LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.5 地域経済のしくみ————————(その1)

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11.5 地域経済のしくみ————————(その1)

 では、経済のグローバル化(世界化)はもはや止め、その経済を国内化させ、さらには地域化させてゆかなくてはならないとした時、あるいは地域化させて行かざるを得ないとなった時、国内化され地域化されたその経済とは一体どのような姿のものとなるのであろうか。あるいはどのような姿のものとならざるを得ないのであろうか。

 なお、以下は、既述した、理念と目的と形を明確に持ち、未来を文字通り持続可能とする、名実ともに本物の国家と言える新しい国家(第8章)を前提に考察を進める。

しかし、その上でも、先ず土台に置かれねばならない考え方とは、先の「経済の新概念」において明らかにされた「環境時代の経済」または「新しい経済」(11.2節参照)となる。

 その「環境時代の経済」とは、もはや、「仕事がある」、「働き口がある」、「賃金がもらえる」、つまり「雇用が確保されている」ということよりも、先ずは誰もが「生きて行けること」、それも、「共同体の一員として積極的に、そして誠実に参加し協力することで、誰もが安心して生きてゆける」ようになることに主眼を置いた経済でなくてはならない、ということである。

言うまでもなくその経済とシステムの根底には「三種の指導原理」がある。そしてその場合も、人間にとっての基本的諸価値の間には階層性が存在しているという私なりの確信に基づき、それの実現をも明確に念頭に置いてゆく(4.3節参照)。

 そこで、本節では、これまで述べて来た「新しい経済」あるいは「環境時代の経済」の考え方を踏まえて、それを形に表わしたならどうなるか、それをできる限り具体的に示してみようと思う。

 そのあり方とは、予め、結論的に一言でいえば、自己完結を可能な限りめざした地域循環型の経済でありシステム、ということになる。

 実はこれは、これからの日本は、どうすることが、あるいはどうなることが国の基幹産業であるはずの農業が持続的に成り立ちうることになるのか、そしてその中で何がどうあることが田畑の生態系も甦り、農業者自身が誇りを持って営農を続けられることになるのか、そしてその農業を土台にして、どうあったら社会全体が回ることになるのかということを、自分で栽培した作物をお客様に買っていただいて生活を成り立たせるという暮らしをしてくる中で、しかもその場合も、さまざまな生き物が見せる行動を観察し、また様々な野菜が示す変化を自分の目と肌で感じとりながら、私の能力の及ぶ限りの考察を繰り返しては行き着いた結果である。

 そういう意味で、本節で提案する「環境時代の経済」または「新しい経済」についての具体的な姿は、決して机上の理論に基づく結果ではない。実践の中で考え、農産物という喰い物の流通の仕方やそれの処理のされ方をつぶさに観察しては着想し、到達した私の帰結である。そしてそれは、これまでの論理的で必然的な帰結でもある。

 なお、ここでは、想定する「地域」としては、現行の行政区域である市町村のどこでもかまわないのであるが、どうせならということで、私が提案する新国家を構成する「地域連合体」を前提としてみる(第8章を参照)。

 

 「新しい経済」では、既述のとおり、人間の意思や都合ではどうにもならない過程が支配的となる産業、あるいは、自然や生命と直接向き合うことになる産業は計画経済のシステムの中で扱うこととして来た。他方、人間の意思や判断、あるいは人間の都合というものをかなりの程度介在させることができたり、また生産や流通を人為的に制御したり管理したりすることが可能な産業は自由経済のシステムの中で扱うとして来た(11.2節)。

 この考え方によると、前者に属する産業は、農業・林業水産業・畜産業となり、後者に属するのが工業・商業・運輸業、通信業・サービス業ということになる。

しかしこのいずれの範疇にも含まれない、あるいは含めることが難しいと考えられる分野もある。医療や介護そして看護といった福祉の分野、そして教育や研究の分野である。その前者は人間生命の維持・継続・再生産と人権の維持という観点から、後者は人材育成・人格陶冶・啓発・未知の分野の開拓という観点から、地域共同体が共同体として安定して存続して行くためには共に不可欠な分野なのである。

 それゆえ、それらの両者の分野は、計画経済システムのあり方や自由経済システムのあり方とは切り離しながらも、別途考察してゆくことにする。具体的には、これらは、共同体内での「真の公共事業」の一環として遂行して行く(11.6節)。

 つまり、従来は、「全産業のうち、農業・林業水産業など直接自然に働きかける産業」を第一次産業と呼び、「全産業のうち、地下資源を取り出す鉱業と、鉱産物・農林水産物などをさらに二次的に加工する工業−−−ただしこの工業の中には、製造業と建設業も含まれる———」を第二次産業と呼び、「商業・運輸通信業・サービス業など、第一次・第二次産業以外のすべての産業」を第三次産業と呼んできたが、ここではもうそうした言い方もしないし、区別もしない。

何故ならば、常に全産業とその存続を考えるからである。

それにそうした従来の区別の仕方では、人間生命の維持・継続・再生産と人権の維持という分野や、人材育成・人格陶冶・啓発・未知の分野の開拓という分野が抜け落ちてしまうからでもある。

そもそも医療・介護・看護の分野も、教育・研究の分野も「第一次・第二次産業以外のすべての産業」としての第三次産業という範疇に括られていいはずのものではないのである。人間そのものにとって、もっとはるかに重要な位置を占めるものだからだ。

 それなのに、こういう分野が法的にも制度的にもきちんと整えられず、明治期の「殖産興業」以来、民法もほとんどそのままで、第二次産業だけが依然として特に重視されてしまうということが当たり前にされてきたところに、この国の発展の仕方の異常さと歪さがあるのだ。

この日本という国は国民の命と尊厳が軽く見られる国、人権意識が遅れた国、男女の権利の平等が未発達な国、多様性を受け入れられない国等々と、国連をはじめ国際社会から今もって見られ続けている大きな原因の一つがここにある、と私は考えるのである。

 また、ここでは、最近よく耳にするようになった、いわゆる「第六次産業」という言い方も考え方ももちろん採らない。 

 ともかく、こうして、「新しい経済」では、一つの地域の経済システムの中に、成立条件と運営のされ方が根本的に異なる産業が混在することになる。とは言っても、それらは互いにバラバラなのではなく、互いに「調和」して共存することになるのである(「調和」の再定義については第4章を参照)。

 

 とにかくこの日本という国は、既に述べて来たことであるが、歴史的に見ても、表向きは資本主義経済の国だとか自由主義経済の国とされては来たが、実態はそのいずれでもなく、かといって計画経済の国でもなく、実質的には、とくに戦後は、政府の各府省庁の官僚による統制経済の国で来た。それも、各府省庁の官僚が互いに勝手に自分たちが監督するとしてその専管範囲を決め、しかもその専管範囲には他の府省庁は踏み込まないということを官僚同士で暗黙のうちに決めては維持して来た統制経済の国なのだ。

そしてそこでは、資源の乏しいこの国では、「加工貿易」を国是として、工業生産力を果てしなく伸ばすことこそが国力を高めることだとして、工業を、それも輸出を最優先する工業を国の主流かつ支配的な産業として来た。

そしてその工業が発展しうるようにと、国中のあらゆる流通と金融と貿易の諸システムは整えられ、またそのための法整備も最優先でなされて来た。

 その結果、他の全産業は、その工業中心の体制に従属させられることになった。

とりわけ、農業や林業や畜産業そして水産業と、教育部門においてそれが顕著だった。

 農業や林業や畜産業そして水産業という産業は、本来、それなくしては国民は生きることさえ出来ないモノを供給してくれる産業であるにも拘らず、したがってそのことを考慮するなら農業や林業や畜産業そして水産業こそが他のどの産業よりもつねに大事にされなくてはならなかったはずなのに工業あるいは工業を中心に設けられたシステムに否応なく従属させられた。特に貿易面においては、工業製品をより多く、より安く輸出出来るようにするために、農・林・畜産・水産の産品はつねにその犠牲にされて来た。

 教育部門もしかりである。

 小中高校という学校教育の場は、本来、その若者が社会に出たとき、一人ひとりが自己を確立し、自信と誇りを持って生き抜いて行ける人格と素養を身につけるべき場であるのに、この国の政府文部省と文科省による教育は違った。

個性は均一であることが良いことだ。能力は抜きん出ている必要はなくほどほどで良い。人権意識や正義感などはむしろ無用。とにかく企業の経営方針に従順で、必要に応じて取っ替え引っ替えしても文句を言わない人間を画一的に、かつ大量に生産することだった。

 こうした状況は、そのまま中央政府の各府省庁間の力関係にも現れているのである。

 こうした産業間の状態は明らかに「互いに調和的に共存する」関係ではない。

そのために、そうした関係から成る各産業に属する人々は、自身の産業に本当の意味では誇りを持てず、また他の産業との共存意識も持てず、ただカネのためだけに働いているとした意識しか持てないで来た。その結果、そのような経済システムの下では、各産業は、自らが生き残ることが精一杯で、互いに支え合うという健全な形態はとり得なかった。

 実際、私の見るところ、日本の農業は、もうずっと以前から、衰退の一途をたどっている。それは単に農業従事者が減っているからとか高齢化しているからという理由からでは決してない。農業に生きがいを見出せないからだ。誇りを持てないからだ。

 そして林業林業で至る所、崩壊寸前となっている。日本の山村は、その大部分が消滅してさえいる。

 しかし、政府のこれまでのやって来たことからすれば、早晩、そうなることは必然であった、と私は思う。

 各産業間は互いに調和的に共存する必要があるとするのはそのためである。

 

 では、成立条件と運営のされ方が根本的に異なる産業分野が一つの地域社会の中で調和して共存する経済システムとはどのようなもので、またそれはどのように構築されるのか

 その答えを見出すために私の辿った思考順序は次のようなものだった。

 なおその際確認しておくべきことは、ここで考えることは、あくまでも「新しい経済」の具体的な姿と形である、ということである。したがって以下に示すものはあくまでもその具体的な一例である、ということである。

実際には、地域ごとに、気候風土や様々な資源や伝統の文化等には違いがあるだろうから、その地域での「新しい経済」の具体的な姿と形は、それらの特性を考慮して、その地域固有のものとして考え出す必要がある。

 そこでここでは、いきなり全産業を考慮した「新しい経済」の具体形を表現するのは困難なために、計画経済に含めるべき産業の代表としての農業と、自由経済に含めるべき産業の代表としての工業のみに着目し、その両者を中心にした「新しい経済」についての具体的な姿と形についてだけを考察してみる。

 その場合、既述して来た農業と工業の本質的な相違を念頭に置いてゆく。

すなわち、農業は、その地の気候、気象、地質、地形、生態系に依存せざるを得ない産業であることから、文化と同様、本質的に地域固有のものとならざるをえない産業である。したがって農業から穫れる産物も地域固有のものとならざるを得ない。

ということは、農業という産業とそれを巡る経済のシステムも地域固有のものとならざるを得ないということである。

 他方、工業はどうか。

工業は、本質的に、材料を含む物質的資源とエネルギー的資源とを外から取り込んで来ては、物質を人手か機械かによって加工しては材料あるいは資材をつくり、それを用いて新たな製品を作るという作業工程を主とする産業である。

その場合、資本主義的経済システムの社会では、企業が投資した金額以上の金額を利益として回収し得ることがその企業が「持続」し、「発展」し、「拡大」しうる絶対条件であった。

しかし、今考えているのは「人間を劣化させ、社会を崩壊させ、自然環境を破壊する性質を本質として持つ資本主義は終った」という前提の下での、環境時代での経済のシステムについてである。そしてそれは、自己完結を可能な限りめざした地域循環型の経済でありシステムについてである。

したがってここでは、これも既述のとおり、「儲け」「利益」というものは少なくとも第一目的とはしない。だから、そこでは、今、世界のどこの国も、外国を含む外部から呼び込もうとしている“投資する”という発想そのものを持たない。したがって、いわゆる投資家とか株主というものも存在しないし、存在し得ない。だから外資、すなわち外国資本というものもあり得ない。これまで当たり前としてきた、何よりも投資家や株主を最優先する企業ないしはそのための経営というもの自体、ここでは考えない。

 そしてその環境時代では、その社会を貫徹する原理とその原理に次ぐ原則を指導原理と指導原則とすることについても、既述(第4章の2〜4節)して来たとおりである。

 ということは、経済とそのシステムを考える上でも、先ずは、その指導原理の観点から「市民の原理」を超えて「生命の原理」が、「人類普遍の原理」を超えて「新・人類普遍の原理」が、そして「エントロピーの原理」から導かれる「人類存続可能条件」が、これまでの近代での価値原理とそれに基づく資本主義経済を止揚する形で実現が図られなくてはならない、ということになる。

 次いで指導原則の観点から、人間が集住する都市や集落に関しても、「小規模かつ分散の原則」と「経済自立の原則」と「政治的に地域自決の原則」が共に実現を図られねばならない、ということにもなる。

 いうまでもなくその「経済自立の原則」でいう経済は、共同体内で自己完結している経済である。それは必然的に循環的な経済でなくてはならない。そうでなくてはその経済はその地域の範囲を超えてしまわざるを得なくなるからだ。

 なお、以上の論理から既に明らかとは思うが、ここで念のために改めて強調しておかねばならないことがある。それは、以上述べてきたことは決して経済の保護主義化とか孤立化というあり方を狙うものではないということである。というより、むしろそうした見方をはるかに超えて、地球環境の蘇生を実現させて人類の永続を可能とさせるためには、《エントロピー発生の原理》に依拠して《生命の原理》を実現させる必要があるからだ、という理由に尽きるのである。

 このことから、工業に用いられる物質的そしてエネルギー的な資源についても、原則的には、すべてその地域の自然生態系が生み出してくれるものに限定されなくてはならない、ということが明確になる。このことは、工業も、その地域の再生可能資源と再生可能エネルギーに依存せざるを得ない、ということである。

 このことから、工業のあり方とその内容は従来とはかなり異なったものとなってくるし、異なったものにならざるを得ないのである。

これまでは、資源やエネルギーの乏しかった日本では、必要とするそれらについては、世界中のどこからでも輸入してきては、工業を成り立たせてきたし、またそれによって、地球全体の自然のメカニズムを壊し、人間が生きてゆくことさえできない環境にもしても来た。

 そこで、特に「先進国」と呼ばれている国に生きる私たち日本国民は、日本が本当に先進国と呼ばれるにふさわしい国であるかどうかはともかく————実は私は、日本は未だ真の「近代」にも至ってはいない、と見るのであるが(1.4節)————、ここで少し冷静に、あるいは理性的になって次の3つの問いを発し、その答えを国民一人ひとりがじっくりと考えてみる必要があるのではないだろうか。

 その1つ。

日常、テレビや新聞や雑誌に、毎日のように、繰り返しコマーシャルに登場してくる物品は、果たして、元々は生物としての私たちヒトが社会で「人間」として生きてゆく上で本当に必要なもの、不可欠なものなのだろうか、と。

 2つ目。

どんなに流行の最先端をゆく物や人の羨む高級な物品を手に入れたところで、そしてその時にはどんなに自己の欲求を満たし得たとしても、その物品は、時が経てば必ず古くなり、旧式にもなるものである。では、そうしたものを手に入れるために、自分の人間性を押し殺してあるいは犠牲にし、あるいは家庭を犠牲にし、他者との人間的な関係をも顧みずに、ひたすら企業に従順に働いてお金を得ることに執着することに、果たしてどれほどの意義があるのだろうか、と。

 3つ目。

果たして、私たちは、衣食住足りた以上のお金を得たところで、また「あれば便利」、「あれば快適」といった程度の代物を手に入れたところで、自身の「人間としての幸福度」は一体どれほど高まるものだろうか、と。

 

 実はこれら3つの問いを、一つにまとめるとこうなるのではないだろうか。

 産業界は、絶えず、彼ら自身が生き延びてゆくために、私たち人類(サピエンス)社会で「人間」として生きてゆく上で本当に必要なもの不可欠なものではない物なのに、それを“あれば便利”、“あれば快適”と喧伝し、さらには手を変え品を変えては“もっと、もっと”とメディアを動員してはそれらをコマーシャルに乗せ、私たちの購買欲を煽ってくるが、その時、私たちは、コマーシャルに流れるその物品を手に入れることに、またそのことに執着することに一体どれほどの価値があるのだろうか。果たしてそのようなものを手に入れて、私たちの「人間としての幸福度」は幾分でも高まるのであろうか。

 むしろ、私たちがそうした「流される」行動に出れば出るほど、私たちが人間として永続的に生きてゆく上で、あるいは私たちの子や孫たちが永続的に生きてゆく上でそれこそ本当になくてはならないもの、大切なものを却って壊し、また失ってしまうことになるのに、と。

 ここで言う「私たちが人間として永続的に生きてゆく上で、あるいは私たちの子や孫たちが永続的に生きてゆく上でそれこそ本当になくてはならないもの」とは、例えば、ゆったりと過ごせる時間。家族誰もが安心して居心地を確認できる家庭。他者との思いやりを持った人間関係。心身ともに健康な体。みんなで助け合い支え合って生きられる社会。私たちヒトを生かしてくれている自然。地球上の全ての生命を支えている食物循環を含む自然循環、等々である(7.4節を参照)。

 実際、人間の歴史を見ても、お金あるいは富を、必要以上に多く手に入れることに拘れば拘るほどに、その人間は概して不幸になって行っているように見える。また、民衆の心を無視して自身の野望の貫徹に執着する権力者の国家を見ても、いっときは威勢がいいようには見えても、結局は、その野望ゆえに、国を乱し、対立を生み、国民を不幸に陥れ、自らも不本意な死を迎えるということにしかならなかったのではないか、と私には見えるのである。

 

 こうしたことを真理として捉えるなら、もはや資本主義ではないし、これからの工業とは、またそこでの生産様式とは、「オートメーション・システムによる画一的大量生産様式」ではなく「大量の人間の協働作業による、多様な種類のものの多様な生産様式」とならざるを得ない。そしてその生産様式を支える技術とは、「等身大ないしは身の丈の技術」とならざるを得ない。それは言い換えれば、その物の中の仕組みがわかる技術、それが壊れた時には人間の手で直せる技術、そしてそれによってできた物を持つ人には作り手の思いを感じさせる技術だ。

そしてそれこそが、私は、その地域の再生可能資源と再生可能エネルギーと調和する工業の形態であると考えるのである。

つまりそこではもはや「ハイテク化」でもなければ「人工頭脳化(AI化)」でもない。

 ただその場合にも、地下資源や金属資源に乏しいこの国の場合には、どうしても地域社会にとって必要な機械や道具あるいは検査機器をつくるために必要となる資源あるいは材料は、外から取り寄せるしかないかもしれない。そしてそれなりの生産システムもどうしても必要となるかもしれない。

 そこで言う「どうしても必要となる資源あるいは材料」とは、たとえば、農業生産や林業水産業に用いる機械や資材、それにとくに医療関係の機械や器具そして検査機器、そして大災害時の被災者救済手段や復興作業のための重機等をつくるための資源ないしは材料、であろう。

しかしその場合でも、外から取り寄せる資源や材料の量と種類、そして機械類はあくまでも限定的でなくてはならず、主力はあくまでも再生可能資源と再生可能エネルギーとによる地域内生産となるのである。

 

 こうしたことから、地域の工業を含む全産業はその地域で得られる再生可能資源および再生可能エネルギーの量と質に大きく左右されることになる。ということは、それだけその地域の生態系を地域で独自にどれだけ活性化させ得るかということに大きく左右されることになる、ということでもある。なぜなら、再生可能資源および再生可能エネルギーは、結局のところ生態系が生み出してくれるものだからだ。

 したがって、その量と質を向上させるには、これまでのように生態系を放置しっ放しにしたり、汚染したり破壊することに無頓着であったりしては無理であって、むしろ地域生態系の全体を計画的に積極的に活性化させ、豊かに蘇らせることが同時並行的に必要となる。そうすることにより、より多様な自然資源を、その生態系からより安定的に、より多く、繰り返し確保できるようになるからだ。

 その際、その生態系を実際に活性化できる産業は、直接的には林業であり農業であり畜産業であり、あるいは水産業となる。そしてそのとき、その林業と農業と畜産業と水産業生態系を活性化するのに用いる機械や道具あるいは資材を提供するのは工業となるのである。

商業やサービス業はその場合、林業・農業・畜産業・水産業と工業との仲介をすることになる。

そしてその際、その生態系を活性化するのに用いる栄養は、林業・農業・畜産業・水産業と当該地域のすべての人々の暮らしの中から出て来る廃物であり排泄物となる。

 施された廃物や排泄物は、大気と水と一緒になって、その地域の生態系という熱化学機関の中を作動物質となって循環する。その循環を円滑にするためには、これまでその循環を遮断していた巨大構造物は撤去されるか、その構造物を作動物質が通過できるような工夫が必要となる———こうした作業も、後述する「真の公共事業」として行われる———。

 こうした努力によって、これまで小規模に分断されていた生態系は互いに循環によって連結して大きな生態系となる。その中で大気と水と栄養が、より大量かつより広範に、しかも安定的に循環するようになる。

 私は、こうした努力の繰り返しによって、気象をも安定性を取り戻させ、これまで気候変動の中で生じるようになった気象の局地化や局時化という現象も次第に解消されて行くようになるのではないか、と推測するのである。なぜなら、大気の動きも、地上の生態系の状態と密接に連動しているはずだからである。

 こうしてそれぞれの地域の自然はさらに互いに連結しながらいっそう広大な自然へと甦り、甦ったその自然は、大気と水と栄養を広域で、遮断されることなく循環することで、主に人類がその経済活動の中で発生させる莫大な量の余分なエントロピーを宇宙へと捨てさせてくれて、地球上のエントロピー量は一定に保たれるようになる。

そしてそのことは、必然的に、温暖化を抑え込み、同時に生物多様性の消滅を進ませないようにしてくれることを意味するのである。

 その結果、地球上の自然は、世界各地域に、人間と他生物が生きて暮らして行く上で必要充分な量の資源(この中には、農産物も林産物も水産物も畜産物もすべて含まれる)を持続的かつ安定的に生み出してくれるようになる————もちろんそこでは、まだ喰える喰い物を大量に捨てる、という文化もなくなる———。

 以上のこれが、槌田敦氏の言う、「自然のなかでの循環と社会の中での循環を、資源と廃物によって循環的に結合させる」(槌田敦「熱学外論」朝倉書店 p.166)ということの本当の意味なのだろう、と私は解釈する。そしてこれにより、人が生きて行く上で必要不可欠な衣食住を満たす資源も、社会を維持して行く上で必要なすべての資源も、持続的に手に入れられるようになるのである。こうして社会のすべての人々の暮らしもすべての産業も、この資源を活用させてもらうことで持続的に存立できるようになるのである。

 以上が、成り立ちにおいて本質的に異なる農業と工業という産業間での、「物質」面に着目した調和の成立のさせ方である。

 しかし、調和を成立させるには、もう一つ、「お金」の面でも考えておかねばならないことがある。

 それは次のようなことである。

 計画経済に属する農業に従事する人たちは、自分の労働を提供することで地域連合体から報酬としての賃金を受け取ることになるが、その賃金は地域通貨の形で受け取るのである(11.7節を参照)。そしてその地域通貨という現金が彼等の生活のすべてを支える所得となる。

 言うまでもないことだが、共同体としての地域連合体が支払う賃金の原資は、すべて、住民からの納税に拠る。ここで納めるべき税とは、住民税、環境税、固定資産税の三種である。

