LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.3 農業と工業の本質的な相違—————(その2)

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11.3 農業と工業の本質的な相違——————————(その2)

 本節の(その1)では、私の体験に基づいて、農業の本質とは何かということを述べて来た。

今回の(その2)では、それに続いて、やはり私の体験に基づいて、私の考える工業の本質について述べてみようと思う。

 ただ、それに先立って、読者の皆さんには少しでも参考になればと思い、既述の農業の本質に加えて、サラリーマン生活とほぼ同等の期間、私が従事してきた農業を土台にした生活を通して実感した農業を行うことの素晴らしさとか魅力ということについても述べておきたいと思う。

 それは次のようになる。

◎農業あるいは農作業は、何と言っても自分にも家族にも、生きる上で絶対不可欠な「喰い物」をもたらしてくれる。

 それも、新鮮そのものの喰い物を、である。

その場合も、私のつくる完全無農薬で完全無化学肥料栽培による米や野菜であれば、製造方法や成分がどれほど安全かどうかも不明な化学調味料など使わなくても、あるいはいろんな「味付け」などしなくても、それ自体で、家族みんなで、十分に美味しく食事が出来る。

 だから我が家では、食事の準備の際に用いるのはもっぱら塩か醤油、そしてミリンか料理酒のみ。砂糖はまったくと言っていいほどに使わない。

その塩も醤油もミリンも料理酒も厳選している。塩はいわゆる「食塩」はダメ。できる限り海水から水分だけを飛ばした、多種類のミネラルを含んだもの。醤油は、日本古来の伝統製法によるもので、最低3年以上かけてつくったもの。ミリンはもち米と米麹と米焼酎だけから作ったもの、料理酒は米と米麹だけから作ったものである。

 それだけでも、長い年月の間では、そうした食生活に無頓着な場合と比べて、どれほど健康面———そこにはアレルギー面も含める———に違いが出てくるか知れないと、私は考える。

◎ 農業あるいは農作業は、「喰い物」をもたらしてくれるだけではなく、その過程において、それだけで自分の心身を共に健康にしてくれ、活力を与えてくれる。

 農業は、たとえばNHKの「ラジオ体操」とは違って、あるいはウオーキングやジョギングとは違って、さらにはフィットネスクラブの筋肉トレーニングとは違って、体のあらゆる部位を動かす作業を否応なく要求してくる。

 指先、手首、足首、腕の筋力(それも上腕と下腕)、足の筋力(それもとくに大腿の筋力や脛の筋力)、腰の筋力、背中の筋力、腹の筋力、肩の筋力、首の筋力等々である。それもただ一定の動かし方だけではなく、引っ張ったり、押したり、ねじったり、つまんだり、とさまざまな動かし方を要求してくる。

ピアニストで認知症になったという人はほとんどいないとはよく聞く話であるが、それは、彼らの動かす全指先の動きが、神経を通じて大脳をしょっちゅう刺激し続けるからであろうというのが理由らしい。それからすれば、草取りを含めて、指先を頻繁に動かさねばならない農作業は、認知症予防にもきわめて有効だろうと私は推測するのである。

 また、人の歩く速さは足の筋力と関係し、また早く歩けることは頭の働きを維持することにも関係しているとはよく言われることであるが、畑や田んぼの中での作業は、立ったり座ったり、中腰で移動したり、という作業が頻繁にあるために、自然と足のふくらはぎや大腿部の筋力をも鍛え、また維持してくれる。だから農業者は、他の病気を患っていない限り、足も達者だし、頭も達者でいられるのだ。

 それだけではない。農業それ自身が、頭を使うことをも否応なく要求してくる。

たとえば野菜や米などが季節ごとに、あるいは気象の変化ごとに呈する状況にその都度、即座に対応しなくてはならなくなる。野菜の種類も、私の場合には、年間およそ50種類育てているから、その育ち方はみな違う。違うそれに対応して行かねばならない。そうした対応ができないと、せっかくそこまで育って来た野菜や米がダメになってしまうからである。

そのためには、日頃から、どういうときにはどれだけの肥料をどのように与えたら、水をいつ、どれだけ与えたらいいか、また与えなかったなら、野菜はどうなるか、そして草はどういう野菜にはどれだけの背丈まで許容できるか、どういう状況になったら除去しなくてはならないか、また反対にどうすることでむしろ草の力を野菜栽培に生かせるか、等々を絶えず観察し頭に入れていかなくてはならない。それと連動して、昆虫そして土壌生物の動きをもよく観察し、どういう昆虫がどういう野菜に来やすいか、をもよく観察していなくてはならない。

