6.3 すべての政治家に求められる使命と責任と特別の覚悟
6.3 すべての政治家に求められる使命と責任と特別の覚悟
第6章では、既に述べてきた抽象的な日本国民一般とは別に、政治家、知識人、科学者および研究者、政治ジャーナリスト、そして宗教者といった具体的な職業人あるいは具体的な社会的立場の5種類の人々を取り上げようとするが、その中でも、「覚悟」が求められる、それも「特別の覚悟」が求められると私が強調するのは政治家だけである。
なぜか。その理由は二つある。
一つは、なんと言っても彼らは、「国民の代表」だからだ。ここは、他の4者とは決定的に違う。それをもっと正確に言えば、彼ら政治家は、とくに国民から選ばれることを自ら望み、そのための公約を掲げて立候補し、その公約が支持された結果政治家になれた人であって、「国民の、国民のための政治的利益代表」だからだ。その国民に対する使命と責任の重さは、他の4者とは比較にもならない。もちろん、単に国家公務員試験ないしは地方公務員試験という官吏任用試験にパスしただけの官僚ないしは役人とも呼ばれる公務員のそれらと比べても、問題にもならない。そうでなくとも、すなわち、自ら進んで選ばれることを望んで代表となったという点を除いたとしても、政治家の活動はそのまま、私たちの国の国土の安全と、全ての国民の生命と自由と財産の安全に直接関わるものだからである。
二つ目は、これから政治家になろうとする者の全てには、困難で、厳しく、しかももはや絶対に避けては通れない最重要課題を大至急解決させねばならないという問題が待っているからだ。
この国の中央と地方のこれまでの政治家という政治家の実態は既述して来たとおりである(2.2節)が、ここで言う最重要課題とは、そのほとんど全てが、そうした2.2節で述べてきたような無責任・無知・無能・無策、国民に対して不忠で、しかも己には甘え切った政治家たちが、巨額の議員報酬・特典・特権は享受しながら、手を付けることを避け、先送りしてきたものなのである。
その問題とは、たとえば、この国を国家とは言えない状況のままにし、「政府組織の縦割り」を含む統治体制の欠陥を抱えたままにしてきたこと。未だ真の民主主義は実現せず、事実上、官僚による独裁の国のままとしてきたこと。少子化と高齢化は少なくとも50年以上も前から人口統計的には判っていたことなのに何ら手を打たないできたこと。低すぎる食料自給率と農業がどんどん衰退していること。経済大国などと言われながらも、100%近く、エネルギーを外国に依存してきていること。同じく経済大国などと言われながらも、温暖化対策や生物多様性の消滅対策を含めて、この国は環境対策後進国でしかないこと。政府債務残高の対GDP比は、世界のどんな財政危機の国よりも高く、それも増える一方であること。日本の教育行政は世界に通用する人材を育て得ず、福祉行政は国民にますます不安を与える貧困なものでしかないこと。都市部と農村部での人口分布が極端すぎ、今後ますます頻発するだけではなく激化するとみられている自然災害に余りにも脆弱であること。同様に、温暖化と気候変動の進行の中で、これまでの特に旧建設省、今の国土交通省の国土づくりがあまりにも脆弱であること、等々である。
実際、私は、難問ではあるが、こうした日本にとっての最も急がれる最重要課題を解決させるか解決の目処を明確に立てておくことこそが、私たち国民が、この国の前途に希望を持てるようになり、展望を見出せるようになることではないのか、と思うのである。
なぜなら、それこそが、この国を真の意味で、つまり単なる言葉だけではなく、持続可能な国にすることだからである。そしてそれを実現して見せることこそが、この国の真の安全保障となるのだからである。
日米安全保障条約だけが安全保障ではない。
そういう意味では、例えば、安倍晋三の祖父(岸信介)の頃からこだわって来て、また孫の安倍晋三もこだわっている憲法改正問題、特に第9条問題などは、二の次、三の次の問題であると私は考える。もし、憲法改正を言うなら、憲法として欠陥や不備だらけ、曖昧だらけの現行憲法を、全面的に見直した新憲法に取り替えることの方がはるかに重要なことだし、また急がれてもいることであろう(16.3節)。
そこで、以下では、上記の最重要で、解決が緊急に求められているこれらの問題を一括して、私は「日本の最緊急最重要課題」と呼んでゆく。
ではこの「日本の最緊急最重要課題」を解決してゆくには、あるいは解決の目処や方針を明確にしてゆくには、あるいは行けるようになるには、これからの政治家は何を、どのような手順で、どのように対処してゆくことが求められるのだろうか。
それを私なりに整理してみると、次のようになる。
手順その1.先ずは政治家という政治家は、民主主義政治を行う上で絶対に知っていなくてはならない政治的基本概念の全てを、それも、それらを体系的に我がものとすることである。
それは、例えば次の諸概念だ。
国家、国、政治、政治家、権力、議会、最高権、政府、内閣、執行権、三権(分立)、民主主義、議会制民主主義、立憲主義、憲法、法律、主権、独立(国)、自由、平等、共同体、市民、権利、人権、統治、首相、閣僚、自治、公務員、独裁、そして法の支配と法治主義、等々。
実際、これまでのこの国の政治家という政治家は、私からみると、これらの諸概念をいい加減にし、また曖昧なままにしながら、しかし自分では“知ったつもり”になって政治家をしてきただけだ、と思う。というより、代々、一人ひとりが自分で近代民主主義政治の成立過程を学ぶというのではなく、自ら閉ざした日本の政界あるいは井の中の蛙的政界で、先人がやってきたことを、やってきた通りにただやって来ただけだし、また今もやっているだけだ、と私は断言する(2.2節)。
もし、近代民主主義政治の成立過程をきちんと学び、その中で上記諸概念をきちんと理解していたなら、今、この国は、世界から見て、政治的にこれほど情けなくまた恥ずかしい状態の国にはなってはいなかったはずだからだ。
なお、上記諸概念を理解する上で特に重要となるのは、私は、国家、権力、民主主義、議会、政府、法の支配と法治主義であろうと思う。
またその中でも、国家については、「国家と国との違い」、権力については「権力は何に拠るか」、したがって「権力は移譲できるか」、「権力は、誰によって、どのように行使されねばならないか」、また「どのような権力行使は許されないか」ということの理解と、議会と政府について、「その両者のあるべき関係」ということの理解であろう、と思っている。
とにかく、何回でも言うが、国会を含む議会は決して「質問」の場ではない。それも三権分立の原則を侵して、政府に向かっての。議会はあくまでも立法の場なのだ、というより、議会こそが立法の場なのである。政府、つまり内閣ではないし、ましてや官僚に立法を放任するなどもってのほかだ。
なぜなら、「立法」ということは法律を作るということであり、法律というのは国民すべてを拘束力を持って一様に規制するルールな訳だから、最高度の権力行使ということになる。
したがって、政治家がその立法を官僚に放任するということは、そして官僚の作った法律に追随するなどということは、彼に選挙当選時に権力を付託した国民の信頼を裏切る最大の行為であると同時に、国民の代表であるはずの者が、国民の公僕でしかない者に国の運営を放任するということであり、もっと言えば、国民の代表であるはずの政治家自身が、官僚(役人)独裁を推し進めていることでもある。
したがってその行為は国民への裏切り行為であり、その意味するところは、考えられる通常の犯罪、例えば、窃盗、詐欺、強姦、放火、ひき逃げ、飲酒運転、また止むに止まれない事情による殺人、等々とは比較にならないほどの重罪だ。もちろんそれは、「政治資金規制法違反」とも比較にもならない。なぜなら、立法されたそれは、すべての国民の生命と自由と財産に直接影響をもたらすからだ。窃盗、詐欺、強姦、ひき逃げ、等々は国民すべてには影響をもたらさない。影響の範囲も、一時的だし、一地域に限定される場合がほとんどだからだ。
むしろその立法権力移譲行為は、民主主義議会制度あるいはその政治体制そのものへの裏切りであって、その意味では国体への反逆罪に相当する。したがって、本来だったら、そのような立法権力移譲行為を働いた政治家は極刑に処せられるべきなのだ。もし、そのような法律があったなら————もちろん己の甘い政治家たちが、そのような法律を制定するはずはないが。そうでなくても官僚に依存しているのだから————。
なお、議会の政府への質問は、決して「議会の執行機関へのチェック機能」を果たしていることでもなんでもない。
なお、国が国家と言えるためには、当然、政府内の組織は「縦割り」となっていてはならない、ということの理解も含まれなくてはならない。
なぜなら、「縦割り」が温存されたままであったなら、政治的説明責任の中枢などあり得ないし、
社会のあらゆる個人や団体が、合法的に最高な一個の強制的権威によって統合されることなどあり得ないからだ。
また憲法とは、「国の統治権、根本的な機関、作用の大原則を定めた基礎法。国家存立の基本的条件を定めた根本法」(広辞苑)であることを理解するなら、もちろんそれは安倍晋三が言うような「国の理想を明らかにするもの」ではないことは明らかであって、例えば、中央政府の法的地位・管轄事項・権限の範囲と、地方政府の法的地位・管轄事項・権限の範囲、そして両者による共同管轄事項をも明確にされねばならない、という理解も含まれるはずだ。
つまり、この点だけを見ても、現行憲法は、不備である、あるいは欠陥を抱えている、ということが判るのである。
実際、こうしたことどもが憲法上において明確化されていなかったがゆえに、この度の新型コロナウイルス感染対策に当たっては、中央政府と地方政府の間で、その対応の仕方のズレ、あるいは調整に手間取り、その結果、一体どれほどの人をしてコロナウイルスに感染させてしまい、また死に追いやってしまったかしれない。
また統治ということを理解するなら、政府が国民に向けて発することはすべて、既に公布されて確定した法律に拠ってのみ行われるべきで、臨機の命令や指示によって為されるべきではない、ということである。それが「法の支配」ということでもあるのだから。
もちろんその場合、国民にとって必要な法律は、議会の政治家たちが、あらかじめ議会で議論して、法律として定め、公布しておく必要がある。
手順その2.政治家が、特に一国の政治的最高責任者が、あるいはその者が公正に任命した一人の人物が、この国の「日本の最緊急最重要課題」のそれぞれについて、余すところなく、正確、かつ論理的に————「丁寧に」、ではなく、また「情緒的に」でもなく————全国民に向かって説明することである。
そもそも、物事を「説明する」とは、客観的事実あるいは客観的真実のみを用いながら、必要なことを、隠すことなく、なぜそうなっているか、なぜそうするか、いつまでに何をどうするか等々、相手が知りたいと望んでいること、相手に理解してもらいたいと思うその全貌を、論理をもって述べることなのだ。
そして説明後、国民から質問があるなら、その質問がなくなるまで、政府は、あるいはその政治的説明責任の中枢となる人物は、それに誠実に答える。
そして最後に、国民には多大な負担をかけることになるが、自分たちが先頭を務めるゆえ、なんとか協力してもらいたい、と不退転の決意を持って、心を込めて訴える。
手順その3.上記の国民への状況説明と協力依頼を国民から受け入れられたなら、後は、政治家たちは、全員が、次の手順に沿って、自分たち政治家の使命と責任を果たしてゆくだけである。
まずは立法機関である議会の政治家について。
①一人ひとりは、「日本の最緊急最重要課題」について、その中の個々の問題について、秘書の力を借りて、あるいは秘書を通じて、しかるべき科学者あるいは専門家に尋ね、教えを請いながら、徹底的にデータと情報を集め、実情を把握する。
②一方、選挙の時以来、各々の政治家が国民の前に掲げてきた公約の中身を再検討し、「日本の最緊急最重要課題」の中のどれかと関連づけられないかと吟味し、検討する。
③もし関連づけられるものがあったなら、それらを一緒に解決する方法や手段を秘書とともに、あるいは科学者専門家と共に検討する。
④その検討結果を携えて、議会内で議論し、相手を論破したり、説得したりして、最終的には多数の賛同を得ながら、多数決を通じて、一つひとつ、公式の政策や法律と成してゆく。
なおここで特に重要なことがある。
それは、ここでの立法については、既存の法体系との間で齟齬が生じ用途も、それには全く構うことなく独自に立法すればいい、ということである。
なぜなら、とにかく時代にあった法律、この国を持続可能とする法律を定めることこそが大事なのだから。
それに、法理論の観点からは、新たに作られた法が旧法や在来法よりも優先されるのである。
そしてその在来法は、おそらくその大多数は、官僚の作った、国民のためというよりは官僚たちの利益に貢献する、官僚組織に好都合な法律であろう。そのような法律は、躊躇なく廃棄処分とすればいいわけである。
したがって、もうこれからは、例えば「内閣法制局」など一切気にすることなく、政治家が政治家同士で、議会において、どんどん立法してゆけばいいのである。そしてそれは、それだけ官僚独裁を消滅させることでもあり、新しい日本に生まれ変わらせることでもある。
⑤なお、その間、突発的に、国民の「生命・自由・財産」に関わる大事が生じた際には、すべての政治家は、ある者は市町村議会議員として、ある者は都道府県議会議員として、そしてある者は国会議員として、速やかにその現場に自ら秘書とともに足を運び、状況を克明に調査し、また被災された方々の訴えにも誠実に耳を傾け、そこで掴んだ事実の全体を個々人として、あるいは政治家同士で互いに協力し合いながら、大至急まとめる。
そしてまとめたそれらを携えながら、対処方法を決める上で助言をしてくれそうなその分野の専門家や科学者を訪ねて、一緒に対処方法を練る。
そこである程度の見込みある対処方法が定まったなら、各政治家はその対処方法を携えて、今度は、臨時議会を開く。それは臨時市町村議会、臨時都道府県議会、臨時国会である———通常議会を待ってなどといった形式張ったことを言っていないで———。
その臨時議会で、目の前に起こっている大事件にベストな状態で対応しうる新しい条例なり法律なりを制定するのである。もちんその場合、必要な予算をも思い切って付ける。
次に、執行機関である政府の政治家について。
そこで言う政治家とは、中央政府では、総理大臣であり、閣僚である。地方政府では、首長、すなわち、市町村長であり、都道府県知事である。
①議会が、上記の手続きを経て議決した法律なり政策を受け取る。
②政府は、それを忠実に、そして迅速果敢に執行するのである。
それを可能とするために、中央政府では、その中枢である内閣において、その執行方法を、最大の効果を上げる方法とするための議論をする。それが閣議である。それが本来の閣議のありようなのだからだ。
③そしてその執行にあたっては、すべての不省庁が、連携して協力する。
もちろんそこでは府省庁間の「縦割り」は、各閣僚全てが協力しあって敢然と打破する。
その時、抵抗したりサボタージュを決め込む官僚は、憲法第15条第1項に基づき、閣僚は、人事権を正当に行使して、躊躇なく罷免するか降格する。
その人事権という権力は、もともと国民の代表は、政治家になった時から主権者である国民から与えたれているのだからだ。
④閣僚は、議会が決めたことの執行にあたっては、公僕たる官僚に適切に指示を下してはコントロールして、最高度の効果を上げるよう、効率を上げて、執行をやり遂げる。
以上の経緯から読者の皆さんはただちに気付かれると思うが、この国のこれまでの政治家は、国政レベルであれ、地方政治のレベルであれ、明治以来この方、以上のような行動をとったためしはたったの一度もなかったのである。
「言論の府」であり立法機関であるはずの議会では、政治家がして来たことと言えば、幾度でも言うが、ただ質問だけだった。
そんな状態だから、前例のない大災害が起っても、議会としては一向に動かず、被災者への対応は基本的にはいつも政府に任せっ放しにしては、自分たちは傍観して来ただけだった。
ところがその政府は政府で、その中枢を占める内閣の政治家(首相と閣僚)の態度は、官僚組織の「タテ割り」状態を放任したまま、その役人らが、国民の命や幸福を第一に考えるというのではなく、彼らが所属する府省庁の既得権益を守ることを最優先にして出して来た政策にもっぱら従い、操り人形となって来ただけだった。
したがって、大災害時にはよく言われてきた「初動体制の遅れ」は、その本質は、すべて、政治家の官僚(役人)依存によるものだった。というより、普段から官僚(役人)に依存し追従することに慣れてきてしまっているために、イザッという時、総理大臣も閣僚も、何をどうしたらいいのかわからなくなってしまうのだ————このことに関連して、心配されるのは、政治家の「シビリアン・コントロール」の能力の問題だ————。
こうしたこの国のすべての政治家の使命放棄という無責任の結果、つまり議会の怠慢と政府のそうした官僚依存と追従姿勢に因って、大災害のたびに、被災者となった国民は、決まって翻弄され、いつまで経っても希望も展望も見出せない中、精神を患ったり、絶望のあまり自殺する者も出たりするという悲惨な状態を繰り返して来たのだ。
実際、「3.11」による被災者は、丸9年経った今もなお、1万人以上の方々が仮設住宅住まいを強いられ続けている。未だ実態が公表もされていないが、新型コロナウイルス禍の今、果たしてどれだけの人々が、「自助・共助・公助」ばかりを建前とする自国政府によってすら、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」をも保障されずに、自ら死を選んでいることか。
6.2 これからの日本国民一般にとくに求められる生き方
6.2 これからの日本国民一般にとくに求められる生き方
本節では、第2章の2.2節(2020年8月11日発信 ただし、現在改訂中)、前5章の5.1節(2020年9月13日発信)を教訓とし、さらには前節(6.1節)にて私なりに想定されるとしてキーワードをもって描いて来たこれからの時代のパラダイムというものを土台にして、私たちが日本国民としてこれからの時代を生きるに当って、とくに重きが置かれなくてはならないと私には思われる生き方について考えてみる。
なぜそれを考えるか。それは、一言でいえば、日本国民がこれまでのようなものの考え方や生きかたをしていたのでは、この国はダメになる。世界でもますます通用しなくなる。その結果、ますますこの国は世界からまともに相手にはされなくなって孤立化を深めてしまう、と私には危惧されるからである。もちろん国民は自国に誇りも自信も持てなくなる。
それはこう言い換えてもいい。これまでのようなものの考え方や生き方を続けていたのでは、今後、この国の内部だけではなく全人類的難題が生じたとき、日本は国際社会の中でその生き方が理解されず、また共感も得られないものの考え方や生きかたをしているために、自ら孤立を深め、さらにはそこにこの国は真の国家ではないという事情も加わって、日本だけが全く身動きの取れない事態に陥ってしまって、自滅させてしまう可能性が大となるのではないか、と。
実際、1930年代から40年代前半までの日本がそうだった。世界を知ろうとはせず、独善に陥り、一人孤立の道を選び、それに突き進んで行った挙げ句、国を破滅させてしまった。
では戦後から今日までの日本はどうだったか。「先進国」と呼ばれるようにはなっても、その実態は、既述してきたように(5.3節)、世界一般とは全く違う発展のさせ方をしてきた。その結果が「富める国の貧しい国民」、「うちひしがれた人々の国」になった(K.V.ウオルフレン「システム」p.14,16)。
今後についても、もしもこの国が、独立国とは名ばかりで、経済と軍事の超大国に主権を譲渡しては保護国のごとくに追随し、相変わらずGDPを上げることだけが国のあり方であるかのような視野狭窄で目先主義にこだわっているようでは、この国はますます貧相な国、情けない国とならざるを得ず、世界からは、ますます「価値ある国」、「信頼できる国」とはみなされない国になってゆく可能性は十分にある、と私は考える。
実はそれは、これからは一国だけではどうにもならないから、ますます国際社会が協力しあって難問解決にあたってゆかねばならない状況を考えるとき、この国が世界からそうみなされてしまうことは、それ自体がこの国を危うくすることなのだ。
そうでなくとも、世界の大多数の国々は、先進国か新興国か途上国かを問わずに、人類の存続がかかっている地球温暖化および気候変動の激化、生物多様性の崩壊という事態を食い止めようと政府と国民一人ひとりが真剣に取り組んでいるというのに、この国では、政府も国民の大多数も、そんな重大な問題に関しても、相変わらず損得勘定の中で、「あなた任せ」「成り行きまかせ」の態度で、無関心のままだ。
そこで私は、これまでのこうした生き方は綺麗さっぱり返上し、これからは、私たち日本国民は、せめて次に上げるような生き方に、それも大至急、転換させてゆくことが求められているのではないか、と私は考えるのである。誰からか。それは私たちの子や、孫たちからである。私たちがこれからの時代を背負って立って行ってもらいたいと願う世代からである。
そしてそうした転換は、決してできないことではないはずだ。
実際、日本国民は、過去、少なくとも2度はそういう体験を経て来ているのだし、それをやり遂げて来てもいるのだから。
1度目は、江戸幕末から明治維新にかけて。2度目は、アジア・太平洋戦争の無条件敗北の前後で。
ただ3回目の今回が、過去2回のそれと根本的に異なるのは、力ある者から押し付けられてそうするのではないことだ。また、「他者がそうするから、みんながそうするから」でもない。各自が、それぞれ自分の頭で、なぜそうしなくてはならないのかと、とことん考え、納得の上で、自律的に転換することが求められていることである。
1.どんな理由があろうとも、政治に無関心となるのはやめよう。「関心を持っても無意味」と考えるのもやめよう。
政治とは、「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営みのこと」と定義されることから明らかなように(広辞苑)、政治こそが、私にとってもあなたにとっても、生きて暮らしてゆく上で、その人生の幸不幸を左右するあらゆる制度や仕組みを「秩序」として決めることができてしまうのだから。
あなたがたとえ無関心でいても、あるいは不信感を抱いていても、政治の方からあなたに「強制力」を備えた「秩序」を引っさげてやってくるのだから。
それに、無関心でいたら、いつかあなたにとっても、悔やんでも悔やみきれない事態になってしまう可能性も高いから!
