LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.2 経済の新概念——————(その2)

f:id:itetsuo:20210511114722j:plain

11.2 経済の新概念——————————————————(その2)

 では、近代の経済や経済システムを超える新しい経済あるいは経済システムとは果してどういうものか。

言うまでもなくそれは、「環境時代」(第4章の定義参照)に相応しい「持続可能」な経済であり経済システムでなくてはならない。

そしてそれは、働く者の人間性を無視したものではなく、むしろ人間の本性に根付く、人間の営みとしての労働———それは「人間の能力を高め、人格をも向上させる」という役割を持った労働———に基づく経済であり経済システムでもなくてはならないのである。

そこで言う人間の本性とは、「他者の痛みが判り、哀れみの感情を持てて、他者に共感でき、自分が他者の役に立っていることを実感するところに歓びを感じられる」ことである。

 この新しい人間重視の経済は、人間の人間による次のいくつかの行為と過程から成っている。

これはすでに第4章にて定義したものと同じものである。

それを確認の意味でもう一度示す。ただしここでは、判りやすくするために、それぞれの行為と過程とを分解して示す。

 この新しい人間重視の経済は、人間の共同体そのものを存続させるためのもので、

一つは、人の再生あるいは再生産にかかわる行為ないしは過程、

一つは、共同体の存続そのものを可能とさせる一次財の再生あるいは再生産のための自然の再生・修復・復元にかかわる行為ないしは過程、

一つは、共同体での生活の基礎をなす物質的二次財の生産に供する資源としての一次財を自然(生態系)から持続的に利用させてもらうための行為ないしは過程、

一つは、物質的二次財の生産・流通・分配・消費・廃棄あるいはその再利用に関わる行為ないしは過程、

そしてもう一つは、上記4種類の行為・過程を通じて形成される人間と人間との社会関係と、人間と人間社会の自然(生態系)に対する一方的な従属関係の総体のこと。

 

 この新定義では、旧来の「近代」の経済の定義と次の点でその違いを明確にしている。

以下のことは、いずれも、旧定義には含まれてはいなかったものである。

・経済活動は、とにかく人間の共同体を「存続」させるための行為であることを初めから明確に意識した概念であること。

・これまでは財についても、その質の違いを問わずに単に一つの財として扱って来たが、それを人の生存と共同体そのものの存続を可能とさせる一次財と、人間としての暮らしを可能とさせる二次財とに分けることを定義の中で明確にしたこと。

・その場合、旧定義では、「一次財の再生あるいは再生産」および「自然の再生・修復・復元」という行為と過程を単にコストとしてしか見ずに二次財の生産だけを主目的として来たが、ここではむしろ「自然の再生・修復・復元」という行為と過程を通じて二次財の生産を支える「一次財の再生あるいは再生産」そのものをも経済活動の一つであるとして明確に含めたこと。

・そして二次財については、その生産と分配と消費の行為・過程だけではなく、流通と廃棄あるいは再利用の行為・過程をも経済活動に含めることをも明確にしたこと。

・そして以上の4種類の行為・過程を通して初めて人間および社会は持続可能な存在として形成されるとしながらも、その人間も社会も、自身で独自に生きているのではなく、実は自然に対して一方的に従属せざるを得ない関係に拠って生かされている、という考え方をも明確にしたことである。

 以上の4種の行為と過程と、それによって形成される人間相互関係からなる社会と、人間社会の自然に対する一方的な従属関係の総体をもって、私は「環境時代の経済」または「新しい経済」の定義としようと思う。

もちろんその根底には「三種の指導原理」に依拠しながら、先の「都市と集落にとっての三原則」にも則りながら「人間にとっての基本的諸価値の階層性」を着実に実現させて行く、という考え方も不動のものとしてある。それらをより完全に実現して行くことを目ざすのである(4.2〜4.4節参照)。

 

 繰り返すが、ここで述べる経済と経済システムにおいてとくに重要なことは、もはや単に「雇用を創出されている」、「雇用が確保されている」、「仕事がある」、「働き口があって賃金がもらえる」といったことのためだけの経済であったり経済システムではないということだ。そうではなく、誰もが「生きて行けること」、それも、各自が属する共同体に積極的に、そして誠実に参加して協働することで、誰もが等しく安心して生きてゆくことができ、しかも一人ひとりが人間として、その能力も人格も高まって行けるようになることに主眼を置いたものである、ということである。