 そうした状況観察に基づいて判断し、必要に応じて、即座に対策を立て、対応しなくてはならないからだ。

 こうして、農業は、体中のほとんどすべての部位の動きを要求してくるし、頭の中の動きをも要求してくる。

 私もかつてサラリーマンだった頃は、運動のためあるいは日頃のストレス解消のためと思って、週に1度は水泳に通っていたし、2ヶ月に一度は山に登ってはいたが、そのことから得られたものは、今の農作業から得られているものとは明らかに違っていた。

水泳も登山も、体の動かす部分も動かし方もほぼ定型化していて、しかもそれだけの繰り返しである。それに、「考える」ことはその都度というほどのことではない。むしろひたすら無心になって泳ぐだけ、あるいは歩くだけ、となる。

もちろん登山では、歩きながら次々に変わる周囲の景色や遥か彼方の雄大な景観を眺めては、気分を満喫させ、またストレスの解消にもなった。

 農作業は違う。体のどの部分を使うかは、その日予定している作業でだいたい決まるが、それでも、その時の状況の変化が予定外の動作を要求してくることはしょっちゅうある。

 それに、農作業から得られる効用は、体や頭脳の健康ばかりではない。精神の健康という点でもきわめて大きなものがあると私は思っている。だから毎日、熟睡ができる。たとえ前日の作業で体はかなり疲れても、一晩寝て起きれば、もう気分は爽快である。

 人類は、誕生以来、長いこと森での樹上生活をしてきたが、その後地上に降り立ってからはずっと大地、それも土の上で生きて来た。その記憶がDNAに擦り込まれているはずだ。だから人は、近代以降というたかだか200〜300年の間でどんなに科学技術を発達させたところで、またコンクリートアスファルトでその表面が覆われた都会での生活にどんなに慣れたとは言っても、それはDNAに擦り込まれた記憶に馴染めるものではないだろう。そこへ持ってきて、特に日中は人ごみの中に置かれる。だから、都会での暮らしが知らず知らずのうちのストレスになる。だから自然を求めたくなる。だから土を踏みしめたくなる。

 実際、裸足で草原を飛び回ってみれば判るように、それだけでストレスが解消されてゆくことが実感できる。ましてやヒトは、無限の多様性を示す森や自然の中にあったなら、それだけで帰るべきところに帰ったような安らぎを覚えるようにできているのだ。

今日、「癒し」とか「ヒーリング」という言葉がもてはやされるが、そうなるのは、飽くなきまでに便利さを求め、快適さを求めるが故に、周囲には自然がますます失われ、ますます人工化してゆく暮らしの中では、当然の成り行きなのであろう。つまり、一方では、生物として、ストレスを感じないではいられない人工的環境をどんどん作って行きながら、他方では、それに追いついていかれない人間の心や精神の癒しを求めているのである。

いつもアクセルとブレーキの両方のペダルを踏みながら車をどんどん走らせている、といった状況なのだ。

 それに対して農業における農作業は、何と言っても、「ただで」運動を、それも体を満遍なく最良の運動をさせてもらえるのである。お金を払って「フィットネスクラブ」に通う必要もない。「スポーツクラブ」の会員になる必要もない。またとくに「ウオーキング」や「ジョギング」あるいは「ヨガ」なども必要ない。あるいは「有酸素運動」ということに気を使う必要もない。

 また農業は、「ダイエット」もとくに必要としない。また、いわゆる「サプリメント(栄養補助食品)」を摂取する必要もとくにないだろう。良質な喰い物を多種類、バランスよく摂り、ひたすら体と頭を動かして農作業に集中している限り、人という生命体はそのエネルギー収支のバランスを自然と保ってくれているからだ———ただし、何でも機械化して、ほとんどの農作業を機械にさせてしまうことにこだわっている農業をしているような場合は、これまで述べて来たようなことが言えるかどうか疑わしい。むしろ、無理であろう———。

 こうして農作業は、その作業に集中することで、体中の部位にはいつのまにか適度な運動をさせてくれて、心地よい汗をかくことができ、体の免疫機能をもいつまでも維持してくれ、アトピーなどのアレルギーを寄せ付けず、癌などの難病にもかかりにくい体を維持させてくれるのである。

