6.1 求められている新しい人間像と新しい国際人像
前回までは、拙著の《第2部》に入って、第8章と第9章について述べてきました。
しかし、今回から7回は、再び《第1部》に戻り、第6章を公開してゆこうと思います。
その章題は「私たち日本国民すべてに求められるこれからの生き方」です。
こうした内容のものを急遽公開することにしたのは、次の理由によります。
今、世界も日本も、新型コロナウイルスによる禍中にあって、多くの人々はこれまでの人生における価値観が揺らぎ、社会のあり方に懐疑的になり始めています。そして、“ポストコロナウイルスはどんな社会になるのだろう、どんな時代になるのだろう”と、その前途に不安を抱き始めている人もいます。
そこで、私は思いました。こんな時こそ、国民全体の生き方に最も強い影響をもたらす人々の、生き方の上での使命と責任を明確にする必要があるのではないか。と同時に、これからの私たち日本国民として特に求められている生き方についても、さらには、これからの時代に求められている新しい人間像とは何か、また新しい国際人像とは何か、ということについても、誰かが、試案でもいいから提案してみる必要があるのではないか、と。
今回は、奇しくも、それを私が提案することになります。
なお、ここで言う「国民全体の生き方に最も強い影響をもたらす人々」とは、公の場でものを語り、また伝えることを役割と使命とする人々のことです。私はその代表的存在が政治家であり、知識人であり、科学者ないしは研究者であり、政治ジャーナリストそして宗教界での僧侶と神主ではないかと考えます。
「これからの時代」とは、正に「ポストコロナの時代」であり、同時に、これまで私なりに命名してきた「環境時代」です。
そこで、以下が、すでに書いておいた《第1部》第6章の前文です。
前章(第5章)では、私は、私たち日本国民のこれまでのものの考え方と生き方について考えてきた。それも、混迷を深めるばかりのこれからの時代を生き抜く上では、これまでのそれをいつまでも続けていたら、自らをますます危機的状況に陥れてしまうだけではなく、自分で自分をニッチもサッチもいかなくさせ、自ら破滅を招くことになるのではないかと私には危惧されるものの考え方と生き方について述べて来た。そしてそれは、私たち日本国民にとっては、ある意味では「当たり前」のものの考え方であり生き方であり、また典型的なものの考え方や生き方ではあるが、世界の人々から見たならば、多分、特異で異常であるとすら見られてしまうものの考え方であり生き方なのではないかとし、そう思われてしまうであろうと私が推察する根拠についても、私なりに述べてきた。
また私は、そうした私たち日本国民の典型的なものの考え方や生き方と対比する意味で、第二次世界大戦で日本と同じ無条件敗戦国となったドイツの人々の生き方についても見てきた。ただしそこで言うドイツの人々の生き方とは、とくに大戦後から40年を経た後までのものであり、それも当時のヴァイツゼッカー大統領演説に盛られていた内容を通じてである。
そこで明確になったことは、その間の私たち日本国民と日本の政府のものの考え方と生き方と、ドイツ国民とその政府のそれとはまるで違っていた、ということである。
確かにそれは善し悪しの問題ではないかもしれないが、その違いの結果、日本国民とドイツ国民との間では、自国に対する自信と誇り、自国政府に対する信頼度という点では、月とスッポンほどの違いを生じ、さらには、そのことは、今日の日独両国に対する国際社会の評価および信頼度や尊敬度の違いとしても現れているのではないか、と私は述べてきた。
いずれにしても、私は、自らが自らの生き方をもって世界から信頼を失い、孤立し、場合によっては軽蔑もされ、その上さらに危機を招いてしまうような生き方、しかもその際、脆弱さを露呈し、惨めさを味わって終るような生き方だけは私たち日本国民は決してしてはならない、と思うのである。
そこで本章では、では私たち日本国民の一人ひとりは、今後、少なくともどういう生き方をして行く必要があるか、また私たちの未来世代からどういう生き方を求められ期待されていると考えられるか、ということを考えてみようと思う。