1.そして、政治に関心を持つとき、とりわけ「権力」というものの行使のされ方に注視しよう。権力とは、「他人を押さえつけ支配する力」のことである(広辞苑)。
とくに立法、すなわち法律を作るということは最大の権力行使なのだ。
なぜなら、法律は、一旦できてしまえば、全ての国民が、無条件に、拘束し支配されることになるからだ。
1.そしてその場合、「権力」の行使は、被支配者あるいは被統治者である私たち国民の「合意」が絶対に必要な「前提」となることも知っておこう。それは、私たち主権者の合意なくしては権力の行使は「許されない」ということでもある。言い換えれば、定まった法律に基づいて、その権力は行使されねばならない、ということである。「法の支配」とはそのことを言っている。
なぜなら、もしその「合意前提」がなかったなら、権力の行使は歯止めがなくなり、政治家は、一旦政治家になったならどんな法律も作ってしまえることになる、ということから直ちに判る。
なお「法の支配」に似た考え方に立つもので「法治主義」がある。それは、行政権の行使には法律の根拠が必要であるとするものである。
1.国民の生命と自由と財産に関わることの決め事と決め方については、いつでも、どこでも、「透明性を保て!」、「密室で物事を決めるな!」と、声をあげよう。
そして、つねに、「物事は民主主義的に決めよ!」と声をあげよう。
民主主義とは、デモクラシー、すなわちクラシー(権力)はデモ(民衆)にある、権力は国民が行使する、という意味なのだから。
1.そして「物事を決める時には、つねに『手続き』を透明にせよ!」と声をあげよう。
1.物事やルールを決めるときには、曖昧さを排除し、恣意性が介入することを防ぐために、最大限、具体的に明確にしよう。また、役割を決めるときには、それぞれの役割と、相互の関係も明確にしよう。
そうすることで、後々、問題が生じたとき、スムーズに対処できるようになるからだ。
1.「目先」や「損得」、「その場しのぎで」で物事や現象に対処するのはやめよう。
できるだけ「長い目」で、せめて10年のスパンで、できれば人の一生の長さである80年のスパンで考えよう。
1.憶測だとか想像あるいは噂やデマあるいは風評に流されることなく、また自分の気分や感情に流されずに、つねに「事実は何か」や「真実は何か」に、そして「真理とは何か」にこだわろう。
そして「真実への勇気、正義への勇気」を持とう。
1.宇宙がいかに広いといえど、宇宙にはいかに無数の星があろうとも、私たち人間が裸で過ごせるのは、この地球しかないことをつねに知っておこう。
地球こそ、人類と他生物のすべてを乗組員とした「運命共同体」なのだから(バックミンスター・フラー 「スペースシップ・アースの未来」NHK BS12013年11月26日)。
そんな中、いつも、「人類全体の共通の価値」(K.V.ウオルフレン)とは何か、「人類の大義」、さらには「人類全体に対する忠誠」(ネルー首相)とは何か、を考えよう。
また、その上で世界全体の平和のあり方を考えよう。
1.何を為すにも、できるだけ、「何のために」それをするのか、「誰のために」それをするのか、つまり、動機や目的を明確にしてから取り掛かろう。
1.特に政治の世界や行政府において、不正だと思える事があったなら、それを黙認しないで、「不正だ!」との声をはっきり上げよう。「秩序」を言う前に「正義」を行え、と訴えよう。
なぜなら、正義の上に成り立つ秩序こそ、守るべき価値あるものだから。
1.同様に、言葉の「意味」を曖昧なままに用いるのではなく、つねに自分でその意味を確かめ、正しい言葉を、正しく用いるようにしよう。
なぜなら、用いる言葉が曖昧であるということは、自分の頭の中が明確に筋道立っていないことであり、また聞く側も正確に理解もできず、双方にとって無意味な時間を過ごしていることになるからだ。
1.物事についてより多くを「知る」ことに拘るよりは、先ず自分の頭で「考える」こと、「判断する」ことを優先させよう。
なぜなら、イザッという時に本当に役立つのは、まずは情勢を観察あるいは洞察する力であり、情勢を分析する力であり、決断する力であるからだ。
その際役立つのは、自分の頭で「考える」力であり、「判断する」力なのだから。
知識の量は、ないよりはあったほうがいい、という程度のことだ。
1.起こった出来事についても、表面的に見ようとはせずに、事の「本質」を考えるようにしよう。
なぜなら、その本質こそが表面的現象を生じさせているのだから。その本質を捉えた変革こそ、本物の変革となるのだから。
1.「継続は力なり」とは言うが、続けることそのものに意味があるわけではない。時代遅れとなり、不要となったシステムや慣例は勇気を持って廃棄しよう。そして現状や時代に適合した仕組みを考え出し、それを導入しよう。
1.また、自分のしていることに行き詰ったときには、「理念」や「原点」というものを再確認しよう。そして間違っていたと知った時には、「面子(メンツ)」などにこだわることなく、潔く、また勇気を持って撤退するか中断しよう。そしてその時「教訓」を引き出そう。
なぜなら、間違っていたことをし続ければし続けるほど、傷を深め、犠牲を多く出すことになり、回復は困難となるからだ。そして教訓は進歩と発展を可能としてくれるからだ。
1.自分が関わったことや自分が為したことについては、言い訳をするのはやめよう。
たとえ自分が集団行動の一員であっても、一人ひとりはつねに当事者意識を持とう。
つまり自分にも責任があることを自覚しよう。そして嘘をつくことはやめよう。
嘘は、すべての人の努力を無にしてしまうから。
1.どんなに科学が進歩したところで、自然を解明し尽くせるものではないし、ましてや自然を克服したり支配したりすることなど絶対にできないことを知ろう。と言うより、人間は、自然力の前では全く無力であることこそ知っておこう。
そして、科学はあくまでも「知性」の産物であって、「理性」の産物ではないことも知っておこう(真下真一「学問・思想・人間」青木文庫)。
したがって、科学の成果が人間にとって有益となるか否かは、ナイフなどの道具と同じで、あくまでもそれを用いる人間の考え方次第で決まることを知ろう。
また、科学の法則的応用としての技術については、それが人間により大きな利便性をもたらす技術であればあるほど、同時に他方では、必ず、その利便性とは逆の、すなわち負の利便性とも言うべき極めて厄介な効果を、それも正の利便性とは比べ物にならないほどの空間的広がりと時間的長さをもって人間にも社会にも自然界にももたらすことをも知っておこう(7.4節 2020年12月30日発信)。
1.公務の世界での出来事については、またたとえ日常の会議でも業務でも、常に「公式記録として残せ!」と声をあげよう。
そして「失敗したなら、それを隠さず、そこから教訓を引き出し、それを生かせ!」とも、声をあげよう。
公務あるいは公共事業は、役人のポケットマネーでやっているわけではなく、全て国民が納めたお金(税金)を使って成り立っていることだからである。
1.他生物との共生を大事にしよう。多様性を大事にしよう。
自分が嫌いな他生物も、私たちの知らない自然界では立派に存在意義を果たしているであろうことを知ろう。
1.「自由」の意味を、そして「多様性」の意味を、深く考えよう。
1.「権利」ということの意味を、「法」というものの意味を、結びつけて考え、我がものにしよう。本物の「市民」になろう。
1.他者を「肩書き」や「見かけ」で判断するのはやめよう。「中身」を、「その人自身」を見よう。
1.他者の言葉や著名人の言葉を鵜呑みにしたりに流されたりせずに、またSNS(ソーシャル ネットワーキング システム)上に飛び交う言葉にも流されずに、まずは自分の頭で考え、判断しよう。発信者が明確であること、飛び交っている言葉が示している出来事の根拠が明確であることに重きを置こう。
1.人は、どんな人でも、誰でも————つまり、貧富の差、健常者と体に障害を持っている人の別、思想信条の違い、信教の違い、肌の色の違い、国籍の違い、もちろん男女の違いを超えて————、人間として生きる権利がある、それだけの尊厳もある、一人として生きる価値のない人はいない、存在するだけで意味がある、ということをみんなで認め合おう。
1.誰かに困った事が起ったら、あるいは起っていることを知ったなら、「知らないふり」をしないで、いつでもそれをみんなの共通の問題として捉え、それをみんなで話し合って解決策を見出し、見出したそれをみんなで実行しよう。
1.目に見えるものよりは、むしろ目に見えないものに私たちは生かされ、また支えられていることを知ろう。
たとえば人の心であり、土壌中の生き物たち。
1.便利で重宝そして万能とされる「お金」ではあるが、それをどんなに多く持っていても、決して買えないもの、「値段」の付けようもないものもあるということを知ろう。
とくに人の命であり、心であり、健康である。
しかし、自分の納めた税金という「お金」の使途には関心を持とう。
1.人間は、自分が生き延びるためにはここまで残酷になれる動物だ、他者の痛みや苦しみにはここまで無関心でいられる動物だ、ということは知っておこう。
以上を補足する意味で、私は次の二つのことについて、私なりの考えを述べてみようと思う。
1つは、「自分を持つ」、あるいは「自己を確立させる」ということの大切さについて。
もう1つは、これからの時代の宗教とそのあり方について、である。
まずはその第1の、「自分を持つ」、あるいは「自己を確立させる」ということについて。
自分を持つあるいは自己を確立させるとは、いつでも、自分の意見や価値観を明確に持つということである。物事については、他者の言葉や時の情勢に流されることなく、いつも自分の頭でものを考え、判断し、決断するということである。またその結果については、自分で責任を負える、ということである。それは、言い方を変えると、つねに「自らに由っている」、「自身を経由させる」という意味で、本当の意味で「自由」になるということだ(4.1節の「自由」の再定義を参照)。そしてそれは、「みんながしているから自分もする」とか、「赤信号もみんなで渡れば怖くない」といった類いの生き方とは対極に立つものだ。もちろん自分を持つことが出来なければ、社会にあっても、あるいは集団内にあっても、当事者意識も持てるはずもなく、責任を持つという意識も生まれようがない。それでは社会という共同体に生きる意味も資格もない。というより、自分が人間として生きる主体的な意味や目的など見出せるわけもない。
また、自分で自分を持つということは、同時に、他者が他者自身を持つということを容認することでもある。つまり、「自分を持つ」ということは、他者が多様であることを認めること。というより、「誰もが互いに違っていて当たり前」と考えられるようになることだ。
それはもともと人間とは、その本性において自由を好み、またそれを求めるものなのだから、「みな、違う」のは当たり前のことなのだ————歴史の発展とは、人間の人間による人間のための自由を求め、実現させるための試みだったのではないか————。違った皆のそれぞれが、違ったままを認め合い、この現実の社会で存在価値を持ちながら、互いに支え合うのである。だからこそ社会は面白いし、だからこそ、そんな社会には生きる価値があるのである。
そもそも、みなが画一的で、均質的で、同じであったなら、つまり自分も他者も皆、同じだったなら、他者は鏡の世界の中の自分となる。あるいは皆が皆、クローンとなる。
そのような社会あるいは集団は、一旦何か存在を脅かすような事態が起これば全滅しかねない。実際、自然現象や社会現象は、無数の形態を持って現れるのである。その時、それに対応する力を持ち得ない。つまり耐性がない。脆いのである。
それにそんな社会や集団では、一人ひとりの存在意義や価値は特になくなる。なぜなら、そこでは、いつでも、誰もが、他の誰かと取っ替えることが容易になるからだ。一人ひとりが「掛け替えのない」存在ではないからだ。もちろんそんな社会は、誰にとっても、生きがいを感じられる社会でもないし、誇りも自負も感じられることもなく、また自信も生まれようがないのである。
また、「自分を持つ」あるいは「自己を確立させる」とは、自分をごまかさず、自分に誠実になることでもある。
そのためには、私たちはもう物事を「建前」ではなく、つねに「本音」で語ることが必要なのである。少なくとも、社会に「建前」と「本音」という二通りの生き方があり、それが公然と容認されていること自体、それは異様で異常な社会だ。
なぜなら、建前を語るということは、言ってみれば、“自分は、今、事実を語ってはいませんよ”、 “この場を言い繕っているだけです” と言っていることでもあるからだ。そしてその場合、聞き手も、そのウソをウソと承知で、あるいはそれを容認して聞いているということだからだ。
そしてそのこと自体、この国の現実社会を、皆が皆、「ウソがまかり通る社会」としていることである。
確かに本音で語るということは、場合によっては「対立」は避けられないかもしれない。しかし、対立を恐れてお互い本音で語り合うことが出来ずに建前でばかり語り合っているところでは、物事が上辺だけのこと、形式的なことだけで済まされてしまい、真の意味での相互理解など出来るはずもない。そして真の意味での相互理解が成り立たない社会では、たとえどんなに「絆」を強調しようとも、強固な信頼関係も築けるはずはないのである。強固な信頼関係の築けない社会では、非常時、人々の強い結束と協力が得られるはずはない。むしろバラバラになりかねない。
国も社会も、すべて、人々の共同体である。そこでの人々を深いところで繋ぎ止めるのは、強制力でも法律でもない。人々相互の「信頼」だけだ。相互の間にその信頼がなかったら、何をしようにも、何を訴えても、人を動かせないし、また人は動かない。人を動かせなくてはその国その社会にとっての難題は克服できない。
ただし、どんなに本音で語り合うことが大切とは言っても、相手を尊重し、相手の立場を思いやりながら語るということはいつでも忘れてはならない。そうであれば、人間というものは最終的にはきっと相互理解に達しうるものだし、むしろそのことを経ることで、より大きな連帯感が生まれるものなのではないか、と私などは信じるのである。
とにかく、「建前」がまかり通る社会というのは、事実や真実が曖昧にされたままの社会のことであるし、ウソで塗り固められた社会でもある、ということだ。
そんな社会では、相互理解や相互信頼はおろか、多分、共感も、思いやりも、やさしさも生まれないだろう。そんな社会は真の共同体ともなり得ず、したがって本物の民主主義も育ちえず、すべてが形式的で上っ面なものになり、むしろ一人ひとりを互いに孤立化させてしまうしかない。
私は、この国をしてそのような上辺ばかりの社会、建前ばかりの社会にして来た最大の原因の1つが、古来の「和」という考え方あるいは精神であったと考えるのである。
その語の生みの親である聖徳太子の十七条憲法を知れば判るように、その第一条には、「和をもって貴し」としながらも、続いて「忤(さから)うことなきを宗とせよ」(井上茂「法の根底にあるもの」有斐閣p.220)と釘を刺している。このことからも判るように、十七条憲法が最も重視しているのは、善悪の区別もなく、正義不正義の区別もなく、とにかく対立を起こさせず、ただ社会の秩序を維持しようとすることだけなのだ。そしてその動機も、民衆の立場に立とうとするものではなく、また慈悲を尊ぶ仏の立場に立ったものでもなく、ただ統治者の立場に立った統治者の地位を安泰にさせるためのものでしかなかった、と私は考える。
人間社会の真の秩序は、人間相互の間の理解と信頼が基礎にあり、しかも正義が行われていて初めて成り立つものである。またそうであってこそ真の秩序は維持できると私は考えるのである。その意味で、上から言われて、あるいは上辺だけ繕ろう形で言われて、成ることではない。
とにかく、望んで対立を起こす必要はないが、対立を恐れることはない。そして、対立が生じても、それをなかったものとして覆い隠してもならない。それをしたなら、いつまでもくすぶってしまう。
むしろ、真の和は、その対立を対立として受け止めて明らかにし、当事者間で向合い、既述のように、互いに相手を尊重し、相手の立場を思いやりながら本音で語り合うところにしか生まれない。
なおここで、最近よく聞かれる「自分らしく」という言葉について考えてみようと思う。
果して「自分らしく」、例えば「自分らしく振舞う」とはどういうことを言うのであろう。
一見心地よく聞こえはするが、しかしよく考えてみると、それは私には非常に奇妙に感じられる言葉遣いなのである。
なぜなら、「自分らしく」と言う以上、「自分があること」が前提となっているはずである。しかし、その実、この言葉遣いは、これまで、どちらかと言えば、自分は自分というものを持っていなかった(のではないか)ということへの悔恨の意味が込められて用いられている、と思うのである。なぜなら、もし、いつも自分というものを持っているという自負があるのなら、あえて「自分らしく」などと、自分で自分に言い聞かせ、励ますような言い方をする必要がないからだ。
ということで、この言葉遣いは、矛盾した言い方になっているのではないか、と私は思うのである。
したがって、いつも自分を維持できない自分に言い聞かせ、自分を持てるよう励ますためならば、その場合はむしろ、「ありのままの自分でいたい」とか、「ありのままの自分を大切に」という言い方の方が、率直で、自分に誠実な言い方になるのではないか、と私は思うのだが。
第2は、これからの時代の宗教とそのあり方について、である。
私は、これからの時代を生きて行くのに、とくに重要な意味を持ってくると考えられるのが「宗教」なのではないか、と考える。
それは、今後は、人知や人力の遠く及ばない事態や現象が頻発してくると想われるが、そのとき大きな拠り所になるのが宗教なのではないかと考えるからである。
ただしここで私の言う宗教とは、この国で従来から言われて来ている宗教とは、その概念は多分かなり違うであろう。
ヒトに限らず、生物は皆、絶対的に平等に、いつかは必ず死ぬ。しかしいつかは死ぬことを知って生きているのは多分人間だけであろう。そして死んだとき、それまでの自分の記憶は全部消滅する、意識もなくなるということを知って生きているのも人間だけだろう。さらには、死んだ後どうなるかは誰にも判らないということを知って生きているのも人間だけだ。
だから死ぬことは誰にとっても怖い。特に健康な人にとっては。
そしてそれが人間の普通の心理なのではないか、と私は思う。
また人間は、どんなに科学技術力を進歩させ得たとは思っても、圧倒的な自然の威力を前にした時には、全くの無力であることを思い知らされる。さらには、普段は自分のことが判っているつもりでいても、ひとたび窮地に陥ったときには、自分で自分のことをどうしたらいいのか判らなくなるし、自分がどういう人間であったかということさえ判らなくなってしまう自分を思い知らされる。
そんなとき、人は、「自分は、一体何を考え、何のためにこれまで生きて来たのか」、「何のために、今を生きているのか」、「これから、自分は一体何のために、どのように生きて行けばいいのか」等々と考えないではいられなくなるのではないか、と私は思う。そして、そもそも「自分は一体何者なのか」、「どこから来たのか」、「これからどこへ行くのか」とか、「自分はなぜこの世界(この世)に存在しているのか」、「生きるとはそもそもどういうことか」、等々といったことをも否応なく考えないではいられなくなるのではないか、と思う。
ではそのような時、その人にとって本当に必要となるものは何か。
それは、私は、自分の生きる意味を見出させてくれて、その生き方をその人自身に確信を持たせてくれ、導いてくれるもの、と言っていいように思う。
私が言う宗教、私が意味する宗教とは、そういう導き手としてのものである。
そういう意味で、その宗教とは、もはや、たとえば「それを拝めば商売繁盛する、健康になる、家内安全が守られる、救われる」といった類いの託宣を授ける、いわゆる「ご利益宗教」ではない。祈祷すれば「五穀豊穣が叶う」といった類いのものでもない。「子どもが誕生した時には神社に、結婚式は神前あるいはキリスト教会で、葬儀・葬式はお寺で」という、人間の側のご都合主義を商売とする宗教でもない。また、「自然の中にはいたるところに神様や仏様がおわします」といった「八百万の神」の存在や、「山川草木悉皆成仏」と教えるものでもない。もちろん天皇を現人神とする国家神道の類いでもないし、歴史上の特定の人物を「神」としてしまうような個人崇拝的な宗教でもない。
また、「とにかくそれを唱えれば救われる」とする類いの宗教でもない。特別の修行あるいは荒修行をした者でしか、あるいは悟りを開いた者でしかその真髄が理解できないとする宗教でもない。
また「自分たちの宗教こそ正しく、他宗教は邪教だ」と説くような偏狭で独善的な宗教でもない。
また、象徴となる教祖とか始祖または開祖という人物の教えを教義とすることで成り立つ宗教でもない。また、象徴となる特定の人間の会得した教えや、その人の親族を形にした偶像を拝ませることで成り立つ宗教でもない。さらには、特定の秘物や特定の自然物を祈りや祈願の対象とすることで成り立つ宗教でもない。
では、果たして私が意味するような宗教とは、具体的にはどのようなものか。どうすれば、それを求める一人ひとりに、それぞれの生きる意味を見出させてくれて、その生き方にその人を導いてくれて、確信を持たせてくれるものとなるのか。
私は、それには少なくとも、人間が人間として生きて行く上で必要とするこの世の政治や経済そして文化をも含む主たる社会的な制度や仕組みのあり方を根本のところで示唆してくれるものである必要があるのではないか、と考えるのである。
アリフィン・ベイは、真の宗教あるいは本来の意味における宗教とは、「政治も経済も文化もすべてがその中でそれぞれの位置を占めるような“包括的な世界観”」のことだ(アリフィン・ベイ「アジア太平洋の時代」中央公論社p.144)と言った。
同じことを言っているように見える。
が、それはこのことを意味するのではないか、と私には思われるのである。
しかし、これをさらに私なりに敷衍して言えば、これからの時代の宗教とは、個々の人間はもちろん、その集合体である社会も国もまた世界をも包み込みながら、自然界あるいは全宇宙の森羅万象を無矛盾なままに成り立たせている法則や原理あるいは自然法や宇宙的秩序そのものなのではないか、とも思われるのである。
とすれば、それゆえに、その時、その宗教こそが全ての人間が無条件にひれ伏し従わねばならない教えとなるのではないか、と私は思うのである。
そして、これからの宗教とはそういうものであるべきではないかと捉えた時、その宗教はこれまでのすべての宗教を、一段も二段も高い位置から包摂した宗教となりうるのではないかと私は考えるのである。
その結果、私たちには、そこに少なくとも次の3つの大きな期待を抱かせてくれるのである。
