LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

1.2 世界をそうした混沌へと陥れている本質的原因

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主峰赤岳に雪が来た晩秋の八ヶ岳連峰

今回公開するのは、当初、紙による単行本として世に出そうと考えた拙著「持続可能な未来、こう築く」の目次(2020年8月3日、公開したもの)の1.2節です。

前回の1.1節に続くものです。

今回は、これまで初めてのことですが、この節全体を、一度で公開しようと思います。

文章はやはりこれまでの一回の公開分量と同様に少し長いですが、お読みいただけましたら幸いです。

1.2 世界をそうした混沌へと陥れている本質的原因

1.1節では、今、混迷の度合いをますます深めている世界について述べてきた。そしてそこでは、私は、世界をそうした混迷に陥れている最大の元凶はアメリカであるとして、そのアメリカの政治と経済のあり方とそれに基づく世界戦略、そして環境政策のありかたについて概観してきた。

一方、私たちの国日本はどうかというと、この国も世界の他国と同様に、というよりどこの国よりもアメリカの影響を受けて来ながら、今、国内はあらゆる面で行き詰まりを見せているが、日本のその深まりゆく混迷の原因はそれだけではない、むしろこの国が独自に抱える原因の方が大きく、その原因とは政治家のあり方だとして、それについても私なりに見解を述べて来た。

しかし、先進民主主義国であれ、日本であれ、これらの国々が呈している今日の混迷の深まりというのは、私は、いずれも、言ってみれば表層に現れた現象に過ぎないと考える。

すなわち物事は何でもそうであるが、現象として現れているその奥深いところには、そのように現象させる本質的原因ないしは理由があるものだ、と私は考えるからである。それについては、K.マルクスもこう言っている。“本質は現象する”、と。

ではここで言うその本質的原因とは何か。

それが問題であるが、それについては、私は、近代という時代が持って誕生した、近代を他の時代と区別して特徴づけるものの考え方ものの見方そのものが持っていた欠陥である、と考えるのである。その欠陥がここへ来て至る所で急速に表面化し、表面化しただけではなく、それを放置しておいたがゆえに、その欠陥による矛盾を深め、それがもはや解決不能な状態にまで至ってしまっているのだ、と考える。

それはちょうど、どんな生命体でも、それが誕生した時に持っていたDNAの特質が、その生命体のその後の成長過程で関わり合いを持つ様々な客観的状況の中で、必然的に目に見える現象として現れて来るのと似ている。

なお、ここに言う「ここへ来て」とは、資本主義経済が本来の「資本主義の精神」を忘れて暴走し始めた時を指す。そして「近代という時代が持って幕を開けた本質的特徴」とは、ソクラテス以来西欧に脈々と受け継がれてきた知的伝統の下で、近代の黎明期に打ち立てられ、その後近代を主流となって支配することになった自然観であり世界観であり社会観であり人間観であり価値観————それらを一言で表現すれが思想、とも言える————が持つ特徴を指す。

その思想を注意深く見つめたとき、もはやそれらの内実の多くはそのままでは通用し得ない時代になってしまっているということである。それだけにいつまでもそれらの思想を疑問にも思わずに当たり前として維持に執着していたなら、矛盾はますます激化し、世界も、また日本も、ますます混迷を深めて行くことになり、ついには人類の存続にも関わることになる、ということである。

因に、近代を主流となって支配して来た価値観の1つに「豊かになることがいいことだ」とするものがある。それは物質主義を土台にしての「便利になることがいいことだ」とか「快適になることがいいことだ」といったものから成っているが、では、果たしてその価値観は、結果として、今、世界に、また日本に何をもたらしているだろうか。

これを克明に観察してみただけでも、それらが、今日、地球の自然に、そして世界の国々の社会に、そして世界の人々にどれほど深刻な事態を生じさせているかが判るのである。

実はそれについて記述したのが、後の7.4節である。

思想は私たち人間一人ひとりにとってとくに重要なものだ。その理由は、結局は思想が、私たち人間が自分たちの生き方をどうするか、社会をどのように組織するかを決定してしまうからだ。思想が私たちを究極においてコントロールするからだ(K.V.ウオルフレン「愛せないのか」p.302)

