LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

12.5 税金の使途と使われるべき優先順位

f:id:itetsuo:20210923100314j:plain

 これは著者(生駒)の稲田です。
農薬も化学肥料も全く用いずに有機肥料のみで育てた稲です。

ご覧の通り、それでも、農薬や化学肥料を使った周囲の稲田と比べて、遜色のない稲を育てられるのです。収穫も間近です。

12.5 税金の使途と使われるべき優先順位

 今この国は、中央政府と地方政府の両方を合わせたいわゆる国全体の借金である政府債務残高は1122兆円、それの対GDP比は237%となっている。この額がどれほど異常な額であるかは、それは、日本国民の内、働ける者全てが、2.37年間、飲まず食わず働いて返済しなくては返済し切れない金額だということだ。

 比較の意味で、世界主要国ないしはEU加盟国について、それぞれの国の政府債務残高の対GDP比を見るとつぎのようになる(2019年10月IMF“World Economic Outlook”より)。

アメリカ108%、イギリス85%、ドイツ56%、フランス99%、カナダ85%、イタリア134%(以上は、2019年度見込み)、ギリシャ189%、スペイン116%、ポルトガル149%(以上は2015年度)。

 これから明らかなように、日本の対GDP比は、EUの中で財政破綻を起こしたとされるギリシャやスペイン、イタリアの比どころではない。群を抜いて最悪なのだ。しかもその借金総額は毎年増え続けている。

 

 なおここで、各国間の対GDP比を比較する上でも、注意しなければならないことがある。

それは、そもそもGDPとは、これまで、「経済成長」を計る際の指標として国際的に共通に用いられて来たもので、国内で生産された物やサービスの総額を指すとはされているが、要するに、金銭の流れを生む人間の行為のすべてを、その内容のいかんに拘らず計量した値であるということだ。だからそこには、環境破壊行為など、人間の生存にとってマイナスとなる人間の経済行為も、世界に悪名高い日本のODA(政府開発援助)も含まれている。つまり、GDPとは、人間や社会や自然にとって、プラス面とマイナス面の両方の人間の経済行為がごちゃ混ぜに金銭表示された指標なのだ。

 したがって、そもそもそんなGDPを以って「経済成長」を計る指標とすることが果たして正しいのか、むしろその意味で、「経済成長」を計る指標として何がふさわしいか、再検討が必要なのではないかという疑問が湧いてくる。と言うより、そもそも経済とは、そしてその経済が成長するとは、一体どういうことなのか、ということだ(4.1節での「経済成長」についての私の再定義を参照)。

 GDPにはそうした問題が含まれているということを念頭に置いた上で、では日本だけがどうしてGDP比がこうも突出しているのか、ということである。

ところが、そこを、財政学の専門家も、もちろん政治家も、少なくとも私が見る限り誰も、真正面から問題にしようとはしないのである。

 なぜか。それは、そこを追求して行くと、どうしても、この国は民主主義議会政治がきちんと行われてはおらず、官僚主導の、というより政治家が政治や行政を実質的には官僚任せにしている結果、官僚による独裁が行われている国であり、そしてこの国はやはり統治体制の不備だらけの、本物の国家ではないから、という答えを引き出してしまうことになるからではないか、と私は思うのである。それは、財政学の専門家にとってはもちろん、特に政治家にとっても不都合な答えのはずだからだ。

 日本だけがどうしてGDP比がこうも突出しているのかという問いに対する答えについて、言い方を変えるとこうも言える。

 この国では、国民の代表であるはずの政治家が国民に仕えることを本来の使命とする官僚すなわち役人をコントロールもできなければ、したがってまともな政治を行うこともできず、むしろ実質的には、官僚がこの国を動かすことを放置し放任しているからだ。

つまり政治家たちは、国民を裏切理、民主主義を裏切って、この国を官僚に乗っ取らせたままでい、しかも、国会議員であれ、政府の首相・閣僚・首長であれ、実質的にはただ役人に追随し、彼らの作ったシナリオの下で動いているだけだからだ、と。

