13.5 科学と技術
13.5 科学と技術
これまで「ハイテク」すなわちHigh Technologyと言われて来た技術とは、その実、どれも、例外なく、限りなく高速化され、大容量化されながら小型化されたコンピューターに全面的に依存したメカニズムとシステムを持った技術のことだった。
また、ハイテクとまでは行かなくても、いわゆる近代技術といわれる技術一般についてみても、それらは、そのほとんどが、個別対応型であり、それも対症療法的に一部分だけを最適化させることのみを狙った技術であり、その技術は、その部分だけに着目すれば、あるいはその技術を開発した企業だけから見れば、いかにも経済的「合理」性を満たし、コストを安く抑えられる技術であるかのように装おったものであることを特徴としていた。
しかし、その技術も、確かに一方ではより広範に人々に便利さや快適さをもたらしはしてきたが、他方では、経済的「合理」性が最優先されるがゆえに、その技術によって生産された商品が消費者の手に渡って使われた結果、それがその消費者の人間としての心身にどのような影響をもたらすのかということはもちろん、それが用いられることによって社会全体に対しても、さらには自然や生態系に対してどのような影響をもたらすかということについても、生産者としては全く関心も責任も持たないものだった。
結果として、その技術が生み出した製品は、人間一人ひとりをして、概して次のような傾向を生んできた。それは、根気の要ることや手間のかかることを「めんどくさい」として敬遠する傾向であり、我慢することや待つことができなくさせ、努力することや継続することを避けようとする傾向であり、経過や経緯を問うことなく結果のみをすぐに求める傾向である。これは一言でいえば、心身を虚弱にもしてしまっているということだ。
また、他者を思いやる力や想像する力を失いつつある傾向であり、自己中心的あるいは利己主義的にさせてしまう傾向であり、その結果、一人ひとりをますます孤立させてしまうといった傾向である。さらには、創造力や思考力をどんどん失いつつある傾向、好奇心や探究心をますます失いつつある傾向といったことや、その地の気候風土や歴史の中で培われて来た人間関係を円滑に保って生きるための智慧とも言うべき伝統の生活文化にますます無関心となる傾向といったことも挙げられるように私は思う。
こうした傾向の結果、どうしても自然に対して傲慢になり、自身も傲慢になり、先人たちがずっと抱き続けてきた人智や人力を超えたものへの畏敬の念や謙虚さを忘れさせてしまうから、かえって危機を招いてしまいかねなくなっている。また実際に招いても、対応し得なくなってしまっているのである(7.4節)。
今日、世界が地球規模の温暖化や、同じく地球規模での生物多様性の消滅という事態を招き、その結果として人間あるいは人類が生きてはいかれない環境にしてしまっているというのも、こうした傾向の結果ではないか、と私は思うのである。
すなわち、近代が生み出した科学に基づいて、技術が生み出した物は、一見したところ、人間にとって便利で快適なものとは映っても、それは目先の狭い範囲内でのことであって、広い意味でと、長い目で見れば、自身の心身を虚弱にはするし、社会を住みづらくしてしまうし、自然を汚したり壊したりしてしまうものでしかなく、そんな傷んだ社会を修復したり、破壊された自然を蘇らせる上では、人類全体でコストを支払わねばならなくなるために、これほどコストの高い技術はない、と言えるものだった。
そして、そうした特性を本質に持つ近代の技術が生み出した典型的な工業的産物が、自動車であり、コンピューターであり、超々高層ビルであり、原子力発電であり、インターネットであった、と私は考えるのである。
では先のハイテクについてはどうであろう。
少なくとも、今日特に注目しなくてはならないハイテクと呼ばれる分野の技術としては、例えば遺伝子組み換え技術、ゲノム編集技術、クローン技術であり、AI(人工頭脳)技術が挙げられるのではないかと私は思う。
これらのどの技術も、人類の将来にとっては、極めて深刻な問題を引き起こすと私は大変危惧するのであるが、その中でも特に人類の将来に大混乱をもたらすと確信するのがゲノム編集技術、またはゲノムテクノロジーと呼ばれる技術である。
その技術とは、生物の持つすべての遺伝子情報であるゲノムを正確に書き換える技術であって、生命そのものを思い通りに作り変えることを目的とした技術である。
それに対して、遺伝子組み換え技術は、複数の生物の遺伝子(DNA)を人工的に合体させて、全く新しい遺伝子の構成を持った生物を生み出す技術である、あるいはある生物が持つ遺伝子の一部を、別の生物の細胞に導入して、その導入した遺伝子を発現させる技術のことである。
しかし、ゲノム編集技術は生命そのものを思い通りに作り変えることを目的とした技術とは言っても、それはあくまでも元々の生物の細胞の中に含まれるDNAという、遺伝子本体の配列の一部を、切った、貼ったを行っては、こちらの思い通りの生命体を作ることを目的とした技術であるから、その技術は、決して「生命を創造する」技術というものではない。生命の根源であるところの遺伝子そのものを人間が創るわけではないからだ。
いかに科学が進歩し、技術が進歩したところで、人間は自ら独自の遺伝子を創ることなどできるわけはないし、したがって生命を独自に創ることなどできるわけはない。言ってみれば、生命の根源である既存のDNAを単に弄り回すだけの技術なのだ。その意味で、ゲノム編集技術は、最初から、私たちヒトが太古から生かさせてもらって来ている無矛盾で完全無欠なシステムから成る自然を明らかに冒涜する技術であると言える。
しかし、この技術はヒトを含むすべての生物の間で使うことができるとする技術であるところが問題なのである。
それはどういう意味で問題と考えるか。
生命そのものを思い通りに作り変えられるとしたなら、いずれ必ず、かつてのナチスが採った「優生学」という発想が生まれてくるだろうからだ。
「人間の尊厳」とか「多様性」、そして「人間の幸せ」という概念は消滅してしまうだろうからだ。「教育する」とか「努力する」という考え方も無意味化させられてしまうだろう。
人間にとって何が大切で、何がそうでないか、その判断基準をも失ってしまうだろう。
そして社会には、人間相互の「競争」がもっと激化して、ホッブスが言った「万人の万人に対する闘争」状態を生んでしまうだろう。
つまり人類が「進歩」という名の下に、歴史の中で営々と築き上げてきた人間と社会と自然に対する価値概念が、ここへ来て、あっという間に、ことごとく無意味化されてしまうという事態を生むのではないか、と私には体が身震いするほどの不安を感じるからである。
ここで私には次のような根源的な疑問が湧いてくるのである。
それは、木の葉一枚創れない人間、生命体を巡り、その生命を支える血液そのものを創れない人間が、生命そのものを無から創るのではなく、生命の根源とも言える遺伝子を、人間の都合だけでいじり回すことによって人間だけに好都合な生物を作り出すなどということが、果たして、人間を生かしてくれている自然から許してもらえる行為なのか、という疑問だ。
それに、人間の遺伝子への介入や生命そのものへの介入は、明らかに、人類存続のためのこれからの時代における主導原理の一つであるとする「生命の原理」を公然とそして大規模に撹乱することでもある。しかも、撹乱した結果が、人間にとって、社会にとって、そして自然にとって、どうなるかは、介入した本人でさえ全く予想も判断もつかないのだ。
というより、その技術をヒトまたは生命一般に適用した結果、そのものだけではなく、その子孫にどのような影響がどの代にまで及ぶか、また生物界での食物循環という秩序はその結果どういうことになるのか、ということにもまったく無頓着で無関心な技術なのだ。
ともあれ、ゲノム編集技術は、人類が手にした技術ではあるが、今、大至急必要なことは、それの適用については、世界的にも、ひとまずは止めて、理性を持った世界の知識人たちによる、倫理的・宗教的・教育的・哲学的な観点からの議論であろうと、私は思う。
原子爆弾の開発時のように、できた以上使おう、という安易な発想は繰り返してはならないのだ。
ゲノム編集技術も近代西欧において発達してきた科学ではあったが、である以上、同じ近代西欧が生み出した「自由」の根本概念に立ち返って、適用の適不適については、そこから問い直してみるべきではないだろうか(4.1節)。
そこで、では、果たしてこれからの環境時代における科学のあり方とはどうあったらいいのであろう。また技術についてはどうあったらいいのであろう。
近代の科学のあり方、技術の在り方のままでいいのだろうか。
4.1節には、私の考えるそれらを再定義という形で明らかにしてきた。
重複するが、それを改めてここに示す。
「環境時代の科学」: 「近代」の科学は、見えるもの・計量できるもののみを対象としてきた。そこでは、フランシス・ベーコンが言ったように、なるほど「知は力なり」だった。その知は悪の力にも善の力にもなり得た。近代の科学は、その知あるいは知性の産物でしかなかった。知性は、事実を事実としてはっきりさせるという力であり、物を客観視した上で理論的に分析する能力であり、価値の問題には関わろうとはしないし、特にその物の価値を判断することは避けた。それだけに近代の科学は、例えば大量殺人目的であれ、どのような目的にも奉仕してきた。
近代という時代の科学とは、たとえばその代表格である自然科学をとってみても、それはあくまでも自然を観る無数の見方のうちの一つにすぎなかった。
それなのに、それは、客観的で、中立的で、普遍的な、唯一の正解をもたらすものだ、と科学者にも世間一般にも信じられて来た。
そこでは、自然の中の多様な相互関連性・相互作用は無視され、一切の外乱が入らないようにして事象を最も単純化させた条件下において、部分を足し合わせればいつでも全体になるという仮説の下に、対象となる自然をバラバラに切断し、時間の経過を無視し、質を無視して、量的関係だけに着目してきた。
しかも近代の科学は、「資源は無限」、「空間は無限」という仮定を前提として、己の限界を知ろうともせず突き進んで来た。科学者も、その一人ひとりは、自分も、自分の遠い祖先も、またこれからの遠い未来の子孫も、いま向き合っているその大いなる自然に生かされて来たこと、生かされて行くことをも忘れて好奇心の赴くままに突き進んで来た。
しかし、ポスト近代としての環境時代の科学は、近代の科学とは明確に違う。
そこでは、自然あるいは生命一般は見えるモノと見えないモノとの統一物として存在していること、さらには、見ているもの着目している部分はあくまでも自然・社会・人間から成る全体の一部であり、その部分は全体とつねに統一されていることを明確に意識しながら、その対象とする部分を、全体との関係においてつねに動的に、つまり時間的変化を考慮する中で、分析と綜合を一体不可分にして、生き生きとした姿のままに、法則として認識しようとする、人間の自然とのよりよい共存の姿を求める行為となる。
つまりこれからの環境時代の科学とは、単なる知性の産物あるいは科学者の単なる知的好奇心の産物としての科学ではなく、また軍需を含む産業界からの要請に基づく科学でもない。またその成果についても、直ちに公にできるというものでもない。
先ずは、その成果が自然と社会と人間に対して適用されたなら自然と社会と人類の遠い将来にわたってどういう結果がもたらされうるかを、その成果の限界を誰よりもよく判っている当の科学者自身に判断が託される。次いで、その判断を参考にしながらも、その成果を世に出すべきか否かについて、遠い人類の利益と大義の観点から厳正中立に審議するための第三者機関が設立され、その機関での議論が公開のもとでなされる。その上で、その成果の扱いについての審判が最終的に下される、というしくみを持った科学となる。
たとえばゲノム編集技術によって作られた生物あるいはクローン(コピー生物)について見たとき、それが作った当人あるいは人間社会に利益をもたらすか否かを考える以前に、作られた人間であれ他動物であれ、自分の親が誰なのか判らない苦しみ、自分を愛してくれる者がいない淋しさ一つ人間として想像してみただけでも、その成果の適用の反人間的・反感情動物的な意味が判断できるのである。
核の抑止力の上に立った東西冷戦や核拡散防止条約の有名無実化に見るように、原爆や水爆、生物兵器や化学兵器が一旦つくられてしまえば、消滅させることはほとんど不可能となるという歴史の真実や、「覆水、盆に返らず」という格言から教訓として学ぶ必要があるのである。
「環境時代の技術」:これまでの近代の技術とは、近代の科学に支えられながらも、生産者の立場が優先され、生産者が作り出した製品を利用する立場の人をあくまでも「消費する者」と位置付けた上で、「生産性・効率性・コスト削減」を最優先する考え方の下に、そして「画一品を規格化しては大量生産」するという考えの下に、さらには、その製品は人が人間として生きてゆく上で本当に必要な物か否かということなど全く考慮することなく、捨てられた後には自然や環境はどうなるのかということなども一切考慮することなく、またその製品が生態系に撒かれたなら生態系はどうなるかということも一切考慮することなく、「とにかく商品として売ってしまえばおしまい」という考え方の下に、消費者には、「もっと便利に、もっと快適に、もっと豊かに」とその心理を煽り立てて消費行動を促しては、それを満たすために、地中深くから化石エネルギー資源や鉱物資源を掘り出して大量に浪費し、廃棄させる技術だった。そしてその結果、生じたのが既述の「環境問題」だった。
環境時代の技術はそうした人類の死活に関わる環境問題を引き起こした技術と明確に異なる。というよりそのような技術のあり方とは正反対に、いたるところで遮断され、また分断された自然を、統合された自然へと再生し、修復し、復元することをつねに念頭に置きながら、先に定義された科学の諸結果を、特定の物の生産現場において意識的に適用する技術である。そしてそれは、「人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」(武谷三男著作集 第1巻 勁草書房 p.139)とする旧来の技術の概念をも「環境時代」という新しい概念の中で止揚するのである。
それは言い換えれば、究極的には、人間社会と自然を連結した一つの熱化学機関として蘇らせながら、地球表面上に溜まりに溜まった廃物と廃熱を処理し、地球そのものを最大の熱化学機関として蘇らせると同時に、その廃物と廃熱に付随して生じて地球上に溜まりに溜まった余分のエントロピーを宇宙に捨てられるようにする技術である。
だからその技術は、人間の身の丈のスケールをはるかに超える巨大技術や宇宙「開発」技術でもなければ、同じく人間の身の丈のスケールをはるかに下回るマイクロテクノロジーでもナノテクノロジー(ナノとは1ミリメートルの100万分の1)でもない。どこか一部でも故障すれば全取っ替えしなくてはならないような、資源の大量浪費を不可避とする技術でもない。
むしろそれは、人間の誰もが持っている掛け替えのない体の一部の機関である「頭」を良く働かせ、「手」「指先」を器用に働かせ、「労働の歓び」「達成感」をもたらす技術である。それはむしろ、この国のかつての「匠」の「技(わざ)」、ドイツの「マイスター」の「技」に近い。そしてそれは、人間を全的な人間として成長させ、持続的な幸福をもたらすための手段ともなる技術である。
もちろん、原爆や水爆、そして化学兵器や生物兵器のように、ひとたびつくられ使用されたなら地球上の生物を死滅させかねないものであるはずもない。
そしてそれは、詰まるところ、私たちが生まれ住んでいるこの地球は、この広大無辺な宇宙の中で、現在判っている限り唯一無二の奇跡の惑星、水の惑星であり、私たちが気軽に裸でも生きられる星は宇宙広しといえどもここしかない、ここでしか私たちは命を未来へと繋いでゆくことはできないという認識に立った技術である。
現代版「ノアの方舟」と思われる「宇宙開発」や「宇宙ステーション」などという発想はほとんど無意味、というより宇宙空間を廃物と廃熱で汚して有害だし、そのようなものに期待を抱かせるのは罪でさえある、と私は考える。
13.4 居住形態
13.4 居住形態
本章では、「三種の指導原理」に基礎を置く、国家としての主要な仕組みの具体的な姿について考えようとしているのであるが、果たしてその際、居住形態ということについてまで考えることが妥当であるかどうかについては私は正直言って迷うところである。それは、居住形態というものは多分に文化に関わることであり、その種のものについては、本来、個々人の自由の問題であって、宗教や道徳のあり方を国家の法によって規制すべきではないのと同様の理由で、国家の法によって強制されたり規定されたりすべきものではないからだ。なぜなら、人によって、また事情により、様々な居住形態がありうるからである。
しかし私は、日本のアジア・太平洋戦後から後の今日に至るまでの世相の変化を、メディアによるドキュメンタリー番組を通じてその実態を見てくるにつけ、そこには負の社会現象ともいうべき歓迎すべからざる現象が特に近年に至るほどに世の中に急速に増えてきていることを知り、なぜそうなるのかを仕切りに考えるのであるが、しかしよくよくそのことを突き詰めて考えてゆくと、それは、戦後から生じ始めてきて、今日ではそれが全く疑問にも思われなくなって「当たり前」となって来ている国民一般の、ある価値観の共有を前提とする居住形態に最大の原因があるのではないか、と私はそう仮説を立てたい気持ちにさせられるのである。
そこで私が言う「負の社会現象」とは、例えば、イジメであり、いろんな種類のハラスメントであり、引きこもりであり、登校拒否であり、鬱であり、虐待や暴力や傷害であり、殺人であり、孤独死であり、最も痛ましいのは自殺である。育児放棄や、それによる虐待・暴力・殺人というのもある。
そしてそれらの数は、概して、年々、「過去最多」を更新してさえいるのである。
もちろんこうした社会現象は、実際にはたった一つの原因や理由で生じることはなく、様々な要因が重なり合って生じていることではあろう。例えば、この国の政府のやって来た経済とそのシステムや制度の在り方に因る、ということもあろう。また、教育とそのシステムのあり方に因る、ということもあろう。そしてその場合の原因や理由についても、すべてが同等の重みを持っているのではなく、軽重の差あるいはより本質的であるか否かの違いがあることであろうと思う。
私はそう考えつつも、上に記した様々な「社会」現象が生じてくる、そしてそれがますます頻発してくるより本質的な原因あるいは理由は、居住形態あるいはその形態を成り立たせる、構成員一人ひとりが持つある共通の価値観にあるのではないか、と推測するのである。
その根拠は次のものだ。
人は誰も、年を取ってから覚えたことや学んだこと、あるいは体験したことは、感激や感動の度合いもわずかであって、すぐに忘れてしまいがちなものであるが、幼い時に覚えたことや学んだこと、体験したこと、また感激したり感動したりしたことは、年を取ってからも、また認知能力が衰えてもしっかりと記憶にあるものだ。それに、幼い時に形成された性格や性質は、年老いてからもなかなか変わらないものである。
“鉄は熱いうちに打て”とか、“三つ子の魂、百までも”と言われるのはそのためであろう。
