LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

1.4 しかし日本は未だ「近代」にも至ってはいない——————その2

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今回は、同じ節で前回の「その1」に続くものです。タイトルの通り、私たちの国日本は、近代国家のように言われて来て、また多くの人はそのように信じたり信じ込まされたりしてきたように見えますが、よく考えてみると、既述の通り(9月6日と8日のブログを参照してください)、この国は真の国家にもなっていないし、また近代にも至ってはいないと私は考えます。

「その2」でも、その根拠について述べてみたいと思います。

1.4 しかし日本は未だ「近代」にも至ってはいない——————その2

 では第2の条件であるところの、この国が世界から「先進国」とされてきている唯一の根拠である経済制度については、世界の本物の近代諸国のようになっているだろうか。

言い換えれば、この国は近代という時代を経済制度の面で特徴づけられる「資本主義経済」の国に本当になれたのだろうか。「自由主義市場経済」の国になれているのだろうか。

 それについても私の見解は明らかに「ノー!」、である。この国には既述のとおり「自由」も実現されていないのだからそれも当然である。資本主義経済は「自由」という概念の理解の上に成り立っている経済のしくみだからである。

 日本の経済制度の骨格部分は、大きく言えば、企業どうしがきわめて高度かつ複雑に組織されて出来上がっているいわゆる「系列」と「業界団体」に拠って成り立っている(以下、K.V.ウオルフレン「システム」p.38〜52)。しかも、すべての企業は、こうした系列または業界団体の仕組みの中に入らねばやってゆけないようになっている。これら二種の組織は、その頂上では中央政府省庁の官僚と組織的に連結している。だから、業界団体は、官僚たちの格好の「天下り」先となるのだ。

そして、この二種の組織には、政府省庁の官僚や財界の官僚によって、「彼等が望ましいと考える方向に一致させようとする強い強制力が働く」(p.44)。その強制力は、たいがい、同業他社を通じて働くのだ(p.44)。

商品の価格も、大部分は「談合」によって決められてしまう。倒産しないように、互いに同一系列企業間で株を持ち合って、支え合っている。そのために消費者は、必ずと言っていいほどに、日本の同企業が外国で得る価格よりも格段に高値で買わされているのだ(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」窓社p.29)。

 それは、日本の政府、もっと正確に言うと経済関係省庁の官僚と一体化している財界トップの経済官僚によって、経済省庁の官僚の了解の下、日本の消費者を搾取しているということだ。その搾取した分は輸出関係業界に助成金として回っている。それも国際競争力を付けるため、とされてしまう。(あるいはいわゆる内部留保としても蓄えられる。生駒)

 また大企業は、その周囲にある下請け企業と密接に結びついている。その中小企業、ときには小さな町工場は大企業には真似の出来ない技術力と安さで部品をつくり、大企業には価格面での計りしれない利点を与えている。

 大企業は、平時、それだけ助けられているのに、不況時には、中小企業に対して援助の手は差し伸べずにつぶれるに任せ、トカゲの尻尾切りをしては自社だけを守っている。政府省庁の官僚も、財界官僚も、それを見て見ぬ振りをしている。

 それだけに、彼等中小企業は猛烈に働かねば生き残れない経済のしくみになっている。

 このしくみは、生産の部門だけではなく販売の部門でも同様だ。

 このように、この国では、一つの企業が、ほかの全経済組織からなる構造の中に、自由には身動きできないほどにしっかりとはめ込まれ統制されているのである。

それだけに、新規の企業は、経営者が経営者としての手腕がどれほどすぐれていようとも、既存の枠組みの中にはなかなか入れては貰えないで、むしろはじかれてしまうことにもなりかねないのである。

 つまりこの日本は、資本主義本来の、自由な競争に基づくビジネスが出来るような国ではないし、それが行われている国でもない。

それもこれも、政府官僚によって、国民生活の質的向上は度外視されたまま、そうすることがあたかも「国力」を維持する唯一の方法であるかのように、ひたすらGNP(国民総生産)やGDP国内総生産)の数値を上げようとするだけの「果てしなき経済発展」の方向へと、誘導されて来た結果なのだ。

その経済制度は、太平洋戦争中の兵員や物資の輸送形式からもじって、よく、政府の官僚による「護送船団方式」とも呼ばれる。

 こうして、日本は、近代の主流となった資本主義の社会ではないし、そこに至ってもいないのである。というより、この国は、官僚を中心にして、本来の資本主義の国々の経済制度とはまったく異質な統制経済制度をつくって、世界に対抗して来ただけなのだ。

 このように、私たちの国日本は、「世界の経済超大国」などと呼ばれた一時期でも、真の資本主義の国であったためしは一度もないし、自由な市場経済の国であったためしもない。

 

 以上のことを総合して、私は、この国は、未だ「近代」にも至ってはいないと結論づけるのである。

 したがってこの日本という国は、近代にも至ってはいないのだから、識者や政治家や官僚やジャーナリストがよく言うような「先進国」などであるはずもない。少なくとも欧米諸国に対して使われるような意味での先進国ではない。