 今、科学の進歩によって、人間がより健康に生きられる生活の仕方が次々と明らかになって来ている。それにより、私たちは、どういう症状にならないためには何を喰えばいいかとか、ストレスをこうじさせてキラー・ストレスにさせてしまわないようにするにはどうすればいいかとか、体のさまざまな臓器の機能は実はこういう働きをしている、等々といったことが次々と明らかになって来た。

確かにそうした新情報や新知識は、それを積極的に生かして行ったなら、私たちに大きな効能と効用をもたらしてくれるだろう。しかし私たちはその分野の専門家ではない。私たち一般人は、専門分野で明らかになったそれらの知識の一つ一つをいつでも頭に思い浮かべては活用できる、などということは普通は出来るものではない。学校時代の授業もそうである。授業を聴いているときには判ったようなつもりになっても、二、三日後には大抵は忘れてしまっているのだ。

それに、それらの新情報や新知識は、心と体が融合して成る人間というものの全体に目を向けたものではなく、あくまでも体の一部分を最適化することだけを視野に置いた情報に過ぎないのである。

 そのことに気付けば、我が身に起ってしまってから、生じてしまってからではなく、起る前、生じる前に、いつも少しだけ心がけて対処している方がはるかに賢明だということが判るのである。

その方が、精神的にも肉体的にも苦しまなくて済むし、莫大な出費をしなくて済むからだ。

周囲にも心配かけなくて済む。

 目の前の食材を用いた料理をそれを食する人に美味く感じさせることは、味を調整できる材料によって、本職の料理人であればあるほど、いくらでも可能なはずだ。

しかし、もしあなたができるだけ長いこと健康で長生きしたいということを真剣に願うのなら、運動が大事とか、睡眠が大事とか、はたまたサプリメントを摂ればいいとかを考える前に、また、喰う物が「美味い」とか「美味くない」とかに拘る前に、目の前の料理が、あるいはそれ以前にその料理に用いられた食材そのものが、何を使って、どのようにつくられたものであるかということにもっと関心を持つべきではないか、と私は思う。つまり食材の質についてである。それは決して、見た目のことではない。

 なぜなら、既述したように、ヒトに限らず、生物はすべて、その体は、それまでにその生物が食べて来た物によってできているはずだからだ。きるだけ長いこと健康でいたいと本当に願うのなら、この絶対の真理は絶対におろそかにしてはならないと私は思う。

◎ 農業は、それも機械にできるだけ頼らない農業、農薬を使わない農業、化学肥料に頼らない農業を目ざそうとすればするほど、ものの考え方についても生き方においても、自分を自然に対して謙虚にしてくれる。

 これまで私は、大学では自然科学(物理学)を学び、大学院では応用物理学(航空工学)を学び、技術を身につけて、それをもって企業で仕事をし、生活させてもらって来た。その過程では、学び取ったその知識を武器として用いてきた。仕事上のだいたいの対象物については、予め計算し、必要に応じて最小限の、それも不確定要因ないしは撹乱要因が入り込まない理想化した条件をつくった上で実験をして理論の正しさを検証し、その結果にもとづいて物を作れば、それでほぼこちらの予想どおりの物を作ることができた。

そしてそうした対処法は、条件さえ揃えば、再現性が効き、時期を選ばなかった。

つまり、そうした過程を経れば、自然は自分の思いどおりになる、と思って来た。

 しかし農業に転じてみて、農業はそれとはまったく違うことに気付いた。

 野菜は、そして米も、栽培するその時期を逃したら、来年まで機会はやって来ない。あるいはその時、野菜づくりや米づくりで病気に襲われたり災害で被害を受けたりしたなら、再度試みられる機会は来年までないのだ———春野菜の場合には、それを逃しても秋には再挑戦ができるが———。

 “今は雨が欲しい”、と思っても、それは叶わない。“今、霜が来てもらっては困る”、と思っても、そのとおりにはならない。“これだけのことをすれば、後は、お米は今年は穫れるだろう、野菜もちゃんとしたものが穫れるだろう”とは思っても、台風に遭えば予想はあえなく外れる。“これだけ台風対策をしておけば大丈夫だろう”と思っても、台風の過ぎた翌朝行けば、畑はズタズタになっている。

“肥料は十分に入っている。土もできている”とは思っても、日照りにはやられる、紫外線にはやられる、虫にはやられる。“これだけ虫除けシートをかぶせておけば大丈夫だろう”とは思っても、いつの間にか虫がたかっている。・・・・・・。