思想なくして資本主義も社会主義共産主義も生じ得なかった。また思想なくして社会主義共産主義の崩壊も生じ得なかった。つまり、思想が世界を最も強力に支配しているのである。

しかしここで重要なことは、例えば、戦争には侵略者が起こす邪悪な戦争もあれば侵略者から祖国を防衛する正義の戦争もあるように、思想にも人間の精神にとって良い思想と悪い思想があることだ。

悪い思想とは毒のようなものである。精神は、体が毒に反応するほどすぐに激しく反応することはないが、時間が経つにつれて効いてきて、私たちの精神を狂わせたり破壊したりすることになる。そうなると、私たちは、どんなに強靭な精神力を持っていようとも、自分の精神をコントロールする力を失う。またそのとき、その人がどんなに数多くの知識を持っていようとも、自分の生き方や社会のあり方や物事のあり方に対する判断力をも失ってしまう。そして実際、社会で見られる犯罪の多くは、この悪い思想に染まった結果であることが多い。

以下に述べる近代の自然観・世界観・社会観・人間観・価値観とは、当時はそうした性質を持ったものだとは誰も気付かなかった。あるいは長期的に見たならばそれらが遠い未来にどういう結果をもたらすかということについても誰も無関心だった。でも、結果である今日から振り返ってみれば、それらの思想は、そのような弱点をも内に秘めた思想だったということになる。そして今、世界中で生じている貧富の格差とその拡大、いよいよ深刻化する環境問題、テロリズムの頻発化、覇権主義大国主義への執着、拝金主義や物質中心主義への拘り、等々は正にその結果なのではないか、と私は考える。

では、近代が生み出した思想としての自然観・世界観・社会観・人間観・価値観とはどういうものだったのか。先ずはその特徴について確かめてみる必要がある。

それらの主たる内容は、私なりに整理すると、概略的には次のようになる。

「自然観」について

自然はそのどんな部分を取り出しても性質は同じ(均質性)であって、どちらの方向について見てもその性質は同じ(等方性)である。対象を任意の大きさの部分に分割しても、全体として持っている性質・性状は損なわれず(分離可能性)、部分に分けた各々に作用を施した効果の総和は、全体に及ぼした作用による効果と同じ(加算性)であり、またそれらの部分を足し合わせればいつでも元の全体になる。

だから自然は、分割可能で、細分化でき、眼に見えるように客観化でき、計量でき、加工・改造・操作・制御・管理・支配が可能である。だから自然は、要素に分解し、それをよく観察することで、よりよく理解し認識できる。

そして自然の空間は無限である。資源も無限である。そしてその自然は、あくまでも人間の幸福実現のためにある。その自然の中には他生物がいるだけで人間はいない。

そして自然についてはこう観るのだ、とする。

「一切の先入見と謬見を捨て去り、経験(観察と実験)を知識の唯一の源泉とし、帰納法を唯一の認識方法とすることによって自然を正しく認識できるし、この認識を通じて自然を支配することができる。またそのことを可能とさせることこそが科学の最高課題なのだ。知は力なり。数学はあらゆる物事の源泉として、何よりも強力な知識の道具なのである。

そして、そうやって自然や社会を見つめる際、自我あるいは個こそすべてを観る中心であり、宇宙観の中心に据えられるべきものなのだ。」

「自然は整然と秩序立っている。だから、社会も、経済もそうあるべきだ。」

「世界観」について

空間は無限だ。人間が利用できる資源も無限で無尽蔵だ。人類は生産力を高めて物を生産し、自然から解放されることで果てしなく自由になり、豊かになり、進歩し、発展しうる。

その発展の仕方は右肩上がりに直線的だ。

「社会観」について

自然は整然と秩序立っていて、その要素に分解することによりよく理解できるし、その各要素を足し合わせれば元の全体になる。

それと同様に社会も、そのように要素に分解し分割すればよりよく理解できるし、秩序を維持できるし、機能を果たせる。それらの要素はたし合わせればいつでも全体になる。

「人間観」について

自然は人間が幸福になるための手段であるという自然観からも判るように、人間は自然の一部を構成するものではない。人間は自然の外にいる。自然の中には他生物はいても人間はいない。