私はそれを、以下では、次の順序で考えてゆく。
先ずは、これからの時代において広く求められている人間像とは何か、また国際人像とは何かを考える。
次いで、それを日本国民一般に広げて、私たち国民一般にとくに求められている生き方とは何かを考える。
その次に、国民全体の生き方に最も強い影響をもたらすのは、何と言っても公の場でものを語りまた伝える役割と使命を担った人々であろうということから、その代表的存在としての政治家、知識人、科学者ないしは研究者、政治ジャーナリスト、そして最後に宗教界での僧侶と神主について、その人たちの生き方を通じての社会的使命と責任ということを考えてみようと思う。
もちろんその場合、これらのいずれの分野の人を含めた全ての日本国民は、その意識の底には、私たち日本国民はその一般的傾向として、前章の5.1節にて明らかにして来た、世界からは特異とされるものの考え方や生き方をしがちな傾向があるということを、それぞれが自覚しながらも、それを各自において止揚してゆくことが求められてもいるのではないか、と私は考えるのである。
6.1 求められている新しい人間像と新しい国際人像
私は、今や「近代」という時代は終わった、と述べて来た(第1章)。それは、“終ったと考える”とか、“終ったと思う”というのではない。そしていわゆる歴史家がその辺をどう考えるかというのでもない。私自身はもう、どういう角度から見ても、また考えても、確かにそう言えるし、そう言うしかないのである。そして前途には、過酷な困難が待ち受けていると考える。
それだけに、古(いにしえ)を懐かしんでいる余裕などなく、前途を切り拓く生き方を模索したいのである。
以下ではそうした見方と考え方を前提に考察しようと思う。
したがって私から見れば、これからを生きる人は皆、ポスト近代という「新しい時代」に生きる「新しい人間」ということになる。
その「新しい時代」とは、これからは人類にとっては、人類同士はもちろんのこと、あらゆる種類の生命との共生と循環を実現した「環境」としての生態系こそが何よりも人間の生きる土台となるだろうという意味で、私なりに命名した「環境時代」のことである(第4章の1節)。
ではその環境時代という新しい時代に生きる「新しい人間」あるいは「人間像」とは、何を身につけた人のことを言うのであろう。
それをここでは、第一番に考えてみようと思う。
もちろんその場合の「新しい人間」とは、こうした問題を提起する動機からもお判りのようん、何も日本国籍を持ったという意味での日本人に限った話ではない。むしろ近代の反省に立って、これからの生き方を考えようとしている人間一般のことである。
言い換えれば、近代という時代が、社会的には人間中心の時代であったことを考えれば、それを克服できた人間あるいは克服しようとしている人間、ということになる。経済的には資本主義が支配的であった時代であったことを考えれば、資本主義的なものの考え方や価値観を克服できた人間あるいは克服しようと葛藤している人間である。また近代が、化石燃料が支配的であった時代であることを考えれば、これからの私たち人類が利用させてもらうエネルギーは少なくとも化石エネルギーではないとの確信を持ち、必ず再生可能エネルギーでなくてはならないと確信し、決意をした人間である。
そしてさらには、その人間中心の価値観と資本主義と化石燃料が原因となって人類を含む地球上の全生命の存続を脅かす地球の温暖化と生物多様性の消滅の危険性を含めた広義の環境問題(第4の再定義を参照)を招いたことを考えれば、その環境問題こそ、今後、人類がもっとも関心を振り向け、克服して行かねばならない問題であると自ら考え、その方向に生きる決意をし得た人間ということにもなる。