 その上その官僚たちは、自分たちが公僕であることなどハナから無視し、国民の利益や福祉の実現など眼中になく、既得権益天下り先を含む、自分たちの利益を確保し拡大することを最優先し、それを不断に実現するために、常に、果てしなき経済成長とか果てしなき工業生産力の発展のみを、表向き、それこそが、日本の国力を増強する唯一の方法なのだと信じて、最優先事項としてきたからだ、と。

 このことの意味を分解して、言えば、次の5つになると私は思っている。

 1つは、政府を構成する各府省庁の官僚が、一般会計予算にしても、特別会計予算にしても、自分たちが所属する府省庁にとって好都合となるように、勝手に予算案を決めているからである。

 ここで言う「自分たちが所属する府省庁にとって好都合なように」とは、所属する府省庁の既得権益を守り、さらにその権益を拡大できるように、という意味である。そうすることで、彼らが所属する府省庁の専管範囲の産業界を保護しては恩を売り、その見返りとして、彼らと彼らの先輩官僚の「天下り」先や「渡り鳥」先を拡大したり確保したりできるからである。またそれによって、そのような予算を組んだ官僚は、その所属府省庁内で評価されて、出世に繋がるからである。

 つまり、そういう意味では、この国の政府を構成する各府省庁の官僚は、適用される法律は存在しないから罰せられないことをいいことに———この国の政治家は、官僚に依存していたいから、官僚にとっては不都合となることが判っているこのような法律も依然として作らないのだ————、専管範囲内での産業界との間で、戦後ずっと、言ってみれば贈収賄を公然の秘密として繰り返して来ているのだ。官僚が専管範囲の産業界に対して便宜を図るという「贈賄」をし、産業界はそれを「収賄」する。つぎは、産業界が「天下り」官僚を高待遇で迎えるという「贈賄」をし、官僚がそれを「収賄」するという具合にである。

 2つ目の理由は、政府を構成する府省庁の間には横の連絡がなく、つまり「タテ割り」が当たり前とされて来たために、まったくバラバラに、そして時には重複して予算(案)が組み立てられているためである。つまり国民の血税の内の巨大な額が行政機構の「タテ割り」によって無駄遣いされてきているからだ。

 3つ目は、各府省庁の官僚には、というよりこの国の中央政府と地方政府の役人のほとんど100%近くは、国民から納められた税金とその使途に関しては、コスト意識など、まるでないからだ。つまり、「このお金は国民の血税であるから最大限有効に使わせてもらわねば」という意識も、また「コストを最大限抑えよう」という意識もないからである。

 なぜそうなるか。理由は大きくは二つあると私は考える。1つは、彼ら役人にとっては、自分たちの活動資金となるそのお金は、毎年、決まった時期に、ほぼ決まった額、黙っていても、手元に届くからだ。1つは、何と言っても、彼ら官僚を含む役人一般は、民間企業の社員のように、社長の経営方針の下、コストをギリギリまで削る努力をして、最大利益を上げなくてはならない、そうしなくては会社も成り立たなければ、自分たちの給料ももらえなくなる、という必死の体験を全く持っていないからだ。

 4つ目は、国会を含む議会一般での議員の怠慢と無責任に因るもので、国民から選挙で選ばれることを自ら望んで、公約を掲げて立候補し、その公約が支持されて政治家となった者が、その代表としての使命である、その公約を、予算をも含めて、議会で、議会としての公式の政策として実現してみせるということもまったくしていないからである。

 5つ目は、執行機関である、国の中央政府と地方政府の政治家の怠慢と無責任に因るもので、既述のように、議会が議会としての使命を果たさないことをいいことに、政府が代わりに予算案を含む政策案を作り、それを議会に上程するにも、総理大臣が閣僚を経て、または首長が、予算案を作る段階での予算の組み方について、税金の使途に関して、民生と産業界に対して、各方面の知識人の力と助言を借りながら自らが優先順位づけをして、それに基づいて、配下の役人に対して明確な指示と統括を行わないからだ。

