権利は黙っていて与えられたものではない。先人たちが「民主主義」の実現のために、命がけで獲得してきてくれた、かけがえのない、また他の誰にも譲ることのできない権利なのだ。

  “選挙だから”、“親戚や知人に頼まれたから”、“あの人、格好いいから”、“みんなが行くのだから自分も行かなくては” というのは投票行動の判断基準にはならない。あくまでも候補者が掲げる公約の中身とその適時性・実現性そのもので判断しなくてはならないということを忘れている人が多すぎる。

 

 以上私は、この国の政治家が選挙を繰り返す度に政治家としての質をますます低下させてしまう理由について私の考えるところを述べて来た。

しかし、これらの理由すべてを通して見たとき、日本の政治家についてこうした状況を生み出し続けているのは、結局のところ、この国の中央政府の先の文部省、そしてそれを名前だけ変えて中身をそっくり引き継いだ今の文科省の学校教育のあり方が持っている本質的欠陥なのではないか、と思っている。

 すなわち、個々人の個性や能力、そして人間としての基本的権利を尊重する教育をしないことである。自由と民主主義の意義と価値をしっかりと理解できるまでに教えないことである。自分の考えを他者の前で論理的にしゃべる訓練をさせずに全く受け身の授業しかしないことだ。

 またその教育が、今や世界に通用し得ない若者、あるいは世界に遅れをとる若者を次々と大量生産しているのではないか、とも推測するのである(第10章を参照)。