LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

第15章 「日本」国の真の独立と国際貢献

 

第15章 「日本」国の真の独立と国際貢献

 本書の全体構成の中の基礎編である《第1部》で述べて来たことは、すべて、私の二つの大きな危機認識 ———— 一つは、私たちの国日本は総体として、世界の中でも最も脆弱な国となってしまっているのではないか、したがってこのままでは、この国は、近未来の来たるべき全般的危機を乗り越えられないのではないかというもの、もう一つは、人類の存続そのものもきわめて危ぶまれる状況になって来ており、やはりこれまでのままの人類の生き方であったなら、同じく来たるべき全般的危機を乗り越えられないのではないか、というもの———と、それを私は危機と感じる根拠をそれぞれ示しながら、その両者の危機に対する私なりの基本的な対処姿勢である。そしてそれらは、本書の「はじめに」も記してきたように、基本的には、ほとんどすべて農業生活を営む中で思索し考えたものである。

 前者の危機に対しては、私は、もし私たち国民が今後も生き続けたいと望むのならば、私たち日本国民のこれまでのものの考え方と生き方をここで思い切って転換しなくてはならないとして、その転換すべき方向を、私なりに考えるところを私案として示して来た(第6章)。

 後者の危機に対しては、私たち人類全体も、もしその末永き存続を願うならば、せめて次の三種の原理を受け入れ、それを人類の指導原理とすべきなのではないかとして来た。

その三種の原理とは、《生命の原理》と《新・人類普遍の原理》そして《エントロピー発生の原理》とから成る。

 とくにその三種の原理のうちの前二者は、近代西欧が見出した価値原理と元々東洋にあった思想とを融合合体させたものである。具体的には、中世末期に西洋においてその価値が見出され、近代の黎明期に確立されてきた、市民個人の自由・平等・友愛を普遍的価値とする《市民の原理》と、同じく市民個人の生命・自由・財産はつねに守られるべきとする《人類普遍の原理》の両者を、元々の東洋の思想の中にはあったところの、自然は生命の多様性と共生と循環とから成り立つとする原理に基づくものとを融合合体させて生命一般にまで普遍化したものだ。

 三番目の《エントロピー発生の原理》については、純粋に西洋の発見したものである。

 また、この三種の指導原理の他に、やはり人類の存続を願うなら、大方の人間の住処である都市と集落のあり方についても、これからの時代には、それなりの条件を見てしていることが必要となるであろうと私は考え、その都市と集落が満たすべき条件として、《都市と集落の三原則》をも提言してきた。そしてそれら三原理と三原則はすべて、「人間にとっての基本的諸価値の階層性」なる概念の中に統一されるものであることをも示して来た。

 なお、「人間にとっての基本的諸価値の階層性」とは、すべての物事の人間にとっての価値の重みは決して同一あるいは一つの平板の上にあるのではなく、必ずそこには軽重の違いがあり、階層性を成しているという考え方を前提とするもので、それぞれの価値は、それより下位に位置する価値が実現されていなければ実現され得ないし、仮に実現されたとしても、それは一時的であって持続はできないものであるということを明確化したものである(4.3節)。

 

 ここまでの基礎的論理構成が出来れば、その後は、これらの原理と原則に依拠して、それらを実現する社会的諸制度のあり方を考えればいいわけである。

 それを記したのが本書の第8章から第13章までの《第2部》であった。

つまり、その《第2部》は、とくに私たちの祖国日本に対象を絞り、その日本が、未来永劫、存続できることを私たち国民が望むのなら、こうしたことも今こそ真剣に考えて対処しなくてはならないのではないかとして、あくまでも既述の三原理と三原則に基づく新しい国家のあり方と、その国家を国家として成り立たせる上で必要最小限度の社会的諸制度のあり方を、私なりに具体的に提言したものである。

 そしてすでに述べてきた第14章からこの第15章を含む最後までの章によって成り立つ《第3部》は、《第1部》から《第2部》へと論を進めてきた内容を、最終的には、どのようにして実現させるかという実現方法と手順を述べたものである。