これまでこの国ではずっと納税を義務づけられて来た、例えば「所得税」「法人税」や目的税としての「ガソリン税」あるいは地方税としての「健康保険税」といったものはもはや「環境時代」でのこの「新しい経済」の下では消滅する。

 そしてその納税も、原則として地域通貨に拠るとする。ただし、住民の生活状況や都合により物納あるいは自己の労働を提供することをもって納税とすることもできる、とする。

 計画経済下に働く人々は、地域通貨という形で得た現金をもって自由経済システム下にある工業、商業そしてサービス業から自分の望みの物を買うのである。

 一方、自由経済に属する工業に従事する人々は、その自らの産業に従事することで得る、同じ地域通貨という形での現金をもって所得とする。自由経済下に働く人々はそれをもって自分の必要とする物、欲しい物を買うのである。

 以上が、農業と工業という観点のみから見た、一つの地域社会の中に成立条件と運営のされ方が根本的に異なる二つの経済システムが互いに「調和」し合って存続できるためのあり方、ということになる。

 林業や畜産業そして水産業と工業との「調和」の成り立たせ方についても、これまでの農業と工業の観点のみから見た方法と同様にすればよいのである。

「自然は毎日十分に我々の需要品を生産する。各自が必要量以上のものを取らなければ、世界に貧はないであろう」(「ガンジー聖書」エルベール編 岩波文庫 シューマッハー 「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫 小島慶三、他訳p.51より転載)とはインドのマハトマ・ガンジーの言葉であるが、これは正に私がここで言う自然と人間とのあるべき関係としての「新しい経済」と重なり合うように思われるのである。

 以下、「地域経済のしくみ」の(その2)に続く。

4.1 本書で用いる主要用語の再定義———(その2)

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4.1 本書で用いる主要用語の再定義————————(その2)

「民主主義」:

 時代がどのように変わろうとも、民主主義の意味とは次の表現に尽きるし、次の表現のままに誰にも理解され、理解されたその範囲で、自由自在に活用されるべき概念である。

 それは、「“権力は人民に由来し、権力は人民が行使する”という考え方と、その考え方がいつでも、どこでも生かされるように構築された政治形態のこと」

その意味は民主主義と翻訳されたデモクラシーの語源から理解されることである。

デモクラシーの元はギリシャ語のdemokratiaであって、それは、demos(人民)とkratia(権力)とを結合したものだからである。

 もちろんここに言う「権力」とは、既に明確にして来たとおりで、「他人を押さえつけ支配する力」のことである(広辞苑第六版)。

 政治家が権力を行使できるのも、国という共同体が成立した時点から全権力を掌握している国民から、選挙を通じて選ばれたからだ。それも、無条件に選ばれたわけではない。あくまでもその者が立候補した際に、“自分を当選させてくれたらこれを実現します”と言って掲げた公約を実現してほしいからとして選ばれたのだ。したがって、政治家が政治家となった際に行使できる権力は、自らが掲げた公約を、約束通り、国民の前で実現してみせるために必要な権力なのだ。

国民が合意しているのはそのためだけの権力の行使なのである。

 そもそも立法することは、国民すべてに、無条件に、「他人を押さえつけ支配する力」

を行使することであるから、最高の権力行使ということになるが、しかし、このことから判るように、政治家は、政治家になったからと言って好き勝手に権力を行使できるわけではない。言い換えれば、好き勝手に法律を成立させられるわけではない。

したがって、例えば、選挙時に公約にも掲げなかったことや、ましてや国民の大多数、少なくとも三分の一あるいは過半数が反対している法案を強行可決させるというのは民主主義議会政治に反逆する専制主義者としての行為なのだ。

 尤も、選挙時には問題にならなかったが、その後の社会や国の状況の変化によっては、政治的判断によってどうしても立法しなくてはならないということがままありうるが、その場合も、立法という権力の行使には、国民の合意が、先ず絶対に必要となるのである。

 つまり、権力の行使には、主権者であると同時に、被統治者でもある国民の合意が、常に、そして絶対に必要なのだ。

そしてそれこそが、“権力は人民に由来し、権力は人民が行使する”ということの真の意味なのである。

 いうまでもないことであるが、この民主主義の定義からも判るように、その国が民主主義の国、民主主義が実現されている国であるということは、その国の政治家は常に人民の声・要求に根拠を置いて、国民の代表として政治を行っている国である、ということである。またそれと共に、その国では、ただ任官試験にパスしただけの公務員と呼ばれる、官僚を含む役人一般には、一切の権力は与えられてはいないし、行使することも許されてはいない、ということでもある。

 だから例えば、官僚が、全国には幾万とその分野の専門家や知識人がいるにも拘らず、その中から、自分たちに好都合な答申をしてくれそうな専門家だけを恣意的に委員として、あるいは座長として人選しては「審議会」を設立し、その審議会を自分たちの思うままに仕切っては、「お墨付きを与えられた」として、自分の所属府省庁に利益をもたらす法案を作成しては、それを「縦割り」を前提とする全省庁の事務次官合意の上で閣議決定させるという権力行使は、日本を官僚に独裁させることで、最も非民主主義的な権力行使例と言える。

 したがって、もしそのような権力を、公式非公式に拘らず行使していることを目撃したなら、私たち国民は直ちにその事実を告発し、政治家には“それを速やかに正せ”、と要求すべきなのである。それは主権者としての義務でもある。

 なぜなら、主権者とは、国家の政治のあり方を最終的に決めることのできる権利を有する者のことだからだ。

 

 ところで、では民主主義とは何のために、何を目的として考え出された政治形態なのか。

いろいろな人種から成っている人類、多様な文化をもった民族、多様な欲望を持った人々の存在する中では、一人ひとりは、互いに違う人々、知らない人々の中にあって、他者に恐怖心や猜疑心を抱きやすく、時には万人の万人に対する闘争状態となりがちであるが、民主主義はそうした闘争状態を克服する手段の1つとして考え出されたものである。

 そこでは、どんな相手に対しても、その人が言っていることの正邪を判断する前に、先ずはその人が人間であるとして尊重し得ること、その人が抱えている状況や境遇を理解し共感し得ること、その人が語る意見がたとえ自分とは異なっても、それを語る権利はあるとしてその意見を意見として尊重できることが重要となる。と同時に、自分自身の独自性や才能をも相手に対して明確にしつつ、公共的なことにも参加し、他者と共に集団的な物語を築くことも重要となるのである。

 つまり民主主義とは、思想・信条・信教の自由、男女間・人種間・民族間の平等、強者・弱者の協働、連帯、博愛等々、私たちが普遍的価値とするものの真の意味を理解し、それを受け入れたときにだけ機能するものであって、その意味で民主主義とは倫理の実践のことでもある。

 それだけに民主主義は、他者の境遇や苦しみを理解する人間の側の度量にかかっており、互いに権利は平等なのだということを理解できるか否かにかかっている。

また民主主義はこうしたことができるように人間によって考え出されたものであり、それは手続きや制度を通して既述の普遍的価値を実現しようとする試みでもある。

 民主主義は、その意味で、歴史の中で生み出されてきた、人類による文明の最高の形態なのだ。

 この民主主義を実現し、それを維持するための最高の頼みの綱が国家なのだ。国、ではない。国家と国とは別物として、明確に区別しなくてはならない。

民主国家はきちんと機能すれば社会の気紛れや官僚の気紛れから究極的に市民を守ってくれる。民主国家が市民にそうした保護を与えることができるのは市民が頼りにできる確固たるルール(法)があればこそである。もちろんそのルールを作ることができるのは私たち国民が選んだ政治家だけである。このルールは政治家や官僚を含む国民皆が守らねばならないと同時に、市民の手で修正もできる。

民主国家は、官僚によるのではなく、仲介者としての政治家を通じて運営されている場合のみ民主国家となるのである(K.V.ウオルフレンp.342)。

 科学・技術・信教の自由の時代に生きている私たちではあるが、もし民主主義の価値観が世界で崩壊したなら、かつてない規模の戦争を目撃することになることは確実である。

だからこそ民主主義を守る価値は確実にあるのだ。今のところ、人間がみんなで生き残るための唯一の選択肢なのだから。

 その民主主義を守るためには、先ずは政治家も知識人も、そして私たち国民も、みな、今私たちが置かれている情況を明確に理解することが何よりも大事なこととなる。

政治家や知識人はとくにありのままの世界について考える責任があるし、その中で「可能な選択肢」を提示する責任がある。可能な選択肢を明確にし、「無理のある選択肢」を拒否することなのだ(ジャン=ピエール・ルゴフ)。

 

「自由」:ここで言う自由とは、「何でも自分の好き勝手にできる」という意味のものではない。それでは却って、自分が自分の欲望の奴隷になっているに過ぎない状態だからだ。

 また、自分を抑圧する者や拘束する力から解放された状態を表す狭い意味でのものでもない。むしろその両者を超えて、自分が置かれた現実の状況の中で、次々と自分の目の前に現れてくる事態や出来事に対して、それに対処しなければならないとなったとき、“自分にはこれしか選択肢はない”とか、“これしか選びようがない”と考えてしまうのではなく、先ずは無数の選択肢がそこにはあると考えられる心の柔軟さを持つことであり、また持てることである。そしてそのとき、その無数の選択肢の中から何を選ぶかについては、自分を利するだけではなく他者をも利する選択肢———そこに「調和」の考え方に基づく「博愛」「友愛」の精神が生まれる———を自らの判断で選びとることができ、さらにそれを選択した結果、目の前に現れる状況については、自ら責任を持って引き受けることなのである。

 その意味で、「自由」にはつねに「責任」が伴う。

 

「平等」:人間は、生まれながらにして、つまり裸で生まれて来たその状態において、国籍・肌の色・人種・民族・宗教・信教・性別の違いのみならず、一人ひとりの社会的立場や経済的立場の高低、それに持っている物(お金、財産、資格、肩書き、学歴等)の多寡や格差とは無関係に、みな同じ権利が与えられているということである。

 あるいは一人ひとりは皆、その人を「人間の個人」として見た時、生きる権利においてはもちろん、存在意義においても同等であるし、余人をもっては代え難い価値と尊厳を持っているという点においても同等である、とすることである。

 したがって、平等とは、単に「他者と外見や格好が同じであるべき」とか、「他者と同じことを同じようにすべきである」とかいうことでは断じてない。また「男として皆同じにすべき」とか「女として皆同じにすべき」ということでもない。

それではむしろそれぞれ個性も能力も異なる一人ひとりを、一つの規格あるいは枠に押し込めてしまうことだ。それでは今度は明らかに「自由」に反してしまう。

 そうではない。平等とは、精神の自由を保ちながら、上記の意味を各自が自分の頭で理解し、認識して、それをいつでも、どこででも行動に表せることなのである。

 自らの権利を主張する者は、他人の権利をも重んじなければならない。これも平等の精神から生まれる。自己の自由を主張する者は、他者の自由をも尊重しなくてはならない。これも平等の精神から生まれるのである。

「友愛」:互いにアチラを立てればコチラ立たずの関係にあるように見える自由と平等との間にあって、その両者を愛をもって、あるいは双方の存在価値と尊厳を認めることをもって仲立ちし、両者を調和のうちに成り立たせようとする心のありようのこと。

 それはちょうど、キャッチボールをする二人の間を行き来し、二人を結びつけるボールのような役割をなす、いわば心の媒介者である。

「生命の多様性」:人を含む多様な生物が多様な生き方をしている状態のこと。

 人を含めて生物は、どんな種どんな個体でもその基本的な成り立ちはみな共通である。が、その個性や能力そして作りはそれぞれが皆、わずかずつ異なる。生き方についても、外敵や環境との関係において、数が少なくとも種として生きられる生物もいれば、莫大な数でなくては種を保存できない生物もいる。有機物しか食べられない動物がいれば、無機物を有機物に換えて生きるしかない植物のような生物もいる。

人間についても、見かけは同じように見えても、性格も価値観も皆違う。

 しかし、この生命の多様性が実現され維持されていて初めて、人も他生物も、自然の中の個体としての生命として、あるいは社会の中の個人としての生命として生きられる土台ができる。

その意味で、それぞれの生命は、自分にとってだけではなく他者から見ても、互いに等しく掛け替えのない存在価値を持つのである。

 しかも、こうした生命の多様性がより豊かに保持されていればいるほど、その社会や自然は、内外からの撹乱———その中には攻撃や災害等も含まれる———に遭遇しても、そしてそのとき、たとえある数の生命が傷つき、また死んで犠牲になっても、社会の全体や自然の全体は、それまでの各種・各個体間の平衡を崩される可能性は低く、仮に平衡が部分的に崩されてもすぐに全体としての平衡を回復し得るのである。

 生命の多様性あるいは生物多様性とは、このように、内外からの撹乱に対する抵抗性を増し、生態系としての耐性と安定性、自然としての耐性と安定性、さらには地球上の全生命・全種の安定的存続を保障してくれる原理なのである。

 反対に、人間の経済行為によって、あるいは人間の利己的行為によって、多くの種が絶滅するようになればなるほど、「喰って喰われて」という食物循環の環がいたるところで寸断されてしまい、この「生命の多様性」が保証する生態系や自然の安定性は急速に、それも加速度的に崩れて行くようになる。

「生命の共生」:多様な生命が互いに生かし生かされ合って生きる状態のこと。

 誰が、あるいはどの生物が特別に生存する意義や価値があるというわけではない。どんな命も、生きる自由、生きる資格が、現在と現在に続く後世の自然全体から与えられている。

 このことから、地球上のどんな自然環境あるいは自然資源も、すべての命に、それらがともに生きるための、あるいはそれらが個体として生きられるための共有の財産として平等に与えられなくてはならない。

 またそのように多様な生命が互いに生かし生かされ合って初めて、彼等の頂点に君臨しているかに見える人あるいは人類も生き続けて行くことができる一条件が揃うことになる。

 生命の共生とは、このように、多様な生物が共に生きて初めて人も生きられるということを教えてくれる原理なのである。

「生命の循環」:ヒトを含む限りなく多様な生物が、種として共に生き、あるいは同じ生物

種が群としてあるいは個体として共に生き続けられるために、それらを一つの例外もなく互いに結びつけながら多様性と共生を同時に成り立たせてくれている生物全体のありようのこと。

それはちょうど、既述の人間世界における自由と平等の関係における友愛と同じ役割をなす。

 そしてこの循環こそが、自然界で、ヒトだけが特別な存在ではないこと、その一人ひとりはその人をその一部として含む多様な生物種とそれから成る膨大な数の生物群によってつねに支えられているということ、すべての生命は、皆どれも、「生きている」のではなく「生かされている」のだということを根拠づけるものとなっている

原理なのである。

「生命主義」:近代における民主主義を環境時代において止揚した民主主義のこと。

それは、人だけではなく他生物一般をも加えた民主主義ということである。

それだけに、近代の民主主義よりもはるかに高い次元の意識が求められる民主主義である。そこではもはや、人間の趣味や選り好みによる、たとえば、「ゴキブリはイヤ!」とか、「蛇や毛虫はイヤ!」などとは言っていられない民主主義である。

したがってそこでは、もはや、市民中心・人民中心という意味合いを持つ民主主義という表現は正しくはなくなり、生命主義とでも表現するしかなくなるのである。

「環境時代の科学」: 「近代」の科学は、見えるもの・計量できるもののみを対象としてきた。そこでは、フランシス・ベーコンが言ったように、なるほど「知は力なり」だった。その知は悪の力にも善の力にもなり得た。近代の科学は、その知あるいは知性の産物でしかなかった。知性は、事実を事実としてはっきりさせるという力であり、物を客観視した上で理論的に分析する能力であり、価値の問題には関わろうとはしないし、特にその物の価値を判断することは避けた。それだけに近代の科学は、例えば大量人殺し目的であれ、どのような目的にも奉仕してきた。

 近代という時代の科学とは、たとえばその代表格である自然科学をとってみても、それはあくまでも自然を観る無数の見方のうちの一つにすぎなかった。

それなのに、それは、客観的で、中立的で、普遍的な、唯一の正解をもたらすものだ、と科学者にも世間一般にも信じられて来た。

 そこでは、自然の中の多様な相互関連性・相互作用は無視され、一切の外乱が入らないようにして事象を最も単純化させた条件下において、部分を足し合わせればいつでも全体になるという仮説の下に、対象となる自然をバラバラに切断し、時間の経過を無視し、質を無視して、量的関係だけに着目してきた。

しかも近代の科学は、「資源は無限」、「空間は無限」という仮定を前提として、己の限界を知ろうともせず突き進んで来た。科学者も、その一人ひとりは、自分も、自分の遠い祖先も、またこれからの遠い未来の子孫も、いま向き合っているその大いなる自然に生かされて来たこと、生かされて行くことをも忘れて関心の赴くままに突き進んで来た。

 しかし、ポスト近代としての環境時代の科学とは、近代の科学とは明確に違う。

そこでは、自然あるいは生命一般は見えるモノと見えないモノとの統一物として存在していること、さらには、見ているもの着目している部分はあくまでも自然・社会・人間から成る全体の一部であり、その部分は全体とつねに統一されていることを明確に意識しながら、その対象とする部分を、全体との関係においてつねに動的に、つまり時間的変化を考慮する中で、分析と綜合を一体不可分にして、生き生きとした姿のままに、法則として認識しようとする、人間の自然とのよりよい共存の姿を求める行為となる。

 つまりこれからの環境時代の科学とは、単なる知性の産物あるいは科学者の単なる知的好奇心の産物としての科学ではなく、また軍需を含む産業界からの要請に基づく科学でもなく、その成果が自然と社会と人間に対して適用されたなら自然と社会と人類の遠い将来にわたってどういう結果がもたらされうるかを、その成果の限界を誰よりもよく判っている当の科学者自らが判断すると同時に、その成果を世に出すべきか否かを遠い人類の利益と大義の観点から厳正中立に審議するための第三者機関が設立され、その機関の下で公にされるべきか葬り去られるべきかの審判が下されるしくみを持った科学である。

 たとえばクローン(コピー生物)についてみたとき、それが人間であれ他動物であれ、自分の親が誰なのか判らない苦しみ、自分を愛してくれる者がいない辛さ一つ想像してみただけでも、その成果の適用の反人間的・反感情動物的な意味が判断できるのである。

 それは、核の抑止力の上に立った東西冷戦や核拡散防止条約の有名無実化に見るように、原爆や水爆、生物兵器化学兵器が一旦つくられてしまえば、消滅させることはほとんど不可能となるのに似ている。「覆水、盆に返らず」でもある。

 そしてそのことは、科学が技術以上に「諸刃の剣」であることを示しているのである。

 

「環境時代の技術」:これまでの近代の技術とは、近代の科学に支えられながらも、生産者の立場が優先され、生産者が作り出した製品を利用する立場の人をあくまでも「消費する者」と位置付けた上で、「生産性・効率性・コスト削減」を最優先する考え方の下に、そして「画一品を規格化しては大量生産」するという考えの下に、さらには、その製品は人が人間として生きてゆく上で本当に必要な物か否かということなど全く考慮することなく、捨てられた後には自然や環境はどうなるのかということなど一切考慮することなく、またその製品が生態系に撒かれたなら生態系はどうなるかということも一切考慮することなく、「とにかく商品として売ってしまえばおしまい」という考え方の下に、消費者には、「もっと便利に、もっと快適に、もっと豊かに」とその心理を煽り立てて消費行動を促しては、それを満たすために、地中深くから化石エネルギー資源や鉱物資源を掘り出して大量に浪費し、廃棄させる技術だった。そしてその結果、生じたのが既述の「環境問題」だった。

 環境時代の技術はそうした人類の死活に関わる環境問題を引き起こした技術と明確に異なる。というよりそのような技術のあり方とは正反対に、いたるところで遮断され、また分断された自然を、統合された自然へと再生し、修復し、復元することをつねに念頭に置きながら、先に定義された科学の諸結果を、特定の物の生産現場において意識的に適用する技術である。そしてそれは、「人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」(武谷三男著作集 第1巻 勁草書房 p.139)とする旧来の技術の概念をも「環境時代」という新しい概念の中で止揚するものである。

 それは言い換えれば、究極的には、人間社会と自然を連結した一つの熱化学機関として蘇らせながら、地球表面上に溜まりに溜まった廃物と廃熱を処理し、地球そのものを最大の熱化学機関として蘇らせると同時に、その廃物と廃熱に付随して生じて地球上に溜まりに溜まった余分のエントロピーを宇宙に捨てられるようにする技術である。

 だからその技術は、人間の身の丈のスケールをはるかに超える巨大技術や宇宙「開発」技術でもなければ、同じく人間の身の丈のスケールをはるかに下回るマイクロテクノロジーでもナノテクノロジー(ナノとは1ミリメートルの100万分の1)でもない。どこか一部でも故障すれば全取っ替えしなくてはならないような、資源の大量浪費を不可避とする技術でもない。

むしろそれは、人間の誰もが持っている掛け替えのない体の一部の機関である「頭」を良く働かせ、「手」「指先」を器用に働かせ、「労働の歓び」「達成感」をもたらす技術である。それはむしろ、この国のかつての「匠」の「技(わざ)」、ドイツの「マイスター」の「技」に近い。そしてそれは、人間を全的な人間として成長させ、持続的な幸福をもたらすための手段ともなる技術である。

 もちろん、原爆や水爆、そして化学兵器生物兵器のように、ひとたびつくられ使用されたなら地球上の生物を死滅させかねないものであるはずもない。

 そしてそれは、詰まるところ、私たちが生まれ住んでいるこの地球は、この広大無辺な宇宙の中で、現在判っている限り唯一無二の奇跡の惑星、水の惑星であり、私たちが気軽に裸でも生きられる星は宇宙広しといえどもここしかない、ここでしか私たちは命を未来へと繋いでゆくことはできないという認識に立った技術である。

現代版「ノアの方舟」と思われる「宇宙開発」や「宇宙ステーション」などという発想はほとんど無意味、というより宇宙空間を廃物と廃熱で汚して有害だし、そのようなものに期待を抱かせるのは罪でさえある、と私は考える。

「これからの経済」:次に示す4種類の行為ないしは過程と、それら4種類の行為・過程を通じて形成される人間と人間との社会関係と、人間と人間社会の自然(生態系)に対する一方的な従属関係の総体のことを言う。

 すなわち、①人間の共同体そのものを存続させるための、人の再生あるいは再生産にかかわる行為ないしは過程、②共同体の存続そのものを可能とさせる一次財の再生あるいは再生産のための自然の再生・修復・復元にかかわる行為ないしは過程、③共同体での生活の基礎をなす物質的二次財の生産に供する資源としての一次財を自然(生態系)から持続的に利用させてもらうための行為ないしは過程、④物質的二次財の生産・流通・分配・消費・廃棄あるいはその再利用に関わる行為ないしは過程と、それら4種類の行為・過程を通じて形成される人間と人間との社会関係と、同じく4種類の行為・過程を通じて形成される人間と人間社会の自然(生態系)に対する一方的な従属関係の総体のこと。

 なお、「近代」の経済とは、一般に、次のように定義されてきた。

 「人間の共同生活の基礎をなす財・サービスの生産・分配・消費の行為・過程、

ならびにそれを通して形成される人と人との社会関係の総体。」(広辞苑第六版)。

「経済成長」:これからの時代の経済成長とは、次の数式で表された結果のことを言う。

(上記に再定義された経済の活動によって、今年実現された個々の人間としての、あるいはその人間集団である社会としての、さらには国としての成熟度)−(同じく上記に再定義された経済の活動によって、昨年実現された個々の人間としての、あるいはその人間集団である社会としての、さらには国としての成熟度)

