LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

13.9 外交

13.9 外交

 これからの「環境時代」における日本の外交はどうあるべきだろうか。そしてその外交とは、特にどういうことに力点を置いてなされてゆくべきなのだろうか。

 その場合、先ず明らかに言えることは、日本の外交は、これまでのような、常にアメリカの顔色を窺いながらアメリカに追随する外交、アメリカを後ろ盾にしての外交であってはならない、ということである(「『対米従属』という宿痾」鳩山由紀夫孫崎享植草一秀 飛鳥新社)。

 その理由をざっと挙げればこうだ。

まずは、私たちの国日本は、曲がりなりにも、1951年に、サンフランシスコ講和会議において、世界から公式に認められた独立国なのだからだ————とはいえ、その場合、残念ながら主権国ではあっても、すでに随所で述べて来たように、未だ主権国家にまではなり得てはいなかったし、そこで結ばれた講和条約そのものも、当時すでに始まっていた米ソ間の冷戦により、アメリカの国益を第一にすることから、日本は真の独立を承認されるものとはならなかったのだけれども————。

主権国、それは、他国に従属せず、自らの国内・国際問題を独立して決定できる国のことを言う(広辞苑第六版)。

 そして、アメリカは、これまで、特に第二次世界大戦後、1.1節にも記して来たが、世界に対して、どのような戦略をもって臨んできたか、またその結果、世界はどのようになり、そして今日に至ったか。それについても、しっかりと目を向けなくてはならないと私は思うからだ。

 それに、ソ連が崩壊して東西冷戦が終了後、ソ連崩壊後誕生したロシアはもちろん、冷戦後唯一残った超大国アメリカも、もはや世界を束ね、リードする力と信頼を失い、その結果、世界は、これまでの米ソ陣営からの束縛から解放されたため、民族対立や宗派対立が世界のあちこちで起こるようになり、平和を回復できるどころか却って世界は無秩序化の様相を深めてしまっていることだ。

 そんな中で今度は中国の急速な台頭だ。その中国はかつてのソ連社会主義とはまた違った、社会主義の中に資本主義をも取り込んだ経済の下で、習近平を頂点とする共産党一党独裁による専制主義を強化している。自国民への統制と監視はもちろん、漢民族とは異なるウイグル民族への弾圧と拘束そして洗脳政策がそれだ。そうした政策は当然ながら、自由や民主主義を「人類普遍の価値」と標榜するアメリカとそれに賛同する世界と対立してしまう。

しかもその中国は、いわゆる「一帯一路」政策の下、表向きは相手国、とりわけ途上国を支援するかのように見せて、実は「債務の罠」を仕掛けることによって、その相手国に巧妙に中国側の利権ないしは領土を拡大しようとしている。

また日本を始めアジア諸国の領海をしきりに侵犯してもいる。

 こうした状況から、世界の人々の人権とともに、経済力や軍事力の覇権までもが中国に脅かされると見たアメリカは、今度は、中国との間で事実上の新冷戦を始めている。

そしてそうしたアメリカの態度に後押しされる形で、日本も、その中国に対抗して、「自由で開かれたインド太平洋」なる呼びかけを世界に発信している。インド洋や太平洋は公海ゆえ、船舶の航行は自由で開かれているべきだ、というわけである。

 しかし、これからの日本の外交は、これまでのような、常にアメリカに従属あるいは追随する外交であっていいはずはないとする理由はもっとある。

そしてその理由の方が、実はこれからの世界、これからの人類にとってはもっともっとはるかに重要なことだと私は考えるのである。

それは、一言で言えば、私たち世界人類全てがそこに乗り合わせて、運命共同体となっている宇宙船地球号の自然は今、まさに、人類をはじめ地球上の生物が生きてはゆけない状況になりつつあるからだ。

そうした状態をもたらしているのは、広く言えば地球環境問題であり、狭義には、主として、地球温暖化およびそれに伴う気候変動と生物多様性が失われて行っていることである。

 つまり、今この時点では、国家間や民族間そして宗派間での互いの利益をめぐっての対立や紛争あるいは覇権争いなどは、宇宙船地球号の危機に比べたならほんの些細な問題でしかないのだからだ。と言うより国家間や民族間そして宗派間でのそれは、よく観察すれば、国民が自発的にそう望むからというのではなく、ほとんどは、権力者や支配者自身の個人的野心や野望の現れでしかなく、大多数の国民はそれに扇動されているだけなのではないか、とさえ私などは推測する。

 

 そして実はこの、全人類にとっての運命共同体である宇宙船地球号の自然が今や危機にあるという事態を直視することによって、これからの外交は特に何に基軸に置くべきかということが明確になってくると私には思われるのだ。

 もちろんその前に、外交は、単に自国の利益の追求や国防のためだけではなく、相手国の利益になることをも同時に考えて交渉しなくてはならないという外交のあり方の原点を確認する必要がある。

つまり外交は、常に交渉相手国との「調和」を求め、その調和を実現することを通じて自国の求めるところや利益を実現するための交渉ごとである、ということだ(4.1節の「調和」を参照)————そういう意味では、かつて松岡洋介が国際連盟脱退の時に取ったような外交態度は最低だし、論外でもある。実際それからの日本は、世界の中で孤立しながら壊滅的破局へと一直線に突き進むことになったのだからだ————。

 そしてさらに、その外交が外交として意味を持つためには、その外交に当たる者は、国家から全権を託される必要があるということだ。

そしてそのためには、国はどうしても国家となる必要がある。

なぜなら、国家でなかったなら、「合法的に最高な一個の強制的権威」を所持する者がいないわけであるから、相手国と交渉するにも、全権を託されないし、託す人もいなくなるからだ。

そうなれば、一対一の関係でなされる交渉の場で、あるいは一人が諸外国から集まる全権大使らを相手に交渉しなくてはならない場で、交渉担当者————通常は外務大臣、場合によっては財務大臣環境大臣————は自信を持って自分の意見を述べることはできないし、相手の言うことに対して自らの判断力を持って判断し、責任を持って決断することもできない。そうなれば、その都度、問題を本国に持ち帰って、その問題に対してどう対応すべきかを政府内で集団で検討しなくてはならないといった事態になるからだ。

 私が知る限り、例えば、2015年、「パリ協定」がCOP(気候変動枠組条約締約国会議)21で合意される時、その会場に日本から送られた環境大臣丸川氏の態度がそれだった。会場の隅っこで、影を潜めていた、とのことだ。

 ところで、これまで、日本では、「この国には、何をするにも、国家戦略などない」などとはよく識者と自称する人たちによって言われてきたものだが、しかし私はそうした言葉遣いそのものが正確ではなかったと考えるのである。なぜなら、戦略がなかったのは事実としても、それ以前に、この国は、近代西欧が定義づけ、確立された意味での国家であった試しは日本が西欧の文物や政治制度を取り入れたとされる明治以降でも一度としてなかったのだからだ。だから「国家戦略」がなかったのは当然と言えば当然だった。

 そして、もう一つ、その外交が外交としての意味を持ち、事態が進展するためには、予め国家としての目的と目標を明確にし、それらを実現させるための戦略が必要となる————もちろん交渉ごとだから、こちらの言い分がそのまま相手国に受け入れられるとは限らないし、むしろその方が多い。だから、そうあっても対応できるよう、第二案、第三案を用意して臨む必要があるだろうが————。

 ではその場合、国家目的と目標とは何か、そしてそれらを実現させるための外交上の戦略とは、何か。

 実はそれこそが、これからの日本の外交は、どこに力点を置いて展開すればいいのかという問題と重なるのである。

 もちろんその場合、「自国の安定と平和」を求めることを外交姿勢の基本に置くことは言わずもがな、だ。

また、一つの特定の国の側に寄り、その国を支持するような外交ではなく、あるいは特定の国の後ろ盾を前提とした外交ではなく、相手国に対して、常に公正で「調和」を求める立場に立ち、世界平和をも同時に目指す立場を堅持すべきことも言うまでもない。

 またその意味でも、もはや特定の軍事ブロックや経済ブロックにも属すべきではないのではないか、とも思う————そのことは、これも既述した「経済の国際化から国内化、さらには地域化」とも密接に関係していることである(11.4節)————。

 それに、本来、条約というものは、双方の国が独立した主権国家として、互いに対等な立場で結ばれるべきものであるということを前提とするならば、例えばサンフランシスコ講和会議の前後から吉田茂首相(当時)がとった次の外交は、かつての松岡洋介の国際連盟脱退の仕方とは違うが、その後の日本国と日本国民にとって、同じく長引く不幸を招く結果となったのだ。

それは、当時の吉田茂が、アメリカ側(ダレス)の主張する、「我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保」しうることを、正規の手続きを踏まずに、たった一人容認した上で、それをアメリカに実現させてやるために、秘密裏に次々と以下の締結をして行った行為のことだ。

 それは、先ずは、サンフランシスコ講和条約を結び、そしてその日のうちに場所を変えて、日米安全保障条約吉田茂が一人署名する形で結んだこと。そしてその後、その安保条約を具体化するために、後に「日米地位協定」と呼ばれることになる日米行政協定を結んだこと。それに異論を唱えられると、今度は「交換公文」という形で誰にも判らぬようにこっそりとアメリカの先の言い分である「我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保」し得ること、そしてその「望む場所」に治外法権を与えるとすることをやはり一人で認めてしまったことだ(孫崎享「戦後史の正体」創元社 p.143〜153)。

 なぜなら、その外交の仕方そのものが、吉田がどのように弁明しようとも、主権者である国民を完全に裏切り、国をアメリカに売った行為だからだ。

実際、吉田茂のその売国的外交によって、戦後から今日まで、沖縄県の住民が米軍基地の軍人と軍属によってどれほど堪え難い思いを味わされ、屈辱的な扱いを受けて来たことか。

 それに、この国の歴代政権の長————例えば安倍晋三菅義偉————は公式の場で、よく平然と「自由と民主主義は人類普遍の価値」とか「法の支配」を口にしてきたが、実態は自由の真の意味も、民主主義の真の意味も、法の支配の意味も知らないものだった。

こんなことで、まともな外交ができるはずもない。

 また中国外交を評して、日本の政治家はよく「一帯一路」構想には「債務の罠」が仕掛けられていると言うが、そしてそれは確からしいが、それを言うのであれば、日本の政治家は日本政府にも、ODAと呼ばれる政府開発「援助」のあり方を変更させるべきであろう。これまでの援助のあり方は、そこに参加する自国産業に利益を還流させるやり方であって、相手国が経済的にも文化的にも本当の意味で自立できるような援助のあり方ではなかったからだ。

 私は、こういったことが、少なくともまともな外交、世界に通用する外交をする上での前提条件となると考えるのである。

 

 では、この日本が、これからの環境時代の外交において、どこの国と外交交渉するにも、成り行き任せではなく、特にその基軸に置くべきこと、念頭に置くべきこととは何であろうか。

実は私はそれこそがすでに拙著の中で明らかにしてきた二つの指導原理としての《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》ではないかと思うのである(4.2節と3.1節)。

なぜなら、既述したように、私たち世界人類の運命共同体である宇宙船地球号の状況が今、まさに、その表面上に生きる人類をはじめとする地球上の全ての生物が生きてはゆけない自然の状況になりつつあるからだ。

そしてその人類と他生物にとっての共通の危機を真の意味で、あるいは究極的に救えるのは、私は、今のところこの二原理しかないのではないかと思うからだ。

少なくとも、最近、メディアでも頻繁に取り上げては話題にする、国連が掲げたSDGs(Sustainable Development Goals)では決してない、と考えるからである。

SDGsはアリバイ作りのようなもので、目下の危機から目を背けさせる効果しかない」(斎藤幸平「人新世の『資本論』」集英社新書p.4)と私も考えるからだ。

 なおここで再度確認しておくが、上記指導原理で言う「原理」とは、「社会」あるいは「自然」の中を貫いてそれらを成り立たせている人智・人力を超えた理(ことわり)であり掟であり法則のこと。あるいは、あらゆる現象と矛盾のないことを言い表していて、真なることを証明する必要のない命題のことである。だから、原理とは、人間の都合によっては変えることのできないものなのである(4.1節の「原理」の定義を参照)。その意味で、それは原則とは異なるものだ。

 こうして、少なくとも日本のこれからの外交は、何をテーマにする場合も、これまで述べてきた外交の基本を前提に、この二つの指導原理に依拠しながら、相手国との「調和」を探りながら根気よく双方が求める状況を実現してゆくことが求められているのではないか、と私は考える。

これからの時代、先進国であれ、途上国であれ、あるいは新興国であれ、大切なことは単なる経済発展ではないのではないか、と力説しながら。そして、物質的には豊かになった先進国の人々は今本当に幸せな状態か、また物質的には豊かになった先進国は、私たち人類がここでしか生きられない地球の環境に何をもたらしているか、それをしっかりと見ようではないか。むしろ、物など少々なくとも、少々不便でも、個々の人間が、豊かな自然の中で、互いに人間らしく、安心して暮らして行ける社会の方がどれほど豊かで先進的か、とも力説しながら。

 

 とにかく、一度でも宇宙を飛行した飛行士は言うではないか。「地球は青かった」と。

また「国境などどこにも見えなかった」と。

今は、国境を隔てて領土拡大のための争いや領土紛争を起こす時ではない。

それに、核弾頭や核ミサイルについても、そんなものが本当に必要で、役に立つものなのか、今こそ、世界の首脳は深く考えなくてはならないのではないか。

 人間は誰も、勘違いをし、間違いを犯すものである。誤算したり、誤報を発したりもするものだ。特に、状況が緊迫してきている時には、何が引き金になって、どこで戦闘が始まるか、誰にも予測はできない。そしてそうなれば、もはや誰も制御できない形で開戦、そして全面戦争ということにもなりかねない。ましてや代理戦争ではなく大国どうしが直接戦うとなれば、

これからの戦争は、間違いなく核弾頭や核ミサイルが使われるだろう。

そして、どちらかが「先制攻撃」などと言って核ミサイルや核弾頭を一発でも発射したなら、瞬く間に世界戦争へと発展し、核の打ち合いとなって、人類は滅びる。他生物を巻き込んで。それは、今や、世界は軍事ブロックや経済ブロック等を通じてさまざまに利害が絡んでいるからだ。

つまり、核を持つことが敵の攻撃を抑止することには決してならないということだ。「核抑止論」など、論理的にも、とうに破綻しているのである(豊田利幸「核戦略批判」岩波新書)。

 今や、世界は合計13,400発の核弾頭を所持している(2020年1月時点)。

具体的に言うと、現在、核保有国は9カ国。その各国別の保有数は、第1位がロシアで6500発。第2位がアメリカで6185発。第3位がフランスで300発(以上、いずれも2018年現在の数値)。

第4位は中国で290発。第5位はイギリスで200発。第6位はパキスタンで150〜160発。第7位はインドで130〜140発。第8位はイスラエルで80〜90発。第9位は北朝鮮で20〜30発(以上はいずれも2019年現在の数字)。

しかしこの他に、核兵器開発をしているのではと疑いが持たれる国として、イラン、シリア、ミャンマーがある。

 これから判るように、現在のところ、米露の2カ国だけで世界の核保有数の95%に達している。しかもその数は、もしそれが戦争となって実戦で使われたなら、米露だけで、地球を何回も破壊し尽くせる数だ。

もちろん双方の国は所持する6000発を超える核弾頭を一気に発射台に運搬して、一気に発射することなどできないはずだから、その全てを発射する前に全人類は消滅している。

なぜなら、たとえどんなに地下深く堅固な核シェルターを作ったところで、核が使われた直後は即死はしないまでも、地上では高レベルの放射能や超高温の熱線による輻射そしてそのあとやってくる衝撃波によって、地上のインフラというインフラや食糧を生産する土壌は全て破壊されているし、人間が喰って生きようとする野生動物だって多分死滅している。それに飲料水という飲料水だって、地上の水であれ地下水であれ、全て汚染されてしまうからだ。

それにたとえそれが可能であったとして、地中深く、選ばれた人たちだけで何ヶ月、あるいは何年も生きているというだけの生活で、一体何の楽しみや生きがいがあろう。

つまり核シェルターなど何の役にも立たない。気休め程度のものにしかならない。

 だからこそ、米中の対立が激化して、いつこの「キューバ危機」と同様の「台湾危機」によって核戦争にならないとも限らない今、全ての核保有国、そして核を持とうとしている全ての国の首脳は次の言葉に真摯に耳を傾けるべきではないか。

それは、1962年の10月下旬、冷戦の最中、今まさに米ソ間での全面核戦争が始まるかという時に、フルシチョフがふと側近に漏らした本音だ。

“偉大なる我が国家とアメリカが破壊し尽くされ、自分も死の淵にあって、国の威信だけは守られたと知ったところで、一体何になるというのだ!”

