LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.4 経済の国内化、そしてさらに地域化————————————(その1)

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11.4 経済の国内化、そしてさらに地域化——————(その1)

 これまで、世界をますます混沌とした状態に落とし入れて来ている原因の一つが資本主義の終焉、つまり資本主義の時代は終わって新しい時代にそぐわなくなっているのに、その存続のためにあがきもがいている結果であるとして、そうした事態を招き、また自らも最も象徴的にそうした事態に陥っているアメリカを中心に、私はその混沌ぶりを概観して来た(第1章の1節)。一方、では私たちの国日本についてはどうかとして、表向きは資本主義の国といわれては来たが、実際には資本主義の国でも自由主義経済の国でもなかったということについても大雑把に見てきた(第1章の5節)。

 本節では、「経済の国内化、そしてさらに地域化」なる主旨をより明確にするために、資本主義の終焉ということの意味と、日本の経済システムの実態について、もう少し詳しく眺めておこうと思う。

そのためには、まず近代の資本主義とは実際にはどのようにして誕生したのか、そしてその行き着いた先はどうだったのかということについて見、そしてそれは一体何を意味していたのかということについて、私なりに考察してみる。

 近代という人類史の一時代を風靡した資本主義経済ではあったが、マックス・ヴェーバーに拠ると、その近代資本主義は、商業上の倫理規制などが本質的にはなかった中国やインドをも含むオリエントやギリシャそしてローマに誕生したのではなく、むしろその規制の厳しかったキリスト教の世界において誕生した。それも宗教改革後にはとくにその規制が厳しくなった禁欲的なプロテスタンティズムの支配する国々においてだった。そこでは、暴利を貪る商業やその担い手である旧来の大商人を敵視していた。そんな国々に近代の資本主義は誕生したのである。

 つまり、近代の資本主義を支えているさまざまな精神的な諸観念は、ピューリタニズムの持つ別の側面である営利的貪欲とはおよそ馴染まない禁欲的な倫理が生み出したのである。

 その勃興過程でその動きを人々の内面から推し進めて行った心理的な起動力というか精神は、通常、「資本主義の精神」と呼ばれてきた。

それは、単に勤労とか節約とか周到さといった個々の徳性そのものではなく、そうした個々のさまざまな徳性を一つの統一した行動の体系にまでまとめ上げているような、つまり歴史の流れの中でいつしか人間の血となり肉となってしまった、いわば社会の倫理的雰囲気とでも言うべきものであった。

 ではこの近代の資本主義、あるいは近代に特有な資本主義は、大昔からあった広い意味での資本主義とはどこが違うのか。

 それは、近代の資本主義は経営的資本主義、とりわけ簿記を土台として営まれる合理的な産業経営的資本主義であることだ。

つまり、資本主義の精神とは、たしかに利潤の追求とは結びついてはいるが、それだけではなく何よりも経営という社会関係に適合的な人間類型を生み出して行くことができたような社会的倫理的な雰囲気のことなのである。

そしてこの場合とくに重要なことは、その資本主義の精神の担い手の中には、資本家だけではなく労働者もまた含まれていたことである。

 さらに、そうした資本家と労働者の両者に資本主義の精神をもたらしたのは長い間の宗教教育の結果だった。それは、高度の責任感の伴った、あたかも労働が絶対的な自己目的であるかのように励む心情とでも言うべきもので、それを天職義務とする雰囲気を社会にもたらしていた。

天職、それは神の召命と世俗の職業という2つの意味から成り、私たちの世俗の職業そのものが神からの召命だとする考え方を示している。もっと正確に言えば、世俗そのもののただ中における聖潔な職業生活、これこそが神から各人に使命として与えられた、聖意に叶う大切な営みなのだとする考え方で、言い換えれば、この天職義務こそ、資本主義の精神の核心を成していたのである。

 なお、“資本主義の精神とは禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理のことである”と言った場合の「禁欲」の意味であるが、それは、私たち日本人がすぐに思い浮かべる、自己の欲望をすべて抑えて、積極的には何も行動しない態度とはまったく違うものだ。むしろその反対で、大変な行動力を伴った生活態度なのである。それは、あらゆる他の事柄への欲望はすべて抑えてしまって、———だから禁欲なのである———そのエネルギーのすべてを目標達成のために注ぎ込むという行動様式を言うのである。

 だから、こうした資本主義の精神を持ち、自分の職業を天職とする人たちは、金儲けをしようとしていたわけではない。富の獲得が目的なのではなく、神の栄光を表わし、隣人への愛のために専心した。だから無駄な消費はしなかった。それだから、結局金は残った。残らざるを得なかった。そしてそのことは、彼等が隣人愛を実践したということの標識となり、したがって自らの救いの確信にもなったのである。

 ピューリタンたちは残ったお金を、手元で消費せず、隣人愛に叶うような事柄のために使おうとした。たとえば、彼等は公のために役立てようと寄付をした。

 ところが結果として金が儲かっただけではない。他面では、彼等のそうした行動は、これまた意図せずして、合理的産業経営を土台とする、歴史的にまったく新しい資本主義の社会機構をだんだんとつくり上げて行くことになった。

ところが、それがしっかりと出来上がってしまうと、今度は儲けなければ彼等は経営を続けて行くことができないようになってくる。資本主義の社会機構が逆に彼等に世俗内的禁欲を外側から強制するようになってしまったのだ。

 こうなると信仰など内面的な力はもう要らない。いつの間にか信仰は薄れて行くようになる。

こうして宗教的核心は次第に失われてゆき、金儲けを倫理的義務として是認するようになってしまった。これが当初の「資本主義の精神」が変貌して行った経緯である。

 このように宗教的倫理の束縛から解放されると、世俗的禁欲の雰囲気は、資本主義の社会機構の形成という方向に向かっていっそう強力な作用を及ぼし始める。そして産業革命を引き起こし、ついには資本主義の鋼鉄のようなメカニズムをつくり上げてしまった。そして今やこの鋼鉄のメカニズムが自己の法則によって諸個人に一定の禁欲的行動を外側から強制するようになったのである。

 こうして「資本主義の精神」は資本主義をつくり上げる方向に作用して来たけれども、その後は、その「資本主義の精神」自体さえも次第に忘れ去られて行き、そしてその精神を失った「天職義務」の行動様式だけが亡霊のように存在するようになった。が、ついにそれさえも今や完全に消えてしまったのである(以上、マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神大塚久雄訳p.373〜406より)。

 ここまでが近代の資本主義の誕生して来た概略的経緯である。

 このようにして誕生した近代の資本主義ではあったが、ではその後、どのような経過をたどることになったのか。

最初から利潤をも追求する人間の営みではあった資本主義を支えたその「資本主義の精神」が消え去り、また、高度の責任感の伴った、あたかも労働が絶対的な自己目的であるかのように励む心情さえも消え去ってしまうと、資本主義もいわば精神の抜けた殻だけのものとなってしまうのであるが、それでもまだ、ある時までは、資本主義は多くの人々に次のように期待をもたれ信じられもしていた。“資本主義経済の下では、勤勉に働けば、働いた分のお金が得られる”、“生産性を上げれば、それに見合った報酬を得られる”、と。

 しかしこれも、グローバリゼーション(経済の世界化)という考え方が広まって行く中で———ただし、最初のグローバリゼーションは、今からおよそ600年前から370年前にかけてのいわゆる大航海時代に生じたのであるが、ここでのグローバリゼーションは、近代の、それもとくに資本主義末期に生じたものである———、「貧困の撲滅」を標榜するネオ・リベラリズム新自由主義)という経済思想がやはりアメリカのウオール街を中心に登場し、それがそれぞれの国の政治(家)を動かして広がると、世界は一変した。元々グローバリゼーションは、その目的が、多国籍企業が国境を越えてビジネスを展開できるようにし、市場を独占しうるようにしたものであるのに対して、ネオ・リベラリズムは、それぞれの国の中の様々な規制、とくにそれまで公的に守られ保護されて来た制度での規制を緩めさせ、あるいは撤廃させてしまおうというものであったため、その2つの考え方は相呼応して世界に猛威を振ったのだ。

主義も倫理観もない「グローバルな資本」は国境を瞬時に越えて、資本主義は世界をカジノ(賭博場)とするギャンブル資本主義と化した。その結果、価値の源泉は人間の労働にあるとされたがゆえに「物づくり」を土台として成り立ってきた資本主義ではあったが、それが圧倒されるようになった。その結果、それまでは単に資本主義とだけ呼ばれて来たそれは、儲けることそのことを至上とする資本主義、あるいは金が金を生む資本主義、「金づくり」資本主義、「強欲」資本主義、「金融」資本主義と、様々な呼ばれ方をする姿に変貌してしまった。

 その結果、先進諸国の間では、かすかに残されてきたその“資本主義経済の下では、勤勉に働けば、働いた分のお金が得られる”とか、“生産性を上げれば、それに見合った報酬を得られる”との期待も、今は、ほとんど完全にと言っていい程に裏切られるものとなってしまったのである。

 そんな中、人々は互いに比較することや競争することを煽られた。そうなると、社会にはやさしさが失われ、ストレスに苦しむ人々は激増し、鬱病や癌等が急増し、孤独を感じる人がますます多くなり、一人ひとりは孤立し、自殺者も増え、人々の幸福感はどんどん下がって来他のだ。

 ところがそこにさらに、資本主義を変質させて行く中で巧妙に金と権力を手にした一部の富裕者がその持てる金の力で政治家を動かしては民主主義政治をも歪め、社会の様々な制度———とりわけ税制や金融制度等———を自分たち富豪者に好都合なように変えさせて行ったことにより、元々あった社会の中の貧富の差をいっそう激化させることになった。それだけではなく、その差の激化が人々の間に対立を生み、対立が分断を生み、そしてそうした社会の分断状況に便乗する政治的ポピュリストを生み、政治的にもいっそう混迷を深めてしまったのだ。

 一方、グローバリズムの進展の中、ネオ・リベラリズムを採用するようにと、とくにウオール街のハゲタカ金融企業にそそのかされて、ウオール街と一体になって活動するIMF世界銀行から「援助」という名の融資を受け借金した途上国の多くでは、多国籍企業によってそれまでの地元経済は破壊されてしまう。そうなると人々は否応なく労働者になるよりなかった。それも、多国籍企業にとっては格安賃金で雇え、しかもいつでも取っ替えが利き、使い捨ての利く労働者になるよりなかった。こうして貧困と格差はますます進んだ。住民どうしも心を病んだ。国としても残されたのは莫大な借金だけとなり、国家財政は破綻してしまう。そこへさらに追い討ちをかけ始めたのが彼らにはそれを生じさせた責任は少しもない地球温暖化そして気候変動であり、またそれに因る異常気象だ。干ばつや海面上昇等の影響をもろに受け、もはや多くの人々は長年暮らしてきたそこでは生活できなくなって、隣国さらには先進国への移民を余儀なくされてしまってもいるのである。

 先進国と途上国の両者に見られるこの現象こそが、近代に誕生した資本主義の行き着いた状況であり、今日の世界の実態である。

 こうして、歴史上の一時代を成した「近代」であり、そしてその近代の主流をなして来た「資本主義」という経済システムではあったが、それらは、今見て来た世界の現状からしても、また既述して来た状況(1.2節)からしても、結論として、今や明らかに終焉を見たとしか言いようがないのである。

少なくとも資本主義が資本主義として意味を持ち通用しうる時代、そしてその資本主義に基づく経済システムが“経世済民”との意味を持つ経済システムとしての有効性を持つ時代は終わった、それも確実に終ったのだ、と考えられるし、そう考えるより考えようはないのである(1.3節)。

 実際、それをはっきりと裏付けた出来事がリーマン・ブラザーズの経営破綻であり、それを機に次々と破綻に追い込まれて行ったウオール街の大手銀行が、“大きすぎて潰せない”という理由の下に政府によって救済された事件だ(2008年)。

 なぜそれがアメリカの資本主義の終焉を決定づけたと言えるのか。それは、政府が救済のためのお金を拠出したことによる。そのお金は国民のお金なのだからだ。

 バブル経済の崩壊は過去、アメリカにも幾度もあったが、しかしそのいずれの際にも、銀行が政府の手で救済されるということはなかった。今回が初めてなのである。

つまり、これこそがアメリカの資本主義経済はここで終った、ということを意味するのである。

なぜなら、自由競争を原則とする資本主義の下では、企業が倒産したならそれはそれで仕方がないとし、倒産しつつある企業、倒産した企業を政府が救済するという手法も発想も最初からないからであって、その倒産しつつある企業を政府が救済する、つまり納税者の金で救済するというのはもはや社会主義経済の発想による手法だからだ(広瀬隆「資本主義崩壊の首謀者たち」集英社新書p.85)。

しかもその発想は、アメリカ人が最も尊んだ自由とは正反対の、そしてアメリカ人が最も忌み嫌った「計画」経済を国是とするソ連(当時)の経済システムに拠る発想だった。

 実は金融機関に対するこうした救済の仕方は、日本では既に1996年には行われていた。「住専」こと住宅金融専門会社が倒産した際のことだ。当時の大蔵省の官僚はその後のリーマン・ブラザーズの時と同じように「金融破綻を防ぐため」との口実の下、6850億円という巨額の救済金を国民の金をもって救済していたのである(「住専のウソが日本を滅ぼす」毎日新聞特別取材班)。

そういう意味では、日本もそのとき既に資本主義経済は終っていたと言いたいところではあるが、しかし、前述したし後述もするように、この日本という国の経済とそのシステムのあり方は、戦後、一時たりとも、本来の意味での、あるいは世界が認める意味での資本主義経済であったためしはなかったし、真の意味での自由主義経済であったためしもない。だから、「日本もそのとき既に資本主義経済は終っていた」とは言い難いのである。

 こうしたことからも判るように、近代国家というものの枠組みが確立されて行く過程で形成されて行った資本主義という経済体制ではあったが、そして資本主義はその近代国家の中での諸制度に守られて支配的となって行った経済体制ではあったが、既述のように、資本主義の中核をなす企業というものが国民のカネをもって救済しなくてはならないような状況になったり、資本が国境を越えて瞬時に行き来するようになり、資本主義の体制自体がグローバル資本の暴走を制御できなくなってしまった時点をもって、近代は明確に終った、と見ることができるのである。

 その上、これも既述したように(1.3節)、近代を土台から支え支配して来た思想や価値観そしてエネルギー資源もが同時に通用し得なくもなっているのである。そうさせているのが「環境問題」だ(4.1節での再定義された「環境問題」を参照)

 こうして、近代は、あらゆる角度から観ても、既にとうに終っている、と言える。

 ゆえに、終っているはずのその近代の延命に執着すればするほど———とくに執着しているのは近代によって大きな富や権利や名声を得て来たエスタブリッシュメントと呼ばれる人々である———、世界は矛盾を深め、混迷度を増し、地球の自然を傷めつけ、その結果として文明と人類の終わりを早めてしまう、ということになるのである。

 時代というものについては、本来は歴史家が定義し、変遷についても歴史家が区分するものであろうが、歴史のどの時代をとってもそうであったように、歴史家の定義とは無関係に、その内部に次々と矛盾が激化し、それがもはやどうしようもなくなった時点をもって次の時代に取って代わられざるを得ないものなのである。近代という時代の終焉も、決してそうした時代変遷過程の例外ではない。

 

 ところで、私たちのこの日本という国は、とくに戦後から今日まで、一時たりとも真の資本主義の国でも自由主義の国でもあったためしはなかった、見かけ上の資本主義の国であり自由主義の国でしかなかった、とは述べて来たとおりである。

 実はこのことは、ちょうどこの国は表向きは民主主義の国と見なされながら、実質的には決してそうではなく、官僚が主権者であるかのように傲慢で狡猾、かつ冷酷で恣意的に振る舞う官主主義の国、というよりは官僚独裁の国であったという事実とピッタリ符合する。またこの国は、表向きは国家と自称し、また外からもそう見られて来たが、実際には真の国家ではなかったという事実ともピッタリと符合するのである(2.6節)————尤も、そうなる根本原因は、国民から選挙で選ばれたはずのこの国の政治家という政治家があまりにも民主主義議会政治のあり方に無知で、愛国心がなく、自国民への忠誠心がなく、本来公僕でしかない官僚をコントロールし得ないで来たからなのであるが————。

そしてこれらはどれも、根本のところでは一つの同じ原因に行き着くのである。つまりその原因こそが、似非資本主義を、似非自由主義を、似非民主主義を、そして似非国家を形作って来たに過ぎないのだ。

 それは、こういう意味である。

こうした状況を作っているのは、いずれも直接的には中央政府ではあるが、しかし内閣ではなく、実質的には各府省庁の官僚である。総理大臣をはじめ各閣僚も、その実態は、彼らが国民から選挙当選時に負託された権力を官僚に委譲するという、有権者と民主主義を裏切る行為を重ねながら、官僚に依存し、また追従して来たからなのだ。

 しかし、である。そんな者を「選挙」で政治家として選んだのは他ならぬ私たち国民自身なのだ。

つまり、「根本のところでは一つの同じ原因」とは、私たち日本国民のありように帰することだと私は考える。それも、既述してきた、世界ではおそらく絶対に通用しないし理解もされないであろうと考えられる特異な「ものの考え方」とそれに基づく「生き方」をしている私たち日本国民のありようなのだ(6.1節)。官僚あるいは役人を長いこと「お上」などと呼んでは、彼らから見倣った「ものの考え方」と「生き方」を、少しの疑問にも感じずに、依然として続けてきている私たち国民なのだ(6.2節)

 日本の産業界は、主に、いわゆる「系列」と「業界団体」という二つの組織パターンが一緒になって成り立っている、とK.V.ウオルフレンは指摘する(K.V.ウオルフレン「人間を幸福にしない日本というシステム」毎日新聞社p.38〜47)。

 系列に入ることの決定的利点は倒産しないで済むこと。言い換えれば、系列企業は、全体で、各都市銀行を中心に系列内の個別企業の倒産を防ぐ強力な安全網をつくっているからだ。

そしてもう1つ、企業間の入り組んだ関係をまとめ、個々の産業分野の秩序を保つシステム、いわゆる業界団体や同業組合をつくっているのだ。

日本では、各産業部門における企業の発展計画の方向を、政府省庁や経済界(経団連、日経連、経済同友会日本商工会議所)の管理者たちが望ましいと考える方向に一致させようとする強い強制力が働く。

そして日本では、企業活動に対するこうした強制力は、たいがい同業他者を通じて働くのだ。

日本の産業は、実際には、多くの「事実上のカルテル」と言うしかないもので成り立っている。

価格は大部分が「談合」によって決められる。このために、日本の消費者は他のほとんどの国の消費者よりも商品を高く買わされている−−−このことも、各産業界において、企業の内部留保金を増やすことに繋がっているのである(12.1節を参照)−−−。市場占有率や業界内順位に至るまで、多くのことが競争によってではなく話し合いで決められている。そして、こうした、非公式だがきわめて重要なカルテルのお膳立てをするのが「業界団体」なのだ。

その形は業界ごとに異なってはいても、有力な業界団体は、会員企業に仲間で決めたことを強制する強い力を持っている。日本の企業は、こうした団体に加わらなければその分野でやって行けないのだ。だから、すべての企業が、このシステムの中にとどまることを余儀なくされているのである。

 系列企業では株主が拡散していて、誰が企業の持ち主なのかはっきりしない。オーナーが経営しているのは中小企業だけで、大企業はオーナーではなく経営者に委ねられている。正にこの理由から、どの大企業にも外部からの介入が容易になる。

そしてそうした介入は、業界団体を通して行われる。

 系列システムは、倒産に対する安全網の働きをするので、より大きな市場占有率を目ざした長期的な企業活動を可能にする。外国市場では、日本の大企業は、系列銀行の安定した融資をあてに出来るので、目先の利益のことはあまり心配しないで、比較的安い値段で長期間商品を売り続けられる。

そして業界団体が、こうした経済活動のすべてが互いに調和するよう、大企業どうしの過度の競争が起こらぬよう取りはからっているのである。

 一見、私企業が勝手に結びついているかに見えるこの二つの組織パターンである「系列」と「業界団体」は組み合わされて外国企業には絶対真似のできない効果を上げるのであるが、その構造全体は、頂上部分で政府の各省庁(の官僚)と組織的に連結している。

 こうして、業界団体は、各府省庁の官僚たちの格好の「天下り」先となり、「渡り鳥」先となるのである。

 これらが他国とは決定的に違う日本の生産システムを特徴づける最大の要素であり権力関係であるが、日本が本物の資本主義とは言えなくさせている要素はさらにある。

 周知のように、大企業は多くの下請け企業と密接に結びついている———先の通産省を初めとする経済関係省庁の組織としての記憶を受け継いでいる今の経済関係省庁の官僚たちは、「下請け企業」ではなく「協力企業」と言い換えさせているが、それは、本質あるいは真実を隠すための言い換えに過ぎない。それは、たとえば先のアジア・太平洋戦争において、軍部の官僚たちが、撤退を転戦と言い換え、戦車を特車と言い換え、売春婦を慰安婦と言い換え、敗戦を終戦と言い換えて来たと同じ態度である———。

大企業は太陽系の中心に鎮座する太陽さながらに中小企業に取り巻かれている。

 この「縦方向の系列」の中では、中小企業、ときには小さな町工場が、大企業には真似の出来ない技術を持って、真似の出来ない安さで部品をつくり、大企業を助けている。百社以上の企業が、システムの頂点に君臨する大企業の支配下にある場合もある。これらの中小企業は、不況時にはつぶれるにまかされ大企業のクッションの役目を果たすし果たさせられる。政府省庁の官僚はそれを見殺しにする。こうして中小企業は大企業に、価格面での計りしれないメリットを与えているのである。もちろんこうした関係を維持している中では、大企業も中小企業も、互いの関係は対等で独立であるという発想など育ちようもなかったし、中小企業の側も、大企業に対して、自分たちの生み出す製品には他には見られない付加価値があるのだからそれなりの価格でなくては提供できないという誇りと気概を持った発想も育ちようがなかった。