その1つは、その宗教は、これまでの宗教間対立や宗派間対立を克服してくれるのではないか、というものだ。
たとえば、互いに、自分たちの神以外に神なし、この教えだけが絶対に正しい、正義は1つ、神も1つ、と主張し合ったなら、その教えを信奉する2つの世界は、対立せざるを得ない。
事実、例えば、キリスト教世界とイスラム教世界のこれまでの長い、そして時には凄惨な事態をもたらした対立の根源的理由はそこにあった。
今日もなお、世界のいろいろなところで、宗教対立あるいは同一宗教内での宗派間の対立が続いている。
それは、その信仰生活において、互いに真理を求め、幸福を求めているもの同士のあり方として、悲劇だし、悲惨なことだ。
そしてそこには、国連といえども仲裁にはなかなか入り得なかった。
でも、もし、世界が、これからの宗教を既述のようなものと捉え直すようになれば、————宗教対立の長い歴史を見れば、事はそんなに単純なものではないかもしれないが————、それでも、かつてあった幾多の宗教間の対立も、宗派間の対立も、ぐっと少なくなって行くのではないだろうか。そしてそれだけ、世界は、平和へと大きく前進できるのではないか。
もう1つは、その宗教はとくに科学者、それもとくに「知性」だけで自然と社会と人間に向き合ってきた科学者に対して、その態度の傲慢さ、人間社会への無責任さ、そして自らの独善性に気付かせてくれるのではないか、というものである。
今、科学者は自然界の秩序に手をさし入れ、それを壊している。その代表的な行為が、「遺伝子組み換え」という操作であるし、「クローン」技術であるし、「ゲノム編集」だ。
それをさせる動機は「お金」であったり、「知的好奇心」であったり、「名誉欲」だったり、といろいろあるのだろう。
しかしそれらの行為は、どれも、生命の根源に関わる行為だ。しかも、その科学者自身を生命として成り立たせているその根幹に関わる行為なのだ。
そこには共通に「遺伝子」が関わっている。しかし、その操作法や操作技術がコンピュータの発達とともにどんなに進んだとしても、生命の源である遺伝子そのものを科学者が生み出し、創造しているわけではない。またそんなことは、どんなに科学が進み、AIが進み、ロボット技術が進んだところで、できることでは絶対にないと、私は生命の神秘さを知れば知るほど確信する。科学者がやっていることは、無から有を創造していることではない。ただ、生命の根源を自身の好奇心や名誉欲に衝き動かされて「いじり回して」いるだけのことだ。
私はその行為自体、自然への、この上ない人間の冒涜だと考える。
それは完全無欠、無矛盾の秩序から成る自然を、イザッという時自分を自分で制御もできないあやふやで脆い人間が掻き乱すことだ。なぜなら、その操作によって改造されて生まれてくるのは、かつて自然界のどこにもいない、また自然界が生み出しようもない生き物だからだ。
それが無矛盾の世界を掻き乱さないはずはない。
その反動がどういう形でやってくるかは、欠陥だらけの人間、遠い時間の彼方を予測し得ない人間には誰も予想もできないだろうが、いつか、必ず、途方もない規模と形で、人間に、社会に、そして自然界に襲ってくるであろうと私は確信する。「覆水、盆に返らず」で、その時にはもう、どうやっても遅いのだ。
それはたとえば、人類が「原子爆弾」を創ってしまったことの反動あるいは功罪を考えてみると判りやすい。あるいは、今、人類が、文明という名の下に、あるいは飽くなき「便利さ・快適さ実現」への欲求の下で、日々、莫大な量の炭酸ガスという温室効果ガスを自然界に排出したり、生態系を破壊する化学農薬散布や無計画な開発行為を繰り返したりしていることがもたらしている現実を直視すると、判りやすいのではないか。
世界が今、核戦争の脅威に曝され、地球温暖化による気候の激変に直面し、生物多様性の消滅の危機に直面し、人類絶滅の危機を招いてしまっているのも、そうした行為の結果なのだから。
そこへ持ってきて、「遺伝子組み換え」操作や、「クローン」技術や「ゲノム編集」が結果としてもたらす事態は、人類が「原子爆弾」を創ってしまったことによって受けたしっぺ返しの比ではないと考える。それは、そこにもたらされてくる事態は、人間によって作られたそれが自然界に放たれたなら、それはもはや人間には制御できない形で、自然の秩序を乱し、自然そのものを狂わせてしまうことになるだろうからだ。
私は、こうした行為の愚かさを本当に気付かせてくれるのは、もちろん知性ではなく、理性であり、あるいはそれをも超えた既述の意味での真の宗教でしかないのではないか、と私は期待するのである。
そしてもう1つは、これは捉え方に人によって差が生じるかもしれないが、この宗教は、「この世」と「あの世」との関係の捉え方や理解のさせ方についても1つの解決をもたらしてくれるのではないか、というものである。
その意味は次のように説明される。
「この世」、つまり現世において、現世というものの捉え方について、もし他者に尽くした人も他者を踏みつけにした人も死ねば同じとなれば、私たちは、生きていても、その生に対して、理不尽さとか不公平さを感じ、納得しがたいものと感じてしまいがちだ。しかしこの広大無辺の宇宙の森羅万象を成り立たせている宇宙的秩序はつねに絶対無矛盾でありかつ完全無欠なはずと思え、またそう信じられたなら、自分が死んだ後の世、つまり「あの世」でも、その宇宙的秩序は絶対無矛盾かつ完全無欠なままに働いて作用を及ぼすであろうし、その結果、「この世」で善行を積んだ人は「あの世」ではきっといい思いをし、楽しく愉快に、そして幸せに過ごせるに違いないと自然に考えられるようになるのではないか。また反対に、この世で悪行を重ねた人は、あの世では悩み苦しむことになるに違いないともごく自然と考えてしまわざるを得なくなり、またそれを受け入れられるようにもなるのではないか、と私は考えるからである。
その結果、現世での生き方がいっそう大事にされ、善的行為が増え、悪的行為が漸減して行くのではないか、と推測されるのである。
こうして真の宗教とは、人間にとって、「見えない」「計り得ない」「知り得ない」世界と、「見える」世界、「測ることのできる」世界、「知り得る」世界の双方を互いに連結させ統一したものの考え方をできるようにさせてくれ、その上で、自然と社会と人間の相互のありようと、そこでの自分の人間としての生き方にも確信を持てるよう指し示してくれるもの、とも言えるのではないか、と私は考えるのである。
それだけではない。真の宗教とは、社会や国家に対しても、より多数の人々が安心と幸福を感じられる社会的制度やしくみのあり方を包括的かつ総合的に指し示してくれる羅針盤あるいは道しるべともなってくれるもの、とも私は考える。
そうなると、もはやそこでは、「政教分離」なる考え方、すなわち政治と宗教は切り離すべきだとの考え方も、それは近代以前の時代の偏狭で独善的な宗教観に基づく捉え方に過ぎなかったということになり、再検討されねばならない、ということになるのではないだろうか。
6.1 求められている新しい人間像と新しい国際人像
前回までは、拙著の《第2部》に入って、第8章と第9章について述べてきました。
しかし、今回から7回は、再び《第1部》に戻り、第6章を公開してゆこうと思います。
その章題は「私たち日本国民すべてに求められるこれからの生き方」です。
こうした内容のものを急遽公開することにしたのは、次の理由によります。
今、世界も日本も、新型コロナウイルスによる禍中にあって、多くの人々はこれまでの人生における価値観が揺らぎ、社会のあり方に懐疑的になり始めています。そして、“ポストコロナウイルスはどんな社会になるのだろう、どんな時代になるのだろう”と、その前途に不安を抱き始めている人もいます。
そこで、私は思いました。こんな時こそ、国民全体の生き方に最も強い影響をもたらす人々の、生き方の上での使命と責任を明確にする必要があるのではないか。と同時に、これからの私たち日本国民として特に求められている生き方についても、さらには、これからの時代に求められている新しい人間像とは何か、また新しい国際人像とは何か、ということについても、誰かが、試案でもいいから提案してみる必要があるのではないか、と。
今回は、奇しくも、それを私が提案することになります。
なお、ここで言う「国民全体の生き方に最も強い影響をもたらす人々」とは、公の場でものを語り、また伝えることを役割と使命とする人々のことです。私はその代表的存在が政治家であり、知識人であり、科学者ないしは研究者であり、政治ジャーナリストそして宗教界での僧侶と神主ではないかと考えます。
「これからの時代」とは、正に「ポストコロナの時代」であり、同時に、これまで私なりに命名してきた「環境時代」です。
そこで、以下が、すでに書いておいた《第1部》第6章の前文です。
前章(第5章)では、私は、私たち日本国民のこれまでのものの考え方と生き方について考えてきた。それも、混迷を深めるばかりのこれからの時代を生き抜く上では、これまでのそれをいつまでも続けていたら、自らをますます危機的状況に陥れてしまうだけではなく、自分で自分をニッチもサッチもいかなくさせ、自ら破滅を招くことになるのではないかと私には危惧されるものの考え方と生き方について述べて来た。そしてそれは、私たち日本国民にとっては、ある意味では「当たり前」のものの考え方であり生き方であり、また典型的なものの考え方や生き方ではあるが、世界の人々から見たならば、多分、特異で異常であるとすら見られてしまうものの考え方であり生き方なのではないかとし、そう思われてしまうであろうと私が推察する根拠についても、私なりに述べてきた。
また私は、そうした私たち日本国民の典型的なものの考え方や生き方と対比する意味で、第二次世界大戦で日本と同じ無条件敗戦国となったドイツの人々の生き方についても見てきた。ただしそこで言うドイツの人々の生き方とは、とくに大戦後から40年を経た後までのものであり、それも当時のヴァイツゼッカー大統領演説に盛られていた内容を通じてである。
そこで明確になったことは、その間の私たち日本国民と日本の政府のものの考え方と生き方と、ドイツ国民とその政府のそれとはまるで違っていた、ということである。
確かにそれは善し悪しの問題ではないかもしれないが、その違いの結果、日本国民とドイツ国民との間では、自国に対する自信と誇り、自国政府に対する信頼度という点では、月とスッポンほどの違いを生じ、さらには、そのことは、今日の日独両国に対する国際社会の評価および信頼度や尊敬度の違いとしても現れているのではないか、と私は述べてきた。
いずれにしても、私は、自らが自らの生き方をもって世界から信頼を失い、孤立し、場合によっては軽蔑もされ、その上さらに危機を招いてしまうような生き方、しかもその際、脆弱さを露呈し、惨めさを味わって終るような生き方だけは私たち日本国民は決してしてはならない、と思うのである。
そこで本章では、では私たち日本国民の一人ひとりは、今後、少なくともどういう生き方をして行く必要があるか、また私たちの未来世代からどういう生き方を求められ期待されていると考えられるか、ということを考えてみようと思う。
私はそれを、以下では、次の順序で考えてゆく。
先ずは、これからの時代において広く求められている人間像とは何か、また国際人像とは何かを考える。
次いで、それを日本国民一般に広げて、私たち国民一般にとくに求められている生き方とは何かを考える。
その次に、国民全体の生き方に最も強い影響をもたらすのは、何と言っても公の場でものを語りまた伝える役割と使命を担った人々であろうということから、その代表的存在としての政治家、知識人、科学者ないしは研究者、政治ジャーナリスト、そして最後に宗教界での僧侶と神主について、その人たちの生き方を通じての社会的使命と責任ということを考えてみようと思う。
もちろんその場合、これらのいずれの分野の人を含めた全ての日本国民は、その意識の底には、私たち日本国民はその一般的傾向として、前章の5.1節にて明らかにして来た、世界からは特異とされるものの考え方や生き方をしがちな傾向があるということを、それぞれが自覚しながらも、それを各自において止揚してゆくことが求められてもいるのではないか、と私は考えるのである。
6.1 求められている新しい人間像と新しい国際人像
私は、今や「近代」という時代は終わった、と述べて来た(第1章)。それは、“終ったと考える”とか、“終ったと思う”というのではない。そしていわゆる歴史家がその辺をどう考えるかというのでもない。私自身はもう、どういう角度から見ても、また考えても、確かにそう言えるし、そう言うしかないのである。そして前途には、過酷な困難が待ち受けていると考える。
それだけに、古(いにしえ)を懐かしんでいる余裕などなく、前途を切り拓く生き方を模索したいのである。
以下ではそうした見方と考え方を前提に考察しようと思う。
したがって私から見れば、これからを生きる人は皆、ポスト近代という「新しい時代」に生きる「新しい人間」ということになる。
その「新しい時代」とは、これからは人類にとっては、人類同士はもちろんのこと、あらゆる種類の生命との共生と循環を実現した「環境」としての生態系こそが何よりも人間の生きる土台となるだろうという意味で、私なりに命名した「環境時代」のことである(第4章の1節)。
ではその環境時代という新しい時代に生きる「新しい人間」あるいは「人間像」とは、何を身につけた人のことを言うのであろう。
それをここでは、第一番に考えてみようと思う。
もちろんその場合の「新しい人間」とは、こうした問題を提起する動機からもお判りのようん、何も日本国籍を持ったという意味での日本人に限った話ではない。むしろ近代の反省に立って、これからの生き方を考えようとしている人間一般のことである。
言い換えれば、近代という時代が、社会的には人間中心の時代であったことを考えれば、それを克服できた人間あるいは克服しようとしている人間、ということになる。経済的には資本主義が支配的であった時代であったことを考えれば、資本主義的なものの考え方や価値観を克服できた人間あるいは克服しようと葛藤している人間である。また近代が、化石燃料が支配的であった時代であることを考えれば、これからの私たち人類が利用させてもらうエネルギーは少なくとも化石エネルギーではないとの確信を持ち、必ず再生可能エネルギーでなくてはならないと確信し、決意をした人間である。
そしてさらには、その人間中心の価値観と資本主義と化石燃料が原因となって人類を含む地球上の全生命の存続を脅かす地球の温暖化と生物多様性の消滅の危険性を含めた広義の環境問題(第4の再定義を参照)を招いたことを考えれば、その環境問題こそ、今後、人類がもっとも関心を振り向け、克服して行かねばならない問題であると自ら考え、その方向に生きる決意をし得た人間ということにもなる。
また、とくに第二次世界大戦以降、「イデオロギー」と「経済構造」の違いに基づく米ソ二大陣営の対立が続く中、その二大陣営は、大量殺戮兵器である核兵器こそが核戦争を抑止し、世界の平和と安定をもたらすと信じ、その結果、一部の国々の間だけで核を独占し、それ以外の国への核の拡散は抑えるという核保有国同士による身勝手かつ独善的な考え方に基づいて国際の平和と秩序を維持して来たが、そんな抑止論ももはや理論的にも、またキューバ危機や1973年危機によって脆くも破綻したことは明らかだとして、もはや核抑止論や「核の傘の下での平和」という考え方から離脱し、核兵器を即時に全面廃棄することこそ世界の真の平和と安定への道だと確信し得た人間ということでもある。
すなわち、環境時代という新しい時代に求められる「新しい人間」あるいは「人間像」とは、少なくとも、今述べてきたような類の人間のこと、となるのではないだろうか。
今、世界はますます混迷を深め、ますます解決することの困難な問題が人類の前に次々と立ちはだかるようになってきていることは既述した通りである。そんな中、とくに欧米社会では「パラダイム・シフト」の必要性が叫ばれて久しい。ここで言うパラダイムとは、「一時代の支配的な物の見方や時代に共通の思考の枠組」(広辞苑第六版)のことで、シフトとは、それを転換しようということである。
しかし、パラダイム・シフトの必要性は確かに多くの識者によって叫ばれてはいるが、では何をそれまでの時代のパラダイムとし、そのうちのどれとどれをシフトするのか、それも何を根拠として、どのようなパラダイムへとシフトすべきと言おうとしているのであろう。
それを一式揃って具体的に明らかにしている識者は、私には見受けられない。
というより、パラダイムをシフトすべきとするその時代とは、何がどのように特徴付けられる時代とするのか、それさえも、誰も明らかにしない。
とはいえ、そうではあっても、確かなこととしてこれだけは言えるのではないか。それは、新しい時代における新しいパラダイムとは、人類を持続可能な未来へと導いて行ってくれる物の見方であり思考の枠組みでなくてはならない、と。
そこで、ここでは、私なりの「パラダイム」と「シフト」の方向性を提示してみようと思う。
もちろんそれは「近代」から私の言う「環境時代」への「パラダイム」の「シフト」についてである。
次表がそれで、左側の縦の欄に並ぶ項目が物の見方であり、真ん中の縦の欄が私の考える「これまで(近代)のパラダイム」、右の縦の欄が「これから(環境時代)のパラダイム」である。
それらを、共にキーワードをもって示す。
|
これまで(近代)のパラダイム |
これから(環境時代)のパラダイム |
自然観 |
空間は無限。資源は無限。エネルギーも無限。自然は人間が幸福になるためにある。人間が自然を支配することを神から託された。 |
空間は有限。資源も有限。エネルギーも有限。人間が安心して住めるのは地球だけ。自然によって、他生命によって人は生かされている。 |
世界観 |
各国は自国の利益最優先。自国の安全保障最優先。「自衛のため」は正義。 時代の特徴は、戦争・紛争・テロ・難民・飢餓。 |
「人類にとっての共通の価値そして大義」(K.V.ウオルフレン)の尊重。「人類全体に対する忠誠」(故ネルー)の尊重。 時代の特徴は、平和・安定・共存・共感。 |
社会観 |
社会とは、弱肉強食の生存競争の場。 男性優位は当たり前。 |
老若男女、富める者貧しき者も、健やかな者も病める者も、あらゆる人々の共存の場。 |
人間観 |
力ある者、多数を占める者、優秀なる者がそうでない者を支配し統治するのは当たり前。 |
どんな人間も、その人でなくては果たせない役割と意義は必ずある。決して侵されてはならない権利と尊厳もある。 人は皆、個性も能力も違うということが最大限尊重されるべき。 |
価値観 |
人間(市民)の自由・平等・友愛・財産。民主主義。 |
多様な生命の自由・平等・財産。 生命主義 |
経済的諸制度 |
資本主義、グローバリズム、 新自由主義、競争主義 |
|
社会的諸制度 |
富者・権力者優遇の諸制度。 |
人権と尊厳が最優先された中での相互扶助制度。 |
エネルギー |
化石資源。化石エネルギー。 |
再生可能資源。太陽による自然資源 |
価値の源泉 |
モノ。カネ。量。利益。収益。モノによる利便性。モノによる快適性。モノの豊かさ。眼に見える物。計量できる物。評価できる物。人間だけの自由と平等と友愛。人間だけの幸せ。 カネにならないものは無価値で無用。 進歩。発展。知識。技術。機械文明 |
自然。生態系。質。心。思いやり。支えあい。分かち合い。共感。 目に見えないもの、見えにくいもの、評価し得ないもの、測れないもの、掛け替えのないものにこそ価値がある。 知恵。技(わざ)。地域の文化。 |
生産の動機 |
生きるためにつくり、生きるために食べる。 |
|
生産の源泉 |
生産者は企業・資本家・工場。 自然は人間の欲望充足の手段であり加工の対象。世界の需要と消費。市場。 |
生産者は自然であり生態系。需要にあった生産。生産の速度に見合った消費。 |
生産方法・様式 |
均一化。単一化。画一化。規格化。一元化。専門化。量産化。機械化。高速化。効率化。 オートメーション。少品種大量生産。 大量エネルギー使用による生産。 使い捨て。外部依存。 |
多様性。共生。循環。再生。節約。 再利用。 大衆による生産。多品種少量生産。 少量エネルギー使用による生産。 自己完結。自給自足。 |
生産手段のあり方 |
集中。集約。集権。大規模化。機械化。巨大化。自動化。私有化 |
分散。分権。共有化。身の丈の規模。 |
自然と社会と人間 |
相互分断。細分化。孤立化。局所化。序列化。差別化。人間の疎外化。 |
人は自然によって生かされ、社会は自然によって維持されている。 統合。整合。連続。不可分。全体 |
人間関係 |
分断。孤立化。競争。管理。支配。 収奪。イジメ。虐待。自己破壊。不信。不安。絶望。空疎。脆弱。 |
支えあい。励ましあい。共感。信頼。 平安。充足。希望。誕生。自己再生。 強固。 |
視野に置く時間の長さ、変化の見方 |
今。現在。目先。刹那。直線的上昇志向 |
永続。持続。未来永劫。循環。螺旋階段的上昇志向 |
個々の人間 のあり方 |
脆弱。虚弱。性急。飽きっぽい。 攻撃的。暴力的。寄生的。他力依存。 ねたみ。 |
やさしさ。寛容さ。共感力。思いやり。忍耐。非暴力。誠実。 |
宗教的背景 |
無矛盾で、無用なものなどなく、すべてが調和の関係を保つ自然への崇拝。 |
|
永続性 |
なし |
あり |
つまり、これからの環境時代という新しい時代に求められている新しい人間像とは、上記表の右欄に掲げるような新しい思考の枠組みを我が物となし得た人々のことと考えることができるのではないか。
では、こうした環境時代に求められている新しい国際人像とはどういう人間を言うのであろうか。
それは、根底にこうした考え方を秘めながら国際平和のために惜しみなく活動を続けようとする人のことである、と私は思うのである。
もちろん、両者は共に、「新しい市民」でもある(4.1節)。
以上をまとめると、これからの環境時代において「求められている新しい人間像」とは、自国の正しい歴史や文化を明確に踏まえてアイデンティティと誇りを堅持しながらも、しかし偏狭なナショナリズムや一国主義に陥ることなく、また、人間個々人だれもが尊厳ある存在であることをも忘れずに、嘘や虚偽を排除して絶えず真実を求めながら、どこの国の人間であるとか民主主義の次元をも超え、人類全体にとっての共通の価値・大義・正義とは何かをも絶えず求め、それらを実践して行ける人間のこと、となるのではないかと私は考える。
そのとき「新しい人間」は、「新しい国際人」ともなり、「新しい市民」ともなるのである。
9.3 議会を三権分立の原則の上に立つ本物の「言論の府」とするために
9.3 議会を三権分立の原則の上に立つ本物の「言論の府」とするために
私は先ずはじめに次のことを明確にしておきたいと思う。