“一旦戦争が始まれば、我々(首脳)の力では止められない。あらゆる町や村に破壊がばらまかれるまで終わらないのだ。”

 

 そしてこういう危機が迫った時には、特に一国の首脳はもちろん政府閣僚も気をつけなくてはならないのは軍の動きだ。

例えば、軍の参謀あるいは司令官にはこんなことを言わせてはならないのだ。

“あの馬鹿ども(ソ連軍のこと)を殺すんだ。最終的にロシア人が一人、アメリカ人が二人生き残りさえすれば、こっちの勝ちだ!”

すると側近は言う。

“では、男と女を残すようにしないと!”

BS世界のドキュメンタリー オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史「第6回」 2019/5/8(水)NHKBS1

 それに戦争となれば、誰しも普段の冷静な判断力や理性を失い、いわば集団で狂気になる。

それを如実に示すのが、例えばナチスドイツがアウシュビッツで行なったユダヤ人大量虐殺だし、軍国日本が中国南京で行った一般民間人の女性や赤ん坊にまで行った大量虐殺行為だ。

それは、普段は尤もらしいことを言っている者でも、いざとなれば、あるいは集団で行動するときには、人間はこんなことまでやれてしまうということを示すもので、特に主権者である国民を代表して軍を統括指揮する責務を負う防衛大臣は、自らの戦略を明確にすると同時に、指揮を発する時、そのことをも片時も忘れてはならないのだ。

 そしてこんな時、同時に特に重要なことは、軍の暴走を止められる装置、軍の暴走を許さない装置、軍を統括し統制しきれる装置としての「シビリアンコントロール文民統制)」が確実に働くような法整備とともに統治の体制を二重三重にも事前に整えておくことだと私は考える。

かつての「五・一五事件」そして「二・二六事件」では、決起した青年将校に対する扱い方は両事件の間では極端なまでに違っていた。しかもその時、両事件については、それぞれ、誰がどのような責任を持って、事態を統合的に収拾したのか、それについては私たち国民は未だ、日本政府の誰からも、公式には知らされてはいない。

 ただはっきりしていることは、統合的に収拾したのは、明治憲法下であったその時、公式には「合法的に最高な一個の強制的権威をもち、統帥権統治権を併せ持っていた」昭和天皇裕仁)ではなかったはずだ。

 そしてこうなるのも、実はこの国は、明治期以来、西欧文明と制度を取り入れながらも、見かけは国家でも、真の国家ではなかったからだ。

だからこそ、これからは、こういう悲劇的結果にならないためには、ここでもやはり国は国家であること、すなわち「合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって、あらゆる個人や集団が統合されている社会」、言い換えれば、統治体制が十分に整った国となっていることがどうしても必要なのだ。

そしてそのためには、先ずは何といっても、国民の代表としてそれを実現させる義務と責任のある政治家という政治家が、官僚に依存しあるいは放任する体質を根本から反省して改め、戦後これまでそれでずっとやってきた結果生じさせてしまった官僚組織の「縦割り」という慣例制度をぶち壊して全政府組織を風通しのいい一つの組織とすることを含めて、日本国憲法第15条第1項に基づいて、官僚独裁体制を即刻破壊するところから着手しなくてはならない。

政治家は、各自、甘えを捨てて、もっともっと自分に厳しくならなくてはならないのだ。

 

 何れにしても、米ソ両国とも途方もない核弾頭を所持し、また「キューバ危機」のような事態を引き起こしてしまうというのも、結局は互いに、場合によっては取り巻きの影響もあるだろうが、首脳同士の間に、相手国への猜疑心や恐怖があるからなのであろう。

特に、F.ルーズベルト亡き以降、大統領となったトルーマンは、第二次世界大戦を終わらせる上で最大の功績のあった、スターリン率いるソ連の底力には恐怖した。そして彼は共産主義に対する恐怖を自国民や世界に向かってこう煽った。

ソ連は世界征服を目論んでいる」、「スターリンが世界中に革命を広げようとしている」、かと思えば、「ソ連の侵略に抵抗しなければ我々の自由は打ち砕かれる」などと(BS世界のドキュメンタリーオリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史」第4回「冷戦」 2019/4/12 NHKBS1)。

実際には、その時ソ連アメリカに侵略してくるなど誰が考えたってありえなかった。なぜなら、その時、世界で最も強力な大量殺戮兵器である原子爆弾を持っていたのはアメリカだけだったからだ。

 

 ではそうした猜疑心や恐怖心を消し去るにはどうしたらいいか。

それは、結局は、互いに相手を尊重しながら、率直に自分の思うところ考えているところを述べ合い、相手の立場を理解しようとすることでしか方法はないのではないか。

つまり互いに「調和」を求めながらの、率直な話し合い外交だ。

 その必要をケネディはこう表現し、世界に向かって呼びかけた。1963年のことである。

————————私が意味する平和、人々が欲する平和とは?

    軍事力を盾に強要する“パックス アメリカーナ”ではない

    ソ連への対応を省みましょう

    両国には悲しい溝がある

    違いを認め合えば多様な人々が平和に共存できるはず

    突き詰めれば我々は皆、

    この小さい惑星で暮らし、

    同じ空気を吸って生き、

    子の幸せを願い、

    いつか死にゆくのです

 

 もちろん、多数民族が少数民族を迫害し、人権を踏みにじるのは論外だし、それを少数民族に代わって外から抗議するのは決して内政干渉ではないどころかむしろ人道上での世界の正義なのだ。

そのことは、国民を束ね統治する立場の指導者・首脳に、自分自身を、自由を奪われ迫害されている人の立場に置き換えて想像し共感する力がありさえすれば、自ずと理解できることのはずだ。

 

 これからの日本は、私たち世界人類の運命共同体である宇宙船地球号の状況が今、まさに、その表面上に生きる人類をはじめとする地球上の全ての生物が生きてはゆけない自然の状況になりつつある現実を踏まえるがゆえに、先の二つの原理を基軸に置いた上で、さらには故ケネディの呼びかけを受けて、特に原爆が投下された唯一の国として、すべての核保有国のみならず、世界に向かって、事あるごとに、次のように呼びかけ、働きかけるべきなのではないか。

 すべての核保有国が、同時に全廃しよう。

EUとロシア間の緊張の原因となるNATOなどの軍事ブロックは解体すべき。

 大気圏内、宇宙空間、海洋中、極地圏そしてサイバー空間での競争も止めよう。

 そしてこれからは、「人類全体の価値」(カレル・ヴァン・ウオルフレン)とは何か、「世界の大義」とは何かを求め、自国民に対するだけではなく「人類全体に対する忠誠」(故ネルー首相)という立場で、互いに協力し合おうではないか。

 そのためには、もはや日本も不平等な日米安全保障条約日米地位協定の堅持に拘っているときではない。アメリカの「核の傘」からも抜け出るべきだ。

そして今こそ、吉田茂アメリカに売り渡した主権を取り戻して真の独立国となり、アメリカと対等の関係を築くべきだ。言うべきは言う、協力すべきは積極的に協力する、という姿勢こそが大切なのだ。それも上記した基本的な考え方を堅持した上でのことである。

 

 私たちは、日本国民として、日米安全保障条約そして日米地位協定という不平等な取り決めにいつまでも固執すること自体が精神が独立し得てはいないことだし、他国に祖国防衛を期待しようとする日本国政府と国民の甘えであり、また自国の安全は自分たちの手で守るという愛国心が欠如していることでもある。

 今こそ、私たち現在世代は未来世代に対して責任のあるところを示すべきではないか。

 とにかく今や、国連のIPCCは、2030年までに世界人類が地球温暖化を食い止めるために具体的に何をどれだけできるかによってその後の人類の命運は決まる、とまで言い切ってもいるのだから(BS1スペシャル 2030未来への分岐点「暴走する温暖化」2021/10/19 NHKBS1)。

 そしてそこに向けて日本国民一人ひとりが勇気と決意をもって歩み出すことこそ、真の意味での「世界の平和と安定」を確実にすることである、と私は固く信じるのである。

13.8 国防と国土の安全確保

お断り:

 前回は、13.8節については、途中で終わり、続きについては「なお、都合により、以下は次回に回させていただきたいと思います。」として来ました。

しかし、実はその時点でも、私の頭の中では本節をどのようにまとめ上げるかについての方針は立ってはいませんでした。そして正直なところ、今もなお確信を持ってはまとめきれてはいません。

しかし、その後色々と考察したところ、それでも前回よりは判りやすくはなっているかなと思われましたので、前回公開した内容を全面的に改めて、今回、以下のような形で公開しなおそうと思います。

 

13.8 国防と国土の安全確保

 日本は今、国として安全か、そしてこれからも安全か、ということについてはすでに拙著の随所にて、いろいろな観点から、私なりに思うところを述べてきた。

このことは、そのまま、日本国民として安心していられるか、そしてこれからも安心していられるか、と言い換えることもできる。

 その結論は、いずれの面をとってみても共通に言えることであるが、それを一言で言えば、今も、今後も、今のままでは極めて危険である、ということである。

そのため、この国が本当の意味で、それも永続的に安全な国になるためには、さらには、単に安全な国になるというだけではなく、もっと積極的に、国民の一人ひとりが真に幸せを感じられる国になるためにはとして、特に拙著の《第2部》では、新しい国づくりをして行く上で欠かすことのできないと私には思われた仕組や制度に関する変革案のいくつかを具体的に示してきた。

 ただしその際、」特に注視していただきたいのは、私が示しているのはあくまでも抜本的な「変革」案であって、「改」良案でも「改」革案でも「改」正案でもないということである。

 それは、もはや状況を「改める」といった程度では、日本国は本当の意味で永続的に安全な国にはなり得ないことはもちろん、一人ひとりが本当に幸せを実感できる国にもなり得ない、それほどまでにこの国は全てが行き詰まり、機能し得なくなっている、という認識が私にはあるからである————例えば政治、経済、教育、医療・看護・介護、年金を含む社会保障そして科学・技術の分野において、そしてそれらを支える国民としての平均的なものの考え方と生き方においてである————。

 本章のこれまでは、農村と都市のあり方を始め、都市と社会資本、エネルギー、居住形態、科学と技術、伝統文化としての技術・芸術・芸能の振興とその担い手の国家による持続的育成制度、そして福祉(保健、医療・介護・看護)と社会保障(年金、保険)の制度について考察を重ねてきた。

 そこで、本節では、本章の主題である〈三種の指導原理〉に基礎を置く国家の主たるしくみとしての国防と国土の安全確保はいかにして可能か、というテーマについて考えてみようと思う。

 そのためには、順序として、先ずはこの国の国防は、現状、基本的にどのような考え方の下で行われているか、そして国として国防を考えなくてはならない事態に直面した時、果たして本当にその国防は成し遂げられるのか、ということを考える。

次いで、この国の国土の安全は現在、どのような考え方に基づき、どのような政策の下に図られようとしているのか、そしてその政策で国土の安全は実際に図られるのか、ということを考えてみる。

 まずはこの国の国防についてである。

この日本という国の国防を考える上での基本的な考え方は、一言で言えば、戦後の1951年以来、日本政府はアメリカ頼み一辺倒であるということだ。それも、そのありようは、日米安保条約と密接な関わりを持つ日米地位協定を見るとはっきりと判るが、日本はその同じ1951年、晴れて独立国と国際社会から認められたはずなのにも拘わらず、国家を成り立たせる決定的要素の一つである主権をアメリカに譲り渡してしまい、日本がまるでアメリカの植民地にでもなったかのようなアメリカへの追随・追従ぶりだ。当時の吉田茂のやったその売国的行為には、私は、日本人としての独立心も気概も全く見出せない。つまり吉田には、私は、真の愛国心も見出せなければ、自分たちの国は先ずは自分たちの手で守るという祖国防衛への熱き情熱や決意も感じ取れない。

 確かに日本にも軍隊はある。「自衛」隊という名の軍隊だ。

日本国政府は自国憲法(第9条)に違反すると判っているからそれを軍隊とは呼びたくはないのだろうが————実はその憲法を作ったアメリカ自身も第9条を設けたのは失敗だったと今にして思っているだろう、と私は考える————、この自衛隊は、誰がどう言い繕おうと立派な軍隊なのだ。

 思えばアジア・太平洋戦争の時もそうだった。開戦に当たって、国民には何一つ状況を説明しないまま戦争に飛び込んで行った軍部とそれに引きずられて行った日本政府は————つまり軍部も政府も自国の国民の存在などなんとも思ってはいなかったということなのだ————その後国民の目をごまかすために、国民に対して嘘の上に嘘を重ねて戦況を伝え続けた。

そしてその時、例えば朝日新聞NHKを筆頭とした当時のメディアも、本来、彼らには、権力者のやろうとしていることを監視し、国民には真実を伝えるべき使命を負っていたはずなのに、事実など何一つ確かめようとはせずに、大本営の言うことそのままどころか、むしろ意図的に勇ましい言葉を連発しては、国民を煽り立て、若者を戦場に送ることに加担してきたのである。

そしてそこでは、戦争を「事変」と言い繕ったり、戦車を「特車」と言い繕ったり、敗退を「転戦」と言い繕ったりした。戦場での兵士全員の死を「玉砕」と言い繕っては、兵士の死を美化しさえした。

 しかも、当時、軍部も日本政府も、戦争を継続するには、最前線で戦う兵士や将校のためには、食料、武器、弾薬、医薬品、医療従事者をも継続的に現地に送り届けなくてはならなかったのに、それをも全くと言っていいほどに軽視した。

 こういう軍部中枢や日本政府の態度を見ても、私はつくづく思うのだが、もういい加減、自衛隊は軍隊ではないと言うような、子供でも見抜けるこうした言葉上のごまかしはやめるべきだろう。こんなごまかしを考えるくらいなら、戦略とか戦術とか、もっと本当に考えなくてはならないことを考えるべきだ。

 実際、当時の日本ではエリート中のエリートと呼ばれた軍部の作戦将校である官僚たちは、敵に戦闘を挑む際には絶対に欠かしてはならない「敵を知り、己を知る」という基本中の基本すら怠った。それだけではない。兵士全員の死を「玉砕」と言い繕うところからも判るように、自分たちに不都合な情報は聞こうともしなかったし、戦略だけではなく、肝心の何のために戦争をするのかという戦争目的さえも曖昧にしたし、戦況がどうなったら戦争をどうするかという大きな方針も全くないまま戦争に突入したのだ。これではまるで、こどもの日遊びだ。敵国になるアメリカの国情に最も精通していた山本五十六連合艦隊司令長官として決行した「真珠湾奇襲攻撃」だって、戦争全体を見通しての戦略ではない。むしろ破れかぶれの作戦でしかなかった、と私は見るのである。

 こうなれば、「ポツダム宣言受諾」という形での無条件降伏へと行き着くのは必然だった。

つまりこうなることの判断も推測もできない当時の「日本のエリート中のエリート」だったのだ。

 つまり、日本は、どの面どの角度から見ても、特にアメリカ相手の戦争などやれる状態ではなかったのだ。

 しかし私は、日本はこれからも、この国の政府が、そして日本国民が、これまでのままであったなら、この時のアジア・太平洋戦争と同じような仕方での戦争をしてしまうような気がしてならない。

私がそう思う最大の理由は、その後の日本政府と日本の大新聞とNHKは、その戦争からほとんど何も学んではいないからだ。少なくとも歴代総理大臣も、朝日新聞毎日新聞NHKも、ドイツが見せてくれたような真摯な姿で、当時の戦争を総括し、反省し、それを公式に表明するということは一切していないからだ。

 つまり、そのような態度では、同じ失敗を繰り返してしまう、と私は考えるからだ。

 そうでなくても、日本が唯一結んでいる軍事同盟である日米安全保障条約における日本のアメリカに対する姿勢は、既述の通りである。

本来、同盟というのは、互いに独立で対等である国々通しの間で結ばれるはずのものだが、日米間の関係はそうではない。

しかも、その時、「戦争の放棄、軍備および交戦権の否認」を明確化する現行日本国憲法第9条の下では、字句をそのまま読めば戦争はできないのであるが、安倍晋三自民党山口那津男公明党との連立政権によって、憲法第96条を意図的に無視し、憲法違反を犯してまでして、従来の解釈を変えただけで改憲したことにされてしまい、その結果「集団的自衛権が容認」されるようになった以上、アメリカがどこかの国と開戦に至れば、自動的に日本もその戦争に巻き込まれてしまう可能性は大となったのだ。

 次に国土の安全についても、現状、基本的にどのような考え方の下でどのような政策がなされているか、そしてその政策は、本当にこの国の国土の安全を確保できるものとなっているのかどうか、ということについても確認しておかねばならない。

 そもそも国の国土の安全とその確保と言ったとき、どの観点から、どう考えたらいいのであろうか。その点を先ずははっきりさせてかからねばならない。

その場合、私は、最も重視しなくてはならないことは、例えば火山の爆発や地震の発生など不可抗力的な場合を除いては、自然災害そのものが生じにくい国土であること、仮に自然災害が生じたとしても、その場合には、被災国民の「生命・自由・財産」が、あらゆる政治的国事の中で常に最優先で、かつ最速で守られる仕組みや制度を国家として備えていること、ということとなるのではないか、と考える。