こうしたことが格言となるのは、その人の育った環境が、またその人がそのことを体験した年齢が物心着くまでであること、人格や性格が形成されてしまう前までであることがどれほど重要であるかということを示している。その際、その家庭が経済的に裕福であるとかないとか、親が高学歴であるとかないとか、教育熱心であるとかないとかといったことは直接的な原因にはならないし、本質的な理由ではないことを示している。またその意味では、その人が、それからの人生を生きてゆく上で、それもただ生きてゆくだけではなく「人間」として生きてゆく上で、遺伝的要素の重みはそれほど大きくはない、ということをも示しているのである。
つまり本当に大切なことは、その人が生まれてから物心が付くまで、あるいはその人のものの考え方や生き方、すなわち人格や性格が形成されてしまうまでの間、その人にとっては最も身近な世界である家庭こそが決定的な影響をもたらすことになるのではないか、それもその家庭がどれだけ多様な「人間」たちによって構成されていたかということが決定的になるのではないか、と私は思うわけである。
そこで私の言う「多様な人間たち」とは、年齢的にも違う、つまり生きた時代も違う、価値観においても違う、生きて体験してきた内容も違う、生き方も違う人間たちのことだ。
だから、私は居住形態、すなわち家庭を構成する人間の多様な構成を重視するのである。
もちろん家庭と居住形態とは違う。家庭と言った場合には、その家庭を構成する一人ひとりのものの考え方や生き方そして価値観が大きく意味を持つが、居住形態はあくまでも形式のことでありあり様のことだ。でも両者は互いに「調和」の関係(4.1節の「調和」の再定義を参照)にあるはずである。
資本主義経済の発展過程において、人々は、産業界に踊らされて、また人々もそれを望んで、「核家族」化を進めてきた。
望んだ理由は、主に“お互いに気楽でいい”だった。
私は、先に、「便利さ・快適さを追い求めることが意味するもの」について考察してきた(7.4節)。
そこで得られた結論は、次のものだった————。
「近代」の工業文明が生み出した産物は、どれも、例外なく、その産物によって「実現された便利さ」という正の面よりも、「便利さを実現したとき、あるいはそれを実現する過程において、不可避的に同時に生じさせてしまった不都合で望ましからぬこと」という負の面の方が、内容的にも種類的にもそして規模的にも圧倒的に多いということである。
そこで言う「負の面」とは、人間そのものを、また人間の集合体である社会そのものを、さらには人間を生かし社会を成り立たせて来た自然そのものをも破壊し、汚染し、害毒を撒き散らすものでしかなかったということである。
言い換えれば、そのことは、人間に豊かさをもたらすとして科学技術が生み出した産物が実際に人間と社会と自然に対してもたらした「便利さ」など、並行して生じさせられた負の面からすれば、まったく取るに足らないほどのものだった、ということでもある。
そのことを裏付ける真実はまだある。
それは、科学技術の産物を用いれば、人力による効果や結果よりもはるかに大きな効果や結果を生むために、どうしても対象に対して傲慢になり、自身も傲慢になりやすい。その結果として、先人たちがずっと抱き続けてきた人智や人力を超えたものへの畏敬の念や謙虚さを忘れてしまうことである。結果として、“災害は忘れた頃にやってくる”(寺田寅彦)どころか、かえって危機を招いてしまいかねなくなっている。また実際に招いても、対応し得なくなってしまっている。
また、次に挙げるような傾向の全ても、「便利さ」をもたらすと喧伝された科学技術の産物が結果としてもたらしてきたものだ、と私は確信する。
例えば、根気の要ることや手間のかかることを「めんどくさい」として敬遠する傾向。我慢することや待つことができなくなる傾向。努力することや継続することを避けようとする傾向。経過や経緯を問うことなく結果のみをすぐに求める傾向。他者を思いやる力や想像する力を失いつつある傾向。一人ひとりをますます利己主義的にさせては孤立させてしまう傾向。その地の気候風土や歴史の中で培われて来た人間関係を円滑に保って生きるための智慧とも言うべき伝統の生活文化にますます無関心となる傾向。創造力や思考力をどんどん失いつつある傾向。好奇心や探究心をますます失いつつある傾向、等々のことである。
要するに、「便利さ」をもたらすとされる物を手に入れることに拘れば拘るほど、人間を、社会を、そして自然をダメにしてしまうし、実際そうして来てしまったのだ。
今日、スマホやSNSが世界中で広がってきているのは、そうした傾向への反動なのではないか。しかし、それとて、ある意味では仮想空間での人と人との繋がりでしかないために、言い方を変えれば、実際に手と手を触れ合って、あるいは体と体を触れ合って、相手の呼吸を感じあっての繋がりではないために、そうした繋がりを求める一人ひとりに本当の意味での生きる上での勇気や自信を与えてくれるものとはなり得てはいないのだ。
そのことは例えば、頭で覚えたことというのはすぐに忘れてしまうが、体で覚えたことはいつまでも忘れないでいる、という経験を思い出してもらえばすぐに理解できよう。
そこで、私は、以上のことから、次のような教訓が得られるのではないか、と記してきた。
“人間、誰でも、楽(らく)すると、それは、必ず、いつか、どこかに、楽(らく)した分の何倍、否、何十倍、何百倍ものツケとして回ってくる。”
ここで言う「楽する」とは、本来その人がその人の身体でその時にすべきことを、他の人に代わりにやってもらって目的を果たしたり、機械を使って目的を果たしたりして、その人自身の労を省くことを言う。
また「ツケ」とは、本来その人がその人の身体でその時にすべきことをしないで済ませてしまったことの代償を言う。
ツケがどういう形で、どれだけの規模で、どのように回ってくるか、それはそれぞれの場合で異なるのである。
なお、私たちが拘り、また産業界からも踊らされてきた「便利な物」や「快適な物」とは、実際には、ヒトが生物として生きてゆく上ではもちろん、人間として生きてゆく上でも不可欠な物では決してなく、「あれば便利」、「あれば快適」といった程度の物でしかなかったのだ。
実はここでも全く同じことが結論として言えるのではないだろうか。
私たちあるいはその先人たちが核家族を望む最大の理由を“お互いにその方が気楽でいい”としたその結果が、例えば先に記した負の社会現象ではないか、と言えるのではないか、と私は思うからである。
もう一度それを記せば、イジメ、ハラスメント、引きこもり、登校拒否、鬱、育児放棄、虐待、暴力、傷害、殺人、孤独死、自殺、等々である。
そこで、ここでは、居住形態のあり方としての家族構成のあり方について、私なりに考察してみようと思う。
人間は生きている間には、さまざまな人とさまざまなところでさまざまな関わりをつくってゆく。というより、生きるとは、ある意味では、そういうことなのかもしれない。
その関わり方において最も濃密なのは何と言っても自分自身との関係においてであるが、その次に濃密なのが家族あるいは肉親どうしの関係、ということになる。
実はその切っても切れない家族または肉親との関わりの中で、誰もがいつかは必ず直面しなくてはならなくなるのが、あるいはいつかは必ず関わらなくてはならなくなるのが家族や肉親の「誕生」「老い」「病」そして「死」であり、また自分自身の「病」「老い」「死」だ。
たとえば、幼い子どもにとっては、母親が身近なところで弟か妹を出産することを通して、いのちが誕生することの意味を知る。昔話をよくしてくれ、よく遊んでくれたおじいちゃんやおばあちゃん、そんな大好きなおじいちゃんおばあちゃんでも、いつかは老いて体が動かなくなり、自分のような小さい者の助けをも要るようになる姿を見て、老いの意味を実感として知る。
どんなに強いお父さん、どんなにやさしいお母さんでも、時には病気になったり怪我をしたりして苦しむ姿を見て、病にかかることの意味をしっかりと知る。また、いつまでも自分のそばにいてくれると思っていた最愛の家族があるとき死んで行く姿を見て、死ぬということの意味を知る。
さらに言えば、おばあちゃんがお母さんにわが家伝来の漬け物の漬け方とか雑煮の造り方とかお節料理の造り方、お正月の飾り付け、着物の着方等々についていろいろ伝授している姿を見て、文化の意味とそれを伝承することの大切さを知る。
生まれて間もない弟や妹の育児の仕方も、その弟や妹が病気や怪我をした時などの応急の仕方などもおじいちゃんやおばあちゃんがお父さんやお母さんに教えている姿を見て育つ。
自分も、兄弟が多くいればいるほど、その中での喧嘩や助け合いを通じて、他者は自分とは違う、自分にはどうにもならない存在であることを知りながら自我を育て、兄弟愛を育ててゆく。家族の誰かが困った時や辛い時には家族みんなで助け合い、励まし合うことを体で知る。
家族の一人ひとりは、自分だけではなく、家族みんなのこと、家族みんなの立場を考えて振る舞っている姿を見て、共に生きて行く智慧を学ぶ。
こうした家庭内での体験は、これから成長してゆき、学校や社会という家庭の外の人間集団である社会に巣立って行く子どもにとっては、どれも、彼のその後の人生観や人間観に決定的な影響を与えるのである。それも、とくにこの時期にどれだけ豊かな家族愛に恵まれ、家族の中の人間同士がお互いにお互いのことを思い合い、助け合う姿を体験しておくことは、その後の彼や彼女の人生に計りしれない影響をもたらすのである。
しかし、その場合も、こうしたことを体験し実感できるのは、おじいちゃんおばあちゃんがい、お父さんお母さんがい、お兄ちゃんお姉ちゃんあるいは弟妹がい、しかもその人たちが絶えず身近にいて、それぞれが家族として生きる姿を見せ合うことで初めて可能となることなのだ。
核家族という家族構成にあってはそうはいかない。少なくとも世代を超えた関係の中でのいたわり合いとか助け合いの心や、近い世代ではあっても自分とは違う価値観を持った者がいないような家族構成にあっては、通常は育ちにくいのではないか。
だから「他者」との付き合い方も判らない。むしろ、核家族だと、そばにいるのはほとんど親だけだから、いつも、何でも、自分の思い通りにできると思い込んでしまいやすい。
幼い子どもにとっては、いのちの誕生とか肉親の死を間近に見ることもほとんど無い。老いというものの姿も、病気にかかった姿も、間近に見ることはほとんどない。
核家族は、戦後、夫婦とその未婚の子女からなる家族のあり方ということでアメリカから入って来て流行し、それがその後いつの間にか日本社会でも一般化した家族形態のあり方であり、そうした生き方の背後には、核家族は、人類に普遍的であり、あらゆる家族の基礎的単位であるという主張が込められてはいたが(広辞苑第六版)、それは、あくまでも資本主義的、大規模大量生産的工業社会のあり方、あるいはそこに参画する人々の労働力の提供の仕方と連動した家族構成でしかなかった。
したがって、そこでは、一個の人間の生涯は、生まれた時から死ぬまで、どうあるべきかということを人間としての尊厳までも考慮してのものではなかったのではないか、と私は考える。
その核家族居住は、ひとたびその暮らし方を始めると、お互いが健康でさえあれば、確かに他者に気兼ねの要らない暮らしが出来るので、それはそれなりに快適な暮らし方と感じられよう。つまり「目先」を満足させてくれる暮らし方の形式だった。
しかし、その暮らし方は、それぞれの人生の中のかなり長い期間にわたるものとなって行くうちに、初めの頃に感じた快適さや気軽さとは違って、予期せぬさまざまな問題を生じさせるかなり悩みの多い暮らし方であることが次第にはっきりと感じ取れるようになってゆく。
それは、一言で言えば、核家族の夫婦にとっても、また核家族から離れて暮らす祖父母から見ても、共に、今と将来の生活に対する不安と孤独と言ってもいい類いのものだ。
具体的には、核家族の成員にとってのそれは、育児や家庭教育の方法が判らないことから来る妻の不安。妻自身が病気になった時に支えてくれる者が身近にいないことから来る不安と孤独。妻が自分一人で家を守らねばならないところから来る不安と孤独。妻が自宅を長期に留守にする時の不安。子どもが学校や社会で、異性を含む他者と巧く人間関係を築けなければ築けないで、そのことからくる不安。いろいろな時節の儀式や行事への対応の仕方が判らないことから来る不安、等々である。
一方、核家族から離れて暮らす祖父母にとっては、ますます老いて、自分の体が自分で思うようにならなくなり、病気がちになる自分たちの老後の生活への不安と孤独。ましてや、いつかどちらか一方がいなくなった時の生活上の不安と孤独。社会との交流の機会が年々少なくなって行くことから来る孤独。
しかしそうした不安を若夫婦、特に妻と、老夫婦の双方が抱えながらも、世の中では相変わらず次のような現象が進んでいるのだ。
例えば、「出産は産院任せ」、「幼児は保育園任せ」、「子どもは学校と塾任せ」、「婚活も業者任せ」、「夫は会社任せ」、「妻はパート任せ」、「祖父母はデイサービス・老人ホーム任せ」、「病気も死ぬ時も病院任せ」、「葬儀は葬儀屋任せ」、さらには「着付けは着物着付け教室任せ」、「料理は料理教室任せ」、「趣味のことは趣味の会任せ」、等々といった現象だ。
ところで、誰にとっても、人生の中で、避けられない生・老・病・死という事態にあって、上記のような各施設に、当たり前のように委ねられてしまう、あるいは自らを委ねてしまうということは一体何を意味するのだろう。
それは、少なくとも、家族あるいは自身の人生を他者の手に委ねてしまうことであり、他の家族や肉親との関わりをほとんど断ってしまうことだ。それは、当人が直面している、あるいはいずれ直面する生・老・病・死のとき、家族みんなで共にその事態に向かい合い、思いを共有するのではなく、よく言って辞退、悪く言って忌避することでもある。
たしかに家族の一員のそのような事態にあって、他の家族が互いにそれに関わり合ったなら、その期間が長引けば長引くほど、家族としては、一般には辛く、苦しい。そういう辛さや負担を家族にかけていると判っている当人の方は、心はもっと辛いだろう。そして看る人、看られる人の間には葛藤や確執が絶えないかもしれない。
しかしそれが、真の生きるということであり、真の人生なのではないだろうか。人の一生とは、そうしたことすべてを包含した全体を言うのではないだろうか。
そしてその全体を家族みんなで共有し合うことで、相互の絆は本当の意味で深まり、またそれを土台にして、学校でも社会でも、家族一人ひとりは、自信と誇りを持って生きて行けるようになるのではないだろうか。
だから、家族を一人施設に預ける、あるいは自ら身を施設に委ねるということは、その者を隔離して隠し、あるいは自らを隔離し、みんなの目には触れないようにしてしまうことだ。それは、家族みんなで対処したならば愛の絆が育ち深まるであろうせっかくの機会を、家族みんなで放棄してしまうことを意味する。またそれは、人間の本性から湧き上がる歓びも悲しみも辛さも、共有することなく過ごしてしまうことを意味する。
そしてそれは、未婚の子女である成長過程にある子どもにとってはとくに、余りにももったいない機会を失ってしまうことなのではないか、と私は思う。
要するに、資本主義経済システムと連動した核家族居住は、それまでの長い期間、大家族居住を通じて育まれ伝承されて来た、社会的存在としての人間の生き方の基本のほとんどを失わせてしまうだけではなく、人間相互の関係を孤立化させてしまう最大の原因の一つともなって来たのだ。
最後に、大家族居住がもたらしてくれるものを、私なりに改めて簡単に整理すると、次のようになる。大きくは4つあると考える。
第一は、何と言っても、人間を、命を、大切にする生き方を最も身近なところで学べる居住の仕方である。
第二は、人間の生き様や過去の出来事の教訓を、過去から未来へと伝えることを、最も身近なところで可能にさせてくれる居住の仕方である。
第三は、核家族は、親子二代しかいないために、大いなる時間の流れの中にあっていつも「今」というほんの一点しか見ようとはしない傾向があるので、時代の変化というものを実感として捉えにくいが、大家族居住は、時代の変化を教えてくれる者が家族にいるお陰で、時代の変化に敏感になれ、各成員は、家族の中だけではなく、社会においても、時代の流れの中での自身の位置付けについても、より捉えやすくなる居住の仕方である。
第四は、その家族にとってはもちろん、地域的にも、国家的にも、最も負担少なくして、人々に最も確実な安心をもたらしうる居住の仕方である。
以上の考察からすると、これからの居住形態としての家族構成は、最低でも三世代居住が望ましいのではないかと、私は考えるのである。
13.3 エネルギー
13.3 エネルギー
「環境時代」におけるこの国のエネルギーに関するしくみの具体的な姿として、私の考えるそれについては、既に11.5節にて詳述して来ましたし、13.1節の最後の方でも若干言及してきたとおりである。
とにかく、このエネルギーというものを考える上では、どのような種類のエネルギーを考えるにしても、私たちは先ず次のことを明確に押さえておかなくてはならないと私は思う。
それは、近代以降に築いてきた文明のシステムの延長上でこの国のエネルギーに関するしくみの具体的な姿を考える限り、今日の私たちの生命維持と暮らしは、何から何まで電力への依存の上に成り立っている、ということである。
それゆえに、電力の供給が止まれば、社会システムのすべてが機能停止になる。通信機能、交通機関、医療機関は言うまでもなく、「水」の供給さえもが止まってしまい、生活どころか生存さえ不可能になってしまう。もちろんガスの供給も止まってしまうのである。
したがって、近代文明を前提とする限りは、電力確保とその供給に対する安全保障は食糧の確保と供給に対する安全保障と同程度に重視しなくてはならないのである。
ここで注意すべきは、「近代文明を前提とする限りは」というところである。
つまり、近代文明を前提としないならば、少なくとも、人が人間として生きて、暮らしてゆくことにおいては、電力の確保とその供給ということは決定的と言えるほどではなくなるのである。つまり、電力に依らない別の方法で、食い物はもちろん水も確保する方法はあるからである。
しかし、ここでは、その近代文明を前提とし、しかも、これ以上地球を温暖化させないということも前提とするならば、今後、電力を含めた様々な種類のエネルギー及びエネルギー資源を確保する上での要点は、次のようにまとめられるように私は思う。
①基本的にはエネルギーというエネルギーのすべては、国内で自給する、ということである。
それは喰い物に対してとまったく同様で、それらは、どんな場合にも、あるいは何が起っても、人が人間として生き、また人間として暮らしてゆく上で、決して欠かすことはできないものだからである。その意味で、エネルギーは、いつ、何が起こるかわからない他国に依存していてはならないのである。
その意味で、エネルギーを常に自給する、自給できるようにしておくということは、日常的で最も身近な問題であるだけに、国としては、まさかの時にのみ意味を持ってくる、最新鋭の軍備をしたり、軍事超大国と軍事同盟を結んだりすることによる国の安全保障よりも優先度の高い安全保障と言える。
そしてその意味で、今日、日米安全保障条約の堅持には拘るものの、食料自給率を38%そこそこのままにし、エネルギー自給率を何と5〜8%そこそこのままにしているこの国の政府の統治状態は完全に失敗であり、政府として失格なのである。
②その場合も、電力を含むエネルギーは、遠距離から送り届けてもらうという発想を止めて、自分たちの身近で、自分たちで確保する、ということである。
それは、電力エネルギーについてみれば、発電場所が遥か遠方であったり、しかもそれが複雑で巨大設備になっていたりするという状態は、決して安全保障にもならないからである。
その場合、それを確保するにも、いわゆる「ハイテク」に拠るのではなく「ロウテク」、つまり、等身大あるいはヒューマン・スケールの技術に拠る、とする。
