LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.6 国家とは何か、日本は国家か、なぜ国家でなくてはならないか —————その1

2.6 国家とは何か、日本は国家か、なぜ国家でなくてはならないか—————その1

本記事は2部構成です。
後編は後日公開します。

 

国家とは何か、日本は国家か

表題の問い3つのうち、第1の問いに対する答えは既に2.2節の中で明確にして来た。またそれは4.1節の定義の中でも明らかになろう。
また、
第2の問いに対する答えについても、同2.2節にて、現在の政治家という政治家はすべて一旦は辞めさせるべきとして私が挙げた理由の中にて明らかであろう。

それをここで再確認すれば、この国は、戦前も戦後も決して国家ではない、少なくとも本物の国家ではないし、国家の体を成してもこなかったと言える。
国家であるか否かを問う場合、それは統治体制のあり方と不可分な関係があるが、それについては、
国家の定義「社会の構成分子たるあらゆる個人または集団に対して、合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合された社会」(H.J.ラスキ)を念頭に置いて国家の代理機関である中央政府のありようをしっかりと観察してみれば判る。
とくに、その国が「合法的に最高な」「一個の」「強制的権威を持つ」ことによって「統合された」社会であるか否かが重要であるが、それを戦前と戦後について見てみる。

なお、ここで、言うまでもないことであるが、「合法的に最高な」と言う以上、その人の所持する強制的権威が国の全ての権力機構の中で最高であることを裏付ける法律あるいは憲法上の明文規定が予め制定されていなくてはならないということである。なぜなら、そのような法律あるいは憲法上の規定がない限り、国家をこのように定義しても無意味だからである————実際、以下で明らかになるように、この日本という国には、憲法上においても法律上においても、そのような明文規定が設けられてきた試しはないのである————

戦前の天皇と日本政府

戦前の政府は、とりわけ2.26事件以降は、政府とは見られても、軍部に対しては怖れをなして、統治するどころかむしろ軍部に追随するばかりだったのだ。

実際、その軍は皇軍、つまり天皇の軍隊であると位置づけられた———軍にこのような性格を持たせたのも明治の元勲山県有朋だ———。
しかもその天皇は、その大権として統帥権」と「統治権を持つとされた。
統帥とは、陸海軍のすべてを指揮し、統率することである。
陸海軍はこの統帥権を持つ天皇の指揮と統率の下に置かれたのである。つまり本来政府の所有しているべき
統治権など軍部にはまったく及ばず、むしろ、軍事に関しては軍部は政府の統治権からはどのような干渉も受けないで独立した権限を持つとされたのである。
したがって陸軍の軍事行動・作戦・その戦闘報告などのすべては、議会とも関係がなく、批判や疑問、それに報告要請にさえ応じる必要はないとされた。
とくに昭和に入ると、この「統帥」の名の下で、
陸軍は政治の上に君臨する強力な権限をつくり上げて行ったのである保阪正康「あの戦争は何だったのか」新潮新書p.25)

このような状態で、どうして国家と言えたろう
このとき日本は、政府はあっても、そして首相はいても、その統治権はとくに軍部に対しては天皇統帥権に阻まれて国の全体には及ばないのだから、その政府は本来の政府とは言えず、首相も本来の首相とは言えなかったのだ。
この状況を
国家の定義と照らしてみれば直ちに判るように、日本は国家ではないし、少なくとも近代国家ではなかったと言えるのである。

これだけでも、十分に、戦前のこの国は国家ではなかったとなるのであるが、さらにその上に、天皇統帥権下にあるその軍部さえも、海軍と陸軍とから成る大本営では、互いに犬猿の仲だったのだから、日本は「合法的に最高な」「一個の」「強制的権威を持つ」ことによって「統合された」社会であったはずはない。
日本帝国のために一つになって協力し合うというよりは、互いに存在意義を強調し、張り合い、自分に不都合な情報は互いに隠蔽し合うようになっていたのだ。

しかもその軍部は、国民に対しては天皇を頂点とする「国家」体制、いわゆる「国体」の護持を説きながら、天皇に対しては、その天皇自身が「君臨すれども、統治せず」の姿勢をとってほとんど自分の考えも言わなかったことをいいことにして、自分たちは黒子となって天皇に「勅令」を発しさせたりして天皇を自分たちの野心のために最大限利用していたのだ。
そのため、例えば日清戦争にしても日露戦争にしても、またアジア・太平洋戦争にしても、帝国日本を代表する形で、最終的な責任を持ち、最終的に開戦を意思決定をした者など、天皇を含めても、誰もいなかったのである。
ただ何とはなしに、つまり意思決定も曖昧なまま、もはや誰も止められなくなった一つの流れの中で軍は開戦へと突入して行ったのである。
それでも幸いと言うべきか、日清・日露戦争ではかろうじて勝利したが、アジア・太平洋戦争では、周知のように、日本帝国は無条件降伏という無残な敗北を喫したのである。
それをもたらしたのは、天皇をいいように利用してきた軍部であった。陸軍と海軍が互いに張り合った軍部であった。

