LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

第14章 新生日本国建設に着手する前に解決させておくべき喫緊の課題とその着手手順

  この章から、公開内容は、拙著の第3部に入ります。

そしてそこでは、いよいよ、この日本という国を、拙著の副題にあるような、国民の一人ひとりが心から誇りに思える国、国民一人ひとりの生命と自由と財産が最優先で守られる統治体制を整えた本物の国家という新生日本へと変革して行こうとする際には、これまでの思考過程の延長として、あらかじめどうしても実現しておかねばならないと私には思われる事項のいくつかを挙げ、それらをどのように実現させてゆくか、私なりに考える方法と手順を読者の皆さんにお示ししてゆこうと思います。

 なお、今回の公開の仕方は、これまでとは違って、第14章に関して、一回の公開の中で、複数の節を同時に公開してゆきます。

 以下に示す内容、そしてその示してゆく順序についても、2年前の2020年8月3日にやはりブログとして発信した拙著の「目次」と照合していただけたら幸いです。

 

 

 

           《 第3部 》

第14章 新生日本国建設に着手する前に解決させておくべき喫緊の課題とその着手手順

 この章での論を進めてゆくにあたって、あらかじめ確認しておかねばならないことがある。

それは、私は、この国は、今後も存続してゆかねばならないことはもちろんであるが、それだけで満足してはならず、これからの時代は、日本こそが思想と生き方において名実ともに世界で最も先進的で主導的な国、つまり「偉大な国」とならねばいけないと考えるし、またそれが可能だと考えるからである。

 そのためには、国民全体として、今の内にこれだけは絶対に実現あるいは解決させておかねばならないことは何か、ということの確認である。

 私は、それは次の5つの課題であろうと考えるのである。

①日本の政治の土台からの刷新です。

これまでの選挙制度を根本から変革することで「本物の政治家」、それも、既述の全地球的でかつ全生命的な三種の主導原理、すなわち《生命の原理》、《新・人類普遍の原理》、《エントロピー発生の原理》を我が物とした政治家を生み、育て、これまでの「似非政治家」、「税金泥棒」としか言いようのなかった政治家という政治家のすべてを入れ替えること

②また、その「本物の政治家」たちによって、官僚・役人が勝手に作ってきた従来の行政組織における「縦割り」構造を廃止させ、政治家の官僚・役人へのコントロールを徹底し、官僚独裁あるいは役人天国の状態を止めさせること

③この国の国民の長い間の悲願だったこうしたことを可能とする全く新しい選挙制度を実現させること

④また「本物の政治家」たちによって、文科省の廃省を筆頭に、その他の府省庁の廃省・縮小・合併等々を含めた、中央府省庁のみならず地方の政府の組織を根本的に変革し、基本的に「中央集権の統治体制」ではなく、統治権力の地方委譲による「中央政府の小規模化」と共に「地方自治による統治体制」を強化すること

⑤この国の少子高齢化という人口減少の中で、人口密集化によってますます高まる大都市生活の危険を回避するために、「本物の政治家」たちによって、大都市住民の地方移転を奨励すると共に、教育制度と福祉(保健、医療・介護・看護)制度と社会保障(年金、保険)制度を根本的に変革すること

以下では、この5項目を実現することを念頭に置きながら、日本国存続のために今為すべき喫緊の課題とその課題解決のための着手手順について、私の考えるところを述べていきたいと思う。

 

14.1 新しい選挙制度実施のための国民会議の設立

 この国民会議とは、日本に真の民主主義を実現するためだけではなく、むしろそれをも超えて既述の「生命主義」をも実現し得る真の独立国とするために、それに真心から尽力しようとする本物の政治家を産み、育てるためのもので、これまでの「小選挙区比例代表並立制」という問題だらけの選挙制度に取って代わる、全く新しい選挙制度を実現することを含めて、この国をあらゆる意味で「新国家」として生まれ変わらせるための総合的構想を練るための国民各界層の代表からなる組織のことである。