 なお、人間の怠慢・過失・不注意などが原因となって起こる災害としてのいわゆる「人災」や、自然による災害が防災対策の不備や救援の遅延などによって増幅された場合としての「人災」は、ここでの国土の安全とその確保という視点とは別の問題として考えられるべきと考えられるので、ここでは考察の対象外とする。

 

 では、その場合の前段である、そもそも自然災害そのものが生じにくい国土とは、どのような国土を言うのであろうか。

それは常識的に想定されるのは例えば次のような事態がそう簡単には起こらないような国土、起こっても一部分に限定されて最小限にとどめられる国土、ということになるのではないか。

豪雨によって山での斜面崩壊が起こり、その時の土石が河川を埋めたり、中流域や下流域の民家を直撃する事態。同じく、増水した河川の堤防が決壊する事態。干ばつ————長期の日照り————によって水が涸れて、特に農作物が凶作となる事態。乾燥と高温化が重なることによる山火事や森林火災が生じる事態。特定の野生動物や昆虫などが異常発生したり、特定のウイルスによるパンデミックが生じたりして、人々の生命や自由や財産を脅かす事態、等々。

では後段の、仮に自然災害が生じたとしても、その場合には被災国民の「生命・自由・財産」があらゆる政治的国事の中で常に最優先かつ最速で守られる仕組みや制度を備えていること、とはどういうことを意味しているのであろうか。

 それは、一言で言えば、自然災害が生じた際には、その規模の大小に拘らず、被災国民すべての「生命・自由・財産」があらゆる政治的国事の中で常に最優先かつ最速で守られることを目的とした体制が国の中央政府から地方政府に至るまで、「国家」として整えられていることなのである(2.6節を参照)。

 では現状、この国を自然災害そのものが生じにくい国土の国とするためということで、どのような政策が実際に取られているだろうか。そしてその政策は、本当にこの国の国土の安全を確保できるものとなっているのだろうか。

 そのことを考える上で今、最もふさわしい政策は、2012年に選挙で大勝した自民党公明党という政策の異なる政党が権力欲しさに連合した政権の下で進めている「国土強靭化」政策であろう。

 その政策の特徴は、一言で言えば、首都直下型地震南海トラフ地震の発生の危機を強調し、これをバネにして、今でさえこの日本はGDP(国民総生産)およそ500兆円の2.4倍の借金(政府債務残高)を抱えた財政状況だというのに、そこへさらに10年間で200兆円という膨大な費用を税金から投入しようとしていることであり、さらにこの危機対応として、まるで戦前の「国家総動員」とでもいうような仕掛けが施されていることだ(五十嵐敬喜「国土強靭化」批判 岩波ブックレットNo.883 p.2)。

 つまり、これが特徴であるということからも判るように、ではそのあたかも国家総動員体制で臨もうとしているやに見える政策は、何をしようとしているのかと言うと、その政策を法的に表現した「国土強靭化基本法案」の概要のどこをどう見ても、そこには具体的な施策として、東日本の被災地の復興、災害発生時の避難、保健施設や福祉施設、あるいはエネルギーの確保など、誰もが異論を唱えようもない目標は掲げられてはいても、そのために具体的には何をしようとしているのかについては、一向に答えられてはいないのだ(同上書p.27)。

 要するに、自民公明連立政権が進めている「国土強靭化」政策は、現状の実質的には財政破綻している借金状態にさらに超巨額の借金を重ねてのものだが、しかし本当にこの国の国土の安全を確保できるものとなっているかどうかを判断できる具体的な内容など、からっきしない、中身の空っぽのものだということだ。当然ながら、それは、本当にこの国の国土の安全を確保できるものとはほど遠い見せかけだけのものなのだ。

 では、残るもう一つの問いである、この日本という国は、「国家」として整えられているか、についての答えは明瞭だ。

すでに述べてきたように(2.6節を参照)、この国は未だ国家ではない。強いて言えば、中央政府を構成する各府省庁の官僚たちの利益・都合が常に最優先される連合体である。

 

 では、この日本という国を本当の意味で、それも永続的に安全な国にするには、国防という面について見た時、如何にしたらいいのであろう。

そして、同じく、この日本という国を本当の意味で、それも永続的に安全な国にするには、国土の安全というのは、如何にしたら図れるのであろう。

 以下では、それについて、やはりここでも私なりに考察してみる。

 先ずは国防について。

日本政府が本当に国防、言い換えれば祖国防衛ということを考えるのであれば、私はもはや、政府を構成する政治家一人ひとりのものの考え方、事実に対する向き合い方を根本から変え、事実や状況を情緒的気分的に捉えるのではなく、あるいは既述のようにごまかすのではなく、どんな場合にも、またどんなに辛くとも、真実を直視し、事実は事実として受け入れる勇気を先ずは持つべきだ、と考える。それが一つ。

 これができないところでは、後は何を考えようと、そして何をしようと、それらは全て事実や真実に基づかない「勝手読み」か「強がり」でしかなくなるからだ。そんな態度が戦争はもちろん国防にも通用するはずはない。その結果は、必然的な敗北でしかなくなるからだ。

 そしてもう一つ。日本政府が本当に国防、言い換えれば祖国防衛ということを考えるのであれば、政府を構成する政治家、すなわち総理大臣と全閣僚は、例えば現行日本国憲法第15条第1項「公務員を選定し、およびこれを罷免することは、国民固有の権利である」に依拠し、その条文を国民の代表として断固行使して、今までのような官僚の操り人形であることはもはや即刻返上して、不退転の決意を持って、政府全府省庁の全官僚をコントロールし、「縦割り制度」を廃止することはもちろんのこと、この国を本物の国家として統治体制を整えることであろう。またコントロールできるように総理大臣そして各府省庁の大臣として官僚たちを牽引できるまでに猛勉強することであろう(2.6節参照)。

 私は、この二つのことを実行することは、日本政府が本当に祖国防衛ということを考える場合には、対外的な軍事同盟、例えば日米安全保障条約といった条約を結ぼうとすることよりも、先ずは不可欠なことだと考える。

なぜなら、この国が本物の国家とならねば、つまり、「国を構成している全ての個人そして集団に対して、合法的に最高な一個の強制的権威によって統合された社会」でなかったなら、いざ、戦争となった時、どんなに対外的軍事同盟があっても、戦略あるいは作戦遂行に向けて、軍隊はもちろん、全ての個人と集団を一つに統合して有機的に動かせないからだ。

 三つ目。

この日本という国は私たち日本国民一人ひとりが自分の手で、自分の体で守るんだ、という意識を明確に持つことだと、私は思う。つまり確たる愛国心を先ず持つことなのだ。

 極端な言い方かもしれないが、私は、この愛国心をどれだけの人が実際に持てるかどうか、それだけで国防は成るかどうかが決まるのではないか、とさえ思う————その最たる好例が、超軍事大国アメリカに勝利した、ホーチミンの指導の下での当時のベトナムの人々であろう————。

 逆の言い方をすると、国民の大多数がこの愛国心を————もちろん、言葉だけの愛国心ではなく、心の底からの愛国心であり、決意だ————持たずして、あるいは持てないのに、どんなに超軍事大国に依存する自衛隊あるいは軍隊を持とうが、そしてそこにどんなに国民の税金をかけて装備を充実させようが、またこの国は不戦を明記する憲法第9条があるのだから、などと呑気なことを言っていようが、そんなことは、イザッという時には吹っ飛んでしまって、全く無意味だと私は思うからだ。

 そして四つ目。

 国民の全てが、ある年齢に達したなら、健康体である限り、そして男女の区別無く、一定期間、義務として戦時訓練を受けるという制度を設ける。

それは、「兵」として訓練を受ける、ということでは必ずしもない。

 その時大事なのは、特に第一次世界大戦第二次世界大戦の実態を記録映画などを中心にして、徹底的に学ぶことだと思う。

何を学ぶか。それは戦争というものが、決して格好いいものではなく、むしろ、それもとりわけ戦場においては、その実態がどれほど悲惨なものであるかということと同時に、そこでの人間の精神や理性をどれほど狂わせてしまうものであるか、そしてそれを体験した人は、その後の人生において、終生、どれほどやり切れない記憶を引きずって生きなくてはならなくなるものか、等々を学ぶのである。

そして、これからの戦争の形はAI兵器による戦争になる可能性が大きいとされている今ではあるが、その時、本当にAIに事態を成り行きを任せていてよいものか、もしそういうことになったら人間の尊厳や人類の将来はどうなるのか、ということも哲学的、倫理的にも、徹底的に考察すべきと思う。

 では国土の安全についてはどうか。

国土の安全はどのようにしたら確保されるのか。

実は私は、その答えについては、既に11.6節で、私なりに示してきた。

それは、今の自公民政党からなる日本政府が掲げているような、政府の各府省庁の官僚による、彼らの既得権の拡大と維持を可能とするためだけの「国土強靭化」といった、名前だけで、中身の全く伴わない政策によるのではなくは、地方の各自治体が「真の公共事業」として挙げてきた事業を実現することである、としてきた内容である。

それは同時に、地球規模の温暖化防止にも同時に貢献し得て、地元生態系(生物多様性)の再生にも貢献できる、そして地域の人々が、皆、誇りと充実を感じられるであろう事業のことである。

 

 とにかく今、この国は、新冷戦とされる米中対立が日増しに激しくなってゆく中で、もっぱらアメリカ側に立って、アメリカにほとんど無条件に追随しているが、これ自体も極めて危険なことだ。米中の間で「有事」となれば、沖縄に米軍が駐留している限り、日本は確実にそこに巻き込まれるからだ。

 むしろこんな時こそ、私たちは、そして日本政府も、歴史を思い浮かべるべきではないか。

この日本という国は、遣隋使の時代から、中国の恩恵を受け、発展してきた国である、ということをである。中国との交易無くして今の日本はなかったはずである。 

今の日本に伝統として残っている多くの文化の源は、ほとんどが中国なのだ。

そしてその文化に育まれて、私たちは日本人となったのだからだ。

このことを私たちは決して忘れてはならない。

 それに引き換え、アメリカとの関係は、高々、百数十年。

それだけに、現状を見ただけのいっときの感情に流されてはならないのだ。

それに、もう私たち日本国民は、例えば幕末から明治維新にかけての生き方の上での豹変、アジア・太平洋戦争敗戦前後に見せた同じく生き方の上での豹変、あれはもうやめるべきではないか。あまりにも軽薄で無節操だからだ。これでは、世界のどこの国の誰からも信頼されない。そうではなく、もっと、歴史と文化に根ざした生き方をしようではないか。

 今この国が真の国防を考え、真の対外的安全保障を考えるのであれば、そのように歴史と文化を思い返し、それを踏まえ、例えば「経済か環境か」、「文明か文化か」といった二者択一の態度を取るのではなく、「調和」の考え方に立って(4.1節を参照)、大局的観点、長期的観点に立って考える必要があるのではないか。それはまた「アメリカか中国か」でもないし、「中国かロシアか」でもない。

 むしろこれからは、私たち日本国民は、世界平和、さらには「地球は一つ」、という観点に立ち、アメリカと中国の間に立って、両者が互いに相手を理解しうるように、両者を知っている日本が、仲立ちをすることではないか。

 そしてそれをする際にも、忘れてならないことは、日本も紛れもなくアジアの一国であるとの認識を明確に踏まえながら、アジア諸国をもまとめ、先導することであろう。

 いずれにしても、私たち日本国民は、そのうち政治家になろうとする者は特に、全員、まずは倫理的発想を踏まえた上での政治哲学が必須だと私は考える。同時に、アジア各国の歴史と文化への理解が要る、とも考えるのである。

これまで、特に日本の政治家には、政治を行う上で、政治哲学的思考は全くと言っていいほどに欠けていた。常に経済的損得でしか判断して来なかったのだからだ。

 それらを実現した上で、その次には、アジアとヨーロッパを結びつけたユーラシアへと目を向け、対ユーラシア外交を積極的に展開するのだ。それも、根底には、常に、世界平和、さらには「地球は一つ」、という観点に立ってである。

 

 何れにしても、もはや時代は、あるいは世界の状況や地球の状況は、アメリカ一国にこだわっている時でない。もちろん、中国にこだわっている時でもない。

 宇宙から地球を眺めた宇宙飛行士は言うではないか。

“青く美しい地球には国境など見えない”、と。宇宙船「地球号」は、この広大無辺の宇宙にあって、たった一つなのだ。現代版「ノアの箱舟」などあり得ない。なぜなら、月であれ、火星であれ、人が「裸で」くつろげる天体はこの地球しかないからだ。そしてその地球こそ、奇跡の星、水の惑星なのだ。私たちはそんな地球に奇跡的に生まれ合わせたのである。

 もう不必要なまでの領土獲得あるいは拡大にこだわっている時ではない。

とにかく地球人全体の運命が危ないのだからだ。

 こうした考え方で国防に臨む方が、ただ「日米安全保障条約」に固執しているより、どれほど確実な国防となるかしれないのではないか。私はそう考える。

 

 なお、補足であるが、その場合、日本が特に北方領土問題が絡むロシアに対する姿勢としては、その場合も、必ずしもアメリカ側に立つというのではなく、また経済的観点に拘るのでもなく、あくまでも原則論に立ち、平和的観点に立って————すなわち、返還された北方4島には、日本はアメリカあるいはNATOの軍事施設は造らせないことを約束することを意味する————、独立国として毅然と臨むべきであろう、と私は考える。

 ここで言う領土問題とは、いわゆるもちろん北方4島の帰属問題である。

そこでソ連に対して堂々と主張すべきは次の3点ではないか。

 1つは、1945年4月5日に、当時のソ連は「日ソ中立条約」の破棄を通告してきたが、その通告が発効するのは、条約上、1年後の1946年4月5日であったこと。

 1つは、したがって、ソ連が、同じく1945年8月8日に、日本に宣戦布告してきたのは、たとえ、ソ連がどんなに「ポツダム宣言を拒否した日本に連合国の要請に基づく」ものだと理由付けしても、それは上記「日ソ中立条約」上、違反であり、通らないものであったこと。

 1つは、1945年9月2日には、ソ連を含む連合国側と日本との間で正式に「終戦」が成立したのであるから、ソ連が1945年の8月28日〜9月4日にかけて北方4島に上陸して、4島のうちのいずれかを9月2日以降にソ連のものとしたとソ連が主張するのは、国際法違反であること(「関口宏のもう一度!近現代史▽昭和20年 原爆投下・ソ連軍の対日参戦」 2021年9月11日(土)BS-TBS

13.8 国防と国土の安全

13.8 国防と国土の安全

 日本は今、国として安全か、そしてこれからも安全か、ということについてはすでに拙著の随所にて、いろいろな観点から、私なりに思うところを述べてきた。

 その結論は、いずれの面をとってみても共通に言えることであるが、それを一言で言えば、今も、今後も、今のままでは極めて危険である、ということである。

そのため、この国が本当の意味で、それも永続的に安全な国になるためには、さらには、単に安全になるというだけではなく、国民の一人ひとりが真に幸せを感じられる国になるためにもとして、特に拙著の《第2部》では、新しい国づくりをして行く上で欠かすことのできない仕組や制度に関する変革案のいくつかを具体的に示してきた。

 このとき特に注目していただきたいのは、私が示しているのはあくまでも抜本的な「変革」案であって、決して「改」良案でも「改」革案でも「改」正案でもないということである。

 それは、もはや「改める」といった程度では、日本国は本当の意味で永続的に安全な国にはなり得ないし、一人ひとりが本当に幸せを実感できる国にはなり得ない、それほどまでにこの国は全てが行き詰まり、機能し得なくなっている、という認識が私にはあるからである————例えば政治、経済、教育、医療・看護・介護、年金を含む社会保障そして科学・技術の分野において、そしてそれらを支えるものの考え方においてである————。

 そこで、では、本章の主題である〈三種の指導原理〉に基礎を置く国家の主たるしくみとしての国防と国土の安全はいかにして可能か、それについて本節で考える。

 そのためには、先ずはこの国の国防は、現状、基本的にどのような考え方の下で行われているか、そして国全体がまさかの事態に遭遇したり陥ったりしたような場合、果たして特に政権を担当している政党の政治家が口で言うような国防を成し遂げられるような体制ができているのか、ということについて確認しておかねばならない。

 そこでであるが、この日本という国の国防を考える上での基本的な考え方は、一言で言えば、日本政府はアメリカ頼み一辺倒であるということだ。というより、日米安保条約と密接な関わりを持つ日米地位協定などを見ても判るが、日本の主権をアメリカに譲り渡して、ほとんどアメリカに追随して、日本がまるでアメリカの植民地にでもなったかのようだ。そこには、日本人としての独立心も誇りも全く見られない。国民の一人として、“情けない”としか言いようのない姿を晒しての国防意識だ。

