LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.2 経済の新概念——————(その2)

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11.2 経済の新概念——————————————————(その2)

 では、近代の経済や経済システムを超える新しい経済あるいは経済システムとは果してどういうものか。

言うまでもなくそれは、「環境時代」(第4章の定義参照)に相応しい「持続可能」な経済であり経済システムでなくてはならない。

そしてそれは、働く者の人間性を無視したものではなく、むしろ人間の本性に根付く、人間の営みとしての労働———それは「人間の能力を高め、人格をも向上させる」という役割を持った労働———に基づく経済であり経済システムでもなくてはならないのである。

そこで言う人間の本性とは、「他者の痛みが判り、哀れみの感情を持てて、他者に共感でき、自分が他者の役に立っていることを実感するところに歓びを感じられる」ことである。

 この新しい人間重視の経済は、人間の人間による次のいくつかの行為と過程から成っている。

これはすでに第4章にて定義したものと同じものである。

それを確認の意味でもう一度示す。ただしここでは、判りやすくするために、それぞれの行為と過程とを分解して示す。

 この新しい人間重視の経済は、人間の共同体そのものを存続させるためのもので、

一つは、人の再生あるいは再生産にかかわる行為ないしは過程、

一つは、共同体の存続そのものを可能とさせる一次財の再生あるいは再生産のための自然の再生・修復・復元にかかわる行為ないしは過程、

一つは、共同体での生活の基礎をなす物質的二次財の生産に供する資源としての一次財を自然(生態系)から持続的に利用させてもらうための行為ないしは過程、

一つは、物質的二次財の生産・流通・分配・消費・廃棄あるいはその再利用に関わる行為ないしは過程、

そしてもう一つは、上記4種類の行為・過程を通じて形成される人間と人間との社会関係と、人間と人間社会の自然(生態系)に対する一方的な従属関係の総体のこと。

 

 この新定義では、旧来の「近代」の経済の定義と次の点でその違いを明確にしている。

以下のことは、いずれも、旧定義には含まれてはいなかったものである。

・経済活動は、とにかく人間の共同体を「存続」させるための行為であることを初めから明確に意識した概念であること。

・これまでは財についても、その質の違いを問わずに単に一つの財として扱って来たが、それを人の生存と共同体そのものの存続を可能とさせる一次財と、人間としての暮らしを可能とさせる二次財とに分けることを定義の中で明確にしたこと。

・その場合、旧定義では、「一次財の再生あるいは再生産」および「自然の再生・修復・復元」という行為と過程を単にコストとしてしか見ずに二次財の生産だけを主目的として来たが、ここではむしろ「自然の再生・修復・復元」という行為と過程を通じて二次財の生産を支える「一次財の再生あるいは再生産」そのものをも経済活動の一つであるとして明確に含めたこと。

・そして二次財については、その生産と分配と消費の行為・過程だけではなく、流通と廃棄あるいは再利用の行為・過程をも経済活動に含めることをも明確にしたこと。

・そして以上の4種類の行為・過程を通して初めて人間および社会は持続可能な存在として形成されるとしながらも、その人間も社会も、自身で独自に生きているのではなく、実は自然に対して一方的に従属せざるを得ない関係に拠って生かされている、という考え方をも明確にしたことである。

 以上の4種の行為と過程と、それによって形成される人間相互関係からなる社会と、人間社会の自然に対する一方的な従属関係の総体をもって、私は「環境時代の経済」または「新しい経済」の定義としようと思う。

もちろんその根底には「三種の指導原理」に依拠しながら、先の「都市と集落にとっての三原則」にも則りながら「人間にとっての基本的諸価値の階層性」を着実に実現させて行く、という考え方も不動のものとしてある。それらをより完全に実現して行くことを目ざすのである(4.2〜4.4節参照)。

 

 繰り返すが、ここで述べる経済と経済システムにおいてとくに重要なことは、もはや単に「雇用を創出されている」、「雇用が確保されている」、「仕事がある」、「働き口があって賃金がもらえる」といったことのためだけの経済であったり経済システムではないということだ。そうではなく、誰もが「生きて行けること」、それも、各自が属する共同体に積極的に、そして誠実に参加して協働することで、誰もが等しく安心して生きてゆくことができ、しかも一人ひとりが人間として、その能力も人格も高まって行けるようになることに主眼を置いたものである、ということである。

 だからその経済とシステムは、人々の多様性のみならず、他生物の多様性をも受け入れ、その生命一般の多様性との共存の上に、人々が、自分たちの文化、すなわち自分たちに固有の、共有し合った生活様式をも同じく大切にしながら、身の丈の技術をもって支え、成り立たせて行く経済でありシステムである。

 身の丈の技術とは、基本的に人間の手あるいは器用に動くその手の延長で用いられる道具に拠って成り立つ技術ないしは技のことである。

だからそこでは、オートメーション・システムといった人間を生産システムの中の単なる一歯車としてしか見ない画一的大量生産技術でもなければ、ITとかAIといった、人間の介在を必要としない、むしろ人間に疎外感しか与えない生産技術でもない。身の丈の技術とは、むしろそれらとは正反対で、労働する一人ひとりに、その人の得意な面を生かさせてそれを伸ばし、自身の存在意義を確信させてくれ、人間としての働く歓びをもたらしてくれるものである。

 オートメーション・システムやITとかAIによる大量生産システムから生産されてくる製品は、使い手に便利さあるいは快適さをもたらしはするかもしれないが、全てが画一化された製品であるがために、どれを取っても、そこに格別の愛着を感じられたり、ぬくもりを感じられるというものではない。それだけに、少し型式が古くなったり、どこかに故障や不具合が生じたりすると、人間の手で修理修繕して使うということがほとんど不可能な作り方がされているために、全取っ替えを余儀なくされ、捨てざるを得なくなる。しかしそれ自体、エネルギーと地球資源の莫大な浪費であると同時に、生態系を大規模に汚染したり破壊したりする原因を作ることだ。

そしてもう一つ大事なことは、というより、これは真理であるとして言えることは、どんな物でも、その時にはどんなに最新式のものであって、また格好良く見えて、所有者にステータスを感じさせる物ではあっても、次々と新たな製品がスタイルや機能を変えて登場してくると、相対的に必ず古くなるということだ。

したがって、問題はその時、古くなったその物が所有者の目にどう見え、どう感じるかである。

 それに対して、身の丈の技術によってつくり出される物は、一品一品が作者の手になるものであるために、そこには作り手のぬくもりと心意気を感じさせてくれる。出来上がったそれぞれはみな、互いに微妙に異なり、言うなればその一つひとつが世界にそれしかない一品となる。

そしてそれは、使いこめば使いこむほどに、つまり時間が経てばたつほどその製品独自の味というか風合いが出てきて、愛着を一層深めてもくれる。

それに、たとえそれが故障しても、元々が手作りなために、すぐにも人の手で修理したり修繕したりすることができる。しかしオートメーション・システムが生産した物の場合にはそうはいかない。部分だけを修理することがまず困難だし、たとえ修理できたとしても、新品を買い換えるのとさほど変わらないほどの金がかかってしまうからだ。ということで、結局は「全取っ替え」ということになり、高い物についてしまう。

 つまり手作り製品は、それだけエネルギーと資源の浪費を防げるのだ。環境破壊を減らすことなのである。自然環境に負荷をそれほどかけないで済むのである。

 とにかく、ここで言う「環境時代の経済」または「新しい経済」では、労働することが、ただ自分のためだけ、お金のためだけというのではなく、誰かのため社会のために役立っているという実感をも持たせてくれ、したがって働くことに対して一人ひとりに誇りを抱かせ、人間的成長をも実感させてくれるものとなるのである。

 だから、そこでは、例えば、過労死とか、ストレスを抱えて自分の精神を病み、自分で自分の命を絶つなどという事態はまったく別世界のこととなる。

 

 そして私は、ここで、さらに次のことをも明確にしておきたいと思う。

それは既に定義して来た「調和」という考え方に基づくのである(4.1節)。

 その「環境時代の経済」または「新しい経済」は、もはや資本主義とか社会主義さらには共産主義とかいうものにも拘らないし、そうした主義あるいはイデオロギーを区別もしない、ということである。生産手段の私有化・公有化といった区別にも拘らない。土地などの生産手段についても同様で、公有化がいいとか私的所有がいいとかいうことにも拘らない。

一方で誰かが儲ければ、あるいは得すれば、一方では誰かが必ず損をすることになる利益・収益・儲けという考え方にも拘らない。

 階級、すなわち資本家階級とか労働者階級といった区別にも拘らない。

市場という概念はもちろんのこと、株式や投資や投機という考え方も採らない。だから、そこでは不労所得という概念はあり得ない。また、その経済はあくまでも実体に基づくものであって、消費者の気紛れや気分に左右されるような経済でもないから、そこでは景気という概念も無意味となる。さらには、自己完結を目ざす経済であるゆえ、対外交易ということはさほど重要なことではなくなる。したがって保護貿易とか自由貿易という考え方、また、「保護(貿易)主義」とか「自由(貿易)主義」という考え方や用語にも拘らない。そのような区別そのものにも拘らない。

 そこではまた、既述したように、これまでの資本主義経済あるいはそのシステムがとって来た競争原理とか市場原理といった考え方はもはやなくなるので、株価の上下や為替の値動きによる売買や先物取り引きといったことに象徴される博打的取引もあり得ない。

 またそこでは、これまで、政府(官僚)によって頻繁に行われて来た「巨額の公的資金などによる財政支出」という、国民の金を使って特定産業界を保護・優遇するという考え方や対処法も採らないし、そのようなこととは関係もなくなる。

 また、そこでは、経済活性化という名目、というより産業界保護とそこからの政治献金を期待して行われて来た「法人税の税率引き下げ」という考え方も対処法ももはやまったく不要になる。また、遠く離れた国のある地域に個人資産を隠しては税逃れをする「タックスヘイブン(祖税回避地)」という、富豪者による社会の格差を拡大するだけの身勝手で不平等かつ不公正きわまりない制度も、全く不要になる。

 また、バブル予防のために考え出されて来た、金融のあり方に関する「貯蓄銀行投資銀行との分離の必要性」等の問題についても、全く関心を寄せない。というのも、銀行はあくまでもその地域の、それも実体経済それのみを支える銀行であるべきだ、と考えるからだ。そうなれば、そこではもはや、いわゆる「バブル」も「恐慌」もあり得ないし、起こりようがない。

 そもそもバブル経済先物取引というギャンブルも、あるいは投資や投機という考え方や行動も、ともに、本来、人間が生きてゆく上で、あるいは人間が日々の生活して行く上で必要とするような活動ではまったくない株と為替の値動きに注視することについてもである。

だいたい生産活動の変化もないのに、世の中の出来事だけに影響を受けて特定の企業の株価だけが乱高下するということ自体まったく理不尽な話だし、ましてやそうした状況を巧みに利用し得た者だけが、労せずして巨利を得られるなどということも、人間を堕落させるシステム以外の何物でもない。

むしろそのような強欲に基づく人間の人間に対する騙し行為は、人間の本能に基づく欲ではなく、その者が置かれた社会的・政治的状況の中から生じてきた欲であり、きわめて怠惰で不道徳的で、社会にまっとうに生きようとする人間の労働観や倫理観を惑わせ、あるいは狂わせ、社会を歪め混乱に陥れるだけでしかない行為と言える。

 実際、そのことは、1980年代後半の日本に起ったバブル(泡)経済とそれがはじけた後のことを思い起こしただけでもすぐに判る。“バブルに踊らない奴はバカだ”とまで煽られて国を挙げてそのバブル、つまり中身がなく実体のない経済に踊り狂ったのだ。そしてその泡がはじけた結果(1991年)、私たち国民の暮らしはその後、「失われた10年」「失われた20年」等々と言われてきたが、今日までどうなったか。そしてその間、この国の政府は国民のために何をしてくれたか。また私たち国民も、その実体なき経済から何を学んだか。

 結局のところ、バブル経済の本質とは、「果てしなき経済発展」こそが国力を高めるのだから国策となるべき、との強迫観念をずっと持ってきた大蔵省(当時)の官僚の企みによるもので、国民が己の家庭や育児を犠牲にして、必死になって働いて増やした預貯金およびその利子といった富を、国民に渡らないようにコントロールしながら、それを金融機関を通じてこの国の主要企業に流入させ、彼らの投資資金とさせたという、言うなれば、家計部門から産業部門への、一挙に加速された富の移転に過ぎなかったのだ(K.V.ウオルフレン「システム」p.204)———もちろんこれも、官僚には許されているはずもない権力の非公式の行使であるが、いつも官僚に依存し、追随ばかりしてきた大蔵大臣には、そうした許されざる権力を行使する官僚を罷免したり、降格させたりする力も気力もなかったのだ。というより、多分、閣僚は配下の官僚に対してどうあるべきか、という政治的原則も知らなかったのではないか———。

 そのことは、たとえばその後今日まで続くゼロ金利政策一つを取って見てもすぐに判る。

 あるいは2008年9月、リーマン・ブラザーズの経営破綻によって、日本も、当時の日本の国家予算(約90兆円)の額の4倍近い国民の資産を外国人投資家に(合法的に)持ち逃げされ、失ってしまった事実(広瀬隆アメリカの経済支配者たち」集英社新書)を思い返してみてもすぐ判る。

 あるいは現在の資本主義経済システムが、投機屋からなる国際金融マフィアと呼ばれる大規模な犯罪組織(シンジケート)がファミリーを構成して、先物取り引きなどのデリバティブ価格を集団的に操作しては銀行金利をはるかに上回る法外な利益を上げてもなお逮捕されることも訴追されることもなく、ぬくぬくと生きていられるしくみになっている事実を見てもすぐ判る(同上書)。

 なお、さらに付け足せば、この「環境時代の経済」または「新しい経済」は、「貧困の撲滅」だ、そのためには「民営化だ」と前宣伝しては多くの国々の政府と国民に期待を持たせてはそれを裏切ってその国の経済を崩壊させてきた、いわゆる「グローバリゼーション」や「ネオ・リベラリズム新自由主義)」等々にも全く関心を寄せない。

 とにかくそうしたことはすべて、世界の何処かの国の誰か、例えばアメリカのウオール街の巨大金融企業群が決めるというのではなく、主権者である住民が、自身で本音で主体的に議論して、最良と考えるものとして決めてゆけばいいのである。拘るのは、あくまでもその行為が、生態系をも含めて、地域全体の持続的発展のためになるかならないかという観点についてのみとなる。とにかくそうした主体的行動を通して、その地域の人々は、議論することの重要性も、少数意見を尊重することの意味も、民主主義の意味についても、本当の意味で理解を深めてゆくことができるのである。

 ついでに言えば、これまでの論理から明らかなように、「三種の指導原理」や「都市と集落にとっての三原則」に基礎を置く「環境時代の経済」あるいは「新しい経済」の下では、技術的権利を独占する「特許」あるいは「実用新案」という考え方も、そしてそのための制度も、あること自体、社会と自然の全体に対しては有害無益として、まったく無用とする。また、仕事をする上で、これまで当たり前とされてきた、各自の「名刺」を携帯するということも、「看板」を出したり、「宣伝」をするということも、多分もはや不要となるだろう。小規模で、分散した各地域社会では、全ての人が互いに顔見知りになり、信用や信頼が自然と大切にされるようになり、そのようなものや行為はもう要らなくなるだろうからだ。

 

 「環境時代の経済」または「新しい経済」がもたらす効用はそれだけに留まらない。

この国は表向き、資本主義の自由競争経済の国とされてきたが、実質的には全く違う。

対外的には、この国の中央政府はもっぱらアメリカに追随して来たし、国内の流通システムは、既述のように、その頂上にて各政府省庁の官僚と財界の官僚とが結びつく「業界団体」と「系列」を通じて、日本の産業界の隅々までを統制するという経済システムを取ってきた。それは、決して自由システムではなかった。というより、極めて窮屈な経済システムだった。

 「環境時代の経済」または「新しい経済」はその辺の事情をも一変し得る可能性を十分にもっている。

 それは、「新しい経済」が、基本的に、地域ごとに自己完結を原則とする経済システムであるゆえ、住民の意思と決意一つで、人体にだけではなく生態系にも悪影響が及ぶと考えられる物品や生産方法をも排除しうるようになり、その地域の固有種による栽培と飼育が可能となる経済システムだからである。

実際、日本はこれまで、世界一の遺伝子組み換え食品の輸入大国だったのだ(堤未果「日本が売られる」幻灯舎新書p.79)。

たとえば、遺伝子組み換え種子およびそれとセットになった農薬が大量に入ってきた。トウモロコシ・大豆・小麦・大麦・ライ麦等の農産物の多くはそれによって栽培されてきた。そして次にはそれらを原料として味噌・醤油・植物油・酢・コーンフレーク等が作られてきた。あるいはそうした農産物を飼料として用いられて育てられた家畜によるものが牛肉・豚肉・鶏肉・卵・牛乳等の食品である。

 しかし「環境時代の経済」または「新しい経済」はそれらを排除できるようになる。

 このように、その経済は、それぞれの小規模地域に身の丈の技術を生み、育て、それを高度に洗練させ、地域の文化を育みまた守り、地域住民の健康と生態系をも守る経済なのである。

さらに言えば、「都市と集落にとっての三原則」をも土台に置いて地域社会を構築することから、その地域の経済のみならず、政治的にも、自分たちの地域のことは、憲法に反しない限り、自分たちですべて決められ、自分たちの運命をも選択できるようになるのである。

 それだけに新しい経済とその経済とシステムは、住民一人ひとりには、「お金も大切だが、本当はそれよりももっと大切なものがある」ということを心から気付かせてくれ、これまでほどには「お金」というものにこだわらなくても暮らして行けるようにさせてもくれるのである。

 こうしてこの「新しい経済」とそのシステムとは、敢えて表現すれば、人類誕生の瞬間から今日までの間に、人類が経験的に学んで来たあらゆる智慧や教訓と、人類が科学を通じて手に入れてきたあらゆるプラスの意味での知識や知見とを総動員して、それを「知性」ではなく「理性」をもって綜合した時に、そこに見えてくるであろう経済でありしくみである、とも言えるのである。

だからそれは、個々の人間を最高度に幸福にするために最高度に発展した、共感と連帯によって成る社会を構築して行ける経済でありシステムでもある、ということになる。

 