 それは、私が「新国家建設構想立案国民会議」と呼ぶものである(以下、国民会議と言う)。

 では、その「国民会議」はどのように設立するのか。

 まずその設立準備は、現行の国会議員が超党派の集団で行う。

またそれを中央と地方のすべての政府も全面的に支援する。

そのとき大事なことは、この設立のための準備は一切政府側の官僚には任せないで、あくまでも国会の政治家たち自身が国会内に自分たちで独自に民間人を雇用して、そのための事務局を設けて、日本の現状と将来を憂える本物の知識人の支持と助言を公式に得ながら、政治家たち自身の努力により進めることである。

そしてその際、すべての過程をつねに無条件に、公正かつ透明化することである。

官僚に任せていたなら、彼らは審議会を設立する時と同様、公僕という立場をかなぐり捨てて、自身の保身と栄達のために自省の存続と既得権益の維持を第一に考えるからだ。

 そこで、先ずは、国民会議の構成員の役割と義務そして任期を明確化した上で、その国民会議の構成員を社会の全階層から公平に選任する。

ちなみに私の考える国民会議の構成員とは次のものである(9.1節)。

 つぎのような各産業界および国民各階層から4名ないしは2名ずつ、しかも男女同権の観点から男女同数ずつ選出された人々から成る。

 農業(4)、林業(4)、畜産業(2)、水産業(2)、製造業(4)、医療・介護・福祉分野(4)、家庭の主婦(4)、教育・科学・技術分野(2)、文化・芸術・芸能分野(2)、新聞・出版・放送分野(2)、輸送・流通・販売業(2)その他の分野あるいは業界(2)の合計34名で構成。

 なおその場合、財団法人や特殊法人等の「公益法人・省庁外郭団体」や「財界・業界団体」のトップあるいはそのOB、そしてこれまで、中央政府においては、各府省庁の官僚の恣意的選任あるいは依頼により「審議会」の委員を引き受けた経歴を有するいわゆる専門家・有識者、また地方政府においても、役所の役人の恣意的選任あるいは依頼により各種の「委員会」の委員を引き受けた経歴を有するいわゆる専門家・有識者等は、国民会議に加わる資格はない、とする。

 ここでとくに大事なことは、選挙によって選ばれた者ではないとはいえ、この国民会議は正真正銘国民の代表から成るという意味で、国民と国会は、国会と同等に、他の行政権や司法権からも独立した権限を持たせる、ということである。

 そしてこの国民会議が設立されたなら、その国民会議の中の幾人かがまず最初に担う大役は、この国において、民主主義を実現できる本物の政治家を育て輩出できるようにするための新しい選挙制度を作ることと、それができた段階で、その新選挙制度に基づく新しい選挙を主体となって実施する新しい選挙管理委員会の設立である。

 ではその新選挙制度とはどのような内容のものとするか。

例えばその一例が、既述の第9章にて私が提示したものである。

 なお、実際の新選挙制度の中身を構想するのは、国民会議の中から選ばれた人々からなる「新選挙制度構想委員会」とする。

 

14.2 新しい選挙制度はどのように実現させるか

 これが何と言っても、新国家建設のスタートラインに立った時の、最初の最大の関門と言えよう。

なぜなら、この制度を作ることには、既得権を持っている既存の政治家とくに多数を占める政権政党の政治家、あるいは大政党の政治家はこの制度が実現することにより、その既得権を失ってしまう可能性があるだけに猛烈に反対するだろうし、官僚たちも、本物の政治家が出てくることにより、彼らはこれまでの閣僚のように官僚たちの操り人形にはならず、本来の使命である官僚たちをコントロールするようになって、そうなれば官僚たちにとっては既得権を得てきた政治家たちと同様に既得権益を失ってしまうこととなりうるために、全官僚組織を挙げて抵抗して来ることが容易に想像されるからだ。実際、今までもそうだったのだからだ。

