LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

10.3 学校教育の究極の目的------「その2」

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10.3 学校教育の究極の目的------「その2」

 そこで、本節の最後に、次のことを考え、その延長線上で、“求められる人間像”としての「小中学生」版を考えて終えようと思う。

これに関連しては既に6.1節と2節でも述べて来たが、そちらは「大人」版である。

 その場合先ず考えてみたいことは、この国では、学校を取り巻く環境の中で、何気なく、よく用いられる「あの子は頭がいい」という言い方についてである。

そもそもそこで言う「頭がいい」とは一般にどういうことを意味するのであろう。

私が推測するに、それは、せいぜい、学校で行われる一片の紙の上での画一試験の成績がいい、というぐらいの意味でしかないのではないか。

そしてそれは、これまで述べて来たこの国の学校教育の実態から直ちに判断できるように、教科書に書いてあることを、あるいは先生が授業中に教えたことを、それがたとえどんなに断片的な知識でしかなく、人生を生きる上でほとんど役に立たないことであろうとも、とにかく、ある限られた時間内で、他者よりもより多く正確に記憶することができるという程度の意味でしかないのではないか。しかもそこでは、その児童生徒の固有の能力、たとえば、音楽的才能、絵画的才能、文学的あるいは詩的才能、運動能力、手先の器用さ、精神的強靭さや粘り強さといった能力は一切考慮されない。

 つまり、「頭がいい」とは、ほとんどの場合、物事を「知識」として記憶する能力がすぐれていることのみを意味しているのである。それはいわば「知性」においてすぐれているということだ。そしてそこでは、判断する力も問題とされてはいない。

 しかし、人間である以上、誰でも、記憶したことは、いつか必ず忘れるのだ。その点、記憶すること、それも膨大な知識や情報を記憶することにおいては、どんな人もコンピュータには叶わない。しかもそのコンピュータ能力は、ITやAIが長足の進歩を遂げつつある今、飛躍的に高まっている。だから記憶はコンピュータに任せればいい、とも言える。

むしろこれからの人間の側に本当に求められてくるのは、やはり「考える葦」としての能力であろう。その「考える」の中には、考える、創造する、想像する、判断する、決断する、そして真善美を偽悪醜から見分けられる、そして人間というものを識る、自分というものを識る、社会とは何かを識る等々、のすべてが含まれる。そしてこれらは、どんなに高性能のコンピュータを搭載したAIにも出来ないはずだ。

 だから、これからの学校教育の中での「頭がいい」は、こうした「考える葦」たり得ているかどうかで判断されるべきではないか。

そしてこれからの“求められる人間像”あるいは“期待される人間像”としての子どもたちの姿とは、知性だけではなく理性でものを考えられ、判断できる子どもであるべきなのではないか。

 ここに、理性とは、全体を統一的に捉えて綜合する能力のことである。そういう意味で、理性とは知恵の力とも言い換えられる。

 一方の知性は、ものを客観視した上で、そのものの意味や価値の問題には関わろうとはせずに、ただ事実問題に関わるだけで、ひたすら分析をし、区別してみせる能力のことである。したがって知性には、どうしてもそれだけでは一面性、断片性、抽象性がつきまとい、「知能犯」という言葉があるように、また「知(性)的な人」という表現には漂うように、あるいは「知(原文は智)に働けば角が立つ」と言われるように、どうしてもある種の「冷たさ」を伴いやすいのである。

これに反して理性は、既述のとおりで、言い換えれば「精神」の力のこと。もっと言うなら、「理想」を立てる力、そしてこの理想へ向けて現実を整え導いて行く力、と言ってもいいのである(真下真一「学問・思想・人間」青木文庫p.13〜14)。

 そしてここでは、この知性と理性という二つの言葉とその区別は、とくに今後、きわめて重要な意味を持ってくるのではないか、と私は思うのである。

それは、近代という時代は、その時代が生んだ科学が象徴するように、「知性」が主流を占めた時代であるが、これからの時代は———それを環境時代と私は呼びたいのであるが———その知性を超えて理知、さらには理性が主流となるべき時代であろうと、私は考えるからである。

近代科学は、それが知性に支配されたものであったがゆえに、人類に物質的豊かさはもたらしたものの、精神的な発達は極度に遅らせた。そして思いやりや共感力を失わせ、経済格差を激増させ、分断を促進してきた。核兵器というそれを生み出した人類自身を滅亡に導きかねない兵器をも生んできた。また、それが創り出され、用いられたなら、地球と世界に対して、大混乱を招いてしまう生物を創り出す技術をも生んできた。コピー生物(クローン)、デノム編集のことである。

 そこで、これまでの説明だけでは知性と理性の違いが理解しにくいと思うので、ごく身近な一例を取り上げて、私なりに知性で問題を捉えるとはどういうことを言うのか、また理性で問題を捉えるとはどういうことを言うのか、その違いを少しでも明確にできるよう努めてみようと思う。