 ところで、本章にて以下に述べるものとは、戦後、自民党を中心とする政権が長く執って来た対米従属を本質とする日本国としての政治外交姿勢とは対極を成すものであり、日本が、人類の平和に真に貢献できるようになり、人類の未来に具体的に貢献できるようになるためには、まずは日本国政府自身がこうした姿勢を世界に向かって明確に示す必要がどうしてもある、と私なりに考える対外姿勢である。

 

 そこでは先ずこの国が起こした先の侵略戦争を、日本国民の一人として真摯に振り返る。そして世界に誠意と良心を示せる国になりながら、もはや政治・外交問題のほとんどをアメリカに任せ、アメリカの保護国となっては、ときには自ら進んでアメリカの植民地同様に振る舞うという情けない外交姿勢を返上して、母国は名実共に主権国家となり、正真正銘の独立国となってゆくことが是が非でも必要であると説く。

 その実現の仕方についても、ますます混迷の度を深めつつある世界、ますます人類の前途に暗雲が深く立ちこめて来つつある現在、それだからこそむしろ積極的に既述の主導原理の下に、それもアジアの範囲を超えてユーラシア大陸を対象として、これからの環境時代に相応しい新しい世界秩序構想を打ち出し、それに基づいて国際貢献を果たしながら実現させて行く道を考える。

 戦後これまで、日本は国際社会においてサンフランシスコ講和条約においては独立国となることを許され認められながらも、その後はもっぱらアメリカの援助の下に、一時は世界の経済超大国となりながらも、その時の国際貢献の仕方も、実態は、その名に相応しいものではなかった。それは、「右手で1億ドルを援助として与えるが、左手で2億ドルを持って帰る」と揶揄されるODA(政府開発援助)が象徴している(アリフィン・ベイ)。それは、もっぱらと言っていいほどに、国民の代表であるはずの閣僚が経済官僚に操られたもので、「援助」という体裁をとりながら、実質的には日本国民の税金を還流させてはそのODAに参画した日本の産業界を潤わせるという方式を根幹とするもので、自分たち官僚が専管範囲の産業界に恩を売ることで所属府省庁の既得権の拡大を画策しては、見返りとして「天下り」先を拡大してゆくという、結局は日本の産業界と経済官僚の合同による途上国への経済搾取でしかなかった。だから、日本のODAとは、その本質は「押しつけ近代化」であり、「押しつけ開発」であって、相手国とそこの人々の歴史と文化を尊重しながら彼らの自立を促すものでは決してなかった。

 日本のこれからの国際社会への貢献の仕方は、このようなものであってはならないし、国際社会でのあり方についても、これまでのように軍事超大国の傘の下に入って、日本の関わるべき国際政治をその軍事超大国任せにしては、自分は責任逃れのためにその場にいるのかいないのか判らないような立ち振る舞い方ではなく、自国の目指すところ、自国は何をしたいのかを常に外に向かって明確にしながら、どの国とも対等に、そして堂々と、自国の利益と世界の平和とを調和させながら、粘り強く交渉を重ねてゆく姿勢を堅持してゆくことが求められていると、私は考えるのである。

その姿勢は、よく耳にする「ウイン・ウイン」の実現などといった目先の物的経済的利益を狙ったものではなく、真の意味での「人類全体の価値」や「世界の大義」とは何かを常に問いながら、その実現に貢献できるようになることであり、環境・人権・経済・文化・福祉等の面での真の平等互恵の精神に立つものでなくてはならない。

 そしてそうした道を歩んでゆくことこそが、これからの環境時代において、日本が歩み行くべき道なのではないか、と私は思うのである。

 しかし、そのためには、まず私たち日本国民自身が世界を動かしうる思想を持つこと、そしてその思想の下に生きて、行動してみせること、そのことが是非とも必要なのだ、とも私は思う。

 そこで、以下、具体的な説明に入る。

 

15.1 日本の「アジア侵略」の事実と責任を心に刻む

 私は、先ずは、このテーマについて、その意味するところを真摯に考える必要がどうしてもあると考えるのである。

 それは、とくに、1931年(満州事変)から始まって1945年(太平洋戦争)に終ったいわゆる15年戦争と、その顛末に対する私たち日本国民の取るべき態度に関するものである。