 だからその経済とシステムは、人々の多様性のみならず、他生物の多様性をも受け入れ、その生命一般の多様性との共存の上に、人々が、自分たちの文化、すなわち自分たちに固有の、共有し合った生活様式をも同じく大切にしながら、身の丈の技術をもって支え、成り立たせて行く経済でありシステムである。

 身の丈の技術とは、基本的に人間の手あるいは器用に動くその手の延長で用いられる道具に拠って成り立つ技術ないしは技のことである。

だからそこでは、オートメーション・システムといった人間を生産システムの中の単なる一歯車としてしか見ない画一的大量生産技術でもなければ、ITとかAIといった、人間の介在を必要としない、むしろ人間に疎外感しか与えない生産技術でもない。したがってその身の丈の技術とは、むしろそれらとは正反対で、労働する一人ひとりに、その人の得意な面を生かさせてそれを伸ばし、自身の存在意義を確信させてくれ、人間としての働く歓びをもたらしてくれるものである。

 オートメーション.システムやITとかAIによる大量生産システムから生産されてくる製品は、使い手に便利さあるいは快適さをもたらしはするかもしれないが、全てが画一化された製品であるがために、どれを取っても、そこに格別の愛着を感じられたり、ぬくもりを感じ、したがって安らぎを感じられるというものではなかった。それだけに、少し型式が古くなったり、どこかに故障や不具合が生じたりすると、人間の手で修理修繕して使うということがほとんど不可能な作り方がされているために、全取っ替えを余儀なくされ、容赦なく捨てられる。またその方が安く済むからでもある。しかしそれ自体、エネルギーと地球資源の莫大な浪費であると同時に、生態系を大規模に汚染したり破壊したりすることになる。

そしてもう一つ大事なことは、というより、これは真理であるとして言えることは、どんな物でも、その時にはどんなに最新式のものであって、また格好良く見えても、いつかは必ず周りの物と比べても古くなるということだ。

したがって、問題はその時、古くなったその物が所有者の目にどう見え、その物をどう感じるかである。

こういう時、オートメーション・システムやITとかAIによって画一化されて大量生産された物というのは、得てして、ただ古くなって、頻繁に故障が生じやすくなったとしか感じられなくなるものだ。そしてそうなれば、捨ててしまうことにはそれほどためらいは感じなくなる。

 それに対して、身の丈の技術によってつくり出される物は、一品一品が作者の手になるものであるために、そこには作り手のぬくもりと心意気を感じさせてくれる。出来上がったそれぞれはみな、互いに微妙に異なり、言うなればその一つひとつが世界にそれしかないものとなる。

そしてそれは、使いこめば使いこむほどに、つまり時間が経てばたつほどその製品独自の味が出てきて、愛着をも感じさせてくれるようになる。

それに、たとえそれが故障しても、元々が手作りなために、すぐにも人の手で修理したり修繕したりすることができる。しかしオートメーション・システムが生産した物の場合にはそうはいかない。部分だけを修理することがまず困難だし、たとえ修理できたとしても、新品を買い換えるのとさほど変わらないほどの金がかかってしまうからだ。ということで、結局は「全取っ替え」ということになり、高い物についてしまう。

 つまり手作り製品は、それだけエネルギーと資源の浪費を防げるのだ。環境破壊を減らすことなのである。自然環境に負荷をそれほどかけないで済むのである。

 とにかく、ここで言う「環境時代の経済」または「新しい経済」では、労働することが、ただ自分のためだけ、お金のためだけというのではなく、誰かのため社会のために役立っているという実感をも持たせてくれ、したがって働くことに対して一人ひとりに誇りを抱かせ、人間的成長をも実感させてくれるものとなるのである。

 だから、そこでは、過労死とか、ストレスを抱えて自分の精神を病み、自分で自分の命を絶つなどという事態はまったく別世界のこととなる。

 