それは、本節の以下に述べることは、国会においてであれ、都道府県議会そして市町村議会においてであれ、すべての議会に共通して言える、ということである。
ただ、国会は拘束力を持つ法律を制定する機関、地方議会は、法的な拘束力は持たないが、住民の意思を総意として反映した条例という、その地方公共団体としての最高のルールを制定する機関、という違いがあるだけである。
さて、この国の国会は、日本国憲法が第41条で規定しているような国権の最高機関という立法府としての機能を十分に果たし得ているだろうか。
もちろんここで国会が国権の最高機関であるとされる根拠は、国民から選ばれた国民の代表が集まって、民主的に議論して、全国民に共通に、また公平に適用される拘束力のある法律を制定できる国の唯一の立法府であるがゆえである。それはジョン・ロックにいわせれば“他人に対して(拘束力を持つ)法を定めることのできる者は、その者に対して必ず優越していなければならぬからである”(「市民政府論」岩波文庫 p.152)。
しかしながら、既述のとおり(2.2節)、日本では、戦後から現在までのところ、国会は本当の意味では立法をしていない————多分、明治期から戦前までもそうであろう、と私には推測される————。政治家は、国民から、当選したならば、自分が掲げた公約を国会に行って、ぜひ政策や法律として実現して欲しいと支持され、また乞われたがゆえに政治家になれたのだから、政治家になった以上は、議会にて、国民と交わした約束であるその公約を立法化しなくてはならないし、むしろそれこそが政治家としての最大の役割だし使命のはずなのに、この国の政治家は、政治家になってもそれをしないのだ。
これは、すなわち、この国の政治家は揃って国民を裏切っているということであるし、「国会は国の唯一の立法機関」としての機能を果たし得ていないことでもある。
それどころか、法律を作るための議論らしい議論もまったくしてはいない。しているのはただ「質問」だ。それも、三権分立という政治原則を公然と破りながら、執行機関である政府側の者を議場に招き入れては、彼らに向っての質問である。
日本国憲法を読んでみると、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、・・・、議院に出席することができる。」とある(第63条)。また、「答弁または説明のため(国会より)出席を求められたときには、(内閣総理大臣その他の国務大臣は)出席しなくてはならない」とある(同条文)。
つまり、内閣総理大臣その他の国務大臣が国会に出席することは義務ではない。もちろん義務であるはずもない。常時国会にいる必要もない。三権分立の原則から当然のことである。
この原則は、長い議会政治の歴史の過程での教訓に基づき生み出された先人たちの知恵の結果なのである。
それなのに、この国の国会の政治家は、それがあたかも自分たちの役目であるとでも錯覚しているのであろう、政府の者を招いては、それも、官僚までも招き、その彼らに質問しているのである————なお、こうした国会議員の政府に対する質問行為を称して、“議会が政府をチェックしているのである”と言う輩がいるが、それはとんでもない間違いだし錯覚である。チェック機能を果たすとは、もっと別のことだからである(2.2節を参照)————。
そしてそういう行為については、質問する方も、答弁する方も、誰も、いささかの疑問にも感じていない風でさえある。
実は私は、こうなるのも、この国では、国会議員ですら、民主主義議会政治はどのようにして生まれてきたのか、また民主主義議会政治のあり方とはどうあることか、ということについて、いかに不勉強で無知であるかということの証左であると思っている。
つまり、彼ら政治家は、議会の政治家も、政府の政治家も、そうした民主政治の成立過程を勉強もせず、これまで、この国の先人あるいは先輩たちが明治期以来やってきたことを、やってきた通りに、何も考えずに、ただやっているだけなのだ。
では、法律を実質的に作っているのは誰か。
それは政府の各府省庁に属する官僚たちだ————政治家たちが、国民を裏切って、彼らに国民から負託された立法権という権力を官僚たちに丸投げしている結果である————。
その作り方も、極めて問題があるが、そこでも、政治家は、国民の代表でありながら、全くと言っていいほどにコントロールはしておらず、官僚らに放任したままだと推測される。
ここからは、あくまでも私の推測によるものであることをお断りしておきたい。
それはどういうことかというと、彼ら官僚は、自分が所属する府省庁に関わる法律だけを作っている。それぞれの府省庁、皆そうだ。そして、その内容も、官僚同士がはるか昔に決めた各府省庁の専管範囲という、いわば「ナワバリ」領域をはみ出して他の府省庁の専管範囲を侵犯しないように、そこは細心の注意を払って法案を作成している。
つまりこれこそが政府内組織間の「縦割り」の根源となる行為なのである。
そうやってできてきた各府省庁からの法案は、最終的には内閣法制局と呼ばれる部署でその内容がチェックされ調整される。チェック項目は3つと考えられる。1つは、各府省庁から出された法案は、他の府省庁のナワバリを犯す内容となっていないか。2つ目は、各府省庁から出された法案の中身は、互いに重なり合った部分はないか、3つ目は、既存の法律との間で齟齬や矛盾がないか。
つまりここでは、各法案の中身が、例えば、国民の利益の実現を最優先するものとなっているかどうかということについては全くチェックはされない、と私は確信する。
何れにしても、この内閣法制局も、立法府である国会に属する機関ではなく、執行機関である政府に属する一部署だ。
ではそうやって作られた法律案はその後、どういうプロセスを経て、いわゆる「政府提案の法案」として国会に上程されるのであろう。
それは、先ず各府省庁の官僚のトップである事務次官が全員集まる会議————かつてそれは事務次官会議と呼ばれていたが、今は事務次官連絡会議と呼ばれている。これも、国民の批判をかわすためでしかないと考えられる————に諮られる。そしてそこで全員の合意が図られた法案だけが、閣議に諮られる。
その閣議は、総理大臣と閣僚とから成る。
では閣議に提出された法案は十分に議論されるのか。
とんでもない。議論という議論など全くと言っていいほどなされず、むしろ15分かそこらで終わってしまう、官僚のトップたちが提案してきた法案の、総理大臣以下全閣僚の事実上の追認式でしかない(菅直人)。それが「閣議決定」と呼ばれるものであり、時に、メディアに報道されるものだ———時折、NHKのTVなどに映し出される閣議に入る前の総理大臣を含む全閣僚の姿を見ていただきたい。両肘を掛けて深々とふんぞり返りながらいかにも得意げに居並ぶあの姿と姿勢を、である。これが、これから真剣に国民の福祉のための議論に臨もうとする者たちの姿と言えるのだろうか。なぜ、議論するのにあんな両肘をかけられ、ゆったり寄りかかれる椅子が必要なのであろう。なぜ議論するのに、討議資料を置くテーブルすらないのであろう———。
とにかく、こうして「閣議決定」された法案が「政府提案」として国会に上程されるのである。時には、そのまま国会の審議や議決を経ずに、政府が独断で執行してしまうこともある。
それが許されざる独裁、である。
ところが、ではこの後、国会はどうしているか。
それは、既述の通り、ただ政府提出の法案を巡っての、事前通告を前提とした、“あれはどうなっているのか?”、“これはどうなっているのか?” という類の政府側の者への質問であり、あるいは“総理の御見解を伺います”というお尋ねであり、それに対する総理大臣または閣僚の官僚の作文を読み上げる形での答弁だ。彼らが答えられなければ、官僚が直接答弁することもままある。
このことから判るように、この国では、法律は実質的には執行機関の官僚がつくっている。
それは、国会の政治家が、選挙当選時以来、国民から負託された「法律を作ることのできる権力」という最高の権力を、国民を裏切って、そっくり政府の官僚に移譲しているからだ。
では、なぜ法律を作る権力が最高の権力か。権力とは「他人をおさえつけ支配する力」であることを前提とするとき、ひとたび作られた法律は、例外なく全国民をおさえつけ、支配するものとなるからである。
したがって、この国の国会は、断じて国権の最高機関となり得てはいない。国権の実質的最高機関となっているのは、これまでの記述からも判るように、むしろ政府だ。それも、政府の総理大臣や閣僚ではない。実質的な権力を持っているのは官僚であり、彼らの組織だ。
総理大臣や閣僚は、官僚のお膳立てに従って動かされているだけなのである。
なお、このことを地方の議会と政府との関係に当てはめてみると、都道府県議会では、都道府県庁の役人がそれぞれの所属部署の専管範囲が他部署のそれを侵さないように作った条例案について、都道府県議会議員による知事に対する質問が行われる。
また、市町村議会では、全く同様にして、市町村役場の役人が他部署の専管範囲をおかさないようにして作った条例案について、市町村議会議員による市町村長に対する質問が行われる、となるのである。
ところで、皆さんは、国会であれ、地方議会であれ、議会とは、本来、国民の代表が集う場であり、それだけに国であれ地方公共団体であれ、最高の権力機関であり、民主主義の殿堂とされ、言論の府であることを前提とするとき、その各議場での椅子の並び方や配置を見て、不可解に思われないだろうか。
たとえば国会の本会議場について。
私は次の3点において、大いに疑問に思う。
1つは、本来は、常時いる必要のない政府の側の者が座る席がなぜ常設の席として設けられているのか。それもなぜそれらは、国会での政治家たちの座る席の真正面で、国会の政治家と向き合う形で設けられているのか、という点だ。
設けるのなら、もっと片隅でもいいのではないか、ということである。
1つは、しかもなぜそれら政府側の者の座る席は、国民の代表である政治家たちの椅子の位置よりも、高く設けられているのか、なぜ、高さに差が設けられているのか、という点である。
1つは、議会全体の流れを仕切る正副議長の席が、なぜ政府側の者が座る席に近い位置に設けられているのか、という点だ。
そもそも三権分立を原則とし、しかも憲法でも国権の最高機関とされる国の唯一の立法機関である国会において、執行機関の者が決まって国会の中に国会議員と一緒にいること自体、既述の三権分立原則から違反していることなのだ。その上、その彼らは議員席の真っ正面前に、議員席に向かい合う形で、最高機関に準ずる執行機関の者なのに、国民から直接選ばれた国民の代表を見下ろすように、国会議員たちが掛けている椅子の位置よりも一段と高い位置に鎮座している。
これは、明らかにおかしい。それに、実際、本物の民主主義の国であったなら、当然三権分立の原則を厳守しているが、それだけに、そのような国で、日本のようなこんな国会の議場形態を取っている国は、世界中どこにもない。
にもかかわらず、そんな議場の状態を“これはおかしいではないか”、と疑義を正す政治家は、私の知る限り、民主憲法になって以来今日まで、一人もいない。
これも先に述べたこととも共通しているが、私は、この事実も、この国の政治家という政治家は、国会議員であれ、地方議員であれ、「議会」というものの民主主義政治が行われる上で持つ意義とその重大さが、やはり全くと言っていいほどに理解もしていないと断言できる証左だと思う。
そしてこうしたことも、現行の政治家という政治家は、やはり、一旦はどうしても辞めてもらうしかない、と私が強く主張する理由の一つとなるのである(2.2節)。とにかく議会を知らずに議会を開催しているつもりになっているのだからだ。
実は、この配置関係は明治時代に、帝国議会としての国会開設当初(1890年)からのものなのである。
「関口宏のもう一度!近現代史『明治16年〜秩父事件・伊藤博文が初代総理』
2020年1月11日(土) BS-TBS」
私は、議会がこうした配置関係になるのには、当時の明治政府の、もっと言えば、やはりここでも山県有朋の、ある明確な意図が働いていたのだと思う。
自由民権運動や国会開設を求める運動が民衆の間に激化して来た頃には、明治政権設立当初の少数独裁者の中のとくに三傑と言われた西郷隆盛と木戸孝允と大久保利通は物故していた。山県有朋だけはその後、最も長く生き(大正時代の1922年まで)、元老として絶大な権力を持ち続けたのである。
その彼は、国力を高めるために、徴兵制を導入し、日本陸軍を創設した。そしてその彼は、一方では、政治における代議制という考え方そのものを非常に嫌悪し、政党政治家を忌み嫌い、官僚を天皇のシモベの地位に置き、選挙で選ばれた政治家が日本の官僚制を決して掌握できないように一連の複雑なルールをつくったのである。山県有朋が「近代官僚制の父」と呼ばれるようになった所以である(K.V.ウオルフレン「人間を幸福にしない日本というシステム」毎日新聞社 p.139あるいは「日本という国をあなたのものにするために」角川書店 p.47)。
私は、既述の帝国議会におけるこうした配置関係は、こうした考え方を持ち、しかも当時、伊藤博文と並んで政権内で最大の力を持っていた山県の影響力の下につくられたのではないか、と確信を持つのである。
つまり、国民から選ばれた代議士であっても、その彼らを官僚たちよりも下に置いて見る、という、山県有朋の歪んだものの見方に基づく議場設計がなされたのではないか、と。当時、近代西欧の文物がどんどん入ってきて、自由とか民主主義とか人権という考え方が広まりつつあったが、それをもひどく嫌悪する山県有朋だったのである。
では議場の最前列に、議員と向かい合って、議員よりも一段と高い位置に坐るのは誰か。
いうまでもなく、天皇のシモベとされた明治政府の上層部の官僚たちであったろう。
とにかく、政府というものは、主権在君の下、天皇の権威を維持するためにのみあると考えている山県有朋にとっては、議会は、単に国の内外に近代国家の体裁を整えたとアピールするための、かたちだけのものでしかなかった。実際、その後山県有朋は、首相になった時、議会に対して「超然主義」をとった。すなわち、政府は議会の政党に影響を受けずに活動をするとしたのである(「関口宏のもう一度!近現代史 2020年1月25日 BS-TBS」)。
そこで私にはまた疑問が浮かぶ。
では、そうした欽定憲法下の議会の配置関係が、民主憲法下の戦後になってもなお継続されているのか。そうでなくても、議会は、政治の行われ方を示す象徴的存在でもある。なのになぜ、それを、民主憲法下の今の政治家は問題としないのか、と。
やはりこの事実からも明瞭なように、この国の政治家という政治家は、民主主義の国において「議会」というものの持つ意義とその重大さが全くと言っていいほどに理解もしていないのだ、と私は断言する。逆に言えば、この観点からも、この国は未だ真の民主主義の国にはなっていないということなのだ!
こんな状態の議場に少しの違和感も感じている風もなく、その議場で、議会の人間が政府の人間にひたすら「質問」してという様は、やはりこの国の政治家は、揃いも揃って「議会ごっこ」をしているだけなのだ、としか言いようがない。
では国会を、文字どおり「言論の府」として、国民の代表だけによる本物の議論をしながら、各議員が掲げてきた公約を法律として実現する場とするにはどうしたらいいだろうか。
もちろん現行の議場配置は、根本的に変えるのである。
その時の要点は9つあると私は考える。
なお、ここではもはや政党は存在していないことを前提としている。したがって「与党」とか「野党」といった概念ももはやない。
1つは、議会には執行機関である政府側の人間(総理大臣、閣僚、官僚)は一切入れないこと。
どうしても質問しなくてはならない場合もあるので、その場合には、限られた人だけが入って、議場の隅に設けた待機席にて待機してもらう。
2つ目は、議論し合う政治家同士は、二手に別れて、向かい合って座れるようにする。
3つ目は、その場合、誰もが、自由な席に座れるよう、各々の席には名札を置かない。
4つ目は、議論の流れを仕切る議長と副議長は、二手に別れた議論の集団の両者を見つめられるように両者の中間の端に位置する。と同時に、正副議長は、議場全体を眺められるようにするために、他の人々の位置よりも一段階高い位置に席を設ける。
5つ目は、書記は、正副議長の前に位置する。
6つ目は、議題と政策内容に関わる専門的知識について助言をしていただくために、あるいは関係資料を提供していただくために、議題に関係する多様な専門家が待機して座れる席を設ける。
7つ目は、補助員は正副議長の真正面反対側に、議論の推移を注視して座る。
彼らは、議論の進行に伴って明確になってくる必要資料およびデータを迅速にその議論の場に提出することを役割とする。
彼らは、その都度、議長からの指示を待って機動的に動くのである。
8つ目は、政府の役人が座る席も設ける。彼らは、補助員の要請に基づいて、必要な資料のすべてを、隠蔽したり改竄したりすることなく、ありのままを速やかに提供する義務を負う。
9つ目は、正副議長の背後に、議会の成り行きを監視し、また傍聴する国民の席を、正副議長の同じ高さあるいはそれより幾分高い位置に設ける。
上記内容を補足するとこうなる。
第1のそれは、まず三権分立を厳格に維持するためである。
第2のそれは、一問一答形式のやりとりではなく、同じ人が何回でも意見を述べられるように、また同じ人が何回でも答弁できるような雰囲気を作り、前例や固定観念にとらわれない自由闊達な議論ができる場とするためである。
第3との関係では、議論するのに、議員の序列や席順とか、当選回数とかいったことなど全く無関係だからだ。
なお、議論する政策テーマごとに、議論に入る前の賛成側と反対側に分かれて向き合う、ということも考えられる。
その場合には、当然ながら、坐る場所は議論するテーマごとに換わることになる。
第4の正副議長については、議事の進行を常に一般国民の立場と目線で仕切ることができるようにするために、一般国民とする。特に、その場合、大学の法学の専門家あるいは法曹界の弁護士が相応しいのではないかと私は考える。
第5の書記については、議会が議会の責任において採用した人とする。
第6の専門家あるいは知識人については、あくまでも議事進行過程で、議長あるいは議員の要請に基づいて、しかるべき助言をしていただいたり、あるいは資料を提出していただくために、議論の行方を見守っていただく。
第7の補助員については、国会の事務局によって独立に委嘱された公務員とする。
すなわち、行政機関とは無関係な職員とする。
第8の役人とは、各府省庁の官僚あるいは地方政府の役人のことであるが、彼らは、補助員の要請に応えるべく、政府の職員として、関係府省庁の必要な資料のすべてを、隠蔽したり改竄することなく、ありのままを速やかに提供するために待機する。
第9の一般国民については、その座る位置が正副議長と同じ位置、またはそれより幾分か高くなるのは、国民こそ、国家の主権者であり主人公だからだ。
以上述べてきた配置関係を具体的に図で表すと次の右図のようになる。
左図が現状を、右図が私の考える立法府としての本来の議会の姿、議場の配置関係である。
そして右側のそれこそが、行政府からも完全に独立し、真に自由闊達な議論ができ、名実共に国民の要求に基づいた公約を公式の政策として迅速に決定できる立法府の配置図ではないか、と私は思う。
なおこの配置関係は、国会だけではなく、すべての地方議会においても同様に適用されるようにするのである。
ただしその場合、守られねばならない事項が二つはあると私は思っている。
その1つは、地方議会の議場は、これまでは、どこの地方公共団体でもほとんど例外なく執行機関である役所の敷地、あるいは役所の看板を掲げた敷地の中、さらにはその敷地の中に建つ役所の建物の中にあったりするが、今後は、三権分立を徹底するという観点から、そうした設置の仕方は止めて、議場も議会事務局も、役所のある敷地とは独立した敷地内に設けるべきであろう、ということである。
また二つ目として、議会事務局も、政府からは完全に独立した、議会が議会独自に採用した人々によって構成されるべきである、ということだ。
実は、これまでは、その議会事務局の構成員は、ほとんどどこの地方公共団体でも、役所からの、有期の持ち回りよってなる職員あるいは非正規職員だけだったからである。
これでは、事務局職員は出向して来た古巣である役所の者に何かと気遣い、あるいは従属してしまいかねず、また、二、三年もすれば元の役所に戻るのだからという気持ちも手伝って、政治家の議会活動の支援や政治家への有効な情報提供に専念できないきらいがあるからである。
最後に一言。
国会あるいは地方議会での議論あるいは論戦の最終的な目的は、その議会の場で、多様な価値観を持ち、多様な政策案を持つ政治家どうしが、その政治家どうしだけで真摯な議論を重ね、みんなで一致点を探ってはそれを政策あるいは法律として議決することであることは言うまでもない。
しかし、全議員の間でどんなに活発な議論をするにも、これだけは互いに守らねばならないと思われる、議論の際の最低限のルールはあるように私は思う。
それは、互いに「人間」として尊重し合うことである。
議論の相手の人格を尊重することである。野次を含めて、非難・中傷はしないことである。
議論の相手の思想・信条・信教は厳に尊重することである。意見が違い、考え方が違い、価値観が違っても、それを表明できる権利があることを認め合うことである。つまり「表現の自由」は厳守するのである。
国会はもちろん議会という議会は、国権の最高機関として、あるいは地方公共団体の最高機関として、その権威を高め、人々の信頼と尊敬を高めるためには、つねに、上記のルール以外は制約されるものは何もないという条件の下で、福沢諭吉が言うところの「多事総論」(丸山眞男「文明論の概略」岩波新書)を、国民の注視する中で展開して見せられる場とならねばならない、と私は思うのである。
事前の国会対策委員会という談合や、儀式ばった質疑応答など、論外だし、茶番でしかない。
9.2 この新しい選挙制度の実施により期待される効果
9.2 この新しい選挙制度の実施により期待される効果
この新しい選挙制度が国民の総意としての決意により実現され、真に公正に実施されたなら、それによって得られると期待される効果は以下に記すように、大方の人々が考えるであろうと思われるそれよりはるかに多くのものがあるのではないか、と私は考えるのである。
それは、これまでとは違い、今度こそ、私たち国民が、私たちの手で、真に「俺たちが選んだ俺たちの代表」と言える人物を「本物の政治家」として、生み育てられるようになるからである。
その効果を具体的に、そして順不同にして記せば次のようになる。
◯この国を、ようやく、本当の意味での国家と成しうるようになる。