 「環境時代の経済」あるいは人間性重視の「新しい経済」のあり方を考え、それを論理的に導き出す上で私が拘ったことはただ次の一点のみである。

 日本だけではなくどこの国の経済も、経済とは本来、世の中を治め人民の苦しみを救うことという意味の「経世済民」という言葉もあるように、ある特定の者をだけを裕福にさせるというものではなく、地域共同体、社会共同体、国家共同体いずれの共同体であれ、そこに集い住む人々のより多数を、人種とか信教、国籍に無関係に、その生命と暮らしを安心できるものに支えるものでなくてはならないとの前提をつねに踏まえること、そしてその役割を永続的に果たせるしくみであること。

そのためには、人間は、誰も、最終的には個人ではあっても、その個人は自分で生きているのではない、多くの人々との関係を維持する中で、支え支えられながら、なおその全体が、人間の知恵や知力ではどうにもならない大いなる自然によって生かされているのだという真理に無条件に従うこと、であった。

 そして、この「環境時代の経済」に奉仕する学問としての「環境時代の経済学」の概念を導き出す上で私が拘ったことは、ただ次のことだった。

 既述の4種の行為と過程と、それによって形成される諸関係からなる総体としての新しい経済をいかにしたらより多くの人々に納得してもらった上で実現させられるか、かつそれを存続させることができるかを理論的に明らかにすることを主眼とする学問となること。

 具体的には、化石資源を力に任せて掘り起こしてはそれを燃焼し使用しつづけて、エントロピーを「人間の存続可能条件」を超えて発生させ続け、人間を生かしている「水・空気・土壌」という本然の自然を壊す行為を継続するのを止めさせて、再生可能資源を使わせてもらうことを前提に、それもいかにして最小限の消費で、最大の幸福———その場合、「人間にとって真の幸福とは何か」も根本から問い直されねばならないが———を得られるか、いかにしてより速やかにその持続可能な暮らしの姿や社会の形態へと移行させうるか、その方法を明らかにすることを主目的とする学問であること、だった。

 そしてそこでは、「熱」を、いつでも、どこでも、最大限有効に使うために最終的に使えなくなるまで使い尽くす、という考え方を経済システム構成上の理論の中でとくに重視していることである。

それは、そうすることが、たとえ再生可能エネルギーを使うにしても、その量を最少にしうることになるし、同時に、エントロピーの発生量を最少にできると同時に、エントロピーを宇宙に捨てる上でも最も理に叶っているからである。

 とにかく強調しておかねばならないことは、その新しい経済は、物質的財貨というよりは共同体での生活を営む人間とその人間の再生産、そしてその人間を土台から支えて生かしてくれる一次財としての水・大気・土壌とあらゆる多様ないのちの再生産を第一義的に重視する経済であるということである。そして人間の生活の基礎をなす二次財としての物質的財貨は、あくまでもその一次財を元に生産されてゆくものであるということを明確に理解すること、である。

 その意味で、この「新しい経済」は、一次財が積極的かつ広範に再生産されて行かねば成り立たない経済であるから、それは、資源をどこか外の世界から持って来て、それを元に製品を作って、あるいは加工して、売って、使ってもらって、捨てられればそれでお終いという一方向の経済ではなく、捨てられた物が生態系において分解され、分解されたそれぞれの質のものが生態系を循環しながら自然をいっそう豊かにしながら資源を再生産して行き、再生産されたそれを人間社会が資源として利用させてもらうという、いわゆる循環経済とならざるをえない。だから、その循環経済に支えられた社会は循環社会となる。そしてそれは自己完結する経済でもある。

 この循環経済は、国にあっても各地域にあっても、ともに、基本的には、計画経済と自由経済とから成り、その両者が調和(「調和」の定義については5.1節を参照)して成り立つ経済でなくてはならない。なぜならそのように、互いに相対立するかのように見える性格を持った経済によって全体をなす経済がもっとも自然の成り立ちに従いながら人間の欲求をも満たす上で合理的と考えられるからである。

 と同時に、それらの経済がそうしたしくみを保ち続けられるためには、その経済は、その経済が行われる地理的範囲の人々が安心して参加できるもの、その人々の信頼を裏切らないものでなくてはならない。そのためには、その経済は、つねに実体あるいは中身の伴うものでなくてはならない。つまりバブル経済を引き起こすようなもの、数字だけが飛び交うようなもの、ギャンブルから成り立っているようなものであってはならないのである。

 ここで言う実体あるいは中身とは、たとえば人間が体を動かして生産活動をすること、他者のためにサービス、すなわち「物質的生産過程以外で機能する労働」(広辞苑第六版)をすること、あるいは実際に物質やエネルギーが移動すること、等をさす。

物が動かずにただ数字だけが飛び交う性質のものは、環境時代にはもはや全く不要となるだけではなく、むしろそのようなものは人心を惑わし、社会を混乱させ、社会を複雑化させるだけでしかない。

そのことは、既述して来た「近代の経済と経済システム」から私たちが教訓として学ばなければならないことなのだ。

 

 では何が計画経済の範疇に入り、何が自由経済の範疇に入るか。

一言で言ってしまえば、前者に入るのは、人間の意思や都合ではどうにもならない過程が支配的となる産業である。それは自然あるいはいのちと直接向き合うことになる産業と言い換えてもいい。農業、林業水産業、畜産業がこれに属する。

 一方、後者の自由経済の範疇に入るのは、人間の意思や判断や手先の訓練結果がかなりの程度介在しうる産業である。それは工業であり、商業であり、サービス業である。

 では、なぜ、人間の意思や都合ではどうにもならない過程が支配的となる産業分野を計画経済にし、人間の意思や判断や手先の訓練結果がかなりの程度介在しうる産業分野を自由経済にと分けるか。

 それは、そうしなくては人間の意思や都合ではどうにもならない過程が支配的となる産業である農業・林業水産業・畜産業は、人間の意思や判断や手先の訓練結果がかなりの程度介在しうる産業である工業・商業・サービス業には、同じ一つの経済システムの社会の中では、そのままでは対等に太刀打ちできず、自立できる訳はないからである。ましてや、もはや過去のものとなったと解釈する大量生産を基礎とする工業・商業・サービス業が主流となるシステムを持った社会ではなおさらのことだし、利益を上げること、それもできるだけ多くの利益を上げることを至上命題とする資本主義経済社会ではなおさらのことだった。

 実はこうした私の確信は、サラリーマン生活に自ら終止符を打ち、思い切って農業生活に飛び込む決意をした主たる動機の一つとなった疑問————「そもそも喰う物をつくっているはずの農業なのに、なぜこの日本ではその農業では喰って行けないのか」という疑問————に対する答を学者も専門家も示して見せないのなら、その疑問に対する答えを自分なりに見つけ出してやろうとして、その後の18年間の農生活と野菜や米の栽培方法を続けてくる中で得た答えを支えているのである。つまり、「社会の経済とそのシステムがこうなれば農業でも食って行けるようになる、それも誇りを持って生きて行けるようになる」と

 なお、従来の経済の定義においてもそうだったし、また新しい経済を先のように定義したときにも同様であるが、そこには、教育分野や医療と看護と介護の分野、そして芸術や芸能等に関する分野は、直接的にはどこにも入っては来ないし関わっても来ない。

 そこで、ではこれらの分野に関わりながら社会を構成している人々は、どのような形で地域連合体の社会に関わるのかということが課題として残ることになる。

しかし、それについては、後述の11.6節にて、「真の公共事業」という範疇の中で考察することにする。

 以上が、決して理論に拠るものではなく、私の実体験に基づく実感から得た結論である。

 なお、こうした考え方の根底には、地球上の人間のだれもが、人間としての権利・尊厳が守られながら、これまで人類が存続できて来たと同じ100万年単位の期間これからも存続できるようにするという狙いがある。それは、それを実現することこそが未来世代にいのちをつなぐ私たち現在人類の義務と責任なのではないか、と私は思うからである。

 ちなみに、これまで、たとえば資本主義経済、社会主義経済、市場原理主義の経済、新自由主義経済等々と、いろいろな表現をされてきた近代の経済を対象とする学問は、どれも、マルクス経済学ですら、既述のとおり、財の捉え方には区別なく、一括して同等に捉え、人間が自然に一方的に従属している関係を無視し、計量できないモノも目に見えないモノも区別せず、したがってまた、それらの価値の区別をも付けずに来た。ただ、交換の場において「値段をつける」という仕方だけで。

 つまりこれまでの経済と経済学は全て、人間を生かしているものが何かという根本を無視してきた経済であり経済学だった。

 しかし、「環境時代の経済」または「新しい経済」では、共同体内の人々は、互いに自分の持っている能力や技能を地域社会の人々のために提供し、地域の人々も互いがもっている能力や技能をより高度にかつ洗練してゆくことができるよう励まし合い評価し合いながら、互いに自己と他者に誠実になり、思いやりや共感を大切にしながら、全的人間として成長して行くのである。

 したがって、その地域社会には、自ずから、人々の間の深い信頼関係が生まれ、連帯の意識や強固な絆が育って行くようになるのである。そしてそれは必然的に、強い郷土愛や強固な愛国心をも育てて行くことにもなる。

 とにかく、今こそ、社会構成員一人ひとりには、勇気を持ってこれまでの発想を転換することが求められているのである。発想の転換、それは、社会を成り立たせている共通の基本的な価値観としてのパラダイムの転換、と言い換えてもいい。

 ではその転換は一体誰から求められているのか。それは、自然環境と未来世代からである。

 いずれにしても、資本主義という経済システムが通用する時代は終わったのだ。というより、その経済システムの存続に固執すればするほど、人間社会の矛盾を激化させてしまうだけではなく、人類の存続可能性をも狭めてしまうことになるのは間違いない。

 ということは、その経済システムが支配的となってきた「近代」という時代も、その歴史的使命を終えたということなのである(第1章)。

 本章の以降でも、このことを念頭に置いて行く。

11.2 経済の新概念———————(その1)

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11.2 経済の新概念———————(その1)

 人々は頻繁に「経済」という言葉を口にする。メディアも、「経済」という言葉を発しない日はない。そしてその場合、例えばこんな風に用いられる。

“経済を発展させねば”、“経済成長が鈍化した”、“経済制裁を加える”、“経済統合が必要だ”、かと思えば、“こうすれば経済的だ”、等々と。

私もこれまで、当たり前のように、あるいは、その意味は不動で確定した概念であるかのように思って「経済」という言葉を用いてきた。

 しかし、現在の世界を見て、その中でその言葉の使われ方に注視すると、その経済なる言葉、あるいはその概念は、統一され、共通に理解されて、確定した概念として用いられているのだろうか、と私などは考えさせられてしまう。

 私は資本主義という言葉と並んで、どうもその経済なる言葉あるいは概念の理解については人によって異なっていて、いまだ統一もされていなければ共通認識にもなり得ていないのではないか、それでいて、誰も、判ったようなつもりになって使っているだけなのではないか、と思えてならないのである———実は日本語というものについての私たち日本人の用い方と理解の仕方にはそういうものがたくさんある。自然という言葉然り。自由という言葉然り———。

 しかしその一方で、奇妙なことに、“お金がなくては生活できない”、“お金が回らなければ経済は成り立たない”、“経済はお金とは切り離せないもの”といった考え方だけは、一人の例外もなく全ての人に共通に、統一的に理解されているのだ。

そしてこのことから、いまや世界中どこの国でも、 “お金を稼がなくては”、“仕事に就かなくては”ということが人々の当たり前の生活感覚となり、強迫観念ともなっているのだ。

 人によっては、“もっともっとお金を稼がなくては”と思ったり、“お金を手っ取り早く儲ける事業をしよう”、と思ったりもする。中には、“他者を騙してでも、あるいは盗んででもお金を手に入れてやろう”、と思う人もいる。そしてさらには、“お金さえあれば何だって買えるし、何だって手に入れられる”、という気持ちを持つ人さえいる。

「拝金主義」あるいは「お金万能主義」とはそのことを言い表した言葉だし、またほとんどの犯罪やトラブルの背後には必ずと言っていいほどに「お金」が絡んでくる。

それは、人間がお金の虜になり、お金に支配されていることでもある。

 それだけではない。既に巨額のお金を手に入れた人々でも、そのお金の有意義な使い途を考えたり、他者の幸福のために用いたりするのではなく、むしろもっと多くのお金を手に入れることのために使おうとする。そのためには、手持ちのお金にものを言わせて特定の政治勢力あるいは政治家と結びつき、社会制度や金融制度を自分たちに都合の良いように変えさせることに躍起になる者すらいる。「政治献金」とは一見聞こえはいいが、実質目的は正にそのためのものだ。だからそれは、本質的に賄賂であることに変わりはない。

 そうなると、「お金」が政治のあり方を歪め、この社会を根底から支えており、今日の世界では普遍的価値とされている「自由」や「民主主義」を脅かすことになる。そしてまた「お金」が社会に不公平や格差を生み、さらにそれを拡大させてしまうことになる。そうなると半ば必然的に人々の倫理観を衰えさせ、社会の秩序を乱すことにもなる。

 実際、「お金」は一面では確かに「便利」ではあるが、実際には人間と社会と自然に対して何をもたらしてきたか、それは7.4節の「お金」のところでも検証してきた通りである。

 

 ところで、私は、自らサラリーマンの生活に見切りをつけ、農業に飛び込んで生活をして見ると同時に、社会の様々な歪みとその原因について考えて見ると、どうしても次のようなことを考えないではいられなくなったのである。

それは、人が人間として生きてゆく上で、本当に「お金」はなくてはならないものなのか、本当に経済という概念は「お金」とは切り離せずに、一体不可分の関係にあるものなのか、ということである。

農業生活をしていると、米や野菜を栽培していれば、その範囲では、喰うことにお金は要らない。

とは言え、その他の喰い物、たとえば肉類、魚類、海草類、塩、食用油は、自給できないので、現状では、我が家では、お金を出して買わねばならない。

それに現状、各種類の税金や水道料金といういわゆる「公共」料金を支払うためにもお金が要る。その場合はとくに「現金」が不可欠である。そして電気代やガス代の支払いにも現金が要るのである。

 その意味では、やはり農業をしていても、我が家では、少なくとも今様の経済システムの中では「お金」は不可欠である。否、それは我が家に限らないであろう。

 なおここで、私が、公共料金と電気代やガス代を区別して表現したのは、日本では、電気代やガス代も普通、公共料金の中に含められて呼ばれているが、私はそれは正しくないと考えるからだ。それは電気やガスを供給しているのは利益第一主義とする私企業であるからだ。私企業には「公共」という概念は当てはまらないからだ。

 

 そこで、本節の以後は、「人が人間として生きてゆく上で、本当にお金はなくてはならないものなのか、本当に経済という概念はお金とは切り離せずに、一体不可分の関係にあるものなのか」、という先の問いの答えを明確につかむために、その経済という概念について、根本から考えてみようと思う。

もちろんここで言う経済とは、あくまでも、いわゆる「近代」の経済のことである。

 その辞書的な意味を尋ねると、こう説明されている(広辞苑第六版)。

 「人間の共同生活の基礎をなす財・サービスの生産・分配・消費の行為・過程、ならびにそれを通して形成される人と人との社会関係の総体」。

そして、これから転じた意味として、「金銭のやりくり」とも説明されている。

 先ずこの定義を注意深く読むと気づかされるのであるが、この定義の主要部には「お金」あるいは「貨幣」の存在はあからさまな形では現れてはいないということである。

また「人と人との社会関係の総体」と表現されてはいるが、ではその人と人との関係のあり方はどうあるべきかとか、そこで言う「人」とはどのような人か、人であればどんな人でもいいのかということについても何ら言及していないということである。

 

 では、これが近代の経済の定義であるとすれば、その経済を学問的に支えた近代の経済学とは、基本的にどのような特徴を持って来ただろうか。

それを私なりに整理してみると、概略、つぎのようになるように思われる。

⑴ 経済という概念と、それを学問的に扱う経済学が主な対象として来たのは「財とサービス」のみである、ということだ。

 ここに、「財」とは、辞書的には、人間の物質的・精神的生活にとって、何らかの効用があるもの。「サービス」とは、「物質的生産過程以外で機能する労働。用役。用務」のことである(広辞苑第六版)。

 ではその抽象的に説明される財をもっと突き詰めればどう説明できるか。

それを説明するために、次の事実を押さえておく。

 それは、少し考えただけでも判るように、財には質的に大きく異った二種類のものがある、ということだ。第一次財、第二次財とでも言うべきものである(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫 p.58)。

 具体的には、人間が自然から採取してこなくてはならない一次財とでも言うべき財と、そのようにして採取してきた財を加工してつくる二次財とでも言うべき財とである。

 第一次財には、人類が誕生する以前からあったものとしての、たとえば、水、空気、土壌、あるいは石油や天然ガス、シェール・ガス、シェール・オイル、ウラン、そして動物や植物、また微生物や菌類を含めた多様な他生命がある。

これらの中には、現在は、少量ならば、人間の手で何とかそれに近いものとしてつくり出せるものもあるが、それは近代の経済学が言うところの「コスト」がかかり過ぎて、それを考える意味はない。したがって、それがなくなればあるいは消滅すればお終いという質(たち)のものである。

一方、第二次財とは、第一次財を基に人間がつくり出した財、あるいはつくり出せる財のことである。

このことから判るように、第一次財と第二次財との間には、本質的な差異があるのである。

そしてその二次財の中身は、大きくは工業製品・農業製品とサービスとに分けられる。

 しかしながら従来の経済と経済学は、その差異を無視し、すべての財には同じ規則と同じ基準を適用して、同じ扱いをしてきたのである。

とくに市場経済の下では、人間や社会や自然にとってきわめて重要な質的区別というものは一切認めないで、一切のものの価値が値段の高低、つまり価格だけで表現されその意味で、一切のものは同等と見なさるようになってきた。

こうして市場に出たものはすべて「売り物」として扱われ、値段が付けられ、質的差異は無視されたまま、その値段の大きさだけでそのモノの価値の大小が計られて来たのである————実際には、例えば、物の価格は需要と供給によって決まってしまう場合もあることを考えると、そのことだけからも、価格と価値は必ずしも一致しない、というより、異なる方が普通であるということが理解されるのであるが————。

つまり、質的区別が表面に現れることは許されなかったのだ。だから当然のことながら、市場経済の下では、生命の神聖さなど尊重されるはずもなかった。値段の付くものに神聖さはありえないからである。