 ここに言う「成熟度」には、金銭の流れの「量」のみならず、経済活動によるその国の人々の幸福度や豊かさ感の増減の度合いや、男女間の権利の平等性の達成度や、自由や民主主義の達成度といったものが数値的に変換されたものも含まれる。また、経済活動による、その国の自然環境の汚染や破壊の進展度もマイナスの数値として含まれる。

 これまで「経済成長」という概念はGDP国内総生産)という指標を用いて表現されてきた。

ところがそのGDPには、金銭の流れを生む人間のすべての行為が含まれてしまっていたのだ。だからそこでは、例えば、環境を汚染する人間の経済活動も含まれていたし、資源を乱用する行為も含まれていた。例えば、まだ十分に使えるビルや構造物をあえて解体しては作り変えるといった行為がそれだ。それに、富の公正な分配ということも考慮しない経済活動も含まれていたし、社会の持続性ということも考慮しない経済活動も含まれてしまっていた。その反面、そうした経済活動によって、その国の人間の幸福度や豊かさ感がどれだけ増減したかとか、あるいは男女間の権利の平等性はどれだけ達成されたかとか、世界が普遍的価値と認める「自由や民主主義」はどれだけ達成されたかといったことが数値的に変換されて計量されるということはなかった。

 要するに、GDPとして計量されるのはあくまでも金銭の流れの「量」のみであって、しかもそこでは、そうした金銭の流れが起こる過程で、人間にとって、あるいは世界の人類にとってかけがえのないものの何がその国ではどれだけの量が失われたか、また、再生不能な自然や資源の何がどれだけその国では失われたか、という「人間にとっての価値」や「人類全体にとっての価値」の消失ということについては、一切考慮されるものではなかった。

 しかしそのことは、近代という時代を支配してきた経済のあり方が前述の定義で表現されるものであったこと、またその経済の成長を促してきたのが、これも既述した特性を本質に持つ「知性」に依る科学であったことを考えれば必然でさえあった。

 そしてそれだけに、近代の定義による経済の「成長」は、個々の人間にも、またその人間の集合体である社会にも、またその人間や社会を生かしてくれ、成り立たせてきてくれた自然に対しても、解決も克服も不能な難問を生じさせ、その結果、人間も社会も自然をも生き続けてはいけない「持続不可能な事態」を生じさせてしまったのも、また必然ではあった。

 つまり、このことから証明されるように、経済を成長させればさせるほど人類の存続の可能性を狭めてしまう近代の「経済成長」の概念は根本的に間違っていたと言えるし、そこには根本的な矛盾があった、ということだ。

 こうした事情から、「経済」という概念を前述した環境時代の経済の概念に止揚させると共に、「経済成長」の概念も、ここで再定義するものへと止揚させる必要があるのである。

 その「経済成長」とは、言わば、新たに定義された持続可能な「経済」の下での、人間としての、あるいは人間集団である社会としての、さらには国としての、量と質の両面を足し合わせた全体としての成熟度とでも言えるものだ。

 

「これからの開発」:つぎの2つを統合した、人間の自然と文化に対して働きかける行為のことである。

 1つは、着手しようとする対象を、自然界での食物循環を含む広義の物質循環が、これまでの資本主義に基づく経済活動によって分断されあるいは遮断されて縮小させられてきた生態系として捉えながらも、そこだけに着目するのではなく、その対象と周囲との関係を動的に、つまり時間の経過をも具体的に考慮しながら、人間の労働を通じて、互いに積極的に連結させて、常により広域の生態系へと拡大するよう、事業を進めること。

 たとえばその対象が開発が求められる土地ならば、その場合、その土地を単なる生産手段あるいは資本主義的価値を増やす手段としてだけ見るのではなく、地域固有の生命の多様性と共生と循環を担う生態系の一部として見直し、着目する土地とそれの周囲の土地との間での生態学的連続性をも積極的に促進する、ということである。

 1つは、旧時代の経済至上主義あるいは市場経済によって消滅させられあるいは埋もれさせられてしまった文化に光を当て、必要に応じて甦らせながら、そこの人々がそこの自然の中で培って来た伝統の文化と、その文化に込められて来た人々の智慧を学び、それらを積極的に活かし、またそれを洗練させて行くこと。

 この二種類の、人間の労働あるいは自然と文化への働きかけを統合する行為のことを、「これからの開発」とするのである。

 この意味で、ここで定義する「これからの開発」は、少なくとも従来の次の3つの「開発」の概念とは明確に区別される。

一つは、国連が提唱している、いわゆる「持続可能な開発」と訳されている「Sustainable Development」(SDと称する)なる開発。

もう一つは、日本の国法の1つである「都市計画法」の中で言う「開発」あるいは「開発行為」。

そしてもう一つは、市場経済を至上とする世界銀行アジア開発銀行、アフリカ開発銀行などの多国間開発銀行とIMF(国際通貨機関)そして投資家たちが優先する「開発」。

 参考までに、それぞれの中で「開発」は次のように定義されている。

SDでは、「未来の世代が自らの必要を充足しようとする能力を損なわないようにしながら、同時に現在の必要をも満足させられるような開発」。

都市計画法では、「建築物の建築または特定工作物の建設の用に供する目的で行う土地の区画形質の変更」(第四条12項)。

 市場経済至上主義者の開発とは、どのようなものであれ、一応は、「敢えてその物には希少性があるかのようにしては、それを、より価値ある商品として売りさばいては、利益の極大化を画策する行為」と定義できる。

 SDの定義は、余りにも抽象的すぎて、現実の諸問題に適用するには不向きであり、むしろほとんど無力と思われる。

 都市計画法での開発とは、一見して誰もが判るように、結局は、単に土地の区画を変え、土地をいじることでしかない。

 この都市計画法の「開発」の定義には、土地は人間がその上で生かされている土台であるという意識も全く見られなければ、土地を生態系の一部と見る視点も全くない。むしろ土地は人間の都合でどうにでもなるという傲慢な態度そのものが現れている。

 実際、この「開発」の定義に基づく人間の経済行為が政府の建設省あるいはその後継である国土交通省の官僚による許認可に因って、この国の世界に誇る美しい自然がどれほど傷め付けられ壊されて来たことか。そしてこの「開発」の定義こそ、田中角栄の「日本列島改造論」という土建国家構築構想の実現を可能ならしめ、日本を土建国家とすると共に、日本中の大都市・中小都市を、歴史と文化を掻き消し、どこもかしこも、「調和」させようもないスクラップ・アンド・ビルドの建築群から成る、金太郎飴的な、無機的で殺風景の空間とさせて来てしまった。

 またその結果として、日本の大都市に生きる国民の大多数は、今や、時間の大きな流れの中での自分の立ち位置を見失い、自分たちの心の拠り所をも失い、精神的に根無し草になってしまっているのである。

 

「進歩」:現実の暮らしあるいは経済活動の中で、時々刻々現れてくる無限の選択肢を前に

して、より多くの物事の相互関係について、その「調和」の実現を意識して選択できるようになってゆくこと。

 あるいは、自然と社会における物事をより広範囲の「調和」の実現に向けて自己そのものを支配しうる能力が高まって行くこと。

 あるいは他者の利益と幸福のために、先に定義済みの「自由」を欲しいままに使いこなせる人間になって行くこと。

「便利さ」:ある物事の目的を達成あるいは実現するために、もしもそれがなかったなら、最初から最後まで自分で考え、自分の手足を動かして対処しなくてはならないものを、あるいは自ら注意を払い続けなくてはならないことを、あるいは達成可能な範囲を広げたいと思うことについて、その目的を果たす全行程あるいはその一部を、他の機械あるいはシステムに代行してもらえることであり、また、その時に味わう気分のことであり、その気分の度合いのこと。

 

「安全保障」:これからの「環境時代」における「安全保障」とは、従来の「外部からの侵略に対して、国家および国民の安全を保障すること」という意味の安全保障に加えて、「環境問題」の悪化に因って生じる自国の国土と国民の生命と暮らしの安全に対する安全保障をも意味するものとする。

 なお、ここに「環境問題」の悪化に因って生じる自国の国土と国民の生命と暮らしの安全に対する安全保障とは、例えば、地球温暖化・気候変動あるいは生物多様性の消滅に因って生じた自然大災害に対する安全保障をいう。その自然大災害の中には、干ばつや冷害や特定昆虫の異常大量発生あるいは巨大化台風被害による食糧危機、国民が免疫を持っていない新型ウイルスによるパンデミックの危機をも含む。

 なぜ安全保障の概念をこのように改めるかというと、「外部からの侵略に対して、国家および国民の安全を保障すること」を意味するとされ、国家間でもそのように理解されて来たこれまでの安全保障の概念だけではこれからはとても不十分だからである。

と言うより、「環境問題」の悪化に因る国土と国民の生命に対する安全保障の方が、当初の意味での「外部からの侵略に対して、国家および国民の安全を保障すること」よりもはるかに身近で切実な問題となってきているからだ。

 なお、この場合、上記両者の安全保障を可能ならしめうるか否かの鍵を握るのが、この日本という国が本物の国家となり得ているか、ということだ。

その意味は、国土と国民にまさかの事態が生じたとき、国土と国民の安全を速やかに、かつ確実に守れる統治の体制が整えられているか否か、ということであり、言い換えると、この日本という国が本物の首相と本物の閣僚からなら本物の政府を持った本物の国家となり得ているか、ということでもある。

 それはさらに言い換えれば次のようになる。

 本来公僕である官僚・役人をコントロールするのが主要な役割でもある国民から選ばれた政治家たちが、もはや官僚への依存体質を止め、明治期以来、官僚たちが築いてきた政府の行政組織の「縦割り」を速やかに廃止し、外郭団体を含む全政府組織を風通しの良い組織に改め、国の統治上重要な全ての情報が、途中で握りつぶされたり滞ったりすることなく、合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者にまで最速で届く体制を整えることなのである。

4.1 本書で用いる主要用語の再定義———(その1)

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 現在、私は、拙著「持続可能な未来、こう築く」の中の第11章を公開中ですが、そして前回は11.4節を公開しましたが、今回と次回は、やや突飛な感はぬぐえないかもしれませんが、以下の理由により、これまで未公開なままにしてきた第4章の1節、つまり4.1節の「本書で用いる主要用語の再定義」について公開しようと思います。

 近年、この国では、私たち日本国民にとっての母国語である日本語が非常に軽々しく扱われるようになっています。それも、特にメディアに登場するような人たちの間で目立っています。せっかく先人たちが苦心して創り用いられてきた立派な日本語があるのに、それを用いずに、一体どういうつもりなのか私には判りませんが、やたらと英語もどきカタカナ表現をして見せるのです。そうした表現をした方が格好いいと思うのか、それともその母国語を真正面から用いるのが気がひけるのか、あるいは母国語に劣等意識があるのでしょうか。それとも、いつものように、他者が使うから自分もただそれを真似して使うだけという、自分というものを持たない姿をさらけ出しているだけなのか。なのか。

 例えば、尊敬という言葉をリスペクトと言ってみたり、道徳をモラルと言ったり、驚きをサプライズと言ったり、協力をコラボレーションと言ったり、危険をリスクと言ったり、警報をアラートと言ったり、証拠をエビデンスと言ったり、事実をファクトと言ったり、遺産をレガシーと言ったり、伝説をレジェンドと言ったり、復讐をリベンジと言ったりするのがそれです。また、災害予測をハザードと言ったり、優先順位付けをトリアージと言ったり、動機付けをモチベーションと言ったり、保存館をアーカイブと言ったりするのもそれです。

 あるいはかえって判りにくくなるのに、どうしてそこまで言葉を短縮して表現しなくてはならないのか、それほどまでに時間に追われているのか、と思われてしまうものもあります。発雷、発災、人流、等がそれです。

 そうした行為がどれほど母国語を衰えさせることになるか、またそれがどれほど軽薄な姿に映るか、著名人気分のご本人は気づいてもいない風です。本当に母国語を大切にしている人は、こうした姿は見せないのではないでしょうか。事実、例えば、英語を母国語とする人々で、自国を愛し、誇りに思う人々は、こんな外国語表現をするでしょうか。

 なお、こうした私たち日本国民の、その中でも特に近年の著名人の母国語に対する言語感覚と並んで、私にとってもう一つ極めて憂慮されることは、この日本という国の最高責任者たる首相とその周辺の政治家の言葉に対する認識と理解の余りの低劣さです。情けなく、また悲しいとしか言いようがない様です。残念ながら、このような人物が国際社会での「日本の顔」なのです。

 政治家の用いる言葉は、社会の他のどんな職業の人が語る言葉よりも重く、またこれ以上にない責任を伴うということが、彼らには解ってはいません。

 なぜそれほどに重く、責任があるか。

政治家こそが、その国の国民全ての人々の生命の安全と、自由の実現と、財産の確保の安全に直接影響を与える様々な法律や制度や政策を公式に決定できる権限と権力を、国の主権者である国民から、選挙を通じて付託されているからです。

そしてこうしたことを決めるにも、政治家は、つねに言葉をもって、国民に説明し、了解を得る必要があるのです。権力の行使にはつねに国民の合意が必要なのです。

 したがって、彼らが用いる言葉の意味内容とその言葉による論理は国民にはつねに明確でなくてはなりません。とりわけ政府という執行機関の長としての首相とその首相に任命された閣僚にはその自覚と能力が強く求められるのです。
そうでなかったなら、語る言葉の意味が政治家と国民との間で共有できないからです。それは議論の場である議会においても同様です。意味内容が明確となり、またそれが関係者の間に共有された上で、論理が明快でなかったならで、生産的な議論などできないからです。

 ところが、今の自民党政権の首相と閣僚たちの多くは、小学生に対してさえ恥ずかしい言語感覚です。菅義偉などは、議論の殿堂である国会において、質問には直接答えずに、同じ文言を6回も繰り返す始末です。国語の授業で「質問されたことに対して的確に答えること、そうでなかったらそれは答えたことにはならない」と教えられ、テストでも、それを守らなかったら×と教えられた小学生に、彼は、一国の総理大臣として一体なんと説明するのでしょう。

 たとえそれが国語の能力の欠如、議論ということの無知によるのではなく、意図的なはぐらかしであったとしても、この事実一つとってみただけでも、菅の態度は国民と民主主義と議論を愚弄する態度です。もうそれだけで首相どころか政治家失格と言うべきです。国旗の前でその都度恭しく頭を下げて見せる愛国心が見せかけでなく本物ならば、首相という座を自ら潔く辞するべきでしょう。

 本節では、言葉はあくまでも正確に用いられなくてはならない、意味内容は常に明確でなくてはならないという議論の際の原則を守るために、本拙著で用いている主要言語の意味内容を、著者である私なりに再定義しておこうと思います。

 本拙著では、常にこの再定義に基づく言葉の用い方をしてゆきます。

 

4.1 本書で用いる主要用語の再定義————————(その1)

 人が相手に対して何かを語ろうとするとき、あるいは複数で議論するとき、そこで用いている言葉の中でとくに要となる言葉の定義がなされていなかったり曖昧であったりした場合には、聞き手は、聞き手自身が以前から理解している意味のとおりに解釈してしまいがちなものだ。そうなると、その相手の人(たち)に伝えようとしている当人の意図は相手に正確に伝わらず、むしろすれ違いを起こしたり、ときには誤解すら生んでしまったりする可能性がある。

それでは議論は無意味になるどころか、時間の無駄でさえある。

 そこで私は、本書を書く上で、私にとって要となると考えられる用語について、その意味の正確な共有化を図るために、私なりに「定義」しておこうと思う。

 再定義を試みる用語とは次のものである。

「生命」、「自然」、「生態系」、「近代」、「近代化」、「環境問題」、「環境時代」、「社会」、「国と国家」、「地域」、「公共」、「権力」、「市民」、「新しい市民」、「原理」、「原則」、「理念」、「調和」、「民主主義」、「自由」、「平等」、「友愛」、「生命の多様性」、「生命の共生」、「生命の循環」、「生命主義」、「環境時代の科学」、「環境時代の技術」、「これからの経済」、「経済成長」、「これからの開発」、「進歩」、「便利さ」、「安全保障」

「生命」:外界から取り込んだ水と栄養(物質あるいはエネルギー)をその個体の内部の全域に分配し、その結果生じた廃物と廃熱と余分のエントロピーを外部に捨てるという循環過程を持続させることによってその個体としての全体を維持してゆく熱化学機関としての物質的実在であるだけではなく、性的に相異なる雄と雌という個体の「調和」的合体により、その雌雄の存在期間を超えて行く新たな個体を生み出す能力を持った物質的実在のこと。

「物質代謝」あるいは「新陳代謝」とは、こうしたモノの摂取と排出という全く相反する過程を通してその個体を構成する物質を変化させながら「内」と「外」とを連結させることを言い、「適応」とは、内と外とが互いに調和の関係を保つように維持することを言う。

 なお、その個体の内部と外界が、内部での循環と外界への廃棄ということを通して調和して連結しえているときには「健康」であり、内部に溜まった廃物・廃熱・余分のエントロピーを外界に捨てることが困難になったときには「病気」になり、それらを捨てることができなくなったとき、あるいは外界との関係が遮断あるいは分断されたとき、さらには外界に捨てる場所・空間がなくなったときには、内部の循環も止まり、全体を維持できなくなって「死」を迎えることになる。

 後述の「調和」の定義を参照。

「自然」:その地域に固有の地形・地質・気候等の諸条件の下で、その一部を孤立させると全

体が歪められてしまうという関係でどの部分も互いに連結して全体を構成し、しかもその全体は、一様に太陽エネルギー(太陽熱)を受けながら、水と大気と養分を作動物質として、質も規模も無数に異なった種類の循環をその中に生じさせながら、その過程において多様なあらゆる個々の生命を生かし、最終的にはその循環過程で発生した余分のエントロピーを熱に付随させて宇宙に向かって捨てることで全体のエントロピー量を一定に保っている、それ自体が生命体としてのしくみをもつ熱化学機関のこと。

 この「自然」は、岩石、土壌、河川、海洋という無機環境と、そこを生息場所としている植物、動物、微生物に分けて考えることができる。しかし、この無機環境(非生物的環境)と生物とは密接に結合していて、個々バラバラに切り離しては自然は存立できない関係にあるのである。

 

「生態系」:あるまとまった地域に生育する生物のすべてと、その生物の生育空間を満たす無機環境が形成する、上記の「自然」を構成している部分としての一つの系のこと(只木良也・吉良竜夫編「ヒトと森林」p.25)。そしてそれ自体も、地域固有の熱化学機関である。

 

「近代」:次のような自然観、価値観、人間観、世界観が主流となり、たとえば人間の真の幸せや豊かさのこと、他生命のこと、環境のこと、資源のこと、伝統文化のことなど二の次、三の次にして、とにかく価値を果てしなく増殖することを全てに優先することを本質とする資本主義経済を社会の支配的なしくみとしながら、それを最高度に発達させた反面、他方ではあらゆる矛盾を顕在化させ、激化させた時代のこと。

 そこでいう自然観とは、自然は人間の幸福実現のための手段であるとする前提条件の下、自然を細切れにして分析し計量化し因果律をもってすれば自然は合理的に認識でき理解できるとする見方であり考え方。

 価値観とは、自然を人間の都合よいように改変することによって人間はより多くの富が得られ、その富を所有することでより多くの自由が実現でき進歩できるとする見方であり考え方。

 人間観とは、経済活動に道徳は無用としながら、企業により多くの利益をもたらしうる人間ほど価値ある人間と見る見方と考え方。

 世界観とは、世界は右上がりの直線状で果てしなく発展を続けうるという見方であり考え方。

「近代化」:上記の人間中心の自然観、価値観、人間観、世界観等のすべてを確立させ、より多くの物質的金銭的利益を得ることが人間が豊かになることであるとして、資本主義経済を支配的な仕組みとする中で、その資本主義に適合するように、あらゆる社会の仕組みや法制度を整えようとする社会的動きのこと。

「環境問題」:近代、特に産業革命以降に急速に発達した資本主義による果てしなき価値の増殖を追求する経済活動によって、元々は人間の経済活動とは独立していて、地球上のあらゆる生命を生かしてきた地球表面近傍での「大気と水と栄養」の循環が至る所で途絶えさせられ、その結果、地球がもはや一つの連続した生態系もしくは生命体あるいは一つの熱化学機関であることができなくなり、人間が排出した様々な廃物と排熱が地球表面上で処理できなくなると同時に、廃物や排熱に付随して発生した「エントロピー」という汚れも宇宙空間にうまく処理できなくなり、それまでの地球上での自然現象や生命現象の安定性・再現性・周期性をも次々と急速に失わせてしまっている諸問題の総称。

 結果として、次のような現象が頻発している。

紫外線の強烈化。高温化。一日の中でのめまぐるしい気象変化と気温変動。季節の区切りの不明確化。干ばつの頻発化。河川や湖沼での渇水。井戸の渇水。前例のない竜巻・突風の頻発化。台風やハリケーンの大規模化と強力化。異なる地での熱波と寒波の同時発生とその頻発化。異なる地域での大洪水と大干ばつの同時発生とその頻発化。森林や熱帯雨林の消失と砂漠化。草原の砂漠化。氷河・氷山の溶解による消失。永久凍土の融解によるメタンガスや炭疽菌等の発生。海面上昇と国土の消滅の大量発生。凶作・飢餓・飢饉の頻発化。生物の多様性の消失。またそのことに因る特定生物種の異常発生と絶滅。感染症マラリアデング熱等)の頻発化とその拡大、・・・・。

 

「環境時代」:人類を含む全生命の存続を不可能としてしまう環境問題を引き起こした根本原因としての近代の自然観・世界観・価値観を超えて、さらにはこれらのものの見方の下に発展させてきた資本主義による大量生産様式を含む経済制度とその中で普及させてきた生活様式をも転換させて、もはや「資本の論理」や「競争の原理」に拠るのではなく、また人間中心の「自由」や「民主主義」に拠るのでもなく、人間個々人にとっての最高の価値と見られる「幸福」を頂点とする「人間固有の諸価値の階層性」の存在とその実現を念頭に置きながら、《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》とを国や社会の主導的原理と定める「生命主義」を実現させることを人類全体の主たる目標とする時代のこと。

 すなわち、人類史において「近代」という時代が果たしてきた役割と使命が意味を持つ時代は終焉を見たとする「ポスト近代」としての時代のことで、もはや人類中心主義の時代ではなく、人類を含むあらゆる多様な生命が自然界においてその本来の存在意義と役割を果たしながら、互いに他生命を尊重しながら生きるべきとする新しい時代のこと。

「社会」:個としての人が、共に住み共に働き、互いに支え合い、自分の必要を等しく満たしながら、互いに人間らしく生きて行けるようになることを目指す人間の一集団のこと。

 ここでの「必要」には、単に経済的なものや物質的なもののみならず、宗教的・精神的・文化的・芸術的なものまで、さまざまなものが含まれる。

「国家と国」:社会を上記のように定義するとき、国家とは、その社会がその社会を構成するあらゆる個人または集団に対して合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合されている社会のことを言う。

 とくにこの定義を日本国に当てはめようとするときには、「合法的に」と「最高な」と「一個の」という文言に注意を払う必要がある。

つまり、政府組織内あるいは行政組織内の実態が、いわゆる「縦割り」のままであったり、各府省庁間の連絡や意思疎通がなかったり、合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者に国の運営上必要な情報が速やかに伝達されなかったり、ましてやその情報が一部の者によって途中で握りつぶされたりするような政府の状態は、国家とは到底言えない。