 この下請けシステムの底辺では、労働者たち———家族だけという場合もある―——は、たいがい猛烈に働かされる。それは大企業の比ではない。ところがこうした小さな下請け業者たちも、ほとんどの場合、彼らの業界の業界団体に取り仕切られていて、やはり協調を強いられる。

 一方、販売部門に目を転じると、小売業者たちも、販売業者の組合を通じて、はやり大企業とつながっている。小売業者はいわば、販売面での下請け業者なのだ。組合からの指示で、小売業者たちは、日本の市場から外国製品を閉め出すことに協力し、消費者物価を外国より高いレベルにずっと保つことにも手を貸している。

 こうして、日本では、一つの企業が、ほかの全経済組織からなる構造の中にしっかりとはめ込まれているのである。これが、自由競争を本旨とする資本主義であろうはずはない。

 このような経済組織が出来上がったのは、基本的には戦後のことである。

そしてこれらの巨大な経済システムにおいて、国民ひいては消費者が最も注意深く観察し、チェックしなくてはならない重要な側面は、この官僚組織を頂点とするシステム自身が法律の条文規定にはまったく基づいてはいないし、ほとんど法の外で運営されているという事実である(K.V.ウオルフレン「人間を幸福にしない日本というシステム」毎日新聞社p.101)。

 こうして日本では、企業、とくに大企業にとっては、競争は無し、投資のリスクも無し、倒産の心配も無用、製品の販売に関しては価格を操作できるし、したがって利益がほぼ保証される。それらは政府(初め大蔵省と通産省と厚生省と建設省等、今は財務省経済産業省厚生労働省国土交通省等の経済関係省庁)が保障してくれるからだ。

 以上のことから、私たちの国日本は世界、とくに欧米先進国が当たり前にしているような資本主義経済の国では断じてないということが判っていただけたと思う。自由で公正な競争をし、競争に敗れたら倒産するしかない本物の資本主義の経済の国などでは決してないということが判っていただけたと思う。だからといって計画経済の国でもない。ずっと官僚による官僚の利益のための統制経済の国だったのだ。そしてそこでは政治家は実質的にはまったくと言っていいほどに関与はしていない。放任し、また追随しているだけなのだ。

 そして同時に、これらの経済システムと経済構造と、そこに既述の文科省の官僚による学校教育行政とが一体となることによって(10.2節)、日本における民主主義の実現をも阻んで来た。今もこの国は真の意味での民主主義の国とはなっていないのである。国民の大多数は、今もなお、「民主主義とは何か」を確信を持って説明できない状態にある。

 さらには、こうした事実からも、「国家」の定義(4.1節)を確認していただければお判りのように、この日本は国連に加盟してはいるが、他の192の主権をもった国家群とは違って、いまだに本物の政府もなければ、本物の国家にもなってはいないのである。そして、サンフランシスコ講和条約によって日本は公式には独立国となり、また海外からもそう見なされてはいるが、対米追随外交に明らかなように、真の主権もなければ、真の独立国でもない———そのことは、たとえば、「日米安保条約」に関連して、アメリカが日本とドイツとイタリアとの間でそれぞれ結んだ「地位協定」の内容を比較すれば明らかだ———。

 言い換えれば、この国は、とくに戦後、世界の自由経済市場において経済競争するにも、本物の資本主義をとっている諸国とはまったく違う仕方で経済競争をして来たのだ。

それは、戦略も持たない中で起こした先のアジア・太平洋戦争時の「護送船団方式」そのものだった。そして、その戦時下と同様、戦後も、そのまやかし資本主義経済システムの下では、つねに産業界の利益が国民の福祉より優先され、そのうちでもとくに大企業は税制面で国民のお金をもって官僚らに優遇され、主権者である国民の生活や福祉の方は決まってその犠牲にさせられてきたのである。

 政府官僚がこの統制経済システムに拘る目的は、戦時中と同じで、自分たちが支配しながら、外国に対して、無敵の艦隊ならぬ、無敵の生産マシーンを築きたかったからだ。そうした仕方こそが国力を付け、国の安全が図られる唯一の方法、と彼等は信じたからだ。

 しかしそこで言う国力とは、本来の国民力としての、あるいは国民の底力という意味でのものではなく、あくまでも産業界が国際競争力を持つという意味でのものでしかなかった。

 バブル経済を企み、またそれを崩壊させた(1991年)のも大蔵省(当時)の官僚であるが、この護送船団による統制経済の実態を象徴的に見せてくれたのが既述のいわゆる住専問題だった。1996年3月3日、大蔵省(当時)の官僚は、同官僚の意向どおりに動いた住宅金融専門会社住専)が不良債権処理に行き詰まった際、同社を国民のお金6850億円をもって救済したのである。

 以上、これまで世界を風靡して来た近代固有の資本主義経済の始まりからその終焉までの経緯と、それに対する日本の経済システムの本質とも言うべき有様を大雑把に見て来た。

 そこで、ここからが、以上のことすべてを念頭においての、本節の表題に沿った考察である。

しかし、以後は、次回の(その2)に回したいと思う。

 

11.3 農業と工業の本質的な相違—————(その2)

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11.3 農業と工業の本質的な相違——————————(その2)

 本節の(その1)では、私の体験に基づいて、農業の本質とは何かということを述べて来た。

今回の(その2)では、それに続いて、やはり私の体験に基づいて、私の考える工業の本質について述べてみようと思う。

 ただ、それに先立って、読者の皆さんには少しでも参考になればと思い、既述の農業の本質に加えて、サラリーマン生活とほぼ同等の期間、私が従事してきた農業を土台にした生活を通して実感した農業を行うことの素晴らしさとか魅力ということについても述べておきたいと思う。

 それは次のようになる。

◎農業あるいは農作業は、何と言っても自分にも家族にも、生きる上で絶対不可欠な「喰い物」をもたらしてくれる。

 それも、新鮮そのものの喰い物を、である。

その場合も、私のつくる完全無農薬で完全無化学肥料栽培による米や野菜であれば、製造方法や成分がどれほど安全かどうかも不明な化学調味料など使わなくても、あるいはいろんな「味付け」などしなくても、それ自体で、家族みんなで、十分に美味しく食事が出来る。

 だから我が家では、食事の準備の際に用いるのはもっぱら塩か醤油、そしてミリンか料理酒のみ。砂糖はまったくと言っていいほどに使わない。

その塩も醤油もミリンも料理酒も厳選している。塩はいわゆる「食塩」はダメ。できる限り海水から水分だけを飛ばした、多種類のミネラルを含んだもの。醤油は、日本古来の伝統製法によるもので、最低3年以上かけてつくったもの。ミリンはもち米と米麹と米焼酎だけから作ったもの、料理酒は米と米麹だけから作ったものである。

 それだけでも、長い年月の間では、そうした食生活に無頓着な場合と比べて、どれほど健康面———そこにはアレルギー面も含める———に違いが出てくるか知れないと、私は考える。

◎ 農業あるいは農作業は、「喰い物」をもたらしてくれるだけではなく、その過程において、それだけで自分の心身を共に健康にしてくれ、活力を与えてくれる。

 農業は、たとえばNHKの「ラジオ体操」とは違って、あるいはウオーキングやジョギングとは違って、さらにはフィットネスクラブの筋肉トレーニングとは違って、体のあらゆる部位を動かす作業を否応なく要求してくる。

 指先、手首、足首、腕の筋力(それも上腕と下腕)、足の筋力(それもとくに大腿の筋力や脛の筋力)、腰の筋力、背中の筋力、腹の筋力、肩の筋力、首の筋力等々である。それもただ一定の動かし方だけではなく、引っ張ったり、押したり、ねじったり、つまんだり、とさまざまな動かし方を要求してくる。

ピアニストで認知症になったという人はほとんどいないとはよく聞く話であるが、それは、彼らの動かす全指先の動きが、神経を通じて大脳をしょっちゅう刺激し続けるからであろうというのが理由らしい。それからすれば、草取りを含めて、指先を頻繁に動かさねばならない農作業は、認知症予防にもきわめて有効だろうと私は推測するのである。

 また、人の歩く速さは足の筋力と関係し、また早く歩けることは頭の働きを維持することにも関係しているとはよく言われることであるが、畑や田んぼの中での作業は、立ったり座ったり、中腰で移動したり、という作業が頻繁にあるために、自然と足のふくらはぎや大腿部の筋力をも鍛え、また維持してくれる。だから農業者は、他の病気を患っていない限り、足も達者だし、頭も達者でいられるのだ。

 それだけではない。農業それ自身が、頭を使うことをも否応なく要求してくる。

たとえば野菜や米などが季節ごとに、あるいは気象の変化ごとに呈する状況にその都度、即座に対応しなくてはならなくなる。野菜の種類も、私の場合には、年間およそ50種類育てているから、その育ち方はみな違う。違うそれに対応して行かねばならない。そうした対応ができないと、せっかくそこまで育って来た野菜や米がダメになってしまうからである。

そのためには、日頃から、どういうときにはどれだけの肥料をどのように与えたら、水をいつ、どれだけ与えたらいいか、また与えなかったなら、野菜はどうなるか、そして草はどういう野菜にはどれだけの背丈まで許容できるか、どういう状況になったら除去しなくてはならないか、また反対にどうすることでむしろ草の力を野菜栽培に生かせるか、等々を絶えず観察し頭に入れていかなくてはならない。それと連動して、昆虫そして土壌生物の動きをもよく観察し、どういう昆虫がどういう野菜に来やすいか、をもよく観察していなくてはならない。

 そうした状況観察に基づいて判断し、必要に応じて、即座に対策を立て、対応しなくてはならないからだ。

 こうして、農業は、体中のほとんどすべての部位の動きを要求してくるし、頭の中の動きをも要求してくる。

 私もかつてサラリーマンだった頃は、運動のためあるいは日頃のストレス解消のためと思って、週に1度は水泳に通っていたし、2ヶ月に一度は山に登ってはいたが、そのことから得られたものは、今の農作業から得られているものとは明らかに違っていた。

水泳も登山も、体の動かす部分も動かし方もほぼ定型化していて、しかもそれだけの繰り返しである。それに、「考える」ことはその都度というほどのことではない。むしろひたすら無心になって泳ぐだけ、あるいは歩くだけ、となる。

もちろん登山では、歩きながら次々に変わる周囲の景色や遥か彼方の雄大な景観を眺めては、気分を満喫させ、またストレスの解消にもなった。

 農作業は違う。体のどの部分を使うかは、その日予定している作業でだいたい決まるが、それでも、その時の状況の変化が予定外の動作を要求してくることはしょっちゅうある。

 それに、農作業から得られる効用は、体や頭脳の健康ばかりではない。精神の健康という点でもきわめて大きなものがあると私は思っている。だから毎日、熟睡ができる。たとえ前日の作業で体はかなり疲れても、一晩寝て起きれば、もう気分は爽快である。

 人類は、誕生以来、長いこと森での樹上生活をしてきたが、その後地上に降り立ってからはずっと大地、それも土の上で生きて来た。その記憶がDNAに擦り込まれているはずだ。だから人は、近代以降というたかだか200〜300年の間でどんなに科学技術を発達させたところで、またコンクリートアスファルトでその表面が覆われた都会での生活にどんなに慣れたとは言っても、それはDNAに擦り込まれた記憶に馴染めるものではないだろう。そこへ持ってきて、特に日中は人ごみの中に置かれる。だから、都会での暮らしが知らず知らずのうちのストレスになる。だから自然を求めたくなる。だから土を踏みしめたくなる。

 実際、裸足で草原を飛び回ってみれば判るように、それだけでストレスが解消されてゆくことが実感できる。ましてやヒトは、無限の多様性を示す森や自然の中にあったなら、それだけで帰るべきところに帰ったような安らぎを覚えるようにできているのだ。

今日、「癒し」とか「ヒーリング」という言葉がもてはやされるが、そうなるのは、飽くなきまでに便利さを求め、快適さを求めるが故に、周囲には自然がますます失われ、ますます人工化してゆく暮らしの中では、当然の成り行きなのであろう。つまり、一方では、生物として、ストレスを感じないではいられない人工的環境をどんどん作って行きながら、他方では、それに追いついていかれない人間の心や精神の癒しを求めているのである。

いつもアクセルとブレーキの両方のペダルを踏みながら車をどんどん走らせている、といった状況なのだ。

 それに対して農業における農作業は、何と言っても、「ただで」運動を、それも体を満遍なく最良の運動をさせてもらえるのである。お金を払って「フィットネスクラブ」に通う必要もない。「スポーツクラブ」の会員になる必要もない。またとくに「ウオーキング」や「ジョギング」あるいは「ヨガ」なども必要ない。あるいは「有酸素運動」ということに気を使う必要もない。

 また農業は、「ダイエット」もとくに必要としない。また、いわゆる「サプリメント(栄養補助食品)」を摂取する必要もとくにないだろう。良質な喰い物を多種類、バランスよく摂り、ひたすら体と頭を動かして農作業に集中している限り、人という生命体はそのエネルギー収支のバランスを自然と保ってくれているからだ———ただし、何でも機械化して、ほとんどの農作業を機械にさせてしまうことにこだわっている農業をしているような場合は、これまで述べて来たようなことが言えるかどうか疑わしい。むしろ、無理であろう———。

 こうして農作業は、その作業に集中することで、体中の部位にはいつのまにか適度な運動をさせてくれて、心地よい汗をかくことができ、体の免疫機能をもいつまでも維持してくれ、アトピーなどのアレルギーを寄せ付けず、癌などの難病にもかかりにくい体を維持させてくれるのである。

 今、科学の進歩によって、人間がより健康に生きられる生活の仕方が次々と明らかになって来ている。それにより、私たちは、どういう症状にならないためには何を喰えばいいかとか、ストレスをこうじさせてキラー・ストレスにさせてしまわないようにするにはどうすればいいかとか、体のさまざまな臓器の機能は実はこういう働きをしている、等々といったことが次々と明らかになって来た。

確かにそうした新情報や新知識は、それを積極的に生かして行ったなら、私たちに大きな効能と効用をもたらしてくれるだろう。しかし私たちはその分野の専門家ではない。私たち一般人は、専門分野で明らかになったそれらの知識の一つ一つをいつでも頭に思い浮かべては活用できる、などということは普通は出来るものではない。学校時代の授業もそうである。授業を聴いているときには判ったようなつもりになっても、二、三日後には大抵は忘れてしまっているのだ。

それに、それらの新情報や新知識は、心と体が融合して成る人間というものの全体に目を向けたものではなく、あくまでも体の一部分を最適化することだけを視野に置いた情報に過ぎないのである。

 そのことに気付けば、我が身に起ってしまってから、生じてしまってからではなく、起る前、生じる前に、いつも少しだけ心がけて対処している方がはるかに賢明だということが判るのである。

その方が、精神的にも肉体的にも苦しまなくて済むし、莫大な出費をしなくて済むからだ。

周囲にも心配かけなくて済む。

 目の前の食材を用いた料理をそれを食する人に美味く感じさせることは、味を調整できる材料によって、本職の料理人であればあるほど、いくらでも可能なはずだ。

しかし、もしあなたができるだけ長いこと健康で長生きしたいということを真剣に願うのなら、運動が大事とか、睡眠が大事とか、はたまたサプリメントを摂ればいいとかを考える前に、また、喰う物が「美味い」とか「美味くない」とかに拘る前に、目の前の料理が、あるいはそれ以前にその料理に用いられた食材そのものが、何を使って、どのようにつくられたものであるかということにもっと関心を持つべきではないか、と私は思う。つまり食材の質についてである。それは決して、見た目のことではない。

 なぜなら、既述したように、ヒトに限らず、生物はすべて、その体は、それまでにその生物が食べて来た物によってできているはずだからだ。きるだけ長いこと健康でいたいと本当に願うのなら、この絶対の真理は絶対におろそかにしてはならないと私は思う。

◎ 農業は、それも機械にできるだけ頼らない農業、農薬を使わない農業、化学肥料に頼らない農業を目ざそうとすればするほど、ものの考え方についても生き方においても、自分を自然に対して謙虚にしてくれる。

 これまで私は、大学では自然科学(物理学)を学び、大学院では応用物理学(航空工学)を学び、技術を身につけて、それをもって企業で仕事をし、生活させてもらって来た。その過程では、学び取ったその知識を武器として用いてきた。仕事上のだいたいの対象物については、予め計算し、必要に応じて最小限の、それも不確定要因ないしは撹乱要因が入り込まない理想化した条件をつくった上で実験をして理論の正しさを検証し、その結果にもとづいて物を作れば、それでほぼこちらの予想どおりの物を作ることができた。

そしてそうした対処法は、条件さえ揃えば、再現性が効き、時期を選ばなかった。

つまり、そうした過程を経れば、自然は自分の思いどおりになる、と思って来た。

 しかし農業に転じてみて、農業はそれとはまったく違うことに気付いた。

 野菜は、そして米も、栽培するその時期を逃したら、来年まで機会はやって来ない。あるいはその時、野菜づくりや米づくりで病気に襲われたり災害で被害を受けたりしたなら、再度試みられる機会は来年までないのだ———春野菜の場合には、それを逃しても秋には再挑戦ができるが———。

 “今は雨が欲しい”、と思っても、それは叶わない。“今、霜が来てもらっては困る”、と思っても、そのとおりにはならない。“これだけのことをすれば、後は、お米は今年は穫れるだろう、野菜もちゃんとしたものが穫れるだろう”とは思っても、台風に遭えば予想はあえなく外れる。“これだけ台風対策をしておけば大丈夫だろう”と思っても、台風の過ぎた翌朝行けば、畑はズタズタになっている。

“肥料は十分に入っている。土もできている”とは思っても、日照りにはやられる、紫外線にはやられる、虫にはやられる。“これだけ虫除けシートをかぶせておけば大丈夫だろう”とは思っても、いつの間にか虫がたかっている。・・・・・・。

 雨が長いこと降らなければ自分で水を運び、注水しなくてはならない。でもその効果は天水に比べたら知れている。

 つまり人間は目の前の事態を少しでも良くしようとあがくが、人間の力など、自然の持つ力に比べたなら、本当に微々たるものだと感じさせられる。というより、こちらがどう思おうと、自然はまったくおかまいなしなのだ。自然は容赦ないし、それだけに謙虚にならざるを得ない。

 そんな中、私はいつも思う。“他生物たちは本当に偉い、頭が下がる”、と。

人間は、少し気温が上がると“暑い”と言い、少し下がると、今度は“寒い”と騒ぐ。

少しの間水を飲めないと“喉が渇いた”と訴え、少しの間喰いものを喰わないと“腹が減った”と騒ぐ。また同じ状況を強いられたり続くと、すぐに飽きる。

 土壌微生物や土壌表面上に生きる昆虫や野生動物たちは、真夏、直射日光が照りつけてどんなに暑くても、そして土が乾き切って土中に水気のない期間が続いても、また冬、大地が凍りついても、雪に覆われて喰う物がないときでも、人間のように、いちいちジタバタしない。目の前の現実をただ黙って受け入れて生きている。喰う物がなければ、飲む水がなければ、また、暑すぎれば、寒すぎれば、黙って死んで行くのだ。実際、そういう時、大地には、彼等の死骸があちこちで転がっているのである。

 人間は、自分を「万物の霊長」などと思い込み、昆虫や野生動物を「害虫だ」、「害獣だ」と呼ぶ。そして草に対しては「雑草」と呼んでは敵視して来た。

そのくせ、ペットには異常なほどの愛情を注ぐ人もいる。

 今、地球上に生じている地球温暖化・気候変動は、そして生物多様性の消滅という現象は、“もっと便利がいい”、“もっと快適がいい”と、「もっと、もっと」と望み、彼等野生生物をそう見、そう呼ぶ人間がもたらして来たものだ。

 それからすれば、「人間ども」こそが、自然界から見れば、あるいは宇宙の深遠なる摂理から見れば、最も始末の悪い「害獣」なのだ。あるいは「癌細胞」なのだ。

 科学技術が発達すればするほど、人間は自分勝手になる。見えるものしか見ず、見えないものを見ようとしなくなる。心のことだ。土壌微生物や菌のことだ。だから、他者のことを考えなくなる。だから彼らが急速に死滅していっていることに全くといっていいほどに無関心だ。

 科学技術を発達させればさせるほど私たち人間は、とにかく、事を急ぐ、急ぎたがる、そして待てない。待てなくなる。その一方で、物事にすぐ飽きる。退屈してしまう。

 農業では、種を播いたら、収穫までは、どうしても一定期間は待たねばならない。効率化などと言って、期間を短縮することなどできない。どうしても一定の時間を待たねば何も実らないし、収穫も出来ない。しかし、その間も、やることは限りなくある。

 人も野菜も、米も、それが確かなものとして成長して行くには、そのものに固有の、ある一定の、人間にはどうにも短縮できない時間が必要なのだ。

 とにかく農業は、その作業を通じて、自然というものの絶妙さ、神秘さ、無矛盾さ、広大さ、深遠さ、美しさ、偉大さを実感させてくれると同時に、謙遜の気持ち、感謝の気持ちを忘れさせない。

◎本物の農業が大切にされればされるほど、そしてその農業に従事する人が増えれば増えるほど、未来は明るくなる。

 このことの意味は、既に明らかなように、国には健康な人が増える。それは、国民全体の医療費を激減させてくれることを意味する。

 もちろん、国としての食糧自給率をも高め、自前の食糧の安定供給を可能としてくれることをも意味する。

そして田や畑という生態系をも甦らせてくれ、結果として衰えつつある生物の多様性を幾分でも回復してくれることをも意味する。

それはそのまま、国土そのものが健全になるということだ。真の意味で国力がつく、ということだ。

 