そして、その両者が結託して、新選挙制度の制度化の動きを無きものにしようとしてくる可能性が高いからだ。

 しかしこの日本という国を国民が真に幸福になれる国にするには、そしてこの国が真に民主主義を実現して、成熟し得た国になるためには、9.1節に掲げるような選挙制度は何としてでも実現させ、本物の政治家を有権者が育て、選び出さなくては駄目だと私は考える。そうでなくとも、近年、政治家の劣化ぶり、とくに安倍晋三政権以後の政党政治家の驕りと資質の低下は眼を覆うばかりだからだ。

 そこで、この難関を突破するためには、私たちは次のことを思い出す必要がある。それは、やはり近代民主主義政治の生まれた原点であり、その時に確認された原則だ。

それは、我々は、あるいは我々の遠い祖先は、一体何のために自然状態から離れて集まり住み、社会という共同体を結成して来たのか、という問いに発し、“社会あるいは国家という共同体の全権力を握っているのは主権者としての国民である”、という原則である。 

 逆に言えば、“政治家が主権者から負託されたその「特定の目的のために行動する信託的権力」を主権者が合意していないことや総意に反することに行使したならば、元々全権力保持者としての国民の手にはその権力を剥奪することができる権力が依然として残されている”ということであり、同時に、“主権者は、自分たちの共同体を共同体として健全に維持するためには、そうした政治家に負託した信託的権力を剥奪することは、自分自身と共同体に対してむしろ義務でさえある”、という原則である(ジョン・ロックp.151)。

 つまり、私たち国民は、主権者として、政治家たちには、彼らが主権者から負託された権力はあくまでもその政治家が掲げていた公約を実現するためだけのものであり、限定的なものであることを、いついかなる時にも、しっかりと知らせねばならないのである。その権力は、決して白紙で、あるいは無条件で主権者から付託されたものではない、ということを。したがって、いつでも国民は、その権力を剥奪することができるのだということを。そしてそれは決して不法行為ではないし、むしろ、主権者としての極めて正当な行為であり、自国を民主主義の国にするための愛国的で義務としての行為なのだ、と政治家たちに教えなくてはならないのだ。

 そしてこうしたことこそ、いま、私たち主権者が思い出すべき、あるいは銘記すべき原則なのである。

 なお、この場合の国民と政治家との関係は、株式会社組織で言うところの、株主あるいは資本家と経営者との関係に似ている。

 会社に利益をもたらさないと株主あるいは資本家に判断された経営者は、株主総会という公式の場で株主や資本家から信託された経営権という権力を剥奪されて、株主は株主に利益をもたらしてくれそうな者に新たに経営権を託し替えることができるというそれだ。

その時、経営者は原則的に株主や資本家に逆らうことができないのである。なぜなら株式会社という制度は、それを良しとした考え方の上で成立しているのだからだ。

 日本が近代西欧から取り入れたことになっている近代民主主義政治も、基本的にはそうした考え方の上に成り立っているのである。だから信託した権力を取り返すことは、主権者である国民から見れば当然の権利であり義務でもあるのだ。

そしてそれも、民主主義政治学理論の上での帰結でもあるのだ(ジョン・ロック「市民政府論」鵜飼信成訳 岩波文庫 p.151)。

 このことに政治家は何人たりとも、抵抗も反発もできる理屈も根拠もない。むしろ屁理屈を並べてそれに抵抗したなら、「国賊」となり、民主主義政治国家体制という今様の「国体」に反逆する、正真正銘の「国家反逆者」となるだけなのだ。

 

14.3 国民会議から選ばれた新選挙管理委員会による新選挙制度に基づく総選挙の実施

 では、以上のような過程を経て作られた新しい選挙制度は誰が実施するか。誰が実施する権限を有するのか。

 それは、やはり国民会議から選ばれた人々からなる「新選挙管理委員会」(以下、選管と称する)だ。

そしてその選管も、中央の選管と地方の各地域の選管とから成るものとする。

 この選管は、既述のように(9.1節)、その役割として、選挙の前後および選挙期間中のすべてを通じて、国民が国民にとって最も相応しいと思われる政治家を選べるように、厳正中立かつ公正な立場で見守り、かつ、選挙が終わった後には、次期選挙が行われるまでの間、政治家が公約したことをきちんと実行したか否かを国民と共に厳正にチェックし、評価し、判定を下す機関である。