したがって、世界では今、一般的であるかもしれないが、日本ではソーラー・パネルによる発電方式は取らない。
それは、どんなにそれによる発電時には温室効果ガスを出さないとは言っても、ソーラーパネルそのものがヒューマン・スケールの技術によって製造されたものではないからだ。
ということは、それが故障した時や飛来物落下などで破損した場合には、全取っ替えをしなくてはならなくなり、それだけ、資源を膨大に無駄にすることであるし、また産業廃棄物を大量に出すことでもあるからだ。そうした破損事故は、今後、台風の巨大化が予測される中で生じる可能性がますます高まることが予想されるのである。烈風や突風に拠って折れた木々の枝の落下、建築物や看板の飛来、あるいは気象の不安定化に因って大直径化した雹の落下等によってである。
ところが、身の丈の技術によって作られたものは、たとえ壊れても、故障しても、どこが不具合かすぐにわかるし、その場で、人の手で直せて直ちに復旧できるのである。
それに、一般的に言えることであるが、そのようなロウテクないしは等身大の技術に拠る製品の方が、ハイテクに因って作られた製品よりも、同じ衝撃や外力が加わっても、壊れにくいからである。
ただし、同じ太陽光を利用するにも、その光と熱でパイプ内の水を沸騰させ、その蒸気圧でタービンを回して発電させるという発電方式は、身の丈の技術によるものだけに、十分に可能だ。
③ そしてここで確保しようとするエネルギーあるいはエネルギー資源とは、もはや化石資源やウラン資源ではなく、すべて再生可能なエネルギーであり、また再生可能なエネルギー資源でなくてはならない、ということである。
そして、その場合も、その再生可能エネルギーは、世界の潮流に合わせたものではなく、あくまでも各地域の自然風土に根ざしたものでなくてはならない、ということである。
すなわち、各地域が置かれた地形的かつ自然環境的な特殊事情や固有の事情を最大限活用して、その地に合った発電方式や、その地にあった自然エネルギー資源の確保の仕方を採用すればいい、ということである。
④そしてその場合も、これも第11章にて既述したように、環境時代の経済とそのシステムにおいては、「大衆による大衆のための生産方式」という考え方を基軸に置いていることから、その地域に根ざした再生可能エネルギーあるいはそのエネルギー資源も、あくまでも大衆の力で確保する、ということである。
したがって、例えば電力エネルギーの確保の方法も、もはやこれまでの電力の確保と供給のされ方に見るような、全国9つの電力会社による発電と売電ということはなくなるし、是非ともなくさなくてはならないのである。
そもそもその電力会社の実態は、独占禁止法という法がありながら、またその法理念に明らかに抵触しているのにも拘らず、先の通産省と今の経済産業省の官僚たちの「天下り」先の確保拡大、あるいは自分たち省庁の既得権の維持にこだわるあまり、その独占実態に目をつぶってきただけの話なのである。
これからの環境時代では、選挙制度の抜本改正によって、新しい政治家が誕生し、彼らから成る政府において、首相と閣僚が、真に国民の代表として、本来的に公僕である官僚を真にコントロールするようになれば、歴史的に長く続いたこの国の官僚の独裁もようやく終わり、本当の意味での民主政治が実現し、エネルギー政策も、今度こそこうした方向に舵を切れるようになる、と私は考えるのである。
そこで、ここでは、エネルギーを広い意味で捉えながらも、それを便宜的に、電力エネルギーとその他のエネルギーとに分けて、それぞれの自前による確保の方法を、既述の11.5節に基づいて、整理すると次のようになる。
(1)電力エネルギーの自前による確保の方法について
日本列島の持つ特殊性を考えたこの国に相応しいと思われる発電方式にはおよそ次の種類のものが考えられるのではないか、と私には思われる。
① 水力、それも河川の流水をそのまま利用した中小規模の水力発電
② 森林から出る間伐材を燃焼させることに拠る発電
③ 太陽光を利用した既述のもう一つの方式に拠る発電
④ 人々の日常の暮らしから出るゴミを燃やすことに拠る発電
⑤ 風力を利用した発電
⑥ 地熱を利用した発電
⑦ 波力を利用した発電
なお、ここで付記すれば、日本という国の国土や地形や風土を考えるなら、上記の7種類の発電方式のうち、①の方法がこの国の実情に最も合った発電方式ということになると、私は考える。
それは次の理由による。
日本の国土は温暖多湿のモンスーン気候帯にあること。年間を通して降雨量がおよそ1800ミリと期待できるし、今後は温暖化の影響でそれがもっと増える可能性さえあり、その結果、年間を通して、十分な水量を安定して確保できること。国土の大部分は山岳丘陵地帯であるために、河川水は全て急流であること。
そしてこうした条件こそ他国には見られないものだからだ。それを積極的に活用しない手はないからである。
この中小水力発電方式は、河川の流れの中に、上流から中流にかけて、水車を多段的に設置して、それぞれが生み出す電力を合計するのである。
(2)電力以外のエネルギー、特に熱湯および温湯の自前による確保の方法について
それは、既述した方法、つまり、内部を水で満したパイプに効率よく太陽の光を当ててパイプ内の水を沸騰させる。それを、先ず第一には、その沸騰水の持つ蒸気圧でタービンを回して発電させるのに用いる。それは身の丈の技術で可能だ。第二には、発電したことにより、当初の沸騰水温度は下がるが、それをすぐに捨ててしまうのではなく、断熱パイプを長距離用いて、水の温度が高温から低温に下がってゆく過程で、その水を、周囲の大気温度にまで下がる間、最大限に効率的に活用してゆく、というものである。例えば、地域の各家庭にパイプを通じて配給し、台所に、風呂に、床暖房に、と利用するのである。
こうした考え方は「コ・ジェネレーション(熱電併給)」と呼ばれるもので、既にある考え方であり、要するに、せっかくの高温として得られた熱を、発電するだけで捨ててしまうのは余りにももったいないから、その熱を周囲の環境(大気あるいは土壌)と同温になってもうこれ以上は利用できないという温度になるまで、“しゃぶり尽くそう”という発想に基づくものである。
次に、エネルギーそのものではなく、それを燃やすことによってエネルギーを得られる資源、すなわち燃料の自前による確保の方法を考える。
それは、整理すると、便宜上、次の2種類に分けられる。
①各家庭での煮炊きおよび暖房用に用いる薪、油、ガス
②自動車および重機を動かす油
それらの確保の仕方としては、例えば次のようなものが考えられる。
①の薪について。
地域連合体内の森林を計画的に管理育成しながら、適宜間伐した木材を活用するのである。
連合体内で、薪を暖房用として用いている住戸のすべてが、晩秋から冬そして初春までの期間で必要とする総薪重量を計算する。
その全量を賄える量の間伐材を、林業家の指導の下に、夏場、奉仕に参画してくれる住民が主体となり、それを公務員が補助する形で、山林にて確保する。
その間伐材を、山から麓に下ろし、定まった貯木場に集める。
住民の中から奉仕者を公募し、彼等の力で薪割りをし、それを天日乾燥させる。
そして乾燥させたそばから、雨の当たらない場所に貯蔵する。
寒さが来る頃、とくに暖を早急にも必要とする家庭を優先的に、定期的に配給して行く。
その配給作業員も一般住民から公募する。
①の油について。
これは、植物のタネから確保するのである。具体的には、小松菜・ベカ菜・辛し菜等の黄色い花の咲くいわゆる「菜の花」野菜のタネ、ひまわり、ゴマ、エゴマ、そしてオリーブが考えられる。それらを、適宜、一般家庭に、食用油と燃料油とに分けて、分配するのである。
①のガスについて。
それは、家畜と人の力を借りて確保するのである。
酪農で大量の家畜(牛、馬、豚、鶏等)を飼うことによって出る糞尿と、私たち人が日常生活を送る中で排泄する人糞(屎尿)とを集めて、それらを醗酵させることにより、その醗酵過程で得られるメタンガスを活用するというものである。
それには先ず、地域連合体として、次の手順で実現して行く。
全住戸と地域の産業が使用する毎月の平均総ガス量を把握する(これは、連合体の役所が行う)。
連合体内の酪農家の飼育する家畜が毎日出す排泄物の平均総量を把握する(これも、連合体の役所が行う)。その情報は、各酪農家から提供してもらう。
連合体内の人々から提供される毎日あるいは毎月の屎尿の平均総量を把握する(同上)。
それらの総量から、季節ごとの平均気温を考慮しながら、醗酵して得られる一日当たりのメタンガスの量を算定する。
そのメタンガス総量が連合体内の総需要の何%を満たせるかを試算する。つまり、メタンガスの自給可能率を算定する。
満たせない分は、酪農として飼育すべき必要な牛や豚や馬の頭数または鶏の羽数を増やすか、あるいは、やむを得ない措置として、従来のボンベに詰めたLNG(液化天然ガス)あるいは都市ガス(プロパンガス)を地域の外から取り込んで利用するかを、連合体の議会が、住民の意見を公正でかつ公平に聞き取りながら、議論して決め、その結果を役所に結果どおりに執行させる。
連合体内の酪農家から回収した家畜の糞尿と、住民から毎日回収した人糞を貯めておくバイオガス・プラント(醗酵装置)としての貯蓄槽を、その容量に応じて、必要個数、連合体内に適宜配置して建設する。
その際、醗酵を早められるように、プラント周囲の土壌を保温し、また断熱もする処置を施しておく。
その際の電力は、後述する地域の自然エネルギーから得た電力に拠る。
そのプラント建設要員と、糞尿や屎尿を回収してくれる要員とを、連合体への奉仕者として、住民の中から公募する(この公募も、連合体の役所が行う)。
毎日、連合体内の住戸を巡回して屎尿を回収して回り、それをプラントに運んで注入する。
一方、発生したメタンガスをボンベに加圧して詰める。
詰めたボンベを貯蔵すると同時に、必要本数を、必要な住居に分配する。
なお各戸への分配の仕方としてはボンベによる分配の他にパイプラインによるという方法も考えられる。その場合には、そのパイプに併設する格好で電話線や電線をも一緒にすれば、集落や小都市の街や道の景観は格段にすっきりして美しくなる。
またメタンガスが得られると同時に得られる液体は、野菜や米を確保する上で有効な、良質の有機肥料としての「液肥」にもなるので、希望農家には、それも分配する。
なお、このシステムを稼働させれば、従来の公共下水道とか合併浄化槽という発想も設備も不要となる。それは、これまで定期的に行って来た「消毒」という管理も不要になり、薬物が含まれた毒水が河川に放流されることもなくなり、河川を取り巻く自然はそれだけ早く蘇って行くことにもなるのである。
②については、前述した方法で確保できるからそれを供給する。
なお、本節の締めくくりとして、これまで当たり前のように呼ばれて来た、頭に「公共」と冠された水道料金、電気料金そしてガス料金というものについても考えておく。
結論から言えば、「新しい経済」ないしは「環境時代の経済」のシステムの中では、これらはすべて真の意味での「公共」料金となる、ということである。
その意味は、これまで、水道料金については地方公共団体が管理しているからそれを「公共」料金と呼んでも問題はなかったが、電気料金やガス料金ついては、それを「公共」料金と呼ぶのは、間違いだった。なぜなら、その2つを供給しているのは営利企業であり、私企業である電力会社とガス会社であったからだ。
しかし、これからの環境時代の経済においては、人々の生存や生活に深く関わる水道や電力エネルギーやガスを私企業が提供するということはあり得なくなるのである。
事実それらは、すべて、住民による「真の公共事業」に依って、大衆による大衆のための水道・電気・ガスの生産と供給という考え方に基づき、真に「公共」に依って生産と供給がなされるようになるからである。
13.1 農村と都市
第13章 「三種の指導原理」に基礎を置く国家の主たるしくみの具体的な姿
—————「真の」公共事業との関連の中で実現させて行く
ここからは、既述の第8章を受けて、環境時代にふさわしい新国家において、その新国家を成り立たせる社会的な主たる仕組みや制度について、その具体的な姿を、ここでもやはり、これからの国づくりにおいての羅針盤と位置付けた、第4章にて述べてきた「三種の指導原理」に依拠しながら、私なりに描いてみようと思う。
13.1 農村と都市
先ず本節では、農村と都市との関係のあり方についてである。
これまでは、国民一般には、農村は食糧生産地であり、食糧の供給地である一方、都市は、その中のほんの一部の面積部分を除けば食糧の巨大消費地である、と見なされてきた。
そしてその見方は、多分どこの国でも、今も昔も基本的には変わらないように見える。
そんな関係の中、特にこの国では、農村では昭和の初期から、若者は就職のために都会に出てゆくという現象が続いていて、農村には壮年や熟年あるいは高齢者が残るというのが半ば当たり前となってきた。ところがそこへ、特に昭和40年代から、子供や若者の数そのものがおとんおかずに比べると、相対的に減少する傾向が現れ始めた。
その結果、農村は急速に人口減少が起こると同時に高齢化が顕著になった。
こうして今、この国の都市と農村との間では、人口分布において極端に差が出ているのである。
その上この国では、これまで、中央政府の、工業、それも輸出に重点を置いた果てしなき経済発展政策あるいは工業を農業の犠牲の上に成り立たせる政策によって、農業政策は朝令暮改的になり、都市の発展ばかりが優先されて、農村は後回しにされてきた。
こうしたことにより、国民の都市と農村の関係のあり方についての関心は深まらず、また都市と農村の人々の間でも、それぞれの立場や状況を互いに理解し合い支援し合うという関係も育ってこなかった。というよりも、むしろ両者の関係は断絶していた。
こうしたことのためであろう、例えば、都会の人々は、自分たちが日々口にしている野菜や米がどのような場所で、どのように作られているか、ほとんどの人は関心を示さなかった。
だから都会の消費者の多くは、例えばキュウリや大根あるいはナスというものは、どれも、大きさが揃って、まっすぐ育つものだと思い込み、キャベツや白菜には虫がいないのが当たり前、と思い込んできた。特に消費者の女性や母親においてその傾向が強いから、それを見る子供たちも、自分たちがよく食べるキューリもトマトも、それが畑でどのように育っているかさえ知らないし、ことさら関心を持とうとさえしなかった。
実はこうした食い物に対する見栄えだけを重視する風潮作りには、この国の全国組織である農業協同組合(JA)が大きな影響をもたらした。野菜はどれも、そして米も、商品価値を高めるには、質や安全性よりも、むしろ大きさや形が揃っていなくてはならないという風潮を、である。
こうした状況だから、ごく近年までは、都会の人々は、農村の人々がどのような環境の中で、どのような生活をしているのか、といったことにも特に関心を持たなかった。
また農村に住む人々も、都会に住む人々は今何を思い、どんなことを求めているのかということに思いを致すことも特になく、都会との交流を積極的に望むことはなかった。むしろ都会に住む人々は自分たちとは考え方も生き方も違う、と当たり前に考えてきた。
しかし、これからの環境時代では、農村と都市とは互いに調和して発展してゆかねばならないと私は思う(調和についての私の再定義については、4.1節を参照)。そうでなかったなら、両者はともに、多分、存続できなくなるのではないか、と私は思うからである。
そのように言う根拠はいくつもある。
両者に当てはまることの最大のものは、少子化と高齢化が止まらないということに因り、社会の様々な分野で労働力が圧倒的に不足して、人間と社会と自然に対して、これまで行われてきたことが継続あるいは維持することができなくなるだろうから、ということである。
もう一つは、地球温暖化の加速化に伴う気候の変動の激化と、またそれに因る異常気象の頻発化に因って、都市だけあるいは農村だけでは到底手に負えない質と規模の、前例のない大災害が発生する頻度が格段に高まるだろうから、ということである。
実際、たとえば、2014年2月14日と15日、気象観測史上前代未聞の大雪に見舞われた、私たちの住む関東甲信越地方での農業被害がそうだ。
今後は、もっともっと酷いこの手の事態が頻発するだろうと私は見る。
その理由は、大雑把に言えば、北極海が温暖化し、そこの氷が溶け出し、永久凍土が溶け出しているとは言われていても、それでもまだ局地も含めて地球全体が均等に温まっているわけではないから、そのため、冷たい空気の層に拠る寒気団あるいは高気圧は極地から南下するのに対して、他方、やはり温暖化によって暖められた太平洋の水面から莫大な水蒸気を含んで上昇する低気圧は北上して、それが日本列島上空でぶつかれば、いつでも「大雪」は再現されるからだ。
こうしたことだけではない。その後も、九州北部豪雨(2017年)、西日本豪雨(2018年)等々でも実証されているように、線状降水帯という積乱雲の連続体による、これまで聞いたこともない現象が頻発するようになり、その度に、それが発生した地域では、大変な豪雨被害を受けるということを繰り返してきたことを見てもわかる。
そしてもう一つは、これまでの各地の地方公共団体は、「自治」体とは言っても名ばかりのものでしかなかった中で、これからは都市も農村も、「都市および集落としての三種の原則」を実現させてゆくことが、この日本という国を、真に持続可能な国にしてゆく上で真剣に求められてくるであろうと私には思われることである。
これまでこの国は、明治期から太平洋戦争までの欽定憲法下ではもちろんのこと、戦後になって民主憲法になってもなお、どの地方公共団体でも————この国では誤解されているが、地方公共団体も、自治体も、役所すなわち政府のことではない。住民を含めた共同体の全体を指す概念である!————、そこでの最高議決機関であるはずの議会などは特に、行政府に追随しているばかりで、三権分立の原則に立つこともなく、その上、各議員の選挙時の公約を実現する「自治」体としての議決機関としての役割など全くと言っていいほどに果たしては来ていなかったし、また執行機関であるはずの行政府も、地方公共団体独自の自主財源を確保できる権限や独自の計画権限を中央政府に要求するということもなかった。むしろ実態は、地方公共団体全体が、常に、中央の政府、あるいはその中の各府省庁に、行政組織間の「縦割り」で結ばれるという関係を維持しながら従属してきたのである。
これでは、それぞれの地域社会に、住民の生命・自由・財産の安全が脅かされる事態が生じたときには、議会も政府も、迅速に独自の行動をとることができるはずもない。
だから、そんな場合に、都市にしても農村にしても、迅速にそこの住民の生命と自由と財産を守れるようになるためには、都市と農村が日頃から強い信頼関係の下で、互いに助け合う関係で結ばれていることがどうしても必要となってくる、と私は考えるのである。
それが、私が「地域連合体」と呼ぶ、小規模ながらも、まとまって経済的に自立し、政治的に自決権を有する経済的・政治的結合体である。そのあり方も、今後は、都市と農村との間の距離を、これまでのように何十キロあるいは何百キロと隔てるのではなく、都市と農村を隣接させ、都市を中心にして農村がそれを取り囲むようにしたもので、その全体をもって地域連合体とするのである。
言うまでもなく、その地域連合体は、これまでの市町村に代わって、これからの日本の国家を構成する基礎自治体となるのである。