だから人間は、自然界に生きる万物の霊長であり、自然を支配する資格が与えられる。

そしてその人間は、生まれながらにして自由かつ平等であり、自分の生命や財産はもちろん、人間の自由や個性そして自分の身体が為す労働も自分の所有であって、それらは、ともに不可侵で基本権である。そしてその基本権を所有し社会を担う政治的主体が市民である。

「価値観」について

自然を人間のために支配し、そこから無尽蔵にある資源を取り出し、それをもってより「便利」で、より「快適」な物をより多く生産することで人間は「進歩」し、右上がりで「豊か」になり、より「幸せ」になる。

そして科学や技術は、こうした過程を推進して行くための道具である。

 

近代という時代は、これらの思想が人々の心を広くとらえて、それが主流となり支配的となって行った時代である。あるいは、これらの思想が土台となって、その上に法律を含め、経済の仕組み等、すべての社会的諸制度やルールが築かれ、また確立されて行った時代だと私は考える。

一方、それらの仕組みや諸制度のすべてを駆動し、かつ人々の暮らしをも可能とさせるエネルギーを提供してくれた資源が、初めは木炭であり、石炭であり、後に石油になり、それと並行してウランであった。いわゆる化石資源、または今日、再生不能資源と呼ばれる資源である。そしてその資源の持つ能力を最大に発揮するための機械やエンジンや道具がつくられて行った。

近代において主流となったこうした自然観・世界観・社会観・人間観・価値観を確立するうえで大きな貢献をした人々がたとえば次のような人たちだった。

ベーコン、デカルト、カント、ホッブス、ロック、モンテスキュー、ルソー、アダム・スミスニュートン

彼らが後世に与えた影響、遺した功績を概略的にまとめると次のようになる。

ベーコンは、とくに学問において、学問は科学であり、その科学は「方法」と結びついたものであるべきと考えた。そのことから、彼は自然を支配するための科学的方法論について説いた(ジェレミー・リフキン「エントロピーの法則」竹内均祥伝社p.55〜71)。その方法論とは、観察する者と観察されるものとを分け、客観的知識があれば、人間は自然界を支配することができるとして、人間の「知性」の力を礼賛したことである。“知は力なり”とはベーコンの言葉である。

ここに「知性」とは、ものを客観視した上での理論的な分析の力のことであり、したがって直接的には価値を判断しないままの現象理解力であり、事実を事実としてはっきりさせるという力のこと。あるいは知性とは事実の確定と、客観的分析の力のことである。

したがって知性は事柄そのものを事実として明らかにするだけで、その明らかにされた事柄の意味というか価値というものについての判断を控え、ただ冷静に、主観性を離れて事物のあり方を問うだけなのである。だから知性にはどうしても、それだけとしては一面性、断片性、抽象性がつきまとう。またある種の冷たさも伴う。要するに知性の本質とは、思想のない明晰さであり、要(カナメ)の取れた扇のようにバラバラだということである。

だから知性は、そのままで智慧であるわけはない。

この知性に対する言葉として「理性」がある。それは、全体的な統一と綜合の能力であり、理想を立てる能力、この理想に向けて現実を整え導いて行く能力、と言えるものである。智慧の力、あるいは精神の力と言ってもよい(真下真一「学問と人生」真下真一著作集1 青木書店 p.96、真下真一「学問・思想・人間」青木書店p.14)

近代の科学技術に求められた能力は知性のみだった。というより、既述のような質の知性こそがいわゆる「科学」なるものの直接の担い手となってきたのである。

参考までに言えば、とくにギリシャ時代には、学問という科学は事物の形而上学的な「理由」を問うことに主眼を置いていたのである(ジェレミー・リフキン「エントロピーの法則」祥伝社形而上学とは、「現象を超越し、その背後にあるものの真の本質、存在の根本原理、存在そのものを純粋思惟により、あるいは直観によって探究しようとする学問」のことで、神、世界、霊魂などがその主要問題となる広辞苑第六版)