 そして私は、ここで、さらに次のことをも明確にしておきたいと思う。

それは既に定義して来た「調和」という考え方に基づくのである(4.1節)。

 その「環境時代の経済」または「新しい経済」は、もはや資本主義とか社会主義さらには共産主義とかいうものにも拘らないし、そうした主義あるいはイデオロギーを区別もしない、ということである。生産手段の私有化・公有化といった区別にも拘らない。土地などの生産手段についても同様で、公有化がいいとか私的所有がいいとかいうことにも拘らない。

一方で誰かが儲ければ、あるいは得すれば、一方では誰かが必ず損をすることになる利益・収益・儲けという考え方にも拘らない。

 階級、すなわち資本家階級とか労働者階級といった区別にも拘らない。

市場という概念はもちろんのこと、株式や投資や投機という考え方も採らない。だから、そこでは不労所得という概念はあり得ない。また、その経済はあくまでも実体に基づくものであって、消費者の気紛れや気分に左右されるような経済でもないから、そこでは景気という概念も無意味となる。さらには、自己完結を目ざす経済であるゆえ、対外交易ということはさほど重要なことではなくなる。したがって保護貿易とか自由貿易という考え方、また、「保護(貿易)主義」とか「自由(貿易)主義」という考え方や用語にも拘らない。そのような区別そのものにも拘らない。

 そこではまた、既述したように、これまでの資本主義経済あるいはそのシステムがとって来た競争原理とか市場原理といった考え方はもはやなくなるので、株価の上下や為替の値動きによる売買や先物取り引きといったことに象徴される博打的取引もあり得ない。

 またそこでは、これまで、政府(官僚)によって頻繁に行われて来た「巨額の公的資金などによる財政支出」という、国民の金を使って特定産業界を保護・優遇するという考え方や対処法も採らないし、そのようなこととは関係もなくなる。

 また、そこでは、経済活性化という名目、というより産業界保護とそこからの政治献金を期待して行われて来た「法人税の税率引き下げ」という考え方も対処法ももはやまったく不要になる。また、遠く離れた国のある地域に個人資産を隠しては税逃れをする「タックスヘイブン(祖税回避地)」という、富豪者による社会の格差を拡大するだけの身勝手で不平等かつ不公正きわまりない制度も、全く不要になる。

 また、バブル予防のために考え出されて来た、金融のあり方に関する「貯蓄銀行投資銀行との分離の必要性」等の問題についても、全く関心を寄せない。というのも、銀行はあくまでもその地域の、それも実体経済それのみを支える銀行であるべきだ、と考えるからだ。そうなれば、そこではもはや、いわゆる「バブル」も「恐慌」もあり得ないし、起こりようがない。

 そもそもバブル経済先物取引というギャンブルも、あるいは投資や投機という考え方や行動も、ともに、本来、人間が生きてゆく上で、あるいは人間が日々の生活して行く上で必要とするような活動ではまったくない株と為替の値動きに注視することについてもである。

だいたい生産活動の変化もないのに、世の中の出来事だけに影響を受けて特定の企業の株価だけが乱高下するということ自体まったく理不尽な話だし、ましてやそうした状況を巧みに利用し得た者だけが、労せずして巨利を得られるなどということも、人間を堕落させるシステム以外の何物でもない。

むしろそのような強欲に基づく人間に対する騙し行為は、人間の本能に基づく欲ではなく、その者が置かれた社会的・政治的状況の中から生じてきた欲であり、きわめて怠惰で不道徳的で、社会にまっとうに生きようとする人間の労働観や倫理観を惑わせ、あるいは狂わせ、社会を歪め混乱に陥れるだけでしかないシステムと言える。

 実際、そのことは、1980年代後半の日本に起ったバブル(泡)経済とそれがはじけた後のことを思い起こしただけでもすぐに判る。“バブルに踊らない奴はバカだ”とまで煽られて国を挙げてそのバブル、つまり中身がなく実体のない経済に踊り狂ったのだ。そしてその泡がはじけた結果(1991年)、私たち国民の暮らしはその後、「失われた10年」「失われた20年」等々と言われてきたが、今日までどうなったか。そしてその間、この国の政府は国民のために何をしてくれたか。また私たち国民も、その実体なき経済から何を学んだか。

