LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

13.5 科学と技術

13.5 科学と技術

 これまで「ハイテク」すなわちHigh Technologyと言われて来た技術とは、その実、どれも、例外なく、限りなく高速化され、大容量化されながら小型化されたコンピューターに全面的に依存したメカニズムとシステムを持った技術のことだった。

 また、ハイテクとまでは行かなくても、いわゆる近代技術といわれる技術一般についてみても、それらは、そのほとんどが、個別対応型であり、それも対症療法的に一部分だけを最適化させることのみを狙った技術であり、その技術は、その部分だけに着目すれば、あるいはその技術を開発した企業だけから見れば、いかにも経済的「合理」性を満たし、コストを安く抑えられる技術であるかのように装おったものであることを特徴としていた。

 

しかし、その技術も、確かに一方ではより広範に人々に便利さや快適さをもたらしはしてきたが、他方では、経済的「合理」性が最優先されるがゆえに、その技術によって生産された商品が消費者の手に渡って使われた結果、それがその消費者の人間としての心身にどのような影響をもたらすのかということはもちろん、それが用いられることによって社会全体に対しても、さらには自然や生態系に対してどのような影響をもたらすかということについても、生産者としては全く関心も責任も持たないものだった。

 

 結果として、その技術が生み出した製品は、人間一人ひとりをして、概して次のような傾向を生んできた。それは、根気の要ることや手間のかかることを「めんどくさい」として敬遠する傾向であり、我慢することや待つことができなくさせ、努力することや継続することを避けようとする傾向であり、経過や経緯を問うことなく結果のみをすぐに求める傾向である。これは一言でいえば、心身を虚弱にもしてしまっているということだ。

 また、他者を思いやる力や想像する力を失いつつある傾向であり、自己中心的あるいは利己主義的にさせてしまう傾向であり、その結果、一人ひとりをますます孤立させてしまうといった傾向である。さらには、創造力や思考力をどんどん失いつつある傾向、好奇心や探究心をますます失いつつある傾向といったことや、その地の気候風土や歴史の中で培われて来た人間関係を円滑に保って生きるための智慧とも言うべき伝統の生活文化にますます無関心となる傾向といったことも挙げられるように私は思う。

 こうした傾向の結果、どうしても自然に対して傲慢になり、自身も傲慢になり、先人たちがずっと抱き続けてきた人智や人力を超えたものへの畏敬の念や謙虚さを忘れさせてしまうから、かえって危機を招いてしまいかねなくなっている。また実際に招いても、対応し得なくなってしまっているのである(7.4節)。

 今日、世界が地球規模の温暖化や、同じく地球規模での生物多様性の消滅という事態を招き、その結果として人間あるいは人類が生きてはいかれない環境にしてしまっているというのも、こうした傾向の結果ではないか、と私は思うのである。

 

 すなわち、近代が生み出した科学に基づいて、技術が生み出した物は、一見したところ、人間にとって便利で快適なものとは映っても、それは目先の狭い範囲内でのことであって、広い意味でと、長い目で見れば、自身の心身を虚弱にはするし、社会を住みづらくしてしまうし、自然を汚したり壊したりしてしまうものでしかなく、そんな傷んだ社会を修復したり、破壊された自然を蘇らせる上では、人類全体でコストを支払わねばならなくなるために、これほどコストの高い技術はない、と言えるものだった。

 そして、そうした特性を本質に持つ近代の技術が生み出した典型的な工業的産物が、自動車であり、コンピューターであり、超々高層ビルであり、原子力発電であり、インターネットであった、と私は考えるのである。

 では先のハイテクについてはどうであろう。

少なくとも、今日特に注目しなくてはならないハイテクと呼ばれる分野の技術としては、例えば遺伝子組み換え技術、ゲノム編集技術、クローン技術であり、AI(人工頭脳)技術が挙げられるのではないかと私は思う。

 これらのどの技術も、人類の将来にとっては、極めて深刻な問題を引き起こすと私は大変危惧するのであるが、その中でも特に人類の将来に大混乱をもたらすと確信するのがゲノム編集技術、またはゲノムテクノロジーと呼ばれる技術である。