その意味で、国の中央や各地方公共団体に設けられるこの選管は、この国の民主主義を実現する上での出発時点において、国民会議に背後から支えられながらも、最も重大な役割と使命を担うことになる。

それだけにこの選管には極めて強い権限と高い独立性と透明性が求められるので、国民会議が選定した選管については、それを国会が承認するという形を取る。

 なお国民会議は、選挙の実施時期の定め方や候補者への監視と評価と判定を含む新しい選挙制度全般に関する規約づくりを選管に一任する。

 設立された選管は、これも既述したとおりに、候補者となれる資格を公報し、立候補者を受付ける。

その際、選管は、立候補希望者向けに、立候補希望者がかねてから抱いて来た独自の公約の他に、「公約」に含めるべき課題としての政策群を例示する。

 選管は、立候補希望者が選管が示した要件を満たしているか否かを審査する。

その上で選挙を実施する。

 こうして民主主義政治とは何かをきちんと理解するだけではなく、その民主主義すらも超えて、これからの環境時代、地球人類が生きながらえて行けるための三種類の「主導原理」をも我が物とした本物の政治家が「新しい政治家」として続々と生まれ出てくることが期待されるのである。

そしてその彼らこそがこの国の中央でも地方でも、「本物の議会」と「本物の政府」を構成して行くことになるのである。

 なお、新選挙制度実施によって誕生してくる本物の政治家によって、本物の議会と本物の政府が樹立されるまでは、政治空白や権力の空白が生じて無政府状態とならないようにするために、それまでの政治家たちが、それまでどおり議会政治を継続し、それまで通りの政府をそれまでの法体系に基づいて継続し、国民と軍隊(自衛隊)を統治する。

 

14.4 本物の政治家による本物の議会と本物の政府を樹立し、日本国を本物の国家とする

 ここに、「本物の政治家」とは、民主主義を理解し、自ら政治家としての哲学を持ち、自らの信念からなる政策を明確に持ち、憲法と法を守り、国民に忠誠を誓いながら、官僚には「法の支配」を厳守させながら、彼らをコントロールする強い意志と愛国心を持った人物をいう。

 こうした政治家が育って来て、そして国民の大多数も市民となって彼ら政治家を支えれば、これまでの官僚独裁も、行政組織の「タテワリ」も、「天下り」も、多分、たちまちにして消滅させられて、この日本という国を本物の国家と成し得て、真に「国民の、国民の代表による、国民のための政治」が行われるようになるはずだ。

 なお、この説明の中の「市民」とは、政治と政治家のあり方につねに関心を持ち、権力を持つ者の権力行使の動機と目的につねに疑いを持って見つめ、それをチェックすることのできる社会的存在のことである。

 また、「本物の議会」とは、そこに集う政治家たちの面々が、選挙で立候補した際、有権者の前に掲げた公約を、他政党の政治家たちとの論戦の末に自説をもって説得して多数を勝ち取り、税金の使途を含めた政策として、法律の裏付けをもって実現してみせられる場となることである。

 そしてそれは、特に政権を執った政治家集団に強く要求されるのである。

 ゆめゆめ、行政府の官僚がつくった法案を追認するだけの場としてはならないのである。

そしてその場合も、「本物の議会」とは、あらゆる場合に国民の誰もが訴えることができる手段、あらゆる場合に国民の誰もが安心感を確立することのできる手段としての法律、言い換えれば、法律の運用者がその裁量を恣意的に差し挟めない法律、あるいは一般の国民が官僚などのような行政機関の者に対抗しうる有効な手段としての法律を制定できる場となることである。

 そしてその場合、「本物の議会」とは、当然ながら国のあらゆる権力機関の中で、あるいは地方公共団体の中のあらゆる権力機関の中で、共に最高の権力を持った機関となるのである。