 確かに日本にも軍隊はある。「自衛」隊という名の軍隊だ。

日本国政府は自国憲法(第9条)に違反すると判っているからそれを軍隊とは呼びたくはないのだろうが、そしてその憲法を作ったアメリカ自身も第9条を設けたのは失敗だったと今にして思っているのだろうが、この自衛隊は、誰がどう言い繕おうと立派な軍隊なのだ。

 こういう日本政府の態度を見ても、私はつくづく思うのだが、本当にこの日本国の国防を考えるのであれば、もういい加減、自衛隊は軍隊ではないと言うような、子供でも見抜けるこうした言葉上のごまかしはやめるべきだろう。事実は事実として隠しようがないからだ。というより、事実はあくまでも事実として受け入れる勇気と謙虚さを持つべきではないか。

 アジア・太平洋戦争の時もそうだった。開戦に当たって、国民には何一つ状況を説明しないまま戦争に飛び込んで行った軍部とそれに引きずられて行った日本政府は————つまり軍部も政府も自国の国民の存在などなんとも思ってはいなかったということなのだ————その後国民の目をごまかすために、国民に対して嘘の上に嘘を重ねて戦況を伝え続けた。

そしてその時、例えば朝日新聞NHKを筆頭としたメディアも、本来、彼らには、権力者のやろうとしていることを監視し、国民には真実を伝えるべき使命を負っていたはずなのに、事実など何一つ確かめようとはせずに、大本営の言うことそのままどころか、必要以上に勇ましい言葉を連発しては、戦争協力させるために、国民を煽り立て、若者を戦場に送ることに加担してきたのである。

そしてそこでは、戦争を「事変」と言い繕ったり、戦車を「特車」と言い繕ったり、敗退を「転戦」と言い繕ったりした。戦場での兵士全員の死を「玉砕」と言い繕っては、兵士の死を美化しさえした。

 しかも、当時、軍部も日本政府も、戦争を継続するには、最前線で戦う兵士や将校のためには、食料、武器、弾薬、医薬品、医療従事者をも継続的に現地に送り届けなくてはならなかったのに、それをも全くと言っていいほどに軽視した。

 その上、当時の日本ではエリート中のエリートと呼ばれた軍部の作戦将校である官僚たちは、敵に戦闘を挑む際には絶対に欠かしてはならない「敵を知り、己を知る」という態度すら怠っただけではなく、自分たちに不都合な情報には耳を貸そうともせず、そして戦争目的も戦略も、そして戦況がどうなったらどうするかという大きな方針も全くないまま戦争に突入したのだ。山本五十六連合艦隊司令長官として決行した「真珠湾奇襲攻撃」だって、戦争全体を見通しての戦略ではない。むしろ破れかぶれの作戦でしかなかった、と私は考える。

 そしてこうしたことの総合的結果が、「ポツダム宣言受諾」という形での無条件降伏となったのだ。だからそれは全く必然の結果だった。

 つまり、日本は、どの面どの角度から見ても、特にアメリカ相手の戦争などやれる状態ではなかったのだ。

 今も日本国政府は自国民に対して、自衛隊は「軍隊ではない」という見え透いたごまかしを続けているが、それも、かつて戦争を「事変」と言い繕い、敗退を「転戦」と言い繕った態度と何一つ変わってはいない。あの戦争から何一つ教訓を引き出しもしなければ、学んでもいないのだ。事実、日本政府は、今もって、あの戦争について公式に反省もしなければ、総括もしていないし、第一、あの様な戦争の仕方をしたことに対して、自国民に公式の謝罪すらしていない————実は、こうした態度は日本政府だけではない。朝日新聞を始め、その他の大新聞もNHKも、実態はかつての体質となんら変わってはいない。なぜなら、そうしたメディアのどこも、事実を偽って軍部に戦争協力し、若者を戦場に駆り出したことについては、その後今日に至るまで、公式の形で国民に謝罪したこともなければ、戦争報道の仕方について反省も総括も何もしていないのだからだ————。

 私は危惧する。一部の政党(日本共産党)を除き、日本政府と与党そして他の野党も、安全保障と言うと決まって日米安全保障条約を口にするが、果たしてこの国の政治家も大新聞もNHKも、自分たちがなしてきたことの失敗を謙虚に顧みようともしないこんな状態で­­­­、この国に再び国防ということを考えねばならない事態が生じたとき、この国の政府も、そして私たち国民も、本当にその国防など成し遂げられるのか、と。

 

 実はこの国の国防を考えるとき、私は、もう一つ、私たち日本国民が明確に頭に入れておかねばならない重大な問題が課題として残されている、と思っていることがある。

 それは、この国は、諸外国、特に欧米諸国が言う意味での国家ではない、少なくとも本物の国家ではない、ということである。

 では、そこで言う「本物の国家ではない」とはどういうことか。

その理由は近代になって確立された国家の定義を明らかにすることで明確になる。

しかしその国家の定義を明らかにするには、その前に「社会」とは何かを明らかにしておく必要がある。

そこで、その社会であるが、それは、「自分たちの相互の欲求の満足のために共に住み、共に働いている人間の一集団のこと」と定義できる(H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書p.5)。

 このように定義された社会を用いて、国家とは、「この社会を構成するあらゆる個人または集団に対して、合法的に最高な、一個の強制的権威を持つことによって統合された社会のこと」、となる(同上書p.6)。

 この定義の中で特に重要な文言は、「合法的に」、「最高な」、「一個の」、「強制的権威を持つ」そして「統合された」であろうと思う。

 こうして、この国が国家ではないということは、この国は、見かけはどうであろうと、実際にはこのように定義されるような社会にはなってはいないということなのだ。

それは例えば、次のようなところに注目すれば、その意味が判るのではないだろうか。

 明治期から大正期、そして昭和の20年までは、国の最上位に天皇がいたが、でもその天皇が、その当時は合憲的に、しかも最高の一個の強制的権威————統帥権統治権の両方を合わせた「天皇の大権」————を公式には持ってはいたが、だからと言ってその天皇が、その大権を持って軍部を含む国全体を実質的に常に統合していたかというとそうではなかった。実際には、海軍と陸軍からなる軍隊、それも海軍の官僚と陸軍の官僚とが、自分たちは「天皇の軍隊」であるという意識と統帥権の名の下に、公式の日本の政府の統治権を上回って、政府の言うことなどは無視して軍事を進めていたこと。しかも、海軍も陸軍も、常に天皇のためにとか、国民のためにということで一致共同して統治していたわけではなく、むしろ両者は互いに自分たちの存在意義を主張する犬猿の仲でさえあったことである。

 では、敗戦の年である昭和21年以降から今日までの日本はどうか。

一国の基本法である憲法が欽定憲法から民主憲法になって、主権者は天皇から国民に変わったが、そして民主主義的な議会政治の国になったとはされ、執行機関である中央政府の長である内閣総理大臣、すなわち首相が日本国の合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者となったかのように国民一般には信じられてはいるが、しかしそれを明記する憲法条文も法律条文もない。

その上、内閣を総理する首相は閣僚、すなわち中央政府の各府省庁の大臣を任命する権限を持っているともされてはいるが、では任命した首相は、自らが任命した閣僚全体を指揮しているかと言うと、決してそうではない。

 それは例えば、一つの政府内に次のような状況が頻繁に生じることに象徴的に現れている。

最近の実例から拾う。

 国民の「老後の30年間で必要な金額」はとして政府が国民に向って発表した数字についてである。この国が本物の国家であったなら、そこで発表される数字は一つのはずである。ところが、厚生労働省は約2000万円、金融庁は1500〜3000万円、経産省は2895万円というバラバラな金額を発表したのだ。

 これは一つの政府内で、閣僚同士の間で調整できていなかっただけではなく、総理大臣も全く関与していなかったことを示している。

 これでは、国民はどれを信じたらいいのか判らなくなり、混乱をきたしてしまうのである。

 もう一つの実例。

財務省は新紙幣を発行しようとしたことに対して、経済産業省はキャッシュレス化を進めようとしていることである。渋沢栄一の写った紙幣が出回ることになったのは、そうした背景によるのである。

 これも、国民にとっては、政府は何を重視しているのか、判断を迷わせられることなのだ。

 そして、最も最近の例では、今回の新型コロナウイルスパンデミックに対する政府の対応だ。

厚生労働大臣の言うこと、経済再生担当大臣の言うこと、コロナ対応行政改革大臣の言うこと、文部科学大臣国土交通大臣そして官房長官の言うこと、それぞれがバラバラであることだ。

 つまり、この国では、社会を構成するあらゆる個人または集団に対して、それを統合する、合法的に最高な、一個の強制的権威を持った者はいないということなのだ。つまり、総理大臣といえども、日本の社会を統合し得ていないのだ。

 しかも、首相に任命された各閣僚も、各府省庁の最高責任者としての大臣なのに、彼らは一般には公務員と呼ばれる「国民のシモベ」たる配下の官僚を国民から選ばれた代表として統括しているわけではない。むしろ、メディアの前でも、あるいは国会答弁でも、自分の言葉で理路整然と語れることができずに決まって官僚の作文を棒読みしているだけであることからも判るように、実態は配下の官僚の操り人形と化してさえいる。

 このことは次の実例からも判る。

例えば、財務省の官僚が起したいわゆる「森友学園」問題、またそこから生じた近畿財務局の某官僚が公式文書改竄を上司から命じられ、それを実行したことを悔いて自殺した件では、本来は財務省の最高責任者である麻生太郎が前面に出て国民の疑問に全て答えて説明責任を果たすべき立場だったのに、麻生はその責任は全く果たさず、むしろ他人事のように言い逃れしては、全てを配下の官僚任せにしていたことだ。

 またスリランカ女性が名古屋入国管理局管内において、人権を無視されて悲惨な死を遂げた問題でも、問題は法務省管轄の問題なのだからやはり同省の最高責任者である上川法務大臣が国民の前に立って説明責任を果たしながら配下の全官僚を指揮するということをしなくてはならなかったのに、彼女もそれを全くせず、メディア対応を全て官僚任せにしていたことだ。

 

 実はこの日本という国が国家とは成り得てはいない、さらにもう一つの明確な根拠もある。

それは、政治や行政のあり様に少しでも関心のある人なら誰でも知っている、この国の中央政府から地方政府に至るまでの行政組織の相互間の、いわゆる「縦割り」という悪しき慣例だ。

そこでは、中央政府の長と名乗る総理大臣も、都道府県知事や市町村長という首長も、互いに一つの政府として全府省庁や全部署を統合しようとは全くしていない。その上、府省庁間にも、部署間にも見えない垣根ができており、しかも互いに他の府省庁や部署の管轄範囲には踏み込まないことを暗黙の了解事項にしているために、必要な情報が必要な部署や人に伝わらない。それどころか、伝達する内容が自分たちの既得権にとって不都合な内容と見るや、途中で役人が勝手にその情報を握りつぶしさえする。

これでどうして、この国が、「社会を構成するあらゆる個人または集団に対して、合法的に最高な、一個の強制的権威を持つことによって統合された社会」、と言えるだろうか。

 このように、この日本という国は、今の所、どの観点から見ても、国は国でも、国家ではない、と言えるのである。

 

 では、国が国家ではないことは、国と国民にとってどうしてそれほどに重大で、また深刻なことなのか。

それは、例えば、かつてこの国に起こった、阪神淡路大震災オウム真理教サリン事件、東日本大震災、またその直後起こった東京電力福島原発の立て続く大爆発の時、中央政府はどう対応したかを思い出していただけばいいと思う。

 メディアは決まってその時の政府の対応を「初動体制の遅れ」と表現して国民に伝えたが、私は、そうした状態を招いた本質は初動体制云々の問題ではなく、この国が国家ではなかったからだ、国家ではないことによって生じたことだと断言できるのだ。

言い換えれば、この国の統治の体制が不備あるいは欠陥だらけだったから生じた現象なのだ。

 つまり、国が本当の国家でなかったなら、それは言い換えれば、国が国として、統治の体制に不備がある、あるいは穴だらけということなのだが、それであっては、いざ国難というとき、国民は特にその生命と自由と財産は救われないままになってしまう、少なくとも、国民が政府には今すぐ助けに来て欲しいと望んでも、政府は————中央政府はもちろん地方政府も————それに対応できないままとなる、つまり見捨てられるということなのだ。

 しかし、今後起ってくる国難の程度や規模は、阪神淡路大震災オウム真理教サリン事件・東日本大震災・またその直後起こった東京電力福島原発の立て続く大爆発のレベルではないと私は想像する。それよりももっともっと広範囲で、しかも長期にわたって続く事態だ。

そのような事態を生じさせる最大の原因は、今、地球規模で進んでいる温暖化と生物多様性の消滅という事態であろうと推測する。

そしてその時には、この国が今のままの体制で行ったなら、国民に生じる事態は一層悲惨なものとなるのは目に見えている。その時はほぼ間違いなく、この国は「無政府状態」に陥るだろう。つまり、政府は、中央政府も地方政府も、窃盗、略奪、放火、殺人、強姦等々の無秩序を制御できず、むしろそれらが日常茶飯事となるに違いないと私は見る。もちろんそこでは、もはや、“自衛隊は軍隊なのか”とか、“日本は日米安全保障条約を堅持する必要がある”などといった掛け声など全くと言っていいほどに無意味になるだろう。

 繰り返す。この国が特に大惨事の時ほど顕著になる政府の被災者への対応のまずさと、それをごまかすために国民に「自助」を呼びかけざるを得なくなるのは、この日本という国が明治期、山縣有朋によって基礎が築かれて来た日本国民すべてにとって最大限に忌むべき仕組み、すなわち、「『天皇の官僚』の権力が、選挙で選ばれた国民の代表によって決して制限されない仕組み、政党政治家が真の政治権力を獲得し得ない仕組み、その仕組みの効力が今もなお生きている」(カレル・ヴァン・ウオルフレン「日本という国をあなたのものにするために」角川書店p.50)というこの国が抱える本質的な問題、そしてそれを政治家という政治家が国家とは何かを知ろうとはしなかったが故に放置してきたという本質的な問題に因るのだ。

 そして国民の生命・自由・財産の安全にとって致命的なこの欠陥は、国防の問題に限らずに、国土の安全という問題においても、その他の国民の生命・自由・財産の安全が脅かされるすべての事態に対しても、全く同じことが言えるのである。

 

3.では、この日本という国を本当の意味で、それも永続的に安全な国にするには、国防という面について見た時、如何にしたらいいのであろう。

そして、同じく、この日本という国を本当の意味で、それも永続的に安全な国にするには、国土の安全というのは、如何にしたら図れるのであろう。

 以下では、その2つのテーマについて、順を追って、やはりここでも私なりに考察してみる。

 

 なお、都合により、以下は次回に回させていただきたいと思います。

13.7 教育と福祉と社会保障

13.7 教育と福祉と社会保障

 本節で提言する内容は、対外的安全保障のみならず、これからの日本のあらゆる意味での安全保障の土台を考え、この国の健全な存続を考える上で、私は決定的に重要なことであると考えるのである。

しかし、その内容を実現するには、特に私たち国民自身が、一人ひとり、真の意味での国の主権者となる、すなわち、国家の政治のあり方を最終的に決める権利を有する者であるという自覚を持つこと、そして他方の政治家と呼ばれる人たちも、一人残らず、これまでのような、この国の政治家もどき人たちが正当な理由もないままにやってきたことをやってきた通りにやっているのではなく、近代の黎明期に先哲らによって理論的に確立された民主主義政治のあり方を勉強することによって、本来の政治家としての使命と役割を明確に自覚し、それを常に実践できる真の政治家に立ち戻ることが絶対に必要なのだ。

 なぜなら、政治家だけが社会の秩序の形成と解体に直接関わることができるのであるからだ。彼らこそが、選挙を通じて、自ら掲げる公約を主権者である国民から支持されて選ばれた国民の利益代表であり、それだけに、彼らには、その公約を実現するための法律あるいは政策を作り、支持された公約を実現するために国民が納めた税金の使途を決めることのできる権力と権限を国民から公式に付託された、社会で唯一の立場なのだからだ。

ということは、言い換えれば、政治家以外に、法律を作ったり税金の使途を決めたり出来る者はいないということであり、したがって、法案や予算案を国民の代表でもなんでもない、ただ単に官吏人用試験に合格したというだけの一般に公務員と呼ばれる役人あるいは官僚に作らせてはならないということであり、それをすることは、政治家のみに信託された権力を他者に委譲することになり、信託した主権者を裏切ることになるからなのだ。

 またそれだけに政治家らが彼らだけの議論によって議会で決めたことについては、それを受け取った執行機関の政治家————それは中央政府では首相と閣僚のことであり、地方政府では首長のことである­­­­­­­————は、議会が決めたことを決めた通りに執行しなくてはならないが、その場合、配下の役人を自らの責任において指揮統括しなくてはならないのである。