その技術とは、生物の持つすべての遺伝子情報であるゲノムを正確に書き換える技術であって、生命そのものを思い通りに作り変えることを目的とした技術である。

それに対して、遺伝子組み換え技術は、複数の生物の遺伝子(DNA)を人工的に合体させて、全く新しい遺伝子の構成を持った生物を生み出す技術である、あるいはある生物が持つ遺伝子の一部を、別の生物の細胞に導入して、その導入した遺伝子を発現させる技術のことである。

 しかし、ゲノム編集技術は生命そのものを思い通りに作り変えることを目的とした技術とは言っても、それはあくまでも元々の生物の細胞の中に含まれるDNAという、遺伝子本体の配列の一部を、切った、貼ったを行っては、こちらの思い通りの生命体を作ることを目的とした技術であるから、その技術は、決して「生命を創造する」技術というものではない。生命の根源であるところの遺伝子そのものを人間が創るわけではないからだ。

いかに科学が進歩し、技術が進歩したところで、人間は自ら独自の遺伝子を創ることなどできるわけはないし、したがって生命を独自に創ることなどできるわけはない。言ってみれば、生命の根源である既存のDNAを単に弄り回すだけの技術なのだ。その意味で、ゲノム編集技術は、最初から、私たちヒトが太古から生かさせてもらって来ている無矛盾で完全無欠なシステムから成る自然を明らかに冒涜する技術であると言える。

 しかし、この技術はヒトを含むすべての生物の間で使うことができるとする技術であるところが問題なのである。

 それはどういう意味で問題と考えるか。

生命そのものを思い通りに作り変えられるとしたなら、いずれ必ず、かつてのナチスが採った「優生学」という発想が生まれてくるだろうからだ。

「人間の尊厳」とか「多様性」、そして「人間の幸せ」という概念は消滅してしまうだろうからだ。「教育する」とか「努力する」という考え方も無意味化させられてしまうだろう。

人間にとって何が大切で、何がそうでないか、その判断基準をも失ってしまうだろう。

そして社会には、人間相互の「競争」がもっと激化して、ホッブスが言った「万人の万人に対する闘争」状態を生んでしまうだろう。

 つまり人類が「進歩」という名の下に、歴史の中で営々と築き上げてきた人間と社会と自然に対する価値概念が、ここへ来て、あっという間に、ことごとく無意味化されてしまうという事態を生むのではないか、と私には体が身震いするほどの不安を感じるからである。

 

 ここで私には次のような根源的な疑問が湧いてくるのである。

それは、木の葉一枚創れない人間、生命体を巡り、その生命を支える血液そのものを創れない人間が、生命そのものを無から創るのではなく、生命の根源とも言える遺伝子を、人間の都合だけでいじり回すことによって人間だけに好都合な生物を作り出すなどということが、果たして、人間を生かしてくれている自然から許してもらえる行為なのか、という疑問だ。

 それに、人間の遺伝子への介入や生命そのものへの介入は、明らかに、人類存続のためのこれからの時代における主導原理の一つであるとする「生命の原理」を公然とそして大規模に撹乱することでもある。しかも、撹乱した結果が、人間にとって、社会にとって、そして自然にとって、どうなるかは、介入した本人でさえ全く予想も判断もつかないのだ。

というより、その技術をヒトまたは生命一般に適用した結果、そのものだけではなく、その子孫にどのような影響がどの代にまで及ぶか、また生物界での食物循環という秩序はその結果どういうことになるのか、ということにもまったく無頓着で無関心な技術なのだ。

 

 ともあれ、ゲノム編集技術は、人類が手にした技術ではあるが、今、大至急必要なことは、それの適用については、世界的にも、ひとまずは止めて、理性を持った世界の知識人たちによる、倫理的・宗教的・教育的・哲学的な観点からの議論であろうと、私は思う。