 とにかく、従来の経済と経済学は、市場価値と私的利潤だけにしか関心がなかった。

⑵ さらに先の経済の定義を注意深く読むと判るように、近代の経済では、人間は自然の一部であると同時にその自然によって生かされている存在でもあるということも、したがって、人間は自分で生きているのではなく、実は自然によって生かされているのだという真理も全く考慮されて来ることはなかった、ということである。

 それは言い換えれば、従来の経済と経済学は、人間を生物としてのヒトとして直接に、そして本当の意味で生かしているのは、「財やサービスではない」し、「財やサービスの生産・分配・消費の行為・過程、ならびにそれを通して形成される人と人との社会関係の総体」でもなく、一次財としての「水と空気と土壌」なのだという認識も持っては来なかった、ということだ。

 そしてそのことは、これまでの経済と経済学は、一次財としての「水と空気と土壌」を「コスト」として含んでは来なかった、ということに現れているのである。

⑶ こうして近代の経済と経済学は、扱うものが質的区別をしない財一般とサービスだけでしかなく、しかもその経済の定義からも明らかなように、関心があるのは生産と分配と消費だけであった、といことだ。

つまり、製品を作るに当たって、これまでの経済も経済学も、どのような質の財を用いるべきか、誰のために、どのように、何のために生産されるべきか、また使われ終った物は、どこに、どのようにして廃棄されるべきか、ということには全く関心がなかったのである。

 だから、いわゆる「3R=reduce(減らす)、recycle(再生、再利用する)、reuse(再利用、再生する)」などという言葉が生まれても、それらは、近代の経済の概念と経済学の立場からすれば、それは決して経済のあり方の根本を左右するような概念となり得るはずもなく、言ってみれば、“いかにも環境を配慮しています”という姿を見せるためのゼスチャーに過ぎなかったのだ。

 こうして、近代の経済と経済学は、商品として生産した物を「売ること」あるいはその物が「売れること」だけが主たる関心事となり、そのことだけを「経済」活動の唯一の目的として来た。だから、売ってしまえば、あるいは売れれば、そこで目的を達したことになるので、そこで「お終い」あるいは「一段落」としてきた。

その後のことは一切関知してこなかった。売ったモノがどういう消費のされ方をし、最終的にどこにどういう仕方で廃棄された(る)かについても、そしてそれによって環境あるいは生態系がどうなって、当初生産のために用いた一次財はきちんと、あるいは確かに再生産されたのかされなかったのかということについても、全く関心を持たなかった。

 それだけに、土地とか労働とか資本についても、そして人間自体すらも、「売る」ための目的物を生産するための手段としてしか見てこなかった———そのことについては、とくにこの国では、文部省・文科省の学校教育内容も決定的な役割を果たしてきた。

一人ひとりを一個の人格と個性を持った人間として育てるのではなく、その生産現場と分配過程、流通過程で雇い主の指示に対して批判的あるいは反抗的になるのではなく、とにかく従順に働き、その上、いつでも安く取っ替えることのできる人間を育てることこそを主たる教育目的としてきたのだからである———。

 だから、近代の経済と経済学の観点からは、仕事あるいは労働というものは、雇い主あるいは経営者の観点からすれば所詮1つのコストでしかなく、働く人から見れば、それは、家庭というものを犠牲にし、余暇や楽しみに打ち興じながら、ただ生活のための金を得る手段でしかなかった。その労働を通じて、自身を人間的に磨き、他者や社会に貢献しながら高まってゆき、人間として豊かで充実した暮らしをするかなどということには、ほとんど関心を寄せることはなかった。また、そのための時間的、精神的余裕も与えられなかった。

むしろ経済と経済学では、生産者の側からは、生産現場にてどれほど効率よく生産できたか、あるいは経営者の側からは、モノを市場でより多く「売って」どれだけ「利益」を上げたか、ということだけが常に最優先課題であり主要目的となった。

 だから、そこから、経済の概念が、いつしか「金銭のやりくり」、「金銭のやり取り」という概念をも派生させたことは必然でもあった。

⑷ 近代の経済と経済学は、重商主義の時代であった当初、経済活動に対して王権に拠りあの手この手をもって介入するのはよくないことだとし、むしろ人間が本来持っているはずの共感する能力を信じ、道徳的でもあるはずの人間たちの活動に任せればお金も自然に回り、あたかも「見えざる手」が働いているかのように、経済は全体がうまく回る、としてきた。それは、「共感を持っている人間たちの活動によってこそ経済は成り立ち、共感を持っている人間の労働に拠ってこそ、商品に価値が生まれる。そして、共感を持っている人間だからこそ、労働によって生み出された商品の価値を理解することができる」という根拠に基づくものだった(浜矩子別冊NHK100分de名著「『幸せ』について考えよう」の中の「アダム・スミス国富論』」)。

 ところがこれがいつのまにか、経済活動は市場に任せるのが一番だ、経済に道徳は無用だと曲解する市場原理を至上とする考え方に取って代わられた。曲解から生まれたその考え方は資本家や経営者にとっては好都合であったため、その後はそれがどんどん広がり、巨額のカネを持つ人々の金力に拠って民主主義政治そのものが世界的に歪められる中、金融制度が大規模に緩和され、資本が難なく、それも猛スピードで国境を越えることができるようにさえなった。その結果、今やその市場経済に立脚する資本主義経済は、ますます博打化が進み、暴走するそのグローバル資本によって、自らのその資本主義経済体制をも制御することさえできなくなってしまっているのである。

⑸ なおこうした考え方の延長上で、経済の成長の度合いを測ることのできる概念として考え出されたのがGDP(国内総生産)であり、GNP(国民総生産)であった。

 

 以上が、近代の経済を学問的に支えて来た経済学の基本的な特徴だと、私には考えられる。

しかし、見てきたように、その特徴には、後々深刻な問題を生むであろうと考えられる多くの矛盾が見られる。

 実際、その経済学に支えられた経済が科学を発展させ、その科学に基づいて技術をも発展させながらつくって来た代表的産物を検証して見ただけでも、それらの物は、自然に対しても、人間の集団である社会に対しても、そして人間個々人に対しても、いずれも例外なく、重大で深刻な問題を引き起こしているのである。それは7.4節にてすでに明らかにして来た通りである。

 それは、誤解を恐れずに、大胆に一言で言ってしまえば、自然を破壊し、社会を崩壊させ、人間を疎外するだけの物でしかなかったのだ。

 

 こうしてみると、せめて私たち日本国民は、もうそろそろ、ここで少し立ち止まって、真剣につぎのことをじっくりと、各自が自分に問うて考えてみる必要があるのではないだろうか。

———— 人間が生きて行く道、生きて行ける道は本当に「お金」というものを土台にした資本主義しかないのか、「もっと別の道」があるのではないか、と。

その資本主義は確かに物量は豊富にしてはくれたかも知れないが、それで本当に人間の心は、精神は、豊かになり、心に平安を覚え、他者にやさしくなり、しみじみとした幸せを実感できるようになったのか、そして社会もそれを感じられる社会になったのか、と。

本当にお金がなければ何もできないのか、お金がなければ生きてはいかれないのか、と。

本当に雇用を増やさなくては、人々は生きては行けないのか、と。

経済は発展させ続けなくてはならないというのは本当なのか、と。

そして、ではそこで言う「経済」とは一体何なのか、と。

これからも化石資源に頼らねば、社会は、人間は、生活できないのか、と。

そもそも人間が人間として生きるとはどういうことなのか、人間は何のために生きるのか、と。そして人間にとって豊かさや幸せ、それも「真の豊かさ」、「真の幸せ」とは一体どういうことなのか、と。

そして、上記のさまざまな問いに答えることについては誰かに任せておいていいのか、と。

また上記のさまざまな問いに応えられる生き方のできる社会や制度を持った社会を構想し、構築しなくていいのか、と。

またそれを発想できたとした時、その社会の建設については、やはりこれまでのように誰かが、何とかしてくれるだろうと考えていればそれでいいのか、と。

・・・・・・。

 いずれにしても、「働き口や仕事があること」、「雇用が確保されていること」、「お金があること」が何より重要と無意識に考えてしまうのは、貨幣経済社会にどっぷりと浸かってしまい、その社会を何の疑いも差し挟まずに当然とし、貨幣経済社会以外は考えられないと思い込んでしまっているからなのではないだろうか。

そして「経済は発展させ続けなくてはならない」と考えてしまうのも、利益を絶えず生み続け、資本を増殖させ続けなくては存続できない宿命を持つ資本主義体制という経済社会を無意識に前提としてしまっているからなのではないか。

 しかし、人は誰も、「働き口や仕事があること」、「雇用が確保されていること」、「お金があること」は生きる上での手段ではあっても目的であるはずはない。むしろ誰にとってもつねに、そして本当に重要なことは、仕事があるとかお金があるということよりも、それも単に生物としてのヒトとしてではなく「社会の中に一個の人間として生きられること」なのではないか。

 もう少し詳しく言うと、「互いに自分の生き方に肯定的に確信を持てて、多様な考え方や価値観を持って生きる他者を互いに認め合い尊重し合いながら、社会の中で責任の自覚に裏付けられた自由の意識の下に、自分にも他者にも誠実で、かつ互いに他者への共感の情を深め合い、信頼を深め合いながら、贅沢をするわけではなく、むしろ質素を心掛けながら、心安らかに、楽しく生きてゆかれること、そしてそのことが社会を構成する誰にも保障されていること」こそが大切なのではないか。

 決して「お金があること」、「産業や企業が発展すること」が先ず先にあるのではないはずだ。「雇用が確保されていることが必要」云々は、あくまでも現在の、既述のような、本質的な矛盾を抱え込んだ経済と経済システムの存続を前提にしての、あるいはそれによる強迫観念に取り憑かれた結果でしかなく、目先だけを見ての対応に過ぎないのだ。

 そうでなくとも私たち人類は、今、その歴史始まって以来最大の、いずれも人類の存続の可否を決定する三つの脅威に直面しているのである。その1つが、これまで随所で言及して来た地球温暖化とそれに伴って生じているとされる気候変動という脅威であり、1つが、生物種の多様性の消滅という脅威であり、もう1つが核戦争という脅威である。

 第1については、瞬時にという程ではないが、今のまま放置していたなら、国によって時間差はあれど、早晩、全人類はほぼ確実に滅ぶだろうことを意味する。

第2については、人はそれを温暖化ほど体には感じないし、目にも見えないから気付きにくいだろうが、殺虫剤や除草剤そして乱「開発」行為等によって、今、恐竜が消滅したときの速度よりも早く生物種が絶滅に追いやられている。「喰って喰われて」という関係でつながっている食物循環の環のどこかに穴があけば、それまでそれを喰って生きて来た生物も生きられなくなる。そうなれば、ドミノ倒し的に、生物種は消滅して行くことになる。それだけにその現象は、一度どこかで生じれば、その現象の伝搬は急速であり、温暖化の効果よりも早くなるのではないか。どっちみち、人間の消滅だ。

 第3については、どういう形であれ、ひとたびどこかでたとえ偶発的にであれ故意にであれ起ったなら、それは部分核戦争には留まらずに全面核戦争へと必ず発展し、その結果、人類は、この場合にはほぼ瞬時に全滅に近い状態になる。ここには勝者などいないのだ。

 「核抑止論」などというものがあるが、そのようなものは理論的にも成り立たないことは既に明らかにされているし(豊田利幸「核戦略批判」および「新・核戦略批判」 共に岩波新書)、実際、役には立たないことをキューバ危機は実証したのである。

 幸い、当時の米ソのリーダー(ケネディフルシチョフ)とその周辺の関係者の必死の努力と勇気と冷静な判断力により回避でき、そのお陰でいま、私たち人類は存続できているのである。

 もう少し具体的に言うと瀬戸際ではこういう状況だった。

その日は、1962年10月27日にやってきた。

ソ連の船舶を警護する4隻の潜水艦がアメリカの海上封鎖線に近づいたとき、それを空から追跡していたアメリカ空軍機が潜水艦を威嚇するために爆雷を投下した。それらの潜水艦が核魚雷を搭載していたとも知らずにである。4隻のうちの一隻の潜水艦は爆雷に因る衝撃で激震を受け、艦内の照明は消えた。室温は急上昇し、二酸化炭素濃度は致死レベルに上がり、乗組員はバタバタと倒れて行った。4時間後、手負いの潜水艦が再び攻撃に曝される。

最期を悟った乗組み員にはパニックが広がった。通信が途絶えた中で、モスクワに照会せずに核魚雷を発射する権限が与えられていた艦長は既に戦争が始まったのだと判断。このまま何もしないで死ぬわけにはいかない。艦長は核魚雷の発射準備を命じ、二人の将校に意見を求めた。

このとき、ソ連海軍の政治将校でもあった副長ヴァシリー・アルヒーポフは発射を中止するよう艦長を説得したのだ(BS世界のドキュメンタリーオリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史」第6回)あるいは(映像の世紀プレミアム(17)「人類の危機」NHK BSプレミアム2020年9月19日)————。

 この副長の判断が核戦争を土壇場でくい止めたのである。彼の説得がなかったなら、今、私たち人類は多分いないのではないか。

 「核拡散防止条約」は結ばれても、今やそれ自体、実質的に効力を失い、核兵器は米国、ロシア、中国、イギリス、フランスから、パキスタン、インド、イスラエル、そして今、北朝鮮へと拡散してしまっている。

しかも、米ソ冷戦が終結して後も、既述したように(第1章)、かえって世界の秩序は乱れ、その背後にはいつも米ロが控えているような状態の中では、また新たな冷戦とも言える米中の対立が激化する中では、紛争は絶えるどころかかえって多発している。

実際、このほど米ロ間で結ばれて来たINF(中距離核戦略)全廃条約も失効した。

 そんな中、特定の国家間での緊張が極度に高まってくると、何が引き金になって戦争状態に入ってしまうか判らない。とくに核保有国の間では、デマ1つで、あるいは誤報1つで、あるいは故意にではなくとも些細な偶然が重なり合うだけで戦争になってしまうかもしれない。キューバ危機が正にそうだったからだ。

 このように、今、世界には核戦争の脅威がキューバ危機のときよりも格段に高まっているのである(BS1スペシャル「ペリーの道〜元米国国防長官の警告〜」2018年3月2日NHKBS1)。

 そのようなとき、どんなにあらゆる安全機能を備えたシステムを持っていると思っている国であっても、人間の偶発的ミスや誤算あるいは事故には脆弱なのだ。さらには狂気あるいは誤解によってもいつ戦争になってしまわないとも限らない。そしてたとえ偶発的であるにせよ、一旦、核弾頭や核ミサイルが発射されてしまったなら、そのときはもう国家の指導者の力だけでは止められなくなってしまうのである。むしろその時には、国家の指導者は、いかにして全面核戦争を防ぐかではなく、ただ自国の威信が保たれることだけを考えてしまうかも知れない。

 こうした事実を考えてみても、「核抑止論」も「核拡散防止条約」も人類の存続を可能とさせる上では、実質的にはほとんど効力はないのだ。

 振り返ってみれば、核戦争とまでは行かなくても、通常兵器による戦争であっても、戦争というのは、そのほとんどが領土や資源の争奪を巡って、国境を越えて起って来た。

そしてその背景には、ほとんどの場合、双方の間には経済体制の違いとそれを成り立たせている政治に対する思想(イデオロギー)の違いや権力基盤の相違があった。

 しかしここでもっと根本を辿ってみると、米ソ冷戦、そしてキューバ危機についても、経済体制とイデオロギーを異にする米ソ間ではあったが、しかしその両国の経済についてみれば、既述の特徴を持つ「近代の経済」という観点ではまったく同じ視点に立っていたのである。

 このことからも、今を生きる私たちは、教訓として次の結論に行き着くのである。

もはや資本主義を超える新しい経済、近代経済学を超える新しい経済学が必要となる、と。

 とにかくこれまでは、経済体制とイデオロギーの違う国同士の間で、それもとくに双方の政府の間で、互いに相手に自分たちが支配されることへの恐怖を生み、恐怖が過剰反応を生み、それが止めどない軍拡競争を生んで来てしまったのだ。

 しかし、これからは双方が「近代の経済」の観念を止揚できるようになれば、領土と資源を争奪し合うことはもはや無意味と理解されるようになるだろう。実際のところ、もはや国際非難を浴びながら侵略戦争を起こし、他国の領土や資源を略奪したところで、その国の得になるような時代ではない。またイデオロギーの違いや宗教の違いを理由に国家間で対立抗争しては難民を増やし、第三国に迷惑をかけていられる時代でもない。

そうではなく、人間がどう逆立ちしたところでどうにもならない絶対の真理、人間の損得勘定を超えて、あるいは好むと好まざるとに拘らず認めて受け入れなくては人類として生きては行けなくなる絶対の真理を世界各国が共通の主導原理とすることができるようになれば、侵略することもされることもなくなり、相手国に対して恐怖を抱くこともなくなるのではないか。

そうなれば、もはや核を用いた全面破壊戦争はもちろん、通常兵器を用いた戦争すらも、それを起こすことそのものをも無意味化しうるのではないか。

 そうなると「国防」とか「国の安全保障」いう概念そのものも、従来とは根本から変化せざるを得なくなるのである。

 それは必然的に「国防費」をも大きく減少させ、税金の使途についてはこれまでとはまったく違った用途、たとえば最新兵器の購入や軍隊の維持にではなく、国土の真の活性化、教育、福祉、文化へと振り向けられるようになるのである。

 つまり本書が提言する「新しい経済」へとそれぞれの国が転換するようにすれば、地球温暖化と気候変動を緩和させるだけではなく、さらには解消させて行くことにつながる。同時に、核戦争どころか国境を越えて他国を侵略する戦争を起こすことさえ無意味化させてしまうことになるのである。

 とにかくここで私たちは、誰も、次のことを思い起こさねばならない。

今の社会はどんなに貨幣経済の社会だとは言っても、そしてお金は万能だとしてどんなにお金を、それもより多くのお金を手に入れることに努力しても、喰う物がなくなったなら、あるいは喰うことが出来なくなったなら、あるいは喰う物をつくることのできる自然環境や条件を失ってしまったなら、軍事力や軍事同盟による国家の安全保障をどんなに高めたところで、それ以前に、生物としての私たちヒトは絶対に生きては行かれなくなるという真理を、である。