 実はこの国では、近代西欧文明を取り込んだはずの明治期以来、近代西欧が確立したこうした民主主義政治を遂行する上での原則を、主権者であるはずの国民も、主権者から選ばれた主権者の利益代表であるはずの政治家も、そして主権者である国民に「シモベ」として仕えるべき役人も果たしては来なかった。

 そしてこのことこそが、この日本という国の私たち民が、どんなに経済は発達したようには見えても、本当の幸せや豊かさをいつまで経っても実現し得ないできた根本的な原因なのである。

 

 だから、この国において、本節で掲げる、あえて「真の」と付け加えるべき教育と福祉と社会保障が「三種の指導原理」に基礎を置く国家の主たるしくみとして実現されるためには、その前に、以下のような根本的な変革が絶対に必要となる、と私は考えるのである。

 それは、① 国民一人ひとりが自らの意識を変革して、日本国の真の主権者となること。

② 現行の選挙制度を廃止して、民主主義議会政治を真に理解し体得した本物の政治家を国民が育てて、選部ことのできる選挙制度に作り変えること(9.1節)。

ここで言う「現行の選挙制度」とは、お金がある者、元々選挙地盤のある者、政治家の二世・三世、あるいは著名人あるいは団体の後押しが期待できる者等々でなくては選挙に出られない制度であること、また必然的に莫大な数の死票を出してしまう制度であること、そして有権者の半数をはるかに割る得票率でも政権を獲得できてしまう制度であること、そして何と言っても選挙そのものが完全に儀式化してしまったものであること等々を指す。

③ 主権者として覚醒した国民によって正当に選ばれたそうした本物の政治家によって、もはやこれまでのように、法案や政策案そして予算案の作成を役人に放任するのではなく、全ての政治家自身が自ら掲げてきた「公約」を実現するための法案や政策案そして予算案を、議会において政治家同士で優先順位を考慮しながら、議論して決めてゆく。

 その時、既存の法律との整合性にはさほど気を使う必要はないのである。後に出来た法律が常に優先されるからだ。

そして今後は、彼ら本物の政治家によって、政府の一般会計のみならず、これまで国民には全くと言っていいほどに不明だった中央政府の各省庁の「特別会計」も徹底して見直し、官僚たちの既得権を維持するためだけの会計、天下り先を確保するためだけの会計は、躊躇なく廃止してゆく。

 そのことをするだけでも、声までどれほど国民のお金が無駄に使われて来たかが判明するであろう。

④ と同時に、本物の政治家たちの手によって、戦後すぐに薩長政権の影響を色濃く残した官僚たちによって作られたままになっている法律も含めて、既存のすべての法律を見直し、時代遅れものや不要なもの、行政組織間の「縦割り」を助長するようなものの全てを廃止すると共に、役人によるこれまでの税金の使われ方や使途をも徹底して見直してゆく。

 その際、これまでの、やはりこれも各府省庁の官僚たちの既得権維持のためという色彩が濃かった上に、自然や生態系を大規模に破壊しがちだった「公共事業」も躊躇なく廃止して、税金の無駄遣いを徹底して止めさせる。そして、そうした名ばかりの「公共」事業の代わりに、「真の公共事業」を進めるための内容と制度を議会で決める(11.6節)。

 つまり、こうして議会を、名実ともの本来の国民の代表者の集う議会、国民の代表者が国民の安全と福祉のための法律や予算を決めることのできる議会、それゆえに最高権力を持った議会として生まれ変わらせるのである。

 実はそのことは同時に、官僚を含む全ての役人から、彼らの「既得権を拡大あるいは維持する」という意識を無意味化させることであり、これまでの官僚主導による「官主主義」を打破して、この国に真の「民主主義」を実現させることでもあるのである。言い換えれば、これまで役人が憲法を無視しては当たり前に繰り返してきた、法律に基づかない権力の行使を不可能にするのである。

 そしてこれができるようになれば、これまで予算案作りを官僚任せにしてきたことによって生じさせてきたこの国の超巨額の財政赤字————中央政府と地方政府の債務残高————をも急速に減らすことができるようになるし、使える税金に余裕が生まれるようになって、ようやく、本節が主題とする、「三種の指導原理」に基礎を置くこの日本の国家としての仕組みの重要な部分である教育と福祉と社会保障に関する法律を、真に国民が望み、また期待するようなものとして作ることができるようになるのである。

⑤ 次には、最高権としての議会が定めた法律や政策そして予算を、今度は、執行機関である政府の政治家(首相、閣僚、首長)が、それを受けて、配下の役人をきちんと指揮統括しながら、議会が決めた通りに執行するのである。

 実はこのことはこの国を真に民主主義の実現した国にする上で、極めて重大なのである。それは次の意味においてである。

① これまでは、政治家が各府省庁の官僚に放任してきた結果、それをいいことにして、官僚たちが立法するというとんでもない権力行使が当たり前のように行われてきたが、もはや、官僚たちはそれができなくなるからだ。

② それはこうも言い換えられる。

これまでは、各府省庁の官僚たちは、それぞれ、自分たちの既得権を維持あるいは拡大するための法律を策定する際に————本来、公僕である官僚に、主権者である国民を縛る法律を策定する権限も権力もないのだが­­­­­­­­、それをこの国の政治家はそうした政治原則をきちんと考えもしなければ、理解もしていないからであろう、移譲してしまっているのだ!————、「専門家の皆さんのお墨付きが得られた」として利用し、その法案を閣議で通させるための常套手段として、自分たちに好都合な答申をしてくれる専門家を恣意的に選任しては「審議会」や、それに連なる各種委員会を設けてきたが、もはやそうした企みも無意味化させられる、ということだ。

③ あるいはさらにこうも言い換えられる。

これまで、閣議というものは、各府省庁の官僚たちが所属府省庁に好都合となることを意図して作成した法案なり政策案なり予算案のうち、各府省庁の事務次官が全員合意したものだけが提出される場であると同時に、その提出されたものを、わずか15分か20分程度で全閣僚がサインすることで「閣議決定」したことにしてしまう、文字通りのサイン会、あるいは儀式の場であった。

そしてそのことは、この日本という国にとっても、また私たち日本国民にとっても、民主主義議会政治の原則を破る決定的に重大な2つの過ちを犯していたことなのだ。

 1つは、本来閣議とは、議会が最高権として作って決めた法律・政策・予算を、「三権分立」の原則に従って、あくまでも議会が決めた通りに執行する際の執行方法を、執行機関の中枢として、総理と閣僚とで議論して決めるべき場であるのに、その政治原則を破って、政府が作った法案・政策案・予算案として公式に決定する場にしてしまっている点である。

 1つは、その上、国民から選ばれた国民の利益代表であるはずの政治家(総理大臣と閣僚)が、事もあろうに、主権者である国民に対して「シモベ」として仕えるべき官僚の作ったものを「閣議決定」という形で公式に承認してしまう場にして来てしまった点である。

そしてこのことは、政府の政治家が、自分を選んでくれた国民を裏切って、官僚と官僚組織にこの日本を託してしまっていることだ。

 しかし、これからの閣議は、これまでのそれとはやることが全く異なる、ということである。

議会が決めた法律なり政策そして予算を、議会が決めた通りに、それも、最高の効率————最少の税金、最少の資源、最少の時間、最少の人数————で、最高の成果を上げられるような執行方法を、必要ならば、執行内容に関係する分野の専門家を閣議に招聘して、その彼らの知恵を借りながら、総理を含む閣僚同士で真摯に議論して公式に定める場となるからである。

 そして一旦公式に確定させたその執行方法に基づきながら、首相の全体指揮の下、各閣僚が配下の役人をきちんとコントロールしながら、憲法第15条の第1項の「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」に従って、人事権を正当かつ公正に行使しつつ執行する機関となるからである。

 なおその際、政治家は国民に成り代わって、役人のやっていることを絶えずチェックし、必要に応じて、絶えず役人に自分たちのやっていることについての説明責任を果たさせるのである。

そこで言う説明責任とは、なぜ、今それをそのようにするのか、なぜ、他のこのような仕方をしないのか、その際どのような責任を感じているのかを根拠をもって、国民が納得するように説明することであって、道義的責任を負わせることでもなければ、単に状況を説明することでもない。

 

 結局のところ、こうして、官僚は、これまでは、持っていると国民一般に信じられてきた権力は、ここで全てを失い、国民の代表である政治家に戻され、真の民主主義の実現した日本になるのである

そしてこれこそ、明治期、最後の大物元老であった山縣有朋が、官僚を「天皇のしもべ」と位置づけ、政党政治家を忌み嫌い、持てる権力の全てを使って政党政治の発展を阻止しようとして巧妙に作って来た、「天皇の官僚」の権力が選挙で選ばれた国民の代表によって決して制限されない政治行政システム(カレル・ヴァン・ウオルフレン「日本という国をあなたのものにするために」角川書店 p.47)を、戦後70余年になってやっと根底から打ち砕くことができた、ということを意味するのである。

 

 以上が、真の教育と福祉と社会保障を実現するために、この国にとっては、あらかじめ通らねばならない絶対不可欠な変革の筋道となる、と私は考えるのである。

こうした手順を踏まずに、つまり本当の意味で国民に忠誠を尽くす行動をしないで、政治家がただ“教育と福祉と社会保障を実現します”と訴えても、それは口先だけとならざるを得ないために、結局は、国民を裏切り、国民の絶望感を深め、国民の政治への信頼を一層失うことにしかならないのだ。

 しかし繰り返して強調するが、私たち国民が悲願としてきたこれらが実現されるためには、まず私たち国民自身が、一人ひとり、政治や政治家に要求する前に、日本国憲法が明記する国の主権者であるという意識と自覚を明確に持ち、そしてその責任を果たすことなのである。

 そこで以下では、私は、上記したことが達成されるということを前提の上で論じてゆこうと思う。

 これからのこの国の学校教育のあり方について考えるとき、その教育内容と制度については、私は既に第10章にて、私なりの考えを示してきた。

 そこでは、そもそも教育の最も重要な目的は、児童生徒一人ひとりをして、社会の中にあって、自立し、自らを律し得る「人間」として育てることであるとしてきた。

そのためには、自ら考える力、自ら判断する力、そして自ら決断できる力を身につけさせると共に、そこに現れた結果については、言い訳をすることなく自ら責任を持って引き受けられる真の意味で自由な人間として成長できるカリキュラムにすべきであるとも主張してきた。

だから、もはやかつての文部省や文部科学省の官僚が考えてきたような、この国を果てしなく経済発展させるためにとして、産業界の立場に立って、即戦力として役立つ人材、必要に応じていつでも取っ替えることができる安価な労働力商品として児童生徒を画一的に、あるいは均質に育成することではないとも強調してきた。それに、児童生徒に対して、彼らが人生を生きてゆく上でほとんど役には立たないような知識、それも断片的な知識を、競争させながら、よりたくさん、素早く記憶させたり、また、相手に伝えるべき自分の思想も育たないうちから英会話をカリキュラム化したり、パソコン授業を取り込むといった、その時だけの時流に流された授業をすることでもない、としてきた。

 そもそもみんなが進学し、みんながサラリーマンへの道を進むというのは、どう考えても不自然だし、無理がある。なぜなら、人は皆、生き方も違うし、生きて来た環境も違うし、その中で身に付けて来た個性や能力も千差万別なのだからだ。

 そのことを考えると、今、減るどころかますます増えているこの国のイジメ、それに因る自殺、登校拒否、生徒同士の殺人、またかつて同じ教育環境で育った親による子どもへの虐待、また、大人についても言えるイジメや引きこもり等々は、すべて、元を質せば、一人ひとりの個性や能力を無視し、またその存在意義をも無視しては、すべての者を、一個の人間としてではなく、一つの型の中にはめ込もうとしてきた国家によるこうした画一教育こそがもたらしたものではないか、と私は考えるのである。こんな教育をしたなら、結果として、児童生徒あるいはかつて同じ環境で育った親や大人たちに、個人差はあれども、そして本人自身も気づかないところで、余計なストレスを慢性的に感じさせ、社会に対する憎悪や敵意あるいは反発心を覚えさせて、少なからぬ精神障害を引き起こしてしまうのは当然ではないか、と私などは推測するのである。

 なお教育制度については、全員がなんらかの産業界にサラリーマンとして進んでゆくことを前提とした教育制度ではなく、人間として社会に生きる上で必要不可欠な基本的な素養を身につけた段階で、例えば、小学校卒業した時点で、児童生徒一人ひとりの個性や能力、あるいは特技、さらには希望に基づいて、自由に自ら進みたいとするコースを選択でき、しかもそれらを選択した後も、誰もが平等に、その個々人の目標に向かって能力を開花させてゆくことのできる条件や施設を、国家の保障の下に完備してゆくのである。

つまり、彼らには、これからの人生に向けて、自分の望む方向に自由に道を選択できるのだとして、希望を与えるのである。多様な選択肢があると知らしめ、それを自ら選ばせるのである。

 そして、教育費あるいは学費については、どのようなコースを選択した児童生徒に対しても、国家は、無条件に無償とするのである。

 なぜなら、教育には児童生徒一人ひとりを人間として育てるという大目的もあるが、同時に、そして究極的には、人間として育ったその人たち一人ひとりによって国を————ここでの国とは、国民のことであり、日本の文化であり、国の諸産業であり、国土や自然であり、国を成り立たせている様々な社会的諸制度等を含む————永続的に支えて行ってもらわねばならないわけであり、それこそが国家の利益になることだからだ。

 つまり、教育にこそ税金を惜しげも無く投入する価値があるわけである。

特にこの国は、化石資源や鉱物資源が乏しかっただけに、それだけに私たち国民は、この国の児童生徒一人ひとりを————もちろんこれから生まれてくる子供たちをも————産業面だけではなく、国をあらゆる面で支えてくれる、国の最大で最良の宝であり資源と見て育てるのである。

それが、教育費・学費は、誰に対しても、全額、無条件に無償とする、との根拠である。

 

 次にこれからの日本の福祉のあり方について。

福祉とは、一般に、「公的扶助やサービスによる生活の安定、充足」を言うが(広辞苑第六版)、国家の主たるしくみを考える本節では、その福祉の範囲を保育と保健と医療と看護と介護の分野に限定して考える。

 その場合も、保育と保健と医療と看護と介護は国民一人ひとりの人生を支え、その人生に安心感と深い幸福感をもたらす上で、既述の教育と同レベルに重要なことであるゆえに、基本的にその福祉は国家で支える。そして、保育も、保健も、医療も、看護も、介護も、原則、無料とする。

 なお、言うまでもないが、保育と保健と医療と看護と介護に関わる人々に対しては、国家として、他産業と比較しても、最大級の待遇を保障する。

なぜなら、国を支える、国の真の財産の命を支える人々だからだ。

それだけに、その人たちを、数の上でも、十分に確保するのである。

 ただし、その場合も、国家で支えるとは言っても、この国ではしばらくは続くことがはっきりしている少子化、高齢化、人口減少、そして国と地方の超巨額の政府債務残高という事情を考えるならば、全てを国家、すなわちその事務代理機関としての中央政府だけで人も施設も実現できることではないので、地方政府と連携しながら、上記の範囲での福祉を実現してゆくことにするのである。

 では、具体的には、国民に対する保育と保健と医療と看護と介護の充実をどう実現させるか。

 そこでまずは保育について。

これを考える際には、まずは、保育士には、保育士自身が、幼い頃から豊かな自然体験を持っていることを、採用の条件とする。

なぜなら、これからの環境時代を考えるとき、国民一人ひとりをして、自然や社会の中で「生きる力」を身につけることが真に求められてくると思われるのであるが、そのためには、幼児期の子供の保育に携わる者には、その人自身がまずは「自然」をより多く知っていることが必要と考えられるからだ。そして実際、幼児をより多くの機会を通じて、自然の中で、集団で保育するのである。とはいえ、基本的には、幼児たちを自然の中で、自由に遊ばせるのである。

 次に保健について。

 保健とは、文字通り、健康を保つことである。

そしてその健康には、大きく分けて精神的健康と肉体的な健康とがある。

しかし、その両者は、互いに別物ではなく、むしろ密接不可分に結びついている。

 私は、国民一人ひとりの健康を保ついろいろな方法を考えた時、あらゆる意味で最も合理的なのは、自分で自分の体を動かせる人については、その動かせる度合いに応じた農作業をすることではないかと考えるのである(11.3節を参照)。