その理由とは、ジョン・ロックは、こう説明する。

“何故なら他人に対して法を定めることができるものは、その者に対して必ず優越していなければならぬからである。”(P.152)

そしてジョン・ロックはさらにこう言う。

“組織された国家にあっては、ただ一つの最高権しかあり得ない、これが立法権である。それ以外の一切の権力はこれに服従し、また服従しなければならないのである。”(P.151)

 一方、「本物の政府」とは、議会という立法機関において議決されて公式に定まった法律(または条例)あるいは予算の裏付けを持った政策を、その動機と目的とを良く理解した上で、決まった通りに執行し得る機関のことである。

すなわち、本物の政府として決定できるのは、三権分立の原則に拠り、決して法律案ではなく、立法機関である議会が議決した事柄をいかにしたら最高度の効率をもって執行し————それは統治とも呼ばれる————、最高度の効果を達成し得るかというその執行方法についてなのである。

だから本物の政府とは、これまでのような実質的な意味での各府省庁の連合体ではなく、合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者の下に、全閣僚が互いに連携して動き、各閣僚が自身の配下の官僚たちをコントロールして、府省庁の全体が有機的に連携して執行できる機関のことを言う。だからその場合、当然ながら官僚たちが勝手に設けてきた府省庁間の「縦割り」などは閣僚同士が協力し合って国民かあら付託された権力を行使して完全撤廃しなくてはならないし、官僚たちには、閣僚の義務と責任において、「法の支配」とか「法治主義」を徹底させ、さらには、「説明責任」を果たさせなくてはならないのである。

 ここで、幾度記して来ても重要なことなので、ここでも繰り返しをいとわずに記すと、

「法の支配」とは、恣意的な支配を排斥して、権力を法によって拘束することで、国民の権利を擁護しようとする考え方である。

一方、「法治主義」とは、行政権の行使には、法律の根拠が必要であるとするものである。

法の支配も法治主義もよく似ていて、恣意的、すなわち気まぐれな支配を排除するものであるとする点は同じであるが、「法の支配」のほうは、法の内容が合理的なものでなくてはならないことを要求する点で、「法治主義」とは異なる。つまり「法の支配」は、基本的人権の思想と結びついて、法が基本的人権を尊重したものであることを求めているのである(山崎広明編「もういちど読む政治経済」山川出版社P.8)。

そして「説明責任」とは、企業・行政などが自らの諸活動について、利害関係者に説明する責任のことで(広辞苑第六版)、特にこの場合、政府各省庁の官僚が、自分たちはなぜこれをしているか、なぜあれをしなかったのか、なぜ他の方法を取らなかったのか、等々を、真実に基づいて、国民に、それらの根拠を示すことである。英語ではアカウンタビリティ

そしてそれは道徳的責任の意味のレスポンシビリティとは根本的に異なる。

 ところがこれまでのこの国の政府の実態とはそれとは程遠いものだった。国民の「生命・自由・財産」を守るためのものではなく、せいぜい、(各府省庁が互いにバラバラに自分の専管範囲の)産業界やビジネス組織と取引を(しては既得権益の維持と拡大を画策)する一つの巨大な組織、という以上のものではなかった(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないか」p138。ただし、括弧内は生駒が補足)。

 

 ところで、この国の議会を本物とするには、国会も地方議会も、現行のその席の配置を根本から手直ししなくてはならない。それは、この国の国会をはじめ、地方議会も、基本的には、いまだに明治の大日本帝国憲法(1889年)に基づいて第一回帝国議会が開かれた当時(1890年)のままの議場形態を維持しているからである。しかもその形態自体が、後述するように、民主政治が行われる上では絶対に守られていなくてはならない三権分立の原則を破る形態となっているからだ。