原子爆弾の開発時のように、できた以上使おう、という安易な発想は繰り返してはならないのだ。

ゲノム編集技術も近代西欧において発達してきた科学ではあったが、である以上、同じ近代西欧が生み出した「自由」の根本概念に立ち返って、適用の適不適については、そこから問い直してみるべきではないだろうか(4.1節)。

 

 そこで、では、果たしてこれからの環境時代における科学のあり方とはどうあったらいいのであろう。また技術についてはどうあったらいいのであろう。

 近代の科学のあり方、技術の在り方のままでいいのだろうか。

 4.1節には、私の考えるそれらを再定義という形で明らかにしてきた。

重複するが、それを改めてここに示す。

 

「環境時代の科学」: 「近代」の科学は、見えるもの・計量できるもののみを対象としてきた。そこでは、フランシス・ベーコンが言ったように、なるほど「知は力なり」だった。その知は悪の力にも善の力にもなり得た。近代の科学は、その知あるいは知性の産物でしかなかった。知性は、事実を事実としてはっきりさせるという力であり、物を客観視した上で理論的に分析する能力であり、価値の問題には関わろうとはしないし、特にその物の価値を判断することは避けた。それだけに近代の科学は、例えば大量殺人目的であれ、どのような目的にも奉仕してきた。

 近代という時代の科学とは、たとえばその代表格である自然科学をとってみても、それはあくまでも自然を観る無数の見方のうちの一つにすぎなかった。

それなのに、それは、客観的で、中立的で、普遍的な、唯一の正解をもたらすものだ、と科学者にも世間一般にも信じられて来た。

 そこでは、自然の中の多様な相互関連性・相互作用は無視され、一切の外乱が入らないようにして事象を最も単純化させた条件下において、部分を足し合わせればいつでも全体になるという仮説の下に、対象となる自然をバラバラに切断し、時間の経過を無視し、質を無視して、量的関係だけに着目してきた。

しかも近代の科学は、「資源は無限」、「空間は無限」という仮定を前提として、己の限界を知ろうともせず突き進んで来た。科学者も、その一人ひとりは、自分も、自分の遠い祖先も、またこれからの遠い未来の子孫も、いま向き合っているその大いなる自然に生かされて来たこと、生かされて行くことをも忘れて好奇心の赴くままに突き進んで来た。

 しかし、ポスト近代としての環境時代の科学は、近代の科学とは明確に違う。

そこでは、自然あるいは生命一般は見えるモノと見えないモノとの統一物として存在していること、さらには、見ているもの着目している部分はあくまでも自然・社会・人間から成る全体の一部であり、その部分は全体とつねに統一されていることを明確に意識しながら、その対象とする部分を、全体との関係においてつねに動的に、つまり時間的変化を考慮する中で、分析と綜合を一体不可分にして、生き生きとした姿のままに、法則として認識しようとする、人間の自然とのよりよい共存の姿を求める行為となる。

 つまりこれからの環境時代の科学とは、単なる知性の産物あるいは科学者の単なる知的好奇心の産物としての科学ではなく、また軍需を含む産業界からの要請に基づく科学でもない。またその成果についても、直ちに公にできるというものでもない。

 先ずは、その成果が自然と社会と人間に対して適用されたなら自然と社会と人類の遠い将来にわたってどういう結果がもたらされうるかを、その成果の限界を誰よりもよく判っている当の科学者自身に判断が託される。次いで、その判断を参考にしながらも、その成果を世に出すべきか否かについて、遠い人類の利益と大義の観点から厳正中立に審議するための第三者機関が設立され、その機関での議論が公開のもとでなされる。その上で、その成果の扱いについての審判が最終的に下される、というしくみを持った科学となる。

 たとえばゲノム編集技術によって作られた生物あるいはクローン(コピー生物)について見たとき、それが作った当人あるいは人間社会に利益をもたらすか否かを考える以前に、作られた人間であれ他動物であれ、自分の親が誰なのか判らない苦しみ、自分を愛してくれる者がいない淋しさ一つ人間として想像してみただけでも、その成果の適用の反人間的・反感情動物的な意味が判断できるのである。