 以上、ざっと見てきたことからも、私たちが生物としてだけではなく人間として日常を生きて暮らして行く上で、また社会という共同体を維持して行く上で、農業というものがどれほど物事の理に叶った産業、さらには、どれほど国民的および国家的にも巨大な利益をもたらす要素に満ちた産業であるか、つまり経済「合理」性という一面的で偏った合理ではなく、真の意味、全的な意味での「合理」な産業であるか、ということが裏付けられるのではないか、と私は思うのである。

 人類の歴史において、その圧倒的大部分の期間、どの社会でも、農業が主力産業であり得た理由は、ここからも判るのである。

 ところがこの日本という国では、その中央政府は、明治期以来、「殖産興業」の名の下に、あるいは戦後から今日に至ってもなお「果てしなき工業生産力の発展」との暗黙の国策の下に、とくに先の通産省と厚生省、今の経済産業省厚生労働省の官僚たちを中心に、そんな農業をつねに工業発展の犠牲にし、輸出貿易振興の取引材料にして来たのである。また、それに引きずられるようにして大多数の国民も、農業に対する理解と関心を低下させ続けてきたのである。

 以上が、私が農業の生活に入り、農作業の中で実感し得たことである。

 では、今度は工業の本質とは何か、ということについて考えてみようと思う。

そこでの最も一般的な生産のための形態というのは、製品を作るための材料や資材を自社工場に持ち込んでくるところから始まる。資源を掘り出すのは鉱業であり、石油掘削企業であるし、掘り出した資源から材料をつくるのは、たとえば製鉄会社のような製材企業である。

 しかし、この国で工業と呼ばれる範囲に属する産業は、材料や部材類は自分のところでつくるということは普通はなく、それらは材料メーカーや部品メーカーから買ってくるというのが普通である。

 もちろん、既にその段階で、それらの材料、部材、あるいは部品は、すべて、一定の品質と強度、すなわち一定の規格と品質を満たしていることが「絶対条件」となる。

 そしてそれらを持ち込み、あるいは搬入させては一つの完成品を構成するのに必要な材料・部材・部品の全てを取り揃え、それらを用いて組み立て、最終的目的物としての製品をつくる。それを作る場が工場となる。

 そうした条件の全てを満たした上、生産の三要素としての土地、資本、労働力さえあれば、世界中のどこの工場でもまったく同じ物を作ることができる。しかも、品質の管理さえきちんとしていれば、いつでも、同じ品質の製品を作ることができるのである。

だから、同じ企業内であれば、たとえばAという製品、Bという製品、Cという製品についてみれば、日本で作っても、中国で作っても、あるいは世界中のどこで作っても、全く同じ物をつくることができる。

 製品が出来上がるまでの時間的長さは、設備の能力やレベルを含めて、つくる側のつくり方の工夫次第でかなりの程度変えられる。

 しかも世界で一般化している現行の、自由競争からなる市場経済システムの下では———この点、この国では、実質的には、自由な競争による市場経済の国ではないことは既述のとおりである。政府の官僚や主要経済団体の官僚が、頂点にいて、業界団体や系列を通じてコントロールしているためである———性能の良い製品を少しでもコストを削って安く作らなくてはならないということが至上命題となる。そうしないと同業他者ないしは外国企業との「競争」に勝てないからだ。

 そのためには生産効率を上げるという考え方も絶対的となる。

そしてつねに競争ということがついて回っている関係上、その生産効率を上げるためには、絶えず集約化あるいは大規模化を図って行かねばならない。企業間での合併・吸収あるいは買収はそのための1つの方法である。

そして大量で画一的に生産した自社製品を、より多く、より広範囲に、より早く売りさばこうとするために、売り手と買い手が出会う場としてのかつて「イチバ」と呼ばれ、今はその規模を地球規模に拡大した「シジョウ」を相手にしなくてはならなくなる。

その場合も、自社製品がつねに市場で売りさばけ、事業が成功し続けるためには、次の条件を満たすことも絶対となる。それは、今度新たに作る製品は、前回作った物と同じであってはならないということ。つまり、前の物は「もう古い」という感覚を市場あるいは消費者に抱かせる必要があるのである。このことは、企業は自らも資源を次々と浪費すると並行して、消費者あるいはユーザーにも資源の浪費を強いる必要がある、ということを意味する。

 この点農業は、既述してきたことから明らかなように、規格化、競争、効率化、生産性という考え方も、集約化という考え方も本質的に馴染まない。生産されるものは、本来、その土地固有の気候や風土に依存するからである。それに農業は、そこで生産されてくるものは基本的に「ナマモノ」であり、消費期限はつねに限定されているから、消費者に資源の浪費を強いるということもない。

 そして農業は、本質的に自由市場経済のシステムには合わないし、合うはずのものでもないことが判る。

また、とくに日本のように国土の大部分が平坦地ではなく丘陵地あるいは傾斜地である場合に

は、生産現場である畑や田んぼを面積的に大規模化したり団地化したりするという考え方も馴染まない。

そして農業がつくる物とは、基本的に、社会的存在としての人間としてと言う以前に、生物としてのヒトが「生きる」ために「喰う」ものである。それだけに農業が作るものは、人間にとって、そして社会にとっても「絶対的に不可欠な物」となる。またそれだけに、「安全なもの」を作るということも決定的に重要なこととなる———それに対して、「おいしいもの」を作るというのは、農業の主目的ではないし農産物として本質的なことでもない。あくまでも二義的なことである———。

 それに対して工業がつくり出す物というのは、とくに今日的になればなるほど、そのほとんどが、本質的に、「あれば役に立つ」と言える程度の物で、「便利」とか「快適」といった人間の気分や欲求をより満足させるための「副次的な物」でしかない。「生活」するための道具や手段ではあっても、「生きる」ためのものではない。

その上それらのすべては、例外なしに、既述して来たように(7.4節参照)、その人間に「便利」や「快適」を実現し得ても、そしてもたらすその便利さや快適さの度合いが大きければ大きいほど、その裏では、その便利さや快適さの効果の大きさや範囲をはるかに上回る、負の効果としての副作用を人間のみならず社会にも、そして自然にももたらしてしまうのである。

つまり得られるものや実現されるものよりもはるかに大きなもの、大切なものを失っているのであり、壊してしまっているのである。

 今日の、人類が存続の危機に直面している環境問題とは、まさにそれに因る結果なのだ。

 以上が、私の考える工業の本質である。

 

 この対比から明らかになることは、農業と工業とでは、その成立条件も、両者の生み出す物が持つ質も意味も価値もまったく異なっている、ということである。

農業は———本来の農業は、という意味において———、自然に寄り添って生産すればするほど生態系は蘇り、豊かになって行く可能性が高まるとともに、それを食する人、すなわち消費者である国民も真の意味で、肉体も精神も健康で生きられる可能性がどんどん増すと考えられるものであるのに対して、工業は、発展すればするほど、あるいは発展させればさせるほど、生活上の見かけの便利・快適の度合いは増しても、その裏では、同時並行的に、人が生物として生きられる土台を破壊し続け、自分自身に対しても本来もって生まれた生物としての能力をどんどん劣化させ、あるいは退化させ続けることになり、結果においては、ヒトを含む生物一般の存続をも不可能にさせてしまわざるを得ないという性格を本質的に持っている、ということである。

 つまり人間にとっても、人間の集合体である社会にとっても、また人間を生かしてくれている自然にとっても、農業と工業の質的・価値的位置付けや重要度は正反対に近いくらい異なっているのである。

 近年、とくに生命工学、再生医療、あるいは遺伝子工学といった分野で、生命の根源である遺伝子をいじり回したり、生命体のコピー生物(クローン)をつくり出したりすることがメディア上で脚光を浴びて来ているが、そういうことに手を染めること自体、そこにどのような尤もらしい理屈を付けようとも、それは、人間の母なる自然に対するこの上ない冒涜だし、人を人間として生かしてもらっている自然に対してあまりにも傲慢な態度だと私は考える。

 それだけにそうした態度は、人間の予期・予想もしなかったところに、いつか必ず、人間の手にはとうてい負えない規模の巨大な反動が襲ってくると確信する。

近代文明に覆われた地球上には、既に、前例のない、また人智をはるかに超えた規模の災害が頻発化して来ているのはその現れである、と私は確信を持つ。そしてそれは、自然に因る災害ではない。明らかに人に因る災害なのだ。

 今こそ私たち人間は、広大な宇宙の中で、この「水の惑星」である地球に一生物種として生まれ合わせたことの不思議さと有り難さに先ず感謝すると同時に、神秘としか言いようがなく、また限りなく奥深く無矛盾なその地球上の自然によって生かされている存在であるということにも、謙虚に頭を垂れるべきではないだろうか。

 人間は自然の支配者や征服者には絶対になり得ないのだ。またそうした野心を、とくに科学者は、抱いてもならないのだ。

 そしてこの謙虚で誠実な態度こそ、これからの日本の、国としての経済のしくみとそのあるべき姿を明らかにしてくれるのではないか、と私は考えるのである。

 実際、この観点に立って、これからの日本の経済とその仕組みの具体的な姿を、次節以降で、私なりに構想する。

 

11.3 農業と工業の本質的な相違————(その1)

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11.3 農業と工業の本質的な相違——————————(その1)

 前節では、これまでの経済の定義というか概念は余りにも多くの問題や矛盾を露呈しすぎてきているのでもはや変えられるべきではないかとして、私なりに考える経済の新しい概念を定義し、それについて説明してきた。そこで次は、その新しい経済の概念に基づく新しい経済システムを実現するための具体的な方法を説明しなくてはならない。

しかし、私は、その前に、予め、農業と工業の本質的な違いを明確にしておかねばならないと思う。

なぜか。そこには少なくとも4つの理由がある。

1つは、農業は生命を育てることを扱う産業、例えば水産業や酪農あるいは畜産業そして林業を含めた産業の代表格であること、一方の工業は、製造業、サービス業、流通業を含めた産業の代表格であること。1つは、この国では、その代表格である農業は大事だとされ、国の基幹産業だと多くの人には考えられながら、しかし、農業とは何かについては、実際に農業に従事する人を含むほんのわずかな人を除けば、残りの圧倒的多数の人はただ漠然と理解したつもりになっているだけのように私には思われること。1つは、この国の政府は、アジア・太平洋戦争後の1946年以来、戦後復興を急ぎ、国力をつけるためということで、一貫して工業に最も力を入れ、基幹産業とされた農業は常に二の次に置かれ、というより、工業の発展のための犠牲にさせられてきた感があること。その結果、この国では、“農業では食ってはいけぬ”という風潮を生み、それがこの国の農業を衰退させる一層の原因の一つとなってきたこと。

1つは、新しい経済の概念に基づき、誰もが生きて行ける国を実現し、この国を真に持続可能な国とするためにも、本来の農業とは何か、一方工業とは何か、両者の関係とは何かについて、すべての国民が正しく理解しておくことがどうしても必要なのではないか、と私は考えるからである。

 特にこの4つ目の理由をもう少し具体的に述べるとこうなる。

生物の一種であるヒトは、他の「生命」を喰うことでしか生きられない。これは厳然たる真理である。工業産品を喰って生きることは絶対にできないのだ。

 そして、そのヒトの体はそれまでに喰って来たものによってできている。良質なものを喰ってきたならそれなりの体ができているだろうし、不純物や工業的に人工的に作ってきたものが多く混ざったものを多く摂ってきたならやはりそれなりの体ができているだろう。これも好むと好まざるとに拘らず普遍的な真理だ。そしてこの両方の真理は、ヒトも自然界での大きな物質循環の一種である食物循環の枠組みから逸脱することは決してできないことを示している。だからこそ、自然界での物質循環は、常に安定的に保たれている必要があるのだ。とりわけ、大気と水と栄養において。

 したがって、もし自国を真に国力のある国、持続可能な国にしようと思うのなら、先ずはこの二つの真理の上に立って社会の政治や経済等、あらゆる制度や枠組みを考える必要がある。

 ところが、日本の戦後の経緯を見ると、長期政権を担ってきた自民党を与党とするこの国の政府のとってきた、自国民に自国民が生きてゆくために不可欠な食い物を提供する農業という産業を育成する農業政策は、この国は歴史的に稲作文化の国だからということなのであろう、そのほとんどが稲作を中心とするものであり、しかもそれらのことごとくは、ここでも長期的計画はなく、朝令暮改の政策でしかなかった。つまり「戦略」と言えるものは何もなかった。

 具体的なことは私には不明であるが、日本の食糧生産体制の大変革は、アメリカから始まったいわゆる「緑の革命」と呼ばれる動きに大きな影響を受けたと考えられる。1960年代のことである。「緑の革命」とは、ノーマン・ボーローグ博士の提唱になるもので、一言で言えば、農業機械を大型化し、農薬や化学肥料を大量に使うことで収量を飛躍的に増大させることができるとする考え方であり農法のことである。それも、単一品種の作物に対して、より効果的とした。

 この「緑の革命」の影響を受けて、日本では、特に政府が主要作物とする稲作について、これまでの伝統的農法に代わって、機械化と化学化を促進するという政策をとった。機械化とは、主にトラクターを導入するようにすることを言い、化学化とは、化学工業が作った肥料や農薬を大量に使用するようにすることを言う。その際、その機械化による効率を上げるためには、水田をその土地の地形から出来たこれまでの自然形から長方形の区画にする必要があるということで、政府は各農家にも負担させて大規模区画整備事業を行った。ところが、農家にとっては、やれやれこれでコメを自由に思いっきり作れると思ったら、今度は政府は、稲の作付面積に制限を設けるいわゆる減反政策を取ったのだ。それでコメを自由に作ることもできなくなった。そしてそれにさらに追い打ちをかけるようにして、それまでは農家に対して、“コメは一粒なりとも輸入はしない”と明言していた農水大臣は前言を翻してしまう。米騒動に始まった食管制度を廃止して、市場でのコメの自由化という農業政策へと転換したのだ。

 これから判るように、日本の農家は、戦後、次々と事態をつくろう自国政府に騙されてきたのだ。

 これだけでも、農家はやる気を失い、農業に誇りも持てなくなるというのに、その上今度は、種子法の廃止だ。種子法、正式名称は「主要農作物種子法」と呼ばれる法であるが、それは全ての都道府県が、稲、麦、大豆の種子の品質を管理し、優良な種子を安定的に供給する義務を負う、とした法律だ。その種子法の廃止により、今度は世界のアグロバイオ企業によって「農」と「食」そのものが支配されようとしているのだ。

 そして農業を巡る現在の状況はと言えば、消費者のお米離れもあり、多くの農家は“農業では食ってはゆけぬ”となり、農業後継者のサラリーマン化等にも拍車がかかり、農業従事者の激減と高齢化、管理できないがための耕作地の放棄、伝統的農業と農法の解体といった状況に至っている。そしてこれがまた、日本の食糧自給率を先進国中では群を抜いて低い状態にさせてしまってもいるのである。

 地球規模での温暖化とそれによる気候変動が止められずに、異常気象が常態化してゆくことが予想される時、日本のこの農業政策の失敗と躓きは今後ますます深刻な意味を持って行く事は間違いない。

どんなにITだ、AIだと言っては工業生産力を高め、物流を発達させたところで、喰い物が確保できないとなったなら、軍事力と工業生産力に頼る国力など、国民にとって、何の意味もなくなってしまうからだ。

 とにかく、この国の全政治家、そして中央と地方の政府は、今こそ、この国に実際に起こった次の史実を思い出し、そこから真摯に教訓を引き出し、それを生かす政策を考えるべきだ。

 食料に関しては、1918年に米騒動が起こったこととその理由。1993年が冷夏だったことによってコメが凶作となり、コメをタイやカリフォルニアから緊急輸入した事実。

 エネルギー資源に関しては、アメリカの石油禁輸に遭い、日本はフランス領インドシナに石油資源を求めて侵略し、アメリカには真珠湾奇襲攻撃をしてアジア・太平洋戦争を始めたが、結果は国を破滅させてしまった事実。1973年と78年には中東での政治情勢の不安定さによって生じた石油危機(オイル・ショック)で、日本政府はただただ狼狽え、産油国に対して、イギリス政府とは好対照の、恥も外聞もない土下座外交をした事実。

 しかし地球規模での危機が進展する中で、今後生じてくるであろう事態はこんな程度で済むはずはない。その時には、食糧を輸入しようとする相手の農業大国でさえ、自国民を喰わせるだけで精一杯の食糧事情になっている可能性があるからだ。

 思えば、この国を滅ぼすような過去の全ての大失敗も、そこに全責任を担っていたはずの全政治家や軍人たちは、相手を知ろうとはしないことを含めて、何の客観的な情報も集めようとはせず、したがって理性的な情勢分析もせずに、自分に不都合な情報は排除して好都合な情報しか聞こうとはせず、もちろん最悪の事態など想像すらせずに、“大和魂を持ってぶつかれ!”が象徴するように、精神論で対処できると考えてきた結果だった。

要するに彼らは、「孫子」を説く以前の話で、全てにわたって、自己に甘すぎ、見通しが甘すぎたのだ。

 そうでなくとも、もしも実際にこの国がそのような事態に直面したならば、官僚をコントロールもできず、府省庁相互の縦割りも解消できず、むしろ実質的には官僚に依存し追随するだけで来た、見せかけだけの首相、見せかけだけの閣僚、見せかけだけの政府、見せかけだけの国家でしかないこの国は、何をどうしていいのか判らず、たちまち無政府状態に陥り、その時、国中に生じるであろう略奪も強奪も殺戮も制止できず、むしろそれらを常態化させてしまうしかないだろう。

 

 そこで私は、読者の皆さんには、農業の意味やその大切さを今よりも少しでも深く理解していただきたいために、本節では、農業と工業の持つそれぞれの本質面を明らかにしてみようと思う。そしてそのことを通して、今日、世界的に、「豊かさ」を実現する手段として当然のごとくに考えられ、したがってますます発達させるべきだと考えられている工業ではあるが、そのあり方に比べて、農業が、私たちが生物としてだけではなく人間として生きて暮らして行く上でも、また私たちがこの地球の自然環境の中でこれからも永久に生かさせてもらいたいと願うならば、農業こそがいかに理に叶った産業であるかを明らかにしてみようと思う。またそのことを通して、なぜ農業が、人類史の中で、どの国においても、圧倒的長きにわたって支配的産業であり得たのか、その理由も理解していただけるものと思う。

 お断りしておくが、この両者の比較は、あくまでも私自身のこれまでの24年間のサラリーマン生活とその後の20余年間の農業生活という実体験に基づくものである。

前者のサラリーマン生活とは、本書冒頭の「はじめに」にも記したが、某ゼネコンでの研究者生活を意味する。また後者の私の農業生活とは、農薬も一滴も用いず、化学肥料も一握りとして用いることなく、徹底して良質な有機肥料に拘る農法に基づく農業生活を言う。

その時の栽培法は露地で栽培するというもので、施設の中で栽培するというものではない。ましてや季節外れの野菜を施設の中で化石資源を大量に使って加温しては栽培するという栽培法でもない。もちろん、最近よく耳にする施設内での水耕栽培でもない。

とにかく降り注ぐ太陽光だけを頼りに、それを最大限に浴びながら、土壌が本来持っている力を天水によって最大限に発揮させ、その力を借りて野菜や米を栽培するという栽培法によって支えられた農業生活のことである。

 

 先ず農業について。

 上記に言う土壌が本来持っている力(地力)を天水によって最大限に発揮させるとは、先ずはその土地にもともと棲息する土壌微生物に注目する。関係書籍に拠れば、農薬を散布されていない畑土1g中には、細菌が100万から1000万、糸状菌が菌糸の長さでスーメートルにも及ぶほどに棲息しているのである(都留信也「土壌の微生物」土つくり講座Ⅳ 社団法人農山漁村文化協会 p.9)。その彼らが十分に活動できるような土壌環境をつくるのだ。そのためには適度な量と質の水と空気が要る。それを、もし天水で不足であれば、我が家の井戸水をも用いて、適度に補って管理する。こうすることで彼らは土壌中の昆虫や小動物、植物の遺体を分解してくれて、播いた種子が健全に成長できる良好な土壌環境ができる。そこに良質な有機質を肥料として施し、種子が潜在的に持っている能力を最大限に発揮させるのである。

 後は、その周辺に次々と生えてくる多様な草が野菜の苗を覆ってしまって太陽光を遮ってしまうことのないように、草を適度に除去することで、野菜の成長を見守るのである。

 当然ながらそこでは、除草剤や殺虫剤の類いの農薬は一滴も使わなければ、化学肥料も一握りさえ使わないし、また使えない。使ったならば、それが土壌中の細菌や微生物を殺してしまうことになるからだ。それだけではない。野菜の根にも悪い影響をもたらしてしまう。

とにかくひたすら良質の有機物のみを用いて、適度に水を施して、土壌を活性化させ、地力の維持を図るのである。

 したがって私の農園では、季節の気候に合った作物しか作れないし、また作らない。だから、私の住む地域(標高750メートルの八ケ岳南麓)では、栽培できる期間は、一年のうち、実質的には、3月からせいぜい12月の中頃までである。

 作物は、野菜が主で、その他に、米、大豆である。栽培期間に栽培する野菜の種類は、およそ50種類で、スーパーマーケットに並んでいる種類とほぼ同種類の野菜を栽培している。

 ではなぜ多種類の野菜を栽培するか。

それは、1つには、生物としてのヒトが生きる上では、というより、生命一般は、その体がより健康的に生きるためには、それぞれが特徴ある栄養素を持っている喰い物を、多様な種類にわたって食べることが大事だと私は考えるからである。そもそもどんな生物も、どれか一種類の他生物を喰えばそれでその生物が生きて行く上で必要充分な栄養素がすべて満たされるということはないはずである。どうしても多種類の食い物を食する必要がある。だから、野菜を栽培するにも、単一ではなく、できるだけ多種類の野菜を育てる必要があるのである。