 なお、国家と中央政府をはっきりと区別することは極めて重要である。それは、国家の目的は国家の成員が彼らの欲望の最大満足を得ることができるような条件を創り出すことであるが、その国家自身は決して行動しないからである。そのため、国家は、その目的に沿って、政策を決定する権限を得た人々———すなわち、選挙で主権者から選ばれた人々、つまり政治家である。官僚ないしは役人ではない———に代わって行動してもらうのである。

この一団の人々をこそ私たちが国家の政府と称するものなのである。

 したがって、政府は国家の代理者に過ぎず、政府そのものが国家なのではない。

政府はあくまでも国家の諸目的を遂行するためにのみ存在するのである。

その政府は、それ自体が最高強制権力なのではなく、ただ、この権力の諸目的を実現する行政の機構に過ぎない。

 このことから、政府のことをクニと呼ぶのは明らかに間違いである。

ついでに言えば、都庁のことをト(都)と呼ぶのも、道庁のことをドウ(道)と呼んだり、府庁のことをフ(府)と呼んだり、県庁のことをケン(県)と呼んだりするのも明らかに間違いだし、市役所のことをシ(市)と呼んだり、町役場のことをチョウ(町)と呼んだり、村役場のことをソン(村)と呼んだりするのも、明らかに間違いである。

 そうした呼び方では、いずれも、行動する代理者を指し示していることにはならないからだ。

「地域」:気候的・地形的・地質的・伝統文化的・歴史的に見て、一つの共通性を持った地

理的範囲のこと

「公共」:辞書的には単に「社会一般」あるいは「おおやけ」と説明されるが(広辞苑)、本書では、人民・住民・国民あるいは市民と呼ばれる政治的主体からなる社会一般のこと、と定義する。

 だから公共とは、明治期に「お上」と呼ばれた「天皇」のことではないし、その後、官庁と呼ばれた中央政府のことでもなければ、ましてやそこに働く官僚のことでもない。また役所と呼ばれた地方政府のことでもなければ、同じくそこに働く役人のことでも決してない。

 したがって、現行日本国憲法第二十九条に言う「公共の福祉」とは、役所や役人にとっての幸福の意味ではなく、人民・住民・国民あるいは市民からなる社会一般にとっての幸福の意味となる。

 このことから、たとえば「公共事業」とは、役所や役人のための事業ではなく、あくまでも上記構成員からなる社会一般の福祉のため、あるいはそれを向上させるための事業のこと、となる。

 なお、「公共性」とは、以上のことから、人民・住民・国民あるいは市民一般にとって役立つという意味を強く持つだけではなく、一人ひとりの個人の誰にでも開かれ、公開されているという意味をも持っているのである(中村雄二郎「公と私についての考察」岩波「世界」1975年6月号)。

 これまでは、「公共機関」と言うと、同じく辞書的には「国や地方自治体が設置する機関、また、電気・ガス・通信・交通など、公共的性格の高い事業を営む機関」と説明されてきたが(同じく広辞苑)、それはきわめて誤解をもたらす説明であることが判る。それらの機関は、日本ではほとんど私企業であり、上記の公共性とは相容れない私的利益の追求を最優先にして来たからだ。

 したがって、これからの「公共機関」の定義とは、「人民・住民・国民あるいは市民一般にとって役立つ事業を行うと同時に、その運営のされ方がその社会の個人の誰にでも開かれ、公開されている機関のこと」、とされるべきであろう。

 なおここで、公共を構成する人々の呼称を整理することをも私は試みる。

それは、この国では、歴史的に、統治者や権力者によって使い分けられて来た言葉の種類が余りにも多いからである。整理の対象とするのは、「大衆」「平民」「庶民」「民衆」「公衆」「公民」「人民」「住民」「国民」そして「市民」である。

 それらは、辞書的には、これまで、次のような意味の人々とされて来た。

大衆とは、納税の義務を含む社会的義務を果たすことを互いに合意した、未組織の一般勤労階級のこと

平民とは、官位のない世間一般の人々のこと

庶民とは、もろもろの民。世間一般の人々。貴族などに対し、なみの人々

民衆とは、世間一般の人民のこと

公衆とは、特定の個人に限定されない社会一般の人々のこと

公民とは、国政に参与する地位における国民のこと

人民とは、国家・社会を構成する人。とくに国家の支配者に対して被支配者のこと

住民とは、その土地に住んでいる人のこと

国民とは、国家の統治権の下にある人民のこと。国家を構成する人間。国籍を保有する者。

市民とは、広く、公共空間の形成に自立的・自発的に参加する人々。

 しかし、環境時代の今後は、公共の構成員としての呼び名はせいぜい国民・住民・人民・市民の4つで十分なのではないかと私は思う。そのうちでもとくに今後ますます重要な社会的存在となって行くと思われるのは「市民」である。それは、政治的に覚醒し、権力者や支配者にはつねに懐疑的に向かい合おうとする主権的人間のことである。

他の大衆・公衆・庶民・民衆・平民・公民という用語はもはや廃語または積極的に死語にすべきではないか、と私は思う。

 なぜなら、上記の意味の辞書的説明からも判るように、その説明を厳密に考えれば考えるほどその意味は曖昧となってしまうからだ。それに、大衆・公衆・庶民・民衆・平民・公民も、結局は国民・住民・人民・市民と同一の人々を指しているに過ぎないからだ。それなのに、敢えてこれほど様々な言い方を存続させてしまうということは、社会の人々を分断しては統治しようとする管理者や統治者にとっては好都合なことかも知れないが、協働し、連帯し、団結することで日々の生活の平和と安定を図り、不安や悩みを乗り切ってゆこうとする私たち国民一般の目からすれば、そのような多種類の言葉をもって人々を区別してしまうこと自体が、公共の構成員である私たち一人ひとりが、国民の間に自ら区別または差別を持ち込んで、分断を助長してしまうことになりかねないからだ。

 

「権力」:他者をおさえつけ支配する力のこと。

そして、略して政権と呼ばれる政治権力とは、国の統治機関を動かす権力のこと。

より詳しく言うと、「社会集団内で、その集団の決定した意思への服従を強制することができる、排他的な正統性を認められた権力のこと」(広辞苑第六版)。

では、その一般の、他者をおさえつけ支配する力としての権力は何に根拠を持ち、何に拠って正統性を持つか。とくに政治権力は何に根拠を持つか。

 これは近代政治学政治学の根本原理として教えていることであり、それは統治され支配される人々の同意である(H.J.ラスキ「国家」p.9 岩波現代叢書)。

 ここに、「人々の合意」あるいは「人々によって合意されている」とは、権力行使の度に人々の合意を取り付けるということは現実的ではないので、この意味は、結局のところ、その者が掲げる公約が選挙で人々に支持されて選ばれた人々の代表が国権の最高機関である国会にて民主的に合議し議決して成立し定まった法律に基づかねばならない、ということを意味する。

 このことは逆に言えば、権力を行使することに人々が同意していない者(例えば官吏任用試験をパスしただけの役人)が行使する権力については、人々は服従する義務はないし、ましてやその者が恣意的に行使する権力、臨機の命令に依る権力行使についてはなおさらである。「行政指導」や「通達」はその好例だ。「要請」も同様だ。

 したがって、たとえば中央政府(の官僚)から発せられるこの種の臨機の命令や不明瞭な決定や指示には都道府県庁ないしは市町村役場の役人はそれに服従する義務は無いし、国民もそのような恣意的かつ臨機の権力の行使には服従する義務はないのである。

 

 権力の行使の根拠と正統性は、いずれも国民の権利を擁護しようとする考え方に基づくものであり、その考え方は「法の支配」にも通じる。

権力とその行使は、つねに人々の同意に依るものであり、公布され定まった法に拠らねばならない、とする考え方である。

 なお法律とは、社会の全ての人々に、例外なしに等しく、その行動を、その人の生死を制する力によって強制的に規制する決まりのことであることを考えると、法をつくることは最大の権力行使なのだ。

だから立法権は国家の最高権となるのである。しかし立法権は、ある特定の目的のために———たとえば選挙時、立候補者が有権者と交わした公約の実行・実現のために———行動する信託的権力に過ぎない。

有権者は立候補者に対して、その立候補者が掲げる公約を支持し、それを実現してもらいたいから、それを実現するために必要な権力をその候補者に信託または負託するのである。だから、政治家になったその者は、自らが掲げた公約を実現するためにのみ、有権者に信託されたその権力を行使しなくてはならない。

 つまり、国民は、無条件あるいは白紙で、権力を託しているわけではないし、ましてやその行使を容認しているわけでもなあい。

 また、このことから判るように、立法権を信託された者が、その権力を他者(例えば執行機関の官僚ないしは役人)に委譲することも放任することもできないし、主権者である有権者はそれを許してはいないのである。

 したがってもし有権者あるいは国民に公約していなかった事柄について立法したり、ましてや国民が反対している事柄について立法したりすることは、民主主義に完全に反する行為であるため、そんな権力を行使した者は、直ちに、あるいはいつでも、必然的に、有権者から負託された権力は国民によって、弁明無用で、剥奪されねばならないのである (ジョン・ロックp.151)。

 ただしここで特に注意しなくてはならないことがある。

人々は、その権力に服従するのも、単に服従せんがために服従するのではない。人々はその権力の作用によって、人々の目的、つまり自分たちの生命・自由・財産の安全な保護が達せられると信じるがゆえに、権力の行使あるいは支配に服従するのである(H.J.ラスキ「国家」p.2)。

 

「市民」:下記に定義する「自由」と「平等」そして「友愛」の精神をわが物とし、社会的義

務と責任を負うことを自ら同意した、権力に対してつねに懐疑的な、政治的に覚醒した人びとのこと。あるいは、自分たちの国と自分たちがどのように統治されるべきかについて発言権を持っていると自覚する政治的存在のこと(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないか」p.347)。

 したがってそれは、例えば、単に「◯◯市の住民」という意味ではない。

人それぞれが個人として、また人間として生きて行ける社会や国を作ってゆく上で、決定的に重要な概念である。

「新しい市民」:既述の環境時代において、二種類の指導原理を我が物とした、上記の意味での市民のことを言う。

「原理」:「社会」あるいは「自然」(共に、先に定義)の中を貫いてそれらを成り立たせて

いる、人智・人力を超えた理(ことわり)であり掟であり法則のこと。

あるいは、あらゆる現象と矛盾のないことを言い表していて、真なることを証明する必要のない命題のこと。

したがって、原理とは、人間の都合によっては変えることのできないもの

「原則」:「社会」と人間にのみ当てはまるもので、社会をよりよく、かつ円滑に成り立た

せるために、人間が、時には原理に基づき、また時には経験に基づき、意識的につくった掟であり規則であり作法のこと

人間がつくったものであるから、不都合ならばいつでも変えることはできるもの

「理念」:現実を評価する基準(物差し)であり、現実をある高みにまで高めるための目標

ともなるもの。したがって、ものごとに着手するとき、その進め方や打つべき手あるいは向うべき方向が判らなくなったり見失ったりしたときや、考えるべき方向が判らなくなったりしたときなどには、いつでもそこに戻って行くことによってその不明に対して答えを示唆してくれ、進み行くべき方向を再確認させてくれる羅針盤ともなるもの

「調和」: たとえば白と黒、表と裏、内と外、賛成と反対、上と下、北と南、右と左、天と地、連続と不連続、アナログとデジタル、肉体と精神、生と死、勉強と遊び、仕事と余暇、形式と内容、分解と合成、部分と全体、主体と客体、創造と模倣、時間と空間、偶然と必然、損と得、量と質、権利と義務、自由と平等、自由と規律、自由と拘束、自由と計画、個と全体、私と公、豊かさと貧しさ、善と悪、美しさと醜さ、歓びと悲しみ、愛と憎しみ、傲慢と卑屈、支配と服従服従と抵抗、圧政と隷従、自発と追随、多様性と共生、共生と循環、循環と多様性、見えるものと見えないもの、変えるべきものと変えてはならないもの、理系と文系、本物と偽物、真実と嘘、国民と政府、市民と国家、自由主義立憲主義、民主制と官僚制、愛国心国家主義唯物論と唯心論(観念論)、納税と徴税、グローバル(世界化)とローカル(地域化)、中央と地方、集中と分散、都市と農村、農業と工業、生産と消費、競争と共存、資本主義と社会主義、文明と文化、等々といったように、自然や社会や人間に関わる概念には、互いに相反する意味を持ちながら、それでいて切り離せない関係にあるものが無数にあるものである。

 その両者の間のありようは、意味は相反し、相対立し、相矛盾し合う関係にありながらも、よくよく考えると、相手を排除したり否定したりする関係となっているのではなく、むしろ、一方が他方の存在条件あるいは成立条件となっていて、一方がなくなれば他方も存在することも、あるいはその意味を保つことも出来なくなるという関係にあることが判る。すなわちその関係は不可分なのだ。また、状況や見方が変われば、一方がいつでも他方になり得るという関係にあることも判る。

 たとえば、白は、黒があるからこそ白としての意味を持ち、黒は、白があるからこそ黒としての意味を持つのであって、もしどちらかがなくなってしまったり、あるいはどちらかが存在していなかったなら、もう一方もなくなってしまうし、存在し得なかった。またたとえば、「悪」はいけないものだ、あってはならないものだとしてそれをすべてこの世の中からなくそうとしたら、そして仮になくなってしまったなら、そのとき、同時に、善も、「善」そのものも、その意味も失ってしまうのだ。

 そういう意味で、両者の関係は、互いに他方を内包している関係にある。

また、同じく両者の間では、ある緊張状態がつねに存在する、あるいは緊張状態をつねに強いられる。状況次第では、いつでも一方が他方になりうるからだ。

その緊張状態とは、時に、「牽制の状態」、「葛藤の状態」、「闘争の状態」、「危機を意識した状態」、言い換えれば、「そこに新たな創造や発展が生まれる可能性を秘めた状態」といった形で現れる。

 ただし、ここでとくに気を付けなくてはならないことは、上記のような対からなる2つの概念は、ちょうど弦で結ばれた弓の両端に位置する概念のようなもので、人の目には見えない両概念を緊張を持って結ぶその弦の上には、あるいはその両極に位置する両者の概念の間には、互いに他方の概念の意味を、程度は違いながらも内に持つ無限の数の状態が存在するということだ。

この意味は、たとえば、「白と黒」の対を取り上げたとき、完全な白と完全な黒との間には、白でも、限りなく黒に近い白もあれば、黒でも、限りなく白に近い黒もあるということである。

 このように調和とは、二つの対概念あるいは事物・状態の関係のありようが、「互いに独立あるいは自立」と「対等あるいは平等」を保ちながらも、「双方が、互いに他方の存在条件あるいは成立条件」となり、緊張を維持しながら、相手を排除したり否定したりするのではなく、むしろ、互いに補完し合いながら存在して、そこに新たな創造あるいは発展を生む可能性を秘めた2つの関係のありようのこと、と定義することができるのである。

 だから調和とは、よく言われるような、単なる「二項対立」「二律背反」の関係あるいは状態のことではない。「対立の構図」の中で、どちらか一方を選ぶというようなことでもない。また、単なる「中和」「融和」「中庸」「中道」の状態でもない。単に「バランス」「均衡」「釣り合い」をとった状態でもない。どっち付かずの「中途半端」な状態でもないし、単に「足して2で割る」というような折衷的なものでもない。互いにゴチャ混ぜにして「曖昧」にすることでもないし、物事を最終的に「玉虫色」にしてしまったり、「喧嘩両成敗」と正邪を曖昧にしてしまったりすることでもない。「折り合いを付ける」といった妥協することでもないし、「いいとこ取りする」ことでももちろんなければ、「馴れ合う」ことでもない。

 だから、この調和の関係にある一組から、単に二者択一的に一方を選択するというのでは両者の意味・本質を本当に考慮していることにはならない。

 たとえば、「経済か環境か」、「開発か環境か」、「景観保護か地域振興か」、「保護貿易自由貿易か」、「中央集権か地方分権か」、「資本主義か共産主義か」、「農業か工業か」、「大きい政府か小さい政府か」、「民営か国営か」、「憲法改正か改正反対か」といった問題とか、あるいはまた集団と個人との関係における「関係優先か個人優先か」とか、教育面における「画一教育か個別教育か」、「自由か規律か」、「体罰は是か否か」とか、医療面において、苦しむ癌患者に対していのちを止めることは「殺人か安楽死か」といったような課題に直面した際、単純に一方のみを選択するというのでは、目の前の状況の問題の本質を見据えたことにもならなければ根本から解決することにも結びつかない。それは両者を生かし、両者の事情を汲み取り、それを一段高い次元で統一させて解決を図る見方・方法ではないからである。

そしてこのことはとくにこの国の国会を含む議会においてとくに強く求められる。

互いに相手の意見に真摯に耳を傾けることで新たな発見、新たな成長があり得るし、それによって双方が発展し、その結果、それまでの考えから一歩も二歩も進んだ自分になり集団となりうるからだ。議論をする意義は正にそこにある。相手を尊重せずに、反対することや賛成することを前提にし、ただ互いに主張し合うというのは、議論でも話し合いでもない。そのような場は、たとえ歩み寄りが見えたかに見えても、結果的には、むしろ対立を深め、問題の根本解決を先送りしただけにしかならない。

 議論する場合には、ちょうど社会の圧倒的多数の人は、まったく健康な人と、不幸にも瀕死の重体あるいは危篤状態にある人の間のどこかの状態にあるのと同じで、議論する両者の主張の間には無数の「状態」あるいは「場合」があり得ることを考慮していなくてはならない。

 とはいえ、現実には、一組のうちのいずれか一方を、あるいはその両極間のどこかに位置するどれかを最終的には選択しなくてはならなくなる。

しかしその場合も、選ぶ過程において、選択から漏れてしまわざるをえない「状態」あるいは「場合」に対してもどれだけ思いを寄せたか、その程度によって、たとえ選んだ結果が見た目には同じように見えても、その選択に至る過程を見守る周囲の見方は異なり、結果、その後の全体の推移の仕方は、大いに異なったものとなってしまうのである。

 世によく問われる「バランス感覚」とは、このように、二極の存在を念頭におきながら、しかも、その間にも無数の選択肢があることを弁えながら、そのうちのどれかを選択できる判断力のこと、を言うのではないか。

 なお、調和という考え方を人間の社会の事物や世界の事物に適用し、調和の状態を拡大して行くには次のように考えればよいのではないかと思う。

一対となっている2つのAとBの関係において調和を実現させられれば、新たな第3のCとの調和は、先に対の関係にあったAとBのどちらか一方との間で実現させることを考えることで実現できる。

 こうして次々と、あるいは時々刻々、選択の対象として目の前に現れてくる任意の2つのAとB、BとC、そしてCとD、……に着目してそれぞれの間で調和を実現させて行けば、現実の社会あるいは世界を構成している諸要素は、いつしか、自然と、多くのものが互いに調和を達成した状態に近づいて行く、ということが期待できるからである。

 なお、ここで言う調和とは、文字通り「和を調べること」とも読めることからも判るように、聖徳太子が制定した十七条憲法(西暦604年)における「和」あるいは「和の精神」とは明確に違う。

和ないしは和の精神は、その第二条に「忤うことなきを宗とせよ」としていることからも判るように、正邪の区別も判断させず、喧嘩両成敗的な性格を本質とするもので、あくまでも統治者の立場から秩序を保つための呼びかけあるいは戒めと言えるものでしかない。

 それに対してここで私が訴える調和とは、既述のように、対の関係にある両者のありようや両者の意味していること、あるいはそのそれぞれの本質を吟味し、その両者を生かしながらも、一段と高いレベルで統一することを目ざすものである。

 そういう意味で、これからのこの国と国民にとって本当に大切にしなくてはならないものの考え方や生き方とは何かを探る上においては、政治面でも経済面でも社会面でも、そして教育面、福祉面でも、また人権を含む人間相互のあり方に関しても、これまでの上から呼び掛けられた「和」の観点からではなく、ここで定義するような「調和」に依拠した見方と判断の仕方こそが求められているのではないか、と私は考えるのである。

 

 

11.4 経済の国内化、そしてさらに地域化————————————(その2)

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11.4 経済の国内化、そしてさらに地域化——————(その2)

 これからの日本の経済とそのシステムのありようを考えるときには、私たちは一切の先入観や固定観念を捨てて、今見て来た状況を直視する必要があると私は思う。

それは、文字通り、一人ひとりがデカルトが近代という時代を開くときに取ったと同じ心境と態度に立つことなのである(野田又夫デカルト岩波新書p.6)。そしてそれは、すべての既往の知識や制度あるいはシステム、さらには常識とされてきた事柄をも率直かつ単純に省みたり疑ってみたりして、曇りや打算のない自由な精神をもって世界を客観的に見据えることにより、そこから疑い得ぬ真の姿やあり方を見出そう、という心境と態度である。

もちろんそこでは勇気が要る。見たくないものは見たくない、聞きたくないものは聞きたくない、知りたくないものは知りたくないという態度は、気まぐれであり、曇りや打算のない自由な精神を持った態度とは言えないからだ。

 そこで、そういう態度を取ろうとすると、現状の世界を直した時、例えば、次のような問いがすぐにも浮かんで来るのではないだろうか。

 それは、あなたも私も、自分の子や孫たちがとにかく末長く生きられる、それも誰もが取り残されることなく、また「人間」として「安心」して生きられるということを心から願うのであれば、その時、それに比べたら、目先の便利さや快適さを実現することに拘ったり、飽食できることや、物質的に豊かになることに執着したりすることは果たしてどれほどの意味があるのだろうか、と。

 あるいは、ギャンブルとしての性質と制度を本質的に持つ社会の中で、自分だけお金を儲けようと野心を持つことにどれほどの意味があるのだろうか、と。

そしてそうした価値の階層性や優先度を履き違えた欲求を抱き続けることが、結局は、資本主義という考え方とその経済という制度を発展させてきたのだし、その結果として、私たち人間は、私たちヒトを含む全ての生命を何万年と生かしてきてくれたこの「奇跡の星」「水の惑星」としての地球の陸と海と空を汚してしまい、あるいは地球が生命体として持つ仕組みを壊してしまい、この地球を私たち人間自身が生きてゆくことのできない惑星にしてきてしまったのではないか、と。

 そもそもこれまでずっと人々の間で強迫観念のように拘り続けてきた「経済成長」とは何なのか、経済成長しなくてはならないと特に力説して来たのは一体誰なのか、何を持って経済成長を計って来たのか、一体そこで言う「成長」とは何がどうなることなのか、と。

 それに、私たち人間は一体何のために生きるのか、つまり生きる目的や生きる意義とは何なのか、と。

 その生きる目的や意義をじっくり考えてみた時、金科玉条のごとくに強調し続けられてきた「経済成長」は、自然と社会と人間にとって一体どれほどの意味と価値があったのか、と。

 その場合も、近代資本主義も終わっている、したがって近代という時代もとうに終わっているという事実をもそこに重ね合わせるならば、これからの日本の経済とそのシステムのあり方とは、近代資本主義の最後の姿としての経済の世界化(グローバリゼーション)でもなければネオ・リベラリズム新自由主義)に基づくものでもないことも明らかではないか、と。

もちろんその時、生産性とか効率性あるいは競争という発想もこれまでのような意味は失うし、「果てしなき経済発展」とか「果てしなき工業生産力の向上」という考え方も過去のものとなるのではないか。