 核の抑止力の上に立った東西冷戦や核拡散防止条約の有名無実化に見るように、原爆や水爆、生物兵器化学兵器が一旦つくられてしまえば、消滅させることはほとんど不可能となるという歴史の真実や、「覆水、盆に返らず」という格言から教訓として学ぶ必要があるのである。

 

「環境時代の技術」:これまでの近代の技術とは、近代の科学に支えられながらも、生産者の立場が優先され、生産者が作り出した製品を利用する立場の人をあくまでも「消費する者」と位置付けた上で、「生産性・効率性・コスト削減」を最優先する考え方の下に、そして「画一品を規格化しては大量生産」するという考えの下に、さらには、その製品は人が人間として生きてゆく上で本当に必要な物か否かということなど全く考慮することなく、捨てられた後には自然や環境はどうなるのかということなども一切考慮することなく、またその製品が生態系に撒かれたなら生態系はどうなるかということも一切考慮することなく、「とにかく商品として売ってしまえばおしまい」という考え方の下に、消費者には、「もっと便利に、もっと快適に、もっと豊かに」とその心理を煽り立てて消費行動を促しては、それを満たすために、地中深くから化石エネルギー資源や鉱物資源を掘り出して大量に浪費し、廃棄させる技術だった。そしてその結果、生じたのが既述の「環境問題」だった。

 環境時代の技術はそうした人類の死活に関わる環境問題を引き起こした技術と明確に異なる。というよりそのような技術のあり方とは正反対に、いたるところで遮断され、また分断された自然を、統合された自然へと再生し、修復し、復元することをつねに念頭に置きながら、先に定義された科学の諸結果を、特定の物の生産現場において意識的に適用する技術である。そしてそれは、「人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」(武谷三男著作集 第1巻 勁草書房 p.139)とする旧来の技術の概念をも「環境時代」という新しい概念の中で止揚するのである。

 それは言い換えれば、究極的には、人間社会と自然を連結した一つの熱化学機関として蘇らせながら、地球表面上に溜まりに溜まった廃物と廃熱を処理し、地球そのものを最大の熱化学機関として蘇らせると同時に、その廃物と廃熱に付随して生じて地球上に溜まりに溜まった余分のエントロピーを宇宙に捨てられるようにする技術である。

 だからその技術は、人間の身の丈のスケールをはるかに超える巨大技術や宇宙「開発」技術でもなければ、同じく人間の身の丈のスケールをはるかに下回るマイクロテクノロジーでもナノテクノロジー(ナノとは1ミリメートルの100万分の1)でもない。どこか一部でも故障すれば全取っ替えしなくてはならないような、資源の大量浪費を不可避とする技術でもない。

むしろそれは、人間の誰もが持っている掛け替えのない体の一部の機関である「頭」を良く働かせ、「手」「指先」を器用に働かせ、「労働の歓び」「達成感」をもたらす技術である。それはむしろ、この国のかつての「匠」の「技(わざ)」、ドイツの「マイスター」の「技」に近い。そしてそれは、人間を全的な人間として成長させ、持続的な幸福をもたらすための手段ともなる技術である。

 もちろん、原爆や水爆、そして化学兵器生物兵器のように、ひとたびつくられ使用されたなら地球上の生物を死滅させかねないものであるはずもない。

 そしてそれは、詰まるところ、私たちが生まれ住んでいるこの地球は、この広大無辺な宇宙の中で、現在判っている限り唯一無二の奇跡の惑星、水の惑星であり、私たちが気軽に裸でも生きられる星は宇宙広しといえどもここしかない、ここでしか私たちは命を未来へと繋いでゆくことはできないという認識に立った技術である。

 現代版「ノアの方舟」と思われる「宇宙開発」や「宇宙ステーション」などという発想はほとんど無意味、というより宇宙空間を廃物と廃熱で汚して有害だし、そのようなものに期待を抱かせるのは罪でさえある、と私は考える。