たとえば、『前年度の税収はこれだけだったから、今年度はこの範囲内で使途を考えよ』という指示をしないからであり、また、『この分野には予算を多く配分し、その代わりあの分野は、国民生活への影響は少ないから、あるいは緊急性が低いから、思い切り削るかゼロにしろ』といったように、である。

 つまり、首相も首長も、国民のお金の使途を決める、あるいはそのお金の集め方を決めるという、国家運営上、あるいは地方自治体運営上、最も重要な役割を、役人に任せっ放しで来たからだ。

 言い換えれば、国や地方自治体の最高責任者兼指導者でありながら、国民・住民のお金の使途について優先順位を付けられないということである。そうなるのも、首相や首長の役割と使命、そしてその限界が、憲法上にも明記されていないからだ。

 その結果、各府省庁の官僚は、それをいいことに、国民が納めた税金の使途だけではなく国民が納める税金の種類も額も、実質的には自分たちに都合のいいように決めてきたのである。たとえば、官僚が目論んだ大規模公共工事とやらを政治家がコントロールして止めさせ、その財源を回せば「消費税」など簡単になくせるのに、である。それだけではない。その財源を教育行政にも福祉行政にも回せば、日本の教育の質も福祉の質もどれだけ向上するか知れないのに、である。

 

 ところで、日本国憲法も世界の憲法と同様に、国民には「納税の義務」を課してはいるが(第30条)、さりとて税金を徴収する国家あるいは国家の代理として行動する政府に対しては、徴集した税金の「使途」について、取り立てて、このように使われなくてはならないといった条文はない。例えば、国民の「生命・自由・財産」を最優先に守るために使わねばならない、といったことも。

 そうしたことも遠因となり、この国は、戦後の「果てしなき経済発展」という暗黙の国策の下で、とくに田中角栄の「日本列島改造論」以降、異様なまでの土建国家と化し、日本中の野も山も川も、意味もなく必然性もない破壊が行われ続け、いまや小学校唱歌「ふるさと」で歌われた面影を残しているところも全くと言っていいほどに見られなくなってしまった。

 確かにそのことにより、一時は世界も瞠目するほどに経済は発展した。しかし、では納税の義務を果たしている私たち日本国民は、それで本当に幸せになり、心豊かになったと言えるかといえば、「ジャパン アズ ナンバーワン」と言われ、アメリカを凌ぐかもしれない「経済超大国」と呼ばれた時でさえ、私たち国民の生活実体は「富める国の貧しい国民」と、海外からは哀れみと揶揄をもって眺められていた。

 つまり、国土が焦土と化した戦後の復興が急がれていた時ならばともかく、国民一人当たりのGNPもGDPも世界が目を見張るような規模になって、経済復興そして経済発展の目的も世界のどの国の誰から見ても十分果たし得たと見られた後も、この国の議会も政府も、その方向一つ変えられず———それも官僚依存で来たからである————、今もなお、目ざす明確な目的地も達成レベルも定められないまま、ひたすら「果てしなき経済発展」を目ざし続けているのである。

 地球が激変し、世界が激変している中で、政治家も官僚も、皆、為すべきことが何かということが皆目分からなくなってしまっているということもあろう、今まで先輩たちがやって来たことをやって来たとおりにただやっているだけなのだ。文字どおり惰性で動いているだけで、そこには将来を見通そうと努力する姿も、専門家たちの意見を幅広く聞いて、それを政治に生かそうという姿も、全く見られない。

その結果、もはや不要不急どころか無意味、あるいはかえって将来に禍根を残すことがはっきりしている事業すらも、再検討することもなく、突っ走ろうとしている。そうしては莫大な借金を累積させ続けているのである。

 つまり、私たちの国日本の戦後は、ある一時期から、政治家も役人も一緒になって、徴税の仕方も、徴税の額も、徴税した税金の使途についても、優先順位を完全に間違えて来たのだ。いえ、間違えて来たのではない、優先順位を付けるという発想そのものがなかったのだ。