それは、この国が、真の「国民の代表」たちによって、議会が本来の議会となり、「本物の政治的な指導者」————ここでは、大統領————とその彼によって任命された閣僚たちによって政府が本来の政府となり、この国の中央から地方に至る統治の体制が整った本物の国家と成しうる、ということである。
議会が本来の議会となるとは、国会を含む議会という議会が議会独自に法律・条例を定め得る真の議決機関となるということであり、政府が本来の政府となるとは、議会が議決して公式のものとなった政策や法律を、整えた統治体制の下で、最高度に効率良く迅速に執行する真の執行機関となる、ということである。
このことは次に述べるような多くの重要なことが実現されることを意味する。
それは、国会を含む議会という議会が、この国でも、ようやく真の意味での「言論の府」となり、特に国会は名実共に国の唯一の立法機関となり、真の意味での国家権力(国権)の最高機関となる、ということである。
それは、これからの議会が、これまでのような「三権分立」の政治原則を破っては内閣相手の「質問」という名ばかりのそれも「儀式」としての「論戦」ばかりをして来た場ではなくなり、つねに国民と国家に対する忠誠心の下で、主権者の「生命・自由・財産」を最優先に守るための真の議論を展開させる場となることを意味する。
このことはまた、これまで国会内において行われて来た、密室での、あるいは報道陣を排除した形で行われて来た特定の政党間だけの「国会対策委員会」という事実上の「談合」も自動的に消滅させられることをも意味する。
それは、この新制度そのものが、前節で述べて来たように、国会を本来の国会とする上では、政党ないしは派閥というものをもはやそれほど大きな存在意義があるものとはみなさなくなるからだ。
それにこの国会対策委員会こそ、国会を本会議前に議論の行方と決着のさせ方を決定してしまい、それゆえに議会を儀式会場化させてしまうために、国権の最高機関である国会の権威を損ない、「言論の府」であることを名ばかりのものとしてしまう最大の要因の1つともなって来たものだったのである。
なお、既述の政府が本来の政府となるとは、言い換えれば、政府が、特に中央政府の場合、その中枢である内閣が、これまでのような、国会を無視した「閣議決定」をするような政府ではなくなる、ということでもある。
それはさらに言い換えると、政府の中枢である内閣の議論の場である閣議が、まともな議論もせず、各府省庁の官僚のトップである次官たちの全員一致になる合同提案案件の追認儀式の場でしかない、ということももはやなくなるということでもある。
ということは、この国は、明治期以来およそ150年間、延々と続けられてきた「官僚独裁」を、ここへきて、ようやく、国民の手でやめさせられるようになる、ということを意味する。
このことの意味は、国民にとって、計り知れなく大きい。
なぜなら、官僚たちは、独裁を維持するための権力をもはや行使し得なくなるからだ。
憲法上からも明らかであるが、本来は公僕である公務員には与えられてはいない、また与えられるはずもない権力を、これまではしょっちゅう闇で行使して来たが、そしてそれを総理大臣も閣僚も放置して来たが、それがもはやできなくなるからだ。またたとえその権力を行使しても、それは全く意味をなさないものとなるからだ。というのは、これからは、政府の政治家すなわち国民の代表である大統領と、大統領に任命された閣僚らが、これもこれまで延々と慣例として続けられて来た「政府内組織の縦割り」をも突き崩しながら、官僚らをきちんと国民の代表としてコントロールし、また官僚の勤務状態をチェックするようになることから、各府省庁の官僚たちは公務を、それぞれの責任を明確にしながら、勤務しなくてはならなくなるからだ。
とにかく、政府という政府が、真の政府となる、とはそういうことなのだ。
そうなれば、これまで巧妙に続けてきた狡猾な手法、すなわち、自分たちに好都合な専門家を選任しては審議会や各種委員会を立ち上げ、座長や委員長をも自分たちで決めては、立ち上げたそれらを自分たちの望む方向に仕切っては、自分たちの所属する府省庁に利益をもたらす答申をさせては、それをもって自分たちの担当ボスである閣僚に立法や制度設計を促すという仕方がもう取れなくなるからである。
なお、官僚独裁政治を止めさせられるということは、いうまでもなく、それだけこの日本という国を、ようやく国民の悲願でもある本当の意味での民主主義(政治)をも実現しうる下地ができるということでもあるのだ。
いずれにしても、もはや議会での政治家は、三権分立の原則を破って、議会で「質問」ばかりしていることはできなくなる。政府の政治家も、官僚組織の「お飾り」であったり、「操り人形」であったりしていることも、もうできなくなるのである。
ところで、私は、先に、この国の官僚たちは、少なくとも明治期以来この方、事実上の独裁を維持するために、本来彼らには国民から与えられてもしない権力(=ヤミ権力、あるいは非公式権力 K.V.ウオルフレン)を、政治家がそうした権力行使の仕方をチェックしないことをいいことにして行使しては、それを果たしてきた、と述べた。
実はこのことに関しては、例えば朝日新聞も毎日新聞も、もちろん讀賣新聞も、そして自ら「公共放送」と自任するNHKも私の知る限り一度も取り上げたことはないし、国民に情報として流したことはないのではないかと思うのであるが、官僚のこうした狡猾な手法は、私たち国民は、絶対に知っておかねばならないことだと、私は考える。
それは、一言で言えば、それは「この国を乗っ取るための官僚たちの手法」、あるいは「この国を自分たちで動かそうとする官僚たちの手法」と言えるものだからだ。
なお、ここで言う官僚には、政府の官僚だけではなく、軍の官僚も、財界の官僚も含まれる。
実際、昭和10年代における日本は、軍の官僚らによって乗っ取られ、動かされ、その結果、国民は、何も知らされないまま、アジア・太平洋戦争に引き摺り込まれて行ったのだ。
では、その「この国を乗っ取るための官僚たちの手法」、あるいは「この国を自分たちで動かそうとする官僚たちの手法」とはどのようなものを言うのか。
もちろんもともと公僕たる官僚たちには、特に民主主義の国では、そんなことは絶対に許されてはいないのであるが。いわゆる「シビリアン・コントロール」もそのためにこそあるものなのであるが。
それは、表向きは、頂点あるいはトップに公式上の権力者・権威者を立てながら、自分たち官僚は、裏に回って、つまり黒子となって、その権力者・権威者を言いくるめ、あるいは説得しては、自分たちが実質的な権力を握り、公式上の権力者・権威者を自分たちの思う通りに操り動かすという手法のことだ。
最も象徴的な例は、明治期、天皇を「現人神」として統治機構の頂点に立たせ、「建国神話」と「万世一系」を捏造してはそれをまことしやかに流布させ、その統治機構に「天皇制」と命名しながら、特に天皇は自分の意思をはっきり表明しない傾向があったことを一層幸いとして、その天皇を自分たちの思い通りに操ってきたことだ。
戦後においても、その手法は基本的には続けられてきたと言えるのではないか。
総理大臣や閣僚を国民の前面に立たせながらも、実際には、官僚たちがその裏で、筋書きを作っては、それをもって総理大臣や閣僚らを操りながら、結局は自分たちの思うように国を動かしてきた、と。とにかく総理大臣も、閣僚も、皆、官僚の作文を読まねば、国会でも、メディアの前でも、政治と行政の状況をまともに説明もできないのだからだ。
言い換えれば、総理大臣も閣僚も、いわば、官僚組織のメッセンジャーに過ぎないのだ。
もちろん、上述した、審議会や各種政府内で、自分たちがヤミ権力を行使しては、自分たちが立ち上げた全ての会議体を、表向きは座長なり委員長なりを立てながらも、実質的には自分たちが自分たちの思惑通りにその会議体全てを仕切っては、自分たちに好都合な立法なり政策実現へと結びつける答申を出させてきた行為もそれだ。
とにかく、この国の官僚たちの手口は限りなく狡猾で汚い。そして国民に対して冷酷だ(7.1節)。
ともかく、こうした官僚たちの一連の「この国を乗っ取るための官僚たちの手法」、あるいは「この国を自分たちで動かそうとする官僚たちの手法」に拠る行為が政治家のチェックなしでまかり通ってきたということ、また今もまか通っているということは、これまで幾度も明確にしてきた民主国家の定義の中の「合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合された社会」(H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書p.6)の一字一句、きちんと照合してみれば、この観点からも、この私たちの国日本は、これまでは本当の意味では国家ではなかったし、今もなお国家ではない、と断言できるのである。
今、東京は霞が関の府省庁に働く官僚たち、また全国に出向している官僚たちは、その官僚になりたての頃は、多分誰もが高邁な志を持っていたのであろうが、「朱に交われば赤くなる」で、また明治期以来の「組織の記憶」も手伝う中で(7.1節)、本人たちも気づかないうちに、人格的にも思考的にも、こうした、みすぼらしく、醜く、人間として最低とも言えるレベルにまで堕ちてしまうのであろう、と私は推測するのである。そして日本の政府の府省庁は、おしなべて人間一人ひとりをそのように変えてしまう体質を明治期以来、ずっと持ち続けている組織なのであろう、とも私は思う。
何れにしても、こんな欺瞞に満ちた統治体制をとってきた政府というのは、先進国、新興国、途上国の全てを含めても、つまり世界で唯一日本だけであろう。
とは言え、こうなるのも、結局のところ、何と言っても国民が政治に無関心で来たからなのだ。国民一人ひとりが、祖国と自身に責任を持たずに「あなた任せ」で来たからだ、と私は確信する。嘆いても始まらない。自業自得なのだから。
◯この選挙制度が実現されたなら、これまで続いてきた、弊害ばかりが目立ったいわゆる「政党政治」を事実上消滅させられる。少なくとも「政党」というものは、これまでほどの意味はなくなる。
それは、既述したように、この新選挙制度は、立候補者がどの政党に属しているかいないかということはほとんど関係なく、あくまでもその立候補者自身が公約として掲げる政策案がより多くの有権者によって支持されるか否かで政治家になれるか否かが決まる選挙制度であるからだ。つまりこの新制度は、政党本位ではなく立候補者が掲げる政策本位で全有権者から選ばれる方式の選挙制度であるからだ。
だからこの新選挙制度は、民主主義の根幹を壊すことになる「一票の格差が憲法違反」(2012年12月、最高裁判決)などといった事態をも、最初から起こりえなくする。
実際、選挙区は、国政選挙であったなら国全域が一つの選挙区となり、地方政治レベルの選挙であったなら、州あるいは地域連合体の面積的範囲の全域が一つの選挙区となる。
なお、政党政治が終わることは、以下に挙げる効果をもたらす。
①これまで数え切れないほど繰り返されてきた贈収賄事件という「政治とカネ」の問題、あるいは「金権政治」をここへ来てようやく止めさせられる。
それは、政党がなくなれば、あるいはあっても大して意味もなくなれば、政党があったればこそ意味を持ち得た「企業または団体からの献金」という名の事実上の賄賂も意味を持ち得なくなるからだ。
かといって、企業や団体は個人には献金しないであろう。献金しても意味はないからだ。
なぜなら、議会では法律も政策も、個人からなる政治家同士の議論の結果としての多数決で決まるものだからだ。
②ということは、言い換えれば、これから作られてゆく法律や制度は、その内容において、社会の様々な階層に対して、これまでよりはるかに公平な内容のものとなることが期待できるということである。
なぜなら、「企業または団体からの献金」が意味を持った政党政治の時代には、その献金は、少数政党にも寄せられはしたが、額の面では圧倒的に数の力で勝る政権政党に寄せられてきたわけだし、その結果、とくに税制面や金融面等では献金をした特定の産業界や社会の富裕層に有利な法律の成立を可能ならしめ、そのために社会には不平等あるいは貧富の差や格差を拡大させてきたが、もうそうした状況は生まれ得ないからだ。
したがってこのことは、次のようにも言い換えられる。
政治が産業界(財界)や特定の圧力団体によって歪められ、また支配もされて来た歴史が、これでやっと終ることになる、と。
◯もちろんこの新選挙制度は、自動的に、これまではむしろ当たり前とされてきた「一票の格差」をなくし、かつこれもこれまではほとんど顧みられることはなかった、膨大な「死票」が生じることをもなくしてくれる。
これまでの小選挙区比例代表並立制による選挙制度は、既存大政党に圧倒的に有利な制度でしかなく、その上大量の「死票」を生んでしまう選挙制度でしかなかった。
それ自体「法の下での平等」に違反していることだし、“一票の重みが憲法違反の状態にある”ということを云々する以前に、この選挙制度自身が民主主義の実現を阻む制度となってきたということなのだ。
実際、たとえば、得票率が比例代表で28%、小選挙区で43%という過半数をはるかに下回る得票率でも、全議席の8割の議席を獲得できてしまうなどということは、見方を変えれば、比例代表で72%、小選挙区で57%に上る票を投じた人々の意思が無視されたままでも政権が執れてしまう制度であるということである。
このこと自体、いやしくも政治家を志す者だったなら、当然「異議」をとなえるべきことなのではないか。それを放っておいて、平然と政権(政治権力)を執ったつもりになっているということは、それだけで、選挙の意味も目的も知らなければ、民主主義そのものすら知らないということがはっきりする。なぜなら、そのような政権は国民を代表しているとはとても言えないし、国民の信任を得ているとも到底言えないのだからだ。
したがって、それに目もくれず政権についていることは、それ自体、卑しい目的で政治家になっていることの証左だ。
そもそも小選挙区で落選した者が、つまりその地域では支持されなかった者が比例選挙区で復活当選してしまうなどということそのものを「オカシイ」と判断できないこと自体、政治家になる資格もないのだ。
ところがこれまでは、そんな政党が、数の力に任せて、議会で横暴を振るい続けてきた。
でも、もう、これからは違う。
◯ この新選挙制度が実現されれば、政治家のコントロールの下、役人(官僚)は国民の真の「全体の奉仕者」となり、真のシモベ、真の公務員となる。
これは、これまで述べてきたことから明らかであろう。
議会の決定を受けた政府の政治家は、議会制民主主義の実現のために、議会が決定したその政策を決定されたとおりに執行しなくてはならなくなる。
そこでは、官僚はもはや、ヤミ権力という法律に拠らない権力を行使している余裕など全くなくなるのである。
それに、これからは、官僚は、必要に応じて閣僚によって、役人のやっていることを国民にありのままに説明させられるようになる。そのとき国民から、“何故それを、そのようにするのか?”、あるいは、“何故、こうしないのか?”、“誰のためにそれをやっているのか?”、“何のためにそれをやっているのか?”等々と厳しく問われ、チェックされるようになる。
また、これからは、これまで「当たり前」に行われてきたたとえば「行政指導」あるいは「通達」というヤミ権力の行使も、政治家のチェックの下で、厳禁となる。
もちろん、公文書を改竄したり廃棄したり、あるいは政策決定上の判断基準となる統計処理を誤摩化したりするのは、公僕としてすべからざることとして、直ちに「罷免」に結びつくことになるのである。
◯ この新選挙制度は、選挙が行われる全地域にとっては、地域連合体であれ、州であれ、連邦であれ、公平で、全地域に政治家の目が行き届いた政策が期待できるようになる。
このことのもたらす意義も限りなく大きい。
これまでは、国政選挙でも、都道府県選挙でも、市町村選挙でも、選挙区割りがされていて、そこから立候補してくる誰かを選ぶという方式の選挙だった。またそれしか選択肢はないという方式の選挙だった。そしてこれまでの選挙では、立候補者を選ぶ際の有権者の選択根拠は、概して、当選したとき、自分たちの区域にどれだけの額の補助金を中央政府から分捕って来れるのか、どれだけ利益誘導が出来るのかということであった。そしてそれが、立候補者の政治家としての「能力」や「手腕」を評価する基準となって来た。
一方立候補者の方も、そうした有権者の期待や要求に応えることが自身の主たる「政治活動」と錯覚するようになっていた。
つまり、政治家も、市町村全体とか、都道府県全体とか、国全体という視点で政治を考えるのではなく、選挙地盤とか選挙母体あるいは選挙後援会のみに配慮するような政治を行うようになり、またそれが当たり前と考えるようになっていた。
しかしこの新選挙制度は、基本的には連邦全域、または州の全域、あるいは地域連合体の全域が自分の政治活動域となるのであり、それだけに、有権者の側も、政治家に対して地域エゴや住民エゴを主張し、要求しても大して意味を持たなくなる。
それは、政治がそれだけ広域性をもち、政治家は選挙範囲の全域に公平に行き届いた政策を展開せざるを得なくなるということである。
これが、この新選挙制度がもたらす意義の第1である。
意義の第2は、そうなれば、各政治家も、限られた時間と公的に支給された活動資金の中で、必然的に優先順位を考えて政治活動しなくてはならなくなるので、政治課題の重要度と緊急度ということをいつも考えるように習慣づけられるようになる。
そして有権者も、自分たちのエゴを通すことよりは地域全体の利益や福祉を日頃から考えるようになると期待されるのである。
これは、国民全体の民主主義政治に対する理解と意識が高まることであり、「経済は一流だが、政治的には三流、五流」と評価されてきたこの国全体の政治的レベルが向上することでもある。
というより、今日、先進国ほど選挙のあり方が形骸化してきていて、ポピュリズムだとか、白人至上主義だとか、移民排斥主義だとかが大きな勢力となってきている中で、ここに提案するような選挙制度を世界に先駆けて実施できれば、一躍世界から、注目されるようになり、政治面でも見直されるようになるのではないだろうか。
◯この新選挙制度は、間接的に、官僚・役人たちの税金の巨大な無駄遣いをも止めさせられる。
それは、これからは、官僚・役人たちが自分たちの所属組織の利益実現のために好都合な立法したり、政策を決めたり、また予算を組むということが、実質的にできなくなるからだ。
その「予算を組む」ということの中には、一般会計だけではなく特別会計をも含む。
それらは、これからは、国会を含む議会の政治家たちが主体となってそれをするようになるからだ。
そのことは、これまで明治期以来ずっと「公共」なる言葉を冠しては、官僚・役人が、彼らの既得権益確保のために実現させてきた類の事業を行うことは全て不可能となることを意味する。
これからは、前節(9.1節)で述べてきた、各政治家が立候補する際に有権者の前に掲げてきたA種とB種から成る公約の中のいずれかが基本となって議会を通過したものが政府の「公共」事業となって執行されるようになるからだ。
そしてそうなれば、国民から収められた税金は、今度こそ、真に国民の「生命・自由・財産」を守り、国民の福祉と健康を守ることを最優先にして有効利用されるようになるからだ。
そしてその時は、税金が真に国民の福祉のために最大限に効果的に使われるようになることから、国民が納めるべき税金も、これまでよりも格段に減らせられるようにもなることが期待されるのである。
◯官僚たちによって続けられてきた「天下り」や「渡り鳥」をもやっと止めさせられるようになる。
それは、この新選挙制度が実施され、国会での政治家たちが国民から支持された公約に基づき自ら立法するようになれば、官僚たちは、産業界を最優先的に優遇する立法あるいは政策を思い通りに作ることができなくなるからだ。またそうなれば、特定の産業界にとっても、もはやその官僚はこれまでのような存在価値はなくなるからだ。
別の言い方をすると、これからはこの新選挙制度によって生まれてくる「本物の政治家」によって、これまでの実質的な官僚独裁は崩壊させられるからだ。当然その時、官僚による業界支配と既得権益保持ができてきた時代は終わる。
そもそも「天下り」とか「渡り鳥」とは、官僚たちが実質的に立法権を持ち————それは、政治家が官僚に立法権を丸投げしてきたからなのであるが————、国民よりも産業界をつねに優遇する政策や法律を作る中で築いてきた、官僚とその官僚組織が専管範囲とする産業界との間での暗黙の「持ちつ持たれつの関係」、あるいは「互いにWIN・WINを維持する互恵制度」のことで、官僚を厚遇を持って受け入れてくれた特定産業界あるいは企業に対して、その官僚が、その見返りとして、元所属していた政府内の府省庁の動向を情報としていち早く提供することで成り立つ、産業界の官僚受け入れ制度あるいは官僚の特定産業界への売り込み制度のことだ。
その天下りには各府省庁によって様々なものがあるが、その中でも、官僚にとって最高に「うま味」のあるのは、多分、経済産業省の原子力行政に関わっていた官僚が電力会社に天下ることであろう。その場合には、年俸が、億単位になるとされるからだ。
なお「渡り鳥」とは、天下って後、二、三年すると、その間、億単位の年俸を手にしながら、また別の企業に移り、さらに二、三年すると、また別の企業に移るという、まるで渡り鳥のようにして、第二、第三、第四の人生の送り方をする元官僚のことを言う。
◯これも言うまでもないことであるが、これまでの政治家の無責任・無能・放任をいいことに官僚たちが好き勝手に作り続けてきた、たとえば特殊法人、財団法人、社団法人、そして政府の外郭団体等の、業務内容をでっち上げては官僚の雇用を拡大あるいは確保することを主目的とするいわゆる「公益法人」も、この新選挙制度から誕生してくる「本物の政治家」によってすべて解体または廃止されることになる。
この場合、国民生活にとって本当に必要な仕事をしている公益法人もあるが、それらも、一旦はすべて解体され廃止されることになる。
それは、これまで幾度となく話題に上っては、結局は、官僚たちによって骨抜にされて終わってきた行政改革であったが、今度こそ、「本物の政治家」によって、根源的かつ全般的な公務員制度そのものに関する大改革が行われることになるからだ。
とにかく、自分たちが何の苦労をしなくても、そして黙っていても、「税金」というお金が入ってくるために、そしてそれが「当たり前」という感覚であるために、官僚・役人には“人様のお金をありがたく、そして有効に使わせてもらう”という感覚、「コスト意識」がまるでないのだ。だから、その税金を、まず自分たちの利益確保のために使う。
もう、そんな公務員はいらないのだ。というより、有害無益なのだ。
そのことによって、中央政府も、地方政府も、無用な公務員を一体どれほど削減できることか!
またその結果、どれほど税金が助かり、その分、「本物の政治家」たちはどれほど有効な使い方ができるようになることか!