 雨が長いこと降らなければ自分で水を運び、注水しなくてはならない。でもその効果は天水に比べたら知れている。

 つまり人間は目の前の事態を少しでも良くしようとあがくが、人間の力など、自然の持つ力に比べたなら、本当に微々たるものだと感じさせられる。というより、こちらがどう思おうと、自然はまったくおかまいなしなのだ。自然は容赦ないし、それだけに謙虚にならざるを得ない。

 そんな中、私はいつも思う。“他生物たちは本当に偉い、頭が下がる”、と。

人間は、少し気温が上がると“暑い”と言い、少し下がると、今度は“寒い”と騒ぐ。

少しの間水を飲めないと“喉が渇いた”と訴え、少しの間喰いものを喰わないと“腹が減った”と騒ぐ。また同じ状況を強いられたり続くと、すぐに飽きる。

 土壌微生物や土壌表面上に生きる昆虫や野生動物たちは、真夏、直射日光が照りつけてどんなに暑くても、そして土が乾き切って土中に水気のない期間が続いても、また冬、大地が凍りついても、雪に覆われて喰う物がないときでも、人間のように、いちいちジタバタしない。目の前の現実をただ黙って受け入れて生きている。喰う物がなければ、飲む水がなければ、また、暑すぎれば、寒すぎれば、黙って死んで行くのだ。実際、そういう時、大地には、彼等の死骸があちこちで転がっているのである。

 人間は、自分を「万物の霊長」などと思い込み、昆虫や野生動物を「害虫だ」、「害獣だ」と呼ぶ。そして草に対しては「雑草」と呼んでは敵視して来た。

そのくせ、ペットには異常なほどの愛情を注ぐ人もいる。

 今、地球上に生じている地球温暖化・気候変動は、そして生物多様性の消滅という現象は、“もっと便利がいい”、“もっと快適がいい”と、「もっと、もっと」と望み、彼等野生生物をそう見、そう呼ぶ人間がもたらして来たものだ。

 それからすれば、「人間ども」こそが、自然界から見れば、あるいは宇宙の深遠なる摂理から見れば、最も始末の悪い「害獣」なのだ。あるいは「癌細胞」なのだ。

 科学技術が発達すればするほど、人間は自分勝手になる。見えるものしか見ず、見えないものを見ようとしなくなる。心のことだ。土壌微生物や菌のことだ。だから、他者のことを考えなくなる。だから彼らが急速に死滅していっていることに全くといっていいほどに無関心だ。

 科学技術を発達させればさせるほど私たち人間は、とにかく、事を急ぐ、急ぎたがる、そして待てない。待てなくなる。その一方で、物事にすぐ飽きる。退屈してしまう。

 農業では、種を播いたら、収穫までは、どうしても一定期間は待たねばならない。効率化などと言って、期間を短縮することなどできない。どうしても一定の時間を待たねば何も実らないし、収穫も出来ない。しかし、その間も、やることは限りなくある。

 人も野菜も、米も、それが確かなものとして成長して行くには、そのものに固有の、ある一定の、人間にはどうにも短縮できない時間が必要なのだ。

 とにかく農業は、その作業を通じて、自然というものの絶妙さ、神秘さ、無矛盾さ、広大さ、深遠さ、美しさ、偉大さを実感させてくれると同時に、謙遜の気持ち、感謝の気持ちを忘れさせない。

◎本物の農業が大切にされればされるほど、そしてその農業に従事する人が増えれば増えるほど、未来は明るくなる。

 このことの意味は、既に明らかなように、国には健康な人が増える。それは、国民全体の医療費を激減させてくれることを意味する。

 もちろん、国としての食糧自給率をも高め、自前の食糧の安定供給を可能としてくれることをも意味する。

そして田や畑という生態系をも甦らせてくれ、結果として衰えつつある生物の多様性を幾分でも回復してくれることをも意味する。

それはそのまま、国土そのものが健全になるということだ。真の意味で国力がつく、ということだ。

 

 以上、ざっと見てきたことからも、私たちが生物としてだけではなく人間として日常を生きて暮らして行く上で、また社会という共同体を維持して行く上で、農業というものがどれほど物事の理に叶った産業、さらには、どれほど国民的および国家的にも巨大な利益をもたらす要素に満ちた産業であるか、つまり経済「合理」性という一面的で偏った合理ではなく、真の意味、全的な意味での「合理」な産業であるか、ということが裏付けられるのではないか、と私は思うのである。