 つまり、家庭を犠牲にし、子どもを、とくに幼い時に愛情深く育てることをあきらめて、どんなに肉体と精神を酷使して働いてお金を貯えたとしても、健康を失ってしまえば、思うように動くことさえ出来ない体になってしまうだけではなく、当人は誰よりも辛い思いにさせられる。そんな時、人は、どんなに高額の生命保険に入っていようとも、「お金よりやっぱり健康だ」ということを嫌が上にも思い知らされるようになるのではないか。そしてそのとき、同時に、「カネさえあれば」という考え方や価値観がどれほど脆く空しいものであったかを思い知らされるのではないか。

 この絶対の真理を私たちは決して軽視してはならない。むしろこの真理の上に立って、一人ひとりは、そして世界も、これからの経済のあり方を考え直すべきなのだ。

11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済————「その3」

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11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済—「その3」

 なお、本節を閉じるに当たり、最後に、これまでのおよそ2、30年間の世界の資本主義経済の主要な流れと、その結果としての現在の世界の経済の状況について、専門家たちはそれをどう観ているかを概観しておこうと思う。

以下は、NHK BS1スペシャル「欲望の資本主義2017 ルールが変わるとき」(2017年1月3日)の要点である。

 ここに登場する識者は以下の8名である。

「ジョセフ・スティグリッツ(2001年ノーベル経済学賞授賞経済学者)、「アルヴィン・ロス(2012年ノーベル経済学賞授賞経済学者)」、「ルチル・シャルマ(モルガンスタンレー投資ストラテジスト)」、「エマニュエル・トッド(歴史人口学者)」、「トマス・セドラチェック(チェコ総合銀行チーフエコノミスト)」、「安永竜夫(三井物産代表取締役社長)」、「原丈人(デフタパートナーズグループ会長)」、「小林喜光(三菱ケミカルホールディングス取締役会長)」。

 太古から人は所有と交換を繰り返して来た。そしてあるとき、お金が生まれ、市場が生まれ、欲望の交換は貨幣なるものに託された。

 資本主義、それはお金・資本を際限なく投じ、増殖を求めるシステムのこと。

プロテスタントの禁欲の精神が人々に富の蓄積をもたらしたことで広まったその資本主義は、いつの間にか“成長が絶対必要条件”と考えられるようになり、いつしか、“経済は成長し続けるものである”ということが当然のように見なされるようになっていた。

 それが、2008年、リーマン・ブラザーズの金融破綻を契機に、世界はどこの地域も、「成長」は止まったかのように思われている。少なくともその金融破綻を起こす前のペースではなくなった。そんな中、“もう投資も成長も見込めない”と言う人もいる。

 その経済の低成長については、“世界は今、どこの国でも、総需要が減少しているからだ”、と世界の著名な経済学者やエコノミストは言う。

 一方、別の識者は、“今、世界が需要低下に陥っているのは、グローバル化による自由貿易が各国の経済を押し潰し、人々の収入の低下をもたらしたからだ”、とも言う。

 ところでそこで言う「成長」とは一体どういうことなのか、何を意味するのかは、経済学者やエコノミストはこれまで誰も明らかにしてこなかった。

 そんな中、“成長よりも安定が大事だ”、と言う経済学者も出て来ている。

それに、“もはやGDP国内総生産)で経済力を測ったり、その数値の伸びで経済の「成長」を測ったりすることは無意味だ。そのGDPには環境汚染も資源乱用を考慮に入れていないし、富の分配も、社会の持続性も考慮されてはおらず、問題だらけだからだ。むしろGDPは、もはやGross Debt(負債、ツケ)Puroductでもあるのだ”、とも言う経済学者もいる。

 これからはさらにテクノロジーが進歩し、ロボット化がもっと進むだろうから、雇用は奪われ、社会の失業率が30〜40%にもなる日が来るだろう。そこへ、人工知能がさらに高度に発達すれば、人間の働く領域は限られてゆき、その結果、総体として人間の仕事は減り、失業者がさらに増え、長い眼で見れば、賃金も下がり続けてゆくだろう、とも言う。それは、資本主義は、人間の労働を基本としたシステムから高度に自動化されたシステムへと移行してゆくだろうからだ、というのが理由らしい。その一方で、“二人に一人が働くだけの社会となったら、その時は、社会主義とはなってはいないだろうが、判らない。今とは別の社会システムが必要となる。その場合、ものの見方を変えたら、新しい景色が見えるんじゃないかな”、とも言う。

 消費への欲望を満たすために、あるいは要らない物を買うために、ときに、したくもない仕事に就いていることもある。しかしそれは生きるための消費では無い。

そんな果てしない欲望を技術がさらに駆り立てる。まだまだ繁栄できるし、新たなイノベーションを生み出せるはずだ、と。

しかしその一方で、マクロ経済学の統計から見ても生産性の上昇は認められていないのだ、と。だから、テクノロジーやインフラや教育にもっと投資しなくてはいけない。そしてそれは政府が政策としてすることだ、と言う。

 しかし、その一方で、“人はどんなに働いたところで、欲望を満たすだけのものは作れないし、手にも入れられないのだ”、とも言う。

 ところで、「利子」とは謎だ。それは、未来の利潤のために人を休むことなく働かせる。金は時を超えて増え、時が金を生む。元々、物と物の、あるいは欲望の交換のための手段だった貨幣は、今やそれを貯めることが自己目的化してもいる。それは、お金があれば何でも買えると思っているからだ。あるいはイザというときの防衛のためだ。

 資本主義の推進力は需要と供給が刺激し合う市場だ。そしてその資本主義は科学と技術を両輪として進む。市場では、需要と供給が一致することで価格が決まるが、その価格は人々の間の同意の結果だ。そして価値は人々の「欲望」と「満足感」が交わるところに宿るのだ。だから欲望は幻想なのだ、と。

 歴史上、経済学者は、“市場には各人の「自己利益の追求」(インセンティブ)が「見えざる手」に拠って調節される機能があるから、バブルなんか心配するな”、と人々にけしかけてきた。

 実際、歴史は、技術革新が行われる度に、バブルを経験して来た。

 また、アメリカが30年ほど前に創り、牽引して来たグローバル化の波は、経済の発展ステージの異なる世界の人々に、時空を超えて、闘いを強いてきた。しかもその波では、アメリカ、とくにウオール街は、ますます不平等を生むようなルールに書き換えたのだ。つまりウオール・ストリートの人間による、目先のことだけに人々が夢中になってしまうようなルールの変更だ。そしてその結果、市場経済の効率性が下がり、生産性の下落を招いただけでなく、世界には猛烈な格差社会を生んだ。それは私たちの市場経済が招いた決定的な変化の一つだ。

 だから、今再びルールを書き換えなくてはいけない。これからのルールは、繁栄を分かち合い、より成長し、より公平な分配を促すものでなくてはいけない。

 金融危機以降の今、反グローバル化、反エスタブリッシュメント(反支配層)の動きが起こっている。それは、「社会の信頼」を守るには人の欲望に限度を設けるべきだという主張に基づく動きだが、それは資本主義のルールをもう一度書き換えるべきだ、という主張と重なるものだ。

 “それにしても「経済学の父」アダム・スミスは、一方で利己主義である「自己利益の追求」こそが社会を調整すると言い、他方ではこれとはまったく反対に、人間の「共感」が社会を結びつけると言う。これには混乱させられる”、と。

 一方、ケインズは、“社会にとって最も怖れるべきは「失業者の増大」だ”と強調し、“失業者を減らすためには、国家は借金をしてでも仕事を創らなくてはダメだ。そして「お金」という血液を市場に巡らせることだ”、と主張する。

しかし今、世界の多くは、そのケインズの理論を悪用し、「経済成長」のためという口実の下で、金融危機とは無関係に借金しまくっては、その総額を増やし続けている。

 この世界は、人の欲望でつながっている。

 資本主義はどこへ向うのか? 世界経済はどうなってゆくのか?

未来は絶対予測できない、不可知だ、不確実だ。

しかし、どっちにせよ、既存の理論や支配層が崩壊しつつある今、天動説から地動説へのパラダイム・シフトのようなものが私たち人類には求められているのかも知れない。今の世界は、今まで信じていたものがもはや信じられなくなった世界なのだから、とも言う。

 しかし、そうは言っても、これからの経済のあり方、またそのための理論は、今のところ見出せていない、と言う————。

 

 以上がここ2、30年間の資本主義経済の世界の流れについての世界的著名な経済学者・エコノミストそして識者たちの主たる見解である。

 私はその中で二つの表現が気になった。

1つは、“もう、人は後戻りできない”、というもの。

もう1つは、“不確実とリスク(危険)は違う。それを混同したなら、それこそ危険が待っている”、という表現だ。

 前者について。

 たしかに《エントロピー発生の原理》によればそのとおりだ。

それに、過ぎ去った時間は取り戻せないし、タイムスリップすることもどうやったってできない。そういう意味では、もう後戻りはできないというのは真理である。

しかし私は、そうした真理を踏まえた上でなお、次の理由と根拠に基づいて、後戻りすべきこと、取り返すべきことはあるし、またそうすべきであろうし、またそれはできるとも考えるのである。それは私たちは人間なのだからだ。自然界のことはともかく、人間社会のことは人間が作ったものなのだから、それは人間の力でできるはず、と考えるからである。

 その理由と根拠とは、かつて、ある場所の、ある人々が考え出した知恵と、その知恵に基づいて文化となったもののうち、特に人間として、またその集団である社会として大切なモノやコトは、たとえどんなに時間が経っても、それは掛け替えのない智慧の結晶であると判断されたなら、やはり失ったり失われたりしてはならないものなのではないか、と私は思うからだ。

 要するに、モノやコトには、失ってもさほど問題の起こらないものもあれば、一度失われたなら、二度と取り返しのつかないものもあるはずだからだ。

“埋もれた歴史や文化に光を当てる”とは、そういうことを言うのではないか。

そしてそのときも、これまでに人類が見出し蓄えて来た科学的な知識や文化的な智慧を総動員しながら、取り戻すことのできるコトやモノに光を当てることによって、単に取り戻すだけではなく、それらを今日的な意味で最高度に洗練させ直した形で花開かせることだってできるようになるのではないか。

 登山でもそう、戦争でもそうである。“このまま突き進んだら危険だ、破滅だ”と何らかの客観的な根拠や兆候に基づいて感じたなら、そのときには、ともかく一旦立ち止まってこのまま行くべきか否かを大至急再検討し、その結果、やはり危ないとなれば思い切って引き返そうとするのが真の勇気だろうし、そう判断させるのが真の智慧なのであろう。そしてそう決断させるのは、結局はその人の、家族への、郷土への、国への、人類への真の愛に基づく理性であり、私たち人間は、生きているのではなく自然によって生かされているのだという自然への感謝の心なのではないか。

 そしてその真の愛に基づく理性と自然への感謝の心がいま、最も求められている方向が、社会における「経済」あるいは「経済システム」のあり方に対してではないか、と私は思うのである。

 では、後者について。

経済学者たちは、“不確実とリスク(危険)は違う。リスクはある程度計算できるが不確実性はそれができない。その相互の区別は明確にすべきだ。それを混同したなら、それこそ危険が待っている”、と言う。

 私もそこまではそのとおりだと考える。そして「それを混同し危険が待っている状態」こそがクライシス(危機)なのだ、と思う。

 しかし彼らの発想はそこで止まっている。

私は、「計算できない不確実性」ではあっても、それを私たち人類に乗り越えさせてくれるものや手段はあると考える。それは原理と歴史だ。

 つまり、自然や社会を貫きながらそれらを成り立たせている、人智・人力を超えた理であり掟であり法則としての原理(4.1節)と、人間が辿って来た証としての歴史を道しるべにすることこそが、その不確実性を乗り越えさせてくれる唯一の道ではないか、と私は考えるのである。

もちろんその道には、人間の欲望や都合あるいは恣意など入り込める余地はまったくない。だからこそ“確実”なのだ。

その原理とは、本書で言う《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》であり、それこそが私がこれからの環境時代と呼ぶべき「不確実」な時代の指導原理としているものである。

 いずれにしても私は、人類は「お金」を生み出した瞬間、いわば「ボタンの掛け違い」をして歴史を歩み始めたのだと思う。そして市場経済が中核をなす資本主義経済社会の中では、たとえルールを再びどのように書き換えたとしても、その本質上、たとえばノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツ教授の言うような「繁栄を分かち合い、より成長し、より公平な分配を促す」ような資本主義経済には決してなり得ないとも思う。

 そこで以下では、こうした問題意識、問題提起を踏まえながら、そして私の場合、既述のとおり(第1章)、「近代」は終り、資本主義も同時に既に終っているという認識と前提の下で、これからの経済のあり方とそのシステムを具体的に考えてみようと思う。

11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済————「その2」

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11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済—「その2」

 ところで、経済関係の専門家はよく、仕事が生み出されて雇用が創出されるためには「経済を刺激し、活性化させる必要がある」とは言うが、そもそも「経済を活性化させる」、あるいは「経済を成長させる」とはいったいどういうことなのだろう(4.1節の「経済成長」の定義参照)。

 これまでどこの国も、経済成長の度合いを測るのにGDP国内総生産)という指標を用いて来た。しかしこれは不適切な指標であると私も思う。なぜなら、そのGDPには、環境を汚染する人間の経済活動も含まれてしまっているし、資源を乱用する行為も含まれてしまっている。またそこには富の公正な分配ということも社会の持続性ということも考慮しない経済活動も含まれてしまっているからである(ジョセフ・スティグリッツ「欲望の経済史〜ルールが変わるとき」BS1スペシャNHK BS1 2018年4月8日?!)。

 つまりGDPは、経済行動の正の面も負の面も区別なく組み込まれてしまっている指標だからだ。

ところが、どの国も、そんな性質を持つ指標の数値を上げること、それも果てしなく上げ続けることに拘っているのである。それがその国の経済が活性化していること、あるいは経済が成長していることの証なのだから、として。

 しかし、たとえDGPをもってその国の経済の発展度合いを示す指標であるとしても、果たして「経済を果てしなく成長させる」ことなどできることなのであろうか。

それは明らかに不可能だ。それは次の真理を考えただけで容易に、確信を持って答えられる。

1つは、経済を成長させるには、そのための資源が要る。鉱物資源、エネルギー資源、人的資源、等々。しかしそれらは、どこの国であれ、常に有限だ。無尽蔵な国などない。

もちろんそれらを国相互で奪い合うなど、愚の骨頂だ。

1つは、人間の活動、特に経済活動には、《エントロピー発生の原理》により、エントロピーの発生とその増大が伴う。そしてそれが、地球上に、ある一定量以上に増えたなら、全ての生命活動は維持できなくなる(第3章)。

1つは、そこでそのエントロピーを、ある一定量以上地球表面上に溜まらないようにしようとして地球の外の宇宙に捨て続けるためには、あるいは捨て続けられるようにするには、地球表面上での物質循環、とりわけ「大気と水と栄養」の循環を、経済活動を活発化させればさせるほど活発化させなくてはならない。しかし、それには、自ずと限界はある。

 つまり、これらの真理から、GDPの数値を果てしなく増大させようとすることは、そのこと自体原理的に無理なことであるというだけではなく、そのようなことにこだわり続けたなら、どの国も、いえ人類として、自滅に向けて邁進していることに他ならない、ということだ。

 それに、そもそも、雇用を創出するために仕事をつくり出すという発想自体が逆さまだ。

 本来は、あるいは通常は、何かを実現しようとか、あるいは何かを作ろうという目的が先ず発想されるのである。

その目的が定まって後、ではその目的を実現するにはどうしたらいいのか、どうしたら実現できるのかという検討に入るのだ。

その検討項目の中には、普通、鉱物資源やエネルギー資源は確保できるのか、既存の技術でその目的が達成できるのか、それとも新しい技術を開発する必要があるのか、またその新しい技術の開発のできそうな人材は確保できるのか、開発にどれだけの時間をかけられるのか、そうしたことが可能となるだけの資金は確保できるのか、等々が含まれる。

 それらの目処が立った段階で、初めて、新たな仕事が生まれ、その仕事を達成するために、必要な人を必要なだけ雇う、という段取りになるのであるからだ。

 

 私は、先に、資本主義は自然と社会と人間に対して成立当初から本質的で決定的な矛盾をもって生まれた経済の考え方でありシステムだ、と述べて来た(第1章)。

資本主義という呼び名そのものはカール・マルクスがつけたものであるが、実はそう呼ばれるよりもずっと以前から、資本主義は人類の歴史の中に経済のシステムとしてあったのだ。ところがそれは当初から、その経済のあり方の中には本質的で克服できない矛盾と問題点を持っていたのではないか、と私は考えるからである。

 例えば、日本でも、戦後の社会にはすでに現れ始めていたが、それが今日ますます顕著になってきている現象に、人間の疎外の進展、人間性そのものがますます蝕まれるようになっていること、人間の集団である社会さえも崩壊に近づいていること、その上、生命一般をずっと生かしてくれてきたこの地球の自然のメカニズムそのものさえも破壊されるようになっていること、といったことが挙げられるが、それらは結局のところ、資本主義という経済システムが最初から持っていた本質的で克服できない矛盾と問題点がもたらしたものなのではないか、と私は考えるのである。

 では、資本主義という呼び方をされるその経済の考え方とそのシステムの中に当初から持っていたと私が考える本質的で克服できない矛盾と問題点とは一体何か。

それは、一言で言ってしまえば、「お金」である。あるいはそのお金そのものが持っている矛盾であり問題点である。

 参考までに言えば、鋳造貨幣が歴史上初めて用いられるようになるのは紀元前7世紀頃、小アジアのリュディア王国(現在のトルコ)と言われている(「『幸せ』について考えよう」NHK100分de名著 西研p120)。

 お金そのものが持っている矛盾であり問題点とは次のものではないか、と私は考えるのである。

 1つは、お金自身は、金という金属でできていようが、銀という金属あるいは銅という金属でできていようが、はたまた紙でできていようが、それ自身は、例えば、人間はそれを喰って生きられるわけではなし、何の価値もないものだ、ということ。

 1つは、ところが、それが一度貨幣として造られたり紙幣として印刷されたりしたなら、それを手にした人は、それを使うことで実体のある物を手に入れる(それを、私たちは、普通、「買う」と表現するのである)ことができる、としたこと。