◯ この新選挙制度は、政治と行政に機動性を持たせられるようになる。
政治、すなわち議会においては、政治家の定数をこれまでよりも格段に減らすことが出来、そうした状況の中で、議会の政治家同士だけで集中的に徹底した議論ができるようになり、また議決できるようになるからだ。しかも、それでも、国民の政治的要求には十分に応え得るようになると考えられるからである。
なお、その議論の際、必要ならば、関連分野の信頼できる専門家や知識人を必要数、招聘しては彼らの適切な助言を求めればいいのである。
何故それで国民の政治的要求に対応できるかというと、各政治家が、国と国民にとって早急に解決されるべき重要な課題の幾つかとその実現方法を公約としてすでに携えて立候補し、それが支持されて政治家となって登場して来ているからである。
そうでなくても、これまでの国会を見ても、本会議であれ予算委員会であれ、衆議院と参議院いずれも、議論しているというのではなく、一方はただ質問し、他方はただ答弁しているだけというものである上に、衆議院の場合には480人いるというのに、また参議院の場合には242人いるというのに、質問に立っているのはいつもただ一人、答弁しているのはいつも政府側の人間という関係で進められてきた儀式にすぎないものだった。
しかもその答弁内容は、いつも、国民の代表でもない官僚の作文によるものだ。
しかもその場合、質問している者以外の議会側の者はその間何をしているかというと、その質疑応答というやりとりに注視している者もいれば、ただ席に腰掛けているだけの人、中には居眠りをしている人さえいる。
つまり、その質疑応答の中には他者は入ってゆけない仕組みになっている。儀式だからだ。
したがって、目の前の一つの問題をそこにいるみんなで共有して、その問題に関してみんなで丁々発止の議論をする、ということができないのだ。
これは、他の政治家の考えや知恵が活かされないという意味で、極めてもったいない議会の過ごし方だ。
しかしこれからは違う。各政治家が掲げてきた公約を、議会では、優先順位をつけた上で、その一つひとつをみんなで共有し、適宜専門家の助言の下、みんなで本音の議論を徹底的にしては、みんなで一致点を見出し、それを議決するのだ。
そうすることで、議会としては、それぞれの公約について十分な議論を尽くしながら、次々と国民の要求に対応しうる政策を打ち出してゆくことができるようになる。
つまり、小回りのきく議会と成しうるわけである。
ちなみに、連邦議会議員の数は、現行の722名(衆議院480人、参議院242人)の十分の一ぐらいにまでは激減させられるのではないか、と私は考える。
そうでなくても、たとえば前章(第8章)で提案した新しい国家(=連邦国家)の形態を国民が選べば、連邦として負わねばならない政治と行政の分野は、たとえば連邦全体の国土・食・環境の安全保障、外交、防衛、通貨、鉄道、郵便の分野と、中央と地方の各政府間の権力間の調整だけとなって、役割範囲は激減するだろうからだ。
州や地域連合体に関わることについての権限や財源は、州や地域連合体に移管されるからだ。
また、そうなれば、それに連動して、中央政府での公務員の数も、「一般職」について見た時、今のおよそ28.8万人(令和2年度)を3万人くらいまでは減らせられるようになるのではないだろうか。そうでなくても、政府内の組織間の「縦割り」がこれからの本物の政治家たちによって解消されれば、それだけでも、これまでのような、互いの組織内での重複業務の必要はなくなるのだからだ。
そしてこのことは同時に、これまでかかっていた莫大な人件費も大規模に減らせるようになることをも意味する。
一方、行政、すなわち政府については、連邦政府についても、州政府についても、そして地域連合体政府についても、各レベルでの全政治家の協力の下で、これまで官僚・役人らによって作られてきた組織の「縦割り」は解消され、統治の体制は整えられ、この国は、本物の国家となり得ているから、議会が議決して公式となった政策や法律を国民の代表である政治家の指揮監督の下で、国民から納められたお金(税金)も最大限有効活用されながら、しかも情報はつねに政府内全組織に共有されながら、官僚たちに最大限速やかに、かつ効率良く執行させることが可能となる。
◯ 国民の政治への関心と期待が格段に高まり、政治への信頼も格段に高まるようになる。
これまでの選挙制度では、有権者は、たとえばこんなことを実現して欲しいと切実に思っていても、それを掲げる候補者が出て来なかったなら、とにかく立候補した者の中から選ぶしかなかった。それがイヤだったなら白票を投じるか棄権するしかなかった。
またこれまでの選挙制度では、有権者は候補者の掲げる政策案上の手直しや拡張には直接は関われなかった。そのため、選挙制度そのものが有権者にとっては受け身の制度でしかなく、それだけに選挙への関心も、候補者が掲げる公約次第、選挙の際の「争点」次第、となることが多かった。それだけに投票率も安定したものとはなり得なかった。
多数を占めた政党の内部だけで決まった代表が実質的には自動的に総理大臣になってしまっていた現行の議院内閣制の下では、国民は国の公式の最高指導者を自分たちで選んだという実感を持てなかった。多数党内部での「派閥の論理」で決まってしまっていたからだ。オレたちの与り知れないところで決っただけだ、というどこか白けた感覚しか持てなかったのだ。
しかし新選挙制度では、有権者は政治家を選ぶ過程で、候補者の政策討論会や意見交換会に参加でき、政策案決定にも直接関わることができるようになる。
それだけではない。
この新選挙制度は、私たち国民が直接私たち国民の最高指導者を選ぶことができるようになるのである。したがって、“○○○はオレたちが選んだオレたちの最高指導者なのだ”という誇りをも持てるようになる。同時に、選んだ最高指導者に対して国民は親近感をも抱けるようになるだろう。それだけ国民にとっては政治が身近なものになり、政治への関心が今までになく高まることも期待できるのである。
また新選挙制度は、政治家に対して、国民の代表であり、指導者であり、それだけに模範的な言動を明確に要求する。そのため、政治家は自分の持てる全能力と全人格をもって政治に当たらなくてはならなくなる。そしてその姿は絶えず主権者のチェックと評価を受けることになる。陰での不正も出来なくなる。もし不正が発覚したなら、その者は、もうほとんど二度と政治家になる資格を失うからだ。こうして、これまでの“政治家は信用できない”という見方は変わってゆくことが期待できるようになるだろう。
一方、私たち国民も、政治家の真摯な姿を見ることで、徐々にではあるが政治への信頼を取り戻して行き、物事を政治的に解決を図ることの必要性と重要性を学ぶことになるだろう。
◯なお、言うまでもないことであるが、この新選挙制度は、官僚組織の既得権を脅かし、官僚独裁体制を終らせようとする有力政治家を、法務官僚とも一体となって、「政治資金規制法」という法律を恣意的に運用しては潰して来た、官僚らの有力政治家の政治生命を葬ろうとする常套手段をも、もはや使えなくさせ得る。
物事、特にルールは、それを作る時、中身を曖昧にすればするほど、それを適用する際、運用する立場の者は、そこには恣意を介入させ得るようになる。
「政治資金規制法」という法律はまさにそれだ。そしてその法律は、政治家が官僚に依存し、立法権を丸投げしては追随している隙に、官僚によってつくられた法律だ。
その法律は、法律ではあっても、内容は、どこまでが政治家に許されて、どこから先は許されないのかが強いて曖昧なままにされてできている。まさにその曖昧さを、政府官僚は、これまで、戦後築き上げて来た官僚独裁体制を守り維持するため、幾度も利用して来たのである。
その法律の犠牲になってきたのは、すべて有力政治家と目されていた人だ。
しかし、この新選挙制度が施行されたなら、「政治資金規制法」という法律そのものが存在意義を失うことになるのである。
それは、官僚らは、彼らを脅かす政治家を意図的に葬り去る手段を失うことを意味する。
しかし、官僚によるこのような行為は、もともと、絶対に許されてはならないことなのだ。それは、「主権者である国民すべてに奉仕する立場の者」が、「国民から選ばれた国民の代表」を葬り去ることだからだ。言い換えれば、シモベがご主人を亡き者にする行為だ。そしてそれは、公僕たる者が、この国の民主主義政治体制という、いわば今様の「国体」に反逆する「国賊」としての行為でもある。
したがって、そのような行為に及ぶ官僚に対しては、国家公務員法の有無、その内容の如何を問わず、「公務員を選定するのも、罷免するのも国民固有の権利である」とする憲法第15条の第1項に従って、所轄大臣は躊躇なく罷免すればいいのである。
9.1 新しい選挙制度 ——————————その2
9.1 新しい選挙制度
———————————— その2
では、その新選挙制度はどのような流れによって構成されるか。
ここでは、それを、試案として、新時代を考えるという意味で、第8章にて論じてきた「新国家」の場合について考えてみようと思う。それは大統領制をとった連邦国家についてである。
第1.先ずはこの新選挙制度の中核を成す選挙管理委員会(以下、選管と称する)を立ち上げる。
そのためには、その選管の委員を選定する役割を持つ「新国家建設構想立案国民会議」(以下、国民会議と称する)を設立するのである(第14章も参照)。
その国民会議の設立準備は、次の2集団による合同会議の下で行う。
①民主政治のあり方を日頃研究している政治学者集団あるいはその分野の学会。
②現行の超党派の政治家集団
なお、②の超党派の政治家集団とは、この国を真の民主主義を実現した本物の国家としなくてはと願う政治家たちからなる集団との意味である。決して時代に逆行するような思想・信条を持った政治家集団ではない。
その合同会議を主導するのは学者集団として、決定内容に責任を持つのは政治家集団とする。
ただし、国民会議を設立するにあたっても、政府の官僚は一切介在させない。もし、事務局等を設ける上で人が必要ならば、国会ないしは議会が国民の合意を得た上で、それを設立する上で必要な予算と共に、独立して、それにふさわしい人を募集する。
その超党派の政治家集団と政治学者集団ないしは政治学分野の学会は、共同で次のことを決める。
1つ。国民会議の役割と使命。2つ。国民会議の構成員の構成と任期。
ただし、その構成は、国民会議との名称からも判るように、社会のできるかぎり全階層から成るようにし、公平を期す。その時、構成員の思想や信条は不問とする。また各産業界から参加してもらう人については、その産業界の指導的な立場あるいはボス的な存在の人は避ける。なぜなら、そのような人が国民会議の構成員となると、議論の際、同じ産業界の他の人は、そのボス的存在に遠慮して、自分の考えを率直に語ってもらえなくなる可能性があるからである。そうなればボス的存在の意見だけが通ってしまう、ということにもなりかねないからである。
なお各産業界および国民各階層からの参加者は4名ないしは2名ずつとし、その場合、男女同権の観点から男女同数とする。
私案であるが、国民会議の具体的構成の仕方については、たとえば次のようにするのはどうであろう。
農業(4)、林業(4)、畜産業(2)、水産業(2)、製造業(4)、商業(4)、医療・看護・介護・福祉分野(4)、家庭の主婦(4)、教育・科学・技術分野(4)、文化・芸術・芸能分野(2)、新聞・出版・放送分野(2)、輸送・流通業(2)、その他の分野あるいは業界(2)の合計40名から成る、とする。
第2.国民会議により各地に選管を設立する。
国民会議は連邦、州、地域連合体の各規模と段階ごとに、日本各地に選管を設立して行くのであるが、その際、どこの選管についても共通の役割と性格と任期として、たとえば以下のことを明確にする。
役割については、次の通りとする。
①選挙の広報、②立候補希望者の募集と受付、③立候補を希望する者の資格審査と、それにまつわる審査経緯と審査結果の無条件公開。
2回目以降の選挙の場合の「資格審査」については、とくに過去に、この新選挙制度により当選したことのある立候補希望者については、その立候補希望者が以前に掲げた政策のその後の活動を通して実現した度合いを自己評価した資料の審査をも含むものとする。
④立候補者の選挙活動(調査活動と政策立案)のための費用を、連邦、州、地域連合体の各政府に請求、⑤立候補者に選挙活動費を支給。また選挙後はその使途のチェックをし、その結果を無条件公開する。⑥第二次審査を経た後の、有権者による直接投票の準備、⑦候補者の選挙活動と有権者の投票行動の監視、⑧当選して政治家となった者について、その任期終了直前に、任期中における「公約」の実行度についての自己申告書の要求と、その内容のチェック
性格については、次のものとする。
①連邦政府、州政府、地域連合体政府といえども介入・干渉できない独立性と権限を持つこと、②徹底した透明性を維持すること。つまり、全てを公開すること、③国政段階の選管と地方段階での選管の委員を兼務することはできないこと、④選挙管理委員会の構成員規模は、連邦、州、地域連合体によって異なるが、委員長は1名とし、副委員長は2名とする。委員長はこの全委員の中から互選で決められ、副委員長は委員長の任命による、とする。
任期については、次のようにする。
どこの選管についても、2回目の選挙が終るまでとする。
なお、この制度の下では、全ての選管について、その選管の役割と事務手続きがすべて効率よく、かつ公正に進められるための手助け役としては、中央政府の官僚および地方政府の役人が当たる。主導するのは、あくまでも選管の委員長以下の委員である。
その際、官僚あるいは役人は、選管がその役割をすべて終えて、解散するまでの経緯を、選管委員全員の了解を得られる形での公式の議事録として残す。もちろんその議事録については、主権者からの要望があれば、いつでも、無条件に、要求されている範囲のすべてが公開されねばならない。
第3.選管は、どこの選管も、上記役割と性格と任期にしたがって行動するが、その役割の重要な1つとして、候補者となれる資格条件を選挙の事前に公報し、立候補者を受け付ける。
その際、立候補者は、自らが選挙戦のために掲げる公約としては、必ず次のA種とB種の2種類の政策案を合わせて公約としなくてはならない、とする。
A種は、候補者自身がかねてから信念として来た独自の政策案からなる公約。
B種は、選管が予め例示した政策群から候補者が選び出したものからなる公約。
ここにB種の政策案とは、既述の「6つの条件」の中のいずれかに該当するものを言う。
その「6つの条件」の各々に対応する政策案の例は後述する。
第4.選挙に立候補を希望する者は、上記のA種とB種の政策案を合わせて公約としたものに立候補希望趣旨書を添えて選管宛に届け出す。その際、、インターネット等の通信手段による届け出は認めないので、必ず文書で届け出す。
届け出せる時期あるいは期間はとくに限定されない。連邦議会、州議会、地域連合体の議会の各会期中であろうと解散時であろうと、また欠員が生じた際であろうと、いつでも可能とする。
ただし、その際、連邦の選挙、州の選挙、地域連合体の選挙に応じて、公約の中に含めるべきA種とB種の政策案のそれぞれの最低数は予め決められている。
その最低数は、例えば大統領の場合には、A種については40、B種については20、連邦議会の議員の場合にはA種については30、B種については10、州議会議員の場合にはA種の数は20、B種の数は10、地域連合体議会議員の場合にはA種は15、B種は5、というように。
第5.立候補希望者に対する選管による審査。
これは〈第1次審査〉と〈第2次審査〉から成る。
〈第1次審査〉では、選管により、つぎの3項の有無について審査される。
①立候補希望者は、この新選挙制度が目ざす既述の「目的」を受け入れているか、という点
②立候補希望者の届け出して来た公約は、A種とB種の政策案が決められた最低数を満たしているか、という点
③そのA種とB種の政策案の全リストが提示されているか、という点
ただしこの段階では、掲げる政策案の名称を提示するだけで可とし、実現方法等の具体的な中身の記載は不要とする。また、この段階では、立候補希望者についての定員はとくに設けないが、この段階の審査の経緯と結果は、直ちに国民全体あるいは関係地域全体に、無条件に全面公開される。
この第1次審査に合格して初めて、立候補希望者は、国民の税金を選挙活動のために使うだけの資格があると選管から認められる。
そして、認められると同時に、立候補者自らが掲げるA種とB種の政策案の全部を実現するための具体的な方法と手段と計画を練り上げるために必要な費用が、連邦政府あるいは州政府または地域連合体政府という地方政府より支給される。
たとえば、
連邦政府の大統領に立候補を希望する場合には、2億円。
連邦政府の議員に立候補を希望する場合には、1億円。
地方政府、とくに州政府の知事に立候補を希望する場合には、1億円。
地方政府、とくに州議員に立候補を希望する場合には、5千万円。
地方政府、とくに地域連合体の首長に立候補を希望する場合には、5千万円。
地方政府、とくに地域連合体の議員に立候補を希望する場合には、3千万円。
これらの公費は、各種の専門家や知識人をコンサルタントとして雇う費用、また資料やデータの収集に活躍してもらう秘書を雇ったりする費用、選挙活動の拠点としての事務所等を借りる費用として遣うことができる。
なお、自らの公約の中に含めた政策案についての実現方法を練り上げるのに要する期間については、とくに制限は設けない。次期選挙に間に合わなければ、次の次の選挙まで立候補できる機会はやって来ないというだけのことである。
また、支給されるこれらの選挙費用はすべて国民の納めた税金であるため、その金の使途については、残金も含めて、無条件に全額を選管に届け出す義務があることはいうまでもない。その際、申告内容に偽りあるいは不正があると選管に判断された場合には、その立候補希望者は、その不正の程度や悪質さの度合いに応じた罰則を受けるだけではなく、直近の選挙戦を含めて、その後の選挙戦に何年間か出る資格を失うことになる。
〈第2次審査〉
この段階では、第1次審査では問われなかったこと、すなわち、立候補希望者が自己の掲げるA種とB種の政策案を実現するための具体的な方法と手段と計画を持っているか否かが審査される。
ただし、その場合も、政策とその実現のための具体的な方法と手段と計画の善し悪しや適不適、あるいは時宜にかなっているか否か、また実現の可能性の判定までを下すものではない。内容の善し悪し、内容の適不適、それが時宜にかなっているか否か、実現可能性等を判定し、どの候補者の政策を選択するかは、あくまでも主権者であり有権者である国民あるいは地域住民だからである。
第2次審査に合格した者だけが第3次審査へと進みうる。
第6.〈第3次審査〉のここからが実質的な「選挙戦」となる。これまでは書類上での審査だけだったからである。
この選挙戦では、公開の場にて、全3回以上にわたる候補者間および専門家相手の政策討論が義務化される。
つまり、この新選挙制度では、従来の、宣伝カーを連ねて候補者の名前を連呼しては走り回るただ騒々しいだけの遊説や、街頭または屋内での候補者単独の講演会、また自分一人で、言いたいことをただ言い放つだけの演説会、そしてポスターによる宣伝という類いの方式はもはやすべて禁止とする。
そのような方法では、有権者には公約の中身はもちろん、その是非も、実現性も、他候補者との公約の違いも判らないからである。実際、これまでがそうだった。
むしろ選挙戦で大事なことは、各候補者は、自分を選んでもらうために、自身が掲げる政策案から成る公約について、その妥当性・適時性・実現方法と実現可能性と、それを実現することで国民の側に得られる成果とを、他候補者と差別化しながら、有権者により明解に語りかけ訴えることである。
他方、有権者にとっては、どの候補者が自分が日頃切実に望んでいることを実現してくれると訴えているかをよく見極められるようになることであると同時に、自分はこれまで考えたこともなかったことであるが、聞けばなるほどそれは重要な政策案だと思える政策案を掲げる立候補者を発掘することなのである。
そしてそれらこそ選挙を戦わせる目的であり意義でもある。
なお全3回以上の政策討論のうち最低2回は立候補者どうしで、1回は政治学者および政治ジャーナリスト相手の討論とする。
その際、いずれの政策討論会でも、会場からの質問や要望も可能なようにし、その場で答えられない場合には、公開を前提にして、文書で回答することを義務づける。
なお、地域連合体内での選挙ではそれでいいが、州ないしは連邦レベルの選挙では、選挙区の大きさを考えて、既述した選挙戦の目的をあまねく実現させるための工夫を当該選管がする。
そのためには、たとえば、討論会場からのTVによる生中継はもちろん、SNSによるリアルタイムでの有権者と立候補者との質疑応答なども公開可能なようにする。
とにかく有権者の生の声が直接立候補者に、公の場で、届くようにすることであり、またその返答も、公の場で、立候補者から質問者に届くようにすることである。
第7.国民(有権者)による無記名での直接の投票
これは、これまでの立候補者どうしの選挙活動に対する主権者である国民・住民の、直接の、そして最高で独立した最も権威ある審判である。
これによって、予め定められていた議会議員定数の範囲内で、議員が確定する。
因に私は、ここで当選できる定数はそれぞれ次の程度で十分なのではないかと考える。
大統領と首長は当然各一人であるが、連邦議員はせいぜい70名前後、州議会議員は30名程度、地域連合体議会議員は10名程度。
ちなみに、現在の議院内閣制をとるこの国の国会議員定数は、衆参両院で、722名である。つまり、この十分の一程度にするわけである。
なぜこの定員数で十分と私は考えるかというと、1つは、以上述べて来た経緯に基づく選挙制度から推測できるように、各地域から出てくる立候補者はその地域の有権者の様々な要求に耳を傾けて、そこの優先順位をつけて、問題を精査し、その上でそれその問題の解決をも視野に置いて自らの公約として出馬してくるであろうから、それだけの議員定数でも、その地域が解決すべき問題は、その議員たちが掲げる公約の中にほとんど含まれているだろうと思われるからである。
ましてや、議会を構成する議員は、選ばれるときには特定の選挙範囲の中から選ばれたとしても、ひとたび選ばれて当選した以上は、もはや特定の1選挙区の代表ではなくなり国民全体の代表になる、という民主政治における「代表の原理」が環境時代には一層生かされてゆくようになると考えられるからである。
当然この原理は、連邦だけではなく州や地域連合体での選挙でもそのまま適用されるはずだからだ。
また、この定員数で十分と私は考えるもう1つの根拠は、できる限り少人数の方が、議会での議論は、小回りが利き、しかも、互いに深い議論、本音の議論が十分な時間を掛けてでき、政策決定を迅速化できるだろうからである。
実際、これまでの国会を見ても————もちろん国会を含めて議会は質問の場ではないにしても————、衆議院465名、参議院245名、合計710名(2021年1月現在)いる国会議員の中で、一年を通じて、それもNHKなどが報道する本会議や予算委員会といった場で「質問」に立った議員は、質問回数ではなく、質問に立った頭数では、せいぜい一割いるかどうかという程度なのではないか、と私には思われてしまうのである。
とにかく議会では、議員どうしで議論すべき事柄の優先順位を決めた上で、順次、幅広く、また深い議論、細やかなところに配慮の行き届いた議論をし、その結果、特に「何はしてはならない」をできるだけ具体的に明確化した法律として議決し、その議決内容を執行機関の長を通して執行させ、速やかに国民生活の現場に反映させることこそが重要なのだ。
そのためにも、“一票の重みが2倍も3倍も違うのは憲法違反”、と抗議するのも大切だが、それ以前に、いかにして少しでも議会での議論をより有意義なものにし、どんな時でも国民の、あるいは住民の生命と自由と財産を最優先に、かつ迅速に守れる議会とするか、ということの方がはるかに重要なことなのではないか、と私は考えるのである。
一方、執行機関としての政府では————この場合大統領府となる————そこでの政治家、とくに大統領と、大統領に任命された副大統領と閣僚は、国家の最高の意思、州の最高の意思、地域連合体の最高の意思を議決した議会のその決定内容を受けて、配下の官僚ないしは役人をして、選挙時に国民から負託された権力と権限を正当に行使してはコントロールし、またチェックもして、議会の決定内容を最高度に効果的かつ効率的に執行させることこそが最大の役割でありまた使命となる。
ただしその場合、この新選挙制度は政党政治制度の存続は考えてはいないので、与党とか野党という概念はなくなる。
したがって、副大統領および閣僚に抜擢されるのは、あくまでも大統領の目にかなった人物ということになる。それも必ずしも国会議員であるとも限らない。
ともかく、大統領にしても、その大統領から選任される副大統領および閣僚にしても、その資格として、国民にとって最も大事なことは、この国の憲法を「維持し、保護し、擁護」しながら、また「法の支配」を守りながら、大統領の指揮統括の下、議会の決定内容を最高度に効果的かつ効率的に執行させることなのである。
その時、閣僚は、役人から「報告を受けている」と言うだけで満足し納得しているだけではどうしようもない。また国民に政治の執行状況を説明するのに、官僚の作文を棒読みしているだけ、というのでもどうしようもないのである。
そこで、以下では、既述して来た、選挙の実施に当たって選管が予め立候補希望者に提示するべきB種の政策案を先の「6つの条件」のそれぞれに対応させて、以下に例示する。
1.日本という国を、政治的舵取りのできる真の指導者を持ち、官僚とその組織をコントロールしながら、また現行のいわゆる「政府組織の縦割り」の打破を含めて、必要に応じて、官僚組織を大胆に変革しながら、議会が決めた政策や法律を速やかに執行しうる真の政府を持った、真の国家とするための具体的な方法論を取り上げ、その実現に向けて取り組むことを決意した公約
○国民一人ひとりに、“私たちが真に幸せになりたいのなら、とにかく現在の政治状況を変えよう。そのためには、先ずは、私たち国民自身が、一人ひとり、政治的基本諸概念、とくに、政治、権利、権力、議会、政府、司法の独立等の意味を曖昧なままにせず、正確に理解し、それを実践できるようになろう”、と国民に呼びかけることを決意した政策案