むしろ、社会経済政治制度については、移入して真似たほうが「手っ取り早い」という根性の下に移入しただけのものだった。そこには、自分たちで独自の社会経済政治制度を苦労して考え出すという考えや姿勢など最初からなかった。また、移入したものを従来あった日本的な社会経済政治制度と融合しながら互いを生かすという考えも姿勢も全くなかった。自国の在来のものの全面否定の上に立った、ひたすら「効率」重視の姿勢だけでしかなかった。したがって、移入する際にも、彼の地の社会経済政治制度はどのような歴史的かつ文化的背景の下に創られてきたものか、そしてその時の苦労はどれほどのものだったかということを思いやる姿勢もなかった。そしてそこではひたすら、「追いつけ、追い越せ」とやってきたのだ。

 この姿自体、極めて卑しく、またさもしいというべきものではないか。事実この国は、特に戦後は、政府はもちろん国民の圧倒的多数は、人間の尊厳・人権そして正義のみならず自国の歴史や文化にも関心を持たず、ただ「カネ」や「経済」にしか関心を示さずにやって来たのだ。確かに、ただ経済力・工業生産力の面だけから見れば、あるいはGDPの数値だけから見れば、他のほとんどの国より突出してきたから、外からは「先進国」あるいは「経済大国」と見られて来ただけなのだ。しかし、「モーレツ社員」とか「社畜」、「兎小屋」という言葉に象徴されているように、その内実は極めて貧しいものだった。

 精神的にも、自閉的で、排他的で、狭量で、自己中心的で、想像力にも共感力にも乏しく、さらには自浄能力も自己変革能力もなく、もっぱら超経済大国かつ軍事超大国にほとんど無条件に追随することしかできない卑屈で臆病な、物真似あるいは外圧でしか動けない国民と政府の国できたのである。

 あのフランスの市民大革命から今年で230年余となるが、今後とも、この国に政治的に覚醒した本物の市民が大量に育ってくることもなく真の市民の国や社会になり得なかったなら、この隔たりは拡大する一方だろう。もちろんそうなれば、かつてこの国が尊大な態度を取り、侮蔑的な言い方で呼んできた中国や韓国と比べても、その他のアジアの国々や中南米やアフリカの国々と比べてみても、どんどん後れてゆかざるをえない、と私は確信する。

 なぜなら、チュニジアリビア、エジプト、バーレーン、シリア、アルジェリア、イエメン、アフガニスタンパキスタン、インド、フィリピン、等々のどこの国の人々も、自分というものつまりアイデンティティをしっかりと持ち、自分の主義主張は誰に対しても堂々と述べることが出来るし、正義を重んじ、祖国を愛し、それがゆえに、必要ならば、相手が誰であろうと、自由のためにはいつでも自分の命をかけてでも戦う覚悟に溢れた「市民」が大勢を占める国であるからだ。

 

 私は、その国が真の意味で先進国か否かということは、いわゆる経済力や工業生産力で決まることではなく、その国の人々の思想と生き方、すなわち人々一般のものの見方や考え方とそれに裏付けられた生き方において決まるものだ、と考えるのである。

それと同様、国家としての偉大さも、経済力において決まるものではなく、もちろん軍事力において決まるものでもなく、その国の国民に一般化している思想の高みとその実践の度合いにおいて決まるものなのではないか、と思っている。

そして国民が、国が、そうなれるか否かは、やはり国の指導者によるところ極めて大である、と私は考えるのである。

 その意味では、たとえば、現実の経済社会に生きることの意味も判らず、実際にそうした社会に生きた体験もなく、戦争の悲惨さもそれが長期にわたってもたらす悲劇も知らず、だからその中に生き抜いて来た人々の哀しみや辛さに思いを致すことも出来ないで、戦争を美化したり歴史を歪曲したりすることにも平気、憲法を勝手に解釈上だけで変えたり否定したり破壊したりすることにも平気で、軍事超大国に主権を譲り渡して迎合することにも平気で、だから口では国民の生命と財産を守ると大見得を切りながら自国民をISに処刑させてしまったのが自分の軽率な挑発発言にあるということも理解できないで、官僚の「お飾り」で「操り人形」でしかない自分にも平気な、だから少し苦しくなるとすぐさま政権を投げ出してしまっても平気な、坊ちゃん首相の国が偉大な国になるのは、夢のまた夢なのだ。

 その坊ちゃん思想とは例えばこんなものだ。

「戦後のレジーム」とは何を指すかを明言せずに「戦後のレジームからの脱却」とだけ言ったり、同じく「どういう日本」を指すのかをも明言せずに、「日本を取り戻す」とか「日本再生」とだけ言ったりしては、ただ言葉を弄び、国民を翻弄することしかできない精神構造から生じる思想のことである。

また、「どういう日本を目ざすのか」そして「それをいかに実現するか」は一切語れずに、ただ「日本の明日を切り拓く」なる言辞を軽々に語ってみせては、それを弄び、国民を翻弄することしかできない精神構造から生じる思想のことである。

 自国民に対して自ら忠誠を誓い、自国民に対して誠実で真の勇気を持って先頭に立とうとする指導者は、そのような空疎で軽率な言辞は決してなさないものなのだ。