 結局のところ、バブル経済の本質とは、「果てしなき経済発展」こそが国力を高めるのだから国策となるべき、との強迫観念をずっと持ってきた大蔵省(当時)の官僚の企みによるもので、国民が己の家庭や育児を犠牲にして、必死になって働いて増やした預貯金およびその利子といった富を、国民に渡らないようにコントロールしながら、それを金融機関を通じてこの国の主要企業に流入させ、彼らの投資資金とさせたという、言うなれば、家計部門から産業部門への、一挙に加速された富の移転に過ぎなかったのだ(K.V.ウオルフレン「システム」p.204)———もちろんこれも、官僚には許されているはずもない権力の非公式の行使であるが、いつも官僚に依存し、追随ばかりしてきた大蔵大臣には、そうした許されざる権力を行使する官僚を罷免したり、降格させたりする力も気力もなかったのだ。というより、多分、閣僚は配下の官僚に対してどうあるべきか、という政治的原則も知らなかったのではないか———。

 そのことは、たとえばその後今日まで続くゼロ金利政策一つを取って見てもすぐに判る。

 あるいは2008年9月、リーマン・ブラザーズの経営破綻によって、日本も、当時の日本の国家予算(約90兆円)の額の4倍近い国民の資産を外国人投資家に(合法的に)持ち逃げされ、失ってしまった事実(広瀬隆アメリカの経済支配者たち」集英社新書)を思い返してみてもすぐ判る。

 あるいは現在の資本主義経済システムが、投機屋からなる国際金融マフィアと呼ばれる大規模な犯罪組織(シンジケート)がファミリーを構成して、先物取り引きなどのデリバティブ価格を集団的に操作しては銀行金利をはるかに上回る法外な利益を上げてもなお逮捕されることも訴追されることもなく、ぬくぬくと生きていられるしくみになっている事実を見てもすぐ判る(同上書)。

 なお、さらに付け足せば、この「環境時代の経済」または「新しい経済」は、「貧困の撲滅」だ、そのためには「民営化だ」と前宣伝しては多くの国々の政府と国民に期待を持たせてはそれを裏切ってその国の経済を崩壊させてきた、いわゆる「グローバリゼーション」や「ネオ・リベラリズム新自由主義)」等々にも全く関心を寄せない。

 とにかくそうしたことはすべて、世界の何処かの国の誰か、例えばアメリカのウオール街の巨大金融企業群が決めるというのではなく、主権者である住民が、自身で本音で主体的に議論して、最良と考えるものとして決めてゆけばいいのである。拘るのは、あくまでもその行為が、生態系をも含めて、地域全体の持続的発展のためになるかならないかという観点についてのみとなる。とにかくそうした主体的行動を通して、その地域の人々は、議論することの重要性も、少数意見を尊重することの意味も、民主主義の意味についても、本当の意味で理解を深めてゆくことができるのである。

 ついでに言えば、これまでの論理から明らかなように、「三種の指導原理」や「都市と集落にとっての三原則」に基礎を置く「環境時代の経済」あるいは「新しい経済」の下では、技術的権利を独占する「特許」あるいは「実用新案」という考え方も、そしてそのための制度も、あること自体、社会と自然の全体に対しては有害無益として、まったく無用とする。また、仕事をする上で、これまで当たり前とされてきた、各自の「名刺」を携帯するということも、「看板」を出したり、「宣伝」をするということも、多分もはや不要となるだろう。小規模で、分散した各地域社会では、全ての人が互いに顔見知りになり、信用や信頼が自然と大切にされるようになり、そのようなものや行為はもう要らなくなるだろうからだ。

 

 「環境時代の経済」または「新しい経済」がもたらす効用はそれだけに留まらない。

この国は表向き、資本主義の自由競争経済の国とされてきたが、実質的には全く違う。

対外的には、この国の中央政府はもっぱらアメリカに追随して来たし、国内の流通システムは、既述のように、その頂上にて各政府省庁の官僚と財界の官僚とが結びつく「業界団体」と「系列」を通じて、日本の産業界の隅々までを統制するという経済システムを取ってきた。それは、決して自由システムではなかった。というより、極めて窮屈な経済システムだった。