このように、戦前の日本には「政治的説明責任の中枢」も存在しなかった。
「政府を公式に代表できる集団」もなかった
(K.V.ウオルフレン「システム」p.79)のだ。

もちろんそこでは、シビリアン・コントロール文民統制など、働く訳はなかった。

戦後の官僚組織と日本政府

戦後の政府も同じだ
政府とは言っても、たとえば各府省庁間の関係はバラバラのままだ。個々の府省庁は、互いに他の府省庁の管轄範囲に踏み込んだり干渉したりすることはしないことを暗黙の了解事項としながら、横の連絡を絶ちながら————これがいわゆる「行政の縦割り」と言われる状態である————、各府省庁は自省の既得権を守るための行政を行っているだけだ。
そして法律も実質的には官僚がつくるが、各府省庁間の関係も行政のあり方もそんな状態だから、作られる法律も互いに他の府省庁に干渉しない内容の法律とならざるを得ない。いや、実態はその逆で、各府省庁の官僚は、互いに他の府省庁の行政的縄張りを干渉しない、あるいはそれに抵触しない法律を作っては、行政を行ってきているのだ。

だからこの国の法体系は、一貫した国家理念に基づいて統一的につくられたものではなく、バラバラなものだ————だから国民にとって法律は、余計にわかりにくいものとなってしまっている————。
本来、一国の首相たる者は、閣僚に指示命令を発しながら、首相も一緒になって、そうした行政の官僚らによる縄張り体制を正し、「社会の構成分子たるあらゆる個人または集団に対して、合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合された社会」としなくてはならないのであるが、この国の戦後の歴代の首相の誰も、言葉では「行政府の長」とは言うが、実質的には官僚組織の「お飾り」でしかなく、各府省庁の大臣は配下の官僚たちの「操り人形」であり、同時に「お客さん」でしかない。

官僚組織の「お飾り」とは、何も我々官僚に指図はしなくてもいい、とにかく首相として居てもらわねば対外的にも何かと格好がつかないからといった程度の状態をいう。「お客さん」とは、しばらく我慢していればすぐまた目の前から去ってゆく存在、との意味だ。

いずれにしても首相も閣僚も、国会答弁でも、自分の言葉では語れず説明もできず、いちいち各省庁の官僚の作文を読んでいることからも判るように、官僚の筋書きどおりに動いているだけなのだ。

こうして、この日本では、統治システムのどの一要素も、最終的には誰の支配下にもないのである(K.V.ウオルフレン「システム」p.79)

むしろこの日本は、戦後はとくに二重の意味で決して国家ではないと言える。

1つは、既述の社会の構成分子たるあらゆる個人または集団に対して、合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合されているどころか、バラバラな統治組織によって、バラバラに統治されている国であるという意味において。
もう1つは、近代国家であるための三要素である「領土・国民・主権」のうちの主権を自ら放棄した国でもあるという意味においてである。

具体的には交戦権という、国際法上、世界のどの独立国にも保証されている主権を放棄する憲法第9条がそうであるし、またとくにアメリカとの日米安全保障条約に関連する「地位協定」の内容がそれを象徴している。

 

こうして、本節の第2の問いに対する答えは、結論としてこう言い得るのである。

日本は明らかに国家ではない。国家でないどころか、「日本の官僚独裁主義によって維持されている秩序保持のための大がかりな統治のシステムそのものすら、つまるところコントロールされずに野放し」状態になっているのである、と(K.V.ウオルフレン「システム」p.124)

それは言い換えれば、この日本という国は、今のところ、国として、何のために何をしようとするかも決められず、目指す目的地も、そこに至る航路も、総理大臣を含めて誰も、まったく定められず、また定めようともせずに、世界という大海の中で国丸ごとただ漂流し続けている国である、ということだ。

したがって国家ではないそんな日本に「国家」戦略などあろうはずもなければ、それを決められるはずもない。

 