 それに、資源の有限性、環境の有限性を考慮するならば、そもそも「果てしなき経済発展」という考え方そのものがすでに矛盾しているということになるではないか。

 また、経済を果てしなく発展させることが真の国力を高めることになるのか。

 さらには、「雇用」あるいは「雇用の創出とか確保」という考え方も二義的な意味しか持たなくなり、とにかく最優先されるのは、「誰一人置き去りにされることなく、みんなが、誠実に生きる中で、心豊かに安心して生きられる」ということなのではないか、と。

そしてその時、特にこの日本という国の経済とそのシステムのあり方で求められることは、もはやこれまでのような、官僚による、官僚の恣意に拠る気まぐれ統制経済とは根本から異なるものでなくてはならない、ということではないか、と。というより、本当の意味で、民主主義に基づく経済システムになる、ということなのではないか、と。

 

 実はこうした根本的な疑問に答え、発想を叶えてくれるのが、先に記してきた《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》、そして小規模で分散し、経済的に自立し、政治的に自決権を確立するとした《都市および集落の三種の原則》なのではないか、と私は考えるのである。

 なぜなら、こうした原理や原則に従うとき、例えば次のような発想も無理なく生まれてくるのではないかと考えるからだ。

 それは、人が生きてゆく上で不可欠な喰い物の生産と流通と消費の過程も根本から改められるべきではないか。

 私たち人間の居住形態である都市や集落の規模を含めたあり方をも根本から転換させなくてはならないのではないか。

 一方、人が生きてゆく上で不可欠ではない物の生産と流通と消費の過程は根本から変革しなくてはならないのではないか。

 そのためには、少なくとも従来のオートメーションシステム、すなわち人間の身の丈の技術をはるかに超えた技術による画一製品大量生産システムは廃止され、人間の身の丈に合った技術による生産システムに変える必要がどうしてもあるのではないか。

そしてそのことによって、これまで、そのオートメーションシステムによって廃業に追い込まれた「匠の技」と呼ばれた伝統の技術を蘇らせ、同時に伝統の工芸文化をも蘇らせる必要があるのではないか、と。

 そしてそこでは、モノやカネの国境を超えた移動はなくすることができるのではないか。

そうなれば、これまで、度々生じてきた世界規模の次のような事態は、ほぼ自動的に消滅させられるかもしれない、と。

それはたとえば、「オイルショック」、「食糧危機」、「金融危機」、「世界恐慌」等である。さらには何と言っても地球規模で陸と海と空を汚す事態である。

 そして、オートメーションシステムをなくし、《都市および集落の三種の原則》を実現してゆくことは、すなわち、航空機や船舶の航行を激減させられることをも意味するとともに、高速道路を含めて、自動車交通そのものをも激減させられることをも意味する。

したがって電気自動車(EV)も不要となる。都市や集落の中では公共乗り物か徒歩で生活ができるようになり、都市間移動は、一度に大量輸送を可能とする鉄道などの公共乗り物で十分となるのである。

 それだけではない。例えば、不幸にしてどこかの国のどこかの地域で新種のウイルスや菌による感染症が発生したとしても、これまでのように、世界的パンデミックを引き起こすことはなくなり、どこの国も「水際対策」や「国境封鎖」など施さなくても、人々は安心して暮らせるのである。

 

 こうした発想から、これからの時代では————すなわち私の定義する環境時代では(4.1節)————もはや好むと好まざるとにかかわらず、経済のグローバル化を止め経済の国内化、さらには経済の地域化を進めることは必然的帰結であろう、と私は思うのである。

 言うまでもなくそこではもはや、TPP、FTAEPA、TiSA(新サービス貿易協定)そしてRCEPといった貿易協定は必然的に一切無意味になる。特許制度といったものも無意味化できる。

もちろんそうなれば、IT(情報技術)の社会である必要もない。AI(人工頭脳)の社会である必要もない。したがって、そこでは、「ロボットに仕事を奪われる」とか、「人間の仕事がなくなる」といった類いの心配もまったく無用となるのである。

 

 では、経済とそのシステムを国内化させ、さらにはそれを地域化させるとは一体どういうことか。具体的にはどうすることか。

それは、要約して言えば、世界各国において、各地域毎に出来るだけ小さくまとまって、その地域の人々が生きて生活して行く上で必要なものは、その地域の自然を再生あるいは復元することを通じて、極力、自然の力に拠り生み出し、そのことによって経済を成り立たせ、私たちが生かさせてもらえるシステムを構築する、ということである。

 そしてそのとき、その社会を土台から支える技術は、ITやAIとは無縁の、ヒューマン・スケール、すなわち等身大の技術、言い換えれば故障しても人間の手で修復できる技術、中の仕組みが判る技術、作り手の思いや心意気を感じられる血の通った技術、人間と共にある技術、人間を孤立に追いやらない技術等となる。

 ここで、これまでの考え方の上に立って、明確に抑えておかなくてはならないことがある。それは、どんな産業であれ、それらは結局は人々が生きて暮らして行けるようになるためにこそある、ということである。「産業」が、あるいは「産業が生き残れること」が先にあるのでは決してなく、「すべての人々が共に生きられること、取り残されないこと」がつねに優先されるということである。絶対にその逆ではない。

そしてその場合も、ただ「生きられる、取り残されない」ではない、「人間としてより良く生きる」ということである。

 だからその経済システムは目先の考え方や思いつき程度の考え方に拠るものであってはならないのだ。人類がこれまで科学を通して獲得して来た原理に拠らねばならない。それが《エントロピー発生の原理》であり《生命の原理》と私は考えるのである。

 要するに、ここで言う地域化された経済システムとは、人々が自然を尊敬し、その自然と共に生きる中で、「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ、人間であり得る」(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫p.97)を体現したシステムなのである。

したがって、それが実現されるためには、《都市および集落としての三種の原則》も同時に満たされる必要があるのである。

 

 なおここで誤解を防ぐために強調しておかねばならないことがある。

それは、経済の国内化・地域化とは言っても、世界の中で、ないしは国の中で孤立しよう、保守的・保護的になろう、とすることでは断じてないということだ。そうではなくむしろ積極的に自立・自営・自決をめざし、心と情報はむしろ積極的にオープンにして行こうとすることなのである。

 確かにそこでは、その地域の人々が生きて行く上、生活して行く上で本当に必要なものを除いては、国境ないしは地域境界を超えての物(お金・資源・エネルギー・製品・商品)の出入りは自粛し、あるいは止める。が、人の交流、情報の交流はむしろ促進し活発化させるのである。地域間でのつながりは積極的に求めるのである。

 それぞれの地域は、自分たちの祖先の代から置かれてきた地理的・地形的・自然的条件の中で培われて来た歴史を振り返り、かつて人々はどういうときにどういう生き方をして来たのかを確認し、埋もれた文化をも自ら発掘し、再評価ないし再検討し、それらを批判的に伝承しながら、さらに切磋琢磨し合って洗練させてゆくのである。

それは、必然的に、人々をして、地域愛をも、祖国愛をも高めると同時に、自己認識をも深め、アイデンティティをも確かなものとしてゆくだろう。

 近代の資本主義これとはまったく逆の考え方に立つ経済でありシステムだった。とにかく、あらゆる面で、いかにして利益をより多く上げるかということだけに主眼が置かれ、それゆえ、「カネにならないものは無価値」、「利益を生まない者は無用」とされ、またその見方にほとんどの者をして疑問すら持たせない経済でありシステムだった。

 そしてその資本主義を支え発展させてきたのが近代の科学技術であった。しかしその科学技術はあくまでも「知性」に基づくものだった。でも、その知性ももはや「理性」に取って代わられなくてはならない時代なのだ。少なくとも私たちは、私たちの将来世代からそのことを求められていると私は考えるのである。

 

 こうしてどこの地域でも、人々は、汚染し、破壊して来た自分たちの地域固有の自然を再生させ、伝統の文化を蘇らせながら、新しい文化をも生み出し、各自の生活を互いに支え合いながら生きて行く。

 その際の生き方は、徹底した意味での、あるいは本当の意味での「自由」の意識に基づいた生き方である。それは結果責任を明確に認識した上での自由な生き方である。

自分たちの地域の問題はつねに自分たちで、それも「建前」とか「和」といった見せかけの態度によるのではなく、心を開いて、時には対立をも恐れずに、「本音」で話し合いながら、解決策を見出してゆく。そしてみんなで出したその解決策をみんなで守り、実行してゆくのである。

 だからここでの経済とそのシステムとは、人々が生きてゆく上で不可欠なものの生産と流通と分配は地域の人々みんなの意思の下に徹底してコントロールされた民主主義的経済とシステムなのである。それは、自分たちの運命や未来は、自分たちで、自分たちの叡智と責任において選択し、決めることができる経済とシステムなのである。

 そうした体験を重ねる中で、さほど大きくはない共同体内の一人ひとりは、真の自由と民主主義を体得し、他生物とも積極的に共存しながら、互いに強固な信頼関係で結ばれた地域社会をつくり上げ、最終的には目ざす生命主義の実現された社会へと進んで行くのである。

 ————これが、私の言う経済の国内化であり、さらには地域化の意味するものである。

 

 では、上記のように要約される「地域化された経済システム」とは具体的にはどのような姿を取るものか。それは次節で明らかにするとして、それは大雑把に言うとつぎのような状態を実現してくれるシステムなのである(NPO 「The International Society for Ecology and Culture(ISEC)」製作の「幸せの経済学」より)。

人々が文化を通じ、土地を通じて土地の人々みんなが繋がり合うシステム

人々どうしの交流や会話・対話が活発化するシステム

地域社会と自然とが繋がり合うシステム

 

失業というものがないシステム

「職」「仕事」の奪い合いを生じさせないシステム

貧富の差や不和、対立、分断、ましてやテロリストを生じさせないシステム

「敗者」を出さないシステム

競争を煽り立てないシステム

ねたみや差別化を生じさせないシステム

自分の生活を他者と比べることもなく、劣等感を感じさせられることもないシステム

一人ひとり、本来の自分らしさを保てるシステム

一人ひとりが地域の中でそれぞれの役割を担い、暮らしてゆけるシステム

一人ひとり「ゆとり」を持てて、生き生きと暮らして行けるシステム

それぞれが地域社会の一員であると自覚できることで、一人ひとりに自尊心を育て、その自尊心が他者に対する敬意を生み出すシステム

食糧難や飢餓のないシステム

年金制度や健康保険制度等の社会保険制度も、とくに必要としないシステム

地域の歴史や文化を見つめ、それを大切にすることで、確かな自己認識とアイデンティティを身につけることが出来るシステム

誰もが知られ、誰もが認め合うシステム

一人ひとりが精神的に豊かで幸福になれるシステム

「人間」がつねに、最も大切にされるシステム

生きる意味、生きる目的、大切な生き方、価値観、知恵というものを、その地域の中に見出すことができ、またそれらを学べるシステム

 

生産と消費との距離を極力縮めるシステム

無駄で無益な物流システムをなくしたシステム

通信や乗り物を高速化させたり長距離化させたりする必要のないシステム

一人当たりのエネルギー消費量、一人当たりのインフラの量とコストが都市部に比べて格段に少ないシステム

自然エネルギーだけで地域を支えられるシステム

環境を汚染したり破壊したりすることのないシステム

大気と水と養分という「作動物質」を地域内にくまなく循環させるシステム

土壌の多様性を再生し、維持するシステム

「捨てる物」をほとんどなくすシステム

農作物も、農薬や化学肥料を使わず、もちろん遺伝子組み換え種子やデノム編集された種子なども一切使わないで、良質な有機物のみで育てるシステム

家畜についても同様で、抗生物質、成長促進剤そして遺伝子組み換え飼料などは一切用いないで飼育するシステム

地下水、河川水を浄化し、きれいな水、きれいな空気の中で、新鮮で安全な喰い物を食することが出来るシステム

生物多様性を再生するシステム

 

人々が働いて生んだ富はその地域の外に流出することのないシステム

人々が、繋がりながら、働けば働くほど、地域の富は豊かになるシステム

技術面では、「身の丈・等身大の技術」「職人技」に支えられたシステム

生産方式は、これまでの、「人」を必要とせず、規格化され画一化された物を大量生産し、壊れたら全取っ替えしなくてはならなくなリ、資源を浪費するだけのオートメーション・システムによるのではなく、「より多くの人々」の手による、地域の人々が本当に必要とする物だけを作る生産方式に支えられたシステム

「利益」を生むことに目的があるのではなく、人々一人ひとりに「やりがいを感じられる仕事」、「質の高い仕事」、「その人を人間的に成長させる仕事」を与え、「あれば便利」「あれば快適」な物ではなく、人々が人間として生きて行く上で、あるいは生きて行けるようになる上で、本当に必要な物を生産し、提供するシステム

 「株主」の利益、「投資家」の利益を最優先する企業など存在し得ないシステム

他地域に本支社を持つ大企業、本支店を持つ大銀行、多国籍企業も存在し得ないシステム

公的機関からの特定の産業や企業への「補助金」も「助成金」も必要としないシステム

 

外の世界とは、人と心の交流や国際協力そして相互依存、とくに世界中の地域が国を超えて結びつき、知識を交換し、力を増して行く活動は盛んにして行きつつも、貿易、すなわち物質・エネルギー・貨幣のやり取りは、基本的には抑えられ、控えるシステム

 とにかく今、地球上に生きる私たちは、一人の例外もなく、近代という時代が主流あるいは支配的としてきた自然観や世界観あるいは価値観をも超えてゆかねばならない状況に立ち至っているのである。

 こういうことを言うと、すぐに、「では資源の乏しいこの国では、エネルギー資源はどうするのか、石油は、ガスは、鉄やアルミニウム、その他の金属資源はどうするのか」とか、「そしてそのとき、そうしたものを輸入するための外貨はどうするのか」等々といった反駁が返って来そうであるが、その時こそ、私たちは、一人ひとりが、せめて次のように、真摯に自問してみることが必要となるのではないか。

“後先も考えずに自分の欲や願望を満たすことを最優先したなら、自分の愛する子どもたち、そしてその子らの子どもたちはどういう状況の中を生きて行かねばならなくなるのか”、と。

“今、そんな将来世代から自分に求められていることは何か、そのためには、自分は何が出来るのかではなく何をすべきなのか”、と。

 “これまでの資本主義の中で、私たち一人ひとりは、果たして一体どれほど「自己実現」し得たのか、どれほどしみじみとした「幸せ」感を味わうことができたのか”、と。

 そして、今後どんなに科学技術が進歩したところで、またこの広大無辺の宇宙にどれほどの数の星があろうとも、“果たして、人が裸で気楽に過ごせる星は、この地球以外に一体どんな星があるのか”、と。

 

 では、「経済の国内化、そして地域化」とは具体的に何をどうすることなのであろうか。そしてそこでは具体的に、どのような経済システムの社会となるのであろうか。

 それについては、私は、次節にて考察してみようと思う。

11.4 経済の国内化、そしてさらに地域化————————————(その1)

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11.4 経済の国内化、そしてさらに地域化——————(その1)

 これまで、世界をますます混沌とした状態に落とし入れて来ている原因の一つが資本主義の終焉、つまり資本主義の時代は終わり、実質的には新しい時代にすでに突入しているのに、これまでその資本主義に支えられて発展してきた世界の金融業界や産業界はその終焉を認めようとはせずに、むしろ存続させようとあがきもがいている結果、至る所で次々と顕在化してきている矛盾に対してますます打つ手をなくしてきているためであるとして、そうした事態を招き、また自らも最も象徴的にそうした事態に陥っているアメリカを中心に、私はその混沌ぶりを概観して来た(第1章の1節)。

 一方、では私たちの国日本についてはどうかとして、表向きは資本主義の国といわれては来たが、実際には資本主義の国でも自由主義経済の国でもなかったということについても大雑把に見てきた(第1章の5節)。

 本節では、「経済の国内化、そしてさらに地域化」なる主旨をより明確にするために、資本主義の終焉ということの意味と、日本の経済システムの実態について、もう少し詳しく眺めておこうと思う。

そのためには、まず近代の資本主義とは実際にはどのようにして誕生したのか、そしてその行き着いた先はどうだったのかということについて見、そしてそれは一体何を意味していたのかということについて、私なりに考察してみる。

 近代という人類史の一時代を風靡した資本主義経済ではあったが、マックス・ヴェーバーに拠ると、その近代資本主義は、商業上の倫理規制などが本質的にはなかった中国やインドをも含むオリエントやギリシャそしてローマに誕生したのではなく、むしろその規制の厳しかったキリスト教の世界において誕生した。それも宗教改革後にはとくにその規制が厳しくなった禁欲的なプロテスタンティズムの支配する国々においてだった。そこでは、暴利を貪る商業やその担い手である旧来の大商人を敵視していた。そんな国々に近代の資本主義は誕生したのである。

 つまり、近代の資本主義を支えているさまざまな精神的な諸観念は、ピューリタニズムの持つ別の側面である営利的貪欲とはおよそ馴染まない禁欲的な倫理が生み出したのである。

 その勃興過程でその動きを人々の内面から推し進めて行った心理的な起動力というか精神は、通常、「資本主義の精神」と呼ばれてきた。

それは、単に勤労とか節約とか周到さといった個々の徳性そのものではなく、そうした個々のさまざまな徳性を一つの統一した行動の体系にまでまとめ上げているような、つまり歴史の流れの中でいつしか人間の血となり肉となってしまった、いわば社会の倫理的雰囲気とでも言うべきものであった。

 ではこの近代の資本主義、あるいは近代に特有な資本主義は、大昔からあった広い意味での資本主義とはどこが違うのか。

 それは、近代の資本主義は経営的資本主義、とりわけ簿記を土台として営まれる合理的な産業経営的資本主義であることだ。

つまり、資本主義の精神とは、たしかに利潤の追求とは結びついてはいるが、それだけではなく何よりも経営という社会関係に適合的な人間類型を生み出して行くことができたような社会的倫理的な雰囲気のことなのである。

そしてこの場合とくに重要なことは、その資本主義の精神の担い手の中には、資本家だけではなく労働者もまた含まれていたことである。

 さらに、そうした資本家と労働者の両者に資本主義の精神をもたらしたのは長い間の宗教教育の結果だった。それは、高度の責任感の伴った、あたかも労働が絶対的な自己目的であるかのように励む心情とでも言うべきもので、それを天職義務とする雰囲気を社会にもたらしていた。

天職、それは神の召命と世俗の職業という2つの意味から成り、私たちの世俗の職業そのものが神からの召命だとする考え方を示している。もっと正確に言えば、世俗そのもののただ中における聖潔な職業生活、これこそが神から各人に使命として与えられた、聖意に叶う大切な営みなのだとする考え方で、言い換えれば、この天職義務こそ、資本主義の精神の核心を成していたのである。

 なお、“資本主義の精神とは禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理のことである”と言った場合の「禁欲」の意味であるが、それは、私たち日本人がすぐに思い浮かべる、自己の欲望をすべて抑えて、積極的には何も行動しない態度とはまったく違うものだ。むしろその反対で、大変な行動力を伴った生活態度なのである。それは、あらゆる他の事柄への欲望はすべて抑えてしまって、———だから禁欲なのである———そのエネルギーのすべてを目標達成のために注ぎ込むという行動様式を言うのである。

 だから、こうした資本主義の精神を持ち、自分の職業を天職とする人たちは、金儲けをしようとしていたわけではない。富の獲得が目的なのではなく、神の栄光を表わし、隣人への愛のために専心した。だから無駄な消費はしなかった。それだから、結局金は残った。残らざるを得なかった。そしてそのことは、彼等が隣人愛を実践したということの標識となり、したがって自らの救いの確信にもなったのである。

 ピューリタンたちは残ったお金を、手元で消費せず、隣人愛に叶うような事柄のために使おうとした。たとえば、彼等は公のために役立てようと寄付をした。

 ところが結果として金が儲かっただけではない。他面では、彼等のそうした行動は、これまた意図せずして、合理的産業経営を土台とする、歴史的にまったく新しい資本主義の社会機構をだんだんとつくり上げて行くことになった。

ところが、それがしっかりと出来上がってしまうと、今度は儲けなければ彼等は経営を続けて行くことができないようになってくる。資本主義の社会機構が逆に彼等に世俗内的禁欲を外側から強制するようになってしまったのだ。

 こうなると信仰など内面的な力はもう要らない。いつの間にか信仰は薄れて行くようになる。

こうして宗教的核心は次第に失われてゆき、金儲けを倫理的義務として是認するようになってしまった。これが当初の「資本主義の精神」が変貌して行った経緯である。

 このように宗教的倫理の束縛から解放されると、世俗的禁欲の雰囲気は、資本主義の社会機構の形成という方向に向かっていっそう強力な作用を及ぼし始める。そして産業革命を引き起こし、ついには資本主義の鋼鉄のようなメカニズムをつくり上げてしまった。そして今やこの鋼鉄のメカニズムが自己の法則によって諸個人に一定の禁欲的行動を外側から強制するようになったのである。

 こうして「資本主義の精神」は資本主義をつくり上げる方向に作用して来たけれども、その後は、その「資本主義の精神」自体さえも次第に忘れ去られて行き、そしてその精神を失った「天職義務」の行動様式だけが亡霊のように存在するようになった。が、ついにそれさえも今や完全に消えてしまったのである(以上、マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神大塚久雄訳p.373〜406より)。

 ここまでが近代の資本主義の誕生して来た概略的経緯である。

 このようにして誕生した近代の資本主義ではあったが、ではその後、どのような経過をたどることになったのか。

最初から利潤をも追求する人間の営みではあった資本主義を支えたその「資本主義の精神」が消え去り、また、高度の責任感の伴った、あたかも労働が絶対的な自己目的であるかのように励む心情さえも消え去ってしまうと、資本主義もいわば精神の抜けた殻だけのものとなってしまうのであるが、それでもまだ、ある時までは、資本主義は多くの人々に次のように期待をもたれ信じられもしていた。“資本主義経済の下では、勤勉に働けば、働いた分のお金が得られる”、“生産性を上げれば、それに見合った報酬を得られる”、と。

 しかしこれも、グローバリゼーション(経済の世界化)という考え方が広まって行く中で———ただし、最初のグローバリゼーションは、今からおよそ600年前から370年前にかけてのいわゆる大航海時代に生じたのであるが、ここでのグローバリゼーションは、近代の、それもとくに資本主義末期に生じたものである———、「貧困の撲滅」を標榜するネオ・リベラリズム新自由主義)という経済思想がやはりアメリカのウオール街を中心に登場し、それがそれぞれの国の政治(家)を動かして広がると、世界は一変した。元々グローバリゼーションとは、その目的が多国籍企業が国境を越えてビジネスを展開できるようにし、市場を独占しうるようにしたものであるのに対して、ネオ・リベラリズムは、それぞれの国の中の様々な規制、とくにそれまで公的に守られ保護されて来た制度での規制を緩めさせ、あるいは撤廃させてしまおうというものであったため、その2つの考え方は相呼応して世界に猛威を振ったのだ。

主義も倫理観もない「グローバルな資本」は国境を瞬時に越えて、資本主義は世界をカジノ(賭博場)とするギャンブル資本主義と化した。その結果、価値の源泉は人間の労働にあるとされたがゆえに「物づくり」を土台として成り立ってきた資本主義ではあったが、それが圧倒されるようになった。その結果、それまでは単に資本主義とだけ呼ばれて来たそれは、儲けることそのことを至上とする資本主義、あるいは金が金を生む資本主義、「金づくり」資本主義、「強欲」資本主義、「金融」資本主義と、様々な呼ばれ方をする姿に変貌してしまった。