 「環境時代の経済」または「新しい経済」はその辺の事情をも一変し得る可能性を十分にもっている。

 それは、「新しい経済」が、基本的に、地域ごとに自己完結を原則とする経済システムであるゆえ、住民の意思と決意一つで、人体にだけではなく生態系にも悪影響が及ぶと考えられる物品や生産方法をも排除しうるようになり、その地域の固有種による栽培と飼育が可能となる経済システムだからである。

実際、日本はこれまで、世界一の遺伝子組み換え食品の輸入大国だったのだ(堤未果「日本が売られる」幻灯舎新書p.79)。

たとえば、遺伝子組み換え種子およびそれとセットになった農薬が大量に入ってきた。トウモロコシ・大豆・小麦・大麦・ライ麦等の農産物の多くはそれによって栽培されてきた。そして次にはそれらを原料として味噌・醤油・植物油・酢・コーンフレーク等が作られてきた。あるいはそうした農産物を飼料として用いられて育てられた家畜によるものが牛肉・豚肉・鶏肉・卵・牛乳等の食品である。

 しかし「環境時代の経済」または「新しい経済」はそれらを排除できるようになる。

 このように、その経済は、それぞれの小規模地域に身の丈の技術を生み、育て、それを高度に洗練させ、地域の文化を育みまた守り、地域住民の健康と生態系をも守る経済なのである。

さらに言えば、「都市と集落にとっての三原則」をも土台に置いて地域社会を構築することから、その地域の経済のみならず、政治的にも、自分たちの地域のことは、憲法に反しない限り、自分たちですべて決められ、自分たちの運命をも選択できるようになるのである。

 それだけに新しい経済とその経済とシステムは、住民一人ひとりには、「お金も大切だが、本当はそれよりももっと大切なものがある」ということを心から気付かせてくれ、これまでほどには「お金」というものにこだわらなくても暮らして行けるようにさせてもくれるのである。

 こうしてこの「新しい経済」とそのシステムとは、敢えて表現すれば、人類誕生の瞬間から今日までの間に、人類が経験的に学んで来たあらゆる智慧や教訓と、人類が科学を通じて手に入れてきたあらゆるプラスの意味での知識や知見とを総動員して、それを「知性」ではなく「理性」をもって綜合した時に、そこに見えてくるであろう経済でありしくみである、とも言えるのである。

だからそれは、個々の人間を最高度に幸福にするために最高度に発展した、共感と連帯によって成る社会を構築して行ける経済でありシステムでもある、ということになる。

 

 「環境時代の経済」あるいは人間性重視の「新しい経済」のあり方を考え、それを論理的に導き出す上で私が拘ったことはただ次の一点のみである。

 日本だけではなくどこの国の経済も、経済とは本来、世の中を治め人民の苦しみを救うことという意味の「経世済民」という言葉もあるように、ある特定の者をだけを裕福にさせるというものではなく、地域共同体、社会共同体、国家共同体いずれの共同体であれ、そこに集い住む人々のより多数を、人種とか信教、国籍に無関係に、その生命と暮らしを安心できるものに支えるものでなくてはならないとの前提をつねに踏まえること、そしてその役割を永続的に果たせるしくみであること。

そのためには、人間は、誰も、最終的には個人ではあっても、その個人は自分で生きているのではない、多くの人々との関係を維持する中で、支え支えられながら、なおその全体が、人間の知恵や知力ではどうにもならない大いなる自然によって生かされているのだという真理に無条件に従うこと、であった。

 そして、この「環境時代の経済」に奉仕する学問としての「環境時代の経済学」の概念を導き出す上で私が拘ったことは、ただ次のことだった。

 既述の4種の行為と過程と、それによって形成される諸関係からなる総体としての新しい経済をいかにしたらより多くの人々に納得してもらった上で実現させられるか、かつそれを存続させることができるかを理論的に明らかにすることを主眼とする学問となること。

 具体的には、化石資源を力に任せて掘り起こしてはそれを燃焼し使用しつづけて、エントロピーを「人間の存続可能条件」を超えて発生させ続け、人間を生かしている「水・空気・土壌」という本然の自然を壊す行為を継続するのを止めさせて、再生可能資源を使わせてもらうことを前提に、それもいかにして最小限の消費で、最大の幸福———その場合、「人間にとって真の幸福とは何か」も根本から問い直されねばならないが———を得られるか、いかにしてより速やかにその持続可能な暮らしの姿や社会の形態へと移行させうるか、その方法を明らかにすることを主目的とする学問であること、だった。