 つまり、その交換がなされた瞬間、それまで何ら価値のなかったはずの「お金」が、人間にとってそれなりの価値あるとされる実体のある物に化けることができるのである。

 既述したことであるが、人間の労働とその量こそがそこで生産された物に価値を与えるとした見方(労働価値説)からすれば、それは明らかに、そして決定的な矛盾なのである。

 1つは、上記内容と関連していることであるが、社会のあらゆるモノやコト、自然界のあらゆるモノやコトはそれ自体は何の価値もない「お金」を介して、しかも本来、その性質上、値段など付けようもないものまでも、そんなこととは無関係に、値段すなわち「価格」がつけられれば「商品」となり、それが買い手によって “高い、安い”と評価されるが、しかしその際の価格の高いとか安いとかがそのままその商品の「価値」を表しているのではない、すなわち「価格」≠「価値」、ということ。

 1つは、それ自体何の価値もないそんな「お金」を、人間一人ひとりの暮らしどころか生死にも関わる経済活動の中で介在させ、しかもそれを途中で滞ることなく流通させることを通して、それをより多く得ることが、誰にとっても、経済活動の主目的となった、ということ。

そしてもう1つは、そんな「お金」を手に入れる仕方においては、その過程において、法律に触れない限りは、道徳も不要だ、としたことである————参考までに記すならば、「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一は、この、経済に道徳は不要とする考え方とは反対に、生涯、「道徳経済合一説」を唱えた(NHK BS1スペシャル「渋沢栄一に学ぶSDGs“持続可能な経済”をめざして」2021.4.29)————。

 

 つまり、これらのことからはっきりすることは、人類が長いこと採用してきたこれまでの経済は、「実体の無いお金でも、それを持ってすれば実体のある物が手に入れられる」とする、虚構に過ぎない話の上に成り立ってきたのだ。そんな話が世界中の人々に共通に信じられた結果として、である。

1980年代以降、グローバリゼーションやネオ・リベラリズム新自由主義)が世界規模で急拡大し、これまでの「お金」に「マネー」が加わったことにより、状況は一層矛盾を極めるようになった。これまでの「お金」にまつわる虚構の上にさらに「マネー」という虚構が重なったからだ。

 したがって、そうなれば、経済現象を研究する学問とされてきた経済学ではあるが、それはいっそう学問ないしは科学の一分野でもなくなるのである。虚構の上に成り立つ経済の仕組みや現象が学問ないしは科学の一分野として成り立つはずはないからである。学問あるいは科学は、つねに、人間の都合や欲とは無関係に普遍的に成り立っている真実あるいは真理の上にこそ成り立つものだからだ。

 

 ここでちょっと「お金」の歴史を振り返ってみよう。

とにかく、「お金」を預けておけば「利子」が付くという、中世ヨーロッパのイタリアではすでに1400年代にはあった話もよくよく考えればおかしな話だ。すなわち「時が富を生む魔術」としての利子のことだ(NHK BS1スペシャル「欲望の経済史〜ルールが変わる時〜特別編」2018.4.8)。利子とは、同じ場所でありながら、「時」を隔てることにより富を生むようにだれかが仕組んだ制度のことだからだ。また同じく、為替とはその逆で、時は同じくしながら、「場所」、とくに国を隔てることによって、利益を生むように、やはり誰かが仕組んだ制度なのである。

 それが近代の資本主義の時代になると、初めはお金の価値を保証するために、金(キン)とはいつでも交換できる紙幣であることを前提にしたまま、「労働」「生産」という実体とは無関係の株券とか証券・債券という紙片が人間の想像の中から創造され、それも、「お金」と同等の価値あるものとされ、売買されるようになった。

 そのうちには、紙幣あるいは貨幣はいつでも金(キン)とも交換できるという考え方も、金の保有量に応じて紙幣や貨幣を発行するという考え方も取り外されてしまい、紙幣も貨幣もその根拠を失うとともに、金そのものが紙幣・貨幣による売買対象商品とさえなってゆく。

 さらに紙幣・貨幣である「お金」をもって買った株券・債券・証券には、これまた当初の「お金」の役割とはまったく無関係な、「分配」という考え方に基づく「配当」という、働かなくとも手にすることのできるお金(不労所得)が付くようになり、それも紙幣・貨幣で支払われるようになった。

 その後は、「為替と株の値動き」が絶えず情報として流されるようになったことからも判るように、為替と株を介して、「お金」を「お金」で買うという事態にまでなり、そして今、世界の経済事情や政治事情のほんの少しの変化を衝いて、コンピュータのネットワークの中で、利ざやを求めて、「お金」と等価とされる単なる数字が実体の規模をはるかに超える規模の「マネー」として超高速で行き来するまでになっているのである。

 ところがそんなことが常時できるのは、それなりの設備や人材を抱えた資本力のある集団だけであって、市井の人間にできることではなかった。

このことが、結果的に、世界中に富の蓄えの格差を加速度的に拡大させてゆくことになった。既述した「空間」の隔たりを利用することで富を生むように仕組んだ制度、いわゆる「為替」制度がそれだ。安い国で買って、高い国で売ることによって儲けるという発想に基づくものであり、国ごとの通貨の価値の違い、つまり為替レートの違いを利用して儲ける、という発想に基づくものなのである。

 本質的で克服できない矛盾と問題点をその経済のあり方の中に元々持っていたと私が考える根拠はそれだけではない。

 これまで述べて来たような意味でのお金というものがあるからこそ「脱税」が可能となった。

それもとくに企業や団体に勤める一般のサラリーマンは「源泉徴収」という形で給料から自動的に税金が徴収されてしまうから誤摩化すことはできないが、そうでない政治家や有名企業や銀行のトップ、芸能人、有名スポーツ選手、弁護士などで、富裕者にはそれを可能とさせた。自国での納税を逃れるために個人情報の秘密を堅く守る銀行や租税回避地タックスヘイブン)に預けて納税を逃れる、というのがその一手法だ。

「買収」や「汚職」も、そして「麻薬の売買」も、「お金」というものがあり、それが社会で幅を利かせているから発想されるのである。「殺人」や「詐欺」や「横領」がなくならないのも同様だ。

絶滅危惧種であろうとかまわずに「密猟」が絶えないのも「お金」万能という発想がそうさせる。

「お金」があるからこそ、人間をしてその欲望を際限なく膨らませ、欲の虜にしてしまう。そしてその欲望が新たな欲望を生む。その新たな欲望がまた新たな抜け道を創らせて行く。

 結局、社会の不平等をつくらせて来たのも、突き詰めれば、すべて「お金」だ。

お金の力が、国民生活のあり方を左右する法律や国民の納めたお金の使途を決める最も重要な社会制度である政治を歪めて来たのだ。そしてそうした歪んだ諸制度を創ってきたのが、それが出来る権力・権限を社会人の中で唯一与えられながら、「お金」の魔力に負けた政治家たちである。彼らこそ、社会から誠実・正直・勤勉を失わせ、国民の道徳観や倫理観を衰えさせ、失わせて来た直接の張本人なのだ。

 こうして、必然的に、富める者はますます富むことになる。他方、そうした抜け道の恩恵に与れない者———それは概して正直者、まっとうに生きる者と言えるが———、その人たちは、相変わらずつましい生活を強いられる。その結果、格差はますます拡大することになる。

資本主義が弱肉強食の体制といわれる所以である。

 要するに形はどうであれ、今日、世界中に次々と生じさせている解決困難あるいは克服不可能な矛盾は、そのほとんどが「お金」がもたらしたものであると私は断じるのである。本来、「お金」そのものは物や労働とはまったく異質なものなのに、そしてその「お金」は、実体ある物や行為と交換するに当たって、ただ、「そうした交換ができる物であると相互に決めましょう」として成立しただけのもので、フィクションに過ぎないものだ。そしてそれは、実体のある物との間に何らの合理的で量的ないしは質的な説明を付けられるものでもなければ、そうした説明の成り立つものでもない。

 なお、不労所得をもたらす株式とか証券や債券も、実体ある物や行為とは全く無関係であるだけではなく、本来のお金ともまったく異質なものだ。そもそも自分は労働には全く参画していないのにも拘らず、それらを所持しているというだけで、他の者と交換しうる「お金」が入ってくるということ自体も、矛盾そのものなのだ。

であるのにも拘らず株式や証券や債券も価値あるものと信じられるようになったのは、それらのものの間にも、「互いに交換できる関係にあると決めましょう」とのルールを誰かがご都合主義的に設けてしまったがためである、と私は考える。

そして昨今は、仮想(ヴァーチャルな)通貨———たとえばビット・コイン———すら創案され、コンピュータ・ネットワーク上で出回るようになっている。そしてそれが全世界をいっそう混乱へと陥れているのである。

 今、世界中で、矛盾が矛盾を生み、ますます解決困難あるいは克服不可能な事態を生んでしまっているのは正にこうした実体のないフィクションがフィクションを生み、それが信じられるようになってきた、というより信じるよりないように仕向けられてきた結果である、と私は考えるのである。

 そしてそれは何もグローバリゼーションとか新自由主義という考え方が生まれたからそうなったということではなく、さらには資本主義という考え方が生まれたからそうなったということでもなく、もっとそれ以前に、「お金」というものが人間社会の中で考え出され用いられるようになった時点で、すでにこうした解決困難な諸問題を生じさせてしまう必然性を人類は抱え込んでしまったのだ、と私は考える。

 

 そもそも、「体を動かして働く」、「物を生産する」という人間の自然に対して働きかける能動的あるいは創造的な行為と、それによって作り出されて来る生産物と、人間が「生きて生活する」、「出産して命をつなぐ」という生存あるいは生命の再生産行為とは、互いに実体のある確かな物どうしで結びつけられていた。

 そしてその限りでは、そこには、何ら本質的で克服できない矛盾とか問題点は生じることはなかった。

ところがそうした行為や生産物や人間の生命活動との間に、それらとは本質的に異質な実態なき「お金」を介在させたことによって、諸矛盾が次々と発生し、またそれが顕在化するようになってきた。そしてその「お金」の「所有」と「交換」を「正当な行為」あるいはそれを「合法」とするようにしてしまったことがその諸矛盾をいっそう拡散させ、またそれを定着させることになってしまった根本原因なのではないか、と私は考えるのである。

 こうして、お金が人々の暮らしや産業のあり方を支配する貨幣経済の社会となった結果、「お金さえあれば何でも手に入れられる、何でもできる」という倒錯した考え方を生み、それがやがては、「そのお金を手に入れるためには手段は選ばぬ」という風潮を生み、さらにそこに既述のように「正直者は馬鹿を見る」といった風潮さえ生み、「とにかくお金を得ること、それもより多く得ること」ということだけが大方の人々の強迫観念となってしまったのである。

 そしてこうした経緯の中で、経済学という学問も誕生して来た。

しかしその経済学については、既述して来たように、元々、それ自体は何の価値もなく実体を持たない「お金」が信じられて、それが支配する経済社会の中で生まれたものであっただけに、本来の「学問」あるいは「科学」として成り立ちうるはずはなかった————経済学は社会科学の範疇に含まれるとされてきたのであるが————。

だからその「経済学」は、人間社会にとって、一時は有効性を見せることはあっても、真の、あるいは永続的な有効性を見せられるはずはなかった。そしてそれも必然だったのだ。

 なぜなら、人間の意思とは無関係に成立していて、しかも無矛盾あるいは完全無欠に成り立っている自然を研究対象とする自然科学とは違って、経済学は、どれも、人間の都合によって、それも一部の人間の欲に基づく都合や意図によってその時々でつくり変えられてしまう仕組みや制度と一体化したフィクションに過ぎない「お金」の動きが研究の主対象となるものだったのだからだ。

 そもそも、マクロ経済学ミクロ経済学という、観る立場、観る対象が異なる経済学が別々にあること自体、ご都合主義的と言える。

 

 以上、遠い貨幣の歴史を概観してきたが、そこで、次には、では一体何のために人間はお金など考え出したのか、と問うてみる必要があるように私は思うのである。

 実はその問いの必要性を思いついたのは、私がそれまで20数年間務めたゼネコンでのサラリーマン生活を、退職まで後8年を残して止め、直ちに農業に転向し、以来20年余、自分で米や野菜を栽培して生活してきた結果のことである。

 人は本当にお金がなければ生きては行けないのだろうか。そして、そもそもお金は経済社会の中で、本当に必要なものなのだろうか。そして、そこでいう「経済」とはどういうことを言うのであろうか、と。

 たしかに、私の周辺でも、農業についてみるならば、現実の生活に見合う現金収入が安定的に得られないために、せっかく志した営農の道を途中で断念して去って行く人々、とくに若者がいたし、今もいる。そうした状況を指して人々はよく、“この国では、農業では喰っては行けない”という言い方をする。そして農業に対するそうした見方は、この国では、もはやすっかり定着してしまった観がある。

 しかし、そこで私は思ったのである。そのような言い方を、そういうものだとしてただ聞き流してしまっていていいのだろうか、と。「現金収入が続かない」ということが農業が成り立たない本質的な理由なのだろうか、と。

 私は、この国は決定的な矛盾をそのままに放置している、と思った。「喰う物」をつくっていながら農業者が喰ってはいけないままにしているからだ。「なぜ喰って行けないのか」、と問うべきではないか、と。

 私は、20年間余の農業生活の中で、“そうではないのではないか”、と考えるようになった。そして今やそのことに確信を持っている。

本質的な理由は別のところにある。「現金」とか「お金」あるいは「農業」そのものにではなく、「制度」や「しくみ」にこそあるのだ、と。

つまり、農業を取り巻く社会の経済制度を含む諸制度が農業という産業に適合するようには備わっていないがために、言い換えれば、農業で持続的に生きてゆくことを可能とするようなまともな農業と経済のシステムとはなっていないがためだ。それはもはや農業者個人の努力でどうこうなる問題ではない。問題はそのレベルをはるかに超えたところにこそある、ということを意味する。そこにこそ、「喰う物をつくっていながら、喰っては行けない」状態を生み出させてしまう本質的な理由があるのだ。それがゆえに、せっかく農業を志して、一生懸命作物の育て方を学び、より質の高い喰い物を消費者に届けようとしても、その生活を持続できなくさせてしまうのである。

 「お金」という金属片あるいは紙片が一人ひとりの人間に、あるいはその集団である社会に、その社会を成り立たせている自然に、結果として、あるいは総体として何をもたらすかということについては概略的にではあるが既に検討してきたとおりである(7.4節)。

そして少なくともその段階でおぼろげながら見えて来た結論は、直接それを喰って生きられるわけではないお金に拘らねば生きてはいけない経済のしくみとは、明らかにどこか間違っている、ということであった。

 その「どこか間違っている」とする根拠は、次のように考えることによっても明確になる。

 それは、「生物としてのヒトが生きる」とは、そしてまた、生物としてのヒトではなく、その「ヒトが人間として生きる」とはどういうことか、ということについて考えてみることによって、である。なぜなら、それは、人間として生きる上で、またその人間の共同体である社会を営む上でつねに付いて回る根本的な命題だからである。

 ただしここでの着目点は、あくまでも「生きるとはどういうことか」ということであって、「生きる意義」とか「生きる目的」についてではない。

 そこで先ず「生物としてのヒトが生きる」とはどういうことか、ということについて考えてみる。

それは、毎日、規則正しく東の空から上ってくる太陽とともに起き、適当な時に適当な場所で排泄し、適当な場所で朝食の準備をしてはそれを摂り、しばらくは自分としてしたいことをしたい場所でする。それからまた適当な場所で昼食の準備をしてはそれを摂り、食べた後には再び自分としてしたいことをしたい場所でして時間を過ごす。

夕刻になれば、また夕食の支度をし、それを食しては、その後の時間をその日一日の疲れを癒すために使う。そして床に就く。

 これを、季節が変わっても、毎日毎日、一年間、もし家族がいれば家族と共に、太陽の循環運行に合わせて繰り返す。

 それを、翌年も、またその翌年も、そしてその人が生きている限り、同じことを同じように繰り返して過ごしてゆく。

 なお、ここに、子どもを生んで育てるということが加わると、このことを実現させる行為が、ある時期から生じ、そして、子どもの成長過程に応じて、それに割くべき時間は変動する。

しかし基本的には同じことを同じように繰り返しながら過ごすことになる。

そしてその際、子どもは、上記行為を親から見て聞いて学びながら過ごし、成長して行くことになる。

 これが、ごく大雑把に見た「生物としてのヒトが生きる」ということであろうと私は考える。

 では、今度は、生物としてのヒトではなく、「ヒトが人間として生きる」とはどういうことか、ということについてである。

ただし、ここで言う「人間」とは、社会という集団あるいは共同体を自分の意思に基づいて取り結び、その中で「自由」と「愛」の主体として生きる存在であるということを前提とする。

 それは、ある決まった場所に住居を構え、その季節にあった衣類をまといながら、毎日、規則正しく東の空から上ってくる太陽とともに起き、決まった場所で排泄し、決まった場所で顔を洗い歯を磨き、決まった場所で、その人がその日活動できるだけのエネルギーを与えてくれる喰いものを喰える準備をしてはそれを摂り、その後は食べた食器を洗い片付ける。その間、掃除や洗濯があればそれをして、洗った物を天日に干す。

 その後、しばらくは自分としてしなくてはならないこと、あるいはしたいことをしては、その過程で自己の「自由」を歓び、自分が自分のためだけではなく他者のためにも役立つことをすることを通じて、またその中で他者のことを思い、人間としての存在をも確かめる。

 また、自分の選んださまざまな職種での仕事において、自分を磨くと同時に他者の役にも立ちたいと望んでは、そのために自分をより発達させ、より全的な存在へと高まろうとする。

 それからまた昼食の準備をしてはそれを摂り、その後は朝食後と同じように過ごす。

夕刻にはまた、朝食時、昼食時と同様のことを繰り返す。

 その日の残った時間は、その日一日の疲れを癒しながら、人を思い、社会を思い、自分の将来を思い、そして床に就く。

 これを、毎日毎日、太陽の循環に合わせて、もし家族がいれば家族と共に、季節が変わる中で、一年間、繰り返してゆく。

 一年間繰り返したなら、それを翌年も、またその翌年も、やはり太陽の循環に合わせて、命ある限り、繰り返してゆく。

 なお、ここに、子どもを生んで育てるということが加われば、このことを実現させるための行為が、ある時期から生じる。その割く時間も割き方も、子どもの成長過程に応じて変動する。でも、親も周辺も、そのことを通じて、その子の成長とともに成長し、変化して行くのである。