 もう1つは、畑も田も生態系の一部であるからだ。そして野菜や米という植物も生命である。生態系は生命が多様である程、豊かで、外からの撹乱に対して安定性がある(第4章「生命の多様性」の定義を参照)。単一の野菜だけを畑一面に栽培するよりは、多様な野菜を栽培する、それもその都度作る場所を換えるという栽培の仕方が生態系をつねに活性化させておく上で理に叶っていると考えられるからだ。

 だから、私の農法は、畑一面に同じ野菜を栽培しては収穫時には人手を使ってでもそれを一気に収穫して、それを不特定多数の人に食していただくために一斉に市場に出して換金するという、いわゆる市場経済を前提とした農法ではない。

 このように、私の農業や栽培法では、畑や田という一つの区画の中の生態系に———かといって、その周囲との間を遮断する遮蔽物があるわけではない———多様な種類の作物を意図的に栽培するのである。そうすることで、それらの根の周囲には根から出される分泌物やその分泌物に群がる微生物を求めて多様な微生物や多様な昆虫・小動物が集まり棲むようになる。その結果、各種生物間には一定の拮抗関係が生じる。そしてそのことが野菜や米の病気の発生を抑え、特定の生物種だけが異常発生することに因る被害を抑制できるようになる。

つまり、多様な野菜を栽培することで土壌の状態の平衡や安定を維持できるようになるのである。

 だからそこでは、これまでの慣行農法では「雑草」という言い方をされては目の敵にされてきた草もとくに敬遠することもしない。むしろ場合によっては草を積極的に生やしては活用さえする。草も、根を通じて土壌中で野菜と相互作用しているはずだし、そもそも自然界にあっては、人間が知らないというだけで、どんな生命体も、それなりの役割を必ず果たしているはず、と私は考えるからである。

 その結果であろうか、これまで、私の畑の野菜に、また田んぼの稲にも、病気が出たり、特定の虫の被害に遭ったりしたことは一度もない。連作障害とか発育障害という症状が生じたこともない。

 私ができるかぎり多種類の野菜を栽培するもう1つの理由は、野菜を買って下さっているお客さんが、宅急便で送られてくる野菜がより多種類であることを喜ばれるからである。

 ところで昨今、「土から離れた農業」の話題がメディアにしきりに取り上げられている。たとえばその一例が既述の水耕栽培である。

しかしそれについては私はまったく未経験ながら、かねてから気になっていることがある。そしてこの栽培法は今後の農業のあり方あるいは喰い物の生産方法として、どの国にとっても重要な意味を持ってくるのではないかと私には危惧されるため、ここで、少しじっくりと考えてみようと思う。

 気がかりな点の1つは、どんなにその栽培技術が最先端の科学技術的成果を用いて発達したところで、その栽培法がもたらす野菜は本当に人が生きて行く上で良質な食材となりうるのか、2つ目は、その水耕栽培なるものは果たして自然環境に負荷を掛けないものなのか、すなわち自然の摂理に沿ったものなのか、3つ目は、その栽培法は果して農業と言えるのか、ということである。

 3番目の問いから行けば、なぜこれが気がかりかというと、私は、農業とは、本質的に「土の上で、あるいは土壌を相手に営まれる業」ではないか、あるいは「それでしかあり得ないのではないか」、と経験上、固く信じるようになっているからである。その理由は、既述したとおりである。野菜や米等の栽培は、ただ水と肥料と光だけを科学的にコントロールすればいいというものではないと考えるからだ。またそれでは本物の野菜は出来ないだろうと考えるからだ。

土壌中のバクテリアと呼ばれる細菌の存在が不可欠の役割を果たしてくれているのだ。それは「工業」の力で何とかなるというものでは決してない。そんな多様な生物圏は人工的には決してつくれないと私は考えるのである。しかもその生物圏は構成要素が互いに拮抗した関係にある。太陽光にしても同じだ。水耕栽培ではLEDなり人工照明を用いるようだが、太陽光はそれでは決して満たし得ないもっと多様な光から構成されており、それが植物の葉に微妙に影響して、栄養や味をもたらしているのではないか、と考えるからだ。

つまり水耕栽培は、本来の農業とは言えない、と私は考える。強いて言えば、工場での工業的野菜製造法であって、工業の一分野と見るべきものだ。

 第1の問いについては、既に第3の問いに対する答えの中に答えが含まれていると私は考えるが、もう少し補足するとこうである。

確かに水耕栽培で出来た野菜は、「野菜」らしくは見える。しかし味、栄養価はどうであろう。

私は、自然は、工業がもたらす物による場合とは違って、人間の目や五官では判らない、判りようのないものを与えてくれていると信じている。それは、たとえば、ただ美味いとか栄養があるというだけではなく、それを喰えば病気になりにくく、より健康になるといった、科学では計量しにくい多様な要素が含まれているのではないか、と思うからである。そしてそれこそが真の価値とみなせるものだ。

 そうしたものが、土壌の中で栽培した野菜、それもとくに無農薬・無化学肥料で、良質の有機質のみを施した健康な土壌の下で育てた野菜には含まれているだろうと思うのである———ここで「良質の」とは、そこに農薬も重金属もその他の化学合成物質(成長ホルモン、抗生物質等)も混入していないことを意味する———。

 私がそう思う根拠は次のようなものである。

水耕栽培に用いられる肥料は、その量を人為的にきめ細かくコントロールする必要から、化学肥料にせざるを得ない。有機肥料はそうしたきめ細かなコントロールは本質的にできないからだ。

しかし化学肥料は、人間が化学工業の力を借りてある特定の肥料成分、たとえば、チッソ、リン酸、カリウム、その他のマグネシウム、カルシウム等を抽出し、それをある特定の比率で混合したものだ。そしてその肥料はそれ以外の成分は含んではいない。つまり化学肥料は最低限の肥料成分しか含んではいない。

 一方、本物の有機栽培野菜とは———ここでなぜ敢えて「本物の」と断るかというと、純然たる有機肥料だけではなく化学物質の含まれた肥料も使った栽培法をも「有機栽培」、それによって出来た野菜を「有機野菜」と言って販売している農業者もいるからである。実際、農林水産省有機栽培と有機野菜に関するルールJASS5はそれを認めている———、そこで施すのは良質の有機質だけであることはもちろんであるし、またその有機質の中には既に莫大な数と種類の微生物や菌類が含まれており、その上、既述のように土壌中に棲息する莫大な種類と個体数の微生物や菌類そして昆虫も加わって、それらの総合力の結果として出来上がってくる野菜だ。

その際、土壌中の微生物は、外から施された有機質を餌にして生きながらそれを分解する。その分解された物も有機物であるが、それは最初施された有機物とは異なる有機物で、土壌有機物と呼ばれるもので、これが野菜の成長に特に大きな効果を発揮するのである。

 私には、こうして出来てくる野菜と水耕栽培でできてくる野菜が、同等に、人が生きて行く上で本当に良質な食材となりうるとは考えられないのである。

 ヒトという生物も、種類の少ない限られた栄養だけを摂っていたのでは、つまり偏食していたのではどうしても健全な肉体と精神ができてこないと同じように、野菜や米という生物についても、自然の、できる限り多様な栄養素が供給されてこそ良質の、つまり見た目だけではなく、味も栄養も、また今日の科学をもってしても判らない他の価値をも備わった質のものが出来上がってくるのではないか、と私は考えるのである。

 いずれにしても、私のしている農法とは無関係に、それがいやしくも農業と言われるものあるためには、これだけは必ず備わっていなくてはならないという要素がある。

それは、晴天と降雨と風が周期的に安定して繰返される気候、作物の生長に適した周期的な気温変動、多様な微生物や昆虫そして小動物が棲息する土壌、毒物あるいは有害因子で汚染されていない適温で適量の水、多様な栄養を持った適量の有機物である。

 これらのうちのどれ一つ欠いても本来の農業は成り立ち得ない(甲斐秀昭・橋元秀教「土壌腐食と有機物」農山漁村文化協会p.8〜9)。言い換えればこれらが農業を成立させる「絶対条件」となるのである。

そしてこれらが、互いに相互に影響を及ぼし合いながら、健全な生態系(「生態系」については5.1節の定義参照)を構成しうるのである———さらに言えば、そうした健全な生態系と生態系とが互いに連結し、大きな自然を形成して行く。

またそうなってこそ地球を熱化学機関して成立させている作動物質としての「大気と水と養分」は順調に循環し、人間がその諸活動の中で不可避的に発生させる余分なエントロピーを、最終的には宇宙に捨て去ることができるようになるのである(第4章を参照)———。

 こうした観点からみても、生態系・土壌・気候・他生物との関係を切り離して喰い物を生産する既述の「水耕栽培」という生産方法は、掛け替えのないエネルギー資源を大量に浪費することを強い、地球の温暖化を加速させ、異常気象を頻発化させることになる、「収益」性に囚われた市場経済にのみ支配された姿でしかない。

 このことから、先の第2の問いにも答え得たと私は考える。

 以上のことからもお判りのように、農業においては、「食い物を作る」とは言っても、真の作り手はその「絶対条件」であり、それを提供してくれる生態系であり自然なのである。もっと限定的に言えば真の作り手は「土壌」なのである。それも、「その中に微小生物が豊富に棲んで盛んに活動し、十分な水、養分が作物に供給されると同時に、緩衝能が大きく、作物にとって不利な環境に陥りにくい土」なのである。それはきわめて複雑な系であり、それは、たとえば機械が古くなればそれを取り外して替えることができる工業あるいは工場生産とは違い、全取っ替えするなど到底できない質のものである (甲斐秀昭・橋元秀教「土壌腐食と有機物」農山漁村文化協会p.8〜12)。

 その中で、人間がすることあるいはできることといえば、せいぜい、やがて成長して喰い物となってくれる「種(タネ)」が持っている固有の能力・特性を最大限に発揮できるような環境条件を維持できるよう、その絶対条件がいつでも備わるように手助けするぐらいなのである。

 たとえば、その絶対条件のうちとくに水が足りない場合にはそれをこちらが補ってやる。地力が落ちてきたなら、栄養の種類が豊富な有機物を補ってやる。野菜が草の勢いに負けて日陰になるほど覆われてしまいそうになったなら、その草を除去してやる、というように。

 種を播いてから収穫までの期間は、途中、草取りや虫除け、追肥、水やり等の作業は、適宜、必要とはなるが、それまではただじっと「待つ」よりない。この時間は、その野菜にとって成長のための必要不可欠な固有の時間であって、それを人為的に短縮するなどということは絶対に出来るものではない。また、短縮しようなどと考えてもならないと私は思う。なぜなら、それを考え出し実行したところで、そのことに因る歪みが、自然や人間に対して、あるいは出来上がってくる野菜そのものに、予期し得ない何らかの形で、害として現れてくるのではないかと推測できるからである。

 出来上がってみるまでは、どれほどの物が出来るか誰にも判らない。それは既述の「絶対条件」が、同じ圃場であってもつねに変化するし、またその条件が、同じ圃場であっても、いつも過不足なく満たされるとも限らないからである。

だから、栽培者がどのように植物の生育環境を管理しようとも、出来る野菜に再現性はない。

つまり、去年良いものが出来たからといって、今年も同じ出来映えのものが出来るという保障はない。そしてできてくる野菜は、すべて、形状も、大きさも、全く不ぞろいだ。そしてそれが自然なのだ。むしろ、形も大きさも一致していること自体、不自然だ————人間も同じだ。誰も彼も、個性も趣味も、能力も同じ、ということなど絶対に不自然なのだ! これは、教育制度への絶対的教訓ともされなくてはならない————。

 農業が生み出すものというのは、本来そういう性質のものなのである。

そしてこうした栽培法から出来上がってくる喰い物は、形や大きさは不揃いであろうとも、すべて、食して安全であることはもちろん、間違いなく美味しく、また栄養価も高いものであるはずである。

 とにかく労力・時間等のコストをできるだけ少なくしながら、できるだけ収量が多くなるようにと農薬や化学肥料を多投して、規格化され画一化された農産物を栽培することは、圃場という生態系にとっても、またそれを食する人の体にとっても、害はあっても、有益となることは少ないと私は考える。

 本来の農業とは、生態系を守り、環境を守り、景観を良くし、地下水を守り、生物多様性を維持し、作動物質である「大気・水・栄養」を自然界に循環させてくれ、エントロピーの増大を防いでくれる営みなのである。

そしてこの事実こそが、人類史の中で、なぜ農業がどの国どの地域においても圧倒的長きにわたって支配的産業であり得たのかを説明しているのである。そういう意味で農業は、歴史の表面に出ることはほとんどなかったが、人類の歴史そのものを土台から支えて来たのである。

したがって、もし私たちヒトが生物として、この地球上にこれまで生きて来れたと同じくらいにこれからも生かさせてもらいたいと願うならば、本来の農業を国と社会の名実共に基幹産業とする必要があるのである。

 以上が私の考える農業の本質と言えるものである。

11.2 経済の新概念——————(その2)

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11.2 経済の新概念——————————————————(その2)

 では、近代の経済や経済システムを超える新しい経済あるいは経済システムとは果してどういうものか。

言うまでもなくそれは、「環境時代」(第4章の定義参照)に相応しい「持続可能」な経済であり経済システムでなくてはならない。

そしてそれは、働く者の人間性を無視したものではなく、むしろ人間の本性に根付く、人間の営みとしての労働———それは「人間の能力を高め、人格をも向上させる」という役割を持った労働———に基づく経済であり経済システムでもなくてはならないのである。

そこで言う人間の本性とは、「他者の痛みが判り、哀れみの感情を持てて、他者に共感でき、自分が他者の役に立っていることを実感するところに歓びを感じられる」ことである。

 この新しい人間重視の経済は、人間の人間による次のいくつかの行為と過程から成っている。

これはすでに第4章にて定義したものと同じものである。

それを確認の意味でもう一度示す。ただしここでは、判りやすくするために、それぞれの行為と過程とを分解して示す。

 この新しい人間重視の経済は、人間の共同体そのものを存続させるためのもので、

一つは、人の再生あるいは再生産にかかわる行為ないしは過程、

一つは、共同体の存続そのものを可能とさせる一次財の再生あるいは再生産のための自然の再生・修復・復元にかかわる行為ないしは過程、

一つは、共同体での生活の基礎をなす物質的二次財の生産に供する資源としての一次財を自然(生態系)から持続的に利用させてもらうための行為ないしは過程、

一つは、物質的二次財の生産・流通・分配・消費・廃棄あるいはその再利用に関わる行為ないしは過程、

そしてもう一つは、上記4種類の行為・過程を通じて形成される人間と人間との社会関係と、人間と人間社会の自然(生態系)に対する一方的な従属関係の総体のこと。

 

 この新定義では、旧来の「近代」の経済の定義と次の点でその違いを明確にしている。

以下のことは、いずれも、旧定義には含まれてはいなかったものである。

・経済活動は、とにかく人間の共同体を「存続」させるための行為であることを初めから明確に意識した概念であること。

・これまでは財についても、その質の違いを問わずに単に一つの財として扱って来たが、それを人の生存と共同体そのものの存続を可能とさせる一次財と、人間としての暮らしを可能とさせる二次財とに分けることを定義の中で明確にしたこと。

・その場合、旧定義では、「一次財の再生あるいは再生産」および「自然の再生・修復・復元」という行為と過程を単にコストとしてしか見ずに二次財の生産だけを主目的として来たが、ここではむしろ「自然の再生・修復・復元」という行為と過程を通じて二次財の生産を支える「一次財の再生あるいは再生産」そのものをも経済活動の一つであるとして明確に含めたこと。

・そして二次財については、その生産と分配と消費の行為・過程だけではなく、流通と廃棄あるいは再利用の行為・過程をも経済活動に含めることをも明確にしたこと。

・そして以上の4種類の行為・過程を通して初めて人間および社会は持続可能な存在として形成されるとしながらも、その人間も社会も、自身で独自に生きているのではなく、実は自然に対して一方的に従属せざるを得ない関係に拠って生かされている、という考え方をも明確にしたことである。

 以上の4種の行為と過程と、それによって形成される人間相互関係からなる社会と、人間社会の自然に対する一方的な従属関係の総体をもって、私は「環境時代の経済」または「新しい経済」の定義としようと思う。

もちろんその根底には「三種の指導原理」に依拠しながら、先の「都市と集落にとっての三原則」にも則りながら「人間にとっての基本的諸価値の階層性」を着実に実現させて行く、という考え方も不動のものとしてある。それらをより完全に実現して行くことを目ざすのである(4.2〜4.4節参照)。

 

 繰り返すが、ここで述べる経済と経済システムにおいてとくに重要なことは、もはや単に「雇用を創出されている」、「雇用が確保されている」、「仕事がある」、「働き口があって賃金がもらえる」といったことのためだけの経済であったり経済システムではないということだ。そうではなく、誰もが「生きて行けること」、それも、各自が属する共同体に積極的に、そして誠実に参加して協働することで、誰もが等しく安心して生きてゆくことができ、しかも一人ひとりが人間として、その能力も人格も高まって行けるようになることに主眼を置いたものである、ということである。

 だからその経済とシステムは、人々の多様性のみならず、他生物の多様性をも受け入れ、その生命一般の多様性との共存の上に、人々が、自分たちの文化、すなわち自分たちに固有の、共有し合った生活様式をも同じく大切にしながら、身の丈の技術をもって支え、成り立たせて行く経済でありシステムである。

 身の丈の技術とは、基本的に人間の手あるいは器用に動くその手の延長で用いられる道具に拠って成り立つ技術ないしは技のことである。

だからそこでは、オートメーション・システムといった人間を生産システムの中の単なる一歯車としてしか見ない画一的大量生産技術でもなければ、ITとかAIといった、人間の介在を必要としない、むしろ人間に疎外感しか与えない生産技術でもない。したがってその身の丈の技術とは、むしろそれらとは正反対で、労働する一人ひとりに、その人の得意な面を生かさせてそれを伸ばし、自身の存在意義を確信させてくれ、人間としての働く歓びをもたらしてくれるものである。

 オートメーション.システムやITとかAIによる大量生産システムから生産されてくる製品は、使い手に便利さあるいは快適さをもたらしはするかもしれないが、全てが画一化された製品であるがために、どれを取っても、そこに格別の愛着を感じられたり、ぬくもりを感じ、したがって安らぎを感じられるというものではなかった。それだけに、少し型式が古くなったり、どこかに故障や不具合が生じたりすると、人間の手で修理修繕して使うということがほとんど不可能な作り方がされているために、全取っ替えを余儀なくされ、容赦なく捨てられる。またその方が安く済むからでもある。しかしそれ自体、エネルギーと地球資源の莫大な浪費であると同時に、生態系を大規模に汚染したり破壊したりすることになる。

そしてもう一つ大事なことは、というより、これは真理であるとして言えることは、どんな物でも、その時にはどんなに最新式のものであって、また格好良く見えても、いつかは必ず周りの物と比べても古くなるということだ。

したがって、問題はその時、古くなったその物が所有者の目にどう見え、その物をどう感じるかである。

こういう時、オートメーション・システムやITとかAIによって画一化されて大量生産された物というのは、得てして、ただ古くなって、頻繁に故障が生じやすくなったとしか感じられなくなるものだ。そしてそうなれば、捨ててしまうことにはそれほどためらいは感じなくなる。

 それに対して、身の丈の技術によってつくり出される物は、一品一品が作者の手になるものであるために、そこには作り手のぬくもりと心意気を感じさせてくれる。出来上がったそれぞれはみな、互いに微妙に異なり、言うなればその一つひとつが世界にそれしかないものとなる。

そしてそれは、使いこめば使いこむほどに、つまり時間が経てばたつほどその製品独自の味が出てきて、愛着をも感じさせてくれるようになる。

それに、たとえそれが故障しても、元々が手作りなために、すぐにも人の手で修理したり修繕したりすることができる。しかしオートメーション・システムが生産した物の場合にはそうはいかない。部分だけを修理することがまず困難だし、たとえ修理できたとしても、新品を買い換えるのとさほど変わらないほどの金がかかってしまうからだ。ということで、結局は「全取っ替え」ということになり、高い物についてしまう。

 つまり手作り製品は、それだけエネルギーと資源の浪費を防げるのだ。環境破壊を減らすことなのである。自然環境に負荷をそれほどかけないで済むのである。

 とにかく、ここで言う「環境時代の経済」または「新しい経済」では、労働することが、ただ自分のためだけ、お金のためだけというのではなく、誰かのため社会のために役立っているという実感をも持たせてくれ、したがって働くことに対して一人ひとりに誇りを抱かせ、人間的成長をも実感させてくれるものとなるのである。

 だから、そこでは、過労死とか、ストレスを抱えて自分の精神を病み、自分で自分の命を絶つなどという事態はまったく別世界のこととなる。

 

 そして私は、ここで、さらに次のことをも明確にしておきたいと思う。

それは既に定義して来た「調和」という考え方に基づくのである(4.1節)。

 その「環境時代の経済」または「新しい経済」は、もはや資本主義とか社会主義さらには共産主義とかいうものにも拘らないし、そうした主義あるいはイデオロギーを区別もしない、ということである。生産手段の私有化・公有化といった区別にも拘らない。土地などの生産手段についても同様で、公有化がいいとか私的所有がいいとかいうことにも拘らない。

一方で誰かが儲ければ、あるいは得すれば、一方では誰かが必ず損をすることになる利益・収益・儲けという考え方にも拘らない。

 階級、すなわち資本家階級とか労働者階級といった区別にも拘らない。

市場という概念はもちろんのこと、株式や投資や投機という考え方も採らない。だから、そこでは不労所得という概念はあり得ない。また、その経済はあくまでも実体に基づくものであって、消費者の気紛れや気分に左右されるような経済でもないから、そこでは景気という概念も無意味となる。さらには、自己完結を目ざす経済であるゆえ、対外交易ということはさほど重要なことではなくなる。したがって保護貿易とか自由貿易という考え方、また、「保護(貿易)主義」とか「自由(貿易)主義」という考え方や用語にも拘らない。そのような区別そのものにも拘らない。