 その結果、先進諸国の間では、かすかに残されてきたその“資本主義経済の下では、勤勉に働けば、働いた分のお金が得られる”とか、“生産性を上げれば、それに見合った報酬を得られる”との期待も、今は、ほとんど完全にと言っていい程に裏切られるものとなってしまったのである。

 そんな中、マスメディア等によって、人々は互いに生活レベルを比較することを煽られ、競争することを煽られた。その結果、社会にはゆとりややさしさや寛容が失われ、一人ひとりは孤独に追いやられ、ストレスに苦しむ人々は激増した。そうした精神状態はまた多くの人をして鬱病を発症させ、自殺者を増やし、癌等の病をも激増させた。

人々の幸福感はどんどん下がって来たのだ。

 ところがそこにさらに、資本主義を変質させて行く中で巧妙に金と権力を手にした一部の富裕者がその持てる金の力で政治家を動かしては民主主義政治をも歪め、社会の様々な制度———とりわけ税制や金融制度等———を自分たち富豪者に好都合なように変えさせて行ったことにより、元々あった社会の中の貧富の差をいっそう激化させることになった。それだけではなく、その貧富の差の激化が人々の間に対立を生み、対立が分断を生み、さらにはそうした社会の分断状況に便乗する政治的ポピュリストを生み、政治的にもいっそう混迷を深めてしまったのだ。

 一方、グローバリズムの進展の中、ネオ・リベラリズムを採用するようにと、とくにウオール街のハゲタカ金融企業にそそのかされて、ウオール街と一体になって活動するIMF世界銀行から「援助」という名の融資を受け借金した途上国の多くでは、多国籍企業によってそれまでの地元経済は破壊されてしまう。そうなると人々は否応なく労働者になるよりなかった。それも、多国籍企業にとっては格安賃金で雇え、しかもいつでも取っ替えが利き、使い捨ての利く労働者になるよりなかった。こうして貧困と格差はますます進んだ。住民どうしも心を病んだ。国としても残されたのは莫大な借金だけとなり、国家財政は破綻してしまう。

そこへさらに追い討ちをかけ始めたのが彼らにはそれを生じさせた責任は少しもない地球温暖化そして気候変動であり、またそれに因る異常気象だ。干ばつや海面上昇等の影響をもろに受け、もはや多くの人々は長年暮らしてきた地域では生活できなくなって、隣国さらには先進国への移民を余儀なくされてしまってもいるのである。

しかも、命がけで移民となった先では、また、至る所で移民排斥運動が巻き起こるのである。

 先進国と途上国の両者に見られるこの現象こそが、近代に誕生した資本主義の行き着いた状況であり、今日の世界の実態なのである。

 こうして、歴史上の一時代を成した「近代」であり、そしてその近代の主流をなして来た「資本主義」という経済システムではあったが、それらは、今見て来た世界の現状からしても、また既述して来た状況(1.2節)からしても、結論として、今や明らかに終焉を見たとしか言いようがないのである。

少なくとも資本主義が資本主義として意味を持ち通用しうる時代、そしてその資本主義に基づく経済システムが“経世済民”との意味を持つ経済システムとしての有効性を持つ時代は終わった、それも確実に終ったのだ、と考えられるし、そう考えるより考えようはないのである(1.3節)。

 実際、それをはっきりと裏付けた出来事がリーマン・ブラザーズの経営破綻であり、それを機に次々と破綻に追い込まれて行ったウオール街の大手銀行が、“大きすぎて潰せない”という理由の下に政府によって救済された事件だ(2008年)。

 なぜそれがアメリカの資本主義の終焉を決定づけたと言えるのか。それは、政府が救済のためのお金を拠出したことによる。そのお金は国民のお金なのだからだ。

 バブル経済の崩壊は過去、アメリカにも幾度もあったが、しかしそのいずれの際にも、銀行が政府の手で救済されるということはなかった。今回が初めてなのである。

つまり、これこそがアメリカの資本主義経済はここで終った、ということを意味するのである。

なぜなら、自由競争を原則とする資本主義の下では、企業が倒産したならそれはそれで仕方がないとし、倒産しつつある企業、倒産した企業を政府が救済するという手法も発想も最初からないからであって、その倒産しつつある企業を政府が救済する、つまり納税者の金で救済するというのはもはや社会主義経済の発想による手法だからだ(広瀬隆「資本主義崩壊の首謀者たち」集英社新書p.85)。

しかもその発想は、アメリカ人が最も尊んだ自由とは正反対の、そしてアメリカ人が最も忌み嫌った「計画」経済を国是とするソ連(当時)の経済システムに拠る発想だった。

 実は金融機関に対するこうした救済の仕方は、日本では既に1996年には行われていた。「住専」こと住宅金融専門会社が倒産した際のことだ。当時の大蔵省の官僚はその後のリーマン・ブラザーズの時と同じように「金融破綻を防ぐため」との口実の下、6850億円という巨額の救済金を国民の金をもって救済していたのである(「住専のウソが日本を滅ぼす」毎日新聞特別取材班)。

そういう意味では、日本もそのとき既に資本主義経済は終っていたと言いたいところではあるが、しかし、前述したし後述もするように、この日本という国の経済とそのシステムのあり方は、戦後、一時たりとも、本来の意味での、あるいは世界が認める意味での資本主義経済であったためしはなかったし、真の意味での自由主義経済であったためしもない。だから、「日本もそのとき既に資本主義経済は終っていた」とは言い難いのである。

 こうしたことからも判るように、近代国家というものの枠組みが確立されて行く過程で形成されて行った資本主義という経済体制ではあったが、そして資本主義はその近代国家の中での諸制度に守られて支配的となって行った経済体制ではあったが、既述のように、資本主義の中核をなす企業というものが国民のカネをもって救済しなくてはならないような状況になったり、資本が国境を越えて瞬時に行き来するようになり、資本主義の体制自体がグローバル資本の暴走を制御できなくなってしまった時点をもって、近代は明確に終った、と見ることができるのである。

 その上、これも既述したように(1.3節)、近代を土台から支え支配して来た思想や価値観そしてエネルギー資源もが同時に通用し得なくもなっているのである。そうさせているのが「環境問題」だ(4.1節での再定義された「環境問題」を参照)

 こうして、近代は、あらゆる角度から観ても、既にとうに終っている、と言える。

 ゆえに、終っているはずのその近代の延命に執着すればするほど———とくに執着しているのは近代によって大きな富や権利や名声を得て来たエスタブリッシュメントと呼ばれる人々である———、世界は矛盾を深め、混迷度を増し、地球の自然を傷めつけ、その結果として文明と人類の終わりを早めてしまう、ということになるのである。

 時代というものについては、本来は歴史家が定義し、変遷についても歴史家が区分するものであろうが、歴史のどの時代をとってもそうであったように、歴史家の定義とは無関係に、その内部に次々と矛盾が激化し、それがもはやどうしようもなくなった時点をもって次の時代に取って代わられざるを得ないものなのである。近代という時代の終焉も、決してそうした時代変遷過程の例外ではない。

 

 ところで、私たちのこの日本という国は、とくに戦後から今日まで、一時たりとも真の資本主義の国でも自由主義の国でもあったためしはなかった、見かけ上の資本主義の国であり自由主義の国でしかなかった、とは述べて来たとおりである。

 実はこのことは、ちょうどこの国は表向きは民主主義の国と見なされながら、実質的には決してそうではなく、官僚が主権者であるかのように傲慢で狡猾、かつ冷酷で恣意的に振る舞う官主主義の国、というよりは官僚独裁の国であったという事実とピッタリ符合する。またこの国は、表向きは国家と自称し、また外からもそう見られて来たが、実際には真の国家ではなかったという事実ともピッタリと符合するのである(2.6節)————尤も、そうなる根本原因は、国民から選挙で選ばれたはずのこの国の政治家という政治家があまりにも民主主義議会政治のあり方に無知で、愛国心がなく、自国民への忠誠心がなく、本来公僕でしかない官僚をコントロールし得ないだけではなく、事実上官僚たちの操り人形でしかなかったからなのであるが————。

そしてこれらはどれも、根本のところでは一つの同じ原因に行き着くのである。つまりその原因こそが、似非資本主義を、似非自由主義を、似非民主主義を、そして似非国家を形作って来たに過ぎないのだ。

 それは、こういう意味である。

こうした状況を作っているのは、いずれも直接的には中央政府ではあるが、しかし内閣ではなく、実質的には各府省庁の官僚である。総理大臣をはじめ各閣僚も、その実態は、彼らが国民から選挙当選時に負託された権力を官僚に委譲するという、有権者と民主主義を裏切る行為を重ねながら、官僚に依存し、また追従して来たからなのだ。

 しかし、である。そんな者を選挙で政治家として選んだのは他ならぬ私たち国民自身なのだ。

つまり、「根本のところでは一つの同じ原因」とは、私たち日本国民のありように帰することだと私は考える。それも、既述してきた、世界ではおそらく絶対に通用しないし理解もされないであろうと考えられる特異な「ものの考え方」とそれに基づく「生き方」をしている私たち日本国民のありようなのだ(6.1節)。それは、日本を除く世界に理解されている「市民」とは似て非なる日本国民のあり方に他ならない、と言い換えることもできる。官僚あるいは役人を長いこと「お上」などと呼んでは、彼らから見倣った「ものの考え方」と「生き方」を、少しの疑問にも感じずに、依然として続けてきている私たち国民なのだ(6.2節)

 日本の産業界は、主に、いわゆる「系列」と「業界団体」という二つの組織パターンが一緒になって成り立っている、とK.V.ウオルフレンは指摘する(K.V.ウオルフレン「人間を幸福にしない日本というシステム」毎日新聞社p.38〜47)。

 系列に入ることの決定的利点は倒産しないで済むこと。言い換えれば、系列企業は、全体で、各都市銀行を中心に系列内の個別企業の倒産を防ぐ強力な安全網をつくっているからだ。

そしてもう1つ、企業間の入り組んだ関係をまとめ、個々の産業分野の秩序を保つシステム、いわゆる業界団体や同業組合をつくっているのだ。

日本では、各産業部門における企業の発展計画の方向を、政府省庁や経済界(経団連、日経連、経済同友会日本商工会議所)の管理者たちが望ましいと考える方向に一致させようとする強い強制力が働く。

そして日本では、企業活動に対するこうした強制力は、たいがい同業他者を通じて働くのだ。

日本の産業は、実際には、多くの「事実上のカルテル」と言うしかないもので成り立っている。

価格は大部分が「談合」によって決められる。このために、日本の消費者は他のほとんどの国の消費者よりも商品を高く買わされている−−−このことも、各産業界において、企業の内部留保金を増やすことに繋がっているのである(12.1節を参照)−−−。市場占有率や業界内順位に至るまで、多くのことが競争によってではなく話し合いで決められている。そして、こうした、非公式だがきわめて重要なカルテルのお膳立てをするのが「業界団体」なのだ。

その形は業界ごとに異なってはいても、有力な業界団体は、会員企業に仲間で決めたことを強制する強い力を持っている。日本の企業は、こうした団体に加わらなければその分野でやって行けないのだ。だから、すべての企業が、このシステムの中にとどまることを余儀なくされているのである。

 系列企業では株主が拡散していて、誰が企業の持ち主なのかはっきりしない。オーナーが経営しているのは中小企業だけで、大企業はオーナーではなく経営者に委ねられている。正にこの理由から、どの大企業にも外部からの介入が容易になる。

そしてそうした介入は、業界団体を通して行われる。

 系列システムは、倒産に対する安全網の働きをするので、より大きな市場占有率を目ざした長期的な企業活動を可能にする。外国市場では、日本の大企業は、系列銀行の安定した融資をあてに出来るので、目先の利益のことはあまり心配しないで、比較的安い値段で長期間商品を売り続けられる。

そして業界団体が、こうした経済活動のすべてが互いに調和するよう、大企業どうしの過度の競争が起こらぬよう取りはからっているのである。

 一見、私企業が勝手に結びついているかに見えるこの二つの組織パターンである「系列」と「業界団体」は組み合わされて外国企業には絶対真似のできない効果を上げるのであるが、その構造全体は、頂上部分で政府の各省庁(の官僚)と組織的に連結している。

 こうして、業界団体は、各府省庁の官僚たちの格好の「天下り」先となり、「渡り鳥」先となるのである。

 これらが他国とは決定的に違う日本の生産システムを特徴づける最大の要素であり権力関係であるが、日本が本物の資本主義とは言えなくさせている要素はさらにある。

 周知のように、大企業は多くの下請け企業と密接に結びついている———先の通産省を初めとする経済関係省庁の組織としての記憶を受け継いでいる今の経済関係省庁の官僚たちは、「下請け企業」ではなく「協力企業」と言い換えさせているが、それは、本質あるいは真実を隠すための言い換えに過ぎない。それは、たとえば先のアジア・太平洋戦争において、軍部の官僚たちが、撤退を転戦と言い換え、戦車を特車と言い換え、売春婦を慰安婦と言い換え、敗戦を終戦と言い換えて来たと同じ態度である———。

大企業は太陽系の中心に鎮座する太陽さながらに中小企業に取り巻かれている。

 この「縦方向の系列」の中では、中小企業、ときには小さな町工場が、大企業には真似の出来ない技術を持って、真似の出来ない安さで部品をつくり、大企業を助けている。百社以上の企業が、システムの頂点に君臨する大企業の支配下にある場合もある。これらの中小企業は、不況時にはつぶれるにまかされ大企業のクッションの役目を果たすし果たさせられる。政府省庁の官僚はそれを見殺しにする。こうして中小企業は大企業に、価格面での計りしれないメリットを与えているのである。もちろんこうした関係を維持している中では、大企業も中小企業も、互いの関係は対等で独立であるという発想など育ちようもなかったし、中小企業の側も、大企業に対して、自分たちの生み出す製品には他には見られない付加価値があるのだからそれなりの価格でなくては提供できないという誇りと気概を持った発想も育ちようがなかった。

 この下請けシステムの底辺では、労働者たち———家族だけという場合もある―——は、たいがい猛烈に働かされる。それは大企業の比ではない。ところがこうした小さな下請け業者たちも、ほとんどの場合、彼らの業界の業界団体に取り仕切られていて、やはり協調を強いられる。

 一方、販売部門に目を転じると、小売業者たちも、販売業者の組合を通じて、はやり大企業とつながっている。小売業者はいわば、販売面での下請け業者なのだ。組合からの指示で、小売業者たちは、日本の市場から外国製品を閉め出すことに協力し、消費者物価を外国より高いレベルにずっと保つことにも手を貸している。

 こうして、日本では、一つの企業が、ほかの全経済組織からなる構造の中にしっかりとはめ込まれているのである。これが、自由競争を本旨とする資本主義であろうはずはない。

 このような経済組織が出来上がったのは、基本的には戦後のことである。

そしてこれらの巨大な経済システムにおいて、国民ひいては消費者が最も注意深く観察し、チェックしなくてはならない重要な側面は、この官僚組織を頂点とするシステム自身が法律の条文規定にはまったく基づいてはいないし、ほとんど法の外で運営されているという事実である(K.V.ウオルフレン「人間を幸福にしない日本というシステム」毎日新聞社p.101)。

 こうして日本では、企業、とくに大企業にとっては、競争は無し、投資のリスクも無し、倒産の心配も無用、製品の販売に関しては価格を操作できるし、したがって利益がほぼ保証される。それらは政府(初め大蔵省と通産省と厚生省と建設省等、今は財務省経済産業省厚生労働省国土交通省等の経済関係省庁)が保障してくれるからだ。

 以上のことから、私たちの国日本は世界、とくに欧米先進国が当たり前にしているような資本主義経済の国では断じてないということが判っていただけたと思う。自由で公正な競争をし、競争に敗れたら倒産するしかない本物の資本主義の経済の国などでは決してないということが判っていただけたと思う。だからといって計画経済の国でもない。ずっと官僚による官僚の利益のための統制経済の国だったのだ。そしてそこでは政治家は実質的にはまったくと言っていいほどに関与はしていない。放任し、また追随しているだけなのだ。

 そして同時に、これらの経済システムと経済構造と、そこに既述の文科省の官僚による学校教育行政とが一体となることによって(10.2節)、日本における民主主義の実現をも阻んで来た。今もこの国は真の意味での民主主義の国とはなっていないのである。国民の大多数は、今もなお、「民主主義とは何か」を確信を持って説明できない状態にある。

 さらには、こうした事実からも、「国家」の定義(4.1節)を確認していただければお判りのように、この日本は国連に加盟してはいるが、他の192の主権をもった国家群とは違って、いまだに本物の政府もなければ、本物の国家にもなってはいないのである。そして、サンフランシスコ講和条約によって日本は公式には独立国となり、また海外からもそう見なされてはいるが、対米追随外交に明らかなように、真の主権もなければ、真の独立国でもない———そのことは、たとえば、「日米安保条約」に関連して、アメリカが日本とドイツとイタリアとの間でそれぞれ結んだ「地位協定」の内容を比較すれば明らかだ———。

 言い換えれば、この国は、とくに戦後、世界の自由経済市場において経済競争するにも、本物の資本主義をとっている諸国とはまったく違う仕方で経済競争をして来たのだ。

それは、戦略も持たない中で起こした先のアジア・太平洋戦争時の「護送船団方式」そのものだった。そして、その戦時下と同様、戦後も、そのまやかし資本主義経済システムの下では、つねに産業界の利益が国民の福祉より優先され、そのうちでもとくに大企業は税制面で国民のお金をもって官僚らに優遇され、主権者である国民の生活や福祉の方は決まってその犠牲にさせられてきたのである。

 政府官僚がこの統制経済システムに拘る目的は、戦時中と同じで、自分たちが支配しながら、外国に対して、無敵の艦隊ならぬ、無敵の生産マシーンを築きたかったからだ。そうした仕方こそが国力を付け、国の安全が図られる唯一の方法、と彼等は信じたからだ。

 しかしそこで言う国力とは、本来の国民力としての、あるいは国民の底力という意味でのものではなく、あくまでも産業界が国際競争力を持つという意味でのものでしかなかった。

 バブル経済を企み、またそれを崩壊させた(1991年)のも大蔵省(当時)の官僚であるが、この護送船団による統制経済の実態を象徴的に見せてくれたのが既述のいわゆる住専問題だった。1996年3月3日、大蔵省(当時)の官僚は、同官僚の意向どおりに動いた住宅金融専門会社住専)が不良債権処理に行き詰まった際、同社を国民のお金6850億円をもって救済したのである。

 以上、これまで世界を風靡して来た近代固有の資本主義経済の始まりからその終焉までの経緯と、それに対する日本の経済システムの本質とも言うべき有様を大雑把に見て来た。

 そこで、ここからが、以上のことすべてを念頭においての、本節の表題に沿った考察である。

しかし、以後は、次回の(その2)に回したいと思う。

 

11.3 農業と工業の本質的な相違—————(その2)

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11.3 農業と工業の本質的な相違——————————(その2)

 本節の(その1)では、私の体験に基づいて、農業の本質とは何かということを述べて来た。

今回の(その2)では、それに続いて、やはり私の体験に基づいて、私の考える工業の本質について述べてみようと思う。

 ただ、それに先立って、読者の皆さんには少しでも参考になればと思い、既述の農業の本質に加えて、サラリーマン生活とほぼ同等の期間、私が従事してきた農業を土台にした生活を通して実感した農業を行うことの素晴らしさとか魅力ということについても述べておきたいと思う。

 それは次のようになる。

◎農業あるいは農作業は、何と言っても自分にも家族にも、生きる上で絶対不可欠な「喰い物」をもたらしてくれる。

 それも、新鮮そのものの喰い物を、である。

その場合も、私のつくる完全無農薬で完全無化学肥料栽培による米や野菜であれば、製造方法や成分がどれほど安全かどうかも不明な化学調味料など使わなくても、あるいはいろんな「味付け」などしなくても、それ自体で、家族みんなで、十分に美味しく食事が出来る。

 だから我が家では、食事の準備の際に用いるのはもっぱら塩か醤油、そしてミリンか料理酒のみ。砂糖はまったくと言っていいほどに使わない。

その塩も醤油もミリンも料理酒も厳選している。塩はいわゆる「食塩」はダメ。できる限り海水から水分だけを飛ばした、多種類のミネラルを含んだもの。醤油は、日本古来の伝統製法によるもので、最低3年以上かけてつくったもの。ミリンはもち米と米麹と米焼酎だけから作ったもの、料理酒は米と米麹だけから作ったものである。

 それだけでも、長い年月の間では、そうした食生活に無頓着な場合と比べて、どれほど健康面———そこにはアレルギー面も含める———に違いが出てくるか知れないと、私は考える。

◎ 農業あるいは農作業は、「喰い物」をもたらしてくれるだけではなく、その過程において、それだけで自分の心身を共に健康にしてくれ、活力を与えてくれる。

 農業は、たとえばNHKの「ラジオ体操」とは違って、あるいはウオーキングやジョギングとは違って、さらにはフィットネスクラブの筋肉トレーニングとは違って、体のあらゆる部位を動かす作業を否応なく要求してくる。

 指先、手首、足首、腕の筋力(それも上腕と下腕)、足の筋力(それもとくに大腿の筋力や脛の筋力)、腰の筋力、背中の筋力、腹の筋力、肩の筋力、首の筋力等々である。それもただ一定の動かし方だけではなく、引っ張ったり、押したり、ねじったり、つまんだり、とさまざまな動かし方を要求してくる。

ピアニストで認知症になったという人はほとんどいないとはよく聞く話であるが、それは、彼らの動かす全指先の動きが、神経を通じて大脳をしょっちゅう刺激し続けるからであろうというのが理由らしい。それからすれば、草取りを含めて、指先を頻繁に動かさねばならない農作業は、認知症予防にもきわめて有効だろうと私は推測するのである。

 また、人の歩く速さは足の筋力と関係し、また早く歩けることは頭の働きを維持することにも関係しているとはよく言われることであるが、畑や田んぼの中での作業は、立ったり座ったり、中腰で移動したり、という作業が頻繁にあるために、自然と足のふくらはぎや大腿部の筋力をも鍛え、また維持してくれる。だから農業者は、他の病気を患っていない限り、足も達者だし、頭も達者でいられるのだ。

 それだけではない。農業それ自身が、頭を使うことをも否応なく要求してくる。

たとえば野菜や米などが季節ごとに、あるいは気象の変化ごとに呈する状況にその都度、即座に対応しなくてはならなくなる。野菜の種類も、私の場合には、年間およそ50種類育てているから、その育ち方はみな違う。違うそれに対応して行かねばならない。そうした対応ができないと、せっかくそこまで育って来た野菜や米がダメになってしまうからである。

そのためには、日頃から、どういうときにはどれだけの肥料をどのように与えたら、水をいつ、どれだけ与えたらいいか、また与えなかったなら、野菜はどうなるか、そして草はどういう野菜にはどれだけの背丈まで許容できるか、どういう状況になったら除去しなくてはならないか、また反対にどうすることでむしろ草の力を野菜栽培に生かせるか、等々を絶えず観察し頭に入れていかなくてはならない。それと連動して、昆虫そして土壌生物の動きをもよく観察し、どういう昆虫がどういう野菜に来やすいか、をもよく観察していなくてはならない。