 以上が、概念的にではあるが、ヒトとして、あるいは人間として、生きるとはどういうことかということの中身であろう、と私は考える。

 つまり、このことから判ることは、こうした生活が社会の一人ひとりに等しく、かつつねに実現されていれば、あるいは実現できる社会的しくみが備わっておれば、それで、人は人間として生きていかれる、ということである。

 しかし、残念ながら、現実社会では、このような暮らしをすることをますます多くの人に難しくしている。

それは、結局は、既述して来たように、「お金」がそうさせているのだ、と私は考える。

つまり、元々人間が考え出し生み出したお金が、結局のところ人間を、あるいはその集団である人間社会を住みづらくさせ、あるいはその中の個々の人間をして生きることさえ困難にさせてしまっているのだ。

 

 ところがその「お金」がすべてにわたって決定的にものを言う経済システムが資本主義なのである。そこでは、既述のように、全てのものは「お金」あるいは「貨幣」によって評価され、カネにならないものはたとえ人間であろうとも無用・無益と見なされてしまう。資本主義の中核とされる企業にあっては、利益をもたらせない者は不要とされ、取っ替えられ、利益をもたらす者だけが評価されるのである。その上、もたらす利益の大きさによって「出世」の度合いも決まる。

 その結果として、資本主義の社会では、人間関係が主として利害打算の関係と化してしまい、人間が本来持っていた他者を思うやさしさとか他者のために役立とうとする献身さ、あるいは誠実であろう、正直であろうとする本質面を次々と喪失させてしまっているのである。

いわゆる人間の疎外化と呼ばれる現象を誘発しているのだ。

ここに疎外とは、「人間が自己のつくり出したもの(生産物・制度など)によって支配される状況」を言う(広辞苑第六版)。

 疎外化、それは、概略的にいえば、社会的人間に生じている、互いに内的関連性を持った次の三つからなる現象である。

1つは人間の一面化あるいは断片化。1つは人間の孤立化。そしてもう1つは人間の心の空洞化あるいは空疎化である(真下真一著作集 第1巻 青木書店p.118〜133)。

 今、文字どおり近代文明の先駆者であるアメリカやフランスを中心に生じ、ますます勢力を拡大しているかに見えるポピュリズムという名の民主主義の危機的現象も、結局は、資本主義がもたらした人間疎外の1つのあり方なのだと私は考える。

それは、グローバルな資本が国境を越えて暴走し、資本主義体制すらそれを制御もできなくなったカジノ化した資本主義によって、これまで社会の中間層を形成してきた人々の多くが拡大する格差の中で中間層ではいられなくなり、ある者は職を失い、そして困窮し、家を失い、家庭を失い、そのため、“自分たちは社会から受け入れられてはいない”という怒り、“自分たちには居場所がない”という不安がその人たちにもたらした現象だからだ。

 その人たちの多くは、口々に“仕事がないのは移民や難民を受け入れたせいだ”と叫んでいる。

 要するにここでも「お金」なのだ。「お金があれば生活できる」という意識が前提にある。

その「お金」が、人間に疎外をもたらし、その結果、個々の人間をして、持って生まれたはずの美徳を捨てさせてしまい、あるいは忘れさせてしまい、その結果、人類が、自然状態から脱して、互いの生命と自由と財産を安全に守ろうとして発展させて来たはずの社会という共同体そのものを、またその共同体の理念である自由と民主主義を、崩壊の危機にまで落とし入れているのだ。

 ここまで考えて来て私がたどり着いたのが、先の問い、すなわち「人は本当にお金がなければ生きては行けないのだろうか」だった。その問いは、もはや、今日の社会にあっては万人に当てはまる根本的な問いと言えるのではないか、と私は思う。そして、そこから出て来るもう一つの問いは、では「お金に支配されなくても人が人間として生きて行ける経済システムというものはあり得るのか」、「あり得るとすれば、それは具体的にはどのようなものなのか」だった。

 私はそれを何とかして明らかにしたいと思った。いえ、そうしなくてはならない、と強く思った。ただしその際、経済とは何かということをもう一度根本から問い直してみなくてはならない、とも思った。

 その場合、私にとって自明だったのは、人が人間らしく持続的に生きて行ける経済とそのシステムとは、生態系に対しても、したがって地球の自然環境に対しても、必要以上に負荷をかけない経済でありシステムでなくてはならない、ということだった。

なぜなら、人が人間らしく生き続けられるためには、生態系がきちんと機能し、したがって人類を生かしてくれている地球の自然環境も持続的にその機能を維持されるものでなくてはならないからである。それは《エントロピー発生の原理》が、《生命の原理》が教えているところである。

 ではその「新しい経済とそのシステム」とは具体的にはどういうものか。

それについては、私は次節以下で具体的に描き出して行くつもりである。

11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済————「その1」

 

 今回から、題名が「持続可能な未来、こう築く」の拙著のいよいよ第11章を公開してゆきます。それは、「《三種の指導原理》に基礎を置く環境時代の『経済』の具体的な姿」についてです。

 私は、ここに描いた「経済の具体的な姿」こそ、そこに至るまでには多くの紆余曲折があるでしょうけれども、私たち人類(サピエンス)が心底から、子々孫々に至るまで、というより人類がこれまで生きて来られたと同じくらいの長きにわたってこれからも生きて行けるようになることを望むのなら、その時、選択すべき経済の仕組みは多分これしかないのではないか、と自身の20余年間の農業生活を通じて予想するものです。

 第11章の最初の節は、3回に分けて述べてゆきます。

 

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11.1「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済——「その1」

 かつてBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国)と称し、経済新興国と呼ばれた国々はもちろん、アジアやアフリカのいわゆる途上国と呼ばれた国々も、今は、アメリカのような豊かな国になることを目ざして目覚ましい発展の過程にある。

 しかしどの国も、急速に発展すればするほど、その国の中では矛盾もいっそう表面化し深刻化してもいる。その矛盾の代表的なものが経済格差、すなわち貧富の差の拡大であろう。

世界中があこがれをもって眺め、それと同じようになることを目ざして目標とされて来た、世界で最も豊かな国とされているアメリカでさえ、というよりそのアメリカこそ、国内には極端と言えるほどに、世界最大の格差を生んでいる。

 因に、アメリカ中間層の男性労働者について見てみると、1978年、平均的年収はおよそ4万8千ドルであり、それに対して上位1%の年収は39万ドルであったのに対して(その比は8.1倍)、2010年には、その平均的年収はどんどん下がって3万3千ドル、上位1%(およそ300万人か)の年収は逆に110万ドルドルと2倍以上に増大している(その比は33.3倍)。

そしてそのわずか一年後の2011年には、上位1%の最富裕層が下から90%を合わせたより多くの富を持つようになり(オリバー・ストーン「もう一つのアメリカ史」第10回)、その翌年の2012年には、上位1%どころか最富裕者400人の資産の合計は、底辺に位置する1億5000万人の資産総額を上回るまでになっている。つまりわずか400人の超富裕者が、人口の半分の人々の持つ富の合計よりも多くの富を握っていたのである(ロバート・ライシュ「世界のドキュメンタリー」2016年2月15日「みんなのための資本論」より)。

 以上はアメリカについての状況だが、こうした格差状況を世界について見たらこうなる。

 世界の人口を74.3億人とすると、世界でもっとも豊かなわずか8人が所有する富は約4,268億ドルと言われ、それは世界人口のおよそ半分に当たる36億人の資産の合計とほぼ同じだというのだ(出典はオックスファム・ジャパン(2016年度調べ)BS1スペシャル「欲望の経済史〜ルールが変わる時〜特別編」)。また2017年には、上位1%の富裕者の持つ富の合計は、世界の富の82%を占めるまでになっているという(TBS TV 2019年1月6日)。

 こうした結果をもたらしたのは、直接的には、一言で言えば、1980年代、アメリカをはじめ各国の間で市場経済のあり方についてのルールの書き換えがなされたからだ。ますます不平等を生むようなルールに書き換えられたのである(BS1スペシャル「欲望の資本主義2017 ルールが変わる時」NHKBS1)。その結果生じたのがグローバリゼーションやネオ・リベラリズム新自由主義)といった経済の世界的潮流であった。そこでは、今、本来決済の手段であった「お金」に対して、「記号商品化」されて「マネー」と呼ばれるものが共存しながら、世界の実体ある物の貿易額の数百倍の、実に5兆ドル(500兆円)もの数字上の「お金+マネー」が、パソコンを通じて、毎日、国境を越えて動くまでになっているのである(福田邦夫「グローバル経済が溶かすもの」東京新聞2014年9月13日)。

 国によっては金融危機や財政危機を生み、そして世界中に、既述のような極度の格差社会を生むことになったのである。貧しい者はますます貧しくなるだけではなく、そこへ絶対的貧困をも生み、金持ちはますます金持ちになっている。そこで言う絶対的貧困とは、喰う物もない、喰う物を買うお金もないという状況に置かれていることで、単に誰かが誰かに比べて生活が貧しいという意味での貧困ではない。

 

 こうした潮流を先導したのはアメリカであり、とくにウオール街である。そしてそこに協力したのは、アメリカが中心となって第二次世界大戦後設立して来たIMF国際通貨基金)であり、世界銀行(正式名:国際復興開発銀行)であり、FRBアメリ連邦準備銀行)であった。

そして、こうした傾向が、結果的には、地球温暖化に伴う気候変動に因る影響と共に、先進国のみならず途上国や新興国の間でのテロ(テロリズム)を頻発化させてもいるのである。

間接的には、幾多の国々の内部での反政府暴動、部族間闘争、宗派対立、民族対立等を含めた内戦や紛争の原因ともなっているのである。

 

 実はこうした現状をTVなどで見ていて、知れば知るほど、私には根本的な疑問が沸き起こって来たのである。人は一体、何のために、あるいは何を求めて働いているのだろう、と。

人は、多分、一人の例外もなく皆、豊かな生活を望み、幸せになることを望んで生きているはずなのに、なぜ今の世界では、その大多数の人々には、それとは反対に、こうした不幸な事態や現象が次々と生じてくるのか、そしてそうした状況は解消するどころか、反対に、なぜますます拡大するのか、その根本的な理由とは何なのか、と。

 私は、この問いの答えを見出すためには、どうしても近代という時代の世界の人々のものの考え方や生き方を支配してきた「近代の」資本主義という経済の体制とそのシステムについて真剣に考えてみる必要があると思ったのである。

 以下では、その資本主義について、いちいち「近代の」とは断らないで論をすすめる。

 資本主義、それは全てのもの———“人間の命は地球より重い”、などとは言われるが、実際にはその命までも含めた文字どおりすべてのもの———が「お金」あるいは「貨幣」によって支配される経済であり、そのお金を資本として際限なく投じては、お金というものの増殖を飽くなきまでに求めてゆくことを本質とするシステムのこと、とされてきた。そしてそこには、道徳や倫理は不要とされて来たのである。

 そのシステムは、現実の産業社会の中では、雇用する側と雇用される側とに二分される。

雇用する側から見れば、その会社を経営し発展させて行くために、株主あるいは投資家からのその会社への評価を高めることだけが最大の関心事となる。それだけに、雇用主は、いかにしてより多くの「収益」や「利益」を生み出すかということを最重点的に考える。そのためには、一方では、働いてもらう者への賃金は極力抑え、他方では、自社が生産した物(商品)は極力多く、そして少しでも早く売りさばくことである。雇用される側にとってみれば、その企業が「収益」「利益」を上げることにどれだけ貢献したかということだけでその人の企業内での「評価」が決まり、給料等の待遇も決まり、企業の中で「出世」ができるか否かも決まってしまうことを意味した。

 こうして、資本主義経済システムの中では、雇用する側もされる側も、共に、必然的に、厳しい競争環境の中に置かれることになる。

 そしてそのようなあり方が企業内では常識とされ、またそうした競争原理に基づいた企業群が中心となって構成されているかのように人々に思われているこの現実の社会では、各企業が利益を上げるためには、たとえ人があるいは人々の共同体が生きて行く上で不可欠な水や空気や土壌といった一次財を台無しにしても、その行為は「近代」の経済と経済学から見る限り「経済」的と見なされて来たのである。むしろ反対に、一次財を守り環境を維持する行為にコストがかかるとなれば、結果的に企業の収益を下げることになるから、それは「不経済」だと見なされて来たのだ(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」p.57)

 つまり資本主義が支配する社会というのは、その中の個々の人間の人間としての多様な側面、例えば誠実である、正直である、他者に思いやりがある、あるいは芸術・芸能面やスポーツ面に優れている等々といったことは、直接的にはまったく評価されない社会なのだ。

ただ、今言った「収益」「利益」を上げることにどれだけ貢献したかという観点からのみ評価される。そしてその観点からのみ「出世」できるか否か、「待遇」が良くなるか否かが決まってしまう。そうして、一つの組織の中にあって、頂点に上り詰めた者がいわゆる「成功者」と評価される。

 それだけに、そうした競争原理に基づいた企業群が中心となって構成されていると信じられてきている資本主義社会では、今言った意味での成功者や出世者だけが過大なまでに評価されてしまう。

 その結果、その社会の圧倒的多数者には、あたかも「会社に利益をもたらしうる人間」、「会社の中で出世できる人間」だけが人生において最も価値あること、価値ある生き方、賞賛されるべき人間であるかのような価値観あるいは人生観を知らず知らずのうちに植え付けて行き、それを強迫観念にまでさせてしまうのである。

 あるいは、その結果として、昇進し、出世して、待遇が良くなればいい生活ができるようになるという意識が世の中の常識となって行くことによって、「会社に利益をもたらしうる人間」、「会社の中で出世できる人間」にならねば人間としての価値を認めてもらえないのだ、という錯覚した強迫観念すら知らず知らずのうちに植え付けさせてしまう———ただし、とくに日本の公務員の世界では、民間企業のように、社長以下社員一人ひとりが汗水流して働いて、より多くの収益を上げ、その収益によって自分たちに給料が支払われたり、翌年の事業をどのように展開するかということが決まってしまったりする仕組みにはなっていないために、というより俸給の原資も事業の資金も全て、税金という形で毎年自動的に入ってくるために、公務員の頭には、民間企業のような競争原理や「経済」的とか「不経済」的といったコスト意識は働かない。そうではなく、公務員の世界では、既述したように(2.5節を参照)、組織に縛られた強迫観念が常に働いているのである———。

 しかし民間企業の世界であれ公務員の世界であれ、共通に働くその強迫観念とは、結局のところ、「お金」に縛られた利害関係であり人生観であり、「お金こそすべて」という価値観である。

 たとえば、公共放送と自任するNHKでも、毎日、それも日に何回となく「為替と株の値動き」を報道するが、こうしたことが公然とあるいは疑問の余地がないかのごとく、まるで当たり前のように報道されること自体、そしてそれを聞く側も当たり前のように受け取ってしまうこと自体、現代に生きる私たちが、道徳や倫理を抜きにして、また道理を忘れて、文字どおり「お金」に無意識・無自覚に支配されて来たことを裏付けるのである。

なぜなら、「為替と株の値動き」が報道され続けるということは、それを聞いて、為替や株を売買することでより多くの私的利益をお金という形で得ようとする人がいる、それもこの社会にはかなりの数の人がいるということを意味しているのだからである。

 しかしそこには、少なくとも次の問題意識が欠落している。

1つは、「為替と株の値動き」など個人の利益に関わることであり、果たしてそのようなことに、

「公共」放送と自任するNHKが関わるべきことなのか、という問題意識だ。

もう1つは、為替の変動にしろ、株の値動きにしろ、それは株や外国為替を持っている人にとっては自分に降りかかる損得を計る上で大きな関心事ではあろうが、たとえそうだからとしても、それらの値動きは、それらを所持している人自身の具体的な労働や社会的貢献によって変動するものではなく、むしろその人のまったく与り知らぬところで、与り知らぬ人々の努力と犠牲の上で変動するものであるゆえ、ましてや為替も株にも無関係、無関心な視聴者もいる社会で、そのようなものをいちいち報道する必要性があるのか、という問題意識である。

というより、そのようなものをいちいち報道するということは、国民の支持に拠って成り立っている放送局自身が企業の非人道的側面に目をつむり、持てる者と持たざる者との間の格差を公然と助長していることでもあるのでは無いか、という問題意識だ。

 それは次のような意味である。

社会には、株式も持たない(持てない)人々の方が多い。また、特に小泉政権時代以降、非正規雇用の人々も激増している。その人たちは、正規雇用の人たちと同じ仕事をしているのに賃金は安く抑えられている。性差別によって、同じ仕事しているのに、待遇が男性より差別されている女性も五万といる。残業代も出ないまま過重労働を強いられて居る人々も五万といる。つまり適正な賃金が支払われることはなく、搾取されているそうした人々の存在こそが企業収益をいっそう上げていて、その結果として企業評価が上がり、株価が上がるという面が強いのである。

 確かに、株主にしてみれば、株式を所有している企業の収益が上がって株価が上がってくれればそれで満足な訳で、そのとき、自分が投資家となっている企業の経営者がどのような手段と方法で収益を上げたかなどということには、通常、まったく無関心なのだ。

 そうした、ある意味で企業の非人道的な背景を持つ株の値動きなど、なぜNHKがいちいち報道する必要があろう、ということだ。

 また為替について見ても同様で、それは母国と外国との間で経済的ないしは政治的状況が刻々と変化することによって母国と相手国の通貨の間に相対的価値の変動が生じて為替のレートが変わるわけであって、その場合も為替を所持している人の努力とか貢献とは全く無関係で、むしろ一切与り知らぬ事情によるものだからだ。にも拘らず、為替を持つことで、莫大な私的利益を得る者がいるというのはおかしいではないか、ということである。

 ところが、こうした状況には目もくれずに、庶民の間だけではなく経済学者の間でも、経済低迷が続く中で、ますます“雇用を創出し、経済を刺激する政策が必要だ”という掛け声だけが叫ばれているのである。それはまるで、それしか経済を活性化させる道も、庶民の生活状態を改善する道もないかのようだ。

 こうした掛け声が叫ばれ、またそれが支持されるということは、仕事が生み出されて雇用が創出されれば、あるいは仕事が増えて雇用が拡大されれば、それだけより多くの人々は仕事に就くことができ、お金(現金)を得ることができ、したがって生活できるようになり、それもより豊かになって、幸せになりうるという認識が、誰にとっても「常識」にさえなっているからであろう。

 