また、とくに第二次世界大戦以降、「イデオロギー」と「経済構造」の違いに基づく米ソ二大陣営の対立が続く中、その二大陣営は、大量殺戮兵器である核兵器こそが核戦争を抑止し、世界の平和と安定をもたらすと信じ、その結果、一部の国々の間だけで核を独占し、それ以外の国への核の拡散は抑えるという核保有国同士による身勝手かつ独善的な考え方に基づいて国際の平和と秩序を維持して来たが、そんな抑止論ももはや理論的にも、またキューバ危機や1973年危機によって脆くも破綻したことは明らかだとして、もはや核抑止論や「核の傘の下での平和」という考え方から離脱し、核兵器を即時に全面廃棄することこそ世界の真の平和と安定への道だと確信し得た人間ということでもある。
すなわち、環境時代という新しい時代に求められる「新しい人間」あるいは「人間像」とは、少なくとも、今述べてきたような類の人間のこと、となるのではないだろうか。
今、世界はますます混迷を深め、ますます解決することの困難な問題が人類の前に次々と立ちはだかるようになってきていることは既述した通りである。そんな中、とくに欧米社会では「パラダイム・シフト」の必要性が叫ばれて久しい。ここで言うパラダイムとは、「一時代の支配的な物の見方や時代に共通の思考の枠組」(広辞苑第六版)のことで、シフトとは、それを転換しようということである。
しかし、パラダイム・シフトの必要性は確かに多くの識者によって叫ばれてはいるが、では何をそれまでの時代のパラダイムとし、そのうちのどれとどれをシフトするのか、それも何を根拠として、どのようなパラダイムへとシフトすべきと言おうとしているのであろう。
それを一式揃って具体的に明らかにしている識者は、私には見受けられない。
というより、パラダイムをシフトすべきとするその時代とは、何がどのように特徴付けられる時代とするのか、それさえも、誰も明らかにしない。
とはいえ、そうではあっても、確かなこととしてこれだけは言えるのではないか。それは、新しい時代における新しいパラダイムとは、人類を持続可能な未来へと導いて行ってくれる物の見方であり思考の枠組みでなくてはならない、と。
そこで、ここでは、私なりの「パラダイム」と「シフト」の方向性を提示してみようと思う。
もちろんそれは「近代」から私の言う「環境時代」への「パラダイム」の「シフト」についてである。
次表がそれで、左側の縦の欄に並ぶ項目が物の見方であり、真ん中の縦の欄が私の考える「これまで(近代)のパラダイム」、右の縦の欄が「これから(環境時代)のパラダイム」である。
それらを、共にキーワードをもって示す。
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これまで(近代)のパラダイム |
これから(環境時代)のパラダイム |
自然観 |
空間は無限。資源は無限。エネルギーも無限。自然は人間が幸福になるためにある。人間が自然を支配することを神から託された。 |
空間は有限。資源も有限。エネルギーも有限。人間が安心して住めるのは地球だけ。自然によって、他生命によって人は生かされている。 |
世界観 |
各国は自国の利益最優先。自国の安全保障最優先。「自衛のため」は正義。 時代の特徴は、戦争・紛争・テロ・難民・飢餓。 |
「人類にとっての共通の価値そして大義」(K.V.ウオルフレン)の尊重。「人類全体に対する忠誠」(故ネルー)の尊重。 時代の特徴は、平和・安定・共存・共感。 |
社会観 |
社会とは、弱肉強食の生存競争の場。 男性優位は当たり前。 |
老若男女、富める者貧しき者も、健やかな者も病める者も、あらゆる人々の共存の場。 |
人間観 |
力ある者、多数を占める者、優秀なる者がそうでない者を支配し統治するのは当たり前。 |
どんな人間も、その人でなくては果たせない役割と意義は必ずある。決して侵されてはならない権利と尊厳もある。 人は皆、個性も能力も違うということが最大限尊重されるべき。 |
価値観 |
人間(市民)の自由・平等・友愛・財産。民主主義。 |
多様な生命の自由・平等・財産。 生命主義 |
経済的諸制度 |
資本主義、グローバリズム、 新自由主義、競争主義 |
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社会的諸制度 |