 取り上げるのは、最近よくメディアでも取り上げられるようになった「セクハラ」と「パワハラ」をめぐる問題である。

メディアも、あるいは日本政府自体も、こうした問題の取り上げ方は、もっぱらその問題が生じた時だけ、それも目の前に起っている事実としての現象のみに着目し、それに対処しようとするだけである。つまりセクハラ、パワハラという言葉を区別しながら、セクハラやパワハラが人間あるいはその尊厳にもたらす意味やその深刻度の問題には関わろうとはせず、さらにはなぜそうした問題が生じてくるのか文化的、歴史的な経緯にまでは立ち入ろうとはせずに、個々に状況・実態を分析し、その結果として個別に対応する方法を整備して終り、すなわちそうすれば事態に対処できるであろう、としているだけのように私には見える。

 実はこれこそが「知性」で問題を捉える場合の対処法だったのではないか。

 一方、理性による対処法はこれとは違う。

 セクハラやパワハラという現象は何も企業内で生じているだけではなく、日本中に見出される現象であることに先ず注目する。そして同時に、日本でのそれらの現象は今に始まったことではなく、もっとずっと以前からあったではないか、と歴史にも目を向けるのである。

 たとえば、日本の旧軍隊、とくに陸軍内では、上官がその地位を利用して、兵隊を、「鍛える」という名目の下、殴る・蹴るを常態として来たではないか、と。小中高校でも、教師が生徒を、「教育する」を理由にして、ビンタするなどという行為を頻繁に繰り返して来たではないか、と。多くの家庭でも、とくに父親が「躾」と称して子どもを殴るなど、どこの家庭でも普通に見かけられたではないか、と。そもそもそうしたことはなぜ起こりえたのか、と。そしてこれらもすべて、れっきとしたパワハラではないか、と判断するのである。

 また、通りすがりの見知らぬ女性に向って、男が、「姉ちゃん、綺麗じゃないか。オレと遊ばないか」との声を浴びせかけたり、かと思えば自分の気に入らない女性に向って、「このブス!」とばかり罵声を浴びせかけたりすることもれっきとしたパワハラもしくはセクハラなのではないか、と判断するのである。

 また、日本では、戦時中、軍当局も政府自体も集団レイプの後押しまでしていたのである(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないか」p.169)。これらもすべて、国を挙げてのセクハラであったのではないのか、と。

また、今もなお行われている、たとえば「ミス・○○○」と銘打った、いわゆる「美人コンテスト」なるものもセクハラに当たるのではないのか、と。

 つまり、今でこそ日本のメディアや政府はセクハラだ、パワハラだという言葉を流行語のように使っては社会現象を問題視するが、こんな言葉は知らなくとも、日本人は、少なくとも、明治期以来、軍隊でも企業でも家庭でも学校でも、当たり前のように、これらに当たる行為を平然と繰り返して来たのではなかったかとして、先ずは現象の一部だけを見るのではなく、出来る限りその真実の全貌や歴史の全体に迫ろうとするのである。その上で、なぜこれらの現象が日本中に見られたのか、とその理由と原因を追及するのである。

それに、このセクハラもパワハラという言葉も、日本人自身あるいは日本政府自身の発想やその政府の日本の歴史への反省と人権意識から生まれた言葉ではなく、ここでもまた外国の用語を適切な日本語に翻訳すること無く用いているだけでしかない、ということにも着目するのである。つまり、もうその時点で、セクハラやパワハラの本質に迫る態度をこの国のその方面の専門家は放棄しているではないか、と。

 さらには、理性を持って事態をじっと見ると、さらに次の問いをも発せざるを得なくなるのである。

セクハラだ、パワハラだとは言うが、ではこれらは日本でずっと続いて来ている「イジメ」とどこがどう違うのか、と。むしろ根本においては、他者の、それも、その人の人間としての権利、すなわち「人権」を、そしてその人の人間としての「尊厳」を無視し侵す行為であるという点ではどれも同じ問題なのではないか、と気付かせてくれるのである。

だからそれらは互いにバラバラに捉えて見るべきではなく統一的に捉えるべきで、そうすることで初めてそこに統一的な意味付けもでき、また評価や批判もできるようになる、とも気付かせてくれるのである。またその結果として、それを克服するための統一的で根本的な解決策をも見出せるようになるのではないか、とも気付かせてくれるのである。

 ともかくも、この国では、歴史を振り返って見ると、少なくとも明治期以降今日までずっと、文部省・文科省の官僚主導の教育行政は、全国の児童生徒に対して、彼ら一人ひとりの個人としての性格すなわち「個性」はもちろん「人権」や「尊厳」を尊重する教育は敢えて避け、自由や平等そして正義よりも秩序を、自分の意見を持ってそれを主張することよりも他者と協調することの大切さしか教えて来なかったのである。

だから前節(10.2節)でも述べたように、今日に至ってもなお、政府を構成し、民主主義政治を先に立って行わねばならない政治家でさえも、個人としての人権意識もまともに育っていなければ、共同体である社会の構成員の個人としての社会的「責任」感覚もまともに育っていないのも当然である。つまりそういう教育が、この国を世界に通用し得ない国にしてしまったのだ。しかしながら、それは歴史的にそのように仕立て上げられて来たものである、とも気付かされるのである。