なぜ国は国家でなくてはならないか

次に本節の表題の第3の問い「なぜ国は国家でなくてはならないか」についてである。

この問いの答えを探す前に、読者の皆さんには次のような例を比喩として想像してみてもらいたいのである。

それは、家庭でもいい、企業でもいい、役所でもいい、軍隊でもいい、あるいは海洋を運行する船舶や空を飛行する航空機でもいい、とにかく複数の人々からなるそれぞれの集団を想定してみていただきたい。そしてそのとき、その集団を構成する一人ひとりの生命の安全を脅かす事態や、自由を脅かす事態、財産を脅かす事態が発生した場合のことを想定してみるのである。

もしそのとき、その集団の中から、その集団の全員に対して、最終的な責任を以て説明できる者———その場合には、その集団に対して指示や命令を発することのできる最終的な権限をその集団から与えられていることが前提となる———がいなかったなら、その集団内の人々は、その心理状態においても、またなにがしかの対応行動をとろうとするうえでも、どういうことになるのだろうか、と。
あるいはまた、その集団の全員に対して、説明をする者がいたとしても、その者が一人ではなく複数であったなら、その集団内のその他の人々の心理や行動はどうなるのだろうか、と。

前者の場合には、人々は、何をどう判断し、またどう行動したら判らず、みんながてんでんばらばらに行動し、その結果パニックを起こしてしまうであろう。そして、かえって危機的状況を深めてしまうのではないか。
また後者の場合には、集団は複数いる説明者の中の一体誰の説明を信じ、また従ったらいいのか判らなくなってしまうであろう。
したがってその場合も、かえって混乱を深めてしまい、その結果、救われる命も、守られるべき自由も財産も、結局失ってしまうことになるかもしれない。

家庭、企業、役所、軍隊あるいは客船や旅客機のたとえの場合には未だ人の数もそれほど多くはないが、それが大都市や一国となったなら、その場合に最終的な責任を以て説明できる者がいなかったり、最終的な責任を持たずに説明する者が複数いたなら、それこそ、その場合には、そこには色々な人がいるから、デマや誹謗や中傷も飛び交うかも知れず、収拾のつかない事態に陥り、結果、かえって大惨事になってしまう可能性だって高くなるのである。

こうした類推をしてみただけでも推測はつくように、こうした混乱を避け、悲惨な事態を防止するためには、つまり集団をいつでも整然と統治できるためには、いざっというときでも、その集団に対して、状況を最終的な責任をもって説明できる者、どうすべきかを最終的に責任をもって説明できる者、指示や命令を最終的に責任をもって発せられる者の存在が不可欠となるのである。
しかもそうした権限を持つことを事前に集団の全員から合意を得た者の存在が。

ただ、ここで、このような比喩を考える場合、一つだけ心得ておかねばならないことがある。
それは、社会の一般的な集団には他と上記のような者が存在しても、法律に基づく強制力というものは働かないが、国家の場合にはそのような指示や命令は「法律」に依るものであるから、強制力が伴うということである。だから、その指示や命令に従わなければ法律をもって罰せられるのである。

なおこうした最終的に責任をもって説明できたり、指示や命令を発せられたりする者の存在が不可欠となるという状況は、ある特定の集団に起った危機的事態の際だけではなく、その集団が外部の他の集団と何らかの交渉事をするとき、すなわち外交の際にも同じことが言えるのである。

外部の集団は、交渉に際して、その集団を代表して、一人が全権を負って、あるいは全権代表として交渉に臨んでくるだろう。
もしその時、こちらの交渉担当者がその彼の所属する集団に拠って全権を委ねられた立場ではないとなれば、交渉中、相手の代表から回答あるいは決断を求められても、自分で判断できる権限を与えられていないから、その場合、その都度自分の所属する集団に問い合わせるか、宿題として持ち帰らなくてはならなくなる。
だからそのような立場の者の場合には、例えば国際会議の場でも、自身の判断に基づく発言もできないから、会場の隅っこに、いるかいないかのようにして存在を隠していなくてはならなくなる。

しかしそれでは一向に交渉にはならないし、会議に参加した意味はないのである。

実際2015年、パリでの第21回国連気候変動枠組条約締約国会議(COP21)の会場での日本の代表の姿はそれだった。そのため、存在感を世界に示し得なかったのである。

 

まとめ

以上で本節の目的としたことは終るが、では国が国家ではないことに因って、どんな事態が生じうるのだろうか。
また、もし近い将来、この日本という国が本物の国家となったなら、戦前から戦後の今日までの歴代の日本政府、すなわちその間の内閣総理大臣および閣僚そして官僚たちのやって来たことやそのやり方については、具体的には何がどのように変わると推測できるだろうか、ということについても考えておきたいと思う。