 このことを取り上げた時には決まって、「今さらそんな古い話を持ち出してどうするのか」とか、「俺たちはこの戦争を直接遂行した者でもその戦争に関わった当事者でもない。その子孫だ。俺たちに加害の直接の責任はない」、「いつまで我々は加害責任を問われねばならないのか」といったことを言う者が今や大多数を占めることになるであろうことを私は知っている。そして歴代首相のほとんども、ただ「法的には決着したことだ」という態度を繰返すだけになろう———実際には、タイとの関係のように、未だ賠償問題等で、法的にも決着していない国もある(確認せよ!)———。

 しかし、とくに“ポツダム宣言はつまびらかに読んだことはない”と堂々と言ってのける安倍晋三のように、日本がアジア諸国を侵略した事実や、無条件に敗北した事実さえも認めようとはしない首相が今もっていることを考えると、あるいはこれに類する発言をしては世界から批判されると、形ばかりの「謝罪」をしてごまかす政治家が今もって絶えないことを考えると、なおのこと、今、私たち日本国民は、「日本の『アジア侵略』の事実と責任を心に刻む」という態度が必要なのではないか、と私は思うのである。

それは、真実から目を背けずに、むしろ過去を責任を持って引き受け、15年戦争とその顛末を振り返り、その意味を誠実に考えることは、戦争の直接的当事者だけではなく、私たち日本国民全員が避けては未来に向かって歩めないことではないのか、と私は考えるからである。

それは、R.V.ヴァイツゼッカードイツ連邦共和国大統領が敗戦後40年目に当たるその日、ドイツ国民に向けて訴えたように、罪の有無、老若いずれを問わず、全員が過去からの帰結に関わっているからであり、過去に対する責任を負わされているからである。

同大統領(当時)は言う。“問題は、過去を克服することではない。そんなことはできっこないからだ。後になって過去を変えたり、起らなかったことにしたりすることなどできっこないからだ。過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となるからであり、非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、再びそうした危険に陥りやすいからである”(「『荒れ野の40年』−−−ヴァイツゼッカー大統領演説」 岩波ブックレットNO.55 p.16)。

 とりわけ、これまでの過去の重荷を清算し、「環境時代」という新しい時代に船出してゆこうとする際には、こうした姿勢はなおさら大切なのではないか、と私は思う。

 

 私たち日本人は、侵略戦争推進当事者であろうとなかろうと、またその子孫であろうとなかろうと、法的に解決させればそれでよしとするのではなく、人間として、侵略戦争犠牲者との心からの和解を求めなくてはならないのだ————そのことは、今日、従軍慰安婦問題や徴用工問題をきっかけにして、ますます険悪な事態になって来ている日韓関係の修復の仕方についても全く同様に考えられるべき、と私は考える————。

 この戦争によって死んだ日本人は、軍人と民間人を合わせておよそ320万人。それに対して、この戦争で日本軍のために犠牲となったアジアの人々は、少なく見ても1800万人とも2000万人ともいわれている。しかも、南京虐殺シンガポール虐殺、平頂山虐殺等の大量虐殺は今や歴史的事実となっている。その犠牲者は、多い時には一カ所だけでも30万人とも40万人ともいわれている。その虐殺の仕方も、赤ん坊を銃剣で突き刺したり、無数の罪もない市民を強姦したりしては殺すという仕方であった。戦争捕虜に対しては、たとえば「丸太」と称して生体実験もやったのだ。そのようなことをした部隊としては、関東軍731部隊はとくに有名だ(森村誠一悪魔の飽食」光文社)。

 その上、国家・陸軍の後押しの下で、世界史上前例のない10万人から20万人に及ぶ規模で、朝鮮やフィリピンあるいはオランダ等の若い女性が、場所によっては「強制」連行という表現は適切ではない場合もあったかも知れないが、それでも「騙して」とは言える仕方で連行されては日本軍兵士にレイプされたのだ。そのことは、それを体験した何千人もの女性が直接語ってもいる(国連の委員会「クマラスワミ報告」K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないのか」p.169)。