 理性をもって問題を捉えようとするとは、たとえばこういうこと、こういう態度を言うのではないか、と私は考えるのである。

実際、私だったら、そう捉える。そしてそう捉えることによって、セクハラ・パワハラ・イジメ・虐待・引きこもりの相互間の問題だけではなく、他の社会的・政治的・経済的な諸問題をも、個々バラバラに、それも上辺だけでというのではなく、統一的かつ根本的に解決できる策が見出せるようになるのである。

 これまで述べて来たこれからの学校教育の究極の目的とは、別の言い方をすると、児童生徒一人ひとりをそうした理知を兼ね備えた子どもに育てることでもある、と私は考えるのである。

 そこで、次が私の考える、“求められる人間像”あるいは“期待される人間像”としての「小中学生」版である。

○周りにいる一人ひとりは、あるいは地球上の誰も、個性も能力もみな違い、自分を含めて、誰も、掛け替えのない命を持った人間なんだということを心と体で理解し、納得できる子ども

○どんなに自分と違った相手でも、いつでも、どこででも、人間として、その存在価値を認めることのできる子ども

 また、人以外の他生命に対しても、たとえ人間は知り得なくても、その存在価値・意義はきっとあると想像でき、その生命を尊重できる子ども

○自分が今しようとしていることが他生命をも含めた他者にどのような影響をもたらしうるかを自分で考えることのできる子ども

○自分と他者とを比べたり、他者の真似をしたりすることは無意味である、と自ら判断できる子ども

○他者の痛みを想像し感じ取り、手を差し伸べられる子ども

○人間であること、人間性、人間の基本的権利等々に旺盛な関心を持てる子ども

○社会の既存の価値観、社会の既存のしくみ、既存の習慣などを「当たり前」として片付けてしまうのではなく、あるいは無関心なままにしてしまうのではなく、いつでも、「それは本当に必要なこと?」「それは本当に正しいこと?」「なぜそれがなくてはならない?」等々と、自らに問いかけ、考えることのできる子ども

○「読む・書く・聞く・話す」ことが先ず正しくできるようになることを通して、物事を情緒的に見るだけではなく、必要に応じて、分類し、分析し、推論し、判断し、それをさらに綜合するという論理的思考を通して自分の考えを組み立て、それをきちんとした母国語で説明のできる子ども

 また、そのことを通して、自己のものの見方や考え方を鍛え、自分の思想を持てる子ども

○物事に無関心になるのではなく、目の前の問題を問題として受け止めることの出来る子ども

またその問題に対して、単に○か×か、あるいは「判らない」として済ませてしまうのではなく、正解があるかどうかも判らない問題でも、自ら考え、自らの判断に基づいて、自らの結論を下せる子ども。そして自ら下した結論とその言葉に対して責任を負える子ども

○目先のことよりも未来のことを、断片的な知識を覚えることよりも大きな流れを捉まえようとする子ども。つまり、些細なことよりもむしろ、全体を捉えようとする子ども

自然や社会や人間についても、それらをバラバラに捉えるのではなく、互いに関連づけ、全体を統一的・体系的に捉えられる子ども

○悪いことは悪い、正しいことは正しいと自ら判断でき、たとえ少数派になろうと、あるいは自分一人になろうとも、それを、批判されることを恐れずに、人前でも堂々と主張できる子ども

○問題が自分の目の前に生じたとき、それをうやむやにせず、また見て見ぬ振りをせず、その問題を解決・克服するために、互いに対立を恐れずに、馴れ合いや安易な妥協を排除し、互いの意見を出し合い、みんなで納得行くまで議論し、みんなで目標を定め、それぞれの能力や適性に応じた役割分担を決め、決めた方向にめいめいが責任をもって動き、みんなで定めた目標をみんなで協力し合って実現させて行く、という問題解決の仕方が出来る子ども。そういう意味で協調性のある子ども。またそのことに歓びや希望そして誇りを見出せる子ども

○自分の立っている今は過去のあらゆることの帰結であるとしっかりと理解でき、そのとき過去の非人間的行為についてもそこから眼をそむけることなく、そこから教訓を引き出し、その教訓を心に刻みながら、未来を見つめられる子ども

○「文化」ということの意味と役割を理解でき、自国の自分の地域の文化だけではなく、他地域の文化、他国の文化をも、共に同等に尊重しうる子ども

○パソコン内でのゲームだけで遊ぶのではなく、「現実」の自然、それも出来るだけありのままの自然に出来るだけ幼い頃から分け入り、そこで友と遊び、その中で、動物的直感を豊かに育てると同時に動物的反射動作がとれるようになるとともに、「現実」と「架空」の違いをきちんと識別できる子ども

○自分が窮地に陥ったとき、あるいは自分のしたことや関わったことに責任を問われたとき、他者に対してだけではなく自分にもいい訳をしない子ども

○自分の利益のために、知識の過った活用をしない子ども