デカルトの功績とは、中世まではなかった「個としての人間」、「自我をもった人間」を発見したことである。彼はそこに到達するのに、これまでの知識のすべてを疑わねばならないとした。その挙げ句、こうして疑っている自己の存在だけは疑い得ぬと気づき、その「自我をもった人間」の発見に至った。発見したその「我(われ)」すなわち自我あるいは個をこそ彼は自分の哲学と宇宙観の中心に据えたのである。

この「個」ないしは「自我」の発見の意味するところが、当時としてだけではなくその後の世界にとってもどれほど大きな出来事であったかということは、次のように考えれば容易に理解できる。

その個または自我を中心に据えて初めて、そこから例えば自由や平等という概念が権利として導き出されたこと、同時に、その自由や平等という権利を身につけた市民が生み出されて行ったこと、またその市民が、自由や平等を実現させるためのしくみを持った社会というものを考え出し、国家というものを創り出していったこと、そしてそうした動きの総体が近代という時代を確立させて行ったことを、である。

しかし私は、この発見をしたこの時、既にデカルトは大きな勘違いをしていた、あるいは大きな見落としをしていたと考えるのである———もちろんそれは、結果論としてのことで、その時代としては、あるいは南アジアや東アジアとは違う宗教的伝統を持つヨーロッパでは、やむを得ないことではあったとも考える———。

それは、彼としてはこうしてすべてを疑った最後に到達し発見し得た自己の存在であるが、実はその自己自身が、たとえ彼がそれを彼の哲学や宇宙観の中心に置こうが置くまいが、実際にはその彼自身が彼を外からも内からも取り巻くこの大いなる自然とは切り離せない形でその自然によって生かされているという事実に、そしてそれはいかんともし難い普遍的真理であるということに気付いてはいなかったのではないか、ということである。

彼がその普遍的真理とは違う結論に到達し、それを真理としたことそれ自体が、その後に幕を明けることになった近代という時代とその延長線上に生きて来た私たち近代人を否応なく混乱と混迷へと陥れて行くことになった最大の根本的な原因の一つとなってしまった、と私は考えるのである。

そのデカルトが、後世に、それも科学のあり方に対してだけではなく社会的諸制度のあり方に対してももたらした絶大な影響には、さらにもう二つある。

そのうちの一つは、彼の提唱した対象を認識する方法論としての「要素主義」という認識論だ。

それは普通「分析の方法」とも呼ばれるもので、次のような手順をもって説明される。

認識しようとする対象を、先ずできる限り小さな部分に分割せよ。そして、その微小部分について充分に分析せよ。分析が終ったなら、論理の順序に従って見落としのないように組み立てよ。そうすることにより対象は理解できるだろう、というものである槌田敦エントロピー現代書館p.74。詳しくは、野田又夫デカルト岩波新書p.67を参照)

もう一つは、彼の哲学と認識論とに微妙に関係したことであるが、それは、デカルトの変心によるものである。

当時、デカルトとほぼ同時代に生きたガリレオが教会権力によって処刑されるのを免れるために自説の「地動説」を撤回してしまったことはよく知られてはいるが、デカルトの場合もそれと同様に、当時の教会権力に恐怖を抱き、教会権力の介入を避けるために、彼の哲学や宇宙観では、感覚的なものや精神的なものは議論の対象とはせず、物理的な実体のみを扱うと宣言してしまったことである槌田敦同上書)

結果的に、科学の世界においてはそれ以後、感覚的なものや精神的なものは議論の対象とはされなくなってしまったのである。

このことの意味することもどれほど大きなことであったかは、以後、科学は物質や物体に関してだけは進んでも人間の精神や心の面の探究においては大きく後れをとってしまったことを思い起こせば容易に理解できるところである。