 人間は、自分が加害に回った時には加害の事実を忘れることはできるかもしれない。

しかし、人間としての尊厳や誇りを傷つけられ、屈辱と無念さを味わわされた者、愛する家族や肉親を殺された者には、その事実は、多分、どんなに時が経過しても、生涯癒されることはないのではないか。そのことを加害に回った者は決して忘れてはならないのである。

 そのことを思うとき、「侵略したのはオレたちではない。だから加害者責任はない」、あるいは「あれは軍部がやったことだ、オレたちには関係ない。そもそも戦争を起こしたのは軍部なのだ」と言って済ませていられるものだろうか。安倍晋三のように「戦後レジーム(体制)からの脱却」などと言って済ましていられるわけはない————実際、彼の「おじいちゃん」である岸信介は、その侵略戦争を推進する商工大臣でさえあったのだ————。なぜならあの戦争を終結させるにあたり、当時の日本国民と日本政府は「無条件降伏」を迫るポツダム宣言を受け入れたのだ。

 この事実をも、私たち日本国民は決して忘れてはならないのである。

 その後、極東軍事裁判、いわゆる東京裁判を経、たとえマッカーサーがつくって押し付けて来た憲法であろうとも、私たちの祖父母や父母は、その憲法を受け入れ、サンフランシスコ講和条約を経てこの国は独立を果たしたのである。

 そうやって日本は、初めて戦後の国際社会の一員として復帰を許されたのである。

そして、そこから「戦後日本」が始まったのだ。

 本来ならその時点で吉田茂は首相の座を下りるべきだった。しかし、彼は下りなかった。

降りなかったどころか、事実上、この国をアメリカに売り渡すようなことをしたのだ。それも自国民には全く秘密裏に、である。その一例をもってしてでも、吉田を称して「売国奴」と言わずして、何と言えばいいのであろう。

 

 私たち日本国民はどうも、とくに自分にとって不都合な真実については、直視しようともしなければ、誠実に向き合おうともせず、したがって受け入れようともせず、むしろあたかもそんなことはなかったかのように振る舞おうとするところがある。それだけではない。自分にとって不都合な人は、その人たちに誠実に向き合おうともせず、むしろいないことにして振る舞おうとするところもある。(5.1節)。

 

それは、真実と向き合おうとする勇気がないからなのだろうか。それとも、真実よりも損得で判断する方が価値あることと考えてしまいやすいからなのだろうか。あるいは自分にとって不都合な真実を認めるよう迫る相手の苦痛や心情を想像する能力に欠けているからなのだろうか。

 私たち日本国民も、ドイツ国民に遅れること30余年となってしまうが、日本と同じ侵略国であり、また同じ無条件敗北国であるドイツ国民が戦後、「いばらの道」を歩みながら見せてくれたように、私たち日本国民も、遅ればせながら、人間としてのありように誠実に向き合い、真実から目を背けずに、また出来うる限り、その時そこに起こったことを冷静かつ公平に見つめながら、それらを心に刻んで行かねばならないのではないだろうか。ここに、「心に刻む」とは、「ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを誠実かつ純粋に思い浮かべること」である(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー「荒れ野の40年」岩波ブックレットNO.55p.11)。そしてその態度こそ、“過ちや失敗は二度と繰り返しません”と唱える以上に、最良の対応策となるのではないか。

 

 顧みるならば、日本が起こした「アジア・太平洋戦争」については、この戦争を軍部とともに戦争を遂行した日本国の政府、あるいは政府を代表する首相は、そしてその戦争開始にあたっては公式には最大の責任のある天皇も、敗戦後の今日まで、自国民に対してはもちろん、侵略したアジアの国々とその国民に対して、公式に謝罪したことはなかった。もちろん、ドイツのヴァイツゼッカー大統領(当時)のように、自国民に対して自国が犯した歴史の真実に対して、冷静かつ公平に見つめ、そして誠実であり続けるよう訴えることもなかった。

 その謝罪に近いものとしては、河野談話(1992年)や小泉談話(2005年)、村山談話(1995年)があるが、それとて、私から見れば、とても謝罪と言えるものではなかった。