 そこではまた、既述したように、これまでの資本主義経済あるいはそのシステムがとって来た競争原理とか市場原理といった考え方はもはやなくなるので、株価の上下や為替の値動きによる売買や先物取り引きといったことに象徴される博打的取引もあり得ない。

 またそこでは、これまで、政府(官僚)によって頻繁に行われて来た「巨額の公的資金などによる財政支出」という、国民の金を使って特定産業界を保護・優遇するという考え方や対処法も採らないし、そのようなこととは関係もなくなる。

 また、そこでは、経済活性化という名目、というより産業界保護とそこからの政治献金を期待して行われて来た「法人税の税率引き下げ」という考え方も対処法ももはやまったく不要になる。また、遠く離れた国のある地域に個人資産を隠しては税逃れをする「タックスヘイブン(祖税回避地)」という、富豪者による社会の格差を拡大するだけの身勝手で不平等かつ不公正きわまりない制度も、全く不要になる。

 また、バブル予防のために考え出されて来た、金融のあり方に関する「貯蓄銀行投資銀行との分離の必要性」等の問題についても、全く関心を寄せない。というのも、銀行はあくまでもその地域の、それも実体経済それのみを支える銀行であるべきだ、と考えるからだ。そうなれば、そこではもはや、いわゆる「バブル」も「恐慌」もあり得ないし、起こりようがない。

 そもそもバブル経済先物取引というギャンブルも、あるいは投資や投機という考え方や行動も、ともに、本来、人間が生きてゆく上で、あるいは人間が日々の生活して行く上で必要とするような活動ではまったくない株と為替の値動きに注視することについてもである。

だいたい生産活動の変化もないのに、世の中の出来事だけに影響を受けて特定の企業の株価だけが乱高下するということ自体まったく理不尽な話だし、ましてやそうした状況を巧みに利用し得た者だけが、労せずして巨利を得られるなどということも、人間を堕落させるシステム以外の何物でもない。

むしろそのような強欲に基づく人間に対する騙し行為は、人間の本能に基づく欲ではなく、その者が置かれた社会的・政治的状況の中から生じてきた欲であり、きわめて怠惰で不道徳的で、社会にまっとうに生きようとする人間の労働観や倫理観を惑わせ、あるいは狂わせ、社会を歪め混乱に陥れるだけでしかないシステムと言える。

 実際、そのことは、1980年代後半の日本に起ったバブル(泡)経済とそれがはじけた後のことを思い起こしただけでもすぐに判る。“バブルに踊らない奴はバカだ”とまで煽られて国を挙げてそのバブル、つまり中身がなく実体のない経済に踊り狂ったのだ。そしてその泡がはじけた結果(1991年)、私たち国民の暮らしはその後、「失われた10年」「失われた20年」等々と言われてきたが、今日までどうなったか。そしてその間、この国の政府は国民のために何をしてくれたか。また私たち国民も、その実体なき経済から何を学んだか。

 結局のところ、バブル経済の本質とは、「果てしなき経済発展」こそが国力を高めるのだから国策となるべき、との強迫観念をずっと持ってきた大蔵省(当時)の官僚の企みによるもので、国民が己の家庭や育児を犠牲にして、必死になって働いて増やした預貯金およびその利子といった富を、国民に渡らないようにコントロールしながら、それを金融機関を通じてこの国の主要企業に流入させ、彼らの投資資金とさせたという、言うなれば、家計部門から産業部門への、一挙に加速された富の移転に過ぎなかったのだ(K.V.ウオルフレン「システム」p.204)———もちろんこれも、官僚には許されているはずもない権力の非公式の行使であるが、いつも官僚に依存し、追随ばかりしてきた大蔵大臣には、そうした許されざる権力を行使する官僚を罷免したり、降格させたりする力も気力もなかったのだ。というより、多分、閣僚は配下の官僚に対してどうあるべきか、という政治的原則も知らなかったのではないか———。

 そのことは、たとえばその後今日まで続くゼロ金利政策一つを取って見てもすぐに判る。

 あるいは2008年9月、リーマン・ブラザーズの経営破綻によって、日本も、当時の日本の国家予算(約90兆円)の額の4倍近い国民の資産を外国人投資家に(合法的に)持ち逃げされ、失ってしまった事実(広瀬隆アメリカの経済支配者たち」集英社新書)を思い返してみてもすぐ判る。

 あるいは現在の資本主義経済システムが、投機屋からなる国際金融マフィアと呼ばれる大規模な犯罪組織(シンジケート)がファミリーを構成して、先物取り引きなどのデリバティブ価格を集団的に操作しては銀行金利をはるかに上回る法外な利益を上げてもなお逮捕されることも訴追されることもなく、ぬくぬくと生きていられるしくみになっている事実を見てもすぐ判る(同上書)。

 なお、さらに付け足せば、この「環境時代の経済」または「新しい経済」は、「貧困の撲滅」だ、そのためには「民営化だ」と前宣伝しては多くの国々の政府と国民に期待を持たせてはそれを裏切ってその国の経済を崩壊させてきた、いわゆる「グローバリゼーション」や「ネオ・リベラリズム新自由主義)」等々にも全く関心を寄せない。

 とにかくそうしたことはすべて、世界の何処かの国の誰か、例えばアメリカのウオール街の巨大金融企業群が決めるというのではなく、主権者である住民が、自身で本音で主体的に議論して、最良と考えるものとして決めてゆけばいいのである。拘るのは、あくまでもその行為が、生態系をも含めて、地域全体の持続的発展のためになるかならないかという観点についてのみとなる。とにかくそうした主体的行動を通して、その地域の人々は、議論することの重要性も、少数意見を尊重することの意味も、民主主義の意味についても、本当の意味で理解を深めてゆくことができるのである。

 ついでに言えば、これまでの論理から明らかなように、「三種の指導原理」や「都市と集落にとっての三原則」に基礎を置く「環境時代の経済」あるいは「新しい経済」の下では、技術的権利を独占する「特許」あるいは「実用新案」という考え方も、そしてそのための制度も、あること自体、社会と自然の全体に対しては有害無益として、まったく無用とする。また、仕事をする上で、これまで当たり前とされてきた、各自の「名刺」を携帯するということも、「看板」を出したり、「宣伝」をするということも、多分もはや不要となるだろう。小規模で、分散した各地域社会では、全ての人が互いに顔見知りになり、信用や信頼が自然と大切にされるようになり、そのようなものや行為はもう要らなくなるだろうからだ。

 

 「環境時代の経済」または「新しい経済」がもたらす効用はそれだけに留まらない。

この国は表向き、資本主義の自由競争経済の国とされてきたが、実質的には全く違う。

対外的には、この国の中央政府はもっぱらアメリカに追随して来たし、国内の流通システムは、既述のように、その頂上にて各政府省庁の官僚と財界の官僚とが結びつく「業界団体」と「系列」を通じて、日本の産業界の隅々までを統制するという経済システムを取ってきた。それは、決して自由システムではなかった。というより、極めて窮屈な経済システムだった。

 「環境時代の経済」または「新しい経済」はその辺の事情をも一変し得る可能性を十分にもっている。

 それは、「新しい経済」が、基本的に、地域ごとに自己完結を原則とする経済システムであるゆえ、住民の意思と決意一つで、人体にだけではなく生態系にも悪影響が及ぶと考えられる物品や生産方法をも排除しうるようになり、その地域の固有種による栽培と飼育が可能となる経済システムだからである。

実際、日本はこれまで、世界一の遺伝子組み換え食品の輸入大国だったのだ(堤未果「日本が売られる」幻灯舎新書p.79)。

たとえば、遺伝子組み換え種子およびそれとセットになった農薬が大量に入ってきた。トウモロコシ・大豆・小麦・大麦・ライ麦等の農産物の多くはそれによって栽培されてきた。そして次にはそれらを原料として味噌・醤油・植物油・酢・コーンフレーク等が作られてきた。あるいはそうした農産物を飼料として用いられて育てられた家畜によるものが牛肉・豚肉・鶏肉・卵・牛乳等の食品である。

 しかし「環境時代の経済」または「新しい経済」はそれらを排除できるようになる。

 このように、その経済は、それぞれの小規模地域に身の丈の技術を生み、育て、それを高度に洗練させ、地域の文化を育みまた守り、地域住民の健康と生態系をも守る経済なのである。

さらに言えば、「都市と集落にとっての三原則」をも土台に置いて地域社会を構築することから、その地域の経済のみならず、政治的にも、自分たちの地域のことは、憲法に反しない限り、自分たちですべて決められ、自分たちの運命をも選択できるようになるのである。

 それだけに新しい経済とその経済とシステムは、住民一人ひとりには、「お金も大切だが、本当はそれよりももっと大切なものがある」ということを心から気付かせてくれ、これまでほどには「お金」というものにこだわらなくても暮らして行けるようにさせてもくれるのである。

 こうしてこの「新しい経済」とそのシステムとは、敢えて表現すれば、人類誕生の瞬間から今日までの間に、人類が経験的に学んで来たあらゆる智慧や教訓と、人類が科学を通じて手に入れてきたあらゆるプラスの意味での知識や知見とを総動員して、それを「知性」ではなく「理性」をもって綜合した時に、そこに見えてくるであろう経済でありしくみである、とも言えるのである。

だからそれは、個々の人間を最高度に幸福にするために最高度に発展した、共感と連帯によって成る社会を構築して行ける経済でありシステムでもある、ということになる。

 

 「環境時代の経済」あるいは人間性重視の「新しい経済」のあり方を考え、それを論理的に導き出す上で私が拘ったことはただ次の一点のみである。

 日本だけではなくどこの国の経済も、経済とは本来、世の中を治め人民の苦しみを救うことという意味の「経世済民」という言葉もあるように、ある特定の者をだけを裕福にさせるというものではなく、地域共同体、社会共同体、国家共同体いずれの共同体であれ、そこに集い住む人々のより多数を、人種とか信教、国籍に無関係に、その生命と暮らしを安心できるものに支えるものでなくてはならないとの前提をつねに踏まえること、そしてその役割を永続的に果たせるしくみであること。

そのためには、人間は、誰も、最終的には個人ではあっても、その個人は自分で生きているのではない、多くの人々との関係を維持する中で、支え支えられながら、なおその全体が、人間の知恵や知力ではどうにもならない大いなる自然によって生かされているのだという真理に無条件に従うこと、であった。

 そして、この「環境時代の経済」に奉仕する学問としての「環境時代の経済学」の概念を導き出す上で私が拘ったことは、ただ次のことだった。

 既述の4種の行為と過程と、それによって形成される諸関係からなる総体としての新しい経済をいかにしたらより多くの人々に納得してもらった上で実現させられるか、かつそれを存続させることができるかを理論的に明らかにすることを主眼とする学問となること。

 具体的には、化石資源を力に任せて掘り起こしてはそれを燃焼し使用しつづけて、エントロピーを「人間の存続可能条件」を超えて発生させ続け、人間を生かしている「水・空気・土壌」という本然の自然を壊す行為を継続するのを止めさせて、再生可能資源を使わせてもらうことを前提に、それもいかにして最小限の消費で、最大の幸福———その場合、「人間にとって真の幸福とは何か」も根本から問い直されねばならないが———を得られるか、いかにしてより速やかにその持続可能な暮らしの姿や社会の形態へと移行させうるか、その方法を明らかにすることを主目的とする学問であること、だった。

 そしてそこでは、「熱」を、いつでも、どこでも、最大限有効に使うために最終的に使えなくなるまで使い尽くす、という考え方を経済システム構成上の理論の中でとくに重視していることである。

それは、そうすることが、たとえ再生可能エネルギーを使うにしても、その量を最少にしうることになるし、同時に、エントロピーの発生量を最少にできると同時に、エントロピーを宇宙に捨てる上でも最も理に叶っているからである。

 とにかく強調しておかねばならないことは、その新しい経済は、物質的財貨というよりは共同体での生活を営む人間とその人間の再生産、そしてその人間を土台から支えて生かしてくれる一次財としての水・大気・土壌とあらゆる多様ないのちの再生産を第一義的に重視する経済であるということである。そして人間の生活の基礎をなす二次財としての物質的財貨は、あくまでもその一次財を元に生産されてゆくものであるということを明確に理解すること、である。

 その意味で、この「新しい経済」は、一次財が積極的かつ広範に再生産されて行かねば成り立たない経済であるから、それは、資源をどこか外の世界から持って来て、それを元に製品を作って、あるいは加工して、売って、使ってもらって、捨てられればそれでお終いという一方向の経済ではなく、捨てられた物が生態系において分解され、分解されたそれぞれの質のものが生態系を循環しながら自然をいっそう豊かにしながら資源を再生産して行き、再生産されたそれを人間社会が資源として利用させてもらうという、いわゆる循環経済とならざるをえない。だから、その循環経済に支えられた社会は循環社会となる。そしてそれは自己完結する経済でもある。

 この循環経済は、国にあっても各地域にあっても、ともに、基本的には、計画経済と自由経済とから成り、その両者が調和(「調和」の定義については5.1節を参照)して成り立つ経済でなくてはならない。なぜならそのように、互いに相対立するかのように見える性格を持った経済によって全体をなす経済がもっとも自然の成り立ちに従いながら人間の欲求をも満たす上で合理的と考えられるからである。

 と同時に、それらの経済がそうしたしくみを保ち続けられるためには、その経済は、その経済が行われる地理的範囲の人々が安心して参加できるもの、その人々の信頼を裏切らないものでなくてはならない。そのためには、その経済は、つねに実体あるいは中身の伴うものでなくてはならない。つまりバブル経済を引き起こすようなもの、数字だけが飛び交うようなもの、ギャンブルから成り立っているようなものであってはならないのである。

 ここで言う実体あるいは中身とは、たとえば人間が体を動かして生産活動をすること、他者のためにサービス、すなわち「物質的生産過程以外で機能する労働」(広辞苑第六版)をすること、あるいは実際に物質やエネルギーが移動すること、等をさす。

物が動かずにただ数字だけが飛び交う性質のものは、環境時代にはもはや全く不要となるだけではなく、むしろそのようなものは人心を惑わし、社会を混乱させ、社会を複雑化させるだけでしかない。

そのことは、既述して来た「近代の経済と経済システム」から私たちが教訓として学ばなければならないことなのだ。

 

 では何が計画経済の範疇に入り、何が自由経済の範疇に入るか。

一言で言ってしまえば、前者に入るのは、人間の意思や都合ではどうにもならない過程が支配的となる産業である。それは自然あるいはいのちと直接向き合うことになる産業と言い換えてもいい。農業、林業水産業、畜産業がこれに属する。

 一方、後者の自由経済の範疇に入るのは、人間の意思や判断や手先の訓練結果がかなりの程度介在しうる産業である。それは工業であり、商業であり、サービス業である。

 では、なぜ、人間の意思や都合ではどうにもならない過程が支配的となる産業分野を計画経済にし、人間の意思や判断や手先の訓練結果がかなりの程度介在しうる産業分野を自由経済にと分けるか。

 それは、そうしなくては人間の意思や都合ではどうにもならない過程が支配的となる産業である農業・林業水産業・畜産業は、人間の意思や判断や手先の訓練結果がかなりの程度介在しうる産業である工業・商業・サービス業には、同じ一つの経済システムの社会の中では、そのままでは対等に太刀打ちできず、自立できる訳はないからである。ましてや、もはや過去のものとなったと解釈する大量生産を基礎とする工業・商業・サービス業が主流となるシステムを持った社会ではなおさらのことだし、利益を上げること、それもできるだけ多くの利益を上げることを至上命題とする資本主義経済社会ではなおさらのことだった。

 実はこうした私の確信は、サラリーマン生活に自ら終止符を打ち、思い切って農業生活に飛び込む決意をした主たる動機の一つとなった疑問————「そもそも喰う物をつくっているはずの農業なのに、なぜこの日本ではその農業では喰って行けないのか」という疑問————に対する答を学者も専門家も示して見せないのなら、その疑問に対する答えを自分なりに見つけ出してやろうとして、その後の18年間の農生活と野菜や米の栽培方法を続けてくる中で得た答えを支えているのである。つまり、「社会の経済とそのシステムがこうなれば農業でも食って行けるようになる、それも誇りを持って生きて行けるようになる」と

 なお、従来の経済の定義においてもそうだったし、また新しい経済を先のように定義したときにも同様であるが、そこには、教育分野や医療と看護と介護の分野、そして芸術や芸能等に関する分野は、直接的にはどこにも入っては来ないし関わっても来ない。

 そこで、ではこれらの分野に関わりながら社会を構成している人々は、どのような形で地域連合体の社会に関わるのかということが課題として残ることになる。

しかし、それについては、後述の11.6節にて、「真の公共事業」という範疇の中で考察することにする。

 以上が、決して理論に拠るものではなく、私の実体験に基づく実感から得た結論である。

 なお、こうした考え方の根底には、地球上の人間のだれもが、人間としての権利・尊厳が守られながら、これまで人類が存続できて来たと同じ100万年単位の期間これからも存続できるようにするという狙いがある。それは、それを実現することこそが未来世代にいのちをつなぐ私たち現在人類の義務と責任なのではないか、と私は思うからである。

 ちなみに、これまで、たとえば資本主義経済、社会主義経済、市場原理主義の経済、新自由主義経済等々と、いろいろな表現をされてきた近代の経済を対象とする学問は、どれも、マルクス経済学ですら、既述のとおり、財の捉え方には区別なく、一括して同等に捉え、人間が自然に一方的に従属している関係を無視し、計量できないモノも目に見えないモノも区別せず、したがってまた、それらの価値の区別をも付けずに来た。ただ、交換の場において「値段をつける」という仕方だけで。

 つまりこれまでの経済と経済学は全て、人間を生かしているものが何かという根本を無視してきた経済であり経済学だった。

 しかし、「環境時代の経済」または「新しい経済」では、共同体内の人々は、互いに自分の持っている能力や技能を地域社会の人々のために提供し、地域の人々も互いがもっている能力や技能をより高度にかつ洗練してゆくことができるよう励まし合い評価し合いながら、互いに自己と他者に誠実になり、思いやりや共感を大切にしながら、全的人間として成長して行くのである。

 したがって、その地域社会には、自ずから、人々の間の深い信頼関係が生まれ、連帯の意識や強固な絆が育って行くようになるのである。そしてそれは必然的に、強い郷土愛や強固な愛国心をも育てて行くことにもなる。

 とにかく、今こそ、社会構成員一人ひとりには、勇気を持ってこれまでの発想を転換することが求められているのである。発想の転換、それは、社会を成り立たせている共通の基本的な価値観としてのパラダイムの転換、と言い換えてもいい。

 ではその転換は一体誰から求められているのか。それは、自然環境と未来世代からである。

 いずれにしても、資本主義という経済システムが通用する時代は終わったのだ。というより、その経済システムの存続に固執すればするほど、人間社会の矛盾を激化させてしまうだけではなく、人類の存続可能性をも狭めてしまうことになるのは間違いない。

 ということは、その経済システムが支配的となってきた「近代」という時代も、その歴史的使命を終えたということなのである(第1章)。

 本章の以降でも、このことを念頭に置いて行く。

11.2 経済の新概念———————(その1)

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11.2 経済の新概念———————(その1)

 人々は頻繁に「経済」という言葉を口にする。メディアも、「経済」という言葉を発しない日はない。そしてその場合、例えばこんな風に用いられる。

“経済を発展させねば”、“経済成長が鈍化した”、“経済制裁を加える”、“経済統合が必要だ”、かと思えば、“こうすれば経済的だ”、等々と。

私もこれまで、当たり前のように、あるいは、その意味は不動で確定した概念であるかのように思って「経済」という言葉を用いてきた。

 しかし、現在の世界を見て、その中でその言葉の使われ方に注視すると、その経済なる言葉、あるいはその概念は、統一され、共通に理解されて、確定した概念として用いられているのだろうか、と私などは考えさせられてしまう。

 私は資本主義という言葉と並んで、どうもその経済なる言葉あるいは概念の理解については人によって異なっていて、いまだ統一もされていなければ共通認識にもなり得ていないのではないか、それでいて、誰も、判ったようなつもりになって使っているだけなのではないか、と思えてならないのである———実は日本語というものについての私たち日本人の用い方と理解の仕方にはそういうものがたくさんある。自然という言葉然り。自由という言葉然り———。

 しかしその一方で、奇妙なことに、“お金がなくては生活できない”、“お金が回らなければ経済は成り立たない”、“経済はお金とは切り離せないもの”といった考え方だけは、一人の例外もなく全ての人に共通に、統一的に理解されているのだ。

そしてこのことから、いまや世界中どこの国でも、 “お金を稼がなくては”、“仕事に就かなくては”ということが人々の当たり前の生活感覚となり、強迫観念ともなっているのだ。

 人によっては、“もっともっとお金を稼がなくては”と思ったり、“お金を手っ取り早く儲ける事業をしよう”、と思ったりもする。中には、“他者を騙してでも、あるいは盗んででもお金を手に入れてやろう”、と思う人もいる。そしてさらには、“お金さえあれば何だって買えるし、何だって手に入れられる”、という気持ちを持つ人さえいる。

「拝金主義」あるいは「お金万能主義」とはそのことを言い表した言葉だし、またほとんどの犯罪やトラブルの背後には必ずと言っていいほどに「お金」が絡んでくる。

それは、人間がお金の虜になり、お金に支配されていることでもある。

 それだけではない。既に巨額のお金を手に入れた人々でも、そのお金の有意義な使い途を考えたり、他者の幸福のために用いたりするのではなく、むしろもっと多くのお金を手に入れることのために使おうとする。そのためには、手持ちのお金にものを言わせて特定の政治勢力あるいは政治家と結びつき、社会制度や金融制度を自分たちに都合の良いように変えさせることに躍起になる者すらいる。「政治献金」とは一見聞こえはいいが、実質目的は正にそのためのものだ。だからそれは、本質的に賄賂であることに変わりはない。