ではその規模はどうするか。それは、その範囲内に起こった問題は、基本的には全て、自分たち住民だけで責任を持って処理でき、また解決できる、と判断できる範囲とするのである。
したがってその規模を決めるのは、そこの住民となって地域連合体を構成する、主体性と責任意識に目覚めた「市民」あるいは「新しい市民」(6.1節を参照)としての一人ひとり、ということになる。
なお、補足すれば、その基礎自治体としての地域連合体が全国いたるところに分散して位置を占めながら、それらのいくつかが互いに合意と契約の下に州を構成するのである。
その州の規模は、地域連合体の規模を定める場合と基本的には同じで、政治的・経済的・社会的・文化的・歴史的に見て、個々の地域連合体ではどうしても手に負えない問題が生じた際、国家レベルにまで期待しなくとも、少なくともこれだけの地域連合体が連携すればその問題は大方、その中で解決し克服することができるであろうとそこの住民自身が確信できる数の地域連合体がまとまった大きさとするのである。
では具体的に、都市と農村は連合して、互いに何をするか。
1つは、日常的に人的交流を行い、互いの状況や立場を理解することである。
1つは、双方それぞれを資源と廃物によって循環的に結びつけ、それをもって、互いに、生態系を含む自然環境の回復・復元・再生に協力し合うことである。
これらが意味することは次のことである。
第1番目について。
都市から農村へは、年間を通して、次のようなことを行う。
都市市民の内、有志が、農村への協力者、理解者として、農村に一定期間、滞在する。
そこでは、彼らは農作業を手伝う。農と他生物との関わり、農と土壌との関わりを学びながら、「喰い物を育てる」とは何か、そして「食べる」ことの意味を学びながら、「農」とは何か、を学ぶのである。
一方、農村ないしは山村から都市へは、米、野菜、小麦等の農産物や、ミネラル豊富で清浄な水や木材を提供すると共に、集落を訪れた都市市民には、都会人の助力によって美しく蘇った田舎の美しくものどかな田園風景など安らぎや癒しの場・空間を用意するとともに、もはや物を売るというのではなく、心からの「もてなし」を提供するのである。
第2番目について。
都市は、人が多いだけに、日々、膨大な量の残飯などの食品残滓、排泄物等が出るが、それを都市住民が農村に運搬する。
農村は、都会からの食品残滓と排泄物は、そこに農村の特に酪農家から出る家畜糞尿と一緒にしていわゆるバイオガスを生産するために用いる。
バイオガスは高い効率で利用できる極めて重要なエネルギー源であり、特に発電、料理、暖房、さらには温湯供給、乾燥、冷却、赤外線放射など多方面に利用できるからである。
それに、今や世界的に、地球温暖化を抑えるために、温室効果ガスとしてのCO2少しでも早く、実質的にゼロにすることが求められているが、そしてそのためには、天然ガスや液化ガス、石油や石炭などの化石燃料を燃やすことは極力やめようとされているが、ここで言うバイオガスは、それをエネルギーとして利用する際に発生するCO2は、炭素物質の自然のサイクルを通して無害なCO2として植物に還元されることになるため、空気中でのCO2の実効濃度を高めることはない、という化石燃料を燃焼させた場合に出るCO2とは大きく異なるのである(ハインツ・シュルツ&バーバラ・エーダー「バイオガス実用技術」オーム社出版局 p.109とp.2)。
ここのことは「パリ協定」を実現させる上でも、極めて大きな意義を持つのである。
それに、バイオ処理済みの人間のし尿ないし家畜の糞尿は、スラリーと呼ばれるが、それを都市も農村も、互いに、生態系を含む自然環境の回復・復元・再生に有効活用するのである。
なぜなら、そのスラリーは、植物の生育性を改良してくれて、健全な生育を促すからである(同上書p.13)。
すなわち、都市と農村の両者を資源と廃物によって循環的に結びつけるのである。
具体的にはスラリーを次のように活用する。
なお、そこには、現在の日本の山は、全体的に荒れ放題になっている、そのため、山の森林は、本来森林が持つ様々な役割————例えば、水を守り育てる効果、山地災害防止の効果、洪水コントロールの効果、大気を浄化する効果、森林浴の効果、文化的な効果等々(福岡克也「森と水の経済学」東洋経済新報社 p.79以下)————を果たし得なくなっているので、それらの回復を狙うという目的もある。
バイオ処理したスラリーを山の森林に運び、そこで散布する。それを森林へ運び、散布するのは、農村のあるいは山村の人々の指示の下に動く都市の人である。
また、都市市民の有志は、例えば、山の森林の下草刈りや枝打ち、間伐などを山村の人々の指導の下に行って、自然というものを体で学びながら、山の管理の手伝いをする。
あるいは山の森林を混交林とするために、スギやヒノキの人工林だけではなく、広葉照葉樹を植林するのを手伝う。
あるいは山の森林の伐採を手伝ったり、伐採した木を麓へ降ろす作業も手伝う。
そうすることで、外国の森林を破壊することにつながる外材はもはや輸入する必要もなくなって、国内の木造建築物も、国産材だけで対応できるようになるのである。
また集落では、河川のゴミ拾いをし、いたるところに設置された堰や役にも立たない砂防ダムを撤去する作業を都市住民も手伝うのである。
そうすればウナギやサケなどの回遊魚が海から戻って来た時、源流域まで遡れるようになる。そうなれば、源流域の動物たち————熊や狐あるいは鷲や鷹————にも豊富な餌をもたらすことになり、麓での鳥獣被害を激減させられるかもしれない。
また、流れを途中で堰きとめずに、流れるようにすることで、水質は一層綺麗になるだけではなく、流れは一段と速まることができるので、その水流が持つ自然エネルギーを活用して、流れに沿って、多段式的に、小水力発電を行うことができるようになる。
その電力は、バイオガスによって起こされた電力と合わせて、流域の住民や協力してくれる都市の人々に配電する。
ではこうした行為によって何が効果として得られるか。
結論から言えば、生態系を含む自然環境の回復・復元・再生に対して絶大な効果を発揮すると考えられるからだ。
それは、森林が豊かになり、活性化して、動植物や野鳥そして昆虫類の種類が豊富になり、土壌微生物も豊富になって活性化し、樹木は深く、また広く根を張って、山が豪雨に対して耐性を持つようになるのだ。
ではそうなればどうなるのか。
集中豪雨になっても、山肌がしっかりと豪雨を吸収し浸透させてくれるので、そう簡単には山肌は土砂崩壊を起こさない。それは、下流域に土石流をもたらさないということである。
それだけではない。一旦山肌深く浸透した雨水は、下流に向かってゆっくりと沁み出すので、年間を通して、河川の流量は、安定する。つまり、長期の日照りにもさ細影響を受けなくなる。
そしてそれは、中流域や下流域の民家や田園地帯に、年間を通して安定した水、それも、栄養豊富で清浄な水をもたらしてくれるということである。
うまくすれば、その綺麗で美味しく、また栄養豊富なその山からの水は、中流域や下流域の
集落の水田では化学肥料などを不要させてくれるかもしれない。そうなれば、中流域や下流域の農家という農家は、経済的にも労力的にも大いに負担が軽減されることになる。
そしてバイオガスによる発電、および流れが清涼となるとともに途中で堰き止められることのなくなった河川の水流による発電は、単に欧米の真似でしかない、そして日本の国土の実情とは合わないソーラーパネルによる発電や風力による発電とは違い、さらには、この国は地震国ゆえに危険な上に、次々と出るいわゆる「核のゴミ」である放射性廃棄物の管理において、将来世代に永久に負担を押し付ける原発とも違って、活性化された山の森林のCO2吸収能力とも相まって、温室効果ガスを出さないで、この国固有の電力の自給ができるようになるのである。
こうして都市と農村は、両者それぞれから出る資源と廃物によって循環的に結びつけられ、それは結果として、地球が熱化学機関として成り立つための3つの作動物質である水と空気と栄養を、自然界において、より活発に循環させることで、それは人間の経済活動によって生じたエントロピーという汚れを地球の外によりよく捨てられるようになるということであり、ひいては地球の温暖化を抑止できるということでもあるのである。
そしてこれこそが、《エントロピー発生の原理》を踏まえた現実の社会と自然への人為的対応、ということになるのである。
13.2 都市と社会資本
前節では、都市と農村との関係のあり方と、両者間での資源と廃物のやりとりに依る農村と都市の活性化、また山村の活性化と山の森林の活性化のさせ方について見てきた。
本節では、今度は、都市とそこでの社会資本の充実のさせ方について考えてみる。
ここでも都市とそこでの社会資本は、三種の指導原理(「生命の原理」と「新・人類普遍の原理」と「エントロピーの原理」)に基づきながら、「都市と集落の三原則」に依拠して設計される。
それは次のことを意味する。
すなわち、「人間にとっての基本的諸価値の階層性」を念頭に置きながら、これまでの人間だけにとっての「自由・平等・友愛」と「生命・自由・財産」の保障を、今後は生命一般にまで普遍化することを考え、エントロピーの発生量を極力少なく抑えると同時に作動物質の循環が極力遮断されないようにも気を配りながら、都市も集落も「小規模分散で、経済的に自立し、政治的にも自決」の原則が実現されて行くように設計をしてゆく、ということである。
ただし、小規模にするとは言っても、実際に定まる規模は、既述の通り、あくまでもそこに住む人々が主権者としてその共同体の運営に対して責任の持てる範囲のものである。だから、たとえば人口が同じでも、規模はそれぞれ違い得るのである。
その場合、都市はその本質上、消費地的性質が高いので、そこだけで衣・食・住を含めて経済的に自立することは不可能であるから、周辺の複数の集落との関係を一体にして考えるのである。
つまりそれらをまとめて1つの連合体という自治共同体としたものを私は地域連合体と呼ぶのである。それは、基本的に自給自足を成り立たせうる自治体である。
都市とその周辺の複数の集落を一体にする目的は、前節にも述べたが、特に《エントロピー発生の原理》を実現させるという観点から言えば、それは、「自然の循環と社会の循環を、資源と廃物によって循環的に結ぶ」(槌田敦p.166)ためなのである。
あるいは都市と農村との間の距離を縮める、と言うよりは事実上無くし、農村を都市に直接連結させて、互いの間の行き来を短時間で活発化させるためなのである。
そのことは何をもたらすか。
少なくとも既存の高速道路といったものを、ほとんど無用化させる。
そうなれば、高速道路の表面のコンクリート面をはがして、森林に復元させることも、そこを鉄道とすることもできるようになる。そしてそれは、自然環境に対して計り知れない効果をもたらす。
まず第1には、高速道路を走る莫大な数の自動車がなくなるので、温室効果ガスの排出量を大量に減らせる。第2には、これまで高速道路によって分断されていた生態系を広範囲に連続化させられ、自然を蘇らせられるようになる。それは野生生物を活性化させられることでもある。
また都市住民と農村住民との交流が活発化する中で、都市住民が農村に移住するようになったり、また「都市と集落の三原則」の奨励に依って都市住民が減り、かつ都市の規模そのものが小規模化すれば、自動車そのものだって、そのほとんどを不要化できる。
そのことのメリットも、人間にとっても社会にとっても、また自然にとっても、計り知れないものがある。
ここではその詳細は述べないが、関心のある読者は7.4節において、「自動車」が人間と社会と自然にどれほどのデメリットをもたらして来たかを確認していただきたいのである。
また都市部を流れる河川のコンクリートでできた護岸をも、今後は撤去して、自然護岸に戻すのである。
その場合、もはや力づくの近代土木工学には頼らずに、生命主義に基づいて、例えば柳の木の根の張り方の特性と「蛇籠」の特性を共に生かして、増水に耐えられる護岸とする。またそうすることで、河川は周辺の生態系と、水と栄養の循環を回復できるようになるからだ。
また小規模化した都市の道路という道路を、農村から提供してもらった木材を用いて、丸太の杭にしたものを縦に埋め込んで敷き詰め、透水性の道路とする。そうすれば、都市部での集中豪雨時でも、道路が冠水するということはなくなるだろう。
なお、農村においても、また都市においても、既述の「真の公共事業」(11.6節)に対しては、そこに働く人々の労働は、「納税」と等価に扱われるような仕組みにするのである。もちろんそれを取り上げ、議論し、議決するのは議会の役割だ。
このことの人々の生き方や価値観にもたらす意義もはかり知れないほど大きい。
「お金」を得ることの意味や必要性は考え直され、労働が納税となれば、お金、それも現金を得ることにこれまでのようには拘らなくても生活できる可能性はそれだけ高まるからである。
また、都市の人々が周辺の農村に移住して、都市が小規模化すれば、たとえば今日、大都市でとくに大問題となっていて、今後はもっともっと深刻になることは目に見えている、「インフラの老朽化」や「管理と補修の必要性」にまつわる問題、たとえば「補修しなくてはならないが、金がない」、「危険がいっぱいで都市機能が麻痺する」等々の問題については、その比重は激減する。
そこでの電力需要も極度に減り、食糧やその他の物資やエネルギーを長距離運搬・輸送する必要はなくなるから、新たな道路建設の必要性も激減させられる。
それはその分、教育や福祉の充実に回せることであるし、あるいは税金を減らせることでもある。
こうして、都市や集落あるいはそれらが一体化した地域連合体では、自然も人間も社会もより豊かになるだけではなく、災害や世界の食糧危機やエネルギー危機、そして金融危機にも耐性のある、それでいて人々が永続的に生きて暮らして行けるようになるのではないか。
もちろんその場合、いずれも熱化学機関と考えられる集落についても都市についても、生態系が大規模に蘇ることで大気と水と栄養という作動物質の循環をも促進することになるから、エントロピーの発生量は極力抑えられるし、また発生しても、循環が活発になることから最終的には宇宙に捨てられる可能性も高まり、それだけ温暖化は抑制できるようになるのである(第4章を参照)。
なお、その際、都市生活の日常では、化学合成物質の使用は極力控えること、合成洗剤の使用も止めること、また農村では、化学合成農薬の使用はもちろん化学合成肥料の使用も極力控える、ということがやはり大切となる。
また化学物質あるいは化学合成物質(石油製品、ビニール類、プラスティック類、ゴム類、油類)を土壌や河川に捨てることも厳に戒めるのである。
なぜなら、それらは、本質的に、生命体や生態系にとっては異物であり、毒物であるからだ。
そこで次のことが前節と本節の結論となる。
こうして、小規模化した都市の中で、あるいは集落の中で、みんなで共に1つの目的に向かい、定期的に体を動かして労働しては汗を流すことで、自分の存在が社会に具体的に役立っていることをだれもが体感できるようになるし、同時に、これまで散歩し、ジョギングやフィットネスに通って体力維持を図っていた人々も、生産性の伴った労働により、食事がおいしくなり、健康を長く維持できるようになり、他者との親睦も深まって、日常が、少なくともこれまでよりはずっと充実した日々となりうる。
これらはまた、同時に、国民医療費をも顕著に減少させられ、超巨額の借金をどんどん減らせる効果をも副次的に持つのである。
12.5 税金の使途と使われるべき優先順位
これは著者(生駒)の稲田です。
農薬も化学肥料も全く用いずに有機肥料のみで育てた稲です。
ご覧の通り、それでも、農薬や化学肥料を使った周囲の稲田と比べて、遜色のない稲を育てられるのです。収穫も間近です。
12.5 税金の使途と使われるべき優先順位
今この国は、中央政府と地方政府の両方を合わせたいわゆる国全体の借金である政府債務残高は1122兆円、それの対GDP比は237%となっている。この額がどれほど異常な額であるかは、それは、日本国民の内、働ける者全てが、2.37年間、飲まず食わず働いて返済しなくては返済し切れない金額だということだ。
比較の意味で、世界主要国ないしはEU加盟国について、それぞれの国の政府債務残高の対GDP比を見るとつぎのようになる(2019年10月IMF“World Economic Outlook”より)。
アメリカ108%、イギリス85%、ドイツ56%、フランス99%、カナダ85%、イタリア134%(以上は、2019年度見込み)、ギリシャ189%、スペイン116%、ポルトガル149%(以上は2015年度)。
これから明らかなように、日本の対GDP比は、EUの中で財政破綻を起こしたとされるギリシャやスペイン、イタリアの比どころではない。群を抜いて最悪なのだ。しかもその借金総額は毎年増え続けている。
なおここで、各国間の対GDP比を比較する上でも、注意しなければならないことがある。
それは、そもそもGDPとは、これまで、「経済成長」を計る際の指標として国際的に共通に用いられて来たもので、国内で生産された物やサービスの総額を指すとはされているが、要するに、金銭の流れを生む人間の行為のすべてを、その内容のいかんに拘らず計量した値であるということだ。だからそこには、環境破壊行為など、人間の生存にとってマイナスとなる人間の経済行為も、世界に悪名高い日本のODA(政府開発援助)も含まれている。つまり、GDPとは、人間や社会や自然にとって、プラス面とマイナス面の両方の人間の経済行為がごちゃ混ぜに金銭表示された指標なのだ。
したがって、そもそもそんなGDPを以って「経済成長」を計る指標とすることが果たして正しいのか、むしろその意味で、「経済成長」を計る指標として何がふさわしいか、再検討が必要なのではないかという疑問が湧いてくる。と言うより、そもそも経済とは、そしてその経済が成長するとは、一体どういうことなのか、ということだ(4.1節での「経済成長」についての私の再定義を参照)。
GDPにはそうした問題が含まれているということを念頭に置いた上で、では日本だけがどうして対GDP比がこうも突出しているのか、ということである。
ところが、そこを、財政学の専門家も、もちろん政治家も、少なくとも私が見る限り誰も、真正面から問題にしようとはしないのである。
なぜか。それは、そこを追求して行くと、どうしても、この国は民主主義議会政治がきちんと行われてはおらず、官僚主導の、というより政治家が政治や行政を実質的には官僚任せにしている結果、官僚による独裁が行われている国であり、そしてこの国はやはり統治体制の不備だらけの、本物の国家ではないから、という答えを引き出してしまうことになるからではないか、と私は思うのである。それは、財政学の専門家にとってはもちろん、特に政治家にとっても不都合な答えのはずだからだ。
日本だけがどうして対GDP比がこうも突出しているのかという問いに対する答えについて、言い方を変えるとこうも言える。
この国では、国民の代表であるはずの政治家が国民に仕えることを本来の使命とする官僚すなわち役人をコントロールもできなければ、したがってまともな政治を行うこともできず、むしろ実質的には、官僚がこの国を動かすことを放置し放任しているからだ。
つまり政治家たちは、国民を裏切理、民主主義を裏切って、この国を官僚に乗っ取らせたままでい、しかも、国会議員であれ、政府の首相・閣僚・首長であれ、実質的にはただ役人に追随し、彼らの作ったシナリオの下で動いているだけだからだ、と。