 人類の歴史において、その圧倒的大部分の期間、どの社会でも、農業が主力産業であり得た理由は、ここからも判るのである。

 ところがこの日本という国では、その中央政府は、明治期以来、「殖産興業」の名の下に、あるいは戦後から今日に至ってもなお「果てしなき工業生産力の発展」との暗黙の国策の下に、とくに先の通産省と厚生省、今の経済産業省厚生労働省の官僚たちを中心に、そんな農業をつねに工業発展の犠牲にし、輸出貿易振興の取引材料にして来たのである。また、それに引きずられるようにして大多数の国民も、農業に対する理解と関心を低下させ続けてきたのである。

 以上が、私が農業の生活に入り、農作業の中で実感し得たことである。

 では、今度は工業の本質とは何か、ということについて考えてみようと思う。

そこでの最も一般的な生産のための形態というのは、製品を作るための材料や資材を自社工場に持ち込んでくるところから始まる。資源を掘り出すのは鉱業であり、石油掘削企業であるし、掘り出した資源から材料をつくるのは、たとえば製鉄会社のような製材企業である。

 しかし、この国で工業と呼ばれる範囲に属する産業は、材料や部材類は自分のところでつくるということは普通はなく、それらは材料メーカーや部品メーカーから買ってくるというのが普通である。

 もちろん、既にその段階で、それらの材料、部材、あるいは部品は、すべて、一定の品質と強度、すなわち一定の規格と品質を満たしていることが「絶対条件」となる。

 そしてそれらを持ち込み、あるいは搬入させては一つの完成品を構成するのに必要な材料・部材・部品の全てを取り揃え、それらを用いて組み立て、最終的目的物としての製品をつくる。それを作る場が工場となる。

 そうした条件の全てを満たした上、生産の三要素としての土地、資本、労働力さえあれば、世界中のどこの工場でもまったく同じ物を作ることができる。しかも、品質の管理さえきちんとしていれば、いつでも、同じ品質の製品を作ることができるのである。

だから、同じ企業内であれば、たとえばAという製品、Bという製品、Cという製品についてみれば、日本で作っても、中国で作っても、あるいは世界中のどこで作っても、全く同じ物をつくることができる。

 製品が出来上がるまでの時間的長さは、設備の能力やレベルを含めて、つくる側のつくり方の工夫次第でかなりの程度変えられる。

 しかも世界で一般化している現行の、自由競争からなる市場経済システムの下では———この点、この国では、実質的には、自由な競争による市場経済の国ではないことは既述のとおりである。政府の官僚や主要経済団体の官僚が、頂点にいて、業界団体や系列を通じてコントロールしているためである———性能の良い製品を少しでもコストを削って安く作らなくてはならないということが至上命題となる。そうしないと同業他者ないしは外国企業との「競争」に勝てないからだ。

 そのためには生産効率を上げるという考え方も絶対的となる。

そしてつねに競争ということがついて回っている関係上、その生産効率を上げるためには、絶えず集約化あるいは大規模化を図って行かねばならない。企業間での合併・吸収あるいは買収はそのための1つの方法である。

そして大量で画一的に生産した自社製品を、より多く、より広範囲に、より早く売りさばこうとするために、売り手と買い手が出会う場としてのかつて「イチバ」と呼ばれ、今はその規模を地球規模に拡大した「シジョウ」を相手にしなくてはならなくなる。

その場合も、自社製品がつねに市場で売りさばけ、事業が成功し続けるためには、次の条件を満たすことも絶対となる。それは、今度新たに作る製品は、前回作った物と同じであってはならないということ。つまり、前の物は「もう古い」という感覚を市場あるいは消費者に抱かせる必要があるのである。このことは、企業は自らも資源を次々と浪費すると並行して、消費者あるいはユーザーにも資源の浪費を強いる必要がある、ということを意味する。

 この点農業は、既述してきたことから明らかなように、規格化、競争、効率化、生産性という考え方も、集約化という考え方も本質的に馴染まない。生産されるものは、本来、その土地固有の気候や風土に依存するからである。それに農業は、そこで生産されてくるものは基本的に「ナマモノ」であり、消費期限はつねに限定されているから、消費者に資源の浪費を強いるということもない。