 そうなると、「お金」が政治のあり方を歪め、この社会を根底から支えており、今日の世界では普遍的価値とされている「自由」や「民主主義」を脅かすことになる。そしてまた「お金」が社会に不公平や格差を生み、さらにそれを拡大させてしまうことになる。そうなると半ば必然的に人々の倫理観を衰えさせ、社会の秩序を乱すことにもなる。

 実際、「お金」は一面では確かに「便利」ではあるが、実際には人間と社会と自然に対して何をもたらしてきたか、それは7.4節の「お金」のところでも検証してきた通りである。

 

 ところで、私は、自らサラリーマンの生活に見切りをつけ、農業に飛び込んで生活をして見ると同時に、社会の様々な歪みとその原因について考えて見ると、どうしても次のようなことを考えないではいられなくなったのである。

それは、人が人間として生きてゆく上で、本当に「お金」はなくてはならないものなのか、本当に経済という概念は「お金」とは切り離せずに、一体不可分の関係にあるものなのか、ということである。

農業生活をしていると、米や野菜を栽培していれば、その範囲では、喰うことにお金は要らない。

とは言え、その他の喰い物、たとえば肉類、魚類、海草類、塩、食用油は、自給できないので、現状では、我が家では、お金を出して買わねばならない。

それに現状、各種類の税金や水道料金といういわゆる「公共」料金を支払うためにもお金が要る。その場合はとくに「現金」が不可欠である。そして電気代やガス代の支払いにも現金が要るのである。

 その意味では、やはり農業をしていても、我が家では、少なくとも今様の経済システムの中では「お金」は不可欠である。否、それは我が家に限らないであろう。

 なおここで、私が、公共料金と電気代やガス代を区別して表現したのは、日本では、電気代やガス代も普通、公共料金の中に含められて呼ばれているが、私はそれは正しくないと考えるからだ。それは電気やガスを供給しているのは利益第一主義とする私企業であるからだ。私企業には「公共」という概念は当てはまらないからだ。

 

 そこで、本節の以後は、「人が人間として生きてゆく上で、本当にお金はなくてはならないものなのか、本当に経済という概念はお金とは切り離せずに、一体不可分の関係にあるものなのか」、という先の問いの答えを明確につかむために、その経済という概念について、根本から考えてみようと思う。

もちろんここで言う経済とは、あくまでも、いわゆる「近代」の経済のことである。

 その辞書的な意味を尋ねると、こう説明されている(広辞苑第六版)。

 「人間の共同生活の基礎をなす財・サービスの生産・分配・消費の行為・過程、ならびにそれを通して形成される人と人との社会関係の総体」。

そして、これから転じた意味として、「金銭のやりくり」とも説明されている。

 先ずこの定義を注意深く読むと気づかされるのであるが、この定義の主要部には「お金」あるいは「貨幣」の存在はあからさまな形では現れてはいないということである。

また「人と人との社会関係の総体」と表現されてはいるが、ではその人と人との関係のあり方はどうあるべきかとか、そこで言う「人」とはどのような人か、人であればどんな人でもいいのかということについても何ら言及していないということである。

 

 では、これが近代の経済の定義であるとすれば、その経済を学問的に支えた近代の経済学とは、基本的にどのような特徴を持って来ただろうか。

それを私なりに整理してみると、概略、つぎのようになるように思われる。

⑴ 経済という概念と、それを学問的に扱う経済学が主な対象として来たのは「財とサービス」のみである、ということだ。

 ここに、「財」とは、辞書的には、人間の物質的・精神的生活にとって、何らかの効用があるもの。「サービス」とは、「物質的生産過程以外で機能する労働。用役。用務」のことである(広辞苑第六版)。

 ではその抽象的に説明される財をもっと突き詰めればどう説明できるか。

それを説明するために、次の事実を押さえておく。

 それは、少し考えただけでも判るように、財には質的に大きく異った二種類のものがある、ということだ。第一次財、第二次財とでも言うべきものである(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫 p.58)。

 具体的には、人間が自然から採取してこなくてはならない一次財とでも言うべき財と、そのようにして採取してきた財を加工してつくる二次財とでも言うべき財とである。

 第一次財には、人類が誕生する以前からあったものとしての、たとえば、水、空気、土壌、あるいは石油や天然ガス、シェール・ガス、シェール・オイル、ウラン、そして動物や植物、また微生物や菌類を含めた多様な他生命がある。

これらの中には、現在は、少量ならば、人間の手で何とかそれに近いものとしてつくり出せるものもあるが、それは近代の経済学が言うところの「コスト」がかかり過ぎて、それを考える意味はない。したがって、それがなくなればあるいは消滅すればお終いという質(たち)のものである。

一方、第二次財とは、第一次財を基に人間がつくり出した財、あるいはつくり出せる財のことである。

このことから判るように、第一次財と第二次財との間には、本質的な差異があるのである。

そしてその二次財の中身は、大きくは工業製品・農業製品とサービスとに分けられる。

 しかしながら従来の経済と経済学は、その差異を無視し、すべての財には同じ規則と同じ基準を適用して、同じ扱いをしてきたのである。

とくに市場経済の下では、人間や社会や自然にとってきわめて重要な質的区別というものは一切認めないで、一切のものの価値が値段の高低、つまり価格だけで表現されその意味で、一切のものは同等と見なさるようになってきた。

こうして市場に出たものはすべて「売り物」として扱われ、値段が付けられ、質的差異は無視されたまま、その値段の大きさだけでそのモノの価値の大小が計られて来たのである————実際には、例えば、物の価格は需要と供給によって決まってしまう場合もあることを考えると、そのことだけからも、価格と価値は必ずしも一致しない、というより、異なる方が普通であるということが理解されるのであるが————。

つまり、質的区別が表面に現れることは許されなかったのだ。だから当然のことながら、市場経済の下では、生命の神聖さなど尊重されるはずもなかった。値段の付くものに神聖さはありえないからである。

 とにかく、従来の経済と経済学は、市場価値と私的利潤だけにしか関心がなかった。

⑵ さらに先の経済の定義を注意深く読むと判るように、近代の経済では、人間は自然の一部であると同時にその自然によって生かされている存在でもあるということも、したがって、人間は自分で生きているのではなく、実は自然によって生かされているのだという真理も全く考慮されて来ることはなかった、ということである。

 それは言い換えれば、従来の経済と経済学は、人間を生物としてのヒトとして直接に、そして本当の意味で生かしているのは、「財やサービスではない」し、「財やサービスの生産・分配・消費の行為・過程、ならびにそれを通して形成される人と人との社会関係の総体」でもなく、一次財としての「水と空気と土壌」なのだという認識も持っては来なかった、ということだ。

 そしてそのことは、これまでの経済と経済学は、一次財としての「水と空気と土壌」を「コスト」として含んでは来なかった、ということに現れているのである。

⑶ こうして近代の経済と経済学は、扱うものが質的区別をしない財一般とサービスだけでしかなく、しかもその経済の定義からも明らかなように、関心があるのは生産と分配と消費だけであった、といことだ。

つまり、製品を作るに当たって、これまでの経済も経済学も、どのような質の財を用いるべきか、誰のために、どのように、何のために生産されるべきか、また使われ終った物は、どこに、どのようにして廃棄されるべきか、ということには全く関心がなかったのである。

 だから、いわゆる「3R=reduce(減らす)、recycle(再生、再利用する)、reuse(再利用、再生する)」などという言葉が生まれても、それらは、近代の経済の概念と経済学の立場からすれば、それは決して経済のあり方の根本を左右するような概念となり得るはずもなく、言ってみれば、“いかにも環境を配慮しています”という姿を見せるためのゼスチャーに過ぎなかったのだ。

 こうして、近代の経済と経済学は、商品として生産した物を「売ること」あるいはその物が「売れること」だけが主たる関心事となり、そのことだけを「経済」活動の唯一の目的として来た。だから、売ってしまえば、あるいは売れれば、そこで目的を達したことになるので、そこで「お終い」あるいは「一段落」としてきた。

その後のことは一切関知してこなかった。売ったモノがどういう消費のされ方をし、最終的にどこにどういう仕方で廃棄された(る)かについても、そしてそれによって環境あるいは生態系がどうなって、当初生産のために用いた一次財はきちんと、あるいは確かに再生産されたのかされなかったのかということについても、全く関心を持たなかった。

 それだけに、土地とか労働とか資本についても、そして人間自体すらも、「売る」ための目的物を生産するための手段としてしか見てこなかった———そのことについては、とくにこの国では、文部省・文科省の学校教育内容も決定的な役割を果たしてきた。

一人ひとりを一個の人格と個性を持った人間として育てるのではなく、その生産現場と分配過程、流通過程で雇い主の指示に対して批判的あるいは反抗的になるのではなく、とにかく従順に働き、その上、いつでも安く取っ替えることのできる人間を育てることこそを主たる教育目的としてきたのだからである———。

 だから、近代の経済と経済学の観点からは、仕事あるいは労働というものは、雇い主あるいは経営者の観点からすれば所詮1つのコストでしかなく、働く人から見れば、それは、家庭というものを犠牲にし、余暇や楽しみに打ち興じながら、ただ生活のための金を得る手段でしかなかった。その労働を通じて、自身を人間的に磨き、他者や社会に貢献しながら高まってゆき、人間として豊かで充実した暮らしをするかなどということには、ほとんど関心を寄せることはなかった。また、そのための時間的、精神的余裕も与えられなかった。

むしろ経済と経済学では、生産者の側からは、生産現場にてどれほど効率よく生産できたか、あるいは経営者の側からは、モノを市場でより多く「売って」どれだけ「利益」を上げたか、ということだけが常に最優先課題であり主要目的となった。

 だから、そこから、経済の概念が、いつしか「金銭のやりくり」、「金銭のやり取り」という概念をも派生させたことは必然でもあった。

⑷ 近代の経済と経済学は、重商主義の時代であった当初、経済活動に対して王権に拠りあの手この手をもって介入するのはよくないことだとし、むしろ人間が本来持っているはずの共感する能力を信じ、道徳的でもあるはずの人間たちの活動に任せればお金も自然に回り、あたかも「見えざる手」が働いているかのように、経済は全体がうまく回る、としてきた。それは、「共感を持っている人間たちの活動によってこそ経済は成り立ち、共感を持っている人間の労働に拠ってこそ、商品に価値が生まれる。そして、共感を持っている人間だからこそ、労働によって生み出された商品の価値を理解することができる」という根拠に基づくものだった(浜矩子別冊NHK100分de名著「『幸せ』について考えよう」の中の「アダム・スミス国富論』」)。

 ところがこれがいつのまにか、経済活動は市場に任せるのが一番だ、経済に道徳は無用だと曲解する市場原理を至上とする考え方に取って代わられた。曲解から生まれたその考え方は資本家や経営者にとっては好都合であったため、その後はそれがどんどん広がり、巨額のカネを持つ人々の金力に拠って民主主義政治そのものが世界的に歪められる中、金融制度が大規模に緩和され、資本が難なく、それも猛スピードで国境を越えることができるようにさえなった。その結果、今やその市場経済に立脚する資本主義経済は、ますます博打化が進み、暴走するそのグローバル資本によって、自らのその資本主義経済体制をも制御することさえできなくなってしまっているのである。

⑸ なおこうした考え方の延長上で、経済の成長の度合いを測ることのできる概念として考え出されたのがGDP(国内総生産)であり、GNP(国民総生産)であった。

 

 以上が、近代の経済を学問的に支えて来た経済学の基本的な特徴だと、私には考えられる。

しかし、見てきたように、その特徴には、後々深刻な問題を生むであろうと考えられる多くの矛盾が見られる。

 実際、その経済学に支えられた経済が科学を発展させ、その科学に基づいて技術をも発展させながらつくって来た代表的産物を検証して見ただけでも、それらの物は、自然に対しても、人間の集団である社会に対しても、そして人間個々人に対しても、いずれも例外なく、重大で深刻な問題を引き起こしているのである。それは7.4節にてすでに明らかにして来た通りである。

 それは、誤解を恐れずに、大胆に一言で言ってしまえば、自然を破壊し、社会を崩壊させ、人間を疎外するだけの物でしかなかったのだ。

 

 こうしてみると、せめて私たち日本国民は、もうそろそろ、ここで少し立ち止まって、真剣につぎのことをじっくりと、各自が自分に問うて考えてみる必要があるのではないだろうか。

———— 人間が生きて行く道、生きて行ける道は本当に「お金」というものを土台にした資本主義しかないのか、「もっと別の道」があるのではないか、と。

その資本主義は確かに物量は豊富にしてはくれたかも知れないが、それで本当に人間の心は、精神は、豊かになり、心に平安を覚え、他者にやさしくなり、しみじみとした幸せを実感できるようになったのか、そして社会もそれを感じられる社会になったのか、と。

本当にお金がなければ何もできないのか、お金がなければ生きてはいかれないのか、と。

本当に雇用を増やさなくては、人々は生きては行けないのか、と。

経済は発展させ続けなくてはならないというのは本当なのか、と。

そして、ではそこで言う「経済」とは一体何なのか、と。

これからも化石資源に頼らねば、社会は、人間は、生活できないのか、と。

そもそも人間が人間として生きるとはどういうことなのか、人間は何のために生きるのか、と。そして人間にとって豊かさや幸せ、それも「真の豊かさ」、「真の幸せ」とは一体どういうことなのか、と。

そして、上記のさまざまな問いに答えることについては誰かに任せておいていいのか、と。

また上記のさまざまな問いに応えられる生き方のできる社会や制度を持った社会を構想し、構築しなくていいのか、と。

またそれを発想できたとした時、その社会の建設については、やはりこれまでのように誰かが、何とかしてくれるだろうと考えていればそれでいいのか、と。

・・・・・・。

 いずれにしても、「働き口や仕事があること」、「雇用が確保されていること」、「お金があること」が何より重要と無意識に考えてしまうのは、貨幣経済社会にどっぷりと浸かってしまい、その社会を何の疑いも差し挟まずに当然とし、貨幣経済社会以外は考えられないと思い込んでしまっているからなのではないだろうか。

そして「経済は発展させ続けなくてはならない」と考えてしまうのも、利益を絶えず生み続け、資本を増殖させ続けなくては存続できない宿命を持つ資本主義体制という経済社会を無意識に前提としてしまっているからなのではないか。

 しかし、人は誰も、「働き口や仕事があること」、「雇用が確保されていること」、「お金があること」は生きる上での手段ではあっても目的であるはずはない。むしろ誰にとってもつねに、そして本当に重要なことは、仕事があるとかお金があるということよりも、それも単に生物としてのヒトとしてではなく「社会の中に一個の人間として生きられること」なのではないか。

 もう少し詳しく言うと、「互いに自分の生き方に肯定的に確信を持てて、多様な考え方や価値観を持って生きる他者を互いに認め合い尊重し合いながら、社会の中で責任の自覚に裏付けられた自由の意識の下に、自分にも他者にも誠実で、かつ互いに他者への共感の情を深め合い、信頼を深め合いながら、贅沢をするわけではなく、むしろ質素を心掛けながら、心安らかに、楽しく生きてゆかれること、そしてそのことが社会を構成する誰にも保障されていること」こそが大切なのではないか。

 決して「お金があること」、「産業や企業が発展すること」が先ず先にあるのではないはずだ。「雇用が確保されていることが必要」云々は、あくまでも現在の、既述のような、本質的な矛盾を抱え込んだ経済と経済システムの存続を前提にしての、あるいはそれによる強迫観念に取り憑かれた結果でしかなく、目先だけを見ての対応に過ぎないのだ。

 そうでなくとも私たち人類は、今、その歴史始まって以来最大の、いずれも人類の存続の可否を決定する三つの脅威に直面しているのである。その1つが、これまで随所で言及して来た地球温暖化とそれに伴って生じているとされる気候変動という脅威であり、1つが、生物種の多様性の消滅という脅威であり、もう1つが核戦争という脅威である。

 第1については、瞬時にという程ではないが、今のまま放置していたなら、国によって時間差はあれど、早晩、全人類はほぼ確実に滅ぶだろうことを意味する。

第2については、人はそれを温暖化ほど体には感じないし、目にも見えないから気付きにくいだろうが、殺虫剤や除草剤そして乱「開発」行為等によって、今、恐竜が消滅したときの速度よりも早く生物種が絶滅に追いやられている。「喰って喰われて」という関係でつながっている食物循環の環のどこかに穴があけば、それまでそれを喰って生きて来た生物も生きられなくなる。そうなれば、ドミノ倒し的に、生物種は消滅して行くことになる。それだけにその現象は、一度どこかで生じれば、その現象の伝搬は急速であり、温暖化の効果よりも早くなるのではないか。どっちみち、人間の消滅だ。

 第3については、どういう形であれ、ひとたびどこかでたとえ偶発的にであれ故意にであれ起ったなら、それは部分核戦争には留まらずに全面核戦争へと必ず発展し、その結果、人類は、この場合にはほぼ瞬時に全滅に近い状態になる。ここには勝者などいないのだ。

 「核抑止論」などというものがあるが、そのようなものは理論的にも成り立たないことは既に明らかにされているし(豊田利幸「核戦略批判」および「新・核戦略批判」 共に岩波新書)、実際、役には立たないことをキューバ危機は実証したのである。

 幸い、当時の米ソのリーダー(ケネディフルシチョフ)とその周辺の関係者の必死の努力と勇気と冷静な判断力により回避でき、そのお陰でいま、私たち人類は存続できているのである。

 もう少し具体的に言うと瀬戸際ではこういう状況だった。

その日は、1962年10月27日にやってきた。

ソ連の船舶を警護する4隻の潜水艦がアメリカの海上封鎖線に近づいたとき、それを空から追跡していたアメリカ空軍機が潜水艦を威嚇するために爆雷を投下した。それらの潜水艦が核魚雷を搭載していたとも知らずにである。4隻のうちの一隻の潜水艦は爆雷に因る衝撃で激震を受け、艦内の照明は消えた。室温は急上昇し、二酸化炭素濃度は致死レベルに上がり、乗組員はバタバタと倒れて行った。4時間後、手負いの潜水艦が再び攻撃に曝される。

最期を悟った乗組み員にはパニックが広がった。通信が途絶えた中で、モスクワに照会せずに核魚雷を発射する権限が与えられていた艦長は既に戦争が始まったのだと判断。このまま何もしないで死ぬわけにはいかない。艦長は核魚雷の発射準備を命じ、二人の将校に意見を求めた。

このとき、ソ連海軍の政治将校でもあった副長ヴァシリー・アルヒーポフは発射を中止するよう艦長を説得したのだ(BS世界のドキュメンタリーオリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史」第6回)あるいは(映像の世紀プレミアム(17)「人類の危機」NHK BSプレミアム2020年9月19日)————。

 この副長の判断が核戦争を土壇場でくい止めたのである。彼の説得がなかったなら、今、私たち人類は多分いないのではないか。

 「核拡散防止条約」は結ばれても、今やそれ自体、実質的に効力を失い、核兵器は米国、ロシア、中国、イギリス、フランスから、パキスタン、インド、イスラエル、そして今、北朝鮮へと拡散してしまっている。

しかも、米ソ冷戦が終結して後も、既述したように(第1章)、かえって世界の秩序は乱れ、その背後にはいつも米ロが控えているような状態の中では、また新たな冷戦とも言える米中の対立が激化する中では、紛争は絶えるどころかかえって多発している。

実際、このほど米ロ間で結ばれて来たINF(中距離核戦略)全廃条約も失効した。

 そんな中、特定の国家間での緊張が極度に高まってくると、何が引き金になって戦争状態に入ってしまうか判らない。とくに核保有国の間では、デマ1つで、あるいは誤報1つで、あるいは故意にではなくとも些細な偶然が重なり合うだけで戦争になってしまうかもしれない。キューバ危機が正にそうだったからだ。

 このように、今、世界には核戦争の脅威がキューバ危機のときよりも格段に高まっているのである(BS1スペシャル「ペリーの道〜元米国国防長官の警告〜」2018年3月2日NHKBS1)。

 そのようなとき、どんなにあらゆる安全機能を備えたシステムを持っていると思っている国であっても、人間の偶発的ミスや誤算あるいは事故には脆弱なのだ。さらには狂気あるいは誤解によってもいつ戦争になってしまわないとも限らない。そしてたとえ偶発的であるにせよ、一旦、核弾頭や核ミサイルが発射されてしまったなら、そのときはもう国家の指導者の力だけでは止められなくなってしまうのである。むしろその時には、国家の指導者は、いかにして全面核戦争を防ぐかではなく、ただ自国の威信が保たれることだけを考えてしまうかも知れない。

 こうした事実を考えてみても、「核抑止論」も「核拡散防止条約」も人類の存続を可能とさせる上では、実質的にはほとんど効力はないのだ。

 振り返ってみれば、核戦争とまでは行かなくても、通常兵器による戦争であっても、戦争というのは、そのほとんどが領土や資源の争奪を巡って、国境を越えて起って来た。

そしてその背景には、ほとんどの場合、双方の間には経済体制の違いとそれを成り立たせている政治に対する思想(イデオロギー)の違いや権力基盤の相違があった。

 しかしここでもっと根本を辿ってみると、米ソ冷戦、そしてキューバ危機についても、経済体制とイデオロギーを異にする米ソ間ではあったが、しかしその両国の経済についてみれば、既述の特徴を持つ「近代の経済」という観点ではまったく同じ視点に立っていたのである。

 このことからも、今を生きる私たちは、教訓として次の結論に行き着くのである。

もはや資本主義を超える新しい経済、近代経済学を超える新しい経済学が必要となる、と。

 とにかくこれまでは、経済体制とイデオロギーの違う国同士の間で、それもとくに双方の政府の間で、互いに相手に自分たちが支配されることへの恐怖を生み、恐怖が過剰反応を生み、それが止めどない軍拡競争を生んで来てしまったのだ。