 そうした状況観察に基づいて判断し、必要に応じて、即座に対策を立て、対応しなくてはならないからだ。

 こうして、農業は、体中のほとんどすべての部位の動きを要求してくるし、頭の中の動きをも要求してくる。

 私もかつてサラリーマンだった頃は、運動のためあるいは日頃のストレス解消のためと思って、週に1度は水泳に通っていたし、2ヶ月に一度は山に登ってはいたが、そのことから得られたものは、今の農作業から得られているものとは明らかに違っていた。

水泳も登山も、体の動かす部分も動かし方もほぼ定型化していて、しかもそれだけの繰り返しである。それに、「考える」ことはその都度というほどのことではない。むしろひたすら無心になって泳ぐだけ、あるいは歩くだけ、となる。

もちろん登山では、歩きながら次々に変わる周囲の景色や遥か彼方の雄大な景観を眺めては、気分を満喫させ、またストレスの解消にもなった。

 農作業は違う。体のどの部分を使うかは、その日予定している作業でだいたい決まるが、それでも、その時の状況の変化が予定外の動作を要求してくることはしょっちゅうある。

 それに、農作業から得られる効用は、体や頭脳の健康ばかりではない。精神の健康という点でもきわめて大きなものがあると私は思っている。だから毎日、熟睡ができる。たとえ前日の作業で体はかなり疲れても、一晩寝て起きれば、もう気分は爽快である。

 人類は、誕生以来、長いこと森での樹上生活をしてきたが、その後地上に降り立ってからはずっと大地、それも土の上で生きて来た。その記憶がDNAに擦り込まれているはずだ。だから人は、近代以降というたかだか200〜300年の間でどんなに科学技術を発達させたところで、またコンクリートアスファルトでその表面が覆われた都会での生活にどんなに慣れたとは言っても、それはDNAに擦り込まれた記憶に馴染めるものではないだろう。そこへ持ってきて、特に日中は人ごみの中に置かれる。だから、都会での暮らしが知らず知らずのうちのストレスになる。だから自然を求めたくなる。だから土を踏みしめたくなる。

 実際、裸足で草原を飛び回ってみれば判るように、それだけでストレスが解消されてゆくことが実感できる。ましてやヒトは、無限の多様性を示す森や自然の中にあったなら、それだけで帰るべきところに帰ったような安らぎを覚えるようにできているのだ。

今日、「癒し」とか「ヒーリング」という言葉がもてはやされるが、そうなるのは、飽くなきまでに便利さを求め、快適さを求めるが故に、周囲には自然がますます失われ、ますます人工化してゆく暮らしの中では、当然の成り行きなのであろう。つまり、一方では、生物として、ストレスを感じないではいられない人工的環境をどんどん作って行きながら、他方では、それに追いついていかれない人間の心や精神の癒しを求めているのである。

いつもアクセルとブレーキの両方のペダルを踏みながら車をどんどん走らせている、といった状況なのだ。

 それに対して農業における農作業は、何と言っても、「ただで」運動を、それも体を満遍なく最良の運動をさせてもらえるのである。お金を払って「フィットネスクラブ」に通う必要もない。「スポーツクラブ」の会員になる必要もない。またとくに「ウオーキング」や「ジョギング」あるいは「ヨガ」なども必要ない。あるいは「有酸素運動」ということに気を使う必要もない。

 また農業は、「ダイエット」もとくに必要としない。また、いわゆる「サプリメント(栄養補助食品)」を摂取する必要もとくにないだろう。良質な喰い物を多種類、バランスよく摂り、ひたすら体と頭を動かして農作業に集中している限り、人という生命体はそのエネルギー収支のバランスを自然と保ってくれているからだ———ただし、何でも機械化して、ほとんどの農作業を機械にさせてしまうことにこだわっている農業をしているような場合は、これまで述べて来たようなことが言えるかどうか疑わしい。むしろ、無理であろう———。

 こうして農作業は、その作業に集中することで、体中の部位にはいつのまにか適度な運動をさせてくれて、心地よい汗をかくことができ、体の免疫機能をもいつまでも維持してくれ、アトピーなどのアレルギーを寄せ付けず、癌などの難病にもかかりにくい体を維持させてくれるのである。

 今、科学の進歩によって、人間がより健康に生きられる生活の仕方が次々と明らかになって来ている。それにより、私たちは、どういう症状にならないためには何を喰えばいいかとか、ストレスをこうじさせてキラー・ストレスにさせてしまわないようにするにはどうすればいいかとか、体のさまざまな臓器の機能は実はこういう働きをしている、等々といったことが次々と明らかになって来た。

確かにそうした新情報や新知識は、それを積極的に生かして行ったなら、私たちに大きな効能と効用をもたらしてくれるだろう。しかし私たちはその分野の専門家ではない。私たち一般人は、専門分野で明らかになったそれらの知識の一つ一つをいつでも頭に思い浮かべては活用できる、などということは普通は出来るものではない。学校時代の授業もそうである。授業を聴いているときには判ったようなつもりになっても、二、三日後には大抵は忘れてしまっているのだ。

それに、それらの新情報や新知識は、心と体が融合して成る人間というものの全体に目を向けたものではなく、あくまでも体の一部分を最適化することだけを視野に置いた情報に過ぎないのである。

 そのことに気付けば、我が身に起ってしまってから、生じてしまってからではなく、起る前、生じる前に、いつも少しだけ心がけて対処している方がはるかに賢明だということが判るのである。

その方が、精神的にも肉体的にも苦しまなくて済むし、莫大な出費をしなくて済むからだ。

周囲にも心配かけなくて済む。

 目の前の食材を用いた料理をそれを食する人に美味く感じさせることは、味を調整できる材料によって、本職の料理人であればあるほど、いくらでも可能なはずだ。

しかし、もしあなたができるだけ長いこと健康で長生きしたいということを真剣に願うのなら、運動が大事とか、睡眠が大事とか、はたまたサプリメントを摂ればいいとかを考える前に、また、喰う物が「美味い」とか「美味くない」とかに拘る前に、目の前の料理が、あるいはそれ以前にその料理に用いられた食材そのものが、何を使って、どのようにつくられたものであるかということにもっと関心を持つべきではないか、と私は思う。つまり食材の質についてである。それは決して、見た目のことではない。

 なぜなら、既述したように、ヒトに限らず、生物はすべて、その体は、それまでにその生物が食べて来た物によってできているはずだからだ。きるだけ長いこと健康でいたいと本当に願うのなら、この絶対の真理は絶対におろそかにしてはならないと私は思う。

◎ 農業は、それも機械にできるだけ頼らない農業、農薬を使わない農業、化学肥料に頼らない農業を目ざそうとすればするほど、ものの考え方についても生き方においても、自分を自然に対して謙虚にしてくれる。

 これまで私は、大学では自然科学(物理学)を学び、大学院では応用物理学(航空工学)を学び、技術を身につけて、それをもって企業で仕事をし、生活させてもらって来た。その過程では、学び取ったその知識を武器として用いてきた。仕事上のだいたいの対象物については、予め計算し、必要に応じて最小限の、それも不確定要因ないしは撹乱要因が入り込まない理想化した条件をつくった上で実験をして理論の正しさを検証し、その結果にもとづいて物を作れば、それでほぼこちらの予想どおりの物を作ることができた。

そしてそうした対処法は、条件さえ揃えば、再現性が効き、時期を選ばなかった。

つまり、そうした過程を経れば、自然は自分の思いどおりになる、と思って来た。

 しかし農業に転じてみて、農業はそれとはまったく違うことに気付いた。

 野菜は、そして米も、栽培するその時期を逃したら、来年まで機会はやって来ない。あるいはその時、野菜づくりや米づくりで病気に襲われたり災害で被害を受けたりしたなら、再度試みられる機会は来年までないのだ———春野菜の場合には、それを逃しても秋には再挑戦ができるが———。

 “今は雨が欲しい”、と思っても、それは叶わない。“今、霜が来てもらっては困る”、と思っても、そのとおりにはならない。“これだけのことをすれば、後は、お米は今年は穫れるだろう、野菜もちゃんとしたものが穫れるだろう”とは思っても、台風に遭えば予想はあえなく外れる。“これだけ台風対策をしておけば大丈夫だろう”と思っても、台風の過ぎた翌朝行けば、畑はズタズタになっている。

“肥料は十分に入っている。土もできている”とは思っても、日照りにはやられる、紫外線にはやられる、虫にはやられる。“これだけ虫除けシートをかぶせておけば大丈夫だろう”とは思っても、いつの間にか虫がたかっている。・・・・・・。

 雨が長いこと降らなければ自分で水を運び、注水しなくてはならない。でもその効果は天水に比べたら知れている。

 つまり人間は目の前の事態を少しでも良くしようとあがくが、人間の力など、自然の持つ力に比べたなら、本当に微々たるものだと感じさせられる。というより、こちらがどう思おうと、自然はまったくおかまいなしなのだ。自然は容赦ないし、それだけに謙虚にならざるを得ない。

 そんな中、私はいつも思う。“他生物たちは本当に偉い、頭が下がる”、と。

人間は、少し気温が上がると“暑い”と言い、少し下がると、今度は“寒い”と騒ぐ。

少しの間水を飲めないと“喉が渇いた”と訴え、少しの間喰いものを喰わないと“腹が減った”と騒ぐ。また同じ状況を強いられたり続くと、すぐに飽きる。

 土壌微生物や土壌表面上に生きる昆虫や野生動物たちは、真夏、直射日光が照りつけてどんなに暑くても、そして土が乾き切って土中に水気のない期間が続いても、また冬、大地が凍りついても、雪に覆われて喰う物がないときでも、人間のように、いちいちジタバタしない。目の前の現実をただ黙って受け入れて生きている。喰う物がなければ、飲む水がなければ、また、暑すぎれば、寒すぎれば、黙って死んで行くのだ。実際、そういう時、大地には、彼等の死骸があちこちで転がっているのである。

 人間は、自分を「万物の霊長」などと思い込み、昆虫や野生動物を「害虫だ」、「害獣だ」と呼ぶ。そして草に対しては「雑草」と呼んでは敵視して来た。

そのくせ、ペットには異常なほどの愛情を注ぐ人もいる。

 今、地球上に生じている地球温暖化・気候変動は、そして生物多様性の消滅という現象は、“もっと便利がいい”、“もっと快適がいい”と、「もっと、もっと」と望み、彼等野生生物をそう見、そう呼ぶ人間がもたらして来たものだ。

 それからすれば、「人間ども」こそが、自然界から見れば、あるいは宇宙の深遠なる摂理から見れば、最も始末の悪い「害獣」なのだ。あるいは「癌細胞」なのだ。

 科学技術が発達すればするほど、人間は自分勝手になる。見えるものしか見ず、見えないものを見ようとしなくなる。心のことだ。土壌微生物や菌のことだ。だから、他者のことを考えなくなる。だから彼らが急速に死滅していっていることに全くといっていいほどに無関心だ。

 科学技術を発達させればさせるほど私たち人間は、とにかく、事を急ぐ、急ぎたがる、そして待てない。待てなくなる。その一方で、物事にすぐ飽きる。退屈してしまう。

 農業では、種を播いたら、収穫までは、どうしても一定期間は待たねばならない。効率化などと言って、期間を短縮することなどできない。どうしても一定の時間を待たねば何も実らないし、収穫も出来ない。しかし、その間も、やることは限りなくある。

 人も野菜も、米も、それが確かなものとして成長して行くには、そのものに固有の、ある一定の、人間にはどうにも短縮できない時間が必要なのだ。

 とにかく農業は、その作業を通じて、自然というものの絶妙さ、神秘さ、無矛盾さ、広大さ、深遠さ、美しさ、偉大さを実感させてくれると同時に、謙遜の気持ち、感謝の気持ちを忘れさせない。

◎本物の農業が大切にされればされるほど、そしてその農業に従事する人が増えれば増えるほど、未来は明るくなる。

 このことの意味は、既に明らかなように、国には健康な人が増える。それは、国民全体の医療費を激減させてくれることを意味する。

 もちろん、国としての食糧自給率をも高め、自前の食糧の安定供給を可能としてくれることをも意味する。

そして田や畑という生態系をも甦らせてくれ、結果として衰えつつある生物の多様性を幾分でも回復してくれることをも意味する。

それはそのまま、国土そのものが健全になるということだ。真の意味で国力がつく、ということだ。

 

 以上、ざっと見てきたことからも、私たちが生物としてだけではなく人間として日常を生きて暮らして行く上で、また社会という共同体を維持して行く上で、農業というものがどれほど物事の理に叶った産業、さらには、どれほど国民的および国家的にも巨大な利益をもたらす要素に満ちた産業であるか、つまり経済「合理」性という一面的で偏った合理ではなく、真の意味、全的な意味での「合理」な産業であるか、ということが裏付けられるのではないか、と私は思うのである。

 人類の歴史において、その圧倒的大部分の期間、どの社会でも、農業が主力産業であり得た理由は、ここからも判るのである。

 ところがこの日本という国では、その中央政府は、明治期以来、「殖産興業」の名の下に、あるいは戦後から今日に至ってもなお「果てしなき工業生産力の発展」との暗黙の国策の下に、とくに先の通産省と厚生省、今の経済産業省厚生労働省の官僚たちを中心に、そんな農業をつねに工業発展の犠牲にし、輸出貿易振興の取引材料にして来たのである。また、それに引きずられるようにして大多数の国民も、農業に対する理解と関心を低下させ続けてきたのである。

 以上が、私が農業の生活に入り、農作業の中で実感し得たことである。

 では、今度は工業の本質とは何か、ということについて考えてみようと思う。

そこでの最も一般的な生産のための形態というのは、製品を作るための材料や資材を自社工場に持ち込んでくるところから始まる。資源を掘り出すのは鉱業であり、石油掘削企業であるし、掘り出した資源から材料をつくるのは、たとえば製鉄会社のような製材企業である。

 しかし、この国で工業と呼ばれる範囲に属する産業は、材料や部材類は自分のところでつくるということは普通はなく、それらは材料メーカーや部品メーカーから買ってくるというのが普通である。

 もちろん、既にその段階で、それらの材料、部材、あるいは部品は、すべて、一定の品質と強度、すなわち一定の規格と品質を満たしていることが「絶対条件」となる。

 そしてそれらを持ち込み、あるいは搬入させては一つの完成品を構成するのに必要な材料・部材・部品の全てを取り揃え、それらを用いて組み立て、最終的目的物としての製品をつくる。それを作る場が工場となる。

 そうした条件の全てを満たした上、生産の三要素としての土地、資本、労働力さえあれば、世界中のどこの工場でもまったく同じ物を作ることができる。しかも、品質の管理さえきちんとしていれば、いつでも、同じ品質の製品を作ることができるのである。

だから、同じ企業内であれば、たとえばAという製品、Bという製品、Cという製品についてみれば、日本で作っても、中国で作っても、あるいは世界中のどこで作っても、全く同じ物をつくることができる。

 製品が出来上がるまでの時間的長さは、設備の能力やレベルを含めて、つくる側のつくり方の工夫次第でかなりの程度変えられる。

 しかも世界で一般化している現行の、自由競争からなる市場経済システムの下では———この点、この国では、実質的には、自由な競争による市場経済の国ではないことは既述のとおりである。政府の官僚や主要経済団体の官僚が、頂点にいて、業界団体や系列を通じてコントロールしているためである———性能の良い製品を少しでもコストを削って安く作らなくてはならないということが至上命題となる。そうしないと同業他者ないしは外国企業との「競争」に勝てないからだ。

 そのためには生産効率を上げるという考え方も絶対的となる。

そしてつねに競争ということがついて回っている関係上、その生産効率を上げるためには、絶えず集約化あるいは大規模化を図って行かねばならない。企業間での合併・吸収あるいは買収はそのための1つの方法である。

そして大量で画一的に生産した自社製品を、より多く、より広範囲に、より早く売りさばこうとするために、売り手と買い手が出会う場としてのかつて「イチバ」と呼ばれ、今はその規模を地球規模に拡大した「シジョウ」を相手にしなくてはならなくなる。

その場合も、自社製品がつねに市場で売りさばけ、事業が成功し続けるためには、次の条件を満たすことも絶対となる。それは、今度新たに作る製品は、前回作った物と同じであってはならないということ。つまり、前の物は「もう古い」という感覚を市場あるいは消費者に抱かせる必要があるのである。このことは、企業は自らも資源を次々と浪費すると並行して、消費者あるいはユーザーにも資源の浪費を強いる必要がある、ということを意味する。

 この点農業は、既述してきたことから明らかなように、規格化、競争、効率化、生産性という考え方も、集約化という考え方も本質的に馴染まない。生産されるものは、本来、その土地固有の気候や風土に依存するからである。それに農業は、そこで生産されてくるものは基本的に「ナマモノ」であり、消費期限はつねに限定されているから、消費者に資源の浪費を強いるということもない。

 そして農業は、本質的に自由市場経済のシステムには合わないし、合うはずのものでもないことが判る。

また、とくに日本のように国土の大部分が平坦地ではなく丘陵地あるいは傾斜地である場合に

は、生産現場である畑や田んぼを面積的に大規模化したり団地化したりするという考え方も馴染まない。

そして農業がつくる物とは、基本的に、社会的存在としての人間としてと言う以前に、生物としてのヒトが「生きる」ために「喰う」ものである。それだけに農業が作るものは、人間にとって、そして社会にとっても「絶対的に不可欠な物」となる。またそれだけに、「安全なもの」を作るということも決定的に重要なこととなる———それに対して、「おいしいもの」を作るというのは、農業の主目的ではないし農産物として本質的なことでもない。あくまでも二義的なことである———。

 それに対して工業がつくり出す物というのは、とくに今日的になればなるほど、そのほとんどが、本質的に、「あれば役に立つ」と言える程度の物で、「便利」とか「快適」といった人間の気分や欲求をより満足させるための「副次的な物」でしかない。「生活」するための道具や手段ではあっても、「生きる」ためのものではない。

その上それらのすべては、例外なしに、既述して来たように(7.4節参照)、その人間に「便利」や「快適」を実現し得ても、そしてもたらすその便利さや快適さの度合いが大きければ大きいほど、その裏では、その便利さや快適さの効果の大きさや範囲をはるかに上回る、負の効果としての副作用を人間のみならず社会にも、そして自然にももたらしてしまうのである。

つまり得られるものや実現されるものよりもはるかに大きなもの、大切なものを失っているのであり、壊してしまっているのである。

 今日の、人類が存続の危機に直面している環境問題とは、まさにそれに因る結果なのだ。

 以上が、私の考える工業の本質である。

 

 この対比から明らかになることは、農業と工業とでは、その成立条件も、両者の生み出す物が持つ質も意味も価値もまったく異なっている、ということである。

農業は———本来の農業は、という意味において———、自然に寄り添って生産すればするほど生態系は蘇り、豊かになって行く可能性が高まるとともに、それを食する人、すなわち消費者である国民も真の意味で、肉体も精神も健康で生きられる可能性がどんどん増すと考えられるものであるのに対して、工業は、発展すればするほど、あるいは発展させればさせるほど、生活上の見かけの便利・快適の度合いは増しても、その裏では、同時並行的に、人が生物として生きられる土台を破壊し続け、自分自身に対しても本来もって生まれた生物としての能力をどんどん劣化させ、あるいは退化させ続けることになり、結果においては、ヒトを含む生物一般の存続をも不可能にさせてしまわざるを得ないという性格を本質的に持っている、ということである。

 つまり人間にとっても、人間の集合体である社会にとっても、また人間を生かしてくれている自然にとっても、農業と工業の質的・価値的位置付けや重要度は正反対に近いくらい異なっているのである。

 近年、とくに生命工学、再生医療、あるいは遺伝子工学といった分野で、生命の根源である遺伝子をいじり回したり、生命体のコピー生物(クローン)をつくり出したりすることがメディア上で脚光を浴びて来ているが、そういうことに手を染めること自体、そこにどのような尤もらしい理屈を付けようとも、それは、人間の母なる自然に対するこの上ない冒涜だし、人を人間として生かしてもらっている自然に対してあまりにも傲慢な態度だと私は考える。

 それだけにそうした態度は、人間の予期・予想もしなかったところに、いつか必ず、人間の手にはとうてい負えない規模の巨大な反動が襲ってくると確信する。

近代文明に覆われた地球上には、既に、前例のない、また人智をはるかに超えた規模の災害が頻発化して来ているのはその現れである、と私は確信を持つ。そしてそれは、自然に因る災害ではない。明らかに人に因る災害なのだ。

 今こそ私たち人間は、広大な宇宙の中で、この「水の惑星」である地球に一生物種として生まれ合わせたことの不思議さと有り難さに先ず感謝すると同時に、神秘としか言いようがなく、また限りなく奥深く無矛盾なその地球上の自然によって生かされている存在であるということにも、謙虚に頭を垂れるべきではないだろうか。

 人間は自然の支配者や征服者には絶対になり得ないのだ。またそうした野心を、とくに科学者は、抱いてもならないのだ。

 そしてこの謙虚で誠実な態度こそ、これからの日本の、国としての経済のしくみとそのあるべき姿を明らかにしてくれるのではないか、と私は考えるのである。

 実際、この観点に立って、これからの日本の経済とその仕組みの具体的な姿を、次節以降で、私なりに構想する。

 

11.3 農業と工業の本質的な相違————(その1)

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11.3 農業と工業の本質的な相違——————————(その1)

 前節では、これまでの経済の定義というか概念は余りにも多くの問題や矛盾を露呈しすぎてきているのでもはや変えられるべきではないかとして、私なりに考える経済の新しい概念を定義し、それについて説明してきた。そこで次は、その新しい経済の概念に基づく新しい経済システムを実現するための具体的な方法を説明しなくてはならない。

しかし、私は、その前に、予め、農業と工業の本質的な違いを明確にしておかねばならないと思う。

なぜか。そこには少なくとも4つの理由がある。

1つは、農業は生命を育てることを扱う産業、例えば水産業や酪農あるいは畜産業そして林業を含めた産業の代表格であること、一方の工業は、製造業、サービス業、流通業を含めた産業の代表格であること。1つは、この国では、その代表格である農業は大事だとされ、国の基幹産業だと多くの人には考えられながら、しかし、農業とは何かについては、実際に農業に従事する人を含むほんのわずかな人を除けば、残りの圧倒的多数の人はただ漠然と理解したつもりになっているだけのように私には思われること。1つは、この国の政府は、アジア・太平洋戦争後の1946年以来、戦後復興を急ぎ、国力をつけるためということで、一貫して工業に最も力を入れ、基幹産業とされた農業は常に二の次に置かれ、というより、工業の発展のための犠牲にさせられてきた感があること。その結果、この国では、“農業では食ってはいけぬ”という風潮を生み、それがこの国の農業を衰退させる一層の原因の一つとなってきたこと。

1つは、新しい経済の概念に基づき、誰もが生きて行ける国を実現し、この国を真に持続可能な国とするためにも、本来の農業とは何か、一方工業とは何か、両者の関係とは何かについて、すべての国民が正しく理解しておくことがどうしても必要なのではないか、と私は考えるからである。