 ここで言う「合理的」とは、まずはお金、つまり費用が最もかからずに、安くできること。化石エネルギーや電力を使わずにできるし、大気や河川水を農薬や化学肥料で汚染させずに済むこと。それに、国民の多くが、各地域でこうした健康維持策としての農作業をするようになれば、今日進みつつある国土の荒廃、すなわち耕作放棄地の増大を防げて国土安全保障を高められる。そして同時に、この農作業は、必然的に、各人が健康に生きてゆく上で欠かせない生産物が、新鮮なものとして得られるという収穫の歓びをもたらしてくれる。これは、この国の現状37%という危機的な食料自給率を改善できることでもある。すなわち、国の食料安全保障をも高められるのである。

 またこの国民的農作業の奨励は、結果として、今日、物質的豊かさや快適さを満喫する中で私たちが忘れかけている、自然への畏敬の念を思い出させてくれて、謙虚に生きること、耐えること、待つこと等々の大切さをも教えてくれるようになるのではないか、と私自身の体験から想う。

 なお、ここでの農作業では、当然ながら、何かと人体や生態系に害をもたらす農薬も化学肥料も使わない。また温室効果ガス(CO2)を出す農業機械も使わない。鎌や鍬といった身近な農機具だけで行うとするのである。

そしてそうした農作業が可能となるための農地や制度については、住民(国民)から選挙で選ばれた代表である政治家たちが、自ら全責任を持って決める。それも、各議員自らが代表する住民の意向や要望を真摯に聞き取り、それを満たすようにしてである。ゆめゆめ、それをこれまでのように役所の役人任せにしてはならない。彼ら役人に任せたなら、彼らは住民の福祉よりも、自分たちの既得権を守れる制度しか考えないからだ。

 そして、議会が定めた仕組みを、地方政府(役所)の首長は、執行機関の長として、配下の役人をコントロールしながら、議会が決めた通りに、最大限効率と最大の効果があげられるように執行させるのだ。

 なお、なんらかの事情で体を動かせない人は、次に述べる医療そして看護を通じて、健康の回復を図るようにするのである。

 では医療と看護について。 

この職業に携わる人々には、技術や知識を習得する前に、あるいは習得しながら、まずは「人間の尊厳」ということや「生命の尊厳」ということを知ってもらいたいのである。

特に医療従事者が相手とする人間は、「弱者としての人間」なのだからだ。
 なんらかの病気を抱えている人は、心細いのである。不安なのである。

 医療従事者は、まずはその真実を理解することが、医療分野での福祉を実現する第一歩ではないか、と私は考えるのである。

 つまり、どんなに優秀な技術を腕に持っていても、どんなに多くの専門知識を持っていても、患者=弱さを抱えた人間であることが理解できていなかったなら、それだけで、私はその分野に携わる者としては失格、と見るのである。

 最後の介護について。

この場合も、患者に向き合う人に最も大切なこととして求められるのは、相手とするのは「弱者としての人間」であること、ことに終末期を迎えた患者に対しては、この人は今、死への不安や恐怖に向き合っている人であろう、自身の人生を振り返って、総まとめをしようとしている人であろう、ということへの理解と共感であろう。

であるから、それを自ら心静かに整理できるような雰囲気を作ってあげることなのではないか、と私は考えるのである。

 

 次に日本のこれからの社会保障のあり方について。

 その場合、特に問題なのは、世代間での相互扶助制度である「年金制度」であろう。

そして、現行のこの制度は色々な仕組みから成り立っているが、要は、これまで年金をもらえてきた人のように、これからの人たちも、同様に、そして間違いなく、一人ひとりが日本人として暮らしてゆく上で、生活に必要十分な年金を国家からもらえるのか、ということだと私は思う。

 しかしそれも、本節の冒頭で述べてきた、国民自身の意識変革と、本物の政治家による政治における真に民主主義的な変革が実現されれば、自ずと、国民が望む仕組みや制度が実現される、と私は確信するのである。

 

13.6 文化としての技術・芸術・芸能・工芸の振興とその担い手の 国家による持続的育成制度

13.6 文化としての技術・芸術・芸能・工芸の振興とその担い手の

国家による持続的育成制度

本節では、次の筋道に従って私の論を進めてゆきます。

⑴ 文化とは何か。

 文化とは、ある人によって見出され行われている生活様式がその地域の人々の暮らしの様式となったもの、辞書的に言えば、「人間が自然に対して手を加えることによって形成してきた物心両面での、暮らしの中に取り入れられた様式と内容」のことであって、そこには、「衣食住をはじめ、科学・技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容を含む」、とある(広辞苑第六班)。

あるいは広義としての文化とは、「我々の習慣、風俗、ずっと続いてきた制度・機関、歴史の中で育まれた趣味・趣向など、およそ次世代に引き継がれそうなものならなんでも文化の一部である」、狭義としては、「社会の高度の洗練された生産物を指すもので、文学や音楽といった芸術、宗教、哲学、科学など」と説明される(カレル・ヴァン・ウオルフレン「なぜ日本人は日本を愛せないのか」p.52。 以下、本書を主に参考にしてゆくが、その際の括弧内の数字はその書のページである)。

 つまり文化とは、集合としての私たちの生き方そのものなのである。

その文化は、その土地の気候、地形、その他の自然条件と歴史とに密接な関係にある。またそれだけに、文化は必然的に地域性を持つ。つまり文化は、そのままの形では他所に輸出することも、他所から輸入して真似ることもできないという性質を持つ。

 しかしながら、文化は何も人間についてのみ成り立ち得るものではなく、持続的な群れ生活をしている生物一般について、それも特に哺乳類、その中でもなんと言っても霊長類についても言えることである。

そこで、文化とは、最も一般的には、「一個の生物個体の新しい行動が、群れという集団としての行動様式になったもの」、と定義し得ることが判る。

 当然ながら、その文化の成立は、持続的な群れ生活をしている生物においてでなければ、本格的には不可能である。

 そして文化は、ひとたび成立すると、それを共有する個体の様々な経験に基づく学習がそれに付け加えられて、発展してゆく。

 そこで、以下では、文化を、カレル・ヴァン・ウオルフレンに従って、「人々がいつも行なっているありとあらゆること」という広義の意味で用いてゆくことにする(52)。

 

⑵ では、その文化とは、私たち人間にどのような意味を持つのだろうか。文化の持つ役割とは何であろう。

 それを整理した形で言うとこうなる(同じくカレル・ヴァン・ウオルフレン「なぜなぜ日本人は日本を愛せないのか」)。

・多くの習慣からなる文化は、社会秩序の安定に役立つ(67)。

・文化の持つその象徴的な機能によって、個人の社会生活を極めて意義深いものとさせてくれる(67)。

・また文化は、私たちに、私たちの外部世界を理解可能にもしてくれる(69)。

・そして、人々の行動に意味を与えてくれもする(69)。

 

 このことから判るように、私たちは皆、成長の過程で、文化によって方向付けられるのだ。それも、ある程度は。そして、私たちの現在の行動と思考も、私たちの文化の影響を受けているのである。おそらく、かなりの程度(55)。

つまり文化、この場合日本の文化は、私たち日本国民を他でもない日本人として育ててくれたのであり、また今後も育ててくれるものなのだ。

 このように、集合としての私たちの生き方を決定づけるのは文化であって、決して文明ではない。

言い換えれば、日本文化は、私たちをして日本人としてのアイデンティティを持てるようにしてくれるものなのである。

 このことから、私たちは、文化というフィルターを通してでなければ、世界を見ることができないし、文化の違い故に、社会が違えば、人が周囲の世界を解釈する仕方も違ってくる、と言えるのである。

・だが、ある人の性格が形成されるにあたっては、社会の他の人々が信じていること(これは文化の一部である)がどの程度与かっているかは、人によって違う。社会の決まりごと(これも文化の一部だ)がその人の日常の行動にどの程度影響しているかも、人によって違う。

誰もが知る通り、極めて素直で従順な人もいれば、反抗的で意思の強い人もいる。だが、私たちが知っているほとんどの人の性格は、その中間に位置するのである(56)。

 このように、文化の意味は、人によって異なっている。

またその意味で、私たちは、平均して、部分的にしか文化の産物ではない、とも言える。

 そしてこのことから次の重要なことも言えることが判るのである。

それは、ただ一通りの振る舞い方だけを人々に許すと結論するのは危険だということだ。また、いかなる場合もこう振る舞うべしという硬直した考え方をすることも決して望ましくないということも、だ。それに、文化については、その良し悪しは決して検証し得ない(71)。

 ところが、ときに支配者は、国の様々な習慣の中から特定のものを選び出し、政治的に都合のいいように束ね合わせて、国民にそれを強制しようとしがちだ。特に安倍晋三政権が国民に明治時代の道徳を今日の教育過程において押し付けようとしたのはその典型だ。また、同安倍政権の時、安倍晋三が国民に呼びかけた「美しい日本」もそれだ。

あるいは、国の様々な習慣の中から特定のものを選び出し、政治的に都合のいいところだけをつまみ出してはそれを疑似宗教に仕立て上げたりもする(69)。

 その象徴的な実例が、明治時代の権力者たちが作ってきて、それが大正、昭和と続き、アジア・太平洋戦争敗戦まで続けてきた、疑似宗教としての「国体」という偏った観念に基づく政治的社会的思想あるいはイデオロギーが正にそれだ(69と83)。

 ともかく、集合としての私たちの生き方そのものが文化である、とは言っても、その文化は変えてはならないという考え方は馬鹿げているし、ひどく有害でさえある。

なぜなら、そうでなかったなら、社会は硬直化し、進歩もなければ、社会の望ましい変革も起こり得ないだろうし、また正義のための闘いもあり得なくなるからだ(57)。

 

⑶ 私たち日本国民は、文化に対する姿勢として、これまで、政府によって、どのように教えられてきたか。

 個人と集団という関係で見たとき、文化にはそこから逃れられないという意味はないにも拘らず(54)、日本文化が全てを決定していると教えられ、また文化は変えてはならないものとも教えられ、それが強い思い込みとなって一人ひとりの精神を拘束し、その結果として個人の自主性を著しく阻害してきたのである(50)。

 その好例が既述の「国体」というイデオロギーだ。

日本にはもともと社会的な調和が備わっており、「一億一心」の「家族国家」の中心に慈悲深い天皇がおわしますという思想のことだ。それは、聖徳太子時代からの「和」と慈悲深い「お上」との構成の上に成り立っている(76)。

そのイデオロギーは、国民に、心身両面における絶対の忠誠を要求するとともに、この国家イデオロギーを公認の最高宗教とするために、他の全ての思想信条は自動的に弾圧され、この国家イデオロギーのしもべとなるよう強いられたのである(76)。

そしてこの国家イデオロギーこそは、政府がその文化は変えてはならないという考え方を流布させる中で、ずっと日本文化の核心をなしてきたのだ。

・その結果、日本の文化は、今日に至ってもなお、明治期のこの時の政府の全体主義的介入から完全に回復できてはいないのである(76)。

 

⑷ そのように教えられてきた文化に対して、私たち日本国民は実際にどのように接してきたか。

 この国の中央政府が、もっと正確に言うと中央政府の経済担当府省庁の官僚たちが、財界の官僚たちとの間で非公式に設けてきた国策、つまり国民に事前に説明し、了解を得た上でのものではない「果てしなく工業生産力を増大させる」という、少し真剣に考えれば、理論的にも現実的にもそんなことは成り立つはずもないことがその時点で判る政策を国民に押し付け、国民もそれをほとんど無批判で無条件に受け入れて来たのである。

「追いつけ、追い越せ」とか、「モーレツ社員」とか「社畜」という言葉はそんな風潮の中で生まれた。

 そこでは、教育や福祉、あるいは伝統の芸術、芸能、工芸、あるいは美術、演劇、思想、娯楽等の広い意味での文化を維持し、それを発展させるということを二の次、三の次にしてきたのである。しかも、その経済最優先の中では、日本の歴史を切り離してである。

  

⑸ では、そうした社会経済動向の中で、私たち日本国民は何を得、何を失ってきたか。

 得たものといえば、ただ一つ。「豊かさ」である。それも物質面に限定しての豊かさだ。その豊かさの中には、利便性の向上、快適性の向上も含まれる。その反面、精神的な面、心の面は全く置き忘れて来たのである。

その結果生じた現象が、人間関係における孤立化であり、人間の断片化であり、人間の浅薄化だった。また、国は富んでも、相変わらず貧しいままの国民、というものである。

 それだけではない。

 私たちは、経験を通じて、そしてその経験がいかなるものであったかその経験の意味を問うことを通じて、知識を、それも正しい知識を獲得してゆくものである。

 ところが、自らを歴史から切り離し、政府の経済発展最優先政策に無条件に従ってきた結果として、私たち日本国民は、概して一人ひとりが、自らの歴史的立ち位置を見失って来た。自分は今、人類の、あるいは日本の歴史の流れの中のどこに立っているのか、という認識を、である。だから、これからどうなってゆくのか、ということも、見通せない。だから不安を抱くだけだ。また長いこと歴史の中で、権力者によって、物事を疑問に思い、そしてそれについて問うと問う気風を抑圧されても来たがために、政治制度や社会の様々な文化や習慣に対して、それが今の時代や状況にふさわしいのか、維持すべきなのかと問うこともなく、ただ権力者の言うがままに従ってきたがために、自己認識をも持てないで来てしまった。だから、社会がことごとく行き詰ってくると、皆が皆、俯き加減になり、内向きになり、ストレスを抱え込みがちとなり、鬱になったり、時に現実空間から逃避して、仮想空間に逃れようとしたりしがちになる。

 自己認識は、私たちをして、自分を構成する要素と自分の機能について知り、幻想や妄想の部分が減って、感情をよりコントロールできるようにしてくれるという意味で、それを持てることは極めて重要なものなのである(112)。

 それだけではない。伝統的な文化をも失ってきた。

 例えば、地域地域によって違い、特色でもあった徳川時代から続くその地域固有の街並みがそうだ。歴史と伝統の中で磨き上げられてきた工芸の技術や芸術・芸能等々の様々な生活文化や、また伝統の祭りや地域独特の季節ごとの行事等がそれである。

 また、私が具体的に知っている限りでも、次のことが言える。

特に、鎌(かま)、鍬(くわ)などの農業道具が本当に使い勝手が悪くなり、すぐに切れなくなったりするのである。そのことは、有機農法を続ける中で、痛切に感じるのである。あるいは、鉋(かんな)、鑿(のみ)、鋸(のこぎり)などの大工道具類も、本当に質がどんどん落ちている。

 その他、和紙づくり、建具づくり、焼き物づくり、染め物、あるいは桶や樽、包丁等々を含めた、いわゆる「匠の技」もである。

 こうしたことが起こるのは、コストを削減し、効率と利潤を最大化することをもって「経済合理性」とする考え方に基づく資本主義経済とそのシステム、とりわけ画一的大量生産方式の拡大と一般化という時代の流れと、この国の中央政府の、経済を無限に発展させることを最優先する政策の結果であろうと、私は見るのである。

 

⑹ こうしたものを失うことは、日本国民にとって、何を意味しているのか。

 一言で言えば、根無し草の日本人となるわけだから、アイデンティティをほとんど持てない日本人となる、ということだ。特に伝統の文化を消滅させてしまうことは、同時に、日本の歴史の一部を失うことでもある。

そしてそのことは、後述するが、特に時代が資本主義が支配的であった近代を終えて環境時代NIすでに突入してしまっているこれからを生き抜いて行けるかという観点から見た時、極めて憂慮すべき事態だ、と、私は考えるのである。

 

⑺ ではこれからは、私たちは日本国民としてどうして行ったらいいのだろうか。

 日本は、特に戦後は、政府の非公式の国策「工業生産力を無限に発展させてゆく」によって、経済発展を最優先に進めてきた。そして国民は、その非公式国策に無批判かつ無条件に従ってきた————その結果として、この国は、とくに真の教育や福祉といった面において先進国と比べて大幅に遅れてしまうことになった————。

それは、世界的に環境問題、とりわけ温暖化と生物多様性の消滅が人類の存続にとって重大な問題となると判ってきた1960年代以降から今日に至っても変わらない。

 環境問題が表面化して来た時でも、この国ではいつも二項対立的思考方法に依って言い逃れをして来た。すなわち「経済か、環境か」、「経済を優先するのか、環境を優先するのか」という論法によってである。

そして深くものを考えず、また遠くを見やることもせずに、目先しか見ない政府と、損得でしか考えない国民の多くは、結局は、決まって経済を選び取ってきたのである。

 その結果が、今日のこの国の自然環境の状態や、日本人としてのアイデンティティを失った文化の状態を含めた全ての状態である。

 では今後もこのままでいいのだろうか。よくないとするなら、私たちはどうして行ったらいいのだろうか。

 これを考える際、どうしても明確に頭に押さえておかねばならないことは、今日のままでは、近い将来には、私たち地球上の人類は、ほぼ間違いなく、前例のない大惨事に頻繁に遭遇することになるだろう、ということである。

だから、ここで、「私たちは今後どうして行ったらいいのだろうか」ということを考えるということは、この国と国民の安全保障を考えるということなのである。

 安全保障というと、この国の政治家はすぐに、日米安全保障と結びつけたがるが、考えるべき安全保障は対外的なそれだけではない。食料安全保障も、エネルギー安全保障もある。