 しかし、これからは双方が「近代の経済」の観念を止揚できるようになれば、領土と資源を争奪し合うことはもはや無意味と理解されるようになるだろう。実際のところ、もはや国際非難を浴びながら侵略戦争を起こし、他国の領土や資源を略奪したところで、その国の得になるような時代ではない。またイデオロギーの違いや宗教の違いを理由に国家間で対立抗争しては難民を増やし、第三国に迷惑をかけていられる時代でもない。

そうではなく、人間がどう逆立ちしたところでどうにもならない絶対の真理、人間の損得勘定を超えて、あるいは好むと好まざるとに拘らず認めて受け入れなくては人類として生きては行けなくなる絶対の真理を世界各国が共通の主導原理とすることができるようになれば、侵略することもされることもなくなり、相手国に対して恐怖を抱くこともなくなるのではないか。

そうなれば、もはや核を用いた全面破壊戦争はもちろん、通常兵器を用いた戦争すらも、それを起こすことそのものをも無意味化しうるのではないか。

 そうなると「国防」とか「国の安全保障」いう概念そのものも、従来とは根本から変化せざるを得なくなるのである。

 それは必然的に「国防費」をも大きく減少させ、税金の使途についてはこれまでとはまったく違った用途、たとえば最新兵器の購入や軍隊の維持にではなく、国土の真の活性化、教育、福祉、文化へと振り向けられるようになるのである。

 つまり本書が提言する「新しい経済」へとそれぞれの国が転換するようにすれば、地球温暖化と気候変動を緩和させるだけではなく、さらには解消させて行くことにつながる。同時に、核戦争どころか国境を越えて他国を侵略する戦争を起こすことさえ無意味化させてしまうことになるのである。

 とにかくここで私たちは、誰も、次のことを思い起こさねばならない。

今の社会はどんなに貨幣経済の社会だとは言っても、そしてお金は万能だとしてどんなにお金を、それもより多くのお金を手に入れることに努力しても、喰う物がなくなったなら、あるいは喰うことが出来なくなったなら、あるいは喰う物をつくることのできる自然環境や条件を失ってしまったなら、軍事力や軍事同盟による国家の安全保障をどんなに高めたところで、それ以前に、生物としての私たちヒトは絶対に生きては行かれなくなるという真理を、である。

 つまり、家庭を犠牲にし、子どもを、とくに幼い時に愛情深く育てることをあきらめて、どんなに肉体と精神を酷使して働いてお金を貯えたとしても、健康を失ってしまえば、思うように動くことさえ出来ない体になってしまうだけではなく、当人は誰よりも辛い思いにさせられる。そんな時、人は、どんなに高額の生命保険に入っていようとも、「お金よりやっぱり健康だ」ということを嫌が上にも思い知らされるようになるのではないか。そしてそのとき、同時に、「カネさえあれば」という考え方や価値観がどれほど脆く空しいものであったかを思い知らされるのではないか。

 この絶対の真理を私たちは決して軽視してはならない。むしろこの真理の上に立って、一人ひとりは、そして世界も、これからの経済のあり方を考え直すべきなのだ。

11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済————「その3」

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11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済—「その3」

 なお、本節を閉じるに当たり、最後に、これまでのおよそ2、30年間の世界の資本主義経済の主要な流れと、その結果としての現在の世界の経済の状況について、専門家たちはそれをどう観ているかを概観しておこうと思う。

以下は、NHK BS1スペシャル「欲望の資本主義2017 ルールが変わるとき」(2017年1月3日)の要点である。

 ここに登場する識者は以下の8名である。

「ジョセフ・スティグリッツ(2001年ノーベル経済学賞授賞経済学者)、「アルヴィン・ロス(2012年ノーベル経済学賞授賞経済学者)」、「ルチル・シャルマ(モルガンスタンレー投資ストラテジスト)」、「エマニュエル・トッド(歴史人口学者)」、「トマス・セドラチェック(チェコ総合銀行チーフエコノミスト)」、「安永竜夫(三井物産代表取締役社長)」、「原丈人(デフタパートナーズグループ会長)」、「小林喜光(三菱ケミカルホールディングス取締役会長)」。

 太古から人は所有と交換を繰り返して来た。そしてあるとき、お金が生まれ、市場が生まれ、欲望の交換は貨幣なるものに託された。

 資本主義、それはお金・資本を際限なく投じ、増殖を求めるシステムのこと。

プロテスタントの禁欲の精神が人々に富の蓄積をもたらしたことで広まったその資本主義は、いつの間にか“成長が絶対必要条件”と考えられるようになり、いつしか、“経済は成長し続けるものである”ということが当然のように見なされるようになっていた。

 それが、2008年、リーマン・ブラザーズの金融破綻を契機に、世界はどこの地域も、「成長」は止まったかのように思われている。少なくともその金融破綻を起こす前のペースではなくなった。そんな中、“もう投資も成長も見込めない”と言う人もいる。

 その経済の低成長については、“世界は今、どこの国でも、総需要が減少しているからだ”、と世界の著名な経済学者やエコノミストは言う。

 一方、別の識者は、“今、世界が需要低下に陥っているのは、グローバル化による自由貿易が各国の経済を押し潰し、人々の収入の低下をもたらしたからだ”、とも言う。

 ところでそこで言う「成長」とは一体どういうことなのか、何を意味するのかは、経済学者やエコノミストはこれまで誰も明らかにしてこなかった。

 そんな中、“成長よりも安定が大事だ”、と言う経済学者も出て来ている。

それに、“もはやGDP国内総生産)で経済力を測ったり、その数値の伸びで経済の「成長」を測ったりすることは無意味だ。そのGDPには環境汚染も資源乱用を考慮に入れていないし、富の分配も、社会の持続性も考慮されてはおらず、問題だらけだからだ。むしろGDPは、もはやGross Debt(負債、ツケ)Puroductでもあるのだ”、とも言う経済学者もいる。

 これからはさらにテクノロジーが進歩し、ロボット化がもっと進むだろうから、雇用は奪われ、社会の失業率が30〜40%にもなる日が来るだろう。そこへ、人工知能がさらに高度に発達すれば、人間の働く領域は限られてゆき、その結果、総体として人間の仕事は減り、失業者がさらに増え、長い眼で見れば、賃金も下がり続けてゆくだろう、とも言う。それは、資本主義は、人間の労働を基本としたシステムから高度に自動化されたシステムへと移行してゆくだろうからだ、というのが理由らしい。その一方で、“二人に一人が働くだけの社会となったら、その時は、社会主義とはなってはいないだろうが、判らない。今とは別の社会システムが必要となる。その場合、ものの見方を変えたら、新しい景色が見えるんじゃないかな”、とも言う。

 消費への欲望を満たすために、あるいは要らない物を買うために、ときに、したくもない仕事に就いていることもある。しかしそれは生きるための消費では無い。

そんな果てしない欲望を技術がさらに駆り立てる。まだまだ繁栄できるし、新たなイノベーションを生み出せるはずだ、と。

しかしその一方で、マクロ経済学の統計から見ても生産性の上昇は認められていないのだ、と。だから、テクノロジーやインフラや教育にもっと投資しなくてはいけない。そしてそれは政府が政策としてすることだ、と言う。

 しかし、その一方で、“人はどんなに働いたところで、欲望を満たすだけのものは作れないし、手にも入れられないのだ”、とも言う。

 ところで、「利子」とは謎だ。それは、未来の利潤のために人を休むことなく働かせる。金は時を超えて増え、時が金を生む。元々、物と物の、あるいは欲望の交換のための手段だった貨幣は、今やそれを貯めることが自己目的化してもいる。それは、お金があれば何でも買えると思っているからだ。あるいはイザというときの防衛のためだ。

 資本主義の推進力は需要と供給が刺激し合う市場だ。そしてその資本主義は科学と技術を両輪として進む。市場では、需要と供給が一致することで価格が決まるが、その価格は人々の間の同意の結果だ。そして価値は人々の「欲望」と「満足感」が交わるところに宿るのだ。だから欲望は幻想なのだ、と。

 歴史上、経済学者は、“市場には各人の「自己利益の追求」(インセンティブ)が「見えざる手」に拠って調節される機能があるから、バブルなんか心配するな”、と人々にけしかけてきた。

 実際、歴史は、技術革新が行われる度に、バブルを経験して来た。

 また、アメリカが30年ほど前に創り、牽引して来たグローバル化の波は、経済の発展ステージの異なる世界の人々に、時空を超えて、闘いを強いてきた。しかもその波では、アメリカ、とくにウオール街は、ますます不平等を生むようなルールに書き換えたのだ。つまりウオール・ストリートの人間による、目先のことだけに人々が夢中になってしまうようなルールの変更だ。そしてその結果、市場経済の効率性が下がり、生産性の下落を招いただけでなく、世界には猛烈な格差社会を生んだ。それは私たちの市場経済が招いた決定的な変化の一つだ。

 だから、今再びルールを書き換えなくてはいけない。これからのルールは、繁栄を分かち合い、より成長し、より公平な分配を促すものでなくてはいけない。

 金融危機以降の今、反グローバル化、反エスタブリッシュメント(反支配層)の動きが起こっている。それは、「社会の信頼」を守るには人の欲望に限度を設けるべきだという主張に基づく動きだが、それは資本主義のルールをもう一度書き換えるべきだ、という主張と重なるものだ。

 “それにしても「経済学の父」アダム・スミスは、一方で利己主義である「自己利益の追求」こそが社会を調整すると言い、他方ではこれとはまったく反対に、人間の「共感」が社会を結びつけると言う。これには混乱させられる”、と。

 一方、ケインズは、“社会にとって最も怖れるべきは「失業者の増大」だ”と強調し、“失業者を減らすためには、国家は借金をしてでも仕事を創らなくてはダメだ。そして「お金」という血液を市場に巡らせることだ”、と主張する。

しかし今、世界の多くは、そのケインズの理論を悪用し、「経済成長」のためという口実の下で、金融危機とは無関係に借金しまくっては、その総額を増やし続けている。

 この世界は、人の欲望でつながっている。

 資本主義はどこへ向うのか? 世界経済はどうなってゆくのか?

未来は絶対予測できない、不可知だ、不確実だ。

しかし、どっちにせよ、既存の理論や支配層が崩壊しつつある今、天動説から地動説へのパラダイム・シフトのようなものが私たち人類には求められているのかも知れない。今の世界は、今まで信じていたものがもはや信じられなくなった世界なのだから、とも言う。

 しかし、そうは言っても、これからの経済のあり方、またそのための理論は、今のところ見出せていない、と言う————。

 

 以上がここ2、30年間の資本主義経済の世界の流れについての世界的著名な経済学者・エコノミストそして識者たちの主たる見解である。

 私はその中で二つの表現が気になった。

1つは、“もう、人は後戻りできない”、というもの。

もう1つは、“不確実とリスク(危険)は違う。それを混同したなら、それこそ危険が待っている”、という表現だ。

 前者について。

 たしかに《エントロピー発生の原理》によればそのとおりだ。

それに、過ぎ去った時間は取り戻せないし、タイムスリップすることもどうやったってできない。そういう意味では、もう後戻りはできないというのは真理である。

しかし私は、そうした真理を踏まえた上でなお、次の理由と根拠に基づいて、後戻りすべきこと、取り返すべきことはあるし、またそうすべきであろうし、またそれはできるとも考えるのである。それは私たちは人間なのだからだ。自然界のことはともかく、人間社会のことは人間が作ったものなのだから、それは人間の力でできるはず、と考えるからである。

 その理由と根拠とは、かつて、ある場所の、ある人々が考え出した知恵と、その知恵に基づいて文化となったもののうち、特に人間として、またその集団である社会として大切なモノやコトは、たとえどんなに時間が経っても、それは掛け替えのない智慧の結晶であると判断されたなら、やはり失ったり失われたりしてはならないものなのではないか、と私は思うからだ。

 要するに、モノやコトには、失ってもさほど問題の起こらないものもあれば、一度失われたなら、二度と取り返しのつかないものもあるはずだからだ。

“埋もれた歴史や文化に光を当てる”とは、そういうことを言うのではないか。

そしてそのときも、これまでに人類が見出し蓄えて来た科学的な知識や文化的な智慧を総動員しながら、取り戻すことのできるコトやモノに光を当てることによって、単に取り戻すだけではなく、それらを今日的な意味で最高度に洗練させ直した形で花開かせることだってできるようになるのではないか。

 登山でもそう、戦争でもそうである。“このまま突き進んだら危険だ、破滅だ”と何らかの客観的な根拠や兆候に基づいて感じたなら、そのときには、ともかく一旦立ち止まってこのまま行くべきか否かを大至急再検討し、その結果、やはり危ないとなれば思い切って引き返そうとするのが真の勇気だろうし、そう判断させるのが真の智慧なのであろう。そしてそう決断させるのは、結局はその人の、家族への、郷土への、国への、人類への真の愛に基づく理性であり、私たち人間は、生きているのではなく自然によって生かされているのだという自然への感謝の心なのではないか。

 そしてその真の愛に基づく理性と自然への感謝の心がいま、最も求められている方向が、社会における「経済」あるいは「経済システム」のあり方に対してではないか、と私は思うのである。

 では、後者について。

経済学者たちは、“不確実とリスク(危険)は違う。リスクはある程度計算できるが不確実性はそれができない。その相互の区別は明確にすべきだ。それを混同したなら、それこそ危険が待っている”、と言う。

 私もそこまではそのとおりだと考える。そして「それを混同し危険が待っている状態」こそがクライシス(危機)なのだ、と思う。

 しかし彼らの発想はそこで止まっている。

私は、「計算できない不確実性」ではあっても、それを私たち人類に乗り越えさせてくれるものや手段はあると考える。それは原理と歴史だ。

 つまり、自然や社会を貫きながらそれらを成り立たせている、人智・人力を超えた理であり掟であり法則としての原理(4.1節)と、人間が辿って来た証としての歴史を道しるべにすることこそが、その不確実性を乗り越えさせてくれる唯一の道ではないか、と私は考えるのである。

もちろんその道には、人間の欲望や都合あるいは恣意など入り込める余地はまったくない。だからこそ“確実”なのだ。

その原理とは、本書で言う《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》であり、それこそが私がこれからの環境時代と呼ぶべき「不確実」な時代の指導原理としているものである。

 いずれにしても私は、人類は「お金」を生み出した瞬間、いわば「ボタンの掛け違い」をして歴史を歩み始めたのだと思う。そして市場経済が中核をなす資本主義経済社会の中では、たとえルールを再びどのように書き換えたとしても、その本質上、たとえばノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツ教授の言うような「繁栄を分かち合い、より成長し、より公平な分配を促す」ような資本主義経済には決してなり得ないとも思う。

 そこで以下では、こうした問題意識、問題提起を踏まえながら、そして私の場合、既述のとおり(第1章)、「近代」は終り、資本主義も同時に既に終っているという認識と前提の下で、これからの経済のあり方とそのシステムを具体的に考えてみようと思う。

11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済————「その2」

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11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済—「その2」

 ところで、経済関係の専門家はよく、仕事が生み出されて雇用が創出されるためには「経済を刺激し、活性化させる必要がある」とは言うが、そもそも「経済を活性化させる」、あるいは「経済を成長させる」とはいったいどういうことなのだろう(4.1節の「経済成長」の定義参照)。

 これまでどこの国も、経済成長の度合いを測るのにGDP国内総生産)という指標を用いて来た。しかしこれは不適切な指標であると私も思う。なぜなら、そのGDPには、環境を汚染する人間の経済活動も含まれてしまっているし、資源を乱用する行為も含まれてしまっている。またそこには富の公正な分配ということも社会の持続性ということも考慮しない経済活動も含まれてしまっているからである(ジョセフ・スティグリッツ「欲望の経済史〜ルールが変わるとき」BS1スペシャNHK BS1 2018年4月8日?!)。

 つまりGDPは、経済行動の正の面も負の面も区別なく組み込まれてしまっている指標だからだ。

ところが、どの国も、そんな性質を持つ指標の数値を上げること、それも果てしなく上げ続けることに拘っているのである。それがその国の経済が活性化していること、あるいは経済が成長していることの証なのだから、として。

 しかし、たとえDGPをもってその国の経済の発展度合いを示す指標であるとしても、果たして「経済を果てしなく成長させる」ことなどできることなのであろうか。

それは明らかに不可能だ。それは次の真理を考えただけで容易に、確信を持って答えられる。

1つは、経済を成長させるには、そのための資源が要る。鉱物資源、エネルギー資源、人的資源、等々。しかしそれらは、どこの国であれ、常に有限だ。無尽蔵な国などない。

もちろんそれらを国相互で奪い合うなど、愚の骨頂だ。

1つは、人間の活動、特に経済活動には、《エントロピー発生の原理》により、エントロピーの発生とその増大が伴う。そしてそれが、地球上に、ある一定量以上に増えたなら、全ての生命活動は維持できなくなる(第3章)。

1つは、そこでそのエントロピーを、ある一定量以上地球表面上に溜まらないようにしようとして地球の外の宇宙に捨て続けるためには、あるいは捨て続けられるようにするには、地球表面上での物質循環、とりわけ「大気と水と栄養」の循環を、経済活動を活発化させればさせるほど活発化させなくてはならない。しかし、それには、自ずと限界はある。

 つまり、これらの真理から、GDPの数値を果てしなく増大させようとすることは、そのこと自体原理的に無理なことであるというだけではなく、そのようなことにこだわり続けたなら、どの国も、いえ人類として、自滅に向けて邁進していることに他ならない、ということだ。

 それに、そもそも、雇用を創出するために仕事をつくり出すという発想自体が逆さまだ。

 本来は、あるいは通常は、何かを実現しようとか、あるいは何かを作ろうという目的が先ず発想されるのである。

その目的が定まって後、ではその目的を実現するにはどうしたらいいのか、どうしたら実現できるのかという検討に入るのだ。

その検討項目の中には、普通、鉱物資源やエネルギー資源は確保できるのか、既存の技術でその目的が達成できるのか、それとも新しい技術を開発する必要があるのか、またその新しい技術の開発のできそうな人材は確保できるのか、開発にどれだけの時間をかけられるのか、そうしたことが可能となるだけの資金は確保できるのか、等々が含まれる。

 それらの目処が立った段階で、初めて、新たな仕事が生まれ、その仕事を達成するために、必要な人を必要なだけ雇う、という段取りになるのであるからだ。

 

 私は、先に、資本主義は自然と社会と人間に対して成立当初から本質的で決定的な矛盾をもって生まれた経済の考え方でありシステムだ、と述べて来た(第1章)。

資本主義という呼び名そのものはカール・マルクスがつけたものであるが、実はそう呼ばれるよりもずっと以前から、資本主義は人類の歴史の中に経済のシステムとしてあったのだ。ところがそれは当初から、その経済のあり方の中には本質的で克服できない矛盾と問題点を持っていたのではないか、と私は考えるからである。

 例えば、日本でも、戦後の社会にはすでに現れ始めていたが、それが今日ますます顕著になってきている現象に、人間の疎外の進展、人間性そのものがますます蝕まれるようになっていること、人間の集団である社会さえも崩壊に近づいていること、その上、生命一般をずっと生かしてくれてきたこの地球の自然のメカニズムそのものさえも破壊されるようになっていること、といったことが挙げられるが、それらは結局のところ、資本主義という経済システムが最初から持っていた本質的で克服できない矛盾と問題点がもたらしたものなのではないか、と私は考えるのである。

 では、資本主義という呼び方をされるその経済の考え方とそのシステムの中に当初から持っていたと私が考える本質的で克服できない矛盾と問題点とは一体何か。

それは、一言で言ってしまえば、「お金」である。あるいはそのお金そのものが持っている矛盾であり問題点である。

 参考までに言えば、鋳造貨幣が歴史上初めて用いられるようになるのは紀元前7世紀頃、小アジアのリュディア王国(現在のトルコ)と言われている(「『幸せ』について考えよう」NHK100分de名著 西研p120)。

 お金そのものが持っている矛盾であり問題点とは次のものではないか、と私は考えるのである。

 1つは、お金自身は、金という金属でできていようが、銀という金属あるいは銅という金属でできていようが、はたまた紙でできていようが、それ自身は、例えば、人間はそれを喰って生きられるわけではなし、何の価値もないものだ、ということ。

 1つは、ところが、それが一度貨幣として造られたり紙幣として印刷されたりしたなら、それを手にした人は、それを使うことで実体のある物を手に入れる(それを、私たちは、普通、「買う」と表現するのである)ことができる、としたこと。

 つまり、その交換がなされた瞬間、それまで何ら価値のなかったはずの「お金」が、人間にとってそれなりの価値あるとされる実体のある物に化けることができるのである。

 既述したことであるが、人間の労働とその量こそがそこで生産された物に価値を与えるとした見方(労働価値説)からすれば、それは明らかに、そして決定的な矛盾なのである。

 1つは、上記内容と関連していることであるが、社会のあらゆるモノやコト、自然界のあらゆるモノやコトはそれ自体は何の価値もない「お金」を介して、しかも本来、その性質上、値段など付けようもないものまでも、そんなこととは無関係に、値段すなわち「価格」がつけられれば「商品」となり、それが買い手によって “高い、安い”と評価されるが、しかしその際の価格の高いとか安いとかがそのままその商品の「価値」を表しているのではない、すなわち「価格」≠「価値」、ということ。

 1つは、それ自体何の価値もないそんな「お金」を、人間一人ひとりの暮らしどころか生死にも関わる経済活動の中で介在させ、しかもそれを途中で滞ることなく流通させることを通して、それをより多く得ることが、誰にとっても、経済活動の主目的となった、ということ。