 特にこの4つ目の理由をもう少し具体的に述べるとこうなる。

生物の一種であるヒトは、他の「生命」を喰うことでしか生きられない。これは厳然たる真理である。工業産品を喰って生きることは絶対にできないのだ。

 そして、そのヒトの体はそれまでに喰って来たものによってできている。良質なものを喰ってきたならそれなりの体ができているだろうし、不純物や工業的に人工的に作ってきたものが多く混ざったものを多く摂ってきたならやはりそれなりの体ができているだろう。これも好むと好まざるとに拘らず普遍的な真理だ。そしてこの両方の真理は、ヒトも自然界での大きな物質循環の一種である食物循環の枠組みから逸脱することは決してできないことを示している。だからこそ、自然界での物質循環は、常に安定的に保たれている必要があるのだ。とりわけ、大気と水と栄養において。

 したがって、もし自国を真に国力のある国、持続可能な国にしようと思うのなら、先ずはこの二つの真理の上に立って社会の政治や経済等、あらゆる制度や枠組みを考える必要がある。

 ところが、日本の戦後の経緯を見ると、長期政権を担ってきた自民党を与党とするこの国の政府のとってきた、自国民に自国民が生きてゆくために不可欠な食い物を提供する農業という産業を育成する農業政策は、この国は歴史的に稲作文化の国だからということなのであろう、そのほとんどが稲作を中心とするものであり、しかもそれらのことごとくは、ここでも長期的計画はなく、朝令暮改の政策でしかなかった。つまり「戦略」と言えるものは何もなかった。

 具体的なことは私には不明であるが、日本の食糧生産体制の大変革は、アメリカから始まったいわゆる「緑の革命」と呼ばれる動きに大きな影響を受けたと考えられる。1960年代のことである。「緑の革命」とは、ノーマン・ボーローグ博士の提唱になるもので、一言で言えば、農業機械を大型化し、農薬や化学肥料を大量に使うことで収量を飛躍的に増大させることができるとする考え方であり農法のことである。それも、単一品種の作物に対して、より効果的とした。

 この「緑の革命」の影響を受けて、日本では、特に政府が主要作物とする稲作について、これまでの伝統的農法に代わって、機械化と化学化を促進するという政策をとった。機械化とは、主にトラクターを導入するようにすることを言い、化学化とは、化学工業が作った肥料や農薬を大量に使用するようにすることを言う。その際、その機械化による効率を上げるためには、水田をその土地の地形から出来たこれまでの自然形から長方形の区画にする必要があるということで、政府は各農家にも負担させて大規模区画整備事業を行った。ところが、農家にとっては、やれやれこれでコメを自由に思いっきり作れると思ったら、今度は政府は、稲の作付面積に制限を設けるいわゆる減反政策を取ったのだ。それでコメを自由に作ることもできなくなった。そしてそれにさらに追い打ちをかけるようにして、それまでは農家に対して、“コメは一粒なりとも輸入はしない”と明言していた農水大臣は前言を翻してしまう。米騒動に始まった食管制度を廃止して、市場でのコメの自由化という農業政策へと転換したのだ。

 これから判るように、日本の農家は、戦後、次々と事態をつくろう自国政府に騙されてきたのだ。

 これだけでも、農家はやる気を失い、農業に誇りも持てなくなるというのに、その上今度は、種子法の廃止だ。種子法、正式名称は「主要農作物種子法」と呼ばれる法であるが、それは全ての都道府県が、稲、麦、大豆の種子の品質を管理し、優良な種子を安定的に供給する義務を負う、とした法律だ。その種子法の廃止により、今度は世界のアグロバイオ企業によって「農」と「食」そのものが支配されようとしているのだ。

 そして農業を巡る現在の状況はと言えば、消費者のお米離れもあり、多くの農家は“農業では食ってはゆけぬ”となり、農業後継者のサラリーマン化等にも拍車がかかり、農業従事者の激減と高齢化、管理できないがための耕作地の放棄、伝統的農業と農法の解体といった状況に至っている。そしてこれがまた、日本の食糧自給率を先進国中では群を抜いて低い状態にさせてしまってもいるのである。

 地球規模での温暖化とそれによる気候変動が止められずに、異常気象が常態化してゆくことが予想される時、日本のこの農業政策の失敗と躓きは今後ますます深刻な意味を持って行く事は間違いない。

どんなにITだ、AIだと言っては工業生産力を高め、物流を発達させたところで、喰い物が確保できないとなったなら、軍事力と工業生産力に頼る国力など、国民にとって、何の意味もなくなってしまうからだ。

 とにかく、この国の全政治家、そして中央と地方の政府は、今こそ、この国に実際に起こった次の史実を思い出し、そこから真摯に教訓を引き出し、それを生かす政策を考えるべきだ。

 食料に関しては、1918年に米騒動が起こったこととその理由。1993年が冷夏だったことによってコメが凶作となり、コメをタイやカリフォルニアから緊急輸入した事実。

 エネルギー資源に関しては、アメリカの石油禁輸に遭い、日本はフランス領インドシナに石油資源を求めて侵略し、アメリカには真珠湾奇襲攻撃をしてアジア・太平洋戦争を始めたが、結果は国を破滅させてしまった事実。1973年と78年には中東での政治情勢の不安定さによって生じた石油危機(オイル・ショック)で、日本政府はただただ狼狽え、産油国に対して、イギリス政府とは好対照の、恥も外聞もない土下座外交をした事実。

 しかし地球規模での危機が進展する中で、今後生じてくるであろう事態はこんな程度で済むはずはない。その時には、食糧を輸入しようとする相手の農業大国でさえ、自国民を喰わせるだけで精一杯の食糧事情になっている可能性があるからだ。

 思えば、この国を滅ぼすような過去の全ての大失敗も、そこに全責任を担っていたはずの全政治家や軍人たちは、相手を知ろうとはしないことを含めて、何の客観的な情報も集めようとはせず、したがって理性的な情勢分析もせずに、自分に不都合な情報は排除して好都合な情報しか聞こうとはせず、もちろん最悪の事態など想像すらせずに、“大和魂を持ってぶつかれ!”が象徴するように、精神論で対処できると考えてきた結果だった。

要するに彼らは、「孫子」を説く以前の話で、全てにわたって、自己に甘すぎ、見通しが甘すぎたのだ。

 そうでなくとも、もしも実際にこの国がそのような事態に直面したならば、官僚をコントロールもできず、府省庁相互の縦割りも解消できず、むしろ実質的には官僚に依存し追随するだけで来た、見せかけだけの首相、見せかけだけの閣僚、見せかけだけの政府、見せかけだけの国家でしかないこの国は、何をどうしていいのか判らず、たちまち無政府状態に陥り、その時、国中に生じるであろう略奪も強奪も殺戮も制止できず、むしろそれらを常態化させてしまうしかないだろう。

 

 そこで私は、読者の皆さんには、農業の意味やその大切さを今よりも少しでも深く理解していただきたいために、本節では、農業と工業の持つそれぞれの本質面を明らかにしてみようと思う。そしてそのことを通して、今日、世界的に、「豊かさ」を実現する手段として当然のごとくに考えられ、したがってますます発達させるべきだと考えられている工業ではあるが、そのあり方に比べて、農業が、私たちが生物としてだけではなく人間として生きて暮らして行く上でも、また私たちがこの地球の自然環境の中でこれからも永久に生かさせてもらいたいと願うならば、農業こそがいかに理に叶った産業であるかを明らかにしてみようと思う。またそのことを通して、なぜ農業が、人類史の中で、どの国においても、圧倒的長きにわたって支配的産業であり得たのか、その理由も理解していただけるものと思う。

 お断りしておくが、この両者の比較は、あくまでも私自身のこれまでの24年間のサラリーマン生活とその後の20余年間の農業生活という実体験に基づくものである。

前者のサラリーマン生活とは、本書冒頭の「はじめに」にも記したが、某ゼネコンでの研究者生活を意味する。また後者の私の農業生活とは、農薬も一滴も用いず、化学肥料も一握りとして用いることなく、徹底して良質な有機肥料に拘る農法に基づく農業生活を言う。

その時の栽培法は露地で栽培するというもので、施設の中で栽培するというものではない。ましてや季節外れの野菜を施設の中で化石資源を大量に使って加温しては栽培するという栽培法でもない。もちろん、最近よく耳にする施設内での水耕栽培でもない。

とにかく降り注ぐ太陽光だけを頼りに、それを最大限に浴びながら、土壌が本来持っている力を天水によって最大限に発揮させ、その力を借りて野菜や米を栽培するという栽培法によって支えられた農業生活のことである。

 

 先ず農業について。

 上記に言う土壌が本来持っている力(地力)を天水によって最大限に発揮させるとは、先ずはその土地にもともと棲息する土壌微生物に注目する。関係書籍に拠れば、農薬を散布されていない畑土1g中には、細菌が100万から1000万、糸状菌が菌糸の長さでスーメートルにも及ぶほどに棲息しているのである(都留信也「土壌の微生物」土つくり講座Ⅳ 社団法人農山漁村文化協会 p.9)。その彼らが十分に活動できるような土壌環境をつくるのだ。そのためには適度な量と質の水と空気が要る。それを、もし天水で不足であれば、我が家の井戸水をも用いて、適度に補って管理する。こうすることで彼らは土壌中の昆虫や小動物、植物の遺体を分解してくれて、播いた種子が健全に成長できる良好な土壌環境ができる。そこに良質な有機質を肥料として施し、種子が潜在的に持っている能力を最大限に発揮させるのである。

 後は、その周辺に次々と生えてくる多様な草が野菜の苗を覆ってしまって太陽光を遮ってしまうことのないように、草を適度に除去することで、野菜の成長を見守るのである。

 当然ながらそこでは、除草剤や殺虫剤の類いの農薬は一滴も使わなければ、化学肥料も一握りさえ使わないし、また使えない。使ったならば、それが土壌中の細菌や微生物を殺してしまうことになるからだ。それだけではない。野菜の根にも悪い影響をもたらしてしまう。

とにかくひたすら良質の有機物のみを用いて、適度に水を施して、土壌を活性化させ、地力の維持を図るのである。

 したがって私の農園では、季節の気候に合った作物しか作れないし、また作らない。だから、私の住む地域(標高750メートルの八ケ岳南麓)では、栽培できる期間は、一年のうち、実質的には、3月からせいぜい12月の中頃までである。

 作物は、野菜が主で、その他に、米、大豆である。栽培期間に栽培する野菜の種類は、およそ50種類で、スーパーマーケットに並んでいる種類とほぼ同種類の野菜を栽培している。

 ではなぜ多種類の野菜を栽培するか。

それは、1つには、生物としてのヒトが生きる上では、というより、生命一般は、その体がより健康的に生きるためには、それぞれが特徴ある栄養素を持っている喰い物を、多様な種類にわたって食べることが大事だと私は考えるからである。そもそもどんな生物も、どれか一種類の他生物を喰えばそれでその生物が生きて行く上で必要充分な栄養素がすべて満たされるということはないはずである。どうしても多種類の食い物を食する必要がある。だから、野菜を栽培するにも、単一ではなく、できるだけ多種類の野菜を育てる必要があるのである。

 もう1つは、畑も田も生態系の一部であるからだ。そして野菜や米という植物も生命である。生態系は生命が多様である程、豊かで、外からの撹乱に対して安定性がある(第4章「生命の多様性」の定義を参照)。単一の野菜だけを畑一面に栽培するよりは、多様な野菜を栽培する、それもその都度作る場所を換えるという栽培の仕方が生態系をつねに活性化させておく上で理に叶っていると考えられるからだ。

 だから、私の農法は、畑一面に同じ野菜を栽培しては収穫時には人手を使ってでもそれを一気に収穫して、それを不特定多数の人に食していただくために一斉に市場に出して換金するという、いわゆる市場経済を前提とした農法ではない。

 このように、私の農業や栽培法では、畑や田という一つの区画の中の生態系に———かといって、その周囲との間を遮断する遮蔽物があるわけではない———多様な種類の作物を意図的に栽培するのである。そうすることで、それらの根の周囲には根から出される分泌物やその分泌物に群がる微生物を求めて多様な微生物や多様な昆虫・小動物が集まり棲むようになる。その結果、各種生物間には一定の拮抗関係が生じる。そしてそのことが野菜や米の病気の発生を抑え、特定の生物種だけが異常発生することに因る被害を抑制できるようになる。

つまり、多様な野菜を栽培することで土壌の状態の平衡や安定を維持できるようになるのである。

 だからそこでは、これまでの慣行農法では「雑草」という言い方をされては目の敵にされてきた草もとくに敬遠することもしない。むしろ場合によっては草を積極的に生やしては活用さえする。草も、根を通じて土壌中で野菜と相互作用しているはずだし、そもそも自然界にあっては、人間が知らないというだけで、どんな生命体も、それなりの役割を必ず果たしているはず、と私は考えるからである。

 その結果であろうか、これまで、私の畑の野菜に、また田んぼの稲にも、病気が出たり、特定の虫の被害に遭ったりしたことは一度もない。連作障害とか発育障害という症状が生じたこともない。

 私ができるかぎり多種類の野菜を栽培するもう1つの理由は、野菜を買って下さっているお客さんが、宅急便で送られてくる野菜がより多種類であることを喜ばれるからである。

 ところで昨今、「土から離れた農業」の話題がメディアにしきりに取り上げられている。たとえばその一例が既述の水耕栽培である。

しかしそれについては私はまったく未経験ながら、かねてから気になっていることがある。そしてこの栽培法は今後の農業のあり方あるいは喰い物の生産方法として、どの国にとっても重要な意味を持ってくるのではないかと私には危惧されるため、ここで、少しじっくりと考えてみようと思う。

 気がかりな点の1つは、どんなにその栽培技術が最先端の科学技術的成果を用いて発達したところで、その栽培法がもたらす野菜は本当に人が生きて行く上で良質な食材となりうるのか、2つ目は、その水耕栽培なるものは果たして自然環境に負荷を掛けないものなのか、すなわち自然の摂理に沿ったものなのか、3つ目は、その栽培法は果して農業と言えるのか、ということである。

 3番目の問いから行けば、なぜこれが気がかりかというと、私は、農業とは、本質的に「土の上で、あるいは土壌を相手に営まれる業」ではないか、あるいは「それでしかあり得ないのではないか」、と経験上、固く信じるようになっているからである。その理由は、既述したとおりである。野菜や米等の栽培は、ただ水と肥料と光だけを科学的にコントロールすればいいというものではないと考えるからだ。またそれでは本物の野菜は出来ないだろうと考えるからだ。

土壌中のバクテリアと呼ばれる細菌の存在が不可欠の役割を果たしてくれているのだ。それは「工業」の力で何とかなるというものでは決してない。そんな多様な生物圏は人工的には決してつくれないと私は考えるのである。しかもその生物圏は構成要素が互いに拮抗した関係にある。太陽光にしても同じだ。水耕栽培ではLEDなり人工照明を用いるようだが、太陽光はそれでは決して満たし得ないもっと多様な光から構成されており、それが植物の葉に微妙に影響して、栄養や味をもたらしているのではないか、と考えるからだ。

つまり水耕栽培は、本来の農業とは言えない、と私は考える。強いて言えば、工場での工業的野菜製造法であって、工業の一分野と見るべきものだ。

 第1の問いについては、既に第3の問いに対する答えの中に答えが含まれていると私は考えるが、もう少し補足するとこうである。

確かに水耕栽培で出来た野菜は、「野菜」らしくは見える。しかし味、栄養価はどうであろう。

私は、自然は、工業がもたらす物による場合とは違って、人間の目や五官では判らない、判りようのないものを与えてくれていると信じている。それは、たとえば、ただ美味いとか栄養があるというだけではなく、それを喰えば病気になりにくく、より健康になるといった、科学では計量しにくい多様な要素が含まれているのではないか、と思うからである。そしてそれこそが真の価値とみなせるものだ。

 そうしたものが、土壌の中で栽培した野菜、それもとくに無農薬・無化学肥料で、良質の有機質のみを施した健康な土壌の下で育てた野菜には含まれているだろうと思うのである———ここで「良質の」とは、そこに農薬も重金属もその他の化学合成物質(成長ホルモン、抗生物質等)も混入していないことを意味する———。

 私がそう思う根拠は次のようなものである。

水耕栽培に用いられる肥料は、その量を人為的にきめ細かくコントロールする必要から、化学肥料にせざるを得ない。有機肥料はそうしたきめ細かなコントロールは本質的にできないからだ。

しかし化学肥料は、人間が化学工業の力を借りてある特定の肥料成分、たとえば、チッソ、リン酸、カリウム、その他のマグネシウム、カルシウム等を抽出し、それをある特定の比率で混合したものだ。そしてその肥料はそれ以外の成分は含んではいない。つまり化学肥料は最低限の肥料成分しか含んではいない。

 一方、本物の有機栽培野菜とは———ここでなぜ敢えて「本物の」と断るかというと、純然たる有機肥料だけではなく化学物質の含まれた肥料も使った栽培法をも「有機栽培」、それによって出来た野菜を「有機野菜」と言って販売している農業者もいるからである。実際、農林水産省有機栽培と有機野菜に関するルールJASS5はそれを認めている———、そこで施すのは良質の有機質だけであることはもちろんであるし、またその有機質の中には既に莫大な数と種類の微生物や菌類が含まれており、その上、既述のように土壌中に棲息する莫大な種類と個体数の微生物や菌類そして昆虫も加わって、それらの総合力の結果として出来上がってくる野菜だ。

その際、土壌中の微生物は、外から施された有機質を餌にして生きながらそれを分解する。その分解された物も有機物であるが、それは最初施された有機物とは異なる有機物で、土壌有機物と呼ばれるもので、これが野菜の成長に特に大きな効果を発揮するのである。

 私には、こうして出来てくる野菜と水耕栽培でできてくる野菜が、同等に、人が生きて行く上で本当に良質な食材となりうるとは考えられないのである。

 ヒトという生物も、種類の少ない限られた栄養だけを摂っていたのでは、つまり偏食していたのではどうしても健全な肉体と精神ができてこないと同じように、野菜や米という生物についても、自然の、できる限り多様な栄養素が供給されてこそ良質の、つまり見た目だけではなく、味も栄養も、また今日の科学をもってしても判らない他の価値をも備わった質のものが出来上がってくるのではないか、と私は考えるのである。

 いずれにしても、私のしている農法とは無関係に、それがいやしくも農業と言われるものあるためには、これだけは必ず備わっていなくてはならないという要素がある。

それは、晴天と降雨と風が周期的に安定して繰返される気候、作物の生長に適した周期的な気温変動、多様な微生物や昆虫そして小動物が棲息する土壌、毒物あるいは有害因子で汚染されていない適温で適量の水、多様な栄養を持った適量の有機物である。

 これらのうちのどれ一つ欠いても本来の農業は成り立ち得ない(甲斐秀昭・橋元秀教「土壌腐食と有機物」農山漁村文化協会p.8〜9)。言い換えればこれらが農業を成立させる「絶対条件」となるのである。

そしてこれらが、互いに相互に影響を及ぼし合いながら、健全な生態系(「生態系」については5.1節の定義参照)を構成しうるのである———さらに言えば、そうした健全な生態系と生態系とが互いに連結し、大きな自然を形成して行く。

またそうなってこそ地球を熱化学機関して成立させている作動物質としての「大気と水と養分」は順調に循環し、人間がその諸活動の中で不可避的に発生させる余分なエントロピーを、最終的には宇宙に捨て去ることができるようになるのである(第4章を参照)———。

 こうした観点からみても、生態系・土壌・気候・他生物との関係を切り離して喰い物を生産する既述の「水耕栽培」という生産方法は、掛け替えのないエネルギー資源を大量に浪費することを強い、地球の温暖化を加速させ、異常気象を頻発化させることになる、「収益」性に囚われた市場経済にのみ支配された姿でしかない。

 このことから、先の第2の問いにも答え得たと私は考える。

 以上のことからもお判りのように、農業においては、「食い物を作る」とは言っても、真の作り手はその「絶対条件」であり、それを提供してくれる生態系であり自然なのである。もっと限定的に言えば真の作り手は「土壌」なのである。それも、「その中に微小生物が豊富に棲んで盛んに活動し、十分な水、養分が作物に供給されると同時に、緩衝能が大きく、作物にとって不利な環境に陥りにくい土」なのである。それはきわめて複雑な系であり、それは、たとえば機械が古くなればそれを取り外して替えることができる工業あるいは工場生産とは違い、全取っ替えするなど到底できない質のものである (甲斐秀昭・橋元秀教「土壌腐食と有機物」農山漁村文化協会p.8〜12)。

 その中で、人間がすることあるいはできることといえば、せいぜい、やがて成長して喰い物となってくれる「種(タネ)」が持っている固有の能力・特性を最大限に発揮できるような環境条件を維持できるよう、その絶対条件がいつでも備わるように手助けするぐらいなのである。

 たとえば、その絶対条件のうちとくに水が足りない場合にはそれをこちらが補ってやる。地力が落ちてきたなら、栄養の種類が豊富な有機物を補ってやる。野菜が草の勢いに負けて日陰になるほど覆われてしまいそうになったなら、その草を除去してやる、というように。

 種を播いてから収穫までの期間は、途中、草取りや虫除け、追肥、水やり等の作業は、適宜、必要とはなるが、それまではただじっと「待つ」よりない。この時間は、その野菜にとって成長のための必要不可欠な固有の時間であって、それを人為的に短縮するなどということは絶対に出来るものではない。また、短縮しようなどと考えてもならないと私は思う。なぜなら、それを考え出し実行したところで、そのことに因る歪みが、自然や人間に対して、あるいは出来上がってくる野菜そのものに、予期し得ない何らかの形で、害として現れてくるのではないかと推測できるからである。

 出来上がってみるまでは、どれほどの物が出来るか誰にも判らない。それは既述の「絶対条件」が、同じ圃場であってもつねに変化するし、またその条件が、同じ圃場であっても、いつも過不足なく満たされるとも限らないからである。

だから、栽培者がどのように植物の生育環境を管理しようとも、出来る野菜に再現性はない。

つまり、去年良いものが出来たからといって、今年も同じ出来映えのものが出来るという保障はない。そしてできてくる野菜は、すべて、形状も、大きさも、全く不ぞろいだ。そしてそれが自然なのだ。むしろ、形も大きさも一致していること自体、不自然だ————人間も同じだ。誰も彼も、個性も趣味も、能力も同じ、ということなど絶対に不自然なのだ! これは、教育制度への絶対的教訓ともされなくてはならない————。

 農業が生み出すものというのは、本来そういう性質のものなのである。

そしてこうした栽培法から出来上がってくる喰い物は、形や大きさは不揃いであろうとも、すべて、食して安全であることはもちろん、間違いなく美味しく、また栄養価も高いものであるはずである。

 とにかく労力・時間等のコストをできるだけ少なくしながら、できるだけ収量が多くなるようにと農薬や化学肥料を多投して、規格化され画一化された農産物を栽培することは、圃場という生態系にとっても、またそれを食する人の体にとっても、害はあっても、有益となることは少ないと私は考える。

 本来の農業とは、生態系を守り、環境を守り、景観を良くし、地下水を守り、生物多様性を維持し、作動物質である「大気・水・栄養」を自然界に循環させてくれ、エントロピーの増大を防いでくれる営みなのである。

そしてこの事実こそが、人類史の中で、なぜ農業がどの国どの地域においても圧倒的長きにわたって支配的産業であり得たのかを説明しているのである。そういう意味で農業は、歴史の表面に出ることはほとんどなかったが、人類の歴史そのものを土台から支えて来たのである。

したがって、もし私たちヒトが生物として、この地球上にこれまで生きて来れたと同じくらいにこれからも生かさせてもらいたいと願うならば、本来の農業を国と社会の名実共に基幹産業とする必要があるのである。

 以上が私の考える農業の本質と言えるものである。