 国家の運営は税金によって成り立っていること、そしてその税金の使い方如何で、今と将来に向けての国と国民の運命が決まることを考え、しかもその税金は、憲法でいうところの「財産権の保障」(第29条)を侵してまで国民から剥奪したものであることを考えると、その使途については、当然ながら、納税者にとって最大の利益と最大の幸福をもたらすような使われ方がなされなくてはならないはずである。そしてそれは、国民の利益代表である政治家によって、選別と決定がなされなくてはならないのだ。

そしてその場合も、そこには、何人も納得しうる明解な理念が通っていて、明確な原理と原則に基づいた優先順位がなくてはならないはずである

当然ながらその場合も、そこには国民に仕えるシモベとしての官僚たちの都合や恣意性など入り込める余地など全くない。

 

 ではその場合の理念とは何か、優先順位はどんな原理と原則に基づいて定められるべきか。

私は、そこに適用される理念と原理と原則こそ既に私が本書の随所にて述べて来たものであろうと考えるのである。

具体的には、その理念とは、「人間にとっての諸価値の階層性」(4・3節の図を参照)に基づいて、この日本という国を真に持続可能な国にすることを目ざすというものである。

原理とはそれを実現するための三種の指導原理、すなわち「生命の原理」と「新・人類普遍の原理」と「エントロピーの原理」である。原則とは、これらの原理を実現させるための「都市と集落の三原則」ということになろう。

そのためには、人間にとっての階層的な価値の体系に基づき、国民の納めたお金を、土台の段階から実現して行くために使って行くようにするのである。そうすることで、無意味あるいは無駄な使い方、あるいは重複した使い方は極力避けられるようになるだけではなく、自然界と社会と人間の全体を体系的で統一的な使い方ができるようになる、と考えられるからである。

 また、そのためにも、再三強調してきたことであるが、執行機関としての役所の、あるいは役所内の各部署間のタテ割り制度は即刻廃止する必要がある。

中央政府の中枢に一個の最高の強制的権力を持った存在を合法化しながら、各府省庁間の情報連絡を強制力を持って円滑にすること、また、全国に起こっている様々な状況や事態に関する情報が、細大漏らさず、速やかに政府の中枢に集まるように、またその反対に、政府中枢から発せられた法に基づく指示や伝達事項が速やかに国中の全政府機関に伝達されるような統治の体制を整えることが不可欠なのだ。

なぜなら、政治家たちが放置したままできたこのタテ割り制度こそ、役所の中の役人たちの都合だけでこの国の自然と社会と人間に対する統治を分断してしまい、行政機構を非効率化させ、その上、巨大な税金の無駄遣いを生じさせてきてしまった最大原因の1つだからだ。言い換えれば、政治家という政治家が、官僚を含む役人一般を、自らの使命と役割としてきちんとコントロールしてこなかった結果なのだ。

 むしろ統治機関としての役所内の組織のこれからのあり方はその逆で、自然と社会と人間を体系的かつ統一的にとらえた行政を行ってゆけるようにすることがどうしても必要なのだ。

 しかし、やはりそれは、この国を真の国家とするということでもある。そしてそれができるのも、私たち国民から選挙で選ばれ、権力を公式に負託された政治家だけなのだ。官僚という公務員ではない。実際これまでもそうだったが、むしろ行政改革の必要性が幾たび叫ばれても、それを事実上骨抜きにしてきたのは、決まって官僚自身だった。

 そこで、以上を踏まえると、私は、税金の使途と税金を投入する際の優先順位とは次のようになるのではないか、と思うのである。

第1位:この日本という国を真に持続可能な国にするために、「人間にとっての諸価値の階層性」に示される各階層の中身を、土台から上層に向けて、順次実現してゆくために投入する。

ただし、その場合でも、国内に生じた大災害や大事故に因り、人命救助を急がれる場合には、それを優先する。

 とにかく、そのためには、戦後間もなくできて、その後、ほとんど改正もされずに来た災害救助法を根本から改定すると同時に、「人間にとっての諸価値の階層性」を着実に実現してゆくための立法をも実現させる。