そしてもう1つは、そんな「お金」を手に入れる仕方においては、その過程において、法律に触れない限りは、道徳も不要だ、としたことである————参考までに記すならば、「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一は、この、経済に道徳は不要とする考え方とは反対に、生涯、「道徳経済合一説」を唱えた(NHK BS1スペシャル「渋沢栄一に学ぶSDGs“持続可能な経済”をめざして」2021.4.29)————。

 

 つまり、これらのことからはっきりすることは、人類が長いこと採用してきたこれまでの経済は、「実体の無いお金でも、それを持ってすれば実体のある物が手に入れられる」とする、虚構に過ぎない話の上に成り立ってきたのだ。そんな話が世界中の人々に共通に信じられた結果として、である。

1980年代以降、グローバリゼーションやネオ・リベラリズム新自由主義)が世界規模で急拡大し、これまでの「お金」に「マネー」が加わったことにより、状況は一層矛盾を極めるようになった。これまでの「お金」にまつわる虚構の上にさらに「マネー」という虚構が重なったからだ。

 したがって、そうなれば、経済現象を研究する学問とされてきた経済学ではあるが、それはいっそう学問ないしは科学の一分野でもなくなるのである。虚構の上に成り立つ経済の仕組みや現象が学問ないしは科学の一分野として成り立つはずはないからである。学問あるいは科学は、つねに、人間の都合や欲とは無関係に普遍的に成り立っている真実あるいは真理の上にこそ成り立つものだからだ。

 

 ここでちょっと「お金」の歴史を振り返ってみよう。

とにかく、「お金」を預けておけば「利子」が付くという、中世ヨーロッパのイタリアではすでに1400年代にはあった話もよくよく考えればおかしな話だ。すなわち「時が富を生む魔術」としての利子のことだ(NHK BS1スペシャル「欲望の経済史〜ルールが変わる時〜特別編」2018.4.8)。利子とは、同じ場所でありながら、「時」を隔てることにより富を生むようにだれかが仕組んだ制度のことだからだ。また同じく、為替とはその逆で、時は同じくしながら、「場所」、とくに国を隔てることによって、利益を生むように、やはり誰かが仕組んだ制度なのである。

 それが近代の資本主義の時代になると、初めはお金の価値を保証するために、金(キン)とはいつでも交換できる紙幣であることを前提にしたまま、「労働」「生産」という実体とは無関係の株券とか証券・債券という紙片が人間の想像の中から創造され、それも、「お金」と同等の価値あるものとされ、売買されるようになった。

 そのうちには、紙幣あるいは貨幣はいつでも金(キン)とも交換できるという考え方も、金の保有量に応じて紙幣や貨幣を発行するという考え方も取り外されてしまい、紙幣も貨幣もその根拠を失うとともに、金そのものが紙幣・貨幣による売買対象商品とさえなってゆく。

 さらに紙幣・貨幣である「お金」をもって買った株券・債券・証券には、これまた当初の「お金」の役割とはまったく無関係な、「分配」という考え方に基づく「配当」という、働かなくとも手にすることのできるお金(不労所得)が付くようになり、それも紙幣・貨幣で支払われるようになった。

 その後は、「為替と株の値動き」が絶えず情報として流されるようになったことからも判るように、為替と株を介して、「お金」を「お金」で買うという事態にまでなり、そして今、世界の経済事情や政治事情のほんの少しの変化を衝いて、コンピュータのネットワークの中で、利ざやを求めて、「お金」と等価とされる単なる数字が実体の規模をはるかに超える規模の「マネー」として超高速で行き来するまでになっているのである。

 ところがそんなことが常時できるのは、それなりの設備や人材を抱えた資本力のある集団だけであって、市井の人間にできることではなかった。

このことが、結果的に、世界中に富の蓄えの格差を加速度的に拡大させてゆくことになった。既述した「空間」の隔たりを利用することで富を生むように仕組んだ制度、いわゆる「為替」制度がそれだ。安い国で買って、高い国で売ることによって儲けるという発想に基づくものであり、国ごとの通貨の価値の違い、つまり為替レートの違いを利用して儲ける、という発想に基づくものなのである。

 本質的で克服できない矛盾と問題点をその経済のあり方の中に元々持っていたと私が考える根拠はそれだけではない。

 これまで述べて来たような意味でのお金というものがあるからこそ「脱税」が可能となった。

それもとくに企業や団体に勤める一般のサラリーマンは「源泉徴収」という形で給料から自動的に税金が徴収されてしまうから誤摩化すことはできないが、そうでない政治家や有名企業や銀行のトップ、芸能人、有名スポーツ選手、弁護士などで、富裕者にはそれを可能とさせた。自国での納税を逃れるために個人情報の秘密を堅く守る銀行や租税回避地タックスヘイブン)に預けて納税を逃れる、というのがその一手法だ。

「買収」や「汚職」も、そして「麻薬の売買」も、「お金」というものがあり、それが社会で幅を利かせているから発想されるのである。「殺人」や「詐欺」や「横領」がなくならないのも同様だ。

絶滅危惧種であろうとかまわずに「密猟」が絶えないのも「お金」万能という発想がそうさせる。

「お金」があるからこそ、人間をしてその欲望を際限なく膨らませ、欲の虜にしてしまう。そしてその欲望が新たな欲望を生む。その新たな欲望がまた新たな抜け道を創らせて行く。

 結局、社会の不平等をつくらせて来たのも、突き詰めれば、すべて「お金」だ。

お金の力が、国民生活のあり方を左右する法律や国民の納めたお金の使途を決める最も重要な社会制度である政治を歪めて来たのだ。そしてそうした歪んだ諸制度を創ってきたのが、それが出来る権力・権限を社会人の中で唯一与えられながら、「お金」の魔力に負けた政治家たちである。彼らこそ、社会から誠実・正直・勤勉を失わせ、国民の道徳観や倫理観を衰えさせ、失わせて来た直接の張本人なのだ。

 こうして、必然的に、富める者はますます富むことになる。他方、そうした抜け道の恩恵に与れない者———それは概して正直者、まっとうに生きる者と言えるが———、その人たちは、相変わらずつましい生活を強いられる。その結果、格差はますます拡大することになる。

資本主義が弱肉強食の体制といわれる所以である。

 要するに形はどうであれ、今日、世界中に次々と生じさせている解決困難あるいは克服不可能な矛盾は、そのほとんどが「お金」がもたらしたものであると私は断じるのである。本来、「お金」そのものは物や労働とはまったく異質なものなのに、そしてその「お金」は、実体ある物や行為と交換するに当たって、ただ、「そうした交換ができる物であると相互に決めましょう」として成立しただけのもので、フィクションに過ぎないものだ。そしてそれは、実体のある物との間に何らの合理的で量的ないしは質的な説明を付けられるものでもなければ、そうした説明の成り立つものでもない。

 なお、不労所得をもたらす株式とか証券や債券も、実体ある物や行為とは全く無関係であるだけではなく、本来のお金ともまったく異質なものだ。そもそも自分は労働には全く参画していないのにも拘らず、それらを所持しているというだけで、他の者と交換しうる「お金」が入ってくるということ自体も、矛盾そのものなのだ。

であるのにも拘らず株式や証券や債券も価値あるものと信じられるようになったのは、それらのものの間にも、「互いに交換できる関係にあると決めましょう」とのルールを誰かがご都合主義的に設けてしまったがためである、と私は考える。

そして昨今は、仮想(ヴァーチャルな)通貨———たとえばビット・コイン———すら創案され、コンピュータ・ネットワーク上で出回るようになっている。そしてそれが全世界をいっそう混乱へと陥れているのである。

 今、世界中で、矛盾が矛盾を生み、ますます解決困難あるいは克服不可能な事態を生んでしまっているのは正にこうした実体のないフィクションがフィクションを生み、それが信じられるようになってきた、というより信じるよりないように仕向けられてきた結果である、と私は考えるのである。

 そしてそれは何もグローバリゼーションとか新自由主義という考え方が生まれたからそうなったということではなく、さらには資本主義という考え方が生まれたからそうなったということでもなく、もっとそれ以前に、「お金」というものが人間社会の中で考え出され用いられるようになった時点で、すでにこうした解決困難な諸問題を生じさせてしまう必然性を人類は抱え込んでしまったのだ、と私は考える。

 

 そもそも、「体を動かして働く」、「物を生産する」という人間の自然に対して働きかける能動的あるいは創造的な行為と、それによって作り出されて来る生産物と、人間が「生きて生活する」、「出産して命をつなぐ」という生存あるいは生命の再生産行為とは、互いに実体のある確かな物どうしで結びつけられていた。

 そしてその限りでは、そこには、何ら本質的で克服できない矛盾とか問題点は生じることはなかった。

ところがそうした行為や生産物や人間の生命活動との間に、それらとは本質的に異質な実態なき「お金」を介在させたことによって、諸矛盾が次々と発生し、またそれが顕在化するようになってきた。そしてその「お金」の「所有」と「交換」を「正当な行為」あるいはそれを「合法」とするようにしてしまったことがその諸矛盾をいっそう拡散させ、またそれを定着させることになってしまった根本原因なのではないか、と私は考えるのである。

 こうして、お金が人々の暮らしや産業のあり方を支配する貨幣経済の社会となった結果、「お金さえあれば何でも手に入れられる、何でもできる」という倒錯した考え方を生み、それがやがては、「そのお金を手に入れるためには手段は選ばぬ」という風潮を生み、さらにそこに既述のように「正直者は馬鹿を見る」といった風潮さえ生み、「とにかくお金を得ること、それもより多く得ること」ということだけが大方の人々の強迫観念となってしまったのである。

 そしてこうした経緯の中で、経済学という学問も誕生して来た。

しかしその経済学については、既述して来たように、元々、それ自体は何の価値もなく実体を持たない「お金」が信じられて、それが支配する経済社会の中で生まれたものであっただけに、本来の「学問」あるいは「科学」として成り立ちうるはずはなかった————経済学は社会科学の範疇に含まれるとされてきたのであるが————。

だからその「経済学」は、人間社会にとって、一時は有効性を見せることはあっても、真の、あるいは永続的な有効性を見せられるはずはなかった。そしてそれも必然だったのだ。

 なぜなら、人間の意思とは無関係に成立していて、しかも無矛盾あるいは完全無欠に成り立っている自然を研究対象とする自然科学とは違って、経済学は、どれも、人間の都合によって、それも一部の人間の欲に基づく都合や意図によってその時々でつくり変えられてしまう仕組みや制度と一体化したフィクションに過ぎない「お金」の動きが研究の主対象となるものだったのだからだ。

 そもそも、マクロ経済学ミクロ経済学という、観る立場、観る対象が異なる経済学が別々にあること自体、ご都合主義的と言える。

 

 以上、遠い貨幣の歴史を概観してきたが、そこで、次には、では一体何のために人間はお金など考え出したのか、と問うてみる必要があるように私は思うのである。

 実はその問いの必要性を思いついたのは、私がそれまで20数年間務めたゼネコンでのサラリーマン生活を、退職まで後8年を残して止め、直ちに農業に転向し、以来20年余、自分で米や野菜を栽培して生活してきた結果のことである。

 人は本当にお金がなければ生きては行けないのだろうか。そして、そもそもお金は経済社会の中で、本当に必要なものなのだろうか。そして、そこでいう「経済」とはどういうことを言うのであろうか、と。

 たしかに、私の周辺でも、農業についてみるならば、現実の生活に見合う現金収入が安定的に得られないために、せっかく志した営農の道を途中で断念して去って行く人々、とくに若者がいたし、今もいる。そうした状況を指して人々はよく、“この国では、農業では喰っては行けない”という言い方をする。そして農業に対するそうした見方は、この国では、もはやすっかり定着してしまった観がある。

 しかし、そこで私は思ったのである。そのような言い方を、そういうものだとしてただ聞き流してしまっていていいのだろうか、と。「現金収入が続かない」ということが農業が成り立たない本質的な理由なのだろうか、と。

 私は、この国は決定的な矛盾をそのままに放置している、と思った。「喰う物」をつくっていながら農業者が喰ってはいけないままにしているからだ。「なぜ喰って行けないのか」、と問うべきではないか、と。

 私は、20年間余の農業生活の中で、“そうではないのではないか”、と考えるようになった。そして今やそのことに確信を持っている。

本質的な理由は別のところにある。「現金」とか「お金」あるいは「農業」そのものにではなく、「制度」や「しくみ」にこそあるのだ、と。

つまり、農業を取り巻く社会の経済制度を含む諸制度が農業という産業に適合するようには備わっていないがために、言い換えれば、農業で持続的に生きてゆくことを可能とするようなまともな農業と経済のシステムとはなっていないがためだ。それはもはや農業者個人の努力でどうこうなる問題ではない。問題はそのレベルをはるかに超えたところにこそある、ということを意味する。そこにこそ、「喰う物をつくっていながら、喰っては行けない」状態を生み出させてしまう本質的な理由があるのだ。それがゆえに、せっかく農業を志して、一生懸命作物の育て方を学び、より質の高い喰い物を消費者に届けようとしても、その生活を持続できなくさせてしまうのである。

 「お金」という金属片あるいは紙片が一人ひとりの人間に、あるいはその集団である社会に、その社会を成り立たせている自然に、結果として、あるいは総体として何をもたらすかということについては概略的にではあるが既に検討してきたとおりである(7.4節)。

そして少なくともその段階でおぼろげながら見えて来た結論は、直接それを喰って生きられるわけではないお金に拘らねば生きてはいけない経済のしくみとは、明らかにどこか間違っている、ということであった。

 その「どこか間違っている」とする根拠は、次のように考えることによっても明確になる。

 それは、「生物としてのヒトが生きる」とは、そしてまた、生物としてのヒトではなく、その「ヒトが人間として生きる」とはどういうことか、ということについて考えてみることによって、である。なぜなら、それは、人間として生きる上で、またその人間の共同体である社会を営む上でつねに付いて回る根本的な命題だからである。

 ただしここでの着目点は、あくまでも「生きるとはどういうことか」ということであって、「生きる意義」とか「生きる目的」についてではない。

 そこで先ず「生物としてのヒトが生きる」とはどういうことか、ということについて考えてみる。

それは、毎日、規則正しく東の空から上ってくる太陽とともに起き、適当な時に適当な場所で排泄し、適当な場所で朝食の準備をしてはそれを摂り、しばらくは自分としてしたいことをしたい場所でする。それからまた適当な場所で昼食の準備をしてはそれを摂り、食べた後には再び自分としてしたいことをしたい場所でして時間を過ごす。

夕刻になれば、また夕食の支度をし、それを食しては、その後の時間をその日一日の疲れを癒すために使う。そして床に就く。

 これを、季節が変わっても、毎日毎日、一年間、もし家族がいれば家族と共に、太陽の循環運行に合わせて繰り返す。

 それを、翌年も、またその翌年も、そしてその人が生きている限り、同じことを同じように繰り返して過ごしてゆく。

 なお、ここに、子どもを生んで育てるということが加わると、このことを実現させる行為が、ある時期から生じ、そして、子どもの成長過程に応じて、それに割くべき時間は変動する。

しかし基本的には同じことを同じように繰り返しながら過ごすことになる。

そしてその際、子どもは、上記行為を親から見て聞いて学びながら過ごし、成長して行くことになる。

 これが、ごく大雑把に見た「生物としてのヒトが生きる」ということであろうと私は考える。

 では、今度は、生物としてのヒトではなく、「ヒトが人間として生きる」とはどういうことか、ということについてである。

ただし、ここで言う「人間」とは、社会という集団あるいは共同体を自分の意思に基づいて取り結び、その中で「自由」と「愛」の主体として生きる存在であるということを前提とする。

 それは、ある決まった場所に住居を構え、その季節にあった衣類をまといながら、毎日、規則正しく東の空から上ってくる太陽とともに起き、決まった場所で排泄し、決まった場所で顔を洗い歯を磨き、決まった場所で、その人がその日活動できるだけのエネルギーを与えてくれる喰いものを喰える準備をしてはそれを摂り、その後は食べた食器を洗い片付ける。その間、掃除や洗濯があればそれをして、洗った物を天日に干す。

 その後、しばらくは自分としてしなくてはならないこと、あるいはしたいことをしては、その過程で自己の「自由」を歓び、自分が自分のためだけではなく他者のためにも役立つことをすることを通じて、またその中で他者のことを思い、人間としての存在をも確かめる。

 また、自分の選んださまざまな職種での仕事において、自分を磨くと同時に他者の役にも立ちたいと望んでは、そのために自分をより発達させ、より全的な存在へと高まろうとする。

 それからまた昼食の準備をしてはそれを摂り、その後は朝食後と同じように過ごす。

夕刻にはまた、朝食時、昼食時と同様のことを繰り返す。

 その日の残った時間は、その日一日の疲れを癒しながら、人を思い、社会を思い、自分の将来を思い、そして床に就く。

 これを、毎日毎日、太陽の循環に合わせて、もし家族がいれば家族と共に、季節が変わる中で、一年間、繰り返してゆく。

 一年間繰り返したなら、それを翌年も、またその翌年も、やはり太陽の循環に合わせて、命ある限り、繰り返してゆく。

 なお、ここに、子どもを生んで育てるということが加われば、このことを実現させるための行為が、ある時期から生じる。その割く時間も割き方も、子どもの成長過程に応じて変動する。でも、親も周辺も、そのことを通じて、その子の成長とともに成長し、変化して行くのである。

 以上が、概念的にではあるが、ヒトとして、あるいは人間として、生きるとはどういうことかということの中身であろう、と私は考える。

 つまり、このことから判ることは、こうした生活が社会の一人ひとりに等しく、かつつねに実現されていれば、あるいは実現できる社会的しくみが備わっておれば、それで、人は人間として生きていかれる、ということである。

 しかし、残念ながら、現実社会では、このような暮らしをすることをますます多くの人に難しくしている。

それは、結局は、既述して来たように、「お金」がそうさせているのだ、と私は考える。

つまり、元々人間が考え出し生み出したお金が、結局のところ人間を、あるいはその集団である人間社会を住みづらくさせ、あるいはその中の個々の人間をして生きることさえ困難にさせてしまっているのだ。

 

 ところがその「お金」がすべてにわたって決定的にものを言う経済システムが資本主義なのである。そこでは、既述のように、全てのものは「お金」あるいは「貨幣」によって評価され、カネにならないものはたとえ人間であろうとも無用・無益と見なされてしまう。資本主義の中核とされる企業にあっては、利益をもたらせない者は不要とされ、取っ替えられ、利益をもたらす者だけが評価されるのである。その上、もたらす利益の大きさによって「出世」の度合いも決まる。

 その結果として、資本主義の社会では、人間関係が主として利害打算の関係と化してしまい、人間が本来持っていた他者を思うやさしさとか他者のために役立とうとする献身さ、あるいは誠実であろう、正直であろうとする本質面を次々と喪失させてしまっているのである。

いわゆる人間の疎外化と呼ばれる現象を誘発しているのだ。

ここに疎外とは、「人間が自己のつくり出したもの(生産物・制度など)によって支配される状況」を言う(広辞苑第六版)。

 疎外化、それは、概略的にいえば、社会的人間に生じている、互いに内的関連性を持った次の三つからなる現象である。

1つは人間の一面化あるいは断片化。1つは人間の孤立化。そしてもう1つは人間の心の空洞化あるいは空疎化である(真下真一著作集 第1巻 青木書店p.118〜133)。

 今、文字どおり近代文明の先駆者であるアメリカやフランスを中心に生じ、ますます勢力を拡大しているかに見えるポピュリズムという名の民主主義の危機的現象も、結局は、資本主義がもたらした人間疎外の1つのあり方なのだと私は考える。

それは、グローバルな資本が国境を越えて暴走し、資本主義体制すらそれを制御もできなくなったカジノ化した資本主義によって、これまで社会の中間層を形成してきた人々の多くが拡大する格差の中で中間層ではいられなくなり、ある者は職を失い、そして困窮し、家を失い、家庭を失い、そのため、“自分たちは社会から受け入れられてはいない”という怒り、“自分たちには居場所がない”という不安がその人たちにもたらした現象だからだ。

 その人たちの多くは、口々に“仕事がないのは移民や難民を受け入れたせいだ”と叫んでいる。

 要するにここでも「お金」なのだ。「お金があれば生活できる」という意識が前提にある。

その「お金」が、人間に疎外をもたらし、その結果、個々の人間をして、持って生まれたはずの美徳を捨てさせてしまい、あるいは忘れさせてしまい、その結果、人類が、自然状態から脱して、互いの生命と自由と財産を安全に守ろうとして発展させて来たはずの社会という共同体そのものを、またその共同体の理念である自由と民主主義を、崩壊の危機にまで落とし入れているのだ。

 ここまで考えて来て私がたどり着いたのが、先の問い、すなわち「人は本当にお金がなければ生きては行けないのだろうか」だった。その問いは、もはや、今日の社会にあっては万人に当てはまる根本的な問いと言えるのではないか、と私は思う。そして、そこから出て来るもう一つの問いは、では「お金に支配されなくても人が人間として生きて行ける経済システムというものはあり得るのか」、「あり得るとすれば、それは具体的にはどのようなものなのか」だった。

 私はそれを何とかして明らかにしたいと思った。いえ、そうしなくてはならない、と強く思った。ただしその際、経済とは何かということをもう一度根本から問い直してみなくてはならない、とも思った。

 その場合、私にとって自明だったのは、人が人間らしく持続的に生きて行ける経済とそのシステムとは、生態系に対しても、したがって地球の自然環境に対しても、必要以上に負荷をかけない経済でありシステムでなくてはならない、ということだった。

なぜなら、人が人間らしく生き続けられるためには、生態系がきちんと機能し、したがって人類を生かしてくれている地球の自然環境も持続的にその機能を維持されるものでなくてはならないからである。それは《エントロピー発生の原理》が、《生命の原理》が教えているところである。

 ではその「新しい経済とそのシステム」とは具体的にはどういうものか。

それについては、私は次節以下で具体的に描き出して行くつもりである。