なおデカルトの要素主義について、それが後世に与え、今もなお世界はその影響下にあることを考えると、ここでどうしても補足しておかねばならないことがある。

それは、彼自身気付いていたとは思われないのであるが、彼の要素主義には本質的な問題点が少なくとも三つはあったことだ槌田敦エントロピー現代書館p.74〜78)

一つは、部分に分ける前に全体を通覧するという作業が行われないという点。つまり全体における部分の位置の認識をしないで、とりあえず部分に分けてしまうという方法が持つ問題点である。二つ目は、どこまで分けたら要素にたどり着くのか判らないことである。三つ目は、たとえそのように要素に分けた結果、その要素について何らかの知見が得られたとしても、それを再度組み立て上げる方法がないという点である。要素に分けるときに既にそれぞれの関係を切り捨ててしまっているので、組み立てるときには単純に足し算をするしかないからである。しかし、“部分の総和はあくまでも全部であって、全体ではない”のだ。

ところがこの要素主義がその後の世界の科学のあり方に絶大な影響をもたらした。

その結果、元々その内部には何の区別も仕切りもない自然であれ社会であれあるいは人間を、別の言い方をすると、もともと連続していて一つの全体を成している自然と社会と人間を、全体を通覧するという作業を行わないままに、またどこまで細分化したら判らないままに、それらを対象とするとき、主観的に、際限なく分割し分類して来てしまったのである。

自然であったら、たとえば物理、化学、生物学等といったように。さらに物理学は物理学で、核物理、物性物理、流体物理等といったように。他の科学分野でも同じである。

その結果今では、学問分野は限りなく細分化されてしまい、それぞれの分野には「専門家」あと呼ばれる人たちが登場して来ているのであるが、反面、全体を見通せる人あるいは各要素は全体とどのように関わっているかということを見通せる人はほとんどいなくなってしまっている。それどころか、同じ専門分野の者でさえ、他の研究者のやっている研究内容が判らないという事態すら生んでいる。

社会に対しても状況は同様だ。

したがってそれに関する学問である社会学をとってみても、それを構成する分野は数えきれないほどある。

そのほんの一実例であるが、私たちのごく身近な役所(政府)についてもまったく同様の状態だ。

中央政府省庁について見れば、国も社会も自然もそして人間との関係も、元々は互いに切り離せない部分の全体から成っているものであるのに、それを役所内では、経済産業省国土交通省厚生労働省文部科学省財務省等々と組織割りをし、そのそれぞれに統治対象を振り分けている。ところがその際、それぞれの府省庁間には境界が設けられていて、互いに相手の専管領域には踏み込まないことを暗黙の了解事項としているため、自然も、国土も、社会も、人間も、そこで分断されてしまっていて、連続性はない。行政の「タテ割り」と呼ばれるのがその状態を作っている。その上でそれぞれの府省庁が経済制度、政治制度、教育制度、金融制度、税制度、福祉制度、都市計画制度、国土計画制度、自治制度等の法制度を、他府省庁との関係を切り離して別々につくっては運用しているのである。

市役所についても同様で、元々市という地方公共団体は、住民・土地・自然等々の全体として成り立っているものを、役所の役人の狭くまた近視眼的判断で、市民課、道路課、河川課、農政課、林政課、税務課、土地政策課等々と組織割りをし、その各組織に対象を分割統治させている。

こうして統治することを役所は当たり前としている。つまり、自然と社会と人間との関係を、統治者の都合によってズタズタに引き裂いて来てしまっていることに気付いてはいないのだ。

人間についても事情はまったく同様だ。

たとえば人間を診る医学の世界についてみても明らかであろう。人間という一個の全体を内科、外科と分けるところから始まって、今は際限なく細かく分割分類され専門化されてしまっている。その結果、各々の分野の臨床医師も病理医師も、隣の科のことはさっぱり判らず、また判ろうともせず、全体としての人間そのものについては、心や精神の面をも含めて、医学関係者の誰も、説明できない状態となってしまっている。

そのためか、今や、患者を人格と尊厳をもった生身の人間としてではなく、ともすれば「医学の発展のため」という美名の口実の下で、研究論文の材料としてしか観られないようにもなっている。