 そしてそこでは、「熱」を、いつでも、どこでも、最大限有効に使うために最終的に使えなくなるまで使い尽くす、という考え方を経済システム構成上の理論の中でとくに重視していることである。

それは、そうすることが、たとえ再生可能エネルギーを使うにしても、その量を最少にしうることになるし、同時に、エントロピーの発生量を最少にできると同時に、エントロピーを宇宙に捨てる上でも最も理に叶っているからである。

 とにかく強調しておかねばならないことは、その新しい経済は、物質的財貨というよりは共同体での生活を営む人間とその人間の再生産、そしてその人間を土台から支えて生かしてくれる一次財としての水・大気・土壌とあらゆる多様ないのちの再生産を第一義的に重視する経済であるということである。そして人間の生活の基礎をなす二次財としての物質的財貨は、あくまでもその一次財を元に生産されてゆくものであるということを明確に理解すること、である。

 その意味で、この「新しい経済」は、一次財が積極的かつ広範に再生産されて行かねば成り立たない経済であるから、それは、資源をどこか外の世界から持って来て、それを元に製品を作って、あるいは加工して、売って、使ってもらって、捨てられればそれでお終いという一方向の経済ではなく、捨てられた物が生態系において分解され、分解されたそれぞれの質のものが生態系を循環しながら自然をいっそう豊かにしながら資源を再生産して行き、再生産されたそれを人間社会が資源として利用させてもらうという、いわゆる循環経済とならざるをえない。だから、その循環経済に支えられた社会は循環社会となる。そしてそれは自己完結する経済でもある。

 この循環経済は、国にあっても各地域にあっても、ともに、基本的には、計画経済と自由経済とから成り、その両者が調和(「調和」の定義については5.1節を参照)して成り立つ経済でなくてはならない。なぜならそのように、互いに相対立するかのように見える性格を持った経済によって全体をなす経済がもっとも自然の成り立ちに従いながら人間の欲求をも満たす上で合理的と考えられるからである。

 と同時に、それらの経済がそうしたしくみを保ち続けられるためには、その経済は、その経済が行われる地理的範囲の人々が安心して参加できるもの、その人々の信頼を裏切らないものでなくてはならない。そのためには、その経済は、つねに実体あるいは中身の伴うものでなくてはならない。つまりバブル経済を引き起こすようなもの、数字だけが飛び交うようなもの、ギャンブルから成り立っているようなものであってはならないのである。

 ここで言う実体あるいは中身とは、たとえば人間が体を動かして生産活動をすること、他者のためにサービス、すなわち「物質的生産過程以外で機能する労働」(広辞苑第六版)をすること、あるいは実際に物質やエネルギーが移動すること、等をさす。

物が動かずにただ数字だけが飛び交う性質のものは、環境時代にはもはや全く不要となるだけではなく、むしろそのようなものは人心を惑わし、社会を混乱させ、社会を複雑化させるだけでしかない。

そのことは、既述して来た「近代の経済と経済システム」から私たちが教訓として学ばなければならないことなのだ。

 

 では何が計画経済の範疇に入り、何が自由経済の範疇に入るか。

一言で言ってしまえば、前者に入るのは、人間の意思や都合ではどうにもならない過程が支配的となる産業である。それは自然あるいはいのちと直接向き合うことになる産業と言い換えてもいい。農業、林業水産業、畜産業がこれに属する。

 一方、後者の自由経済の範疇に入るのは、人間の意思や判断や手先の訓練結果がかなりの程度介在しうる産業である。それは工業であり、商業であり、サービス業である。

 では、なぜ、人間の意思や都合ではどうにもならない過程が支配的となる産業分野を計画経済にし、人間の意思や判断や手先の訓練結果がかなりの程度介在しうる産業分野を自由経済にと分けるか。