○時間はかかるけれど、学校で、民主主義政治制度、とくに議会とは何か、政府とは何か、裁判所とは何か、そして政治家とは何か、役人とは何か、またその両者の関係はどうあるべきか、権力とは何か、統治とは何か、国家とは何か、をじっくりと学べる教科を必須とさせる、とする政策案。
○新選挙制度を実現させる政策案。
○国民の全階層からなる、国会と政府から完全独立した、公正かつ公平に選ばれた構成員からなる、特定事項を必要に応じて審議できる国民議会を創設する政策案(ここに、特定事項とは、たとえば、新国家創建案、新憲法草案、最高裁判所長官を国民が指名できる権限、検察庁の検事総長を国民が指名できる権限、本書で提案する新選挙制度と、それの骨格を成す選挙管理委員会の設立、等)
○“政治家こそが国民の唯一の利益代表である”、一方、“官僚ないしは役人という公務員は、国民の代表ではなく、むしろ国民に奉仕する立場のシモベである”との訴えとともに、それゆえに、政治家こそは政治と行政のあらゆる分野で、官僚(役人)をコントロールし、彼らのやっていることをチェックする必要がある、ということを訴える政策案。
○また政治的情報伝達のシステムについても、政治家は、国民の代表として、とくに現場での国民の声に耳を傾けることに最も重きを置き、それが議会の議長と政府の長にもっとも速やかに伝達され届くような、いわば「現場の声の最速吸い上げシステム」を国内のあらゆる公的機関に対して実現するシステムを構築する、との政策案
○民と官を明確に区別するために、また官僚の天下りを壊滅させるために、いわゆる財団法人や社団法人等の「公益」法人の全てについて、国民の代表という立場で、それの要不要をチェックし、不要なものは廃止させる、という政策案
2.とくにこれまで、この国の政治家が取り上げることを敢えて避けて来たがために事態をいっそう深刻化させて来てしまった、この国あるいはその地域にとっての最重要・最緊急課題を取り上げ、その課題の解決に、立候補希望者なりの具体的解決方法を示しながら取り組むことを決意した公約
○国民の食う食糧を国内で自給する政策案
○国民が日常的に使うエネルギーを、電力を含めて、国内で自給する政策案
◯この国の国土の生態系を多様な生物種の強制と循環の場に変えてゆく、との政策案。
○政治家が官僚(役人)に放任して来たがために貯めに貯めて来た国の中央政府と地方政府の債務残高およそ1200兆円を遅くとも2030年までにはGDPの30%までに減らし、将来世代や未来世代の若者たちが納める税金は、彼らが彼らのために使えるようにする、との政策案
○少子化を解消し、高齢化を解消してこの国を活力ある国にするために、この国を真に希望の持てる国にするとの政策案
○国全体が均衡ある発展をするためと、地震や津波からの危険分散を図るために、地方を産業面でも人口構成面でも活性化させて、大都市への人口集中を止めるだけではなく、人の地方への移住を促進して、各地域を循環的に自己完結した社会へと目指す、との政策案
○国民の暮らしを成り立たせながら地球温暖化の進展を抑える国民経済とそのシステムのあり方を提唱する、との政策案。
○天文学的な額の政府の借金の中で、ますます進む社会資本の老朽化と劣化に対処する、との政策案。
3.《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》を国家の二大指導原理とすることに国民の合意が得られるように計らいながら、日本に真の民主主義を実現させるだけではなく、さらにそれをも超えた生命主義をも実現させ、この国を真に持続可能な国にする具体的な方法を示した公約
○《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》を小中学校の教育課程で学ぶようにするとの政策案
○「自由」とは何か、「民主主義」とは何かを、小中学校の教育課程で学ぶようにするとの政策案
○「生命」とは何か、「生命主義」とは何かを、小中学校の教育課程で学ぶようにするとの政策案
○国内に、「都市および集落としての三種の原則」を実現した都市づくりの必要性を訴えるとする政策案(自動車がなくても暮らしが成り立つ小都市あるいは地域連合体とする。結果、自動車を動かすための化石燃料あるいは電力は不要となり、それだけ温室効果ガスの排出量を激減させられるのだから。そしてそれこそが、国連が訴えるSDGs、持続可能な開発の最も有効な実践例となるのだから、と)。
○活力を失い、人口減少が進む国内のそれぞれの地域を支え、その地の自然と伝統の文化を守り、また育てる若き人材を育てるために、これまで戦後ずっと行われてきた画一教育や競争教育そして断片的知識詰め込み教育を廃止して、互いにみな異なる個性や個人の能力を最大限伸ばすための多様性を重視した教育を実現するために、中央政府レベルでは、もはや中央集権体制をやめ、権限をごく一部を除いてはその大部分を地方政府に移管する一環として、先ずは文部科学省を廃省とし、学校教育の権限を州あるいは地域連合体に委譲させる、とする政策案
○所属府省庁の既得権益を維持あるいは拡大しては、そこの高級官僚の天下り先を確保し続けるためだけに、事業を肯定する答申を出させるための環境アセスメントを似非学者・御用学者にさせては、この国の世界に誇りうる豊かで美しい自然を大規模に破壊し続けてきては、この国の借金、すなわち政府債務残高を天文学的な額にまで膨らませることになった張本人の政府の一省庁である国土交通省は、もはや存在しているだけで有害無益として廃省にして解体し、むしろこれからは、この国も「パリ協定」に本格的に貢献しうる国となるために、これまでの環境省を、その役割と使命を大幅に拡大して、予算も大幅に拡大し、老朽化した社会資本の修理保全をしながら、破壊され汚染されたこの国の自然ないしは生態系を大至急蘇らせることを目的とした国土自然保全省として生まれ変わらせる、との政策案
○同様に、所属府省庁の既得権益を維持あるいは拡大しては、そこの高級官僚の天下り先を確保し続けるために、原発行政を積極推進したり、大規模火力発電所による発電にこだわり続け、一方ではこの国の伝統の物づくり文化あるいは「匠の技」をグローバル市場経済システムを進める中で次々と消滅させながら、温室効果ガスの大量輩出を産業界には続けさせ、地球の温暖化に依然と拍車をかけ続けて来たのは経済産業省である、とした上で、もはやこの省は時代の役割を終えたとして廃省にし、これからは、真に地球の自然を守り、国の伝統の物づくりを甦らせ、結局は個々人をして利己主義で肉体的にも精神的にも虚弱にしかさせない「便利」「快適」な物づくりではなく、「身の丈の技術」、「自然素材からなる製品」、「作り手の思いやぬくもりを感じられる物づくり」を中心にして、真に一人ひとりの心の豊かさを実現させてゆくことを主目的としてゆく伝統技術復興省を創設するとの政策案。
○見せかけだけの「国土強靭化事業」などではなく、とくに源流域の森林を混交林としながら、その森林を地域住民を主体に、雇用を確保しながら管理の徹底を図って活性化させ、森林を「緑のダム」として蘇らせ、集中豪雨時、山肌の崩壊防止、土石流発生防止を図る事業を国家として進めてゆく、とする政策案。
○河川という河川の流れを阻害する物または構造物を撤去しながら浄化して、水生生物が育ち、回遊魚が遡上できるようにして、河川を作動物質「大気・水・栄養」の循環の大動脈とすることを国家としての真の公共事業として進めてゆく、とした政策案。
○国民が安くて良質な食糧を安定して確保できるような生産と流通と消費の仕組みを、都会と農村を結びつけながら作ることを国家としての真の公共事業として進めてゆく、とした政策案(結果として、国全体の農業を活性化させ、先進国中最低の食糧自給率を向上させることができるようになり、さらには国民の多くが極力医者や薬に頼らなくて済む健康体になり、増大する一方の国民医療費を減らせるようになる)。
○日本の農業形態を、やはり生産地(農村)と消費地(都会)とを結びつけては食料自給率を上げながら、農薬と化学肥料を多投する農業から、有機質による農業に転換させるとした政策案(生態系の破壊と生物多様性の消滅を防ぐため)
○温暖多湿という気候条件と平野が少なく山岳が70%以上を占めるという地形的特性を持つ日本列島ならではの自然条件を最大限に生かして、自然エネルギーによるエネルギー自給を実現させる、とする、世界の環境先進国でも不可能な方法による政策案。
それは、日本中いたるところにある急峻な河川、それもほとんど一年中、大きく水量が変わることなく流れる河川水の持つエネルギーを有効活用して発電する、というものである。だからと言ってそれは決して、河川水をせき止めるダム式の発電ではない。水を流したまま、その水流のエネルギーによって小型水車を回して発電し、その電力を合計して大電力を得るという方式のものである。
この方式によって得られる発電量は、ソーラーパネルのように、その日の天気によって左右されるということはないのである。
○太陽光によって温水を作り、その蒸気の力で発電し、それを各地域のエネルギー自給に役立てる、とした政策案。
○各家庭から毎日必ず出るゴミを焼却したときに出る熱を利用して発電し、それを各地域のエネルギー自給に役立てる、とした政策案。
○人糞や酪農から出る豚糞・牛糞・鶏糞・馬糞等を有効利用してメタンガスを作り、それをボンベ詰めして地域の各家庭の台所のガスとする、との政策案。またそのとき得られる液肥を肥料として農業に利用することにより、化学肥料の投入量を減らし、同時に購入費を減らすことができるようにする、とした政策案
○太陽光によって温水を作り、それをパイプを通じて地域の各戸に配給して、暖房や台所に有効利用する、とした政策案
○化学合成物質による工業製品を極力廃止し、自然材料による手作り製品が商品となる経済システムを実現させるとした政策案(物を大切に使うようになって簡単に物を捨てるという習慣は消え、生態系を化学合成物質で汚染するのを防止できるようになる)
○グローバリゼーションで廃業または消滅に追い込まれた日本の伝統の「匠の技」および各地域の「伝統のものづくり文化」を復活させ、各地域の住民の暮らしを支える多様な物づくり事業を各地域で自由かつ独自に興せるように国家が支援する、とした政策案
○自然や生態系を台無しにし、そこを野生生物が棲めない荒れた地にしてしまったために、結果として麓に鳥獣被害を頻発させることになったこれまでの「開発」あるいは「開発行為」のあり方と概念を全面的に見直し、むしろ生態系を活性化させ、生物多様性を復活させるための「開発」を進める、とした政策案。
◯全国各地、特に今、北海道の土地が中国資本に大規模に買い占められている実態を鑑みて、それを法的に規制し、国土の保全と安全を守る、とした政策案。
4.日本という国を、国民の生命と自由と財産の安全、そして人権の擁護と福祉の充実がつねに最優先される国にするための具体的な政策案あるいは方法論を取り上げ、その実現に向けて取り組むことを決意した公約
○これまでの画一教育、断片的知識詰め込み教育、本当の意味での信頼関係を築けない競争教育を廃止して、子どもたちや若者たち一人ひとりの個性と能力と尊厳を無条件に認める学校教育へと転換させる、とした政策案。
○現行の学校教育における画一教育と断片的知識詰め込み教育を止め、とくに児童生徒には次の力を身につけさせる教育へと転換させる、とする政策案。
自然の中で生きられる力。物事の善悪や正邪を自分で判断できる力。自分の言いたいことを相手にわかりやすく説明できる力。自分の主張したいことを、不特定多数の人にわかりやすく伝えるための文章を書く力。
◯学ぶ意義、生きる意義、生きる目的を児童生徒自ら見出せる教育へと転換させる、とする政策案。
○そして、それを可能とするために、教育基本法と学校教育法を根本から改正させる、とする政策案。
◯同時に、地方の文化や事情もわからないまま、中央にいながら全国を画一的に統治する管理教育に基づく行政では、多様な人材は育て得ないとして、文科省の廃止を呼びかける、とする政策案。
○優れた人材を生み出すには、優れた教師が必要だし、その教師が自由に教育に当たれる教育制度が必要だとして、それが実現できる学校教育制度へと変えてゆく、とする政策案。
○どのような境遇の家庭の子供でも、すべて学校で学べるようにするために、学校教育費用を、小学校から大学まで完全無料化する、とした政策案。
○日本国憲法の第21条第2項「検閲は、これをしてはならない」に則り、「教科書検定」を廃止させる、とした政策案。
○日本の医療の現場、介護の現場を、そこで働く人々には、肉体的にも精神的にももっともっとゆとりがあって、なおかつ、医療従事者と患者とが、互いに人間の尊厳を大切にしうる現場とするために、医師、看護師、介護士、保健士の数を増やすとともに、その人たちへの待遇を抜本的に改善し、「何のための医療」であり、「誰のための医療」であるかを誰もが理解できる医療制度へと変えてゆく、とする政策案。
○現行日本国憲法の第21条を徹底し、基本権としての「集会・結社・表現の自由、通信の秘密」の保障を確実なものにする、とした政策案
○これまでの政治家の怠慢と無責任の結果、いたるところ、時代遅れで、古き家族制度の名残をとどめる民法を、新しい時代にふさわしい民法へと全面改正する、とした政策案。
○個人情報保護法を全面改正するとした政策案。
○情報公開法を全面改正するとした政策案。
○憲法違反が明らかな特定秘密保護法は廃止するとした政策園。。
○全国の「記者クラブ」を廃止し、基本権である「表現の自由」を完全に保障する、とした政策案。
○日本の既存の全法律を、内容、時代や状況に合っているか、表現の判りやすさ、表現の合間さからくる運用者の恣意の介入の可能性、新法の必要性等々の観点からの全面見直しを実現させる、との政策案。
○封建時代あるいは明治時代の「家族制度」の考え方とは根本的に異なる、人権の尊重と民主主義を土台とした、少なくとも3世代以上が同居する今様の「大家族制度」を実現させる、とした政策案(結果として、伝統文化の伝承、食文化の伝承、自宅での出産の可能性、育児不安の解消、託児所の不必要化、個人主義の緩和、支え合いの文化の定着、女性の社会参加の後押し、等が期待できるようになる)。
○現行の世代間相互扶助制度(年金制度、介護・保険制度、奨学金制度等)を抜本的に再検討させる、とした政策案
5.不安定化と複雑化を増し、分断化が進む世界に対して、日本が、協調外交を通じ、その世界の真の平和と安定に貢献できる具体的な策を示し、それらの実現に努力して行くことを決意した公約
○これまでの日本は、世界から経済大国とは言われながらも、国民生活の実態、特に精神面や心の面では貧しいものだった。それというのも、日本は、戦後ずっと今日まで、とくに政治と軍事面ではアメリカに依存しまた追随しながら、「何のために豊かになろうとするのか」という意味も目的も明確にせず、ただ「経済的に豊かになること」だけを自己目的としてきたがためだ。そのために、世界から、日本は何をしたいのか、何を目ざしているのかさっぱり見えてこないし、何を考えているのか判らない国、目されてきた。
そんな中で日本は、バブル経済崩壊後は、急速に、国際的な相対的地位を低めても来た。
しかしこれからはそんなことではいけない、日本が目ざして行く方向とその際の基本的考え方を世界に明らかにして行く、そしてそのことを通じて、この国を、今度こそ、世界から信頼できる国、価値ある国と認められる国にしてゆく、とした政策案。
○その第一として、地球の温暖化を抑える活動をすることにおいて、環境先進国の仲間入りをすることを目指す。生物多様性が消滅してゆくことを抑える活動においても、環境先進国の仲間入りを目指す、とする政策案。
◯これからの日本と日本国民は、国連に加盟している他のすべての主権国家と同様に、外交と軍事を外国に依存することはもはやせず、先ずは国民自ら、自国の安全は自分たちの手で守るという気概を持ちながら主権を堅持し、したがってこれまでの日米安全保障条約はひとまず破棄する。それだけではなく、これからはいかなる軍事同盟にも加わらずに中立を保ってゆく。こうした国民的姿勢を政府は国の内外に示すべきだ、と迫ってゆくとする政策案。
◯このままではますます深刻化してゆくであろうとみられるアメリカと中国との「新冷戦」ではあるが、それをどちらか一方の立場だけから見ている限りは、あるいは日本はアメリカにつくべきか中国は怒らせないでおこうかといった損得勘定の次元の考え方では、世界平和に貢献できるはずはない。
むしろ対立を深めることに貢献してしまいかねない。
こういう時こそ、一段階も二段階も高い見地から事態を見つめ直してみることが大切なのだ。そうでなくても、今、気候変動の激化と生物多様性の消滅の危機、そしてあらゆる資源の枯渇化により、地球上の全人類の存続が危ぶまれているのだから。そしてアメリカの経済も中国の経済も、否、全世界の経済もそれらの危機を乗り越えてこそ持続できるのだからだ。そのこのことを冷静に考えるのであれば、両国は覇権を競っている場合ではないのだ。
またそうした考え方を踏まえる時、日本は、ただ「東アジアの平和と安定」とか「自由で開かれたインド・太平洋を守る」といった視野で事態をとらえてばかりいるのではなく、つまり中国の動きにばかり目を奪われているのではなく、もっと広く、そしてもっと高い見地でとらえる必要があるはずだ。それは、この後すぐにも述べることになる、「世界の大義」、あるいは「人類全体の価値」とは何か、そして「現在世代の未来世代への責任」とは何か、という地球的、全人類的見地に立っての見方だ。
その見方とは、アメリカとはこれまで通り協調を維持しながらも、同時に、長い歴史の中で日本が大変お世話になった韓国と北朝鮮とはもちろん中国とももっと友好的な関係を築きながら、つまり互いに尊敬の気持ちを持ちながら、同時に、EU(ヨーロッパ連合)ともインドとイスラム圏ともそしてロシアとも友好的な関係を築き、またそれを深めてゆくことを意味する。
これからの日本は、こうした文字通り世界的かつ地球的視野に立った戦略を世界に向かって展開してゆくべきだ、とする政策案。
○これまでの途上国への「援助=ODA」のあり方をも抜本的に見直す。「押しつけ援助」ではなく、途上国の人々が求めてくる知識や技術を提供し、資本提供と人的支援をも積極的に行い、彼らが彼らの文化をより発展させられ、自立出来るようになることを目的とする支援へと切り替えるべきだ、と政府に働きかけてゆく、とする政策案。
◯これからの世界を平和にする中核を担うのは若者である。その若者の中でも、積極的に世界平和、環境回復、人権の尊重という観点で積極的に活躍してくれるコスモポリタン(世界市民主義者・四海同朋主義者)としての学生を育てるために、日本はその設立発起人となって「世界大学」を日本に創設する、との政策案。
◯また、今も世界の何処かで続く内紛や宗教対立そして民族対立、さらには気候変動によって生み出されてしまう「難民」を、これからのこの日本は、人道の観点に立ち、門戸を大きく開き、政府には積極的に受け入れてゆくようにさせる、とする政策案。
○難民を積極的に受け入れるようにするだけではなく、難民が生じないような平和な国際社会を作ることにも貢献する、とする政策案。
◯そのためには、日本自体が世界平和に積極的に貢献できる国とならねばならないが、それと並行して、国連を強化してゆく必要がある。そこで言う「強化」とは、従来のような「国際の平和と安全を維持すること」や「諸国間の友好関係を発展させること」や「人権および基本的自由を尊重するよう助長奨励すること」にとどまらず、国連が積極的に世界をリードできるようになることである。
そこで日本は、そのためにも積極的に貢献してゆく、とする政策案。
具体的には、国連憲章が明記する「すべての加盟国の主権平等」の原則に基づき、すべての加盟国の民主的コントロールの下で、15の国連加盟国からなる安全保障理事会の権限と、5つの常任理事国の拒否権を含む決定権限との関係の見直しの必要性を国際社会に提起し、国連総会の決定が最高権限を持ち、それは常任理事国の持つ「拒否権」を上回る効力を有するとする、とするよう世界に働きかける、との政策案。
○あるいは、15の国連加盟国からなる安全保障理事会の多数決による決定は常任理事国の拒否権を上回るとする国連憲章の改訂を国際社会に呼びかける、とする政策案。
第二次大戦終結直前に創立された国連ではあったが、もはや70余年を経た今、世界は当時とは大きく変わった。植民地だった多くの国も今や独立国となり、主権国家として国連に加盟している。東西冷戦も終わった。圧倒的多数の国々から「自由と民主主義は人類普遍の価値」と承認され支持されるようになった。そんな中で、世界には格差の拡大、分断の広がり、対立の激化があっちでもこっちでも生じるようになった。またそれと並行して、気候変動は進み、生物多様性もものすごい勢いで消滅している、海山の多くの資源も枯渇化している。そんな中、再び核戦争の脅威も高まっている。
そしてここで忘れてならないことは、こうしたことのすべては、この地球上で起こっている、ということだ。果てし無く広がる宇宙の中で、今のところ、唯一の「奇跡の星」、「水の惑星」と呼ばれるこの地球でだ。
本当は遅すぎる感がするが、もうそろそろ世界の人々は同じ人類として、「世界の大義とは何か」(カレル・ヴァン・ウオルフレン)という観点に立って、あるいは「人類全体の価値」(ネルー首相)とは何かという観点に立って議論してもいいのではないか。
これを国連で徹底的に議論するのである。その上で、これからの国連を、単に国際平和のための機関というのだけはなく、「世界の大義」に立って、「人類全体の価値」を実現するための国際機関として位置づけるのである。それはある意味では国連を、「人類全体への忠誠」を尽くしながら、年間を通して世界に対してリードできる「世界連邦政府」とするということでもある。
もちろんその世界連邦政府に世界政策を提供するのは、国連総会での議決事項である。
すなわち、こうして国連を、世界で唯一最高の権威を持った世界公認の機関として生まれ変わらせるのである。そしてそのための活動を世界に対して積極的にする、とした政策案。
○加盟国のいかなる国に対しても公平かつ中立な立場で行動する国連軍の創設を世界に呼びかけ、いかなる国と国との間の紛争においても、紛争当事国の軍隊は、国連軍の指揮下に置かれるとする規約の成立に尽力する、とする政策案。
6.今、世界が直面している人類存続の可否がかかった4つの大問題である「気候変動問題」、「生物多様性の消滅問題」、「化石資源のみならず海の資源と山の資源の枯渇化の問題」と「核兵器の即時全面廃棄問題」の解決に向けて、日本としての具体的な策と方法論を世界に向けて示し、それを率先して実行して行くことを決意している公約
上記4つの大問題のうちの最初の3つは、「持続可能な未来、こう築く」とした拙著が掲げる二つの指導原理《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》を世界中がその早期の実現を目指せば、克服できると考えられるが、特にその二原理を日本国内で実現しようとする場合には、例えば次のような政策を実施してゆく必要があると私は考える。
その推奨例を挙げる。
◯最も大規模な例は、物質的豊かさだけを追い求める資本主義グローバル市場経済はもはや止め、これからはむしろ精神的な豊かさを実現する経済へと転換させることだ、とする政策案。
○それは、言い換えれば、文明の発展を重視する経済ではなく、文化の発展を重視する経済へと転換させる、とする政策案である。
◯あるいは、それは、資源を大量収奪し、それを大量輸送し、商品をオートメーションシステムにより大量生産しては、それを大量運搬し、最後まで使い尽くさないで大量廃棄する経済システムをやめ、身の丈の技術や手作りの「技」により、少量多品種生産し、その地域内で用い、最後までそれを使い尽くす経済システムに転換させる、とする政策案。
◯またそのためには、都市化をやめ、既存の大都市人口を減らすために、地方への移住を勧める、とする政策案。
◯また大都市の縮小化を図りながら、都市には、できる限り森や林を主体とした緑地帯を作る、とした政策案。
◯また都市の縮小化を図りながら、人々が暮らしで使う「お湯」は、太陽エネルギーによって作り、それを地域住民にパイプで配給する、とした政策案。
◯そして各戸に供給された「お湯」は、温度の高い「高級」なお湯の状態から、これ以上低い温度の「お湯」はない状態まで、使い尽くして、最後に排水するシステムを年に設ける、とする政策案。
◯また都市の縮小化を図りながら、都市からの排水を、太陽エネルギーを使って起こした電力を用いて浄化し、河川に流すようにする、とした政策案。
上記4つの大問題のうちの最後の「核兵器の即時全面廃棄問題」の解決策としての政策案の例としては、次のようなものが考えられるのではないか。
○日本は世界で唯一核兵器が使用され、被害を被った国として、その悲惨さを世界に訴え続けながら、「核なき世界」の実現のために全力を尽くす、とした政策案。
◯核兵器の即時全面廃棄を実現するために、この国が真に自立した国、世界から平和を訴える国として認めてもらえる国になるためにも、もはや軍事超大国の核の傘の下にいることを止める、そして核兵器禁止国際条約に加盟すると宣言できる国になる、とする政策案。
と同時に、核保有国には、核戦争には「勝者」はいないこと、核抑止論はとうに破綻していること、核戦争は一瞬にして文明を破壊すること、を強調しながら、核保有国に核兵器の同時全廃を迫る、とする政策案
◯また、核兵器そのものがもはや不要と核保有国のどの国も思えるようになるためにも、世界の平和のために日本はユーラシアの一員として奔走する、とした政策案。
○宇宙空間とサイバー空間を軍事利用することを禁止する国際条約を成立させようと国際社会に呼びかける、とする政策案。
○各国の「宇宙開発」活動のうち、真に全人類の幸福のためになる開発のみを残し、しかもそれは国際社会が共同で行うこととし、他の開発行動は即時停止を国際社会に呼びかける、とする政策案。
それは、どんなに科学技術が進んでも、どんなに宇宙広しといえども、人類が住める場所、それも裸でくつろげる場所はこの「奇跡の星」「水の惑星」と呼ばれる地球しかないこと。それに、その開発行為はどのようなものでも、本質的に宇宙空間を汚すことになる行為でしかないこと。人類のために宇宙を活用するのなら、またそのために観測するなら、その宇宙は、ゴミの空間ではなく、清浄な空間に保たねばならないからだ。
9.1 新しい選挙制度 —————————— その1