 

第2位:三種の指導原理の実現を主目的とする「真の公共事業」に投入する場合である

 その場合も、「上から下へ」、「上流から下流へ」、「中心から外側へ」、あるいは全体を樹木に例えるならば、「根元から幹へ、そして枝葉へ」という原則を設けて投入して行く。

なぜなら、上あるいは上流域を先に良くすれば、それの効果は、ちょうど水が上流から下流に流れるように、自然に下流域へと及ぶことが期待できるからである。

それを逆転させて、「下」ないしは「下流域」から着手しようとして税金を投入したなら、「上」あるいは「上流域」に行く都度、新たに税金を投入しなくてはならなくなるからである。それは賢明な税金の使い方とは言えない。

 具体例で言えば、今後、世界では、温暖化・気候変動の中で、水、それも淡水や飲料水を確保することが最も切実な問題となることが予想されるが、その水を確保することを考えるにも、先ずは源流域に着眼する。あるいは源流域周辺の森林に着目する。

その森林を混交林にしながら計画的に管理(間伐、下草刈り、枝打ち等)して甦らせ、「緑のダム」にするのである。

 森がこのようになることの人間とその社会にもたらす効果は計り知れなく巨大なものがある。

 1つは、たとえ集中豪雨に襲われても、それが表土を押し流しながら流れ出るということはなくなり、しっかりと雨水を根本周辺の土壌中に浸透させるだけではなく、森の木々の根は互いに網の目にように張り巡らされ絡み合ってしっかりと土壌を包み込んでくれているから、その斜面は崩壊を起こす可能性も激減する。

 それは、中下流域に土石流が生じる可能性も大幅に減ることを意味し、それだけ中下流域での集落に大災害がもたらすということも大幅に少なくなるということである。

 2つは、そのように森が人の手によって活性化すれば、植生の多様化も実現され、それは森に多様な幸をもたらすことになる。そうなれば、野生動物(熊、鹿、イノシシ、サル、狐、タヌキ、ハクビシン、リス等)に多様な餌をもたらすことになり、中下流域での農地での獣害を激減させられることになるのである。

 3つは、森が「緑のダム」になれば、少々の雨不足が続いても河川の水がそう簡単に干上がることもなくなり、中流域および下流域での稲作を安定化させてもくれる。

 4つ目は、森が活性化すると、それだけ人間が出す温室効果ガスを大量に吸収してくれる。

 5つ目は、森を直接甦らせることとは違うが、ここで、先の建設省、現在の国土交通省が、下流域に洪水をもたらさないようにと、河川(渓流)水の流れを所々でせき止めるために、林野庁とは無関係に、独自に造っては風景を壊して来た無数の堰堤や砂防ダムを解体し撤去するという事業も実施してそこに税金を投入するならば、河川は、源流から河口まで流れをせき止めたり遮断したりする構造物がなくなるから、これと並行して、河川のゴミの撤去作業もすれば、水質は河川全域で一段ときれいになるだけではなく、流れに沿って水生生物の循環やウナギやサケといった回遊魚の遡上も可能となる。

 それは、河口から中上流域、さらには源流域に至るまで、魚類を含む多様な水生生物に拠るタンパク質をもたらすことであり、それはそのまま各流域に棲息する野生生物に安全で安定的な餌をもたらすことになる。そしてその場合、日本中のどこの河川のどこの流域でも、天然のウナギやサケを確保できるようになるかもしれないのである。

 またそのことは同時に、河川の源流から河口付近までのどこでも、その河川水はそのまま流域周辺の住民の飲料水にも容易になり得るということである。それは、今でも多くの市町村で行き詰まっているこれまでの水道事業のあり方やそこへのコストの掛け方を激変できる可能性が生まれるのである。