富者・権力者優遇の諸制度。 |
人権と尊厳が最優先された中での相互扶助制度。 |
エネルギー |
化石資源。化石エネルギー。 |
再生可能資源。太陽による自然資源 |
価値の源泉 |
モノ。カネ。量。利益。収益。モノによる利便性。モノによる快適性。モノの豊かさ。眼に見える物。計量できる物。評価できる物。人間だけの自由と平等と友愛。人間だけの幸せ。 カネにならないものは無価値で無用。 進歩。発展。知識。技術。機械文明 |
自然。生態系。質。心。思いやり。支えあい。分かち合い。共感。 目に見えないもの、見えにくいもの、評価し得ないもの、測れないもの、掛け替えのないものにこそ価値がある。 知恵。技(わざ)。地域の文化。 |
生産の動機 |
生きるためにつくり、生きるために食べる。 |
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生産の源泉 |
生産者は企業・資本家・工場。 自然は人間の欲望充足の手段であり加工の対象。世界の需要と消費。市場。 |
生産者は自然であり生態系。需要にあった生産。生産の速度に見合った消費。 |
生産方法・様式 |
均一化。単一化。画一化。規格化。一元化。専門化。量産化。機械化。高速化。効率化。 オートメーション。少品種大量生産。 大量エネルギー使用による生産。 使い捨て。外部依存。 |
多様性。共生。循環。再生。節約。 再利用。 大衆による生産。多品種少量生産。 少量エネルギー使用による生産。 自己完結。自給自足。 |
生産手段のあり方 |
集中。集約。集権。大規模化。機械化。巨大化。自動化。私有化 |
分散。分権。共有化。身の丈の規模。 |
自然と社会と人間 |
相互分断。細分化。孤立化。局所化。序列化。差別化。人間の疎外化。 |
人は自然によって生かされ、社会は自然によって維持されている。 統合。整合。連続。不可分。全体 |
人間関係 |
分断。孤立化。競争。管理。支配。 収奪。イジメ。虐待。自己破壊。不信。不安。絶望。空疎。脆弱。 |
支えあい。励ましあい。共感。信頼。 平安。充足。希望。誕生。自己再生。 強固。 |
視野に置く時間の長さ、変化の見方 |
今。現在。目先。刹那。直線的上昇志向 |
永続。持続。未来永劫。循環。螺旋階段的上昇志向 |
個々の人間 のあり方 |
脆弱。虚弱。性急。飽きっぽい。 攻撃的。暴力的。寄生的。他力依存。 ねたみ。 |
やさしさ。寛容さ。共感力。思いやり。忍耐。非暴力。誠実。 |
宗教的背景 |
無矛盾で、無用なものなどなく、すべてが調和の関係を保つ自然への崇拝。 |
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永続性 |
なし |
あり |
つまり、これからの環境時代という新しい時代に求められている新しい人間像とは、上記表の右欄に掲げるような新しい思考の枠組みを我が物となし得た人々のことと考えることができるのではないか。
では、こうした環境時代に求められている新しい国際人像とはどういう人間を言うのであろうか。
それは、根底にこうした考え方を秘めながら国際平和のために惜しみなく活動を続けようとする人のことである、と私は思うのである。
もちろん、両者は共に、「新しい市民」でもある(4.1節)。
以上をまとめると、これからの環境時代において「求められている新しい人間像」とは、自国の正しい歴史や文化を明確に踏まえてアイデンティティと誇りを堅持しながらも、しかし偏狭なナショナリズムや一国主義に陥ることなく、また、人間個々人だれもが尊厳ある存在であることをも忘れずに、嘘や虚偽を排除して絶えず真実を求めながら、どこの国の人間であるとか民主主義の次元をも超え、人類全体にとっての共通の価値・大義・正義とは何かをも絶えず求め、それらを実践して行ける人間のこと、となるのではないかと私は考える。
そのとき「新しい人間」は、「新しい国際人」ともなり、「新しい市民」ともなるのである。