 ではなぜこの国の議場は、130年以上経った今まで、基本的に「国会開設」当時のままの形態できたのであろう。

 それは、この国の政治家という政治家は、やはり、戦後、憲法が「日本帝国憲法」という欽定憲法から民主憲法になっても、そして今日に至ってもなお、民主主義議会政治というものは議会においてどのように行われるべきかという基本的に重要なことについて、誰も真剣に考えては来なかったからだ、と私は断定する。もっと言えば、民主主義とは何か、議会とは何か、政治家とは何かということを、この国では、戦後、70数年経った今もなお、政治家の誰も真の意味では理解してこなかったからなのだ、と。

 国会でも地方議会でも、その議場の形態をよく見ていただきたい。

議会というのは、議会の議員のいる場なのだから、基本的には、議員だけが座る席があり、その議員同士が存分に議論できる形態となっていればそれで十分なのに、この国の議会は、国会も、どこの地方議会も、決まって、議員席の最前列の真正面には、政府、つまり行政権を持った者が鎮座する席が設けられているのである。

つまり、この国では、本来立法機関である議会に、行政権である政府の者が鎮座する席が、議員席の真正面に常設されているのである。

特に国会では、政府側の者が鎮座する席は国民から選挙で選ばれた国民の代表である議員の位置よりも一段と高い位置に設けられてさえいるのである。

 全く奇妙なことに、こうしたことに疑念を抱く政治家は、少なくとも私の知る限り、一人もいないのだ! 民主主義議会政治を行う上では、決定的に矛盾した議会内配置だというのに、である。

 そしてその奇妙さをさらに上塗りする格好で、この国の議会は、国会を含めてどこも、議員が行政権を持った者に向かって「質問」するという形で行われるのが、それも全く「儀式」として行われるだけで、実際の立法など全くしないのが「議会である」とされていることだ。

そしてそのことに、私の見たところ、“おかしい”、“変だ”と感じている風な政治家は一人もいないのだ。

 とにかくそうやって、この国の少なくとも戦後の議会政治は行われて来たのである。

それはもう実際のところ、子供の「ママごと遊び」ならぬ、大人の「議会ごっこ」なのだ!

 

 議場をこのような形態にしたのは、多分、明治の後期になっても政治や軍事に対して圧倒的な影響力を持っていた最後の元老山県有朋であろう、と私は推測する。

山県こそ、政党政治家を極度に忌み嫌い、自らの持てる力の全てを使って、政党政治の発展を阻止しようとした人物だからである。そして、官僚を天皇のシモベとして、「天皇の官僚」の権力が、選挙で選ばれた国民の代表によって決して制限されない仕組みを築き上げた人物だからだ(カレル・ヴァン・ウオルフレン「日本という国をあなたのものにするために」角川書店 P.47〜50)。

 今の国会を含む全ての議会の形態が当時のまま残されているというのも、山形の遺産とでもいうべきものと私には思われる。

 本物の議会を確立するにあたっては、この山県の遺産を木っ端微塵に打ち砕かねばならないのである。そうでなくては、この国は、前進できないからだ。

 なおその場合、議場の改造に関する方法としては、要点は3つある、と私は考える。

1つは、新選挙制度の実施によってもはや政党政治ではなくなることもあって、政治家が政治家どうしで自由に、かつ徹底的に議論ができる形式にするということである。そのためには、私は、これまでのように与党の席と野党の席とを分け、かつ各政治家に決まった席が設けられるということもなくし、いつでも、どこでも、自由に坐れるようにし———したがって机上に名札は設けない———、常に全員が向かい合って坐れるような席の配置にするのがよいと考えるのである。

2つ目は、これまでのように議論の行方を取り仕切る正副議長の席を全議員と向かい合うような位置にするというのではなく、全議員が向かい合って座るその間で、しかも全議員を見渡せる、いわば相撲の行司と同じ位置にするということである。

3つ目は、議会の行方を見守る国民の坐る位置も、これまでのような単なる傍聴者としてのいわば「外野」と言うべき政治家集団の後ろの位置ではなく、議会の行方を正副議長とともに見守るという意味で、正副議長の後ろに控えて座るようにする、ということである。