 なお、建設省国土交通省がいたるところに造って来たその堰堤や砂防ダムは、今やそのほとんどが、大雨の度に上流の荒れ果てた森林から流れ出た土砂に埋まっていて、あるいはその土砂によって水深が極度に浅くなっていて、堰堤という機能を果たし得なくなったまま放置されているのである。

 こうなるのも、他の府省庁の管轄領域に踏み込まないことを互いの暗黙の了解事項とする行政庁相互の「タテ割り」という悪弊が、こうした無意味な事業を行わせ、国民のお金の巨大な浪費をもたらしているのである。林野庁と連係プレーを取るのではなく、山の森が放置された状態の中で、建設省が独自にこのような建造物を国民の金を使って行って来た結果だ。

 つまり、日本中の森という森をこのようにして甦らせ、河川という河川をこのように改修事業をすれば、広い意味で、地球の作動物質である「水と大気と栄養」の大循環を日本列島中に実現させられ、エントロピーの蓄積を抑えられるようになり、それはすなわち日本が、世界から見れば小さい島国ながら、「地球温暖化」抑止とその方法に関して、世界に先駆けて実践的見本を示し得るのである。

 教育面についての公共事業についても、そこへの税金投入順位を先と同様に考えれば、日本の教育の質の向上には絶大な効果が期待できると私は考える。

たとえば、今この国では、家庭での親による子どもへの虐待そしてそれに因る相次ぐ死という痛ましい事件が続発して、政治的大問題になっている。そしてその対策としては、今のところ、周囲も関係部署も監視を怠らず、関係公的機関相互が情報伝達の円滑化を図るという方向に向いているようだ。

 しかし私は、その対処策についてはほとんど効果は期待できないだろうと考える。それは、先の問題の全体を樹木に例えた場合の「根元から幹へ、そして枝葉へ」という原則の観点からすれば、枝葉にばかり目が向いていることであるからだ。そしてそれはあくまでも起った事象への対症療法に過ぎない。しかしそれでは起るたび、起った度にそういう神経を配らなくてはならなくなる。

むしろ大事なのは、起った時どう対処するかではなく、起らないように予防することだ。それの方がよほど確実だし、負担もはるかに小さくて済む。

 ではどうするか。虐待を生じさせる原因を除去するのである。そのためには「根元」に着目するのである。

それは「三つ子の魂、百までも」とも表現されるように、人間形成の出発点である小・中学校の教育の中身であり質に目を向けることである。

 この国の現行の学校教育の実態については、既に述べて来た(10.1節と10.2節)。

 その教育は、一人ひとりの個性や能力を伸ばさず、自由を抑え、瑣末で恣意的な校則を押し付け、その中でスポーツを通じて団体行動を重視することを強制しつつも、画一テストでは競争を煽り続けるものであるだけに、半ば必然的に児童生徒の心を歪ませてしまう。表向きはごく「普通の人」「いい人」ではあっても、内面には、打算や裏表、本音と建前で動く大人社会への激しい憤りや憎悪、怒り、反抗心、欲求不満を生じさせてしまう。

 そして誰も、多かれ少なかれ、そうした感情を内在させたまま大人になって行く。

 これでは、人間、心の底から自分にも他者に対してもやさしい感情は持てるはずはない。相互に信頼し、励ましあう感情がまともに育つはずはない。

むしろいつもどこかに、やりきれぬ感情のはけ口を求め、また攻撃的になってしまう。そしてその感情はつねに自分よりも弱い者に向うのだ。

 私は、この日本でイジメや虐待が起る根本原因はここにあると考える。

学校や社会でのイジメは、主にこうして生じてしまうのではないか。家庭での親の子に対する虐待は主にこうして起ってしまうのではないか、と私は考える。

 そしてそういう行動に出る者は、とかく学校でも社会では抑圧されていて、あるいは自分で自分を抑え込んでしまっていて、それを発散できないでいるのではないか。

 要するに、子どもにイジメや虐待をもたらす根本原因をつくっているのは、日本の、文部省と文科省による教育なのだ。そしてその犠牲者は子どもだけではない。その教育を受けた全ての大人も同様だ。私はそう確信する。