安倍晋三談話(2015年)においては、何をか言わんや、である。

 そもそも安倍自身、口では“村山談話を引き継ぐ”と公言しながら、自らが認めるように「ポツダム宣言」はまともに読んでもいないと公言しているし、自身の談話でも、日本のアジア侵略を認めていなければ、「謝罪」もしていないのだ。さらには最近は、日本国憲法の「専守防衛」という基本的立場をはるかに超えて“敵基地攻撃能力を持つ”などということまでも堂々と口にするようになっているし、日本の「非核三原則」をも無視して「核の保有」すら口にするようになっていて、村山談話と比べても、全く論外である。それに安倍晋三は、日本軍による「慰安婦」問題にも全く触れていないのだ。要するに安倍晋三は、とても信用するに値しない人物であり、言葉のペテン師なのだ。

 では村山談話は、被侵略国とその国民の心に本当に届いたであろうか。

私は、それはないだろう、と思う。

 そう思う第1の理由は、これはあくまでも「談話」であって、「ある事柄についての見解などを述べた話」(広辞苑第六版)に過ぎないものだったからだ。例えば、中国や朝鮮あるいはフィリピン等の日本が侵略した国に行き、現地の犠牲者あるいはその遺族に直接向き合っての謝罪の言葉ではなかったからだ。

 第2の理由は、この談話がなされたのは、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」の日である。つまり8月15日であったことだ。

なぜなら、この8月15日という日など、日本政府は、「国民慰霊の日」などとしているが、被侵略国にとってはそれはどうでもいいことのはずだ。

世界が認識している真の終戦記念日は「9月2日」だからである。

その日こそ、私たちの国日本が連合国相手の戦争に、「公式」に降伏した日なのである。それも「無条件」に、である。「ポツダム宣言」を受諾した結果だ。

もしこれを受諾していなかったなら、たとえ昭和天皇が、国民に向って、ラジオで、どんなに「降参しよう」と呼びかけたところで、まだ戦争は続いていたはずなのである。

 だから9月2日こそが、私たち日本国民にとっては、これ以上にない屈辱の日であり、同時に、もはやこうした愚かな戦争は二度と起こしてはならないと日本国民全てが深く心に刻まねばならない反省の日でもあるのだ。

 したがって首相談話を発表するなら、被侵略国の人々の立場に立ってせめて「9月2日」とすべきだった、と私は思うからだ。

 第3の理由は、ところが一方でこうした「談話」を発表する首相がいるかと思えば、他方では、その談話の前にも後にも、その戦争を賛美したり美化したりするための顕彰施設である靖国神社に平然と、それも「公式」に参拝し続ける首相もいれば閣僚もいる日本政府だからだ。

 アジアの被害者とその遺族の皆さんは、そんな日本政府の要人の姿をしっかりと見ているはずである。

 それに彼らは、日本政府をドイツ政府と比較しても見ているのではないか。日本国民の言動も見ているのではないか。

特に日本の政府の「アジア・太平洋戦争」に対する姿勢と国民の姿勢は、敗戦後のドイツ政府とドイツ国民のような「誠実」な姿勢とは程遠く、そもそも、未だ、日本政府は、この戦争に対する総括も、反省も、公式にはしていないからだ。

 こうして幾度も「談話」を発表しなければならなくなるというのも、せめて格好だけでも「外」に向かって、反省している「ふり」をしなくてはならない、という心理の表れなのではないか。ともかく、ただ「閣議決定」されただけの談話は、決して公式の総括でも反省でもなければ、国民の全体に呼びかけた日本政府の決意表明でもないのである。

 そのような形だけの素ぶりであったなら、村山談話といえども、被侵略国とその国民の心に届くはずはないのではないか。そしてそうした「謝罪」できない政治家の国日本は、果たして、世界の中で、今後とも一体どれほどの信頼を勝ち得られ、貢献ができるというのであろう。

 この日本という私たちの国を、真に耐性のある国家となし、「環境時代」という新時代に勇気を持って歩み入って行かねばならないとする今こそ、その出発点として、日本の「アジア侵略」の事実と責任を心に刻んでおくことが、日本のすべての人々に、切実に求められているのではないだろうか。