その上その官僚たちは、自分たちが公僕であることなどハナから無視し、国民の利益や福祉の実現など眼中になく、既得権益や天下り先を含む、自分たちの利益を確保し拡大することを最優先し、それを不断に実現するために、常に、果てしなき経済成長とか果てしなき工業生産力の発展のみを、表向き、それこそが、日本の国力を増強する唯一の方法なのだと信じて、最優先事項としてきたからだ、と。
このことの意味を分解して、言えば、次の5つになると私は思っている。
1つは、政府を構成する各府省庁の官僚が、一般会計予算にしても、特別会計予算にしても、自分たちが所属する府省庁にとって好都合となるように、勝手に予算案を決めているからである。
ここで言う「自分たちが所属する府省庁にとって好都合なように」とは、所属する府省庁の既得権益を守り、さらにその権益を拡大できるように、という意味である。そうすることで、彼らが所属する府省庁の専管範囲の産業界を保護しては恩を売り、その見返りとして、彼らと彼らの先輩官僚の「天下り」先や「渡り鳥」先を拡大したり確保したりできるからである。またそれによって、そのような予算を組んだ官僚は、その所属府省庁内で評価されて、出世に繋がるからである。
つまり、そういう意味では、この国の政府を構成する各府省庁の官僚は、適用される法律は存在しないから罰せられないことをいいことに———この国の政治家は、官僚に依存していたいから、官僚にとっては不都合となることが判っているこのような法律も依然として作らないのだ————、専管範囲内での産業界との間で、戦後ずっと、言ってみれば贈収賄を公然の秘密として繰り返して来ているのだ。官僚が専管範囲の産業界に対して便宜を図るという「贈賄」をし、産業界はそれを「収賄」する。つぎは、産業界が「天下り」官僚を高待遇で迎えるという「贈賄」をし、官僚がそれを「収賄」するという具合にである。
2つ目の理由は、政府を構成する府省庁の間には横の連絡がなく、つまり「タテ割り」が当たり前とされて来たために、まったくバラバラに、そして時には重複して予算(案)が組み立てられているためである。つまり国民の血税の内の巨大な額が行政機構の「タテ割り」によって無駄遣いされてきているからだ。
3つ目は、各府省庁の官僚には、というよりこの国の中央政府と地方政府の役人のほとんど100%近くは、国民から納められた税金とその使途に関しては、コスト意識など、まるでないからだ。つまり、「このお金は国民の血税であるから最大限有効に使わせてもらわねば」という意識も、また「コストを最大限抑えよう」という意識もないからである。
なぜそうなるか。理由は大きくは二つあると私は考える。1つは、彼ら役人にとっては、自分たちの活動資金となるそのお金は、毎年、決まった時期に、ほぼ決まった額、黙っていても、手元に届くからだ。1つは、何と言っても、彼ら官僚を含む役人一般は、民間企業の社員のように、社長の経営方針の下、コストをギリギリまで削る努力をして、最大利益を上げなくてはならない、そうしなくては会社も成り立たなければ、自分たちの給料ももらえなくなる、という必死の体験を全く持っていないからだ。
4つ目は、国会を含む議会一般での議員の怠慢と無責任に因るもので、国民から選挙で選ばれることを自ら望んで、公約を掲げて立候補し、その公約が支持されて政治家となった者が、その代表としての使命である、その公約を、予算をも含めて、議会で、議会としての公式の政策として実現してみせるということもまったくしていないからである。
5つ目は、執行機関である、国の中央政府と地方政府の政治家の怠慢と無責任に因るもので、既述のように、議会が議会としての使命を果たさないことをいいことに、政府が代わりに予算案を含む政策案を作り、それを議会に上程するにも、総理大臣が閣僚を経て、または首長が、予算案を作る段階での予算の組み方について、税金の使途に関して、民生と産業界に対して、各方面の知識人の力と助言を借りながら自らが優先順位づけをして、それに基づいて、配下の役人に対して明確な指示と統括を行わないからだ。
たとえば、『前年度の税収はこれだけだったから、今年度はこの範囲内で使途を考えよ』という指示をしないからであり、また、『この分野には予算を多く配分し、その代わりあの分野は、国民生活への影響は少ないから、あるいは緊急性が低いから、思い切り削るかゼロにしろ』といったように、である。
つまり、首相も首長も、国民のお金の使途を決める、あるいはそのお金の集め方を決めるという、国家運営上、あるいは地方自治体運営上、最も重要な役割を、役人に任せっ放しで来たからだ。
言い換えれば、国や地方自治体の最高責任者兼指導者でありながら、国民・住民のお金の使途について優先順位を付けられないということである。そうなるのも、首相や首長の役割と使命、そしてその限界が、憲法上にも明記されていないからだ。
その結果、各府省庁の官僚は、それをいいことに、国民が納めた税金の使途だけではなく国民が納める税金の種類も額も、実質的には自分たちに都合のいいように決めてきたのである。たとえば、官僚が目論んだ大規模公共工事とやらを政治家がコントロールして止めさせ、その財源を回せば「消費税」など簡単になくせるのに、である。それだけではない。その財源を教育行政にも福祉行政にも回せば、日本の教育の質も福祉の質もどれだけ向上するか知れないのに、である。
ところで、日本国憲法も世界の憲法と同様に、国民には「納税の義務」を課してはいるが(第30条)、さりとて税金を徴収する国家あるいは国家の代理として行動する政府に対しては、徴集した税金の「使途」について、取り立てて、このように使われなくてはならないといった条文はない。例えば、国民の「生命・自由・財産」を最優先に守るために使わねばならない、といったことも。
そうしたことも遠因となり、この国は、戦後の「果てしなき経済発展」という暗黙の国策の下で、とくに田中角栄の「日本列島改造論」以降、異様なまでの土建国家と化し、日本中の野も山も川も、意味もなく必然性もない破壊が行われ続け、いまや小学校唱歌「ふるさと」で歌われた面影を残しているところも全くと言っていいほどに見られなくなってしまった。
確かにそのことにより、一時は世界も瞠目するほどに経済は発展した。しかし、では納税の義務を果たしている私たち日本国民は、それで本当に幸せになり、心豊かになったと言えるかといえば、「ジャパン アズ ナンバーワン」と言われ、アメリカを凌ぐかもしれない「経済超大国」と呼ばれた時でさえ、私たち国民の生活実体は「富める国の貧しい国民」と、海外からは哀れみと揶揄をもって眺められていた。
つまり、国土が焦土と化した戦後の復興が急がれていた時ならばともかく、国民一人当たりのGNPもGDPも世界が目を見張るような規模になって、経済復興そして経済発展の目的も世界のどの国の誰から見ても十分果たし得たと見られた後も、この国の議会も政府も、その方向一つ変えられず———それも官僚依存で来たからである————、今もなお、目ざす明確な目的地も達成レベルも定められないまま、ひたすら「果てしなき経済発展」を目ざし続けているのである。
地球が激変し、世界が激変している中で、政治家も官僚も、皆、為すべきことが何かということが皆目分からなくなってしまっているということもあろう、今まで先輩たちがやって来たことをやって来たとおりにただやっているだけなのだ。文字どおり惰性で動いているだけで、そこには将来を見通そうと努力する姿も、専門家たちの意見を幅広く聞いて、それを政治に生かそうという姿も、全く見られない。
その結果、もはや不要不急どころか無意味、あるいはかえって将来に禍根を残すことがはっきりしている事業すらも、再検討することもなく、突っ走ろうとしている。そうしては莫大な借金を累積させ続けているのである。
つまり、私たちの国日本の戦後は、ある一時期から、政治家も役人も一緒になって、徴税の仕方も、徴税の額も、徴税した税金の使途についても、優先順位を完全に間違えて来たのだ。いえ、間違えて来たのではない、優先順位を付けるという発想そのものがなかったのだ。
国家の運営は税金によって成り立っていること、そしてその税金の使い方如何で、今と将来に向けての国と国民の運命が決まることを考え、しかもその税金は、憲法でいうところの「財産権の保障」(第29条)を侵してまで国民から剥奪したものであることを考えると、その使途については、当然ながら、納税者にとって最大の利益と最大の幸福をもたらすような使われ方がなされなくてはならないはずである。そしてそれは、国民の利益代表である政治家によって、選別と決定がなされなくてはならないのだ。
そしてその場合も、そこには、何人も納得しうる明解な理念が通っていて、明確な原理と原則に基づいた優先順位がなくてはならないはずである。
当然ながらその場合も、そこには国民に仕えるシモベとしての官僚たちの都合や恣意性など入り込める余地など全くない。
ではその場合の理念とは何か、優先順位はどんな原理と原則に基づいて定められるべきか。
私は、そこに適用される理念と原理と原則こそ既に私が本書の随所にて述べて来たものであろうと考えるのである。
具体的には、その理念とは、「人間にとっての諸価値の階層性」(4・3節の図を参照)に基づいて、この日本という国を真に持続可能な国にすることを目ざすというものである。
原理とはそれを実現するための三種の指導原理、すなわち「生命の原理」と「新・人類普遍の原理」と「エントロピーの原理」である。原則とは、これらの原理を実現させるための「都市と集落の三原則」ということになろう。
そのためには、人間にとっての階層的な価値の体系に基づき、国民の納めたお金を、土台の段階から実現して行くために使って行くようにするのである。そうすることで、無意味あるいは無駄な使い方、あるいは重複した使い方は極力避けられるようになるだけではなく、自然界と社会と人間の全体を体系的で統一的な使い方ができるようになる、と考えられるからである。
また、そのためにも、再三強調してきたことであるが、執行機関としての役所の、あるいは役所内の各部署間のタテ割り制度は即刻廃止する必要がある。
中央政府の中枢に一個の最高の強制的権力を持った存在を合法化しながら、各府省庁間の情報連絡を強制力を持って円滑にすること、また、全国に起こっている様々な状況や事態に関する情報が、細大漏らさず、速やかに政府の中枢に集まるように、またその反対に、政府中枢から発せられた法に基づく指示や伝達事項が速やかに国中の全政府機関に伝達されるような統治の体制を整えることが不可欠なのだ。
なぜなら、政治家たちが放置したままできたこのタテ割り制度こそ、役所の中の役人たちの都合だけでこの国の自然と社会と人間に対する統治を分断してしまい、行政機構を非効率化させ、その上、巨大な税金の無駄遣いを生じさせてきてしまった最大原因の1つだからだ。言い換えれば、政治家という政治家が、官僚を含む役人一般を、自らの使命と役割としてきちんとコントロールしてこなかった結果なのだ。
むしろ統治機関としての役所内の組織のこれからのあり方はその逆で、自然と社会と人間を体系的かつ統一的にとらえた行政を行ってゆけるようにすることがどうしても必要なのだ。
しかし、やはりそれは、この国を真の国家とするということでもある。そしてそれができるのも、私たち国民から選挙で選ばれ、権力を公式に負託された政治家だけなのだ。官僚という公務員ではない。実際これまでもそうだったが、むしろ行政改革の必要性が幾たび叫ばれても、それを事実上骨抜きにしてきたのは、決まって官僚自身だった。
そこで、以上を踏まえると、私は、税金の使途と税金を投入する際の優先順位とは次のようになるのではないか、と思うのである。
第1位:この日本という国を真に持続可能な国にするために、「人間にとっての諸価値の階層性」に示される各階層の中身を、土台から上層に向けて、順次実現してゆくために投入する。
ただし、その場合でも、国内に生じた大災害や大事故に因り、人命救助を急がれる場合には、それを優先する。
とにかく、そのためには、戦後間もなくできて、その後、ほとんど改正もされずに来た災害救助法を根本から改定すると同時に、「人間にとっての諸価値の階層性」を着実に実現してゆくための立法をも実現させる。
第2位:三種の指導原理の実現を主目的とする「真の公共事業」に投入する場合である
その場合も、「上から下へ」、「上流から下流へ」、「中心から外側へ」、あるいは全体を樹木に例えるならば、「根元から幹へ、そして枝葉へ」という原則を設けて投入して行く。
なぜなら、上あるいは上流域を先に良くすれば、それの効果は、ちょうど水が上流から下流に流れるように、自然に下流域へと及ぶことが期待できるからである。
それを逆転させて、「下」ないしは「下流域」から着手しようとして税金を投入したなら、「上」あるいは「上流域」に行く都度、新たに税金を投入しなくてはならなくなるからである。それは賢明な税金の使い方とは言えない。
具体例で言えば、今後、世界では、温暖化・気候変動の中で、水、それも淡水や飲料水を確保することが最も切実な問題となることが予想されるが、その水を確保することを考えるにも、先ずは源流域に着眼する。あるいは源流域周辺の森林に着目する。
その森林を混交林にしながら計画的に管理(間伐、下草刈り、枝打ち等)して甦らせ、「緑のダム」にするのである。
森がこのようになることの人間とその社会にもたらす効果は計り知れなく巨大なものがある。
1つは、たとえ集中豪雨に襲われても、それが表土を押し流しながら流れ出るということはなくなり、しっかりと雨水を根本周辺の土壌中に浸透させるだけではなく、森の木々の根は互いに網の目にように張り巡らされ絡み合ってしっかりと土壌を包み込んでくれているから、その斜面は崩壊を起こす可能性も激減する。
それは、中下流域に土石流が生じる可能性も大幅に減ることを意味し、それだけ中下流域での集落に大災害がもたらすということも大幅に少なくなるということである。
2つは、そのように森が人の手によって活性化すれば、植生の多様化も実現され、それは森に多様な幸をもたらすことになる。そうなれば、野生動物(熊、鹿、イノシシ、サル、狐、タヌキ、ハクビシン、リス等)に多様な餌をもたらすことになり、中下流域での農地での獣害を激減させられることになるのである。
3つは、森が「緑のダム」になれば、少々の雨不足が続いても河川の水がそう簡単に干上がることもなくなり、中流域および下流域での稲作を安定化させてもくれる。
4つ目は、森が活性化すると、それだけ人間が出す温室効果ガスを大量に吸収してくれる。
5つ目は、森を直接甦らせることとは違うが、ここで、先の建設省、現在の国土交通省が、下流域に洪水をもたらさないようにと、河川(渓流)水の流れを所々でせき止めるために、林野庁とは無関係に、独自に造っては風景を壊して来た無数の堰堤や砂防ダムを解体し撤去するという事業も実施してそこに税金を投入するならば、河川は、源流から河口まで流れをせき止めたり遮断したりする構造物がなくなるから、これと並行して、河川のゴミの撤去作業もすれば、水質は河川全域で一段ときれいになるだけではなく、流れに沿って水生生物の循環やウナギやサケといった回遊魚の遡上も可能となる。
それは、河口から中上流域、さらには源流域に至るまで、魚類を含む多様な水生生物に拠るタンパク質をもたらすことであり、それはそのまま各流域に棲息する野生生物に安全で安定的な餌をもたらすことになる。そしてその場合、日本中のどこの河川のどこの流域でも、天然のウナギやサケを確保できるようになるかもしれないのである。
またそのことは同時に、河川の源流から河口付近までのどこでも、その河川水はそのまま流域周辺の住民の飲料水にも容易になり得るということである。それは、今でも多くの市町村で行き詰まっているこれまでの水道事業のあり方やそこへのコストの掛け方を激変できる可能性が生まれるのである。
なお、建設省と国土交通省がいたるところに造って来たその堰堤や砂防ダムは、今やそのほとんどが、大雨の度に上流の荒れ果てた森林から流れ出た土砂に埋まっていて、あるいはその土砂によって水深が極度に浅くなっていて、堰堤という機能を果たし得なくなったまま放置されているのである。
こうなるのも、他の府省庁の管轄領域に踏み込まないことを互いの暗黙の了解事項とする行政庁相互の「タテ割り」という悪弊が、こうした無意味な事業を行わせ、国民のお金の巨大な浪費をもたらしているのである。林野庁と連係プレーを取るのではなく、山の森が放置された状態の中で、建設省が独自にこのような建造物を国民の金を使って行って来た結果だ。
つまり、日本中の森という森をこのようにして甦らせ、河川という河川をこのように改修事業をすれば、広い意味で、地球の作動物質である「水と大気と栄養」の大循環を日本列島中に実現させられ、エントロピーの蓄積を抑えられるようになり、それはすなわち日本が、世界から見れば小さい島国ながら、「地球温暖化」抑止とその方法に関して、世界に先駆けて実践的見本を示し得るのである。
教育面についての公共事業についても、そこへの税金投入順位を先と同様に考えれば、日本の教育の質の向上には絶大な効果が期待できると私は考える。
たとえば、今この国では、家庭での親による子どもへの虐待そしてそれに因る相次ぐ死という痛ましい事件が続発して、政治的大問題になっている。そしてその対策としては、今のところ、周囲も関係部署も監視を怠らず、関係公的機関相互が情報伝達の円滑化を図るという方向に向いているようだ。
しかし私は、その対処策についてはほとんど効果は期待できないだろうと考える。それは、先の問題の全体を樹木に例えた場合の「根元から幹へ、そして枝葉へ」という原則の観点からすれば、枝葉にばかり目が向いていることであるからだ。そしてそれはあくまでも起った事象への対症療法に過ぎない。しかしそれでは起るたび、起った度にそういう神経を配らなくてはならなくなる。
むしろ大事なのは、起った時どう対処するかではなく、起らないように予防することだ。それの方がよほど確実だし、負担もはるかに小さくて済む。
ではどうするか。虐待を生じさせる原因を除去するのである。そのためには「根元」に着目するのである。
それは「三つ子の魂、百までも」とも表現されるように、人間形成の出発点である小・中学校の教育の中身であり質に目を向けることである。
この国の現行の学校教育の実態については、既に述べて来た(10.1節と10.2節)。
その教育は、一人ひとりの個性や能力を伸ばさず、自由を抑え、瑣末で恣意的な校則を押し付け、その中でスポーツを通じて団体行動を重視することを強制しつつも、画一テストでは競争を煽り続けるものであるだけに、半ば必然的に児童生徒の心を歪ませてしまう。表向きはごく「普通の人」「いい人」ではあっても、内面には、打算や裏表、本音と建前で動く大人社会への激しい憤りや憎悪、怒り、反抗心、欲求不満を生じさせてしまう。
そして誰も、多かれ少なかれ、そうした感情を内在させたまま大人になって行く。
これでは、人間、心の底から自分にも他者に対してもやさしい感情は持てるはずはない。相互に信頼し、励ましあう感情がまともに育つはずはない。
むしろいつもどこかに、やりきれぬ感情のはけ口を求め、また攻撃的になってしまう。そしてその感情はつねに自分よりも弱い者に向うのだ。
私は、この日本でイジメや虐待が起る根本原因はここにあると考える。
学校や社会でのイジメは、主にこうして生じてしまうのではないか。家庭での親の子に対する虐待は主にこうして起ってしまうのではないか、と私は考える。
そしてそういう行動に出る者は、とかく学校でも社会では抑圧されていて、あるいは自分で自分を抑え込んでしまっていて、それを発散できないでいるのではないか。
要するに、子どもにイジメや虐待をもたらす根本原因をつくっているのは、日本の、文部省と文科省による教育なのだ。そしてその犠牲者は子どもだけではない。その教育を受けた全ての大人も同様だ。私はそう確信する。