私は、科学にしても医学にしても、また統治組織のあり方にしても、日本のみならず今日の世界中にこうした状況を生み出してしまったその根底には、関係者はそれを意識していようがいまいが、遠くデカルトの「要素主義」という認識論があり、それが支配して来てしまった結果なのではないか、と考える。

そのため、科学は、「進歩」したと言われれば言われるほどそれぞれの分野間の隔たりが大きくなるだけで、綜合は遠のくばかりとなっている。“今、私たち人類は時代の大きな転換点に立っている”と言う人は結構いるが、ではこの先どういう時代に直面しようとしているかについては誰も言わない。と言うよりは、近代の科学や技術は原爆を生み、生命そのものを操作するまでに至り、人工頭脳AIを生み出しては来たが、その過程で細分化されてしまった学問や科学技術は、全体をますます見えにくくさせ、この先の時代をますます展望させにくくさせてしまっているのだ。

でもそれは、私は必然の結果だと思う。

そこで私見であるが、こうした世界あるいは時代の混迷と混沌の事態を救うのが、実はあの「万能の天才」と評価されるレオナルド・ダ・ヴィンチものの見方であり発想の仕方なのではないかと私は思うのである。デカルトよりもおよそ140年も前に生きた彼は自然と社会と人間に向き合うとき、そこには仕切りや区別は一切設けなかった。と言うより、何に向き合うときにも、それら対象は相互に内的関連性を持つ、あるいはある一定の法則に貫徹された一つの全体と観て接した。しかもその態度は、何ものにも囚われることなく、対象をつねに正確に観ようとしていた。だから、そうした態度でものを観れば観るほど、観たものは彼の頭の中で互いに結びつけられ、綜合され、統一され、世界への理解はますます広がり、また深まって行かざるをえなかった。近代に至ってこそ科学だ芸術だ技術だと区別して表現するが、彼にとってはそられは一体であり、区別はなかったのだNHKスペシャル ダヴィンチ・ミステリー2 万能の天才の謎 2019.11.17)

私は彼の不朽の名作「モナリザ」は彼のそうした態度の半ば必然的成果だったのではないか、と見る。

私は彼のこうしたものの見方と考え方こそ、今日、混沌へと迷い込んだ世界を救い出してくれ、行くべき道と目ざすべき姿を見出させてくれるのではないか、と思うのである。

もはや、自我を世界の中心に据えて世界を観る見方や、物事を分割して観ては対処する仕方、精神世界と物質世界を区別して観る見方をするデカルトを超えるべきなのだ———そして私も、本書では、できる限りそうした態度を貫いて行きたいと思ったのである———

ではニュートンのもたらしたものは何か。

彼は運動についての三つの法則(慣性の法則、力と加速度の法則、作用反作用の法則)を発見した。

それは単純明快で、天体の運行についてもその将来を数学的方法によって正確に予測できたことから、これこそ人間が長い間探し求めてきた宇宙の本質を説明する法則であるかのように信じられたのである。このことから、ニュートンは、人間に対して、人間が神に代わるのに必要な道具を提供したといえる。

ニュートンの提示した世界は、自然のすべてが数学的法則によって従属させられる世界であり、物の質は一切考えず、世界を量的にだけ考える、生命のない機械的世界であった。

そしてその運動法則は宇宙の本質を説明する法則であるかのように信じられたがゆえに、ニュートンの示した方法に従えば、人間社会も、無秩序で混乱した状態から、秩序があり完全に予測可能な状態へと徐々に進行して行くと考えられるようになった。

そして彼のその運動法則は産業革命への道を開き、さらにはその後の機械万能論的文明を築き上げることにおいて決定的な役割を果たしたのである(ジェレミー・リフキン「エントロピーの法則」、竹内均訳 祥伝社

ロックはどうだったか。

彼はニュートンの宇宙の法則に従う秩序ある宇宙論に触発され、その宇宙の法則と社会の働きの関係を探ろうとした。いったい何を基盤にしたら混乱した社会は秩序ある宇宙のように形成されるのか、と。そしてそこから彼は、ある主張に到達する。