 しかし、私はここでも疑問に思う。

たしかに仕事あるいは働き口があることでお金を得ることはできるだろうが、ではそれで本当に人は心まで豊かになれるものだろうか。また、しみじみとした幸せを実感できるようになるものだろうか、と。

もちろん仕事のない人、働き口のない人にとっては、とにかくどんな仕事でもいいから仕事に就きたいとは切実に願うだろう。

しかし、人間にとって仕事に就く、あるいは職に就く、もっと広く言えば、肉体労働も頭脳労働も含めて、労働するということの目的は「お金」を得るためだけなのか、ということなのだ。そうではないはずだ、と私は思う。

 ではそもそも人間が労働をする、仕事に就くとはどういう意味を持つのか。

是が非でもここは明らかにされねばならない。

 直接的には、仕事に就いて労働するとは、自分の腕・脚・頭・手をそれ自身我が身に備わっている一つの「自然な手段」として運動させるということになるのであるが、実はこの運動によって、その人は自然に対し働きかけてそれを変化させると同時に、その過程を通じて自分自身の人間性をも変化させるのである。だからこそ、人が仕事に就いて労働することで、生産された物は商品であれ何であれ価値を持つのである。つまり生産物の持つ価値の源泉は人間の労働にあると言うことができるのである。そして正にこのことから、人間の労働こそが富を生み出す、とも言い換えることができるのである。

 実は仕事に就いて労働することにはもう一つ重要な意味がある、とされる。

それは、仕事は、その人の自由意志を正しい方向に向け、人間の中に潜む放縦とか野獣を手なずけて、よい道を歩ませるという面だ。それだけに仕事は、その人の人間性をただ変化させるだけではなく向上させ、活力を与え、最高の能力を引き出すように促すのである。

こうして、仕事と仕事の場は、その人間に価値観を明確にさせ、人格を向上させる上で最良の機会となり舞台となるのである。

 人間は、仕事が全く見つからないと絶望に陥るが、それは単に収入がなくなるからではない。いま述べたような、規律正しい仕事だけが持っている、人間を豊かにし、活力を与える要素が失われてしまうからである(E.F.シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫p.72)。

 こうしたことから、その人の人間性は仕事を通しても培われる、とも言えるのである。

 なお、仕事の役割については、仏教経済学の観点からも同じようなことが言われていて、そこには少なくとも三つあるとされている。

1つは、人間にその能力を発揮させ向上させる場を与えること。1つは、仕事を他の人たちと共にすることを通じて、自己中心的な態度を捨てさせること。そして3つ目は、まっとうな生活に必要な財とサービスをつくり出すことである(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」p.71)。

 だから、仕事がない、仕事に就けないということは、最初から、こうした機会を失わせてしまっていることを意味する。

と同時に、雇用する側が仕事というものを労働する者にとって無意味で退屈でいやになるような、ないしは神経をすり減らすだけのようなものにすることは、せっかく各人の人格を向上させうる機会と可能性を奪い、あるいは潰してしまうことを意味する。ましてや自殺ないしは過労死に追い込むなど論外だし、犯罪行為とさえ言えるのではないか、と私は思う。

 しかしそうなってしまいがちなのは、雇用する側が、人間よりもカネに執着するからであり、労働する者への人間的思いやりを欠くからである。

しかしそれも資本主義の本質がもたらすことなのである。

 実際、資本主義が支配してきた現実の社会では、仕事あるいは労働は、すでに「人間の人格を向上させる」という役割を持たされてはこなかったし、仕事場(職場)はそれができる舞台になってもこなかった。

むしろほとんどの人間は、全体システムの中の単なる一歯車となって動き回るだけで、職場で働くことを通じて、かえってその精神を病み、健康を害してさえいる。

とくに日本では、既述のカロウシ(過労死)という日本語が世界の公用語にまでなっている事実がそれを証明している。職場の重労働による自殺が増えているというのも同様だ。

 それだけではない。日本の場合、仕事や労働は家庭にまで悪影響をもたらしてきたし、今もいる。

家族関係を希薄にさせ、親子間の愛情を薄れさせ、愛情豊かな子育てを困難にさせ、人生の余暇を犠牲にせざるを得ないものとさせているからだ。

 また日本の労働あるいは仕事は、打ち込めば打ち込むほどに自然に対してはより大きな負荷を与え、それを汚し、あるいは破壊する性質のものとなりがちだった。

 以上の事情を考慮すると、「仕事が生み出されて雇用が創出されれば、あるいは仕事が増えて雇用が拡大されれば、それだけより多くの人々は仕事に就くことができ、お金(現金)を得ることができ、したがって生活できるようになり、それもより豊かになって、幸せになりうる」という理由付けは、もはや過去のもので、ほとんど通用し得なくなっていることを知るのである。

 実際、今、日本における非正規雇用の労働者や派遣労働者そして請負労働者については、代わりはいくらでもいて、いつでも「使い捨て」のできる労働者ということで、企業収益を絶対とする資本主義市場経済の犠牲にされているのだ。

 過労死そして自殺という悲惨な死について私はいつも思う。もし、当人が、働くこと、働いている内容に意義を見出せ、心からの誇りをも感じられていたならば、よほどの過酷な労働環境の中でも、「生きがい」が精神も体をも支えてくれて、なんとか過労死や自殺にまで追い込まれることはなかったのではないか、と。

 こうした状況は、たとえば、世界の「幸福度ランキング」を見ても頷ける。

日本は世界の中で58位だ(2019年)。G7、主要7カ国の中で最下位、アジアの中でも、台湾、シンガポール、韓国よりも下回る。1位はフィンランド、2位はデンマーク、3位はノルウェー、4位はアイスランド、5位オランダと、北欧勢がずらりと並ぶ(10.2節をも参照)。

 ただし、その際の判定条件は、GDP健康寿命、腐敗のなさ、社会の自由度、他者への寛大さ、そして社会的支援の6項目である。

 こうして次のことが結論づけられるのである。

労働の意味については、哲学者の考えるそれも、仏教経済学の観点からも、人間を人格的に向上させるという点において共通しているのである。そのいずれからも、労働の意味と価値は単に「お金」を得るためだけではないことがはっきりした。

であれば、なおのことこれからの環境時代において雇用を考えるときには、ただ雇用の創出あるいは増大を考えるのではなく、まずは労働をもたらす仕事の質、またその仕事を仕事として成り立たせる経済とそのシステムをも同時に考えなくてはならない、となる。

 

 

10.5 教育の地域化と教育費の完全無料化

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10.5 教育の地域化と教育費の完全無料化

 本章のこれまでは、私は、この国の中央政府の中の、先の文部省そしてその看板を架け替えただけの現在の文科省による教育行政とそれに拠る教育の内容について考察してきた。

そしてその結果とは、批判を怖れずに敢えて一言で言えば、一人ひとりの児童あるいは生徒を、人間として育てるという点では完全に失敗だったと私は結論づける。間違った教育行政と教育システムであり、間違った教育内容だった、と。

それは、この国の子どもたちや若者たちの心身の健全な発達を促すどころか、一人ひとりの個性を殺し、しかも、持って生まれて来たであろう能力をも開花させるどころかそれをも殺してしまい、一人ひとりの内面には———それを外に爆発させるか否かにはその人なりの忍耐力とか精神力あるいは理性の程度等によって個人差があるとしても———、社会に対するはげしい怒り、憎しみ、不信感そして孤立感を植え付け、その人格を歪めて来てしまった、と言えるからである。

 そのことが現象として顕在化して来ているのが、そしてその顕在化度合いがますますひどくなっているのがたとえばイジメであり、虐待であり、また引きこもりであり、不登校なのであろう、と私は推測する。“誰でもいいから、人を殺したかった”、という若者が出てくるのも、その現れだと私は見る。

 逆に言えば、小学校の時から、いえ、保育園や幼稚園の頃から、その頃にはもう既に現れていたであろう一人ひとりの個性や能力を見逃さず、それらをその子一人ひとりの特性と見て、保育園や幼稚園、そして小学校以降も、画一教育などせずに、先生を含めた周囲のみんなでその個性や特性を認め合い、認め合うだけではなく互いにそれを励まし合い育て合っていたなら、各自は、自分の存在が周囲から認められているということを自分で確信できるようになるだけではなく自分の居場所にも確信が持てるようになって、生きることにも自信が持てるようになり、それがその後の学校生活においても、また社会に出て後も自身の支えとなり、他者をいじめようとか、虐待しようとかいうような気持ちなどほとんど生まれようはなかったのではないか、と私は思う。引きこもりについても同様だ。

誰でもいいから殺してみたかった、などという破れかぶれの気持ちなど誰が持とう。

 つまりは、彼らは皆、国民の代表であるはずの政治家が国民の意思を汲み取り、代弁する形で作ったのではなく、自分たちの利益だけしか考えない政府および財界の、過去の組織の記憶の中に生きる冷酷な官僚たちによって作られてきた政府の教育システムのまぎれもない犠牲者なのだ。その教育システムとは、明治期の国策である「殖産興業」「富国強兵」の延長としての「果てしなき工業生産力の発展」という暗黙の国策を実現するためのものだった。

 要するに、明治期と同様————明治期は「お国のために」であったが————、今度は「企業のために」、相変わらず国民を、その一人ひとりの尊厳や基本的権利などは度外視して、既存の秩序に従い、経営者に従順で、ひたすら馬車馬の如くに働く労働者として育て上げるためのシステムだったのだ。「モーレツ社員」とか「社畜」などという言葉は、そういう風潮の中で生まれた言葉だった。

 なお参考までに記せば、これまでのこの国の教育費や学費は、国民から選ばれた代表であるはずの政治家としての総理大臣も文科省大臣も配下の官僚をコントロールするどころか、共に官僚の操り人形となる中で、官僚の思惑どおりに教育費は決められて来たために、教育に対する公的支出の対GDP比は43カ国中40位という状態なのである。

 

 本来あるべき学校教育あるいは学校教育の究極の目的とはこういうものではなかろうかとして、私は私の考えるそれを提案して来た(10.3節と10.4節)。

 しかし、よくよく考えてみると、これからの教育行政のあり方としては、それだけでは到底不十分だと気付くのである。各地域によって生まれも育ちも違う児童生徒を一片の紙っぺらを通じての画一的で単一な能力評価法により評価するというシステムそのものが問題だと思うからであるし、それと、受益者負担という原則、それも最終的な受益者は誰かということを考えてみると、教育費あるいは学費を児童生徒あるいはその親族に負担させるというのは理に合わないと考えるからだ。

 そこで、そもそも教育費あるいは学費、つまり児童生徒に教育を行うための費用は誰が負担すべきなのかということを根元に立ち返って考えてみようと思う。

 そのためには先ずは、なぜ教育がなされる必要があるのか、そもそも教育は誰のためになされるのか、ということを明らかにする必要がある。

 そこで、人一般を取り上げて、こう考える。

もしその人が自然の中で、ロビンソンクルーソーのように一人で生きているのなら、つまり集団で共同体(コミュニティー)というものを構成していなかったなら、その人は特に教育を受ける必要もないことは明らかだ。一人であったら何かと不自由ではあろうが、それでも、いつでもどこでも、誰に迷惑をかける訳ではないのだし、まったく自分の望むとおりに生きればいいのだからだ。だからそこでは教育とか教養などまったく無用となる。

 ところが、その人が社会ないしは国家という共同体に生きているとなれば別だ。

そこでは教育、またできれば教養も求められるようになるからだ。

 なお、ここで言う教育とは、すでに述べてきた究極の目的としての教育、あるいは真髄としてあるべき教育のことである(10.3節参照)。

 なぜなら、共同体を構成する一人ひとりがそのような教育を受けることで、その共同体は共同体を営むことを決意したそもそもの動機であり目的でもあるところの、一人ひとりの生命と自由と財産を安全に守り、維持できるようになるからだ。

 できればさらにそこに、一人ひとりが教養をも身につけられるようになれば、その共同体を構成する一人ひとりの関係のあり方はより円滑になり、その共同体はより心地よい共同体になるからである。

 こうして、なぜ教育がなされる必要があるのか、の問いの答えは明らかになった。

 では、その教育は一体誰のために、あるいは何のためになされるものなのか。

 いずれにしても、教育を受ける主体は明らかである。

小中高校では児童生徒である。大学では学生である。

では、その教育は、主体とは異なる誰かが受けさせなくてはならないものなのか、それとも、受けさせる受けさせないに拘らず、主体の意思によって、受けるも受けないも決められることなのか。

 あるいはまた、たとえば、単に「義務教育」と言った場合、そこでの義務とは、誰の、何に対する義務なのか。具体的には、1.主体の教育を受ける義務のことか、2.主体の保護者または親権者の主体に教育を受けさせる義務のことか。3.主体でも保護者・親権者でもなく、社会または国という共同体としての、主体に教育を受けさせる義務のことか。

 私はつい先ほど、なぜ教育がなされる必要があるのかとの問いを発し、その答えとして、共同体を構成する一人ひとりがそのような真髄としての教育を受けることで、その共同体は共同体を営むことを決意したそもそもの動機であり目的でもあるところの、一人ひとりの生命と自由と財産を安全に守り、維持できるようになるからだ、とした。

 もちろんその教育を受ける過程で、あるいはその教育を受けた結果として、教育を受けた一人ひとりは、その人固有の個性と能力を開花させ発展させ、その個性と能力をもって共同体である社会なり企業に貢献すれば、それ相応の対価を得られて、それはそれでその一人ひとりはその生命・自由・財産をより安全に守られる条件は得られるようにはなるだろう。

 しかし、それはあくまでも二義的な効果である。一義的な効果は、なんと言っても、社会あるいは国という共同体を集団で営なもうとしたその当初の目的がよりよく実現されてゆくことである。

しかもその「当初の目的がよりよく実現されてゆく」の中には、単に個々の構成員の生命・自由・財産が守られるようになるというだけではなく、個々人の人格も磨かれ、共同体としての社会や国は道徳的にも精神的にも次元を高めてゆき、結果として社会共同体ないしは国という共同体の総合力をも高められる、という効果も含まれる。

 こうして、これで、「では、その教育は一体誰のために、あるいは何のためになされるものなのか」の問いの答えも明らかになった。

 そして以上の二つの問いに対する答えから、そもそも教育費あるいは学費、つまり児童生徒に教育を行うための費用は誰が負担すべきなのかという問いに対する答えをも確信を持って答えられるようになるのである。

 それは、社会あるいは国という共同体が共同体として教育費あるいは学費は負担すべきだ、それも、社会として、あるいは国としての真の力を高めようとするのであればなおのこと全面的に負担すべきである、と。

 とにかくこの国では、教育についてのこうした原則に立ち返った議論も、教育費あるいは学費は本来誰がどういう理由で負担すべきかという議論も、国家の重大事項だというのに、国権の最高機関である国会で議論されたことはついに一度もなかった。

政治家という政治家は、国民から選ばれることを望みながら、政治家になってしまえば、国民の利益代表であることを放棄し、官僚に一任し、依存しっぱなしで来たのだ。

 とにかく、教育こそ、そしてその中身が普遍的であればあるほど、より多様で、より多くの人材を生み、それは、社会や国を真の意味で豊かにするのである。いや豊かにするだけではない。耐性のある力強い社会や国にするのである。その意味で、教育のあり方こそ、その国の民の興亡を大きく左右することになるのだ。

 

 ところで、この国の学校教育は、明治期以来、文部省、そして現在はその看板を架け替えただけの文科省という中央政府の一省庁によって、全国を統一的かつ画一的に支配され、統治されてきた。

そしてその省庁による教育行政とそれに拠る教育の内容は、一人ひとりの児童あるいは生徒を、人間として育てるという点では完全に失敗だったと私は結論づけてきた。間違った教育行政と教育システムであり、間違った教育内容だったからだ、と。

 したがって、既述のような意味で教育の究極の目的あるいは教育の真髄というものを考えた時、既存の教育行政や教育システムそして教育内容は、学校教育のあり方を正しく導けるはずはない。

 では、その正しい学校教育のあり方とはどういうものなのだろうか。

私はそれを考える上でヒントになるのは、次の問いの答えを考えることなのではないか、と思うのである。

それは、“国があってこそ個人がある”という考え方が正しいのか、それとも、“個人があってこそ国が成り立つ”という考え方の方が正しいのか、というものである。

この国では、明治期以来、ずっと、一貫して前者の立場で個人をとらえ、学校教育を考えてきた。

 しかし、結論から言えば、その答えは、どちらでもないし、またどちらでもある、ということだ。

すなわちそれはちょうど「個と全体」の関係と同様に、その二つは互いに切り離して二者択一的に捉えられるべきことではなく、両者を「調和」の関係にあるものとして捉えるべきであろう、と私は考えるからだ(4.1節での「調和」の定義を参照のこと)。

なぜなら、周りを見渡してみても、生きているのがその人一人だけだったら、規則も必要なければ道徳も必要ない。でも、個人が集まり、その共同体としての社会が出来てゆく過程で、すでにその社会を成り立たせ、あるいは国を成り立たせ、またそれらを維持するためのさまざまな規則やしきたりが同時並行的に必要となって、できてゆくようになるからだ。またそれらができていかなくては社会も国も維持できなくなるからだ。

 つまり、“個人があってこそ国が成り立つ”し、また、“国があってこそ個人がある”のである。

 このように考えると、教育のあり方についても、教育を受ける主体はあくまでも児童生徒あるいは学生ではあっても、そのあり方というのは、国民一人ひとりを個人として見て、その個人のためになる教育でなくてはならないと同時に、共同体としての社会ないしは国のためにもなる教育でなくてはならない、ということになる。

 であれば、やはりこのことからも、明治期以来このかた、常に一貫して国の中央政府の省庁である文部省と文科省による、“国があってこそ個人がある”とした考え方に基づく全国を統一的、かつ画一的に支配してきたこの国の学校教育のあり方は間違いだったということが再確認できるのである。

 したがって今後は、これを教訓として、学校教育のあり方としては、国民一人ひとりを個人として見て、その個人のためになる教育も同時並行的になされるべきだとなる。それは個人の個性や能力を尊重し、それを積極的に伸ばす教育のことだ。

 なおここで、国はそれぞれの地域の集合体であるということを考えるならば、そのそれぞれの地域が自身でそれ固有の個性や特性を伸ばし得て活力を高めることができれば、結果的に国としても活力と耐性のある国になりうる訳であるからして、これからの学校教育のあり方については、次のように結論づけることができるのである。