 それは、そうしなくては人間の意思や都合ではどうにもならない過程が支配的となる産業である農業・林業水産業・畜産業は、人間の意思や判断や手先の訓練結果がかなりの程度介在しうる産業である工業・商業・サービス業には、同じ一つの経済システムの社会の中では、そのままでは対等に太刀打ちできず、自立できる訳はないからである。ましてや、もはや過去のものとなったと解釈する大量生産を基礎とする工業・商業・サービス業が主流となるシステムを持った社会ではなおさらのことだし、利益を上げること、それもできるだけ多くの利益を上げることを至上命題とする資本主義経済社会ではなおさらのことだった。

 実はこうした私の確信は、サラリーマン生活に自ら終止符を打ち、思い切って農業生活に飛び込む決意をした主たる動機の一つとなった疑問————「そもそも喰う物をつくっているはずの農業なのに、なぜこの日本ではその農業では喰って行けないのか」という疑問————に対する答を学者も専門家も示して見せないのなら、その疑問に対する答えを自分なりに見つけ出してやろうとして、その後の18年間の農生活と野菜や米の栽培方法を続けてくる中で得た答えを支えているのである。つまり、「社会の経済とそのシステムがこうなれば農業でも食って行けるようになる、それも誇りを持って生きて行けるようになる」と

 なお、従来の経済の定義においてもそうだったし、また新しい経済を先のように定義したときにも同様であるが、そこには、教育分野や医療と看護と介護の分野、そして芸術や芸能等に関する分野は、直接的にはどこにも入っては来ないし関わっても来ない。

 そこで、ではこれらの分野に関わりながら社会を構成している人々は、どのような形で地域連合体の社会に関わるのかということが課題として残ることになる。

しかし、それについては、後述の11.6節にて、「真の公共事業」という範疇の中で考察することにする。

 以上が、決して理論に拠るものではなく、私の実体験に基づく実感から得た結論である。

 なお、こうした考え方の根底には、地球上の人間のだれもが、人間としての権利・尊厳が守られながら、これまで人類が存続できて来たと同じ100万年単位の期間これからも存続できるようにするという狙いがある。それは、それを実現することこそが未来世代にいのちをつなぐ私たち現在人類の義務と責任なのではないか、と私は思うからである。

 ちなみに、これまで、たとえば資本主義経済、社会主義経済、市場原理主義の経済、新自由主義経済等々と、いろいろな表現をされてきた近代の経済を対象とする学問は、どれも、マルクス経済学ですら、既述のとおり、財の捉え方には区別なく、一括して同等に捉え、人間が自然に一方的に従属している関係を無視し、計量できないモノも目に見えないモノも区別せず、したがってまた、それらの価値の区別をも付けずに来た。ただ、交換の場において「値段をつける」という仕方だけで。

 つまりこれまでの経済と経済学は全て、人間を生かしているものが何かという根本を無視してきた経済であり経済学だった。

 しかし、「環境時代の経済」または「新しい経済」では、共同体内の人々は、互いに自分の持っている能力や技能を地域社会の人々のために提供し、地域の人々も互いがもっている能力や技能をより高度にかつ洗練してゆくことができるよう励まし合い評価し合いながら、互いに自己と他者に誠実になり、思いやりや共感を大切にしながら、全的人間として成長して行くのである。

 したがって、その地域社会には、自ずから、人々の間の深い信頼関係が生まれ、連帯の意識や強固な絆が育って行くようになるのである。そしてそれは必然的に、強い郷土愛や強固な愛国心をも育てて行くことにもなる。

 とにかく、今こそ、社会構成員一人ひとりには、勇気を持ってこれまでの発想を転換することが求められているのである。発想の転換、それは、社会を成り立たせている共通の基本的な価値観としてのパラダイムの転換、と言い換えてもいい。

 ではその転換は一体誰から求められているのか。それは、自然環境と未来世代からである。

 いずれにしても、資本主義という経済システムが通用する時代は終わったのだ。というより、その経済システムの存続に固執すればするほど、人間社会の矛盾を激化させてしまうだけではなく、人類の存続可能性をも狭めてしまうことになるのは間違いない。

 ということは、その経済システムが支配的となってきた「近代」という時代も、その歴史的使命を終えたということなのである(第1章)。

 本章の以降でも、このことを念頭に置いて行く。