9.1 新しい選挙制度 ————————————— その1
日本では、政治家になるためには、また政治家であり続けるためには、「カネ」がかかりすぎるのである。それは戦後から今日までずっとそうだった。それも特に公明党や共産党といった組織で選挙に臨む政党を除いては。
例えば二世議員について見ても、どうやらこんな調子だったのではないだろうか。
最初は、父親から引き継いだ金銭的財産は莫大だからとして安心してしまうことが多い。ところが、親の後を継いで政治の世界に出るにあたっては、自分にはまだ政治の世界の事情などさっぱりわからないから、そのため、まず、親から引き継いだ「選挙地盤を守る」ためにカネが出てゆく。その場合も、政治家は互いに政敵が多いことから、引き継いだその地盤を守るためには「票を金で買う」しかない。
では首尾よく政治家になったらなったでどうか。その場合には、「派閥」や「会派」に入らなければならなくなる。それも政治家として「何がしかのこと」ができるようになるためにはできるだけ大きな派閥や会派に入らなければならない。そうでなくては「メディア」も注目してくれないし、ちやほやしてもくれない。ところがその派閥や会派に入れてもらうためには、やはりそれなりのカネも要る。
入れてもらったならもらったで、その派閥や会派の中で「地位」を上げるためには、またその「派閥や会派の中でカネ」が要る。
ところが今度は地位が上がれば上がったで、「部下・手下・子分・子飼い」が増える。その「部下たちの面倒」を見るのにもまたカネだ。
そうしているうちに親から譲り受けた財産などたちまちなくなってゆく。そこで、否応なしに家や土地を売ってカネを作らなくてはならなくなる。また、いろいろなことに「不正」とわかっていても、手を染めていかなくては政治活動資金を維持できなくなる。それも、自分に言い訳をするような「大義」を見出して。・・・・・。
そうやって、政治家は、大きくなればなるほど、また有力政治家と言われるようになればなるほどカネが要るものらしい。
しかし、それは、一般の私たちから見たら、どう考えても、解せない話だ。
そもそも国民の要求を容れて、その命と自由と財産をより安全に守り、福祉を向上させることを第一の使命とする政治家になるのに、またその政治家を続けるのに、どうしてそれほどの金が要るのか、と。実際、最もよく耳にする政治家同士の資金集め手法が「パーティー」券を互いに買っては資金集めに協力し合うというアレだ。
頻繁にそうせざるを得なくなるというのは、この国の政治の仕組みがどこか歪んでいるからではないのか、と。事実、政治家の起こす大小様々な贈収賄事件はこの国では後を絶たない。
適当に便宜を図ってやったり、「口利き」をしてやった相手から金品を受け取る買収事件。尤もらしい「公共事業」の必要性を説いては、その工事を特定業者に受注させたりして便宜を図っては、その業者が得た利益の一部を政治家が懐に入れる収賄事件。
そしてそんな時、よく表面化しては、ニュースのネタとなり、社会を騒がせてきたのが、政治家のいわゆる「政治資金管理団体」による、いわゆる「政治資金規正法」違反、あるいは「政治とカネの問題」だ。
果たしてこうしたことが、この国では、中央政治でも地方政治でも、一体どれほど繰り返されてきたことか。そしてその度に、いったいどれほど、国民の政治あるいは政治家への信頼を失い、政治家が国民全体のモラル低下に拍車をかけてきたことか。
ところが、である。そのたびに、メディアも関係専門家の間でも、大騒ぎはするが、問題の本質をえぐりだすというところまでは決して行かず、表面的な議論だけでいつも終わってしまう。結局は、「政治にはカネがかかるんだ」という言い方で幕引きがされてしまう。
ではそのように頻繁に犯罪を犯す政治家たちは、政治の場面では政治家としての本分、すなわち使命と役割を果たしているのであろうか。答えは「ノー!」だ。
その実態は既述(2.2節)して来たとおりである。そしてその実態は犯罪を犯すような政治家だけではない。与党政治家であれ野党の政治家も全く変わらない。
とにかく国会を含む議会の政治家すべてに共通していることは、誰もみな、それぞれ自分が選挙時以来掲げてきた「公約」を実現させるなどケロッと忘れて、ただ議場に席を並べ、時折、自分の支持者へのパフォーマンスなのであろうか、いかにも自分は今、“議会でこうして活躍をしているんです”と言わんばかりの態度で、「質問」して見せるのだ。
それも、質問は、同じ議場の他政党の政治家に向かってではない。本来、三権分立なのだから、立法機関であるそこにいてはならないはずの、執行機関である政府の者に向かってなのだ。
つまり、この国の政治家という政治家は、議会は質問の場ではなく立法の場であるということすら判ってはいないのだ。いや、そんなはずはない。知っていて、無視しているのだ。
なぜか。多分その方が楽だからだ。
つまり、この国の特に国会を含む議会の政治家という政治家は、完全に国民の信頼と期待を裏切り、税金泥棒あるいは詐欺師と化しているのだ。
となれば、政治というものがいかに国民の幸不幸に直接関わる重要な社会制度であるかということを考えるとき、上記して来たような、国民にとって極めて深刻で不幸な政治家の事態を解消するには、もはや、「政治資金規正法」違反を云々して済むような話では断じてないことがわかるのである。
むしろ、政治のあり方やその質を左右し、そして民主主義議会政治を実現させうるか否かを左右する、政治の出発点である「公職選挙法」そのもののあり方を問わねばならないことがはっきりするのである。それを抜きにしては、この国の「政治とカネの問題」は果てし無く続くことになるからである。
しかし、ここで少し考えてみればすぐに判ることであるが、そんな「税金泥棒」あるいは「詐欺師」とまで私たちが言わねばならないようなそんな政治家を選んだのは、他でもない私たち国民自身なのだ。この国の政治家の上記したような、あるいはこれまで随所で述べて来たような、目を覆うばかりの惨憺たる状況、情けない状況を生んだのは、私たち国民の、民主主義政治の出発点である選挙に対する理解の浅さと関心の低さ、そして、政治そのものに対する理解と関心の低さと言っていいのである。
「政治家のレベルは、その国の国民のレベルを超えられるものではない」とはよく言われることであるが、私たちの日本にもそれはそのまま当てはまるのである。
主権者とは、「国家の政治のあり方を最終的に決定できる権利を所持する者」という意味であるが、「主権在民」とは言うものの、主権者である私たち国民が主権者としての義務と責任を果たして来なかったのだ。
したがってそのことを私たち国民一人ひとりが先ず自覚しないことには、ここで述べようとする選挙制度改革を含む現行の政治状況の変革などできるわけはないのである。ということは、言い換えれば、私たち国民は、いつまで経っても真の幸せはおろか、安心できる暮らしも手にすることもできない、ということなのである。それはまた、この国は、世界では当たり前となっている、人並みの民主主義国にさえ、いつまでたってもなれないままとなる、ということなのである。
ところで、これまで、この国で行われてきた選挙は、どこの地域の選挙でも、いつの選挙でも、単なる「儀式」あるいは形式的なものとしか言いようのないものだった。
そこで言う儀式あるいは形式とは、それを行うことの意味を深く問うことなど一切なく、決められた時に、決められた事を、決められた通りにただするだけとした行事、との意味だ。それだけにその選挙は、この国に真の民主主義を実現させることのできる本物の政治家を選び出す制度でもなければ、また育てられる制度でも全くなかった、ということでもある。
現行の選挙制度については、投票する側の私たち有権者も、また選挙戦に臨む国会議員候補も地方議会議員候補も、いずれも、「選挙」について目的と手段とを履き違え、その意味を理解して来なかったのである。
本来、選挙とは、この国の最大多数の国民が最大に幸福になれるようこの国の現状を変えてくれる、また変えることのできる能力と変えなくてはとの強い意志を持った政治家を選び出すことなのだ。選挙はそのための手段に過ぎない。したがって、選挙は投票することが目的なのではない。つまり、投票すればお終い、なのではない。
また、投票すること、すなわち私たち一人ひとりが有権者として持つ一票を投じるということは、それを投じる相手である候補者に、その候補者が掲げる約束、即ち公約を実現して欲しいと期待するとともに、公約を実現することができる力としての権力を託すことでもあるのだ。したがって、自分の持つ一票を投じた結果政治家となった者については、彼のその後について、付託された権力を公正に行使して、その公約をきちんと果たそうとしているか、また果たしているかを主権者としてチェックし続ける義務を持っているのである。
だから、“投票してしまえばお終い”では決してない。むしろ自分が投じた候補者が当選した後の方が、私たち国民の主権者としての義務、国家と社会に対する義務の履行が待っているのである。そしてその義務を次の選挙の結果が出るまで貫き通す態度こそ、この国に民主主義を実現させ、私たちの日々の暮らしを安心できるものにする最も早道になるのである。
一方、もちろん候補者から見ても、当選することが目的なのではない。目的としてもならない。むしろ当選することは、政治家としてのスタートラインに立つことでしかない。だから、“当選すればお終い”なのでは断じてない。当選して後こそが、自己の愛国心と国と国民への忠誠心の有無を含めた形での、政治家としての能力と資質が試されるのだ。
そこで、こうしたことを有権者である私自身にも戒めとして言い聞かせながら、以下に、私の考える、この国の、これまでとはまったく違う、これからの新しい選挙制度のあり方について提案してみようと思う。
動機については既に明らかであろうが、それでも、ここで改めて明確にしておきたいと思う。
これまでの日本の選挙制度は、国政レベルでも、また都道府県および市町村の政治レベルでも、選ばれたはずの者は、国民が納得しうる意味での代表とはとても言えるものではなかった。どこの選挙でも、投票率が50%を割るような状況は常態化しているからだ。
国政レベルでも、最大多数党となったとは言っても、全有権者からの得票率は50%に遠く届かない。
実際、現在の安倍政権などは、政権を執ったとされる2017年の総選挙についてみても、自民党だけについてみれば、比例代表選挙での得票率は33%、小選挙区制の下では有権者の2割にも満たない支持で「当選」とされた者から成る政党に過ぎない。それでいて議席占有率は61%にもなってしまうのだ(赤旗日曜版2017年12月17日号)。
これでは国民を代表する政権とはとても言えない。代表していると言えるためには、常識的に考えても、全有権者数からの得票率が最低でも50%、いや政権を執れたと言えるためには、憲法改正必要議員数と同様に、全有権者数の三分の二以上が必要であろう。
それなのに、安倍晋三も、安倍に任命された閣僚も、当然のように総理大臣をやり、閣僚をやっている。それに、この国の現行憲法はそうした状態を無効ともしていないし、司法もそうした判断を避けている。しかも、ひとたび当選してしまえば、議席占有率61%にモノを言わせて、憲法違反の法律を強行可決したり、憲法上の正規の手続きを無視して、解釈を変えるだけで改憲したことにしたりと、もうやりたい放題だ。
ところがこの国では、首相および政権政党の政治家たちのこうした行為に対して、それを権力の濫用だ、憲法への冒涜だ、と真っ向から論難する政治家もいなければ政党もない。
そもそも安倍晋三は、憲法を“国の理想を語るものだ”などというとんでもない認識でいる。国民が生きてゆく上での原器あるいは物差しであることも知らない。
こんなところは、例えば、アメリカ合衆国大統領が就任時に、神の前にてなぜ次のように宣誓するのか、その深い意味を、この国の総理大臣になるような者はきちんと考え直すべきだ。
“ 私は 合衆国大統領の職務を忠実に執行し 全力を尽くして合衆国憲法を維持し 保護し 擁護することを厳粛に誓う ”
さらには、一人一票しか与えられていない投票権の重みが、地域によって2倍から3倍もの差が出てしまうような状態にもなっているのに、政権はそれも放置したままだ。裁判所もその状態を明確な「違憲」とはしない————実はこうなるのも、私は、この国では、司法権が行政権、とくに法務省の官僚から独立し得ていないがためであろうと見ている————。
そんな中、政権政党を中心に、「合区」だとか「△増▽減」といった、形式的で小手先の「数合わせ」だけで済ませてしまっている。
したがって今のままでは、この国では、儀式の選挙によって、名ばかりの政治家が選び出され、形ばかりの議会が開かれ、名ばかりの総理大臣が選ばれ、またその総理大臣によって名ばかりの閣僚が任命され、形ばかりの政府、形ばかりの組閣がなされ、軍事超大国に追随しては主権を放棄し、総理大臣を含む全閣僚は、官僚たちがはるか昔に設けた「縦割り組織」に相変わらず一様に依存し続け、名ばかりの国家が形作られてゆくことになる。
しかも、こんな名ばかり政治家を生み出すだけの選挙制度なのに、その制度は、既述の通り、出馬するだけでも、また当選した後にも、あまりにも無意味な金がかかりすぎる制度なのだ。
それに、ある程度の得票を確保できなければそれを没収するといった供託金制度という制度が設けられていることにも、政治家の誰も異議を唱えない。政治を誠実に志す者は誰もが自由に出馬できていいはずではないか。
これでは、この国は、首相が誰に変わろうが、政権政党がどこに変わろうが、その政治状況は本質的には何一つ変わるはずはない。むしろ、明治期以来の、民主主義など全く理解しようとすらしない、そして本来公僕でしかない官僚による実質的な独裁が維持されてゆくことになるだけだ。そしてその結果として、この日本という国は、主権者であるはずの国民は、いつまで経っても、何をするにも、またどんな矛盾を目にしても、 “どうしようもないのだ”、あるいは“仕方がないのだ”、“長いものには巻かれるよりないのだ”として、精神的に「打ちひしがれた民の国」(ウオルフレン)のままとならざるを得なくなる。
それだけではない。大惨事が生じても、その度ごとに、この国は事実上無政府状態に陥り、多くの国民の命が救われることなく、いたずらに失われてしまう無情の国のままとなってしまうことも間違いないのだ。
以上が、私が新選挙制度を提案する動機である。
そして以下が私が新選挙制度を提案する目的である。
それは、一言で言ってしまえば、第8章で述べた、《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》とを二大指導原理とする新国家建設の理念と目的と、その国家としての形を実現できる能力と決意を持った政治家を、国民が国民の手で生み育てられるようにすることである。
そしてその目的は次の3つの事項から成っている。
⑴ 国会を含むこの国の立法権を持つ議会という議会を、文字どおり「議論の殿堂」、「言論の府」としながら、国民の要求する問題に迅速かつ機動的に対処してはそれに応えられる法律や条例を独自につくることのできる真の立法機関として機能させ、もって名実共に「国権の最高機関」とすることができる本物の政治家を生み育てられる選挙制度とすること。
そこで言う法律や条例には、政策や、これまでは政府に作らせてきた予算も含む。国民のお金の使い道は、国民の代表が自らの手で作るのである。
また、これまでは、議会は、執行機関に過ぎない政府から提案された案件に対して、“議会のチェック機能を果たしている”などといった弁明と詭弁の下に、肝心の立法はせずに、「質問」するだけの場でしかなかったが、それを改めさせるのである。
⑵ 中央政府を含むこの国の執行権を持つ政府という政府を、議会が制定した法律や条例を、官僚や役人をコントロールしながら、政府内組織のこれまでの「縦割り制度」を壊し、必要ならば官僚組織の在り方あるいは公務員制度を国会(議会)に諮ってでも抜本的に変えて、執行させられる、国民の立場に立った本物の政治家を生み育てられる選挙制度にすること。
言い換えれば、政権を執った多数政党の政治家たちが、選挙時以来各自が掲げてきた公約————それは議会で多数を占める政党が可決して公式となった政策であり法律でもある————を、民主主義実現のために、各府省庁の官僚をして、主権者から負託された執行権力を公正に行使しながら、“こうしなさい”、“あーしなさい”と指示命令し、確実に執行させうる、国民の代表としての本物の政治家を生み育てられる選挙制度とすること。国民の代表である総理大臣あるいは閣僚の指示命令に逆らったり、抵抗することは、国民の「シモベ」としての公僕としてふさわしくないので、その場合には、憲法15条の第1項に則って、人事権を持って躊躇なく罷免または降格すればいいのである。その場合の人事権も選挙当選時に国民から付託された権力に含まれているはずだからである。
⑶ 最高裁判所を含むこの国の司法権を持つ裁判所という裁判所を、官僚たちの気まぐれな独断による支配ではなく、つねに社会の誰もが平等に扱われる「法の支配」の下で公正な裁判が行われるようにするために、裁判所の人事の任免権や評価権に関しても、行政権を持つ政府の官僚から、あるいはその彼らに操られ、彼らに同調した首相および閣僚からも完全に独立した司法機関と為しうる本物の政治家を生み育てられる選挙制度とすること
これから判るように、私が新選挙制度を提案する目的は、この国を、三権分立が真に確立され、民主主義が本当の意味で実現された国家となしうる政治家を生み育てられる制度とすることにあるのである。言い換えれば、政府の官僚のこれまでのような独裁をことごとく封じ、この国を、真の民主主義議会政治の国、「法の支配」と「法の下での平等」を実現した真の法治国家にすることでもある。
ではその新選挙制度とは具体的にはどういうものか。
それは、以下に順を追って示すが、その要点だけを言えば、選挙運動資金がゼロでも、知名度などまったくなくても、また背後に大支援団体などが存在していなくても、後に示す「6つの条件」さえ満たせば誰でも選挙戦に出られ、またそのための必要資金も公金から支給され、そこで有権者の支持を得られれば政治家になることができ、その後の本来の政治家としての活動ができる必要十分な活動資金も、やはり国民のお金から定期的に支給されもする、とする制度である。
逆に言えば、その「6つの条件」を満たさなければ、どんなにカネがあろうと、どんなに知名度が高かろうと、どんなに巨大な団体をバックに持とうと選挙戦には出られず、したがって政治家には決してなれないとする制度である。
それは、選挙戦に臨めるための条件を、金持ちであろうとなかろうと、著名人であろうとなかろうと、そういうことには関係なく、あくまでも公平で公正なものにするためである。
そしてその「6つの条件」とは、以下に示すような6種のうちのいずれかの公約を掲げられることである。
1.日本という国を、政治的舵取りのできる真の指導者を持ち、官僚とその組織をコントロールしながら、また現行のいわゆる「政府組織の縦割り」の打破を含めて、必要に応じて、官僚組織を大胆に変革しながら、議会が決めた政策や法律を速やかに執行しうる真の政府を持った、真の国家とするための具体的な方法論を取り上げ、その実現に向けて取り組むことを決意した公約
2.とくにこれまで、この国の政治家が取り上げることを敢えて避けて来たがために事態をいっそう深刻化させて来てしまった、この国あるいはその地域にとっての最重要・最緊急課題を取り上げ、その課題の解決に、立候補希望者なりの具体的解決方法を示しながら取り組むことを決意した公約
3.《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》を国家の二大指導原理とすることに国民の合意が得られるように計らいながら、日本に真の民主主義を実現させるだけではなく、さらにそれをも超えた生命主義をも実現させ、この国を真に持続可能な国にする具体的な方法を示した公約
4.日本という国を、国民の生命と自由と財産の安全、そして人権の擁護と福祉の充実がつねに最優先される国にするための具体的な政策案あるいは方法論を取り上げ、その実現に向けて取り組むことを決意した公約
5.不安定化と複雑化を増し、分断化が進む世界に対して、日本が、協調外交を通じてその世界の真の平和と安定に貢献できる具体的な策を示し、それらの実現に努力して行くことを決意した公約
6.今、世界が直面している人類存続の可否がかかった4つの大問題である「気候変動問題」、「生物多様性の消滅問題」、「化石資源のみならず海の資源と山の資源の枯渇化の問題」と「核兵器の即時全面廃棄問題」の解決に向けて、日本としての具体的な策と方法論を世界に向けて示し、それを率先して実行して行くことを決意している公約
したがって、もしこれらの「6つの条件」とは反対に、あるいはそれとは無関係に、たとえば「安全で快適、災害に強い県土をつくります!」、「人生100年時代。安心な暮らしを支えます!」、そして「時代を担う若者に思いっきり投資します!」といった類いの、抽象的で、単にその時の社会の受けを狙っただけの思いつき程度のものとしか思えない公約を掲げた者や、自分の選出母体や選挙地盤に利益誘導することを公約として掲げているような者は、候補者となる資格はないとしてその場で失格とされる制度である。そのような態度は、民主政治の出発点である選挙を冒涜し、有権者を愚弄し、愛国的態度ではないからだ。
振り返ってみれば、当選しても、自分が掲げてきた公約を議会で実現するわけでもなく、とにかく議会でただ質問すること、それも三権分立の原則を自ら破って、議会に役所の者を入れてはその者たちに質問することを政治家の役割と考え来たのは、そうした輩ではなかったか。
また、当選しても次期選挙で当選することばかりを議員活動の主目的とするがあまり、特定支持者から頼まれて口利きをしたり、選挙地盤の住民の慶弔行事に祝電や弔電を送ったり、また地域の行事や学校行事に顔を出したり、地元民のエゴに応えて利益を誘導したり、はたまた中央行政府からより多くの税金を補助金として分捕って来ることにばかり専念して来たのは、そうした輩ではなかったか。
とにかくそのような輩は、官僚独裁をはびこらせ、日本の民主主義の実現を阻み、次代を担う若者たちや子どもたちに「政治とはそういうものか」と誤った捉え方を植え込ませ、害毒をまき散らすだけの存在でしかない。
なおここで特に注目していただきたいことがある。それは、この新選挙制度提案目的からも、また選挙に臨める「6つの条件」からも推測がつくと思われるが、ここで私が提案する新選挙制度は、もはや必ずしも政党政治あるいはその存続ということは重視していないということである。
それは、この国のこれまでの与野党政治の歩みや議会でのやり取りを見ればはっきりする。
もはや政党政治は実質的にほとんど機能し得ていないからだ。少なくとも、昨今、特にこの国では、マイナス面ばかりが目立つようになってはいないだろうか。
例えば、各政党の代表からなる国会対策委員会など、実質的に議会を進める上での談合の場となっている。しかもその議会は、既述のように、立法もしないで、事前通告形式で、質問と答弁は一回限りで、答弁者はどうにでも逃げられる全くの儀式だ。それに、当選しても、一旦特定の政党ないしは会派に所属してしまえば、党議拘束によって、かえって自身が本当に実現したいと思っている政策が否定されたり歪められたり、あるいは自分としては賛同しかねる政策案や法案に賛同を強要されたりする。もしそれに逆らったりすると、除名ないしは除籍処分にされたり、次回の選挙から公認候補とされなくなったりして、何かと不自由を強いられるようになる。かといって、まるっきり無所属では、何の存在感も示せない。また反対に、それまで政治などほとんど無関係の分野に生きて来た例えばスポーツ界や芸能界の者が、たまたま有名人だからということで担ぎ出されて当選した者などは、政党の頭数を満たすだけの存在価値しかない。国民にとっては、それこそ税金泥棒で、有害無益だ。
では政党政治の利点とは一体何だったか。
私にはほとんど見当たらない。むしろ、自民党と公明党がやってきたことを見ても判るように、数に物を言わせて、憲法を無視しながら、質疑はそこそこにして違憲の法制度の裁決を強行するという「代表の原理」や「審議の原理」(山崎広明編「もういちど読む山川の政治経済」p.12)を無視した行為に出ては、憲法を破壊し、立憲主義を踏みにじってきたのだ。
それに、政党、それも大政党になればなるほど、特定企業や産業界からの政治献金という、見返りを期待しての実質的な賄賂が公然ともたらされ、その結果、法が献金業界に有利なように歪められ、社会の不平等や格差を拡大させてきてしまった。
また政党というものがあるから、それに所属する政治家は、選挙時、票をカネで買うという不正行為も大胆に行ってこれたのだと私は思う。
また、国会議員についてみるとき、政党というものがあるから、一人当たり2000万円を優に超える歳費を享受しながら、その上さらに、一人当たり4500万円余にも上る、国民からしたら理不尽この上ない「政党助成金」という金が公然と政党に支給されるのである————ただし、共産党だけは、その金を受け取ることを辞退している————。
また政党というものがあるから、そこに所属してさえしまえば、後はそこに名を連ねているだけで、政党が面倒を見てくれて、政治家然としていられるのである。
とにかく、これからは、そんな有害無益な政党政治制度速やかに廃止するのである。
実際、今や、世界各国、特に先進国と呼ばれている国ほど、社会の格差の拡大や、人々の分断の進化に政党は対処し得なくなって来ているように私には見える。それに、地球の温暖化や生物多様性の消滅にも有効に対処し得なくなっているようにも見える。
そんなことから、これからの政治家は、政党や会派という集団に縛られず、またそれに埋没することもなく、一人であっても、先の「6つの条件」に基づいて行動する政治家こそが、国民から本物の政治家として切実に求められるようになってゆくだろうし、実際、もうそうなって来ているのではないか、と私は思われるのである。
それは、主権者である国民の声には絶えず真摯に耳を傾け、その要望に応えうる政策案を自らの政治的哲学に由って独自の「公約」として練り上げ、議会においては、自らの弁論術を磨き、他政治家を弁論をもって説得しては、それを公式の政策なり法律なりへと実現してゆこうとする政治家のことである。
では、その新選挙制度は具体的にどのような流れによって構成されるか。
それについては、「その2」にて、詳述したいと思う。