 そして農業は、本質的に自由市場経済のシステムには合わないし、合うはずのものでもないことが判る。

また、とくに日本のように国土の大部分が平坦地ではなく丘陵地あるいは傾斜地である場合に

は、生産現場である畑や田んぼを面積的に大規模化したり団地化したりするという考え方も馴染まない。

そして農業がつくる物とは、基本的に、社会的存在としての人間としてと言う以前に、生物としてのヒトが「生きる」ために「喰う」ものである。それだけに農業が作るものは、人間にとって、そして社会にとっても「絶対的に不可欠な物」となる。またそれだけに、「安全なもの」を作るということも決定的に重要なこととなる———それに対して、「おいしいもの」を作るというのは、農業の主目的ではないし農産物として本質的なことでもない。あくまでも二義的なことである———。

 それに対して工業がつくり出す物というのは、とくに今日的になればなるほど、そのほとんどが、本質的に、「あれば役に立つ」と言える程度の物で、「便利」とか「快適」といった人間の気分や欲求をより満足させるための「副次的な物」でしかない。「生活」するための道具や手段ではあっても、「生きる」ためのものではない。

その上それらのすべては、例外なしに、既述して来たように(7.4節参照)、その人間に「便利」や「快適」を実現し得ても、そしてもたらすその便利さや快適さの度合いが大きければ大きいほど、その裏では、その便利さや快適さの効果の大きさや範囲をはるかに上回る、負の効果としての副作用を人間のみならず社会にも、そして自然にももたらしてしまうのである。

つまり得られるものや実現されるものよりもはるかに大きなもの、大切なものを失っているのであり、壊してしまっているのである。

 今日の、人類が存続の危機に直面している環境問題とは、まさにそれに因る結果なのだ。

 以上が、私の考える工業の本質である。

 

 この対比から明らかになることは、農業と工業とでは、その成立条件も、両者の生み出す物が持つ質も意味も価値もまったく異なっている、ということである。

農業は———本来の農業は、という意味において———、自然に寄り添って生産すればするほど生態系は蘇り、豊かになって行く可能性が高まるとともに、それを食する人、すなわち消費者である国民も真の意味で、肉体も精神も健康で生きられる可能性がどんどん増すと考えられるものであるのに対して、工業は、発展すればするほど、あるいは発展させればさせるほど、生活上の見かけの便利・快適の度合いは増しても、その裏では、同時並行的に、人が生物として生きられる土台を破壊し続け、自分自身に対しても本来もって生まれた生物としての能力をどんどん劣化させ、あるいは退化させ続けることになり、結果においては、ヒトを含む生物一般の存続をも不可能にさせてしまわざるを得ないという性格を本質的に持っている、ということである。

 つまり人間にとっても、人間の集合体である社会にとっても、また人間を生かしてくれている自然にとっても、農業と工業の質的・価値的位置付けや重要度は正反対に近いくらい異なっているのである。

 近年、とくに生命工学、再生医療、あるいは遺伝子工学といった分野で、生命の根源である遺伝子をいじり回したり、生命体のコピー生物(クローン)をつくり出したりすることがメディア上で脚光を浴びて来ているが、そういうことに手を染めること自体、そこにどのような尤もらしい理屈を付けようとも、それは、人間の母なる自然に対するこの上ない冒涜だし、人を人間として生かしてもらっている自然に対してあまりにも傲慢な態度だと私は考える。

 それだけにそうした態度は、人間の予期・予想もしなかったところに、いつか必ず、人間の手にはとうてい負えない規模の巨大な反動が襲ってくると確信する。

近代文明に覆われた地球上には、既に、前例のない、また人智をはるかに超えた規模の災害が頻発化して来ているのはその現れである、と私は確信を持つ。そしてそれは、自然に因る災害ではない。明らかに人に因る災害なのだ。

 今こそ私たち人間は、広大な宇宙の中で、この「水の惑星」である地球に一生物種として生まれ合わせたことの不思議さと有り難さに先ず感謝すると同時に、神秘としか言いようがなく、また限りなく奥深く無矛盾なその地球上の自然によって生かされている存在であるということにも、謙虚に頭を垂れるべきではないだろうか。

 人間は自然の支配者や征服者には絶対になり得ないのだ。またそうした野心を、とくに科学者は、抱いてもならないのだ。

 そしてこの謙虚で誠実な態度こそ、これからの日本の、国としての経済のしくみとそのあるべき姿を明らかにしてくれるのではないか、と私は考えるのである。

 実際、この観点に立って、これからの日本の経済とその仕組みの具体的な姿を、次節以降で、私なりに構想する。