 それは、これからの学校教育のあり方については、各地域に任せるべきだ、と。

言い換えれば、もはやこれからの教育のあり方と教育内容は、中央集権的に、国の中央政府が全国を画一内容で、画一的に統制するというのではなく、各地域に地域化のための自決権を与えて任せるべきなのだ。

またそうであってこそ、その地域が固有に抱える問題を自発的主体的により良く解決しうるようになるだろうし、地域の歴史や文化をより良く継承し発展させられるようにもなる、と期待できるのである。

 そうでなくても、各地方の事情も判らずに、中央の事情と判断だけで統治される、統一的かつ画一的な教育というのは、起こりうる多様な事態に対する対応力や適応力を持てなくする。つまり耐性が持てなくなるのは明らかなのだ。

 

 では、教育の地域化に伴う教育内容とはどのようなものとなるのだろうか、またどのような内容とすべきなのだろうか。

 以下は私が考えるものである。

 それは、次表に示すように、大きくは3種類の内容からなる。

1つは、いうまでもなく、地域や時代によって変わることのない、「教育の真髄」とも言える、既述の、学校教育の究極の目的である。

2つ目は、「各地域固有の自然や文化そして歴史に関わる内容」で、これも必須とするのである。

3つ目は、児童生徒がそれぞれ「自由に選択できる内容」である。

 

表 − 地域化されたこれからの時代の教育とその内容(私案)

教育の究極目的

地域教育の必須内容

自由に選択できる学習内容

10.3節に述べたとおりの内容

・郷土の自然史(郷土の気候風土と生態系)

・郷土の伝統文化とそれの人類史との関係

・母国語の標準語と地元方言の学習

(その中には、毛筆による習字も含む)

・郷土の宗教とその歴史

・郷土の伝統的農業、林業水産業

いずれかの体験

・日本の古典

・外国語

・「近代」科学

・数学または論理学

・諸外国の歴史または地理

古典力学と熱力学

 

 もちろん、ここでは憲法(第21条)が禁止している検閲であるところの教科書検定もまったく無用だし、「学習指導要領」も、少なくとも全国画一のそれはまったく無用となる。

というより、そもそも憲法違反の検定という「検閲」などはしてはならないことだし、ましてや官僚という公務員には国民から与えられてはいない権力をそのような形で行使するなど言語道断だとして、官僚をコントロールすべき立場の文部科学大臣は、憲法第15条第一項を即刻適用して、検定をした官僚は躊躇なく罷免すべきなのである。

 

10.4 教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む

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10.4 教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む

 前節では、私は、学校教育において、児童生徒に最も重点を置いて教えなくてはならないこと、すなわち学校教育の究極の目的とは何かについて考え、また述べて来た。そこでは、児童生徒一人ひとりが、「人間とは何か」から始まって、「生きるとはどういうことか」、「生きる意義、生きる目的とは何か」ということについて、自身に向って問いを発することができるようになるとともに、その答えをも自ら見出しうるように教師が教え導くことであろうとして来た。

そしてその答えを一人ひとりが見出す上で役立つと思われる重要概念にはどのようなものがあるかと考え、さらにはそれらを互いに関連づけて児童生徒一人ひとりが真に深く理解できるようになるにはどうしたらいいかとも考え、その結果として、それらを「人間」と「社会」と「自然」という3つの大きな枠組みの中でのキーワードにして表現して来た。

それらを学年が上がるにつれて、具体的段階から抽象的段階へと思考を広げて理解できるよう配列したものが先の表である。

 そして児童生徒一人ひとりが、その3つの枠組みの中に含まれるキーワードで示される、人生を社会と自然の中でより良く、そして人間らしく生きる上での重要諸概念の意味を、互いに関連させながら統一的により正しく理解できるようになるためには、教科としての「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」は必修科目とされるべきであろう、として来た。そしてその私なりの理由も述べてきた。

 それに対して、数学・英語(あるいはその他の外国語)・理科(物理・化学・生物・地学)・社会(地理・公民)や技術家庭科・体育・音楽・美術・工芸・民芸・芸能等は選択科目の範疇に入れるべき、として来た。なぜならば、それらの教科は、児童生徒がこれからの人生を生きて行く上で、「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」の重要度に比べれば、はるかに軽くまた限定的と思われるからである。それらの選択科目は、児童生徒が、自分にとって必要、あるいは特に履修し習得してみたいと思ったならば、その時選択すればいいのである。またその方がはるかの効率は上がるのである。そしてその際、教育委員会をはじめ学校側も、その選択が自由に叶えられるような態勢を準備しておけばいいのである。

 とにかく、これからの学校教育のあり方については、もはや従来の文部省ないしは文科省の学習指導要領はもとより、文部省・文科省の教科書には縛られてはならないと私は考えるからだ————と言うより、次節(10.5節)にて詳述するように、これからの教育は地域化され、各地域の自治に任されるべきだと私は考える。それは、各地域には各地域固有の歴史も文化もあるからだ。それを知らない中央政府(の官僚)が、自分たちの野心で全国を統括的に教育しようとするのはそれ自体無理がある。そんな無理を通そうとするから、必然的に画一教育とならざるを得なくなるのである————。

 そこで私が学習指導要領はもとより、文部省・文科省の教科書には縛られてはならないとする理由は次の2つだ。

 1つは、歴史教科書がその典型であるように、文部省ないしは文科省が認可した教科書は、すべて、「表現の自由」を保障する日本国憲法第21条に違反する「検定」という名目の検閲をした教科書だからである。

 つまり、本来なら、文部省も文科省も、自国の児童生徒たちには自国の憲法を守るよう、政府として率先して維持し、保護し、擁護して見せねばならないのに、実際にはその反対に、憲法違反を常習化した上での教科書だからだ。

日本政府が戦後ずっと追随してきたアメリカ合衆国の大統領さえ、就任時には、「私は、合衆国大統領の職務を誠実に遂行し、全力を尽くして、合衆国憲法を維持し、保護し、擁護することを厳粛に誓う」と宣誓しているのである。

 文科省の官僚自身が憲法違反をして教科書会社に作らせた教科書を、なぜ日本の児童生徒がそれを教科書として用いなくてはならないのであろう。

 もう1つは、実際、そうした学習指導要領と教科書と教育システムによって、既述したように(10.2節)、この国の児童生徒の個性や能力は却って大量に殺されてしまい、大なり小なり、人格も価値観も歪められてしまい、その結果、この国は世界に通用し得ない国にさせられてきてしまったのだからだ。

 そもそも児童生徒に押し付けてきた文部省・文科省のその教育とは、児童生徒一人ひとりを規格化し、国の経済発展に貢献できる安価で従順な労働力商品として大量生産するために、主として政府と財界の官僚たちによって作られてきたものなのだ。

 

 ところで、私は、本書では一貫して、近代という時代は既にとうに終り、私が名付けるところの環境時代に入っているとして来た。

その環境時代とはもはや人間中心の時代ではない。ということは、自然は人間の幸せ実現のためにあるとして来た時代でもないということである。人間中心の時代ではないのだから、人間の「自由」と「平等」と「民主主義」だけを普遍的価値とする時代でもない。「資本の論理」、「市場経済」を至上とするギャンブル経済の時代でもない。もちろん資本主義の最後の形態であるグローバリゼーションやネオ・リベラリズムの時代でもない。また化石資源や化石燃料がその経済を主力となって支える時代でもない。

 とにかくその経済は、人々に大量消費を煽り、貧富の格差を必然的に拡大し、分断をもいっそう進めるだけでしかないものだった。その結果、それ自体が生命であり、その表面上にあらゆる生物が生きるこの地球の生態系をも汚染し、また破壊するだけでしかない経済だった。

 新しい時代には新しい時代の思想の体系が要るのである。新しい経済のシステムが要るのである。またその新しい経済を支える新しいエネルギーのシステムが要る。

そうでなくては前時代の矛盾や行き詰まりを超えられないし、飛躍的な発展は望めないからだ。

 そしてそれら全てを根底から支える原理が要る。それを私は《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》である、としてきた。

 こうした原理の下で、新思想と新経済システムと新エネルギーシステムの3種が一式揃って初めて、人類と他生命が現在直面している存続の危機、絶滅の危機を根本から解決または回避することが可能となる道が開けるのではないか、と私は考えるのである。

温室効果ガス排出を削減ないしはゼロにするというだけでは、《エントロピー発生の原理》を満たしてはいないがために、そしてその原理が教えてくれる科学の限界、技術の限界をも指し示し得ないがために、温室効果ガス排出を削減することの効果によって人類にとっての全面危機の到来は幾分かは向こうに送られるかもしれないが、しかし早晩、全生命にとっての母なる地球の自然のメカニズムを駄目にしてしまうと私は考える。

 本節が主題とする「教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む」という発想はこうした考え方を背景に導かれるのである。

 先の文部省も今日の文科省も、その教育は、この国の児童生徒を、母国の歴史からだけではなく、ほぼ完全に母国の自然からも切り離して来た。

これでは、人は誰も過去の歴史を背負い、過去からの帰結に関わって生きているという真理を理解できないし、人は誰も、自然によって、それもその自然の中に生きる他生命を喰ってしか生きることはできないという厳然たる真理も理解できないままとなる。

 また歴史をつながりの中で正しく教えないのだから、自分が今、歴史の過程のどこにいるのかさえ理解もできない。であれば、自分はどうして今の自分になったのかも判らなければ、これから自分はどこへ向かおうとしているのか、どこへ向かうべきなのかも、当然ながら、皆目、判らない。

 そうなれば、“自分らしくありたい”、“自分の居場所を見つけたい”との願望は抱いても、アイデンティティすら持てるはずもなく、精神的には根無し草になって、漂流せざるを得なくなる。

 実は多くの人々をして精神的に根無し草として、漂流せざるを得ない状態にしてしまっている原因はそれだけではない、と私は考える。

それは次のような状況も手伝っているのだ。

 今日、日本を含めて世界の人々は、誰もが、到底消化しきれないほどの莫大な量の情報が高速で飛び交う高度情報化の中で暮らしている。しかもその情報のほとんどは、人が人間として生きて暮らして行く上では不必要な情報ばかりだ。本当は、人が人間として生きてゆく上で不可欠なもののほとんどは、すでに、大方の人には備わってさえいるのだからだ。

 それに、その飛び交う情報は、どれが真実でどれがウソなのか、またどれが作られた話なのか、誰も識別もできないものばかりだ。つまり、誰もが、真実か否か、現実世界のことか架空の世界のことか判別もつかない情報に振り回されながら生きているのである。

 これも結局は、人は、自分で自分の精神を根無し草にし、自身を漂流させてしまっているのである。

 

 しかし、これは少し考えてみれば誰もがすぐにも気づくように、国にとっても、また国民一人ひとりにとっても極めて危険な状態だと私は考える。

それでは、危機、それも本当に生き延びられるか否かという危機に遭遇した時に、うろたえるしかなく、全くの無力にならざるを得ない状況だからだ。

 IPCC気候変動に関する政府間パネル)も全世界に警告を発しているように、特に今後は、気候変動の激化や生物多様性の消滅等の現象、あるいはそれらが重なって生じるであろう現象によって、地球人類は、人類史上、かつてない大惨事に遭遇してゆくことが想定されるからである。

 つまり、目の前に、自分の生死を分けることになるかもしれない事態が生じたとき、普段から、真実か否か、現実世界のことか架空の世界のことかの判別もつかない情報に振り回される暮らしをしていたのなら、目の前の現実に対処できるわけはないからだ。

そのとき、スマホがあればいい、というわけにはいかない。SNSという手段があるからいい、などとは絶対に言ってはいられない。その人がどんなに最新のデジタル通信手段を使いこなせたところで、多分、その時には、ほとんど役には立たない。

それは「お金」とて同様だ。その時、どんなにたくさんお金を所持していても、そんなお金は自分の命を救うことにはほとんど役には立たない。

 むしろそのような時に本当に役に立つのは、自分はどうしたらいいか、どこに逃げたらいいか、どう対処したらいいかを瞬時に判断しうる力だ。

 ではその力はどうやったら身につけられるのか。

それは、可能な限り、それもできるだけ幼い頃から、自然の中で色々な体験をすることである。

それもできるだけ友達と一緒に、である。

例えば川遊びでもいい。林や森で遊ぶのもいい。山や丘で遊ぶのもいい。

そうして、そんな遊びの中で、自分たちが必要とするものを自分たちだけで、自分たちの手で、手元にある道具を使いこなして、作ってみることである。

 実は、こうした遊びこそ、教科書では決して学ぶことのできないこと、すなわち真の「生きる力」というべきものを学ばせてくれる。

 人間は誰も、頭で覚えたことは、どんなに記憶力の優れた者でも、いつかは忘れる。でも、体で覚えたことは違う。特に幼い頃のことであればなおさらだ。“三つ子の魂、百までも”とはそういうことである。そしてその体験は、必要に応じていつでも思い出せる。

 

 これからは、本当に、こうした「生きる力」を身につけることこそが求められる時代になってゆく、と私は確信するのである。そして、こうした身体で体験した遊びは、どんなにお金を叩いても買えない、価値ある財産をもたらしてくれる。

なぜなら、その体験こそ、その人を生涯にわたって、支え、守ってくれるからだ。

 そこで、これを学校で、たとえば自然体験制度(以下、単に体験制度と呼ぶ)と位置づけて、できるだけ早い時期から実践するのである。できれば、幼稚園・保育園の時からの方がいいだろう。なぜなら、幼い時ほど、何の抵抗もなく自然と交われるだろうからだ。と言うより、本来人間も自然の一部なのだからだ。

 ここで言う「自然体験制度」とは、都会に住んでいる子どもも田舎に住んでいる子ども、ある一定年齢に達した順に、自然豊かな環境、できれば山の中腹の森林や渓流のある地域内に設けられた寄宿舎での生活を共にしながら、自然経験豊富な指導者の下で、一定期間、自由に遊び、自由に暮らしてみるというものである。

 こうした制度を、文科省の全面的財政支援の下で、あるいは各各地方公共団体自治の下で、本物の知識人の助言の下に、柔軟に制度化するのである。

 ただし、この場合特に大切なことは、児童生徒の親、特に母親は、そうした遊び体験を“危険だから”と言って止めないことである。我が子の将来の安全無事を祈り、自分で自分を助ける力を身につけて、たくましくなって欲しいと願うなら、親自身が、ぐっと自分を抑え、子供達の自由な判断に任せることである。

 確かに、その時、子供は怪我をするかもしれない。重大な事故を起こすかもしれない。そんな時、子供は「痛い思い」や「辛い思い」を強いられるかもしれない。

でも、命を落とすことさえなければ、その体験こそが、児童生徒一人ひとりに、教科書では決して学べない、お金でも決して買えない、次に列挙するような絶大な教育効果をもたらしてくれると、私は信じるからである。

 1つは、児童生徒が、突然、まさかの事態に遭遇した時、その体験が蘇り、「こんな時には何をどうすればいいのか」、あるいは「こんな時、どうすれば危機から回避できるか、どうすれば危険に陥らないで済むか」を体が瞬時に教えてくれるようになるからだ。

 1つは、既述した、学校教育の究極の目的である「生きるとはどういうことか」、「生きる意義、生きる目的とは何か」、そして「人間とは何か」の問いに対する答えを、自分で掴み取ることができる助けになるからだ。

 それは、子どもたちが、自然の中での生活を通じて、野生の動植物や鳥類・昆虫・菌類そして水生生物等々の生態をよく観察し、それらが互いにどう生きているかをも現地でありのままに観察し、気象の変化を体験し、星々を含む天体の動きを体を通じて観察することにより、自然とは何か、生命とは何か、またその生き方の真実とは何かを知ることで、上記の問いの答えのヒントを自分で見出せるようになると考えられるからだ。

 1つは、現実世界と仮想世界との確かな識別眼を養ってくれて、それは大人になっても仮想世界に惑わされることのないように導いてくれるという点である。

 1つは、自然の偉大さを理解できるという点である。

 自然界には、厳密な意味で、色と言い、形と言い、二つとして同じ物はない。一つのものでも、時間の経過とともに絶えず変化して行き、さっきの姿をとどめない。だから自然は見飽きるということがない。いま目の前に見えているその姿を見逃したなら二度と永遠に見られなくなるということ、あるいは、自然は全体の中のどこの部分について見ても、全体と寸分の隙間も狂いもなくつながり、果てしなく広がっている、・・・・、ということも含めて、自然は、注意深く見ようとしさえすれば、限りなく多様であることに気づかせてくれると同時に、人が人間として生きる上で大切ないろいろな知恵に気づかせてくれる。その意味で、自然はつねに無矛盾で完全無欠の体系を成していて、それだけに、あらゆる意味で最良で最高の教師であることを気づかせてくれる。

そしてそのことを通じて、自然に対して尊敬と謙遜を抱けるようになる。自然を傷つけてはならない、としみじみ思えるようになる。

 そしてもう1つは、この体験制度を通じて、児童生徒が自分たちの国日本はすばらしい自然によって成る美しい国であると実感できるようになる。そしてそれは、口で“母国を愛せよ”などと言葉で教えなくても、自然な形で、「愛国」の心が育まれるようにもなる。

 

 近年、日本の自動車業界でも家電業界でも、そこには大勢の「優秀な」技術者がいるはずなのに、自社製品について莫大な数の「リコール」がしょっちゅうニュースになる。

また、建築の分野でも、例えばかつての大工職人だったら当たり前にできた家の建て方の一部である、曲がった材を曲がったなりに組んでゆく木組みを今の大工はほとんどできなくなっている、ということもしょっちゅう耳にする。

 私は、こうした事態が起こるのも、突き詰めれば、彼らは、断片的な知識を数多く記憶することにおいては優秀でも、また、真実か否かもはっきりしない情報を素早く扱ったり、取り込んだりする能力においては優れていても、つまり知性において優秀でも、幼いときからの自然体験が極めて乏しく、自然がどうなっているか体で知り得てはいないし、全体を全体として見通して判断する力を養って来てはいないから、というのが最大の理由なのではないか、と私は推量するのである。

 しかし、そうなるのも、これまでの文部省と文科省の教育では無理はない。

 要するに、「教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む」は、某元首相の提案する「働き方改革」や「生産性革命」を云々する以前の、教育においては本質的な問題なのだ、と私は確信を持つ。

 とにかく、物事何であれ、無知であることほど危険を招くことはない。