しかしここでは、私たち日本国民の、国民としての生き方の面における安全保障である。

 すなわち文化面における安全保障なのである。

 今、メディアでも、専門家や評論家(コメンテーター)などは頻繁にこれからの時代はITだ、AIだ、あるいはイノベーションだ、と力説するが、私は、それは全く無責任な主張とみる。つまりそんなことでこれからの環境時代、乗り切れるはずは絶対にないと私は確信するからだ。 

 これからの時代、本当に求められるのは、一人ひとりの生きる力だ、と私は考えるからだ。あるいは集団としての生きる力だ、と考えるからだ。

 それはまさに、文化を考えることだ。ITやAI、あるいはイノベーションを考えることは文明を考えることだ。

 もちろん文化と文明の関係も、それらが健全に発展してゆくためには、二項対立的考え方によるのではなく「調和」の捉え方をしなくてはならない(4.1節での「調和」の再定義を参照)。だから文明を考えることも大切だが、環境時代には、やはり文化を大切にすることの方がもっと重要なことだと私は考えるのである。

その理由は、既述のように(7.4節)、文明あるいはその産物は、どちらかといえば個々の人間を孤立させ、心身を虚弱にさせると同時に、自分本位にさせてしまう傾向があるのに対して、文化は、各地域固有の集団としての生き方であるという性格を本質的に持つものであるだけに、その地域の人々を結束させ、協力し合える力を育てるものだからだ。

文明とは、これも辞書的な意味に私なりに補足すると、生産手段の発達によって生産力が上がり、その結果として人々の生活水準も上がって、それがその地域に限定されるのではなく世界化した状態のことなのである。

 

 そこで、ここでの「ではこれからは、私たちは日本国民としてどうして行ったらいいのだろうか」を考えるに当たっては、次のことをまず確認しておかねばならない。

それは文化は地域共同体に属するものであるということ、それゆえに、政府は、文化には口出しをすべきではない、それに文化は絶えず変化してもいるのであるからだ(68)、ということである。また同じく、政府は文化を守ろうと努力すべきでもない、ということである。

 そしてもう一つ確認しておかねばならないことは、私たちは、自分たちの文化を超え出てゆく能力を持った、独立した個々人でもある(57)、ということだ。

そうした行動あるいは振る舞いをどの程度取れるかは人によりまちまちだが、しかし我々は皆、人間として、それをする能力を同じ様に持って生まれてきているのである(57)。

そしてその能力を誰もが持っているが故に、社会には、進歩も、変革も、また正義のための闘いもありうるのであるからだ(57)。

 そこでの倫理観は、私たちの文化の一部かもしれないが、そうでなくても構わない。とにかく、この倫理観は私たちが個人の資格で持ちうるもので、これによって私たちは自分の文化を超え出て行ける。そしてこの倫理観によって生きる時、私たちは真に人間らしい人間となるのである(58)。

 では上記目的を果たすためにはどうしたらいいか。

私はそれをこう考える。

・あらゆる文化を、それも可能な限り多様な文化を、政府が後ろ盾になって財政的に支援し、育てる。その際大切なことは、政府は資金援助はするが、口は出さないという姿勢を貫くことだ。

・学校教育制度を根本から改め、児童生徒の個性と能力を認め、むしろそれを積極的に伸ばす学校教育制度にする。

・進学し、サラリーマンになることだけが人生ではない。むしろサラリーマンには向かない若者もいる。それを無理やりサラリーマンの道を進ませることは、彼の能力と個性を殺すことだ。それは国家として損失でもある。

だから、社会で人間として生きてゆく上での基礎は全員が共通に学びながらも、それを学んだ後のある段階で、進学を希望する者と、我が道を行こうとする者とが、何の差別もなく、自由に選択できるような、そしてそれぞれを政府が後押しをできるような学校教育制度にする。

つまり、彼らがこれからの人生に立ち向かってゆくときの選択肢を国家として豊かに保障するのである。

 ここに、「我が道」とは、広い意味では、手に技や技術を身に付けた職人への道、芸を身につけた芸術家ということである。その中には、廃れつつある日本の伝統文化(匠の技・芸術・芸能)を再興させることに情熱を傾けてくれる者もいるかもしれない。

そうした彼らを育てるためには、例えば、国立の伝統文化再生のための幅広い人材養成機関を設立し、そこに志願者を募り、未だ存命の「匠」に指導していただく。

もちろん全額無償で、である。そこでの一応の基礎課程を終了した後には、指導を受けた者が今度は全国各地に散って、自らが実践的な体験を通じて技を極めてゆきながら、彼等自身が師匠となって若手後進を育てて行くのである。

 そしてゆくゆくは、彼ら一人ひとりが、その道での技を芸術的レベルにまで洗練させ、高めて行く。

 とにかく、今、この国は、人口が減少し、人口の高齢化が進む中で、国としての生き抜けるための安全保障を考える時、本当に求められるのは、ITやAI、あるいはイノベーションをやってのけられる人材ではなく、言い換えればGDPを上げることに貢献できる人材ではなく、多様な生き方をする中で、多様な能力、それもより高度な能力を持った、多様な人材なのだ、と私は確信する。

 同じような考え方や生き方をし、同じように行動し、同じような能力を持った人たちだけでは、一人いるのと大して違いはないし、それにどういう形で襲ってくるか判らない大災難には対応できず、乗り越えることもできない、と私は危惧するからだ。

 なお、最後に付言するならば、自国の文化の意義と価値を判ろうとしないところでは、どんなに外国の文化を見、接しても、多分そこの文化も、真の意味では理解し得ないのではないか、と私は考えるのである。

 

 

13.13 立法と行政と司法

 今回も前回と同じく第13章についてですが、そのうちの第13節について、私の見解を述べます。

 

13.13 立法と行政と司法

 本節においては、日本国の中央での立法と行政と司法の関係、すなわち国会と中央政府最高裁判所を含む裁判所一般の関係について述べるが、実はそこで述べることは、中央に限らず、ほとんどそのまま、地方、すなわち都道府県や市町村においても同じことが言えるのである。

 ただその場合、大きく異なる点が二つある。

1つは、国会において定められる法律は全国民に対して拘束力や強制力を持つが、地方の議会において定められる条例は、国法の枠内で定められるものであると同時に、法のような力は持たない、ということである。

もう1つは、国の中央の立法と行政との関係は、イギリスに模した形での、いわゆる議院内閣制の形式をとっているが、都道府県と市町村では、首長はそれぞれ、主権者である住民から選挙で直接に選ばれる、言ってみれば大統領制と似た形式をとっていることだ。

 とはいえ、都道府県も市町村も住民相互からなる共同体である以上————日本では地方公共団体と呼ばれているし、自治体とも呼ばれている————、そこでの議会に集う政治家は全て、そうした共同体の住民(主権者である国民)から選挙で選ばれた住民の政治的利益代表であるゆえ、それらの議会で決まったことは、とりもなおさず住民の総意でもあるわけであるから、それは法的拘束力や強制力の有無にかかわらず、その共同体内の全ての住民は————当然、議会の正副議長や首長を含む全政治家も­­­­————決まったことに従わねばならない。つまり、“議決内容は法的拘束力がないから、これまで通り続ける”という態度を取る者がよくいるが、それは民意に背き、民主主義に背くことでもあるのだ。というより、民主主義そのものを知らない、ということでもあるのだ。

 こうしたことを前提に、論を進める。

 とにかくこの国は三権分立の国とはなっていない。

そして、国会は日本国憲法が言う「国権の最高機関」(第41条)、すなわち最高権にもなり得ていない。

それは、日本の国会は、立法機関とは名ばかりで、真の立法機関あるいは自ら法を創り定める立法機関とはなっていないからだ。

それはどういうことかというと、国会で、特に本会議でやっていることは、ほとんどが、あるいは全部が、中央政府、つまりそこでの各府省庁の官僚たちが作成した法案や政策案や予算案に対する質問機関になっているだけだからだ。代表質問とか一般質問と呼ばれるアレだ。しかもその仕方は全くの儀式でしかない。

私が儀式であると言う理由は、国会開催時期そのものがあらかじめ決められた通りにしか開催されない中、開催期間もあらかじめ決められた中で、あらかじめ通告して決められたことを決められた通りに、それを踏み外すことなく、時間通りに進められる催し物であるという意味である。であるからそれはもちろん議論でもなければ、NHKが表現して見せるような論戦でもない。つまり「言論の府」ともなり得てはいない。

 しかも、世界の民主主義国は、どこも、「三権分立」、つまり、立法と行政と司法は互いに分立あるいは独立しているというのが歴史から学んだ教訓であって、それに忠実なのに、この国では、立法と行政との関係も「分立」どころか、それを無視しては国会に政府側の者————首相、閣僚、高級官僚————を招いては、その者たちに向かって上記の質問をしているのだ。それも全く儀式として、だ。

 では、なぜ立法府である国会は————国によっては連邦議会と言うところもある————「国権の最高機関」でなくてはならないか。

 それについては、近代民主主義政治の体系を理論的に確立した最大の立役者であるジョン・ロックはその主著「市民政府論」でこう理由説明をする。

「いずれにしても、政府が存続する間は立法権が最高権なのである。何故なら他人に対して法を定めることができる者は、その者に対して必ず優越していなければならぬからである。そうして、立法府が社会の立法府であるのは、ただそれが社会のあらゆる部分やすべての成員に対して、彼らの行為に対する規則を定め、またその規則が侵された時には(司法に)執行する権力を与えるというように、法を作る権利を持っていることにのみよるのである。立法府は必ず最高でなければならぬ。」(鵜飼信成訳 岩波文庫 p.152)。

 ところが日本では、本来立法権を有する立法府であるべき国会が最高権とはなり得てない。

それは、国会議員となった者が、選挙で選ばれる時、有権者に約束した公約を国会にて全く果たしていないことによる。野党あるいはその政治家はともかく、政権を執った政党である与党の政治家でもそうだからだ。つまりこの国の政治家という政治家は、皆、自らが掲げる公約を有権者、広くは国民に支持されたが故に政治家という国民の代表になり得たのに、その公約を最高権を有する国会にて果たしていないからだ。

 それは国会が最高権になり得ていないというだけではなく、彼ら政治家は、皆が皆、国民の「代表」とはなり得ていないということであり、主権者であり有権者である国民を裏切り、民主主義そのものをも裏切っていることでもある。

 こうして、この国では、国権の最高機関は、国会ではなく、事実上中央政府、つまり役所になっている。ということは、形式的には、中央政府の中枢である内閣の長、すなわち内閣総理大臣=首相とされている。

 もちろん形式的にであろうと実質的にであろうと、そんなことは断じてあってはならないのであるが、しかしこのことは、実際、次の事実からも裏付けられる。

それは、この国は、戦後ずっと、つまり、建前上は「民主憲法」となった後でさえ、「国会(の衆議院)の解散権は政府の内閣の首相の専権事項である」というデタラメが、吉田茂政権以降、まことしやかに通ってきたことだ。それも、そのことの正当なる根拠など全く見出せず、こじつけとしか思えない憲法7条と69条を根拠にしてのことだ————読者の皆さんには両条文を是非熟読してみていただきたい。一体、どこから、「国会の解散権は首相の専権事項である」と読めるであろうか。全く政権にとって御都合主義的な解釈によるもの、あるいは屁理屈としか理解できないのである。事実、それは、議会制民主主義に反しているのだからだ。それに、万が一にも、「国会の解散権は首相の専権事項である」ということを全国民が認めるのなら、これは主権者である国民から直接選ばれた国民の代表が集う国会を、国会に由来する政府の長が解散できるとすることなど例外中の例外に属する話なのだから、そのことは、当然、国の基本法である憲法に、直接、そのことが明記されているべきなのだ————。

 実際、これが屁理屈かこじつけでしかないことは、上記ジョン・ロックの引用文のすぐ後に、彼はこう強調していることからも判る。

「そうして社会のどの成員ないし部分であれ、およそ一切の他の権力は、それ(すなわち立法権を持つ立法府)から由来し、それに従属しなければならぬ。」(同上書 p.152)

 中央政府と言えども立法府である国会に由来する。なぜなら中央政府の長である総理大臣は国会にて決められ、その総理大臣による任命によって閣僚が決まり、政府が形作られるからだ。

であるから、中央政府自体が、国会とその権力に従属しなくてはならない。

 このことから直ちに現状への疑問が湧くのである。

 立法府の権力に従属する中央政府そしてその長たる内閣総理大臣が、なぜ自分たちよりも権力順位の高く、最高である国会を解散する権限など持ちうるのか、と。

 こんなデタラメが、この国では、戦後ずっと、立法府と政府とのあるべき関係であるかのように信じられ、まかり通って来たのだ。

 

 そしてこんなデタラメが通ってしまうのも、つまるところ、この国の政治家という政治家は、近代民主主義政治のあり方を打ち立てた西欧の思想家・哲学者の書物など、多分、全く読んで来てはいないからなのだろう。というより、ひょっとすると、それが誰なのか、名前さえ知らないのかもしれない。それだけではない。近代民主主義政治もその体系は、読んでみるとわかるのだが、きわめて論理的にできている。それは当然だ。ということは、言い換えれば、日本の政治家は、政治のあり方についても、徹底的に論理的に考えるということをしていないからなのだ。あるいは、既に体系化された民主主義政治ではあるが、それをもっともっと完全な体系にするにはどうすればいいか、という発想もないままにやってきたのだ。

それにこの国の政治家という政治家は、口では“国民の命とくらしを守る”とは言うが、そもそもそこには“自由を守る”という既述の西欧思想家たちの重視した権利としての自由への擁護の言葉もないし、その上、国民の生命や財産を常に最優先に守るには官僚たちをどう動かし、どうコントロールし、どうやったら可能となるのかという具体的な方法などもまるっきり考えている風には見えない。それでも自分は政治家だと錯覚して来ただけなのだ。

 私はほぼ確信を持って言うのであるが、彼ら政治家は、これまで、法案の作成を政府(の官僚)に依存することしかせず、しかも彼らの作ったそれらを色々と突っつくことしかしてこなかったから、自分たち自身で、細部まで考慮しながら実現可能な法案を作ることなどできないのではないか、とさえ思う。それに、この国の政治家という政治家は、自国憲法が言う「国会は国権の最高機関」を言葉だけでしか知らず、その深い意味を考えても来なかったから、ジョンロックの強調する「そうして社会のどの成員ないし部分であれ、およそ一切の他の権力は、それ(すなわち立法権を持つ立法府)から由来し、それに従属しなければならぬ」の意味も理解できていない。

 そのことは、例えば、次の事実からもはっきりする。

それは、政府といえども立法府である国会に由来する機関であるゆえに、権力順位も国会よりも低位の権力機関なのである。しかも、政府はあくまでも立法府が定めた法律なり政策を執行する機関なのである。したがってその執行機関が、その中枢である内閣で決定できること、すなわち閣議決定できることは、あるいは閣議決定すべきことは、あくまでも国会が定めた法律なり政策についての執行方法であるはずなのだ。例えば、予算は決まっていても、それを最も少なくして、最も短期間で、最も効率を上げて、国民にとって最も幸福な結果となる執行方法は何か、と。ところが、内閣は、官僚から出されてきた法案そのものを国会に先んじて「閣議決定」してしまう。それも当たり前のように、である。にも拘らず、それを国権の最高機関であり立法府である国会の政治家の誰も、異議を唱えないのだ。

 要するに、この国の政治家という政治家は、あえて言えば、彼らのほとんどは、民主政治など何も勉強もせずに、次期選挙に当選することしか考えては来なかったのだ。

 それにさらに悪いことには、後に続く者たちも、先輩諸氏と全く同様に、民主主義議会政治の原典など一切読もうともせずに、先輩諸氏が、政治とはこういうものだと自分勝手に解釈してやってきたことを、見よう見まねで、先輩諸氏のやってきた通りにただやっているだけなのだ。

 実際、私は、現役の国会議員の幾人かに政治的基本概念を訊ねても、まともに即答できた者は一人もいなかった。

 なお、このことは、二世議員や三世議員にとりわけよく当てはまるのではないか、と私は思う。

なぜなら、二世議員、さらには三世議員になるほど、彼にとっては幼い時から、家族は政治家一家なのだ。そうなれば、彼にとっては、その家族は皆、社会の普通の人々とはかけ離れた暮らし方と考え方を持つ者だけになるだろう。そして、日常的にも、父親や祖父から、“政治とはこういうものだ。議会とはこのように行われるものだ、世間とはこう付き合うものだ”などといったことを、直接間接的に、それも本人が意識しようとしまいと関係なく、頭の髄に叩き込まれることになるのではないか。