 こう考えれば、先の対症療法は労多くして益するところはほとんど小さい、ということになることが推測つくのである。

それは、ちょうど大気中に拡散させてしまった温室効果ガスを、それを減らさねばとして、かき集めようと走り回っても、所詮ほとんど無意味なのと同じ理屈だ。 

 だから、虐待やイジメをなくすには、人間を育てる根源である教育のあり方を、今、大至急、根本から見直すことである。「急がば回れ」で、それが、イジメや虐待を減らすというよりなくす最も確実で一番早い方法となる。

 だからそうした本物の教育とはどうすることかを、文科省は、「中央教育審議会」に出てくるような「専門家」ではなく、本物の教育者・人格者に教えを乞い、全国規模で、しかし各地域毎のアイデンティティを無条件に認めながら、実践すればいいのである。

 そこに投入する税金の額など、これまでの公共事業に投入されて来た額に比べれば、ほとんどゼロに等しい。しかし、効果は絶大となるはずだ。

 

第3位:「都市および集落に関する三種の原則」を実現させることを主目的とする「真の公共事業」に投入する場合である

 これは、たとえば、これまでの巨大都市を小規模化すると同時に、人口の地方への移転を促す事業に投入するような場合である。

 そして地方には、たくさんの分散型の小都市と集落群を造り、できる限りそれぞれを自己完結で循環型の共同体と成し、生産と消費の距離を極力短縮して、運送エネルギーやインフラへのコストを最小にし、消費エネルギーを最少にするという事業に税金を投入するような場合である。

と同時に、これと並行して、熱化学機関である地球の作動物質である「大気と水と栄養」の自然循環を遮る構造物を撤去または遮断をなくす構造物に改修する事業も実施して行くような場合にも。

 

第4位:私的領域ではあるが、個人の生存権を保障する事業あるいは領域へ投入する場合

 これは文字どおり、全ての共同体内に暮らす全ての住民の、単なる「生存権」の保障に留まらず、人間としてその権利を保障された暮らしができるようにするための事業に税金を投入する場合である。

 それは、その地域や国を守り、支え、そして発展させうるのは何と言っても人であるし、人こそ、老若男女、誰一人とっても地域と国の最高の資源であるからである。

とくに森林を除けばこれといった資源のないこの国では、その意味するところは重い。ところがこの国では、明治以来、政府は国民に対してこうした考え方を採ってはこなかった。むしろ国民をこき使って来た。そして国民の命を軽んじて来た。

 ところが今、その最高の資源である国民の数も力も、どんどん減少しているのである。

 なお、「人間としてその権利を保障された暮らしができるようにする」の中には、当然ながら身障者や病人への、広く言えば社会的弱者一人ひとりの人間としての尊厳を最大限に尊重した医療・看護・介護の質的向上とその維持も含まれることはいうまでもない。

 

第5位:同じく私的領域ではあるが、投入することで大きな公共的成果を期待できる場合

 個人の所有物ではあるが、その人の経済的理由、身体的理由等により、適性に管理したり、整理したり、撤去したりすることが不可能と認められる場合で、しかもそれに税金を投入すれば、私的利益だけではなく、それよりはるかに大きな公共的利益あるいは効果が得られると判断された場合である。

 たとえば、大量のゴミが不法に投棄されている私有地とか、またそこに投棄されている物がとくに毒性のある重金属などであったりした場合、あるいは、経済的理由等により放置されている私有林などで、そこに税金を投入して然るべき事業をすれば、地域の人々の生活の安全が確保されるようになるだけではなく、生態系も甦り、公共的に多大な効果を期待できるような場合である。

 

 こうして、もはや自明のことであるが、公共的領域へ投入するとは言っても、本質的に「真の公共事業」とは正反対で、自然や社会をかえって駄目にし、官僚たちの利益にしか結びつかない従来型の「公共事業」にはもはや一銭の税金も投入しないようにするのである。