人間は自分自身のためにのみ努力する存在だから、無用な主観や伝統を排除しさえすれば、そのような人間によって形成される社会は、その個人個人の財産を保護し、財産の増大を図れば全体が豊かになるのだから、これこそが社会の最終目的であり、国家を形作るための唯一無二の方法なのだ、と。

こうして、ロックは「自然を否定することは、幸福につながる」とし、ロックにとっての政府の目的は、新たに発見された自然に対する支配力を活用し、富を生産する自由を国民に与えることであるとした。また国家における社会の役割は、物質的繁栄を達成するために、自然への征服をさらに推進することである、としたのである。

さらにロックは、自然から労働を通じて引き出した価値としての富を所有することは社会的正義であるばかりか、さらなる富を生み出すための人間の義務でもあると主張した。

ロックが開いた啓蒙期以来、個々人は、生産と消費という享楽的な活動に翻弄され、人生の意味や目的を模索する暇もなくなり、人間の欲求と渇望、夢と希望といったものもすべて、物質的な利己主義の追求によって満たされるとして、そうした生き方に明け暮れるように決定的に方向づけられたのである。

彼の著書「統治二論」は、それまでの王権神授説を否定し、人間の平等と人民の政府改廃の権利を明らかにし、とくにそのうちの後編に当たる「市民政府論」はアメリカ独立宣言の原理的核心となり、フランス革命にも決定的な影響を与えたのである。

その後もロックの考える政府や国家が次々と出来て行った。

こうして彼は、近代の人間の運命を決定づけるほどにとくに大きな影響を世界中にもたらしたのである。

アダム・スミスも、ニュートン体系の一般概念を反映するような形で経済理論を打ち立てようとした。その著書「国富論」の中でスミスは、自然法則に従って運動する天体と同じように、経済も同様の行為を示すと述べている。

経済法則を効率というスローガンの下で追求したスミスは、経済組織にとってもっとも効率のよい方法とは自由放任主義であり、現象をそのままに放っておき、人間の行動を何ものも阻害しないようにすることだ、とした。

スミスもまた、人間活動のすべての基盤は物質的欲望の満足であると信じていた。

だから、あるがままに自己を満足させようとする欲望、つまり、誰にとっても自己に利益をもたらす活動こそが最良の方法であるとする認識に立った。

ロックが社会に対して行ったのと同様に、スミスは経済から道徳を画然と切り離したのである。道徳を経済に持ち込むことは“見えざる手”を否定することでしかなく、経済活動を不自然な方向へと向わせるもので、逆効果でしかない、とした。

この“見えざる手”こそ、スミスから見れば、経済過程を支配する自然の法則なのである。

 

今、世界では、先進国と言われる国ほど、人口減少は高齢化とともに進み、生産性は伸び悩み、とくにどの国でも消費の大部分を支えている中間層と呼ばれる人々の賃金も伸び悩んでいる。そんな中で経済的格差は極度に拡大する方向にあり、とくに資本主義を牽引して来たアメリカでは、今や人口の半分の人々の富を合わせた額より多くの富を400人が握っているという事態に至っている。世界では、超富豪者8人の総資産は、世界の半数の人々の総資産とほぼ同等と言われるまでになっている。

その結果として生じ、また激化しているのが、社会における「分断」と「対立」であり、テロリズムの頻発化であり反グローバリズムを掲げるポピュリズムである。

しかしこうした分断や対立をもたらした直接的な原因は資本主義経済とそのシステムにあると言える。マルクスが「人がお金を商品に投資して、より多くのお金を獲得することを目的としたシステム」と定義した資本主義は、その目的を実現するには、商品である物をつくっては壊し、壊してはつくることを不可避とした。

その際、物を再度つくるのにも、前と同じ物をつくっていては売れないし、より多くのお金を獲得できないから、人々にとってより価値あると思える物や、より購買力を高める物をつくる必要がある。つまり、資本主義は、それを維持し、また発展させるためにはシュンペーターの言う「創造的破壊」が不可欠だった。