 ところがその時そこで教えられたことは、“三つ子の魂、百までも”の格言通り、その後、彼が人生で学ぶどんなことよりも強烈な記憶や価値観となって、彼の人生を支配するようになるに違いないからだ。

 つまり、この国の国会議員は、国会とは何か、あるいは一般に議会とは何か、議会とはどのような役割と使命を持っているのか。そしてそれは誰に対して持っているのか、という民主主義議会政治を行う上で最も基本的なことさえ知らないのだ。

 こんな状態だから、国民に、前代未聞の大事件や大惨事が生じた時には、日頃彼らが威勢良く口にしている“国民の生命と財産を守ります”、を、迅速に、あるいは満足に実行に移せるわけはない。なぜなら、起った出来事が「前代未聞」あるいは「前例がない」ものであるということは、言い換えれば、既存の法令では被災者・被害者を十分に救済できないということを意味しているのだからだ。

だから、本当に“国民の生命と財産を守ります”を実行しようと思ったなら、速やかに目の前の大災害に遭って苦しんでいる人々を救える新法を大至急国会で議論して制定しなくてはならない。臨時国会を開いてでも。

 ところが、この国の国会議員はそのような緊急時、そんなことをしたことは全くない。

それどころか、大事件・大惨事が生じた際、何はともあれ、政治家誰もが、速やかに現地に飛び、被災状況を自らの目で確認し、被災者の苦境や要望を生の声で聞く、ということもしたことはない。現地に赴いたとしても、その数はほんのまばらで、しかも、被災後何日も経ってからだ。

 それに、政治家は本来、災害救助の専門家ではない。したがって、本当に“国民の生命と財産を守ります”を実行しようと思ったなら、新法を制定する際、どうしても、災害救助の専門家の助言を仰ぐ必要もある。しかしこの国の政治家はそういうこともやったことはないのだ。

 とにかく、すべて政府任せなのだ。

例えば阪神淡路大震災でもそうだった。東日本大震災でも、西日本豪雨災害時でもそうだった。

 そうなれば政府は政府で、およそ70年も前にできた「災害救助法」に基づいて対策を練るしかない。しかも、政府は政府で、関連府省庁の各大臣は、国民の利益代表の責任者として、配下の官僚をコントロールしながら、被災者の「生命・自由・財産」を守るために、自ら陣頭指揮をとるなどということもなかった。ほとんどが配下の官僚任せだ。

 ところがそんな中、官僚は官僚で、旧弊である行政組織の「縦割り」制度の中で、互いに他の府省庁の管轄圏に踏み込まないようにしながら、自分たちの既得権を守ることに終始してしまう。

 結局のところ、この国の国民は、大事故・大災難に遭っても、決して救われることはないのだ。

 そこで私は思う。

国民に対しても、民主主義に対しても、こんなにも無責任で、こんなにも体たらくでありながら、それでも国会議員でいたい、国会議員になりたい、それも、できるだけ政権を取れそうな政党に属して、いつかは大臣にもなりたいと、自身の能力も顧みずに執念を燃やすのは、主として、欧米諸国の国会議員と比べても、桁違いに多い議員報酬と特典・特権が魅力だからなのであろう、と。それと、周囲から「先生、先生」とチヤホヤされたいがためなのだろう、と。

 つまり、彼らの見せる政治家への執念、それは、決して愛国心や国民への忠誠心からではない、と私は断じる。

 実際、彼らは決して公には口にはしないが、彼らが手にする税金からの全額は、憲法(第49条)で言う歳費などはほんの一割程度であって、2億円近いのだ。

 だから私は彼らを「税金泥棒」と公然と呼ぶのだ。

 

 実はこの国では国会が中央政府に従属していると同じように、司法も中央政府に従属している。つまり司法のシステムも独立してはいない。それも、より正確に言えば、日本の司法は中央政府法務省の官僚に従っている(カレル・ヴァン・ウオルフレン「システム」毎日新聞社p.103)。

 司法が独立し得てはいないということは、例えば、国民にとっての重大事件や重大案件についての裁判における判決は、ほとんど常に、中央政府の方針に従ったものとなってしまっている、ということから判る。

そうなるのも、最高裁判所の長官は、内閣が指名する形になっていて(憲法第6条)、その長たる裁判官以外の裁判官は内閣が任命する形になっている(憲法第79条)ことに因る。

 これをもう少し正確に言うと、最高裁判所は、実質的に、その最高裁判所の事務総局に支配されていて、その事務総局はまた、法務省の保守的な高官に支配されているのだ。

だから「最高裁判所の長官は、内閣が指名する」と憲法第6条は言っても、法務省の保守的な高官が自分の眼鏡にかなった人物を内閣総理大臣に推挙して、それに基づいて、総理大臣が最高裁判所の長官を指名するのである。

 そうなれば、最高裁の長官はもちろん、長官以外の裁判官も、裁判にあたっては、常に政府の方針、つまり内閣、それも総理大臣だけではなく、総務省の保守的高官の顔色を窺うことになる。

 一方、下級裁判所の裁判官は、最高裁判所が指名した者の名簿に従って内閣が任命することになっている(憲法第80条)ことに因る。

 すなわち、日本では、司法の体系全体が、中央政府という執行機関、それも法務省の官僚に縛られ、あるいは従属しているのである。

 これは、単に裁判所が政府に従属していると言葉で言う以上に、主権者である国民にとっては重大で深刻なことなのである。それは、私たち国民の誰もが願う、“自分たちは、平等に扱われる法の支配に依る社会秩序の中で暮らしたい”という思いを打ち砕くことだからだ(カレル・ヴァン・ウオルフレン 同上書 同ページ)。

 

 以上、見てきたことからもわかるように、この国が、世界のレベルから見ても、政治的五流国あるいは政治的後進国と見られてしまうのは、私は、ひとえに政治家のレベルと質がこれまで見てきたような状態だから、と見る。

私が考えるその理由あるいは根拠は、すでに第2章で詳述してきた。

しかし、そんな政治家を選んでしまったのはもちろん国民なのだから、この国が政治的五流国と見られるようになってしまった最大の責任は、結局のところ私たち国民自身にあるのだ。

 

 では、この国を、今後、立法と行政と司法の間の関係を本物の民主主義政治を行っている国々と同じような真の三権分立の状態にもってゆくにはどうしたらいいのだろうか。

 私はその答えは、結局のところ、今後は、私たち国民が、“自分たちは国の主権者である”、主権者とは、「国家の政治のあり方を最終的に決定する権利を有する者」であるという自覚をしっかりと持ち、自らを戒めながら、小選挙区比例代表並立制という、国民の立場に立ったものではなく、政治家の立場にだけ立った問題だらけの現行の選挙制度を私たち国民自身の手で然るべき選挙制度に改めながら、その制度を通じて、本物の政治家、それも民主主義や自由そして「法の支配」の意味と価値を、口先ではなく、本当に理解し、それを骨肉とし得た本物の政治家を、育て、選び抜いてゆくよりない、と考えるのである。

 そこで私が言う本物の政治家とは、これまでのような官僚の操り人形となるような閣僚、官僚に質問することしかできないような政治家ではなく、国の主人公である主権者の公式の代表として、国民のための公僕である官僚を含む役人一般を、国民の意思に沿って毅然とコントロールできる政治家であることは言うまでもない。

 実は、私の考える、そのための然るべき選挙制度については、すでに第9章にて示してきた。その選挙制度とは、ある二つの条件を満たしてさえいれば、お金など全くなくても、被選挙権を満たした者ならば、誰でも選挙に立候補できる、そして公平で公正に扱ってもらえる、とする制度である。

13.10 通貨

 本来ならば、今回は、先に2020年8月3日に公開した拙著「持続可能な未来、こう築く」の目次に沿って、これまでの続きとして、13.6節あるいはそれ以下を掲載すべきなのですが、未だそれらは手を加え続けている関係上、今回は、それらを飛び越して、13.10節からそれ以下の13.11節と13.12節の内容を公開します。

 

13.10 通貨

 これについては、既に11.7節にて詳述して来たとおりである。

 従来の「円」を全国通貨とし、それに対して、各地方自治体(地域連合体)にはその地域のみに通用する通貨、いわゆる地域通貨を設ける。

それを設ける主たる理由は、それぞれの地域はそれぞれの地域に住む人々によって主体的かつ自決的に運営されねばならないという理念に基づくもので、そしてそれでこそ「自治」体でありうるからだ。そうした考え方の根底には、既述の「都市と集落の三原則」がある(4.4節)。

つまり、もはや明治期以来の中央集権的な統治体制に基づく、地方政府の中央政府への依存体質から脱皮し、地域が主体的に自立して行くのである。であるから、そのとき、当然ながら中央政府の規模は「小さな政府」ということになる。

 しかし、そうは言っても、各地域の通貨は必要に応じていつでも全国通貨に交換(兌換)できるようになっていることが必要なため、それぞれの地域には、いつでも、その両方の通貨が併存するようにする。

そして、公共料金の支払いも、その地域通貨で可能となるようにするのである。

 では、地域通貨をいつでも全国通貨に交換できるようにするにはどうするか。

それは、要するに、全国通貨である「円」を用いながらも、そこに各地域連合体独自の印を付け、それを地域通貨としてその域内限定で全住民が用いるという方法で、随時の交換を可能とするのである。

その印の付け方は、元々の円の貨幣あるいは紙幣としての形状と機能を損ねない程度に、しかしそこの地域連合体の住民には、誰もがはっきりそれと判るように、その円の適当な場所に小さな印———複数の小孔から成るものでもよい———を付す、というものである。

 だから地域通貨とは言っても、何か形も色も大きさもまったく異なる別個の紙幣や硬貨を創るというわけではない。それだと、今日世界中で行われている為替レートあるいは交換比率のようなことが問題となって来て、誰もが、いつでも必要なときに容易に全国通貨に交換するということはできないからだ。

 もちろん、その固有の印としてどのようなものとするかについては、その地域に暮らす人々全ての参加による議論によって決めるのである。

 

13.11 鉄道

 近代という時代になって飛躍的に発達した工業が生み出した代表的産物の一つが自動車だった。そしてその自動車の持つ特性を最もよく発揮させたのが高速道路だった。

 その自動車は、それに乗る人には便利さと快適さをもたらしてきた。

 しかしその反面、自動車は人間個々人や社会や自然に対してどのような影響をもたらし、結果、どのような状態や事態を生んできたかと言えば、それについてはすでに具体的に検証してきたとおりである(7.4節)。

それを要約して言えば、自動車は人間個々人をしてその心身を虚弱にすると同時に利己的にし、社会に対しては、社会的弱者の往来を脅かし、交通事故被害者を生み出し続けてきた。また自然に対しては、自動車走行のための道路造りを通じて生態系を大規模に破壊するだけではなく、大量の化石資源を消費し、大量の温室効果ガスを撒き散らしてきた結果、大気汚染(SOX,NOX,PM2.5)を進め、エントロピー発生量を加速度的に増大させ、地球温暖化とそれによるとされる気候変動を加速してきた。

 とりわけ人の長距離移動や物の長距離輸送の主力手段となって来た高速道路は、数十メートルの幅で、延々何千kmという広範囲にわたって、野山の自然を破壊し、景観を壊し、自然の物質循環を遮断し、野生生物の棲息域をも分断して来た。

それだけではない。高速道路は、私は、気象現象の局所化あるいは局時化という、いわゆる「異常気象」をもたらしている最大の原因の一つとなっているのではないか、とさえ仮説を立てたいのである。

それは、高速道路はその幅、その距離からして、何千キロメートルにわたって巨大な廃熱の塊の帯を常時つくってしまっていて、その塊は、風が吹いても、周囲の大気とは循環できにくくさせてしまい、そのために大気の均一化を妨げているのではないか、と私には思われるからである。

 それに一般道も高速道も、それがある限り、日本中で、際限なく管理や補修を迫られることになる。

そのことは、今ですらこの国はGDPの実に2.4倍もの政府債務残高、いわゆる借金を抱えており、その結果、行政の活動を著しく制約してしまい、その上、国全体ではいたるところ人口減少が進み、高齢化が進んで労働力の低下を招き、税収が減少して行っていることから、本当に近い将来、どこかの地域では、どこかの時点で、高速道路を含めて道路を新設することはもちろん、既存の道路を補修したり管理したりすること自体すら諦めねばならなくなるのは目に見えているのである。

 

 こうした諸々の事情により、今後は、原則的に自動車、それも特に私用車とか自家用車というものは、日本中どこにおいても廃止するのである。そして往来の手段としては、馬車を含む公共交通乗り物とする。公共交通乗り物は、言うまでもなくすべて電気で動くとする。

そして、こうした変革と並行して、人々がそれでも不便を感じることなく生活できるようにするために、これからの都市や集落を、既存の大都市の住民の地方への移住を促進することで、「都市と集落の三原則」に従った都市と集落づくりを進めてゆく。

 つまりこれまでの都市の規模を思い切って縮小し、また構造も改変し、自動車に頼らなくても経済活動や暮らしに必要な物や事はすべて、徒歩か馬車を含む公共交通乗り物で実現できるようにするのである。

 そして地域連合体間あるいは都市間での人の移動あるいは物資の輸送は鉄道による、とするのである。

 その場合、人も物資も、きめ細から移動や輸送を可能とするために、電車については、その速さの種類を特急、快速、普通の三段階とする。ただし「新幹線」という名の超特急はもう廃止する。自然を大規模に破壊し、外の景色を楽しむこともほとんどできない、ただ時間短縮だけを狙うリニア・モーターカーなどは論外である。

 もはや日本は、それが必要になるような経済社会ではないし、南北およそ2000km程度の長さの列島では、これまで拙著において論じてきた様々な状況や事態を考えるとき、そんなに急いで行き来する必要ももうとっくに無くなっていたのではないか、と私には考えられるからである。

 むしろこれからは、GDPを上げることに象徴される「経済発展」ではなく、また、一人ひとりがこれまでのように現金をより多く確保することにこだわらなくとも、既述したように(13.7節)、誰もが充実した教育と福祉(保健、医療・介護・看護)を受けられるようにするとともに、社会保障(年金、保険)もより確かなものとしてゆくことにより、誰もが心身ともに健康的となるだけではなく、日本の伝統の文化と美しい自然を大切にしながら、互いに他者を思いやる心のゆとりを持てるようにもなり、その中でそれぞれは自己実現を図ってゆくことのできる、本当の意味で一人ひとりの精神が成熟した社会になってゆくことこそが、これからの社会の望ましいあり方なのではないか、と私には考えられるからである。また、それこそが環境時代に相応しい列島の姿でもあろう、と考えられるからだ。そしてそうした経済や暮らしのあり方は、全地球的で全生命的な主導原理と考えられるこれも既述の原理(4.2節)や、人間にとっての基本的諸価値の階層性(4.3節)を満たす方向とも間違いなく合致する。

 なお、鉄道の各駅には、貨車から荷物をトラックへ速やかに積み降ろしをできる設備を設ける。

人々はそこで公共交通乗り物や馬車に乗り換える。

 

 では、どうやって鉄道にするのか。

従来の高速道路を活用するのである。高速道路の表面のコンクリートまたはアスファルトをはがし、面積の大部分は自然に還すが、一部には枕木を敷き、その上にレールを敷くのである。

それはすでに道路があったところだけに比較的容易にできる。

 なお、これらの鉄道の運営は、もはや収益性に拘らざるを得ない民営ではなく、国民みんなが公平に利益を享受するという理念の下で全国一律に津々浦々まで運行させるために、再び「国営」に戻すのである。

 なお、この事業を実施するにも、かなりの長期にわたって、莫大な雇用を生み出すことは明らかであろう。そしてこの公共事業は、言うまでもなく官僚の利益のためのものではなく、「真の公共事業」となるのである。

 それに、鉄道の場合には、その保守や管理の必要性の度合いは、一般道路や高速道路に比べれば、はるかに少なくて済むのではないだろうか。

 

 

13.12 郵便

 郵便事業は、貯金とか保険とは違って、第一に、地域の境界を超えて国の隅々にまで、人間の思いの込められた手紙やはがき、また郵便物を円滑かつ確実に先方に届けることを使命とするものである。

 だとすればそれは、国全体を貫通する一つの事業でなくてはならない。地域によって送料も配達速度も異なるというものであってはならない。そしてその事業は、公益性第一であって、「利益」とか「収益性」は二の次にならなくてはならない。

 そういう大局的観点からすれば、郵便事業は本来的に「国営」とすべきなのだ。

かつて、小泉純一郎政権は、アメリカのウオール街が考え出した、多国籍企業が活動しやすくするために規制撤廃を狙ったネオ・リベラリズム新自由主義)というイデオロギーに踊らされて民営化した。しかしそれは、結果が示しているように、郵便というこの事業の本質をまったく理解しないままの、単に日本国民の富をアメリカに売り渡すための、売国的事業転換でしかなかったのだ。

 なお、この郵便物の長距離輸送は、もちろん既述の鉄道に拠る。