 だたし、既設インフラストラクチャーで、老朽化してしまい、すぐにも改善しなくては多くの人の命というよりは暮らしに関わるという場合には、税金の投入順位は第1位に準ずるとする。

 

 以上が税金が使われる際の大局的に見た際の私の考える優先順位であるが、ここで、徴税の仕方と額と時期についても、私案として補足しておきたいと思う。

 これまで、この国では、国税にしても都道府県税にしても市町村税にしても、いつも、税を納めることと税を取り立てることしか問題とされて来なかった。そして納められた税金の使途とその優先順位についても、徴税者は納税者に事前に説明して来ることはなかった。

政治家も、国民から選ばれていながら、国民の納めたお金の使途について公式に国民の要望を聞くということも、戦後一度としてして来たことはなかった。

が、これからは、既述のように、税の使途も優先順位も議会が責任をもって定め、定めたそれを政府に厳格に施行させると同時に、徴税の仕方もまたその額も時期も、議会が見直し、そして定めるべきだろう、と私は思う。

そうでなくとも徴税ということは、財産権の保障憲法第29条)を政府自身が侵すことでもあるからだ。

つまり、日本国憲法は、第29条と第30条では、互いに矛盾したことを言っている。

したがって、主権者であり納税者でもある国民がその矛盾を納得して受け入れられるようになるためには、徴収した税金を、納税者の利益と福祉のために常に最優先に生かすことを目的にして、徴税の前に先ず事業計画あり、という本来あるべき徴税の原則を議会が議会として貫くようにするべきなのだ。

そしてその事業計画は、政治家が主権者の要望を直に、そして公式に聞き、それを汲む形で議会で政治家どうしで、その場合、必要ならば各分野の専門家の意見や助言を仰ぎながら、しかし役人はそこには一切介在させずに、制定する。

 事業の内容と種類は、先の「人間にとっての諸価値の階層性」を考慮し、バラバラではなく、統一的かつ体系的観点から、そして上流域から、相互に関連性を持たせたものとする。

 事業の内容と種類が定まり、そして各事業計画も定まり、事業規模が明確になって後に、その事業を実現しうる予算も、専門家の力を借りて決定する。

 さらにその場合、その事業を実施したときに期待される成果や効果についても、専門家に教えを乞い、事前に主権者に説明する。

 それは、「納税は国民の義務」(憲法第30条)という前に、徴税側も「税の額だけではなくその使途とその優先順位をも明確にする義務」を負うべきだからだ。

 後は、議会が決めたそれらを執行機関である役所に回し、政治家のコントロールの下で、議会が決めたとおり執行させればいいのである。

 なお執行させたとき、実際にはどういう成果が得られたか、または得られなかったのか、得られなかったとすればその原因・理由は何だったのかということも、議会が、あるいは政治家が責任をもってチェックすると同時に、担当した役人をして全納税者に対してそれを説明させるべきなのだ。

またそのためには、役所の担当職員も、途中で異動することなく、自分が担当する事業が完了するまでは、その事業に張り付いて全責任を持つようにする。

 今は、役所では、担当者が関わっている事業の進捗度に無関係に、一般に、2〜3年で人事異動してしまう。それはまずい。“どうせ、途中で異動になっちゃうのだろうから”と、自分の着手した事業に最後まで責任をもって成し遂げようという気持ちを持たせなくさせてしまうだけではなく、“少々いい加減なやり方をしても、異動してしまえば、責任の所在もうやむやになって、追求されることもなくなるだろうから”という思いにもさせてしまいやすく、それは担当者自身の実力養成・人格陶冶にもならないし、ますます行政への人々の信頼は薄らぐ結果となるだけだからだ。

 要は、国家と地域共同体の運営にとってもっとも重要な納税も徴税も、すべて、納税者に納得行くよう透明性をもって明確になされた後にされるべきなのだ。

そしてこうしたことを被統治者である国民と統治者である政府双方が実施できるようになるためにも、どうしても「都市と集落の三原則」をも実現する必要があるのである。