こう考えれば、先の対症療法は労多くして益するところはほとんど小さい、ということになることが推測つくのである。
それは、ちょうど大気中に拡散させてしまった温室効果ガスを、それを減らさねばとして、かき集めようと走り回っても、所詮ほとんど無意味なのと同じ理屈だ。
だから、虐待やイジメをなくすには、人間を育てる根源である教育のあり方を、今、大至急、根本から見直すことである。「急がば回れ」で、それが、イジメや虐待を減らすというよりなくす最も確実で一番早い方法となる。
だからそうした本物の教育とはどうすることかを、文科省は、「中央教育審議会」に出てくるような「専門家」ではなく、本物の教育者・人格者に教えを乞い、全国規模で、しかし各地域毎のアイデンティティを無条件に認めながら、実践すればいいのである。
そこに投入する税金の額など、これまでの公共事業に投入されて来た額に比べれば、ほとんどゼロに等しい。しかし、効果は絶大となるはずだ。
第3位:「都市および集落に関する三種の原則」を実現させることを主目的とする「真の公共事業」に投入する場合である
これは、たとえば、これまでの巨大都市を小規模化すると同時に、人口の地方への移転を促す事業に投入するような場合である。
そして地方には、たくさんの分散型の小都市と集落群を造り、できる限りそれぞれを自己完結で循環型の共同体と成し、生産と消費の距離を極力短縮して、運送エネルギーやインフラへのコストを最小にし、消費エネルギーを最少にするという事業に税金を投入するような場合である。
と同時に、これと並行して、熱化学機関である地球の作動物質である「大気と水と栄養」の自然循環を遮る構造物を撤去または遮断をなくす構造物に改修する事業も実施して行くような場合にも。
第4位:私的領域ではあるが、個人の生存権を保障する事業あるいは領域へ投入する場合
これは文字どおり、全ての共同体内に暮らす全ての住民の、単なる「生存権」の保障に留まらず、人間としてその権利を保障された暮らしができるようにするための事業に税金を投入する場合である。
それは、その地域や国を守り、支え、そして発展させうるのは何と言っても人であるし、人こそ、老若男女、誰一人とっても地域と国の最高の資源であるからである。
とくに森林を除けばこれといった資源のないこの国では、その意味するところは重い。ところがこの国では、明治以来、政府は国民に対してこうした考え方を採ってはこなかった。むしろ国民をこき使って来た。そして国民の命を軽んじて来た。
ところが今、その最高の資源である国民の数も力も、どんどん減少しているのである。
なお、「人間としてその権利を保障された暮らしができるようにする」の中には、当然ながら身障者や病人への、広く言えば社会的弱者一人ひとりの人間としての尊厳を最大限に尊重した医療・看護・介護の質的向上とその維持も含まれることはいうまでもない。
第5位:同じく私的領域ではあるが、投入することで大きな公共的成果を期待できる場合
個人の所有物ではあるが、その人の経済的理由、身体的理由等により、適性に管理したり、整理したり、撤去したりすることが不可能と認められる場合で、しかもそれに税金を投入すれば、私的利益だけではなく、それよりはるかに大きな公共的利益あるいは効果が得られると判断された場合である。
たとえば、大量のゴミが不法に投棄されている私有地とか、またそこに投棄されている物がとくに毒性のある重金属などであったりした場合、あるいは、経済的理由等により放置されている私有林などで、そこに税金を投入して然るべき事業をすれば、地域の人々の生活の安全が確保されるようになるだけではなく、生態系も甦り、公共的に多大な効果を期待できるような場合である。
こうして、もはや自明のことであるが、公共的領域へ投入するとは言っても、本質的に「真の公共事業」とは正反対で、自然や社会をかえって駄目にし、官僚たちの利益にしか結びつかない従来型の「公共事業」にはもはや一銭の税金も投入しないようにするのである。
だたし、既設インフラストラクチャーで、老朽化してしまい、すぐにも改善しなくては多くの人の命というよりは暮らしに関わるという場合には、税金の投入順位は第1位に準ずるとする。
以上が税金が使われる際の大局的に見た際の私の考える優先順位であるが、ここで、徴税の仕方と額と時期についても、私案として補足しておきたいと思う。
これまで、この国では、国税にしても都道府県税にしても市町村税にしても、いつも、税を納めることと税を取り立てることしか問題とされて来なかった。そして納められた税金の使途とその優先順位についても、徴税者は納税者に事前に説明して来ることはなかった。
政治家も、国民から選ばれていながら、国民の納めたお金の使途について公式に国民の要望を聞くということも、戦後一度としてして来たことはなかった。
が、これからは、既述のように、税の使途も優先順位も議会が責任をもって定め、定めたそれを政府に厳格に施行させると同時に、徴税の仕方もまたその額も時期も、議会が見直し、そして定めるべきだろう、と私は思う。
そうでなくとも徴税ということは、財産権の保障(憲法第29条)を政府自身が侵すことでもあるからだ。
つまり、日本国憲法は、第29条と第30条では、互いに矛盾したことを言っている。
したがって、主権者であり納税者でもある国民がその矛盾を納得して受け入れられるようになるためには、徴収した税金を、納税者の利益と福祉のために常に最優先に生かすことを目的にして、徴税の前に先ず事業計画あり、という本来あるべき徴税の原則を議会が議会として貫くようにするべきなのだ。
そしてその事業計画は、政治家が主権者の要望を直に、そして公式に聞き、それを汲む形で議会で政治家どうしで、その場合、必要ならば各分野の専門家の意見や助言を仰ぎながら、しかし役人はそこには一切介在させずに、制定する。
事業の内容と種類は、先の「人間にとっての諸価値の階層性」を考慮し、バラバラではなく、統一的かつ体系的観点から、そして上流域から、相互に関連性を持たせたものとする。
事業の内容と種類が定まり、そして各事業計画も定まり、事業規模が明確になって後に、その事業を実現しうる予算も、専門家の力を借りて決定する。
さらにその場合、その事業を実施したときに期待される成果や効果についても、専門家に教えを乞い、事前に主権者に説明する。
それは、「納税は国民の義務」(憲法第30条)という前に、徴税側も「税の額だけではなくその使途とその優先順位をも明確にする義務」を負うべきだからだ。
後は、議会が決めたそれらを執行機関である役所に回し、政治家のコントロールの下で、議会が決めたとおり執行させればいいのである。
なお執行させたとき、実際にはどういう成果が得られたか、または得られなかったのか、得られなかったとすればその原因・理由は何だったのかということも、議会が、あるいは政治家が責任をもってチェックすると同時に、担当した役人をして全納税者に対してそれを説明させるべきなのだ。
またそのためには、役所の担当職員も、途中で異動することなく、自分が担当する事業が完了するまでは、その事業に張り付いて全責任を持つようにする。
今は、役所では、担当者が関わっている事業の進捗度に無関係に、一般に、2〜3年で人事異動してしまう。それはまずい。“どうせ、途中で異動になっちゃうのだろうから”と、自分の着手した事業に最後まで責任をもって成し遂げようという気持ちを持たせなくさせてしまうだけではなく、“少々いい加減なやり方をしても、異動してしまえば、責任の所在もうやむやになって、追求されることもなくなるだろうから”という思いにもさせてしまいやすく、それは担当者自身の実力養成・人格陶冶にもならないし、ますます行政への人々の信頼は薄らぐ結果となるだけだからだ。
要は、国家と地域共同体の運営にとってもっとも重要な納税も徴税も、すべて、納税者に納得行くよう透明性をもって明確になされた後にされるべきなのだ。
そしてこうしたことを被統治者である国民と統治者である政府双方が実施できるようになるためにも、どうしても「都市と集落の三原則」をも実現する必要があるのである。
12.4 自決権を持つ地域連合体内の人々の暮らしを支える租税の枠組み
12.4 自決権を持つ地域連合体内の人々の暮らしを支える租税の枠組み
本章では、これまで、私は次のような問題意識を持って、税制というものについて考察して来た。
①そもそも人が他人の所有する金であれ物であれ、その全部または一部を取り上げたり、他人の所有する肉体や精神を使役に駆り出したりするということは、その人の所有する財産権を侵害することである。そしてそれは、日本国憲法第29条に反する行為である。
②ところがこの国では、第29条に続く第30条では、『国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う』と、第29条に矛盾する、個人あるいは集団の財産を剥奪する行為を正当化する内容を明記している。
つまり、そのこと自体、日本国憲法は、憲法内で矛盾を侵しているのだ。
にも拘わらず、同憲法はその論理矛盾を認めてはいない。
③ところで、これまで、この国では、国民の納税に対する大方の心情はというと、ほとんど国民には、“私的財産を剥奪ないしは取り立てられる”あるいは“お金を取り立てられる”という気持ちの方が先に立っていたのではないだろうか。
なぜそういう気持ちにさせられてしまうのか。
そうした気持ちになってしまうのには、既述した、日本国憲法自体が持っている論理矛盾もあるが、最大の理由は、自分たちが納税者として、憲法がいう納税の義務を果たしても、その納めた税金が、納めた人々の福祉のために最優先的に役立てられているという実感を持てないからなのではないか。
④とはいえ、これからの時代において、この国が真に持続可能な国へと自らを変革して歩んで行けるようになるためには、この国を動かす資金の確保に繋がる税の納税・徴税というこの問題は、これまでのような、上から押し付けられたルールのままにしておくわけにはいかないし、このままでいいとも思わない、と私は考える。
それは自分たちの国は自分たちの手で造るという決意と、その国づくりのためのお金も自分たちで出すという決意がどうしても必要となる、と私は考えるからだ。つまり、もう「あなた任せ」にはしない、という主体性がどうしても必要なのだ。
⑤それに、新しい時代には新しい時代に相応しい税制を設けて出発しなくてはならない。
そうしなくては前制度による矛盾をますます深め、人々の納税意欲をますます減退させてしまうからだ。
実際、もはや資本主義が経済についての考え方の主流となってきた近代という時代は終わり、生命を主体とした私の命名する環境時代に突入してしまってもいるのだ。
なぜなら、資本主義経済では、人類は、多様な他生命との間での共生も循環も本質的に不可能だからだ。つまり資本主義経済の下では、人類は間違いなく持続し得ないからだ。
⑥では、誰もが進んで納税しようという気持ちになるためには、どのような税制であることが望ましいか。
そして、どうしたら、一人ひとりがそうした気持ちになりうるか。
⑦そのためには、私たち国民は、一人ひとり、自らにこう問うてみる必要があるのではないか。
“なぜ自分は今、こうして周囲のみんなと一緒に、この場所、この地で、集団で生活しているのか”
“なぜ自分は、一人で、みんなから離れて、すなわち孤立して生活していないのか”
“それは、一人では生活できないからなのか、それとも、自分の知らないうちからみんなと一緒に生活するようになっていたからなのか、それとも、誰かがここに住むことを自分に強制しているからなのか”、等々と。
これらの問いを、一人ひとりが自らに投げかけ、それを深く考えて行くことによって、一人では、どうやっても、生きることはもちろん生活してゆくこともできず、どうしても集団の中の一員として協力し合わなくてはならない。そしてその集団は、ただそこにみんなが集まっているだけという仕方でいる集団、つまり烏合の集団ではなく、そこに集まるすべての人々が、一人ひとり、意志を持って、その生命と自由と財産を安全に守られるようなしくみを持った集団でなくてはならない、ということを今までよりずっと深く理解できるようになるのではないだろうか。
それは、より具体的に言うと、その集団とは、それを構成する一人ひとりは、少なくとも日々の食と住と衣をも確保し得て、その上、「人間」として生きられるために必要な諸制度と諸設備を整えた集団であり、それを構成員のみんなで維持し、また守って行くことを互いに合意した集団でなくてはならない、ということを、である。そういう意味でその集団とは共同体なのだ、と。
そう認識し得たとき初めて、一人ひとりは、自分が生きている場所は共同体なのだと理解できるようになるだけではなく、その共同体への愛も生まれ、またそれだけではなく、自分が生き、自分を人間として生かしてくれるこの共同体のために自分は何をしたらいいのか、あるいは何をすべきなのか、一体何ができるのか、という参画意識も自然と湧き上がってくるようになるのではないか。
そしてそのとき、最終的には、“自分たちの共同体は自分たちで責任を持って運営し維持するしかない”、“自分たちの共同体の運命は自分たちで決めるのだ”という自覚と覚悟も備わってくるのではないだろうか。
そしてこうした自覚と覚悟が備わった時、“そのために必要なら、自分の所有しているものを共同体のために提供しよう”という気持ちになり、行為に結びつくのではないか、と。
そこで言う「自分の所有しているもの」とは、必ずしもお金や物とは限らない。自分の能力であり体力をも含む。
そしてそのとき、私たち国民としての納税という行為や税制度という仕組みに対する捉え方や理解はこれまでとはまったく違ったものになってくるのではないか、と。
⑧しかし、だからと言って「進んで納税したくなる」というところまで行くには、未だ未だ隔たりがあるように思う。
では、どうしたら国民は進んで納税をしようという気持ちになるのだろうか。何が満たされたならば、そんな気持ちになれるのだろうか。
そんな気持ちになれるためには、少なくとも次の条件が満たされる必要があるのではないか
として、私は既述の通り、6つの条件を提示してきた。
その中でも特に第4の条件が満たされることが重要であるとしてきた。
そこでは、「所有」と「行為」に関する税の考え方を明らかにしてきた。
具体的には次のことである。
物品を所有あるいは私有することによる義務としての税の在り方について:
1. 公共的環境材あるいは一次財としての資源(「一次財」については第11章参照)を私的に所有することには、重い義務を伴う。
また、公共的環境材あるいは一次財としての資源を汚染・破壊・消費した後の廃棄にも、重い義務を伴う。
ここに、公共的環境材を汚染したり消費したりするとは、たとえば、有害物質・毒物を河川、沼、湖、海、大気中、土壌中に拡散あるいは滞留させることを言う。あるいは自動車の排ガスによって大気を汚染すること、船舶や航空機を運航させることで河川や海あるいは空を汚染することをも言う。
なお、公共的環境材とは、空気、水、土壌、あるいはそれらを生み出す自然のことであるが、その公共的環境材の中には再生不可能資源も含まれる。
1. 物品の取得あるいは私有については4つの段階に区分する。
具体的には次のように税率を区分する。
人が生物として生きる上での絶対的必需品の取得と私有には無税とする。
人が人間として生活して行く上で基本的に必要な物の取得と私有には低税率とする。
「あれば便利」、「あれば快適」という程度の物品の取得あるいは所有には高税率とする。
「あれば満足」、「あれば自慢できる」という程度の物品の取得あるいは所有には、極めて高い税率とする。
しかし、土地に関してだけは、人が生物として生きて行く上でも、あるいは人が人間として生活して行く上でも、借りるという方法があることを考えれば必ずしも取得あるいは私有する必要はないこと、また、取得し私有するとしても、その場合、家族構成等を考慮した適正規模というものが考えられること等々を考慮して、税率を決めればよい、とする。
1. 自ら額に汗して、あるいは労働(このうちには、肉体労働と頭脳労働を含む)をして得たのではない物品の取得あるいは所有には、高い税率の税が課せられる。
相続する場合も、考え方は同様である。
環境に与える負荷を解消させることを目ざすための税の在り方について:
1.原因を生み出したことに対する義務あるいは責任を負うべき義務。
それを所有あるいは使用することによって、自然あるいは社会に対して何らかの調整・修正・補正・改善等々の必要性を生じさせ、そのためのコスト費用(コスト)を公共として掛けなくてはならなくなってしまった原因をつくってしまった場合。
所得・収益に基づく義務としての税のあり方について:
1.あらゆる所得・収益は、結局のところ、自然が生み出したもの、あるいは万物が協同の下に生み出したものであること、あるいは公共社会の資本(インフラストラクチャー)を用いることによってもたらされたものであることから、その利益・収益の大きさに応じて義務を負う、とする。
1.宗教法人も、収益(布施、献金をも含む)に対してその収益の大きさに応じて税金が課
せられる、とする。
なお、ここで提言する税制における納めるべき「私有財産」とは、現金、固定資産、自己の労働のいずれかを言う。
それは、それらのいずれをもってしても納税できるとすることで、「お金がなければ生きられない」、「現金を持っていなければ生活できない」とする呪縛や強迫観念からすべての人間を解放でき、三種の指導原理に基礎を置く環境時代の経済の理念を実現できるであろうと私は考えるからである。
こうした論理過程に基づいて、私なりに組み立てた租税の概略的な枠組みが次表である。
それぞれの項目についての税率は、既述の原理と原則に照らし合わせて決められるのである。
表−12.1 地域連合体内の租税の枠組み
最上位原理 |
次位原則 |
最上位原理と次位原則を実現させるための社会と生態系に対する社会各構成員の負担原則 |
||||||
負担の根拠 |
税金の使途と租税 |
その中でもとくに 負担の重い品目 |
負担度合いの根拠 |
補記 |
||||
人類存続のための三種の指導原理 |
都市と集落の三原則 と公平原則 |
直接税 |
環 境 税
応因 ・応責 の原則を適用 |
生態系の再生ないしは復元のために使われる |
取得税 |
・奢侈物品取得 ・投機的取得 ・高級自動車取得 |
奢侈品には重く、生活必需品には軽く。生存不可欠品は無税 |
従来の消費税に代わるもの |
保有税 |
・土地の私的所有 ・化石燃料で走る自動車 |
土地の私的所有は、生態系の連続性を損なう可能性大であるから。 |
従来の固定資産税に代わるもの |
|||||
・過多土地保有 ・偽装農地 |
同上。それに土地は単なる物品とは異なる。全生命の生きる基盤。 |
新設 |
||||||
排出税 |
・重金属 ・土に還り難い廃物 ・石油化学合成物質 |
生態系における物質循環を阻害し、毒物を拡散させてしまうため |
新設 |
|||||
・分解できない自動車と家電製品 |
|
新設 |
||||||
既存の都市と集落を持続可能な都市と集落に再構築するために使われる |
短期使用建築廃棄物税 |
・50年使用未満の住宅やオフィスの取り壊しに伴う廃棄物 |
環境への負荷の総量を減らし、土壌中の循環を促進し、土壌の浄化を図るとともに、都市ごと、集落ごとに自己完結の仕組みを持てるようにするため |
とくに税の優遇策は時限立法に拠る。 |
||||
土壌中の水循環阻害税 |
・土壌中に擁壁または巨大コンクリート構造物を構築した場合 |
|||||||
所 得 税