その創造的破壊を維持して行くために必要とされたのが科学と技術であり、またそれらの進歩と発展だった。

つまり効率の向上をもたらす「技術革新(イノべーション)」が資本主義発展のエンジンとなって来たのである。

ただし、ここで忘れてならないのは次のことである。

資本主義発展のエンジンとなる科学や技術の担い手になったのは、既述のごとく、あくまでも「知性」であったということだ。理性ではない。

その科学とは、既述の自然観に基づき、またデカルトの要素主義に基づくもので、全体を分割しても、その個々の部分を足し合わせればいつでも全体になるという考え方から成っているものだ。部分相互の生きた関わりなどは考えてはいない。そして技術とはあくまでもその科学を法則的に応用したものだ。

その上資本主義は、マルクスの言う目的を達成させるにあたって、既述のとおり道徳は不要として来たのである。さらに、その資本主義そのものの根底には、M・ヴェーバーの言う「プロテスタンティズムの倫理や資本主義の精神」以前に、これも既述のとおり、「近代の自然観」、すなわち、自然はあくまでも人間が幸福になるための手段としてある、というそれが占めていたのだ。それは、人間は自然を支配する権利を神から与えられていて(聖書の中の「創世記」)、人間が自然からどれだけ収奪しようとかまわないという思想に通じ、人間は万物の霊長だという考え方にも通じている。だから、近代の価値観の中には、他生物の存在は、最初からなかった。人間一般としての自由・平等・友愛という価値観もなく、あったのは、市民個人としてのそれらだけだった。

ところで、自然は人間のためにあると考えられながら、その人間が生んだ資本主義は、社会に貧富の差を生み、それが今や極端なほどに拡大し続けている。

したがって、そこで言う「人間のためにある自然」は、実際には、人間一般にとっての自然ではなく、超裕福になって行く人々のための自然となってしまっているのである。

しかもその自然は、「創造的破壊」を不可避とする資本主義によって、そこに科学と技術が動員されながら、ますます大規模で大量に収奪されて行き、地球の自然を保って来た多様な生物種間の循環のメカニズムや共生のメカニズムはますます破壊され消滅を余儀なくされて来ているのである。

それは、言い換えれば、炭酸ガスやメタン等の温室効果ガスが加速度的に大量に自然界に放出されることにより、それに伴って生じるエントロピーという「汚れ」が宇宙に捨てられることもなく地球上に貯め込まれていることを意味する(第3章を参照)。そしてその状況は、ちょうど、ある一定の広さの密室空間の中にいる人が、自分が生きて生活することで生じさせている炭酸ガスの捨てどころがなくなり、呼吸困難に陥っている状況に似ており、これを放置しておいたなら、やがては死を迎えざるを得なくなるという状況に似ている。

マルクスは「資本主義はその矛盾ゆえに亡びる」と言った。またシュンペーターも、「資本主義は、その成功ゆえに自壊する」と言った(2018年1月20日 NHKBS1スペシャル「欲望の資本主義2018〜闇の力が目覚める時〜」)

しかしそれらはいずれも、資本主義という経済のしくみの観点からの予言であり予測でしかない。

それに対して私は、近代が生み出し確立させて来た既述に代表されるものの見方(思想)と生き方そのものによってこそ、またそれらに支えられて成り立って来た資本主義経済とそのシステムそのものによってこそ、このままでは、たとえ核戦争が起こらなくとも、また化石資源が枯渇に至らずとも、人類は他生物を巻き添えにしながら亡びる、それも遠からずして必然的に、と推測するのである。

当然その過程のどこかの段階で、資本主義は否応なく維持できなくなる。つまり、いま世界はますます混迷の度合いを深め、制御できないまでに混沌として来ているが、そうなるのは、表面的には、確かにマルクスの言う通りであり、またシュンペーターの言う通りでもあるのだろうが、根源的かつ本質的には、近代の黎明期前後に打ち立てられ確立されて来た思想そのものが最初から内包していた欠陥のゆえであろう、と私は観るのである。