応能 ・応益の原則を適用 |
勤労所得税 |
・「天下り」「渡り鳥」官僚の所得 |
|
新設 |
||||
団体所得税 |
・社会貢献のない企業 ・宗教法人への布施 |
社会への貢献度、公益度に応じた減税措置あり |
従来の法人税、事業税に代わるもの |
|||||
不労所得税 |
・相続金品、贈与金品 ・土地貸与賃貸料 ・株式や証券等の配当、同売買益 ・土地の増加益 ・駐車場賃貸益等々の不労所得全般 |
人間相互の経済格差を拡大する要因となるため |
従来の相続税、譲渡税に代わるもの |
|||||
|
さらには、上表には書かれていないが、従来の揮発油税(これは、昭和29年から平成20年までは道路整備に当てることを目的とした目的税だったが、平成21年度からは一般財源化された)は排出税に切り替えて廃止する。
また、これは税ではないが、自動車を保有する者が車検(車体検査)を受ける際には、誰もが金融庁に拠って強制的に納めさせられて来たいわゆる自賠責保険(自動車損害賠償責任保険)は廃止する。その根拠は、一言で言えば、もはや時代遅れの制度だからだ。
具体的には、①この制度は、自動車も少なく、道路事情も悪く、また社会全体も貧しく、死亡の伴う自動車事故を起こしても、十分な賠償ができないことが多かった、アジア・太平洋戦争後、間も無くしての昭和30年(1955年)にその骨格ができた制度で、すでに70年近く経過していること。②その当時は、事故を起こしても、損害を補償する民間の保障会社もほとんどなかったが、今や、無制限の賠償額にも対応できる民間の損保会社が各種できてきていること。③交通事故死者数も、昭和45年の16,765人をピークに、その後、傾向としては年々減少し、令和2年には2,784人にまで減ってきていること。④それに、この保険による保険金は最高額が3000万円であって、人を轢き殺したような場合、たとえそれが補助的な保険金の位置付けを持つ制度とはいえ、今や、億単位の賠償額が請求される場合があるのに対応できないこと。⑤そして、自動車を所有できるくらいの経済力のある人であれば、今の時代、民間の任意保険にも加入しうる経済力はあると考えられること。⑥それに、車検費用全体に占める割合は、自動車の種類が異なっても、概ね30%を超えていて、不合理であること、等々である。
極めてざっくりとではあるが、以上のことからも、この自賠責保険制度がもはや時代遅れというだけではなく、目的もわからなくなっており、それに集められた保険料の使途が極めて不透明となっているのである。
その根拠を明らかにするための計算を行う上で、次のような仮定を置く。
①現在、この国には、実際よりやや少なめに見て、二輪車を除いて、8000万台の自動車が走っているとする。
②乗合自動車などの車検は毎年であるし、新車の場合には車検期間が3年と長いが、ここでは、上記の全ての自動車の車検は、2年ごとに受けるとする。
したがって、8000万台の半分の4000万台が毎年車検を受けると同じことになる。
③その場合、車検時に納める自賠責保険料は、一台当たり、平均して3万円とする。
④一方、今や、1年間に起きる自動車事故による死者数は3,000人とする。
昭和45年には、死者数は、統計を取り始めて最大値の16,765人であった。
⑤その死者数に対して、自賠責保険からは、加害者に代わって、被害者あるいはその遺族には、自賠責保険金の最高額である3000万円が、決まって支払われるものとする。
以上の仮定の下に、自賠責保険制度の収支を計算すると、次のような計算式となる。
毎年、この自賠責保険を担当する金融庁に入る自賠責保険料の合計金額(1)は、
4000万台×30000円=1.2×1012円=1兆2000億円・・・・・・・・・(1)
一方、毎年、金融庁から交通事故被害者ないしはその遺族に支払われる保険金の総額(2)は、
3000人×3000万円=9.0×1010円=900億円・・・・・・・・・・・・・・(2)
つまり、交通事故死者数が毎年これよりも減少して行ったなら、少なく見積もっても、毎年、
1兆2000億円−900億円=1兆1100億円・・・・・・・・・・・・・・・(3)
ずつ余り、それが年々累積されてゆくことになる。
ましてや、自動車台数が年々増えれば増えるほど、そして交通事故死者数が減少してゆけばゆくほど、残額は多くなってゆくことになる。
しかし、その累積されていっている金額の明細や使途は、現在のところ、全く不明なのである。そしてこうしたお金が金融庁に蓄えられ続けてゆくことは、金融庁の既得権益を増大させることにしかならないのだ。
そしてこのことを、国会議員も、政府の閣僚も、誰もチェックをしない。
以上の結果より、もはや自賠責保険制度そのものは、即刻廃止すべきなのだ。
とにかく、今、この国の中央政府と地方政府が抱え込んでいる借金(政府債務残高)の合計額の対GDP(国内総生産で、2015年現在、およそ500兆円)比が230%(2.3倍)にも及ぶ国は、世界どこの国を見ても、日本以外にはないのである。
そんな世界最悪の国家の借金は、既述の考え方と方法に基づき、国民として、遅くとも2030年までに返済し切ることが是非とも必要であると私は考えるのである。なぜなら、その頃には、地球温暖化と気候変動に因る、前代未聞の様々な災害が頻発してくるであろうと推測されるが————実際、IPCCは、2020年からの10年間に、世界人類が温暖化阻止のためにどれだけ有効な対策を実際に打てるか、それによって人類が存続できるか否かが決まる、と警告を発してもいるからである————、そのときに、国民が、労働力減少の中で、その事態に総力を挙げて対処できるようになるためには、過去からの財政的負担から解放されている必要がどうしてもある、と考えられるからである。そしてそのことは、将来世代と未来世代から要求されている、と言うより、その借金をこしらえて来た先人を含む現在の私たち大人たちの責任と義務でもあるのである。
12.3 土地の所有権と「三種の指導原理」
12.3 土地の所有権と「三種の指導原理」
(2)土地を所有することの意味 −−− 所有権と義務
では、上記のような意味と特性を持つ土地を所有する、あるいはそれを財産・資産として持つということはどういう意味を持つのであろう。ここに「上記のような」の意味を明確にすると、それは、土地というものは最初から、他の一般商品とは本質的に異なる特性を持ち、そして不可避的に、「公」的どころか自然の一部を成しながら、多様な全生命を生かしてくれているという価値を持っているものであるにも拘らずその土地を独占的かつ排他的に我が物とするということであり、そうなれば、土地の土壌としての特性を殺してしまったり、分割という行為が伴いがちとなり、それに隣接する土地との間での水と大気と栄養の循環が遮断されてしまいがちになるということだ。そしてそれは、既述の《エントロピー発生の原理》の説明の中で「自然循環」という観点から明らかにして来たように(第4章)、人類の存続を可能とさせる条件を成り立たせなくなる可能性が大きくなることでもある。
それだけに、土地を私的に所有したり、私的利益を得るために売買したりするということは、それだけで、本来なら、自然法にも背くことであると同時に、人類全体の価値・財産を私物化することであり、人類の大義にも反することなのだ。
ところが、特にこの国では、明治期以降、土地の私的所有が認められ、その所有者は、土地をどのように使おうと、誰に拘束されることなく、またいかなる法律に拠って制約を受けることもなく、まったく自由であるとされてきた。それが、「土地所有権の絶対性」という考え方である。
したがって、今ここで注意深く検討しなくてはならないことは、その土地の私的所有が自然と社会に対してどのような影響をもたらすか、ということである。
なぜなら、そもそも公的性質の物を私的に所有するということ自体が矛盾しているからだ。
もうそれだけで、解決し難い様々な問題を発生させてしまう可能性を秘めているからである。
それは、例えば、ヒトにとっても生物一般にとっても、また地球の自然全体にとっても決定的な意味のある、しかし土地と同じように、個々に切り離すことも数えることも本質的に不可能な「空気」あるいは「大気」の部分を手に取って、これはオレの物だ、と主張すること、あるいは主張できるとすることと同じことだからだ。
物事は、それを創ろうとした段階での考え方や論理の中に、あるいはそれを実行しようとした段階での考え方や論理の中に、矛盾を含んでいたなら、その矛盾を解消しないのまま組み立てられた制度や仕組みは、早晩、必ず、様々な厄介な問題を次々と露呈させてきて、最初のうちはともかく、やがてはその問題に対して改良や改善あるいは改革といった対処ではどうにもならない事態に至ってしまうものだ。
実際、そうしたことは、人間の歴史が無数の場面で証明している。
しかし人間の行動が見せるそうしたことは、人間の歴史においてだけではなく、自然に対してももたらすように私は思う。
人間のやっていることや人間が作り上げた社会的制度や仕組みが、その本質において、自然の仕組みのありように矛盾していたり、自然とは相容れないものであったりしたならば、それは、早晩、自然を壊す方向で働くと同時に、そうした制度や仕組みを作った人間は自然から手痛いしっぺ返しを受けることになるものだ、と私は思う。なぜなら、人は人間である前に、生物としてのヒトであり、その生物としてのヒトは、たとえ自分ではどう思おうが、結局は自然の枠組みから飛び出すことはできないどころか、自然の摂理の中で生かされているからだ。
以上の文脈から、なぜ私が、「土地を所有することの意味」について考察しようとするか、推察いただけたことと思う。つまり、他の一般商品とは本質的に異なる特性を持ち、そして「公」的どころか自然の一部を成しながら、その表面近傍では多様な全生命を生かしてくれているという価値を持っている土地を所有する以上、あるいはそうした土地を所有できると考える以上、そこにはそれ相当の極めて重い義務が伴うはずだ、あるいは伴わなくてはならない。そうでなくては、その所有者のやっていることは、社会ともまた自然とも帳尻が合わなくなり、早晩、自然と人類の存続を不可能とする事態を生じさせてしまうことになる、と私は確信するからである。
では、なぜ私は、土地を所有することには重い義務が伴うということの根拠を今、明確にしておこうとするか。
それは、とくに日本は、国土が狭いのに人口分布は極度に大都市に偏っていることにある。そしてそのことは、いずれ、都市人口の地方移転という問題を引き起こさないではいないであろうとの推測されることにある。
それはどのような場合か。
いわゆる「南海トラフ」といった巨大地震の前後の場合である。地球温暖化の激化の中で、世界と国内での食糧危機が起る前後の場合である。あるいは巨大都市ではインフラなどが老朽化して使えなくなって、もはや暮らして行くことが出来ない状況になって来た場合等々である。
あるいは、この国の人口減少現象と、この国の中央政府と地方政府が累積させて来た天文学的額の政府債務残高(借金)による行政機関が機能し得なくなる状況と、地球温暖化と気候変動がもたらす問題の3つが重なって、現行の巨大都市ではもはや人々は暮らして行くことができなくなって、田舎への大規模かつ分散型の疎開を余儀なくされたような場合である。
尤もその時には、環境問題は今以上に誰もが実感できるほどに深刻化してしまっているであろうから、その時には、この「土地を所有すること」とその「義務」の問題は、多分多くの人にはごく自然に納得されるのではないか、と私は推測する。
それにその時、巨大都市から地方への人口の大移動が起こり、地方には新たに小都市なり集落をつくるということになれば、どうしても「計画」ということが必要になるわけであるが、そのとき、土地所有についての私権が無制限に保障されているところでは、つまり「土地所有権の絶対性」などといった時代錯誤で、独善的な考え方がはびこっているところでは、「計画」など成り立つはずもないからだ。言い換えれば、「計画」は「私権の制限」を前提にして初めて成り立つものだし実効性を持つものだからだ————本来なら、この国での都市「計画」ということを真に意味あるものとするためには、「帝都東京」を構想した、少なくとも明治時代初期の段階で、既にこのことを国を挙げて議論しておくべきだったと私は思う————。
ところで、そもそも土地所有ということは歴史的に見て、いつから、どのようにして生まれて来たのであろうか。
それを今は西欧について見てみようと思う。
元々土地と人との関わりは、アフリカで誕生した人類が森を出て、草原に降り立ったときから始まったものだ。
そしてその関わり方については、その後、他のさまざまな出来事の繰り返しと同様、「規則」の時代と「放任」の時代、つまり「計画」の時代と「自由」の時代とを歴史の中で繰返して来た。その中で、土地を所有する権利という考え方が近代に入ってから始まった。
発端は「囲い込み」と呼ばれる行為が行われるようになってからである。
囲い込みとは、畑や牧場を柵で囲んで、その中での他人の耕作や放牧を禁じてしまうことを言う。要するに、一定の区画された土地を独占的・排他的に支配できるよう周囲を囲ってしまうことである。その行為による土地への支配は「絶対性」という法律用語に置き換えられ、ここに「土地所有権の絶対性」という概念が出来上がったのである。
なお、この土地所有の権利を初めて論理的に明らかにしたのはジョン・ロックだった(「市民政府論」岩波文庫p.31〜55)。彼のその論理をここで確認しておこうと思う。
彼は、経済学の分野のアダム・スミス、自然科学の分野のアイザック・ニュートンらとともに近代という時代を確立した一人である。とくにジョン・ロックは政治思想の面で近代という時代の人々の命運を確定させてしまった人物である。
その彼の論理を私がここで引用する理由は2つ。
1つは、彼によって確立された「近代の財産権」は何を根拠としているかを知っておくことそのものが重要であるというだけではなく、以下に示すように、日本の土地所有権、それも特異な財産権に潜んでいる問題点を明らかにする上で役立つと考えるからである。2つ目は、その近代の財産権の根拠の限界を知ることで、環境時代にふさわしい新しい所有権ないしは新しい財産権のあり方というものを探り出し、その新所有権ないしは新財産権にかかわる権利と義務の関係を探り出す上でも大いに参考となると考えるからである。
彼は次のような論理に基づいて主張して行く。引用が少し長いがご容赦いただきたい。
先ずは、「たとえ自然の事物は共有のものとして(神に)与えられていても、人間は、自分の主人であり、自分自身の一身およびその活動すなわち労働の所有者であるがゆえに、自分自身のうちに所有権の大きな基礎を持っていた」とする。その上で、「そうして彼が自分の存在の維持ないし慰安に用いたものの大部分を成すものは完全に個人のものであり、決して他人と共有ではなかった」という根拠と、「土地にその価値の最大の部分を与えるものは労働であって、それ無しには土地は殆ど(人間にとって)無価値になってしまうであろう」という根拠を挙げ、その根拠の下に、もともと人類共有物である土地を私的に所有できるのは次の条件が満たされる時だけであると結論づけるのである。
「その個人の所有する労働をもって土地に(自然状態にあったとき以上の)価値を与えて手に入れたものであること」、またその際、「その所有できる量の限界あるいはそれが自分の正当な所有権の限界を超えたかどうかは、その財産の大きさ如何にあるのではなく、その土地の価値を有効に生かし、また駄目にしない限りにおいてである」と。
その理由はこうだ、と彼は言う。
「世界を人間に共有のものとして与えたところの神は、同時にそれを生活の最大の利益と便宜とに資するように利用すべき理性をも彼等に与えたのだから」。したがって、「たとえ土地を(囲い込みで)所有あるいは所有権を獲得した後であっても、彼の所有に帰したものが適当に使用されないで(その価値が)滅失したとすれば、彼は万人に共通な自然の法に違反したのであり、処罰されねばならない。彼は隣人の持ち分を侵したからである」と。
これから明らかなように、ジョン・ロックは、もともと土地は人類の共有物だとしながらも、それだけにそれを所有できるのは、そこに自身の労働をもって土地に自然状態にあったとき以上の価値を与え、かつ、その価値を有効に生かしている場合に限る、としていることである。
しかし、当時はそれで人を納得させられたかもしれないが、今日的観点からするとロックのこの思想と論理には重大な欠陥があることが判る。
それは次の2点においてだ。
1つは、前節で見て来たように、「土地」は本来、あらゆる生命がその上で生かされている場であり、人間はその土地と他生命によってこそ生かされている、という視点がないこと。つまり、ロックにとっては、土地は、他生物との共有のものではなく、あくまでも「人類」の共有物、という考え方であったことである———これこそが、環境時代の指導原理の一つとして、あるいは生命主義を構成する一原理として、私が「新・人類普遍の原理」を設けた理由である———。
2つ目は、個人の所有する労働を加える前の自然物としての土地は、人間にとっての経済的価値とはむしろ反比例するかのように、その生態学的働きは最大であった、という視点もなかったことである———しかしこのことは、近代には「他生物」という視点がなかったこと、したがって生態系という概念もなかったことを考えれば仕方がなかったとは言えることであるが———。
それは、土地は、人間の労働が加えられ、人間にとっての経済的価値、不動産的価値、資本主義的生産手段としての価値が高まれば高まるほど、そうした人間の諸行為によって、土地は不可避的に遮断されたり分断されたり汚染されたり破壊されたりし、自然状態にあったときよりも生態学的働きは下がって行くことになるからである。
日本では、1980年代の特に後半に日本中の多くの人々が巻き込まれて踊り狂ったバブル経済が1990年代のはじめ(1991年)に崩壊するが、それまではいわゆる「土地神話」というものが信じられて来た。それは、土地を商品と見立てた上での、「地価は決して下がることはない。だから買っておいて損はない」、という土地に対する特異な価値観のことである。
そこには、ジョン・ロックの言う、人類共有物である土地を私的に所有できるための2つの条件すら、踊り狂った人々の視野にはまったく入ってはいなかった。
そこでの取得目的は、ほとんどもっぱら投機の対象としてであった。人間がそこに家を建てて住むためというケースは全体の中のほんの一部に過ぎず、また、資本主義経済的な意味での生産の三要素(土地・資本・労働)の一つとして確保するというものでもなかった。
とは言え、バブルの時に限らず、明治期以降、日本での土地所有のあり方については、今日に至ってもなお、一貫して、所有者には次のような態度が、それも露骨に見られたのである。
「ここはオレの土地だ。それをどう使おうが、他人にとやかく言われる筋合いのものではない」、かと思えば、「道路をつくろうが何ができようが、オレは絶対にここから立ち退きはせん」といった類いの態度である。
そしてこの態度こそ、日本における「土地所有権の絶対性」という言葉で表現されるもので、およそ都市にあっても集落にあっても、その態度は「共同体」という概念、あるいは公共的利益とは真っ向から対立したのである。
それは、その土地では、一般に、労働も生産活動も伴わない上に、余りにも独善的で排他的であるがゆえである。
ではその結果、どうなったか。
この国では、まともな「都市計画」はどこにおいても成り立たず、都市計画という考え方そのものをほとんど無意味化させたのである。計画を立てたところでその「土地所有権の絶対性」に阻まれて、計画は一向に進まなかったのである————しかし、それであっても、この国のどこの市町村役場も、当時の自治省、今の総務省の官僚による法にも基づかない通達により、5年おきごとに、見せかけの「都市計画」あるいは「総合計画」もどきものを作らされてきたのである。そしてその計画は、どこの市町村役場も、そこの職員が手作りしたのではなく、ほとんどどこも、外部業者に税金を使って作らせたのである。市町村名を換えれば、どこの市町村にも使えるような内容の総合計画を————。
その結果、この国では、どこの大都市でも、またどこの地方都市でも、大きさも、形も、色調も、質感も、全くバラバラなビル群から成る都市の姿が出来上がり、まったくバラバラな家並みの住宅街が、つぎつぎと出来てきたのである。
もちろん、都市や住宅街がこのような姿になってしまった背景には、「土地所有権の絶対性」という考え方がはびこっていただけではなく、住民側にも、市町村役場といった行政府側にも、自分たちは「共同体」の一員であり、その共同体は「自治体」である、だから自分たちの共同体は自分たちの手で作るという当事者意識、あるいは主体者としての自覚が決定的に乏しかったことがあり、中央政府に追従するのが当たり前という考え方もしっかり定着していたことが挙げられる、と私は考える。要するに、「自治体」とは名ばかりだったのである。
では既述の日本的「土地所有権の絶対性」という考え方はなぜ生じてしまったのか。
私はその主たる原因はこの国の憲法にある、それも財産権を規定する第29条にあると考える。
それを見てみよう。
財産権を規定する日本国憲法の第29条にはこうある。
① 財産権は、これを侵してはならない。
② 財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。
③ 私有財産は、正当な補償の下に、公共のために用いることができる。
この条項がどうして問題と私は考えるか。それは、たとえばドイツの憲法(ドイツ連邦共和国基本法またはボン基本法)と比較してみれば判りやすい。
所有権と公用収用に関して明記するドイツ憲法第14条には、相続権をも含めて、次のようにある。
① 所有権および相続権は、これを保障する。その内容および限界は、法律でこれを規定する。
② 所有権には義務が伴う。その行使は、同時に公共の福祉に資するものでなくてはならない。
③ 公用収用は、公共の福祉のためにのみ、認められる。公用収用は、法律により、または補償の方法および程度を規定する法律の根拠に基づいてのみ、これを行うことが許される。その補償は、公共の利益および関係者の利益を正当に衡量して、決定されなくてはならない。
補償額につき争いがあるときは、通常裁判所に出訴することができる。
この両者を比較してまず眼につくことは、日本国憲法では「財産権」という表現をしていて、財産という物に対しての権利を考えているのに対して、ドイツ憲法では、財産そのものではなく、その財産を所有すること、あるいは財産を所有する仕方に関する権利としての「所有権」を考えていることである。
この点について言えば、一般に人間の権利や義務は、直接的には、物に対してではなく行為や状態に対して意味を持つ概念であることを思えば、日本国憲法よりもドイツ憲法の表現の方が適切だということになる。言葉の意味や概念をより深く考えた表現になっているからだ。
次にドイツ憲法ではその第2項で、「所有権には義務が伴う。その行使は、同時に公共の福祉に資するものでなくてはならない」としているのに対して、日本国憲法では、第1項に「財産権は、これを侵してはならない」と言っているだけで、その権利を行使するには、ドイツのように、同時に義務をも伴う、とは言っていないことである。
この違いが意味することは決定的に重要なことだ。
さらには、日本国憲法第3項では、「正当な補償の下に、公共のために用いることができる。」としていて、あくまでも「できる」という恣意性が入り得る余地を残した表現になっているのに対して、ドイツ憲法の第3項では、「公用収用は、公共の福祉のためにのみ」「認められる」として、恣意性が入り込める余地を封じている。
その結果、日独両国の憲法は、その第3項で共通に公用収用に対する補償を明記しつつも、日本では、第3項の主張がほとんど姿を消してしまい、第1項のみがまかり通る結果になっているのである。
そのため、日本では、「公共」との言葉が冠せられる施設の建設のために土地を収用しようとすると、その土地を財産として持つ個人は、「財産権」を盾にして、「ゴネ得」という言葉が横行するように、ゴネルことによって不当なまでの補償金を手にするまでは手放さない、という事態が頻繁に生じてしまう。
当然その場合、そのツケは直接的には工事の後れとなって、あるいは工事完成不可能という形で国民に跳ね返ってくることが多くなるだけではなく、地価全体を上昇させ、インフレを招き、生活を圧迫して内需拡大を阻害して、個人資産差を拡大させ、ひいては国民の大多数の勤労意欲や労働観にも悪影響をもたらす。
それだけではない。財産権を規定する憲法条文の表現の曖昧さも原因して、憲法条文は実効力のない単なる言葉だけになってしまっていて、実態との間に落差を生じさせてしまっている。そのため、公共ないしは公共の福祉という概念に対する国民の理解をも薄弱なものとさせたり歪めさせたりもしているのである———つまりこの観点からも、現行日本国憲法は、第9条だけではなく、また第25条だけでもなく、この第29条も書き換えなくてはならない絶対的必要性があるのである———。
実はこうした日本とドイツの憲法の表現の差———それは結局のところ、どれだけそのことに関して深く、多面的に考えているかどうかの違いの結果でもあるのだが。なお、こうした日本人とドイツ人との「ものの考え方」と「生き方」の違いについては第6章を参照———が、たとえば、両国の都市と集落の姿の違いとなって現れている、と私は解釈する。それだけではない。そこに住む人々の美的感性の違いにも、郷土愛の違いにも、国籍を問わず多様な人々をいつもオープンな心で受け入れるもてなしの心にも決定的な違いとなって現れていると思うのである。
そのことは、一度でもヨーロッパの都市でも田舎の集落でも訪れたことのある人ならば、ドイツに限らずに、私がここで言わんとしていることの意味を直ちに理解していただけるものと思う。
ドイツを含めて、ヨーロッパの諸都市は、ほとんど例外なく、それを構成する建物群は、どれも大きさも形も配色も質感も統一と均整がとれている。また田舎の集落も、ほとんど例外なく、それを構成する住宅群については、どの家も、大きさも形も配色も質感も統一と均整がとれている。
その全体的姿は、都市でも集落でも、美的景観に対して、明らかにある一定の約束を共有しながら、一団としての個性を毅然と貫いているように見える。そしてそこから醸し出される雰囲気には、見る者に品格すら感じさせてくれる。田舎の集落などは、自然の中にスッポリと寡黙に、しかし誇らしげに佇んでいる、といった感じだ。
そして、都市や集落を構成する要素と言うべき建物、住まい、教会、道路、公園、河(川)、橋、護岸、標識、看板等々、どれをとっても、その形や色彩そして質感は見る者の目にどぎつくはなく、だからいつまでも見飽きることもなく、それぞれがその場所の中にしっくりと、しかも素朴な雰囲気を漂わせて納まっている。それは文字どおり、個と群れとの調和———「調和」の定義は第5章を参照———、個と場所との調和が保たれた姿だ。そしてその個々の物がつくり直されるにも、それまでの形質を壊すことなく受け継がれ、全体としての調和のとれた姿が何十年、何百年と、そのまま子々孫々によって維持され、継承されても来ているのだ。
一方、日本の都市や田舎の集落の姿はどうだろう。既述のとおりである。
どこの都市も、地方の集落でも、こうしたドイツやヨーロッパの姿とは正反対である。
ビルというビルも家々も、その形や大きさや色彩や質感もまったくバラバラ。
街には電柱が乱立し、そこにはこれ見よがしにけばけばしい宣伝広告が貼られている。電線はクモの巣のように道路に覆い被さり、歩く人を圧迫する。看板も、目につきそうなところならどこにでも立てられ、携帯電話のための電波中継塔や高圧送電用鉄塔は、ただ「便利さ」のために、周辺住民の人体への影響など全く考慮されずにいたるところにそびえ立ち、道路には白く浮き立つガードレールやカーブミラーがここかしこに設けられ、道路面上には意味も判らない白線が至る所に引かれ、場所によってはガラス破片が混入されているのか、キラキラ光る道路さえある。
これらはどれも、控えめということはなく、また全体との調和への配慮もまったく見られない。その露骨さ、あからさまさ、どぎつさは人々の感性を麻痺させるだけなのだ。そしてそれらは、人々の視界を遮り、見る人接する人の心までけばけばしくさせる。品位などどこにも感じさせない———実はそれは、住む人の心の有りようとも連動して、心の穏やかさ、やさしさを失わせてもいるのだ、と私は思う———。
そしてそうした家々の幾つかも、その他の建築物も、昨日まであった姿が消えたかと思えば、その直後、それまでとはまるで違う姿形や色彩や質感の建築物が、突如として出現する。
それは住む人にとっても余りに落ち着かない。人が勤めを終えて、あるいは学校を終えて帰宅したとき、思わずホッとできるのは、そこには昨日と変わらぬ様の我が家があり、それが迎えてくれるからであろう。もしそんな我が家が、帰るたびに外観を変え、内装を変えていたならどうであろう。「落ちつく場」、「気が休まる場」となるだろうか。「我が家」と思えるだろうか。
それは、自分の「居場所」の有無を言う以前の話だ。
結局のところ、そうやって日本の都市は、どこも、都市の姿に「経済の活性化」は不要なのにそれのみを持ち込み、全体としてはバラバラで無個性、人間的な暖かみの感じられない、むしろ殺伐とした雰囲気を醸し出してしまっている。そしてそれがまた、住む人々、行き交う人々の感性にも、心の有りようにも、日々、働きかけ続け、人々をいっそう互いに孤立させているのである。
ところで、同じ憲法条文の中にありながら、互いに鋭く対立し矛盾する概念であった「公共の福祉」と、とくに土地についての「財産権」あるいは「所有権」については、19世紀以降のヨーロッパはどうやって克服してきたのであろう。それを見てみる。
ヨーロッパ諸国は、このようなとき、次のように2つの側面から立体的に観察して結論を引き出して来たのだと言う(篠塚昭次「土地所有権と現代 歴史からの展望」NHKブックス)。
先ず、「都市計画」ないし「国土計画」が地域住民または国民全体の福祉を直接の目的とするような「社会的事業」であるか、それとも個別企業または総資本の利益を直接の目的またはそれと同質的な目的とするような「営利的事業」であるかを検討する必要があるのだ、と。
つぎに、提供(収用)を予定される土地が所有者にとって「生活のかかっている土地」つまり「生存権的財産権」であるか、それとも「大土地所有」またはそれに準ずる「自由権的財産権」であるかを検討しなければならないのだ、と。
その上で次の4つの場合が想定されてくるのである。
第一に、「社会的事業」のために「自由権的財産権」を提供させること、は条理にかなったことであるとして土地を提供させる。
第二に、これとは反対に、「営利的事業」のために「生存権的財産権」を提供させること、は条理に反していようからその場合には土地は提供しなくともよい、とする。
第三に、「社会的事業」のために「生存権的財産権」を提供させることは、社会保障制度の充実度によって条理にかなったりかなわなかったりするから、社会保障制度の面を考慮して土地を提供してもらうかもらわないかを決める、という。
第四に、「営利的事業」のために「自由権的財産権」を提供させることは、両者の間に「持ちつ持たれつ」の相互依存関係が本質的に認識できるならば取り立てて困難な問題は生じないと考えられるから、その場合には双方に土地を提供してもらうか否かは任せる、とするのである。
ヨーロッパでは「土地所有権」が「公共の福祉」とぶつかった時にはこのようにして解決して来たのである。今日、ヨーロッパに見られる都市の姿はその結果なのだ。
実はヨーロッパにこうした考え方ができる根底には、土地の所有と利用の仕方に関して、日本とは本質的に異なる次のような明確な思想があるのである。それを日本と比較してみる。
なお、ここでは、東西ドイツがまだ統一される前の資料に基づいていることをお断りする。
【ヨーロッパ(とくに旧西ドイツ、フランス、スエーデン、イギリス)】
①土地は人間にとって不可欠なもので、増加させることは出来ない。それに、一度壊すと再生できないものを、自分でつくったものと同じに扱うことは理にかなってはいない。
したがって土地に対しては、他の財産よりもはるかに強く公共の利益による制約が働くのであり、その利用を個人の任意に委ねることは許されない。
②土地の自由な商品市場への放置は、地価の高騰を招き、それは土地の高密度利用や個人の不当な利益をもたらす。それは市民の共同体である都市に対する挑戦であり、個人の平等に対する挑戦でもある。
③したがって、土地市場に対する国家の介入は必然であり、①で見た土地商品の特異性からして正当である。
そして、土地の自由な商品市場の都市および個人に対する挑戦は、都市(という共同体)が土地を取得すること、および都市が建築をコントロールすること、つまり建築に不自由をもたらすことによって初めて防衛される。
④都市が、都市および個人を保障するためには、法律が制定されねばならず、都市による土地取得および建築規制は、土地所有権から建築権を分離することによって、その思想的な、そして実定法的な基礎が与えられる。
【日本】
①土地の利用権を強化することによって人間の生存権が維持される。
②土地所有者の当該土地の使用・収益・処分については絶対的自由の権利が保障される。
こうしてみると、私たち日本人は、日本(人)とヨーロッパ(人)との間では、人間が互いに人間としてよりよく生き、幸せを感じて生きて行けるようになるためには、何をどう考え、どうすべきかという、物事に対する考え方の幅の広さと奥行きの深さと思考の柔軟さにおいて、格段の違いがあることに気づかされるのである。
そしてそこには、やはり、世界に先駆けて近代という新しい時代を切り開き、新しい文明を確立させ、それを持って世界を牽引してきた人々と、自分では新しい文明を切り開こうとはせずに、他者が築いたものを、彼らがどうしてそうした時代と文明を築いたかその根本の動機や思想を彼らの歴史とともに理解しようともせずに、手っ取り早く取り込んでは、常にうわべだけを見て、それを真似し、あわよくば彼らのレベルを超えることにこそエネルギーを注ぎ、それを進歩と錯覚しては生きがいを見出してきた損得だけに拘ってきた人々、そして今だに拘り続けている人々との間での、生き方と価値観の違いが明確に現れているとは言えないだろうか。
いま私たち人類は、日本人、ヨーロッパ人、その他の世界の人々を問わず、つまり人種や民族を超えて、人類として共通に、地球温暖化、気候変動、異常気象、生物多様性の消滅といった、どれも私たち人類が史上かつて直面したこともない人類の存続を脅かす大問題に直面している。そしてその深刻度は日に日に深まっている。
しかしそれらの大問題は、今日までの経緯を振り返ってみる限り、主に工業先進国に住む私たちがもたらしてきたものと言える。そしてそれらの問題は、私たちがあらゆる経済活動と暮らしを通じて、土壌を、水質を、大気を汚染するようなことを至る所で為し、結果として広く物質の循環を滞らせ、あるいは遮断するようなことをしてきた結果でもある。
しかもこうした人類に脅威をもたらし、その死活にも直結する大問題を生じさせている最大の原因をつくっているのは、ほとんどが、人間が集まり住む都市であり集落であり、それらを結ぶ通路———陸路と空路と海路———だと考えられる。
このことは、人類の存続を考える時、単に温室効果ガスの総排出量を抑えるということだけではなく、土地の利用の仕方そのものをも、人類全体として同時に考え直さなくてはならないことを示唆しているのである。
そしてこのことは、少なくともこれからは、土地の私的所有はもちろん公的に所有する場合にも、自然は人間が幸福になるためのものという価値観はもちろんのこと、土地は人間だけのもの、人間のためにあるものという価値観をも、資本主義経済と社会主義経済といった経済システムの違い如何に拘らず否定されねばならない、ということをも示唆している。
その場合も、ただ否定されれば良いというだけではなく、土地は人のみならず他生物も共存する場であるとの考え方を包含した価値観へと止揚されて行かねばならないということである。なぜなら、結局はそれが人類存続にとって、《生命の原理》を実現させる方向にも、《エントロピー発生の原理》を実現させる方向にも合致するからである。
つまり「土地は人のみならず他生物も共存する場であるとの考え方を人類が共有すること」が人類共通の大義の1つともなる、と考えられるのだ。
「規制」とか「計画」というものが土地を含んで理解されているところでは、厳密な意味での「土地所有権」あるいはその「絶対性」という概念は成り立ち得ないということである。なぜなら、「土地所有権の絶対性」がまかり通っているところでは、そもそも「計画」とか「規制」は成り立たず、無意味とならざるを得ないからだ。「規制」または「計画」は土地の独占的・排他的支配を否定するところから、あるいは否定を前提に、出発するからだ。つまり、「規制」や「計画」は、「土地所有権の絶対性」とは「絶対的に」矛盾するのである。
この日本という国では、どの都市、どの地域においても、その都市・地域の「計画」とか「総合計画」なるものを掲げているが、それは、既述のような動機と経緯によりつくられる物であって、それ自体は、これまでの文脈から明らかなように、決して実行し得ない性質のものだ。
つまり中央政府の一省庁である総務省は、国内の全市町村にそんな国民の金の無駄遣いをしょっちゅう強いているわけである。それも自分たちの省庁の存在意義と権力・権威を全国に知らしめたいがためだ。———中央政府の一省庁のこうした無意味で無駄な国民への強制がまかり通ってしまうのも、すべて、この国が本物の国家ではないことに起因する。
国家ではないとは、ここでの土地所有権に関して言えば、合法的で最高な一個の強制的権威を持つ者であるはずの内閣総理大臣が、土地所有権の絶対性を自分たちが恣意的に活用できる状態を維持しながら土地行政を司る国土交通省と、地方公共団体に対して自治の本旨を説きながら、実際には自主財源を確保する権限と計画権限を相変わらず与えずに、つまり真の自治体とはしないまま、むしろ自分たちの既得権力と権威を維持するために自分たちの恣意を押し付けることしか考えない総務省とを、「縦割り」というこれまでの互いに疎通がなくバラバラな状態のままに放置するのではなく、両省の官僚の全員に向って、各自は真の「全体の奉仕者」として、国民の福祉の向上のために現行憲法の第29条の全3項目を厳正に履行せよ、と指示し統轄しないことを言う。あるいは官僚が今していることとその意味や理由を、国民に国民が納得行くよう説明せよ、と関係官僚の全員に向かって指示しコントロールするという、説明責任の中枢を担わないことを言う。
それは言い換えれば、政治家、とくに執行機関である政府の中枢の内閣を構成する総理大臣と閣僚が、主権者から負託された権力を正当に、そして公正に行使して自分たちの本来の最大の役割と使命を果たすということを、まったくと言っていいほどにしていないことを意味する(第2章を参照)———。